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『ウィリアム・ブレイク』最終回「脱構築する神話」六千年のヴィジョン

1795年、38歳で『ロスの書』や『ロスの歌』を制作していた頃、ブレイクは銅板から直接彩色印刷を行う新しい実験に没頭していた。エッチング(腐食)を施したレリーフ状の銅板に色を塗り、プレス機や手の圧力で刷る。絵具には、滲み止めや糊が混ぜられ、その外観は厚塗りの斑(まだら)な質感が強調された、一種のデカルコマニーのような効果が起きる。その頃、妻のキャサリンは有能な助手となって彼を助けている。絵具は速乾性なのですばやく作業する必要があった。やがて、なめらかなエッチングされてない板に色を塗り、印刷し、筆で色を加え、ペンで輪郭と形を整えはじめた。

その成果は『ヨーロッパ 一つの預言』や『ロスの歌』に表れている。その頃の代表的な作品は『ニュートン』であろう。彼は、この新しい試みが大衆に受けると信じていた。しかし、現実には、好事家や他の芸術家たちに売れ口は限定されていたと言う。増刷もしたけれど、大きな注文を受けた時以外は、この彩色印刷法には二度と戻らなかった。フラックスマンやフューズリと言った友人などから仕事の斡旋してもらい、伝統的な技法で他人のために制作することで生計を立てることになるのである。

1800年には、ロンドンからイギリスの南海岸チチェスター近効のフェルファムに転居した。ポーツマスの近くである。海辺の黄砂の上に坐っていると「光輝く粒子」が人の姿となり、「岸辺のない海」のように広がって、自然界がひとりの人間のように見えたという。あるいは、野原を歩いていると太陽がロス(part2参照)の姿になり「激しい炎に包まれ」地面に降りてくるヴィジョンを見た。三年後、自宅の庭にいた兵士を力ずくで追い出そうとし、口論となって、小競り合いが起きた。その時、反国家的な言葉を発したとして「暴動教唆」の罪で訴えられる。いわゆるスコウフィールド事件である。1804年、ブレイクは無罪の判決を受けた。湿った気候が妻の健康を害し始めたのでロンドンに再び引っ越した後のことである。ブレイクを告発した兵士スコウフィールドの名は詩の中に時々登場するようになり、御気の毒ながら堕落した物質幻想を作り出した巨人の一人とされるのである。この頃『ミルトン』『エルサレム』という預言書・神話が書かれ始める。

聖テレサ(テレージア)の法悦』
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ 1652

ブレイクは「理性を見る人は、自分自身だけを見ているだけだ」と言い続けたという。何もかもが、自分たちの(間違った)知覚のイメージで創られていると信じるのは、哲学者や神を創造主として認めはするが啓示を否定する理神論者の罪であるというのである。聖テレサ(1515-1582)は「ヴィジョンはどうすることもできない。見ようと思っても見ることはできないし、努力して呼び出したり、消したりすることもできない」と述べた。彼女は、自然ないきいきとしたスタイルで死者のヴィジョンを書いたともいわれる。ブレイクは、「仕事中に、愚にもつかないことを考えていると、現実のものではない、死者の亡霊がさまよう幻の国にある山や谷に連れて行かれてしまうのだ」と述べた。これは彼が彫版の仕事が遅いといわれていた原因の一つでもあるかもしれないとピーター・アクロイドはその著書『ブレイク伝』に述べている。

『ヴェイラあるいは四人のゾア』『ミルトン』『エルサレム』の預言書が20世紀の思想とどのように関係づけられているかを大熊昭信の著書『ウィリアム・ブレイク研究』から考察してみたい。彼の預言書を読む時、色々な困難があるという。句読点の度重なる省略、語と語の異様な結びつきなどによって意味が容易には通らない。登場人物たちは複雑に分裂したかと思うと勝手にお互いに融合してしまう。物語も気ままに過去に遡りもすれば、イギリスの地にシオン山やエルサレムが突如、登場したりする。予測もつかない変貌をしょっちゅう遂げるというわけだ。著者は、80年代以降、こうした物語が、ポストモダンや脱構築の批評的立場に立つ人たちに歓迎され始めたと言う。

大熊昭信『ウィリアム・ブレイク研究』
「四重の人間」と性愛、友情、犠牲、救済をめぐって

大熊昭信(おおくま あきのぶ)は、1944年生まれ。東京教育大学英文科、東京都立大学大学院及び東京教育大学大学院で修士過程を修了し、文学博士号を取得した。筑波大学、成蹊大学などで教鞭を執られている。著書に『文学人類学への招待 生の構造を求めて』『D・H・ロレンスの文学人類学的考察 性愛の神秘主義、ポストコロニアリズム、単独者をめぐって』訳書にA.J.エイヤー『トマス・ペイン 社会思想家の生涯 』、エドワード・ゴールドスミス『エコロジーの道 人間と地球の存続の知恵を求めて』などがある。

著者はブレイクが『エルサレム』のサブタイトルを「巨人アルビオンの流出」としているところから新プラトン主義の「一者からの流出」に基づいていると仮定した。霊魂も全て一者から流出したというわけだ。新プラトン主義については”世界をロマン化する” part1 中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』のところで述べておいた。そして、「天界の形」とは「霊体」であるというW.H.スティーブンソンの説を紹介する。一般には、霊体は人間の魂がこの世の生を終えた後、天界でまとう一種の衣服であると想定されている。パウロは、そう述べたという。パウロが霊界で着るとした霊体をブレイクでは霊界で脱ぐと言うのである。

これに対して、ギリシアの新プラトン主義の哲学者プロクロス(412頃-485)は、霊魂が三種類の霊の衣服をまとっているとした。人間は死ぬと肉体を脱ぎ、天界とこの世の間の霊界に幽体を脱ぎ、輝体をまとったままで天界に回帰する。中間的霊界に残された霊の衣服がデーモン(幽鬼)の類となってこの世に現われるという。霊魂、オケーマ、幽体、肉体という層構造が考えられている。大まかだが、神智学の分類に近い。オケーマはパラケルススのいう星の体(アストラル体)、あるいは魂の車と呼ばれるものと同じであろうという。ブレイクの預言書で、主人公的な役割を持つロス(part2参照)が「四番目の不死の星の存在」とか「アーソナの乗り物の形」といわれることから、筆者は人祖アルビオンから分離したロスたちがこの霊体の分離した姿ではないかと考えた。ブレイクは当時、このプロクロスを翻訳したトマス・テイラーの講演に出席していたようだ。

『ユアリズンの第一の書』1794-96
ロスから分離するエニサーモン

ブレイクの『エルサレム』では、人祖アルビオンはヒューマニティ、エメネイション、スペクター、シャドウの四つの段階に分裂する。これを著者は、それぞれ霊魂、流出霊、幻霊、影霊と名づける。流出霊は輝体であり善のニュアンスを持ち、幻霊と影霊は幽体であり悪のニュアンスがあるという。魂には男性性が、輝体は女性性が、幽体では息子が、影霊では娘のイメージが割り当てられている。人祖アルビオンはpart2『四人のゾア』でもご紹介したように、その四つの人間的特性に対応する四人の男性性を持つ存在に分離する。そして、この特性に対応する女性性として、やはり四人が分離された。この『エルサレム』では、アルビオンが天界を降下する時、輝体である女性エルサレムを一つ下の霊界であるべウラ(ビューラ)に残し、その幽体をまとって死の世界である最下層のウルロに降下する。ところが、霊魂が脱した輝体なり幽体なりが、もう一度それぞれ独立した霊的な存在として同じように分裂を繰り返して、天界を下り、この世に降下したりするというのだ。主体としての霊魂が、他者の霊の衣をまとうというのはルドルフ・シュタイナーのいう「霊の経済原理」に見られる説だが、霊の衣自体が新たな主体となるというのは、ブレイクのオリジナルだろう。

日本にも古くは、分霊の例は多く、例えば留守宅の妻や女性が、旅する愛する者のために自らの魂を彼等に分けてつけた。それが、万葉の「妹の結びし紐」という慣用句になる。魂結びの紐の緒のことである。その魂の来りて触れて一つになることが「たまふり」の原義だという。魂の離合は極めて自由なものであったし、分離した魂がめいめいある姿を持つこともある考えられていたというのである(折口信夫『小栗外伝』)。なかなか興味深い話である。また、ピュタゴラスの影響を受けたオウィディウスは、ブレイクが愛した『変身物語』の中でこのように述べている。「万物は流転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいった体に住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ(中村善也 訳)。」輪廻転生については今はおくとして、魂が自由に他者に移るという考えは古い時代にはあった。しかし、こうしたことがらも、ブレイクがヴィジョンに従って書いたとしたら、不思議なものでもなんでもなくなるのである。ロスが、自分はアーソナの霊の衣から分離されたとブレイクに告げたなら、彼はそう書いただろう。

ロバート・ブレア 詩『墓』1808
第12プレート「再び統合する魂と肉体」
ブレイク原画 ルイジ・スキアヴォネッティ彫版

だが、書き方は、また別の問題である。自動筆記のように書いたという自らのコメントもありはするが(トマス・バッツ宛て手紙)、全てそのように書いたとしたら『ヴェイラあるいは四人のゾア』の10年にわたる苦闘を説明することはできなくなる。読者は、世界の創造と破壊と再生の物語の中に、様々な登場人物のエピソードが盛り込まれ、それにほとんど恣意的なまでに多様な寓意が説明的に張り付けられるのを目にする。おまけに、ブレイクの「対立の原理」は、相反する価値や意味を物語の中にバラバラに並置するのだ。付加される領域は広範囲に及び、抽象的な徳目あり、同時代の政治思想あり、自伝的要素まで挿入されるというわけである。そうすると、読者はブレイクのこの虚構の世界にすんなり感情移入できなくなる。読者は物語の世界から身を引き離し、リニア―な意味の把握を断念するようになり、垂直的な読みをするようになると著者は言うのである。つまり、自ら物語を再構成し、何層もの寓意の地下水の流れを見分け、それらを平行して眺める。ロスとエニサーモンとの諍いを多様な神話に関連づけ、その中にブレイクと妻キャサリンとの関係さえ読み取ることになるというわけだ。つまり、これがポスト構造主義的読みなのである。

このようなリニア―な解釈を許さない作品が19世紀後半に生まれていたことはミリー・ディキンスンの詩でご紹介しておいた。そして、同じように語り手が誰かを意図的に曖昧にするジェイムズ・ジョイスの手法があった。彼がブレイクの影響を受けた(part2参照)ということを知っておいてもらえればブレイク文学の先進性は理解していただけるだろう。

『死者の復活』1806
(ブレア作『墓』の扉の別案)

1805年にブレイクは、新進気鋭の出版業者ロバート・クロメックにロバート・ブレア作の『墓』の挿絵を頼まれた。原画を描き、版画にするのだったが、クロメックは当時ブレイクが手がけようとしていた白線によるレリーフエッチングを嫌って他の彫版師に任せた。こうしてブレイクの原画は、「ここちよい」「優雅な」銅版画に作りかえられた。これは、ブレイクにとって心の痛手であったことは言うまでもないことだが、クロメックは宣伝力に長けていてブレイクの名をイギリス社会に浸透させるという功績はあった。だが、批評は相変わらず辛辣で、「アンチ・ジャコバン」誌には「病的な空想力が生み出した作品」と書かれたという。ブレイクへの攻撃は「狂気」という宣伝の形で行われていった。しかし、作品は「あのみなぎる霊性と強烈なフォルム」を再び確認させる徒弟時代のウェストミンスター寺院での経験に照らされていたアクロイドは述べている(『ブレイク伝』)。

1809年、52歳の時、ブレイクは「フレスコ画展、ウィリアム・ブレイクの詩的で歴史的試み」と題した展覧会を兄の靴下店で開いた。彼の関心事は中世美術、あるいはゴシックの新しい形態についてであったという。この個展では、チョーサーの『カンタベリー物語』をテーマにした「チョーサーの巡礼」がメインになっていたが、訪れる人は稀で、絵は一枚も売れなかった。『エグザミナー』誌の批評はこうであった。「攻撃性がないので監禁を免れている不幸な狂人。」ブレイクは疎外感を感じはじめていた。「狂気」というレッテル、売れない作品、芸術家仲間からの疎遠、上流階級や中流階級の趣味に対する嫌悪、画一化や標準化といった機械化が進む時代の流れへの反感。

