種村季弘『パラケルススの世界』 part1 魔術の如き哲学

アインジーデルン  下に見えるのがアインジーデルン修道院

「チューリッヒ湖畔プェフィコンからエッツェルの山道を越えて巡礼地アインジーデルンに向う巡礼街道、目的地から徒歩一時間程手前でジール河を横断する。巡礼者の往還が頻繁になるにつれて、大水のたびに流されていたジール河上の木橋は、1120年マリア・アインジーデルン・ベネディクト派修道院第十代院長ゲーロの手によってあらたに堅牢な石造りの橋に改築された。以来、ジール河に架かるこの橋は、その名も『悪魔の橋と呼ばれて今日にいたっている。」

スイスの悪魔の橋と言えばターナーも描いたゴッタルド峠の石橋が有名だが、このアインジーデルンは、ある医者の生まれ故郷として名を馳せている。その医者は悪魔ようでもあり、天使のようでもあった。冒頭の文は、種村季弘(たねむら すえひろ/1933-2004)『パラケルススの世界』の書き出しである。種村さんといえば僕の大好きなドイツ文学者だった。矢川澄子との共訳グスタフ・ルネ・ホッケの名著『迷宮としての世界』以来、多くの訳書や著書に触れさせていただいた。『ビンゲンのヒルデガルト世界』も名著なのだけれど、今回は、主にこの『パラケルススの世界』を中心に、ルネサンスのヘルメス学についてフランセス・イエイツ〈1899-1981〉の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』から、錬金術関係については心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875-1961)の著書『パラケルスス論』を織り交ぜて、このパラケルススの世界へ耽溺してみたいと思っている。

テオフラスト・ホーエンハイム 1493-1541
アウグスティン・フィルシュフォーゲル画 1540

今回の主人公、テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、この橋のたもとにある一軒の農家で生まれた。後の通称をパラケルススといった。この名の謂れは二説あって、一つはホーエンハイムのラテン語読み、もう一つは古代ローマの医学者ケルススを超える(パラ)という説である。父は、ドイツのシュウァーベンからスイス国内を放浪して、このアインジーデルンに定着した医師であった。パラケルススの父方の祖父はヨハネ騎士修道会の管区長を務めた人ではないかという説があり、騎士階級の出であったようだが、庶子であるために職業として医師を選んだ。母はアインジーデルン修道院に対する隷属と納税の義務を持ち、死後は遺品の一部を奉納しなければならない隷民の身分であったという。しかし、ある伝記によれば修道院直属ではあるが名望ある一家の女性とある。彼が生まれて9年後には、この父子はここを去って、現在のオーストリア領ケルテン州にあるフィラッハに移っていることから、母親は早くに亡くなったとされているようだ。パラケルススは、この母に関して、ほとんど無きもののように扱っていて、彼自身にも、生涯を通じて全く女性の影がないのは、伝記作家の中でも謎の一つのようである。

父は本草学に深い造詣があり、パラケルススの名であるテオフラストはアリストテレス没後のペリパトス学派の重要な指導者であったテオフラストス(BC371-BC287)の名に因んだと言われている。古代ギリシアの哲学者、植物学者、博物学者で「植物学の祖」と言われている人だ。ここアインジーデルンは多くの国々の巡礼者が訪れる聖地であり、彼の家の前を歌や祈りの文句を唱えながら行進していく様々な人々がいた。その中には不治の病に苦しむ人々も多く、教会付属の巡礼病院が父の仕事場であったことは、後のパラケルススの生涯の多くを暗示するかのようであった。美しいアインジーデルン修道院教会には有名な黒い聖母子像があり、彼が「子供はいかなる恒星をも遊星をも必要としない。母親が子供の遊星であり恒星である」という母についての唯一の記述を残した時、パラケルススの脳裏には、この聖母子の姿があっただろう。それが、グノーシスのソフィアと重なったかどうかは僕には分からない。

