オシップ・マンデリシュターム part1 『時のざわめき』めくるめく郷愁

オシップ・マンデリシュターム(1891-1938)1934 最初の逮捕の時の写真

「あの90年代のなかばには、ペテルブルクじゅうが、さながら極楽浄土をめざすように、我も我もとパヴロフスクに押しよせたのだった。汽車の汽笛と発車のベルが、『一八一二年序曲』の愛国的な不協和音とまじりあい、チャイコフスキーとルビンシュタインの君臨するだだっ広い駅のなかには、特別の臭いがたちこめていた。黴くさい公園の湿っぽい空気、朽ちかけた温床と温室の薔薇の匂いが、ビュッフェのむっとする蒸気、鼻に衝くシガーの香り、停車場の石炭殻の匂い、何千という群衆の化粧品といりまじる臭いが。(安井侑子訳)」

オシップ・マンデリシュタームは、1925年に出版された『時のざわめき』の中で、幼年時代を過ごしたサンクトペテルブルクやその近郊のパヴロフスクをこのように言祝いだのである。始りの言葉は、こうだった。「わたしは、ロシアの黄昏の時代をよく覚えている。あの病的なまでの静寂と、土臭い田舎かたぎにひたりこみ、ゆっくりと這うように蠢(うごめ)いていた1890年代を――(安井侑子訳)」。こうしてロシアのパッサージュが紅茶の匂いならぬ駅界隈の匂いから立ち上がり、綿々と綴られていくのである。なかなかに美しい描写ではないだろうか。僕は北原白秋が故郷、柳川を描いた『「思い出」―叙情小曲集を思い浮かべてしまうのである。マンデリシュタームを読むなら、まず、この『時のざわめき』をお薦めしたい。安井侑子(やすい ゆうこ )の翻訳もまたすばらしい。安井は、お茶の水女子大学哲学科在学中、国際レーニン勲章を受けた父である安井郁(やすい かおる)の通訳としてモスクワに行き、それを契機にモスクワ大学、同大学院を修了したロシア文学者である。神戸市外国語大学で教鞭を執られた。以下、引用文に何も書いてなければ安井さんの訳と思ってください。

そこは、ペテルブルク近郊にある皇族の別荘を中心に発達した街だった。「ふとしたことから、わたしたち一家はパヴロフスクの”冬ごもり族”となった。つまり一年じゅう、この老婆たちの街、ロシアの半ヴェルサイユ、宮仕えの召使いたちや、四等文官の後家さんたちや、赤毛の警察署長、肺病やみの教師たち(パヴロフスクに住むのは健康によいと信じられていた)の街、そして、一戸建ての別荘を建てるためにせっせと賄賂を貯めこんだ連中の街にある、冬の別荘に住みついたのである。おお、あの時代――‥‥」

青銅の騎兵 ペテルブルク 19世紀末

オシップ・マンデリシュタームは、1891年、ワルシャワでユダヤ人の家庭に三人兄弟の長男として生まれた。父は、リトアニアのジャゴールイという町の出身で、14歳の時ベルリンへ出てユダヤ律法学校で学んだが、タルムードのかわりにシラー、ヘルダーやスピノザを読みふけっていたという(詩集『石』早川眞理「解説」)。母は、同じくリトアニアのヴィリニュス出身で、親戚にはプーシキン学者のセミヨン・ヴェンゲロワ、その妹で、ペテルブルク音楽院のピアノ科の教授であったイザヘラがいた。母も独身の時代はピアノ教師をしていたという。父は結婚後、手袋製造や皮革仕分けの免許をとった。そして、二人は、ワルシャワへ出たのである。

この『時のざわめき』には、父親の話す言葉が「まるで抽象的な、頭の中で拵えあげられた言葉、ごく日常的な用語がヘルダー、ライプニッツ、スピノザといった古い哲学用語とまじりあった、修辞たっぷりの凝ったことば、そして、ユダヤ律法学者の奇妙なシンタックス、技巧的で尻切れとんぼの句(フレーズ)―― それを何と呼ぼうと勝手だが、ただの言語ではなかった」と回想されている。母の言葉は、語彙はとぼしく簡潔で言い回しは単調だったが、純粋な大ロシアの文学語であったという。この両親の言葉の溶け合いが、彼の言語感覚を育てたというわけだ。

