アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part2 土星とメランコリア

アルブレヒト・デューラー『夢のヴィジョン』1525年

「1525年、聖霊降臨祭の後の水曜日と木曜日との間の夜(6月7日~8日)就寝中、私はいくつもの大水が天から降ってくるこのような光景を見た。そして、その最初のものは私から4マイル離れた大地を巨大な轟音と爆発とともに打ち、すべての陸地を呑み込んだ。全く耐え難いこのような驚愕のうちに私はそこから目覚めたが、そのとき第二の水が降ってきた。そして、そこへ落ちた水は、(最初のものと)ほとんど同じ大きさであった。あるものは遠く、あるものは近く、そして、それらはきわめて高くから降ってくるので、みな同じくゆっくりと落ちるように思えた。しかし、大地を打った最初の水がずっとこちらへ近付いてくると、それは非常な速さと風と轟音とを伴って降ったので、私は大いに驚いて目覚めたが、全身が震えて長らくわれに返らなかった。しかし、翌朝起きたとき、私は、見たまゝを上図のように描いた。神はすべてのことを最善へと戻し給う。 アルブレヒト・デューラー(『自伝と書簡』前川誠郎 訳)」

アルブレヒト・デューラー『人体プロポーションの習作』
左 1523年 右 1507年
アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』より

さすが、画家デューラーは、このようの事態にも冷静に絵筆をとれる卓抜な精神力を持っていた。1520年にネーデルラントへの旅行中に打ち上げられた鯨を見るためにゼーラント地方へ出かけた折、マラリアにかかったらしく、その地で発熱している(『ネーデルラント旅日記』)。ニュルンベルクへ帰郷後も体調は改善することなく、この夢の3年後の1528年に亡くなった。この夢を見た頃、自らもこの参事会のメンバーであったニュルンベルク市参事会に寄贈すべく『四人の使徒』を制作中であったし、懸案の絵画論が最後の力を振り絞って執筆されていた。この努力は、アルベルティやダ・ヴィンチが人間のプロポーションを新しい科学的基礎の上に築こうとしたのと同一線上にある。古代ローマの建築家であるウィトルウィウスの伝統的な単位を参考にしながら独自の「理想的プロポーション」を探究していた。それは『アダムとイヴ』などの作品を見れば納得できよう。ただ、それは「あらゆるものが本質的に適切であり正しくなければならないように、集合全体が調和しなければならない」ような理想であったのである。

アルブレヒト・デューラー『十字架を荷う』1520年

印刷はされなかったが起草されたピエロ・デラ・フランチェスカの『画家の透視図について』が当時もっとも包括的な透視図の著書とされていた。したがって、まだ透視図の作図法はそれほど広くは知られていなかったことになる。デューラーは、1505~1507年にかけての二度目のヴェネチア滞在中に160キロ以上離れたボローニャを「ある人が私に教授したいと言った透視図法の〈芸術〉のために」訪れたとしている。こうして、彼は「正確さ」と「調和」という二つの要求を同時に満たすことのできる「空間を組織化する方法」を手にいれることになるのである。透視画法を扱う素描の大半は、帰国後の1510年~1515年までの数年間に集中的に描かれている。その成果は、後の1525年に『コンパスと定規による測定術教則』として纏められ、出版されることになる。このコンパスと測定に関わるイメージは中世以来の造物主のイメージとも重なっていることを指摘しておきたい。

アルブレヒト・デューラー『十字架の染み』
部分 1502~14年

1502年に敬愛した父が亡くなる。1503年にはデューラーが実際に見た最大の驚異と呼ぶ出来事が起きている。親友であるピルクハイマー家の裏手に坐っていた女中の麻布の下着に落ちた雨が、キリストの磔刑図のような染みを作り、それを見た彼女は自分は死ぬに違いないと恐れおののいたという。パノフスキーによればこのニュールンベルクを恐怖に落としいれた「血の雨」は無害な藻類の仕業であったらしい。大勢の人びと、とりわけ子供たちの上にこの十字架が降った。それから、「私は空に彗星を見たことがある」と記している(『自伝と書簡』)。1505年から二年にわたりニュルンベルクを離れてヴェネチアに滞在したことは先にのべた。一つには蔓延するペストを避けることが理由に挙げられている。そして、1514年には、母も他界した。

