『ユン・イサン(尹伊桑)』part1 駆け抜ける龍

智異山 韓国南部の山岳信仰の聖地

劉邦(りゅうほう)の母親である劉媼(りゅうおん)が大沢の堤で休んでいると、夢に神と出会った。この時、雷電があり、あたりが真っ暗になる。父の太公が行くと彼女の上に蛟龍を見た。龍は瑞祥である。劉邦は後に漢の高祖となった(『漢書』)。朝鮮半島にもこれに類する話があるらしい。前百済第三十代の武王、名は璋(しょう)、その母は寡婦であったが、都の南の池のほとりに住んでいた。その池の龍に情を抱いて璋を生んだという。薯童(しょうどう)説話として知られる(『三国遺事』)。身籠った女性が龍の夢を見ると、生まれてくる子供は特別の運命を背負うというのは、よく聞く話である。ユン・イサンの母は、韓国南部の聖地である智異山の上を飛ぶ大きな龍の夢を見た。瑞祥だった。だが、龍は傷を負っていて天に向かって高々とは飛べなかったという。

尹伊桑(1917-1995/ユン・イサン)
『尹伊桑の芸術Vol.6 室内楽曲Ⅰ』CD
「洛陽」「ピース・コンチェルタンテ」他

1964年、ハノーファーでユン・イサンの新曲『洛陽(ロンヤン)』が初演された。その時の新聞記事には、このような評論が掲載されている。「これはセリエル楽曲作法自体のために作曲された音楽ではなく、それ自身の内部に強烈な表現があることをしらせる音楽である。あらゆる音響的な大胆さの度ごとに、厳しい形式的な規律の中に、古代朝鮮の宮廷音楽に依拠することから生じた音楽的伝統への結びつきが聴きとれるだけではない。息の短い第一章から、装飾性に富んだ第二楽章を経て、劇的に切迫した最後の楽章への高まりは、まったく魅力的である。表現力と芸術的形式が絶妙の一致をみせているのである(ヴォルフラム・シュヴィンガー「ハノーファー・ルントシャウ紙」伊藤成彦訳)。」

ユン・イサンは、「私はただの音楽家であって、その他のなにものでもなく、音楽家としては政治的に、直接は何の関係もありません(ルイーゼ・リンザ―との対話『傷ついた龍』)」と述べた。しかし、友人のギュンター・フロイデンベルクが述べたように、彼は生ある限り政治に関係してきた。日本の支配下や朴正熙(パク・チョンヒ)政権のもとでの逮捕、投獄、拷問、あるいは拉致や終身刑の判決、こうした深く重い体験は彼の芸術に刻印され、消えることはないだろうという。そして、「つねに危機に際しては、芸術家もまた他のすべての人と同様に人間であって、万人のために何事かをしなければならない」という彼自身の信条を保ちつづけていたのである(『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。

尹伊桑、ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍』

ひところ近くて遠い国と呼ばれた韓国である。韓国ばかりではないが、朝鮮半島には未だに日本の植民地支配、従軍慰安婦、強制徴用工などの問題で大きなしこりを残したままになっている。歴史の認識の隔たりは埋まらず、日本との政府間合意も韓国の民意を反映したものではあり得なかった。日本では、戦争への悔悟など水に流せるほど軽いものらしい。私もその一部であり、その軽さを否定するわけにはいかない。

ユン・イサン(尹伊桑/1917-1995)は、朝鮮で生まれ、ドイツで活躍した世界的な作曲家として知られる。この人は、間違いなく「人物」である。その生涯はあたかも劇的なドラマを見るようだ。今回は、同じドイツの女流小説家ルイーゼ・リンザ―がインタビューし、それをまとめた著書『傷ついた龍』と伊東成彦編による『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』を中心に「ユン・イサン」の世界をご紹介したいと思っている。これらの著作からも、彼の祖国愛と儒教的な精神、社会正義と社会改革への熱意が強く感じられるのである。ルイーゼ・リンザー(1911-2002)は、大学で教育学、心理学を学んだ後、小学校の先生を経て作家となる。『ガラスの波紋』は、ヘルマン・ヘッセに称賛されたようだ。1944年にナチスへの反逆罪で逮捕、投獄され、死刑判決を受けたがドイツの敗北によって解放された。社会派の作家として知られる。伊藤 成彦(いとう なりひこ )は、1931年の生まれ、東京大学でドイツ文学を学んだ。新聞社を経て中央大学で教鞭を執り政治学者、文芸評論家として知られる人だ。同大学の名誉教授であられる。

