Blog / ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

オシップ・マンデリシュターム part1 『時のざわめき』めくるめく郷愁

オシップ・マンデリシュターム(1891-1938)1934 最初の逮捕の時の写真

「あの90年代のなかばには、ペテルブルクじゅうが、さながら極楽浄土をめざすように、我も我もとパヴロフスクに押しよせたのだった。汽車の汽笛と発車のベルが、『一八一二年序曲』の愛国的な不協和音とまじりあい、チャイコフスキーとルビンシュタインの君臨するだだっ広い駅のなかには、特別の臭いがたちこめていた。黴くさい公園の湿っぽい空気、朽ちかけた温床と温室の薔薇の匂いが、ビュッフェのむっとする蒸気、鼻に衝くシガーの香り、停車場の石炭殻の匂い、何千という群衆の化粧品といりまじる臭いが。(安井侑子訳)」

オシップ・マンデリシュタームは、1925年に出版された『時のざわめき』の中で、幼年時代を過ごしたサンクトペテルブルクやその近郊のパヴロフスクをこのように言祝いだのである。始りの言葉は、こうだった。「わたしは、ロシアの黄昏の時代をよく覚えている。あの病的なまでの静寂と、土臭い田舎かたぎにひたりこみ、ゆっくりと這うように蠢(うごめ)いていた1890年代を――(安井侑子訳)」。こうしてロシアのパッサージュが紅茶の匂いならぬ駅界隈の匂いから立ち上がり、綿々と綴られていくのである。なかなかに美しい描写ではないだろうか。僕は北原白秋が故郷、柳川を描いた『「思い出」―叙情小曲集を思い浮かべてしまうのである。マンデリシュタームを読むなら、まず、この『時のざわめき』をお薦めしたい。安井侑子(やすい ゆうこ )の翻訳もまたすばらしい。安井は、お茶の水女子大学哲学科在学中、国際レーニン勲章を受けた父である安井郁(やすい かおる)の通訳としてモスクワに行き、それを契機にモスクワ大学、同大学院を修了したロシア文学者である。神戸市外国語大学で教鞭を執られた。以下、引用文に何も書いてなければ安井さんの訳と思ってください。

そこは、ペテルブルク近郊にある皇族の別荘を中心に発達した街だった。「ふとしたことから、わたしたち一家はパヴロフスクの”冬ごもり族”となった。つまり一年じゅう、この老婆たちの街、ロシアの半ヴェルサイユ、宮仕えの召使いたちや、四等文官の後家さんたちや、赤毛の警察署長、肺病やみの教師たち(パヴロフスクに住むのは健康によいと信じられていた)の街、そして、一戸建ての別荘を建てるためにせっせと賄賂を貯めこんだ連中の街にある、冬の別荘に住みついたのである。おお、あの時代――‥‥」

青銅の騎兵 ペテルブルク 19世紀末

オシップ・マンデリシュタームは、1891年、ワルシャワでユダヤ人の家庭に三人兄弟の長男として生まれた。父は、リトアニアのジャゴールイという町の出身で、14歳の時ベルリンへ出てユダヤ律法学校で学んだが、タルムードのかわりにシラー、ヘルダーやスピノザを読みふけっていたという(詩集『石』早川眞理「解説」)。母は、同じくリトアニアのヴィリニュス出身で、親戚にはプーシキン学者のセミヨン・ヴェンゲロワ、その妹で、ペテルブルク音楽院のピアノ科の教授であったイザヘラがいた。母も独身の時代はピアノ教師をしていたという。父は結婚後、手袋製造や皮革仕分けの免許をとった。そして、二人は、ワルシャワへ出たのである。

この『時のざわめき』には、父親の話す言葉が「まるで抽象的な、頭の中で拵えあげられた言葉、ごく日常的な用語がヘルダー、ライプニッツ、スピノザといった古い哲学用語とまじりあった、修辞たっぷりの凝ったことば、そして、ユダヤ律法学者の奇妙なシンタックス、技巧的で尻切れとんぼの句(フレーズ)―― それを何と呼ぼうと勝手だが、ただの言語ではなかった」と回想されている。母の言葉は、語彙はとぼしく簡潔で言い回しは単調だったが、純粋な大ロシアの文学語であったという。この両親の言葉の溶け合いが、彼の言語感覚を育てたというわけだ。

オシップが生まれると一家は、すぐにペテルブルクに移る。そこが、彼の故郷であった。時には近郊のパヴロフスクで過ごしたようだ。当地のテニシェフ中学は、民主的な教育で知られる名門校であった。文学の時間には立派な古代ロシア語が教えられたという。在学中に教師として象徴派の詩人ウラジーミル・ギッピウスが就任し、その影響を受けたともいわれる。マンデリシュターム夫人の回想録によれば、幼い頃、プーシキン、レールモント、ゴーゴリ、ホメロスなどの本を読んでいたという(『流刑の詩人マンデリシュターム』)。卒業すると、1907年(16歳)にはパリに赴き、半年ほどソルボンヌ大学で聴講、フランス象徴主義の詩に触れることになる。詩や散文を書きはじめ、1909年頃にはヴャチェスラフ・イワーノフ(1866-1949)ら詩人たちとの交流も始まり、彼の家での集い「塔」にも出席するようになる。1910年にはドイツのハイデルベルク大学に入学、古代フランス語を学んだ。その年には雑誌『アポロン』に5篇の詩を発表して詩壇にデヴュー。翌1911年には、ペテルブルク大学の歴史文学部に入学してロマンス語やギリシア語などを学んだようだ。6年在席したが革命の勃発により中退している。若くしてヨーロッパを旅し、フランソワ・ヴィヨンに熱をあげ、ヘルダーリンのようにギリシア狂にもなった。

アドミラルティの塔から撮られた13フレームのサンクトペテルブルクのパノラマ 部分 1861

「ペテルブルクの優雅な幻想のすべては、ただの夢にすぎなかった。底知れぬ深淵に投げかけられた、きらびやかなヴェールにすぎず、まわりを取り囲んでいたのは、ユダヤ風の混沌(カオス)、母なる故郷でもなく、家でもなく、炉辺でもなく、それはまさに混沌だった。わたしがそこから生まれ出た、見知らぬ胎内の世界、わたしが怖れ、おぼろにそれを感じ、逃げだしたところ、いつもいつも逃げだしたところ。ユダヤの混沌(カオス)は、石造りのペテルブルクの住居の隙間という隙間に、破壊の兆しとなって忍び込み、あるいは部屋のなかに掛けられた田舎の客人の帽子となり、あるいは本棚の隅っこにゲーテやシラーの下敷きになって埃まみれのまま忘れられた、読む者もない『創世記』の先端の尖った活字となり、黒と黄色の儀式の端ぎれとなって、いたるところに忍びこんでいたのだ。」彼が、ユダヤ人であることをどのように感じていたのか間接的にしか分からない。実のところは、どうだったのだろうか。

オシップ・マンデリシュターム
『時のざわめき』

ある日、民族的悔恨の発作に襲われたらしい両親は、彼に純粋のユダヤ人教師をつけた。この先生には、いささか不自然にせよ驚嘆すべき点があったという。それはユダヤ人としての民族的誇りであった。彼は、ユダヤ人についてフランス娘がユゴーかナポレオンのことを語る時のように話すのだったという。しかし、一歩外に出ると、この誇りは隠されてしまうので少年オシップは、彼のことを信用できなかったらしい。

テニシェフ中学は、斜めの陽の柱が埃りを舞い上げながらそこここにさしこみ、物理実験室からガスの臭いがこぼれてくる、天井の高い、寄木細工の教練体操場のあるところだった。実験室のガスの重苦しく甘ったるい臭いのおかげで頭痛を催し、地獄のような工作の時間には、かんな屑やのこぎり屑の中に埋まり、のこぎりはよじれ、かんなはひん曲がり、穿(せん)眼のみは指をうち、結局どれもにっちもさっちもいかなくなるのだった。

少年時代のオシップが、ローマ帝国崩壊の原因について共同で書いていたというセルゲイ・イワーヌッチについてなかなか含蓄のある表現が残されている。「1905年、それは山猫のような警官の眼を光らせ、パンケーキのみたいにひしゃげた空色の学生帽を頭にのせた、ロシア革命のキメイラ(獅子頭半身竜尾の怪獣)だ ! ‥‥記憶というものは闇をまさぐるのを好む。そして、おお、瞬間(とき)よ、まさに漆黒のなかでおまえは生まれたのだ、あの ―― 一、二、三で―― ネフスキーが長い電気の睫(まつげ)をまたたき、ぬば玉の闇のなかへ沈み、はるか地平線のかなた毛むくじゃらの濃い闇のなかから、山猫のような警官の眼を光らせ、へしゃげた学生帽をかぶったキメイラが姿をあらわしたあのときに――。‥‥革命の独習教科書が彼の指のあいだからこぼれ落ち、風邪っぴきの彼の頭のなかでパピロス(吸口つき巻たばこ)の音をかさこそいわせ、エーテルみたいに軽い非合法文書が彼の海の水みたいに碧い騎兵隊の短ジャケツの袖の折りかえしからとびだし、彼のくゆらすパピロスは、まるでその筒が非合法ビラで出来ているかのように、禁断の煙をたちのぼらせるのだ。」

プロコヴォ天文台
サンクトペテルブルク近郊にあるロシア科学アカデミーの運営する天文台。1839年開設

そして、連れて行かれた彼の部屋の臭いは、このようなものだった。「息むれと煙草の煙でむせかえる部屋は、すでに空気ではなく、別の比重と化学成分をもったなにか新しい未知の物体を充満していた。」1905年よりずっと後になって、ふとした機会に巡り合った彼は、見る影もなく老け込んで、目鼻立ちは、うすれ、色あせて、顔のないのっぺらぼう同然で、かつての潔癖さと権威の、弱々しい影法師でしかなかったという。聞けば、彼はプロコヴォにある天文気象台に職をみつけて、そこで助手として働いていた。続けてこう述べている。「たとえもしセルゲイ・イワーヌィチが、星の速度の純粋対数か、空間の関数になったとしても、わたしはさしておどろかなかっただろう。彼は所詮、この世から消えて行く人間だった。それほど彼は、キメイラに似ているのだ。」

本書『時のざわめき』の解説によれば、マンデリシュタームは特にロシア本国において、長い間、幾重もの闇に閉ざされ続けた詩人であったという。彼が非業の死を遂げる10年前の1928から、ほぼ50年にわたって、彼の詩は一度も刊行されなかった。それに、1930年代から50年代にかけて彼の名前が禁句とされた時代さえあったのである。彼は、長らく「遠い過去の詩人」、革命前に終息したアクメイズムの「頽廃的詩人」、グミリョフやアフマトワの後塵を拝する二流の詩人であった。そういったレッテルとは裏腹に、訳者は、彼をして二十世紀ロシアの小説史に新しい地平を開き、幾多の卓抜した詩論を書き残した散文家・エッセイストであったというのである

アクメは、頂点と成熟、満開の花のことを指す言葉で、アクメイズムという文学運動のタイトルとなった。詩の場所とは人間的な場所であり、この世の被造物と同様にあり続ける具体的な対象性、現前性を持ち、古典的な明晰さのなかに表現されることを目指す。それがアクメイズムであったのだが、1910年代に成立し、ロシア革命(1918年)後に運動としては消滅したといわれている。

1910年『アポロン』誌に5編の詩を発表して詩人としてデヴューしたマンデリシュタームは、翌年春、「塔」での集いで女性詩人のアンナ・アフマートワ(1889-1966)と出会った。20歳だった。彼は、彼女を「身なりは粗末でも、威光を放つ人妻」と評し、「いつかロシアの誇りになるだろう」と述べた(ナジェージダ・マンデリシュターム『流刑の詩人マンデリシュターム』)。そして、その夫であるニコライ・グミリョフ(1886-1921)がアフリカ旅行から戻ると、この三人の生涯に亘る親密な交友がはじまったのである。グミリョフらによって文学グループ「詩人ギルド」が組織され、ミハイル・ロジンスキーの編集する機関誌「ヒュペルボレイオイ(北方楽土人)」に作品を発表し始めたこの三人を中心に、ゴロデツキイ、ナールブト、ゼンケーヴィッチらが加わって「アクメイズム」運動が起こった。

