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ミレーナ=美智子・フラッシャール『ぼくとネクタイさん』鏡のなかへの墜落

この美しく、もしかすると意味のある世界から
君はどれほどのけ者にされ、
あらゆる自然な完璧さからどれほど遠く隔てられ、
君自身の虚無の中でどれほど孤独を感じ、
この大いなる沈黙のなかで、どれほど孤立無援であることか。

マックス・フリッシュ『沈黙からの答え』関口裕昭 訳

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』

この小説『ぼくとネクタイさん』の冒頭に引用されたスイスの小説家・劇作家であるマックス・フリッシュ(1911-1991)の言葉、ここに既にこの物語の前景が暗示されているのだが、今回ご紹介する小説の書き出しは、その最後の文章と共に異様に明るい。書き出しは、こう書かれている。

ぼくは彼をネクタイさんと名づけた。
彼もこの名前を気に入ってくれた。彼は笑い崩れた。
胸元の赤とグレーの縞模様。あのネクタイとともに、ぼくは彼を記憶に永遠に刻み続けるつもりだ。

この本の表紙にあるようなベンチが主な舞台だった。20歳の引きこもりの青年が、少し外出できるようになり、そのベンチで初老のサラリーマン風の男と会話するようになる。それがこの話の端緒なのだが、この二人には、この世界から切り離され、疎外され、孤立無援とならなければならない深い傷があったのである。

確か、昨年の10月にこの小説の翻訳者である関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんが学会で広島に来られると言うのでお会いできることになった。この人はパウル・ツェランの研究者として知られる人でオーストリア文学会賞などを受賞されているのだが、僕が関口さんの著書を 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇と題して書いた時にわざわざコメントをくださった。それがお会いすることになるきっかけだった。その時は、版画家だったツェランの奥さんのジゼルのことやツェランの親友であったクラウス・デムス(ピアニストのイェルク・デムスの兄)の息子でジゼルから版画の手ほどきを受けたというヤーコプ・デムス氏、作曲家の細川俊夫さんのこととか話した記憶があるのだけれど、別れ際に今訳している本を後で送りますよと言ってくださった。それがこの本なのである。

ザンクト・ペルテン ウィーンの西方56キロに位置する。バロック風の建物が多いことで知られる都市。

著者のミレーナ=美智子・フラッシャールは、1980年ウィーン郊外のザンクト・ペルテン生まれ。父親はチェコ系のオーストリア人で母親は岡山出身の日本人である。日本語は母の口から学んだまさに母語であったという。読み書きは、もっぱらドイツ語のようだ。ちなみにオーストリアの公用語はドイツ語である。ウィーン大学とベルリンの大学で比較文学、ドイツ文学、フランス文学を学んだ。卒業後は外国人にドイツ語を教えたりしながら小説を書き続け2008年『Ich bin/私は』、2010年『Okaasan』を発表した。この二作目は大きな注目を集めたという。2012年の本書によって、オーストリアの有望な新人に与えられる アルファ賞を受賞している。関口さんの「訳者あとがき」によれば、彼女は日本への長期滞在はないようだが、ほぼ毎年二週間ほどの滞在を繰り返していて、日本に住んでいる家族や親戚を訪れ、日本の風景・文化を楽しみ、時折自作の朗読もしているようだ。現在は、ウィーン市に夫と息子とともに生活している。

主人公は20歳くらいの青年タグチ・ヒロ。二年間、両親とともに住む家の自分の部屋に引き籠り、本棚の上にある髪の毛のように細い亀裂を眺めて暮らしていた。比較的短い文章でまとめられる114章は、こんな書かれ方がされている。

今ぼくが座っているのが、僕たち二人のベンチだ。ぼくたちのものになる前は、ぼくひとりのものだった。‥‥‥瞳を閉じてそのジグザグの線をなぞってみた。頭の中にあったその線はどんどん伸び続けて、心臓や血管にまで食い込んでいった。ぼく自身が血の通わない線だった。陽の当たらないところにいたので、肌が死人のように蒼ざめていた。ときどき陽の光に触れたいと憧れた。外に出て、人がけっして出て行くことのない部屋があるのを理解するのは、どんなことなのだろうかと想像してみた。‥‥ぼくは自分を欺こうとはしなかった。相変わらず重要なのは、自分のために存在するということだ。誰にも会いたくなかった。誰かに会うということは、何かに巻き込まれるということだ。きっと見えない糸があって、人から人へ繋がっているのだろう。どこもかしこも糸だらけ。誰かに会うということは、つまるところその織物の一部になることだ。これだけは避けたい。(第3章より)

彼は意味のある世界からはぐれた。そして、じっと見つめ続けていた自室の壁のヒビが自分自身の頭の中の線や心臓からの血管の線となっていく。それは、これからの他人との繋がりが生じることを暗示しているのである。ヒロが、閉じこもりを始めた契機には二つの事件があった。最終学年で同じクラスになったクマモトを巡る事件と16歳の時同じクラスになった幼なじみのユキコの事件だった。

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』裏表紙

クマモトの家は三代続いた法学者の家系だったが、彼は詩人になりたがっていた。ヒロにはその詩がちっとも理解できなかったが、自分がどこかへ向かっていて、たどりついた場所でどのように孤独になるかを知っている、そんな光りを放つ彼と友達になった。ある日、待ち合わせの場所で、クマモトは道を渡ろうとしていた。周囲を見回しもせず車の往来の波に水泳選手のように飛び込んでいった。事故なのか自殺しようとしたのか。ヒロは気を失い目覚めたときには既にクマモトの姿はなかった。ヒロはその夜、恥の感情が込みあげてくるのを感じる。日本人の恥の感情がクローズアップされるのである。自分の持つ倫理と現実の対応とのギャップに対するある種の嫌悪のようなものが感じられはするのだが‥‥ここは、血のつながりを持ちながらも、外から日本人を見ている著者の距離感が興味深い。読む人それぞれに異なる感触を持つヶ所かもしれない。彼はもう誰の運命にも巻き込まれたくないと思うのだった。それが引きこもりの引き金になった。

ユキコは隣に住む腐敗物の臭いがただようような貧しい家の子供だった。家族は、興味よりもある種の不安からヒロに彼女のことを尋ねた。しかし、幼い子供にとってそんなことは問題ではなかった。ユキコは琴座の王女様で、はるかな故郷から地球に籠の中に入れられて運ばれてきたのだという。二人は、小刀で木の幹に名前を刻み、ユキコはスカートのポケットから赤い糸を引っ張り出して、枝に結びつけ、この赤い糸はわれわれが結ばれていることを永遠に記憶し続けるだろうと誓いの言葉を宣べるのだった。しかし、10歳にもなると二人の間は疎遠になっていった。そのことにヒロは苛立ちさえしたが、結局ユキコはヒロを避けるようになり、二人は離れてしまう。再会したのは16歳の時、同じクラスのクラスメイトとしてだった。しかし、この偶然の出会いはヒロに決定的な深い傷を残すことになる。

ベンチに坐るもう一人の人物ネクタイさんは、オオハラ・テツという名の58歳の元サラリーマンだった。職場での文字通り小さなつまずきが彼の生活を変えてしまった。書類の山を抱えて隣の部屋に移動しようとしてケーブルに足を取られた。職場の同僚たちは笑って、こうささやく者もあった。こんな人はいらないと。ちいさなきっかけから禍が雪崩をうつかのようであった。それから、彼を重い鉛のような眠気が襲い始めるようになる。こうして彼は会社をクビになった。それを妻のキョウコには言えなかった。彼女の作る美味しい弁当を持って毎日公園のベンチに坐っては、お昼になるとそれを食べ、夕方6時に帰っていく、そんな生活を繰り返していたのである。彼は若いヒロにこう語りかける。

今日、プラットフォームで人ごみの中にまみれながら、わたしは自分に問いかけました。この中の誰かひとりがいなくなったら、わたしの中にあるその人の一部分が欠けることになりはしないかと。そして、こう思ったのです。ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか、と。そのとき、ようやく電車がホームに入ってきて、わたしの姿が車窓に映り、その後ろで寝ている人の顔に重なって通り過ぎていくのを見たとき、わたしの疑念は消え、こう悟りました。われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだということを。(第76章より)

オオハラにも忘れることのできない二人の人がいる。10歳の時ワタナベという名のピアノの先生についた。その先生の奥さんは肺病で余命いくばくもない人だったが、一緒に暮らしていた。ある時、ピアノの前の蠅を叩いて殺したことがあり、罪もない生き物を殺すなと叱られた。オオハラはそのとき、先生だって奥さんが咳をしているとき笑ったじゃないですかと反論した。先生はこう言った。ぼくが笑ったのは、妻がぼくに笑ってほしいからだ。ぼくは悲しみを封じ込める。ぼくの笑は彼女の伴奏をしなければならない。そう言いながら先生は泣いていた。結局、ピアニストにはなれずじまいで、1年間先生の演奏を聞くためだけにレッスンに通ったのだった。

もう一人はツヨシという名の初めての、そして最後の子供だった。オオハラが息子に関して記憶している言葉は、息子さんには障害がありますという一言だった。それは感情を失った感情と呼ぶほかはないものだった。子の障害を受け入れることのできない自分。普通の赤ちゃんのように元気に泣くこともない赤ん坊。たくましく世に生まれて、成長し、世界を少しでも良くしようとする人間のイメージを描いてツヨシという名をつけたのだった。間もなくツヨシは亡くなった。心臓に大きな障害を抱えて生まれて来ていた。

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

翻訳者の関口さんは、この翻訳に関して一つの懸念を持っていた。それは、日本の読者が、この小説を日本の物語だと強く思い込んでしまうことだったという。舞台も登場人物も日本人で、ことさら、梅干しや弁当の海藻サラダという日本的なイメージが登場する。だが、現実世界とは、ズレたパラレルワールドなのだという。日本人の自分がこの物語を自分にあまり近づけ過ぎないように気をつけたというのである。著者は日本の文学や文化を深く愛する人だが、手探りで日本のイメージを描こうとしていた。彼女は自分の血の中の脈々と波打つ日本的感性を小説を書くことによって確認しようとしたのではないかと関口さんは書いている。

その点、カズオ・イシグロが、五歳頃までに過ごした日本の薄れゆく記憶を文章の中に留めようとして小説を書き始めたのと似ているかもしれないと関口さんはいう。生地の長崎を舞台にした日本に関する小説というと『遠い山なみの光』が思いだされるけれど、この小説は、戦前の日本の価値観が崩壊した戦後間もない長崎の住宅地が舞台であり、イギリス人と再婚した悦子がイギリスで日本の生活を回想するという設定になっていて、勿論、英語で書かれたものが日本語に訳されている。黄昏時に水溜りの多い空き地を、それらをよけながら向う側へ渡っていく。そのようなシーンが何度も登場する小説である。決定的な何かは描かれないし、長女の自殺という不幸の起こった理由もことさらに明かされない。すべては手さぐりされながら過ぎ去っていくなかに、悦子の女性としてのアイデンティティのふくらみが果樹園の上に広がる雲のようにただあるべきように描かれて終わる。関口さんのコメントを続けよう。

