壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』

伝仇英 『群仙会叔図』 部分 明代

伝仇英
『群仙会祝図』 部分 明代

中国人にとって宇宙はどのような構造になっているのか。この本の主題の一つはこれである。今回は、三浦國雄(みうら くにお)さんの著作『風水 中国人のトポス』を中心に中野美代子(なかの みよこ)さんの『龍の住むランドスケープ』、松岡正剛(まつおか せいごう)さんの『山水思想』などの内容も織り込みながら中国人の空間意識について述べてみたい。ここでは、宇宙は自在に伸縮し、別の宇宙が次々と出現するのである。

我々の言う宇宙は、中国では本来天、あるいは天地という言葉で表されると三浦さんはいう。殷の時代、崇拝の対象は、上帝と呼ばれる頭の大きな人間の形だった。天そのものを崇拝するのは周の時代からはじまる。至上神としての天である。 天それ自体が崇拝された時代を経て、天のどこかに鎮座する人格神の信仰へと移っていることが『書経』などの記述によって分かる。天は天帝の鎮座する場所であり、また霊魂の帰り着く場所であった。

陶淵明の曽祖父・陶侃(とうかん/259‐334)は夢の中で身に八翼が生えて天に昇り、九重の天門のうち八つまで登ったが、最後の門の所で門番の杖に打たれて地上に落ち、その左翼を折って中には入れなかったという。(『晋書』陶侃伝)

「天門が開く」とは『老子』以来、見える人には見える神秘体験だった。六朝時代北燕の馮跋(ふうばつ)は、夜天門が開き、赫然(かくぜん)たる神光が庭内を燭(てら)すのを見ている。(『晋書』伏乞載記) あるいは、北魏の曇鸞(どんらん)は、汾川(ふんせん)の秦陵の廃墟に行き、城の東門から入って青空を望んだとき、突如天門が開き、六欲天の階位が上下重複するのが歴然と見えたという。

このような神観念に関わる天が存続する一方、春秋時代には天体の整然とした運行や四時の規則正しい巡りなどが予定調和として抽出され、天は次第に理法化されていった。この理法としての天は、天然自然の中の天へと移行していくようだ。やがて、道教が発生する。原始道教においては「人は地に法り、天は道に法り、道は自然に法る。」(『老子』)とあり、天は下位概念へと転落している。 三浦さんは、究極的存在としての天に代わって道が現われたのは、天地観念の成立と関わると考えているようだ。天と比肩しうる巨大な自然としての大地の観念が登場する最初は『詩経』の記述であるらしい。「天を蓋し高しと謂うもあえて局(きょく)せずんばあらず、地を蓋し厚しと謂うもあえて蹐(せき)せずんばあらず」(小雅・正月)。ここでは地は天と比較しうる対象になっている。この天地の観念は後に『易』の陰陽哲学と結合し、地(坤)・天(乾)はそれぞれ陰陽という宇宙原理の根源として概念化される。「一陰一陽、これを道と謂う」(繋辞上伝)とある。天は地に対する相対的な存在として考えられるようになり、天に代わる絶対的存在として「道」が要請されたのである。ただ、「道」という概念には別の見解もあり、天の理としての「道」、あるいは地=地母神としての「道」という説もあるようである。

三浦國雄 『風水/中国人のトポス』

三浦國雄
『風水/中国人のトポス』

オリジナルな古代神話かどうかは分らないが、三国時代の『三五歴記』には巨人の盤古神話が記録され、その死体が万物に化成したという記述が残っている。このような神話は遠い過去から伝承されてきたものだろう。それは、後述する『淮南子(えなんじ)』とともに『日本書紀』に大きな影響を与えることになる。宇宙創造主が一つの身体に比せられていたのである。このような創造神による天地開闢説は、やはり気の哲学によって乗り越えられていった。前漢の時代、淮南(わいなん)王劉安が食客たちに編纂させた道家の百科全書『淮南子』には「天地が未だ形とならない時、なにものかが、馮(ひょう)馮翼翼、洞洞囑(しょく)囑として漂っていた。これを太始と名づけよう。太始は虚空を生じ、そこから宇宙が生まれ、宇宙が気を生ぜしめた。いつからか気は清陽なものと、重濁のものとのに分かたれていき、清陽の気は天となって薄く広がり、重濁の気は地へと固まっていった。清陽の気は形を変えながらまとまりやすく、重濁は容易には固まり難い。故に、先に天が形成され、後に地が定まった。天地の襲精は陰陽となり、陰陽のはたらきが互いに作用しだすと四季になり、四季のはたらきが万物を生み出した」とある。 始源は虚空にあり気が変化して万物を象るというシナリオが定着し始めるのである。

