「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。