1913年には「アポロン」誌にグミリョフによる『ロシア・シンボリズムの遺産とアクメイズム』、ゴロデツキイの『現代ロシア史のいくつかの潮流』というマニフェストが発表された。ちなみに、ロシア未来派が発足したのは、その前年の1912年のことだった。未来派の詩人フレーブニコフと言語学者のロマン・ヤコブソンとの関係はソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」に書いておいた。『時のざわめき』の訳者である安井侑子は、マンデリシュタームの詩は本質的にアクメイズムよりも未来派、それもフレーブニコフに繋がっているのではないかという。

オシップ・マンデリシュターム『石』
エッセイ「対話者について」収録
『時のざわめき』の訳者である安井侑子は、マンデリシュタームの詩は本質的にアクメイズムよりも未来派、それもフレーブニコフに繋がっているのではないかという。

この1913年にマンデリシュタームは、タイトルを『貝殻』から『石』と変更して詩集を自費出版した。この変更はアクメイズムへの転向したことによって物質性をより強調するためだと言われている。彼の詩を翻訳したパウル・ツェランによれば、詩集のタイトル『石』はロシア語で kamen’ でアクメ Akume のアナグラムであるらしい(関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』)。その詩集は、その後、三回に亘って国立出版所などから再版された。彼はロシア文学史において、トルストイやドストエフスキーらが活躍した19世紀の「金の時代」に続く20世紀初頭の「銀の時代」の最良の詩人の一人として活躍するのである。

1919年にキエフからクリミヤを旅する途中で画学生のナジェージダ・ハージナと出会い、2年後に結婚している。彼女と一緒にコーカサスやクリミヤを旅したこの1921年には、マクシム・ゴーゴリがロシア一の詩人と述べたアレクサンドル・ブローク(1880-1921)が病死し、親友のグミリョフが反革命の嫌疑で銃殺されるという衝撃的な訃報に見舞われる。翌、1922年には詩集『トリスチア』がベルリンで刊行されたが、これは本人の監修なしに出版されたもので、執筆順にもなっておらず、『石』に収録された6篇の詩も含まれていた。その翌年に『第二の本』というタイトルに変更され、1916年~1920年の詩のうち43篇を収録して国立出版所から改めて刊行されている。この詩集は、革命によって滅びゆくサンクト・ペテルブルクをその伝統文化との別離とともに歌った悲歌であり、その異様なまでの悲痛な美しさが透明性と半透明性を帯びた幻想となって静かに揺蕩(たゆた)うといわれる。

ペテルブルクにわれらは再び集うだろう
われらはさながらこの町に太陽を埋葬したかのよう、
そして至福にして意味なき言葉を
はじめて口にするだろう。
ソヴィエトの夜の黒ビロードにつつまれて、
全世界の空虚のビロードにつつまれて、
あいかわらず至福なる女(おみな)たちの愛しい眸は歌っている、
あいかわらず不死の花々は咲いている。
‥‥
(早川眞理 訳)

オシップ・マンデリシュターム『トリスチア』
ベルリン版 1922
エッセイ「言葉と文化」収載
トリスチアは、帝政ローマ時代の詩人オゥイディウスが流刑の地トミスで書いたTristitiae(悲歌)に由来する。

『第二の本』は、もう一つの『時のざわめき』ではないのか。マンデリシュターム自身が述べた「アクメイズムとは世界文化への郷愁である」という言葉は「マンデリシュタームの詩は世界文化への郷愁である」と置き換えられるべきかもしれないと彼の詩集『石』と『トリスチア』を翻訳した早川眞理は述べている。早川は、早稲田大学のロシア文学科を中退した後、1972年から10年間ヤマコフスキイ学院でロシア文学を学んだ。この時、マンデリシュタームの作品に出会ったようだ。自らも詩人で『髪切虫』『異邦、そして懐郷』などの作品集がある。「病的なまでの静寂と、土臭い田舎かたぎにひたりこみ、ゆっくりと這うように蠢(うごめ)いていた1890年代」、その郷愁とともにロシアの黄昏の時代が歌われた。この『時のざわめき』、それを紡ぎだした言葉の背後には、世界文化という膨大なテキストとの関連が指摘されているのである。

1928年には、それまでの詩集から選ばれた作品が収められた『詩選集』が刊行される。そして、詩論集『ポエジーについて』、散文集『エジプトのスタンプ(「時のざわめき」、「フェオドシア」を含む)』が刊行された。一見、この年はマンデリシュタームの文学活動の頂点であるかのようだと言われる。それでは何故、その後、ほぼ50年にわたって、彼の詩は一度も刊行されなかったのか。何故、彼の名前が禁句とされた時代さえあったのか。そもそも、彼は何故非業の死を遂げなければならなかったのだろうか。次回part2では、マンデリシュタームの詩の世界をご紹介するとともにその死の経過を追ってみたいと思っている。

『ユン・イサン(尹伊桑)』part2 拉致・投獄・オペラ

ユン・イサンCD  カヴァー 王墓の壁画
「イマージュ」「フルート、オーボエとヴァイオリンのための三重奏曲 」他

1963年、ユン・イサン(尹伊桑/1917-1995)は北朝鮮を旅行して6世紀に造られた王陵を見ることができた。そのような墓内の一つには素晴らしい壁画が残されている。日本でもお馴染みの青龍、朱雀、白虎、玄武の四聖獣である。真っ暗な墓室に入ると一匹の動物が見えてくる。徐々に他の動物にも気づくようになり、ついにはこの四匹が一体となって見えてくるという。もっと長くそこに立っているとそれぞれの動物が動き始め、あるときは龍、あるときは朱雀と色鮮やかに浮かび上がってくるのである。この運動は完全な調和のうちにありながら緊張に充ちたものであるという。

1968年に作曲された『イマージュ』は、このような神秘的な現象が音楽で表現されている。オーボエが龍、チェロが虎、フルートが亀、ヴァイオリンが朱雀をと四つの楽器を四匹の動物に割り当てた。それぞれの性格を表現しているのではなく、それぞれ個別的であるとともに同時に全体の一部をなすように構成されているという。個別性と統一性が交互に表現されているのである。しかし、この曲が牢獄の中で作曲されたことを忘れてはならない。

少し時間を遡ろう。認められ始めてはいたもののフライブルクに住んでいた彼の経済状態は、いっこうに好転する見込みはなかった。そんな矢先の1961年、フォード財団が西ベルリンに新たな芸術的拠点を作ろうとした計画に応募する。その結果、その作品が受け入れられ、単身ドイツに来ていたスジャ夫人とともにフォルクスワーゲンに乗ってベルリンに移動することになる。家財は車に乗せて全て運べるほどわずかだったという。今回もドイツの女流小説家ルイーゼ・リンザ―がインタビューし、それをまとめた著書『傷ついた龍』と伊東成彦編による『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』から作曲家「ユン・イサン」の世界をご紹介したいと思っている。

尹伊桑、ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍』

1960年には、祭礼のための寺院舞踏のイメージを使った大作『バラ』、先ほどの四聖獣の複製画からのみイメージされた『交響曲的情景』が作曲された。翌年には、音響的な実験を試みた『コロイド・ソノール』が発表される。この曲は複雑すぎてオーケストラから拒絶されそうになり、聴衆の反応もブラボーとブーイングが入り混じって大騒ぎだったという。そして、1962年には大成功を収めた『洛陽』が、さらに翌1963年には『ガサ(歌詞)』、『ガラク(歌楽)』が書かれた。この年、北朝鮮を訪れている。そのことは先に述べた。この頃は年に1~2曲のペースだったようだ。1965年には数か月アメリカで講演を行った後、ベルリン芸術祭のためのオペラの作曲依頼がベルリン・ドイツオペラの劇場長グスタフ・ルドルフ・ゼルナーからもたらされた。東アジアの作曲家に東アジアの題材でという申し出だった。

ユン・イサンは、その題材として『リウ・トゥンの夢』を選んだ。日本でも『邯鄲の夢』としてよく知られたテーマであった。唐の沈既済(しん きせい/750-800)の小説『枕中記』が原作だが、ユン・イサンは、宋の時代に始まり元代に隆盛した歌劇である元曲の作者、馬致遠(ば ちえん/1270頃‐1320頃)の作を選んだ。他作家との合作といわれる『黄粱夢』であろう。リンゼーは、荘子の『胡蝶の夢』との関連を強調していて面白い。このオペラは、1966年ベルリン芸術祭において室内オペラとして上演された。声楽部の扱いは中国の伝統によるもので、そこでは絶えず語りから歌へ、歌から語りへの移行があるという。普通の語りの声、半ば語り半ば歌、一定の音の高さでの叙唱、様々な音の高さでの叙唱、そして純粋な歌というヴァリエーションがあった。東アジア的な語り方とドイツ語の言葉を強く区切るという課題が意識される。隠者は低い金管と打楽器によって祭礼の色調を帯びた響に、女性の主役はフルート、ハープ、オーボエによる抒情的な音響で表現される。この手法は後のオペラにも引き継がれることになる。

『荘子』斉物論 第二

昔者(むかし)、荘周(ソウシュウ)、夢に胡蝶と為れり。
栩栩然(ククゼン/ひらひらと飛び回り)として胡蝶なり。
自(みずか)ら喻しみて志(こころ)に適(かな)えるかな。
周たるを知らざるなり。
俄然(ガゼン/にわかに)として覚(さ)むれば、則(すなわ)ち蘧蘧然(キョキョゼン/はっとして我に返る)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為(な)れるか、胡蝶の夢に周と為れるか。
周と胡蝶とは、則ち必ず分(ブン/けじめ)有らん。
此れを之れ物化(ブッカ)と謂(い)う。

第二作目のオペラは『胡蝶の未亡人』と題された一幕ものの喜劇、オペラブッファであった。人を笑わせる言葉や身ぶりを韓国語でイサクルというらしい。イサクル劇というものがある。いわゆる笑劇である。荘氏の深く哲学的な胡蝶の夢の物語は、グロテスクで、不気味なものになり変って人々を笑い転がせる。時々蝶の翅ならぬ黒い蝙蝠と梟の羽が聴衆をかすめて飛んだという。荘子は、自分が蝶となって軽々と自由に飛び回る素晴らしい夢を度々みるのだが、そのつど妻が自分を起こしてしまうと老子に愚痴をこぼすことから二人の対話から始まるのだ。この妻から逃れるために荘子は、自殺を演出するのである。荘子はその旅先で棺に納められのだが、弔問客の中に王子フーと従者がいた。王子と未亡人となった妻との即席の恋が生まれ、王子とその従者は邪魔な棺を片付けようとするが重くて持ち上がらない。癲癇持ちの王子は発作に襲われる。この歌劇の中では、それを治すために死んだばかりの人の脳みそが必要だという。従者が斧で棺を一撃するとそこから身を起こした荘子が実は王子であったというマジックになっているのである。このオペラは荘子の影が沙のカーテン上に現われ、同時に投影される色彩豊かな蝶たちの間で踊り、合唱が蝶の夢を歌い、妻から自由になった荘子を神人へと導くオーケストラのクレッシェンドで終わる。

後に彼は、こう述べている。「ええ、それはもちろん。追求され、拷問され、監禁される恐ろしい夢を見ます。人生は夢だとは言え、夢もまた傷跡を残すのです(『傷ついた龍』)。」母親の夢に現れた龍は、その夢のとおりに深い傷を負うことになるのである。

