ミレーナ=美智子・フラッシャール『ぼくとネクタイさん』鏡のなかへの墜落

この美しく、もしかすると意味のある世界から
君はどれほどのけ者にされ、
あらゆる自然な完璧さからどれほど遠く隔てられ、
君自身の虚無の中でどれほど孤独を感じ、
この大いなる沈黙のなかで、どれほど孤立無援であることか。

マックス・フリッシュ『沈黙からの答え』関口裕昭 訳

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』

この小説『ぼくとネクタイさん』の冒頭に引用されたスイスの小説家・劇作家であるマックス・フリッシュ(1911-1991)の言葉、ここに既にこの物語の前景が暗示されているのだが、今回ご紹介する小説の書き出しは、その最後の文章と共に異様に明るい。書き出しは、こう書かれている。

ぼくは彼をネクタイさんと名づけた。
彼もこの名前を気に入ってくれた。彼は笑い崩れた。
胸元の赤とグレーの縞模様。あのネクタイとともに、ぼくは彼を記憶に永遠に刻み続けるつもりだ。

この本の表紙にあるようなベンチが主な舞台だった。20歳の引きこもりの青年が、少し外出できるようになり、そのベンチで初老のサラリーマン風の男と会話するようになる。それがこの話の端緒なのだが、この二人には、この世界から切り離され、疎外され、孤立無援とならなければならない深い傷があったのである。

確か、昨年の10月にこの小説の翻訳者である関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんが学会で広島に来られると言うのでお会いできることになった。この人はパウル・ツェランの研究者として知られる人でオーストリア文学会賞などを受賞されているのだが、僕が関口さんの著書を 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇と題して書いた時にわざわざコメントをくださった。それがお会いすることになるきっかけだった。その時は、版画家だったツェランの奥さんのジゼルのことやツェランの親友であったクラウス・デムス(ピアニストのイェルク・デムスの兄)の息子でジゼルから版画の手ほどきを受けたというヤーコプ・デムス氏、作曲家の細川俊夫さんのこととか話した記憶があるのだけれど、別れ際に今訳している本を後で送りますよと言ってくださった。それがこの本なのである。

ザンクト・ペルテン ウィーンの西方56キロに位置する。バロック風の建物が多いことで知られる都市。

著者のミレーナ=美智子・フラッシャールは、1980年ウィーン郊外のザンクト・ペルテン生まれ。父親はチェコ系のオーストリア人で母親は岡山出身の日本人である。日本語は母の口から学んだまさに母語であったという。読み書きは、もっぱらドイツ語のようだ。ちなみにオーストリアの公用語はドイツ語である。ウィーン大学とベルリンの大学で比較文学、ドイツ文学、フランス文学を学んだ。卒業後は外国人にドイツ語を教えたりしながら小説を書き続け2008年『Ich bin/私は』、2010年『Okaasan』を発表した。この二作目は大きな注目を集めたという。2012年の本書によって、オーストリアの有望な新人に与えられる アルファ賞を受賞している。関口さんの「訳者あとがき」によれば、彼女は日本への長期滞在はないようだが、ほぼ毎年二週間ほどの滞在を繰り返していて、日本に住んでいる家族や親戚を訪れ、日本の風景・文化を楽しみ、時折自作の朗読もしているようだ。現在は、ウィーン市に夫と息子とともに生活している。

主人公は20歳くらいの青年タグチ・ヒロ。二年間、両親とともに住む家の自分の部屋に引き籠り、本棚の上にある髪の毛のように細い亀裂を眺めて暮らしていた。比較的短い文章でまとめられる114章は、こんな書かれ方がされている。

今ぼくが座っているのが、僕たち二人のベンチだ。ぼくたちのものになる前は、ぼくひとりのものだった。‥‥‥瞳を閉じてそのジグザグの線をなぞってみた。頭の中にあったその線はどんどん伸び続けて、心臓や血管にまで食い込んでいった。ぼく自身が血の通わない線だった。陽の当たらないところにいたので、肌が死人のように蒼ざめていた。ときどき陽の光に触れたいと憧れた。外に出て、人がけっして出て行くことのない部屋があるのを理解するのは、どんなことなのだろうかと想像してみた。‥‥ぼくは自分を欺こうとはしなかった。相変わらず重要なのは、自分のために存在するということだ。誰にも会いたくなかった。誰かに会うということは、何かに巻き込まれるということだ。きっと見えない糸があって、人から人へ繋がっているのだろう。どこもかしこも糸だらけ。誰かに会うということは、つまるところその織物の一部になることだ。これだけは避けたい。(第3章より)

彼は意味のある世界からはぐれた。そして、じっと見つめ続けていた自室の壁のヒビが自分自身の頭の中の線や心臓からの血管の線となっていく。それは、これからの他人との繋がりが生じることを暗示しているのである。ヒロが、閉じこもりを始めた契機には二つの事件があった。最終学年で同じクラスになったクマモトを巡る事件と16歳の時同じクラスになった幼なじみのユキコの事件だった。

