張光直 「中国青銅時代」 ”共餐と饕餮” part2 饕餮紋とは何か

劉鼎 Late Shang Dynasty, Shanghai Museum

劉鼎
Late Shang Dynasty, Shanghai Museum

中国の青銅器を見た時の驚きを何に例えたらいいだろうか。極めて厳然としたフォルムと奇妙にシステマティックな現代性。畏怖とユーモアの結婚。凍てつくようなファンタジー、硬質で核心的な表現。この異様なイメージは何処からやってきたのだろう。

part1 共餐に引き続き、張光直(チャン  クワンチー)さんの著作『中国青銅時代』を追ってみたい。芸術の面では、商周二代にわたって様々な動物、あるいは動物の体の一部が、装飾美術を構成する紋様の大きな部分を占めていた。中国古代の聖賢などの伝説のうちの多くは動物の神霊が化身したものであるとか、神話や伝説の英雄が動物をトーテムの始祖とした部族の長であったというような説を無視できないと張氏はいう。甲骨文の研究者丁山は商代の卜辞(甲骨に刻まれた文章)の中に200以上の族名を識別している。そのほとんどが父系氏族でそれぞれのトーテムを持っていたと考えられる。

水牛、鹿、犀、虎、羊、牛など哺乳類、蛇などの爬虫類、蚕、蝉、多くの鳥や魚といった実在の動物たち、それに自然界にはいない饕餮(とうてつ)、龍、鳳凰とそれらの様々な変形が造形されてきた。

張光直 『中国青銅時代』

張光直
『中国青銅時代』

このような紋様にはトーテムということ以外にもっと大きな意味はなかったのだろうか?中国の歴史家である郭沫若やスウェーデンの中国研究者カールグレンらが分類しているように商周代の装飾文様は古典期(商後期~西周早期)、退化期(西周前期~春秋初期)、中興期(春秋中期以降)に区分されるようだ。古典式は、装飾紋の動物の種類が大変多く、その表現は力強く高揚感に満ちている。それ以後、中興期に饕餮などの紋様は復活するが古典式のような精彩は、ついに取りもどすことは出来なかった。商代や周代の早期には動物の骨で生きている人間が死者と情報を通じあうことができた。いわゆる骨卜である(亀卜については今は触れない)。後期になると動物の骨は、もはやそのような機能を持つことがなくなり、占いの行為は多くの他の媒介を必要とするようになったといわれている。古典期の動物にたいする畏敬と尊崇の念は商や周早期の動物に対する大いなる感情を反映していることは疑いない。その時期の最も充実した、しかも代表的な紋様である饕餮を例にとってその意味や来歴を探ってみたい。

「周の鼎には饕餮が鋳(い)あらわされており、〔その理由は饕餮には〕顔があって体がなく、人を食うと飲みこまぬうちに害がその身に及ぶのであり、饕餮をあらわすことによって、〔悪事の〕報いを〔戒め〕語っているのである(『呂氏春秋』)」とある。北宋時代には、古代中国における金属器や石の上に刻まれた銘文や画像を研究する学問である金石学が登場するが、その書物の中では商周代にみられる怪奇な形の獣面、つまり目鼻があり口が裂けて眉のおおきなもの、身体に一本の足があり尾は上方に巻き上がり〔向かい合う二匹を〕合わせてみればが饕餮紋であるがそれぞれを見分ければ夔(き)紋であるもの、眉鼻口がみな方格形で中が雷紋で詰まっているもの、などを一括して饕餮紋と呼ぶようになった。「夔は神魖(しんきょ/鬼の一種)である。龍に似て、一本足である(『説文』)」とあり、金石学者は体の真ん中に一本足のある龍形の獣紋を夔と呼んだ。また、銅器の中央が、正面向きの獣面でその左右に細長い身体が外に向かって伸びている紋様を特別に肥遺(ひい)と呼ぶ場合がある。『山海経』には、頭一つに身体が二つある蛇でそれが現われるとその国は干ばつになるとある。が、このあたりの区分は難しい。このように饕餮紋には、体のないものとあるものに分れ、体のあるものは夔(一本足)や龍(二本足)が左右対称に組み合わされる。下の「商周青銅器における動物紋様」の図を参照していただきたい。

