『宇津保物語』part1 籠りと神器

『宇津保物語』は面白いと僕は思うのだけれど、源氏物語と比較されてか、意外に人気がないらしい。これは偏見ではないのか。源氏物語以前の物語としては、竹取物語、この宇津保物語、そして、落窪(おちくぼ)物語が知られている。いずれも作者不詳である。竹取物語は、主人公が竹の中に誕生し、月の世界へ帰っていくというメルヘンの中に求婚難題譚が挟まれている。落窪物語は住吉物語の原形となった平安時代の作品のパロディと言われる(三谷那明『落窪物語解説』)。北の方の落窪の君への徹底的な継子いじめと、侍女あこぎと落窪の君の夫になる蔵人(くらんど)の少将との徹底的な復讐劇、そして継子の恩恵を受けながらも改心のないしたたかな継母というストーリーになっていて、典型的な継子虐め譚となっているのだが、継子の仇名が落窪であり、土間のような一段低い部屋に住まわされていたことによってついた名だと言うのは興味深い。

武雄神社の神木、大楠とその祠 
佐賀県 樹齢3000年 空洞は12畳の広さがある

宇津保とは何だろう。こういう時は、この人の著作をひも解くに限る。古い言葉に、うつと言う語があり、空・虚、或は全の字をあてた。熟語としては、うつはた(全衣)・うつむろ(空室)などがあるという。うつは全で、完全にものに包まれている事らしい。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のうつむろは、戸なき八尋殿を、更に土もて塗り塞いだとあるから、すっかりものに包まれた、窓のない室の意で、空(から)の室を言ったのではないか。これはうつぼにも関係があるという。うつぼ舟・うつせみなど、からっぽの意にも、目のないものの意にも考へられるようになったいうのである(折口信夫『霊魂の話』)。

宇津保物語は主人公の仲忠(なかただ)が幼少期にその母と山中の木の空洞、つまり「うつほ」に暮らすことからタイトルとして用いられた。竹取物語は中空の竹のなかに宿った姫が主人公だった。この宇津保物語より後に成立したといわれる、落窪(おちくぼ)物語の主人公は日常とは異なる床が一段低い狭い部屋に入れられている。これについて心理学者の河合隼雄さんは『うつほ物語のなかの女性像』の中で、少女が低い位置に貶められたり、閉じ込められたりした後に幸福生活を送るというのは相当に普遍性を持った物語で、シンデレラ、塔に閉じ込められるラプンツェル、いばら姫などの例にこと欠かないという。宇津保物語では、うつほに籠りはするのだが、既に子供がいる。落窪物語のほうが思春期に適切な「内閉」の時期を持ち、それを経て結婚という幸福を得るという、より普遍的な性格を持っている。しかし、訳も分からず結婚して、あるいはさせられて、子供ができるが、夫との関係も理解できずに内に籠る期間があって、その後、母であることを通して夫婦であることが実感されるというパターンがあるのではないか。『うつほ』の方が古い型で、それが『落窪』型に変化していったとも考えられるというのである。ともあれ、主人公の閉じこもる空間は、全て覆われた竹の中から、穴の開いた樹の洞となり、出入り口があるのだが凹んだ部屋へとモダンになっていく様子は進化と見るべきだろうか。

『うつほ物語』① 1999年刊

『宇津保物語』「俊蔭」一

物語は式部の大輔と左大弁を兼任する清原の王(おおきみ)と皇女との間に容姿の美しい世にも稀な学才を持つ男の子、俊蔭(としかげ)が生まれることから始まる。若くして進士、秀才になるための試験に事もなく合格し、遣唐使に抜擢される。しかし、船は遭難して波斯(はし)国という未知の国に漂着した。涼しい栴檀の木蔭で琴を弾いていた三人の奏者に琴を習う。この三は、俊蔭以降の三代の子孫とその秘伝伝授に対応しているのではないだろうか。木を切るような不思議な響きに促され、3年を費やしてその音のする険しい山の谷底の大木にたどり着く。そこでは阿修羅が罪障消滅のためにその桐の霊木を切っていた。琴を作るためにその木の一部を貰い受けようとした俊蔭は、天下った天稚御子(あめのわかみこ)の助けで三十もの琴を授けられて日本に帰ることになるのだが、七人の仙人と合奏していると仏が現われて俊蔭に汝は淫欲の罪によって人の身を受くることなき身なれども高徳の仙人を助けたことによって人に生まれることができた。阿修羅に憐みの情を覚えさせ、菩薩・仏の耳驚かせた因縁によって何世にも亘って仏との縁を持つことになろう。そして、この山の仙人の七番目にあたる子孫を汝の三代目の孫として得られるであろうと予言した。仏や仙人に琴を献上して12の銘のある琴を持ち帰るのであった。23年の月日が流れていた。

