『ウィリアム・ブレイク』part1 特殊な誠実とブリコラージュの哲学

テート・ブリテン内部 2017 筆者撮影

ロンドンに行って、見てみたかったもの。第一に大英博物館。あの大英博物館では、アフリカ美術に驚喜し、ケルト美術をうっとり眺め、エジプト美術のスケールに感嘆し、エルギン・マーブルと名付けられたギリシア彫刻コレクションに頬ずりしそうになり、アッシリアの精悍に唸った。ああ、一日では足りない。第二は、ここテート・ブリテンである。このテートでは、フランシス・ベーコンにのけぞり、若いころ結構浸っていたターナーを再認識し、色々研究もしたムーアを懐かしく思いだす。だが、忘れてならないもの、それがウィリアム・ブレイクのコレクションである。建物の確か2階の奥まった所に階段があって、そこを上がると照明を落とした比較的小さな部屋がある。テートの広いフロアに比べれば隠し部屋かしらと思うような場所である。

僕がブレイクを初めて目にしたのは、かれこれ30年も前のことだが、昨日のことのように思いだされる。東京は国立西洋美術館の特別展だった。圧倒的なイメージの洪水とファンタスティックな人物たち。しかし、詩や文章は何だろうか‥‥よく分からない。これは神話らしいが、‥‥何の神話なんだろう。つまり、感動と疑問にサンドイッチにされて、困惑したのものが、未だに消化されずに胸の真ん中にぶら下がったままになっていた。そういえば、その時のこんなカタログが我が家に色褪せずに残っていた。今にして見ても立派なカタログである。今回は、この胸につかえたブレイクを腑に落とすべくあれこれの著作を集約してお送りしたいと思っている。

『ウィリアム・ブレイク展カタログ』1990 
国立西洋美術館 編集 雪山行二 喜多崎親 高橋明也

野の花の歌

森をさまよっていたとき
緑の葉陰で
野の花の
歌う声がした

「私は大地の中で
静かな夜を眠り
畏れをつぶやき
喜びを覚えた

「あしたに私は出かけた
朝のごときバラの面ざしで
新しい喜びを求めて
ただ嘲りに会ったのだ」
(「ロセッティ稿本」小川二郎 訳

「ロセッティ稿本」は、ラファエル前派で知られるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが入手した、詩や絵が書き込まれたブレイクのノートブックである。ロセッティはこのノートの詩などをもとにブレイクの初期の詩について多くの解説文を書いている。彼の芸術・詩の特色を色彩と韻律に見ていたという。当時、ブレイクは一部には知られていても、その奇矯な預言書によってほとんど狂人扱いされていた。しかし、このロセッティやアルジャーノン・スウィンバーンらラファエル前派の作家たちの働きによって評価されはじめることになるのである。

日本で初めてブレイクの翻訳が紹介されたのは、1894年、大和田建樹訳による『反響の野』であったと言われる。ラフカディオ・ハーンは、1899年に東京帝国大学において「十八世紀奇人伝」と題した講義でブレイクを取りあげた。他にジョナサン・スウィフト、クリストファー・スマート、ウィリアム・クーパーらが含まれていた。その数年後の講義「ブレイク――英国最初の神秘主義者」の中で、ハーンはブレイクの詩風はホイットマンに似ているが、彼よりはるかに上質だと高く評価した。コールリッジは、ブレイクの神秘主義的幻想に影響を受けており、その波はブルワー・リットンを経てエドガー・アラン・ポーにまで及んだという。子どものような言葉でこのような深い意味を表わした詩人は他にいないし、禅僧がそうであるように答えを与えることなく問いを示す所にブレイクの特徴があるとハーンは述べた(佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。なるほどハーンらしい批評だと思う。この後、柳宗悦が雑誌「白樺」などでブレイクの本格的な紹介を開始することになるのである。

ウィリアム・ブレイク『ブレイク詩集』
無心の歌、経験の歌、天国と地獄の結婚 収載

これらの評価は『詩的素描』や『無垢と経験の歌』などの比較的初期の詩に対するものであったことは憶えておいてほしい。ここではあの「預言書」は等閑視されているのである。ブレイクが亡くなって36年後の1863年に、アレクサンダー・ギルクリストの『ブレイク伝』がロセッティの主宰する「前ラファエル兄弟会」の援助で刊行され、ブレイク研究の嚆矢となった。その5年後にスウィンバーンの『ウィリアム・ブレイク評論』が、その後にロセッティの弟ウィリアムの編集した『ブレイク詩集』が発表され、イギリスの文学史にブレイクの名が浸透し始める。美術家としてのブレイクの名も1876年に大規模な展覧会がバーリントン美術クラブで開催されるに及んで高まり始めていた。

