『フリードリヒ・ヘルダーリン』 part1 ヘルダーリンの円周

フリードリヒ・ヘルダーリン
(1768-1843)1792
フランツ・カール・ヒーメル画

「<ゲーテ>がヘルダーリンにどう向き合ったか、何故にゲーテがあれほど好意的でない扱いをしたのか、その理由を彼女が知っているかどうか、私は尋ねました。それに対して彼女は手短に答えました。‥‥『ゲーテは彼に、詩的に優る精神に耐えることが出来ず、それ故にあの方(ヘルダーリン)を突き放したのです。』(高木昌史『ヘルダーリンと現代』)」
『ヘルダーリン詩集』を編集したグスタフ・シュワ―プ(1792-1850)の息子クリストフ・テオドーア・シュワープが、詩人クレメンス・ブレンターノの妹でゲーテの母と親しかったベッティーナ・フォン・アルニム(1785-1859)へ質問し、その結果得た答えである。彼は、史上初めて『ヘルダーリン全集』を刊行することになる。

ヘルダーリン(1770-1843)は、シラーの推薦でカルプ家の家庭教師をしていたが、1794年11月にイェーナにシラーを訪ねて、そこで初めてゲーテに会った。この時、彼は憧れのシラーに再会したことで舞い上がってしまったのか、ゲーテを紹介されてもその名が聞きとれておらず、この出会いが誰とだったのかついに認識できていなかったようだ(手塚富雄著作集1「ヘルダーリン上」)。迂闊な自らの失態を笑っている。24歳の時であった。その二年後には、フランクフルトのゴンタルト家の家庭教師になり、その夫人ズゼッテと恋愛関係となる。ヘルダーリンの不滅の恋人「ディオティーマ」となったのである。ディオティーマは、プラトンの『饗宴』の中でソクラテスに愛の本質を教えた巫女である。ヘルダーリンは翌年、シラーに『エーテルに寄す』と『さすらい人』などの三篇の詩、そして書簡体小説『ヒュペーリオン』第一巻を送り、シラーはそのうちの二篇の詩をゲーテに送って感想を求めた。ゲーテは詩人としての素養はあると言いたいけれど、それだけでは詩人とは言えない。素朴な牧歌的な事件を選んで書いてみれば人間描写の巧拙が分かる。そこが一番大切なところだろうと答えたという。それぞれの詩を掲載するのに適した書誌を指摘している。ここには若い詩人に対する配慮があった。シラーは、彼の詩のなかに自分のかつての姿を見るようだと返信した。その激しい主観性が、哲学的精神と瞑想とに結びついていて、この状態は危険だと危惧するのであった。

エーテルに寄す

変らぬ心で親しく、おお、父なるエーテルよ! 神々と人間の中の誰も、
あなたのように私を育ててくれた者はいなかった。母がその腕に
私を抱き、その胸から乳を飲ませてくれる前に、
あなたは優しく私を捉え、天上の飲み物、聖なる息吹を
成長していく私の胸の中へ最初に注ぎ込んでくれた。‥‥
(高木昌史訳)

An den Aether

Treu und freundlich, wie du, erzog der Götter und Menschen
Keiner, o Vater Aether! mich auf; noch ehe die Mutter
In die Arme mich nahm und ihre Brüste mich tränkten,
Faßtest du zärtlich mich an und gossest himmlischen Trank mir,
Mir den heiligen Othem zuerst in den keimenden Busen.

‥‥

高木昌史『ヘルダーリンと現代』

フリードリヒ・ヘルダーリンは、ハイデッガーやトラークル、リルケやベンヤミンが愛した詩人、あるいはドイツ表現主義の詩人たちの偶像と言うにとどまらない。今回の『フリードリヒ・ヘルダーリン』part1では、彼の作品の影響範囲がどのような壮大な円周を持ち得たかをヘルマン・ヘッセのエッセイと高木昌史(たかぎ まさふみ)さんの著作『ヘルダーリンと現代』などから追跡してみたいと思っている。したがって、その作品を巡る作家や哲学者たち、ヘルマン・ヘッセ、シュテファン・ゲオルゲ、ノルベルト・フォン・ヘリングラート、フリードリヒ・ニーチェ、ロマン・ヤコブソン、ミシェル・フーコーの言説をご紹介することになる。part2では、マルティン・ハイデッガーの著作『ヘルダーリンの詩作の解明』などをご紹介する予定である。高木さんは、東京都立大学、千葉大学でドイツ語・ドイツ文学を学ばれ、国学院大学、成城大学、立教大学などで教鞭を執られたようだ。成城大学名誉教授であられる。『グリム童話を読む事典』『柳田國男とヨーロッパ 口承文芸の東西』『グリム童話と日本の昔話 比較民話の世界』などの著作がある。

