ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part2 ヘレニズム化、死海文書、正典の確立

アレクサンダー大王の突然の死去の後、その帝国の一部であるエジプトは、部下であったプトレマイオス一世によって統治される。ギリシア人によってエジプトは支配されるようになるのである。前331年ナイルのデルタ地帯の西に建設されたその名もアレクサンドリア。ファロス島の灯台と図書館で世に名高い都市である。世界貿易の中心地であり、ギリシア人のほかにユダヤ人や多くの外国人たちが流入し始めていた。この王立図書館は前三世紀には世界の知の中心であり、講堂、会議室、庭園を備えた図書館は、ムセイオンと呼ばれた大型学術研究所の一部だった。長らく近東世界最大の知の宝庫、学識の象徴であった。そのような図書館にヘブライ語の聖書が蔵書としてないことに不満を感じるユダヤ人たちがいたことは想像に難くないと筆者であるカーギルは言う。今回もロバート・カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』からプロットしてみたい。

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

70人訳聖書

前三世紀から前二世紀にかけてユダヤ教は益々ヘレニズムの影響を受けるようになっていたが、ユダヤ人の歴史や宗教に関する事柄を世界的名著に加える価値があるとは考えられていなかったという。しかし、ユダヤ教徒の中にはギリシア語で読み書きできるものが増え、そのような学識あるユダヤ教徒の律法学者の中からヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳する者が現われるようになる。それが70人訳聖書と呼ばれるものであった。前250年頃から約150年の歳月をかけて翻訳され、概ね正確な版を完成させたといわれている。ただ、翻訳の過程で部分的な加筆、削除、解釈の変更は誤訳も含めて何百か所に及ぶといわれている。言い添えるけれど、翻訳に誤訳は避けられない。とりわけヘブライ語の翻訳は難しいとされている。この70人訳聖書には、従来のヘブライ語聖書になかった文書も含められた。それらは、後に聖書外典の名で呼ばれるようになる。この70人訳聖書は前一世紀から紀元後一世紀までユダヤ人にとって実質的な聖書であった。

前125年前後に書かれたと言われる『アリステアスの手紙』は、エジプトを支配したギリシア人であるプトレスマイオス一世の息子、プトレマイオス二世フィラデルフォス(前285-前246)の宮廷人であり異教徒だったアリステアスが兄弟のフィロクラテスに手紙を書き送るという体裁になっていて、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳される経緯が書かれている偽書である。アレクサンドリア図書館長のファレロンのデメトリオスが王に向ってユダヤ人の律法も転写してあなたの図書館に入れる価値があると進言するという架空の話から始まる。蔵書にヘブライ語聖書を加えたいと思った理由から書き起こされるのである。王がギリシア語への翻訳を命じる勅令を下し、ユダヤの12部族から各6名の翻訳者が二人一組になり72日間かけて律法(ト―ラー)を翻訳し、一言一句違わぬ翻訳版を36部作ったという展開になっている。この偽書の目的は、このギリシア語訳が申し分なく、敬虔になされ、現在の形を保持し、改変を加えないことが適正であることをユダヤ人たちに納得させることにあったようだ。

ギリシア語訳された70人訳聖書は、紀元後70年にローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ教徒の間に宗教的な伝統を守りたいという欲求が高まるに応じて人気がなくなる。一方ユダヤ教色の薄いギリシア語翻訳版はキリスト教徒に好まれていたが、それもラテン語聖書に取って代わられるのである。しかし、70人訳聖書が読まれた時代には、新約聖書の著者たちは、ギリシア語訳の本文がヘブライ語聖書の新解釈を導入する助けになると気づいたという。本書ではそのような二つの例が挙げられている。

紀元前8世紀のカナン付近

一つは出エジプト記13-15章でアラビア半島とアフリカ大陸を分断する大海を渡ったとされる場面であるが、この水域のヘブライ語名はヤム・スーフ「葦の海」であり、紅海とは訳せない言葉になっているという。訳者たちは、他の箇所で「葦」と「紅」の違いを訳し分けているから誤訳とは考えられない。当時はシナイ半島とエジプトを分断する水域を「紅海」と呼んでいたというから、何処だか分からない「葦の海」を「紅海」に置き換えた可能性がある。これは宣教の効果を考える上では重要であったかもしれない。もう一つはイザヤ書に登場する「おとめ」という一つの言葉だった。

それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる (イザヤ書7:14-16)。

このおとめはヘブライ語のアルマー、適齢期の女性を意味する。それを70人訳聖書ではギリシア語のパルテノスという単語で訳した。これは処女を意味していたのである。それゆえ、これを範とした新約聖書のマタイ福音書では、奇跡の懐妊を果たし、インマヌエルつまり「神はわれらとともにある」という神の化身を出産するマリアはパルテノスとして描かれたというのである。おそらく、この「おとめ」は聖母マリアの予型とされているのではないかと僕は思っている。予型についてはノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表に書いておいた。予言者イザヤはアハズ王のもとに赴き北王国(イスラエル王国)とアラム・ダマスコの同盟軍に対して、ダビデの血を引く次なるメシアが出現して再びユダヤ人は救済されるという預言を行った。そのおとめが身籠るメシアとはアハズ王の息子ヒゼキアを指している。アハズ王の時代ユダは持ちこたえるが、息子のヒゼキアの時代、前701年頃にエルサレムは新アッシリアに包囲される。その時イザヤは再び予言を行った。

エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。それゆえ/主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも/盾を持って向かって来ることも/都に対して土塁を築くこともない (イザヤ書 37:32- 33)

こうしてユダ王国とエルサレムは苦難をのりきるのであるが、後の前一世紀から後一世紀にかけての多くのユダヤ人はギリシア軍やローマ軍の圧政に苦しんでいて、イザヤ書のような預言書を読み返しては、現状のへの不満と悲しみを慰撫していた。70人訳聖書はそのような状況の中で読まれていた聖書なのであった。ちなみに現在の新共同訳聖書では「葦の海」「おとめ」共にヘブライ語旧約聖書のままとなっている。

『テオーシス』田島照久・阿部善彦編
著者 土橋茂樹、谷隆一郎、袴田渉、松村康平 他
「プラトン主義と神化思想の萌芽」収載
著者の一人である松村氏から寄贈いただいた。この場をお借りしてお礼申し上げたい。

プラトンとプロティノスの聖書への影響

ヘレニズム化されるユダヤ文化に浸透していったギリシア哲学の内でも、とりわけプラトン主義と新プラトン主義の影響は大きかった。プラトン主義は、影にすぎない物質界とその原型たる超越的な世界、つまりイデア界の存在を明確に区分する。そして、プラトンの著書『ティマイオス』にはこう述べられている。「神的なものについては、神自身が、その製作者となったのですが、死すべきものの誕生のほうは、その製作を、自分が生み出した子供たち(神々=天体)に命じたのでした。そこで、神の子らは父に倣って、魂の不死なる始原を受け取ると、次には、そのまわりに死すべき身体をまるくつくり〔=頭〕、それに乗り物として身体全体を与えたのですが、また、その身体の中に、魂の別の種類のもの、つまり死すべき種類のものを、もう一つつけ加えて組み立てようとしました(種村恭子 訳『プラトン全集12』)。」ここで、注目してほしいのは死すべき人間の魂は不死のものと死すべきものとに分けられて構成されたとしていることである。

最近、『テオーシス』というとってもいい本が出版されて、これも嬉しかったのだけれど、プラトンやプロティノスのギリシア哲学を起点としてキリスト教における東西教会(主に西方教会)の神化思想とその歴史的変遷を扱った本なのである。キリスト教へのギリシア思想の影響を知る上で貴重な本と言える。グノーシスもキリスト教との関係は濃密なのだが、それについては又の機会にご紹介したいと思っている。「テオーシス」とは一言でいうと「神に似ること」である。この感覚的な俗世から諸々の徳の理想的な範型へと「魂の向け変え」を行い、その観想によってなされる自身の浄化と倫理的徳の実践こそがプラトン(前427-前347)における「神に似ること」であったのである。プラトンのいう魂の不死性が、神に似たものになりゆく〈人間の生〉の永続性への根拠とされていたのではないかという(土橋茂樹「プラトン主義と神化思想の萌芽」)。

ユダヤ人であり、プラトン主義に通じたフィロン(前25-後50)によってプラトンのイデアとヘブライの神が結び付けられる。彼はギリシア化される離散ユダヤ人がユダヤ教から離れて行くことを懸念してモーゼ五書を含む旧約聖書注解をストア派的に寓意化して注解を作ったといわれている。ストア派は普遍的理性たるロゴスの理解を重視し、道徳的、倫理的幸福を追求した。一方で、彼は、プラトンの言う「神に似ること」を正確に受け継いでいたという。プラトンにとって宇宙が、善のイデアの統合体たる〈理性の対象〉の似姿(エイコン)であったように、フィロンにとって、人間は神が御自身にかたどった〈神の像〉の似姿、つまり写し〈像〉であった。人間は〈神の像〉の像ということができる。彼には、絶対的な神に人間が直接似ることは不可能と思われた。それゆえフィロンは、イデア全体をも表す神の思考の働きとしての〈ロゴス〉を神の像の知恵としたのである。神に似るためには、〈神の像〉としての〈知恵〉や〈ロゴス〉という媒介を必要とすると考えられるようになった(土橋茂樹「同上」)。