陸治(1496-1576)明 『胡蝶の夢』

このオペラが三分の一ほど出来上がった頃、朝7時に電話のベルが鳴って朝鮮語で、自分は朴正熙大統領の私的な秘書だが、大統領から親書を預かっている。できるだけ早くサヴォイ・ホテルで来てほしいという内容だった。ホテルまで行ってみると、親書はボンの崔徳新大使の手許にあるので自分たちと一緒にボンに来てほしいと言われる。崔大使は親しい友人だった。同行はするが、すぐに返してもらうという条件で彼はボンまで行った。ボンの大使館で薬を飲まされ自分の意思を失い、尋問を受けてからハンブルクに向かい、日本の航空会社のチャーター機で東京に向かい、そこから韓国の飛行機でソウルに到着した。いずれも旅券は必要とされなかったし、出入国管理官もいなかったのである。そこは、皮肉にも11年ぶりの祖国の地だった。1967年、50歳の年である。

ソウルに着くとKCIA(大韓民国中央情報局)の本部に連れて行かれ、世界の各地から自分と同じようにしてやって来た十数人の韓国人たちを見たという。多くは学生で、医者、看護士、大学関係者、鉱山労働者などであった。ドイツでスパイ組織を作って韓国政府を倒そうとしているといわれ、何日も食べ物を与えられず、睡眠もとれなかった。やがて拷問が始まる。手足を縛られ丸太につるされて、顔に布を被らされて水をかけられた。呼吸できずに気を失うと、医者が呼ばれ、注射されて意識が戻ると同じことが6度繰り返された。隣ではボン大使の崔の呻き声が聞こえてくる。こうして、共産主義者としての偽の自白書が書かされるのである。

嫌疑は北朝鮮を訪れたこと。これは北朝鮮側の招待で、例の壁画の見学と北朝鮮の関係者たちとの交流、友人との再会が含まれている。そして、東ベルリンへの数回に亘る訪問と北朝鮮への送金がある。これは、行方のわからなくなった家族への連絡、あるいはその家族への送金の代行のためだった。国交がなければ、外国を経由して連絡を取り合うほかはないからだった。当時、ユン・イサンはドイツで民主主義のための韓国人協会を設立しつつあった。韓国の反共法ではこれらの違反は五年から十年の懲役に処せられる。だが、彼は国外から拉致されてきたのである。一審は終身刑、二審で懲役15年、最高裁では懲役10年の判決がおりた。KCIAの圧力にもかかわらず刑はこのように軽減されていった。

『尹伊桑の芸術Vol.8 室内楽曲Ⅲ』CD
「イマージュ」「ピリ」他

4メートル四方の壁に囲まれた監房には、暖房は無く、窓に貼られたビニール紙は破れていて凍てつく風が吹きさらしていた。冬は茶碗の水が凍る寒さになる。最初は机がなく床に紙を置き手に息を吹きかけながら作曲した。身体全体がむくんで動くことや立つことが困難になり始める。心臓の疾患があった。自殺未遂も起こしている。そんな中で『胡蝶の未亡人』の残り三分の二、クラリネットとピアノのための『リウル』、そして『イマージュ』が作曲されるのである。『胡蝶の未亡人』は、KCIAの検閲を経てスジャ夫人によりドイツにもたらされ、1969年2月にニュールンベルクで初演された。それは壮大な演奏で31回のカーテンコールを数えたという。しかし、その時、彼はまだ獄中だった。

この同じ月、拉致されて2年後の1969年に突然の釈放が決定される。『傷ついた龍』におけるユン氏自身の注によれば、ドイツ政府がパウル・フランクを主席とする代表団を送り、粘り強い交渉の結果、莫大な経済的援助と引き換えに彼らの西ドイツへの原状復帰がなされた。だが、これは大統領特赦であって法的正義が実現されたわけではないという。多くの音楽家や音楽関係者、知識人たちの運動が起こっていた。ハンブルク芸術アカデミーの会長ヴィルヘルム・マーラーによって朴大統領へのアピールが書かれ、シュトックハウゼン、リゲティ、カラヤンなどの多数の人びとがそれに賛同して署名している。ドイツや東京、ワシントンなどで支援のための演奏会が開かれ、多くの教会の団体が彼と彼の家族のために寄付を集めたという。演奏会を開催した人々の中にはミハエル・ギーレン、ジェルジュ・リゲティ、ハインツ・ホリガー、オーレル・ニコレ、ベルンハルト・コンタルスキーといった音楽家たちがいた。そして、釈放後は、ハノ―ファーの音楽大学やベルリンの音楽大学で教鞭を執ることになる。

ユン・イサンは、まだ渡欧する以前にソウルにいた頃、政治的、社会批判的な小説を三篇書いたが、その原稿は何処に行ったのか、もはや分からないらしい。もっと若い頃は、愛国文学をよく読んでいたという(『傷ついた龍』)。彼と同じ反共法違反容疑によって1970年、1974年と逮捕された詩人の金芝河(1941‐/キム・ジハ)は、合計7年に亘る獄中生活を送った。彼もまた、韓国の民主化と祖国の統一を願う人であった。そして、この矛盾に満ちた世界を愛と親交の統一世界へと高めていこうとした。それがあまりに美しい幻想に見えようとも、暗闇の中の真実を光のなかに引き出す作業を己の天職と信じていたという(金学鉉/キム・ハクヒョン『荒野に呼ぶ声』)。だが、その夢は美しい幻想というよりは果てのない悲歌だったのではないか。

『果て』

待つことしか
なにひとつのこされていない歳月よ
おわりなき果てよ底知れぬ 姿もない
どろ沼深く両足を埋め 空よ
空よ
呼び叫ぶ この長い長い声の
蓮の花に咲き出ることもない このぎこちない身もだえの果て
信じられない石ころでも ひとつ
死ぬまえに 踏みつけてみよう
死ぬまえには

夢なきおまえの白い肌にでも きっと
不吉な夢ひとつは 残して行こう
風も 声も 光もない歳月よ 待つことしか
残されていない 死が死から立ち上がる
雄叫びの刃を待つことしか
おわりなき果てよ

すべての果てよ 眠れる果てよ
死ぬまえには きっと
訣別の文(ふみ)一行は残して行こう

金芝河(キム・ジハ/1941-)

ユン・イサンの1970年以降の音楽、それはキール芸術祭のためのオペラ『精霊の愛』、ミュンヘン・オリンピックのための祝典オペラ『沈清(シム・チョン)』、巫女の歌から霊感を得た『ナモ』、三つの次元を書いたといわれる『ディメンジョン』などがあるが、ナチスを辛うじて逃れた女性詩人、ネリー・ザックスの詩『闇よ裂かれよ』、同じくナチスに処刑されたハウスホーファーのソネット『死線にて』などをテーマにした作品が生まれている。とりわけ、ベルリン・フィルに初演され、「ネリー・ザックスの追憶のために」と題された交響曲5番は、「平和の交響曲」と批評された。ザックス(1891-1970)は、ベルリンに生まれたユダヤ人で、ナチスの手を逃れて母とともにスウェーデンで暮らした詩人であり、ノーベル文学賞を受賞した作家だった。「私は、ユダヤ人達の悲劇を代表する」と語った人だ。晩年は精神的な危機に陥った。その人の詩が、この曲の三楽章で「‥‥復讐の武器を耕地の上におけ/それで復讐が鎮まるように/何故なら鉄と穀物は/大地の懐では姉妹なのだから――(『聖なる地の声』)」とフィッシャー・ディスカウによって歌われたのである。それは、ベルリン市の750年祭にベルリン在住の作曲家に委嘱された曲の一つとして演奏された。残念ながら僕はまだ、5番は聞けていないのだけれど、他の交響曲からの印象は、開かれたテンションの持続というべき素晴らしい音楽だと思う。

1980年には、韓国の全羅南道の光州市を中心に民衆の蜂起が起きる。全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕が契機だった。クーデタに抗議する学生デモが行われ、戒厳軍の彼らへの暴行に抗議した市民も加わったが鎮圧され、2000人以上の犠牲者をだした。彼らを追悼して書かれた作品が『光州よ、永遠に! 』である。晩年までその制作意欲は衰えることはなかったが、1995年に肺炎のためにその劇的な生涯を閉じている。今年、2017年は生誕100年の記念の年にあたる。

ユン・イサンのあらゆる音が東アジアの音楽理念を固く保持して構成されていることは、彼の音楽が民族の文化に深く根ざしていることを明かしている。もし、彼が作曲にあたって朝鮮の伝統的な音楽の本質的な特徴を蘇らせたとすれば、それは音楽美学的関心からだけではない。40年に亘る仮借ない日本化政策、ソ連とアメリカによる南北分断、この民族の独自性と統一の破壊が継続的に行われてきた歴史的現実があり、政治的次元での韓国と北朝鮮との間にある断絶や相互理解の困難があった。しかし、彼が独自の現代的な朝鮮の音楽文化を確立したということが、彼をして民族の象徴的人物とさせ、その音楽をして「民衆の声」となり代わり得たのだとギュンター・フロイデンベルクは書いている(伊藤成彦訳『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)。民族と芸術の問題など文化輸出の宣伝ステッカーくらいにしか考えられていない国にあっては、このユン・イサンの芸術家としての在り方を一度は振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

彼は自らの音楽をこう語っている。「私の音楽は自民族の芸術的伝統という歴史性と、祖国の悲痛な運命という社会性から生まれたものであるが、このことは別言すれば、音楽芸術が当然持すべき格調と純度の枠内で、人間の自由と尊厳を踏みにじる無道な権力の暴虐に対して、用いる最大限の表現をもって抗議する音楽が私の音楽であると言っても差し支えないだろう。(鄭敬謨 訳『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)」

ユン・イサン 混声合唱と打楽器のための『胡蝶の夢』1968

最期に、僕の趣味で一曲選ばせていただきました。

Isang Yun (1917 – 1995) – Invention IV “Harmonie”

Heinz Holliger, Marie-Lise Schüpbach, Oboen
mimiko, Elisabethenkirche Basel, 06.01.2016

 

その他の関連図書

伊藤成彦編『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』
伊藤 成彦(いとう なりひこ )は、1931年の生まれ、東京大学でドイツ文学を学んだ。新聞社を経て中央大学で教鞭を執り政治学者、文芸評論家として知られる人だ。同大学の名誉教授であられる。

金学鉉『荒野に呼ぶ声』
金学鉉(キム・ハクヒョン)は、1929年の生まれ。ソウル大学と中央大学で学んだ。早稲田大学語学教育研究所におられた。著書に『民族・生・文化』、訳書に『第三世界と民衆文学』などがある。

 

『ユン・イサン(尹伊桑)』part1 駆け抜ける龍

智異山 韓国南部の山岳信仰の聖地

劉邦(りゅうほう)の母親である劉媼(りゅうおん)が大沢の堤で休んでいると、夢に神と出会った。この時、雷電があり、あたりが真っ暗になる。父の太公が行くと彼女の上に蛟龍を見た。龍は瑞祥である。劉邦は後に漢の高祖となった(『漢書』)。朝鮮半島にもこれに類する話があるらしい。前百済第三十代の武王、名は璋(しょう)、その母は寡婦であったが、都の南の池のほとりに住んでいた。その池の龍に情を抱いて璋を生んだという。薯童(しょうどう)説話として知られる(『三国遺事』)。身籠った女性が龍の夢を見ると、生まれてくる子供は特別の運命を背負うというのは、よく聞く話である。ユン・イサンの母は、韓国南部の聖地である智異山の上を飛ぶ大きな龍の夢を見た。瑞祥だった。だが、龍は傷を負っていて天に向かって高々とは飛べなかったという。