この年、透視図の探求中に一つの偉大な構想が浮かんだ『メレンコリアⅠ』である。美術史家のヴェルフリンが「解釈の戦場」と呼んだほど不可思議な版画であるのだが、パノフスキーは、このような作品を構想できるような画家でなければ、母の死の二ヶ月前にその肖像画をあのように描くことは出来なかったろうと述べている。彼女の斜視はシェイクスピアの『冬の夜話』に登場する「一方の目は夫を失った悲しみで下を向き、一方の目は、信託が実現した喜びで上を向いている」ポリーナを想起させるという。デューラーは、自分の裸体像の脾臓のある場所に指差す図に「私が指で示している黄色の斑点がある所が痛む」と書き入れている。プラトンは、脾臓は内部が空で血の気のないもので織られていて、汚れでいっぱいになると膿んで大きく腫れ、身体が浄化されると腫れが退いて元通り小さく萎むと『ティマイオス』の中で書いている。これこそ、憂鬱症の核心を示す臓器であった。

アルブレヒト・デューラー『母の肖像』1514年

この『メレンコリアⅠ』という作品は、四体液質の一つである「憂鬱質」の伝統と七学芸の一つとしての「幾何学」の伝統という、二つの偉大な図像的及び文学的伝統を融合させ、変形していると言われる。そこにあるのは、絵画という実践的技術を尊重しながらも、益々数学的理論に憧れ、天上の影響と永遠の観念に「霊感を受けた」と感じながらも益々強く人間の弱さと知性の限界に悩むルネサンスの芸術家の姿であったというのである。

フィッチーノに端を発し、ボリツィアーノとロレンツォ・メディチが生涯理想に掲げ、ピコ・デラ・ミランドラの広く知られた『人間の尊厳について』が称揚する「思索の生活」を送る「文人」あるいは「ムーサ(詩神)たちに仕える神官」。それは、「思索の生活」あるいは「研究の生活」を実践するという中世には存在しなかった人間の新しい在り方だった。ドイツ・ルネサンスが、観想の生活にもたらされる脅威と苦しみとして「メランコリー」を選んだことは、この「思索の生活」が熱烈に称賛され、土星が観想の守護星とされている反面、深遠な思索には悲しみと苦しみがつきまとうものであると言うことの表明でもあるのだ。ここからは、パノフスキーの著作『アルブレヒト・デューラー』とともに、パノフスキーとザクスルがデューラーの『メレンコリアⅠ」について書いた論文にクリパンスキーも加わって大著となったヴァ―ルブルク学派の『土星とメランコリー』も織り交ぜてご紹介したいと思っている。

図1 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分 
右から鍵、財布、大工道具、犬

『メレンコリアⅠ』についてデューラーが残した唯一の言葉は「幼児」を描いたスケッチに「鍵は力を、財布は富を示す」という短い文章だった。図1では右上に鍵、その斜め左下に財布、その下方に大工道具が描かれている。中世の人間にとってメランコリア/憂鬱質の人間は吝嗇家であり、それゆえ富めるものであるという暗黙の了解があったようだ。鍵は金庫を開ける権能の意味らしい。ギリシア神話のクロノス、あるいはローマ神話のサトゥルヌスは、自らの子供を喰らうように時間を食い尽くす時間の神、地の神、農耕の神、宝物管理係、繁栄を司る神、〈もっとも偉大なもの〉そして、老人とされていた。気質あるいは病気としてのメランコリアが、このクロノスあるいはサトゥルヌスの星である土星と関連づけられるのは9世紀のアラビアの学者たちによってであった。アブ―・マーシャルは『占星術入門』で、大地に似て冷たく乾いた黒胆汁を土星に、多血質を木星に、胆汁質を火星に、粘液質を月あるいは金星とに関係づけている。脾臓と土星を結びつけたのは「純粋なる兄弟団」と呼ばれるグループで、彼らのその著書は『純粋なる兄弟たちの書簡』であるという。

