『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画

図1 『エゴン・シーレ』アルベルティ-ナ美術館 クラウス・アルブレヒト・シュレイダー編 2017

捻じれてる‥‥擦(こす)れてる‥‥折れてる‥‥切れてる‥‥歪んでる‥‥膨らんでる‥‥痛々しい‥‥ヒステリックにざわめく‥‥病的に痙攣する‥‥死と性の‥‥感傷的な‥‥憂愁にとざされた‥‥ーレの絵画

アルベルティーナ美術館前 筆者撮影

今年(2017年)、エゴン・シーレの没後100周年のためのプレ展覧会がアルベルティ-ナとレオポルト美術館で開催されている。これは嬉しかった。前回、この地を漂泊した時には、ほとんどシーレの作品を見ることができなかったからである。アルベルティ-ナは、量、質ともに世界最高を誇るデッサン・水彩などのグラフィック・コレクションを収蔵する美術館だ。デューラーの細密な兎や鳥の翼を描いた水彩画が見られることでも知られている。展示室ごとに異なる壁の色や壁面に直接印刷されたキャプションや解説には感心すること頻りだった。展示のセンスはとても素晴らしかったのである。この美術館だけでなく、斜め向かいにあるテアターミュージアムやリング(旧市街を囲む城壁を取り除いた後に出来た道路)の近くにある美術史美術館の展示もなかなか素敵だ。ここは、「見せること」に関して先進地域である。今回は、このシーレについて、色々な著作から適宜引用させていただいて僕の「シーレ論」を述べたいと思っている。

ドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんは『ウィーン世紀末文学選』のあとがきにこのように述べている。1860年に人口80万足らずであったウィーン市は、1890年には人口130万を越え、さらに15年後には187万に達した。こうした人口の急増と一部の貧困による都市問題の悪化は、帝国の首都を麻痺状態寸前に追いこんでいた。まさしくこの時代にウィーンには、集中しておびただしい才能が開花した。美術では1897年、19世紀的歴史絵画からの分離を宣言してウィーン分離派が誕生した。グスタフ・クリムトを中心に若いシーレやココシュカが躍動しはじめる。コロマン・モーザーやヨーゼフ・ホフマンによる「ウィーン工房」が発足した。新たな音楽がマーラー、シェ―ンベルク、アルバン・ベルクによって、新たな建築がオットー・ワーグナーやアドルフ・ロースによって、精神分析がフロイトやアードラーによって、言語哲学がヴィトゲンシュタインによって、美術史のテーゼがリーグラーによって開かれた。そして、文学におけるシュニッツラーやホフマンスタールやカール・クラウス、ツヴァイクやムジールなどが活躍するのである。彼らの多くは祖父や父の代にウィーンにやって来て、一代で富を築いた家庭に生まれて、自分の流儀と表現法で父の世代や過去の世界に三下り半を突きつけたというのである。このような敏感な精神が育ったのは周囲の世界に同化しつつも、尚、同化しきらない「よそ者」としての強烈な意識だったという。

図2 エゴン・シーレ(1890-1918)

エゴン・シーレ(1890-1918)は、まさに急激に膨張するこの時代のウィーンの北西に位置する町トゥルンに生まれた。父方の祖父は優れた鉄道技師でプラハからドイツ国境のエーゲルまで3年という短期間に鉄道を施設したが、過労で早逝したという。父は、そのトゥルンという町の駅長だったが、1902年に進行性麻痺という精神病に罹り退職する。母はボヘミア(現チェコ)の裕福な建設業者の娘だったが、息子のシーレとは折り合いが悪かったようだ。

父への思いをシーレは、友人で後に妹の夫になるペシュカにこのように手紙を書いた。「‥‥たとえぼくのことを陽気なやつだと思い込む人がいるとしても、ぼくは、多くの重い精神の痛苦に耐えなくてはならない人間なのです。ぼくの気高い父親のことを、こんなにまで悲痛な思いで思い出す人がいるかどうかは知りません。父親がかつていた場所、悲しい時に自分のなかに苦痛を感じさせるための場所、そんな場所をぼくがどうしてわざわざ訪ねるのかわかる人はいないでしょう。――ぼくはあらゆる存在の不死というものを信じているし、派手なものは外見的なものだと思っています。ぼくは多少もつれたようにして、追憶というものを自分のなかにいだいているのです。(アントーン・ペシュカ宛 1913年7月12日/ネベハイ『エゴン・シーレ』水沢勉訳)」。