尹伊桑(1917-1995/ユン・イサン)
『尹伊桑の芸術Vol.6 室内楽曲Ⅰ』CD
「洛陽」「ピース・コンチェルタンテ」他

1964年、ハノーファーでユン・イサンの新曲『洛陽(ロンヤン)』が初演された。その時の新聞記事には、このような評論が掲載されている。「これはセリエル楽曲作法自体のために作曲された音楽ではなく、それ自身の内部に強烈な表現があることをしらせる音楽である。あらゆる音響的な大胆さの度ごとに、厳しい形式的な規律の中に、古代朝鮮の宮廷音楽に依拠することから生じた音楽的伝統への結びつきが聴きとれるだけではない。息の短い第一章から、装飾性に富んだ第二楽章を経て、劇的に切迫した最後の楽章への高まりは、まったく魅力的である。表現力と芸術的形式が絶妙の一致をみせているのである(ヴォルフラム・シュヴィンガー「ハノーファー・ルントシャウ紙」伊藤成彦訳)。」

ユン・イサンは、「私はただの音楽家であって、その他のなにものでもなく、音楽家としては政治的に、直接は何の関係もありません(ルイーゼ・リンザ―との対話『傷ついた龍』)」と述べた。しかし、友人のギュンター・フロイデンベルクが述べたように、彼は生ある限り政治に関係してきた。日本の支配下や朴正熙(パク・チョンヒ)政権のもとでの逮捕、投獄、拷問、あるいは拉致や終身刑の判決、こうした深く重い体験は彼の芸術に刻印され、消えることはないだろうという。そして、「つねに危機に際しては、芸術家もまた他のすべての人と同様に人間であって、万人のために何事かをしなければならない」という彼自身の信条を保ちつづけていたのである(『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。

尹伊桑、ルイーゼ・リンザー『傷ついた龍』

ひところ近くて遠い国と呼ばれた韓国である。韓国ばかりではないが、朝鮮半島には未だに日本の植民地支配、従軍慰安婦、強制徴用工などの問題で大きなしこりを残したままになっている。歴史の認識の隔たりは埋まらず、日本との政府間合意も韓国の民意を反映したものではあり得なかった。日本では、戦争への悔悟など水に流せるほど軽いものらしい。私もその一部であり、その軽さを否定するわけにはいかない。

ユン・イサン(尹伊桑/1917-1995)は、朝鮮で生まれ、ドイツで活躍した世界的な作曲家として知られる。この人は、間違いなく「人物」である。その生涯はあたかも劇的なドラマを見るようだ。今回は、同じドイツの女流小説家ルイーゼ・リンザ―がインタビューし、それをまとめた著書『傷ついた龍』と伊東成彦編による『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』を中心に「ユン・イサン」の世界をご紹介したいと思っている。これらの著作からも、彼の祖国愛と儒教的な精神、社会正義と社会改革への熱意が強く感じられるのである。ルイーゼ・リンザー(1911-2002)は、大学で教育学、心理学を学んだ後、小学校の先生を経て作家となる。『ガラスの波紋』は、ヘルマン・ヘッセに称賛されたようだ。1944年にナチスへの反逆罪で逮捕、投獄され、死刑判決を受けたがドイツの敗北によって解放された。社会派の作家として知られる。伊藤 成彦(いとう なりひこ )は、1931年の生まれ、東京大学でドイツ文学を学んだ。新聞社を経て中央大学で教鞭を執り政治学者、文芸評論家として知られる人だ。同大学の名誉教授であられる。

細川俊夫『魂のランドスケープ』

作曲家の 細川俊夫(1955-)はベルリンで7年間、ユン・イサンに学んだ作曲家であるが、彼の人となりをその著書『魂のランドスケープ』の中で感動的に語っている。1982年のベルリン・フィルの100周年記念作曲コンクールでユン・イサンは審査委員長を務めていた。そこで細川俊夫は優勝し、授賞式に出席することになる。舞台に上がった後、舞台裏で彼は尹(ユン)先生から腕を痛いくらいに握られ、怖い顔でこう言われたのである。「きみ、こんな賞を獲っただけで傲慢になったらおしまいだ。傲慢は芸術家の毒だ。それでだめになってしまった作曲家を僕は何人も知っている。そのことを絶対忘れないように。」そして、「おめでとう。よかったよ。よかったよ」と抱きしめられたという。

ユン・イサンは韓国の南海岸にある統営(トンヨン)近郊で生まれた。近くには、統営八景と呼ばれる美しい島々があり、日本の対馬にも近い位置にある。父は、朝鮮王朝(李氏朝鮮1392-1910)時代の両班(ヤンバン)の身分であり、貴族階級に属していた。中国で言えば、かつての士大夫にあたる。「箸と本より重いものは持たない」として知られる身分である。だが、短い大韓帝国時代を経て1910年には日本による韓国併合が行われ、植民地支配が始る。経済的に徐々に零落して家具の製造を始めるようになったが、詩人サークルの中心人物として文人の嗜みも忘れなかった。母は二度目の妻で、三人の娘とイサンと弟を儲けたが格式の高い両班の家には馴染めなかった。他に先妻の娘が二人いたという。父は、桑の木から離れようとしなかった中国の伊尹(イユン)の蚕の伝説を好み、長男の名を伊桑(イサン)としたのである。

統営は美しい自然に囲まれた長閑な風情を残した街だったようだ。父親と海に出れば、漁師たちが歌う「南道唱(ナムドチャン)」の歌が共鳴板のような水面に響き渡り、夏の夜には、無数の流れ星が降ってゆくのを海辺の断崖から眺め、芸術的に構成されたかのような蛙たちの美しい混声合唱を聞いた。ある日、繊細で感じやすい少年は旅回りの一座について次の村まで行き、両親の心配をよそに舞台の前に坐りこんでしまう。彼の心に残ったものは、宮廷での職を失った歌舞演者たちの伝統楽器の音、そして、後に彼のオペラの素材となった「沈清(シム・チョン)」のような劇の一幕だった。そして、仮面音楽劇の五広大(オークワンデ)での音楽、女呪術師の叙景歌、呪文、祈りの歌などが幼年期の記憶に美しく刻み込まれたのである。

玄鶴琴(コムンゴ
六弦琴で左手で弦を押え、右手は竹の撥を持って弦をたたいたり、すくったりして演奏する。

5歳から3年間、習字と漢文の学校に、その後、ヨーロッパ風の授業をする小学校に通った。その学校で触れた音楽はヨーロッパのものだった。13歳にはヴァイオリンを少し、ギターの手ほどきを近所の青年から受けた。終生愛した楽器は、チェロだったようだ。父は息子が音楽家になることには反対だった。音楽家など卑しい職業と思われていたのである。そういえば、私の父方の祖母などは明治生れの女性だったのだが、画家など乞食同然と思っていたのである。それはともかく、15歳から商業学校に通ったが、17歳の時には家出同然でソウルに向かっていた。父には、一時絶縁された。西洋的な方法で民族的な要素を用いて作曲する先生に師事した。日本の国家『君が代』を作曲するなどした後、ソウルに来ていたフランツ・エッカートの孫弟子だった。

2年後には一度、実家に帰るものの、商業学校へ通うことを条件に日本で音楽の勉強をすることが許され、1935年から大阪音楽学院に学ぶことになる。日本の方が西洋文化を吸収する時期が早かったからであろう。だが、ここで彼は朝鮮労働者の過酷な現実を知ることになる。ゲットーのようなスラムに住む同胞たち、極めて低い賃金と悪環境で働く強制徴用工たちの現実である。この無権利で無一文な人たちの運命が、私の心に社会的な意識を目覚めさせ、私の政治的関心を高めたというのである。1937年に朝鮮に戻るが、2年後に再度日本に渡り池内友次郎に対位法などの作曲を学んだ。

太平洋戦争が始まって、彼は朝鮮に帰国し、日本の支配に対する抵抗運動に身を投じた。投獄され拷問も受けたが、身元引受人になってくれる人がいて釈放されることになる。戦後になると多くの朝鮮の子どもたちが日本から帰ってきた。その多くは両親を失っていて、病気の子供や盗癖のある子、犯罪を犯した子、その子供たちのために彼は、孤児院を作り彼らの保護に努めた。だが、アメリカ軍から援助されていた食料品で私腹を肥やそうとする人間の中傷があり、自分もそのような思いが頭をかすめた時、その仕事を辞した。30歳の時釜山の師範学校に招かれ、そこでスジャという女性と知り合う。やがて結婚した。それは、1950年、朝鮮戦争(1950-1953)が始まった年であった。

伊藤成彦編『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』

彼は、後にこう述べている。自分は、人間に対する愛を自らの創作活動の出発点たろうとする芸術家である。そうである故に、ある日突然やってきた外国人が勝手に引いた分断線によって生木が裂かれるように南北が離ればなれとなり、あまつさえ血で血を洗うような凄惨な殺し合いを演じたという自民族の悲劇から目をそらすことはできない。北も南もわが愛する祖国であり、分断の解消、つまり統一によるのでなければ癒されえない苦しみにもがいている同胞のことを思うにつけ、自分は何をどうすべきであるのか、一日たりともこの思いから自由であったことはないというのである(宗斗律との対話『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。

ユン・イサンは、しばらくソウルで仕事をすることになる。1956年に、作曲家として初めてソウル文化賞が与えられた。しかし、作曲技法上の知識の不足を痛感する彼は、40歳を前にして単身ヨーロッパに渡るのである。この行動力は並外れている。西洋の音楽理論、とりわけシェーンベルク、ヴェーべルン、ベルクらウィーン楽派を中心に十二音技法、無調音楽などの現代音楽を学びたかったのである。近代西洋音楽を支配してきたのは長調と短調からなる調性音楽であり、それからの解放を目指して無調音楽は立ち上げられた。そこから、1オクターブの中の12音を均等に使用する十二音技法、音の長さや強弱までも数式に置き換えて計算式で作曲するセリエルが生まれたのである。三年間留学したら韓国に戻るつもりだったという。最初パリの国立音楽院で正規の学生とは異なる多額の学費で学んだが、彼にとってパリは冷たい都市だった。1年で離れ、ベルリン芸術大学でボリス・ブラッハーのもとで学ぶことになる。他にシェーンベルクのアシスタントであったヨゼフ・ルーファーのもとでウィーン楽派の技法を徹底的に学んだ。1958年韓国に帰る準備を整え、現代音楽のメッカとなりつつあったダルムシュタットの「新しい音楽のための講習会」に参加する。これが彼の人生を大きく変えることになる。

金東珠 編著『尹伊桑の音楽技法』
 韓国の伝統音楽を基層として

韓国出身の作曲家金東珠によれば、韓国の伝統音楽の旋律は和声的旋律ではなく、一つの音を中心にした主要音構造であるという。その音楽における個別音は、それ自体が生きている音である。あらゆる音は始まりから消えるときまで、装飾音、前装飾音、振動、グリッサンド、音量の上下等によって変化を繰り返す。それらは、一定の音の高さの前後に使用されたり、主要音を変奏的に、あるいは、装飾的即興性によってその旋律を自然に流れるようにしたい時に使われるという。また、これは韓国の伝統音楽における音の長短と深く関わっている。韓国音楽の音の長短は、人の一呼吸のうちに始まり、終わりも一呼吸の間に終わる。音の生成過程は、音の振動の始まり、中心の動き、振動の消滅という経過をとり、これは韓国伝統音楽の精神と技法に根源を持つものであるという(金東珠『尹伊桑の音楽技法』)。

日本でも韓国の伝統音楽に魅入られた人は少なくないらしく、例えば小説家の中上健次(なかがみ けんじ/1946-1992)はパンソリに感動して、逆に韓国の人びとにその音楽への理解がないことを嘆いている(『中上健次〈未収録〉対論集成』)。プク(太鼓)と歌唱により特別な場で叙事詩のような長いストーリーを歌うものがパンソリである。パンソリに限らずソウルフルな韓国音楽は何故か懐かしい。

そのような伝統から生まれるユン・イサンの音楽は強靭な持続力と線的な無限性を持つ。その線的な要素の中に巧妙な持続性があり、能や歌舞伎ののように、何時間同じ線を聴いても絶対飽きない秘密がこれなのだという(西村朗との対話『尹伊桑 我が祖国、わが音楽』)。それは、しばしば、たっぷりと墨を含んだ筆による書に譬えられるのである。主要音は、複数の場合には主要音響と呼ばれる。西洋の音楽では、テンポや演奏時間は、かなり正確に守られなければならない。主要音では一つの音の中に速い遅いの違った要素が混在している。それは音楽の色彩的なものにも言える。二つの力がお互いに対立しながらも融和を保っていく。それが陰陽の哲学なのだというのだ(武満徹との対談『尹伊桑 わが祖国、わが音楽』)。けっして、表現主義のように限界まで突き進むということはないのである

