ノースロップ・フライ『大いなる体系』part2 神話の統合性と聖書

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『アダムとイヴ 』1504

キリスト教は一神教であり、他の神々は無きものである。イスラム教もユダヤ教もそうであるが、そこでは正しい信仰を持つものの最終的な勝利が革命的文脈の中で語られるとノースロップ・フライは述べる。ギリシア文化は二つの偉大な視覚的刺激を発達させた。彫刻における裸体と演劇であるコロス(合唱隊)の発達もありはしたが、演劇は基本的に視覚体験といえる。多神教は神々を識別するために彫像や絵を持たなければならなかった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にある伝統的な革命性は、裸体に対する忌諱と偶像破壊を生み、視覚的な芸術への拒絶の道を開いた。フライはこの偶像崇拝に対する憎しみの根底には自然神、つまり自然とそれを支配している思われる神々の消極的な態度に対する焦燥があるという。それは、革命を志向する者たちの憤懣であるというのである。運命と自然の循環に自らを任せて安逸をむさぼることに対する抗議であるらしい。

歴史的事実がどうあれ、エジプト脱出の後に律法が与えられるという旧約聖書の順序は、論理的、心理的に適切だったという。それは、危難の共有と共同体における律法、習慣、制度への深い関わりを実感させ、選ばれた民族という意識をもたらした。とはいえ、「律法/法則(law)」がもたらしたものは「自然法則」と言う概念の進展である。それは、ギリシア・ローマ的思考傾向である古典的志向とヘブライ的思考傾向である聖書的志向の共謀の結果であるという。その「自然法則」とは、人間の律法と自然の法則とを結合させるためにあったといえるのではないか。聖書は極めて特異な自然観を持っていて、道徳的秩序も自然秩序も同じように神の意志に支配されていると見なす。だから、全能の人格神においては奇蹟と自然的事象は、前者がごく稀であることを除いて区別はないという。このキリスト教の内にある自然法則という概念は、いまではかなり曖昧なものになりつつあるとフライは指摘しているが、西洋文化の内で普通いう意味の〈自然法則〉の探求に対する追い風となっていたのは確かだと思う。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』
「第五、第六の封印開き」1497-98

黙示を表わすギリシア語アポカリプスは「覆いを取る」、あるいは「蓋を開ける」と言う意味である。それは心の中の忘却の覆い、真理を封鎖し黙示の顕われを妨げるものの除去である。黙示録は旧約聖書への言及の寄木細工であり、予表成就の行列なのだとフライはいう(予表成就に関してはpart1を参照してください)。黙示録は通常の意味での視覚的な書ではない。それは、聖書の真の意味を表わすものである。パトモスの幻視者であるヨハネが見たもの、それは「エゼキエル書」の四つの顔と四つの翼を持つ青銅のように光り輝く生き物であったり、「ゼカリア書」の四人の騎手に始まる〈八つの幻〉で見たものと言ってもよいのである。神の民は引き揚げられ、異教の王国は暗闇に投げ入れられ、疫病、戦争、飢餓、天からの星の落下が起こり、世界が新しい天と地に変容する。しかし、最も重要なことは、その幻視が示すものが「今起こりつつあることの内的な意味」、正確には「内的な形」なのだとフライはいうのだ。ヨハネはこれら全てを「霊において」、霊にみたされた体で見る。天の国の秘密が明らかにされ、不正の秘密は腐敗した人間の意志を暗闇の中へ突き落す。それは誰の身にも起こることであり、それは「泥棒のように夜訪れる」というのである。自然の秩序の破壊として象徴されているものは、時間と歴史の世界に閉じ込められた秩序という見方の破壊であり、聖書こそがそれを達成するものであるとフライは述べる。つまり、それは革命の真の意味であるかもしれないと僕は思うのだが。

ノースロップ・フライの聖書への言及から、僕にとって興味深いものをいくつかご紹介してみた。それでは、予告しておいたように、本書『大いなる体系』の四つの柱のうち残りの〈言語と〈神話についてこれから述べてみたい。

いかなる書物も文学的な要素を持つことなく文学的影響を与えることはできない。世俗的な文学から経験することは、ソナタ、フーガ、ロンドなどの形で具体化される音楽の形式原理が音楽の外部にないように、文学の形式原理が文学の外にはないことだという。彼は因習的な美学原理からは離れていたかった。そうするための規範の一つが「統合性」なのだというのである。彼は、文学の統合原理が〈穏喩〉と〈神話〉であると述べた(『ダブル・ヴィジョン』)。〈穏喩〉については part1 で既に述べたが、フライのいう統合性のもう一つの柱が何故神話であるのだろうか。これから、記述言語の歴史とともに、この問題を考えたいと思っている。