細川俊夫『魂のランドスケープ』

作曲家の 細川俊夫(1955-)はベルリンで7年間、ユン・イサンに学んだ作曲家であるが、彼の人となりをその著書『魂のランドスケープ』の中で感動的に語っている。1982年のベルリン・フィルの100周年記念作曲コンクールでユン・イサンは審査委員長を務めていた。そこで細川俊夫は優勝し、授賞式に出席することになる。舞台に上がった後、舞台裏で彼は尹(ユン)先生から腕を痛いくらいに握られ、怖い顔でこう言われたのである。「きみ、こんな賞を獲っただけで傲慢になったらおしまいだ。傲慢は芸術家の毒だ。それでだめになってしまった作曲家を僕は何人も知っている。そのことを絶対忘れないように。」そして、「おめでとう。よかったよ。よかったよ」と抱きしめられたという。

ユン・イサンは韓国の南海岸にある統営(トンヨン)近郊で生まれた。近くには、統営八景と呼ばれる美しい島々があり、日本の対馬にも近い位置にある。父は、朝鮮王朝(李氏朝鮮1392-1910)時代の両班(ヤンバン)の身分であり、貴族階級に属していた。中国で言えば、かつての士大夫にあたる。「箸と本より重いものは持たない」として知られる身分である。だが、短い大韓帝国時代を経て1910年には日本による韓国併合が行われ、植民地支配が始る。経済的に徐々に零落して家具の製造を始めるようになったが、詩人サークルの中心人物として文人の嗜みも忘れなかった。母は二度目の妻で、三人の娘とイサンと弟を儲けたが格式の高い両班の家には馴染めなかった。他に先妻の娘が二人いたという。父は、桑の木から離れようとしなかった中国の伊尹(イユン)の蚕の伝説を好み、長男の名を伊桑(イサン)としたのである。

統営は美しい自然に囲まれた長閑な風情を残した街だったようだ。父親と海に出れば、漁師たちが歌う「南道唱(ナムドチャン)」の歌が共鳴板のような水面に響き渡り、夏の夜には、無数の流れ星が降ってゆくのを海辺の断崖から眺め、芸術的に構成されたかのような蛙たちの美しい混声合唱を聞いた。ある日、繊細で感じやすい少年は旅回りの一座について次の村まで行き、両親の心配をよそに舞台の前に坐りこんでしまう。彼の心に残ったものは、宮廷での職を失った歌舞演者たちの伝統楽器の音、そして、後に彼のオペラの素材となった「沈清(シム・チョン)」のような劇の一幕だった。そして、仮面音楽劇の五広大(オークワンデ)での音楽、女呪術師の叙景歌、呪文、祈りの歌などが幼年期の記憶に美しく刻み込まれたのである。

玄鶴琴(コムンゴ
六弦琴で左手で弦を押え、右手は竹の撥を持って弦をたたいたり、すくったりして演奏する。

5歳から3年間、習字と漢文の学校に、その後、ヨーロッパ風の授業をする小学校に通った。その学校で触れた音楽はヨーロッパのものだった。13歳にはヴァイオリンを少し、ギターの手ほどきを近所の青年から受けた。終生愛した楽器は、チェロだったようだ。父は息子が音楽家になることには反対だった。音楽家など卑しい職業と思われていたのである。そういえば、私の父方の祖母などは明治生れの女性だったのだが、画家など乞食同然と思っていたのである。それはともかく、15歳から商業学校に通ったが、17歳の時には家出同然でソウルに向かっていた。父には、一時絶縁された。西洋的な方法で民族的な要素を用いて作曲する先生に師事した。日本の国家『君が代』を作曲するなどした後、ソウルに来ていたフランツ・エッカートの孫弟子だった。

2年後には一度、実家に帰るものの、商業学校へ通うことを条件に日本で音楽の勉強をすることが許され、1935年から大阪音楽学院に学ぶことになる。日本の方が西洋文化を吸収する時期が早かったからであろう。だが、ここで彼は朝鮮労働者の過酷な現実を知ることになる。ゲットーのようなスラムに住む同胞たち、極めて低い賃金と悪環境で働く強制徴用工たちの現実である。この無権利で無一文な人たちの運命が、私の心に社会的な意識を目覚めさせ、私の政治的関心を高めたというのである。1937年に朝鮮に戻るが、2年後に再度日本に渡り池内友次郎に対位法などの作曲を学んだ。

