オシップ・マンデリシュターム part 2『詩』生きた薔薇万歳

マンデリシュターム夫人であるナジェージダは、カザフスタンに近いヴォルガ川の流域にあるサラトフという町のユダヤ系の中産階級の家庭で生まれ、キエフで育った。豊かな文化的な環境で育ち、ロシア構成主義の女流画家アレクサンドラ・エクステル(1882-1949)のアトリエで学んだ。回想録『流刑の詩人マンデリシュターム』は、彼女が夫のマンデリシュタームの詩を守り通したドキュメントであり、彼との大切な思い出を綴ったもう一つの『時のざわめき(part1参照)』であったろう。この回想録は、最初の逮捕の時、五月のある夜から始まる。

当時、文学者や詩人たちの少なからぬ人々は、自然な死に方をしていない。アクメイストとして知られる詩人、小説家、評論家であるニコライ・グミリョフ(1886-1921)は、反革命の陰謀に加わったとして銃殺。未来派の詩人で斬新な言語実験を展開し、ロマン・ヤコブソンと親しかったヴェリミール・フレーブニコフ(1885-1922)は餓死。夫とともにパリに亡命していた詩人マリーナ・ツヴェターエワ(1892-1941)は、帰国後、夫と娘が逮捕され、不遇のうちに自殺。イズベスチアの編集長を務め、マンデリシュタームを助けたニコライ・ブハーリン(1888-1936)は銃殺。未来派の革命詩人マヤコフスキー(1893-1930)、革命を情熱的に支持した天性の農民詩人エセーニン(1895-1925)もまた、孤独と絶望の果てに自殺した。そんな冬の時代だった。

ナジェージダ・マンデリシュターム(1889-1980)『流刑の詩人マンデリシュターム』
残念ながら本書には訳者たちの紹介がない。

1934年の5月のある日、午前1時頃、秘密警察の捜査官が突然やって来た。家宅捜査が始まり、ここ数年間書かれたマンデリシュタームの原稿が一枚一枚目を通され、選別され、没収され、彼も連れ去られていった。夫人によれば、これが問題の詩の初稿の言葉であった。

ぼくらは生きている 祖国を足に感ぜずに
十歩先にはもう聞こえないぼくらの言葉
聞こえるのは かのクレムリンの山男
人殺し 百性殺しの声ばかり

予審判事によれば、これは「挑発行為」「テロ行為」であった。クレムリンの山男とはスターリンを指していたのである。決定稿では、この後に、こんな言葉さえ続いていた。「‥彼の太い指は 脂ぎった芋虫のようだ。/言葉は 分銅のように忠実だ。/ごきぶりのようなひげの笑い/長靴の胴は光る。‥(川崎隆司  訳 /『流刑の詩人マンデリシュターム』の巻末に全文の訳が収録されている)」

スターリンはレーニン没後の1924年、トロツキーを制して権力を握った。1930年代に入るとスターリン主義の波は富農撲滅運動とその一環としての文学の体制化に力を注ぎ始めていた。クリミアへの旅行の途中、マンデリシュタームが見たものはウクライナやクバンの恐ろしい亡霊たち、飢えた農民たちだった。彼は「黙っていられなかった」のである。新しいアパートに住んでいた1933年から34年にかけての冬ほど恐ろしい思い出はないと夫人はいう。食べ物がないのに夕方になると大勢の客が訪れた。その半数はその筋から派遣されたスパイであったという。秘密警察は一般の人間をスパイとしての密告者に仕立て上げていた。家族に危害が及ぶと暗示するだけでよかったのである。

最初、ヴォルガ川支流のカマ川の上流にあるチェルドゥイニという小さな町に流刑が決まった。流刑地に向う途中、すでに精神錯乱と強迫観念に憑りつかれ始め、当地の病院に入院中に窓から飛び降りて自殺を図った。同伴を許されていた夫人が見張っていて、腕を伸ばして肩口をつかまえたが、上着だけが彼女の手の中に残った。掘り返した土山の上に落ちて、肩の骨折に終わるが、気がついた時には正気に戻っていたという。だが、この後も幻聴は続いた。夫人は詩人の職業病だと感じていたようだ。結局、12年減刑され、キエフとサラトフの中間にあるヴォローネジへ移って、3年間の流刑となった。『イズべスチア』の編集長をしたニコライ・ブハーリンがスターリンに手紙を出し、そこに『ドクトル・ジバゴ』を後に発表することになる作家のボリス・パステルナークが逮捕に驚いて訪問してきたと追伸に書いた。それで、スターリンはパステルナークに直接電話してきたのであった。二人の援助によって減刑はなされたのである。