商周期の紋様s

龍紋は種類が多く多彩で、それらを識別するのはかなり難しい。

龍紋は種類が多く形も多様で、それらを識別するのはかなり難しい。足がないものもある。

数は少ないが人間と動物紋が一緒に造形されている場合がある。それらの特徴は、獣形や饕餮の顔は大きな口をあけ、人間の頭はいずれも獣面や獣身の真下におかれており、獣形は総じて饕餮と呼ぶことができるが、体型、体紋からみると虎の姿に似ている。張氏はこの人間と獣紋が一諸に現われるデザインを特に重視しているようだ。

part1 共餐で紹介したように『左伝』には、夏の時代、その王の徳が盛んであったために青銅器はつくられたとある。それによって何が人を助ける神であり、何が人を害する神であるか知るようになったのである。人は、天地を通じさせるのに役立つ存在とは、どの動物であるかを知るようになった。『左伝』にある「遠い国からの物(ぶつ)」の物を「犠牲の動物」、すなわち「巫覡(ふげき/女、男のシャーマン)が天地を交流させるのを助ける動物」として理解することが鍵になると張氏は強調する。商周の青銅礼器は、民と神を交流させるために存在した。同じく『左伝』には、神が降りることと物との関係を述べたヶ所がある。「秋の七月に‥‥神霊が降臨した。〔周の〕恵王は正官の過にその理由を問うた。「国が栄えようとする時には、聡明な神霊が〔国王の〕徳の様子をご覧になるためにその国に降ります。その国が滅びようとする時には、神霊はまた〔国王の〕不徳の様子をご覧になるためにその国に降りるのです‥‥」と。そこで恵王はどうしたらよいのかと問うた。過は「その神霊にふさわしく、その神霊の降った日の物で祀りなさい。」と答えた。物として用いる犠牲は神により、その神の降る日によって異なっていたことが分かる。

それから張氏は二匹の龍の記述に注目する。『山海経』の中には二匹の龍がしばしば現われ、それらの龍が現われる時には常に人間と神との交流に関係するという。「西南海の外、赤水の南、流沙の西に、人がいて、二匹の青蛇を耳飾りとし、二匹の龍に乗っている。その名を夏后開(夏王の啓)という。開は天に昇って三度もてなされ、〔天上の音楽の〕九辯(べん)と九歌を得て下界に降りてきた。この秦穆の野は高さが三千仞(じん)ある。ここで歌曲、「九招」を作り、はじめてこれを演奏するようになった。」これが礼制における音楽の始まりを示唆するものであることは容易に想像できる。それはともかく、龍と蛇は四方神とも深く関係する。東方の神、句芒(こうぼう)は鳥の体に人の頭を持ち二匹の龍に乗る。西方の神、蓐収(じょくしゅう)は左の耳に蛇をかけ二匹の龍に乗る。南方の神、祝融(しゅくゆう)は獣の体(図では人の体になっている)に人の頭を持ち二匹の龍にのる。北方の神、禺彊(ぐきょう)は鳥の体に人のあたまを持ち二匹の青蛇を耳飾りとし、二匹の青蛇を踏んでいる(晋代の道家である郭璞〔かくはく〕の注には「北方は愚彊、身体、手、足が黒く、二匹の龍に乗る」という記述もある。四方神は風と関係する帝の使者であった。

『山海経』の四方の使者それから、『山海経』の中の「蛇を耳飾りにする」とか「蛇を操る」といった表現は、各地のシャーマンたちが自分を助ける動物たちを両手で握って操ったり、耳の上に乗せたりしていたことを描写したものではないかと考えているようだ。例えば、「洞庭の山‥‥神の姿は人のようであり、頭の上に蛇を乗せ、左手に蛇を握って操っている(中山経)」「南海の島に神がおり、人の顔、鳥の体で、二匹の青蛇を耳飾りとし、足の下に二匹の赤蛇を踏んでおり、名を弇茲(えんじ)という(大荒西経)」「神がおり、人の顔、犬の耳、獣の体で、二匹の青蛇を耳飾りとし、名を奢比尸(しゃひし)という(大荒東経)」など多くの記述がある。

二匹の龍、あるいは二匹の蛇については、フランスの社会学者レヴィ・ストロースが商代の饕餮紋の中から商代の世界観の二分化傾向を見い出したことに言及して、この傾向が立体的な動物の形を中央で二つに分けることによって平面に転化させるという芸術上、技術上の必要性から生まれたという説を紹介している。