彼は後年、こう書いている。「私は生まれつき細やかな糸で紡がれているような人となりではない。お蚕ぐるみの綺麗事で何かをものにするなど、私の国のやり方ではない‥‥私の国の人間はまたいちじくや蜜酒や白パンで育てられるのではなく、チーズと牛乳と燕麦パンで育ったのだ。これで繊細な人間ができるわけはない。それにまた、子どもの頃に受けたものが一生の間その人につきまとうのである。‥‥樅の実の中で人となったわれわれは、頑固で物わかりが悪いのだ」と。ちなみにオーストリアのアルプスよりの町インスブルックには、魔術師としてのパラケルススの名が伝説の中に生きている。そこでは、グリム童話の壜の中の魔霊のように樅の実に閉じ込められた悪魔を解放して、その報酬に黄金製造薬と万病に効く霊薬を手に入れるしたたかな魔術師なのである。

父とともに移ったケルテン州は東をスロヴェニアに南をイタリアに接する交通の要所であり、パラケルススによれば、鉱山技術はこの町で習得されて他の国にもたらされ、ゲルマニアにおいて医学の最初の技術が受容されたのもこの国であったという。鉱山と医学にとってケルテンこそ濫觴(らんしょう)の地であったのだ。フィラッハは、その第二の都市であった。

父ウィルヘルムの薫陶の後、いくつかの付属学校、そして、聖パウル修道院で学んだ。その修道院長は、皇帝マキシミリアン一世のために降霊術を用いて、亡き王妃マリアを冥界から呼び戻したと言うヨハネス・トリテミウス(1462-1516)だったと言われている。この人は、『穏秘学』を書いたコルネリウス・アグリッパ(1486-1535)にステノグラフィア(ステガノグラフィー)を伝授したことで知られる。データを他のデータに埋め込んで、その存在を隠す技法であり、一種の暗号術である。モーセは秘密の知恵をユダヤ教説に表面上無害な言葉で書き残したとされ、その知を明かせる者は、それがどのように隠されているかを学んだ者のみであり、この隠蔽と再解読がカバラと呼ばれるものなのであるという。これは狭義のカバラなのだけれど、そのような隠す技術の伝統をステノグラフィアの中に見ている人もいるようだ。勿論、10代のパラケルススがステノグラフィアを学んだとは思えないが、このような知的環境の中にあったことは確かなようだ。

ヨハネス・トリテミウス(1462-1516)(ティルメン・リーメンシュナイダーによる彫像)と暗号学書ポリグラフィア 

1509年、16歳のパラケルススは一般教養の基礎である自由技芸七科の仕上げを大学で成すべくフィラッハを旅立った。二年間でその課程を終え、得業士(バカロレアト)の資格を得て、その後一年ウィーンあるいは南ドイツのいくつかの大学の門を叩いた。その間、チロルのインタールにあるシュウァッツ鉱山で「高貴にして晴れやかなユンカー(地主貴族)」と呼ばれた鉱山主のジークムント・フューガーとその弟子たちに錬金術化学の手ほどきを受けた。この技術は無機化学薬剤を作るうえで大きな助けとなる。

1513年から16年まで、そして1522年から24年の二度に亘ってイタリア・ルネサンス医学のメッカであったフェラーラ大学に学ぶ。このイタリアの大学には、ガレノス、プリニウス、アヴィケンナといったアラビア語訳の著書の誤りをギリシア語原典から校訂したニッコロ・レオニツェノがいたし、何よりも「無益な饒舌」より外科医術などの実践を重んじた革新的なルネサンス医学の旗手の一人だったジョバンニ・マナルディがいた。特筆すべきは、このマナルディがミランドラ伯ジョバンニ・フランチェスコ・ピコの宮廷に計13年あまり滞在していることである。フランチェスコの甥はあのピコ・デラ・ミランドラであった。ちなみにパラケルススが学んだ街フェラーラにあるスキファノイア宮殿の壁には、その約半世紀前にフランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477年頃)による占星術記号と12ヶ月にまつわる寓意画が描かれていた。アビ・ヴァ―ルブルク(1866-1929)がイコノロジーという言葉を使い始めた頃に研究していた壁画だ。

フランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477頃)
スキファノイア宮殿壁画
3月牡羊座の寓意「ミネルヴァの勝利」1469-1470