帰国後、東宮(皇太子)の指導役となった俊蔭は、天皇の皇女で臣籍に下りた一世の源氏の女性と結婚し、娘を一人授かる。父と同じ式部大輔と左代弁兼務となった。その娘にあの波斯(はし)国から持ち帰った琴を習わせる。七つの琴は嵯峨帝や東宮、高官たちに献上し、帝の前でせた風と銘のある琴をかき鳴らすと御殿の屋根の瓦がこなごなに砕けて花のように散ったという。だが、それから俊蔭は出仕を辞退し京極に風流な邸宅を建てて娘の琴の教育のみに専念するようになる。美しく成長していく娘に結婚の申し込みはあとを絶たなかったが、俊蔭は一切とりあわない。しかし、娘が十五の歳に妻が亡くなる。追う様に俊蔭も亡くなるが、遺言に屋敷の片隅に埋めた二つの秘琴の存在を告げる。俊蔭の家は、その頃には既に窮乏していて使用人も召使の老女のみとなっていた。

豊永聡美『天皇の音楽史』

古琴について

琴について少し述べておきたい。音楽史の研究者である豊永聡美(とよなが さとみ)によれば、3~5世紀にかけて仲哀・応神・允恭(いんぎょう)・雄略といった天皇たちが琴を弾いたという記述が古事記や日本書紀にみられるという。この頃の琴は四絃ないし五弦であったようだ。とりわけ応神天皇が愛した琴は「枯野(からの)」と呼ばれる神器であったという。潮焼けした官船から得られた木で作られ、その波で打たれた材から発する琴の妙なる音は七里先まで響いたといわれる。それは降神や政りごとのための神事と関わっていた。

後には天皇が学ぶべき学芸となり、管(笛、笙)と絃(琴、琵琶)が主流で打はなかったという。天皇がどの楽器を演奏するかは宮廷音楽に参加する殿上人などの栄枯盛衰に関係することもあり、時に皇統の在り方も左右したという。平安時代は桓武天皇から平安中期の醍醐、村上天皇に至るまでほぼ琴(和琴、七絃琴、筝)の時代であった。13世紀の『文机談』には、桓武帝が、なら丸という御師について琴を学んだという記述があり、とりわけその第二皇子であった後の嵯峨天皇は『和琴血脈』という和琴の相承図の筆頭に名が挙げられている。この『宇津保物語』に帝、後に院として、その名が登場するのも故あってのことのようだ。大まかに言って、平安中期以降は笛(龍笛)、鎌倉時代に入ると琵琶が主流となっていくようである。『天皇の音楽史』からご紹介した。

中国では、オルガンを風琴、ピアノは鋼琴というように楽器のことを琴というため日本でも琵琶の琴(こと)とか琴の琴(こと)と言っていた時期もあるようだ。この宇津保物語に登場する琴は、漢の時代に形が整えられ、その後、奈良時代に日本に伝来した七絃琴で古琴と尊称されていた。上面は天を象って丸く桐で作られ、下面は地を象って平らに梓(あずさ)を材料にしたものを貼りあわせて共鳴箱を作る。梓は弓の材料として知られる木である。全面を焼いて灰の漆喰が塗られ、さらにその上に漆が塗られる。長さ約120cm、肩の幅が20cm、腰の幅15cmと決められている。下面に音穴と呼ばれる音の出る空洞が作られ、大きい方を龍池、小さい方を鳳池と呼ぶ。そして、絹糸の七絃が張られるのである。この数は、俊蔭が出会った7人の仙人と対応している。筝(そう)のように琴柱(ことじ)と呼ばれる木の駒で音程を調節することは無く、螺鈿を嵌め込まれた徽(き)と呼ばれる部分を目安に手で絃を押えて音程を決める。特に絃の上を指が滑る時に出る音は走音と呼ばれる。一種の衣擦れのような雑音であるけれども琴独自の雰囲気を醸し出すといわれ、古人はこの音色を「松風」と呼んだ。

古琴奏者の伏見无家(ふしみ むか)によると、この琴の音は心の昂揚するような音ではなく、人の心を深く沈思させ寂寞とした気分にさせる音色で低音は野太く重厚、高音は玉石を叩くような玲瓏とした音であるという。龍池、鳳池の音穴は下を向いていて下方から響き渡り、人の内面に向うという。そして表面の漆喰と漆は音響を逆に抑える。「琴は禁」に通ずるといわれ、身を修め、性(こころ)を理(おさ)めるための楽器だった。したがって、歌舞音曲といった類の音楽に使用されることはなく、雅楽に取り入れることも困難だったと言う。しかし、現在はスチール製やナイロン製の絃が使われるようになり古琴の音も大きく鋭くなったといわれている。

16絃古筝
絃と胴の間に木製の駒がある

『宇津保物語』「俊蔭」二

主人を失った屋敷が見る影もなくなった頃、時の太政大臣が願掛けのため賀茂神社に参詣することがあった。娘はその行列をなんとなしに蔀戸(しとみど)のそばに寄って見ていた。そのお供の中にやはり十五歳くらいの若小君(わかこぎみ)と呼ばれる美しい少年がいる。その願掛けの帰りに二人は結ばれるが、少年は無断で外泊したことを両親に責められ以後は厳しい監視の目にさらされ、屋敷を出ることが出来なくなった。娘との再会を固く契ったが果たすことができなくなる。