太始が虚空を生み、虚空から宇宙が生まれ、そこから気が生じる。なんとなくこんな逸話を思い出さないだろうか?後の六朝梁代、呉均の小説集『続斉諧記』にはこんな話が述べられている。 陽羨(ようせん)に住む許彦なる人物が鵞鳥の籠を担いで山中を歩いていると、脚を痛めた書生に出会う。乞われるままに籠の中に入れてやると籠が広くなったわけでも、書生が小さくなったわけでもないのに、書生と鵞鳥は仲良く坐っている。やがて書生は口から御膳と御馳走を吐き出し、さらに霊妙の女・甲を吐き出す。書生が眠ってしまうと女は愛人・乙を口から吐き出す。女が書生と同衾しはじめると、愛人は隠し女・丙を吐き出した。書生が起き出すと、さっきとは逆の順序で丙は乙に呑み込まれ、乙は甲に呑み込まれ。最後には書生が御馳走と甲を呑み込んでしまうのである。各要素は重層的に内臓され、また段階的に披きだされる。

道教ではこの天地=宇宙が一個の巨大洞窟としてもイメージされていたことは、渾天説をみれば明らかだと三浦さんはいう。この後漢の張衡(78‐139/科学者)の説では、天は鶏の卵殻のように球形であり、地は卵黄のようにその内部に位置し、天は大きく地は小さいとする。天の表面・裏面には水があり、天と地は気に支えられて定立し、水にのって運行している。天の半分は地上を覆い、半分は地下を囲んでいる。このため星座の二十八宿は半分が見え、半分が隠れて見えない。天の両端には南極・北極の両極があり、天は極を軸として車のこしき(轂)のようにぐるぐる回転して端がない。天体はこの天に付随して日周運動をしているという。ただ、この説では黄卵である地は今日の地球のようなイメージではなく地上と地下という二面を持つ存在であるらしい。 『老子』にも「元気は眇莽(びょうもう)の内、幽明の外において空洞を生ず。空洞の内に太無を生じ、太無変じて三気明けし」とある。混沌として無限に広がる宇宙の中にぽっかり洞窟状の空間が開くのである。道教の経典にも「霊宝経に曰く、元始洞玄霊宝赤書五篇真文なるものは、元始の先、空洞の中より生ず」(『御覧巻六七三』)とある。原初の混沌に現われるのは空洞に生ずる経典だというのだ。身体の洞窟性については「真人曰く、天の無はこれ空と謂い、山の無はこれ洞と謂い、人の無はこれを房というなり。山の山腹の空虚、これを洞庭となし、人の頭中の空虚、これを洞房となす」(『紫陽真人内伝』)とある。これについては、三茅真君の伝承としてpart1のロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』でも触れておいた。

『洞天福地図』 白岳凝焔より 清代

『洞天福地図』
白岳凝焔より 清代

戦国時代からこの洞庭という言葉が文献にあらわれ始める。晋代になって郭璞(かくはく)はこう書いている。「洞庭は、地中の穴であって、長沙の巴陵にある。呉県の南の太湖中に包山があるが、その下にも洞庭があり、地下道は水底を潜行してあらゆるところに通じていると言い、これを地脈という。」 太湖は蘇州の西にある大きな湖であり、長沙の洞庭とは、それよりはるか内陸の岳陽の西にある洞庭湖の地下にある洞窟を指している。洞庭とは、湖底に存在する洞窟の広い庭という意味である。湖南の洞庭(グロット・コート)は地脈を通じて呉に至り、太湖の湖底に達するのである。郭璞のこの記述以降、これら二つの湖の下に巨大な洞庭が存在するという認識が定着しはじめる。 この洞窟の巨大な空間は、戦乱から逃れた人々や異界にひそむ人々の楽園である。そのような 洞天福地、つまり洞窟内の至福の宇宙は名山勝地の奥深くに実在すると信じられ、神仙、つまり永生者たちの棲む別天地のことであると考えられるようになった。