 

ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)1926

ヘルマン・ヘッセ

ヘルマン・ヘッセは、『ヘルダーリン その生の記録』の中でこのように述べている。シラーを崇拝する弟子であるヘルダーリンは、師と同じく『情感的』な人間だった。彼は、自らの中で精神化の実例を追い求め、その試みに失敗したのである。彼の文学を考察すると、まさに、このシラー的な精神が、どれほど彼にとって高貴に見えようとも、結局のところ彼の本質にとって押しつけられたものであることが分かる。というのも私たちがこの壮麗な文学作品において最高に評価しているのは、その思想「内容」でも、その意識的な名人芸でもない。全く類のない、シラーという模範によって押しつぶされそうになった、「音楽とリズムと音響の秘密という底層流」なのである。「この謎めいて創造的な驚くべき底層流は下意識に住みついて、ヘルダーリンのとても多くの詩において、まさに涵養された彼の詩人の理想と戦っているのであり、この隠れた想像力を委縮させたことで、彼は破滅したのである(『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集7』日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 訳)」というのである。ここには、トラークル作品の音楽性の源流としてのヘルダーリンがいる。

シュテファン・ゲオルゲ

20世紀の初頭ヘルダーリンは歴史の表舞台に突如として登壇する。その契機を作ったのは若き日にパリなどを巡ってマラルメやヴェルレーヌなどと交友したドイツの象徴主義の詩人ゲオルゲだった。彼とそのグループであるゲオルゲ派こそ、その立役者たちだったのである。1963年、テオドール・アドルノは「感動的な人生を送ったが物静かで繊細な脇役詩人、というヘルダーリン像をゲオルゲ派が打破して以来、この詩人の名声も彼についての理解も疑いなく飛躍的に増してきた」と述べた。1902年に『芸術草紙』を創刊したゲオルゲは、1919年のその最終巻にヘルダーリンへの「賛辞」を発表した。

「‥‥ディオニソスとオルフェウスは、未だ生き埋めにされていた、彼(ヘルダーリン)だけが発見者であった。彼は外的な示唆を必要としなかった。彼には内的な眼が役に立った。彼は稲妻のように天を打ち破って、われわれにヘラクレス=キリストのような心揺さぶるもう片方の像を示した。‥‥彼の苦痛に満ちた引き裂かれた在り方が、新しい道徳の模範になるというのではない。‥‥謎めいて破裂した彼の音節が、熱心な詩の学徒の模範になるというのではない。‥‥何故なら、より高次のことが問題なのだから。打開と集中によって、彼は言葉を若返らせる者、同時に魂を若返らせる者である。‥‥一義的には分析され得ない予言によって、近づくドイツの未来の礎石となり、新しい神を呼ぶ者なのだ。」高木昌史さんは『ヘルダーリンと現代』の中で、この賛辞を読むとゲオルゲ自身の詩人としての宣言を聞くようで、一種異様な熱気を感じると述べている。彼にとって「祖国と時代」に関わる詩を多く残したヘルダーリンは「偉大な預言者」であった。ゲオルゲは、時代批判に創作の重点を置きつつあったのである。その時代は、まさにドイツ表現主義の時代背景と一致している。

ノルベルト・フォン・ヘリングラート

「『最も偉大な』二律背反詩人ゲーテ、最も偉大な『ドイツ』詩人ヘルダーリン。」「実際、何故にヘルダーリンの狂気は人の心を捉える力を持っているのだろうか? その理由は、問いが解決されるからではなく、謎が魅了するからなのだ。全体的な構成ではなく、予感される深みが心を捉え魅惑するのである。それ故、語られれば語られるほど、それだけ一層、この技法においては、謎めいた語りになるに違いない(高木昌史訳)。」ノルベルト・フォン・ヘリングラートは自身の「オファリズム集」にこのように書いた。