プロティノス(205?-270)

やがて、プロティノス(204-270)の新プラトン主義によって、この神化思想は、より大きな発展を遂げる。被造物は〈一者〉と呼ばれる唯一の存在から流出する過程で全てが生み出される。それは、万物の源であった。そして、彼はプラトンの主張を受けて『エネアデス』においてこう述べている。「プラトンは『神に似ることは、この世から逃れることである』と言ったり、日常の市民生活に関係している徳を、何の制約もつけずに〔徳〕と呼ぶようなことをしないで〔市民的な〕という言葉を付け足したり、また別のところでは、〔徳〕を浄化と呼んだりしているが、この場合、彼がすべての徳を二通りに分け、〔神に似ること〕を市民的な徳によるものとはみなしていないことは明白である(土橋茂樹 訳)。」プロティノスにとって〔神に似ること〕は、もはや倫理的実践の問題ではなく、一者への帰還であり、神との合一という神秘学的な問題へと移行するというのである(土橋茂樹「同上」)。

プロティノスが〈一者〉と呼ぶ存在と万物の源となる神聖な唯一の存在である神とは同質のものとして結びつけられていったのであろう。それは、キリスト教側からのアプローチであったと思われる。カーギルによれば、プロティノスの高弟テュロスのポリフュリオス(234-305)は『キリスト教徒駁論』を書いて、キリスト教を攻撃し、コンスタンティヌス帝から発禁処分を受け、後には焚書処分にもされているという。ともあれ、神化思想は、パウロにおいて神とキリストが同一化され、ニュッサのグレゴリオス(335頃-395頃)によって「神に似たものになること」は「キリストに似たものになること」に置き換えられ、偽ディオニュシオス・アレオパギタにおいて徹底的な自己無化による神との合一という神秘主義へと変遷していった。エピクロス派、犬儒派やストア派などのギリシア哲学の影響は part1 で述べたけれど、とりわけ、このプラトンやプロティノスの思想を受けてユダヤ・キリスト教思想は深化の度を深めてゆき、世界宗教としての風格を備えてゆくのである。さあ、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

死海文書発見の意味

死海北西部沿岸のクムラン廃墟と呼ばれる古代の住居跡、その付近にある泥灰土の崖にいくつかの洞窟があった。1946年の冬か47年の初め、そこから当地の牧夫が主にヘブライ語で書かれた羊皮紙の巻物を発見する。内容は紀元前1世紀ころ書かれたのではないかとされるもので、イザヤ書の写本、ハバクク書の注解、「共同体の規律」と呼ばれる「宗規要覧」であったが、さらにアラム語の外典創世記などの計七巻が発見される。この四つの巻物は古物商やシリア教会の大主教などの手を経てアメリカで競売にかけられ、既に購入されていた三巻とともにイスラエルにもたらされた。後には、この11の洞窟群から多くの断片が発見され、羊皮紙やパピルスなど書かれた写本の断片的な文書類は約800点にものぼったという。それらが死海文書と呼ばれるものである。概ね紀元前三世紀から後一世紀の時代のものであることが分かっている。

多くのゴシップや憶測を呼んだこととは別に、この死海文書の発見によって聖書研究はおおきな転換点を迎える。新約聖書ができる直前の旧約聖書の有様を垣間見ることができるからである。巻物の本文は90パーセント以上が従来の聖書の内容と同じだが、食い違う部分がある。つまり、旧約聖書の本文は部分的な書き換えがあり、長年にわたり変化してきたことの証しだと著者は述べている。

ジェームス・C・ヴァンダーカム
『死海文書のすべて』

死海文書の著作として定評のあるジェームス・ヴァンダーカムの『死海文書のすべて』によると、このクムランに住んでいたグループはパレスチナにおけるエッセネ派運動から派生した小さなグループであろうという。テオーシスの所でご紹介したフィロンやユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37-100頃)はエッセネ派の数をおよそ4000人としていることから、クムランに定住していたのは150から最大300人程度と推定している。エッセネ派というのはファリサイ派やサドカイ派などと同じくユダヤ教のグループの一つだが、サドカイ派は死者の復活を否定し、エッセネ派とファリサイ派は死者の復活を信じたという。