東晋の名高い詩人・謝霊運が書いた『羅浮山の賦』には「洞は合計三十六あり、この羅浮山はその七番目で、暗い夜にも光が射し込み、奥深い世界に太陽が輝く。だから、朱明の陽宮、耀真の陰室と呼ぶのだ」とある。他の道教の文献には洞庭について、このように描写がなされている。ある洞天は周囲160里(約70キロ)の巨大な方形の石室であり、大きなものでは周囲1万里もある。日月の精が内部を照らしている。門は五つあり、外界と同じように草木が繁茂し、鳥が飛び、風が吹き、雪も舞った。あるいは、外界の都市に劣らぬ壮麗な宮殿さえあったという。 太湖の地下や峨眉山、泰山、羅浮山など中国全土にわたって存在する聖地としてこのような三十六の洞庭が定着していった。その要因として三浦さんは都築昌子さんのこのような説を引いている。「俗塵に対する修道の地、権力に対する方外の地、戦乱に対する太平の地――かかる境域に洞天が構想されたのである」(東洋研究史)。地下世界に別の宇宙の存在が定着しはじめる。ちなみに三十六は道教の聖数で、仏教の三界(欲界六天、色界十八天、無色界四天)、二十八天に道教的名称を与え、さらに四種民天、三清天、大羅天の道教八天を加えて構成された三十六天に由来する(末尾の「道教三十六天」を参照)。

このような洞天は、それぞれが地脈(地下通路)で結ばれていた。洞庭はその地脈の輻輳する地下センターのごときものとして考えられるようになった。そこは天上から派遣された真人によって統治される地仙と呼ばれる仙人たちの住まいである。仙人には天に昇る上仙、名山に遊ぶ地仙あるいは洞仙、地下世界を管理する尸解(しかい)仙の区別があり、昇進もある。地仙の中には天に上がって上役に気をつかうのが煩わしいと昇進を拒むものもあったらしい(『神仙伝』)。

蓬莱山 『三才図絵』 山の内部には空洞があり、山台の下には鍾乳石状の岩が垂れ下がっている。周囲を日月、星辰が取り巻き下部には海水が満ちている。

蓬莱山 『三才図会』 明代
山の内部には空洞があり、山台の下には鍾乳石状の岩が垂れ下がっている。周囲を日月、星辰が取り巻き、下部は海水が満ちている。蓬莱山と洞庭はこの時代には関係づけられていたようだ。このことに関しては中野美代子さんの『龍の住むランドスケープ』をお読みいただければと思う。

先にも述べたように身体にも洞窟がある。晋代の道家である葛洪(かっこう)は、こう書いている。「一には姓字・服色あり。男の(一は)長さ九分、女の(一は)長さ六分、あるいは臍下二寸四分の下丹田中に在り。‥‥あるいは人の両眉間に在り、却行すること一寸を明堂となし、二寸を洞房となし、三寸を上丹田となす(『抱朴子(ほうぼくし)』。」最初にある一とは道教の根源を神格的にあらわした語であるらしい。大地の欠伸が風となり(『荘子』)、宇宙が気を吸う時が「生気」、吐く時が「死気」となる(『抱朴子』)。後代になって明の時代には鍾乳洞を紀行した者が、まるで人体の中を遊覧しているかのように描写する文章もあらわれる(『遊善権洞記』)。このように、洞天は宇宙化され、あるいは、神々が棲み宮殿が聳え、日月が輝く空間と見なされ、人体の内部と同一視されていく。

