アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿る

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『ネメシスあるいは幸運の女神』1502 部分
ネメシスとは、ギリシア神話の義憤・復讐の女神のことである。

僕はディテールの細かなものに惹かれる。それも硬質なものがいい。例えば、北宋の山水画、范寛の『渓山行旅図』、郭熙(かくき)『早春図』、李成『晴巒蕭寺図(せいらんしょうじず)』、巨然(きょねん)『層巌叢樹図』、関同『秋山晩翠図』、徐熙(じょき)『雪竹図』。気は結んで山となり、融けて川となる。すなわち山水である。その峻厳さ、孤高なたたずまいに息を飲む。南画は、僕にはいささかゆるすぎるのだ。山水画については、風水学とともに壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』に書いておいた。この東洋の細部に対して西洋において対抗しうる細部は、デューラーのドライポイント、エングレーヴィングといった金属版画が挙げられるだろう。それを継承するのはレンブラントのそれだろうか。

李成『晴巒蕭寺図』 10世紀 北宋 部分

デューラーは、1471年、勤勉で信仰心厚い金細工師の三男として生まれた。父はハンガリーのジューラという小村に生まれ17歳前後でドイツに移り、金細工師としての修行を積んで1455年にニュルンベルクに落ち着くようになる。母は、父がその工房で働いていた親方の娘でバルバラという名であった。18人の子供を儲けたが成人したのは、父の名を継いだ今回の主人公アルブレヒト・デューラー2世と二人の弟の3人だけだった。末弟アンドレアスは父親の金細工の工房を継いで親方となり、もう一人の弟ハンスは画家の修行を積みポーランド王の宮廷画家になったという(エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』)。ペストや赤痢などが蔓延した当時にあって、6人に一人の割合でしか幼児が育たなかったのは時代の趨勢だったらしい。いかに死と向かい合わせの生であったのか。学校に通って読み書きを覚えた後、金細工師としての修行を始めるが、絵の方に興味が移り始める。注文客に出来上がりの様子を描いてみせたり、金細工を施す前に下絵を描くことも重要な工程の一つだった。そのことを父に打ち明けると、父はデューラーが金細工修行に費やした無駄な時間を悔いたという。だが、それは、けっして無駄ではなかった。15歳の歳から近所にその工房があったミヒャエル・ヴォルゲムートの下で3年間、画家としての修行を積むことになる。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

「15世紀のドイツにおいて、活版印刷、銅版画、木版画などの手段により、初めて個人が自分の着想を全世界に広めることができた。ドイツがようやく美術の分野で一大勢力にまでのしあがったのは、これら版画芸術によってであり、これは主に画家として有名であるが、もっぱら銅版・木版の下絵師としての能力によって国際的存在となった一人物、すなわちアルブレヒト・デューラーの活躍によるものである」とアーウィン・パノフスキー(1892-1963)は、その著書『アルブレヒト・デューラー』の中で書いている。イタリア・ルネサンスに対抗しうる作品をドイツで成し遂げたのは彼なのである。今回は、このパノフスキーの緻密で濃厚な著書を中心に僕の大好きなデューラーの版画にずっと頬ずりしたいと思っている。

パノフスキーは、アビ・ヴァ―ルブルクの偉大な弟子たちの一人であり、イコノロジーの大家である。1892年にドイツのハノーファーに生まれた。1914年にイタリア・ルネサンス絵画とデューラーとの関係を扱った論文によってフライブルク大学で哲学博士号を取得した。デューラーとの関係はこの頃から始まっている。1926年にハンブルク大学で美術史の教授になった。同じ大学の哲学教授であったエルンスト・カッシーラと知り合い、同地で活動していたイコノロジー(図像学)の泰斗アビ・ヴァ―ルブルクの知己を得た。ヴァ―ルブルク文庫の活動に協力して、その学派の形成にも寄与したようだ。しかし、ユダヤ人だった彼は1935年にプリンストン高等研究書に迎えられアメリカに渡った。主著に1939年『イコノロジー研究』、1943年この『アルブレヒト・デューラー』、1953年『初期ネーデルラント絵画』などがある。ちなみに日本のデューラー研究の第一人者である前川誠郎(まえかわ せいろう)は、留学先のミュンヘンの中央美術研究所の所長ハイデンライヒがパノフスキーの弟子であった縁で、デューラの『四人の使徒』に関する論文をパノフスキーに読んでもらったようだ。

