ノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

聖書というものがどのような変遷をたどってきたのか、この本を読むまで考えもしなかったのだが、翻訳の長い苦闘の歴史があったようだ。そのこと以上にどのように書かれているのか、それを知ることはもっと興味深いのではないだろうか。マタイによる福音16:18「あなたはペトロ。わたしはこの岩(Petra)の上にわたしの教会を建てる」、これは洒落になっているらしい。聖書にも洒落はあるのか。ヨハネによる福音3:8では、ニコモデにイエスはこう語っている。「風は思いのままに吹く。‥‥霊から生まれた物も皆そのとおりである。」霊はキリスト教における聖霊としての概念であり、風はその具体的例であるから換喩的表現となっている。換喩(メトノミー)とは、王冠で王を表わすように部分をもって全体を表わす。ノースロップ・フライは『大いなる体系』の中でこう述べている。驚くべきことに、ギリシア語テキストでは風にも霊にも同じ単語の「プウネマ」が使われている。それなら、こう訳すことも可能である。「風は思いのままに吹く。‥‥風から生まれた物も皆そのとおりである。」私たち同様、ニコモデもこの表現に動揺したかもしれない。この例は、言語の歴史、言語に関わる思想の歴史が翻訳と深く関わっていることを示していると言う。

神字の日本での使われ方は「神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた(『字訓』)」となっている。この使われ方から言えば、キリスト教の〈神〉に、自然神である神の字をあてるのは、いささか無理があるのだが、西洋にも大文字のGodとgodsの差くらいしかないのかもしれないので、あながち間違いとは言えまい。神はもともと神の字であり、祭卓の形である〈示〉に電光の走る形〈申〉が組みあわされている。張光直「中国青銅時代」”共餐と饕餮” part2 饕餮紋とは何かをみていただきたい。ギリシア神話のゼウスに重なる部分がないわけではない。字源事典である『字統』には、中国、周代の青銅器に刻まれた文字(金文)には、神を祖霊としての人格神の意味に用いている例はあるという。が、あくまで祖霊である。やがて、精神の働きやその優れたものを神爽(しんそう)、神悟のように言い、人智を超えるものを神秘と言うようになるとある。

中国では、霊は、もともと雨を祈る呪儀を示すものであったらしい。神霊の降下を求める時にも同じ祝禱が行われるので、後にその神霊を言うようになったとある。神霊にかかわることをみな霊という(『字統』)。日本語の「あやし」には、霊、異、怪、奇の字をあてる。意味は、「霊妙でふしぎである。常識では理解しがたいようなことに対して、驚きの感情をもつことを言う(『字訓』)」とある。異は、周代にその青銅器の金文に神霊の翼臨することの意味で使われるようになっている。これは、霊のイメージにあう。饕餮(とうてつ)ではないけれど、異相のものであるから怪異の意味にもなる。霊・異・怪・奇、みな「あや」なるものであるが、怪異は後に邪霊となったという。

特に日本では、霊という言葉に怪しいというニュアンスがつきまとうのである。幽霊などという使い方をするが、中国では鬼の字をあてる。霊の文字につまづく人がいるのも無理からぬことであるのだが、キリスト教でいう霊は、普通、聖霊であって怪しいという意味は無かろう。翻訳の問題なのだ。これに精神という言葉が登場するとかなり難しいことが起こる。そもそも霊魂と言うけれど霊と魂とはどう違うのか学校で教えてもらったことはないし、教えたこともない。精神と霊もどう違うのかはっきりとはわからない。ドイツ語では、精神も霊も Geist であり、英語では Spirit だからあんまり問題ない。しかし、Mind を精神と訳すといささか問題が起こる。

僕は、長らくカトリックのイエスズ会のミッションスクールで美術を教えていた。今も、またその職場に復帰している。しかし、聖書に関してあまりよくは知らないし、時々何かの本を読んだ時に聖書のエピソードを知りたくて、聖書を開くことはある。若い頃は、聖書よりも外国人の神父さんたちの影響で、ヨーロッパのカトリック文化の方に強い憧れを抱いていた。恥ずかしながら聖書の内容のことは、よく分かっていない。自分でこんな文章を書くようになって、書き方と言う問題には、いささか注意を向けるようにはなった。聖書も特殊ではあるが文字で書かれている以上、文学批評の俎上に乗せることはできるのである。今回は、この文学批評における聖書を中心に、ノースロップ・フライの著書『大いなる体系』からひも解いてみたいと思っている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