しかし、現実の肉体は宇宙よりもはるかに小さく、その内部風景は容易にその存在をあらわにしない。この有限性を、その限界を打ち破るものが瞑想、つまり「存思」であると三浦さんは言う。「自己を存して崑崙山となす」(『高奔内経玉書』)ということなのである。崑崙山は世界の源である仙界である。日月である左右の眼を以って一身の内を照らし、五臓の中を照らし見、内外を洞徹して一たらしめ、身と日月の光を共合せしむというわけであるらしい。そして「是(ここ)を以て真人は天に処(お)り山に処り人に処り、入るに間(へだて)なし。黍米を以て蓬莱山を容れ、六合(天地四方)を包括し、天地すら載する能わず」(『紫陽真人内伝』)となるのである。蓬莱山の図をあらためて掲載しておく。

三浦さんは、「存思」において見るものは単なる主観的な幻影ではなく、紛れもないもう一つの現実であることを強調する。主観と客観、夢と現実という深い淵を飛び越えるこの瞑想法は、五世紀前半、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)によって訳出された『観無量寿経』、つまり日没からはじまり西方浄土の細部に至り最後に観音・勢至両菩薩と阿弥陀仏を観相するにいたる、あの観経を思い出させるという。

天地に先立つ世界には無があった。つまり太始が虚空を生み、虚空から宇宙が生まれ、そこから気が生じるのである。気は万物を生成するが、その無は山の中や地下にもあり洞天福地という仙界となり、人体にあっては気を練るための丹田、あるいは瞑想のための内部空間となるのである。その空間に遊べば、そこに蓬莱山を容れ、洞天を容れ、ついには天地=宇宙までもその内部に容れることができるという。極大は極小に移行し、あるいは反転(インヴァージョン)し、極小は極大を含む。ここには動的で位相的な立体幾何学がある。平面幾何学ではなく、立体幾何学なのである。このことについては、またの機会に詳しく述べたい。

鍾乳洞内部

鍾乳洞内部

現実の天地や神仙の天地、それらを自分の墓に再現しようとした人物がいた。秦の始皇帝である。東海の蓬莱山などの仙界に異様な興味を示し、そこに徐福を派遣したことでも知られる。その陵墓は西安の東30キロのほどの所、華清池にほど近い。それが、どのように造営されたかは『史記』の秦始皇本紀に書かれている。「始皇帝が初めて即位した時、驪山の麓に穴を掘ったが、天下を併合するに及んで、全国各地から七十余万の罪人をここに送り込み、三泉(地下第三層の水脈)に至るまで深々と堀り下げさせ、銅板を敷いて棺を入れる外函を納めた。さらに宮殿や楼閣や百官の埴輪を造り、珍貴な品物を宮中から運び込んでそこを一杯に満たした。職人にバネ仕掛けの弩(いしゆみ)を作らせ穴を掘って侵入して来るものがあれば、ひとりでに発射された。また、水銀で小川と大河と海を造り、機械じかけでその水銀の水が還流するようにした。天井には天文、床上には地理を象り、人魚の膏で燭を作って永く消えないようにはからった」とある 。始皇陵は、さながら絢爛たる地下宮殿であり、それを取り囲む宇宙さえ象られていた。北魏の地理書である『水経注(すいけいちゅう)』には、始皇陵は後に項羽によってあばかれたが、30万人を動員して30日かけてもなお全部を運び出せなかったとある。

その始皇帝にはこんな逸話が残っている。天下統一後、金陵(今の南京)に天子の気が立ちのぼっていると聞くと、その地の「地脈をうがち連なる岡を断」ったという。地脈に穴をあけたのは、地中にわだかまる王者の気を霧散させんがためである。地脈は山に沿って走ると考えられていたからである。地脈には地気が走り、その気によって、その土地の風土、人の気質、体質などが影響を受けると考えられるようになる。霊なる地気が集まる所には英傑が誕生するという訳である。始皇帝はその禍の根を断とうとしたのだ。このような思想は六朝時代に向けて徐々に発展しはじめる。