神曲「天国編」より 1824-27
『聖ペテロ、聖ヤコフ゛、聖ヨハネとダンテ、ベアトリーチェ』

貧困にあえぐ晩年のブレイクを支援したのは、若い画家のジョン・リネル(1792-1882)だった。作品を購入してくれそうな人物の斡旋から金銭的な援助まで惜しまなかったが、彼の最大の功績はブレイクに『ヨブ』の水彩画を版画にすることを提案し、資金を工面してくれたこと、そして、ダンテの『神曲』の連作を依頼したことだろう。ブレイクはそのためにイタリア語を学び原著を読んだという。70歳になろうとしていた。ダンテの『神曲』の挿絵は色彩の美しさと明るさで極めて印象的な作品となっている。まさに晩年を飾る傑作となったのである。そして、人生の最後の数ヶ月に聖書の彩飾本の制作を開始した。この頃、ターナー(1775-1851)は『青白い馬に乗った死』を描いていたし、スペインでは、フランシス・デ・ゴヤ(1746-1828)が陰鬱な黒い絵のシリーズを描いていた。

胆石のような症状や下痢、発熱、理由の分からない発作に襲われるようになり、次第に弱っていったが、永遠の想像力は共に在った。死に対する不安はあったが、あれほど酷い仕打ちを受けたこの世を去ることは幸せであったのだろう。最期は、息を漏らすように穏やかに息を引き取った。1827年のことである。70歳だった。その場に立ち会った人によれば、清らかな天使のような旅立ちであったという。

柳宗悦全集 第四巻 1981年刊
「ヰリアム・ブレーク」収録

日本にブレイクの本格的紹介を行ったのは柳宗悦である。柳宗悦らの民芸運動とラスキンやモリスの英国アーツ・アンド・クラフツ運動と比較する時、民芸に際立つのは心を無にすると言う宗教性にあると佐藤光(さとう ひかり)はいう(『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。ブレイクは、「自己滅却」というキーコンセプトのもと、キリスト教をイエスの「ゆるしの宗教」へと解釈し直し相互寛容の思想を打ち立てた。「対立なくして進歩なし」という対立の原理と「生きとし生ける者すべて神性である」という「肯定的世界観」は、バナード・リーチの来日と共に柳の思想に大きな影響を与え、それは民芸にも及んだと言うのである。この西回りの「肯定の思想」は、柳の中で大乗仏教という東回りの「肯定の思想」と合流した。少なくとも20代の柳にはそう思えたのである。ここで、柳が25歳頃、精魂込めて綴った『ヰリアム・ブレーク』からいささかご紹介して終わりたいと思っている。この『ヰリアム・ブレーク』は、彼の伝記・思想・芸術のかなり詳しい紹介からなっていて原文を含めたブレイクの文章の引用も極めて多い。心酔している様子がよく伝わる。

わずか4歳で神の姿を目の前に見てから(アクロイドの『ブレイク伝』では8歳頃、天使を見たのが最初とある)、再び神の声を耳にしてこの世を去るまで彼の70年の生涯は殆ど幻像(ヴィジョン)に充たされていた。彼にとって凡ては驚愕と奇蹟に充ちていて、啓示に襲われれば、その内にいつも永遠相を見出していたと柳は述べている。そして、ブレイクの手紙にあるこの言葉を引用した。「私は此の詩を精霊から直接の命令で書いた。しかも、どういうことを書くかという予期なしに12行または20行、30行を一時に書き下すこともあった。私の意志に反して書くことすらあった。従って書くために費やされた時間というものは存在していない。」そして、「‥‥幻像はこの世に存在しないと言う者があるならそれは謬見である。自分にとって、この世界は幻像と想像とからなる一個の連続体である。」彼の空間とはこのようなものであり、時間とは以下のようなものであった。「自分は過去、現在、未来が同時に自分の前に存在することを知っている。」「自分は上下六千年の間を歩いている、彼等の現象は凡て自分と共にある。」

『青年と老年のウィリアム・ブレイク 28歳と69歳の二重肖像』ジョージ・リッチモンド、フレディリック・テイサム 1826

そして、柳はこう述べた。凡ての芸術、凡ての宗教がその高調に達する時、彼等は自ずから預言の権威を帯びてくると。悪はひとつの状態でしかないという「救済」の宗教観、宗教は一つであり、その源は詩的創造力であるという内発性と芸術の優位、すべての人の内に神はあるという強烈なメッセージ、そして「自己を無にする」という東洋的ともいうべき姿勢に、柳はブレイクのテンペラメントの卓越性を感じ、六千年のヴィジョンを猟歩したその思想に帰依するほかなかったのである。

‥‥
深い真夜中の学びに励む時刻に
書くようにとこの手に神が命じた時
彼は私に語った 私の書くすべては 地上で
私が愛するすべてのものの禍となるであろうと
‥‥
ウィリアム・ブレイク
『手帳からの詩と断片』1800-1803頃
(梅津濟美/うめつ なるみ 訳)

 

その他の参考文献

佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』
佐藤光(さとう ひかり)は1969年生まれ。京都大学文学部で学び文学博士号を取得、その後ロンドン大学でも博士課程で学ばれている。東京大学で教鞭を執っておられるようだ。本書は柳宗悦とウィリアム・ブレイクとの関係を述べたものだが、ブレイクについてもかなり詳しい紹介があり、彼のことを知る上でも貴重な著書となっている。

ブレイク全著作 梅津濟美 訳
ブレイクの全著作が翻訳されている労作である。感謝の他はない。文章がいささか生硬なきらいはあるが、正確な訳に徹しておられるのだろう。そして、安価に、しかも、新品のような古書を送って下さった大学堂書店さんにもこの場をお借りして感謝したい。

 

『ウィリアム・ブレイク』part2 『四人のゾア』一滴の血の中の永遠

ウィリアム・ブレイク『アメリカ 一つの預言』
扉 1793

少年ブレイクが、ウエストミンスター寺院に通う途中にテムズ河の岸に見た奴隷船。やがて、アジア、アフリカの白人支配は終わりを告げ、アフリカ諸国民自身による国家が誕生するだろうと予測した。それは後年、彼の西欧文明の没落の宣言へと発展していくのである。そして、ロンドンの街の空に初めて気球が上がった時、人々の歓呼をよそに、殺戮兵器への転用とそれによる想像を超える惨禍の到来を予感した彼は、思わず身震いした。この直感は2世紀の後に広島・長崎の空に現実のものとなった(並河亮『ウィリアム・ブレイク』)。こうして、ブレイクの研究の相貌は、第二次大戦後、一変することになるのである。

ウィリアム・ブレイクの『ヴェイラあるいは四人のゾア』。詩としては、彼の作品中最も生気にあふれているとされる作品である。だが、10年もの歳月を費やしながら放棄された預言書あるいは神話であった。今回は土屋繁子(つちや しげこ)の著作『ヴィジョンのひずみ』を中心にブレイクの問題の預言書に迫りたいと思っている。この中で、著者はブレイクの作品が究極的な全体性をもって絶えず生成発展してきたと述べ、それぞれの作品がその時点での「全て」なのであると言う。この『ヴェイラあるいは四人のゾア』という作品の創作段階を追ってみると二つの意外性にぶつかるという。一つは、最初は人間が神となるとブレイクは考えていたが、最終的に神には合一せず、神は外在する存在となること。もう一つは、円環的ヴィジョンが直線的時間の相に変わってしまうことである。

土屋繁子『ヴィジョンのひずみ』
――ブレイクの『四人のゾア』――
表紙はブレイクのライフマスク

土屋繁子は、1935年生まれの英文学者。早稲田大学卒業後、東京大学大学院修士課程を修了し、京都大学大学院博士課程を単位修得された。関西大学、和洋女子大学などで教鞭を執られ、中央大学人文科学研究所客員研究員を務められた。

ブレイクは1793年、36歳の時『アメリカ ひとつの預言』を、翌年『ユアリズンの第一の書』と『ヨーロッパ ひとつの預言』、その翌年『ロスの歌』『ロスの書』に取りかかる。この『ロスの書』は、「アフリカ」と「アジア」の2部からなり、『アメリカ』と『ヨーロッパ』によって始められた「大陸神話」は、ここに完結することになった。この書では「四つの竪琴(大陸)」に歌いかける形式となっていて、主にユアリズンの誤った宗教の起源を扱っているといわれる。同年、『アヘイニアの書』次いで、39歳でこの『ヴェイラあるいは四人のゾア』に着手、この頃が制作の一つのピークとなった。1804年、47歳の時に『ミルトン』『エルサレム』に着手し、前者は1808年、後者は1820年に完成した。『ヴェイラあるいは四人のゾア』に10年近い歳月が費やされているなら、それは、『ミルトン』『エルサレム』とほぼ、同時並行して創作されていた時期があることになるのだ。この三つが「三大預言書」と呼ばれる。

『ヴェイラあるいは四人のゾア』という作品は、夢を扱った『ヴェイラ』稿が発展・拡大したために『四人のゾア』と改題された経緯をもっている。ゾアはギリシア語の動物を意味する言葉の複数形で、堕落した人間を意味すると思われる。主人公はヴェイラからアルビオンに変更された。ヴェイラは影であり変幻自在な「自然」に近い女性性の存在といわれる。ブレイク神話では、人祖アダムに匹敵する存在でありイギリスの古名を持つアルビオンから、その四つの心的能力である想像力、理性、感情/愛情、感覚に対応する男性性がアーソナ、ユアリズン(ユリゼン)、ルヴァ、サーマスとして分離される。この四人に対応する女性性としてエニサーモン、アヘイニア(アハニア)、ヴェイラ(ヴァラ)、イーニオン(エニオン)が分離された。アーソナとルヴァは再度分離し、堕落した世界ではそれぞれロスとオークと呼ばれる(図1参照)。分離は堕落を意味した。この分離については、次回「最終回」で、もう少し説明したいと思っている。

図1 アルビオンからの流出

ゾアたちの存在する空間も四段階に分かれていて、上からエデン、ビューラ、ジェネレーション、アルロと命名されている。堕落して分化したゾアたちの場は、もっぱら最低の場所アルロであった。死の世界・冥府の国であるアルロ、生存競争に明け暮れる生成する世界ジェネレーション、時間と空間が生まれゾアたちの分離が統合される場所ビューラ、そして楽園エデンである。

巨人アルビオンはイギリスの運命であり、人間一般の代表でもある。彼の分裂による自己喪失と再統合による回復が、この預言書のテーマであり、堕落と更生という型の上にブレイク神話は展開されると著者はいう。『ヴェイラあるいは四人のゾア』は、九夜に構成されていて、第一夜から六夜までがアルビオンの堕落と死の眠り、その堕落した世界の展望が語られる。第七、八夜で回復への努力が語られるが、最も錯綜するのが第七夜であり、2種類の原稿が書かれた。最終章はアポカリプス(黙示)と人間がキリストの血と肉とに形づくられていく過程が述べられている。

オークが火の中に立ちあがり、自分が海に沈むのを感じるユアリズン
『アメリカ一 つの預言』1793

アルビオンの眠りに際して後を託されたのがユアリズンなのだが、彼は堕落を英雄的なものと、そして、自分を神と誤解し、空虚な世界から「現世の殻」と呼ばれる物質世界をコンパスによって生みだし、支配しようとした。つまり、グノーシスで言う悪しき神デミウルゴスとなったのである。その名は、your reasonから来ているといわれる。そこは、理性が支配する心のあり方全体を示していた。ユアリズンが理性、冷徹、老年を表現していたのに対して、オークは「生まれたばかりの火」であり、怒りとエネルギー、若さと情熱を表わしていた。管理的な理性であるユアリズンとオークの前身である感情/欲望であるルヴァとの対立とも言える。これにより合理主義一辺倒の近代社会が批判されることになる。