1908年、20歳の時、シュトゥットガルト図書館でそれまで公開されていなかったヘルダーリンのピンダロスの翻訳を彼は発見する。2年後、学位論文にまとめ、「歴史-批判版」『ヘルダーリン全集』刊行を計画する。1913年、第五巻『翻訳と書簡』を刊行し、その中に収録された「ピンダロス翻訳」は、はじめて世に知られることとなる。翌年、第四巻『詩集1800-1806』を刊行した。この快挙によってヘルダーリン文学は一挙に注目を浴びるようになる。

ドイツの思想家・文芸評論家であるヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、友人のショーレムに「ヘルダーリン著作集第四巻が到着した時のぼくの喜びは、きみには想像がつくまいと思えるほどのものだった。それをぼくは待ちに待ってたのだからね。その日終日、ほとんど何も手につかなかった(野村修訳)」と手紙に書いている。
詩人のライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、1914年、ヘリングラートに宛てて「確かに昨日、最高の喜びの中で、私は直ちに読み始めました。これらの詩の本質が私にいかに影響を及ぼし、筆舌に尽くし難いほどくっきりと私の眼の前に存在しているかを、私は語ることもできません。‥‥(高木昌史訳)」と述べている。

ヘリングラートは、絶頂期(1800-1806)のヘルダーリンの作品を『パトモス』(1803)以前と以後とに分け、その後半、彼が テュービンゲンの塔に入る前までの時期の作品をバロック的と名づける。そこに、その過剰さや歪みばかりでなく、それを越えた「沈黙」の境地を見る。高木昌史さんは、ツェランらの現代詩人が彼に惹かれる理由もそこにあるという。だが、この俊英は28歳の若さで惜しくも戦死してしまうのである。

フリードリヒ・ニーチェ

「行け! 何も心配はいらない! いっさいは回帰するのだ。そして、おこるべきことは、すでに成就しているのだ。(ヘルダーリン全集3『エムペドクレスの死』浅井真男訳)」この言葉の訳注には、ニーチェの永劫回帰思想の萌芽だと書かれている。

ギムナジウム(中高一貫校)時代の作文の中で当時15歳のニーチェは、この愛する詩人の詩を読むように薦めるとして以下のように書いた。恐るべき早熟さである。

「‥‥僕には少なくとも、引き裂かれてしまった心情のこうした不明瞭で半分狂気じみた音の響は悲しく、時には反感を抱かせる印象しか与えない。不明瞭な無駄話、時には狂人の思想、ドイツに対する激しい怒りの爆発、異教世界の神格化、ある時は自然主義、ある時は汎神論、またある時は多神教が錯綜する――こうしたすべてが彼の詩には刻印されている、もちろん成功したギリシア風の韻律ではあるけれど」と友人の手紙を引用する形式をとり、君が混乱とか不明確とか見做しているように見えるヘルダーリン思想の豊かさについて、僕になお二言三言付け加えさせてくれと続ける。君の批難は詩人の狂気の時代の幾つかの詩に実際当て嵌るし、それ以前の詩においても、時には深遠な意味が、始まりつつある狂気の夜と闘ってはいる。それにも拘わらず、夜の時代の相当数の詩は、僕たちの文芸全体のなかでも純粋で高価な真珠である。と述べて数篇の詩を挙げ、特に『夕べの幻想』の終盤の三節を引用する。それは最も深い憂鬱と安らぎへの憧憬が表現されているというのである(高木昌史『ヘルダーリンと現代』)。ニーチェはヘルダーリンが没した1844年にザクセンに牧師の子として生まれた。彼とヘルダーリンには、ギリシア神話の神ディオニソスと古代ギリシアの哲学者エムペドクレスに没入したという極めて深い共通項がある。だが、ニーチェが直接ヘルダーリンに言及することは稀であったという。