中野美代子 『龍の住むランドスケープ 中国人の空間デザイン』

中野美代子
『龍の住むランドスケープ 中国人の空間デザイン』

地底世界=洞庭の扉を開いたのは晋代の郭璞(かくはく)であった。地下洞窟は地脈とよばれる通路で繋がっていると彼は書いた。そして、上述のような、いわば地気の環境学ともいうべき思想を『葬経』にまとめた人物も彼である。これが後の風水学へと発展していった。『葬経』にはこうある。「気というものは風に乗じれば散じ、水に界(くぎ)られると止まる。そこで、古人はこの気をあつめて散じないようにし、この気を自由に行かせて止めないようにした。そこで、これを風水というのだ。風水の法は、水を得るのを最上となし、風を蔵するのを第二となす。」 「得水蔵風」といい、ここから風水という名称が起こるらしい。 気とは風や水に左右されるような流動的なある種の霊的存在であるとされている。インドではプラーナ、古代ギリシアではアイテール(エーテル)、ヨーロッパでは第五元素とか賢者の石とかに相応するらしい。それが見える人もいるらしいが、私には見えない。いずれにしても、私にはその是非を論ずる資格はないので、こういう説もあるということに止めておきたい。この経でもう一つ面白いのは、早くも四神が登場するのである。「葬るにあたっては、左を青龍となし、右を白虎となし、前を朱雀となし、後ろを玄武としなければならない。」日本の高松塚古墳にも見られるお馴染みの四つの聖獣である。この四神は本来、天上にある特定の星であったが、天下って方位の守護神となった。

後代には風水は住居や墓を選定するにあたって土地の吉凶を卜する術となった。これから、その風水の最も優れた地形を描いた風水図について中野美代子さんの著書、『龍の住むランドスケープ』からご紹介しようと思う。中野さんは『西遊記』の翻訳者として知られる人である。これもなかなか興味深い本だ。この風水説では山の起伏を龍に譬え、山脈、地脈を「龍脈」と呼ぶ。天地の陰陽によって生じた「生気」はこの龍脈に沿って流れる。最上部の祖宗山とは何かというと、個別の山並みから最も遠くかつ、高い山を祖山といい、その周囲を宗山というらしい。中国では崑崙山が祖山であり、崑崙から東に向かって三本の巨大な支脈が走り、そこから枝分かれして中国全土へ龍脈が走っているとされた。それは朝鮮半島を経て海をもぐり台湾や日本まで到達している。血管のようにこまかく枝分かれした龍脈の中を走る生気にも粗密があるらしく最も生気が集まるそれぞれの地点を龍穴と称した。人の身体でいえば経絡つまり「つぼ」である。実際に穴になっている必要はないのだろうが、奥まった場所という想定になっているらしい。

風水図

風水図

主山は龍穴の後ろにある山を指す、これが「玄武」である。この主山の山勢つまり「龍脈」のことを「来龍」という。龍脈が「龍穴」にまさに入ろうとしているところ、それを特別に「入首」と呼ぶ。龍の頭が「穴」に入ろうとする所である。「入首」と「穴」の接合点のやや高く盛り上がった所を龍の額にあたる部分として 「龍脳」という。龍穴をぐるりと取り巻く龍脈のうち、背後の主山から発して東側を取り巻く山並みを「青龍」、西方を「白虎」という。幾重にも重なることが理想なので内青龍、外青龍、内白虎、外白虎などがあるのである。龍穴のすぐ前の地は「明堂」と呼ばれる。明堂はそもそも天子が政務、祭祀、教学をおこなう場所であった。そこは龍穴よりやや低く、前方に向かって緩やかに傾斜しているのがよい。龍穴に集まった気の影響を受けやすい環境が想定されているのである。その傾斜に沿って龍穴や明堂の両側を水が流れ青龍や白虎の龍脈が下方で接近する「水口」で合流して河水となるのが理想である。このような水流の源は「得」と呼ばれる。「得水蔵風」の得とは水源の「得」である。「明堂」の前には「朝山」と呼ばれる低いテーブルのような山があるのがよく、これを「朱雀」と呼ぶ。このように見ていくと日本の古都、京都がいかに風水にとって理想的な地であったかが分かる。そこは生気を囲い込む地なのである。それから風水の地形と女性<性>との関係については中野さんのこの本に詳しいので興味のある方はこちらをご覧くださればと思う。

