『ウィリアム・ブレイク』最終回「脱構築する神話」六千年のヴィジョン

1795年、38歳で『ロスの書』や『ロスの歌』を制作していた頃、ブレイクは銅板から直接彩色印刷を行う新しい実験に没頭していた。エッチング(腐食)を施したレリーフ状の銅板に色を塗り、プレス機や手の圧力で刷る。絵具には、滲み止めや糊が混ぜられ、その外観は厚塗りの斑(まだら)な質感が強調された、一種のデカルコマニーのような効果が起きる。その頃、妻のキャサリンは有能な助手となって彼を助けている。絵具は速乾性なのですばやく作業する必要があった。やがて、なめらかなエッチングされてない板に色を塗り、印刷し、筆で色を加え、ペンで輪郭と形を整えはじめた。

その成果は『ヨーロッパ 一つの預言』や『ロスの歌』に表れている。その頃の代表的な作品は『ニュートン』であろう。彼は、この新しい試みが大衆に受けると信じていた。しかし、現実には、好事家や他の芸術家たちに売れ口は限定されていたと言う。増刷もしたけれど、大きな注文を受けた時以外は、この彩色印刷法には二度と戻らなかった。フラックスマンやフューズリと言った友人などから仕事の斡旋してもらい、伝統的な技法で他人のために制作することで生計を立てることになるのである。

1800年には、ロンドンからイギリスの南海岸チチェスター近効のフェルファムに転居した。ポーツマスの近くである。海辺の黄砂の上に坐っていると「光輝く粒子」が人の姿となり、「岸辺のない海」のように広がって、自然界がひとりの人間のように見えたという。あるいは、野原を歩いていると太陽がロス(part2参照)の姿になり「激しい炎に包まれ」地面に降りてくるヴィジョンを見た。三年後、自宅の庭にいた兵士を力ずくで追い出そうとし、口論となって、小競り合いが起きた。その時、反国家的な言葉を発したとして「暴動教唆」の罪で訴えられる。いわゆるスコウフィールド事件である。1804年、ブレイクは無罪の判決を受けた。湿った気候が妻の健康を害し始めたのでロンドンに再び引っ越した後のことである。ブレイクを告発した兵士スコウフィールドの名は詩の中に時々登場するようになり、御気の毒ながら堕落した物質幻想を作り出した巨人の一人とされるのである。この頃『ミルトン』『エルサレム』という預言書・神話が書かれ始める。

聖テレサ(テレージア)の法悦』
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ 1652

ブレイクは「理性を見る人は、自分自身だけを見ているだけだ」と言い続けたという。何もかもが、自分たちの(間違った)知覚のイメージで創られていると信じるのは、哲学者や神を創造主として認めはするが啓示を否定する理神論者の罪であるというのである。聖テレサ(1515-1582)は「ヴィジョンはどうすることもできない。見ようと思っても見ることはできないし、努力して呼び出したり、消したりすることもできない」と述べた。彼女は、自然ないきいきとしたスタイルで死者のヴィジョンを書いたともいわれる。ブレイクは、「仕事中に、愚にもつかないことを考えていると、現実のものではない、死者の亡霊がさまよう幻の国にある山や谷に連れて行かれてしまうのだ」と述べた。これは彼が彫版の仕事が遅いといわれていた原因の一つでもあるかもしれないとピーター・アクロイドはその著書『ブレイク伝』に述べている。

『ヴェイラあるいは四人のゾア』『ミルトン』『エルサレム』の預言書が20世紀の思想とどのように関係づけられているかを大熊昭信の著書『ウィリアム・ブレイク研究』から考察してみたい。彼の預言書を読む時、色々な困難があるという。句読点の度重なる省略、語と語の異様な結びつきなどによって意味が容易には通らない。登場人物たちは複雑に分裂したかと思うと勝手にお互いに融合してしまう。物語も気ままに過去に遡りもすれば、イギリスの地にシオン山やエルサレムが突如、登場したりする。予測もつかない変貌をしょっちゅう遂げるというわけだ。著者は、80年代以降、こうした物語が、ポストモダンや脱構築の批評的立場に立つ人たちに歓迎され始めたと言う。

大熊昭信『ウィリアム・ブレイク研究』
「四重の人間」と性愛、友情、犠牲、救済をめぐって

大熊昭信(おおくま あきのぶ)は、1944年生まれ。東京教育大学英文科、東京都立大学大学院及び東京教育大学大学院で修士過程を修了し、文学博士号を取得した。筑波大学、成蹊大学などで教鞭を執られている。著書に『文学人類学への招待 生の構造を求めて』『D・H・ロレンスの文学人類学的考察 性愛の神秘主義、ポストコロニアリズム、単独者をめぐって』訳書にA.J.エイヤー『トマス・ペイン 社会思想家の生涯 』、エドワード・ゴールドスミス『エコロジーの道 人間と地球の存続の知恵を求めて』などがある。

