ゲオルク・トラークル『トラークル詩集』part1 響と色

夕暮になると、森では
郭公(かっこう)の嘆きが沈黙する。
深々と頭をたれる小麦、
赤い罌粟(けし)の花。

黒い嵐が丘の
うえにわだかまっている。
蟋蟀(こおろぎ)の古びた歌が
野原で死に絶える。

身じろごうともしない
栗の木の葉。
廻り階段のうえで
おまえの衣ずれの音がする。

ほの暗い部屋には
静かに蝋燭がともっている。
銀色の手が
それを吹き消した。

風も絶えた、星のない夜。

(吉村博次 訳)

Sommer

Am Abend schweigt die Klage
Des Kuckucks im Wald.
Tiefer neigt sich das Korn,
Der rote Mohn.

Schwarzes Gewitter droht
Über dem Hügel.
Das alte Lied der Grille
Erstirbt im Feld.

Nimmer regt sich das Laub
Der Kastanie.
Auf der Wendeltreppe
Rauscht dein Kleid.

Stille leuchtet die Kerze
Im dunklen Zimmer;
Eine silberne Hand
Löschte sie aus;

Windstille, sternlose Nacht.

オーストリア=ハンガリー帝国時代のプラハに生まれたライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、ザルツブルクに生まれ、かつては同じ国に属していた詩人であるゲオルク・トラークルの作品を読み、親交のあった『ブレンナー』誌の編集者であったルートヴィヒ・フォン・フィッカー(1880-1967)に宛て、その感想をこう手紙に託した。「‥‥そうこうするうちに、『夢のなかのセバスチアン』を入手し、たくさん読みました。感動し、驚き、予感し、そして、途方にくれながら。と言いますのは、これはすぐわかってくることですが、ひびきの始まり方と消え方を成立させているものは、二度とない唯一無比のもので、ちょうど、一つの夢を生み出す状態のようだからです。彼の近くにいる者でさえ、いつまで経っても自分は局外者となって、ガラスに顔を押しつけるようにして、それらの詩の眺めや洞察を経験することになると思われます。と、言いますのは、トラークルの体験はちょうど鏡像の中で行われ、その体験が彼の空間の全体をみたしていて、その空間へは、鏡のなかの空間のように入り込めないからです。彼は何者だったのでしょう(加藤泰義訳『ハイデガーとトラークル』)。」ここには大きな感動とともに当惑する偉大な詩人の姿があった。この27歳で早世したトラークルとはいったい何者だったのだろうか。そして、トラークルの「夢を生み出すようなひびき」とは何だったのだろうか。

『トラークル全集』中村朝子 訳

ゲオルク・トラークルは1887年、オーストリア=ハンガリー帝国の古都ザルツブルクで生まれた。モーツアルトの生地として有名な街だ。彼は、ウィーンで活躍した画家のシーレより3歳年上になる。二人とも27,8歳でこの世を去ることになるのだが、トラークルもウィーンに薬学の勉強に来ていた。だが、同じ時代を生きたこの二人に接触はなかったようだ。興味深いことだが、同時代の画家であるオスカー・ココシュカ(1886-1980とは交友があったのである。中村朝子さん翻訳の『トラークル全集』から彼の生い立ちを追ってみよう。

オーストリアは、彼の生まれた20年前にハンガリーと二重君主体制に移行しており、表面的には尚、黄金時代を謳歌しているように見えたが、崩壊と没落の足音は日増しに高まっていた。ザルツブルクは古くから塩の産地として、あるいは交通の要所として栄え、カトリック文化の中心地として多くの教会や修道院が立ち並ぶ、いわば後ろ向きの華麗さを誇っていたという。父は手広く鉄鋼商を営む商人で、広い庭のある大きな邸宅に住み、何人もの使用人を使っていた。その四番目の子(腹違いの兄も含めると五番目)として生まれたのである。母は、高価な古美術の収集に熱狂する打ち解けない温かみに欠けた女性であったという。ただ、彼女は、音楽が好きで子供たちは皆ピアノを習ったが、とりわけトラークルと妹のマルガレーテは音楽的に優れた才能を持ち、妹は後にピアニストになった。この妹マルガレーテとの絆は強く、近親相姦を疑う人もいる。シーレとその妹のゲルトルーデの場合もそうだけど、確たる証拠があるわけではない。