この『ぼくとネクタイさん』の原文には引用符がないらしく、訳者は語り手が変わるたびに一人称を「ぼく」「わたし」「おれ」「あたし」と訳し分けたという。語り手が誰なのか一読しただけでは明瞭でないこともあったという。ドイツ語で受ける明瞭なイメージと日本語への翻訳の難しさとはギャップがあって、その分、楽譜を見ながら指揮者が個々の音の様々な色合いを見つけ、強弱を明確にし、声部と声部を重層的に重ねあわせながら、交響曲として演奏し、聴衆に届ける過程と似ていて楽しかったというのである。オーストリアの文学を熱心に紹介していたのはドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんだったけれど、関口さんにも是非これから色々な名作を紹介してもらえればと思っている。

ドイツの文学第10巻 フリッシュ
『わが名はガンテンバイン』1966年刊

冒頭で述べたマックス・フリッシュもカズオ・イシグロのように人間のアイデンティティを問題にする。その問題の仕方は独特であり、物語はいかにも唐突に展開する不思議な作家である。1954年に発表された『シュティラー』によって一躍世界的な作家となった。自己の自己に対する関係を描いた告白小説といわれている。僕が手に取れた本は、『アテネに死す』、これは「ホモ・ファーベル/作る人」が原題で、それはもともとベルグソンの言葉である。そして、『わが名はガンテンバイン』の二冊なのだけれど、後者は短い物語が脈絡なく続いているように思えるのだが、実は繋がっているのではないかと時々疑ってみたりする。その中の「裸の男(馬)」の話には病院でシャワーを浴びている男が様子を見に来た看護士の女性、彼女は思い切って叫ぶこともできないのだが、彼女の両の腕の付け根に両手にかけたまま、「ぼくはアダム、君はイヴ ! だ」というのである。呼び出された当直の医師の脇をすり抜けて、病院を抜け出し、街中を裸で歩きまわるという話になっている。奇妙だ。その次の物語「鏡の中の墜落」にはこのような文章が書かれている。

「それは鏡のなかへの墜落のようだ、ふたたび目ざめたとき、彼にはそれ以上のことがわからない、あらゆる鏡のなかへの墜落、そしてそのあと、そのすぐあと、世界はふたたび修復される、まるで何事も起らなかったかのように。事実また何事も起らなかったのである。(中野孝次 訳)」

ヒロとオオハラは、打ち解けあい、心の重荷を分かち合うようになる。そして、ついにヒロはオオハラに一つの願い事をした。こんな会話が描かれている。

今晩、奥さんに本当のことを、会社を首になったことを言ってください。いろんなことがあったり、なかったりした後、今こそ奥さんにそう言う必要があります。 わかった。約束する、きっと言います。じゃあ、あなたも約束してくれますか、その髪を今日中に短く切ると? 長いこと言えなかったけれど、そんなもじゃもじゃの毛をしていると恐ろしく見えるよ。二人して笑った。じゃあ、指切りげんまん。(第92章より)

その後、クマモトは7週間たってもヒロとの共有の場所に戻ってこなかった。意を決した彼は前にもらった名刺の住所をたよりにクマモトの家を尋ねる決心をするのだった。かつては、誰かに会うということ、これだけは避けたいと思っていたヒロだった。見えない糸にからめ取られて身動きできなくなる自分を嫌悪していたはずなのに。彼は、ついに何かに巻き込まれて社会という織物の一部になる決心をしようとする。誰かに会おうというのだった。オオハラの妻に。しかし、クマモトの家を訪ねて妻のキョウコから聞いた話は意外なものだった。どうか、結末はこの著作をお読みくださるように。

 

その他の参考図書

マックス・フリッシュ『アテネに死す』
かつて、結婚まで考えていた女性との間に生まれた娘と知らずに恋に落ちた、落ちたと思い込んだ技術者の悲劇を描いた小説。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part2 土星とメランコリア

アルブレヒト・デューラー『夢のヴィジョン』1525年

「1525年、聖霊降臨祭の後の水曜日と木曜日との間の夜(6月7日~8日)就寝中、私はいくつもの大水が天から降ってくるこのような光景を見た。そして、その最初のものは私から4マイル離れた大地を巨大な轟音と爆発とともに打ち、すべての陸地を呑み込んだ。全く耐え難いこのような驚愕のうちに私はそこから目覚めたが、そのとき第二の水が降ってきた。そして、そこへ落ちた水は、(最初のものと)ほとんど同じ大きさであった。あるものは遠く、あるものは近く、そして、それらはきわめて高くから降ってくるので、みな同じくゆっくりと落ちるように思えた。しかし、大地を打った最初の水がずっとこちらへ近付いてくると、それは非常な速さと風と轟音とを伴って降ったので、私は大いに驚いて目覚めたが、全身が震えて長らくわれに返らなかった。しかし、翌朝起きたとき、私は、見たまゝを上図のように描いた。神はすべてのことを最善へと戻し給う。 アルブレヒト・デューラー(『自伝と書簡』前川誠郎 訳)」

アルブレヒト・デューラー『人体プロポーションの習作』
左 1523年 右 1507年
アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』より

さすが、画家デューラーは、このようの事態にも冷静に絵筆をとれる卓抜な精神力を持っていた。1520年にネーデルラントへの旅行中に打ち上げられた鯨を見るためにゼーラント地方へ出かけた折、マラリアにかかったらしく、その地で発熱している(『ネーデルラント旅日記』)。ニュルンベルクへ帰郷後も体調は改善することなく、この夢の3年後の1528年に亡くなった。この夢を見た頃、自らもこの参事会のメンバーであったニュルンベルク市参事会に寄贈すべく『四人の使徒』を制作中であったし、懸案の絵画論が最後の力を振り絞って執筆されていた。この努力は、アルベルティやダ・ヴィンチが人間のプロポーションを新しい科学的基礎の上に築こうとしたのと同一線上にある。古代ローマの建築家であるウィトルウィウスの伝統的な単位を参考にしながら独自の「理想的プロポーション」を探究していた。それは『アダムとイヴ』などの作品を見れば納得できよう。ただ、それは「あらゆるものが本質的に適切であり正しくなければならないように、集合全体が調和しなければならない」ような理想であったのである。

アルブレヒト・デューラー『十字架を荷う』1520年

印刷はされなかったが起草されたピエロ・デラ・フランチェスカの『画家の透視図について』が当時もっとも包括的な透視図の著書とされていた。したがって、まだ透視図の作図法はそれほど広くは知られていなかったことになる。デューラーは、1505~1507年にかけての二度目のヴェネチア滞在中に160キロ以上離れたボローニャを「ある人が私に教授したいと言った透視図法の〈芸術〉のために」訪れたとしている。こうして、彼は「正確さ」と「調和」という二つの要求を同時に満たすことのできる「空間を組織化する方法」を手にいれることになるのである。透視画法を扱う素描の大半は、帰国後の1510年~1515年までの数年間に集中的に描かれている。その成果は、後の1525年に『コンパスと定規による測定術教則』として纏められ、出版されることになる。このコンパスと測定に関わるイメージは中世以来の造物主のイメージとも重なっていることを指摘しておきたい。

アルブレヒト・デューラー『十字架の染み』
部分 1502~14年

1502年に敬愛した父が亡くなる。1503年にはデューラーが実際に見た最大の驚異と呼ぶ出来事が起きている。親友であるピルクハイマー家の裏手に坐っていた女中の麻布の下着に落ちた雨が、キリストの磔刑図のような染みを作り、それを見た彼女は自分は死ぬに違いないと恐れおののいたという。パノフスキーによればこのニュールンベルクを恐怖に落としいれた「血の雨」は無害な藻類の仕業であったらしい。大勢の人びと、とりわけ子供たちの上にこの十字架が降った。それから、「私は空に彗星を見たことがある」と記している(『自伝と書簡』)。1505年から二年にわたりニュルンベルクを離れてヴェネチアに滞在したことは先にのべた。一つには蔓延するペストを避けることが理由に挙げられている。そして、1514年には、母も他界した。

この年、透視図の探求中に一つの偉大な構想が浮かんだ『メレンコリアⅠ』である。美術史家のヴェルフリンが「解釈の戦場」と呼んだほど不可思議な版画であるのだが、パノフスキーは、このような作品を構想できるような画家でなければ、母の死の二ヶ月前にその肖像画をあのように描くことは出来なかったろうと述べている。彼女の斜視はシェイクスピアの『冬の夜話』に登場する「一方の目は夫を失った悲しみで下を向き、一方の目は、信託が実現した喜びで上を向いている」ポリーナを想起させるという。デューラーは、自分の裸体像の脾臓のある場所に指差す図に「私が指で示している黄色の斑点がある所が痛む」と書き入れている。プラトンは、脾臓は内部が空で血の気のないもので織られていて、汚れでいっぱいになると膿んで大きく腫れ、身体が浄化されると腫れが退いて元通り小さく萎むと『ティマイオス』の中で書いている。これこそ、憂鬱症の核心を示す臓器であった。

アルブレヒト・デューラー『母の肖像』1514年

この『メレンコリアⅠ』という作品は、四体液質の一つである「憂鬱質」の伝統と七学芸の一つとしての「幾何学」の伝統という、二つの偉大な図像的及び文学的伝統を融合させ、変形していると言われる。そこにあるのは、絵画という実践的技術を尊重しながらも、益々数学的理論に憧れ、天上の影響と永遠の観念に「霊感を受けた」と感じながらも益々強く人間の弱さと知性の限界に悩むルネサンスの芸術家の姿であったというのである。

フィッチーノに端を発し、ボリツィアーノとロレンツォ・メディチが生涯理想に掲げ、ピコ・デラ・ミランドラの広く知られた『人間の尊厳について』が称揚する「思索の生活」を送る「文人」あるいは「ムーサ(詩神)たちに仕える神官」。それは、「思索の生活」あるいは「研究の生活」を実践するという中世には存在しなかった人間の新しい在り方だった。ドイツ・ルネサンスが、観想の生活にもたらされる脅威と苦しみとして「メランコリー」を選んだことは、この「思索の生活」が熱烈に称賛され、土星が観想の守護星とされている反面、深遠な思索には悲しみと苦しみがつきまとうものであると言うことの表明でもあるのだ。ここからは、パノフスキーの著作『アルブレヒト・デューラー』とともに、パノフスキーとザクスルがデューラーの『メレンコリアⅠ」について書いた論文にクリパンスキーも加わって大著となったヴァ―ルブルク学派の『土星とメランコリー』も織り交ぜてご紹介したいと思っている。

図1 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分 
右から鍵、財布、大工道具、犬

『メレンコリアⅠ』についてデューラーが残した唯一の言葉は「幼児」を描いたスケッチに「鍵は力を、財布は富を示す」という短い文章だった。図1では右上に鍵、その斜め左下に財布、その下方に大工道具が描かれている。中世の人間にとってメランコリア/憂鬱質の人間は吝嗇家であり、それゆえ富めるものであるという暗黙の了解があったようだ。鍵は金庫を開ける権能の意味らしい。ギリシア神話のクロノス、あるいはローマ神話のサトゥルヌスは、自らの子供を喰らうように時間を食い尽くす時間の神、地の神、農耕の神、宝物管理係、繁栄を司る神、〈もっとも偉大なもの〉そして、老人とされていた。気質あるいは病気としてのメランコリアが、このクロノスあるいはサトゥルヌスの星である土星と関連づけられるのは9世紀のアラビアの学者たちによってであった。アブ―・マーシャルは『占星術入門』で、大地に似て冷たく乾いた黒胆汁を土星に、多血質を木星に、胆汁質を火星に、粘液質を月あるいは金星とに関係づけている。脾臓と土星を結びつけたのは「純粋なる兄弟団」と呼ばれるグループで、彼らのその著書は『純粋なる兄弟たちの書簡』であるという。

