T.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリック

歌川国貞(1786-1865/三代目豊国)『鳴神』 江戸

能の『一角仙人』や歌舞伎の『鳴神』が T.S.エリオットの詩と繋がっていると言ったらエリオットファンは興がるのか、嫌がるのかどっちなのだろう。時々、非常に遠いものを結び付けてみる。ランダム・リンクではないけれど遠いところへリンクを張るとスモール・ワールドを作れるらしい。

『鳴神』は初代の市川團十郎に端を発し、七代目團十郎によって歌舞伎十八番に選ばれた。鳴神(なるかみ)上人が世継ぎのない帝のために皇子誕生の願をかけ成就させるのだが、寺院建立の約束を反故にされたため龍神を滝壺に封印して国中を旱魃にしてしまう。そこで宮廷一の美女である雲の絶間が送り込まれて上人を籠絡し、滝壺の注連縄を切って龍神を解放するという話になっている。

『一角仙人』の方は、天竺の波羅奈(はらな)国での話。鹿のつるむのを見た仙人が思わず漏精し、そのしずくの掛った草の葉を食べた雌鹿が額に一つの角のある人の子を産む。その子は神通力を得て一角仙人となったが、ある日濡れた山道で足を滑らせて癇癪を起こし、雨の原因である龍王をことごとく岩屋に閉じ込めてしまい、天の下を旱魃にしてしまう。王国の智臣が宮廷一の美女である扇陀女(せんだにょ)と五百人の美人を一角仙人のもとに送った。淫欲に染まった仙人は神通力を失って、ついに身罷(みまか)り、龍王たちは解放されるという話が『今昔物語』や『太平記』にある。ここから一角獣の話に繋がっても面白いのだけれど、今回は見送ります。その話をもとにした能は金春禅鳳(こんぱる ぜんぽう)作で、一角仙人が扇陀女の舞にみとれて一緒に相舞(あいまい)するのが見どころになっているようだ。僕はまだ見ていない。見たい !

ジェシー・L・ウェストン(1850-1928)
『祭祀からロマンスへ』

それが、一体エリオットの詩と何の関係があるかというと話は長いのである。エズラ・パウンドやイエイツ、アーサー・ウェイリーが一時期没頭していた能の「謡」との関係は、エリオットにはほとんどないようで、インド思想と関連している。彼を一躍、詩壇の檜舞台に押し上げた作品といえば『荒地』なのであるが、この作品の注にはわざわざ文化人類学者であるジェシー・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』という著作が発想のもとになっていると書かれていた。この著作は、聖杯伝説が古代のギリシア・オリエントの祭祀や秘儀と関わっていることをJ.G.フレイザーの『金枝篇』やレオポルド・フォン・シュレーダーの『リグ・ヴェーダと笑劇』などの説を交えて詳述している。

その中に古代インドの叙事詩であるバラタ族の物語『マハーバーラタ』もあって、リシュヤシュリンガの物語が紹介されている。「カモシカの角を持つ者」の意味だが、仏教説話では「一角仙人」と呼ばれるようになる。聖仙ヴィバーンダカが苦行の後、湖で沐浴をしていると天界一の美女と謳われたアプサラスとウルヴァーシーの姿を見て漏精し、その水を梵天の命(めい)で牝鹿に変身したウルヴァーシーが飲んで額に小さな角のあるリシュヤシュリンガを生んだ。ここまでは「一角仙人」の話に近い。

彼は父のヴィヴァーンダカと二人だけで森の中で苦行に励み、若き婆羅門に育った。隣国ではローマパーダ王が婆羅門を騙したために、すべての婆羅門に見捨てられ祭祀がとり行えなくなり、インドラの怒りに触れて大旱魃が起こった。それを除くためには一点の汚れもない聖なる婆羅門であるリシュヤシュリンガをこの国に連れてこなければならない。王の命を受けた年老いた娼婦が、自分の美しい娘と数人の美女を心地よい庵とうつくしい花々、人口の樹に種々の果物を乗せた船とともに彼のもとに送る。父の留守に娘はリシュヤシュリンガに接近するのだ。彼は、父以外の人間に初めて出会った。それも、とびきりの美女だったのである。父は悪魔の誘惑であることを警告するが、娘はまんまと彼を船に乗せ旱魃の国へと向かった。すると王国は黒雲に覆われて盛大に雨が降り始め、王は自分の娘を若者に妻として与えるという話になっている。