トラークル兄弟・姉妹
左から四番目がトラークル、弟を挟んで右端がマルガレーテ。

トラークル兄弟姉妹を実質的に育てたのはアルザス出身の保母兼家庭教師となったフランス人女性で、トラークルはギムナジウム(中高一貫校)に入る前に既にボードレールの『悪の華』などを原典で読んでいたと言われる。ギムナジウムでは文学を愛好する友人たちと文学サークルをつくり、ランボー、ヴェルレーヌ、ボードレールらフランス象徴派の詩人たちや、同じくオーストリアの象徴派の詩人ホーフマンスタールなどの影響下にあった。象徴主義については『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画で述べておいた。それにノヴァーリス、ニーチェやドストエフスキーといった人たちにも心酔した。象徴主義デカダンスに感染したのだろうか、すでにこの頃から煙草、酒、クロロホルムといった麻酔剤に手をつけ始めたと言われる。第四学年、第七学年と落第し、ついに退学となるのである。

彼は、後年『夢と狂気』という文章の中でこのように述べている。「‥‥青い鏡の中から妹のほっそりした姿が歩み出、彼は死んだように闇に落ちていった。夜毎 彼の口は赤い果実のように割れ そのもの言わぬ悲しみの上で星たちが輝いていた。彼の夢想はこの古い父祖たちの家を満たした。‥‥誰も彼を愛さなかった。彼の頭は暮れてくる部屋べやで嘘と淫らとを燃やした。女ものの衣装の青い衣ずれが彼を柱のようにこわばらせ するとドアの所に母の夜の姿が立っていた。彼の枕元には悪の影が浮かんでいた。おお 君たち夜よ 星よ。‥‥(瀧田夏樹編訳 『トラークル詩集』)」ここで眼を惹くものは、鏡と夢と罪悪感と星である。

『トラークル詩集』吉村博次訳 彌生書房
吉村博次さんは、1919年のお生まれで、東京大学文学部で学ばれ、同志社大学で教鞭を執られた。同大学の名誉教授であられる。ドイツ文学、とりわけリルケやトラークルの研究で知られる。

僕が、トラクルに興味を持ち始めたのは、比較的最近のことで、2014年に細川俊夫さんの作曲した『星のない夜――四季へのレクイエム』で、その詩が使われていたのを広島の演奏会で聴くことができ、それからのことだった。この曲では『冬に』『春に』冒頭で紹介した『夏』そして『浄められた秋』が使われていたように記憶している。その良さを自覚し始めたのは吉村博次(よしむら ひろつぐ)さん翻訳の『トラクル詩集』を覗いてからだ。何人かの翻訳者の訳で読んだけれど、この人の訳が僕には一番ぴったりする。リルケやドイツ表現主義の研究で知られる人だ。

ところで、マルティン・ハイデッガーが最も愛した詩人は、フリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)、ライナー・マリア・リルケ(1875-1926)とこのトラークルだったといわれている。既にトラークルの詩集が刊行される以前、学生時代にフィッカーの主催する『ブレンナー』誌で彼の詩に触れ、自らの学位取得の記念に彼の『詩集』を買い求めたという。ちなみにハイデッガーが生まれたのは、トラークルが生まれた2年後だった。加藤泰義さんの『ハイデガーとトラクール』によれば、彼のトラークル理解のキーワードは「静けさのひびき」と「没落」であるが、そのことについてはpart2で述べたいと思っている。

薬剤師としての資格を得たトラークルは、ザルツブルクの薬局「白い天使」で1905年から三年間の実習を務める。この薬局は「天使薬局(Engel Apotheke)」という名で現在でもザルツブルクにあるらしい。その間に二つの戯曲を書いていて、最初のものは好評で一幕ものとして上演されたが、二作目はひどく不評で彼を失望させたようだ。この頃、手紙にこう書いている。「‥‥残念ながら、ぼくは又クロロホルムに逃げてしまった。その効果はすさまじかった。その後八日間――ぼくの神経はこわれてしまった。けれどもこうした薬で自分を鎮める誘惑にぼくは抵抗する。ぼくには破滅がもう間近にみえているのだから‥‥(中村朝子訳)」このように罪悪感に苛まれながらも、モルヒネやヴェロナール(睡眠薬バルビタール)といった薬物にも手をだすようになる。それらは中毒症状の経過は異なるものの眠りをもたらすということは注意しておいてよいと思う。場合によっては死も。1908年に最初の詩『朝の歌』が書かれ「ザルツブルク国民新聞」に掲載された。この年、ウィーン大学で薬学を専攻するようになる。この地でランボーのドイツ語訳と出会うことになるのである。