このような状況の中で衝撃的な『ブレイク作品集』が1893年に刊行された。ブレイクの問題の「預言書」のリトグラフが添えられた全文が刊行されたのである。そこには、エドウィン・ジョン・エリスの回想文とウィリアム・バトラー・イエイツによる解説文が掲載されていた。イエイツは15歳の時から父にブレイクの抒情詩読んで聞かされて育った。父の友人であるエリスからブレイクの預言書『エルサレム』に登場するイギリスの地名について問いかけられると、それは魔法の箱の蝶番の名だと答え、エリスを驚かせ、二人は意気投合したという。やがて、彼はブレイクのシンボル体系の独創的で情熱あふれる論文をまとめ、エリスはブレイク夫妻の伝記を書いた。それが全三巻の膨大な『ブレイク作品集』となったのである。

イエイツはブレイク作品を説明するための秘密の体系があることを確信していたし、彼の作品にはブレイクからの借用と思われる象徴も多いと言う(並河亮/なみかわ りょう『ウィリアム・ブレイク』)。しかし、アイルランド系であるイエイツが、ブレイクもアイルランド系で、彼の思想・芸術にケルトの影響があると考えたのは、全くの勇み足であった。彼のブレイク賛歌にこのような言葉がある。「老人の熱狂をわれに与えよ。俺自身を創り直そう。‥‥真理が彼の呼び出しに応ずるまで壁を叩き続けたウィリアム・ブレイクに変身するように(並河亮 訳)。」

ウィリアム・ブレイク』 (1757-1827)
1807 トマス・フィリップ画

イエイツの思いとは裏腹にブレイクは、1757年、イギリス人の両親のもと冬のロンドンのソーホーにあった靴下店の二階で生まれた。スウェーデンボルグが霊的世界で最後の審判が下されたとした年である。7人兄弟の3番目だった。ブレイクが生まれた頃、彼の住んでいたブロード・ストリートは、彫版師や大工、ハープシコード製作者たちのような中産階級の人びとの住む街だった。当時、ソーホーの近くには、小劇場や音楽会の行われる場所があり、カーライル・ハウスではヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)が指揮をしていた。『ブレイク伝』の著者ピーター・アクロイドによれば、両親は靴下を商う非国教徒の小商人で、政治的には急進的な党派を支持していたという。それゆえブレイク少年は「宮廷」と「古き腐敗」に敵対する家庭で育ったと考えられる。言うなれば、生まれながらに反国教会的、反体制的立場に立っていたということである。

8歳か10歳の頃、少年は「初めてのヴィジョン」を見た。空を見上げると一本の樹に天使が群がっていた。帰宅してそのことを話すと実直な父は嘘をついたとして殴ろうとしたが、母親のとりなしで難を逃れた。しかし、「自分の霊感を信じたい気持ちを明らかにすると父親にきびしくとがめられた」という。愛されることなく、期待もされない状況の中で彼は孤立を感じ始めるとアクロイドは言う。ブレイクの後年の手紙にエドガー・アラン・ポーの詩を思いださせるこんな言葉がある。

ああ なぜ 私は異形の顔に生まれたのだろう。
なぜ 他の人のように 生まれなかったのだろう。
(トマス・バッツ宛ての手紙/蜂巣泉 他訳)

図1 左 ミケランジェロ『聖ペテロの磔刑』1545-49
右 ブレイク『アルビオンの岩の間のアリマタヤのヨセフ』1773頃

ブレイクがあまりにも束縛とか規則を嫌ったので父親は彼に学校教育を受けさせず、父親が出来うる限りの教育を行ったと知人は証言している。芸術的素質は母親によって育まれたともいう。10歳の時、両親は絵画・彫刻アカデミーに入学するための予備校と考えられていた素描学校にブレイク少年を入学させた。少年は「ロンドンの店員の抜け目なさ」に欠け、「間抜けだと言う理由でカウンターから遠い所に追いやられていた」らしい。ラファエㇽロやミケランジェロ、デューラー、ジュリオ・ロマーノらの盛期ルネサンスや北方派の画家たちに興味を持ったが、彼の若い仲間たちからは時代遅れと侮蔑されていたらしい。図1を見ていただこう。ミケランジェロの影響は否めない。次にご紹介する年季奉公時代の初期の作品である。後には、どちらかというと狭い意味でのマニエリスムに近づくようにも思える。この頃、既にスペンサーやミルトンを読み始めていた。

