『エゴン・シーレ』part2 立ち上がる肉体という自然

オーストリア国会議事堂  筆者撮影

また、石畳の起伏に足の指をぶつけた。どうも何年も前にも同じ経験をしたような気がする。ズキンズキン痛い。シュトラッセンバーン(市内電車)を急いで乗り換えようとして普通の歩道の路肩の高さ半分ほどもない石のでっぱりに、僕の足の人差し指がいやというほど衝突したのである。足も人差し指って言うのかな。今年(2017年)の6月と8月に再びウィーンを訪れた。しかし、ウィーンは美しい街だ。第一次大戦まで、ドイツ語、チェコ語、ハンガリー語、スロヴァキア語、イタリア語などの多言語が飛び交うオーストリア=ハンガリー二重帝国としてドイツやフランスに伍するほどの国勢を誇っていたが、戦いに敗れ、あっけなく瓦解して驚くほどの小国となった。そのオーストリアの首都である。だが、この国の人たちの文化に対する矜持と保存への情熱には、驚くべきものがある。この街では向こう三軒両隣の了承を得なければ自分の家を改修することができない。そのような慣習がこの街の景観を保ってきたのである。

カフェ・ツェントラル内の入り口近くに置かれているアルテンベルク像 筆者撮影

それに、フロイト、ホフマンスタール、アルテンベルク、ロースらが通った僕の大好きなカフェのある都でもある。ここで、僕は珈琲のトリコになった。その有名なカフェの一つにカフェ・ツェントラルがある。もし、ウィーンで一ヵ所カフェを訪れるとしたら僕はここをお薦めしたい。そこには文学者のペーター・アルテンベルクの木彫像が入口近くに置かれている。僕が35歳の時、クリムトが学んだウィーンの応用美術大学でアドルフ・フローナー教授のクラスに厄介になっていた時は、何でここにそんなものがあるのかよく分からなかった。住所不定の彼は、このカフェを住所にしていたらしいのである。ところで、今回ウィーンに行ってびっくりしたのはフローナー先生の絵画作品が西駅(ウエストバーンホフ)の地下鉄のコンコースにテラコッタの巨大なレリーフになって設置・展示されていたことだ。これはとても嬉しかった。僕はこの先生に拾われたのだ。それはともかく、せっかくなのでアルテンベルクのコミックな小品の一つ『対話』を池内紀(いけうち おさむ)さん編訳の『ウィーン世紀末文学選』からご紹介しよう。彼が人びとに、どうして愛されたのかがよく分かる作品ではないだろうか。ちなみに、1912年に作曲家のアルバン・ベルクは、彼の詩に曲をつけて『アルテンベルク歌曲集』を作曲している。

彼と彼女がリンデン通りのベンチにすわっている。
彼女 わたくしにキスなさりたいですって?!
彼  ええ、お嬢さん――
彼女 手に――?!
彼  いいえ、お嬢さん。
彼女 唇に――?!
彼  いいえ、お嬢さん。
彼女 まあ、なんていやらしいかた――!
彼  「その服の裾に」と言うつもりでしたのに。
彼女はまっ青になる――
(池内紀訳)

図1 エゴン・シーレ『ヴァリー』1912

最近、シーレの映画『死と乙女』(2016)が上演されているようだ。シーレを演ずる男優さんは、ノア・サーベトラというなかなかハンサムな青年なのだが、実物よりもいい男だと思う。僕はまだ見てないのだけれど、多分ヴァリーという同棲相手とやがて結婚することになるエディットとの絡み合いがストーリーの中心になるんじゃないだろうか。ヴァリー・ノイツェルはグスタフ・クリムトのモデルをしていて、シーレに紹介された。同棲をはじめた当時、彼女は17歳だった。彼が困難を極めていた時期、一つは母の故郷であるチェコのクルマウでいかがわしい絵描きとして住民たちから退去を強制された時、もう一つはノイレンバッハで未成年誘拐の罪に問われた時、彼女は献身的に尽くすのである。留置場の彼に届け物をし、釈放された時には裁判所の入り口に彼を迎えた。シーレは誘拐の罪では不起訴になったが、猥褻物(彼の作品)をモデルにしていた子供たちの前に展示した罪に問われて三日間の禁固刑となった。もっとも、それまでの21日間拘留されていたのだが。友人たちは、子供たちの親にモデルに使う了承を取るようにシーレに注意を促していたという。