ダルムシュタット現代音楽講習会 1957 カールハインツ・シュトックハウゼンによる講義

ダルムシュタットの講習会には、カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007)、ルイジ・ノーノ(1924-1990)、ピエール・ブーレーズ(1925-2016)、ジョン・ケージ(1912-1992)といった現代音楽の気鋭の作曲家たちが集っていた。そこで、『七つの楽器のための音楽』が演奏されることになる。第一楽章は、確かに厳密な十二音技法で書かれている。しかし、第二楽章は朝鮮の古い宮廷音楽の音響の思い出というべきものだった。自信は全くなかったが、結果は意外なものだった。こういう批評がなされている。「‥‥韓国人ユン・イサンの場合のように、その技法が自己目的的になるのではなく、自然の音楽的直観とたしかな技法的な能力と結びつく場合には、セリエルの技法も必ず豊かなものをもたらすことができるのだ。もしこの端的な認識がダルムシュタット夏期講習会の実技講義場でも受け入れられるならば、現代音楽にとって事態は一層好転することになろう(ハインツ・ヨアヒム「ディ・ベルト紙」伊藤成彦訳)。」ヨーロッパ的作品概念はすでに疲弊しつつあった。彼の音楽は、東洋的な音の響とヨーロッパ的技法が融合した新しい音楽の展開として受け入れられたのである。

新曲の弦楽四重奏曲第三番は、独創的な音響幻想からなる他に類をみないほど強烈な曲であったと認められ、表現主義以後の破裂化した音響様式が、いまや音楽的な世界言語になったことを改めて証明したと評価されるまでになる。1960年から61年にかけてオーケストラのための作品『バラ』『コロイド・ソノール』『交響曲的情景』を書きあげた。この頃、1950年代の音楽シーンはアントン・ヴェーベルンのセリエル風の知的な作曲方法からジェルジュ・リゲティの『アトモスフェール』(1961)やクシシュトフ・ペンデレツキの『ポリモルフィア』(1961)などのような音響的な側面が強調された音楽へと移行しようとしていた。

自分の音楽は全てが流れる。その流れは直線ではなく多様に湾曲していて、その中にも部分部分があって、それ自体が一つの世界であり、その部分世界の中にまた別の世界があるとユン・イサンはいう。フラクタル的なのである。『レアク/礼楽』では全てが動いている。それは音響の織物、様々な音色と様々な音組織の中に大小の断片が紡ぎ合わされ、重ねられる織物の反復進行といわれている。大観すれば一つの流れであり、もっと離れれば静止しているようである。この音は生きるために運動し始める。こうして龍のような大きな生命力が生まれるのである。それがヨーロッパの地を駆け抜けはじめようとしていた。

ここで、ユン・イサンが1978年に作曲した『ムアク/舞楽』と彼の故郷に伝わる統営のシナウィの舞曲とを比較して聞いていただければと思う。このシナウィではヴォーカルが加わっている。

 

jeong-yeongmangwa sinawi – tong-yeongsinawi jung gueumsinawi
統営シナウィの口音シナウィ

シナウィは、アジェン(牙箏)、テグム(横笛)等の楽器で合奏される朝鮮半島の即興的な器楽音楽。古くは新羅時代からあるとされる。巫祝の儀式で巫女が歌ったり踊ったりする時の伴奏音楽であったようだ。長短(リズム周期)だけが決められており,楽器の特性を生かした自由な演奏が求められる。水のように自由に流れる音楽といわれる。

『フリードリヒ・ヘルダーリン』 part2 古代ギリシア、一つの対話と帰郷

『ヘルダーリンと古代ギリシア』
竹部琳昌編著
ウーヴォ―・ヘルシャー著 「エムペドクレスとヘルダーリン」収載

三島由紀夫は「本全集を推薦する」としてヘルダーリン全集をこのように言祝いだ。「ヘルダーリン。そのギリシア狂。その静澄。その悲傷。その英雄主義。その明るい陶画のような風景。‥‥青春の高貴なイメージのすべてがここにある。(『三島由紀夫全集34』新潮社)」

そう、ギリシア狂だった。

ヘルダーリンが古典語、とりわけギリシア語に強いことは、学生時代から周囲に聞こえていてマウルブロンの僧院学校在学中にホメロスの『イーリアス』の翻訳を一部手がけるなど、古典語の中の音性にひそんでいる<神々>に耳を澄ました。そして、彼の言葉の中には陽光に充ちた南方的な世界が開けていくのである。‥‥その静澄と陶画のような明るさが。

特にエムペドクレス(BC490-BC430)との繋がりは深い。イタリアはシチリア島のアクラガス(現アグリジェント)に生まれ、ピタゴラス学派に学んだ自然哲学者、医師、詩人、政治家であり弁論術の祖といわれる。ウーヴォ―・ヘルシャー著「エムペドクレスとヘルダーリン」によれば、この古代ギリシアの哲学者は、万物には地(母なる大地)・水(天上の水)・火(夜の炎)・風(神々の賜物アイテール)という四つの根があるとしていた。ヘルダーリンにおいては、『エーテルに寄す』part1参照の詩に表れているようにアイテール(エーテル)の優位は動かない。彼の、このエーテルについての強い関心には、古代ローマの詩人ルクレティウス(BC99-BC55)の影響があるといわれている。エーテルについては、”世界をロマン化する” part2 中井章子 『ノヴァーリスと自然神秘思想』で述べておいた。ここは、ヘルダーリンの言う「形成衝動」と密接に関係しているのだが、この「形成衝動」がヨーロッパ文化のなかでいかなる巨大な潮流と列なるかは想像を超えるものがある。

この四つの根は、それ自体消滅することはなく、あるのはただ四つの不滅なるものの混合と分離だけであるという(エムペドクレス 断片8)。それらの分離と結合が個々の物や事の表面的な生成と消滅をもたらすと考えられていた。そして、諸元素は、或る時は愛によって一つのコスモス(秩序・構成)へと結びつけられ、或る時は争いによって再び個々ばらばらに分離するという。諸元素が分離する以前の原状態は、毬(スパイロス)であって球形をしており、ハルモニアと愛と神業の絆の中に隠されていた。愛はこの諸原素の球の中にあって縦も巾も等しくあった(エムペドクレス 断片17)という。

ヘルダーリンの中では、自然と人為は対立していて、自然は全体であり、限界はなく、差別もなく、一般的・基礎的で、意識されることなく、理解もされないものである。人為は人工的で、作り上げられ、特殊で、熟考された、個別的なものである。前者を非組織体的なるもの、後者を組織体的なるものと彼は名づけた。ここで問題となるのは、愛と争い、あるいは非組織的なるものと組織的なるものとの闘争と和解である。彼の戯曲『エムペドクレスの死』の中ではエムペドクレスは一者であり、「新しい救済者」として自ら火山に身を投げて焼死することによって「世界の争い」を和解させる。‥‥そこには英雄主義があり、キリスト教的なモティーフヘの変容があった。

ヘルダーリンも読んだといわれるヨハン・ヤコブ・ブルッカー(1696-1770)の『哲学史』の中では、世界精神つまり、「魂のように世界に浸透し、我々を一切の生命あるものと結びつける精神」の起源はエムペドクレスの哲学にあるとされていた。そして、ヘルダーリンは、彼の生きていた時代のギリシアを描いた書簡体小説『ヒューペリオン』の序文にこう書いた。「我々が自然と結びついて一つの無限な全体となる。このことは我々の志向の目的である。しかし、この至福なる一致、つまり言葉の唯一の意味における存在は、我々にとって失われている。我々はそれを得ようと努力し、その為に闘わなければならないならば、それを失わざるを得なかったのである。我々は世界の平和なる “一にして全” から引き離された。そして、それを我々自身によって生みださねばならないのだ(最終前稿序文)。」「無限の合一は美が君臨するところに存在する(同左)」と。この “一にして全”という言葉は、フリードリヒ・ハインリヒ・ヤコービ(1743-1819)の『スピノザ書簡』から得たといわれているが、ウーヴォ―・ヘルシャーは、ヘルダーリンが結局当時の思想界を席巻していたフィヒテの観念論を離れて宇宙論に傾斜していったことを指摘している。意識からではなく世界から出発するのである。この言葉は、ヘルダーリンの親友であったヘーゲルの標語「ヘン・カイ・パン(一にして全)」にも唱和した。

手塚富雄さんの『ヘルダーリン』から彼の生い立ちを追ってみよう。1770年、ヘルダーリンは、南ドイツのネッカー川沿いにあるラウフェンという街で長男として生まれた。シュトゥットガルトの少し北にある街である。父は僧院執事及び宗務管理者という肩書で僧院の所有する土地などの管理やそこからの農産物に関わる金銭の出納などの仕事にあたっていて、母はラウフェン近郊の牧師の娘であり、濃厚な宗教的な雰囲気の中でヘルダーリンは育つことになる。だが、2歳の時にその実の父を失い、4歳の時に母の再婚に伴いシュトゥットガルトの南南東にあるニュルティンゲンに移る。ここは、ネッカー川とシュワーベンアルプ(アルプは高地を指す)を望む圧倒的に美しい自然に恵まれた地であったようだ。ネッカ―とラインとドナウという河川がヘルダーリンの情緒を育てた。

新しい父は、実父の友人で、若くしてこの街の市長となった人だったが、8歳の時にはこの義父も失った。10歳の時には、すでにニュルティンゲンのラテン語学校の生徒となっていて、そこで短期間だがフリードリヒ・シェリング(1775-1854)と出会っている。難関の国家試験に念願の合格を果たし1784年10月にデンケンドルフの初等僧院学校に入学、1786年から上級課程を学ぶマウルブロン校に通った。この学校にはおよそ100年後にヘルマン・ヘッセが通うことになり、ここでの経験から『車輪の下』が書かれたようだ。僧職に就くための学校であり、大学での授業を官費で受けられることが保障されていた。残された遺産を女手一つで守り、少しでも殖やそうと努力する母にとって、息子を大学に進ませるためのコースはこれしかなかった。

1788年、18歳でテュービンゲン大学のシュティフト(大学神学寮)に進学する。そこには、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770-1831)や飛び級で進学してきたフリードリヒ・シェリングがいた。彼らの世代の精神を鼓舞したものはヴィンケルマンに発したギリシア精神の復興と、カント、シラー、そして、フンボルトが打ち立てた「自由の理想主義」の哲学とフランス革命が挙げられている(ディルタイ『ヘルダーリン論』)。この頃にはキリスト教の教義からの離脱が決定的となり、司祭職への予定コースには背を向ける結果となった。これは、キリストその人からの離心を意味しない。それにかわって詩作へのやみ難い想いが募り始める。こうして、家庭教師として糊口をしのぎながら詩人としての生活が始まるのである。

ベーダ・アレマン
『詩的なる精神 ヘルダーリン』

折に触れてヘルダーリンに回帰した詩人パウル・ツェラン(1920-1970)が、セーヌ川に投身自殺した時、彼のアパートの机の上にはヴィルヘルム・ミヒェルの『ヘルダーリン伝』が開かれたままになっていたという。彼は、遺書に自分の遺稿の管理をベーダ・アレマン(1926-1991)に託した(関口裕昭『評伝パウル・ツェラン』)。独文学者アレマンはへルダーリンの極めて優れた研究者の一人だった。