オークは、ロスとその分身エニサーモンの子として、ルヴァから再度分離されたが、母への愛欲をその眼に見たロスは彼を山上の「神秘の木」に縛りつける。このオークの姿は、キリストないしプロメテウスを連想させる。そして、この『ヴェイラあるいは四人のゾア』ではロスもユアリズンの敵対者となって、大きな役割を担うことになる。以前の預言書『ロスの歌』において革命のエネルギーを担っていたオークが、今度は脇役にまわる。ここにフランス革命の失敗を見る批評家もいるという。こうして、想像力がエネルギーに取って代わるのである。「神秘の木」に縛り付けられたオークは、一旦は自由になるが、蛇となってその木に巻きついたまま死ぬ。ロスは哀しみ、エニサーモンは地上に倒れた。

この預言書では、ロスは鍛冶屋のイメージと重ねられていて、ロスの炉は産業革命の克服の場、煉獄の象徴となっている。彼の本性は、想像力であり外界を克服するための重要な力となる。ここにブレイクのロマン主義的な傾向をみるのだが、初期ロマン派のノヴァーリス(1772-1801)が聴覚的な人であったのに対してブレイクが徹底して眼の人であったことは、指摘しておきたい。このロスの存在意義も役割も膨張してゆき、それに相対するユアリズンにも変更が加えられる必要が生じた。そのため、この『四人のゾア』は放棄されたのではないかと著者は述べる。

エニサーモンの前でうずくまるロス 1794
『ユアリズンの第一の書』 2017 筆者撮影

人間の魂には無心と経験という二つの状態があるとブレイクは考えていた。これを歌ったものが『無心の歌』と『経験の歌』なのである。無心から経験へ、経験の状態から如何に再び無心の状態に戻るか。これが可能になれば、この二極の間で円環運動が形成される。それを可能にするは、「眼は心が知る以上のものを見る」という彼の人並み以上に見通すことのできる力、彼の能力だったと著者は言う。そして、ブレイクにとってヴィジョンこそが最初にあった。現実をヴィジョンが補ったのではなく、ヴィジョンを現実が補ったというのである。幼くして見始めたこれらのヴィジョンをそれが見えない人々にいかに伝えるかという使命が以後のブレイクを支えるのだという。

しかし、ヴィジョンは絵に、あるいは詩に形づくられなければならない。そこには、翻訳に似た作業が科せられる。創造とは聖なる作業であると同時にまがい物しか生み出せない堕落ともなるのである。ここにも二極化がある。だが、このような対立が進歩を生み出すと考える所にブレイクの弁証法的なダイナミズムがあった。彼は『天国と地獄の結婚』で、そのプロパガンダを行ったのである。「対立なくしては進歩はあり得ない。陽と陰、理と力、愛と憎しみとが人間の存在に必要である(土居光知 訳)」と。ちなみに、ユングが主宰した、スイス・アスコナにおけるエラノス会議のテーマの一つが錬金術などにみられる「対極の一致」であったことはよく知られている。

同書における「悪魔の言葉」にはこうある。

すべての聖書及び聖典は次の謬見の源となった。
1.人間は二つの真実な存在の基本をもつ、その一つは肉、他は霊。
2.力は悪で肉体から生じ、理性は善で霊からのみ生じる。
3.この力に従うと神はいつまでも人間に苦悩を課する。
しかし、これに対立する次の見方も真実である。
(1)人間は霊から分離した肉体を持たぬ、肉体とは五官によって認められる霊の部分であって、現代における霊の主要な門口である。
(2)力のみが生命であり、肉体から生ずる。理性は力の限界、あるいは埒である。
(3)力はとこしえの歓びである。
(土居光知 訳)

これがT.S.エリオットに顔をしかめさせた(part1参照)ブレイクの哲学である。このような二極は高次へと統合され、対立物の一致へと高められることが望まれる。だが、一方の極に謳われた内容は、他方の常識的な教会道徳からすれば、あまりに非常識なものであった。例えば、性などに現われる力(エネルギー)を賛美するものと映ったことは間違いないだろう。ブレイクは、よくアンチノミアン(道徳律廃棄論者)たちに結び付けられる。極めて晦渋なストーリー展開を見せる預言書の内容とあいまって、このようなプロパガンダが彼に狂人というレッテルを貼ることになるのは想像に難くない。しかし、こういった教会に「対立する見解」が、カバラやグノーシス、ベーメやパラケルスス、新プラトン主義、ゾロアスター教などの文献に既に存在していたことも確かなのである。

バビロンの淫婦/レイハブ
『ヨハネの黙示録』1809

預言書に戻ろう。この『ヴェイラあるいは四人のゾア』、第八夜では、キリストがルヴァの長い衣まとっているのを見たユアリズンは当惑し恐れる。それは、新たにルヴァに戻ったオークだった。感情・愛の性質であるルヴァにキリストのイメージは重ねられている。一方、ユアリズンに恨みをいだくヴェイラは形のない雲となってユアリズンの神秘の木にひろがり、神秘の木の実を集めてルヴァに与えた。彼は、怒れる蛇となってユアリズンの星座に侵入する。それを見たユアリズンの合図によって戦いのラッパが鳴り、戦争が始った。ここに戦争と宗教の主であり両性を具有するサタンが誕生する。キリストは、悲しみを担い、傷を受けてルヴァの十二の部分を通って下降した。ここで、ヴェイラは感情・愛の性質であるルヴァのネガティブなイメージとして対極に置かれることになる。ヴェイラのイメージに重ねられた地上の圧政の象徴である大淫婦レイハブ(ラハブ)が、キリストを「神秘の木」に釘で打ちつける。キリストの亡骸はロスが墓に納めた。レイハブがユアリズンのもとを訪れると、彼は鱗のある動物であるドラゴンの姿をとるのである。

「大きな赤い龍と太陽を着た女」
『革命のための挿絵』1805

最終夜、第九夜では、キリストの亡骸のもとでロスとエニサーモンがついに聖地エルサレムを建設する。傍に復活したキリストが立っていることに彼らは気がつかない。ロスは右手で太陽を、左手で月を引き下して天を砕くと、永遠界の火が巨大な音をたてて落下し、ラッパが鳴った。最後の審判が始るのである。レイハブは焔の中で燃え、ユアリズンの体は解体しはじめ、ルヴァ(オーク)の蛇の身体も燃え始める。南の岩の上で横たわっていたアルビオンは目覚め、龍となったユアリズンに呼びかける。二度目の声に対してユアリズンは泣きながら「未来を捨てよう、未来はこの瞬間にある」と語った。未来への畏れから解放された彼は、喜びの内に輝く若者となって天に昇って行く。これは予備的なアポカリプス(黙示)にすぎないと著者は言う。

真のアポカリプスはユアリズンが耕し、人間の種子を撒くことから始まる。ルヴァの炎によって生成世界が回復し、想像力の春がやって来ると種は芽を出した。死んでいたアヘイニアは甦り、ルヴァとヴェイラは再びビューラに生まれ、イーニオンとサーマスは子供に戻る。ゾアたちの再生がアルビオンの再生をもよおすが、ロスは非物質的な焔で身を焼き尽くす。ゾアたちが、実った葡萄と麦としての人間を刈り取り、パンと葡萄酒とするために葡萄を圧搾し穀物の粉を挽いてその形を壊す。この苦痛が真のアポカリプスである。「ヨハネの黙示録」の第14章をなぞっているのだ。それは、普遍的人間の肉と血に作りかえる作業であった。それは、キリストの血と肉への変容に他ならない。人間はキリストの一部となって救済されるのである。ブレイクは、1820年の『ラオコーン』で、ついに「キリストは神である」と述べた。

『ダンテ 神曲のための連作』1826-27  2017 筆者撮影
「愛欲者の圏 : フランチェスカ・リミリ」

この『四人のゾア』以降、ブレイクにとってその最高の存在となるのがキリストだった。このキリストがヴィジョンに登場した時、皮肉にも、それまでの神話の骨組みだった円環的時間は、キリスト教特有の直線的時間の相を呈しはじめる。だが、この円環と直線の両極も後に統合されていくのである。渦という形態によって。ここに渦の重要な意味がある。

『天国と地獄の結婚』は1790年から1793年にかけて書かれた。革命戦争とも呼ばれたアメリカ独立戦争は1783年にアメリカ側の勝利で終わり、1789年にはフランス革命が起こっていた。1792年にはイギリスもフランスとの戦争に突入する。その頃は、革命へのエネルギー賛歌に傾いていたことは、『アメリカひとつの預言』や『ロスの書』に見られるとおりである。1790年にはスウェーデンボルグの影響から脱し、パラケルスス(1493-1541)やヤコブ・ベーメ(1575-1624)といった思想家へとブレイクは接近している。スウェーデンボルグの「死後の生命」に関する予定説を救いがないとして反感を持ったようだ。カバラやグノーシス・錬金術などとの関係も指摘されている。特にカバラとブレイク神話との類似は大きいと言われるが、今回、やはりカバラに大きな影響を受けたベーメの思想でまとめさせていただきたい。ベーメは「ありとしあるもののうちの在るものは、唯一の本体であって、出産によってはじめて二つのプリンキピア(原理)、すなわち光と闇、よろこびと苦しみ、悪と善、愛と怒り、火と光に分かれる。そして、この二つの永遠のはじまりから、さらに第三のはじまり、すなわち創造界へと分かれ、そこに、両者の永遠の欲の性質に応じた独自の愛のたわむれが生じる(『シグナトゥーラ・レールム』南原実 訳)」と書いた。ベーメにとって創造界が始まる前に既に善と共に悪は原理に組み込まれていた。これがベーメ思想の最大の特徴のである。

ヤーコブ・ベーメ「二つのプリンキピウム」『シグナトゥーラ・レールム』より

英訳されたベーメの著作には「汝がアブラナの種の一粒と同じくらい、小さな、ごく小さな円を想像するなら神の御心はまったく完全にその中にある。そして、汝が、神の中に生まれるのなら、汝の中に(汝の生命の円の中に)分裂していない神のすべての心があるのだ」という言葉が在ることをピーター・アクロイドは『ブレイク伝』で指摘している。この言葉はブレイクの「一粒の砂に世界をみ、一輪の野の花に天上界をみる」という言葉につうじる。この頃、彼は精緻を極めた神秘的、存在論体系を作っていたという。

ウィリアム・ブレイク(1757-1827)
ジョン・リネル画 1820

ブレイクは、晩年には、評価していたホメロスの詩を「聖書から盗み、かつこれを逆用した異教の詩である」と批判し、ヴェルギリウスらを含めて「ギリシアとローマは、バビロンとエジプトのようにあらゆる芸術の破壊者であった。‥‥好戦的な国家はけっして芸術を創りえない」と述べている。しかし、オウィディウスの『変身物語』やアプレイウス『黄金の驢馬』には、真の幻想があると評価した。神話もギリシア・ローマの古典神話よりドルイドや北欧神話を好んだ。古北欧語で書かれた古エッダでは巨人イミルの眠りの中で地球は彼の肉から作られ、天は頭蓋骨、海は彼の血から、雲は脳髄から生まれたという。それは、ちょうどブレイク神話において人祖アダム・カドモンたるアルビオンのなかに全てが存在していたかのようである。

ウィリアム・バトラー・イエイツと同じアイルランド出身の小説家ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)もまたブレイクについて書いている。『英文学におけるリアリズムとアイデアリズム』と題された評論で、『ロビンソン・クルーソー』で知られるダニエル・デフォーとこのブレイクを取り上げた。いくらか欠損のある原稿なのだけれど、ブレイクの生涯の中のメルクマールを取り上げた後、終盤でこのように述べている。「空間と時間を無に帰し、記憶と感覚の存在を否定し、神の胸という虚空に自らの作品を浮かび上がらせることを欲した。彼の一回の鼓動よりも短い一瞬一瞬が、その周期と持続においては六千年に相当した。なぜなら、この限りなく短いこの一瞬に、詩人の作品は受胎し出生したからである。彼にとって、人間の血の赤い一滴よりも大きな空間のひとつひとつが、幻想であり、ロスの鉄槌によって作り出されたものであった。いっぽう、われわれは、血の一滴よりも小さい空間のひとつひとつにおいて、永遠へと入って行く(吉川信 訳)。」