フランスの美術史家であるジャン=ルイ・ガイユマンの『エゴン・シーレ』には、「収入以上の生活をする」という父親のオーストリア流の生活スタイルを批判しながらも自分もその血を引いているのだというシーレの言葉が紹介されている。父は、しがない駅の駅長に過ぎなかったが、馬車を持っていて、何かにつけて「上流ぶろう」としていたという。だが、自分の限界を超えてみたいという父の気持ちはよく分かるというのである。シーレは父親っ子であった。美しいブルーの目をしたその最愛の父は、梅毒に罹っていた。シーレが15歳の時、発狂状態で亡くなったのである。この衝撃は生涯消えなかったという。

図3 エゴン・シーレ
『カール・ザコヴツェクの肖像』1910

父は精神的な発作のために持っていたかなりの株券を燃やしてしまい。家族は困窮した。叔父(父の妹の夫)であるレオポルト・チハツェックが彼らの後見人なった。その彼への手紙(1911年9月1 8日)にシーレはこう書いた。

「――ぼくが制作した格言を、いくつか記します。
基本要素が存在するかぎり、完全な死はありえない。‥‥
もし、それが可能ならば芸術作品の内部に目を向けよ。‥‥
芸術のセンスのある人はめったにいない。――それは芸術における神の存在を如実に示している。
芸術家は永遠に生きる。
新しい芸術などというものは存在しないと思う。あるのはただ一つの芸術で、
――それは永遠のものだ。‥‥
ぼくはすべての肉体から発せられる光を描く。
エロティックな芸術作品にも、神聖な特徴がある。
ぼくは、はるか先まで行くだろう。ぼくの『生きた芸術(アール・ヴィヴァン)の成果を前に、人々が恐怖に襲われるところまで。(ガイユマン『エゴン・シーレ』遠藤ゆかり訳)」そう、シーレの作品(図3)には恐怖が存在する。

エロティシズムは何処から来たのか

図4 フェリシアン・ロップス
『死の舞踏』1865

シーレに影響を与えた作家をアメリカの美術史家であるアレッサンドラ・コミーニの『エゴン・シーレ』から紹介しよう。勿論、グスタフ・クリムトは第一に挙げなければならない名前である。それに、フランスの画家トゥールーズ・ロートレックの素描、スイスの画家フェルディナンド・ホドラーの太い輪郭、1909年の国際美術展で見たベルギーのジョルジュ・ミンヌの彫刻。版画を通してノルウェーのエドヴァルド・ムンクやベルギーのフェリシアン・ロップスがおり、アール・ヌーヴォーの雑誌を通して数々の挿絵画家の作品を眺めていたようだ。ゴッホもつけ加えておこう。ここではベルギーのフェリシアン・ロップス(1833-1898)を取り上げたい。

エロティシズムとグロテスクと神秘主義の画家だったが、時にキッチュでさえあった。彼はボードレールとの出会いによって大きな影響を受ける。フランスの象徴主義・デカダン派の文学運動と関係を持ち、そういった作家たちの挿絵を描いたことからゴーティエ、マラルメ、ぺラダンらの称賛を得たという。セックス、死、悪魔を扱って、時に背徳的なイメージを描いた(図4)。19世紀から20世紀初頭にかけて、同じベルギーではフェルナン・クノップフ(1858-1921)が、ドイツには、ミュンヘン分離派を組織した一人フランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928)が、そしてスイスにはアルノルト・ベックリン(1827-1901)といった象徴主義画家たち(図16)が活躍していた。この頃、フランスの象徴主義文学が大きな影響力を持っていたようである。つけ加えておくと、ロップスのいかがわしさが忍び笑いをもたらすのに対してシーレの場合は孤独の果てに助けを求める叫びを聞くと批評家エルビン・ミッチュは書いている。

図5 ローベルト・ムジール
『ムジール・エッセンス 魂と厳密性』

クリムトやシーレ、ココシュカと言えば19世紀末や20世紀初頭のエロティシズムを代表する画家と言われているけれど、この時代、ウィーンの文学はどのようであったかを少し見ておきたい。後に小説『特性のない男』で知られるようになったローベルト・ムジール(1880-1942)が、1911年、まさにシーレが活躍していた時代に書いたエッセイ『芸術における猥褻なものと病的なもの』(図5)からご紹介してみたいのである。この文章はドイツでフローベルの作品が発禁になったことに端を発して書かれた文章でフェリシアン・ロップスについても言及がある。彼の主張はおおよそこういうものだった。

