藪光生『和菓子 WAGASHI』と甘性文学集『ずっしり、あんこ』

旬月神楽に特注した和菓子 筆写撮影

僕は、広島での個展の時に三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の島村幸忠さんに煎茶の茶会を開いてもらったことがある。最近ではアルルで茶会があったようだ。広島での茶会用に特別の御菓子を旬月神楽(しゅんげつかぐら)の明神宜之(みょうじん のりゆき)さんにお願いした。銀座の甘楽(かんら)で修行した人だ。そこは、豆大福とどら焼きが美味しい店である。夏の盛りでなければ東京の土産によく買って帰っている。小豆あんがいい。その明神さんの店に行った時に、テーブルの上に何気なく置いてあった文庫本が今回ご紹介する本の一つ、藪光生(やぶ みつお)の『和菓子 WAGASHI』だった。この人は、全国和菓子協会の専務理事、全日本菓子協会常務理事、専門学校の講師でもある。この業界の経営指導や広報活動に尽力されてきた方である。美しい写真と気の利いた解説付きのコンパクトな本で、店のテーブルに座って何気なく読むのにふさわしい本だと思った。しばらく、この本を軸に、虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』も交えながら和菓子の歴史を追ってみる。

藪光生『和菓子WAGASHI』

世界中どこでもそうかもしれないけれど菓子のルーツは木の実や果物だ。つまり、「果子」である。垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が「非時香具菓/ときじくのかぐのこのみ」を求め、九年の歳月をかけて常世から持ち帰ったのが橘の実だったという。上古では石榴、梨、林檎、柿などの菓菰(くだもの)の他に菰(くさくだもの)として瓜、黄瓜、茄、アケビ、蓮の実、覆盆子(いちご)などがあった。クヌギや楢はアクが強いから粉にして水に晒してアク抜きし、粥にしたり茹でるなどして食べた。「団子」の起源である。餅は古代より神聖なものだったが、景行天皇の御代に豊国氏の祖である菟名手(うなて)が豊前国(ぶぜんのくに)に来た時、白鳥が飛んできて、餅へと変わり、片時の間に芋草(米)に化したという伝承が『豊後国風土記』に記されている。

昔の甘味料は米を発芽させた「米もやし」から作られる飴で、でんぷんからつくられる。日本で発明された甘味であるようだ。もう一つは「甘葛/あまずら」で、つる草の一種であるアマチャヅルの茎を切り、切り口から出る汁を煮詰めた甘味料だそうである。『枕草子』にも「削り氷に甘葛かけて」と書かれている。当時の最高級の御菓子だと言えるだろう。

やがて、遣唐使が「唐菓子/からくだもの」を持ち帰るようになる。もち米、うるち米、麦などを捏ねたり、大豆、小豆に塩を入れて油で揚げたものなどであった。清少納言は藤原行成から鴨などの肉に雑菜を煮合わせたものを餅にくるんで四角に切った餅餤(へいだん)を送られ、自分で持って行かないのは冷淡かしらと洒落のめして紅梅を添えてお礼の文を送ったという。平安時代には上巳の節句に母子餅(草餅)、端午の節句には粽(ちまき)が食べられるようになった。和泉式部は息子の石蔵の宮に母子草を餅に混ぜた草餅を母の愛とともに送っている。(『和菓子を愛した人たち』)。草餅については、この人の文章がいい。

母子草 春の七草の一つ、御形(ごぎょう)のこと。

「写真を出してみる。若き母は、天女のようにあどけない。小豆や夏豆(そら豆)の時期はこう囃した。『ほらこの豆は、団子のあんこになってもらうとぞ、鼠女(じょ)どもにもやるまいぞ。』即興詩人だった。小さな子は鼠女どもにやるまいぞと、つけて言い、大切なあんこの、豆がらの束を担いでかけまわった。小麦も鼠も人間も、団子もあんこに同格となって、母のささやき語に出てくるのだった。‥‥その胸の内をおしはかりながら、教えてくれたとおりに蓬餅をつくる。どの季節でもない、早春の気配を聴く頃にだけ、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春との間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない(石牟礼道子『食べごしらえおままごと』。」