著者はブレイクが『エルサレム』のサブタイトルを「巨人アルビオンの流出」としているところから新プラトン主義の「一者からの流出」に基づいていると仮定した。霊魂も全て一者から流出したというわけだ。新プラトン主義については”世界をロマン化する” part1 中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』のところで述べておいた。そして、「天界の形」とは「霊体」であるというW.H.スティーブンソンの説を紹介する。一般には、霊体は人間の魂がこの世の生を終えた後、天界でまとう一種の衣服であると想定されている。パウロは、そう述べたという。パウロが霊界で着るとした霊体をブレイクでは霊界で脱ぐと言うのである。

これに対して、ギリシアの新プラトン主義の哲学者プロクロス(412頃-485)は、霊魂が三種類の霊の衣服をまとっているとした。人間は死ぬと肉体を脱ぎ、天界とこの世の間の霊界に幽体を脱ぎ、輝体をまとったままで天界に回帰する。中間的霊界に残された霊の衣服がデーモン(幽鬼)の類となってこの世に現われるという。霊魂、オケーマ、幽体、肉体という層構造が考えられている。大まかだが、神智学の分類に近い。オケーマはパラケルススのいう星の体(アストラル体)、あるいは魂の車と呼ばれるものと同じであろうという。ブレイクの預言書で、主人公的な役割を持つロス(part2参照)が「四番目の不死の星の存在」とか「アーソナの乗り物の形」といわれることから、筆者は人祖アルビオンから分離したロスたちがこの霊体の分離した姿ではないかと考えた。ブレイクは当時、このプロクロスを翻訳したトマス・テイラーの講演に出席していたようだ。

『ユアリズンの第一の書』1794-96
ロスから分離するエニサーモン

ブレイクの『エルサレム』では、人祖アルビオンはヒューマニティ、エメネイション、スペクター、シャドウの四つの段階に分裂する。これを著者は、それぞれ霊魂、流出霊、幻霊、影霊と名づける。流出霊は輝体であり善のニュアンスを持ち、幻霊と影霊は幽体であり悪のニュアンスがあるという。魂には男性性が、輝体は女性性が、幽体では息子が、影霊では娘のイメージが割り当てられている。人祖アルビオンはpart2『四人のゾア』でもご紹介したように、その四つの人間的特性に対応する四人の男性性を持つ存在に分離する。そして、この特性に対応する女性性として、やはり四人が分離された。この『エルサレム』では、アルビオンが天界を降下する時、輝体である女性エルサレムを一つ下の霊界であるべウラ(ビューラ)に残し、その幽体をまとって死の世界である最下層のウルロに降下する。ところが、霊魂が脱した輝体なり幽体なりが、もう一度それぞれ独立した霊的な存在として同じように分裂を繰り返して、天界を下り、この世に降下したりするというのだ。主体としての霊魂が、他者の霊の衣をまとうというのはルドルフ・シュタイナーのいう「霊の経済原理」に見られる説だが、霊の衣自体が新たな主体となるというのは、ブレイクのオリジナルだろう。

日本にも古くは、分霊の例は多く、例えば留守宅の妻や女性が、旅する愛する者のために自らの魂を彼等に分けてつけた。それが、万葉の「妹の結びし紐」という慣用句になる。魂結びの紐の緒のことである。その魂の来りて触れて一つになることが「たまふり」の原義だという。魂の離合は極めて自由なものであったし、分離した魂がめいめいある姿を持つこともある考えられていたというのである(折口信夫『小栗外伝』)。なかなか興味深い話である。また、ピュタゴラスの影響を受けたオウィディウスは、ブレイクが愛した『変身物語』の中でこのように述べている。「万物は流転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいった体に住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ(中村善也 訳)。」輪廻転生については今はおくとして、魂が自由に他者に移るという考えは古い時代にはあった。しかし、こうしたことがらも、ブレイクがヴィジョンに従って書いたとしたら、不思議なものでもなんでもなくなるのである。ロスが、自分はアーソナの霊の衣から分離されたとブレイクに告げたなら、彼はそう書いただろう。