社会の立場から見て、不道徳なもの唾棄すべきもの病的なものが存在するのは当然のことであって、何かを表現するとはそのようなものを含めて百もの別な事物とそのものとの諸関係を表現することである。仮にこれら百の別な事物が猥褻であるか病的であるとしても、諸関係が猥褻で病的である訳ではない。この時、類縁関係にある色々な魂の切片に共鳴が起こり、様々な感情や意志や、思考がネット状になってゆるやかに運動する。このような再構成こそが芸術なのであって、それが決定的なパッセージにおいて貴重な要素を含むなら、この再構成には価値がある。これこそ組替え結合術(コンビナトーリクの秘密であるという。如何に真摯な考察であったかが分かる。ちなみに、1911年に発表された彼の小説『愛の完成』では、女性主人公の気持ちの揺れがまさに微細なネットワークのなかで足早に描かれている。翻訳者の古井由吉(ふるい よしきち)さんによれば、それは、淫靡な姦通小説だという。わざとこんなレッテルを貼った上でこのようにいう。「‥‥愛の前提である諸限定をひとつずつ解体していき、感情よりもかすかなものでしか触れられぬ彼方をのぞかせるのが、厳密な思考のはたらきであり、それを惑乱した女性の肉体が行うのだ」と。奇妙に捻じれたアンビヴァレントな意識が思考によって細分化され緊密に繋ぎ合わされていく。この頃、フロイトは性を精神医学的な思考によって分解し繋ぎ合わせていたのである。

19世紀ヨーロッパのエロティシズムは、フローベルやボードレールらのフランス文学によって(もっと過激な作家がいない訳ではない)禁断の扉が開かれコード化され、ベルギーやドイツ、ウィーンの画家たちによって視覚化されたと考えられなくもないのだが、象徴主義がアール・ヌーヴォーやそのドイツ版であるユーゲント・シュティール、そして表現主義へ多大な影響を与えたことを考えると、象徴主義とは何であったかを確認しておかなければならない。これについては最後に述べたい。

演劇的なポーズとパントマイムの姿

図6 オーストリア・テアターミュージアム
筆者撮影

アルベルティ-ナよりやや奥まった所にオーストリア・テアターミュージアム(図6)がある。ここの展示も非常に面白い。中世、ルネサンス、バロックとロココ、ロマン派と革新、アヴァンギャルドと現代などにブースが分かれていて、それぞれの時代の舞台装置の模型が通覧できるようになっている。箱庭かコーネルの作品を見ているような面白さがあった。この時はオペラでお馴染みのテノール歌手プラシド・ドミンゴの特集をしていて名場面集が壁面に大きく写し出され、舞台衣装や舞台上のハイライト写真が展示されいてた。おまけに、いわゆるアンティークの人形たちが壁面の周囲を埋めていた。なるほどオペラや演劇ファンにはたまらない博物館だろうなと思った。ウィーンはオペラだけでなく演劇もまた盛んな地である。

クリスティアン・M・ネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』という本にはエルヴィン・オーゼン(図7 1891-1970)という名の画家が紹介されている。かなり怪しい人でもあったらしく、自分がグスタフ・マーラーに拾われた捨て子で、マーラーによって画家として養育され、クリムトに指導を受けたと吹聴するような人物でもあったらしい。ちなみにクリムトに弟子と呼ぶ存在はいなかったようである。シーレが、1909年美術アカデミーを退学して「新芸術集団」を結成した時のメンバーの一人だった。1910年前後には、この青年の強い影響下にシーレはあったという。

図7 『エルヴィン・オーゼンとモアによるパントマイム』1914

批評家でシーレの友人だった、アルトゥール・レスラーは彼がオリエントの幻想的な物語でシーレを夢中にさせ、信じやすいシーレをすっかり虜にしてデモーニッシュなまでの影響を与えたとイマジネーションを膨らませて書いている。彼はシーレに近代文学に関心を持つように促させ、それによってシーレはアルチュール・ランボーを発見したのではないかという説もあるのだが、疑問視する研究者もいる。シーレは、ランボーのいう「見者」となった自分を見い出していた。この頃、オーゼンの裸体を何度も描いていて、オーゼンはその度に異なったパントマイムのポーズをとっているという。彼は、同じくシーレのモデルになっていた近東出身の女性モア(図7)と共に寄席にパントマイマーとして出演していたのである。1914年にバイロイト以外での初演となった『パルジファル』のプラハの舞台美術を任されていて、本来舞台美術家であり、長年ウィーンの宮廷歌劇場の舞台装置の主任であったアントン・ブリオシの弟子であったことも分かっている。彼の初期の絵画は、画風もサインもシーレのものと極めて似ていた。影響は双方向的であったのだろう。ともあれ、シーレはこの人物によって演劇的なジェスチャーやパントマイム、新しい舞踏の姿勢に興味を開かれていったようである。