ピコの師であったマルシ―リオ・フィチーノ(1433-1499)は聖職者であると同時に医者だった。ここからはヴァ―ルブルクの偉大な弟子の一人フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』からルネサンスのヘルメス学についてプロットしてみる。長くなるけれど、この哲学を抑えておかないとパラケルススは、ただの法螺吹き医師に見えてくるのだ。

世界の知性、世界の魂、世界の身体という三層構造が想定される。神的な知性に内在するイデアは世界の魂に投影され、その内に映像ないし形態として反照され、世界の身体内の物質の形態へと写り映えるとされる。その世界の魂の中にはイデアの数だけ「種子的理性」があり、世界の様々な物質ないし身体にその実体を宿すと考えられた。世界の魂にある理性と下位の形態との調和的符合は、ゾロアスターによって「神的な連結」、キュレネーの司教シュレシウスには「魔術的呪縛」と呼ばれた。この魂の内にある天界には様々な図像があると考えられた。黄道帯にある12の星座とその外にある36の星座の「相」もこうした図像の一部である。このように整序された天上の形態に、より劣った地上の事物の形態は依存しているという。これは最も古い時代のプラトン主義者たちに由来するとフィチーノは述べた。

『ヘルメス選集』1471  右 マルシ―リオ・フィチーノ像

ヘルメス学あるいはヘルメス教でいうヘルメスは、書記であり叡知の化身であるエジプト神トートがギリシアの神ヘルメスと習合したもので、しばしば「三倍も偉大な(トリスメギストス)」という称号がつけられた。おそらく2世紀から3世紀にかけて(最も早期の文献は前3世紀『ヘルメス文書』)、アレクサンドリアなどの東地中海沿岸地域を中心にして、無名の多くはギリシア人たちが書いたと言われる文章が『アスクレピウス』や『ヘルメス選集』である。かつての栄えあるギリシア哲学は衰退し、禁欲と宗教的な生活に支えられ、神殿も儀典もない、「世界認識(グノーシス)」を内実とした孤独な心の内に執り行われる祭祀が起こりはじめる。グノーシスはヘルメス文献が書かれた頃、互いに影響しあった、同じく地中海世界に栄えた善悪二元論を特徴とした宗教・思想である。ギリシア化されたローマ帝国での特徴とされる親エジプト的風土にペルシアのゾロアスター教やカルデアの占星術が流れ込んでいた。そして、1200年後、一人の修行僧がマケドニアからギリシア語で書かれたヘルメス文献の写本を携えてフィレンツェにやって来る。コジモ・デ・メディチは、その写本の翻訳をフィチーノに命じたのである。こうして、ルネサンス期のイタリアにヘルメス学が請来された。

ピコ・デラ・ミランドラの墓
フィレンツェ、サン・マルコ寺院

フィチーノは、このヘルメス文書の中の「ポイマンドレス」に旧約聖書の「創世記」とよく似ている箇所があることに驚き、やがてヘルメストリスメギストスとモーセとが重なり始める。この大きな誤解がヘルメス学を時代の先端に押し上げて行く。ヘルメス文書は哲学的な部門と占星術、錬金術、魔術関係の文献に別れる。宇宙における占星術的パターンとこの哲学は関連しており、グノーシスと魔術は協同していた。すべての物体は星々から降り注ぐ秘密の影響に依存している。術者が惑星ウェヌス(金星)の力を用いたければ、ウェヌスの姿を知り、ウェヌスに属する植物、鉱物、動物を知り、占星術の告知する正しい時に、それを護符の上に正しく刻み込むならば、その星の精気を捉えて用いることができた。惑星だけでなく、黄道十二宮の〈宿〉の徴(しるし)も、それらに関係する植物、動物、図像等を持っていた。スキファノイア宮殿壁画はこの図像の印象的な例と言えるだろう。

「万有」は限りなく複雑な相互関係の網の目によって連結した「一者」であり、魔術師はこの網の目に参入できる者のことであった。上方から下方へと下ってくる霊的感応力の連鎖を知りつくし、地上の事物に内在するオカルト的共振、天上的な映像の数々、呪文や呼称を知らなければならなかった。フィチーノは、アウグゥスティヌスの魔術への論難をうまく逃れようとしながら通俗的で下賤な中世の魔術をルネサンスにおける神的な魔術へと格上げする契機を作り上げたのであった。ちなみに、コルネリウス・アグリッパの『穏秘哲学』は、ルネサンス魔術全領域の初めての概説書といわれているが、フィチーノの論述する魔術と大差ないとイエイツは述べている。