ロバート・ブレア 詩『墓』1808
第12プレート「再び統合する魂と肉体」
ブレイク原画 ルイジ・スキアヴォネッティ彫版

だが、書き方は、また別の問題である。自動筆記のように書いたという自らのコメントもありはするが(トマス・バッツ宛て手紙)、全てそのように書いたとしたら『ヴェイラあるいは四人のゾア』の10年にわたる苦闘を説明することはできなくなる。読者は、世界の創造と破壊と再生の物語の中に、様々な登場人物のエピソードが盛り込まれ、それにほとんど恣意的なまでに多様な寓意が説明的に張り付けられるのを目にする。おまけに、ブレイクの「対立の原理」は、相反する価値や意味を物語の中にバラバラに並置するのだ。付加される領域は広範囲に及び、抽象的な徳目あり、同時代の政治思想あり、自伝的要素まで挿入されるというわけである。そうすると、読者はブレイクのこの虚構の世界にすんなり感情移入できなくなる。読者は物語の世界から身を引き離し、リニア―な意味の把握を断念するようになり、垂直的な読みをするようになると著者は言うのである。つまり、自ら物語を再構成し、何層もの寓意の地下水の流れを見分け、それらを平行して眺める。ロスとエニサーモンとの諍いを多様な神話に関連づけ、その中にブレイクと妻キャサリンとの関係さえ読み取ることになるというわけだ。つまり、これがポスト構造主義的読みなのである。

このようなリニア―な解釈を許さない作品が19世紀後半に生まれていたことはミリー・ディキンスンの詩でご紹介しておいた。そして、同じように語り手が誰かを意図的に曖昧にするジェイムズ・ジョイスの手法があった。彼がブレイクの影響を受けた(part2参照)ということを知っておいてもらえればブレイク文学の先進性は理解していただけるだろう。

『死者の復活』1806
(ブレア作『墓』の扉の別案)

1805年にブレイクは、新進気鋭の出版業者ロバート・クロメックにロバート・ブレア作の『墓』の挿絵を頼まれた。原画を描き、版画にするのだったが、クロメックは当時ブレイクが手がけようとしていた白線によるレリーフエッチングを嫌って他の彫版師に任せた。こうしてブレイクの原画は、「ここちよい」「優雅な」銅版画に作りかえられた。これは、ブレイクにとって心の痛手であったことは言うまでもないことだが、クロメックは宣伝力に長けていてブレイクの名をイギリス社会に浸透させるという功績はあった。だが、批評は相変わらず辛辣で、「アンチ・ジャコバン」誌には「病的な空想力が生み出した作品」と書かれたという。ブレイクへの攻撃は「狂気」という宣伝の形で行われていった。しかし、作品は「あのみなぎる霊性と強烈なフォルム」を再び確認させる徒弟時代のウェストミンスター寺院での経験に照らされていたアクロイドは述べている(『ブレイク伝』)。

1809年、52歳の時、ブレイクは「フレスコ画展、ウィリアム・ブレイクの詩的で歴史的試み」と題した展覧会を兄の靴下店で開いた。彼の関心事は中世美術、あるいはゴシックの新しい形態についてであったという。この個展では、チョーサーの『カンタベリー物語』をテーマにした「チョーサーの巡礼」がメインになっていたが、訪れる人は稀で、絵は一枚も売れなかった。『エグザミナー』誌の批評はこうであった。「攻撃性がないので監禁を免れている不幸な狂人。」ブレイクは疎外感を感じはじめていた。「狂気」というレッテル、売れない作品、芸術家仲間からの疎遠、上流階級や中流階級の趣味に対する嫌悪、画一化や標準化といった機械化が進む時代の流れへの反感。

神曲「天国編」より 1824-27
『聖ペテロ、聖ヤコフ゛、聖ヨハネとダンテ、ベアトリーチェ』

貧困にあえぐ晩年のブレイクを支援したのは、若い画家のジョン・リネル(1792-1882)だった。作品を購入してくれそうな人物の斡旋から金銭的な援助まで惜しまなかったが、彼の最大の功績はブレイクに『ヨブ』の水彩画を版画にすることを提案し、資金を工面してくれたこと、そして、ダンテの『神曲』の連作を依頼したことだろう。ブレイクはそのためにイタリア語を学び原著を読んだという。70歳になろうとしていた。ダンテの『神曲』の挿絵は色彩の美しさと明るさで極めて印象的な作品となっている。まさに晩年を飾る傑作となったのである。そして、人生の最後の数ヶ月に聖書の彩飾本の制作を開始した。この頃、ターナー(1775-1851)は『青白い馬に乗った死』を描いていたし、スペインでは、フランシス・デ・ゴヤ(1746-1828)が陰鬱な黒い絵のシリーズを描いていた。