結婚の儀礼が〈豊饒〉祭祀の一部をなしているという分けなのである。そして、それは水の解放と大地の豊饒という神話の一例となっている。儀礼の効能が高まるかどうかは司宰者が儀礼に先立って如何に貞節を厳守するかによるという。一角仙人や鳴神の劇は、この『マハーバーラタ』の豊饒祭祀の話が『ジャータカ』などの仏教説話に取り込まれ、『今昔物語』などで紹介されるに及んで生まれたと推測できる。しかし、意外にもウェストンは「聖杯伝説」との関連を指摘するのである。

トマス・スターンズ・エリオットは1888年アメリカはミズリー州セントルイスに生まれた。伝記については、T.S.マシューズの『評伝T.S.エリオット』からご紹介する。父方の祖父であるウィリアムはユニテリアン派の聖職者であり、植民地時代からアメリカ市民生活における指導的な役割を担ってきた家系の出身といわれている。このセントルイスに教会を建て、セントルイス・ワシントン大学の創立に尽力し、後にその総長となる。教育にも熱心な人であり、奴隷制の廃止も粘り強く主張した人だった。時には詩を書くこともある軽妙な文筆家であったという。ユニテリアンについてはエミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で触れておいた。

父親のヘンリーはユニテリアンの牧師を継ぐことなくあっさり実業家になった。しかし、ユニテリアンの信仰を持ち続け、禁酒と禁煙を守る模範的市民だったといわれる。母はニューイングランド出身でセントルイスの師範学校で教師をしていた人だった。詩を書くことが念願であったという。トマスはその七番目の子供で、一番上の姉とは19歳の年の開きがあった。末っ子として猫可愛がりされたのは想像に難くない。幼いトマスは本好きであったが、彼が読むことを許されない「俗悪書」があったようで、それが『トム・ソーヤ』と『ハックスベリ・フィン』であったという。気の毒な ! 後年エリオットは「幼い頃あれを読んでさえいたらと思う。今はどうしても批評家の眼で読んでしまう」と嘆いたという。

1906年ハーヴァードの学生となったエリオットは、ダンテの『神曲』をイタリア語で口ずさみながら三年間で文学士の資格を得ている。その頃、ハーヴァードの教授には孔子好きのフランス文学者アーヴィング・バビットと哲学者のバートランド・ラッセルがいた。この二人からの影響は大きかったようだ。バビットを通じてフランスの象徴派の詩人たちを知る。一方で独自にラフォルグのことを知ったエリオットは、彼の詩集全三巻を取り寄せた。ラフォルグは中原中也を魅惑した詩人でもあるが、エリオットは彼の詩集を読んだ最初のアメリカ人ではないかといわれている。フランスへの憧れが彼をパリへと一年間遊学させることになる。そこでベルグソンの講義を聴講した。

しかし、特筆すべきは大学院時代二年間サンスクリットを一年間パタンジャリを研究したことだった。パタンジャリに迷いブッダにしびれていたのだ。『荒地』には『ウパニシャッド』や、いわゆる南伝仏教経典である『スッタニパータ』の内容が見られるという(柴田多賀治『エリオットとインド思想』)。分かりやすい例で言えば『荒地』の最終連において三度繰り返される言葉「シャンティ」がある。これは、『ウパニシャッド』にみられる結語で、反復されて使われる「知的な理解を超える平安」を意味する言葉といわれている。

ヨーロッパの偉大な哲学者のほとんどが小学生にみえてくる、そんなインド哲学者が追求していた問題、それを理解しようとすれば、アメリカ人、あるいはヨーロッパ人としての思考や感性を忘れ去るほかないとエリオットは書いている(『異神を追いて』)。若き日に東洋の神秘的な哲学思想の洗礼を受けたのである。その彼がヨーロッパの古代にも眼を向けたことは容易に想像できるのではないか。エリオットを可愛がっていた長姉のエイダは、彼が「人間関係」から引きこもり、現実の中ではただ「演技する生活」になって心の奥底の神秘主義にはまり込んでいくことを危惧していたという(アクロイド『T.S.エリオット』)。彼には神秘主義への秘めた憧れがあった。