この著書では1611年にジェイムズ一世が英国国教会のために欽定訳(国王の命によって翻訳)させた聖書、一般に欽定訳聖書と呼ばれるものを使用している。この聖書は、聖ヒエロニムス(347頃-420)が、校訂・翻訳したウルガータ聖書の伝統を引き継ぐものであり、5世紀以降の文筆家が親しんできた聖書に近いからだと言う。ヒエロニムスは、382年頃からローマで当時の教皇ダマスス1世のもと聖書の翻訳にとりかかる。ダマスス1世が逝去の後はエジプト、ベツレヘムに赴き405年頃までには翻訳を完成させた。傷ついたライオンの足を治してやったエピソードで知られる人だ。新約聖書をそれまでのラテン語訳イタラ聖書とギリシア語訳のテキストとつきあわせて誤っている部分を校訂した。旧約聖書はギリシア語訳の70人訳聖書やヘブライ語聖書(マソラ本)などをもとにラテン語に翻訳しなおした。それは、時代を経るにつれて評価を高め16世紀にはカトリック教会の標準ラテン語訳聖書となったのである。ウルガータは普及版を意味する。他にルター訳のドイツ語聖書が有名だが、プロテスタント系聖書もある。20世紀後半になると、カトリックとプロテスタント諸派が共同して聖書の翻訳に取り組んだ共同訳聖書が生まれ、日本ではその改訂版である新共同訳聖書が主流となっているようだ。

フライの最後の著作『ダブル・ヴィジョン』については、『宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し触れておいた。ダブル・ヴィジョンとは、フライの愛するウィリアム・ブレイクの述べたこの言葉による。「内なる眼で見れば白髪まじりの老人であり、外なる眼でみれば、行く手をさえぎるアザミだ。」その本には、こう述べられている。「過去50年間にわたって私は文学を研究してきた。文学における統合原理とは神話と隠喩である。神話とは語り(ストーリー)あるいは物語(ナラティヴ)であり、隠喩とは比喩の言語である(江田孝臣 訳)。」これは重要な指摘である。

ノースロップ・フライ『ダブル・ヴィジョン』

「聖書を通読しようとする者の多くは、たいてい『レビ記』のあたりで身動きがとれなくなる。その理由の一つは、聖書は現実の一冊の書物というより小さな図書館だからである(伊藤誓 訳)」とフライは述べる。それでも、聖書には、世界創造とともに始まり、黙示録とともに終わる全体的な構造らしきものがある。そして、その間にはさまれた人間の歴史、もしくは聖書が関心を示す歴史の一側面をアダムとイスラエルの民を象徴的な名義人として俯瞰した書であろうという。町、山、川、庭、木、油、泉、パン、ワイン、花嫁、羊などの具体的なイメージ群があり、それが頻繁に反復されることを考えれば、そこに何らかの統合原理がある。自分のような文学批評家にとって、その原理は意味の統合原理ではなく形態の統合原理であるという。形態に何らかの一貫性がなければ書物は一貫した意味を持ち得ないからである。具体的イメージが隠喩として表現されれば、それによって統合性は与えられる。隠喩(メタファー)は、その言葉をある具体的なイメージで類推させる。「人生は旅だ」などがよく知られる例である。フライは「隠喩とはイメージである」と言い切るのである。

文学の世界は、自由な世界であり、その中で精神はのびのびと羽ばたくことが許される。物語は、それを信じろとか、それにもとづいて行動しろと強要することはない。文学は虚構の世界であってもいいし、現実の描写であってもよい。困難に立ち向かう人間の葛藤、身の毛もよだつ悲劇、癒しや寛ぎの世界、日常では経験できない法外な激烈さを伴う世界でもありうる。文学は霊性が活性化する世界を作り出すが、我々を霊的な存在に変えるわけではないという。それゆえ、聖書を文学作品とだけ見ることには無理があるとフライはいう。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『十字架を荷う』 1512

新約聖書が述べているのは「メシアが降臨するとき、このようなことが起こる」ということである。そのような事柄にどのように接近するかは一考を要する。処女懐胎などが問題にされる時、それを歴史的真実かどうか問うことは、そもそも、アプローチの仕方全体が間違っているとフライは考えている。彼が本書の前提とするものは、聖書は歴史的でもなければ反歴史的でもなく、歴史に拮抗する同等のものだということである。イエスは歴史上の存在として提示されるのではなく、別の次元から歴史の中に落下し、歴史という視界の限界を示す存在として提示されているという。過去の資料から事実と思われるあらゆる事件を抜きだし「世界史」を作る時、信じがたい事件という突起物は非神話化という手法によって削り取られる。しかし、福音書は突起物のかたまりである。新約聖書はメシアの誕生に始まり、黙示録におけるメシアの再臨の預言で終わる。それは、無限の様相を持つ万物がキリストの身体と一つに結ばれるというヴィジョンであるというのだ。