そのアレマンの著書『詩的なる精神 ヘルダーリン』によれば、ヘルダーリンは、ギリシア人と近代の人たちの文化的・社会的な形成衝動が、根本的に対立した現象であると考えていたいう。形成衝動はもともと生命の形態形成力と関わる言葉だったが、次第に文化などを形成する力をも指すようになる。古代ギリシアのそれは、文字通り美しく型どった形態形成を目指す組織的な形式に向うのに対して、近代人の衝動は、エムぺドクレス的全への合一、創造的な「太古の混沌(カオス)」へと向かう非組織的な形成を目指すという。到達不能の目標を設定し進展的に思考する近代であった。しかし、ヘルダーリンは古代の組織化にも近代の非組織化にも組みしようとしなかった。『ヒューペリオン』第二巻では、祖国ドイツへの激しい批判がみられはするのだが。『ベーレンドルフ書簡』や『ソフォクレス注解』などのヘルダーリンの著作によれば、芸術の国へと向かう排他的独占的傾向と現実性の中にあっても、ギリシアには破滅の道に抗して、その硬直化を突破するためのラディカルな力を内部に秘めた一つの手段が存在していたはずだという。それが「祖国回帰」であった。彼はそのプロセスの中でギリシア芸術と文化が「祖国回帰」をなしうるためには「革命的経過」を経なければならないと考えた。ここにはフランス革命やその後のナポレオンの動向が反映されていただろう。ヘルダーリンはこう書いた。

こうして 彼等はうち建てたいと願った
ひとつの芸術の国を。そのとき しかし
祖国に関わる事柄が彼等自身の手で
なおざなりにされて みじめにもまっしぐらに駆け降りたのだ
ギリシアは、このあまりにも美しかった国は、破滅(ほろび)への道を。(『‥君は考えるのか 事態の推移の必然を‥』)

「そして、ここで祖国に関わる問題が浮上する以上、各々が、無限の回帰として把握され、魂を揺り動かされ、魂が震えさせられる無限の形式のなかで自身を感受することこそ最重要なのである。何故なら祖国回帰とは、一切の表象=観念の種類と形式とが回帰(転換)する事態にほかならないからである(『ソフォクレス注解』)」と述べている。ソフォクレスは、古代ギリシアにおける三大悲劇詩人の一人であり『オイディプス王』の作者である。この回帰は、単なる方向転換ではなく、ひとつの国家や社会における人間の共同生活に関わる認識や相互の伝達の土台が完全にひっくり返されることにほかならないとアレマンは言う。それは、オリュンポスの神々を放棄するという犠牲、ギリシア文化の東方の源泉への帰還を放棄するという犠牲のもとに完全なる文化革命を成し遂げることであった。この困難な回帰を可能にするものは、いったい何、あるいは誰なのだろうか‥‥。これは、単に国家機構や社会構造の変革に留まらない。ここで、踏み込むべきは、ハイデッガーの注視する「帰郷」なのではないだろうか。

ハイデッガーは、ヘルダーリンを「ひたすら詩作の本性を詩作する詩人としての使命を担っている」として、卓越した意味での詩人の詩人であると称賛する。自分の葬儀に自らヘルダーリンの詩の朗読を計画したほどであった。ヘルダーリンの中期以降の詩は、自分が詩人であることのありかたと使命についての省察と信念の吐露に尽きるといわれる。ハイデッガーは、ヘルダーリンの詩に呼応してこう述べる。人間は「人間とは誰なのか? 自分が何であるか?、ということを証しなければならないものである」。証するためには表明しなければならず、その内実に対する責任を負わなければならないと述べる。それは有るもののなかに全体として帰属するという証しであった(『ヘルダーリンと詩作の本性』)。ここに言葉の問題が浮上するのである。

マルティン・ハイデッガー
『ヘルダーリンの詩作の解明』
「ヘルダーリンと詩作の本性」収載

「私たちが一つの対話であって、/互いに聴くことができるようになってから、/天のものたちの多くが名づけられた。」ハイデッガーは、ヘルダーリンの詩のこの一節を掲げる。

そして、このように述べている。少しシャッフルして纏めたい。神々自らが私たちに語りかけ、その語りかけのもとに私たちは存立するのである。神々を名づける言葉はいつもそのような語りかけに対する答えでもある。語り合うことの前提として聴くことがあり、実はその二つは同時にある。この前提によって、私たちが対話であることは同時にいつでも、私たちが「一つの」対話であるという意味になる。「現にあること」を神々が言語にもたらすことによって、私たちは、初めて神々に賛同するのか、背反するのか、という決断の領域に入り込むという。神々が私たちを会話に連れ込んでから、その時以来、時があり、歴史がある。それ以来、私たちが現に有る根拠は一つの対話となるのである。言語が人間に有ることの最高の出来事であると。

このような根源的な命名力によって名がつけられることにより物事の本性が語りだし、それによって初めて事物が輝き始める。そのことによって「人間が現に有ること」が確固とした関わりのなかに引き込まれ、根拠づけられるという。存在史的対話が始まるのである。「一つの対話」であるためには言葉のなかで同一なものが開示され成り立たなければならない。現に有ることを担うことは対話と一つになることである。

ハイデッガーは、『ヒューマニズムについて』のなかでこう述べている。「言葉は存在の家である。言葉という住居の中に人間は住む。思惟しているもの、作詩しているものは、この住居の番人である(小磯仁訳)。」アレマンは『ヘルダーリンとハイデガ―』の中でこうつけ加えている。作詩的な言葉は始原的命名力によって満たされている。思惟は、究極のものと明言されざるものとの緊張めがけて冒険に乗り出す。ここに思惟と作詩との感応が生じると。こうして、有るとは何かという存在の真理が、詩のなかで実現に移される。この時、思惟は完全に或る全く異なる広がりへと連れ去られ、この広がりの中でこそ詩が純粋に現前していることを理解するというのである。この異なる拡がりが、存在の明るみ、聖なるものの拡がりである。この拡がりのうちで現‐前することは、脱我的に実存することの意味、つまり存在を要求することに向って、あるいは聖なるものに開かれてあるものに向って、彼方へと現れ出ることであるとアレマンは言う。現に有ること=実存することの全く異なる領域、それをハイデッガーは、ヘルダーリンの詩『帰郷』に因んで「故郷」と呼んだのである。ハイデッガーの考える帰郷とは、祖国回帰をこのような深い次元にまで追及した結果だったのかもしれないのである。

ベーダ・アレマン
『ヘルダーリンとハイデガ―』

ヘルダーリンはこう歌う「‥‥そして、合図は/はるか昔から神々の言葉なのだ」と。ハイデッガーは『ヘルダーリンと詩作の本性』において続けてこう述べる。詩人はこの合図を感じとり、それをさらに民族のなかに合図する。詩人は「最初のしるし」のなかにすでに完成したものを見抜いて、それを大胆にも言葉にするので、まだ成就されていないことを予告することになる。「‥‥鷲が雷雲に先立つて飛ぶように、大胆な精神は/予言しながら、到来する神々に/先立って飛ぶ――」。詩人は、逃げ去った神々の時代と到来する神の時代という二重の欠如と無のなかに立っている。この欠乏の時代に、詩人は詩作の本性を創造することによって新たな時代を規定すると。

「救済が遠のいている。世界は癒しがたくなる。このことによって、ただ聖なるものが神性への痕跡として隠されているだけでなく、聖なるものへの痕跡、救済すら消え絶えてしまったように思われる。未だ少数の人間だけが、癒しなき状態が癒しなき状態として脅かしてくるのを見ることが出来るのを除いては(ハイデッガー『森の道』小磯仁訳)。

あるいは、ホラティウス(BC65-BC8)のこの言葉が暗い闇に響き渡るのだ。「未来の成り行きを知っていても、神は暗黒の夜でこれを蔽われる。そして人間が許された限界を越えようと、いくらもがいても、神は笑いたもう。(氷上英広訳)」

われらはひとつのしるし、解くべくもなく、
苦しみも感ぜず、ほとんど
言葉を異国の中で失ってしまった。
それゆえ、人間の頭上の
天に争いがおこり、荒々しく
あまたの月が進むとき、海もまた
語り、川の流れはおのれの道を
探し求めねばならぬ。けれども、疑いもなく
ある一者は存在する。この一者は
日ごと事態を変えることができる。彼にはほとんど
掟は無用なのだ。そして、木の葉は響を立て、かしわの樹々は万年雪のかたわらで
風にゆれる。なぜならば、天上のものたちも
いっさいをなしうるわけではない。すなわち
死すべき身の者たちはまず深淵のほとりに到達するのだ。こうしてエコーは
彼らとともに変転する。ながながと
時は流れるが、真実のことはおこるのだ。
‥‥
(『ムネーモシュネー 第二稿』浅井真男訳)

Mnemosyne

Zweite Fassung]

Ein Zeichen sind wir, deutungslos,
Schmerzlos sind wir und haben fast
Die Sprache in der Fremde verloren.
Wenn nämlich über Menschen
Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig
Die Monde gehn, so redet
Das Meer auch und Ströme müssen
Den Pfad sich suchen. Zweifellos
Ist aber Einer. Der
Kann täglich es ändern. Kaum bedarf er
Gesetz. Und es tönet das Blatt und Eichbäume wehn dann neben
Den Firnen. Denn nicht vermögen
Die Himmlischen alles. Nämlich es reichen
Die Sterblichen eh an den Abgrund. Also wendet es sich, das Echo,
Mit diesen. Lang ist
Die Zeit, es ereignet sich aber
Das Wahre.
‥‥

手塚富雄著作集2 ヘルダーリン下
中央公論社 1981年刊

永遠の女性ズゼッテ・ゴンタルト。彼女は、ヘルダーリンが書いた書簡体小説『ヒューペリオン』に登場する主人公ヒューペリオンの恋人であるディオティーマと同一視される。プラトンの『饗宴』において、ソクラテスに愛の本質を教えた巫女に因んだ名である。家庭教師先のフランクフルトの銀行家の若妻あった。1796年の1月から、このゴンタルト家でその子を教えることになる。26歳の年であった。実りのない恋に終わることは誰の目にも明らかだった。二人は傷ついたまま別離を迎える。1800年5月の最後の出会い、その瞬時の別れにズゼッテは彼に鉛筆の走り書きを渡す。「‥‥そして、苦痛の中でわたくしたちはお互いにわたくしたちの幸福を感じ、この苦痛がいつまでもいつまでもわたしたちのために残っていることを願うことにいたしましょう。なぜならわたしたちは苦痛の中に完全に高貴な感情を保ち、強められ、――――御機嫌よう ! 御機嫌よう ! 祝福があなたと共にありますよう。―――(手塚富雄訳)」‥‥‥この悲傷。

『ヒューペリオン』は、このズゼッテとの愛の世界とその別離の中で書かれた。ディオティーマはこの小説の中でこう語る。「あなた(ヒューペリオン)は、はたからお助けすることがむずかしい方なのです。‥‥あなたはご承知でしょうか。あなたに欠けているただひとつのもの、あなたがいつも悲しみながら尋ねているものは何かということを。それは、つい二、三年前になくなったものではありません。‥‥けれども、それはかつてあったのです。今もあるのです。それは、よりよい時代、より美しい世界。それをあなたは探しておられるのです。‥‥わたしのいうことを信じてください。あなたは人間を求めていたのではありません。一つの世界を求めていたのです。‥‥(手塚富雄訳)」1797年に『ヒューペリオン』第一巻が、1799年に第二巻が出版された。この頃、戯曲『エムペドクレスの死』が書かれる。

1801年、31歳、スイスでの家庭教師の仕事は4か月余りで終わり、翌年、フランスのボルドーに勤め先を移すが、これも数か月で終わりを迎えた。ヘルダーリンは、ただならぬ様子でフランスから故郷に戻るが、追い打ちをかけるようにズゼッテの訃報を知らされることになる。1804年にはソポクレスの翻訳『オイディプス王』『アンティゴネ―』が出版された。だが、2年後には精神病とみなされ、テュービンゲンの大学付属病院に入院する。1807年、37歳の時、同地の指物師の親方エネンスト・ツィンマーの保護を受けて、彼とその娘の介護により、その家の一室に終生暮らすことになる。ヘルダーリン塔として知られる建物の二階であり、36年の長きに亘った。ツィンマーは、『ヒューペリオン』の愛読者でありヘルダーリンを敬愛していたのだろう。