図2 エゴン・シーレ『死と乙女』1915
シーレ自身とヴァリ―が描かれている。

批評家でシーレの友人だったアルトゥール・レスラーは、後に彼女とシーレの別れを自らの手稿に劇的に描写している。「エディットがみごとな雄弁さで、賢く、巧妙に、繰り広げる議論にたいして、ヴァリーは論拠のしっかりしとした反論をうまく展開することができず、否応なく心を決して、恋人との共同生活をあきらめることを口にしてしまったのである‥‥。ヴァリーは去った。涙も激情も、感傷もみせず、冷笑も疑いの表情も浮かべずに、ただ哀しげに、人生をもっと知ろうとだけ決意して去っていった――(ネベハイ『エゴン・シーレ』水沢勉訳)」そんな彼女の性格をシーレは一枚の素晴らしい絵にとどめた(図1)。そして、シーレの代表作の一つ『死と乙女』(図2)は、その頃描かれたようだ。彼女は赤十字の看護婦に志願し、1917年、12月に従軍先のバルカン半島のダルマチアの地、シニイにある帝国病院で猩紅熱のために亡くなっている。その9か月後、猛威をふるったスペイン風邪によって身籠ったシーレの妻と彼自身が相次いで亡くなった。この年1918年は2月にクリムト、4月にオットー・ワーグナーが、10月にはモーザーが亡くなっている。オーストリアの美術家にとって恐るべき刈り入れの年であったのだ。同年、ドナウの君主国・オーストリア=ハンガリー帝国は、もろくも崩壊したのである。

図3 エゴン・シーレ『アルベルト・パリス・ギュータースロー』1918

アルベルト・パリス・ギュータースロー(1887-1973/図3)はシーレの友人であった。彼は役者を志していたが、1909年にクリムト・グループによる総合芸術展「クンストシャウ」で画家としてデヴュー、その後パリで画家モーリス・ドニに師事した。ミュンヘンの劇場やウィーンのブルク劇場で舞台美術に携わり、ウィーン分離派の会長やウィーン美術アカデミーの学長を務めた。「ウィーン幻想派」の精神的な父といわれている。その彼が、シーレについてこのように述べている。「しかし、芸術家にはふたつのケースがあることを忘れてはならないだろう。ひとりは素材を生かし、もうひとりは、素材によりながらも別な何かを求める。どちらか一方だけを認めて、他方をけなしてはいけない。ともに愛するのだ‥‥ひとりの人物、一本の線、一つの身振りに宿っている堕落、背徳、卑猥にも、二重の意味のほかに、背後に意味が隠されている以上、記号にも速記にも(このような一種のシンボルやストロークにも/筆者補筆)、それが衝動的に記されたときに、任意の価値を帯びるのである。つまり、いいかえるのなら、憶測をはるかに超えた意味が存在するのだ。読解できると信じているものは、この新しい書物を、いままさに繙くべきだ。芸術家が黙示を告げはじめる。(ネベハイ『エゴン・シーレ』水沢勉訳)」と述べている。

図4 左 ジョルジュ・ミンヌ『跪く少年』
図5 中 エゴン・シーレ『腕を交差させた少女』1910
図6 右 エドヴァルド・ムンク『思春期』1894-95 部分

シーレがベルギーの彫刻家ジョルジュ・ミンヌやノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクの影響を受けたことはpart1に述べた。とりわけ、1910年に妹のゲルトルーデをモデルに描いた『腕を交差させた少女』はミンヌの少年像(図4)がモデルにされていることは知られている。ムンクの作品(図6)との関連も考えられないことはない。だが、シーレの作品(図5)を見て欲しいのだけれど、左腕は肘のところで折れてVの字を作っていて手は右肩まで上がっている。その手は、ほとんど右肩に密着していて、指かどうかも判然としていない。右腕は緩くV字をつくりながら全体が斜めに傾斜しているけれど手の部分は全く見えていない。というか、カットされているように見える。このような細部の省略が何を意味し、どこへ発展していくのかを考えてみることは非常に興味深いことだと思っている。そのことについては、後に述べるつもりである。

エゴン・シーレ(1890-1918) 1918年

ここで、シーレの性格の一端に触れておきたい。彼は生きている間にかなり多くの作品を低価格ではあったが、売却しているとシーレ研究者のネベハイは言う。レオポルト美術館の基礎を形成したルドルフ・レオポルトの作品カタログにはシーレの油彩395点が掲載されているが、シーレが1918年に亡くなった時、アトリエに残されていた作品はわずか29点だった。ウィーンの美術コレクターの保守的な性格からするとこれは驚くべき数だという。この数は、シーレが決して金を貯めておくことができず、いつでも考えなしに使ってしまうこととは別の問題であると言うのである(ネベハイ『エゴン・シーレ』水沢勉訳)。友人であり批評家であったアルトゥール・レスラーは、こんなエピソードを書いている。シーレとヴァリーがヒーツィング(ウィーン13区)のカフェでビリヤードをしていたが、一文無しだという。それで10クローネを渡したが、我がエゴンは私と別れた後でヴァリーと二人で国立劇場に行き、それからレストランに寄って帰った。10クローネから残ったのは市電でアパートまで帰れる小銭だけだったという。(ウィットフォード『エゴン・シーレ』)