鎌倉時代に入ると栄西が茶の木を持ち帰って喫茶の風が起こり、菓子類にも趣向が凝らされるようになる。『正法眼蔵』の「看経/かんきん」巻には僧に出される点心、つまり、おやつとして饅頭の六・七個盛りが、羹(あつもの/スープ)と一緒に供されるとある。ただ、この饅頭は甘い小豆あんではなく一種のパンに近いものだったらしい(『和菓子を愛した人たち』)。室町時代には、羊の肉の羊羹、魚の白魚羹など48種もの羹(あつもの)類が伝えられたという。肉食は、はばかられたため小豆の粉や、小麦粉を練って羊の肉を象って汁に入れた。その汁を無くし蒸し菓子にしたものが後世の蒸し羊羹である。薬としてわずかにしか得られなかった砂糖が輸入されるようになり、菓子の味や種類、製造法に大きな影響を与えるようになる。ただ、本格的な流通には江戸後期を待たなければならない。同じ頃、南蛮菓子も伝わるようになり、カステラ、ボーロ、ビスケットなどが登場するようになる。織田信長は、フロイスにもらったガラス瓶入りの金平糖にヨーロッパへのロマンを感じただけではないのだが、フロイスに布教を許した。ちなみに茶の湯に血道をあげた豊臣秀吉、その師である千利休が好んだ菓子は、ふの焼きと言われる小麦粉を溶いてクレープ状に焼き、味噌をぬって巻いたものであったという(『和菓子を愛した人たち』)。

金平糖 斜めに回転する鍋の中で砂糖蜜を少しずつかけながら結晶を大きくしていく。

金平糖と言えば、時代がかなり下るけれど寺田寅彦の研究材料として知られている。「金平糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい」と述べているという(『和菓子を愛した人たち』)。日本の金平糖は、南蛮のものとちがって二週間もかけて角を成長させて行く。角が生まれるのは、初めの偶然できた凹凸の尖った部分が凹んだ部分より早く成長するためであるという。ちなみに、昨今では結晶の生成は確かオートポイエーシスの第一領域と呼ばれていたと記憶している。

江戸時代に入ると、平和な時代が続き、生活も安定してくる。菓子の需要も高まり、参勤交代などでの江戸と地方との交流によって全国的な菓子文化の発展に繋がっていった。落雁、饅頭、胡麻餅、外郎、羊羹、葛餅、草餅、松風、唐錦、求肥など現在まで知られる菓子がその製法書に掲載されるようになる。求肥は白玉粉や羽二重粉などの上質な餅粉に砂糖や水あめと水を加えて加熱しながら半透明になるまで煉ったもので和菓子の生地になる。

煉りきり『もらい水』旬月神楽製

練りきりあんは白あんにこの求肥をつなぎに混ぜたもので、色々な形にアーティスティックに造形されるのがたまらない。はさみ菊などは芸術品といってよい。木型に入れてかたどるものとヘラなどを使って形作る「手形もの」とがある。ただ、形を細かく作るのに拘りすぎると、どうしても材料を固くしなければならないので食べるに適した硬さでなくなってしまう場合もあるとは明神さんの言葉である。親方から弟子へ、先輩から後輩へと受け継がれてはいくのだが、作り手が異なれば微妙に形も異なるものだという。手作りの技には「二つと同じものが作れない面白さ」と同時に「二つと同じものが作れない怖さ」が同居している藪さんはいう。

外郎(ういろう)はうるち米、もち米といった米粉、小麦粉、ワラビ粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る。四代将軍家綱の頃に寒天が生まれ、あんに小麦粉や葛(くず)粉を混ぜて蒸し固める蒸し羊羹から、あんを型に流し込んで寒天で固める煉り羊羹が発明される。寒天の量が少なく、柔らかいものが水羊羹である。