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』裏表紙

クマモトの家は三代続いた法学者の家系だったが、彼は詩人になりたがっていた。ヒロにはその詩がちっとも理解できなかったが、自分がどこかへ向かっていて、たどりついた場所でどのように孤独になるかを知っている、そんな光りを放つ彼と友達になった。ある日、待ち合わせの場所で、クマモトは道を渡ろうとしていた。周囲を見回しもせず車の往来の波に水泳選手のように飛び込んでいった。事故なのか自殺しようとしたのか。ヒロは気を失い目覚めたときには既にクマモトの姿はなかった。ヒロはその夜、恥の感情が込みあげてくるのを感じる。日本人の恥の感情がクローズアップされるのである。自分の持つ倫理と現実の対応とのギャップに対するある種の嫌悪のようなものが感じられはするのだが‥‥ここは、血のつながりを持ちながらも、外から日本人を見ている著者の距離感が興味深い。読む人それぞれに異なる感触を持つヶ所かもしれない。彼はもう誰の運命にも巻き込まれたくないと思うのだった。それが引きこもりの引き金になった。

ユキコは隣に住む腐敗物の臭いがただようような貧しい家の子供だった。家族は、興味よりもある種の不安からヒロに彼女のことを尋ねた。しかし、幼い子供にとってそんなことは問題ではなかった。ユキコは琴座の王女様で、はるかな故郷から地球に籠の中に入れられて運ばれてきたのだという。二人は、小刀で木の幹に名前を刻み、ユキコはスカートのポケットから赤い糸を引っ張り出して、枝に結びつけ、この赤い糸はわれわれが結ばれていることを永遠に記憶し続けるだろうと誓いの言葉を宣べるのだった。しかし、10歳にもなると二人の間は疎遠になっていった。そのことにヒロは苛立ちさえしたが、結局ユキコはヒロを避けるようになり、二人は離れてしまう。再会したのは16歳の時、同じクラスのクラスメイトとしてだった。しかし、この偶然の出会いはヒロに決定的な深い傷を残すことになる。

ベンチに坐るもう一人の人物ネクタイさんは、オオハラ・テツという名の58歳の元サラリーマンだった。職場での文字通り小さなつまずきが彼の生活を変えてしまった。書類の山を抱えて隣の部屋に移動しようとしてケーブルに足を取られた。職場の同僚たちは笑って、こうささやく者もあった。こんな人はいらないと。ちいさなきっかけから禍が雪崩をうつかのようであった。それから、彼を重い鉛のような眠気が襲い始めるようになる。こうして彼は会社をクビになった。それを妻のキョウコには言えなかった。彼女の作る美味しい弁当を持って毎日公園のベンチに坐っては、お昼になるとそれを食べ、夕方6時に帰っていく、そんな生活を繰り返していたのである。彼は若いヒロにこう語りかける。

今日、プラットフォームで人ごみの中にまみれながら、わたしは自分に問いかけました。この中の誰かひとりがいなくなったら、わたしの中にあるその人の一部分が欠けることになりはしないかと。そして、こう思ったのです。ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか、と。そのとき、ようやく電車がホームに入ってきて、わたしの姿が車窓に映り、その後ろで寝ている人の顔に重なって通り過ぎていくのを見たとき、わたしの疑念は消え、こう悟りました。われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだということを。(第76章より)

オオハラにも忘れることのできない二人の人がいる。10歳の時ワタナベという名のピアノの先生についた。その先生の奥さんは肺病で余命いくばくもない人だったが、一緒に暮らしていた。ある時、ピアノの前の蠅を叩いて殺したことがあり、罪もない生き物を殺すなと叱られた。オオハラはそのとき、先生だって奥さんが咳をしているとき笑ったじゃないですかと反論した。先生はこう言った。ぼくが笑ったのは、妻がぼくに笑ってほしいからだ。ぼくは悲しみを封じ込める。ぼくの笑は彼女の伴奏をしなければならない。そう言いながら先生は泣いていた。結局、ピアニストにはなれずじまいで、1年間先生の演奏を聞くためだけにレッスンに通ったのだった。

もう一人はツヨシという名の初めての、そして最後の子供だった。オオハラが息子に関して記憶している言葉は、息子さんには障害がありますという一言だった。それは感情を失った感情と呼ぶほかはないものだった。子の障害を受け入れることのできない自分。普通の赤ちゃんのように元気に泣くこともない赤ん坊。たくましく世に生まれて、成長し、世界を少しでも良くしようとする人間のイメージを描いてツヨシという名をつけたのだった。間もなくツヨシは亡くなった。心臓に大きな障害を抱えて生まれて来ていた。

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

翻訳者の関口さんは、この翻訳に関して一つの懸念を持っていた。それは、日本の読者が、この小説を日本の物語だと強く思い込んでしまうことだったという。舞台も登場人物も日本人で、ことさら、梅干しや弁当の海藻サラダという日本的なイメージが登場する。だが、現実世界とは、ズレたパラレルワールドなのだという。日本人の自分がこの物語を自分にあまり近づけ過ぎないように気をつけたというのである。著者は日本の文学や文化を深く愛する人だが、手探りで日本のイメージを描こうとしていた。彼女は自分の血の中の脈々と波打つ日本的感性を小説を書くことによって確認しようとしたのではないかと関口さんは書いている。