ボリス・パステルナーク(1890-1960)20歳頃 ノーベル文学賞を受賞した。

1923年には、全ての雑誌の寄稿者名簿からマンデリシュタームの名は一度にはずされてしまっていた。それで翻訳の仕事を余儀なくさせられるようになる。オイゲンシュピール事件は、この頃起きている。1928年にシャルル・ド・コステールの『オイゲンシュピール伝』の訳書を改訳した時、出版社が原訳者の名前を掲載せずに出版したために剽窃疑惑事件に巻き込まれたのである。紀行文の『アルメニアの旅』は雑誌に掲載されたが、担当の編集者は解任された。1926年から1930年まで5年以上もの間、詩が書けない時期が続いた。「世をあげての大合唱に調子を合わせない者は、いつの間にか片隅へ追いやられていた」と夫人は回想している。ヴォローネジではラジオ番組の解説を書いたり、劇場で働いたりできたのでいささか安泰だったのである。それも1936年の秋には終わった。地方の放送局は廃止となり、劇場もさびれてしまった。それは大粛清の始まった年であった。1937年には、狭心症のような発作が度々襲いはじめる。

ここで、マンデリシュタームの詩について、鈴木正美(すずき まさみ)の『言葉の建築術』と関口裕昭(せきぐち ひろあき)の『パウル・ツェランとユダヤの傷』からご紹介してみたい。両著とも「間テクスト性」を謳っていて非常に興味深い。鈴木正美は1959年生まれ、早稲田大学でロシア文学を専攻、新潟大学で教鞭を執っておられる。関口裕昭は1964年生まれ、慶応義塾大学文学部及び大学院で学び、京都大学で博士号を取得、明治大学で教鞭を執っておられる。

鈴木正美『言葉の建築術』

マンデリシュターム研究と副題のついた鈴木正美の『言葉の建築術』は、第一章が初期の詩『沈黙』を、第二章はフランス中世末の詩人フランソワ・ヴィヨンに関する著述を、第三章はアヤ・ソフィア(アイヤ・ソフィア)やノートルダムという建築を扱った詩について、第四章はざわめくテキストとしての「引用」について書かれていて、第八章まである。フランソワ・ヴィヨンはマンデリシュタームが熱心に研究した詩人で、おそらくハイデルベルク大学で古代フランス語を勉強しているのは、この人の研究のためでもあったかもしれない。ドイツでも古代フランス語の立派な研究があるようだ。僕は、ヴィヨンについては、最近知ったのだけれども、とても興味深い本があるので近々ご紹介したいと思っている。

マンデリシュタームは引用の重要性についてこう述べている。「詩人の文学的生成過程の確立、彼の文学の源泉、彼の類縁関係や出自は我々を確固たる基盤へと導く。詩人を語りたいという質問に対して、批評は応えようがないのだが、彼は何処から来たのかという質問に対しては応える義務がある‥‥(『穴熊の巣』鈴木正美 訳)。」

 

「沈黙」

彼女はまだ生まれていなかった
彼女こそは音楽 そして言葉
だから生あるものすべての
断つことのできぬ絆

海の乳房が静かに息づいている
だが狂ったように昼は明るい
そして泡の青白いリラは
不透明なるり色の器の中

私の唇よ 見つけ出しておくれ
生まれながら汚れない
水晶の音符のような
原初の沈黙を

泡のままでいるのだ アフロディテよ
言葉よ 音楽にかえるのだ
心よ 生の根源とひとつに融けあい
こころ羞じるがよい
(鈴木正美 訳)

この詩はロシアでも最もポピュラーな韻律で書かれていて、「ヴィーナス誕生」というテーマも読む人に神話思考的な集合無意識を刺激する主題であると鈴木はいう。マンデリシュタームの人気の作品となった。アクメイストの同僚グミリョフは、この詩について、ヴェルレーヌの「詩法」、つまり「何よりも音楽を」を思い浮かべるという。未来派のリーフシツは、マンデリシュタームの郷愁的な呪文である「泡のままでいるのだ アフロディテよ / 言葉よ 音楽にかえるのだ」に原始時代のカオスへの回帰を見ている。それは、同じ未来派のフレーブニコフが言う「ひとりでに編まれたことば」と同じであり、超意味言語(新たな言語の創造)に匹敵するという。この詩の書かれた1910年のロシアは象徴主義が衰退し、その中で育ってきた詩人たちが新しい詩の言葉や機能を模索していた時代であると鈴木はいう。