白小豆羊羹 筆者撮影

夏目漱石は『草枕』の中で、主人公が、宿の若奥さんから御茶を出される場面でこう書いてる。「『ありがとう』またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑なめらかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉(ぎょく)と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔(やわらか)だが、少し重苦しい。ジェリは、一目(いちもく)宝石のように見えるが、ぶるぶる顫(ふるえ)て、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である(『草枕』)。」これなど玉露を飲む時の描写と双璧して卓越なものだと思う。羊羹を描いて、青磁と玉のイメージを借り、その姿を褒め称えているのだ。

この漱石の羊羹を受けて谷崎潤一郎はこう書いている。「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。‥‥だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる(『陰翳礼讃』)。羊羹には神秘性があるのかもしれない。

川原慶賀「小豆図」
江戸後期の画家。シーボルトの依頼で日本の動植物や風俗を描いたことで知られる。

和菓子で最も重要な材料は小豆と砂糖であろうか。大きさの比較で大豆に対して小豆であろうという。小豆を食べる習慣があるのは日本、韓国、中国、台湾などの東アジアの一角に限られているようだ。それは「陽力」のある食べ物であり邪気を祓う力があるとされた。品質の良いものは丹波、備中、北海道などでとれるものである。日中に温度が一定以上になり、夜間はすっと涼しくなるような昼夜の温度差がある地域が最適である。丹波などでは山間部で栽培されるようだ。小豆の成分は57パーセントが澱粉である。その澱粉は、ちょっと変わりものであるらしく、澱粉粒四~五個をセルロース系の食物繊維が包んだ「あん粒子」と呼ばれる特殊な粒子であるらしい。一見して粘り気があるようだが、食べてみると口の中でさらりと溶けるのはこの粒子の働きであるという。大豆系の豆には、この粒子はない。白あんの原料は白いんげん豆で、中でも「手亡/てぼう」がよく用いられる。いんげんは蔓性で栽培に支柱がいるのだが、手亡は半蔓性で支柱がいらないのでこう呼ばれた。独特の粘り気と風味を持つ豆であるという。豌豆はうぐいす餅の原料になる。

小豆は開花して実をつけると小さな莢(さや)をつける。豆が大きくなるまでには開花後四十日くらいかかる。その頃収穫されるのがよい。しかし、開花は一月から一月半に及ぶので、早く実になるものも遅くなるものもある。同じ畑でも未熟なものや乾燥しすぎてしまったものなど実の状態は様々である。それで、適期に収穫したものか、遅れて収穫したものかによって品質が異なる。土壌や畑の立地によっても品質は微妙に変わる。それを粒の大小などの異なるものを選別して同品質に近づけるわけである。それでも品質にはバラつきが出る。その年の日照時間や天候によって今年と去年とは異なってくる。

豆の表皮にある苦み成分サポニン、渋み成分タンニンは隠し味のように小豆の風味の一画を占めるのであるが、生育要因によって量に違いが出る。それを除去する作業を「渋を切る」という。小豆を炊いて、茹で汁を捨てる作業を三~五回繰り返す。沸騰が始る前に切るのか、沸騰してから切るのか、沸騰後何分で切るのか、職人によって異なると藪さんはいう。これが、あんを百人が作れば、百の味になる理由であるという。職人はそれらの困難を乗り越えながら変わらぬ味を作り出していると言うのである。

汁粉(小倉あん)

あの痩せた姿からは想像しにくいのだけれど芥川龍之介は、しるこファンだった。関西では、しるこは漉しあんで作り、ぜんざいは粒あんで作るという区別がある。「僕等はもう広小路の『常盤』にあのなみなみと盛った『おきな』を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少なからぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にも少なからぬ損失である(芥川龍之介『しるこ』)。」上野の常盤屋という店のなみなみと盛った「白あんのどろっとした小倉しるこ」を二杯食するのが通例だったという。これは、ちょっと凄いかもしれない。つまり、白あんのぜんざい好きだったというわけだ。それで、関東大震災以来、しるこ屋が減ってカフェばかりになっていくことを嘆いている。