商代の芸術に見られる二分化傾向は、商代の文化と社会の中にあった二分化傾向の一環であったというべきであると張氏は主張する。つまり、レヴィ・ストロースとは逆の見解である。文化と社会の中にあった二分化傾向の例として、以下のように述べている。(1)安陽殷虚の遺跡における小屯の宮殿と宗廟の基礎は、大規模な計画に基づくもので南北の正中線を挟んで左右に整然と並び築かれていること。(2)亀の甲に刻まれた卜辞の配列が左右対称であり、一方の問いが肯定的であれば、他方は否定的な問いとなっていること。(3)卜辞にみられる諸王の礼制は中国甲骨学者である董作賓の五期分類に従えば新旧の二派に分けることができること。(4)商代銅器の装飾文様の構成は対称的に配列される傾向があり、カールグレンの統計を参照すれば、A,B二つのグループに分けることができ、これら二組の紋様のモチーフは、同伴して出土する器物において互いに排斥しあう傾向がある。などを述べている。殷商礼制中にみられる二分化現象と殷商の王室内が昭と穆のような二組に分かれていたこととは密接に関係しているのだと張氏は結論している。昭穆制については、ここでは詳しく述べないけれど王位継承において主に二つのグループが基本的にかわるがわる継承していったとするものである。

王室が二つのグループに分れていた状況のもとでは、王室の祖先たちも彼岸の世界で似たような基準の下に置かれていたのではないか。巫覡たちも王室に仕えて天地を通じさせる仕事をするにあたって、やはり、左右両グループに対して同じような配慮を払わなければならなかった。彼らを補佐する動物たちも、やはり対を作る必要があったのではないか。つまり、巫覡が天に昇るために、「二匹の龍に乗る」必要性があったのも、「二つの舟に足をかける〔二股をかける〕」意味があったのであり、彼等が天に昇るための道具を使うにあたっても、人間界の事情に照応した適正な平衡性を保持していなければならなかったと結んでいる。

商周時代の動物紋様2s世界の古代文化の中で、どこでも、いっぱいに開かれた獣の口が、二つの異なる世界、例えばその外とその中のように、ある世界と別の世界を隔てる一つの象徴であるとみなされるという。それは、神獣紋様が天と地を通じさせるのを助けるという考えと符合すると張氏は考えている。あるいは、動物が口を一杯にあけて、息を吐いて風を起こしシャーマンが天に昇るのを助けたとも考えられる。「商周時代の動物紋様」の図を参照していただきたい。

メキシコのアズティック族を例にとると、彼らは生まれるとすぐ、巫術師からいずれかの動物が彼の一生の伴侶、いわゆる「第二の自我」として決られる。その人の「ナファリ」と呼ばれるようだ。美術品の上では、しばしばこのナファリが大きな口を開けて、その伴侶の頭を口の中に入れているのが見られる。京都の乳虎食人卣(ゆう)(『中国青銅時代』の表紙にあるカラー写真参照)における人と獣の関係はある種の「親密な獣侶」というべきものを想像させるのであって、商代と環太平洋文化あるいはアメリカ文化との間の類似性を思わせると張氏はいう。

『山海経』は、「古代における巫覡の書物」であったにちがいないと張氏は考えている。それは、『楚辞』の九歌(part1を参照)や祭祀における巫の舞との関係も密接であったようだ。シャーマンが術を行う場合、しばしば有形(幻覚を催す植物)や無形(例えば舞踏による陶酔)の助けを借りて夢幻に近い状態に達し、神界と交通する。神霊との交信の仕方は、時に動物を犠牲とし、その動物の聖霊を体内から昇華させる。その動物の聖霊の援助のもとで天界に昇り、地下にくだって、神や祖先と出会うのである。

濮陽の三蹻(きょう)と中国古代美術の人・獣sこの中国青銅時代の第二集『中国古代文明の形成』では、新たな遺跡の発見が紹介されているので、それもご紹介しておこう。1989年に河南省北部、濮陽県城の西水波一帯で仰韶(ぎょうしょう)文化の遺跡が発掘された。仰韶文化とは、紀元前5000年から紀元前3000年頃の黄河中流域に展開した新石器文化である。

遺物の中で特に注目されたのは三組の貝殻を敷いて作られた動物紋様である。特に第45号大墓に埋葬された4人のうちの中心にある「壮年男性」の横に並べられた貝殻でできた形は印象深い。身長は1メートル84、頭が南で足を北に向けた仰身直肢葬であった。その左(西)側に貝殻の虎の形、右(東)側に龍の形が作られてあった。すでに東が龍で西が虎である。第二組はこの墓葬の北側にあり、龍と虎が合体したもので虎の背中に鹿がいる。第三組は第二組の南側にあり、人間が跨った龍と、疾駆する虎が作られている。おそらく死者を葬る際の祭祀の跡であろうと言われている。

遺体の近くには龍、虎、鹿の芸術的造形物が付随しており、人が龍に跨った様子も表されている。張氏は龍や虎や鹿は死者が飼いならしていた動物の助手か伴侶だと主張している。