『エリオット評論選集』「異神を追いて」収載

『リグ・ヴェーダ』賛歌において、雷神インドラは悪龍ヴリトラを退治し、七つの大河を解放する。「水の解放」と「大地の豊饒」が言祝がれるのである。『金枝篇』によると、シュメール・バビロニアの生命原理神タムムズ(タンムーズ)の死は植物を枯らし動物や人の死を呼ぶが、女神イシュタルが冥界に下ることによって年の半分を地上に帰還できるようになる。フェニキアからギリシアに広がった古代祭祀の特徴を色濃く残す植物神アドーニスの祭祀は、アプロディーテーに愛された美少年アドーニスの物語としてギリシア神話で知られる。彼は、嬰児の折に冥界の女王ペルセポネーとアフロディーテーとの間で取り合いとなりゼウスの仲裁によって冥界と地上とを行き来するようになるが、成長してアフロディーテーとの狩りのさなか猪に突かれて死ぬ。その祭祀は、傷あるいは死によって神のもたらす生殖力が停止ないし休止することを意味し、その復活を祈る儀礼と考えられている。フェニキアにおけるアドーニスにあたるものが、現トルコ中央部であるフリギアにおけるアッティスであった。アッティスは穀物神であり、小麦の刈入れられる春あるいは夏にひき臼で挽かれて死に、それにかたどられた人形は哀哭とともに水に投げ捨てられ、次の年の復活が祈念された。エジプトではそれがオシリスにあたる。

『荒地』の冒頭「四月は最も残酷な月」もむべなるかなである。第一次大戦が勃発した1914年に大陸経由でロンドンに渡ったエリオットだが、この作品は大戦の終結した4年後の1922年に発表された。大戦後の荒廃と混乱を詠った詩として注目されたのだが、それだけではないのである。古代祭祀イメージを当時の常況の中に滑り込ませているのだ。これがモダニズムの手法なのだが、エリオットの『荒地』の冒頭部分をご紹介したい。エリオットは1914年に南ドイツのバイエルンでウィーン出身の作家ホフマンスタールの作品を読んでいる。文学上の問題については次回 part2 で述べる予定です。この詩にでてくるシュタルンべルク湖は南ドイツにあり、ルートヴィッヒ二世の水死体が発見された所として知られている。王の死 !

Ⅰ 死者の埋葬

四月は最も残酷な月、リラの花を
凍土の中から目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を
忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた
夏がぼくたちを驚かせた、シュタルンベルク胡を渡ってきたのだ。
夕立があった。ぼくたちは柱廊で雨宿りをして
それから、日差しの中をホーフガルテンに行って
コーヒーを飲み、一時間ほど話をした。
ワタシハロシア人ジャナイノ。リトアニア生マレノ生粋ノドイツ人ナノ。
そう、わたしたち、子どものころ大公の城に滞在して、
従兄なのよ、彼がわたしを外につれ出して橇(そり)にのせたの。
こわかったわ。彼が「マリー、
マリー、しっかりつかまって」って言って、滑り降りたの。
山国にいると、とっても解放された気分になれます。
夜はたいてい本を読んで、冬になると南へ行きます。

(岩崎宗治 訳)

THE BURIAL OF THE DEAD

APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
With a shower of rain; we stopped in the colonnade,
And went on in sunlight, into the Hofgarten,
And drank coffee, and talked for an hour.
Bin gar keine Russin, stamm’ aus Litauen, echt deutsch.
And when we were children, staying at the archduke’s,
My cousin’s, he took me out on a sled,
And I was frightened. He said, Marie,
Marie, hold on tight. And down we went.
In the mountains, there you feel free.
I read, much of the night, and go south in the winter.