『霊魂と詩篇作者ダヴィデ』詩篇 9世紀初期
悲嘆のポーズをとるメランコリア症患者を音楽で癒す様子。

かつて、古代ギリシアにおいてヒポクラテスか、その義理の息子ポリュボスが述べたといわれる、「四体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)の正しい組み合わせが健康な体質を作る」とされる説に、ピュタゴラス派の影響を受けたエムペドクレスが四大元素を仲立ちとする四季と人間の四期を結びつけた。多血質に春・幼年、黄胆汁質に夏・青年、黒胆汁質に秋・壮年、粘液質に冬・老年を割り当てる。この黒胆汁がメランコリアである。時代が下ると黒胆汁が老年時代に割り当てられる場合もあった。黒胆汁が優勢になると最悪の場合、恐怖や人間嫌い、鬱状態が高じ精神異常に及ぶとされ、「メランコリー症」という病名で呼ばれるようになる。ところが、中世になるとオーヴェルニュのギョームなどによって「メランコリー体質が人間を肉体的快楽と世俗の喧騒から引き離し、神的恩寵が精神に直接入り込んでくるよう準備を整え、魂を高める基盤となって、神秘的・予言的幻像の現われを呼ぶ」というアリストテレス説が注目され、一部で脚光を浴び始める。それがフィッチーノやポリツィアーノに受け継がれることになるのである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『メレンコリアⅠ』1514

向って右に坐るメランコリーの擬人化された女性(長らく天使と思っていたがそうではないらしい)が顔に手をあてるポーズは、憂鬱質症患者のポーズであったが、元来の意味は悲嘆である。しかし、頬に当てられた手は握りしめられ、何らかの意志の持続があることを表わしている。顔色は黒胆汁のために黒ずむが眼は澄んで明るく「覚醒した眼差し」を保っている。

ここで注目しなければならないのは彼女のまわりに乱雑に置かれた道具類である。書物、コンパス、インク壺は純粋幾何学を表し、先端を切った菱面体は立体画法と透視図を、工作道具は応用幾何学であり、鐘のついた魔方陣・砂時計・天秤は空間と時間の測定を表わしていると言われる。彼女は確かに「幾何学」の擬人像としての意味を担っているのである。それは、プラトン以来の高貴な学問の擬人像であり、人間的感情や苦しみなどからは遠いはずだった。パノフスキーは、幾何学という言葉の中に含まれるすべての資質を備えた「憂鬱症」、つまり「芸術家の憂鬱」をデューラーは描いたと言うのである。それは、1502年から亡くなる1525年までフライブルクの小修道院長を務めたグレゴリウス・ライシュの著作に見られる挿絵の情景と同じものだった(図2左)。ちなみに七自由学芸とは、文法・修辞学・弁証法の三学と算術・幾何学・音楽・天文学の四科をいった。デューラーが遠近法を含めた幾何学にいかに腐心した画家であったのかが察せられるのである。