自分の世界の中での絶え間ない対話、それによる独り言が続いた。時に激高することもあったいう。だが、野外の散歩の時には独り言が止み、その眼は穏やかになったようだ。神性に触れたエムペドクレスは、救済者としてエトナ火山に身を投げた。ヘルダーリンは薄明の精神の中に身を沈めることとなるのである。1826年には、多くの人々の熱意と協力によってグスタフ・シュワープらの編集による『ヘルダーリン詩集』が刊行された。やがて、その息子クリストフ・テオドーア・シュワープがヘルダーリンを訪れるようになる。彼は、後に史上初となる『ヘルダーリン全集』を出版した。ヘルダーリンは、1843年、肺水腫のため73歳で亡くなっている。

1837年に書かれた晩年の詩をご紹介してこの『フリードリッヒ・ヘルダーリン』を締めくくりたい。ゲオルク・トラークルがこの観照に影響された詩を作ったと言われる(手塚富雄『ヘルダーリン下』)。ただ、手塚さんは、トラークルのそれが嘆きの変奏であるのに対して、ヘルダーリンのこの詩では自然と人間とのすべて明るく透明で完全な調和があるという。時に訪れる精神の晴れ間に、この自然への合一が歌われたのである。回帰する神的生気、フォーカスされる時間の遅速、循環する四季、広がる大地と流れゆく雲、時と空間を越えた完成‥‥そして、この拡がりのうちに現‐前すること‥‥君臨する美につつまれる深い静寂‥‥「一つの世界」へ‥‥帰郷

かつてあって、また立ち帰ってくる生気についての
言い伝えは 大地を去っていたが、
それがまた人の世に帰ってくる。そして、多くのことを
われわれは 急速に去ってゆく季節から学ぶのだ。

過去のもろもろの形姿は 自然から
棄てられはしなかった、夏の盛りに
日々が色あせても、秋が大地にくだってくれば
畏懼(いく/おそれ)を呼びおこす霊気がまた空にうまれてくる。

またたくまに多くのことが終わった。
犂を駆って野にいそしんでいた農夫は見る、
年がよろこばしい終わりに向って傾くのを。
このような形姿のうちに人の日の完成はある。

巌をかざりとして広がる大地は
夕べに失せてゆく雲にひとしいものではない。
それは金いろの昼とともに現われる、
そしてこの完成には嘆きの声はふくまれない。
(手塚富雄訳)

Der Herbst

Das Glänzen der Natur ist höheres Erscheinen,
Wo sich der Tag mit vielen Freuden endet,
Es ist das Jahr, das sich mit Pracht vollendet,
Wo Früchte sich mit frohem Glanz vereinen.

Das Erdenrund ist so geschmückt, und selten lärmet
Der Schall durchs offne Feld, die Sonne wärmet
Den Tag des Herbstes mild, die Felder stehen
Als eine Aussicht weit, die Lüfte wehen

Die Zweig’ und Äste durch mit frohem Rauschen,
Wenn schon mit Leere sich die Felder dann vertauschen,
Der ganze Sinn des hellen Bildes lebet
Als wie ein Bild, das goldne Pracht umschwebet.

『フリードリヒ・ヘルダーリン』 part1 ヘルダーリンの円周

フリードリヒ・ヘルダーリン
(1768-1843)1792
フランツ・カール・ヒーメル画

「<ゲーテ>がヘルダーリンにどう向き合ったか、何故にゲーテがあれほど好意的でない扱いをしたのか、その理由を彼女が知っているかどうか、私は尋ねました。それに対して彼女は手短に答えました。‥‥『ゲーテは彼に、詩的に優る精神に耐えることが出来ず、それ故にあの方(ヘルダーリン)を突き放したのです。』(高木昌史『ヘルダーリンと現代』)」
『ヘルダーリン詩集』を編集したグスタフ・シュワ―プ(1792-1850)の息子クリストフ・テオドーア・シュワープが、詩人クレメンス・ブレンターノの妹でゲーテの母と親しかったベッティーナ・フォン・アルニム(1785-1859)へ質問し、その結果得た答えである。彼は、史上初めて『ヘルダーリン全集』を刊行することになる。

ヘルダーリン(1770-1843)は、シラーの推薦でカルプ家の家庭教師をしていたが、1794年11月にイェーナにシラーを訪ねて、そこで初めてゲーテに会った。この時、彼は憧れのシラーに再会したことで舞い上がってしまったのか、ゲーテを紹介されてもその名が聞きとれておらず、この出会いが誰とだったのかついに認識できていなかったようだ(手塚富雄著作集1「ヘルダーリン上」)。迂闊な自らの失態を笑っている。24歳の時であった。その二年後には、フランクフルトのゴンタルト家の家庭教師になり、その夫人ズゼッテと恋愛関係となる。ヘルダーリンの不滅の恋人「ディオティーマ」となったのである。ディオティーマは、プラトンの『饗宴』の中でソクラテスに愛の本質を教えた巫女である。ヘルダーリンは翌年、シラーに『エーテルに寄す』と『さすらい人』などの三篇の詩、そして書簡体小説『ヒュペーリオン』第一巻を送り、シラーはそのうちの二篇の詩をゲーテに送って感想を求めた。ゲーテは詩人としての素養はあると言いたいけれど、それだけでは詩人とは言えない。素朴な牧歌的な事件を選んで書いてみれば人間描写の巧拙が分かる。そこが一番大切なところだろうと答えたという。それぞれの詩を掲載するのに適した書誌を指摘している。ここには若い詩人に対する配慮があった。シラーは、彼の詩のなかに自分のかつての姿を見るようだと返信した。その激しい主観性が、哲学的精神と瞑想とに結びついていて、この状態は危険だと危惧するのであった。

エーテルに寄す

変らぬ心で親しく、おお、父なるエーテルよ! 神々と人間の中の誰も、
あなたのように私を育ててくれた者はいなかった。母がその腕に
私を抱き、その胸から乳を飲ませてくれる前に、
あなたは優しく私を捉え、天上の飲み物、聖なる息吹を
成長していく私の胸の中へ最初に注ぎ込んでくれた。‥‥
(高木昌史訳)

An den Aether

Treu und freundlich, wie du, erzog der Götter und Menschen
Keiner, o Vater Aether! mich auf; noch ehe die Mutter
In die Arme mich nahm und ihre Brüste mich tränkten,
Faßtest du zärtlich mich an und gossest himmlischen Trank mir,
Mir den heiligen Othem zuerst in den keimenden Busen.

‥‥

高木昌史『ヘルダーリンと現代』

フリードリヒ・ヘルダーリンは、ハイデッガーやトラークル、リルケやベンヤミンが愛した詩人、あるいはドイツ表現主義の詩人たちの偶像と言うにとどまらない。今回の『フリードリヒ・ヘルダーリン』part1では、彼の作品の影響範囲がどのような壮大な円周を持ち得たかをヘルマン・ヘッセのエッセイと高木昌史(たかぎ まさふみ)さんの著作『ヘルダーリンと現代』などから追跡してみたいと思っている。したがって、その作品を巡る作家や哲学者たち、ヘルマン・ヘッセ、シュテファン・ゲオルゲ、ノルベルト・フォン・ヘリングラート、フリードリヒ・ニーチェ、ロマン・ヤコブソン、ミシェル・フーコーの言説をご紹介することになる。part2では、マルティン・ハイデッガーの著作『ヘルダーリンの詩作の解明』などをご紹介する予定である。高木さんは、東京都立大学、千葉大学でドイツ語・ドイツ文学を学ばれ、国学院大学、成城大学、立教大学などで教鞭を執られたようだ。成城大学名誉教授であられる。『グリム童話を読む事典』『柳田國男とヨーロッパ 口承文芸の東西』『グリム童話と日本の昔話 比較民話の世界』などの著作がある。

 

ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)1926

ヘルマン・ヘッセ

ヘルマン・ヘッセは、『ヘルダーリン その生の記録』の中でこのように述べている。シラーを崇拝する弟子であるヘルダーリンは、師と同じく『情感的』な人間だった。彼は、自らの中で精神化の実例を追い求め、その試みに失敗したのである。彼の文学を考察すると、まさに、このシラー的な精神が、どれほど彼にとって高貴に見えようとも、結局のところ彼の本質にとって押しつけられたものであることが分かる。というのも私たちがこの壮麗な文学作品において最高に評価しているのは、その思想「内容」でも、その意識的な名人芸でもない。全く類のない、シラーという模範によって押しつぶされそうになった、「音楽とリズムと音響の秘密という底層流」なのである。「この謎めいて創造的な驚くべき底層流は下意識に住みついて、ヘルダーリンのとても多くの詩において、まさに涵養された彼の詩人の理想と戦っているのであり、この隠れた想像力を委縮させたことで、彼は破滅したのである(『ヘルマン・ヘッセ エッセイ全集7』日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会 訳)」というのである。ここには、トラークル作品の音楽性の源流としてのヘルダーリンがいる。

シュテファン・ゲオルゲ

20世紀の初頭ヘルダーリンは歴史の表舞台に突如として登壇する。その契機を作ったのは若き日にパリなどを巡ってマラルメやヴェルレーヌなどと交友したドイツの象徴主義の詩人ゲオルゲだった。彼とそのグループであるゲオルゲ派こそ、その立役者たちだったのである。1963年、テオドール・アドルノは「感動的な人生を送ったが物静かで繊細な脇役詩人、というヘルダーリン像をゲオルゲ派が打破して以来、この詩人の名声も彼についての理解も疑いなく飛躍的に増してきた」と述べた。1902年に『芸術草紙』を創刊したゲオルゲは、1919年のその最終巻にヘルダーリンへの「賛辞」を発表した。

「‥‥ディオニソスとオルフェウスは、未だ生き埋めにされていた、彼(ヘルダーリン)だけが発見者であった。彼は外的な示唆を必要としなかった。彼には内的な眼が役に立った。彼は稲妻のように天を打ち破って、われわれにヘラクレス=キリストのような心揺さぶるもう片方の像を示した。‥‥彼の苦痛に満ちた引き裂かれた在り方が、新しい道徳の模範になるというのではない。‥‥謎めいて破裂した彼の音節が、熱心な詩の学徒の模範になるというのではない。‥‥何故なら、より高次のことが問題なのだから。打開と集中によって、彼は言葉を若返らせる者、同時に魂を若返らせる者である。‥‥一義的には分析され得ない予言によって、近づくドイツの未来の礎石となり、新しい神を呼ぶ者なのだ。」高木昌史さんは『ヘルダーリンと現代』の中で、この賛辞を読むとゲオルゲ自身の詩人としての宣言を聞くようで、一種異様な熱気を感じると述べている。彼にとって「祖国と時代」に関わる詩を多く残したヘルダーリンは「偉大な預言者」であった。ゲオルゲは、時代批判に創作の重点を置きつつあったのである。その時代は、まさにドイツ表現主義の時代背景と一致している。

ノルベルト・フォン・ヘリングラート

「『最も偉大な』二律背反詩人ゲーテ、最も偉大な『ドイツ』詩人ヘルダーリン。」「実際、何故にヘルダーリンの狂気は人の心を捉える力を持っているのだろうか? その理由は、問いが解決されるからではなく、謎が魅了するからなのだ。全体的な構成ではなく、予感される深みが心を捉え魅惑するのである。それ故、語られれば語られるほど、それだけ一層、この技法においては、謎めいた語りになるに違いない(高木昌史訳)。」ノルベルト・フォン・ヘリングラートは自身の「オファリズム集」にこのように書いた。