太平洋戦争が始まって、彼は朝鮮に帰国し、日本の支配に対する抵抗運動に身を投じた。投獄され拷問も受けたが、身元引受人になってくれる人がいて釈放されることになる。戦後になると多くの朝鮮の子どもたちが日本から帰ってきた。その多くは両親を失っていて、病気の子供や盗癖のある子、犯罪を犯した子、その子供たちのために彼は、孤児院を作り彼らの保護に努めた。だが、アメリカ軍から援助されていた食料品で私腹を肥やそうとする人間の中傷があり、自分もそのような思いが頭をかすめた時、その仕事を辞した。30歳の時釜山の師範学校に招かれ、そこでスジャという女性と知り合う。やがて結婚した。それは、1950年、朝鮮戦争(1950-1953)が始まった年であった。

伊藤成彦編『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』

彼は、後にこう述べている。自分は、人間に対する愛を自らの創作活動の出発点たろうとする芸術家である。そうである故に、ある日突然やってきた外国人が勝手に引いた分断線によって生木が裂かれるように南北が離ればなれとなり、あまつさえ血で血を洗うような凄惨な殺し合いを演じたという自民族の悲劇から目をそらすことはできない。北も南もわが愛する祖国であり、分断の解消、つまり統一によるのでなければ癒されえない苦しみにもがいている同胞のことを思うにつけ、自分は何をどうすべきであるのか、一日たりともこの思いから自由であったことはないというのである(宗斗律との対話『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。

ユン・イサンは、しばらくソウルで仕事をすることになる。1956年に、作曲家として初めてソウル文化賞が与えられた。しかし、作曲技法上の知識の不足を痛感する彼は、40歳を前にして単身ヨーロッパに渡るのである。この行動力は並外れている。西洋の音楽理論、とりわけシェーンベルク、ヴェーべルン、ベルクらウィーン楽派を中心に十二音技法、無調音楽などの現代音楽を学びたかったのである。近代西洋音楽を支配してきたのは長調と短調からなる調性音楽であり、それからの解放を目指して無調音楽は立ち上げられた。そこから、1オクターブの中の12音を均等に使用する十二音技法、音の長さや強弱までも数式に置き換えて計算式で作曲するセリエルが生まれたのである。三年間留学したら韓国に戻るつもりだったという。最初パリの国立音楽院で正規の学生とは異なる多額の学費で学んだが、彼にとってパリは冷たい都市だった。1年で離れ、ベルリン芸術大学でボリス・ブラッハーのもとで学ぶことになる。他にシェーンベルクのアシスタントであったヨゼフ・ルーファーのもとでウィーン楽派の技法を徹底的に学んだ。1958年韓国に帰る準備を整え、現代音楽のメッカとなりつつあったダルムシュタットの「新しい音楽のための講習会」に参加する。これが彼の人生を大きく変えることになる。

金東珠 編著『尹伊桑の音楽技法』
 韓国の伝統音楽を基層として

韓国出身の作曲家金東珠によれば、韓国の伝統音楽の旋律は和声的旋律ではなく、一つの音を中心にした主要音構造であるという。その音楽における個別音は、それ自体が生きている音である。あらゆる音は始まりから消えるときまで、装飾音、前装飾音、振動、グリッサンド、音量の上下等によって変化を繰り返す。それらは、一定の音の高さの前後に使用されたり、主要音を変奏的に、あるいは、装飾的即興性によってその旋律を自然に流れるようにしたい時に使われるという。また、これは韓国の伝統音楽における音の長短と深く関わっている。韓国音楽の音の長短は、人の一呼吸のうちに始まり、終わりも一呼吸の間に終わる。音の生成過程は、音の振動の始まり、中心の動き、振動の消滅という経過をとり、これは韓国伝統音楽の精神と技法に根源を持つものであるという(金東珠『尹伊桑の音楽技法』)。

日本でも韓国の伝統音楽に魅入られた人は少なくないらしく、例えば小説家の中上健次(なかがみ けんじ/1946-1992)はパンソリに感動して、逆に韓国の人びとにその音楽への理解がないことを嘆いている(『中上健次〈未収録〉対論集成』)。プク(太鼓)と歌唱により特別な場で叙事詩のような長いストーリーを歌うものがパンソリである。パンソリに限らずソウルフルな韓国音楽は何故か懐かしい。