オシップが生まれると一家は、すぐにペテルブルクに移る。そこが、彼の故郷であった。時には近郊のパヴロフスクで過ごしたようだ。当地のテニシェフ中学は、民主的な教育で知られる名門校であった。文学の時間には立派な古代ロシア語が教えられたという。在学中に教師として象徴派の詩人ウラジーミル・ギッピウスが就任し、その影響を受けたともいわれる。マンデリシュターム夫人の回想録によれば、幼い頃、プーシキン、レールモント、ゴーゴリ、ホメロスなどの本を読んでいたという(『流刑の詩人マンデリシュターム』)。卒業すると、1907年(16歳)にはパリに赴き、半年ほどソルボンヌ大学で聴講、フランス象徴主義の詩に触れることになる。詩や散文を書きはじめ、1909年頃にはヴャチェスラフ・イワーノフ(1866-1949)ら詩人たちとの交流も始まり、彼の家での集い「塔」にも出席するようになる。1910年にはドイツのハイデルベルク大学に入学、古代フランス語を学んだ。その年には雑誌『アポロン』に5篇の詩を発表して詩壇にデヴュー。翌1911年には、ペテルブルク大学の歴史文学部に入学してロマンス語やギリシア語などを学んだようだ。6年在席したが革命の勃発により中退している。若くしてヨーロッパを旅し、フランソワ・ヴィヨンに熱をあげ、ヘルダーリンのようにギリシア狂にもなった。

アドミラルティの塔から撮られた13フレームのサンクトペテルブルクのパノラマ 部分 1861

「ペテルブルクの優雅な幻想のすべては、ただの夢にすぎなかった。底知れぬ深淵に投げかけられた、きらびやかなヴェールにすぎず、まわりを取り囲んでいたのは、ユダヤ風の混沌(カオス)、母なる故郷でもなく、家でもなく、炉辺でもなく、それはまさに混沌だった。わたしがそこから生まれ出た、見知らぬ胎内の世界、わたしが怖れ、おぼろにそれを感じ、逃げだしたところ、いつもいつも逃げだしたところ。ユダヤの混沌(カオス)は、石造りのペテルブルクの住居の隙間という隙間に、破壊の兆しとなって忍び込み、あるいは部屋のなかに掛けられた田舎の客人の帽子となり、あるいは本棚の隅っこにゲーテやシラーの下敷きになって埃まみれのまま忘れられた、読む者もない『創世記』の先端の尖った活字となり、黒と黄色の儀式の端ぎれとなって、いたるところに忍びこんでいたのだ。」彼が、ユダヤ人であることをどのように感じていたのか間接的にしか分からない。実のところは、どうだったのだろうか。

オシップ・マンデリシュターム
『時のざわめき』

ある日、民族的悔恨の発作に襲われたらしい両親は、彼に純粋のユダヤ人教師をつけた。この先生には、いささか不自然にせよ驚嘆すべき点があったという。それはユダヤ人としての民族的誇りであった。彼は、ユダヤ人についてフランス娘がユゴーかナポレオンのことを語る時のように話すのだったという。しかし、一歩外に出ると、この誇りは隠されてしまうので少年オシップは、彼のことを信用できなかったらしい。

テニシェフ中学は、斜めの陽の柱が埃りを舞い上げながらそこここにさしこみ、物理実験室からガスの臭いがこぼれてくる、天井の高い、寄木細工の教練体操場のあるところだった。実験室のガスの重苦しく甘ったるい臭いのおかげで頭痛を催し、地獄のような工作の時間には、かんな屑やのこぎり屑の中に埋まり、のこぎりはよじれ、かんなはひん曲がり、穿(せん)眼のみは指をうち、結局どれもにっちもさっちもいかなくなるのだった。