『霊魂と詩篇作者ダヴィデ』詩篇 9世紀初期
悲嘆のポーズをとるメランコリア症患者を音楽で癒す様子。

かつて、古代ギリシアにおいてヒポクラテスか、その義理の息子ポリュボスが述べたといわれる、「四体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)の正しい組み合わせが健康な体質を作る」とされる説に、ピュタゴラス派の影響を受けたエムペドクレスが四大元素を仲立ちとする四季と人間の四期を結びつけた。多血質に春・幼年、黄胆汁質に夏・青年、黒胆汁質に秋・壮年、粘液質に冬・老年を割り当てる。この黒胆汁がメランコリアである。時代が下ると黒胆汁が老年時代に割り当てられる場合もあった。黒胆汁が優勢になると最悪の場合、恐怖や人間嫌い、鬱状態が高じ精神異常に及ぶとされ、「メランコリー症」という病名で呼ばれるようになる。ところが、中世になるとオーヴェルニュのギョームなどによって「メランコリー体質が人間を肉体的快楽と世俗の喧騒から引き離し、神的恩寵が精神に直接入り込んでくるよう準備を整え、魂を高める基盤となって、神秘的・予言的幻像の現われを呼ぶ」というアリストテレス説が注目され、一部で脚光を浴び始める。それがフィッチーノやポリツィアーノに受け継がれることになるのである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『メレンコリアⅠ』1514

向って右に坐るメランコリーの擬人化された女性(長らく天使と思っていたがそうではないらしい)が顔に手をあてるポーズは、憂鬱質症患者のポーズであったが、元来の意味は悲嘆である。しかし、頬に当てられた手は握りしめられ、何らかの意志の持続があることを表わしている。顔色は黒胆汁のために黒ずむが眼は澄んで明るく「覚醒した眼差し」を保っている。

ここで注目しなければならないのは彼女のまわりに乱雑に置かれた道具類である。書物、コンパス、インク壺は純粋幾何学を表し、先端を切った菱面体は立体画法と透視図を、工作道具は応用幾何学であり、鐘のついた魔方陣・砂時計・天秤は空間と時間の測定を表わしていると言われる。彼女は確かに「幾何学」の擬人像としての意味を担っているのである。それは、プラトン以来の高貴な学問の擬人像であり、人間的感情や苦しみなどからは遠いはずだった。パノフスキーは、幾何学という言葉の中に含まれるすべての資質を備えた「憂鬱症」、つまり「芸術家の憂鬱」をデューラーは描いたと言うのである。それは、1502年から亡くなる1525年までフライブルクの小修道院長を務めたグレゴリウス・ライシュの著作に見られる挿絵の情景と同じものだった(図2左)。ちなみに七自由学芸とは、文法・修辞学・弁証法の三学と算術・幾何学・音楽・天文学の四科をいった。デューラーが遠近法を含めた幾何学にいかに腐心した画家であったのかが察せられるのである。

図2 左 グレゴリウス・ライシュ『哲学の真珠』「幾何学」1504年
右 デューラー『メレンコリア習作』幾何学立体

そして、「メランコリア」の左に蹲(うずくま)る犬。「憂鬱そうな顔をした犬ほど嗅覚が鋭い」という同時代の作家の言葉が残っているという。犬は伝統的に憂鬱質に結び付けられる。左上に飛ぶ蝙蝠は薄暮に出現し、寂しく暗い荒れ果てた場所に生息する動物である。版画の中心より少し上には盲目の印象を与える童子が〈メランコリア〉の物憂い不活発さとは対照的に石版の上に意味もないことを刻んでいる。この幼児は、行動はできるが思索できない「実践的技能」を表わし、成熟した学識豊かな〈メランコリア〉は思索するが行動できない「理論的洞察力」を表わしているといわれる。デューラーの〈メランコリア〉は守銭奴でもなく病人でもない。彼女は実在しないものにしがみついているのではなく、解決不能な問題に固執している困惑する思想家であるとパノフスキーは言う。

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』1819-23

フィッチーノらフィレンツェ知識人たちは、新プラトン主義の主導者であるプロティノスが、偉人は全て憂鬱質であるというアリストテレスと同様の主張、つまりサトゥルヌス(土星)を高く評価していたことを発見する。当時の新プラトン主義の影響力を考えれば、この『メレンコリアⅠ』のⅠは版画の番号ではなく、価値の尺度を表わしているとパノフスキーは言う。だが、このような土星の哲学的復権も土星が、惑星中最も不吉な星であるという中世の一般信仰を払拭できなかった。後年のゴヤの黒い絵のシリーズにもこのおどろおどろしい土星のイメージが描かれている。フィッチーノは不安を取り除くために木星の力を呼びおこすことによって土星の影響を中和する占星術的護符を用いていた。それが版画右上の魔方陣であるという。図3を見ていただきたい。16の枠に分かれた木星の祭壇と同じもので、それを錫板に刻んでおくと「悪を善に変え」「あらゆる心配と恐怖を取り除く」とされた。これらの知識をデューラーは、おそらくコルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学』から得たのではないかとパノフスキーは推測している。

1503年のニュルンベルクに降った「血の雨」、不吉な彗星、蔓延するペストや赤痢、母の死、これら不吉な兆候から身を守るべく掲げられた魔方陣の下には遠近法や人体プロポーションに精通しよう不断の努力をなし続けてきた画家デューラー自身の姿である〈メランコリア〉の擬人像があったのである。土星の形而上学的領域の「知性」、木星の倫理的政治的領域の「理性」、火星や太陽に属する美術家や職人の領域である「想像力」、憂鬱質の狂気あるいはサトゥルヌスの霊感は以上三つの能力を刺激して、並外れた超人的活動に向わせるとアグリッパは述べる。

図3 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分
  左から蝙蝠、彗星、三日月型の虹、量り、砂時計、魔方陣と鐘

アグリッパは、「知性」や「理性」より想像力に勝る画家や建築家は予言能力が授けられているとしても、彼らの予言は「嵐、地震、洪水、疫病、飢饉、及びその種の天災」のような物理的現象に限られるだろうとしている。推論的「理性」に勝るものは有能な科学者、医者、政治家になり、予言力は政治的な分野に限られる。そして、直感的「知性」に秀でた者は、神聖なる世界の神秘を知り、神学に含まれるすべての事象に卓越するであろう。予言能力があるなら新たな予言者あるいは新しい教義をもたらす者であろうとしている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

「想像力」の圏内で行動する人物〈メランコリア〉は人間の創意の三段階における最下層にあり、発明し組み立てることはできても形而上世界に踏み込むことは許されない。そのようなものに予言できるのは天変地異だけである。それが、冒頭でご紹介したデューラーの夢であったのかもしれないとパノフスキーは言う。洪水は土星もしくは土星の彗星によって引き起こされるとされた。そう『メレンコリアⅠ』の左上にある彗星である。それは「空間の限界の彼方まで思考を広げることのできない」者の憂鬱であったかもしれないのである。ただ、申し添えておくならば、この作品は『書斎の聖ヒエロニムス』と対にして制作されたと言われている。静謐で整理された室内において、思索しながら翻訳に勤しむ聖人の姿が描かれた。そこには直観的「知性」に秀でたものの世界が表現されている。

僕には、同じ時代を生きながらも性格も生き方も宗教も全く正反対だったパラケルスス(1493-1541)が思いだされる。常に医学の既成の枠組みを破壊しようとし、対抗勢力とは徹底域に戦い、定住することなく諸国を遍歴するしかなかったパラケルスス。デューラーは、父譲りの敬虔で篤実な性格であり、敵をつくらず周囲とも平和を保っていくことができた。パラケルススが敵にまわした、時の財閥ヤーコブ・フッガーはデューラーのパトロンであったし、ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公や皇帝マクシミリアン一世の寵愛さえ受けていた。パラケルススが嫌っていたエラスムスとも親密な関係であったのである。因みにエラスムスと画家ハンス・ホルバインは相互に理解しあっていたが、尊敬しあうことはなかった。エラスムスとデューラーは、たいして理解しあっていなかったのに、尊敬しあっていたという(パノフスキー『エラスムスと視覚芸術』)。パラケルススはカトリックに生涯忠誠を貫いたが、デューラーはルターに強い共感を持っていた。しかし、グリューネヴァルトのように農民戦争でルター派に加担してマインツ大司教治下の宮廷画家の職を解任されるような危険は犯さなかったのである。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

パラケルススとデューラーという、この対照的な二人の唯一の共通点、それは晩年における憂鬱症であった。想像力に勝る画家デューラー、そして推論的理性に秀でた医師パラケルスス。それはまさに、アリストテレスいう「偉人はすべて憂鬱質である」というテーゼやプロティノスが言うところの「土星の優位」を印象付けるのであったが、同時に直感的知性に届かなかった二人の憂鬱であったかもしれないのである。今回、一つだけ解けない問題が残った。この版画のタイトルは何故『メレンコリア』なのであって「メランコリア」ではないのかという問題なんです。これは分からない。

最後にヤーコプ・ブルクハルトの後継者としてバーゼル大学の美術史の教授となり、ベルリンやミュンヘン、チューリッヒでも教鞭を執ったハインリヒ・ヴェルフリンの『アルブレヒト・デューラーの芸術』(1905年)からの一節をご紹介して終わりたい。part1 でも少しご紹介した人だ。『美術史の基礎概念』という名著で知られている。様式史を中心とする美術史からの観点である。つまり形態学と言っていいだろう。いつか、機会があれば、名著の誉れ高いこの『美術史の基礎概念』をご紹介できればと思っている。

ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)
『美術史の基礎概念』

「‥‥人は何事もおろそかにしてはならず、どんな小さなしわ、血管も忠実に描かなければならない」と彼(デューラー)自身主張している。この素人が感嘆する、微細な部分に至るていねいな描写だけで彼は偉大な芸術家となったわけではない。ディテールが全体の印象の中に納まり、個々にはこまごましていても全体がすっきり見え、主要な線でまとめられ、本質的な性格を持ってはじめて、この詳細な観察が芸術に昇華するのだ。こうなるには、描き始める前に対象とする事物を明確につかみ取る必要がある。彼は苦労の多い長い時間を、どのようにして人間の完全な姿を作るかという事柄の研究に当てている。これを様々な時期に、様々な形で答えているのだが、結局は完全なものを見つけることに絶望している。最高の美しさは神のみが知りうるのであって、我々は個々の、それ自身が調和を保っている形にまとめることで満足しなければならず、自分がよしとする個々人の好みに委ねられているのだ。(ハインリヒ・ヴェルフリン『アルブレヒト・デューラーの芸術』相澤和子訳/出典はエルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』巻末)

 

 

その他の参考図書

デューラー『ネーデルランド旅日記』

デューラー『自伝と書簡』
表紙はデューラーの戯画

クリパンスキー、パノフスキー、ザクスル 
『土星とメランコリー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章がありルター、エラスムスの他ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿る