上 ショーンガウア― 下 家屋台帖の画家
タイトルは、いずれも『十字架を荷う』。

デューラーが学んだミヒャエル・ヴォルゲムートはフランスで流行していた「死の舞踏」のイメージを1493年の『ニュールンベルク年代史』にその挿絵として制作したことで知られる。その作品はフランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』中世の秋に贈る放蕩無頼でご紹介しておいた。その工房でデューラーは水彩、油彩などの絵画技術のみでなく印刷本のための木版画による挿絵などの版画の技術を習った。この工房の作品は彼の名付け親であり、ドイツ最大の出版業者の一人でもあったアントン・コーベルガーのもとで印刷されたのである。今でもそうかもしれないが徒弟の修行を終えた職人は遍歴の旅に出るのが習わしだった。1491年、デューラーは当時最高の版画家であり、画家でもあったマルティン・ショーンガウアー(1448-1491)をアルザスに尋ねたが、既に亡くなった後だった。それでも遺族からその作品を見せてもらうことができた。その前にオランダのもう一人の重要な版画家、家屋台帖の画家と呼ばれた人に会ったのではないかとパノフスキーは推測している。

ショーンガウアーがエングレーヴィングの名手であったの対して家屋台帖の画家はドライポイントの名手であった。エングレーヴィングは、銅板の表面をビュランと呼ばれる鋼(はがね)の道具で線や点を堀り削り、その時できた銅のめくれはスクレイパーと呼ばれるやはり鋼の道具で削り取る。その彫り削った凹部にインクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取るクールな感じの版画である。もともと金属細工の技法から発展したものらしい。ドライポイントは、鉄筆などで銅板を引っ掻き、表面のめくれはそのままにするので少し滲んだ感じの線になるのが特徴である。ちなみにエッチングは、銅板にグランドと呼ばれる腐食されない膜をひき、表面を鉄筆で引っ掻いて膜を削り取り、削れた膜の部分の銅を腐食液で腐食させて溝を深くし、インクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取る技法である。

その翌年の1492年、当時ヨーロッパの出版業の中心地であったスイスのバーゼルにショーンガウア―の四男を訪れ、広く出版業者との知己を得たのである。その頃、デューラーの最初の出版物の挿絵である『聖ヒエロニムス書簡集』の木版の扉絵が制作され、好評を博した。

アルブレヒト・デューラー
『セゴンツァー付近のチェンブラ峡谷風景』水彩 1495

先達の様式を我がものにしながらデューラーは、いくつかの出版物の下絵を制作していくが、まだ、彼の名を轟かせるほどの仕事ではなかった。1494年、彼はニュルンベルクに呼び戻され、銅細工師で市参事会議員であるハンス・フライの長女アグネスとの結婚が取り決められる。フライの妻は当時銀行家をしていた上流階級ルメル家の出で、いわば破格の結婚相手だった。結婚早々、デューラーはベネチア行きを決意し、途中チロルの山岳風景やトリエント、アルコなどの風景を素描や水彩画として残していて、それらは、西洋最古の風景画として価値の高いものとなっている。チロルのクラウゼン峠の風景は、後に、『ネメシスあるいは希望の女神』の足元の風景としてそのまま使われたことで知られる。ヴェネチアでは、イタリア絵画、とりわけポライウォーロ、マンテーニャらの模写を精力的に行った。これらは、アビ・ヴァ―ルブルクの『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術 』で紹介されている。デューラーは、1495年の晩春には故郷ニュルンベルクに帰っている。