捻じれる身体

図8 左 ポール・リシェ 『ヒステリーの大発作:捻曲、あるいは非合理的な運動』1881
図9 右 エゴン・シーレ『二人の女』1915

1890年頃、ジャン=マルタン・シャルコー (1825-1893)がパリのサルペトリエール病院で精神科の医師として膨大な臨床データを集めていた。ヒステリー研究もその内にあった。彼のヒステリー研究は、ディディ=ユベルマンの『残存するイメージ』のなかで ヴァ―ルブルクの「情念定型」との関連で語られていることなのだが、解剖美術家のポール・リシェはその患者たちの形象をデッサンして残したのである(図8)。リシェはこう述べている。「‥‥非合理的な姿勢または身体のねじれ、もうひとつは大仰な動作である。‥‥それは自然の能力をあまりに超越しているように思われ、神的なものが介入しているとでも考えなければ説明することができないほどであった。‥‥ここで病人は、もっと多彩な、もっと予想外な、もっと突拍子もない姿勢をとるディディ=ユベルマンの『残存するイメージ』竹内孝宏・水野千依訳)」

『エゴン・シーレ 日記と手紙』
大久保寛二 編訳

1886年、30歳の時、ジークムント・フロイト(1856-1939)はパリからウィーンへ帰り、シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移し、やがて、治療技法にさまざまな改良を加えて自由連想法にたどり着いた。この治療法を精神分析と名づけたのである。1900年には『夢判断』が出版され、1905年の『性に関する三つの論文』は各方面から悪評を浴びせられた。ウィーンでの理解者は皆無に等しかったといわれる。ウィーンはフロイトが活躍した街でもある。

だが、シャルコーやフロイトの学説が1910年代にウィーンの芸術家にどのような影響を与えていたかはよく分からない。少なくともシーレの手紙や日記にはそのような内容がみあたらないし、彼やクリムトの研究者からそのような確たる証拠も提出されてはいないようである。フロイト自身はシュニッツラーの文学に共感を抱いていたようだ(ウィットフォードの『エゴン・シーレ』)。彼は「症状とは矛盾した二つの欲望の実現である」と書いた(フリース宛の手紙 1889/ 竹内孝宏・水野千依訳)。「私が観察した事例では、患者は自分の身体にぴったりに張りついた衣服を(女性として)一方の手でおさえ、同時に(男性として)もう一方の手でそれを引きはがそうとする。(竹内孝宏・水野千依 訳」ヒステリー症状の発作において、何故あのように極めて可塑的な体の形態を生じさせるのか。症状はこの相反と戯れるからである。矛盾した欲望が、複雑さを組織し、空間に拡散することによって捻曲のあらゆる乱調が解放されるのだとディディ=ユベルマンは述べている。シーレのあのような痙攣する身体表現がどのような心理状況のなかで形成されていったのか、考えてみることは興味深いことではあるが、実のない胡桃を割ろうとする行為であるかもしれない。ただ、シーレの友人だったオーゼンが1913年のある時期、ウィーン・シュタインホーフ精神病院で入院患者たちを人物描写の病理的表現のために研究していたという事実はある(ウィットフォード『エゴン・シーレ』)。

図10 エゴン・シーレ『自画像』1915

操られる表象

ついでに言っておくと図9の『二人の女』に見られる片方の女性がまるで人形のように描かれているのに注意を惹かれた方もいるのではないだろうか。同じ年の『二人の女友達』にも同様の表現が見られる。人形とはっきり分かる場合の他に、このような空ろな表情の人物表現は結構多い。『自己観察者Ⅱ』『母親とふたりの子どもⅡ』、シーレと妻のエディトを描いた『抱擁』、1915年の『自画像』(図10)におけるシーレなどである。彼は好んで人形や珍しい民芸品及び工芸品を集めていた。その中には日本人形や色刷り木版の挿絵の入った日本の本などもあったという。