王立美術学校の付属校には進学せずジェイムズ・バザイアの下で彫版師として7年間、版画家の修行をすることになった。1772年、15歳だった。絵画の師につくための謝礼は高価すぎたし、当時、彫版師は有望な職業と考えられていたからである。バザイアは「思いやりのある名匠」であったと言われる。メゾチントなどの流行の技法は追わず、正しい輪郭線や形態の正確なスケッチを心がけていた。デューラーやラファエㇽロに憧れたブレイクの心に叶う師であった。先の図に述べたアリマタヤのヨセフは、キリストの遺骸をピラトから貰い受けた人として知られるが、聖杯伝説とも結び付けられていて、十字架の下でイエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡ったともされ、アーサー王伝説とも関係していた。ウェストミンスター寺院の創始者ともいわれる。ブレイクは、バザイアから彫版の仕事のためのスケッチを頼まれ、このゴシック寺院に通った。そして、魅せられたのである。ここにブレイクのゴシック美術とイギリスという国の歴史にたいする飽くなき興味の端緒が開かれる。

図2 中世の宗教彫刻 ウィーン美術史美術館 2017 筆者撮影

ブレイクの絵画作品にはよく天使やそれに類する存在たちが登場する。その飛翔する者たちのイメージはこのウェストミンスター寺院をはじめとする中世ゴシック美術からもたらされたことは、僕には疑うことができない(図2)。ラファエル以前の芸術といってもよいだろう。勿論、天使ばかりではない。悪魔やそれに類する存在達もいる。この図3、『サタンの墜落』は下にヨブとその家族、中心にサタンたちの墜落、上部に神を中心として左右に天使が配されている。このようなイメージはブレイクの作品には非常に多い。

図3 ウィリアム・ブレイク
『サタンの墜落』1805-06

1779年、22歳の時にバザイアの下での年季奉公を終え、彫版の仕事を開始する。併行してロイヤル・アカデミー付属の美術学校で学べることとなった。しかし、線の芸術を愛するブレイクは、形を陰翳に溶けこませるルーベンスやレンブラントらを評価する管長のモーザーと対立してしまう。権威に対する反抗と激しやすい性格は終生変わらなかった。だんだん美術学校へは足が遠ざかるが、後年まで定期的に作品は提出・発表していたようだ。徒弟時代にシェークスピアやオシアンの『セルマの歌』などに触れていたブレイクは、この頃、アグリッパの『オカルト哲学』、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの建築術の規則などを知るようになる。

24歳の時、薄情な女性へのみじめな求愛から立ち直りかけていた彼は、バターシーにいた父方の親戚の所でキャサリン・バウチャと出会った。文学史上に残る出会いの一つと言われている。ブレイクが部屋に入った時、キャサリンはすぐに将来の夫になる人だとさとり、気を失いかけ、彼がいることに気付いたのは正気に戻ってからだった。若いころはよく諍いもしたようだが、彼女は彼を信じて疑わず、かばい、慰め、そばに大人しく坐り、時には作業を手伝い、彼が仕事をしている間、その集中した意識を乱さないようにしていられる掛け替えのない伴侶となった。

ピーター・アクロイド『ブレイク伝』
池田雅之 監訳 蜂巣泉 他訳

1784年に父が亡くなり、家業は長兄のジェームズが引き継いだ。ブレイクは木製印刷機を買い、ジェイムズ・パーカーと印刷業を始めた。この頃、古ドルイド教団のビヤホールでの気楽な集まりが住まいの近くで開催されるようになる。この古代ブリトン人のドルイド教の集団へフリーメイソン、カバラの学生、政治的急進派たちが接近するようになり、一種の宗教的、歴史的な覚醒が起こるとアクロイドは言う。

ブレイクが愛した10歳年下の末の弟ロバートは、兄と同じように王立美術学院の付属校で学び、実家の隣の印刷屋を手伝っていた。肺病に罹り死の床にいた弟をブレイクは、およそ一人で看病し、最後はほとんど眠らずに付き添ったと言う。1787年、ブレイクが30歳の時のことだった。その時、彼は弟の死に際して決定的なヴィジョンを見た。最後の厳粛な瞬間、弟の解き放たれた魂は、「喜びに手をたたきながら」実際の天上をとおり抜けて昇天していったという。身体から死者の霊魂は脱して霊界で肉体としての姿を再び獲得するとしたスウェーデンボルグの著書に触れ、2年後に妻と共にスウェーデンボルグ教会の総会に参加した。「精霊たちを相手に長年暮らすことが、私の定めであった」というまさに自分と同じ体験をしてきた人に傾倒していったのである。この頃『無垢の歌』、その翌年『経験の歌』が出版されている。そこには、黒人の小さな子供たちや煙突掃除の幼い子供たちを歌った詩が掲載されていた。

えんとつそうじ(『無心の歌』より)