ドイツの聖書学者であるルドルフ・ブルトマン(1884-1976)が、史的イエスの実際の姿を再現することは複数の多様な伝承からなるマタイ、マルコ、ルカの福音書からは無理があり、新約聖書の本来の性格はケリュグマ、つまり宣教にあるとした考え方とフライの主張は、軌を一にする。だが、ブルトマンは、ハイデッガーの影響を受けて実存主義的聖書理解に傾斜し、聖書の非神話化を論ずるようになる。ここでは、フライとの立場の差は大きい。

ちょうど聖書が反歴史的ではなく、歴史に拮抗するものであるように、「~のようだ」「~みたいな」という言葉を使わないで、そのものの特徴を直接表現する隠喩は、論理的なものでも反論理的なものでもなく論理に拮抗するものであるとフライは言う。経験世界の逆説、例えば「私は、私のまわりにあるものである(ウォレス・スティーヴンズ)」とは隠喩によって表現される逆説である。聖書では、よく知られるこのような隠喩が使われる。ヨハネによる福音14:6「 わたしは道であり、真理であり、命である。」「AはBである」という比喩は「仮にAをBとしよう」という型の同一性を語る形式である。もし、AがBであるならばBはAであるが、実際に言っていることはAはそれ自身に他ならないという意味でもあるとフライは言う。「その英雄はライオンであった」と言うなら私たちは英雄とライオンを同一視しているが、一方で英雄もライオンも、各々それ以外の何者でもないことが示されているという。そこには逆説的な構造があるのだ。文芸作品の統一性はこの同一化の過程から生まれ、その多様さ、明晰さ、強烈さはこの個別性の提示過程に由来するという(『批評の解剖』)。つまり、登場する人や物は隠喩によって多様に特徴づけられながら一つの統合体となってゆくのである。

聖書の隠喩が統合される時、新約聖書の文学的言語は霊的生活のヴィジョンを伝達するという意図を達成する。あるいは、その可能性を持つのではなかろうか。そこから現れるヴィジョンによって我々自身の霊的生活を変容させ拡大させ続けるのだとフライはいう。聖書の隠喩複合体からは〈啓示〉という言葉に出会う。そこに、神話における隠喩が持つ働き以上のものを我々は聖書に見ることが出来るかもしれないのだ。それが、霊的な変容をもたらす力の源であるケリュグマ、すなわち宣教ではないか。それは真理についてのヴィジョンから始まるという。

ノースロップ・フライは、1912年カナダのケベック州シャーブルックにカナダ人の両親のもとに生まれた。トロント大学で哲学と英文学を学ぶ。1933年にカナダ合同教会の神学校エマニュエル・カレッジに入学し、1936年に卒業。聖職位を与えられた。24歳の時である。奨学金を得てオックスフォード大学に留学、詩人で文芸評論家でもあったエドマンド・ブランデンに師事した。卒業後、1940年に母校であるトロント大学のヴィクトリア・カレッジで教鞭を執るようになる。その頃、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の研究書を書き、ジョン・ミルトン(1608-1674)を授業で教えていたという。この二人を研究するうちに英文学と聖書との関係に興味を持ち始めるようになった。1957年には、彼の文学批評論を代表する著書である『批評の解剖』が刊行され、1960年代にカナダ、アメリカを中心に大きな影響を及ぼすようになる。

彼が宗教的な基礎教育を受けたのは、メゾシスト教会であった。メゾシストの名は規則正しい生活方法(メソッド)を重んじることから「記帳面屋(メゾシスト)」のあだ名に由来しているらしい。もともと18世紀にジョン・ウェスレーによる英国でのキリスト教信仰覚醒運動から興っている。そこでは、教義とは別に宗教経験に重きが置かれていたという。その後、長老派、組合派、そして、このメゾシスト派が合同して1925年にカナダ合同教会が設立された。フライは、このカナダ最大のプロテスタント教会である合同教会に属していた。1991年に癌で亡くなる直前まで教壇に立った人である。

今回ご紹介する 『大いなる体系』は、四つの柱である〈言葉〉〈隠喩〉〈神話〉〈予表〉が合わせ鏡のような章立てになっていて全部で八章ある。そのうち、この part1 では〈隠喩〉と〈予表〉を取扱い、残りの〈言葉〉と〈神話〉についてはフライが大きな影響を受けたイタリアの哲学者・修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』などを踏まえて part2 でご紹介したいと思っている。隠喩については、いささか述べたので、後半は聖書の極めて特殊な修辞である予表について述べてみたい。

旧約聖書と新約聖書は互いに相手を写し出す合わせ鏡である。そして、旧約聖書は新約聖書を証し、新約聖書は旧約聖書を証す。だが、いかなる歴史的確証も我々には与えられていないとノースロップ・フライは言う。

詩編22:2(旧約)
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マタイによる福音27:46(新約)
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」


ゼカリア書11:12-13(旧約)
わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目によしとするなら、わたしに賃金を支払え 。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」

マタイによる福音書27:3-5(新約)
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。おまえの問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」