帰国後の作品としては、『ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公の肖像』、『受難伝祭壇画』そして、おそらく妻のアグネスと思われる『婦人の頭部』などがあった。二度目のヴェネチア滞在は11年後の1505~1507年にかけてであるが、その間に、彼にとって重要な展開が生じている。それが版画によって成し遂げられるのである。1498年には木版画による『黙示録』『大受難伝』が出版され、それに先立つものを含めると計30点の木版画と6点の銅版画が制作された。殊に『黙示録』の影響力はヨーロッパ全土に及び一躍、世界的な作家となったのである。木版の技術的制約を克服し、新たな技術的な発展をもたらした。

美術史家の前川誠郎(まえかわ せいろう)によれば、15世紀半ば頃から西洋の木版画には二つの大きな変革が起こり始めていたという。一つは細密な平行斜線によって物体に三次元的な浮彫感を与えようとすること。この発展は一枚刷りの木版画から色彩を追い出してしまった。二つ目は、活字印刷の本格的な隆盛にともなって古典的・世俗的な書物も多く刊行され、書物の挿絵・扉絵としての木版画の受容が急速に高まって行ったことである。そして、パノフスキーも、この『黙示録』の企画が二つの点で斬新であったとしている。一つは一人の美術家が自分自身の仕事として下絵を描き刊行した最初の本であったこと。コーベルガーの工房で印刷されたが、デューラー自身も発行者として署名しているという。二つ目に、彼は14枚の1ページ大の版画とその裏面にテキストを印刷しているが、テキストは連続して裏面に印刷されているので必ずしも表の版画と内容は一致していないらしい。挿絵とテキストとは別個に連続して鑑賞されることを望んでいたことになる。木版画を書物の挿絵ではなく、テキストと同等か、それ以上のものとして考えたということになろう。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』木版画
「7つの燭台のヨハネ」 1498

続けてパノフスキーは、『黙示録』におけるイメージ上の発展がショーンガウア―の銅版画の図像に負うところが大きいという。「7つの燭台のヨハネ」では、足の裏を観照者に見せて坐る福音史家の姿、壮大な枝状の燭台はショーンガウア―の『聖母の死』の影響がはっきり見られるというのである。「人の子」と呼ばれる中心人物の顔はやはり、ショーンガウア―の『聖アントニウスの誘惑』のアントニウス(図3)のそれに近い。それに、マンテーニャの影響もみられる。デューラーの『第五、第六の封印開き』(図1)における母親の姿は、口を大きく開け、恐怖に苛まれており、マンテーニャの『十字架降下』の中の老女を原型(図2)としていると考えられる。ヴァ―ルブルクは、『デューラーとイタリア的古代』の中で初めて「パトスフォルメン(情念定型)」という言葉を用いている。有名な論考だ。古代の激しい情念を表現する身ぶりは、歴史の暗闇を経過して再び浮上し、北イタリアからデューラーに伝えられたというのである。これは、デューラーにとって第一次イタリア旅行での成果であったろう。

そして、7つの燭台の表現では、幾何学的に燭台を配置しているのではなく、遠近法的な配置になっていて、それぞれが全て形状を異にしている。これが実際の金細工であったなら、これもまさに傑作であったろうと言う。それらの燭台は、積乱雲のような雲の上に置かれ幻視者さえ乗せているように見える。従来の版画における幻視者はアーモンド型の光背に包まれて彼の幻影の前にひざまづいているだけだ。『黙示録』のテキストに「人の子」の目は焔のようであったと書かれてあれば、デューラーはその神的な顔から噴き出す炎を描いた(図4)。デューラーにおける幻想体験の表現は、単にそれを目撃させるばかりでなく、それを追体験させるように働きかけるというのである。

図1 左 デューラー『黙示録』「第五、第六の封印開き」木版画
図2 右 マンテーニャ『十字架降下』銅版画
母のイメージ、いずれも部分

デューラーは、エングレーヴィングなどの銅版画の精緻な表現を木版画の中に持ち込もうとした。空間感、量感をもった細部は現実的な充実したものとなり、それに加えてマンテーニャらの人体の動力学、感情表現の研究がそれらにいっそうの拍車をかけた。現世的な光景とその細部が本物に近ければ近いほど、変幻きわまりない幻影となって全体像をますます怪奇なものにさせ、身振りが自然であればあるほど、光景は益々途方もないものとなっていった。「四人の騎士」では、騎士と乗っている馬が迫真的であればあるほど、この恐ろしい騎士団が虚空から出現するという印象が避けがたいものとなる。