濮陽のこれらの龍と虎と鹿は古代の原始道教における龍と虎と鹿の三蹻(きょう)を思い起こさせると言う。晋代の葛洪(かっこう)は、『抱朴子(ほうぼくし)』内編の中でこう述べている。「もし、蹻に乗ることができれた者は、天下を自由に経巡ることができる。山や河に煩わされることはない。蹻に乗るには三つの方法があり、第一を龍蹻、第二を虎蹻、第三を鹿盧蹻という。‥‥蹻に乗ろうとすれば長く斎戒し‥‥一年後にはじめてこの三蹻に乗ることができる。‥‥龍蹻が最も遠くまで行け、それ以外は千里を超えない。」原始道教の道士は龍、虎、鹿の脚力を借りて「天下を自由に経巡り、山や河に煩わされることがない」のである。蹻は「足を少し高く上げる」の意味で、力強く、早く行くことと関連するようである。『道蔵』には、「およそ、仙を学ぶ道として、龍蹻を用いるのは、龍はよく天に昇り地に潜り、山をうがち水に入ることができるからであり、この術でなければ、鬼神のことは計りがたく‥‥龍蹻というのは、道を奉じる道士が〔それに乗って〕仙人の集う洞天、福地に遊ぼうとすれば、あらゆる邪悪な魔物や精霊の怪物や悪しき物どもは近づいてこず、山川、大河、洞穴にある仙人たちの役所に行くたびに、いたるところで、天の神々や地の神々の方から会いにやってくる(太上登真三蹻霊応経)」とある。この文献は紀元三~四世紀のものであり、仰韶時代とは5000年の開きがある。(洞天福地についてはこちらをごらんいただきたい壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』

人獣同伴の造形

人獣同伴の造形

だが、考古学と美術史の面からみると、仰韶文化の時代から魏晋の時代までの5000年の間に絶えることなく巫蹻〔シャーマンの乗り物〕を表す記号が存在したという。その記号の一つが人獣同伴の造形である。それは、環太平洋地域全体の原始時代の美術にみられる、いわゆる「分身としての我」である。それが図の東周後期の虎蹻である。これを商・西周時代にまで追って行けば、人・獣モチーフは「乳虎食人卣」や安徽省阜南(ふなん)出土の龍虎尊に行きつくだろうと張氏は見ている。

饕餮紋に戻りたいのだが、このように張光直氏の説を追っていくと、この紋様が虎のようでもあり、二匹の龍(蛇)を左右対称に並べたもののようでもあることが納得できるのではないか。皆さんはどう思われるであろうか。 先ほど述べたように、北宋の金石学では、饕餮紋には(1)口が裂けて眉のおおきな顔だけのもの、(2)向かい合う二匹の夔(き/身体に一本の足があり尾が上方に巻き上がっている龍)紋が合わさってできた饕餮紋(3)眉鼻口がみな方格形で中が雷紋で詰まっているものなどがある。私が(1)(2)の饕餮紋それぞれについてエレメントに分解してみた図があるので、この本の内容とは離れるのだが、参考に見ていただきたい。

饕餮文のエレメント1s(1)の饕餮紋を「饕餮紋のエレメント1」の図で見てみると、左から、耳あるいは眉のような部分、目の周囲、鼻の部分、左右の虎あるいは龍のような部分に分解することができる。この下向きの左右にいる動物が気になるが、西周中期の虎飾鎛(こしょくはく)という青銅器にあるフリンジ(突起した縁飾り)と比較してみるとかなり近い形態をしているのが分かる。どちらかといえば虎に近い。この両側にいる動物は、時に鳳凰や鳥であったりする場合もある。

(2)の饕餮紋ではどうであろうか。「饕餮紋のエレメント2」の図で左から見ていただくと、フリンジ、フリンジを中央に挟んだ鼻に当たる部分、参考までに西周早期の祖乙尊(尊は酒壺のこと)、角、夔(虎のようにも見えなくはない)、鼻に当たる部分の左側に分解できる。 この鼻の部分だけを抜き出すと尊の形に近い。尊から湯気か煙が立ち昇っているようにも見える。もし、これが尊だとすると青銅器と神獣と祭祀の関係を述べた張氏のこの描写が思い出される。「動物を犠牲とし、その動物の聖霊を体内から昇華させる。その動物の聖霊の援助のもとで天界に昇り、地下にくだって、神や祖先と出会うのである。」精霊たちは、まるで「雲か霧」のようなのである。

(3 )については、本文の最後に雷紋で埋め尽くされた商前期の 觚(こ/大型の酒器)の写真を例として掲載するにとどめておく。ほとんど湯気や煙のように茫漠としている。