すべての言語構造体は神話の起源に由来するという原理を発見したのはイタリアの哲学者、修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)だとフライは指摘する(『力に満ちた言葉』)。彼はデカルトやロック、百科全書派の思想に満足できず、歴史こそ人間精神を反映するとし、古代法、古歌、言語、神話などの文献学研究の必要性を説いた。芸術を論理に従属させるのではなく、芸術的構想力が論理よりも優位に立つものであるとした。

フライは、こう述べている。「私たちにとって真実なるものは、私たちが作ったものである」というヴィーコの公準は「事物を知ることが出来るのはその事物を作ったものだけである」と言い換えられる。それゆえ、彼にとって自然は把握しきれるものではなかった。この立場からすれば神話は人間の創造したものである。僕のお節介をつけ加えるなら、神話的ヴィジョンを物語として定着させた創造行為である。ヴィーコは、エジプト人たちが明らかにしたという世界史の全行程を分ける三つのサイクル、神話的時代、英雄的時代、人民の時代を言語学的文献学的真理だとし、それらが再び繰り返されるとした。歴史哲学者としてのヴィーコの『新しい学』には、その詳細な記述がある。フライは、それらの時代の言語活動を秘儀的(詩的)、神官的(寓意的)、民衆的(記述的)活動に分類したのである。

秘儀的・隠喩的・詩的段階

その第一段階は、秘儀的・隠喩的段階と呼べる時代の言葉であり、本質的に詩的な言語である。そして、ホメロスに代表されるプラトン以前のギリシア文学や近東の新約聖書以前の文学、とりわけ旧約聖書には詩的かつ「秘儀的」な言語に見られるという。主体と客体の間の明確な区分よりも主客の間の共通のエネルギーのようなものが重視される。それは一種の言霊のような「呪文的」「魔術的」言語といってよかった。人間の精神は〈力に満ちた言葉〉つまり、神性文字による象形語、祝詞や神託などの式文によって制御されるという。それを端的に示す聖書の言葉がこれである。「『光あれ』こうして、光があった。」創造的動因としての言葉が物を生じさせるというのはヘブライ語に特徴的な要素であったことはパラケルススの所で述べた。

ノースロップ・フライ『力に満ちた言葉』
隠喩としての文学と聖書
『大いなる体系』の続編

それは、ホメロスの詩の中で魂、精神、時間、勇気、感情、思想などが強烈な肉体性を伴っているのとパラレルな関係にある。例えば『イリアス』ではアキレスの悲しみは、このように歌われる。「アキレスは愛する友を思っては泣きつづけ、 すべてを手なずける眠りさえよせつけなかった。彼はパトロクロスの男らしさと雄々しい力を惜しんでは身を展転とするのだった。二人でともになしとげた業、 ともに受けた難儀、戦士たちの合戦、苦しい船旅を思いおこしては涙をいっぱい流し、横向きに寝るかと思うとあおむけになり、またうつぶせになってみたりしたが、つと立ちあがり、苦悩で気も狂わんばかりに渚をさまよい歩くのだった(田中千春訳)。」

この段階では、隠喩(イメージ)の中心的な対象は一般的に太陽神や海神などの神であり、その個性の有様の一部が自然の様相と同一化していたという。世界が神々の複数性によって統合されていたこの言語の時代において、その複数の神に対応する心理的な諸力も複数であり(魂が何種類も想定されていた)、死とともに分離あるいは分解するものと考えられていた。この純粋な隠喩的概念に最も近いのは「霊」という語であろうとフライは指摘している。

神官的・換喩的・寓話的段階

第二段階はプラトンとともに「神官的」といえる段階に入る。知的なエリートに生み出されたと言う意味が一部に込められているという。ここでは、個性化の度合いが増し、言葉は主に思考や観念の外的表現となる。感情からある程度独立した意識が発達し、論理が構成されるようになるのである。超越的な神の概念は言葉の秩序の中心へ移動し、表現の基礎は人間と自然との間の生命や力の同一性を持ちうる本質的に詩的な隠喩から「これは、あれの代わりである」という換喩的な関係に移行するという。そこでは、自然の物質界から離れ、ある点でそれより優位にある思想の世界に参入する。