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『ネメシスあるいは幸運の女神』1502 部分
ネメシスとは、ギリシア神話の義憤・復讐の女神のことである。

僕はディテールの細かなものに惹かれる。それも硬質なものがいい。例えば、北宋の山水画、范寛の『渓山行旅図』、郭熙(かくき)『早春図』、李成『晴巒蕭寺図(せいらんしょうじず)』、巨然(きょねん)『層巌叢樹図』、関同『秋山晩翠図』、徐熙(じょき)『雪竹図』。気は結んで山となり、融けて川となる。すなわち山水である。その峻厳さ、孤高なたたずまいに息を飲む。南画は、僕にはいささかゆるすぎるのだ。山水画については、風水学とともに壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』に書いておいた。この東洋の細部に対して西洋において対抗しうる細部は、デューラーのドライポイント、エングレーヴィングといった金属版画が挙げられるだろう。それを継承するのはレンブラントのそれだろうか。

李成『晴巒蕭寺図』 10世紀 北宋 部分

デューラーは、1471年、勤勉で信仰心厚い金細工師の三男として生まれた。父はハンガリーのジューラという小村に生まれ17歳前後でドイツに移り、金細工師としての修行を積んで1455年にニュルンベルクに落ち着くようになる。母は、父がその工房で働いていた親方の娘でバルバラという名であった。18人の子供を儲けたが成人したのは、父の名を継いだ今回の主人公アルブレヒト・デューラー2世と二人の弟の3人だけだった。末弟アンドレアスは父親の金細工の工房を継いで親方となり、もう一人の弟ハンスは画家の修行を積みポーランド王の宮廷画家になったという(エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』)。ペストや赤痢などが蔓延した当時にあって、6人に一人の割合でしか幼児が育たなかったのは時代の趨勢だったらしい。いかに死と向かい合わせの生であったのか。学校に通って読み書きを覚えた後、金細工師としての修行を始めるが、絵の方に興味が移り始める。注文客に出来上がりの様子を描いてみせたり、金細工を施す前に下絵を描くことも重要な工程の一つだった。そのことを父に打ち明けると、父はデューラーが金細工修行に費やした無駄な時間を悔いたという。だが、それは、けっして無駄ではなかった。15歳の歳から近所にその工房があったミヒャエル・ヴォルゲムートの下で3年間、画家としての修行を積むことになる。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

「15世紀のドイツにおいて、活版印刷、銅版画、木版画などの手段により、初めて個人が自分の着想を全世界に広めることができた。ドイツがようやく美術の分野で一大勢力にまでのしあがったのは、これら版画芸術によってであり、これは主に画家として有名であるが、もっぱら銅版・木版の下絵師としての能力によって国際的存在となった一人物、すなわちアルブレヒト・デューラーの活躍によるものである」とアーウィン・パノフスキー(1892-1963)は、その著書『アルブレヒト・デューラー』の中で書いている。イタリア・ルネサンスに対抗しうる作品をドイツで成し遂げたのは彼なのである。今回は、このパノフスキーの緻密で濃厚な著書を中心に僕の大好きなデューラーの版画にずっと頬ずりしたいと思っている。

パノフスキーは、アビ・ヴァ―ルブルクの偉大な弟子たちの一人であり、イコノロジーの大家である。1892年にドイツのハノーファーに生まれた。1914年にイタリア・ルネサンス絵画とデューラーとの関係を扱った論文によってフライブルク大学で哲学博士号を取得した。デューラーとの関係はこの頃から始まっている。1926年にハンブルク大学で美術史の教授になった。同じ大学の哲学教授であったエルンスト・カッシーラと知り合い、同地で活動していたイコノロジー(図像学)の泰斗アビ・ヴァ―ルブルクの知己を得た。ヴァ―ルブルク文庫の活動に協力して、その学派の形成にも寄与したようだ。しかし、ユダヤ人だった彼は1935年にプリンストン高等研究書に迎えられアメリカに渡った。主著に1939年『イコノロジー研究』、1943年この『アルブレヒト・デューラー』、1953年『初期ネーデルラント絵画』などがある。ちなみに日本のデューラー研究の第一人者である前川誠郎(まえかわ せいろう)は、留学先のミュンヘンの中央美術研究所の所長ハイデンライヒがパノフスキーの弟子であった縁で、デューラの『四人の使徒』に関する論文をパノフスキーに読んでもらったようだ。

上 ショーンガウア― 下 家屋台帖の画家
タイトルは、いずれも『十字架を荷う』。

デューラーが学んだミヒャエル・ヴォルゲムートはフランスで流行していた「死の舞踏」のイメージを1493年の『ニュールンベルク年代史』にその挿絵として制作したことで知られる。その作品はフランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』中世の秋に贈る放蕩無頼でご紹介しておいた。その工房でデューラーは水彩、油彩などの絵画技術のみでなく印刷本のための木版画による挿絵などの版画の技術を習った。この工房の作品は彼の名付け親であり、ドイツ最大の出版業者の一人でもあったアントン・コーベルガーのもとで印刷されたのである。今でもそうかもしれないが徒弟の修行を終えた職人は遍歴の旅に出るのが習わしだった。1491年、デューラーは当時最高の版画家であり、画家でもあったマルティン・ショーンガウアー(1448-1491)をアルザスに尋ねたが、既に亡くなった後だった。それでも遺族からその作品を見せてもらうことができた。その前にオランダのもう一人の重要な版画家、家屋台帖の画家と呼ばれた人に会ったのではないかとパノフスキーは推測している。

ショーンガウアーがエングレーヴィングの名手であったの対して家屋台帖の画家はドライポイントの名手であった。エングレーヴィングは、銅板の表面をビュランと呼ばれる鋼(はがね)の道具で線や点を堀り削り、その時できた銅のめくれはスクレイパーと呼ばれるやはり鋼の道具で削り取る。その彫り削った凹部にインクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取るクールな感じの版画である。もともと金属細工の技法から発展したものらしい。ドライポイントは、鉄筆などで銅板を引っ掻き、表面のめくれはそのままにするので少し滲んだ感じの線になるのが特徴である。ちなみにエッチングは、銅板にグランドと呼ばれる腐食されない膜をひき、表面を鉄筆で引っ掻いて膜を削り取り、削れた膜の部分の銅を腐食液で腐食させて溝を深くし、インクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取る技法である。

その翌年の1492年、当時ヨーロッパの出版業の中心地であったスイスのバーゼルにショーンガウア―の四男を訪れ、広く出版業者との知己を得たのである。その頃、デューラーの最初の出版物の挿絵である『聖ヒエロニムス書簡集』の木版の扉絵が制作され、好評を博した。

アルブレヒト・デューラー
『セゴンツァー付近のチェンブラ峡谷風景』水彩 1495

先達の様式を我がものにしながらデューラーは、いくつかの出版物の下絵を制作していくが、まだ、彼の名を轟かせるほどの仕事ではなかった。1494年、彼はニュルンベルクに呼び戻され、銅細工師で市参事会議員であるハンス・フライの長女アグネスとの結婚が取り決められる。フライの妻は当時銀行家をしていた上流階級ルメル家の出で、いわば破格の結婚相手だった。結婚早々、デューラーはベネチア行きを決意し、途中チロルの山岳風景やトリエント、アルコなどの風景を素描や水彩画として残していて、それらは、西洋最古の風景画として価値の高いものとなっている。チロルのクラウゼン峠の風景は、後に、『ネメシスあるいは希望の女神』の足元の風景としてそのまま使われたことで知られる。ヴェネチアでは、イタリア絵画、とりわけポライウォーロ、マンテーニャらの模写を精力的に行った。これらは、アビ・ヴァ―ルブルクの『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術 』で紹介されている。デューラーは、1495年の晩春には故郷ニュルンベルクに帰っている。

帰国後の作品としては、『ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公の肖像』、『受難伝祭壇画』そして、おそらく妻のアグネスと思われる『婦人の頭部』などがあった。二度目のヴェネチア滞在は11年後の1505~1507年にかけてであるが、その間に、彼にとって重要な展開が生じている。それが版画によって成し遂げられるのである。1498年には木版画による『黙示録』『大受難伝』が出版され、それに先立つものを含めると計30点の木版画と6点の銅版画が制作された。殊に『黙示録』の影響力はヨーロッパ全土に及び一躍、世界的な作家となったのである。木版の技術的制約を克服し、新たな技術的な発展をもたらした。

美術史家の前川誠郎(まえかわ せいろう)によれば、15世紀半ば頃から西洋の木版画には二つの大きな変革が起こり始めていたという。一つは細密な平行斜線によって物体に三次元的な浮彫感を与えようとすること。この発展は一枚刷りの木版画から色彩を追い出してしまった。二つ目は、活字印刷の本格的な隆盛にともなって古典的・世俗的な書物も多く刊行され、書物の挿絵・扉絵としての木版画の受容が急速に高まって行ったことである。そして、パノフスキーも、この『黙示録』の企画が二つの点で斬新であったとしている。一つは一人の美術家が自分自身の仕事として下絵を描き刊行した最初の本であったこと。コーベルガーの工房で印刷されたが、デューラー自身も発行者として署名しているという。二つ目に、彼は14枚の1ページ大の版画とその裏面にテキストを印刷しているが、テキストは連続して裏面に印刷されているので必ずしも表の版画と内容は一致していないらしい。挿絵とテキストとは別個に連続して鑑賞されることを望んでいたことになる。木版画を書物の挿絵ではなく、テキストと同等か、それ以上のものとして考えたということになろう。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』木版画
「7つの燭台のヨハネ」 1498

続けてパノフスキーは、『黙示録』におけるイメージ上の発展がショーンガウア―の銅版画の図像に負うところが大きいという。「7つの燭台のヨハネ」では、足の裏を観照者に見せて坐る福音史家の姿、壮大な枝状の燭台はショーンガウア―の『聖母の死』の影響がはっきり見られるというのである。「人の子」と呼ばれる中心人物の顔はやはり、ショーンガウア―の『聖アントニウスの誘惑』のアントニウス(図3)のそれに近い。それに、マンテーニャの影響もみられる。デューラーの『第五、第六の封印開き』(図1)における母親の姿は、口を大きく開け、恐怖に苛まれており、マンテーニャの『十字架降下』の中の老女を原型(図2)としていると考えられる。ヴァ―ルブルクは、『デューラーとイタリア的古代』の中で初めて「パトスフォルメン(情念定型)」という言葉を用いている。有名な論考だ。古代の激しい情念を表現する身ぶりは、歴史の暗闇を経過して再び浮上し、北イタリアからデューラーに伝えられたというのである。これは、デューラーにとって第一次イタリア旅行での成果であったろう。

そして、7つの燭台の表現では、幾何学的に燭台を配置しているのではなく、遠近法的な配置になっていて、それぞれが全て形状を異にしている。これが実際の金細工であったなら、これもまさに傑作であったろうと言う。それらの燭台は、積乱雲のような雲の上に置かれ幻視者さえ乗せているように見える。従来の版画における幻視者はアーモンド型の光背に包まれて彼の幻影の前にひざまづいているだけだ。『黙示録』のテキストに「人の子」の目は焔のようであったと書かれてあれば、デューラーはその神的な顔から噴き出す炎を描いた(図4)。デューラーにおける幻想体験の表現は、単にそれを目撃させるばかりでなく、それを追体験させるように働きかけるというのである。