『ジェイムズ・ジョイス全評論』
「英文学におけるリアリズムとアイデアリズム」収載

この美文は、ブレイクの預言書ないし神話について語っている。ロスは前に見ていただいたように「想像力」の顕現であった。ブレイクは、その想像力の源をよく「詩霊」と呼んだ。poetic genius という言葉は詩の守護精霊というより、人間・自然・社会などの万象に内在する神的な力(エネルギー)と捉えた方がよいと言う人もいる(吉村正和『ブレイク詩集解説』)。時間と空間を一滴の血に圧縮し、永遠へと解き放つものは詩霊なのであった。

ジョイスは続けてこう述べる。「偽ディオニシウス・アレオパギダは、‥‥神の暗黒を前にして――永遠の秩序における至高の叡知と至高の愛を予示し包含する言葉に尽くせぬ広漠を前にして――恍惚となり地に伏す。ブレイクが無限の戸口に到達した精神の過程もこれと同様の過程である。彼の魂は無限小のものから無限大のものへと、血の一滴から星々の世界へと飛翔し、その飛翔の速度に自ら消尽し、神の暗い海の果てで、刷新され翼を具え不滅となっている己が姿を発見する。‥‥」解説する必要はないだろう。ここにT.S.エリオットとの温度差(part1参照)を感じることができる。ちなみに、カナダの文芸評論家ノースロップ・フライ(1912-1991)は、ブレイクの預言書にジョイスの『ユリシーズ』の源流をみていたという(並河亮『ウィリアム・ブレイク』)。

次回、『ウィリアム・ブレイク』最終回は、1980年代にポストモダン的批評がどのようにブレイクの現代性を捉えたのか、そして、民芸の柳宗悦の熱いブレイクへの眼差しをご紹介する予定です。

 

その他の参考文献

ピーター・アクロイド『ブレイク伝』
池田雅之 監訳 蜂巣泉 他訳

ピーター・アクロイドは1949年ロンドン生まれ。ケンブリッジ大学、クレア・カレッジで学んだ後、イェール大学客員研究員を経て、雑誌『スペクティター』『ザ・タイムズ』紙の書評主幹などをつとめた人である。伝記『T.S.エリオット』小説『オスカー・ワイルドの遺言』『原初の光』などの著作がある。

ブレイクのまとまった自伝で、大部の本である。ブレイクのヴィジョンについて、比較的消極的なので、もの足りない感はあるけれど、ブレイクの細かな事跡を追うには格好の著書ではないだろうか。

 

『ウィリアム・ブレイク』part1 特殊な誠実とブリコラージュの哲学

テート・ブリテン内部 2017 筆者撮影

ロンドンに行って、見てみたかったもの。第一に大英博物館。あの大英博物館では、アフリカ美術に驚喜し、ケルト美術をうっとり眺め、エジプト美術のスケールに感嘆し、エルギン・マーブルと名付けられたギリシア彫刻コレクションに頬ずりしそうになり、アッシリアの精悍に唸った。ああ、一日では足りない。第二は、ここテート・ブリテンである。このテートでは、フランシス・ベーコンにのけぞり、若いころ結構浸っていたターナーを再認識し、色々研究もしたムーアを懐かしく思いだす。だが、忘れてならないもの、それがウィリアム・ブレイクのコレクションである。建物の確か2階の奥まった所に階段があって、そこを上がると照明を落とした比較的小さな部屋がある。テートの広いフロアに比べれば隠し部屋かしらと思うような場所である。

僕がブレイクを初めて目にしたのは、かれこれ30年も前のことだが、昨日のことのように思いだされる。東京は国立西洋美術館の特別展だった。圧倒的なイメージの洪水とファンタスティックな人物たち。しかし、詩や文章は何だろうか‥‥よく分からない。これは神話らしいが、‥‥何の神話なんだろう。つまり、感動と疑問にサンドイッチにされて、困惑したのものが、未だに消化されずに胸の真ん中にぶら下がったままになっていた。そういえば、その時のこんなカタログが我が家に色褪せずに残っていた。今にして見ても立派なカタログである。今回は、この胸につかえたブレイクを腑に落とすべくあれこれの著作を集約してお送りしたいと思っている。

『ウィリアム・ブレイク展カタログ』1990 
国立西洋美術館 編集 雪山行二 喜多崎親 高橋明也

野の花の歌

森をさまよっていたとき
緑の葉陰で
野の花の
歌う声がした

「私は大地の中で
静かな夜を眠り
畏れをつぶやき
喜びを覚えた

「あしたに私は出かけた
朝のごときバラの面ざしで
新しい喜びを求めて
ただ嘲りに会ったのだ」
(「ロセッティ稿本」小川二郎 訳

「ロセッティ稿本」は、ラファエル前派で知られるダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが入手した、詩や絵が書き込まれたブレイクのノートブックである。ロセッティはこのノートの詩などをもとにブレイクの初期の詩について多くの解説文を書いている。彼の芸術・詩の特色を色彩と韻律に見ていたという。当時、ブレイクは一部には知られていても、その奇矯な預言書によってほとんど狂人扱いされていた。しかし、このロセッティやアルジャーノン・スウィンバーンらラファエル前派の作家たちの働きによって評価されはじめることになるのである。

日本で初めてブレイクの翻訳が紹介されたのは、1894年、大和田建樹訳による『反響の野』であったと言われる。ラフカディオ・ハーンは、1899年に東京帝国大学において「十八世紀奇人伝」と題した講義でブレイクを取りあげた。他にジョナサン・スウィフト、クリストファー・スマート、ウィリアム・クーパーらが含まれていた。その数年後の講義「ブレイク――英国最初の神秘主義者」の中で、ハーンはブレイクの詩風はホイットマンに似ているが、彼よりはるかに上質だと高く評価した。コールリッジは、ブレイクの神秘主義的幻想に影響を受けており、その波はブルワー・リットンを経てエドガー・アラン・ポーにまで及んだという。子どものような言葉でこのような深い意味を表わした詩人は他にいないし、禅僧がそうであるように答えを与えることなく問いを示す所にブレイクの特徴があるとハーンは述べた(佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。なるほどハーンらしい批評だと思う。この後、柳宗悦が雑誌「白樺」などでブレイクの本格的な紹介を開始することになるのである。

ウィリアム・ブレイク『ブレイク詩集』
無心の歌、経験の歌、天国と地獄の結婚 収載

これらの評価は『詩的素描』や『無垢と経験の歌』などの比較的初期の詩に対するものであったことは憶えておいてほしい。ここではあの「預言書」は等閑視されているのである。ブレイクが亡くなって36年後の1863年に、アレクサンダー・ギルクリストの『ブレイク伝』がロセッティの主宰する「前ラファエル兄弟会」の援助で刊行され、ブレイク研究の嚆矢となった。その5年後にスウィンバーンの『ウィリアム・ブレイク評論』が、その後にロセッティの弟ウィリアムの編集した『ブレイク詩集』が発表され、イギリスの文学史にブレイクの名が浸透し始める。美術家としてのブレイクの名も1876年に大規模な展覧会がバーリントン美術クラブで開催されるに及んで高まり始めていた。

このような状況の中で衝撃的な『ブレイク作品集』が1893年に刊行された。ブレイクの問題の「預言書」のリトグラフが添えられた全文が刊行されたのである。そこには、エドウィン・ジョン・エリスの回想文とウィリアム・バトラー・イエイツによる解説文が掲載されていた。イエイツは15歳の時から父にブレイクの抒情詩読んで聞かされて育った。父の友人であるエリスからブレイクの預言書『エルサレム』に登場するイギリスの地名について問いかけられると、それは魔法の箱の蝶番の名だと答え、エリスを驚かせ、二人は意気投合したという。やがて、彼はブレイクのシンボル体系の独創的で情熱あふれる論文をまとめ、エリスはブレイク夫妻の伝記を書いた。それが全三巻の膨大な『ブレイク作品集』となったのである。

イエイツはブレイク作品を説明するための秘密の体系があることを確信していたし、彼の作品にはブレイクからの借用と思われる象徴も多いと言う(並河亮/なみかわ りょう『ウィリアム・ブレイク』)。しかし、アイルランド系であるイエイツが、ブレイクもアイルランド系で、彼の思想・芸術にケルトの影響があると考えたのは、全くの勇み足であった。彼のブレイク賛歌にこのような言葉がある。「老人の熱狂をわれに与えよ。俺自身を創り直そう。‥‥真理が彼の呼び出しに応ずるまで壁を叩き続けたウィリアム・ブレイクに変身するように(並河亮 訳)。」

ウィリアム・ブレイク』 (1757-1827)
1807 トマス・フィリップ画

イエイツの思いとは裏腹にブレイクは、1757年、イギリス人の両親のもと冬のロンドンのソーホーにあった靴下店の二階で生まれた。スウェーデンボルグが霊的世界で最後の審判が下されたとした年である。7人兄弟の3番目だった。ブレイクが生まれた頃、彼の住んでいたブロード・ストリートは、彫版師や大工、ハープシコード製作者たちのような中産階級の人びとの住む街だった。当時、ソーホーの近くには、小劇場や音楽会の行われる場所があり、カーライル・ハウスではヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)が指揮をしていた。『ブレイク伝』の著者ピーター・アクロイドによれば、両親は靴下を商う非国教徒の小商人で、政治的には急進的な党派を支持していたという。それゆえブレイク少年は「宮廷」と「古き腐敗」に敵対する家庭で育ったと考えられる。言うなれば、生まれながらに反国教会的、反体制的立場に立っていたということである。

8歳か10歳の頃、少年は「初めてのヴィジョン」を見た。空を見上げると一本の樹に天使が群がっていた。帰宅してそのことを話すと実直な父は嘘をついたとして殴ろうとしたが、母親のとりなしで難を逃れた。しかし、「自分の霊感を信じたい気持ちを明らかにすると父親にきびしくとがめられた」という。愛されることなく、期待もされない状況の中で彼は孤立を感じ始めるとアクロイドは言う。ブレイクの後年の手紙にエドガー・アラン・ポーの詩を思いださせるこんな言葉がある。

ああ なぜ 私は異形の顔に生まれたのだろう。
なぜ 他の人のように 生まれなかったのだろう。
(トマス・バッツ宛ての手紙/蜂巣泉 他訳)

図1 左 ミケランジェロ『聖ペテロの磔刑』1545-49
右 ブレイク『アルビオンの岩の間のアリマタヤのヨセフ』1773頃

ブレイクがあまりにも束縛とか規則を嫌ったので父親は彼に学校教育を受けさせず、父親が出来うる限りの教育を行ったと知人は証言している。芸術的素質は母親によって育まれたともいう。10歳の時、両親は絵画・彫刻アカデミーに入学するための予備校と考えられていた素描学校にブレイク少年を入学させた。少年は「ロンドンの店員の抜け目なさ」に欠け、「間抜けだと言う理由でカウンターから遠い所に追いやられていた」らしい。ラファエㇽロやミケランジェロ、デューラー、ジュリオ・ロマーノらの盛期ルネサンスや北方派の画家たちに興味を持ったが、彼の若い仲間たちからは時代遅れと侮蔑されていたらしい。図1を見ていただこう。ミケランジェロの影響は否めない。次にご紹介する年季奉公時代の初期の作品である。後には、どちらかというと狭い意味でのマニエリスムに近づくようにも思える。この頃、既にスペンサーやミルトンを読み始めていた。