龍穴を探し当てることは難しい。気は本来目に見えないし、蒸気のようなものが噴出しているような外見的な特徴があるわけでもない。で、どうやって発見するかといえば、風水図にあるような風景を探すのである。これは一種の景観学、環境論ともいえる。龍穴や龍脈が熱心に探索されたのは、その上に都市、寺院、家屋を営めば大地の生気に浴することができ、国なり家なりが栄えると信じられたからである。洞天福地がいわば異界の理想郷なら風水は現実の世界にそれをもたらすためのノウハウと言えるかもしれない。そういう意味で風水思想は、平安と繁栄を願う人々の自然の力に対する祈りとも言えるだろう。その祈りは陽宅(生者の住居)風水だけでなく、むしろ陰宅(死者の住居=墓)風水において赤裸々だと三浦さんは指摘している。風水師が、西洋における錬金術師と同じように、時代が降るほどいかさま師と区別がつかなくなるのもその赤裸々さのせいだろう。

伝顧愷之  『女史箴図』 部分 東晋 顧愷之は山水画の祖とも言われる画家である。

伝顧愷之 
『女史箴図』 部分 東晋
顧愷之は山水画の祖とも言われる画家である。

山中の空虚である洞は風水にあっては龍穴となり平安と繁栄をもたらすパワースポットになっていった。それでは、この風水と山水画との関係は、どのようになっているのだろうか?興味深いところである。東晋の孫綽(そんたく)は『遊天台山賦』の冒頭でこのように述べている。「太虚は遼廓にしてかぎりなく、自然の妙有をめぐらし、融けては川瀆(かわ)となり、結んでは山阜(やま)となる。」同じ東晋の画家顧愷之(こがいし344-408?)は『画雲台山記』においてこう書いている。「(その尾根は)東のふもとに発し、次第に上昇するが、山腹半ばに達せぬうちに、紫色の岩が五、六塊、まるで堅い雲のように見え、その岩が尾根をはさみ、(尾根と尾根の)あいだの谷ぞいに上につらなっているので、(その尾根の)勢いは、あたかも龍のごとくであるが、主峰の頂に達せんとするところでいったんうねりを停め、しかるがのちに一気に頂にいたる。」山を描くべく意識的に観察したことを記録に残したものとしては最古のものである。この顧愷之の活躍した時代は、風水学の祖とも言える郭璞(かくはく276‐324)が『葬経』を書いた時代のすぐ後なのである。風水と山水の誕生する時期は非常に近い。

唐寅 『騎驢帰思図』 明

唐寅(とういん)
『騎驢帰思図』 明

このような指摘もある。「風水説の理論的説明のための凡例図式から形似の写景へ、図から絵への展開があり、山水画との関わりが生まれた必然性が考えられるのである」(牧尾良海 『風水説と中国山水画』)。時代がくだって、宋の李成は『山水訣』の中で「主峰のもっとも理想的な形態は高く聳えていること、客山は奔(はし)っているようでなければならない。その客山がぐるりと囲んだところに僧舎があれば落ち着くし、水陸のほとりに人家を置くのがよい」と書いている。主峰を「主山」、客山を「青龍・白虎」、僧舎を「明堂」、水陸のほとりを「水口」と読み換えれば立派な風水図と見做すこともできるだろう。唐代の詩人で画家であった王維は自分の別荘についての詩を集めた『輞川(もうせん)集』を書き、その絵を清源寺の壁画に描いた。その壁画は現存していないのだが、北宋の画人、郭忠恕(かくちゅうじょ)がその詩をもとに「輞川図巻」を再現している。これは郭忠恕の独創といってよい作品であるらしい。その模本が現在に伝わっている。ややこしい話なのだが、そこには「得水蔵風」にかなった情景が描かれているようである。