これも想像し難いことなのだけれど、森鷗外は、意外なものが好きだったみたいで、饅頭を四つに割って御飯にのせ、煎茶をかけておいしそうに茶漬けにして食べていたと娘の茉莉さんが書いている。子供たちも真似して食べていたというのだ。その他に、焼いた餅を醤油にひたして、それをご飯にのせ、ほうじ茶や番茶をかけて茶漬けにしていたという(『和菓子を愛した人たち』)。変った茶漬けが大好きだった。里の津和野の習慣なのかしら。津和野の人に聞いてもみたいのだが、聞いたらしかられるかもしれない。そういえば、私の祖母は孫の自分たちに正月過ぎて、雑煮も飽きた頃、あん餅を白味噌仕立ての雑煮にしてよく食べさせてくれていた。関東にはない風習ではなかろうかと思う。そんな不味そうなものと思う方もいるかも知れないが、これが美味い。ちょっとくるみあんの餅を食べるような感覚になる。嘘だと思う人は一度お試しあれ。

砂糖にはあまり知られていない優れた特性があるらしい。この『和菓子 WAGASHI』を読むまで知らなかったのだけれど、甘みという美味しさの他に保水性という重要な特質を持っている。水分の蒸発を防ぐと同時に、そのものに含まれる水分が砂糖に取り込まれると自由に動くことができなくなるのである。自由に動き回れる自由水があると菌の発生や繁殖の原因となるという。砂糖を用いることによって和菓子の水分活性を抑え、一般生菌などの繁殖を防ぐのである。砂糖はサトウキビや砂糖大根(ビート)を搾って蜜にし、不純物を除き精製したものであることは皆さんご存じだろう。

沖縄の黒砂糖はよく使われるが、貴重な砂糖として知られるのは和三盆である。江戸時代の後期から作られるようになる。竹糖(ちくとう/通称ほそきび)と呼ばれるかなり細めの特殊なサトウキビであるらしく、花が咲かない。沖縄では地下茎を残しておけば来年そこから芽が出る。北限の徳島あたりでは寒いので一度根っこから抜いて土の中に寝かせておくと節に芽が出るので来年それを植えるのだと言う。だから、その年に植えなかったら種黍がないので来年作ることができなくなる。そのサトウキビを機械で搾って煮詰める。アクを抜かないと白い砂糖にならないので蒸気でふかしてアクを吹きこぼしてキャラメル色の白下糖(しろしたとう)を作る。もともと冬の農閑期での仕事だった。

その白下糖を布に包んで手水をつけ、押し搾る「研ぎ」と呼ばれる作業が行われる。槽(ふね)と呼ばれるかなり大きな台で搾るのだが、昔はお盆を使って最低三回やったので三盆糖と呼ばれた。のちに外来の三盆白というような砂糖と区別するために和三盆と呼ぶようになったのが名前の由来であるらしい。水あめ状の糖蜜を搾り切った板状の砂糖を砕いて乾燥させると砂糖になるのである。面白いのは、これらの作業ができる人たちはサトウキビ畑のある里の人ではなく、山あいから冬の間だけ出稼ぎにくる人たちなのだ。白下糖までを作るのが「締(し)め子」、酒造りの杜氏(とうじ)に匹敵するという。研ぎを専門にするのが「研ぎ師」と呼ばれる。その数は数えるほどになりつつあるという。詳しくは、塩野米松著『最後の職人伝』〈人の巻〉をご覧になるとよい。ちなみに、金沢の長生殿はこの和三盆と北陸産のもち米を原料に木型で固めて作られる最高級の落雁である。