1908年、20歳の時、シュトゥットガルト図書館でそれまで公開されていなかったヘルダーリンのピンダロスの翻訳を彼は発見する。2年後、学位論文にまとめ、「歴史-批判版」『ヘルダーリン全集』刊行を計画する。1913年、第五巻『翻訳と書簡』を刊行し、その中に収録された「ピンダロス翻訳」は、はじめて世に知られることとなる。翌年、第四巻『詩集1800-1806』を刊行した。この快挙によってヘルダーリン文学は一挙に注目を浴びるようになる。

ドイツの思想家・文芸評論家であるヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)は、友人のショーレムに「ヘルダーリン著作集第四巻が到着した時のぼくの喜びは、きみには想像がつくまいと思えるほどのものだった。それをぼくは待ちに待ってたのだからね。その日終日、ほとんど何も手につかなかった(野村修訳)」と手紙に書いている。
詩人のライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、1914年、ヘリングラートに宛てて「確かに昨日、最高の喜びの中で、私は直ちに読み始めました。これらの詩の本質が私にいかに影響を及ぼし、筆舌に尽くし難いほどくっきりと私の眼の前に存在しているかを、私は語ることもできません。‥‥(高木昌史訳)」と述べている。

ヘリングラートは、絶頂期(1800-1806)のヘルダーリンの作品を『パトモス』(1803)以前と以後とに分け、その後半、彼が テュービンゲンの塔に入る前までの時期の作品をバロック的と名づける。そこに、その過剰さや歪みばかりでなく、それを越えた「沈黙」の境地を見る。高木昌史さんは、ツェランらの現代詩人が彼に惹かれる理由もそこにあるという。だが、この俊英は28歳の若さで惜しくも戦死してしまうのである。

フリードリヒ・ニーチェ

「行け! 何も心配はいらない! いっさいは回帰するのだ。そして、おこるべきことは、すでに成就しているのだ。(ヘルダーリン全集3『エムペドクレスの死』浅井真男訳)」この言葉の訳注には、ニーチェの永劫回帰思想の萌芽だと書かれている。

ギムナジウム(中高一貫校)時代の作文の中で当時15歳のニーチェは、この愛する詩人の詩を読むように薦めるとして以下のように書いた。恐るべき早熟さである。

「‥‥僕には少なくとも、引き裂かれてしまった心情のこうした不明瞭で半分狂気じみた音の響は悲しく、時には反感を抱かせる印象しか与えない。不明瞭な無駄話、時には狂人の思想、ドイツに対する激しい怒りの爆発、異教世界の神格化、ある時は自然主義、ある時は汎神論、またある時は多神教が錯綜する――こうしたすべてが彼の詩には刻印されている、もちろん成功したギリシア風の韻律ではあるけれど」と友人の手紙を引用する形式をとり、君が混乱とか不明確とか見做しているように見えるヘルダーリン思想の豊かさについて、僕になお二言三言付け加えさせてくれと続ける。君の批難は詩人の狂気の時代の幾つかの詩に実際当て嵌るし、それ以前の詩においても、時には深遠な意味が、始まりつつある狂気の夜と闘ってはいる。それにも拘わらず、夜の時代の相当数の詩は、僕たちの文芸全体のなかでも純粋で高価な真珠である。と述べて数篇の詩を挙げ、特に『夕べの幻想』の終盤の三節を引用する。それは最も深い憂鬱と安らぎへの憧憬が表現されているというのである(高木昌史『ヘルダーリンと現代』)。ニーチェはヘルダーリンが没した1844年にザクセンに牧師の子として生まれた。彼とヘルダーリンには、ギリシア神話の神ディオニソスと古代ギリシアの哲学者エムペドクレスに没入したという極めて深い共通項がある。だが、ニーチェが直接ヘルダーリンに言及することは稀であったという。

『夕べの幻想』

‥‥

夕べの空にひとつの春が花開く。
数知れず花咲く薔薇、そして安らかに輝く
金色の世界。おお、そこへ僕を受け入れてくれ、
深紅の雲よ! そしてあの高みで

光と大気の中で、僕の愛と悩みが溶け去ってくれるなら――
しかし、愚かな願いに追い払われたかのように、魔法は
逃げて行く。暗くなり、そして空の下に
僕は一人きりだ、いつものように。

さあ、来たれ、優しいまどろみよ! 余りに多くを
心は渇望する、しかし最後には、青春よ、お前は次第に消えて行く!
安らぎのない、夢がちな、お前は!
(高木昌史訳)

Abendphantasie

‥‥
Am Abendhimmel blühet ein Frühling auf;
Unzählig blühn die Rosen und ruhig scheint
Die goldne Welt; o dorthin nimmt mich,
Purpurne Wolken! und möge droben

In Licht und Luft zerrinnen mir Lieb und Leid! –
Doch, wie verscheucht von töriger Bitte, flieht
Der Zauber; dunkel wirds und einsam
Unter dem Himmel, wie immer, bin ich –

Komm du nun, sanfter Schlummer! zu viel begehrt
Das Herz; doch endlich, Jugend! verglühst du ja,
Du ruhelose, träumerische!

 

ロマン・ヤコブソン

ロシア生まれの高名な言語学者ロマン・ヤコブソンは、幾種類もの言語の詩を分析していて、人類学者のレヴィ=ストロースとともに行ったシャルル・ボードレールの『猫たち』の分析は特に名高い。1975年にはグレーテ・リュッベ=グロトゥエスと共同でヘルダーリンの『眺望』を分析・解釈した。

ヤコブソンらによれば、『眺望』は最初から「遠さ」のテーマ、遠ざかり消えて行く「人間」と通り過ぎ流れ去っていく時(日々・年・人生)の姿を絡み合せているという。一人称と二人称、そして過去形は姿を消している。距離をとって抽象的な感じを与えるための間合いに気を配っているためである。それは、フランスの精神分析学者ジャン・ラプランシュ(1924-2012)が1969年に発見した、彼の思考様式全体の鍵を握る中心的モチーフ、「近さと遠さ、距離の弁証法」のなせる業であるという。時間の前後関係は廃止され「全ての季節を通して、時の循環の全体」を露わにするというのである。

ハイデッガーが『ヘルダーリンと詩の本質』(1936年)においてヘルダーリンについて書いた時、彼の言葉を引いてこう述べた。「我ら――人間たち――は一つの対話である。」私たちが普通言葉という語で考える単語や配語法の法則の総体は言葉の前景に過ぎない。対話としてのみ言葉は本質的なのだと述べている。ヤコブソンたちは、彼のその後の道程はこの考え方の裏返しになっていくという。彼はこの『眺望』において対話の減退を克明に浮き彫りにしていると高木さんは述べているのだ。言葉は対話ではなく「留まるものを打ち立てる」詩人の作品=詩としてのみ意味を持つようになる。その作品は「独白」に覆われてくるようになるのだ。ただ、ハイデッガーのいう「対話」が、普通考えられるのとは異なる、ある特殊な「一つの対話であったことは指摘しておかなければならない。

眺望

人間の住み慣れた生活が遠くへ去るとき、
葡萄の季節が遠くに輝く場所、
そこには夏の何もない広野がある、
森はその暗い姿で現れる。

自然が時の姿を補い、
自然が留まり、時が素早く通り過ぎて行くのは、
完全さに由来する、天の高みはその時
人間に向って輝く、木々の回りを花が飾るように。

敬白
1748年 五月二十四日
(1770年生まれのヘルダーリンあって、これは実際の日付ではありえない)
スカルダネリ
(これも自身の名前ではない)

Die Aussicht

Wenn in die Ferne geht der Menschen wohnend Leben,
Wo in die Ferne sich erglänzt die Zeit der Reben,
Ist auch dabei des Sommers leer Gefilde,
Der Wald erscheint mit seinem dunklen Bilde.

Daß die Natur ergänzt das Bild der Zeiten,
Daß die verweilt, sie schnell vorübergleiten,
Ist aus Vollkommenheit, des Himmels Höhe glänzet
Den Menschen dann, wie Bäume Blüt umkränzet.

Mit Untertänigkeit
Scardanelli.

d. 24 Mai 1748

ミシェル・フーコー

今度はフランスの哲学者フーコーの「ヘルダーリンの狂気」についてである。この狂気問題はフランスでも強い関心が寄せられていた。フーコーは、自らの代表作の一つである『狂気の歴史』の中でニーチェやネルヴァルとともにヘルダーリンについてもしばしば言及していて、先ほど登場したフランスの精神分析学者ラプランシュの指摘した「イェーナ危機」を重視している。

そのラプランシュの『ヘルダーリンと父親の問題』への書評として、フーコーは『父親の名において』を『ヘルダーリン年鑑』へ寄稿する。その中で、ヘルダーリンの1793年末から1795年半ばまでのイェーナ滞在時期、そしてボルドーからの帰還の年1802年について考え直す必要があると述べている。ヴァルターハウゼンにおける家庭教師先でシャルロッテ・フォン・カルフとの出会いは、次の家庭教師先の人妻で互いに恋愛感情を抱くようになるズゼッテ・ゴンダルトとの出会いの予兆であるという。しかし、実際にはシャルロッテの伴侶(付き添い)であったウィルヘルミーネ・マリアンネとの仲がそれにあたるかもしれない(手塚富雄著作集1「ヘルダーリン上」)。そして、イェーナ滞在期、控えの間から掟を指し示すシラーとの過剰な関係があり、シラーの周囲には、既に神格化されたゲーテ、圧倒的な思想のフィヒテと思弁的なシュレーゲルやノヴァーリスといった彼にとっては眩いばかりの人びとが集っていた。あまりに神々に近づきすぎたオイディプスが盲(めしい)となったように、その眩さゆえにヘルダーリンはシラーに背をむけるというのである。彼は「打ちのめされもし、昂揚されもし」た。それらが「イェーナの抑鬱状態」を形成するのだというのだ。やがて、母の家への突然の帰郷を招く。この時、自らを「虚ろな壺」と呼び、友人は彼を「生ける屍」と呼んだ。この帰郷について、手塚富雄さんは、ヘルダーリンがシラーからの過度の影響から自己の世界を守るためだったという理由と、彼がそのころ無職で金銭的に困窮していたこと挙げている(「ヘルダーリン上」)。そして、隣国フランスの革命やナポレオンの出現、無神論論争、神々の不在とその潜在性といた西欧世界の崩壊の予兆が重なる。

1802年1月末、ヘルダーリンはボルドーに到着する。当地にいた葡萄の栽培や葡萄酒の販売に従事し、ハンブルク領事でもあったマイアー家の家庭教師として赴任する。しかし、5月には、早くも合意のもとその職を辞した。南方の風土の中で、ある決定的な何かが起きたのである。それは、あたかも「アポロに撃たれた」かのようだったという。帰国後、狂気の兆候が現われはじめる。そして、フーコーは、こう述べる。「18世紀末に狂気が精神病として制定されてしまうと、両者(狂人と理性の人)の対話の途絶は確定事実にされ、区別は既成事実になり、狂気と理性の交換がいとなまれていたころの、一定の統辞法を欠く、つぶやき気味のあの不完全な言葉のすべてが忘却の淵にしずめられた。(『狂気の歴史』田村俶 訳)。」つぶやきとは何か。ここでも改めて再考するように求められるのである。

今回は、ヘルダーリンの後世に与えた影響をご紹介することによって、彼の詩や文学作品のどのような部分が注目されてきたのかを高木昌史さんの『ヘルダーリンと現代』を中心にご紹介してみた。次回part2は、古代ギリシア世界、とりわけエムペドクレスとの関わりとハイデッガーの著書『ヘルダーリンの詩作の解明』などからヘルダーリンの世界をより深くご紹介しようと思っている。とりわけハイデッガーの著作の紹介はトラークルの世界を補完するものになろうかと思う。

ヘルマン・ヘッセ
『エッセイ全集7』
文芸批評
日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編訳

『ヘルダーリン全集3』
「ヒューペリオン」「エムペドクレスの死」収載
手塚富雄 浅井真男 訳

手塚富雄著作集1 ヘルダーリン上
中央公論社 1980年刊

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
› 続きを読む