王立美術学校の付属校には進学せずジェイムズ・バザイアの下で彫版師として7年間、版画家の修行をすることになった。1772年、15歳だった。絵画の師につくための謝礼は高価すぎたし、当時、彫版師は有望な職業と考えられていたからである。バザイアは「思いやりのある名匠」であったと言われる。メゾチントなどの流行の技法は追わず、正しい輪郭線や形態の正確なスケッチを心がけていた。デューラーやラファエㇽロに憧れたブレイクの心に叶う師であった。先の図に述べたアリマタヤのヨセフは、キリストの遺骸をピラトから貰い受けた人として知られるが、聖杯伝説とも結び付けられていて、十字架の下でイエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡ったともされ、アーサー王伝説とも関係していた。ウェストミンスター寺院の創始者ともいわれる。ブレイクは、バザイアから彫版の仕事のためのスケッチを頼まれ、このゴシック寺院に通った。そして、魅せられたのである。ここにブレイクのゴシック美術とイギリスという国の歴史にたいする飽くなき興味の端緒が開かれる。

図2 中世の宗教彫刻 ウィーン美術史美術館 2017 筆者撮影

ブレイクの絵画作品にはよく天使やそれに類する存在たちが登場する。その飛翔する者たちのイメージはこのウェストミンスター寺院をはじめとする中世ゴシック美術からもたらされたことは、僕には疑うことができない(図2)。ラファエル以前の芸術といってもよいだろう。勿論、天使ばかりではない。悪魔やそれに類する存在達もいる。この図3、『サタンの墜落』は下にヨブとその家族、中心にサタンたちの墜落、上部に神を中心として左右に天使が配されている。このようなイメージはブレイクの作品には非常に多い。

図3 ウィリアム・ブレイク
『サタンの墜落』1805-06

1779年、22歳の時にバザイアの下での年季奉公を終え、彫版の仕事を開始する。併行してロイヤル・アカデミー付属の美術学校で学べることとなった。しかし、線の芸術を愛するブレイクは、形を陰翳に溶けこませるルーベンスやレンブラントらを評価する管長のモーザーと対立してしまう。権威に対する反抗と激しやすい性格は終生変わらなかった。だんだん美術学校へは足が遠ざかるが、後年まで定期的に作品は提出・発表していたようだ。徒弟時代にシェークスピアやオシアンの『セルマの歌』などに触れていたブレイクは、この頃、アグリッパの『オカルト哲学』、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの建築術の規則などを知るようになる。

24歳の時、薄情な女性へのみじめな求愛から立ち直りかけていた彼は、バターシーにいた父方の親戚の所でキャサリン・バウチャと出会った。文学史上に残る出会いの一つと言われている。ブレイクが部屋に入った時、キャサリンはすぐに将来の夫になる人だとさとり、気を失いかけ、彼がいることに気付いたのは正気に戻ってからだった。若いころはよく諍いもしたようだが、彼女は彼を信じて疑わず、かばい、慰め、そばに大人しく坐り、時には作業を手伝い、彼が仕事をしている間、その集中した意識を乱さないようにしていられる掛け替えのない伴侶となった。

ピーター・アクロイド『ブレイク伝』
池田雅之 監訳 蜂巣泉 他訳

1784年に父が亡くなり、家業は長兄のジェームズが引き継いだ。ブレイクは木製印刷機を買い、ジェイムズ・パーカーと印刷業を始めた。この頃、古ドルイド教団のビヤホールでの気楽な集まりが住まいの近くで開催されるようになる。この古代ブリトン人のドルイド教の集団へフリーメイソン、カバラの学生、政治的急進派たちが接近するようになり、一種の宗教的、歴史的な覚醒が起こるとアクロイドは言う。

ブレイクが愛した10歳年下の末の弟ロバートは、兄と同じように王立美術学院の付属校で学び、実家の隣の印刷屋を手伝っていた。肺病に罹り死の床にいた弟をブレイクは、およそ一人で看病し、最後はほとんど眠らずに付き添ったと言う。1787年、ブレイクが30歳の時のことだった。その時、彼は弟の死に際して決定的なヴィジョンを見た。最後の厳粛な瞬間、弟の解き放たれた魂は、「喜びに手をたたきながら」実際の天上をとおり抜けて昇天していったという。身体から死者の霊魂は脱して霊界で肉体としての姿を再び獲得するとしたスウェーデンボルグの著書に触れ、2年後に妻と共にスウェーデンボルグ教会の総会に参加した。「精霊たちを相手に長年暮らすことが、私の定めであった」というまさに自分と同じ体験をしてきた人に傾倒していったのである。この頃『無垢の歌』、その翌年『経験の歌』が出版されている。そこには、黒人の小さな子供たちや煙突掃除の幼い子供たちを歌った詩が掲載されていた。

えんとつそうじ(『無心の歌』より)

母さんが死んだ時私はまだ幼かったが、
父さんが私を売ってしまった 私の舌がまだ、
煤(すす)そうじ煤そうじとさけぶこともできぬのに。
だから煤はらいになり煤にまみれて眠るのが私のうん。
‥‥(土居光知 訳)

えんとつそうじ(『経験の歌』より)

‥‥
それでも 元気で 踊ったり うたったりするので、
ひどいめにあわせているとは誰も思わず、
私達(あたいたち)のみじめさから天国をつくる
神様 坊様 王様をあがめにゆくのさ。
(土居光知 訳)

当時、煙突そうじの子供たちは、およそ4歳から7歳くらいの間に売られた。平均18センチ四方に満たない通風孔を登らなければならなかった。窒息して死ぬものやススによるガンや体の変形に苦しむものも多く、社会的には乞食・浮浪者と同等の扱いだったという。この「えんとつそうじ」の歌は『無心の歌』と『経験の歌』に対に書かれていて、前者では、子どもたちの心の無垢が、それも自らにとって破壊的な無知の無垢が描かれている。後者では組織的に虐げられた彼らの境遇が、死すべき肉体から逃れることのできない人間の境遇とに重ねあわされているとアクロイドは述べている。彼は、常に虐げられている人々の救済を願わずにはいられなかった人だったし、政治や宗教にもそれを求めた。

T.S.エリオット『エリオット全集 第4巻』
「ウィリアム・ブレイク」収載

T.S.エリオットはブレイクについて、彼の作品にみられるある特殊性に関してこう述べた。ホメロス、アイスキュロス、ダンテ、ヴィヨンの詩に散見され、シェークスピアでは深く隠されているのは、ある特殊な誠実である。誠実であることに勇気のない私たちには、それが何か恐ろしいものに感じられる。或る時代、あるいは、或る傾向が不健全であることを示している凡て病的なもの、異常なもの、偏ったものにはこの性格がない。それが存在するは、対象を集約するためのある非常な努力によって、人間の魂の本質的な疾患ないし力を表現することに成功している場合だけであるという。そして、誠実であることを邪魔するものがなかったとしても、裸な人間がさらされる危険があったともいうのである。

‥‥
併しそれよりも私は真夜中の街で、
若い娼婦の呪いの叫びが
生まれたばかりの子供の涙を涸らせ、
結婚の不幸を救い難いものにするのを聞く。
(『経験の歌』ロンドンより)

これが裸のままの見識で、

‥‥
愛は自分の満足だけを求め、
相手を自分の喜びで縛ろうとして、
他のものが苦しむのをいいことに思い、
天国に逆らって地獄を作る。
(『経験の歌』土くれと小石より)

これが裸のままの観察であるという。しかし、裸のままの哲学と詩との結婚、つまり『天国と地獄の結婚』は上手くは、いかなかったとエリオットは言う。ブレイクは芸術家に許されている以上に自分の哲学を重視し、それが彼を変わり者にし、作品の形式にそれ程注意を払わないものにさせたというのである。彼の哲学は、器用な人間が、家の中のありあわせの材料で拵えた家具か何かを見たときのような尊敬の念をいだかせはする。だが、彼にはダンテのように神話、神学、哲学の枠が与えられていなかった。それがあれば、より詩に専心できただろうと。それで自分で作らなければならなかった。『天国と地獄の結婚』は、そうした哲学から生まれたのだと。はたして、そうであろうか。

ブレイクの思想が、アグリッパやスウェーデンボルグらの神秘主義、ドルイド、カバラ、フリーメイソン、それに加えてヤコブ・ベーメやパラケルススらの思想から構成されいるのは、良く知られている。なるほどブリコラージュであったかもしれない。だが、問題はそれらを貫く糸はブレイクにとって何であったのかということではないだろうか。それを理解することなくブレイクの神話・預言書を概観することは不可能なのではないだろうか。次回part2はブレイクの未完の作品である『四人のゾア』を中心に、この糸を手繰ってみたいと思っている。

 

その他の参考文献

並河亮『ウィリアム・ブレイク』

並河亮(なみかわ りょう)は、1905年生まれ。東京大学法学部卒業後、NHKに入社。日本大学芸術学部、玉川大学などで教鞭を執られ、ユネスコ・アジア文化センター評議員を務められた。文学博士であられる。著書に『ペルセポリス』『シルクロードをゆく仏』『地中海歴史の旅』、訳書にドス・パソス『U.S.A』ロバート・ペン・ウォレン『天使の群れ』などがある。この『ウィリアム・ブレイク』は、ブレイクの生涯、作品、思想などの広範な内容がバランスよくまとめられている。ブレイクについて一冊読むなら、この本をお薦めしたい。

『薔薇物語』 バラと呼ばれる女性を巡る物語

ギョーム・ド・ロリス、ジャン・ド・マン
『薔薇物語』 篠田勝英訳

年齢をかぞえて二十歳(はたち)の年、
恋愛神が若者たちから通行税を
徴収する年齢だが、ある晩わたしは
寝にいった、いつものように、
そうしてなにしろグッスリ眠りこんで、
眠りながら、夢を見た‥‥
(堀越孝一訳)

のび太君は気がいいけれど優柔不断な少年を、しずかちゃんは才気煥発でチャーミングな少女を、同じようにムーミンとスノークお嬢さんにもそんなトロールな性格が与えられています。人形劇もそうだと思うけれどアニメにはキャラクターと言うものがちゃんと設定されている。実は、この問題はシンボル(象徴)やアレゴリー(寓意)や擬人化という問題と深く関わっています。アレゴリーは抽象的な概念や思想を具体的な形で暗示する手法です。中世では、宗教や道徳的善悪と結びつけられた概念がよくアレゴリー化された。つまり、優柔不断をのび太君という姿で、才気煥発をしずかちゃんという具体的なフィギュア(表象)で表現する。この時、人は様々な感情の動きをそれらの具体的なキャラクターや人形に託して物語を追体験することになります。それも、追体験だけではない。自分の理想も欲望も孤独も喜怒哀楽もそのモデルに投影さえしてしまいます。これは、けっして中世においてのみのことではありませんよね。

「だからもし誰かにわたしの取りかかる物語の名を尋ねられたら、『薔薇物語』と答えよう。そこには『愛の技法』がすっかり収められている。素材は優れ、かつ、新しい。わたしはある女性のためにこの物語を企てた。‥‥多くの美質に恵まれ、まことに愛されるのに値する人なのだから、『薔薇』と呼ばれるのにふさわしい女性なのだ。(篠田勝英訳)」こうして薔薇物語が書かれました。この物語は夢が歌い上げられているのです。各詩行が八音節からなり、aa、bbと二行ずつ韻を踏む、中世の詩としては標準的な八音綴平韻の形式で13世紀に書かれた傑作です。八音綴りを生かせば冒頭の堀越孝一訳のようになりますが、本書では普通の散文訳になっている。中世最大のロマンス(物語)と言われた。日本にあって源氏物語がそうであったように、字の読める者なら誰もが一度は読むべき書であり、当然ながら、多くの詩や物語に本歌取りされました。

本書を翻訳した篠田 勝英(しのだ かつひで)は、1948年生まれのフランス文学者。東京大学文学部仏文科に学び同大学院博士課程単位取得満期退学。白百合女子大学教授であられる。『中世の結婚』の翻訳で渋沢クローデル賞受賞。この『薔薇物語』の翻訳で読売文学賞、『慈しみの女神たち』で日本翻訳出版文化賞を受賞されている。

ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)
『中世の秋』

ヨハン・ホイジンガの『中世の秋』、なんとすばらしい本なんでしょうね。そこには中世後期のヨーロッパの生活文化の特性がどのように変化していったかが述べられているのです。表象の形態学とも呼べる人間の感性的経験の変遷が語られます。12世紀「中世の春」に、プロヴァンスの吟遊詩人たちが、はじめて満たされぬ恋の思いを歌の調べにのせた。このトルバドゥールたちのヴィオールの音は、いやましに高まって、生(き)の女性との愛の中に倫理的な内容をふんだんに盛り込んだ愛欲の思考形式が創造されたというのです。官能の愛が報われることを期待しない、気高い女性奉仕の歌が生まれる。だが、ついにダンテの清新詩体『新生』を以って浄化された熱情に永遠の調和が見出されるとホイジンガは述べています。フランスでは『薔薇物語』が宮廷好みの愛の作法に新たな内容を注ぎ込んだ。この作品は、実に2世紀もの間、貴族たちの恋愛作法を完全に支配したばかりか、およそ考えうるかぎり、ありとあらゆる分野に触れ、まさに百科全書を想わせる題材の豊かさによって、読み書きのできる一般の俗人に対し、知識の宝庫を提供し、生き生きとした精神の糧をそこからひきだすことを、彼らに許したと述べています。どんな物語だったのでしょうね。

第一章「悦楽の園」から第三章「薔薇の蕾をめぐって」までが前篇でギョーム・ド・ロリスの作とされていますが、彼が作者だという確証があるわけではないらしく、どんな人かもよく分かっていない。後篇はかなり長く、第四章「理性の勧告」から第十一章「総攻撃――巡礼」までがジャン・ド・マンに書き継がれたとされています。後篇の方は、およそ、1260年頃から1280年頃までの間に書かれたようでが、この後編にある記述を信じれば、前篇はその40年前に書かれたことになります。ジャン・ド・マンの方は実在した人らしい。生年は不明ですが、亡くなった年が1305年で、その他に翻訳として『ピエール・アベラール師とその妻エロイーズ往復書簡集』、国王フィリップ四世に献呈されたポエティウスの『哲学の慰め』などがあるようです。ついでに申し上げると、僕の大好きなドイツ文学者である種村季弘(たねむら すえひろ)さんは、このジャン・ド・マンが『錬金術の鏡』を書いた錬金術師であり、この『薔薇物語』自体が恋愛叙事詩の罪のない外見の下に数々の艱難をかいくぐった人間の魂がその平安に到達しうるような完璧な秘伝伝授の神秘の化金石を隠し持っていたと述べています(『パラケルススの世界』)。

この二人の作者の性格はかなり対照的で物語の性格も色合いが変わっていきます。ギョーム・ド・ロリスが明るく理想主義的な性格であるのに対して、ジャン・ド・マンは博学ですが、否定的でいささか晦渋な性格であるようです。文章からは、そう思える。前篇でギョームは宮廷風の理想に沿う形で全体のプランを設定します。彼は物語の方向性とキャラクターの外観をまずラフスケッチした。そこにジャンは自分の描いて見たかった「何か」をおぼろげな全体像として垣間見た。それに自分の思いと知識を載せて書き継いでいったというわけです。

『薔薇物語』写本(1420-30)愛の神のロンド

愛の庭園の外壁には憎悪悪意下賤貪欲強欲羨望悲哀老い偽信心貧困といった否定的なイメージの絵が描かれている。これは一種の配役紹介というところでしょうか。そうこうしていると少女閑暇が主人公の若者を中に迎え入れる。悦楽歓喜のカップルと礼節愛の神が輪舞を踊り、鷹揚気高さ若さといった擬人化された登場人物たちがいるのです。このあたりの情景は、確かにホイジンガの言うようにボッティチェッリの『春』を思い起こさせますね。

これが、寓意化されたキャラクターたちです。道徳の本か何かに出てきそうな言葉が名前としてずらっと出てくる。そんな関連の言葉を並列し、いわば、尽くしている。これも中世の特性かもしれません。あまり詳しい人物描写はないけれども意外にこの簡素さは重要であるかもしれない。何故かと言うと何も顔の描かれていない人形を幼い子供たちは喜ぶ傾向がある。その方が自分の想像力を発揮できるからです。同じように読者はそこに自分が見たいものを描き加えることができるのではないでしょうか。

矢を射かける愛の神 パリ国立図書館写本

この若者は、やがてナルシスの泉で愛の予感に捉えられ、愛の神(クピド)に5本もの矢を射られて、薔薇に対する恋の苦しみを植えつけられ、愛の神の臣下とされてしまいます。まあ、愛の虜になるというわけです。理性にお説教されるが耳に入らない。の登場によって薔薇の見張り役である拒絶との付き合い方を教えてもらった若者は、ウェヌスの援助と歓待の手引きで首尾よく薔薇に接吻することができましたが、心の疼きは強まっていきます。恋の炎がいや増すのです。薔薇を守る嫉妬によって、薔薇の周りには掘割が作られ正方形の城が築かれます。囲い地の中心に円い塔が築かれ、歓待はその中に閉じ込められてしまう。その城を愛の神が軍勢を率いて攻めたてるという予告がなされ、前篇は終わることになります。ここから物語の雰囲気はメルヘン調から百科全書的な知の開陳へと様変わりしていきます。

後篇の第四章「理性の勧告」では、愛の神の矢に射られて恋に惑う若者と理性との会話が延々と続けられる。前篇の設定を繰り返します。この『薔薇物語』解説によれば、理性の話の拠りどころはキケロの『友情論』のようです。ここでは「言葉と物」論争が面白い。睾丸と男根について、女性である理性が自分が命名したのだから立派な言葉とするのに対して若者がそれを卑しい言葉として言い争う場面は、苦笑を禁じ得ません。中世ではこんな議論が生真面目に行われていたのかもしれませんね。このような微にいったやり取りは前篇にはありません。

柴田平三郎『中世の春』
ソールズベリのジョンの思想世界

第五章「の忠告」では、世間によく見られる「結婚の不幸」が語られる場面があります。今は失われたテオフラストゥスの『黄金の書』に基づいているとされるけれど、実際には、イギリスのスコラ哲学者ソールズベリのジョン(1115-1180)の『ポリクラティックス』が典拠のようです。この著書が名指しされるのは、『薔薇物語』では、前章の第四章での一ヵ所だけなのですが、中世の典型的な本の一つなのでご紹介しておきましょう。プロローグにはこう書かれているらしい。「貴兄がトゥールーズ攻囲攻撃に忙殺されておいでの間、『文学なき生活は生ける人間の死であり埋葬である』という考えに思いを致しながら、私はこの作品に着手し、宮廷生活の愚行から我が身を解放したのであります(柴田平三郎 訳『中世の春』)。」

西欧政治思想史の研究者である柴田平三郎によれば、この『ポリクラティックス』は「12世紀中葉の教養思潮の百科全書」といわれ、欧米の政治思想事典には「統治のマニュアル、君主のための鑑、モラリストの宮廷批判、教訓的哲学論文、文芸の百科事典」とあるそうです。全八巻166章には、過剰なまでに繰り返される古典作家や聖書、教父からの引用句の羅列があり、無数の脱線、例証、懐旧談のかたまりとなっているらしい。彼は中世12世紀の代表的な人文主義者でもある。ジャンもそのような百科全書的知の横溢を開陳しようとした。後に述べますが、オウィディウスの『愛の技法』の引用もある。浮気で不実な女房に対する直情径行な亭主のいかにも世俗的なぼやきも語られる。世の多くの夫たちが、頻りにわが身をかこったことでしょう。それに「女性との付き合い方」という語りもある。ここらあたりは世俗的な話題で共感を呼び込み読者を引きつけようとするジャン・ド・マンの巧さと言えるでしょうね。

第六章「愛の神の軍勢――みせかけの弁明」に入ると、作者は奇妙な著述を開始します。今は亡きティブルスやオウィディウスといった偉大な古代ローマの詩人たちをギョーム・ド・ロリスが引き継いだ。だが、仇敵嫉妬のために危機に瀕している。彼のために城壁と塔を打ち破って城を攻囲すべきだと愛の神は言うのです。愛に苦しむこの若者は詩人ギョーム・ド・ロリスだと言っているようにも思える。ギョームが亡くなって、この物語は中断するが、きっかり40年後にジャンが書き継ぐことになるという予言が行われる。ここで、物語が引き継がれた経緯が劇中劇の形で伝えられるということになるのですよ。なかなかやりますね。

嫉妬の城への総攻撃 パリ国立図書館写本

とのやり取りの後、若者は愛の神に叱責を受ける。愛の神が軍勢を集結させると、その中に予期せぬ人物であるみせかけがいて自分の出自と生業を語ります。この章ではみせかけの滔々とした演説が冴えます。

「わが主君にして父なる瞞着は全世界を統べる皇帝です。わが母偽善は皇妃です。聖霊がいかに悔しがろうと、われわれの強力な家系がこの世を支配しています。いまやわれわれはあらゆる王国を治めていますが、世界中を魅了しているわれわれが君臨するのは正当なことです。そして、われわれは人々を欺く術をわきまえていますから、欺かれた者もそれに気づきませんし、たとえ気づいても、あえて真実を明らかにする者もおりません。けれどもそういう輩は神よりもわたしの同胞を畏れているものですから、神の怒りにさらされます。このような偽装をおそれ、それらを告発することでもたらされる面倒を避けようとする者は、とても信仰の正しい擁護者とはいえません。必ずや神に罰せられることでしょう。けれども私の知ったことではありません。なにしろたいへんな有徳の士と見做されていますから、非難するけれども非難はされないという特権を享受しているのです。(篠田勝英 訳)」

まるでメフィストフェレスかウォール街の悪徳投資家が言いそうなシニカルな語り方ですよね。ここにはある種、現代的な人間の性向が映し出されていると言っていいように思える。なかなかに鮮鋭な語りがあるのです。偽善的な聖職者、とりわけ托鉢修道会を批判しているようです。

第七章は塔に閉じ込められた歓待を見張る老婆が、徒然にこの若者に忠告を与える場面が語られる。ここでは、したたかな女が、いかに男を手玉にとって誘惑し、金を搾り取るかという手管がオウィディウスの『愛の技法』や中世の諺を織り込みながら述べられます。適齢期の女性への手引き書、若い男性への警告書というわけでしょうか。老婆は呪術や魔術、妖術、はては魔法や交霊術なんか信じちゃいけないという。愛を得るには自力本願だと。でも、最後はホレた女の弱みをぽろっと出してしまうところがいじらしい。ここは、フランソワ・ヴィヨンの『遺言の歌』に登場する兜屋小町の恨み歌と関連しそうです。

オウィディウス『恋の技法』

イタリアのスルモナに生まれた古代ローマのの詩人オウィディウス(前43-後17)は若くして才能を発揮し、『恋の歌』『女の顔の手入れについて』などの機知に富む恋愛詩で一世を風靡しました。この『恋の技法』もそんな、軽佻浮薄な世相を背景に歌われた世俗的な恋愛指南の詩でした。「だれかもし、この民族のうちに愛する術(すべ)を知らない者があれば、これなる詩を読むがいい。そして、この詩を読んで、術を心得、恋愛を実行するがいい。早い船が橈(かい)で進むのも、技術あってのうえである。恋愛も技術あってのことである(樋口勝彦 訳)」と歌い上げた。その後、『変身物語』という傑作を書きます。この『恋の技法(アルス・アマトリア)』は『弁論術(アルス・レートリカ)』などの教訓詩のパロディになっている。「何々すべし」「君に何々を伝授しよう」という語りは教訓詩のものであった(沓掛良彦『恋の技法』解説)。オウィディウスはこんな具合に書きました。「不恰好な足はかならず真っ白な靴で隠すがいい。そして骨ばった脛をその桎梏(覆い物)から解放してはならない。いかり肩には薄い詰め物が便利であるし、不恰好な胸には胸当てをかうがいい(樋口勝彦 訳)。」やがて、彼はアウグストゥス帝の風紀粛清政策に触れて前8年に黒海沿岸のトミスに流刑に処せられ、許されることなくその地で果てた。その時書かれたのが『哀しみの歌(トリスチア)』です。