シーレは人形にもかなりの関心をもっており、例えばアルトゥール・レスラー宛の手紙(1918年7月18日)でロッテ・プリッツェルの人形を一つ欲しいとねだっている。この人の人形は芸術的なものであったらしい。シーレの母の故国である現在のチェコでもマリオネットが盛んで、プラハには国立のマリオネット劇場あるようだし、オーストリアではザルツブルクのマリオネットが有名だ。映画『サウンドオフミュージック』でよく知られるようになった。彼はまた、ジャワ島のヤワン・クリ(影絵芝居)で使われる操り人形(図11)も大好きだったようだ(ガイユマン『エゴン・シーレ』)。そのような人形への傾倒は、同時代のココシュカが愛の形代のようにマーラーの未亡人であったアルマの等身大の人形と一緒に結構長く生活していたことからも窺うことができる。

 

Vジェスチャーする手

図12 エゴン・シーレ『首を傾けた自画像』 1912

図13 コーラ教会における全能者ハリストス     イスタンブール 1315-21

今回僕が見ることのできたアルベルティ-ナ美術館のシーレ展、そのカタログ(図1)がまた、恐るべきものだった。横25.5cm、縦29.6cm、厚さ4.1cmという日本ではまずお目にかかれない分厚いカタログだったのである。ここにはシーレの自画像のポーズに関する新しい説が紹介されていた。いわゆるVジェスチャー(図2,12)と呼ばれる手のVサインの謂れである。筆者のヨハン・トマス・アムブロジィー(Johan Thomas Ambrózy)によれば、研究者たちを悩ませ続けたこのジェスチャーは、シーレがウィーン美術アカデミーに学んでいた頃、ちょうど刊行された(1908年)、イスタンブールにあるコーラ教会に関する挿絵本に描かれた全能者ハリストスのモザイクによる作品(図13)から影響を受けたのではないかとされている。それは、イエス・キリストのギリシャ語読みであるイイスス・ハリストスに由来するビザンチン美術の傑作だった。それがシーレの注意を惹いた。その影響の他の例として、同じくコーラ教会の『神の母』(図14)とシーレの『死んだ母』(図15)との類似を挙げている。ビザンチン美術の影響は、彼の画風から考えるといささか驚かされが、古典的なスタイルでは勿論ない、もっとプリミティブな方向を志向していたのかもしれない。彼もビザンチン美術に魅惑されたのだ。ちょうど、モローやクノップフやクリムトと同じように

象徴主義の鬼子

ここで、先ほど述べた象徴主義とは何であったかを見てみたい。それに最もふさわしい著作は、ハンス・ヘルムート・ホーフシュテッターの『象徴主義と世紀末芸術』であろう。グスタフ・ルネ・ホッケがマニエリスム芸術に新たな光を当てた『迷宮としての世界』に匹敵する著作である。翻訳も同じく種村季弘さんだ。ホーフシュテッターによれば、象徴主義はいつの時代にも存在したが、19世紀のそれは、18世紀初頭の大革命の申し子として、攻撃的なアンチ・ブルジョア芸術として、あまつさえ背徳芸術として成立したという。

革命とはフランス革命といった歴史上の事件のみならず精神の変革をも指していた。革命によって主導的な政治権力に成り上がったブルジョワジーは、啓蒙主義から受け継いだ教訓と美徳を呼び起こす芸術を求めた。形骸化された美的趣味の芸術、その出先機関が美術学校(アカデミーであったというのである。かくして、真に創造的な芸術家が、社会から疎隔される時代がやって来る。商業主義に屈することのない苦難の道を歩む芸術家たちは、その必然としてブルジョワ的な価値に対する無関心さから、公然とブルジョワ芸術に対するアンチを表明するに至る。この端的な例が分離派運動であろう。彼岸への信仰を喪失し、これまで崇拝されていた一切のものを根底から疑い始めて以来、彼らは現実に眼に見えるものの背後にある世界を予感はしたが、確信にはいたらなかったとホーフシュテッターは言う。彼らの予感は、ある不確かな「彼方へ」の観念に汲みつくされると言うのだ。ロマン主義から19世紀象徴主義が生まれた所以である。

図14 左 コーラチャーチにおけるモザイク画『神の母』1315-21
   アルベルティ-ナ美術館カタログ『エゴン・シーレ』2017より
図15 右 エゴン・シーレ『死んだ母Ⅰ』1910