 

ジャン・フラピエ『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』
アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。訳者も述べているが、クレチヤンの著作で日本語訳された本はない。この解説書だけが存在している。惜しい。1988年刊

ウェストンの『祭祀からロマンスへ』では、インドやオリエントに伝わる古(いにしえ)の豊饒神話とケルトのアーサー王伝説が結びついて聖杯物語が成立したと考えられている。もともとキリスト教起源の話ではないという。ジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯伝説はウェールズかノルマンディー近くのアルモニカ出身であったジョフロワ・ド・モンムートが1136年に書いた『ブリタニア王列伝』に端を発するという。それをもとに、フランスの詩人クレチヤン・ド・トロワが大ブルターニュと呼ばれたブリテン島と大陸にある小ブルターニュと呼ばれた地域に残るケルトの伝承を参考にロマンス(物語)にした。こうして『聖杯物語あるいはペルスヴァル』などのアーサー王にまつわる物語が12世紀終わり頃に書かれる。13世紀初頭には、同じくフランス人ロベール・ド・ボロンの『アリマタヤのヨセフ』、続いてドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』などが書かれていて、かなりのヴァリエーションがあることが知られている。このエッシェンバッハの作が後にワーグナーによって楽劇『パルジファル』となるのは皆さんご存じだろう。

「聖杯伝説」における初期のテキストにおいて聖杯城は海上か海辺、あるいは河川の岸辺にあり、聖杯のその最後の在りかは島の修道院なのである。漁夫王が衰弱すると国土は旱魃に苦しみ、多くの民も死ぬ。国土の豊饒とその繁栄は単なる人間ではなく神聖な王の生命と活力に依存している。国土の荒廃は、ぺルスヴァルが聖杯と血をしたたらせる槍とは何かと問いを発しなかったことによるのではなく、王の病気あるいは体の障害から来るものであることをウェストンは確認した。ペルスヴァルの過失とは、問いを発しなかったために王を救えなかったことにある。彼は、聖杯城をもう一度探す旅に出るのである。そのために国土は “The Waste Land “、荒廃国、つまり『荒地』から解放されることがなかった。その詩『荒地』の「雷が言ったこと」から第5連をご紹介する。

 

ガンジスの水位は下がり、群葉は萎れ
雨を待っていた。黒い雲が
遠く、ヒマラヤ山脈の上に湧き出た。
ジャングルは蹲(うず)くまり、静かに身をかがめていた。
そのとき、雷が言った
DA
ダッタ――与えよ。我々は何を与えたか?
友よ、熱い血が心臓を揺さぶり
一瞬身を任せるあの盲進
古老の分別も引き戻すことはできない
これによって、これによってのみ、われわれは存在してきたのだ
それは新聞の死亡広告欄にも見られず
善意の蜘蛛の巣が覆いかくしてくれる回想録にも
人気のない部屋で痩せた公証人の開く遺言状にも
現われはしない
DA
ダヤヅワム――相憐れめ。わたしはただ一度だけ鍵が
回される音を聞いた、ただ一度だけ
われわれは鍵のことを思う、めいめい自分の独房にいて
鍵のことを思いつつ、めいめいの独房を確認する
ただ日暮れどき、霊気にも似た幽かな声が
一瞬、虐殺されたコリオレイナスを甦らせる
DA
ダミヤタ――己を制せよ。船は従った
楽しげに、帆と櫂に熟達した人の手に
海は凪いでいた。もし誘われれば、きみの心も快く
応じたことだろう、指図する者の手の動きに
従順に鼓動して

(岩崎宗治 訳)

Ganga was sunken, and the limp leaves
Waited for rain, while the black clouds
Gathered far distant, over Himavant.
The jungle crouched, humped in silence.
Then spoke the thunder
DA
Datta: what have we given?
My friend, blood shaking my heart
The awful daring of a moment’s surrender
Which an age of prudence can never retract
By this, and this only, we have existed
Which is not to be found in our obituaries
Or in memories draped by the beneficent spider
Or under seals broken by the lean solicitor
In our empty rooms
DA
Dayadhvam: I have heard the key
Turn in the door once and turn once only
We think of the key, each in his prison
Thinking of the key, each confirms a prison
Only at nightfall, aetherial rumours
Revive for a moment a broken Coriolanus
DA
Damyata: The boat responded
Gaily, to the hand expert with sail and oar
The sea was calm, your heart would have responded
Gaily, when invited, beating obedient
To controlling hands

 

DAは雷の音、ダッタ、ダヤヅワム、ダミヤタはサンスクリット語で、――でそれぞれ結ばれた隣の言葉がその意味である。三つのDAで分けられた四つのパートの内、二つ目の「友よ、熱い心臓を‥‥」で始まる部分は性の禁忌を侵したことを暗示してはいないだろうか。コリオレイナスはシェイクスピアが書いた最後の悲劇の主人公である。