その点、カズオ・イシグロが、五歳頃までに過ごした日本の薄れゆく記憶を文章の中に留めようとして小説を書き始めたのと似ているかもしれないと関口さんはいう。生地の長崎を舞台にした日本に関する小説というと『遠い山なみの光』が思いだされるけれど、この小説は、戦前の日本の価値観が崩壊した戦後間もない長崎の住宅地が舞台であり、イギリス人と再婚した悦子がイギリスで日本の生活を回想するという設定になっていて、勿論、英語で書かれたものが日本語に訳されている。黄昏時に水溜りの多い空き地を、それらをよけながら向う側へ渡っていく。そのようなシーンが何度も登場する小説である。決定的な何かは描かれないし、長女の自殺という不幸の起こった理由もことさらに明かされない。すべては手さぐりされながら過ぎ去っていくなかに、悦子の女性としてのアイデンティティのふくらみが果樹園の上に広がる雲のようにただあるべきように描かれて終わる。関口さんのコメントを続けよう。

この『ぼくとネクタイさん』の原文には引用符がないらしく、訳者は語り手が変わるたびに一人称を「ぼく」「わたし」「おれ」「あたし」と訳し分けたという。語り手が誰なのか一読しただけでは明瞭でないこともあったという。ドイツ語で受ける明瞭なイメージと日本語への翻訳の難しさとはギャップがあって、その分、楽譜を見ながら指揮者が個々の音の様々な色合いを見つけ、強弱を明確にし、声部と声部を重層的に重ねあわせながら、交響曲として演奏し、聴衆に届ける過程と似ていて楽しかったというのである。オーストリアの文学を熱心に紹介していたのはドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんだったけれど、関口さんにも是非これから色々な名作を紹介してもらえればと思っている。

ドイツの文学第10巻 フリッシュ
『わが名はガンテンバイン』1966年刊

冒頭で述べたマックス・フリッシュもカズオ・イシグロのように人間のアイデンティティを問題にする。その問題の仕方は独特であり、物語はいかにも唐突に展開する不思議な作家である。1954年に発表された『シュティラー』によって一躍世界的な作家となった。自己の自己に対する関係を描いた告白小説といわれている。僕が手に取れた本は、『アテネに死す』、これは「ホモ・ファーベル/作る人」が原題で、それはもともとベルグソンの言葉である。そして、『わが名はガンテンバイン』の二冊なのだけれど、後者は短い物語が脈絡なく続いているように思えるのだが、実は繋がっているのではないかと時々疑ってみたりする。その中の「裸の男(馬)」の話には病院でシャワーを浴びている男が様子を見に来た看護士の女性、彼女は思い切って叫ぶこともできないのだが、彼女の両の腕の付け根に両手にかけたまま、「ぼくはアダム、君はイヴ ! だ」というのである。呼び出された当直の医師の脇をすり抜けて、病院を抜け出し、街中を裸で歩きまわるという話になっている。奇妙だ。その次の物語「鏡の中の墜落」にはこのような文章が書かれている。

「それは鏡のなかへの墜落のようだ、ふたたび目ざめたとき、彼にはそれ以上のことがわからない、あらゆる鏡のなかへの墜落、そしてそのあと、そのすぐあと、世界はふたたび修復される、まるで何事も起らなかったかのように。事実また何事も起らなかったのである。(中野孝次 訳)」

ヒロとオオハラは、打ち解けあい、心の重荷を分かち合うようになる。そして、ついにヒロはオオハラに一つの願い事をした。こんな会話が描かれている。

今晩、奥さんに本当のことを、会社を首になったことを言ってください。いろんなことがあったり、なかったりした後、今こそ奥さんにそう言う必要があります。 わかった。約束する、きっと言います。じゃあ、あなたも約束してくれますか、その髪を今日中に短く切ると? 長いこと言えなかったけれど、そんなもじゃもじゃの毛をしていると恐ろしく見えるよ。二人して笑った。じゃあ、指切りげんまん。(第92章より)

その後、オオハラは7週間たってもヒロとの共有の場所に戻ってこなかった。意を決した彼は前にもらった名刺の住所をたよりにオオハラの家を尋ねる決心をするのだった。かつては、誰かに会うということ、これだけは避けたいと思っていたヒロだった。見えない糸にからめ取られて身動きできなくなる自分を嫌悪していたはずなのに。彼は、ついに何かに巻き込まれて社会という織物の一部になる決心をしようとする。誰かに会おうというのだった。オオハラの妻に。しかし、その家を訪ねて妻のキョウコから聞いた話は意外なものだった。どうか、結末はこの著作をお読みくださるように。

 

その他の参考図書

マックス・フリッシュ『アテネに死す』
かつて、結婚まで考えていた女性との間に生まれた娘と知らずに恋に落ちた、落ちたと思い込んだ技術者の悲劇を描いた小説。