かくして、多くの芸術家たちが、現実の表層の彼方にある謎めいたもの、理解不可能なものを垣間見せることに奔走することになる。地獄の世界としての地上の姿、悪の化身としての女、情念による人間への誘惑、夢の世界での変容、仮面としての個性の剥奪、根こそぎ追放された存在としての娼婦が登場しはじめる。そういったペシミスティクなイメージを表明する一方で、人間が失った神話的根源への確信は、例えば、ワーグナーの作品などに見られる新たな神話性の創造となって闡明化されるのである。

図16 象徴派の画家たち
上左 アルノルト・ベックリン『ヴァイオリンを弾く死神のいる自画像』1872 部分
上右 フランツ・フォン・シュトゥック『罪』1893 
下 フェルナン・クノップフ『スフィンクスの愛撫』1896 部分

ここには、象徴的「観相学」としての人間の身振り、挙動があり、「パントマイムの象徴法」として、非物質化、非個性化された裸体像によって人間と宇宙との壮大な関連が表現された。パントマイムに密接して舞踏があり、そこでは性愛術さえ取り入れられて肉体と霊とが合体する始原的な象徴となる。「精神分析の象徴」は、意識下の領域に排除された様々な体験・感情などが変装して、謎めいた夢像の中に姿を表わす。古い価値が破壊され解体される時、病的なもの犯罪的なものが、この価値の転換のうちにあって新しい意味や価値となり、虚無・憂鬱・沈黙・無意味が表象世界に君臨し、脅やかしや不安の世界感情が生み出されたというのである。デカダンスである。ここで、お断りしておくが、この本には象徴主義の作家たちや(図16)、ロップス、クリムトやゴッホ、ホドラー、キルヒナーら多数の作家が登場するがシーレの名は一度たりとも出てこない。シーレの絵画が象徴主義の特徴の多くと符合するにもかかわらずである。彼は象徴主義の生み出した鬼子だったのだろうか。あるいはその世界を既に脱した表現主義の新しいタイプの作家と考えられていたとする方が妥当かもしれないのだが。

今回のpart1では、世紀末ウィーンを侵食したエロティシズムと性の文学及び精神医学に触れ、シーレの人物像に現われるジェスチャーや体の捻じれた動きに関連したことがらについて述べてみた。次回part2では、彼が肉体の表現を通して何を描きたかったのかという問題について、形に対するより現代的なアプローチを通して僕の試論をご紹介しようと思っている。それではまた。
  

『エゴン・シーレ』関係書籍

・クリスティアン・M・ネベハイ『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』。クリムトやシーレの研究の第一人者である。1909年ウィーンの骨董商・画廊を経営したグスターフ・ネベハイの息子としてライプツィヒに生まれた。8歳の時にウィーンの父母のもとでクリムトに出会っている。父の店を継いで後、1947年に自身の「ネベハイ古美術商」を開いてクリムトやシーレの研究に没頭することになる。彼らの基礎資料収集と編集に生涯を費やした。1968年のアルベルティ-ナにおける「クリムト大回顧展」で画家の資料部門を担当している。ウィーンの地理と文化を紹介した『ウィーン音楽地図』シリーズ(音楽の友社)でお馴染みの方もおられるのではないだろうか。

・アレッサンドラ・コミーニ『エゴン・シーレ』。アメリカの美術史家で、コロンビア大学で博士号を取得。各地の大学で教えた後、南部メゾシスト大学で美術史主任教授となった。その著書『エゴン・シーレの肖像』は国民図書賞などに輝いている。

・ジャン=ルイ・ガイユマン『エゴン・シーレ――傷を負ったナルシス』。フランスの美術史家で、ソルボンヌ大学で教鞭を執った。いくつかの美術雑誌を創刊している。著作に『ダリ』などがある。

・フランク・ウィットフォード『エゴン・シーレ』。1941年生まれ。オックスフォード大学やベルリン自由大学などで学んだ後、ケンブリッジ大学などで教鞭 を執った。日本の版画と西洋との関係を書いた著作などもあるようだ。

・水沢勉『エゴン・シーレ』。1952年横浜に生まれる。慶応大学で大学院修了後、神奈川県立近代美術館に学芸員として勤務。主な著訳書に『この終わりのときにも』『グレン・グールド研究』(共著)『不安と戦争の時代』、ネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』同『グスタフ・クリムト―絵画と素描』などがある。