西有穆山『正法眼蔵啓迪』開山のお示しじゃ!

梁楷 『寒山拾得』 宋

魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥

禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。

  • 寒山は詩にこう書いた。

人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し

三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし

これなら分かりやすい。道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」の冒頭でこのように書いている。

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしありぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)は、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めているのだ。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時で少し触れておいた。

西有穆山(にしありぼくざん 1821-1910)
90歳の肖影

弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道、つまり弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。だが、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。

どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。

阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。

何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。

「達磨はこれを凝住壁観(二入四行論)といわれ開山(道元)はこれを身心脱落(しんじんとつらく)といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊(人の心身を構成する要素)中の色心(物・心)をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」

それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧

そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。

法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。

法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」

法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」

ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。

だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。この天台本覚については『天台本覚思想と一心三観』に書いておいたのでここでは簡単にしか繰り返さない。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。

彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十八歳頃のことではないかと思われる。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の如淨禅師のもとで参禅することになるのである。

道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。

キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。

そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛の今がある。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。狸や白牛にあるのは表面的な意味で理解される諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性 行仏威儀 神通 座禅箴」注釈

穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。

その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」

馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。田地隠密にただ兀地(ごっち)に碍(さ)えられる、不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」

この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」

梁楷『六祖破経』宋

甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

「たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれど、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなわちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈(ねん)じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人仏になるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もまたあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを(『正法眼蔵』古鏡)」

「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることをと道元は書いている。この言い換えは独特だ。穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。胡来胡現、漢来漢現では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。

「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」

尽法界一面の鏡それは、すなわち法楽とは言えまいか。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元

 

西有穆山禅師略歴

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。

 

その他の参考図書

澤木興道全集 第七巻 『正法眼蔵講話』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻 筑摩書房