レスラーからのかなり手厳しい叱責の手紙(1911年1月4日)への返信としてシーレはこのように書いている。「‥‥ぼくは、永遠の子ども――ぼくは、ほかの人びとのために、自分を犠牲にした。ぼくにあわれみをいだかせた人びと、ぼくのほうは、彼らをみていたが彼らのほうは、ぼくを見ていなかった遠く離れた人びとのために。ぼくは、贈り物を届け、震える空気のゆらめきに視線を投げかけた。ぼくは、彼らのために大またで歩くことのできる道を示した。‥‥ぼくは、永遠の子ども――ぼくは、すぐに金銭を呪い、伝統、民衆の必需品、換金しうるもの、みせかけだけの遺産であるそれらを泣きながら受けとっているあいだに笑う。‥‥ある人々は、いう。金はパンだ。ある人々は、いう。金は生命だ。しかし、誰がいうだろう。金はおまえだ、と。――製品?――財産、豊かさ――ああ ――命ある者たちよ――誰が命あるものなのか。商売ではない。すべての国家は、命あるものをほとんど守らない。自分自身であれ ! 自分自身であれ ! ‥‥芸術家は、表現する人間だ。命あるものは、まれである。買ってくれ! 絵ではなく、製品ではなく、作品ではなく。絵? 絵はぼくなのだ。ぼくのものではなく。ぼくを買ってくれ。(1911年1月6日/遠藤ゆかり訳 ガイユマン『エゴン・シーレ 傷を負ったナルシス』」‥‥全然、反論ありません。おっしゃる通りです。

図8 左 エゴン・シーレ『贖い』1913
図9 右 グスタフ・クリムト
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』1907 部分

シーレは1909年頃、自分才能を認めてくれたクリムトの影響を受けた作品を制作していたが、翌年の1910年には早くも独自なスタイルに変貌していた。二人の作品の違いをどう見るかは色々ご意見もあるのだろうけれど、一言で言えばシーレはフォルムの構成に重点があり、クリムトは意匠とその結合術に力点がある。今年(2017年)のアルベルティ-ナの『シーレ展』では、三つの側面が強調されていたように思う。一つはまるで植物のように即物的に立つ人物像。そして、異次元の形態にメタモルフォーゼするかのような人物像(図8)であり、そして、異種の形態と結合されていく肉体の局部たちのファンタジーをくすぐる人物像(図10)である。それは、ふわふわとした不定形の服などに意表をついて突出する頭であったり、手であったりする。この三つの側面の強調はキュレイターの意図でもあっただろう。僕は西洋のとりわけヨーロッパの人たちが何故あのように肉体に魅せられてきたのか好奇と感嘆の眼差しで眺め続けてきたのだけれど、肉体は彼らの発想の豊かな源泉であって、イメージのマトリックスだったのだと思う。

僕が最も興味をそそられた作品は、クリスティアン・M・ネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』に掲載されているラフスケッチ(図11)の方なのである。ほとんど誰も注意を払わないような作品だと思うのだけれど、これら細部が削ぎ落とされたの作品とイギリスの彫刻家ヘンリー・ムーア(1898-1989)の作品(図12)とを比較してみたいのである。そうするとシーレの作品の現代性というものが際立ち始める。是非、イメージしてみてほしいのだけれど、シーレの作品の表面に見えるエロティシズムの表象を意図的にスルーしてみよう。「素材によりながらも別な何かを求める」というギュータースローの言葉を思いだしてほしい。まるで人体の基本要素だけにしてみる。だからといって、人形のような骨組みではないのである。そこには人体から生まれ出ようとするフォルムが存在している。

それは植物のように生命が空間に入り込もうとする時の力が生む線と力の構造である。肉体という形態によりながら別な何かを求めるとはこのようなものではなかったろうか。それは、伸び、曲がる空間の形の中で自らの「生命」を通して思考する知性である。それは画家自身が、自分の体の中にある形体形成力、つまり生命が形成し、創造的に空間に現われ出ようとする力を眼に見えるものにしようとし、平面上に定着させたものではないだろうか。とはいえ、彼の描くイメージは力強く生命に溢れるものばかりではない。時に、悲痛で暗い。そして軋み、捻じれることさえある。彼の「生命」は「死」とセットになっているからだ。死の中でもがく生命。そう、ギュータースローが言うように、作品には「憶測をはるかに超えた意味が存在する」。ポルノグラフィックな肉体と見えていたものから自然のフォルムの秘密が立ちあがってくる。それが、シーレの作品の持つ現代性なのではないだろうか。

図11 上 エゴン・シーレ ラフスケッチ
クリスティアン・M・ネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』 
図12 下 ヘンリー・ムーア『横たわる像』1951