山水画は晋代に芽生えた。それ以前は装飾的な文様、あるいは抽象的な形態として描かれていた。これについては、マイケル・サリヴァンの『中国絵画の歴史』に詳しい。それは崑崙山を図像的に表現した圧倒的な観念の山だったと中野さんは書いている。晋代に風水説が「葬術」などを通じて広まったとしても山水画に大きな影響を及ぼし始めたのは唐代からだろうというのが定説のようである。宋代には李成や范寛(はんかん)、郭煕(かくき)、董源(とうげん)、巨然(きょねん)、あるいは、李唐、梁楷(りょうかい)、馬遠、夏珪(かけい)など天才的な画家たちが活躍した。彼等はまさに山水を描いた。そういえば根本的実在として気の運動に対して理が秩序を与えるとして「理気二元論」の朱子学が生まれたのは南宋の時代であった。そして明代には唐寅(とういん)のように風水図とほぼ重なるような作品も登場し始めるのである。風水と山水は徐々に重なり始めたのだろう。

私は前に述べた東晋の孫綽(そんたく)のこの言葉を特に注目している。「太虚は遼廓にしてかぎりなく、自然の妙有をめぐらし、融けては川瀆(かわ)となり、結んでは山阜(やま)となる。」 宇宙の始原は広大な無であり、気の集散の運動から山や川が生成された。「無→有(気)→万物」の老子の思想は「山水」という中国に固有なイメージ群を喚起し続けてきたのである。「自然の妙有をめぐらし、融けて川になり、結んで山となる。」この言葉こそが山水と風水を結びつける鍵である。

そして、マイケル・サリヴァンはこのように書いている。「中国絵画の構図はヨーロッパの絵が額縁で囲まれているようには、装飾によって四辺を断ち切られることはない。いや、中国人はそれぞれが一つの構図であるなどとは全然考えていない。‥‥画面に描かれる部分は随意にきりとられた断片であるには違いないが、‥‥重要な意義が存するのはそれが永久不変の断片であるということである。‥‥完結という概念そのものが中国人の考え方とは無縁のものであって、人がすべてを知り尽くすことは不可能であり、描写したとか完成したといっても大きな意味ではそれは真理ではないと中国人は知っており、それゆえ故意に完全な叙述をさけてしまう」(『中国美術史』)と。気は巡って限りないのである。その巡って止まない運動の一刹那を山水画は切り取っている。風水はその運動を地勢にみたのである。

郭煕(かくき)  『早春図』 北宋

郭煕(かくき)
 『早春図』 北宋

松岡正剛(まつおか せいごう)さんはその著作、『山水思想』の中で山水の発生の大きな要因として風水とともに国見(くにみ)を挙げている。国見についてはここでは述べないけれど、この中で大変重要な指摘をしている。それはヨーロッパの風景画が、1340年にシエナの市庁舎に描かれたフレスコ画『善政と悪政』を最初とすること。最初の風景画がこの『善政と悪政』の背景であったのは象徴的な事で、ヨーロッパの風景画は長らく善意としての「啓蒙自然」であったというのである。自然の風景はそこから秩序や合理がでてくるだけでなく人々を啓蒙できると見做されていたという。中国では、はじめから山水画であって最初から風景として独立していた。山水画はこのような「風景画」にはなり得なかったのである。

龍脈の根源は崑崙山であると考えられてきた。崑崙山は黄河の源であるとも考えられており、元や明代の地図にはその場所にひょうたんの図が描かれていることが多いそうである。崑崙Kun-Lun は葫蘆(ひょうたん)hu-lu に語源的に非常に近い。それから前回のロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』で紹介した壺中天の話、また、西遊記には黄河の水伯の「この小鉢には黄河の水がそっくり入ってしまうんです」という台詞が出てくることなど、壺や小鉢がひょうたんのバリエーションであることが知られている。漢の外交官である張騫(ちょうけん)は西域でタリム河が東流してロプ湖(ノール)へ注ぐのを見て、これぞ黄河の源流と思ったようである。ロプ湖に注いで崑崙の下を伏流し、積石(しせき)山脈のふもとの星宿海のあたりで顔を出し、黄河となると考えた。その後は長らくそう考えられてきたのである。