図1 左 デューラー『黙示録』「第五、第六の封印開き」木版画
図2 右 マンテーニャ『十字架降下』銅版画
母のイメージ、いずれも部分

デューラーは、エングレーヴィングなどの銅版画の精緻な表現を木版画の中に持ち込もうとした。空間感、量感をもった細部は現実的な充実したものとなり、それに加えてマンテーニャらの人体の動力学、感情表現の研究がそれらにいっそうの拍車をかけた。現世的な光景とその細部が本物に近ければ近いほど、変幻きわまりない幻影となって全体像をますます怪奇なものにさせ、身振りが自然であればあるほど、光景は益々途方もないものとなっていった。「四人の騎士」では、騎士と乗っている馬が迫真的であればあるほど、この恐ろしい騎士団が虚空から出現するという印象が避けがたいものとなる。

図3 左 ショーンガウアー『聖アントニウスの誘惑』部分
図4 右 デューラー『7つの燭台のヨハネ』部分
描かれた顔の類似。

同時代の人文学者エラスムスが称賛したように彼の線は、無定形の炎や頭髪や雲といったものまで劇的に表現することが可能であったのだ。デューラーによって高められた木版画による表現は、アリストテレスが劇作家に述べたこの助言を地で行っているとパノフスキーはいう。「不可能ではあるが、あり得るかもしれないと思われることの方が、あり得るかもしれないが納得させられないことよりも好まれてしかるべきである。」これらの作品はレオナルドの『最後の晩餐』と同様に人びとの避けて通ることのできない美術作品となった。ドイツのみならず、イタリア、フランス、ロシアにまで影響を及ぼし、木版画や銅版画による版画だけでなく彩色画、浮彫り、タペストリーなどでによっても模写されたという。申し添えておくと、デューラーはいくつかの作品は木版を自分自身が彫り、いくつかは彫師の見本のために一部のみ自身が彫ったようだが、工房の彫師の腕が上達するに伴い下絵を描くことに専念したようである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『黙示録』「四人の騎士」1497-98

デューラーには、独創性の要請という近代的な芸術家としての意識が、かなり強かったといわれる。優れた画家とは「他のいかなる人の心にもかつて宿ったことのない新しいものを放出する」ことであった。それは、「意想」の新しさを言っているのである。アリストテレスが『詩学』で述べた「ディアノイア」だ。彼の図像には多くの先達たちのミメーシス(模倣)の上に、自らの新しいアイデアを重ねたのである。ともあれ、版画制作は、油彩画による注文制作という制約から、あるいは中世絵画の約束事から解き放ってくれ、注文を待つ代わりに自主的に制作した多数の作品を売りに出すことが出来た。それゆえ自由なテーマを思うままに制作できたのである。

当時、木版画は金属版画よりも手間がかからず、その分安価なために需要が高かった。しかし、基本的に細部の入念さよりも単純化された線の表現を狙い、明暗の強いコントラストを求めた。そもそも、微妙な明暗の諧調を表現するには不向きだった。したがって、絵画的洗練や裸体の美の極致といった「芸術至上主義的」なものを表現するには適していなかったのである。デューラーにとって金細工師の修行をしていたことは、銅版画制作にとって極めて有利な特質を彼に与えていた。エングレーヴィングに用いるビュランと呼ばれる道具は金細工師が使う道具でもあったからである。銅板の上に刻まれるその線は、ふくらみのある弾力性を感じさせ、フィギュアスケートの選手が氷上に作る幾何学形のような美しさを持っていた。デューラーはショーンガウアーの怜悧な線に家屋台帳の画家の持つ温かみを加えようとしたとパノフスキーは見ている。銅版による傑作が生み出されるようになるのだが、その代表作である『メレンコリアⅠ』については次回 part2 でご紹介する予定である。ここで、少しイコノロジーについて述べておきたい。

アーウィン(エルヴィン)・パノフスキー
『イコノロジー研究』

19世紀の終わりから20世紀の初頭の美術史は新しい方法論が相次いで提起され活況を呈していた。伊藤博明は、『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題の中で、ヴァ―ルブルク自身は次のように分析していたと述べている。一群には旧来の伝記的美術史があり、この熱狂的な美術史家は6グループに分けられるが、その第4群に「歴史的基盤の上に立って再構成する道徳的かつ英雄的な美術史家」としてヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)の名が挙げられる。第6群には「制作者の鑑定家たち」と呼ばれる、自らが英雄と崇める芸術家の個性を擁護する職業的な芸術鑑賞者としての美術史家があり、ヴァ―ルブルクは彼らを蔑んでいた。新しく興隆してきた第二群は「様式史の方法、すなわち典型的な形態学」呼ばれる。彼はこのグループを「技術」「未開人の心性」「人間の空間感覚の本質」「人間の表現動作の本質」「図像的伝統」「慣習やしきたり」の7つのカテゴリーに分けていて、大部分の美術史家はこのカテゴリーの幾つかに重複して属しているという。

例えば、様式史研究の代表的な学者であるハインリッヒ・ヴェルフリン(1864-1945)は「空間感の本質」と「図像的伝統」を制約条件としている美術史家である。ヴァ―ルブルク(1866-1929)は自分自身を「表現動作の本質」を制約条件として美術史を研究する唯一の学者だとしている。ついでに述べておくと「様式史としての美術史」に対して「精神史としての美術史」を提唱したのがウィーン大学のマックス・ドヴォルジャーク(1874-1921)であった。彼によれば「芸術は‥‥まず第一に、人類を支配する理念の表現であり、その歴史は宗教や哲学や、あるいは文学の歴史に劣らず一般精神史の一部をなすものである(『芸術の考察について』)」。その弟子がウィーンのアルベルティ-ナ美術館館長を務めたオットー・ベネッシュ(1896-1964)であり、父親とともにエゴン・シーレの絵のモデルにもなった人だった。この美術館には、あのデューラーの『野兎』や『芝草』といった素晴らしい水彩画とデッサンが収蔵されている。

アビ・ヴァ―ルブルクが〈イコノロジー〉という言葉を初めて使ったのは、1912年のローマにおける国際美術史学会においてであったという(伊藤博明『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題)。「親愛なる神は細部に宿る」という名言を残したことでも知られる人だ。しかし、一般にイコノロジーの定義はパノフスキーによるものが有名であるらしい。

アルブレヒト・デューラー 『聖母伝』09
木版画 1505 イエスに跪く聖母

パノフスキーは、『イコノロジー研究』の序文でこのような意味のことを述べている。14世紀から15世紀に聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる伝統的な「降誕図」にかわって、聖母が幼児キリストに跪いて礼拝している新しいタイプが登場する。この変化は「イコノグラフィー以前の記述」では、構図が長方形から三角形に変化したことを意味するだけであった。「イコノグラフィー上の分析」では擬ボナヴェントゥーラや聖ブリギッタらの著作家たちによって明文化された新しいテーマの導入を意味する。「イコノロジーによる総合」においては、中世の後期段階に特有の新しい情緒上の動きを意味するというのである。

イメージの形式だけを考えるのはイコノグラフィー以前であり、図像そのものの意味やそのイメージの組み合わせとしての「物語」や「寓意」を考えるのはイコノグラフィーであり、その図像と周辺との関係、つまり無意識に作家の人格に具体化され、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するがイコノロジーということになる。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというより、「なぜ、そのように」表象されたかを探究するのである。ただ、この〈イコノロジー〉の概念が、パトスフォルメンを重視したヴァ―ルブルク自身と弟子たち、とりわけパノフスキーのそれとは食い違うのではないかとディディ=ユベルマンは『残存するイメージ』の中で指摘している。ここは、ヴァ―ルブルクが一時的に陥った狂気の問題とも絡んで思白い所ではある。

ここで、一つ言いたいのだが、日本でイコノロジーが定着しているかどうかは僕には分からないのだけれど、とりわけ悲惨なのは20世紀後半以降のいわゆる現代美術と呼ばれるジャンルの美術批評である。そこにはイコノロジーはおろかイコノグラフィーのかけらすら見つけることのできない不毛地帯ではないのか。これには、未だにアメリカ型のフォーマリズムに毒されている現状があるのかもしれない。しかし、このアメリカ型のフォーマリズムなどヨーロッパでは、たいして問題にされていないということは知られていない。日本やアメリカでヨーゼフ・ボイスが変なおじさんにしか見られなかったのは蓋し当然のことなのである。

 

その他の参考図書

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章があり、ルター、エラスムスの他、ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

前川誠郎『デューラー』人と作品
日本におけるデューラー研究の第一人者の著作。パノフスキーの著作が緻密でいささか煩雑なのに対して、本書はすっきりまとめられていて、デューラーについて初めて読む人には本書をお勧めしたい。

アビ・ヴァ―ルブルク
『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』「デューラーとイタリア古代」収録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノースロップ・フライ『大いなる体系』part2 神話の統合性と聖書

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『アダムとイヴ 』1504

キリスト教は一神教であり、他の神々は無きものである。イスラム教もユダヤ教もそうであるが、そこでは正しい信仰を持つものの最終的な勝利が革命的文脈の中で語られるとノースロップ・フライは述べる。ギリシア文化は二つの偉大な視覚的刺激を発達させた。彫刻における裸体と演劇であるコロス(合唱隊)の発達もありはしたが、演劇は基本的に視覚体験といえる。多神教は神々を識別するために彫像や絵を持たなければならなかった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にある伝統的な革命性は、裸体に対する忌諱と偶像破壊を生み、視覚的な芸術への拒絶の道を開いた。フライはこの偶像崇拝に対する憎しみの根底には自然神、つまり自然とそれを支配している思われる神々の消極的な態度に対する焦燥があるという。それは、革命を志向する者たちの憤懣であるというのである。運命と自然の循環に自らを任せて安逸をむさぼることに対する抗議であるらしい。

歴史的事実がどうあれ、エジプト脱出の後に律法が与えられるという旧約聖書の順序は、論理的、心理的に適切だったという。それは、危難の共有と共同体における律法、習慣、制度への深い関わりを実感させ、選ばれた民族という意識をもたらした。とはいえ、「律法/法則(law)」がもたらしたものは「自然法則」と言う概念の進展である。それは、ギリシア・ローマ的思考傾向である古典的志向とヘブライ的思考傾向である聖書的志向の共謀の結果であるという。その「自然法則」とは、人間の律法と自然の法則とを結合させるためにあったといえるのではないか。聖書は極めて特異な自然観を持っていて、道徳的秩序も自然秩序も同じように神の意志に支配されていると見なす。だから、全能の人格神においては奇蹟と自然的事象は、前者がごく稀であることを除いて区別はないという。このキリスト教の内にある自然法則という概念は、いまではかなり曖昧なものになりつつあるとフライは指摘しているが、西洋文化の内で普通いう意味の〈自然法則〉の探求に対する追い風となっていたのは確かだと思う。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』
「第五、第六の封印開き」1497-98