発見された「宗規要覧」から、このグループが神なき輩から自分たちを分かつことを求められ、イザヤの預言を成就するために荒野に入る、その目的が「律法の研究」であることが分かっている。写本の他におびただしい数の注解が同時に発見されていた。『死海文書のすべて』の執筆時までに明らかにされた写本で数の多い順に挙げると、詩編36本、申命記29本、イザヤ書21本、出エジプト記17本、創世記15本、レビ記13本となっていて、他はいずれも10本に満たない。詩編が多いのはそれが預言書として考えられていたからで、このクムラン共同体には終末の日の到来が強く意識されていて、自らの行動は最も厳しい戒めに合致したものでなければならなかったという。特筆すべきは「アロンとイスラエルのメシアたち」という二人のメシア信仰があったことだ。エッセネ派の生活習慣がキリスト教徒のそれとよく似ていることは専門家たちが指摘しているところだが、新約聖書の登場人物とクムラン共同体に関わる人物との関係は確認されていない。ヴァンダーガムは、初期キリスト教がそれを育んだユダヤ的な土壌に深く根ざしていることを死海文書は教えてくれると慎重な見解を述べている。

クムラン第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 部分

聖書のヘブライ語テキストには 、何世紀にもわたって細心の注意が払われて転写され、誤りをチェックされてきた伝統的写本であるマソラ本が存在していたのだが、転写されると古いものは処分されてしまうため、現存する最古のものは895年に筆写された「預言書のカイロ稿本」と925年頃完成した「アレッポ稿本」となっている。つまり、碑文などにある文章を除けば実物としてある聖書のテキストとしては、死海文書が最古のものということになるのである。

マソラ本とそれより1000年古い死海文書のイザヤ書とを比較した時、ほとんど違いがなかったと言われる。だが、マソラ本と70人訳聖書が一致せず、70人訳聖書と死海文書とが一致する場合もある。エレミア書は、70人訳聖書ではマソラ本より八分の一短いが、死海文書の六つの写本のなかには両方の長さのタイプのエレミア書があったのである。サムエル記のゴリアテの身長がマソラ本では約2メートル97センチ、70人訳聖書では2メートル6センチとなっていて約90cmの差があるが、死海文書では70人訳聖書と同じになっている。しかし、ダビデとゴリアテの物語は70人訳聖書で33節、マソラ本で58節費やしていて、長さに差があり、死海文書版のテキストではマソラ本と同じく70人訳聖書より長くなっているらしい。これらのことは、一部であるかもしれないが、70人訳聖書がマソラ本とは異なるヘブライ語テキストを使っていた可能性があるということなのである。それに、マソラ本と70人訳聖書には落ちていて死海文書にしかみられないサムエル記のパラグラフもあるという。

正典の確立へ

再びカーギルの著作に戻る。前49年にカエサルがルビコン川を渡り、翌年ファルサロスの戦いでポンペイウスに勝利すると、エルサレムの南、イドゥマヤの長官であったアンティパトロスは、ポンペイウスからカエサルに鞍替えして、後に初代ユダヤ総督に就任する。前43年にアンティパトロスが殺害されると、息子のヘロデがユダヤ王となった。ローマに就いた裏切り者の評判はさんざんなものだ。ヘロデの死後、王国は三人の息子とヘロデの女きょうだいの支配下に置かれる。この一世紀と二世紀初頭が新約聖書形成に寄与した時代である。イエスの誕生、総督ピラトゥスとへロデ・アンティパスの前でのイエスの裁判と受難が語られ、パウロの手紙がローマの領土に新設された教会に送られ、帝国全土の新しい教会を教導するため、パウロの名で牧会書簡が執筆される。新約聖書の誕生は、完全にローマ帝国での出来事であるとカーギルは言う。