フィチーノのヘルメス教(学)的魔術は、その弟子ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)によって強力に、イェイツの言葉を借りれば、あけすけに標榜された。ピコはルネサンス魔術に別の範疇から極めて重要な要素を付け加えた。それが、実践的カバラと呼ばれるカバラの魔術である。ヘルメス教とカバラは神のロゴスによって結び付けられる。モーセの時代の書と誤解された『ヘルメス文書』には「あの光は、私であり、お前の神なるヌース(叡知)であり、ヌースから出た、輝くロゴスは神の子である(荒井献、柴田有 訳)」と述べられている。旧約聖書の創世記において被造世界は「〈神〉の言葉(ロゴス)」によって形成されたのであり、それはヘブライ語であったはずである。それゆえヘブライ語は魔術的威力を発揮するはずのものであったのだ。ピコが創り上げ、ほとんど煽ったとさえ言えるヘルメス教とカバラの融合は、数秘学とピュタゴラス的和声学を吸収しながら、その複雑な宗教的迷宮の内で世界創造と人間の本性に関する学として後世に影響を及ぼし続けることになる。

カバラはヘブライ語の「伝承」あるいは「受け入れ」を意味する言葉である。物質世界は、創造神エイン・ソフから聖性の10段階にわたる流出の過程で生起すると考えられた。この中世期のスペインで発達したカバラは10のセフィロト(生命の樹)と22のヘブライ語のアルファベットが基盤となっている。セフィロトは、一般的な神の呼称からなり、全体として唯一の名をなすと同時に、世界へ向けて言挙げされた創造する10の名である。文献としては13世紀につくられた『ゾハール』の書が、良く知られている。10のセフィロトは7つの惑星圏、恒星圏、高次の天球という10の天球圏に対応していて、その仲介者としての天使や神霊、それに対偶する悪しき天使や悪霊も階層をなし、他の範疇の位階に対応している。ヘブライ語のアルファべットはカバラ主義者にとって〈神〉の名を含むものであり、創造する言語としての霊的本性を含むものであった。そして、それらを観相することは〈神〉それ自体と〈名の威力〉に対する瞑想でもあった。

13世紀スペインに生きたユダヤ人であるアブラハム・アブラフィア(1240-1291頃)は、ヘブライ語の文字を組み合わせるシステムを作り、それによって限りない順列と組み合わせを可能にし非常に複雑な瞑想技法を作り上げた。それによって新たな天使たちの名を創出し、護符に刻みつけて魔術の手段にもし、ヘブライ語の短縮やアナグラムによってより強力な言葉を創出しさえした。しかし、その最も複雑な技法がゲマトリアと呼ばれるものでヘブライ語のそれぞれに一定の数を割り当て、言葉を数値に転換し、その逆も可能にした。こうして全世界の物事は言葉=数として読み取り可能となる。世界は方程式化され天使たちの名に結び付けられて実践的カバラの手段となるのである。これは、ライモンド・ルルスのアルファベットの回転盤による新たな概念の創出という「結合術」に結びつくかもしれないし、世界は既に全てが書きこまれている一冊の本という考えにも結び付き、ライプニッツやマラルメへと繋がっていく。

カバラ学者のゲオルグ・ショーレム(1897-1982)は、ピコがこのアブラフィアの文字-結合を知っていたのではないかと考えているらしい。そして、ピコがこれらカバラの研究に没頭したのは三位一体やキリストの神性に関しての深い洞察を与えてくれると信じていたからだとフランセス・イエイツは述べている。ピコこそ、新しいヨーロッパ的人間を大胆奔放に定式化した人物であった。魔術とカバラを二つながら用いて世界に働きかけ科学によって自己の運命を支配しようとする人間である。さあ、それでは、そろそろ『パラケルススの世界』に戻ろう。

