『ユン・イサン(尹伊桑)』part2 拉致・投獄・オペラ

ユン・イサンCD  カヴァー 王墓の壁画
「イマージュ」「フルート、オーボエとヴァイオリンのための三重奏曲 」他

1963年、ユン・イサン(尹伊桑/1917-1995)は北朝鮮を旅行して6世紀に造られた王陵を見ることができた。そのような墓内の一つには素晴らしい壁画が残されている。日本でもお馴染みの青龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣である。真っ暗な墓室に入ると一匹の動物が見えてくる。徐々に他の動物にも気づくようになり、ついにはこの四匹が一体となって見えてくるという。もっと長くそこに立っているとそれぞれの動物が動き始め、あるときは龍、あるときは朱雀と色鮮やかに浮かび上がってくるのである。この運動は完全な調和のうちにありながら緊張に充ちたものであるという。

1968年に作曲された『イマージュ』は、このような神秘的な現象が音楽で表現されている。オーボエが龍、チェロが虎、フルートが亀、ヴァイオリンが朱雀をと四つの楽器を四匹の動物に割り当てた。それぞれの性格を表現しているのではなく、それぞれ個別的であるとともに同時に全体の一部をなすように構成されているという。個別性と統一性が交互に表現されているのである。しかし、この曲が牢獄の中で作曲されたことを忘れてはならない。

少し時間を遡ろう。認められ始めてはいたもののフライブルクに住んでいた彼の経済状態は、いっこうに好転する見込みはなかった。そんな矢先の1961年、フォード財団が西ベルリンに新たな芸術的拠点を作ろうとした計画に応募する。その結果、その作品が受け入れられ、単身ドイツに来ていたスジャ夫人とともにフォルクスワーゲンに乗ってベルリンに移動することになる。家財は車に乗せて全て運べるほどわずかだったという。今回もドイツの女流小説家ルイーゼ・リンザ―がインタビューし、それをまとめた著書『傷ついた龍』と伊東成彦編による『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』から作曲家「ユン・イサン」の世界をご紹介したいと思っている。

尹伊桑、ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍』

1960年には、祭礼のための寺院舞踏のイメージを使った大作『バラ』、先ほどの四聖獣の複製画からのみイメージされた『交響曲的情景』が作曲された。翌年には、音響的な実験を試みた『コロイド・ソノール』が発表される。この曲は複雑すぎてオーケストラから拒絶されそうになり、聴衆の反応もブラボーとブーイングが入り混じって大騒ぎだったという。そして、1962年には大成功を収めた『洛陽』が、さらに翌1963年には『ガサ(歌詞)』、『ガラク(歌楽)』が書かれた。この年、北朝鮮を訪れている。そのことは先に述べた。この頃は年に1~2曲のペースだったようだ。1965年には数か月アメリカで講演を行った後、ベルリン芸術祭のためのオペラの作曲依頼がベルリン・ドイツオペラの劇場長グスタフ・ルドルフ・ゼルナーからもたらされた。東アジアの作曲家に東アジアの題材でという申し出だった。

ユン・イサンは、その題材として『リウ・トゥンの夢』を選んだ。日本でも『邯鄲の夢』としてよく知られたテーマであった。唐の沈既済(しん きせい/750-800)の小説『枕中記』が原作だが、ユン・イサンは、宋の時代に始まり元代に隆盛した歌劇である元曲の作者、馬致遠(ば ちえん/1270頃‐1320頃)の作を選んだ。他作家との合作といわれる『黄粱夢』であろう。リンゼーは、荘子の『胡蝶の夢』との関連を強調していて面白い。このオペラは、1966年ベルリン芸術祭において室内オペラとして上演された。声楽部の扱いは中国の伝統によるもので、そこでは絶えず語りから歌へ、歌から語りへの移行があるという。普通の語りの声、半ば語り半ば歌、一定の音の高さでの叙唱、様々な音の高さでの叙唱、そして純粋な歌というヴァリエーションがあった。東アジア的な語り方とドイツ語の言葉を強く区切るという課題が意識される。隠者は低い金管と打楽器によって祭礼の色調を帯びた響に、女性の主役はフルート、ハープ、オーボエによる抒情的な音響で表現される。この手法は後のオペラにも引き継がれることになる。