『夕べの幻想』

‥‥

夕べの空にひとつの春が花開く。
数知れず花咲く薔薇、そして安らかに輝く
金色の世界。おお、そこへ僕を受け入れてくれ、
深紅の雲よ! そしてあの高みで

光と大気の中で、僕の愛と悩みが溶け去ってくれるなら――
しかし、愚かな願いに追い払われたかのように、魔法は
逃げて行く。暗くなり、そして空の下に
僕は一人きりだ、いつものように。

さあ、来たれ、優しいまどろみよ! 余りに多くを
心は渇望する、しかし最後には、青春よ、お前は次第に消えて行く!
安らぎのない、夢がちな、お前は!
(高木昌史訳)

Abendphantasie

‥‥
Am Abendhimmel blühet ein Frühling auf;
Unzählig blühn die Rosen und ruhig scheint
Die goldne Welt; o dorthin nimmt mich,
Purpurne Wolken! und möge droben

In Licht und Luft zerrinnen mir Lieb und Leid! –
Doch, wie verscheucht von töriger Bitte, flieht
Der Zauber; dunkel wirds und einsam
Unter dem Himmel, wie immer, bin ich –

Komm du nun, sanfter Schlummer! zu viel begehrt
Das Herz; doch endlich, Jugend! verglühst du ja,
Du ruhelose, träumerische!

 

ロマン・ヤコブソン

ロシア生まれの高名な言語学者ロマン・ヤコブソンは、幾種類もの言語の詩を分析していて、人類学者のレヴィ=ストロースとともに行ったシャルル・ボードレールの『猫たち』の分析は特に名高い。1975年にはグレーテ・リュッベ=グロトゥエスと共同でヘルダーリンの『眺望』を分析・解釈した。

ヤコブソンらによれば、『眺望』は最初から「遠さ」のテーマ、遠ざかり消えて行く「人間」と通り過ぎ流れ去っていく時(日々・年・人生)の姿を絡み合せているという。一人称と二人称、そして過去形は姿を消している。距離をとって抽象的な感じを与えるための間合いに気を配っているためである。それは、フランスの精神分析学者ジャン・ラプランシュ(1924-2012)が1969年に発見した、彼の思考様式全体の鍵を握る中心的モチーフ、「近さと遠さ、距離の弁証法」のなせる業であるという。時間の前後関係は廃止され「全ての季節を通して、時の循環の全体」を露わにするというのである。

ハイデッガーが『ヘルダーリンと詩の本質』(1936年)においてヘルダーリンについて書いた時、彼の言葉を引いてこう述べた。「我ら――人間たち――は一つの対話である。」私たちが普通言葉という語で考える単語や配語法の法則の総体は言葉の前景に過ぎない。対話としてのみ言葉は本質的なのだと述べている。ヤコブソンたちは、彼のその後の道程はこの考え方の裏返しになっていくという。彼はこの『眺望』において対話の減退を克明に浮き彫りにしていると高木さんは述べているのだ。言葉は対話ではなく「留まるものを打ち立てる」詩人の作品=詩としてのみ意味を持つようになる。その作品は「独白」に覆われてくるようになるのだ。ただ、ハイデッガーのいう「対話」が、普通考えられるのとは異なる、ある特殊な「一つの対話であったことは指摘しておかなければならない。

眺望

人間の住み慣れた生活が遠くへ去るとき、
葡萄の季節が遠くに輝く場所、
そこには夏の何もない広野がある、
森はその暗い姿で現れる。

自然が時の姿を補い、
自然が留まり、時が素早く通り過ぎて行くのは、
完全さに由来する、天の高みはその時
人間に向って輝く、木々の回りを花が飾るように。

敬白
1748年 五月二十四日
(1770年生まれのヘルダーリンあって、これは実際の日付ではありえない)
スカルダネリ
(これも自身の名前ではない)

Die Aussicht

Wenn in die Ferne geht der Menschen wohnend Leben,
Wo in die Ferne sich erglänzt die Zeit der Reben,
Ist auch dabei des Sommers leer Gefilde,
Der Wald erscheint mit seinem dunklen Bilde.