少年時代のオシップが、ローマ帝国崩壊の原因について共同で書いていたというセルゲイ・イワーヌッチについてなかなか含蓄のある表現が残されている。「1905年、それは山猫のような警官の眼を光らせ、パンケーキのみたいにひしゃげた空色の学生帽を頭にのせた、ロシア革命のキメイラ(獅子頭半身竜尾の怪獣)だ ! ‥‥記憶というものは闇をまさぐるのを好む。そして、おお、瞬間(とき)よ、まさに漆黒のなかでおまえは生まれたのだ、あの ―― 一、二、三で―― ネフスキーが長い電気の睫(まつげ)をまたたき、ぬば玉の闇のなかへ沈み、はるか地平線のかなた毛むくじゃらの濃い闇のなかから、山猫のような警官の眼を光らせ、へしゃげた学生帽をかぶったキメイラが姿をあらわしたあのときに――。‥‥革命の独習教科書が彼の指のあいだからこぼれ落ち、風邪っぴきの彼の頭のなかでパピロス(吸口つき巻たばこ)の音をかさこそいわせ、エーテルみたいに軽い非合法文書が彼の海の水みたいに碧い騎兵隊の短ジャケツの袖の折りかえしからとびだし、彼のくゆらすパピロスは、まるでその筒が非合法ビラで出来ているかのように、禁断の煙をたちのぼらせるのだ。」

プロコヴォ天文台
サンクトペテルブルク近郊にあるロシア科学アカデミーの運営する天文台。1839年開設

そして、連れて行かれた彼の部屋の臭いは、このようなものだった。「息むれと煙草の煙でむせかえる部屋は、すでに空気ではなく、別の比重と化学成分をもったなにか新しい未知の物体を充満していた。」1905年よりずっと後になって、ふとした機会に巡り合った彼は、見る影もなく老け込んで、目鼻立ちは、うすれ、色あせて、顔のないのっぺらぼう同然で、かつての潔癖さと権威の、弱々しい影法師でしかなかったという。聞けば、彼はプロコヴォにある天文気象台に職をみつけて、そこで助手として働いていた。続けてこう述べている。「たとえもしセルゲイ・イワーヌィチが、星の速度の純粋対数か、空間の関数になったとしても、わたしはさしておどろかなかっただろう。彼は所詮、この世から消えて行く人間だった。それほど彼は、キメイラに似ているのだ。」

本書『時のざわめき』の解説によれば、マンデリシュタームは特にロシア本国において、長い間、幾重もの闇に閉ざされ続けた詩人であったという。彼が非業の死を遂げる10年前の1928から、ほぼ50年にわたって、彼の詩は一度も刊行されなかった。それに、1930年代から50年代にかけて彼の名前が禁句とされた時代さえあったのである。彼は、長らく「遠い過去の詩人」、革命前に終息したアクメイズムの「頽廃的詩人」、グミリョフやアフマトワの後塵を拝する二流の詩人であった。そういったレッテルとは裏腹に、訳者は、彼をして二十世紀ロシアの小説史に新しい地平を開き、幾多の卓抜した詩論を書き残した散文家・エッセイストであったというのである

アクメは、頂点と成熟、満開の花のことを指す言葉で、アクメイズムという文学運動のタイトルとなった。詩の場所とは人間的な場所であり、この世の被造物と同様にあり続ける具体的な対象性、現前性を持ち、古典的な明晰さのなかに表現されることを目指す。それがアクメイズムであったのだが、1910年代に成立し、ロシア革命(1918年)後に運動としては消滅したといわれている。

1910年『アポロン』誌に5編の詩を発表して詩人としてデヴューしたマンデリシュタームは、翌年春、「塔」での集いで女性詩人のアンナ・アフマートワ(1889-1966)と出会った。20歳だった。彼は、彼女を「身なりは粗末でも、威光を放つ人妻」と評し、「いつかロシアの誇りになるだろう」と述べた(ナジェージダ・マンデリシュターム『流刑の詩人マンデリシュターム』)。そして、その夫であるニコライ・グミリョフ(1886-1921)がアフリカ旅行から戻ると、この三人の生涯に亘る親密な交友がはじまったのである。グミリョフらによって文学グループ「詩人ギルド」が組織され、ミハイル・ロジンスキーの編集する機関誌「ヒュペルボレイオイ(北方楽土人)」に作品を発表し始めたこの三人を中心に、ゴロデツキイ、ナールブト、ゼンケーヴィッチらが加わって「アクメイズム」運動が起こった。

1913年には「アポロン」誌にグミリョフによる『ロシア・シンボリズムの遺産とアクメイズム』、ゴロデツキイの『現代ロシア史のいくつかの潮流』というマニフェストが発表された。ちなみに、ロシア未来派が発足したのは、その前年の1912年のことだった。未来派の詩人フレーブニコフと言語学者のロマン・ヤコブソンとの関係はソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」に書いておいた。『時のざわめき』の訳者である安井侑子は、マンデリシュタームの詩は本質的にアクメイズムよりも未来派、それもフレーブニコフに繋がっているのではないかという。