胆石のような症状や下痢、発熱、理由の分からない発作に襲われるようになり、次第に弱っていったが、永遠の想像力は共に在った。死に対する不安はあったが、あれほど酷い仕打ちを受けたこの世を去ることは幸せであったのだろう。最期は、息を漏らすように穏やかに息を引き取った。1827年のことである。70歳だった。その場に立ち会った人によれば、清らかな天使のような旅立ちであったという。

柳宗悦全集 第四巻 1981年刊
「ヰリアム・ブレーク」収録

日本にブレイクの本格的紹介を行ったのは柳宗悦である。柳宗悦らの民芸運動とラスキンやモリスの英国アーツ・アンド・クラフツ運動と比較する時、民芸に際立つのは心を無にすると言う宗教性にあると佐藤光(さとう ひかり)はいう(『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。ブレイクは、「自己滅却」というキーコンセプトのもと、キリスト教をイエスの「ゆるしの宗教」へと解釈し直し相互寛容の思想を打ち立てた。「対立なくして進歩なし」という対立の原理と「生きとし生ける者すべて神性である」という「肯定的世界観」は、バナード・リーチの来日と共に柳の思想に大きな影響を与え、それは民芸にも及んだと言うのである。この西回りの「肯定の思想」は、柳の中で大乗仏教という東回りの「肯定の思想」と合流した。少なくとも20代の柳にはそう思えたのである。ここで、柳が25歳頃、精魂込めて綴った『ヰリアム・ブレーク』からいささかご紹介して終わりたいと思っている。この『ヰリアム・ブレーク』は、彼の伝記・思想・芸術のかなり詳しい紹介からなっていて原文を含めたブレイクの文章の引用も極めて多い。心酔している様子がよく伝わる。

わずか4歳で神の姿を目の前に見てから(アクロイドの『ブレイク伝』では8歳頃、天使を見たのが最初とある)、再び神の声を耳にしてこの世を去るまで彼の70年の生涯は殆ど幻像(ヴィジョン)に充たされていた。彼にとって凡ては驚愕と奇蹟に充ちていて、啓示に襲われれば、その内にいつも永遠相を見出していたと柳は述べている。そして、ブレイクの手紙にあるこの言葉を引用した。「私は此の詩を精霊から直接の命令で書いた。しかも、どういうことを書くかという予期なしに12行または20行、30行を一時に書き下すこともあった。私の意志に反して書くことすらあった。従って書くために費やされた時間というものは存在していない。」そして、「‥‥幻像はこの世に存在しないと言う者があるならそれは謬見である。自分にとって、この世界は幻像と想像とからなる一個の連続体である。」彼の空間とはこのようなものであり、時間とは以下のようなものであった。「自分は過去、現在、未来が同時に自分の前に存在することを知っている。」「自分は上下六千年の間を歩いている、彼等の現象は凡て自分と共にある。」

『青年と老年のウィリアム・ブレイク 28歳と69歳の二重肖像』ジョージ・リッチモンド、フレディリック・テイサム 1826

そして、柳はこう述べた。凡ての芸術、凡ての宗教がその高調に達する時、彼等は自ずから預言の権威を帯びてくると。悪はひとつの状態でしかないという「救済」の宗教観、宗教は一つであり、その源は詩的創造力であるという内発性と芸術の優位、すべての人の内に神はあるという強烈なメッセージ、そして「自己を無にする」という東洋的ともいうべき姿勢に、柳はブレイクのテンペラメントの卓越性を感じ、六千年のヴィジョンを猟歩したその思想に帰依するほかなかったのである。

‥‥
深い真夜中の学びに励む時刻に
書くようにとこの手に神が命じた時
彼は私に語った 私の書くすべては 地上で
私が愛するすべてのものの禍となるであろうと
‥‥
ウィリアム・ブレイク
『手帳からの詩と断片』1800-1803頃
(梅津濟美/うめつ なるみ 訳)

 

その他の参考文献

佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』
佐藤光(さとう ひかり)は1969年生まれ。京都大学文学部で学び文学博士号を取得、その後ロンドン大学でも博士課程で学ばれている。東京大学で教鞭を執っておられるようだ。本書は柳宗悦とウィリアム・ブレイクとの関係を述べたものだが、ブレイクについてもかなり詳しい紹介があり、彼のことを知る上でも貴重な著書となっている。

ブレイク全著作 梅津濟美 訳
ブレイクの全著作が翻訳されている労作である。感謝の他はない。文章がいささか生硬なきらいはあるが、正確な訳に徹しておられるのだろう。そして、安価に、しかも、新品のような古書を送って下さった大学堂書店さんにもこの場をお借りして感謝したい。