Daß die Natur ergänzt das Bild der Zeiten,
Daß die verweilt, sie schnell vorübergleiten,
Ist aus Vollkommenheit, des Himmels Höhe glänzet
Den Menschen dann, wie Bäume Blüt umkränzet.

Mit Untertänigkeit
Scardanelli.

d. 24 Mai 1748

ミシェル・フーコー

今度はフランスの哲学者フーコーの「ヘルダーリンの狂気」についてである。この狂気問題はフランスでも強い関心が寄せられていた。フーコーは、自らの代表作の一つである『狂気の歴史』の中でニーチェやネルヴァルとともにヘルダーリンについてもしばしば言及していて、先ほど登場したフランスの精神分析学者ラプランシュの指摘した「イェーナ危機」を重視している。

そのラプランシュの『ヘルダーリンと父親の問題』への書評として、フーコーは『父親の名において』を『ヘルダーリン年鑑』へ寄稿する。その中で、ヘルダーリンの1793年末から1795年半ばまでのイェーナ滞在時期、そしてボルドーからの帰還の年1802年について考え直す必要があると述べている。ヴァルターハウゼンにおける家庭教師先でシャルロッテ・フォン・カルフとの出会いは、次の家庭教師先の人妻で互いに恋愛感情を抱くようになるズゼッテ・ゴンダルトとの出会いの予兆であるという。しかし、実際にはシャルロッテの伴侶(付き添い)であったウィルヘルミーネ・マリアンネとの仲がそれにあたるかもしれない(手塚富雄著作集1「ヘルダーリン上」)。そして、イェーナ滞在期、控えの間から掟を指し示すシラーとの過剰な関係があり、シラーの周囲には、既に神格化されたゲーテ、圧倒的な思想のフィヒテと思弁的なシュレーゲルやノヴァーリスといった彼にとっては眩いばかりの人びとが集っていた。あまりに神々に近づきすぎたオイディプスが盲(めしい)となったように、その眩さゆえにヘルダーリンはシラーに背をむけるというのである。彼は「打ちのめされもし、昂揚されもし」た。それらが「イェーナの抑鬱状態」を形成するのだというのだ。やがて、母の家への突然の帰郷を招く。この時、自らを「虚ろな壺」と呼び、友人は彼を「生ける屍」と呼んだ。この帰郷について、手塚富雄さんは、ヘルダーリンがシラーからの過度の影響から自己の世界を守るためだったという理由と、彼がそのころ無職で金銭的に困窮していたこと挙げている(「ヘルダーリン上」)。そして、隣国フランスの革命やナポレオンの出現、無神論論争、神々の不在とその潜在性といた西欧世界の崩壊の予兆が重なる。

1802年1月末、ヘルダーリンはボルドーに到着する。当地にいた葡萄の栽培や葡萄酒の販売に従事し、ハンブルク領事でもあったマイアー家の家庭教師として赴任する。しかし、5月には、早くも合意のもとその職を辞した。南方の風土の中で、ある決定的な何かが起きたのである。それは、あたかも「アポロに撃たれた」かのようだったという。帰国後、狂気の兆候が現われはじめる。そして、フーコーは、こう述べる。「18世紀末に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者(狂人と理性の人)の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換がいとなまれていたころの、一定の統辞法を欠く、つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。(『狂気の歴史』田村俶 訳)。」つぶやきとは何か。ここでも改めて再考するように求められるのである。

今回は、ヘルダーリンの後世に与えた影響をご紹介することによって、彼の詩や文学作品のどのような部分が注目されてきたのかを高木昌史さんの『ヘルダーリンと現代』を中心にご紹介してみた。次回part2は、古代ギリシア世界、とりわけエムペドクレスとの関わりとハイデッガーの著書『ヘルダーリンの詩作の解明』などからヘルダーリンの世界をより深くご紹介しようと思っている。とりわけハイデッガーの著作の紹介はトラークルの世界を補完するものになろうかと思う。

ヘルマン・ヘッセ
『エッセイ全集7』
文芸批評
日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編訳

『ヘルダーリン全集3』
「ヒューペリオン」「エムペドクレスの死」収載
手塚富雄 浅井真男 訳

手塚富雄著作集1 ヘルダーリン上
中央公論社 1980年刊