エレメントにしてこれらを見ていくと比較的システマティックに作られていることが分かる。特徴的な事は雷紋とその変形が基本的な要素であることだ。饕餮紋のエレメント2では特にそれがはっきりしている。こうなると雷紋とは何だろうという疑問に突き当たることになる。

饕餮文のエレメント2s

それでは、饕餮紋を構成する大切な要素である雷紋を見ていきたい。雷紋は簡単に言うと角張った渦巻きと思ってもらえばよい。極端に角張るとラーメンどんぶりの縁をニギニギシク飾るあの紋様になる。

アメリカの考古学者、マリア・ギンブタスは『古ヨーロッパの神々』の中で雷紋(メアンダー)は宇宙水のシンボルだといっている。それは水鳥や水蛇に深く関わる水の神のシンボルである。神話的な水や水の力、及び水の女王たる蛇を強調している。「大きく引き伸ばされたり二重にされた雷紋のモチーフは、互いに接触することなく、頭と頭を突き合わせた2匹の蛇を表した2本の向かい合う線であったかもしれない。そして、それは次第に小像の身体や建築の切妻壁や神々の座る王座などを飾るべく大きく雷紋に発達したのではないだろうか」また、「蛇」と蛇の形姿を抽象化したと思われる「渦巻き」は古ヨーロッパ芸術の支配的モチーフであり、紀元前5000年頃をそのピークとするという。

マリア・ギンブタス 『古ヨーロッパの神々』

マリア・ギンブタス
『古ヨーロッパの神々』

「大きく引き伸ばされたり二重にされた雷紋のモチーフは、互いに接触することなく、頭と頭を突き合わせた2匹の蛇を表した2本の向かい合う線であったかもしれない」この言葉は注目に値する。古代ヨーロッパと古代中国における2匹の蛇の問題。これはなかなか面白いのではないだろうか。そういえば、図像学の泰斗アビ・ヴァ―ルブルクは、その著書『蛇儀礼』の中で蛇とプエブロインディアンの稲妻の造形との関連に言及していた。

甲骨文では、稲妻、つまり電光の形は、方形にちかい渦巻きを縦の曲線に沿って並べた形である。天にある神がその威光をあらわした形。その形が申という字になる。申は神のもとの字である。申は神の発するものであった。神を祭る時に使う祭卓の形の示を偏として神の字になったようである。白川静(しらかわ しずか)さんによれば、「神とは天神、つまり自然神であったが、後には祖霊も含むようになる。神事のみではなく精神のはたらきやそのすぐれたものを神爽(そう)・神悟のようにいう(『字統』)」とある。後に「神」の意味の他に「こころ、こころのはたらき、こころのはたらきのすぐれたもの」の意味にも用いられるようになった。方形にちかい渦巻きとは雷紋のことである。申はそれを縦の曲線に沿って二つ並べた形だ。稲妻=雷(かみなり)とは天と地を結ぶものではないだろうか?しかし、雷の字の方は甲骨文では稲妻に雨の形であるが、やがて田の形が主要な構成要素に変化していく。雷の字は神の字ほどには雷紋との関係は濃くないようだ。説文解字で使われている雷字の中に雷紋のような渦巻きが見える程度だ。以上のことは私が付け加えた蛇足である。

さて、結論は何かというと、饕餮紋とは、雷紋を基本として構成される龍(蛇)あるいは虎の紋様である。それは父系氏族のトーテムの一つ、あるいはその組み合わせであるかもしれないし、その厳格な対称性は王位継承に関わるようなデュアルな社会システムの反映でもあったかもしれない。そして、シャーマンである巫覡たちが王たちの望む情報を得るための、あるいは王自身がシャーマンとなってそれを得るための必要不可欠な術であった天地を結ぶということを成し遂げるための護符とでもいうべきものではないか。それらは異界を行き来するための第二の自我とも言うべき龍や虎をまさに神の威信とも言うべき雷紋によって構成し尽くしたのである。しかし、張光直さんの論の進め方はなかなかに緻密だ。

申と神、雷

申と神、雷

ところで、今回は、夔(き)との関連で商容についても述べたかったのであるが、かなりの分量になってしまったので次回の宿題とさせていただきたい。この商容は、儒学系の文献では殷末の賢人・礼楽官なのであるが、道教文献では老子の先生であり神人・常樅子としても登場する極めて興味深い人物である。それを張光直さんの著作『中国青銅時代』と渡辺信一郎さんの『中国古代の楽制と国家』を織り交ぜて紹介したいと思っている。饕餮などというマニアックな話題にお付き合いいただいてとても嬉しく思っています。

饕餮文觚 商前期 Early Shang Dynasty, Shanghai Museum

饕餮文觚 商前期
Early Shang Dynasty, Shanghai Museum