第八章「攻撃開始」で、戦いの端緒が開かれます。拒絶羞恥小心に対して気高さ憐憫快楽隠れ上手大胆安全が取っ組み合いの戦いをはじめ、それぞれの手下たちもそれに加わるのですが、愛の神は自軍の旗色が悪いのをみてとり、休戦を結んで母親のウェヌスに助けを求めることになります。彼女は、鳩たちが駆る金と真珠を散りばめた四輪の戦車に乗ってワルキューレのように戦場に向います。

第九章「自然の告解」では、天球のもとにあらゆる個体を創り出すことに腐心する女性、自然が登場し、聴罪司祭ゲニウスが慰める。ゲニウスは、本来人や土地の守護霊です。日本で言う産土神(うぶすながみ)に近い。万象に内在する力、ギリシア語のダイモ―ンに近いという人もいる自然は自分の仕事場である鍛冶場で悲嘆にくれている。ここでは、技芸、錬金術、天体運行、体液論と運命、自由意志と神の予知、気象、虹と光学、20世紀の美術史家バルトルシャイテスが喜びそうな鏡について、幻影、夢、彗星とまさにミニ百科全書となった感があります。最期に人間だけが傲慢で自分に逆らう悪逆非道な存在だと自然は非難するのです。自然の告白は3500行に及びこの物語の中で最も長い。その次に長いのは理性の語る3000行、老婆の2000行となっている(『薔薇物語』解説)。後篇になると俄然話が長くなり、脱線もしばしは起こるという訳です。

城の塔に矢を射かけるウェヌス パリ国立図書館写本

第十章は自然に罪障消滅を保証したゲニウスが愛の神の軍勢のもとへ赴き、演説を行います。第十一章ではウェヌスの指揮で総攻撃が始り、ピュグマリオンの挿話でウェヌスの力を言祝いだ後、城は陥落します。そして、若者の巡礼が始り、性的なメタファーを経て薔薇を手に入れることができる。終わり方はわりとあっけない。そして、夜が明け、主人公は目を覚ます。それが夢の終わりでもあった。

ホイジンガは『中世の秋』の中で、こう述べています。「ひとつの時代のはじめから終わりまで、支配層の人びとが、生活と教養の知識を、恋愛術という枠のなかで学びとったということ、このことは、いくら重視されてもされすぎることはない。世俗の文化の理想が、これほどまでに、女の愛の理想ととけあってしまったような時代は、十二世紀から十五世紀にかけてのこの時代をおいて、ほかになかった(堀越孝一 訳)。」キリスト教の徳目、社会道徳、生活スタイルのあるべき姿は、この愛の体系に組み込まれたという。それは、同時代のスコラ学と同じようにある一つの視点に立って、人生の全てを理解しようとする中世精神の大がかりな努力を示していると。それは、どうしようもなく粗野な現実の中で、中世の一つの理想である美しい生活を求めようとする努力のあらわれでもあったというのです。

若いフランスのプリンセスであるマルグリット・ド・ブルゴーニュに自分の本を贈るクリスチーヌ・ド・ピザン(1365頃-1430)

『薔薇物語』は14世紀には、しばしば論争の種になりました。ヴェネチア生まれの才女、フランス初の女流文学者といわれる詩人のクリスチーヌ・ド・ピザン(1365頃-1430)は、この女性蔑視の物語に怒りを込めて矛先を向けます。弁護者の中にはリールの代官ジャン・ド・モントルイユのような高官もいた。このような人が属していたサークルが後のフランス人文主義の土壌を形成していくとホイジンガは言うのです。彼らが、ウェヌス(ヴィーナス)ら古代の神々に復権をもたらすことになるのでしょう。自然に背かぬエロティシズムとキリスト教的愛の問題は、やがてワーグナーの『タンホイザー』の中で別の解決を見ることになります。

最期に寓意の行方についてお伝えしておきましょう。象徴と寓意が決定的に区分されるのは、19世紀以降のことです。ゲーテはこう書いています。「寓意は現象を概念に、概念を形象に変える。しかし、その際に概念は、形象の中で一定の枠をはめられたまま、いつまでも完全に保持され、形象に即して言い表されなければならない(前田富士男 訳『箴言と省察』)。」ゲーテにとって象徴は普遍なものを瞬間的に啓示するものであり、理念を現象に変え、その現象の中で象徴連鎖を伴うような、より動的で包括的な働きをするものでした。この『薔薇物語』の頃には、その区別は判然とはしていません。ホイジンガは、軍神マルスに従う「恐怖」とか女神「和合(コンコルディア)」のようにローマ人が抽象概念から作りだしたローマの神々のイメージと『薔薇物語』の登場人物たちが、同一線上にあると述べています。寓意による擬人像は、当時の人びとのイメージを活性させ、なかば神に近い存在としての生命を与えられていた。この頃、寓話を読む人々の心には生き生きとした感情が湧きあがっていたのです。しかし、古典古代が復活するルネサンス期には、寓意とオリンポスの神々の力関係は逆転していきます。自然感覚につつまれた詩の美しさが流れ出すところ、寓意はついに色あせ、消えて行くとホイジンガはいうのです。その後、細々といくばくかの余命を経て、20世紀になりコンセプチュアルアートの風が吹き荒れた後、アートの世界に寓意は帰ってくるのです。

フランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』中世の秋に贈る放蕩無頼

フランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』
本書には「遺言の歌」と「形見分けの歌」の二つが収録されている。

ヴィヨンという名をどっかで見たはずだ。だが、思いだせません。四苦八苦しているうちに、あった。太宰治が書いた『ヴィヨンの妻』だ。は、はぁーんと思った。太宰はどうやらフランソワ・ヴィヨンを知っていたのである。この間からロシアの詩人であるオシップ・マンデリシュタームのことを書いていて、彼がこのフランス中世末期の詩人に夢中になっていたことを知りました。なにせ、ハイデルベルク大学まで古フランス語を習いに行くという熱の上げようだったらしい。なにが、そんなに面白かったのでしょうね。

年齢をかぞえてみれば三十のこの年に、
ありとあらゆる恥辱をなめさせられたが、
それですっかり阿呆になったり、がぜん利口に
なったりはしなかった、えらい目にあったが、
仕置にあってさんざ痛めつけられた、それが、
全部が全部、チボー・ドーシニーの裁量による、
あいつめ、司教面して群衆に投げ十字を振舞おうが、
おれの身内だろうが、おれはだんぜん否認する
(『遺言の歌 一』堀越孝一訳)

なにせ、この『遺言の歌』と題された詩集、のっけから恨み節ときている。「1456年にわけあってパリから逐電した」という。この言い方は訳者の堀越孝一(ほりこし こういち)の言をお借りしている。この人の訳注は面白い。多分この注は、この本の半身すらなしている。もっと一杯書いても欲しいところだが、ご本人はかなりセーブなさったようだ。じっと我慢の子であった。ヴィヨンの行状について、この訳者は放蕩無頼と4字熟語で片づけている。作家には御気の毒なことだ。鈴木信太郎(すずき しんたろう)の立派な翻訳もあって、こちらも大変魅力的なのだけれど、今回は、堀越訳の方をメインにお送りします。この訳注に惚れました。

ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)
『中世の秋』

1.『中世の秋』とヴィヨン

中世文化を知るための最良のガイドブックは、ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)の『中世の秋』だと思うけれど、12世紀がヨーロッパ中世文化の頂点で、騎士道文化を縦糸に宮廷文化を横糸に西欧キリスト教文化はその「形態」を決定していくというのが、だんぜん否認できない前提になっているらしい。この時代が「中世の春」です。そんな土壌から咲き出た傑作が『薔薇物語』なのだけれど、このヴィヨンの詩集にも本歌としてしばしば登場する。というか登場すると訳注で指摘されている。それなら『薔薇物語』とは、なんぞやという訳で、それは次回ご紹介する予定です。この本歌取りの内容は堀越孝一の『ヴィヨン遺言詩注釈』に詳しいので興味のある方はそちらをご覧になるとよい。ここにはマニアックな注釈がだんぜん繰り広げられている。それと、騎士道精神、加えてエロイーズとよくペアで語られるピエール・アベラールのことも重要なテーマとしてヴィヨンの詩集には登場する。この二人、なかなか過激な宗教者というか夫婦であった。

「より美しい道」を求めて俗世を捨てるか、「夢見ること」を目指して生活に美を求め社会そのものに遊びを求めるか、中世の理想は二極化をむかえるという。社会改革という道はどうも忘れ去られていた。ヴィヨンはというと、この二つにはさっさと背を向ける。しつこいようだが、放縦無頼なのである。どちらかというと中世の造形芸術の方が贔屓なんじゃないかと思わせるホイジンガなのだが、この『中世の秋』には、16か所にわたってヴィヨンの名を挙げていて、彼の詩には宗教臭、教訓臭がなく、そこはかとないペーソスやメランコリーが感じられるなどと高い評価が与えられているのである。

2.本当の作者は誰なのか

ええい、ちくしょう、ちゃんと勉強していたら、
愚かな青春の日々をあそび暮らさずに、
身持ち正しく過ごしていたら、家ももてたし、
やわらかい寝台に寝ることもできただろう、
なんということだ、おれは学校から逃げだした、
まったくこれは悪いこどものすることだ、
ああ、こうした言葉を書きつづっていると、
おれの心は、いまにも張り裂けんばかりだ
(『遺言の歌 二六』堀越孝一訳)

ヴィヨン遺言詩注釈Ⅱ
『遺言の歌』上 堀越孝一

不良少年だった彼が、現在のわが身を振り返っての嘆き節と言ってもおかしくない。だが、訳者の堀越孝一は、フランソワ・ヴィヨンの詩は、このフランソワの作ではない確信しているらしいのです。どうも話の様子では、まだ、定説には至っていないらしい。どう思っているかというと、この主人公から「おれにとっての父以上の人」と詩中に熱のこもった紹介をされているメートゥル・グィオーム・ヴィオンが真の作者だろうとおっしゃる。この人、後にも触れますが、ノートルダムの近くにあったサンブノワ修道院の司祭だった人で、ノートルダムともめごとを起こして参事会の管理するサンテナン礼拝堂に幽閉されたこともある。そこは、どうも牢獄として使われていた。こうなると調べ甲斐はたっぷりとあるようです。

詩集における文章は一見ベランメエ調なのだけれど、そこには、老練な視点とそこはかとない教養が滲み出ていると訳者は言う。中世の詩にはあまりないペーソスや人情味もありそうだ。ただのインテリヤクザとはちょっと違う。真の作者捜しに限らないのだけれど、訳者の注は学問って楽しいものなんですよと語りかけてくれているようです。訳者の著書『わがヴィヨン』には、その学問をどう楽しんだのかコト子細に書かれている。

ひとーつ、おれにとって父以上の人、
メートゥル・グィオーム・ドゥ・ヴィヨンに、
母親よりもおれにやさしくしてくれた、
襁褓(むつき/おむつ)のころからおれを育ててくれた、
なんどもおれを難儀から救ってくれた、
楽しんでやってくれたわけではない、
だからおれは跪いてお願いする、
どうぞ、楽しくやらせておいてください
(『遺言の歌 八七』堀越孝一訳)

3.老いとマカーブル

『兜屋小町恨歌』

嘆きの声がおれの耳に聞こえるようだ、
往時、兜屋小町と評判だった女が、
若いころにもどりたい、娘でありたいと、
こんなふうにせつせつと語るのが、
おお、老いよ、なんと残酷で、猛々しい、
ずいぶんと早く、あたしを打ちのめしたね、
なぜ ? あたしを止めるのはだれ? いっそ
われとわが身を打って、死んでしまいたいのに
(『遺言の歌 四七』堀越孝一訳)