図2 左 グレゴリウス・ライシュ『哲学の真珠』「幾何学」1504年
右 デューラー『メレンコリア習作』幾何学立体

そして、「メランコリア」の左に蹲(うずくま)る犬。「憂鬱そうな顔をした犬ほど嗅覚が鋭い」という同時代の作家の言葉が残っているという。犬は伝統的に憂鬱質に結び付けられる。左上に飛ぶ蝙蝠は薄暮に出現し、寂しく暗い荒れ果てた場所に生息する動物である。版画の中心より少し上には盲目の印象を与える童子が〈メランコリア〉の物憂い不活発さとは対照的に石版の上に意味もないことを刻んでいる。この幼児は、行動はできるが思索できない「実践的技能」を表わし、成熟した学識豊かな〈メランコリア〉は思索するが行動できない「理論的洞察力」を表わしているといわれる。デューラーの〈メランコリア〉は守銭奴でもなく病人でもない。彼女は実在しないものにしがみついているのではなく、解決不能な問題に固執している困惑する思想家であるとパノフスキーは言う。

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』1819-23

フィッチーノらフィレンツェ知識人たちは、新プラトン主義の主導者であるプロティノスが、偉人は全て憂鬱質であるというアリストテレスと同様の主張、つまりサトゥルヌス(土星)を高く評価していたことを発見する。当時の新プラトン主義の影響力を考えれば、この『メレンコリアⅠ』のⅠは版画の番号ではなく、価値の尺度を表わしているとパノフスキーは言う。だが、このような土星の哲学的復権も土星が、惑星中最も不吉な星であるという中世の一般信仰を払拭できなかった。後年のゴヤの黒い絵のシリーズにもこのおどろおどろしい土星のイメージが描かれている。フィッチーノは不安を取り除くために木星の力を呼びおこすことによって土星の影響を中和する占星術的護符を用いていた。それが版画右上の魔方陣であるという。図3を見ていただきたい。16の枠に分かれた木星の祭壇と同じもので、それを錫板に刻んでおくと「悪を善に変え」「あらゆる心配と恐怖を取り除く」とされた。これらの知識をデューラーは、おそらくコルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学』から得たのではないかとパノフスキーは推測している。

1503年のニュルンベルクに降った「血の雨」、不吉な彗星、蔓延するペストや赤痢、母の死、これら不吉な兆候から身を守るべく掲げられた魔方陣の下には遠近法や人体プロポーションに精通しよう不断の努力をなし続けてきた画家デューラー自身の姿である〈メランコリア〉の擬人像があったのである。土星の形而上学的領域の「知性」、木星の倫理的政治的領域の「理性」、火星や太陽に属する美術家や職人の領域である「想像力」、憂鬱質の狂気あるいはサトゥルヌスの霊感は以上三つの能力を刺激して、並外れた超人的活動に向わせるとアグリッパは述べる。

図3 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分
  左から蝙蝠、彗星、三日月型の虹、量り、砂時計、魔方陣と鐘

アグリッパは、「知性」や「理性」より想像力に勝る画家や建築家は予言能力が授けられているとしても、彼らの予言は「嵐、地震、洪水、疫病、飢饉、及びその種の天災」のような物理的現象に限られるだろうとしている。推論的「理性」に勝るものは有能な科学者、医者、政治家になり、予言力は政治的な分野に限られる。そして、直感的「知性」に秀でた者は、神聖なる世界の神秘を知り、神学に含まれるすべての事象に卓越するであろう。予言能力があるなら新たな予言者あるいは新しい教義をもたらす者であろうとしている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

「想像力」の圏内で行動する人物〈メランコリア〉は人間の創意の三段階における最下層にあり、発明し組み立てることはできても形而上世界に踏み込むことは許されない。そのようなものに予言できるのは天変地異だけである。それが、冒頭でご紹介したデューラーの夢であったのかもしれないとパノフスキーは言う。洪水は土星もしくは土星の彗星によって引き起こされるとされた。そう『メレンコリアⅠ』の左上にある彗星である。それは「空間の限界の彼方まで思考を広げることのできない」者の憂鬱であったかもしれないのである。ただ、申し添えておくならば、この作品は『書斎の聖ヒエロニムス』と対にして制作されたと言われている。静謐で整理された室内において、思索しながら翻訳に勤しむ聖人の姿が描かれた。そこには直観的「知性」に秀でたものの世界が表現されている。