1915年、シーレはエディットと結婚し、式後四日で徴兵され、プラハに入営した。1916年には北東オーストリアのミューリングの捕虜収容所へ、1917年には前線へ食料などの物資を供給するウィーンの兵站局へ配属となり、1918年には同じくウィーンの帝国軍事博物館勤務となっている。戦争が進展するにつれて安全な場所へ転属するよう配慮されていた。戦争はシーレの制作をあまり妨げることはなく、ドイツやコペンハーゲンなどでの展覧会への出品さえ可能であったらしい。この年、49回分離派展で主要作家として招待され、エディットの肖像である『画家の妻』が3,200クローネという高額で国家に買い上げられた(ウィットフォード『エゴン・シーレ』)。彼には、成功が約束されていたのだ。だが、作風は暗さを増しはじめ、かつての生き生きとした画面の輝きは失われ始める。クリムトを失った1918年の作品は、とりわけくすんで暗い。それは、自らの死への予感のなせる業(わざ)でもあったのかもしれない。

戦争のはじまった年、シーレは妹のゲルトルーデに(愛称ゲルティ)に宛て、このように書いている。「ゲルティ ぼくらは世界がかつて見たいちばん暴力的な世界に生きているんだ。――ぼくらは、ありとあらゆる不自由に慣れてしまった――何十万という人間が哀れにも破滅して行く――誰もが自分の運命を、生きながらあるいは死につつ耐えなければならない――ぼくらは、残酷になり恐怖を失っている。一九一四年以前のことは別世界のことなんだ、――ぼくらは、だから常に未来に目を向けるのだ、――希望のない人間は、死んで行く人間の仲間だ、――ぼくらは、生命のもたらす全てのことに耐える用意がなければならない。嵐のあとに、太陽が輝くように、ぼくらもまた太陽を体験するだろう。この幸福をぼくは、おまえの兄として望んでいる。1914年11月23日(『エゴン・シーレ 手紙と日記』大久保寛二編訳)」

図13 エゴン・シーレ『死んだ町Ⅲ』1911

今回は、シーレのもう一つの重要な作品群である風景作品(図13)には触れなかった。それらも素晴らしい作品なのだが、彼が描いた街の風景は後にやはりウィーンの作家であるフンデルトヴァッサーに大きな影響を与えるようになることだけをお伝えしておこう。シーレと同様に夭逝し、ほぼ同時代を生きたザルツブルクの詩人ゲオルク・トラクル(1887-1914)は、ウィーンを愚かで低俗な人間の住む「呪われた町」とあげつらったが、自らの詩の中で人間の肉体をこのように描写している。「‥‥人間は美しい それが暗闇の中に現われて、驚いて腕や脚を動かし、そして深紅色の眼窩の中で静かに両眼が動くときなど。(瀧田夏樹 訳)」

 

 

 

『エゴン・シーレ』関係書籍

・クリスティアン・M・ネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』。クリムトやシーレの研究の第一人者である。1909年ウィーンの骨董商・画廊を経営したグスターフ・ネベハイの息子としてライプツィヒに生まれた。8歳の時にウィーンの父母のもとでクリムトに出会っている。父の店を継いで後、1947年に自身の「ネベハイ古美術商」を開いてクリムトやシーレの研究に没頭することになる。彼らの基礎資料収集と編集に生涯を費やした。1968年のアルベルティ-ナにおける「クリムト大回顧展」で画家の資料部門を担当している。ウィーンの地理と文化を紹介した『ウィーン音楽地図』シリーズ(音楽の友社)でお馴染みの方もおられるのではないだろうか。

・アレッサンドラ・コミーニの『エゴン・シーレ』。アメリカの美術史家で、コロンビア大学で博士号を取得。各地の大学で教えた後、南部メゾシスト大学で美術史主任教授となった。著書に『エゴン・シーレの肖像』は国民図書賞などに輝いている。

・ジャン=ルイ・ガイユマンの『エゴン・シーレ――傷を負ったナルシス』。フランスの美術史家で、ソルボンヌ大学で教鞭を執った。いくつかの美術雑誌を創刊している。著作に『ダリ』などがある。

・フランク・ウィットフォードの『エゴン・シーレ』。1941年生まれ。オックスフォード大学やベルリン自由大学などで学んだ後、ケンブリッジ大学などで教鞭 を執った。日本の版画と西洋との関係を書いた著作などもあるようだ。

・水沢勉の『エゴン・シーレ』1952年横浜に生まれる。慶応義塾大学大学院修了後、神奈川県立近代美術館に学芸員として勤務。主な著訳書に『この終わりのときにも』『グレン・グールド大研究』(共著)『不安と戦争の時代』(編著)、翻訳にネベハイの『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』同『グスタフ・クリムト―絵画と素描』などがある。