『母音』    アルチュール・ランボー

A(ァ-)は黒、E(ゥ-)は白、I(ィ-)は赤、U(ュ-)は緑、O(ォ-)は青、母音たちよ、おれはいつかおまえたちのひそやかな誕生を語ろう。
A(ァ-)無残な悪臭のまわりを唸り飛ぶ、
きらめき光る蠅どもの毛むくじゃらの黒いコルセット。

かげった入江。E(ゥ-)、靄(もや)と天幕の白々とした無垢、
誇らかな氷河の槍、白い王たち、繖形花(さんけいか)のおののき。
I(ィ-)、緋の色、吐かれた血、怒りにくるった、
あるいは悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い。

U(ュ-)循環期、緑の海の神々しいゆらぎ、
家畜の散らばる放牧場の平和、学究の
広い額に錬金の術が刻む小皺の平和。

O(ォ-)、甲高い奇怪な響きにみちた至高の喇叭
諸世界と天使たちがよぎる沈黙
――おおオメガ、あの人の眼の紫の光線 !
(粟津則雄 訳)

トラークルの詩にはよく色が登場する。それも赤や黄色などの強い原色も多い。例えば『小協奏曲』という5連の詩のそれぞれの冒頭には「夢のようにおまえをゆすぶる、ひとつの赤――おまえの両手をすかして太陽が輝く。」「真昼どき、黄色い畑が流れてゆく。」「緑の沼で腐敗が燃えている。」「ダイダロスの霊が青い影となって漂い、乳の匂いは楱(はしばみ)の木の枝のなかに。」「気味悪い壁掛けのそばの壺のなかではひときわ冷たい菫色が花咲いている。」といった詩文がある。色彩が詩を先導していくのだ。

色彩の叛乱とでも言うべきものは、同じランボーの『酔いどれ船』だろう。「‥緑の水が、樫材のおれの身体にしみわたり‥」「そのとき以来このおれは、星の光を注がれて、/ 乳色に染み、緑の空を貪り喰らう‥」「またそこでは金紅に輝く太陽に組みしかれ、/ われを忘れて騒ぎ立ちまたゆるやかに身をゆする / 青海原を、ただ一息に染めあげる、アルコールより強く、/ 竪琴の音より遠くひろがる愛欲の苦い赤みが醸される !」「おれは夢みた、目くるめく雪の吹き舞う緑の夜、/ ゆるやかに海の眼へのぼる口づけ、/ めぐり流れる未聞の精気を、/ 歌うたう燐光が、黄に青に目覚めるのを !」いかがお感じになるだろうか。トラークルは、このランボーの色使いに影響されたのではないか。ただ、彼の詩はそれでもなお「静けさ」を保っている。けっしてランボーの色のようには、はしゃがないのである。それにしても「愛欲の赤い苦み」とは印象的な言葉だ。

ここで、詩人のパウル・ツェランに繋がる色の話をご紹介しよう。日名淳裕(ひな あつひろ)さんの論文『フィッカー、ツェラン、ハイデガー ―― オーストリア戦後抒情詩の展開とトラークル像の変遷』という論文からトラークルの色についてである。ツェランに関しては、関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇でご紹介しておいたのでここでは多くを述べない。詩人のパウル・ツェランは第二次大戦が終わってルーマニアの強制労働収容所から解放されるとウィーンを経てパリに向かうのだが、その途中、インスブルックを訪れた。トラークルの墓を訪れ、彼を世に出したフィッカーに挨拶するためだった。ツェランは、深くトラークルの詩を研究していた。後に詩人マリー・ルイーズ・カシュニッツによって「あのトラークルが称えられるところの、表現できないことを表現する技量」の唯一の後継者としてツェランは名指しされることになる(日名淳裕 論文『繰り返しと言葉の音楽化』) 。ここからは、最初にご紹介した日名さんの論文からトラークルの色彩の秘密の一端を垣間見たい。まず、トラークルの詩をお読みください。