黙示を表わすギリシア語アポカリプスは「覆いを取る」、あるいは「蓋を開ける」と言う意味である。それは心の中の忘却の覆い、真理を封鎖し黙示の顕われを妨げるものの除去である。黙示録は旧約聖書への言及の寄木細工であり、予表成就の行列なのだとフライはいう(予表成就に関してはpart1を参照してください)。黙示録は通常の意味での視覚的な書ではない。それは、聖書の真の意味を表わすものである。パトモスの幻視者であるヨハネが見たもの、それは「エゼキエル書」の四つの顔と四つの翼を持つ青銅のように光り輝く生き物であったり、「ゼカリア書」の四人の騎手に始まる〈八つの幻〉で見たものと言ってもよいのである。神の民は引き揚げられ、異教の王国は暗闇に投げ入れられ、疫病、戦争、飢餓、天からの星の落下が起こり、世界が新しい天と地に変容する。しかし、最も重要なことは、その幻視が示すものが「今起こりつつあることの内的な意味」、正確には「内的な形」なのだとフライはいうのだ。ヨハネはこれら全てを「霊において」、霊にみたされた体で見る。天の国の秘密が明らかにされ、不正の秘密は腐敗した人間の意志を暗闇の中へ突き落す。それは誰の身にも起こることであり、それは「泥棒のように夜訪れる」というのである。自然の秩序の破壊として象徴されているものは、時間と歴史の世界に閉じ込められた秩序という見方の破壊であり、聖書こそがそれを達成するものであるとフライは述べる。つまり、それは革命の真の意味であるかもしれないと僕は思うのだが。

ノースロップ・フライの聖書への言及から、僕にとって興味深いものをいくつかご紹介してみた。それでは、予告しておいたように、本書『大いなる体系』の四つの柱のうち残りの〈言語と〈神話についてこれから述べてみたい。

いかなる書物も文学的な要素を持つことなく文学的影響を与えることはできない。世俗的な文学から経験することは、ソナタ、フーガ、ロンドなどの形で具体化される音楽の形式原理が音楽の外部にないように、文学の形式原理が文学の外にはないことだという。彼は因習的な美学原理からは離れていたかった。そうするための規範の一つが「統合性」なのだというのである。彼は、文学の統合原理が〈穏喩〉と〈神話〉であると述べた(『ダブル・ヴィジョン』)。〈穏喩〉については part1 で既に述べたが、フライのいう統合性のもう一つの柱が何故神話であるのだろうか。これから、記述言語の歴史とともに、この問題を考えたいと思っている。

すべての言語構造体は神話の起源に由来するという原理を発見したのはイタリアの哲学者、修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)だとフライは指摘する(『力に満ちた言葉』)。彼はデカルトやロック、百科全書派の思想に満足できず、歴史こそ人間精神を反映するとし、古代法、古歌、言語、神話などの文献学研究の必要性を説いた。芸術を論理に従属させるのではなく、芸術的構想力が論理よりも優位に立つものであるとした。

フライは、こう述べている。「私たちにとって真実なるものは、私たちが作ったものである」というヴィーコの公準は「事物を知ることが出来るのはその事物を作ったものだけである」と言い換えられる。それゆえ、彼にとって自然は把握しきれるものではなかった。この立場からすれば神話は人間の創造したものである。僕のお節介をつけ加えるなら、神話的ヴィジョンを物語として定着させた創造行為である。ヴィーコは、エジプト人たちが明らかにしたという世界史の全行程を分ける三つのサイクル、神話的時代、英雄的時代、人民の時代を言語学的文献学的真理だとし、それらが再び繰り返されるとした。歴史哲学者としてのヴィーコの『新しい学』には、その詳細な記述がある。フライは、それらの時代の言語活動を秘儀的(詩的)、神官的(寓意的)、民衆的(記述的)活動に分類したのである。

秘儀的・隠喩的・詩的段階

その第一段階は、秘儀的・隠喩的段階と呼べる時代の言葉であり、本質的に詩的な言語である。そして、ホメロスに代表されるプラトン以前のギリシア文学や近東の新約聖書以前の文学、とりわけ旧約聖書には詩的かつ「秘儀的」な言語に見られるという。主体と客体の間の明確な区分よりも主客の間の共通のエネルギーのようなものが重視される。それは一種の言霊のような「呪文的」「魔術的」言語といってよかった。人間の精神は〈力に満ちた言葉〉つまり、神性文字による象形語、祝詞や神託などの式文によって制御されるという。それを端的に示す聖書の言葉がこれである。「『光あれ』こうして、光があった。」創造的動因としての言葉が物を生じさせるというのはヘブライ語に特徴的な要素であったことはパラケルススの所で述べた。

ノースロップ・フライ『力に満ちた言葉』
隠喩としての文学と聖書
『大いなる体系』の続編

それは、ホメロスの詩の中で魂、精神、時間、勇気、感情、思想などが強烈な肉体性を伴っているのとパラレルな関係にある。例えば『イリアス』ではアキレスの悲しみは、このように歌われる。「アキレスは愛する友を思っては泣きつづけ、 すべてを手なずける眠りさえよせつけなかった。彼はパトロクロスの男らしさと雄々しい力を惜しんでは身を展転とするのだった。二人でともになしとげた業、 ともに受けた難儀、戦士たちの合戦、苦しい船旅を思いおこしては涙をいっぱい流し、横向きに寝るかと思うとあおむけになり、またうつぶせになってみたりしたが、つと立ちあがり、苦悩で気も狂わんばかりに渚をさまよい歩くのだった(田中千春訳)。」

この段階では、隠喩(イメージ)の中心的な対象は一般的に太陽神や海神などの神であり、その個性の有様の一部が自然の様相と同一化していたという。世界が神々の複数性によって統合されていたこの言語の時代において、その複数の神に対応する心理的な諸力も複数であり(魂が何種類も想定されていた)、死とともに分離あるいは分解するものと考えられていた。この純粋な隠喩的概念に最も近いのは「霊」という語であろうとフライは指摘している。

神官的・換喩的・寓話的段階

第二段階はプラトンとともに「神官的」といえる段階に入る。知的なエリートに生み出されたと言う意味が一部に込められているという。ここでは、個性化の度合いが増し、言葉は主に思考や観念の外的表現となる。感情からある程度独立した意識が発達し、論理が構成されるようになるのである。超越的な神の概念は言葉の秩序の中心へ移動し、表現の基礎は人間と自然との間の生命や力の同一性を持ちうる本質的に詩的な隠喩から「これは、あれの代わりである」という換喩的な関係に移行するという。そこでは、自然の物質界から離れ、ある点でそれより優位にある思想の世界に参入する。

例えば、プラトンの著作『メノン』にはこの有名な言葉がある。「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。」「それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。(藤沢令夫訳)」プラトンの愛したユークリッド幾何学では、手描きを含めた何種類もの線が「線は幅のない長さ」という抽象的な公理に集約される。神々という複数の概念は、その統合概念としての一神教的「神」になりうる可能性をもつのである。

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評論としてのこの書は「文学形態論」ともいわれる

キリスト教が西洋における文化的優位を占めるようになると、換喩的な思考をする人々、つまり論理的に考える人々は、神がAと言った時、同時にBとは言えないという整合性との緊張に直面し始めるという。神の完全性に由来する演繹的思考が「異端」や「異教」を排除しはじめる。それは、魔女狩りのような社会的精神異常というレベルにまで進行した時代もあった。「不敬」な反キリスト教的教訓を含んだ物語の隠喩的要素は、解体されて他の言語手続きによって同化吸収されなければならなかった。この手続きが寓意(アレゴリー)である。寓意とは特殊なアナロジーであり、これを可能にしたのは連続的散文の発達だという。寓意については『薔薇物語』 バラと呼ばれる女性を巡る物語で触れておいた。隠喩段階における言葉の魔術は、換喩的な段階では連続性あるいは直線的整序に内在する疑似的魔力となる。中世が三段論法に魅惑されたのは啓示された諸前提からすべての知識を演繹するという中世の人びとの大いなる夢に由来するという。換喩的思考と一神教が発展するにつれ自分の中の「魂」と「肉体」によって人間は成り立っていると考えられるようになる。

民衆的・記述的・散文的時代

第三段階は、現実性という基準が自然の秩序における知覚経験の源泉となる。ここでは神は見つからず、神々は、もはや信じられていない。17世紀の天文学は神話的空間を科学的空間から分離し、19世紀の生物学と地質学は神話的時間を科学的時間から切り離した。この段階にとどまる限り神は存在するのかという問いに対しては、ノーと答えざるをえないという。三段論法的推理は何ひとつ新しいものを導かないと感じられるようになってくる。〈大前提 : 全ての人間は死すべきものである。〉〈小前提 : ソクラテスは人間である。〉〈結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。〉結論はすでに前提に内包されているからである。そして、言語によるアナロジカルなアプローチは存在と非在の区別する基準を持っていなかった。ライオンと一角獣との間に文法的にも論理的にも統語上の違いはないという。違いを求めるには外部の基準を必要とした。その中で最も強力な基準は「物」、つまり自然の客体であった。

この言語の第三段階はルネサンスとともに始まり、18世紀に花開く。ヴィーコも述べたようにフランシス・ベーコンが理論化しジョン・ロックとともに実践が始まるという。彼らによって主観と客観がはっきりと分離され始めるのである。言語は客観的自然の秩序を記述する根源的な道具となり、記述されるものと記述との間に満足のいく照応が見られるなら真理と呼ばれるようになる。この民衆的言語は日常使用されている言語に近い。例えば、エミール・ゾラ(1840-1902)のこの描写である。

「そして、テーブルに肘をつき、目をとろんとさせて、ひとりで笑っていたが、それは、隣のテーブルの二人の客、ずんぐり太った男とちんちくりんの男が、ぐでんぐでんに酔っぱらって、パンのように抱きあっているのがとてもおかしかったのだ。そうだ、彼女はこの《居酒屋》や、ラードでつくった膀胱そっくりのコロンブおやじの禿げ頭や、短いパイプをふかしたり、怒鳴ったり、唾を吐いたりしている客や、窓ガラスだとか酒瓶を煌めかすガス燈の炎に向って笑いかけていた(『居酒屋』古賀照一 訳)。」

きっと古代エジプト人やシュメール人も日常このような言語を使っていただろうとフライは指摘する。それに換喩は昔からあったはずである。ヴィーコのいう三つの時代の繰り返しは同時的に発生している。ただ、この文脈では、文学的に優位な、あるいは際立った言語は何だったかと言うことが問題なのだろう。このような変化が起こるには相当な社会変化が伴わなければならなかった。そのような変化の一つが帰納法的観察に基づく科学の進展である。自らの肉体を含む自然との関係が水平なものになるに及んで意識により連想される概念は「魂」から「精神」に転調し、頭脳と強固に結び付けられるようになるのだという。

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

文明の回帰・時代の回転

ヴィーコは、「諸民族が再帰するとき、文明現象は反復される(『新しい学』)」と述べた。フライもまた、時代の反復を述べる。「言葉が物を喚起したホメロスの時代から物が言葉を換喩する現代へと言語の巨大なサイクルが一巡し、今はまさにそのサイクルをふたたび回転させようとしているかもしれない。われわれが今日、再び直面しているのは主体と客体に共有されるエネルギーであり、それはなんらかの隠喩的形式によってのみ言語的表現が可能になるかもしれないからだ(伊藤誓 訳)」とフライはいう。フロイト以来、我々は原初の隠喩的あるいは多元的意識概念に戻り〈心(サイキ)〉を識別可能な衝突する諸力の束と考える傾向にあると指摘してもいる。時代は回転しようとしているのだろうか。