オシップ・マンデリシュターム『石』
エッセイ「対話者について」収録
『時のざわめき』の訳者である安井侑子は、マンデリシュタームの詩は本質的にアクメイズムよりも未来派、それもフレーブニコフに繋がっているのではないかという。

この1913年にマンデリシュタームは、タイトルを『貝殻』から『石』と変更して詩集を自費出版した。この変更はアクメイズムへの転向したことによって物質性をより強調するためだと言われている。彼の詩を翻訳したパウル・ツェランによれば、詩集のタイトル『石』はロシア語で kamen’ でアクメ Akume のアナグラムであるらしい(関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)。その詩集は、その後、三回に亘って国立出版所などから再版された。彼はロシア文学史において、トルストイやドストエフスキーらが活躍した19世紀の「金の時代」に続く20世紀初頭の「銀の時代」の最良の詩人の一人として活躍するのである。

1919年にキエフからクリミヤを旅する途中で画学生のナジェージダ・ハージナと出会い、2年後に結婚している。彼女と一緒にコーカサスやクリミヤを旅したこの1921年には、マクシム・ゴーゴリがロシア一の詩人と述べたアレクサンドル・ブローク(1880-1921)が病死し、親友のグミリョフが反革命の嫌疑で銃殺されるという衝撃的な訃報に見舞われる。翌、1922年には詩集『トリスチア』がベルリンで刊行されたが、これは本人の監修なしに出版されたもので、執筆順にもなっておらず、『石』に収録された6篇の詩も含まれていた。その翌年に『第二の本』というタイトルに変更され、1916年~1920年の詩のうち43篇を収録して国立出版所から改めて刊行されている。この詩集は、革命によって滅びゆくサンクト・ペテルブルクをその伝統文化との別離とともに歌った悲歌であり、その異様なまでの悲痛な美しさが透明性と半透明性を帯びた幻想となって静かに揺蕩(たゆた)うといわれる。

ペテルブルクにわれらは再び集うだろう
われらはさながらこの町に太陽を埋葬したかのよう、
そして至福にして意味なき言葉を
はじめて口にするだろう。
ソヴィエトの夜の黒ビロードにつつまれて、
全世界の空虚のビロードにつつまれて、
あいかわらず至福なる女(おみな)たちの愛しい眸は歌っている、
あいかわらず不死の花々は咲いている。
‥‥
(早川眞理 訳)

オシップ・マンデリシュターム『トリスチア』
ベルリン版 1922
エッセイ「言葉と文化」収載
トリスチアは、帝政ローマ時代の詩人オゥイディウスが流刑の地トミスで書いたTristitiae(悲歌)に由来する。

『第二の本』は、もう一つの『時のざわめき』ではないのか。マンデリシュターム自身が述べた「アクメイズムとは世界文化への郷愁である」という言葉は「マンデリシュタームの詩は世界文化への郷愁である」と置き換えられるべきかもしれないと彼の詩集『石』と『トリスチア』を翻訳した早川眞理は述べている。早川は、早稲田大学のロシア文学科を中退した後、1972年から10年間ヤマコフスキイ学院でロシア文学を学んだ。この時、マンデリシュタームの作品に出会ったようだ。自らも詩人で『髪切虫』『異邦、そして懐郷』などの作品集がある。「病的なまでの静寂と、土臭い田舎かたぎにひたりこみ、ゆっくりと這うように蠢(うごめ)いていた1890年代」、その郷愁とともにロシアの黄昏の時代が歌われた。この『時のざわめき』、それを紡ぎだした言葉の背後には、世界文化という膨大なテキストとの関連が指摘されているのである。

1928年には、それまでの詩集から選ばれた作品が収められた『詩選集』が刊行される。そして、詩論集『ポエジーについて』、散文集『エジプトのスタンプ(「時のざわめき」、「フェオドシア」を含む)』が刊行された。一見、この年はマンデリシュタームの文学活動の頂点であるかのようだと言われる。それでは何故、その後、ほぼ50年にわたって、彼の詩は一度も刊行されなかったのか。何故、彼の名前が禁句とされた時代さえあったのか。そもそも、彼は何故非業の死を遂げなければならなかったのだろうか。次回part2では、マンデリシュタームの詩の世界をご紹介するとともにその死の経過を追ってみたいと思っている。