錯乱

屋根からしたたる黒い雪
赤い指が お前の額の中に沈み込み
冷たい部屋に 青い根雪が沈む、
それは 恋する者たちの息絶えた鏡だ。
重い破片となって頭は砕け そして想う、
青い根雪の鏡に映る影たちを、
死んだ娼婦の冷たい微笑みを。
撫子の香の中で 夕べの風が啜り泣く。
(中村朝子 訳)

Delirium

Der schwarze Schnee, der von den Dächern rinnt;
Ein roter Finger taucht in deine Stirne
Ins kahle Zimmer sinken blaue Firne,
Die Liebender erstorbene Spiegel sind.
In schwere Stücke bricht das Haupt und sinnt
Den Schatten nach im Spiegel blauer Firne,
Dem kalten Lächeln einer toten Dirne.
In Nelkendüften weint der Abendwind.

トラークルの色彩は、あらゆる分類や意味を拒む「秘密コードと秘密言語」であるという研究者ル・リダーの言葉を引用し、それは色彩語の属する文脈によって玉虫のように変化すると日名さんは言う。そして、それらの語の詩に対する超越的な価値を保証するもはトラークルの詩のもつ「音性」であるというのである。この一行目の「黒い雪」という言葉は直ちにツェランの有名な「黒いミルク」を連想させる。初稿では「黒い汚物」とされていたものが書きなおされる。それは意味によってではなく音楽的な理由からだというのだ。この詩の音楽性は、一行目 schwarze Schnee 黒い雪、二行目Stirne 額、四行目erstorbene Spiegel 息絶えた鏡、五行目schwere Stücke 重い破片、六行目Schatten 影とSpiegel 鏡といった一連の子音の連続性にある。黒い雪はこの音楽性をより緊密にするための推敲の結果であり、これは彼の色彩の使用についての広く有効な解釈だというのである。これは詩における言葉の語義はどうでもよいということを意味しない。ツェランの「黒いミルク」が収容所での記憶と結びつけられているのと同様である。ともあれ、リルケのいう「二度とない唯一無比のひびきのはじまり方と消え方」とは、このような詩の音楽的な要素が関連しているということがおぼろげながら分かってくる。それは、言葉の中のいくつかの音が重なり合って鳴り響く調和とその集中や凝縮に由来するのである。音と詩についてはロマン・ヤコブソンをご覧くださるとよい。

ついでに言っておくと、この時、フィッカーはツェランを評してエルゼ・ラスカー=シューラ―の遺産を受け継ぐ資格があると述べたという。ラスカー=シューラ―はユダヤ人でナチスドイツを逃れてイスラエルで没した詩人で、トラークルとも親交があった。表現主義の雑誌『シュトルム』をヘルヴァルト・ヴァルデンが創刊した時には、その夫人であった人だ。だが、フィッカーはトラークルの遺産を受け継ぐ資格があるとは言わなかったのである。ツェランは半ば喜び、半ば落胆したという。日名さんは、フィッカーがユダヤ問題でハイデッガーとの関係を壊したくなかったのだろうと推測しているようだ。結局ツェランの詩は『ブレンナー』誌に取り上げられることはなかった。

オスカー・ココシュカ(1886-1980)『嵐の花嫁』 1913

1910年(23歳ウィーンで薬学の修士号を取った直後、父親が亡くなる。家業は母親と義兄によって引き継がれるが、次第に衰退し没落していった。ウィーンでピアノの学んでいた妹もベルリンに移っていく。その後、一年間の兵役を終え、ザルツブルク、ウィーン、インスブルックを転々としながら職を求めた。1912年、軍薬剤士官補となったが、すぐに予備役となり、自滅的な就職活動が続く。この年、最も重要な出会いが訪れた。それは、風刺的な時代批判で一世を風靡した文学者カール・クラウスと表現主義雑誌である『ブレンナー』誌の編集者ルートヴィヒ・フォン・フィッカー(1880-1967)との出会いであった。クラウスは、後に第一次大戦を徹底的に批判した風刺劇『人類最後の日々』を書いた。700人にものぼる登場人物の大半が実在し、それらに関するエピソードをほぼオーストリアを中心に、再現したものであるという。