フョードル・チュッチェフ(1803-1873)
ロシアの詩人、外交官

この『沈黙』というタイトルの作品にはフョードル・チュッチェフの同名の有名な作品がある。「どうしたら心はおのれを語れるか/どうしたら他人におまえが解るのか/おまえが何故に生きているのか 人に解るというのか/言葉にあらわされた想いは嘘なのだ/泉をかきおこせば 泡だたせる/それを糧とするのだ そして沈黙せよ」

マンデリシュタームは自分の詩に『沈黙』というタイトルをつけることによってチュッチェフとの関係を闡明にした。マンデリシュタームが若い頃通っていた「塔」の主催者であった詩人ヴャチェスラフ・イワーノフ(1866-1949)は、チュッチェフの詩についてこう書いている。「彼の言葉は偉大な、言葉にし得えない精神の音楽のある秘密の標(しるし)のように、多意味で不可解である。‥‥言葉は単に指し示し、示唆するのであり、シンボルであるにすぎない。このような言葉だけが嘘にならない(鈴木正美 訳)。」マンデリシュタームの場合の「沈黙」としてのアフロディテもまた言葉であると同時に音楽であると鈴木はいうのである。

象徴主義者たちの言葉の音志向は、シンボルの多義性を生み出し、やがて行き過ぎて詩の意味を解読不能にしてしまうことさえあった。そこからもう一歩踏み出せば、未来派の「言葉そのもの」の創造へと行き着くのだ。マンデリシュタームの場合の「泡のままでいるのだ アフロディテよ / 言葉よ 音楽にかえるのだ」は、自分の詩が言葉になろうとする時の或る音楽としか言いようのない意識の状態に対しての呼びかけである鈴木はいう。それは、未来派への接点をも可能にするかもしれない。その間の消息を鮮明に伝えるのは『八行詩篇』のうちのこの詩である。

‥‥
おそらく 唇よりも先にささやきは生まれ
樹の生えぬまに木の葉は舞い
私たちが経験を捧げるその人は
経験より先に 輪郭を得ていたのだ
(鈴木正美 訳)

マンデリシュターム夫人は、幻聴は詩人の職業病だと言っているけれど、最初は形式のない、次には正確だが、まだ言葉にならない音楽的語句がしつこく耳に響いてくるらしい。彼女はその旋律から何とか逃げ出そうとして頭を振る夫の姿を何度も目撃したと言う。ある時、この音楽的語句から突然言葉が現われてくる。そして唇が動き始めると言うのである。彼の詩は「作られる以前にすでに存在している」のである。ちなみに、彼はゲーテのように歩き回りながら詩作するタイプで夫人に口述筆記してもらっていた。

関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』

パウル・ツェランについては関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇に書いておいたのでそちらをお読みくだされば嬉しいのだが、今度はこの著書からツェランとマンデリシュタームとの関係を追ってみたい。ツェランはマンデリシュタームの詩を1958年から59年のあいだに集中的に翻訳している。1950年代のヨーロッパにあってマンデリシュタームは、ほとんど無名と言ってよかった。

二人の共通点は、ユダヤ人であること、剽窃事件に巻き込まれたこと、精神障害に陥ったこと、そして、強制収容所で過ごしたことであるが、ツェランは生き残り、マンデリシュタームは亡くなっている。詩論から言えば、重さや実体を重視するアクメイズムの観点が、創作において「世界文化への郷愁」を志向する精神が、ツェランの共感を呼んだ。現実の体験と「間テクスト」性を重視する立場であると言ってよいだろう。アクメイズムは、原始への回帰と郷愁、「獣の魂」への指向を特徴としており、世界がイデアの影ではなく人と物の原初的な関係のなかにあることを望んだ。アクメイストのセルゲイ・ゴロデツキイ(1884-1967)は、この原始主義から自らの主調をアダミズムと呼ぶことになるのである。ツェランの詩集『誰でもない者の薔薇』は「マンデリシュタームの思い出に」という献辞が記されていて、彼に対するオマージュとしての体裁をとっているし、北ドイツ放送の求めに応じてマンデリシュタームの詩論を書いている。これは、特定の詩人のために書かれたツェランの唯一の詩論であった。まず、ツェランが訳したマンデリシュタームの詩をご紹介しよう。