フライと親しかったカナダ生まれのメディア学者マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』の中の終盤でこう述べている。ブレイクは、彼の時代の問題を分析する時、人間の知覚を形成する諸力と直接対決する。「彼は自分のヴィジョンにふさわしい神話形式を求める。この神話探求は彼にとって不可欠であったと同時に、あまり効果のないものであった。というのは、神話というものはたいへんに複雑に入りくんだ因果関係の網を、同時的に知覚する形式だからである。経験が分断され、線形でしかとらえられない時代においては(中略)神話的ヴィジョンはまったく不透明で、とらえがたいものになる。ロマン主義の詩人たちはブレイクの神話的、もしくは同時的ヴィジョンにはるかにおよばなかった(森常治 訳)。」

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

神話は複雑な因果関係を同時に統合しうる手段なのである。レヴィ=ストロースは、人間の精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出されると述べている。神話とは精神構造の表れとも言えるのだ。このことについては、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで書いておいた。

マクルーハンは続けてこう述べる。その後の詩人たちがブレイクの同時性の世界、あるいは現代の神話への芸術的表現の手掛かりを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞を通してであったと述べている。感覚の諸比率が変わる時、人間も変わるということを明確な形で述べたのはブレイクであったという。メディアの変化は人間の知覚をも変化させる。フライの言う主体と客体に共有されるエルルギーを回復させる穏喩形式とは、マクルーハンにとって文字文化の衰退と多種多様な口語芸術の台頭であるかもしれない。ちなみに本書のタイトルはブレイクのこの言葉からとられている。「旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系である。」

神託に原型的説話を与える中心的な形成力は神話であり、神話は神話体系へと拡大し、想像的なものと現実的な関心とを結びつけ、時代が下るにしたがって、その主要な機能は内に向って社会の関心に直面するようになる。想像的かつ創造的思考の一形式である神話体系の直系の子孫は文学であるという。神話は究極的に物語(ミュトス)、つまり文学形式を成り立たせている構成原理のひとつであり、神話の寓喩的解釈は中世やルネサンスでは非常に高い地位を占めていて、稀には今日にいたるまで続いている。ここから考えれば、文学の祖は神話と言うことになる。これが、彼が文学の統合原理の一つを、神話に置いた理由なのであろう。それでは、聖書と神話を分けるものは一体何なのか。修辞学的には聖書の予表の存在であるが、実質的には、ケリュグマ・宣教であるとフライは考える。そのことによって聖書は、先ほどの三つの時代に特徴的な文学形式を超える存在と考えられるのである。

最後にフライが神話から導き出した原型について、さわりだけご紹介して終わりたい。この原型による文学批評は、他の歴史主義や形式主義などの批評を相互に結びつける要素となる重要なものだ。彼は、典型的・反復的に現われるイメージを原型と呼んだ。神話相における伝達可能な象徴のことを指している。それは、一つの詩を他の詩と連結し、それによって詩から得られる経験を統一ないし統合するのを助ける。劇のような文学形式、あるいは見世物劇、人形劇、笑劇、パントマイムなどは祭儀との関わりが深いし、ロマンスや民話、バラッド、物真似においては夢との類似性が高い。この原型を主眼にした文学批評では祭儀や夢と関わることが多く、その意味でフレイザーの『金枝篇』における祭儀の研究やユングの夢に関する研究はこの批評にとってはダイレクトな価値を持つという。原型に中心があるとすれば、その中心に一群の普遍的象徴を見出すことができる。人間すべてに共通なイメージであり、潜在的に無制限な伝達力を持っている。原型相における文芸作品は神話であり、祭儀と夢とを結びつけるという。まあ、これ以上は、その筋の専門家の人たちにお任せしましょう。

 

その他の参考図書

ジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

聖書というものがどのような変遷をたどってきたのか、この本を読むまで考えもしなかったのだが、翻訳の長い苦闘の歴史があったようだ。そのこと以上にどのように書かれているのか、それを知ることはもっと興味深いのではないだろうか。マタイによる福音16:18「あなたはペトロ。わたしはこの岩(Petra)の上にわたしの教会を建てる」、これは洒落になっているらしい。聖書にも洒落はあるのか。ヨハネによる福音3:8では、ニコモデにイエスはこう語っている。「風は思いのままに吹く。‥‥霊から生まれた物も皆そのとおりである。」霊はキリスト教における聖霊としての概念であり、風はその具体的例であるから換喩的表現となっている。換喩(メトノミー)とは、王冠で王を表わすように部分をもって全体を表わす。ノースロップ・フライは『大いなる体系』の中でこう述べている。驚くべきことに、ギリシア語テキストでは風にも霊にも同じ単語の「プウネマ」が使われている。それなら、こう訳すことも可能である。「風は思いのままに吹く。‥‥風から生まれた物も皆そのとおりである。」私たち同様、ニコモデもこの表現に動揺したかもしれない。この例は、言語の歴史、言語に関わる思想の歴史が翻訳と深く関わっていることを示していると言う。

神字の日本での使われ方は「神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた(『字訓』)」となっている。この使われ方から言えば、キリスト教の〈神〉に、自然神である神の字をあてるのは、いささか無理があるのだが、西洋にも大文字のGodとgodsの差くらいしかないのかもしれないので、あながち間違いとは言えまい。神はもともと神の字であり、祭卓の形である〈示〉に電光の走る形〈申〉が組みあわされている。張光直「中国青銅時代」”共餐と饕餮” part2 饕餮紋とは何かをみていただきたい。ギリシア神話のゼウスに重なる部分がないわけではない。字源事典である『字統』には、中国、周代の青銅器に刻まれた文字(金文)には、神を祖霊としての人格神の意味に用いている例はあるという。が、あくまで祖霊である。やがて、精神の働きやその優れたものを神爽(しんそう)、神悟のように言い、人智を超えるものを神秘と言うようになるとある。

中国では、霊は、もともと雨を祈る呪儀を示すものであったらしい。神霊の降下を求める時にも同じ祝禱が行われるので、後にその神霊を言うようになったとある。神霊にかかわることをみな霊という(『字統』)。日本語の「あやし」には、霊、異、怪、奇の字をあてる。意味は、「霊妙でふしぎである。常識では理解しがたいようなことに対して、驚きの感情をもつことを言う(『字訓』)」とある。異は、周代にその青銅器の金文に神霊の翼臨することの意味で使われるようになっている。これは、霊のイメージにあう。饕餮(とうてつ)ではないけれど、異相のものであるから怪異の意味にもなる。霊・異・怪・奇、みな「あや」なるものであるが、怪異は後に邪霊となったという。

特に日本では、霊という言葉に怪しいというニュアンスがつきまとうのである。幽霊などという使い方をするが、中国では鬼の字をあてる。霊の文字につまづく人がいるのも無理からぬことであるのだが、キリスト教でいう霊は、普通、聖霊であって怪しいという意味は無かろう。翻訳の問題なのだ。これに精神という言葉が登場するとかなり難しいことが起こる。そもそも霊魂と言うけれど霊と魂とはどう違うのか学校で教えてもらったことはないし、教えたこともない。精神と霊もどう違うのかはっきりとはわからない。ドイツ語では、精神も霊も Geist であり、英語では Spirit だからあんまり問題ない。しかし、Mind を精神と訳すといささか問題が起こる。

僕は、長らくカトリックのイエスズ会のミッションスクールで美術を教えていた。今も、またその職場に復帰している。しかし、聖書に関してあまりよくは知らないし、時々何かの本を読んだ時に聖書のエピソードを知りたくて、聖書を開くことはある。若い頃は、聖書よりも外国人の神父さんたちの影響で、ヨーロッパのカトリック文化の方に強い憧れを抱いていた。恥ずかしながら聖書の内容のことは、よく分かっていない。自分でこんな文章を書くようになって、書き方と言う問題には、いささか注意を向けるようにはなった。聖書も特殊ではあるが文字で書かれている以上、文学批評の俎上に乗せることはできるのである。今回は、この文学批評における聖書を中心に、ノースロップ・フライの著書『大いなる体系』からひも解いてみたいと思っている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

この著書では1611年にジェイムズ一世が英国国教会のために欽定訳(国王の命によって翻訳)させた聖書、一般に欽定訳聖書と呼ばれるものを使用している。この聖書は、聖ヒエロニムス(347頃-420)が、校訂・翻訳したウルガータ聖書の伝統を引き継ぐものであり、5世紀以降の文筆家が親しんできた聖書に近いからだと言う。ヒエロニムスは、382年頃からローマで当時の教皇ダマスス1世のもと聖書の翻訳にとりかかる。ダマスス1世が逝去の後はエジプト、ベツレヘムに赴き405年頃までには翻訳を完成させた。傷ついたライオンの足を治してやったエピソードで知られる人だ。新約聖書をそれまでのラテン語訳イタラ聖書とギリシア語訳のテキストとつきあわせて誤っている部分を校訂した。旧約聖書はギリシア語訳の70人訳聖書やヘブライ語聖書などをもとにラテン語に翻訳しなおした。それは、時代を経るにつれて評価を高め16世紀にはカトリック教会の標準ラテン語訳聖書となったのである。ウルガータは普及版を意味する。他にルター訳のドイツ語聖書が有名だが、プロテスタント系聖書もある。20世紀後半になると、カトリックとプロテスタント諸派が共同して聖書の翻訳に取り組んだ共同訳聖書が生まれ、日本ではその改訂版である新共同訳聖書が主流となっているようだ。

フライの最後の著作『ダブル・ヴィジョン』については、『宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し触れておいた。ダブル・ヴィジョンとは、フライの愛するウィリアム・ブレイクの述べたこの言葉による。「内なる眼で見れば白髪まじりの老人であり、外なる眼でみれば、行く手をさえぎるアザミだ。」その本には、こう述べられている。「過去50年間にわたって私は文学を研究してきた。文学における統合原理とは神話と隠喩である。神話とは語り(ストーリー)あるいは物語(ナラティヴ)であり、隠喩とは比喩の言語である(江田孝臣 訳)。」これは重要な指摘である。

ノースロップ・フライ『ダブル・ヴィジョン』

「聖書を通読しようとする者の多くは、たいてい『レビ記』のあたりで身動きがとれなくなる。その理由の一つは、聖書は現実の一冊の書物というより小さな図書館だからである(伊藤誓 訳)」とフライは述べる。それでも、聖書には、世界創造とともに始まり、黙示録とともに終わる全体的な構造らしきものがある。そして、その間にはさまれた人間の歴史、もしくは聖書が関心を示す歴史の一側面をアダムとイスラエルの民を象徴的な名義人として俯瞰した書であろうという。町、山、川、庭、木、油、泉、パン、ワイン、花嫁、羊などの具体的なイメージ群があり、それが頻繁に反復されることを考えれば、そこに何らかの統合原理がある。自分のような文学批評家にとって、その原理は意味の統合原理ではなく形態の統合原理であるという。形態に何らかの一貫性がなければ書物は一貫した意味を持ち得ないからである。具体的イメージが隠喩として表現されれば、それによって統合性は与えられる。隠喩(メタファー)は、その言葉をある具体的なイメージで類推させる。「人生は旅だ」などがよく知られる例である。フライは「隠喩とはイメージである」と言い切るのである。