種村季弘『パラケルススの世界』

パラケルススの医学の師マナルディは、ピコからこのような「哲学」を引き継いだであろうと考えられる。それは、後のパラケルススの著書に窺える思想が、この「哲学」を抜きにしては成り立たないからである。一途なイデア的な世界への憧憬ではなく、暗黒の地上世界は天上の光を宿しており、それを救済するための手段としての医学という考え方であった。天上の光とその反映である自然の光を捉えて地上の物質を救済すること、この真のキリスト教へ到るための哲学がパラケルルススの生涯を貫いているのは間違いないだろう。あとは、このような原理から実践へと移らなければならなかった。彼は、フェラーラを発って、ヴェネチア、ボローニャ、フィレンツェ、シエナを経てローマに向う。中世共同体は、現在よりはるかに国際的であったと種村は述べている。イタリアで取得した学位はドイツでも通用し、その逆もまた可であったという。グラナダ、リスボンに旅し、ヒスパニア、イングランド、マルク、プロイセン、ハンガリア、ウァラキア、クロアチアその他様々な国を巡り歩いた。1516年から1524年までの8年間に亘る大遍歴時代である。

ローマやパリの大学で大きな失望を味わい、ナポリで多数の梅毒患者を見、途中オランダ戦争やヴェネチア戦争に野戦医として従軍する。旅金稼ぎのためだったようだ。ここで外科医の重要性を再認識することになるのだが、事にあたって素早く逃げ出す彼の特性はこのような戦争での体験からきているのではないかと僕は思ったりする。博士のもとばかりではなく理髪外科医、湯屋外科医、経験ある医師や女呪医、医療を事する魔術師、錬金術師、僧院など貴人賎民を問わず訪れた。このような機会を通じて有効な治療法とペテンとを見分けたのである。後年の著作『大外科医』にはこんな話が紹介されている。ある男が片耳を切り落とされ、一人の湯屋外科医がそれを拾って、石工用のパテ、練りチーズなどで元の所にくっつけた。この外科医は称賛を博し、驚異の叫びを浴びたが、翌日膿が広がって、耳はまたもげてしまった。民間療法全てが正しいわけではないが、外科医術に関して、当時の大学では全くかえりみられることなく、下賤の術として切り捨てられていたことは知っておかなくてはならないだろう。

大遍歴時代を終えて一旦父の住むフィラッハに戻ったパラケルススは、再び第二遍歴時代と呼ばれる時期に入る。三十歳になっていた彼は、適当な定住地を得るためにザルツブルクを目指したが、そこでの滞在は1524年から1年間のみであった。パラケルススは滞在中に、この市の司教側の神学者と公開論争を行ったのであるが、彼は素面で緊張すると強度の吃音になるらしかった。赤面恐怖症はこの論争を支離滅裂なものにしたらしいのである。折からドイツ農民戦争は頂点にさしかかっていたのだが、ザルツブルクの司教は数人の炭鉱夫を信仰の問題で裁判に付した。それに対して他の鉱夫が蜂起し、それに呼応して農民軍がザルツブルク市を占領した事件が起こる。パラケルススはその間、火酒を片手に街道筋や市内の旅籠で農民たちを煽動したらしい。酒が入れば、舌鋒火を噴くのである。「もし余の弁舌が悪魔のものであるならば、彼らは諸君に従って余には従わぬであろう。だが、彼らがかように余に従って諸君に従わぬのであるからには、精霊が彼らのなかに宿って、彼らに諸君の魂胆や欺瞞や大嘘を見分けるように教えているのだとしか考えられないのである」と後に述べたらしい。彼の添え名であるボムバストは、彼の家系ではよく使われた名前だが大法螺吹きという意味である。それはともかく、歯に衣着せぬ反教権主義者をほっとくほどザルツブルク司教は寛大でなかった。彼は逮捕され尋問を受けたが、証拠はなく釈放された。だが、再逮捕の可能性は十分ある。それで、彼は家財をそのままにザルツブルクを夜逃げしたのである。

今回は、パラケルススの前半生と彼の哲学の根幹にかかわるヘルメス学を中心にご紹介した。次回 part2はパラケルススの後半生、そして心理学者のユングが語るパラケルススと錬金術との関わりをご紹介する予定である。

 

その他の参考文献

フランセス・イエイツ(1899-1981)
『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』

『ヘルメス文書』荒井献、柴田有 訳