『荘子』斉物論 第二

昔者(むかし)、荘周(ソウシュウ)、夢に胡蝶と為れり。
栩栩然(ククゼン/ひらひらと飛び回り)として胡蝶なり。
自(みずか)ら喻しみて志(こころ)に適(かな)えるかな。
周たるを知らざるなり。
俄然(ガゼン/にわかに)として覚(さ)むれば、則(すなわ)ち蘧蘧然(キョキョゼン/はっとして我に返る)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為(な)れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分(ブン/けじめ)有らん。
此れを之れ物化(ブッカ)と謂(い)う。

第二作目のオペラは『胡蝶の未亡人』と題された一幕ものの喜劇、オペラブッファであった。人を笑わせる言葉や身ぶりを韓国語でイサクルというらしい。イサクル劇というものがある。いわゆる笑劇である。荘氏の深く哲学的な胡蝶の夢の物語は、グロテスクで、不気味なものになり変って人々を笑い転がせる。時々蝶の翅ならぬ黒い蝙蝠と梟の羽が聴衆をかすめて飛んだという。荘子は、自分が蝶となって軽々と自由に飛び回る素晴らしい夢を度々みるのだが、そのつど妻が自分を起こしてしまうと老子に愚痴をこぼすことから二人の対話から始まるのだ。この妻から逃れるために荘子は、自殺を演出するのである。荘子はその旅先で棺に納められのだが、弔問客の中に王子フーと従者がいた。王子と未亡人となった妻との即席の恋が生まれ、王子とその従者は邪魔な棺を片付けようとするが重くて持ち上がらない。癲癇持ちの王子は発作に襲われる。この歌劇の中では、それを治すために死んだばかりの人の脳みそが必要だという。従者が斧で棺を一撃するとそこから身を起こした荘子が実は王子であったというマジックになっているのである。このオペラは荘子の影が沙のカーテン上に現われ、同時に投影される色彩豊かな蝶たちの間で踊り、合唱が蝶の夢を歌い、妻から自由になった荘子を神人へと導くオーケストラのクレッシェンドで終わる。

後に彼は、こう述べている。「ええ、それはもちろん。追求され、拷問され、監禁される恐ろしい夢を見ます。人生は夢だとは言え、夢もまた傷跡を残すのです(『傷ついた龍』)。」母親の夢に現れた龍は、その夢のとおりに深い傷を負うことになるのである。

陸治(1496-1576)明 『胡蝶の夢』

このオペラが三分の一ほど出来上がった頃、朝7時に電話のベルが鳴って朝鮮語で、自分は朴正熙大統領の私的な秘書だが、大統領から親書を預かっている。できるだけ早くサヴォイ・ホテルで来てほしいという内容だった。ホテルまで行ってみると、親書はボンの崔徳新大使の手許にあるので自分たちと一緒にボンに来てほしいと言われる。崔大使は親しい友人だった。同行はするが、すぐに返してもらうという条件で彼はボンまで行った。ボンの大使館で薬を飲まされ自分の意思を失い、尋問を受けてからハンブルクに向かい、日本の航空会社のチャーター機で東京に向かい、そこから韓国の飛行機でソウルに到着した。いずれも旅券は必要とされなかったし、出入国管理官もいなかったのである。そこは、皮肉にも11年ぶりの祖国の地だった。1967年、50歳の年である。

ソウルに着くとKCIA(大韓民国中央情報局)の本部に連れて行かれ、世界の各地から自分と同じようにしてやって来た十数人の韓国人たちを見たという。多くは学生で、医者、看護士、大学関係者、鉱山労働者などであった。ドイツでスパイ組織を作って韓国政府を倒そうとしているといわれ、何日も食べ物を与えられず、睡眠もとれなかった。やがて拷問が始まる。手足を縛られ丸太につるされて、顔に布を被らされて水をかけられた。呼吸できずに気を失うと、医者が呼ばれ、注射されて意識が戻ると同じことが6度繰り返された。隣ではボン大使の崔の呻き声が聞こえてくる。こうして、共産主義者としての偽の自白書が書かされるのである。

嫌疑は北朝鮮を訪れたこと。これは北朝鮮側の招待で、例の壁画の見学と北朝鮮の関係者たちとの交流、友人との再会が含まれている。そして、東ベルリンへの数回に亘る訪問と北朝鮮への送金がある。これは、行方のわからなくなった家族への連絡、あるいはその家族への送金の代行のためだった。国交がなければ、外国を経由して連絡を取り合うほかはないからだった。当時、ユン・イサンはドイツで民主主義のための韓国人協会を設立しつつあった。韓国の反共法ではこれらの違反は五年から十年の懲役に処せられる。だが、彼は国外から拉致されてきたのである。一審は終身刑、二審で懲役15年、最高裁では懲役10年の判決がおりた。KCIAの圧力にもかかわらず刑はこのように軽減されていった。