そのような伝統から生まれるユン・イサンの音楽は強靭な持続力と線的な無限性を持つ。その線的な要素の中に巧妙な持続性があり、能や歌舞伎ののように、何時間同じ線を聴いても絶対飽きない秘密がこれなのだという(西村朗との対話『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。それは、しばしば、たっぷりと墨を含んだ筆による書に譬えられるのである。主要音は、複数の場合には主要音響と呼ばれる。西洋の音楽では、テンポや演奏時間は、かなり正確に守られなければならない。主要音では一つの音の中に速い遅いの違った要素が混在している。それは音楽の色彩的なものにも言える。二つの力がお互いに対立しながらも融和を保っていく。それが陰陽の哲学なのだというのだ(武満徹との対談『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)。けっして、表現主義のように限界まで突き進むということはないのである

ダルムシュタット現代音楽講習会 1957 カールハインツ・シュトックハウゼンによる講義

ダルムシュタットの講習会には、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)、ルイジ・ノーノ(1924-1990)、ピエール・ブーレーズ(1925-2016)、ジョン・ケージ(1912-1992)といった現代音楽の気鋭の作曲家たちが集っていた。そこで、『七つの楽器のための音楽』が演奏されることになる。第一楽章は、確かに厳密な十二音技法で書かれている。しかし、第二楽章は朝鮮の古い宮廷音楽の音響の思い出というべきものだった。自信は全くなかったが、結果は意外なものだった。こういう批評がなされている。「‥‥韓国人ユン・イサンの場合のように、その技法が自己目的的になるのではなく、自然の音楽的直観とたしかな技法的な能力と結びつく場合には、セリエルの技法も必ず豊かなものをもたらすことができるのだ。もしこの端的な認識がダルムシュタット夏期講習会の実技講義場でも受け入れられるならば、現代音楽にとって事態は一層好転することになろう(ハインツ・ヨアヒム「ディ・ベルト紙」伊藤成彦訳)。」ヨーロッパ的作品概念はすでに疲弊しつつあった。彼の音楽は、東洋的な音の響とヨーロッパ的技法が融合した新しい音楽の展開として受け入れられたのである。

新曲の弦楽四重奏曲第三番は、独創的な音響幻想からなる他に類をみないほど強烈な曲であったと認められ、表現主義以後の破裂化した音響様式が、いまや音楽的な世界言語になったことを改めて証明したと評価されるまでになる。1960年から61年にかけてオーケストラのための作品『バラ』『コロイド・ソノール』『交響曲的情景』を書きあげた。この頃、1950年代の音楽シーンはアントン・ヴェーベルンのセリエル風の知的な作曲方法からジェルジュ・リゲティの『アトモスフェール』(1961)やクシシュトフ・ペンデレツキの『ポリモルフィア』(1961)などのような音響的な側面が強調された音楽へと移行しようとしていた。

自分の音楽は全てが流れる。その流れは直線ではなく多様に湾曲していて、その中にも部分部分があって、それ自体が一つの世界であり、その部分世界の中にまた別の世界があるとユン・イサンはいう。フラクタル的なのである。『レアク/礼楽』では全てが動いている。それは音響の織物、様々な音色と様々な音組織の中に大小の断片が紡ぎ合わされ、重ねられる織物の反復進行といわれている。大観すれば一つの流れであり、もっと離れれば静止しているようである。この音は生きるために運動し始める。こうして龍のような大きな生命力が生まれるのである。それがヨーロッパの地を駆け抜けはじめようとしていた。

ここで、ユン・イサンが1978年に作曲した『ムアク/舞楽』と彼の故郷に伝わる統営のシナウィの舞曲とを比較して聞いていただければと思う。このシナウィではヴォーカルが加わっている。

 

jeong-yeongmangwa sinawi – tong-yeongsinawi jung gueumsinawi
統営シナウィの口音シナウィ

シナウィは、アジェン(牙箏)、テグム(横笛)等の楽器で合奏される朝鮮半島の即興的な器楽音楽。古くは新羅時代からあるとされる。巫祝の儀式で巫女が歌ったり踊ったりする時の伴奏音楽であったようだ。長短(リズム周期)だけが決められており,楽器の特性を生かした自由な演奏が求められる。水のように自由に流れる音楽といわれる。