母さんが死んだ時私はまだ幼かったが、
父さんが私を売ってしまった 私の舌がまだ、
煤(すす)そうじ煤そうじとさけぶこともできぬのに。
だから煤はらいになり煤にまみれて眠るのが私のうん。
‥‥(土居光知 訳)

えんとつそうじ(『経験の歌』より)

‥‥
それでも 元気で 踊ったり うたったりするので、
ひどいめにあわせているとは誰も思わず、
私達(あたいたち)のみじめさから天国をつくる
神様 坊様 王様をあがめにゆくのさ。
(土居光知 訳)

当時、煙突そうじの子供たちは、およそ4歳から7歳くらいの間に売られた。平均18センチ四方に満たない通風孔を登らなければならなかった。窒息して死ぬものやススによるガンや体の変形に苦しむものも多く、社会的には乞食・浮浪者と同等の扱いだったという。この「えんとつそうじ」の歌は『無心の歌』と『経験の歌』に対に書かれていて、前者では、子どもたちの心の無垢が、それも自らにとって破壊的な無知の無垢が描かれている。後者では組織的に虐げられた彼らの境遇が、死すべき肉体から逃れることのできない人間の境遇とに重ねあわされているとアクロイドは述べている。彼は、常に虐げられている人々の救済を願わずにはいられなかった人だったし、政治や宗教にもそれを求めた。

T.S.エリオット『エリオット全集 第4巻』
「ウィリアム・ブレイク」収載

T.S.エリオットはブレイクについて、彼の作品にみられるある特殊性に関してこう述べた。ホメロス、アイスキュロス、ダンテ、ヴィヨンの詩に散見され、シェークスピアでは深く隠されているのは、ある特殊な誠実である。誠実であることに勇気のない私たちには、それが何か恐ろしいものに感じられる。或る時代、あるいは、或る傾向が不健全であることを示している凡て病的なもの、異常なもの、偏ったものにはこの性格がない。それが存在するは、対象を集約するためのある非常な努力によって、人間の魂の本質的な疾患ないし力を表現することに成功している場合だけであるという。そして、誠実であることを邪魔するものがなかったとしても、裸な人間がさらされる危険があったともいうのである。

‥‥
併しそれよりも私は真夜中の街で、
若い娼婦の呪いの叫びが
生まれたばかりの子供の涙を涸らせ、
結婚の不幸を救い難いものにするのを聞く。
(『経験の歌』ロンドンより)

これが裸のままの見識で、

‥‥
愛は自分の満足だけを求め、
相手を自分の喜びで縛ろうとして、
他のものが苦しむのをいいことに思い、
天国に逆らって地獄を作る。
(『経験の歌』土くれと小石より)

これが裸のままの観察であるという。しかし、裸のままの哲学と詩との結婚、つまり『天国と地獄の結婚』は上手くは、いかなかったとエリオットは言う。ブレイクは芸術家に許されている以上に自分の哲学を重視し、それが彼を変わり者にし、作品の形式にそれ程注意を払わないものにさせたというのである。彼の哲学は、器用な人間が、家の中のありあわせの材料で拵えた家具か何かを見たときのような尊敬の念をいだかせはする。だが、彼にはダンテのように神話、神学、哲学の枠が与えられていなかった。それがあれば、より詩に専心できただろうと。それで自分で作らなければならなかった。『天国と地獄の結婚』は、そうした哲学から生まれたのだと。はたして、そうであろうか。

ブレイクの思想が、アグリッパやスウェーデンボルグらの神秘主義、ドルイド、カバラ、フリーメイソン、それに加えてヤコブ・ベーメやパラケルススらの思想から構成されいるのは、良く知られている。なるほどブリコラージュであったかもしれない。だが、問題はそれらを貫く糸はブレイクにとって何であったのかということではないだろうか。それを理解することなくブレイクの神話・預言書を概観することは不可能なのではないだろうか。次回part2はブレイクの未完の作品である『四人のゾア』を中心に、この糸を手繰ってみたいと思っている。

 

その他の参考文献

並河亮『ウィリアム・ブレイク』

並河亮(なみかわ りょう)は、1905年生まれ。東京大学法学部卒業後、NHKに入社。日本大学芸術学部、玉川大学などで教鞭を執られ、ユネスコ・アジア文化センター評議員を務められた。文学博士であられる。著書に『ペルセポリス』『シルクロードをゆく仏』『地中海歴史の旅』、訳書にドス・パソス『U.S.A』ロバート・ペン・ウォレン『天使の群れ』などがある。この『ウィリアム・ブレイク』は、ブレイクの生涯、作品、思想などの広範な内容がバランスよくまとめられている。ブレイクについて一冊読むなら、この本をお薦めしたい。