若小君の子供を宿した娘は、召使の老婆に懐妊を教えられ、恥ずかしくさえ思えて泣いた。しかし、老女はしっかり者でわずかに家に残った高価な鞍を売り、出産の用意を整えると、娘は無事に玉のように美しい男の子を生んだ。この子が五つになった時、老女も亡くなり、この子は母のために魚釣りを習い、魚を持ち帰る。しかし、普通の魚と思っていたものはたちまち百味を備えた食物に変わったという。冬には山芋、木の実、葛(かづら)の根を掘り取ってきた。深く山に分け入って食べ物を探す時を惜しむ少年は、北山にある築山のような丘の上に杉の大木が四本合わさって大きな部屋ぐらいになっている空洞を見つける。その前は明るく開けていて近くに泉もあり椎や栗の林がぐるり囲んでいた。少年の孝心に打たれた熊はその洞を少年に譲って立ち去った。母は息子にいざなわれるままに琴とともにその洞に移る。母と息子は昼となく夜となく琴を合奏した。猿たちは演奏に感じ入ったのか、芋や果物などの色々の食べ物を葉に包んで持ち来たって、集まるようになった。木の根を食べ、木の皮を着、木のうつほを住処にしていてもこの子には輝くような光が備わっていたし、母の容貌も一段と勝って美しいものになっていく。息子は既に十三歳になっていた。

帝が北野神社への御幸される日、お供の右大将兼雅(かねまさ)は琴の音を聞いた。縁(えにし)の糸は再び結び合わされる。音を尋ねた場所で出会った少年の話には心当たりがある。兼雅は、あの若小君であった。言葉を尽くして少年を説得し、母は、また息子の言葉に従って京に戻ることになる。此の息子が、この物語の主人公、仲忠(なかただ)である。

『うつほ物語』③ 1999年刊

神器の琴と籠り

神器の琴がどのようなものだったかは、大国主命が天の沼琴(ぬこと)を持ち運ぶ際、木々にそれが触れると大地が震撼したという記述が古事記にある。こんな不可思議が、宇津保物語にもしばしば述べられている。例えば俊蔭(としかげ)の娘が隠れ住んでいた宇津保の近くに東国からの武者四、五百人が陣取り、山中にあふれ、目に入った鳥獣を片端から殺して食べた。食べ物を運んでくれていた猿たちも容易には近付けない。そこで俊蔭の娘は、幸福な時、不幸な時の極限に至ったらこの琴を弾くように遺言された「なん風の琴」を一声かき鳴らした。すると山の大木はことごとく倒れ、山は逆さまになって崩壊したという。宇津保を取り囲んでいた武士たちは崩れた山に埋もれた。また、最終話「楼の上」の下巻では、俊蔭の娘とその息子仲忠、そして、その娘の犬宮がそろって演奏する場面がある。その同じ音色の音は空高らかに鳴り、あらゆる種類の鼓や管楽器、弦楽器を合わせて一つにしたような音となって響き渡った。聴く者は宙に浮き上がりそうになり、星たちは激しく瞬き、雷の鳴るような閃光が入り乱れたという。

ほとんどの楽器には「うつほ」のように空洞がある。その空洞が振動を響かせ天地と共鳴する。今まで何度か述べてきたことだけれど、日本の古代には、現在の神と等しく考えられていた魂(たま)が、この宇津保のような空洞に人知れず宿ると考えられてきた。これを籠りという。日本の古代宗教にとって最も重要な概念になっている。そのうつろなものの中で霊力を蓄え、成長した魂が、このウツツの世界にみあれするのである(折口信夫『霊魂の話』)。音は楽器という「うつほ」へ籠り、共鳴して世界へと鳴り響く。「うつほ」は霊力を蓄える場であり、音魂としての神がそこに現われる。そのような力を秘めるからこそ神器と呼ばれることになるのではないだろうか。琴は、巨大な象徴なのではないか。波斯(はし)国への漂流という俊蔭漂流譚に始まるこの物語は、その孫である仲忠とその母の宇津保への貴種流離譚でもあった。しかし、俊蔭とその子孫の籠りの物語とも読むこともできる。秘伝伝授のために俊蔭が娘に対して行う屋敷への徹底的な籠り、娘と仲忠との「うつほ」への籠り、俊蔭の娘と息子の仲忠そしてその子の犬宮との東の楼への籠りと三重に重ねられた籠りという空間の中で、琴の秘伝は伝えられていくからである。この物語は古来の神話の原型が幾重にも繰り返される構造となってはいないだろうか。

貴種流離譚については平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者 part2 紫式部の手法に書いておいたのでそちらをお読みくださればと思います。次回part2は『宇津保物語』の野性をテーマに中上健次がこの物語を基に書いた同名の小説『宇津保物語』をご紹介する予定です。

 

古琴の演奏を掲載しておきます。