図3 左 ショーンガウアー『聖アントニウスの誘惑』部分
図4 右 デューラー『7つの燭台のヨハネ』部分
描かれた顔の類似。

同時代の人文学者エラスムスが称賛したように彼の線は、無定形の炎や頭髪や雲といったものまで劇的に表現することが可能であったのだ。デューラーによって高められた木版画による表現は、アリストテレスが劇作家に述べたこの助言を地で行っているとパノフスキーはいう。「不可能ではあるが、あり得るかもしれないと思われることの方が、あり得るかもしれないが納得させられないことよりも好まれてしかるべきである。」これらの作品はレオナルドの『最後の晩餐』と同様に人びとの避けて通ることのできない美術作品となった。ドイツのみならず、イタリア、フランス、ロシアにまで影響を及ぼし、木版画や銅版画による版画だけでなく彩色画、浮彫り、タペストリーなどでによっても模写されたという。申し添えておくと、デューラーはいくつかの作品は木版を自分自身が彫り、いくつかは彫師の見本のために一部のみ自身が彫ったようだが、工房の彫師の腕が上達するに伴い下絵を描くことに専念したようである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『黙示録』「四人の騎士」1497-98

デューラーには、独創性の要請という近代的な芸術家としての意識が、かなり強かったといわれる。優れた画家とは「他のいかなる人の心にもかつて宿ったことのない新しいものを放出する」ことであった。それは、「意想」の新しさを言っているのである。アリストテレスが『詩学』で述べた「ディアノイア」だ。彼の図像には多くの先達たちのミメーシス(模倣)の上に、自らの新しいアイデアを重ねたのである。ともあれ、版画制作は、油彩画による注文制作という制約から、あるいは中世絵画の約束事から解き放ってくれ、注文を待つ代わりに自主的に制作した多数の作品を売りに出すことが出来た。それゆえ自由なテーマを思うままに制作できたのである。

当時、木版画は金属版画よりも手間がかからず、その分安価なために需要が高かった。しかし、基本的に細部の入念さよりも単純化された線の表現を狙い、明暗の強いコントラストを求めた。そもそも、微妙な明暗の諧調を表現するには不向きだった。したがって、絵画的洗練や裸体の美の極致といった「芸術至上主義的」なものを表現するには適していなかったのである。デューラーにとって金細工師の修行をしていたことは、銅版画制作にとって極めて有利な特質を彼に与えていた。エングレーヴィングに用いるビュランと呼ばれる道具は金細工師が使う道具でもあったからである。銅板の上に刻まれるその線は、ふくらみのある弾力性を感じさせ、フィギュアスケートの選手が氷上に作る幾何学形のような美しさを持っていた。デューラーはショーンガウアーの怜悧な線に家屋台帳の画家の持つ温かみを加えようとしたとパノフスキーは見ている。銅版による傑作が生み出されるようになるのだが、その代表作である『メレンコリアⅠ』については次回 part2 でご紹介する予定である。ここで、少しイコノロジーについて述べておきたい。

アーウィン(エルヴィン)・パノフスキー
『イコノロジー研究』

19世紀の終わりから20世紀の初頭の美術史は新しい方法論が相次いで提起され活況を呈していた。伊藤博明は、『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題の中で、ヴァ―ルブルク自身は次のように分析していたと述べている。一群には旧来の伝記的美術史があり、この熱狂的な美術史家は6グループに分けられるが、その第4群に「歴史的基盤の上に立って再構成する道徳的かつ英雄的な美術史家」としてヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)の名が挙げられる。第6群には「制作者の鑑定家たち」と呼ばれる、自らが英雄と崇める芸術家の個性を擁護する職業的な芸術鑑賞者としての美術史家があり、ヴァ―ルブルクは彼らを蔑んでいた。新しく興隆してきた第二群は「様式史の方法、すなわち典型的な形態学」呼ばれる。彼はこのグループを「技術」「未開人の心性」「人間の空間感覚の本質」「人間の表現動作の本質」「図像的伝統」「慣習やしきたり」の7つのカテゴリーに分けていて、大部分の美術史家はこのカテゴリーの幾つかに重複して属しているという。