文学の世界は、自由な世界であり、その中で精神はのびのびと羽ばたくことが許される。物語は、それを信じろとか、それにもとづいて行動しろと強要することはない。文学は虚構の世界であってもいいし、現実の描写であってもよい。困難に立ち向かう人間の葛藤、身の毛もよだつ悲劇、癒しや寛ぎの世界、日常では経験できない法外な激烈さを伴う世界でもありうる。文学は霊性が活性化する世界を作り出すが、我々を霊的な存在に変えるわけではないという。それゆえ、聖書を文学作品とだけ見ることには無理があるとフライはいう。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『十字架を荷う』 1512

新約聖書が述べているのは「メシアが降臨するとき、このようなことが起こる」ということである。そのような事柄にどのように接近するかは一考を要する。処女懐胎などが問題にされる時、それを歴史的真実かどうか問うことは、そもそも、アプローチの仕方全体が間違っているとフライは考えている。彼が本書の前提とするものは、聖書は歴史的でもなければ反歴史的でもなく、歴史に拮抗する同等のものだということである。イエスは歴史上の存在として提示されるのではなく、別の次元から歴史の中に落下し、歴史という視界の限界を示す存在として提示されているという。過去の資料から事実と思われるあらゆる事件を抜きだし「世界史」を作る時、信じがたい事件という突起物は非神話化という手法によって削り取られる。しかし、福音書は突起物のかたまりである。新約聖書はメシアの誕生に始まり、黙示録におけるメシアの再臨の預言で終わる。それは、無限の様相を持つ万物がキリストの身体と一つに結ばれるというヴィジョンであるというのだ。

ドイツの聖書学者であるルドルフ・ブルトマン(1884-1976)が、史的イエスの実際の姿を再現することは複数の多様な伝承からなるマタイ、マルコ、ルカの福音書からは無理があり、新約聖書の本来の性格はケリュグマ、つまり宣教にあるとした考え方とフライの主張は、軌を一にする。だが、ブルトマンは、ハイデッガーの影響を受けて実存主義的聖書理解に傾斜し、聖書の非神話化を論ずるようになる。ここでは、フライとの立場の差は大きい。

ちょうど聖書が反歴史的ではなく、歴史に拮抗するものであるように、「~のようだ」「~みたいな」という言葉を使わないで、そのものの特徴を直接表現する隠喩は、論理的なものでも反論理的なものでもなく論理に拮抗するものであるとフライは言う。経験世界の逆説、例えば「私は、私のまわりにあるものである(ウォレス・スティーヴンズ)」とは隠喩によって表現される逆説である。聖書では、よく知られるこのような隠喩が使われる。ヨハネによる福音14:6「 わたしは道であり、真理であり、命である。」「AはBである」という比喩は「仮にAをBとしよう」という型の同一性を語る形式である。もし、AがBであるならばBはAであるが、実際に言っていることはAはそれ自身に他ならないという意味でもあるとフライは言う。「その英雄はライオンであった」と言うなら私たちは英雄とライオンを同一視しているが、一方で英雄もライオンも、各々それ以外の何者でもないことが示されているという。そこには逆説的な構造があるのだ。文芸作品の統一性はこの同一化の過程から生まれ、その多様さ、明晰さ、強烈さはこの個別性の提示過程に由来するという(『批評の解剖』)。つまり、登場する人や物は隠喩によって多様に特徴づけられながら一つの統合体となってゆくのである。

聖書の隠喩が統合される時、新約聖書の文学的言語は霊的生活のヴィジョンを伝達するという意図を達成する。あるいは、その可能性を持つのではなかろうか。そこから現れるヴィジョンによって我々自身の霊的生活を変容させ拡大させ続けるのだとフライはいう。聖書の隠喩複合体からは〈啓示〉という言葉に出会う。そこに、神話における隠喩が持つ働き以上のものを我々は聖書に見ることが出来るかもしれないのだ。それが、霊的な変容をもたらす力の源であるケリュグマ、すなわち宣教ではないか。それは真理についてのヴィジョンから始まるという。

ノースロップ・フライは、1912年カナダのケベック州シャーブルックにカナダ人の両親のもとに生まれた。トロント大学で哲学と英文学を学ぶ。1933年にカナダ合同教会の神学校エマニュエル・カレッジに入学し、1936年に卒業。聖職位を与えられた。24歳の時である。奨学金を得てオックスフォード大学に留学、詩人で文芸評論家でもあったエドマンド・ブランデンに師事した。卒業後、1940年に母校であるトロント大学のヴィクトリア・カレッジで教鞭を執るようになる。その頃、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の研究書を書き、ジョン・ミルトン(1608-1674)を授業で教えていたという。この二人を研究するうちに英文学と聖書との関係に興味を持ち始めるようになった。1957年には、彼の文学批評論を代表する著書である『批評の解剖』が刊行され、1960年代にカナダ、アメリカを中心に大きな影響を及ぼすようになる。

彼が宗教的な基礎教育を受けたのは、メゾシスト教会であった。メゾシストの名は規則正しい生活方法(メソッド)を重んじることから「記帳面屋(メゾシスト)」のあだ名に由来しているらしい。もともと18世紀にジョン・ウェスレーによる英国でのキリスト教信仰覚醒運動から興っている。そこでは、教義とは別に宗教経験に重きが置かれていたという。その後、長老派、組合派、そして、このメゾシスト派が合同して1925年にカナダ合同教会が設立された。フライは、このカナダ最大のプロテスタント教会である合同教会に属していた。1991年に癌で亡くなる直前まで教壇に立った人である。

今回ご紹介する 『大いなる体系』は、四つの柱である〈言葉〉〈隠喩〉〈神話〉〈予表〉が合わせ鏡のような章立てになっていて全部で八章ある。そのうち、この part1 では〈隠喩〉と〈予表〉を取扱い、残りの〈言葉〉と〈神話〉についてはフライが大きな影響を受けたイタリアの哲学者・修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』などを踏まえて part2 でご紹介したいと思っている。隠喩については、いささか述べたので、後半は聖書の極めて特殊な修辞である予表について述べてみたい。

旧約聖書と新約聖書は互いに相手を写し出す合わせ鏡である。そして、旧約聖書は新約聖書を証し、新約聖書は旧約聖書を証す。だが、いかなる歴史的確証も我々には与えられていないとノースロップ・フライは言う。

詩編22:2(旧約)
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マタイによる福音27:46(新約)
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」


ゼカリア書11:12-13(旧約)
わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目によしとするなら、わたしに賃金を支払え 。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」

マタイによる福音書27:3-5(新約)
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。おまえの問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」


ハバクク書2:4(旧約)
見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

ローマ信徒への手紙1:17(新約)
福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰に生きる」と書いてあるとおりです。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『カイアファとイエス』1512

聖書解釈は一般的に「旧約聖書には新約聖書が隠されており、新約聖書に旧約聖書は開示される」と言われ、旧約聖書で起こることは全て新約聖書で起こる何かの「予表(タイプ)」もしくは前兆と言われる。これらに関する学問全体が予表論と呼ばれている。やがて到来する偉大な人物や出来事を予め共通の型を持つ人や物で示すことが予型である。アダムはキリストのテュポス(予型)であり、その原型であるキリストはアンティテュポス(対型)と呼ばれる。聖ヒエロニムス訳のウルガータ聖書では、「テュポス」はラテン語の「フォルマ(形)」と訳されているが、欽定訳聖書では英語の「フィギュア(象徴)」となっている。創造神話の本質的意味は、その成就を黙示録に約束されているところの予表であろうとさえフライは言うのである。「ヨハネ黙示録21:1(新約) わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」

聖書のように予表論として編集され組織化された書物は、ほんの少しでも似ているようなものさえ見つけられなかったフライは述べる。予表論における彼の関心は、思考様式と比喩にある。予表論は修辞の一形式であり、他の修辞の形式と同様に、批評的研究の対象になるという。予表は過去に予表成就は現在にある。あるいは予表は現在に、予表成就は未来にというように予表は時間の中を動く比喩であると言うのである。連続的散文は因果律と結びついている語の配列方法である。因果律は我々が系統的に知っている全ての過去から発して未来に結びつけられる。予表論も未来に、その成就に関係する。

旧約聖書の「律法(ト―ラー)」とは、「教え」とか「指示」の意味であり、〈創世記〉〈出エジプト記〉〈レビ記〉〈民数記〉〈申命記〉の五つの書を指している。初期の預言者の教えの影響下で仕事をしていた編集者によって纏められた伝承にまつわる文書に由来するといわれる。プラトンの著作には、独力で聖書のような著作を書こうとする壮大な意図を感じさせるような部分があるとフライは指摘する。『国家』におけるソクラテスの問答は預言的な展開を含んで哲学者の統治による理想的な国家を構築しようとする。『ティマイオス』と『クリティアス』において、創造神話、洪水神話、そして、アトランティスの古代伝承などが言及される。その後、プラトンは『法律』に没頭するのである。それは、「律法(ト―ラー)」が600余りの規則に没頭しているのと似ているとフライはいう。中心人物であるソクラテスの殉教という成り行きは、展開される多くの議論の焦点であり、福音書の受難に対応しうる。しかし、マルクスがその歴史学を通して未来の社会の救済を描いたとしても、けっして、予表論的とは言えないのと同じようにプラトンの著作もそれとは、やはり異なるのである。

プラトンの「アナムネーシス(想起)」は新しいものは古いものと同一視可能として再認することである。それは、後向きの運動となる。因果律は通常この逆であって原因から結果へと向かう前向きの運動である。それは、科学的な思考を育んだゆりかごであり、時間の矢を持っていたと言えるだろう。予表論も因果律と同じく前向きの方向性をもち、その意味で、形式的には修辞的相似物であるという。しかし、因果論が理性や観察、それによってもたらされる知識に基づくのに対して予表論は希望や展望に基づく信仰と関係づけられている。ある種、夢から目覚めるような体験と似ているとフライはいうのだ。前向きの水平性に覚醒の垂直性が交わるところ、それが予表成就なのである。つまり、十字架である。聖書と一般の文学を分かつ修辞上の差異が、すなわち予表である。

ある教会員がこう述べたという。「聖書の一説が私を変容させなくても、それでも聖書の言葉は真理と言えるのか。」それに対して、フライはこう述べている。「霊的な事柄において何が真理であるかは人間の与り知らぬことである。我々の霊的目標は神であるが、神は霊的〈他者〉であり、霊的対象でもなく、いわんや概念的対象でもない。それゆえ福音書は警告し続けるのである。いかに耳そばだてる者が多く、いかに聞くものが少ないかを。福音書が説く種類の真理は、個人の経験によってしか立証し得ない(『ダブル・ヴィジョン』江田孝臣 訳)。」なるほど、この一節はフライの宗教者としての立場を闡明にしているのである。

次回は、残る二つの柱である、〈言葉〉と〈神話〉を取りあげます。

 

その他の参考図書

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評としてのこの書は「文学形態論」といわれる。

ブルトマン著作集
共観福音書伝承史Ⅰ
マルコ福音書は教会神学に立脚した著者の労作であり、自身に伝えられた伝承を整合し加筆したとするウィリアム・ヴレーデなどの説を紹介している。学術書であるので、一般の人向けとは言い難い。

 

 

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
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