三つ食えば葉三片桜餅 虚子

長命寺桜餅 道明寺桜餅と同じく江戸時代からある。

桜餅は僕の大好きな御菓子の一つだけれど、若い頃、東京の御菓子屋で全く異種の桜餅を見てカルチャーショックを受けたことがある。米粉にはいくつもの種類があり、日常食べるお米、つまり、うるち米を生のまま粉にしたものが「上新粉」で柏餅、草餅、団子に使われる。もっと細かく挽いたものが「上用粉」で、薯蕷(じょうよ)饅頭や外郎(ういろう)の材料になる。蒸して加工する米粉もある。うるち米を水洗いして水に漬け、水切りして蒸す。蒸した後、乾燥させて砕いたものを「道明寺粉」という。これは、大阪の道明寺が発祥の地で、「道明寺糒(ほしい)」として戦国時代には兵糧食になった。水にもどせば食べられたのである。これを桜餅に使ったのが道明寺桜餅だ。しかし、桜の葉で巻かれているのは同じだが全く異なる桜餅があったのである。長命寺桜餅と呼ばれるもので、皮は小麦粉に米粉を加えて水に溶いて薄く焼き上げたもので、それであんを巻く。こんな桜餅もあるのかと驚いた。関西にはない。

芋坂も団子も月のゆかりかな 子規

杉田淳子、武藤正人 編『ずっしり、あんこ』

東京は日暮里のあたり、谷中から根岸に向う坂は芋坂と呼ばれて文政二年創業という有名な茶屋があるらしい。田山花袋の揮毫による「羽二重団子」の扁額が飾られ、店の横には正岡子規の句碑が建てられているという。団子の肌理の細かさから羽二重団子と呼ばれた。きっと白い絹を思わせるような生地なのだろう。その団子のことを司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、あるいは夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で書いている。団子は、漉した小豆あんをのせたのと生醤油に浸けて焼いたものしかない。もともと茶屋だったからビールと酒が置いてある。

『小説仕事人 池波正太郎』を書いたエッセイストの重金敦之(しげかね あつゆき)は、焼き団子で日本酒というのは悪くないという。続けてこう述べている。「じりじり色づいてきた団子を、片手に十四・五本すくい取って、もう一方の手には団扇がある。きびきびした手際の良さに感心しているうちに、お客が入ってくる。‥‥羽二重団子は庄内産のササニシキを使っている。もち米ではなく、日常食する『うるち米』だ。自分のところで製粉し、お湯でこねたものを蒸気で蒸す。火をつけるのは毎朝四時だ。蒸し上がった餅状のものを搗く。‥‥搗くことによって腰の強さと粘りが出てくる。そうでないと、口にしたとき歯のまわりにまとわりつくような「歯ぬかり」のする軟弱な団子になってしまう(重兼敦之『「羽二重団子」で日本酒を飲む』)。」

ちよっと面白い本を見つけた。〈美味しい文芸〉『ずっしり、あんこ』という主に文学者たちが描いた甘いものについての文章を集めた本だ。感性鋭いだけでなく甘性も十分ある、なかなか興味深い文章が集められているのでご紹介したくなった。上の文章の石牟礼道子、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、重金敦之の文章はこの『ずっしり、あんこ』からご紹介した。この中にある安藤鶴夫の『たいやき』も面白い。僕の種本である。

僕は酒は全く飲めない、というか受けつけない。生醤油をつけて焼いた団子と日本酒を一緒にするとどういう味になるのか試してみることができない。人生の喜びの半分は失っているなどと言われたものだが、本人はちっとも残念だと思っていない。好きでもないからだろうか。酒については、かなりうるさい御仁が知り合いにいる。一緒に食べに行くと彼は、ぐい飲み片手に酒について一家言始まる。この人「マッサン」で知られるようになった竹鶴の杜氏(とうじ)なのだ。ゲストで何か書いてもらうのも面白いかもしれないと思っている。

 

その他の参考図書

虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』
京都・東京の老舗虎屋が菓子に関する資料や調査などをまとめた文庫。どちらかというと歴史的な視点に立った和菓子を愛した人々の紹介になっている。

塩野米松『最後の職人伝』
数少なくなった職人の手業を取材した秀逸な著作である。特に魯・櫂と和三盆の製法は興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和菓子作りの動画は「はさみ菊」などの華麗な技を映像にしたものもあるのだけれど、ただ、餡を練りきりに包むだけという、この基本技の凄さを見ていただきたいと思う。