例えば、プラトンの著作『メノン』にはこの有名な言葉がある。「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。」「それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。(藤沢令夫訳)」プラトンの愛したユークリッド幾何学では、手描きを含めた何種類もの線が「線は幅のない長さ」という抽象的な公理に集約される。神々という複数の概念は、その統合概念としての一神教的「神」になりうる可能性をもつのである。

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評論としてのこの書は「文学形態論」ともいわれる

キリスト教が西洋における文化的優位を占めるようになると、換喩的な思考をする人々、つまり論理的に考える人々は、神がAと言った時、同時にBとは言えないという整合性との緊張に直面し始めるという。神の完全性に由来する演繹的思考が「異端」や「異教」を排除しはじめる。それは、魔女狩りのような社会的精神異常というレベルにまで進行した時代もあった。「不敬」な反キリスト教的教訓を含んだ物語の隠喩的要素は、解体されて他の言語手続きによって同化吸収されなければならなかった。この手続きが寓意(アレゴリー)である。寓意とは特殊なアナロジーであり、これを可能にしたのは連続的散文の発達だという。寓意については『薔薇物語』 バラと呼ばれる女性を巡る物語で触れておいた。隠喩段階における言葉の魔術は、換喩的な段階では連続性あるいは直線的整序に内在する疑似的魔力となる。中世が三段論法に魅惑されたのは啓示された諸前提からすべての知識を演繹するという中世の人びとの大いなる夢に由来するという。換喩的思考と一神教が発展するにつれ自分の中の「魂」と「肉体」によって人間は成り立っていると考えられるようになる。

民衆的・記述的・散文的時代

第三段階は、現実性という基準が自然の秩序における知覚経験の源泉となる。ここでは神は見つからず、神々は、もはや信じられていない。17世紀の天文学は神話的空間を科学的空間から分離し、19世紀の生物学と地質学は神話的時間を科学的時間から切り離した。この段階にとどまる限り神は存在するのかという問いに対しては、ノーと答えざるをえないという。三段論法的推理は何ひとつ新しいものを導かないと感じられるようになってくる。〈大前提 : 全ての人間は死すべきものである。〉〈小前提 : ソクラテスは人間である。〉〈結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。〉結論はすでに前提に内包されているからである。そして、言語によるアナロジカルなアプローチは存在と非在の区別する基準を持っていなかった。ライオンと一角獣との間に文法的にも論理的にも統語上の違いはないという。違いを求めるには外部の基準を必要とした。その中で最も強力な基準は「物」、つまり自然の客体であった。

この言語の第三段階はルネサンスとともに始まり、18世紀に花開く。ヴィーコも述べたようにフランシス・ベーコンが理論化しジョン・ロックとともに実践が始まるという。彼らによって主観と客観がはっきりと分離され始めるのである。言語は客観的自然の秩序を記述する根源的な道具となり、記述されるものと記述との間に満足のいく照応が見られるなら真理と呼ばれるようになる。この民衆的言語は日常使用されている言語に近い。例えば、エミール・ゾラ(1840-1902)のこの描写である。

「そして、テーブルに肘をつき、目をとろんとさせて、ひとりで笑っていたが、それは、隣のテーブルの二人の客、ずんぐり太った男とちんちくりんの男が、ぐでんぐでんに酔っぱらって、パンのように抱きあっているのがとてもおかしかったのだ。そうだ、彼女はこの《居酒屋》や、ラードでつくった膀胱そっくりのコロンブおやじの禿げ頭や、短いパイプをふかしたり、怒鳴ったり、唾を吐いたりしている客や、窓ガラスだとか酒瓶を煌めかすガス燈の炎に向って笑いかけていた(『居酒屋』古賀照一 訳)。」

きっと古代エジプト人やシュメール人も日常このような言語を使っていただろうとフライは指摘する。それに換喩は昔からあったはずである。ヴィーコのいう三つの時代の繰り返しは同時的に発生している。ただ、この文脈では、文学的に優位な、あるいは際立った言語は何だったかと言うことが問題なのだろう。このような変化が起こるには相当な社会変化が伴わなければならなかった。そのような変化の一つが帰納法的観察に基づく科学の進展である。自らの肉体を含む自然との関係が水平なものになるに及んで意識により連想される概念は「魂」から「精神」に転調し、頭脳と強固に結び付けられるようになるのだという。