『尹伊桑の芸術Vol.8 室内楽曲Ⅲ』CD
「イマージュ」「ピリ」他

4メートル四方の壁に囲まれた監房には、暖房は無く、窓に貼られたビニール紙は破れていて凍てつく風が吹きさらしていた。冬は茶碗の水が凍る寒さになる。最初は机がなく床に紙を置き手に息を吹きかけながら作曲した。身体全体がむくんで動くことや立つことが困難になり始める。心臓の疾患があった。自殺未遂も起こしている。そんな中で『胡蝶の未亡人』の残り三分の二、クラリネットとピアノのための『リウル』、そして『イマージュ』が作曲されるのである。『胡蝶の未亡人』は、KCIAの検閲を経てスジャ夫人によりドイツにもたらされ、1969年2月にニュールンベルクで初演された。それは壮大な演奏で31回のカーテンコールを数えたという。しかし、その時、彼はまだ獄中だった。

この同じ月、拉致されて2年後の1969年に突然の釈放が決定される。『傷ついた龍』におけるユン氏自身の注によれば、ドイツ政府がパウル・フランクを主席とする代表団を送り、粘り強い交渉の結果、莫大な経済的援助と引き換えに彼らの西ドイツへの原状復帰がなされた。だが、これは大統領特赦であって法的正義が実現されたわけではないという。多くの音楽家や音楽関係者、知識人たちの運動が起こっていた。ハンブルク芸術アカデミーの会長ヴィルヘルム・マーラーによって朴大統領へのアピールが書かれ、シュトックハウゼン、リゲティ、カラヤンなどの多数の人びとがそれに賛同して署名している。ドイツや東京、ワシントンなどで支援のための演奏会が開かれ、多くの教会の団体が彼と彼の家族のために寄付を集めたという。演奏会を開催した人々の中にはミハエル・ギーレン、ジェルジュ・リゲティ、ハインツ・ホリガー、オーレル・ニコレ、ベルンハルト・コンタルスキーといった音楽家たちがいた。そして、釈放後は、ハノ―ファーの音楽大学やベルリンの音楽大学で教鞭を執ることになる。

ユン・イサンは、まだ渡欧する以前にソウルにいた頃、政治的、社会批判的な小説を三篇書いたが、その原稿は何処に行ったのか、もはや分からないらしい。もっと若い頃は、愛国文学をよく読んでいたという(『傷ついた龍』)。彼と同じ反共法違反容疑によって1970年、1974年と逮捕された詩人の金芝河(1941‐/キム・ジハ)は、合計7年に亘る獄中生活を送った。彼もまた、韓国の民主化と祖国の統一を願う人であった。そして、この矛盾に満ちた世界を愛と親交の統一世界へと高めていこうとした。それがあまりに美しい幻想に見えようとも、暗闇の中の真実を光のなかに引き出す作業を己の天職と信じていたという(金学鉉/キム・ハクヒョン『荒野に呼ぶ声』)。だが、その夢は美しい幻想というよりは果てのない悲歌だったのではないか。

『果て』

待つことしか
なにひとつのこされていない歳月よ
おわりなき果てよ底知れぬ 姿もない
どろ沼深く両足を埋め 空よ
空よ
呼び叫ぶ この長い長い声の
蓮の花に咲き出ることもない このぎこちない身もだえの果て
信じられない石ころでも ひとつ
死ぬまえに 踏みつけてみよう
死ぬまえには

夢なきおまえの白い肌にでも きっと
不吉な夢ひとつは 残して行こう
風も 声も 光もない歳月よ 待つことしか
残されていない 死が死から立ち上がる
雄叫びの刃を待つことしか
おわりなき果てよ

すべての果てよ 眠れる果てよ
死ぬまえには きっと
訣別の文(ふみ)一行は残して行こう

金芝河(キム・ジハ/1941-)