僕には、同じ時代を生きながらも性格も生き方も宗教も全く正反対だったパラケルスス(1493-1541)が思いだされる。常に医学の既成の枠組みを破壊しようとし、対抗勢力とは徹底域に戦い、定住することなく諸国を遍歴するしかなかったパラケルスス。デューラーは、父譲りの敬虔で篤実な性格であり、敵をつくらず周囲とも平和を保っていくことができた。パラケルススが敵にまわした、時の財閥ヤーコブ・フッガーはデューラーのパトロンであったし、ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公や皇帝マクシミリアン一世の寵愛さえ受けていた。パラケルススが嫌っていたエラスムスとも親密な関係であったのである。因みにエラスムスと画家ハンス・ホルバインは相互に理解しあっていたが、尊敬しあうことはなかった。エラスムスとデューラーは、たいして理解しあっていなかったのに、尊敬しあっていたという(パノフスキー『エラスムスと視覚芸術』)。パラケルススはカトリックに生涯忠誠を貫いたが、デューラーはルターに強い共感を持っていた。しかし、グリューネヴァルトのように農民戦争でルター派に加担してマインツ大司教治下の宮廷画家の職を解任されるような危険は犯さなかったのである。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

パラケルススとデューラーという、この対照的な二人の唯一の共通点、それは晩年における憂鬱症であった。想像力に勝る画家デューラー、そして推論的理性に秀でた医師パラケルスス。それはまさに、アリストテレスいう「偉人はすべて憂鬱質である」というテーゼやプロティノスが言うところの「土星の優位」を印象付けるのであったが、同時に直感的知性に届かなかった二人の憂鬱であったかもしれないのである。今回、一つだけ解けない問題が残った。この版画のタイトルは何故『メレンコリア』なのであって「メランコリア」ではないのかという問題なんです。これは分からない。

最後にヤーコプ・ブルクハルトの後継者としてバーゼル大学の美術史の教授となり、ベルリンやミュンヘン、チューリッヒでも教鞭を執ったハインリヒ・ヴェルフリンの『アルブレヒト・デューラーの芸術』(1905年)からの一節をご紹介して終わりたい。part1 でも少しご紹介した人だ。『美術史の基礎概念』という名著で知られている。様式史を中心とする美術史からの観点である。つまり形態学と言っていいだろう。いつか、機会があれば、名著の誉れ高いこの『美術史の基礎概念』をご紹介できればと思っている。

ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)
『美術史の基礎概念』

「‥‥人は何事もおろそかにしてはならず、どんな小さなしわ、血管も忠実に描かなければならない」と彼(デューラー)自身主張している。この素人が感嘆する、微細な部分に至るていねいな描写だけで彼は偉大な芸術家となったわけではない。ディテールが全体の印象の中に納まり、個々にはこまごましていても全体がすっきり見え、主要な線でまとめられ、本質的な性格を持ってはじめて、この詳細な観察が芸術に昇華するのだ。こうなるには、描き始める前に対象とする事物を明確につかみ取る必要がある。彼は苦労の多い長い時間を、どのようにして人間の完全な姿を作るかという事柄の研究に当てている。これを様々な時期に、様々な形で答えているのだが、結局は完全なものを見つけることに絶望している。最高の美しさは神のみが知りうるのであって、我々は個々の、それ自身が調和を保っている形にまとめることで満足しなければならず、自分がよしとする個々人の好みに委ねられているのだ。(ハインリヒ・ヴェルフリン『アルブレヒト・デューラーの芸術』相澤和子訳/出典はエルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』巻末)

 

 

その他の参考図書

デューラー『ネーデルランド旅日記』

デューラー『自伝と書簡』
表紙はデューラーの戯画

クリパンスキー、パノフスキー、ザクスル 
『土星とメランコリー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章がありルター、エラスムスの他ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。