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

文明の回帰・時代の回転

ヴィーコは、「諸民族が再帰するとき、文明現象は反復される(『新しい学』)」と述べた。フライもまた、時代の反復を述べる。「言葉が物を喚起したホメロスの時代から物が言葉を換喩する現代へと言語の巨大なサイクルが一巡し、今はまさにそのサイクルをふたたび回転させようとしているかもしれない。われわれが今日、再び直面しているのは主体と客体に共有されるエネルギーであり、それはなんらかの隠喩的形式によってのみ言語的表現が可能になるかもしれないからだ(伊藤誓 訳)」とフライはいう。フロイト以来、我々は原初の隠喩的あるいは多元的意識概念に戻り〈心(サイキ)〉を識別可能な衝突する諸力の束と考える傾向にあると指摘してもいる。時代は回転しようとしているのだろうか。

フライと親しかったカナダ生まれのメディア学者マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』の中の終盤でこう述べている。ブレイクは、彼の時代の問題を分析する時、人間の知覚を形成する諸力と直接対決する。「彼は自分のヴィジョンにふさわしい神話形式を求める。この神話探求は彼にとって不可欠であったと同時に、あまり効果のないものであった。というのは、神話というものはたいへんに複雑に入りくんだ因果関係の網を、同時的に知覚する形式だからである。経験が分断され、線形でしかとらえられない時代においては(中略)神話的ヴィジョンはまったく不透明で、とらえがたいものになる。ロマン主義の詩人たちはブレイクの神話的、もしくは同時的ヴィジョンにはるかにおよばなかった(森常治 訳)。」

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

神話は複雑な因果関係を同時に統合しうる手段なのである。レヴィ=ストロースは、人間の精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出されると述べている。神話とは精神構造の表れとも言えるのだ。このことについては、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで書いておいた。

マクルーハンは続けてこう述べる。その後の詩人たちがブレイクの同時性の世界、あるいは現代の神話への芸術的表現の手掛かりを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞を通してであったと述べている。感覚の諸比率が変わる時、人間も変わるということを明確な形で述べたのはブレイクであったという。メディアの変化は人間の知覚をも変化させる。フライの言う主体と客体に共有されるエルルギーを回復させる穏喩形式とは、マクルーハンにとって文字文化の衰退と多種多様な口語芸術の台頭であるかもしれない。ちなみに本書のタイトルはブレイクのこの言葉からとられている。「旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系である。」

神託に原型的説話を与える中心的な形成力は神話であり、神話は神話体系へと拡大し、想像的なものと現実的な関心とを結びつけ、時代が下るにしたがって、その主要な機能は内に向って社会の関心に直面するようになる。想像的かつ創造的思考の一形式である神話体系の直系の子孫は文学であるという。神話は究極的に物語(ミュトス)、つまり文学形式を成り立たせている構成原理のひとつであり、神話の寓喩的解釈は中世やルネサンスでは非常に高い地位を占めていて、稀には今日にいたるまで続いている。ここから考えれば、文学の祖は神話と言うことになる。これが、彼が文学の統合原理の一つを、神話に置いた理由なのであろう。それでは、聖書と神話を分けるものは一体何なのか。修辞学的には聖書の予表の存在であるが、実質的には、ケリュグマ・宣教であるとフライは考える。そのことによって聖書は、先ほどの三つの時代に特徴的な文学形式を超える存在と考えられるのである。

最後にフライが神話から導き出した原型について、さわりだけご紹介して終わりたい。この原型による文学批評は、他の歴史主義や形式主義などの批評を相互に結びつける要素となる重要なものだ。彼は、典型的・反復的に現われるイメージを原型と呼んだ。神話相における伝達可能な象徴のことを指している。それは、一つの詩を他の詩と連結し、それによって詩から得られる経験を統一ないし統合するのを助ける。劇のような文学形式、あるいは見世物劇、人形劇、笑劇、パントマイムなどは祭儀との関わりが深いし、ロマンスや民話、バラッド、物真似においては夢との類似性が高い。この原型を主眼にした文学批評では祭儀や夢と関わることが多く、その意味でフレイザーの『金枝篇』における祭儀の研究やユングの夢に関する研究はこの批評にとってはダイレクトな価値を持つという。原型に中心があるとすれば、その中心に一群の普遍的象徴を見出すことができる。人間すべてに共通なイメージであり、潜在的に無制限な伝達力を持っている。原型相における文芸作品は神話であり、祭儀と夢とを結びつけるという。まあ、これ以上は、その筋の専門家の人たちにお任せしましょう。

 

その他の参考図書

ジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』