ユン・イサンの1970年以降の音楽、それはキール芸術祭のためのオペラ『精霊の愛』、ミュンヘン・オリンピックのための祝典オペラ『沈清(シム・チョン)』、巫女の歌から霊感を得た『ナモ』、三つの次元を書いたといわれる『ディメンジョン』などがあるが、ナチスを辛うじて逃れた女性詩人、ネリー・ザックスの詩『闇よ裂かれよ』、同じくナチスに処刑されたハウスホーファーのソネット『死線にて』などをテーマにした作品が生まれている。とりわけ、ベルリン・フィルに初演され、「ネリー・ザックスの追憶のために」と題された交響曲5番は、「平和の交響曲」と批評された。ザックス(1891-1970)は、ベルリンに生まれたユダヤ人で、ナチスの手を逃れて母とともにスウェーデンで暮らした詩人であり、ノーベル文学賞を受賞した作家だった。「私は、ユダヤ人達の悲劇を代表する」と語った人だ。晩年は精神的な危機に陥った。その人の詩が、この曲の三楽章で「‥‥復讐の武器を耕地の上におけ/それで復讐が鎮まるように/何故なら鉄と穀物は/大地の懐では姉妹なのだから――(『聖なる地の声』)」とフィッシャー・ディスカウによって歌われたのである。それは、ベルリン市の750年祭にベルリン在住の作曲家に委嘱された曲の一つとして演奏された。残念ながら僕はまだ、5番は聞けていないのだけれど、他の交響曲からの印象は、開かれたテンションの持続というべき素晴らしい音楽だと思う。

1980年には、韓国の全羅南道の光州市を中心に民衆の蜂起が起きる。全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕が契機だった。クーデタに抗議する学生デモが行われ、戒厳軍の彼らへの暴行に抗議した市民も加わったが鎮圧され、2000人以上の犠牲者をだした。彼らを追悼して書かれた作品が『光州よ、永遠に! 』である。晩年までその制作意欲は衰えることはなかったが、1995年に肺炎のためにその劇的な生涯を閉じている。今年、2017年は生誕100年の記念の年にあたる。

ユン・イサンのあらゆる音が東アジアの音楽理念を固く保持して構成されていることは、彼の音楽が民族の文化に深く根ざしていることを明かしている。もし、彼が作曲にあたって朝鮮の伝統的な音楽の本質的な特徴を蘇らせたとすれば、それは音楽美学的関心からだけではない。40年に亘る仮借ない日本化政策、ソ連とアメリカによる南北分断、この民族の独自性と統一の破壊が継続的に行われてきた歴史的現実があり、政治的次元での韓国と北朝鮮との間にある断絶や相互理解の困難があった。しかし、彼が独自の現代的な朝鮮の音楽文化を確立したということが、彼をして民族の象徴的人物とさせ、その音楽をして「民衆の声」となり代わり得たのだとギュンター・フロイデンベルクは書いている(伊藤成彦訳『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)。民族と芸術の問題など文化輸出の宣伝ステッカーくらいにしか考えられていない国にあっては、このユン・イサンの芸術家としての在り方を一度は振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

彼は自らの音楽をこう語っている。「私の音楽は自民族の芸術的伝統という歴史性と、祖国の悲痛な運命という社会性から生まれたものであるが、このことは別言すれば、音楽芸術が当然持すべき格調と純度の枠内で、人間の自由と尊厳を踏みにじる無道な権力の暴虐に対して、用いる最大限の表現をもって抗議する音楽が私の音楽であると言っても差し支えないだろう。(鄭敬謨 訳『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)」

ユン・イサン 混声合唱と打楽器のための『胡蝶の夢』1968

最期に、僕の趣味で一曲選ばせていただきました。

Isang Yun (1917 – 1995) – Invention IV “Harmonie”

Heinz Holliger, Marie-Lise Schüpbach, Oboen
mimiko, Elisabethenkirche Basel, 06.01.2016

 

その他の関連図書

伊藤成彦編『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』
伊藤 成彦(いとう なりひこ )は、1931年の生まれ、東京大学でドイツ文学を学んだ。新聞社を経て中央大学で教鞭を執り政治学者、文芸評論家として知られる人だ。同大学の名誉教授であられる。

金学鉉『荒野に呼ぶ声』
金学鉉(キム・ハクヒョン)は、1929年の生まれ。ソウル大学と中央大学で学んだ。早稲田大学語学教育研究所におられた。著書に『民族・生・文化』、訳書に『第三世界と民衆文学』などがある。