破壊されたユダヤ第二神殿の西側の外壁 「嘆きの壁」と呼ばれる。

ユダヤ教徒と新興のキリスト教徒、そしてお粗末なローマの総督ポンティウス・ピラトゥスとの間の政治的緊張は66年のユダヤ教徒の叛乱に発展し、いわゆるユダヤ戦争が起こる。ローマ軍は70年にエルサレムの第二神殿を破壊した。そのため離散したユダヤ教徒は宗教活動に神殿を必要としないものに変えざるを得なくなる。律法を中心においたファリサイ派がユダヤ教の主流となっていった。神殿の喪失はユダヤ教徒とキリスト教徒にとって決定的な分かれ目になったという。第一神殿の破壊がヘブライ語聖書の編纂を催したように、第二神殿の崩壊は新約聖書の大部分とユダヤ教の最初の口伝集成であるミシュナを生んだというのである。先ほどの『死海文書のすべて』を書いたヴァンダーカムによれば、新約聖書は、ギリシア語で書かれていて、イエス自身はアラム語や多分ヘブライ語を話したが、「タリタ・クミ/娘よ、起きなさい」のような二、三のアラム語はギリシア語に音記されているという。

ハギア・イレネ教会 初期の総主教座 コンスタンティノープル
オスマン帝国時代はトプカピ宮殿の倉庫として使われた。

コンスタンティヌス大帝(272-337)が313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した後、キリスト教徒間の宗教的正統性を確立し、正統な教令の成立を目指して公会議を招集する。それがニカイア公会議であり、そこでキリスト教徒が「正式に」何を信仰するか定式化されたという。帝国の首都がコンスタンティノポリスに遷都されるとコンスタンティヌス帝はカイサリアのエウセビオスに帝都の主教アレクサンドロスが用いる聖書50部の作成を命じる。このように聖書の需要が高まってくれば、聖書としてどの書を選択するかを迫られることになる。イエスや使徒の教えに神学理論を根付かせようとしても引証するテキストがバラバラでは教会指導者にとっても問題だったのである。

367年にアレクサンドリア総主教アタナシオスは、ヨハネ黙示録を含めた27書の新約聖書正典目録を提示した。後の新約聖書正典となる全書を含む最初の目録であった。四世紀末にはローマ教皇ダマスス一世がヒエロニムス(347-420)に聖書のラテン語訳を依頼する。これが後のウルガータ聖書である。このラテン語訳には新約聖書の二十七書が収められ、この形が正典となった。しかし、旧約聖書については、ヘブライ語聖書か70人訳聖書をとるかで迷った。結果、ヘブライ語聖書をとって70人訳聖書にある他の書を外典としたのである。だが、ヒエロニムスは後に外典に関する考えを変えたという。翻訳者でさえ気持ちの揺れがあったというのだ。この外典をカトリックは第二正典として受け入れ、プロテスタントは受け入れなかった。

グーテンベルク聖書 1847年にアメリカにもたらされたグーテンベルク聖書のコピー

初期教会は、まず何を信じるか決定した後、その信条を指示するキリスト教文書を選んだという。初期キリスト文献や教会公会議の資料がそれを裏付けているという。正典と呼ばれた目録は驚くほど多く、意見の一致を見るのは四世紀の終わりだというのだ。教会発足後四世紀にわたる人間の解釈と議論の積み重ねが聖書をつくりあげたのである。

先ほどの『テオーシス』の中で筆者の一人である田島照久はニカイア公会議から第二コンスタンティノポリス公会議にいたる初期の公会議は「受肉論」すなわち「キリスト論」をめぐる戦いであったという。イエス・キリストは完全な神であり、同時に完全な人間であること。神性と人性という二つの本性を担い持つのは子というペルソナであり、この二つは融合せず、変化せず、分割せず、分離することなく存在する(『テオーシス』「総序」)。つまり、神とイエス・キリストとの関係はどうなっているかを議論したのである。

神化が人間において確実に起こることが保証されるためにはイエス・キリストがわれわれと同じ人間でなくてはならなかったし、逆にイエス・キリストが神でないのならペトロの約束する人間の神化、つまり、われわれ人間が不滅性と不死性を得て神に似た者(神の子)になるなどということは望むべくもないことになる。人間が神の神性にあずかり「神の似姿」を成就するという「テオーシス」の思想と神人イエスの教義である「神の受肉」の思想とがキリスト論を支える根本動機であったという。「テオーシス」は東方のギリシア正教会においては思想的伝統となったが、西方のローマ・カトリック教会においては堕罪・贖罪・十字架という方向性が強調されたため伝統的に継承されることはなかった。だが、それは後のグレゴリオス・パラマス、マルグリット・ポレート、エックハルト、タウラーたちからイグナチオ・デ・ロヨラにいたる修道者たちの思想に散見されることになるのである。

 

その他の参考図書

プラトン全集12「ティマイオス」「クリティアス」

モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』 アレクサンドリア図書館に関する広範で内容ある歴史書であり、お薦めしたい。