重さと優しさという姉妹よ、
僕はきみたちが同じものに見える。
ミツバチとスズメバチは薔薇の花に潜り込む。
人間は死に、燃え尽きた砂は冷たくなる。

きのう明るかった太陽は 黒くなって運び去られる。

おお、蜂の巣、重い蜂の巣、優しく編まれた網の目。
きみの名前を、二度言うことほど重いものはない。
僕に残されたひとつの憂い、たったひとつの黄金の憂いとは、
時間の軛だ、これを破壊するには、どうすればよい?

僕は水のような空気を飲む、濁った、
光を通さないものを飲む。
時間が犂で耕されると、薔薇が大地になった‥‥。
水ととも静かに回る、重く優しい薔薇たち。
二重の花輪に編み込まれた、重さと優しさの薔薇 !
(パウル・ツェラン/関口裕昭 訳)

重さ(チャージアシチ)と優しさ(ニェージナシチ/軽さとほぼ同意)は姉妹とされていて、ある背反するものを表わしている。マンデリシュタームにあってはミツバチは詩人の象徴であるといわれる。そうするとスズメバチが意味するものは何となく分かる。薔薇については多くの語るべきことがあるけれど、関口はアクメイズムの初期のスローガン「象徴主義から離れろ、生きた薔薇万歳 ! 」を挙げる。薔薇は聖地でもあるだろう。これは僕の見解なので話半分に聞いていただきたいのだが、フランソワ・ヴィヨンの『遺言詩集』にある「遺言の歌186」に関して訳者の堀越孝一は、ろうそくの灯りが葡萄酒商いにまかされていたことの訳注として、蜜蜂と受粉と蜜蝋蝋燭の関わりを書いている。かつて、蝋燭は蜜蝋から作られていたからだ。燃える蝋燭は時間のメタファーにもなり、砂は砂時計の砂を思わせる。だから砂は燃え尽きるといえるのかな? 時間がこの詩の重要なテーマの一つになっている。

アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)
自画像 1820年代

黒い太陽は「黙示録」やネルヴァルの詩『エル・デスディチャド』にあるし、アンナ・アフマートワによれば、それに関連するプーシキンの言葉に「昨日の太陽は黒い担架(ノルシキ)で運ばれる」がある(『トリスチア』早川眞理訳注)。マンデリシュタームの詩では「ユダヤ人の声は沈黙しなかった。/母よ、なんとそれは鳴り響いていることか。/‥‥/黒い太陽の光に包まれて」とある。黒い光線は死のメタファーだと関口は指摘している。「濁った光を通さないものを飲む」とは歴史が重く堆積した時間の厚みの比喩であり、より重い地層と捉えると犂で時間を引き起こすというイメージも捉え易くなると言うのだ。彼のエッセイ『言葉と文化』には「ポエジーとは犂である。それは時を、時の深い層が、その黒土が表面に露れるほどすき返す。しかし、人類が今日に満足せずに、時の深い層を慕って、農夫のように、時の処女地を渇望するような時代がある(早川眞理 訳)」と書かれている。

時間とともに、多くの背反する存在達が堆積する地層、それをポエジーが掘りかえす。その時大地は薔薇と等しいものになるのだ。マンデリシュタームにとって詩とは「時間的な順次性」に沿って流れる時間を「空間的な拡がり」として把握し、その「諸現象の内的結びつき」に従って凝縮したものであると関口はいう。時系列の中で起こる諸現象は、わたしの五感と悟性が切り取った抽象物であり、その抽象物を含み込む「全世界」が、あたかも一つの意識が進展するのと同じように進展しているとアンリ・べルグソンは述べた(『創造的進化』)。それぞれに起こるシステムの過去、現在、未来は扇を広げるように一挙に空間内に展開することも可能だろうともベルグソンはいうのである。そこからマンデリシュタームは、時間と空間を一つにする内的な宇宙イメージという扇を手に入れるのだと関口はいう。重要な指摘ではなかろうか。かくして、ツェランにとっても詩は過去ばかりでなく、未来をも記憶すべきものとなったのである。