翌1913年(26歳)、2月にはザルツブルクにいて友人のカール・ボロメウス・ハインリッヒ宛てに、「変化する奇妙な戦慄、それは肉体的に耐えがたいほどに感じられ、暗黒のいくつもの幻覚に、もはや死んでしまっているかのような気すらします。そして、恍惚状態が高まれば、石のような硬直状態に陥るのです。そして、さらに悲しい夢を見つづけています。(中村朝子 訳)」と書いている。翌3月には睡眠薬ヴェロナールの中毒で入院していて、精神状態はかなり下降していた。この頃、ミュンヘンのランゲン社からの出版の話が、結局実現せず、彼をひどく落胆させたのである。だが、4月初旬頃には、第一詩集であるその名も『詩集』が、ライプチッヒのクルト・ヴォルフ社から出版されることが決まった。カール・クラウスの口添えがあったといわれている。この年、ウィーンで建築家のアドルフ・ロース、ペーター・アルテンベルク、そして、シーレと並ぶ表現主義の画家であるオスカー・ココシュカらとの親交をいっそう深めている。ココシュカが、マーラーの未亡人であるアルマと自身をモデルにした『嵐の花嫁』を描いている頃には、そのアトリエを毎日のように訪れたという。

6月には、敬愛するフィッカー宛てにこのように書いている。「あなた方の善良さにぼくは全く値しません。あまりにもわずかしかない愛情、あまりにわずかしかない公正さ、同情心、そして、そう、常にあまりにわずかな愛情、それに反して、あまりに多くの非情さ、高慢、そして様々な犯罪性――それが僕なのです。確かにぼくは、ただ弱さと臆病からだけ悪いことを犯さずにいるのです。それによってぼくの悪意は、さらに恥ずかしいものとなっているのです。ぼくは魂が憂鬱によって毒された、この呪われた身体にこれ以上宿ろうとしない、いや宿れない、そういう日々がやって来ることを、魂が、この神のいない呪われた世紀のあまりに忠実な写しでしかない、汚物と腐敗から形づくられた嘲りの姿を離れる、そういう日がやって来ることを切望しています。神よ、純粋な喜びのただひとかけらのきらめきを――そうすれば救われるのに、愛を――そうすれば解き放たれるのに。(中村朝子 訳)」

そして第一次大戦がはじまった。まるでトラークルのすべてがこの1914年に突進していくようだった。破滅へと。それはオーストリア=ハンガリー帝国の没落の端緒でもあった。

 

 

日名淳裕(ひな あつひろ)さんは、早稲田大学をご卒業後、東京大学大学院で博士課程を単位取得退学され、その後ウィーン大学で文学博士号を取られた。東京大学や東京首都大学、成城大学で教鞭を執られているようである。

今回は、紹介しなかったけれど、トラークルの詩の音楽性を扱った他の論文として中村朝子(なかむら  あさこ)さんの『トラークルにおける音楽性の変遷 Liedと題された作品を中心に』がある。URL はこちらです。http://digital-archives.sophia.ac.jp/repository/view/repository/00000003225 中村さんは『トラークル全集』(青土社)の訳者だが、上智大学で学ばれ、現在は上智大学で教鞭を執っておられるようだ。1992年に『パウル・ツェラン全詩集』で日本翻訳文化賞を受賞されている。

他のトラークル関連書籍

『トラークル詩集』瀧田夏樹訳
瀧田さんは1931年台北のお生まれで、東京大学大学院を修了され、東洋大学で教鞭を執られたようだ。著書に『ドイツ表現主義の詩人たち』などがある。

加藤泰義
『ハイデガーとトラークル』
1927年生まれ。学習院大学を卒業後、同大学で教鞭を執られた。著書に『西欧悲歌―現代ヨーロッパ思想の一方向』『リルケとハイデガー』などがある。