例えば、様式史研究の代表的な学者であるハインリッヒ・ヴェルフリン(1864-1945)は「空間感の本質」と「図像的伝統」を制約条件としている美術史家である。ヴァ―ルブルク(1866-1929)は自分自身を「表現動作の本質」を制約条件として美術史を研究する唯一の学者だとしている。ついでに述べておくと「様式史としての美術史」に対して「精神史としての美術史」を提唱したのがウィーン大学のマックス・ドヴォルジャーク(1874-1921)であった。彼によれば「芸術は‥‥まず第一に、人類を支配する理念の表現であり、その歴史は宗教や哲学や、あるいは文学の歴史に劣らず一般精神史の一部をなすものである(『芸術の考察について』)」。その弟子がウィーンのアルベルティ-ナ美術館館長を務めたオットー・ベネッシュ(1896-1964)であり、父親とともにエゴン・シーレの絵のモデルにもなった人だった。この美術館には、あのデューラーの『野兎』や『芝草』といった素晴らしい水彩画とデッサンが収蔵されている。

アビ・ヴァ―ルブルクが〈イコノロジー〉という言葉を初めて使ったのは、1912年のローマにおける国際美術史学会においてであったという(伊藤博明『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題)。「親愛なる神は細部に宿る」という名言を残したことでも知られる人だ。しかし、一般にイコノロジーの定義はパノフスキーによるものが有名であるらしい。

アルブレヒト・デューラー 『聖母伝』09
木版画 1505 イエスに跪く聖母

パノフスキーは、『イコノロジー研究』の序文でこのような意味のことを述べている。14世紀から15世紀に聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる伝統的な「降誕図」にかわって、聖母が幼児キリストに跪いて礼拝している新しいタイプが登場する。この変化は「イコノグラフィー以前の記述」では、構図が長方形から三角形に変化したことを意味するだけであった。「イコノグラフィー上の分析」では擬ボナヴェントゥーラや聖ブリギッタらの著作家たちによって明文化された新しいテーマの導入を意味する。「イコノロジーによる総合」においては、中世の後期段階に特有の新しい情緒上の動きを意味するというのである。

イメージの形式だけを考えるのはイコノグラフィー以前であり、図像そのものの意味やそのイメージの組み合わせとしての「物語」や「寓意」を考えるのはイコノグラフィーであり、その図像と周辺との関係、つまり無意識に作家の人格に具体化され、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するがイコノロジーということになる。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというより、「なぜ、そのように」表象されたかを探究するのである。ただ、この〈イコノロジー〉の概念が、パトスフォルメンを重視したヴァ―ルブルク自身と弟子たち、とりわけパノフスキーのそれとは食い違うのではないかとディディ=ユベルマンは『残存するイメージ』の中で指摘している。ここは、ヴァ―ルブルクが一時的に陥った狂気の問題とも絡んで思白い所ではある。

ここで、一つ言いたいのだが、日本でイコノロジーが定着しているかどうかは僕には分からないのだけれど、とりわけ悲惨なのは20世紀後半以降のいわゆる現代美術と呼ばれるジャンルの美術批評である。そこにはイコノロジーはおろかイコノグラフィーのかけらすら見つけることのできない不毛地帯ではないのか。これには、未だにアメリカ型のフォーマリズムに毒されている現状があるのかもしれない。しかし、このアメリカ型のフォーマリズムなどヨーロッパでは、たいして問題にされていないということは知られていない。日本やアメリカでヨーゼフ・ボイスが変なおじさんにしか見られなかったのは蓋し当然のことなのである。

 

その他の参考図書

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章があり、ルター、エラスムスの他、ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

前川誠郎『デューラー』人と作品
日本におけるデューラー研究の第一人者の著作。パノフスキーの著作が緻密でいささか煩雑なのに対して、本書はすっきりまとめられていて、デューラーについて初めて読む人には本書をお勧めしたい。

アビ・ヴァ―ルブルク
『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』「デューラーとイタリア古代」収録