清の時代、乾隆帝に派遣された阿弥達(あびたつ)は星宿海の西三百里まで黄河の源流を探索した。その記録に「河水はロプ・ノールより伏流すること一千五百里、東南してアルダンゴダスチラオに至り、流れ出てアルダングオルとなる。これが河水が伏流し重ね出るまことの源である」と書かれている。中野美代子さんによれば現代蒙古語ではアルタン・ガダスが北極星のこと、チラウが石のことであるという。つまり、アルダンゴダスチラオとは、「北辰の石」のことだそうである。そこで最後にご覧いただくのはこの「北辰の石」である玉、つまり翡翠に彫られた山水である。明代の博物誌『本草綱目』には「石とは、気の核であり、土の骨である。大きければ岩厳となり、細かければ砂塵となる。その精が金となり玉となるのだ」とある。中国人の玉に対する愛着は先史時代からはじまるようであるが、殷周から秦漢にかけて非常に精巧な玉細工が出土しているようだ。清の乾隆帝の時代も一つのピークだったようである。

翡翠に彫られた仙山  清代

翡翠に彫られた仙山 
高さ17.5㎝ 清代

玉で作ったミニチュアの山を寿山という。長寿の象徴として宮廷で皇子誕生のお祝いとして作られることが多かった。このような玉による細工は、円盤状で、中心に円孔を持つ璧(へき)にしろ腰につるした玉佩(ぎょくはい)にしろ神聖な礼器として人々の憧憬の的だったようである。最も上質な玉は、はるか于闉(コータン)で産する崑崙の玉だった。乾隆帝が新疆(しんきょう)一円を支配するようになってからは北京にも大量の玉がもたらされるようになったという。中野さんは、写真のこの寿山について、長い杖をついた仙人が童子と語らいながら仙宮をめざして登っている場面であるとし、童子が背負っているのが桃の実であることを指摘し、この洞窟が風水的には理想的な龍穴であるという。山としての陽と洞窟としての陰が合体した両性具有の宇宙卵だと言うのである。

しかし、ここで私が指摘したいのは黄河の源流と考えられていた地が「北辰の石」つまり「北極星の石」と呼ばれていた事実である。北極星信仰は北方民族には広く見られると言われている。天の中心には北極五星があり、その中のβ星コカプは中国では帝星と呼ばれ、二千年前には北極星であった。この北極五星は皇帝一族を象徴し、その左右には皇族を守護する紫微垣(しびえん)と呼ばれる星々が並んでいる。紫微垣は転じて皇宮の意味になる。この紫微垣の外には皇帝の乗り物である北斗七星が控えているのである。

この天帝の世界は地上に投影されて崑崙となる。そこは気の核である最上の玉を生み出す地であった。崑崙は実際の山脈であると同時に象徴的な異界の空間でもある。そこは気の発する場所=龍脈の源であり、壺中天を蔵するひょうたんのある場所=汲めどもつきない黄河の源、不死の仙界であり、瞑想=「存思」の場所(「自己を存して崑崙山となす」)(『高奔内経玉書』)でもあったのである。全ての源は崑崙にある。

 

 

道教三十六天(その宇宙観では6種類、36の世界が存在する。)

1.元始天尊の住む最高天であり、玄都玉京山がそびえる大羅天。

2.玉清・上清・太清の三つの元気からなり陰・陽・和が生成される三つの清境。

3.生死を免れた種民の住む四つの民天。

4.億劫歳の寿命を持つものの生死を超えることのできない人々の住む無色界の四天。

5.身業(しんごう)の他、貪(むさぼり)・瞋(いかり)の罪を犯さなかったことで億歳の寿命を得た人々が住む色界の十八天。

6.下界で殺・盗・邪・淫などの身業(しんごう)を犯さなかったために万歳の寿命を得た人々が登ることのできる欲界の六天。

これを全て合わせると36天となる。