T.S.エリオット『荒地』岩崎訳がすばらしい。

ウェストンは、キリスト教の儀礼の中核を求められるとするなら「礼拝者がたんに象徴的にだけでなく、実際にその分け前にあずかり、神と一体になることで、永遠の生命の確証を得る聖餐式の聖食であると言ってはならないだろうか(丸子哲雄 訳)」と述べている。フリギアにおけるアッティスの母、つまり大地母神キュベレーに捧げられた銘板には魚と杯がみられるという。さきほどのジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯と訳された「グラール」とは、当時、かなりの大きさの窪んだ平皿を指していたという。それはケルトに伝わる富と豊饒のをもたらす魔法の器であったのだ。水と豊饒の関係を示す象徴でもある。ボロンの『アリマタヤのヨセフ』では、ヨセフの義兄弟ブロンズが捕ってくる魚が食卓の片側に聖杯がその反対側に置かれる。食卓に着いたものは「大いなる心地よさ」と「心の満足」を得たという。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハでは、食卓にいる者一人一人に欲しい料理と飲み物が聖杯によってもたらされる。魚とは呑み込もうとする貧欲さの考えられうる千姿万態であるとユングは書いていたが、聖杯は逆に惜しみなく与える器なのである。ちなみに魚とキリスト教との関連はカール・グスタフ・ユング 『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に述べておいた。

カトリックとプロテスタントを分ける重要な要素はミサの有無であろう。カトリックの典礼に聖餐式の聖食という要素があるのは確かである。ウェストンはユダヤ人には安息日に魚を食べる習慣があり、その習慣は初期キリスト教に引き継がれ、魚、パン、葡萄酒による聖餐式が行われたという。1927年にエリオットがカトリックに改宗した理由がここらあたりに見いだされるかもしれないと僕は思う。何かを直感した。古代の再生儀礼と深く関わるカトリックのこの典礼に計り知ることのできない何かをである。伝統と正統を重視し、それらは相互補完的だとする立場にあるエリオットはこう書いている。「我々は世界を見るに際して、キリスト教の教父たちのような世界の見方を知る必要がある。そして、根源にたどりつくことの目的は、より大きな精神的知識をもって我々自身の状況に戻ってこられるようになることである(『キリスト教社会の理念』高柳俊一 訳)。」

高柳俊一『TSエリオットの比較文学的研究』

しかし、何故エリオットは、ローマカトリックではなくアングロカトリック、つまり英国国教会における初代教会との繋がりと典礼を重視する宗派に改宗したのだろうか。コモンセンスが重要だったのだろうか。ヒントは、彼が主幹していた『クライテリオン』誌に掲載された「論壇」の中の文章にあるようだ。英国はラテン文化とゲルマン文化双方の要素を共有して、二つの文化の懸け橋となっている。ローマ帝国がそうであったように、かつて英国も世界に広がる帝国であった。それゆえ、ヨーロッパのみならずヨーロッパとその他の世界を結びつけることができると考えた。第一次大戦を経験した者にとってそれは切実な問題であったろう。確かにローマ帝国からキリスト教的西欧としての神聖帝国は生まれた。しかし、文化再興の原動力として英国にそれを期待するのはすでに時代錯誤であったのではないか。もはや、世界の主導権は英国の手から滑り落ちていたのである。

高柳俊一は『T.S.エリオットの比較文学研究』の中でこうのべている。エリオットは、内にアメリカ生まれの知識人の不安定さを抱えながら、一方で現実には存在しない理念としての英国の文化伝統の理想を掲げて、自らそれと同一化していった。しかし、他方では、現実の英国が島国的で、ヨーロッパ大陸の伝統から切り離されていることを嘆いていた。このことは、彼自身の心的な不安定さを克服しようとする内的な圧力と理念と現実との複雑な絡みあいを考え併せて、初めて理解できることだという。そこには、文化の理想として西欧文化をより普遍的なものにしようとする無意識の傾向すら認められるというのである。彼にとって英国とは聖杯城だったのかもしれないのである。

 

その他の文献

T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』

J.G.フレイザー『金枝篇』第五巻
第四部―アドニス、アッティス、オシリス―
神成利男訳 国書刊行会

 

マハーバーラタ 第二巻 森の巻
「角のある聖仙の話」収載