アンリ・ベルグソン(1859-1941)1927年

マンデリシュタームは、エッセイ『対話者について』で詩人とは、いったい誰と語るのだろうと問う。詩人は友人や親しい人に向けては語りたがらないという。勿論、個々の詩には具体的個人に向けて語られるものもあるだろうが、全体としての詩は、詩人が自己を疑わずしてはその存在を疑うことのない遙かな未知の宛名人に向けられる。詩とは、海洋に投げ込まれる瓶の中に封印された手紙なのだ。パウル・ツェランがドイツの文学賞であるビューヒナー賞受賞講演「子午線」で語ったように投瓶通信なのである。『誰でもないものの薔薇』それは、「誰にも向けられていない」のではなく、ある対話者が想定されていて、「謎に満ちた複数のあなた」へ宛てられると関口は言う。そのツェランにとって重要だったもの。それは手紙に記された「名前」「運命」「日付」であった。そのヒト・コト・トキが「一つの対話」に集約されていく。

1938年5月1日、マンデリシュタームは再逮捕され、ウラジオストックの北東共同作業キャンプに移された。そこは流刑地への中継収容所でしかなかった。もう中国や北朝鮮が間近に迫る地域だ。反革命活動の罪科で5年の刑である。夫人はその中継地へ差し入れの小包を送ったが、名宛人死亡として返送されてきた。実弟に渡された死亡通知の年月日によれば、1938年12月27日、死因は心臓麻痺と書かれてあった。この非運の詩人の死については、多くの噂が流れた。海中に投じられたとか、刑事犯によって殺害された、あるいは銃殺された、ロマンティックなものではかがり火の下でペトラルカを読みながら亡くなったとかいうものなどがある。1942年か43年にヴォローネジ州のラーゲリ(収容所)でドイツ軍によって殺されたという噂まで流れたし、小説さえ生まれているらしい。

オシップ・マンデリシュターム(1891-1938)1934 最初の逮捕の時の写真

夫人はこう書いている。「‥‥死後、あるいはその前だったろうか、オシップは、かつて自由のときには詩を書き、それ故に『詩人』と仇名され、お粥のための飯盒を持った七十歳の狂気の老人としてラーゲリに伝説の中に生きた。そして、また別の老人は、それがオシップだったのだろうか、「フタラヤ・レチカ」のラーゲリで暮らしたのち、コルイマへ選抜された。多くの人びとは、その人がオシップ・マンデリシュタームだと思っていたが、私はその人がだれであるかを知らない(『流刑の詩人マンデリシュターム』)。」

Lと記されているモスクワの匿名の物理学者はラーゲリからの生還者だったが、彼のもたらしたものは、かなり信憑性のある情報だった。マンデリシュタームは、フタラヤ・レチカのラーゲリで、毒殺されるという強迫観念に再び捉えられ、支給されるスープに手をつけようとせず衣服まで売って角砂糖に換え、それを齧って生きていたようだ。それもすぐに盗まれたという。かなり衰弱しはじめていた。Lはチフスのための隔離室へ移され、そこにマンデリシュタームがいたことを知らされた。そこからLは病院へ移され、退院後にマンデリシュタームの死を知らされたというのである。1938年12月から翌年の4月までの間の出来事だと推測できる。夫人は彼の死が早ければ早いほどよいと呟いてきたという。それだけが苦しみから逃れる唯一の方法だったからである。詩人自身は自分の未来を既にはっきりと予感していたようだ。彼もまた、少なからぬロシアの文学者たちがそうだったように祖国を捨てるに忍びず、運命に甘んじた。何故だろうか。僕は彼がヴォローネジで書いたこのような詩を愛する。

大動脈は血でふくれ
隊列をささやきが走る。
――おれの生まれは九四年‥‥
おれの生まれは九二年‥‥
人の群と獣の群
いっしょに擦り切れた生まれ年を握る。
ぼくはささやく 血の気の失せた唇で、
――おれの生まれは九一年
一月二日から三日にかけての夜
希望のない年である。
だが幾世紀もがぼくを炉火で囲んでいる

『無名戦士についての詩』より 1937年2-3月 ヴォローネジ
(川崎隆司 訳)