ハバク書2:4(旧約)
見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

ローマ信徒への手紙1:17(新約)
福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰に生きる」と書いてあるとおりです。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『カイアファとイエス』1512

聖書解釈は一般的に「旧約聖書には新約聖書が隠されており、新約聖書に旧約聖書は開示される」と言われ、旧約聖書で起こることは全て新約聖書で起こる何かの「予表(タイプ)」もしくは前兆と言われる。これらに関する学問全体が予表論と呼ばれている。やがて到来する偉大な人物や出来事を予め共通の型を持つ人や物で示すことが予型である。アダムはキリストのテュポス(予型)であり、その原型であるキリストはアンティテュポス(対型)と呼ばれる。聖ヒエロニムス訳のウルガータ聖書では、「テュポス」はラテン語の「フォルマ(形)」と訳されているが、欽定訳聖書では英語の「フィギュア(象徴)」となっている。創造神話の本質的意味は、その成就を黙示録に約束されているところの予表であろうとさえフライは言うのである。「ヨハネ黙示録21:1(新約) わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」

聖書のように予表論として編集され組織化された書物は、ほんの少しでも似ているようなものさえ見つけられなかったフライは述べる。予表論における彼の関心は、思考様式と比喩にある。予表論は修辞の一形式であり、他の修辞の形式と同様に、批評的研究の対象になるという。予表は過去に予表成就は現在にある。あるいは予表は現在に、予表成就は未来にというように予表は時間の中を動く比喩であると言うのである。連続的散文は因果律と結びついている語の配列方法である。因果律は我々が系統的に知っている全ての過去から発して未来に結びつけられる。予表論も未来に、その成就に関係する。

旧約聖書の「律法(ト―ラー)」とは、「教え」とか「指示」の意味であり、〈創世記〉〈出エジプト記〉〈レビ記〉〈民数記〉〈申命記〉の五つの書を指している。初期の預言者の教えの影響下で仕事をしていた編集者によって纏められた伝承にまつわる文書に由来するといわれる。プラトンの著作には、独力で聖書のような著作を書こうとする壮大な意図を感じさせるような部分があるとフライは指摘する。『国家』におけるソクラテスの問答は預言的な展開を含んで哲学者の統治による理想的な国家を構築しようとする。『ティマイオス』と『クリティアス』において、創造神話、洪水神話、そして、アトランティスの古代伝承などが言及される。その後、プラトンは『法律』に没頭するのである。それは、「律法(ト―ラー)」が600余りの規則に没頭しているのと似ているとフライはいう。中心人物であるソクラテスの殉教という成り行きは、展開される多くの議論の焦点であり、福音書の受難に対応しうる。しかし、マルクスがその歴史学を通して未来の社会の救済を描いたとしても、けっして、予表論的とは言えないのと同じようにプラトンの著作もそれとは、やはり異なるのである。

プラトンの「アナムネーシス(想起)」は新しいものは古いものと同一視可能として再認することである。それは、後向きの運動となる。因果律は通常この逆であって原因から結果へと向かう前向きの運動である。それは、科学的な思考を育んだゆりかごであり、時間の矢を持っていたと言えるだろう。予表論も因果律と同じく前向きの方向性をもち、その意味で、形式的には修辞的相似物であるという。しかし、因果論が理性や観察、それによってもたらされる知識に基づくのに対して予表論は希望や展望に基づく信仰と関係づけられている。ある種、夢から目覚めるような体験と似ているとフライはいうのだ。前向きの水平性に覚醒の垂直性が交わるところ、それが予表成就なのである。つまり、十字架である。聖書と一般の文学を分かつ修辞上の差異が、すなわち予表である。

ある教会員がこう述べたという。「聖書の一説が私を変容させなくても、それでも聖書の言葉は真理と言えるのか。」それに対して、フライはこう述べている。「霊的な事柄において何が真理であるかは人間の与り知らぬことである。我々の霊的目標は神であるが、神は霊的〈他者〉であり、霊的対象でもなく、いわんや概念的対象でもない。それゆえ福音書は警告し続けるのである。いかに耳そばだてる者が多く、いかに聞くものが少ないかを。福音書が説く種類の真理は、個人の経験によってしか立証し得ない(『ダブル・ヴィジョン』江田孝臣 訳)。」なるほど、この一節はフライの宗教者としての立場を闡明にしているのである。

次回は、残る二つの柱である、〈言葉〉と〈神話〉を取りあげます。

 

その他の参考図書

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評としてのこの書は「文学形態論」といわれる。

ブルトマン著作集
共観福音書伝承史Ⅰ
マルコ福音書は教会神学に立脚した著者の労作であり、自身に伝えられた伝承を整合し加筆したとするウィリアム・ヴレーデなどの説を紹介している。学術書であるので、一般の人向けとは言い難い。