これぞ人間の美のなれの果てかねえ、
ちぢまった腕、ちぢかんだ両の手、
かたくなって、ごつごつした両の肩、
乳房はどうなったって? しなびた、
腰のまわりも、あわれ乳房とご同様、
ツビ? ちっ! 太腿について申し上げれば、
もう、こんなの、腿ではない、腿モドキ、
腸詰めみたように、やれやれ、シミだらけ
(『遺言の歌 五五』堀越孝一訳)

『ダンス・マカーブル(死の舞踏)』
ミヒャエル・ヴォルゲムート 1493年

ダンス・マカーブルとは『死の舞踏』です。1485年にパリの印刷業者ギョ(ギュイヨ)・マルシャンが初版本に木版刷りの飾り絵をつけた。1424年につくられた当時最も有名なパリのイノッサンス墓地の回廊壁画を写したものであったらしい。この広い墓地は回廊と納骨堂に囲まれ、その納骨堂には死者の骨が山積みになっていた。ヴィヨンにはその墓地をテーマにした詩が残されている。悲しいかな壁画は、17世紀に失われた。それは中世末期が生んだ偉大なイメージだとホイジンガは言う。死のイメージは戦慄と恐怖とともに一層豊かなものにされたのである。おどろおどろしいイメージなら唐の呉道士の絵画も負けてはいないのだが。ちなみにダンス・マカーブルについては小池寿子(こいけ ひさこ)の『死者たちの回廊』にくわしい。

すべて聖なるものをイメージにあらわしたい、信心にかかわる想念に完結した形を与えたい。そういう欲求は中世にあっては、制御不能であったとホイジンガは言うのです。イメージングする知を言祝ぐバーバラ・スタフォードが中世を扱ったらもっと面白かったのかなあ。死も例外ではなかった。死を直接目に見える形に表現したいという欲求のもとでは、目に見える形に表現しきれない部分は切り捨てられ、死の荒削りな部分だけが強迫観念に成り変わる。悲歌も抒情もそれには無縁だったというのです。その根底にあったものは、死に対する現世的、利己的な関心であった。

だが、われらのヴィヨンはそうではない。「女体よ、かくもやわらかな、なめらかに甘く、/ かくもたっとい、おまえでさえもこの禍事(まがごと)に、/ 耐えねばならぬか、‥‥(『遺言の歌 四一』堀越孝一訳)」といささか色っぽい表現ながら、卒塔婆小町たちへの「老い」への同情が、ペーソスを交えて歌われている。もっとも、この兜屋小町さんは、まだ在世の冷たい波に洗われてはいるのですが。死の無常だってこの通りだ。ユーモアとメランコリーがちゃんとをまぶしてある。

こいつらされこうべ、生前、頭をペコペコしていた、
こいつらがあいつらに、あいつらがこいつらに、
こいつらが、あいつらが支配していた、あいつらに、
こいつらに、おそれられて、かしづかれて、いまは、
こいつらもあいつらもない、なにもかも終わりだ、
ひとつ山に集められて、いっしょくたにされて、
領地だ屋敷だなんていったって、もうそんなのない、
クレー(書記)だの、メートゥル(王家財務の役人)だのと呼ばれることもない
(『遺言の歌 一六三』堀越孝一訳)

訳者の著書『わがヴィヨン』には、ヴィヨンの詩の本領は、洒落と諧謔と嘲弄だと断言されている。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』に出てくるアリストテレスの著書、笑いについて書かれたとされるまぼろしの『詩学第二部』が「ヴィヨン詩鑑賞の手引き」となるのではと冗談半分におっしゃる。しかし、時として、それらの可笑しみの中に信仰と愛と憎しみが閃光のように走るというのは確かだ。

4.宵越しの金はもたねえ

『貴婦人と一角獣』15世紀末のタピストリー
6連作の一つ「我が唯一の望みに」背後に幕舎が見える

不実な女から逃げ出すためにヴィヨンは一計を案じた。いや、そうフィクションされた。ホレた女だが別れなければと、なけなしの脳味噌をしぼった。そうだ、死んでしまえば、なんにも残らない。これから遠い国に行く。そのための形見分けを書くのだと。こうして『形見分けの歌』は生まれた。この旅立ちを思いついた25歳の若者は5年後にチボー・ドーシニーに牢屋に入れられることになったのは『遺言の歌 一』で見ていただいたとおりである。遺言で遺贈されるものは、天幕と幕舎一棟とか、立派な箱にいれた自分の心臓とか、はがねの大剣、白馬と牝ラバ、ダイヤモンドとあとずさり印のシマウマ、はては猿股から記憶術、手袋と陣羽織‥‥

パリ ノートルダム聖堂のジャンヌ・ダルク像

まてよ、これはいっかな庶民の持ち物ではない。騎士のものである。つまり、ヴィヨンは騎士の持ち物を結構所持していたという設定になっているわけだ。騎士と言えば中世の花形である。大天使ミカエルの武勲に発した騎士道は、この中世を不思議な色に塗ったのだが、そのペンキはすぐに剥げるとホイジンガは言う。美にまで高められた自負心とも言うべき英雄崇拝には、いささかの利己心が混じっていた。テンプル騎士団やホスピタル騎士団は、もはや過去のものであったが、14世紀の半ば以降、次々と新たな騎士団が設立されていった。君侯たるもの騎士団を持たねばならなかったのだ。だが、この頃、あたかもローエングリンのような女性が登場してフランスを救った。騎士のメンツは何処に行った。そのジャンヌ・ダルクは1431年に火刑に処せられ、1453年には、ブルゴーニュ、イギリス、そしてフランスの三つ巴の百年戦争は終結をむかえた。愛のために命を投げ出すのが男の道であったのだが、このヴィヨンの歌では不実な女と手を切る男が歌われるという逆さまな状況が形作られている。

ところで、形見分けの歌ですが、ホイジンガは中世の人びとの習慣として、所有物のいっさいを、どんなつまらぬものにいたるまで、ひとつひとつ丹念に、遺言書によって遺贈する習わしがあったという。つまり、ヴィヨンの形見分けもことさらに特異なものでもなんでもないのである。だが、今からご紹介するような視点は特殊であったようなのです。

ひとーつ、慈善の心から、おれは遺す、
すっぱだかの三人のこどもたちに、
いまこの遺言書に名前をあげる、なんせ、
すっかんぴんの、みなしごだ、実正、
靴もはかなきゃ、なあんも着てない、
まるはだか、ミミズのようだ、こりゃあ、
ともかくだ、なんか着るもんやっとくれ、
せめてさ、この冬を過ごせるようにねえ
(『形見分けの歌 二五』堀越孝一訳)

なにが、特殊かというと、騎士道精神が謳歌される貴族主義の詩歌などの中にあって、子どもや女性に対する視線はほとんど皆無に近かったということなのである。ホイジンガは、中世のエロティシズム文学、宗教文学、そのいずれを見ても女性への共感や同情は、ほとんどその痕跡だに見いだせないという。そして、子どもの生命を惜しむ声は、後期中世の文学、教会文学、世俗文学を問わず、ほんのまれにしか、聞えてはこない。重苦しくぎこちない壮大なスケールの当時の文学には子どもを入れる余地などなかったというのである。このホイジンガの説を踏まえて、続きの詩を読み、その注を見て愕然といたしました。この三人の子供たち、次の二六の詩で名前が、それぞれ挙げられていて、三人が三人とも高利貨しやら塩の投機家で評判の悪い金持ちでありました。おまけに一人は獄死している。これは強烈な皮肉になっているのです。一筋縄ではいきません。

5.おのれの所業をかえりみろ

この年は四百と五十六年 おれは、
フランスェ・ヴィオン、学生である、
心をしずめ、気をおちつけて、考察するに、
ハミをかみ、首輪にかかる綱を引き、
まずはおのれの所業をかえりみろ、
そう、ヴェジェッスもいっている、
賢明なるローマ人、偉大なる助言者、
おこたれば、自分自身を測りそこなう
(『形見分けの詩 一』堀越孝一訳)

『鈴木信太郎全集』 第一巻 訳詩1
「ヴィヨン全詩集」「悪の華」他 収録

フランソワ・ヴィヨンの伝説を追うには、鈴木信太郎の『ヴィヨン全詩集』の訳注を覗くのがよいでしょう。堀越氏の方は、この伝説にはあまり興味がなさそうです。1431年に生まれたヴィヨンは、一説にはフランス中部のブウルボンネに領地を持つ貴族モンゴルビエ家の血縁ではないかという。生まれた2~3年後に父を亡くし、先ほど触れた叔父のメートゥル・グィオーム・ヴィオンに育てられた。サンブノワ教会の境内の一角にこの叔父と暮らした。パリ大学の文学部に学び、文学士となる。この時、モンゴルビエ姓を名乗っている。1455年には、このサンブノワ教会の境内で、喧嘩の末、司教のフィリップ・シェルモアを殺害し、パリを逐電した。その翌年、国王からの赦免状二通を得ている。この頃、『形見分けの歌』が書かれた。当時「コキイユの一党」と呼ばれた盗賊団との関わりを指摘している人もいるが、その1456年の降誕祭の夜、仲間と共にパリのナヴァール学寮に盗みに入り、大枚五百金をせしめて高跳びする。またもや逐電したのだ。

その後、5年間フランス西部から中部を放浪した。オルレアン司教チボー・ドーシニーにマン・シュル・ロアールの牢屋に監禁されたが、1461年には放免になり、パリに戻った。この頃は、健康にも恵まれず、金もなく友達もなく、わびしく暮らしながら『遺言の歌』を書いていた。二年後の1463年に、悪友ロバン・ドジスと仲間二人で弁護士のフランソワ・ファルブウルの事務所を通りがかり、事務所の書生をからかった。あげくに乱闘となり、ドジスがファルブウル先生に傷を負わせた。ドジスともう一人は逃げたがヴィヨンと他の一人は捕まり、前科もたっぷりあって死刑判決と沙汰がおりたが、傷つけたのは自分じゃないと最高裁に控訴した。バラッド形式のヴィヨンの嘆願である『法廷礼讃の詩』というのが残っている。結果、パリから10年間の所払いの刑となったが、その後の足取りは杳(よう)として知れない。おのれの所業とは、つまり、1455年の殺傷沙汰をさしているのです。だけど、省みた結果は、いっこうに芳しくなかった。

右 ヨハン・ホイジンガ 1917 ライデン

さてさて、今回のフランソワ・ヴィヨンいかがでしたでしょうか。今回はホイジンガの『中世の秋』という絶大な助っ人を得てヴィヨンの文学が何故に輝いていたかをご紹介しました。言っときますけど何故こうなのというのは中世の習慣を知らないと分からないことが多い。つまり、『中世の秋』を併読されることを願っております。

オシップ・マンデリシュタームが何故あれほどヴィヨンに熱を上げたのか。彼はこう詩に歌っています。「ゴシックの静脈に流れる詩行で悪戯して/ 残忍な法に唾をした / 不遜の学徒 泥棒天使 / 比類なきフランソワ・ヴィヨン(1937年3月18日/鈴木正美訳)」ヴィヨンの詩には、アウトサイダーの持つ不遜な力学、そして、ゴシック建築のような「互いに洗いあうような波の」リズム構成とその内容との照応がある。それはフランス19世紀のヴェルレーヌの詩と比肩しうるとマンデリシュタームは言うのです(鈴木正美『言葉の建築術』)。しかし、原語でなくてはこのリズムは分からない。確かにヴェルレーヌも放蕩無頼だったと申せましょう。

そうそう、太宰の『ヴィヨンの妻』ですが、電車の広告ポスターに夫の名前を見つけた主人公のさっちゃんは涙ぐむ。なんでも「フランソワ・ヴィヨン」という題の論文が発表されたらしい。その夫の大谷は男爵の次男で才能豊かな文学者というふれ込みになっているが、放蕩無頼の生活を繰り返している。つまり、ヴィヨンなのである。夫の借金を返すために飲屋で働き始めたさっちゃんもなんとなく放縦無頼の生活の仲間入りをしそうな雰囲気だ。「ヴィヨン」の妻は、「ヴィヨンのような妻」になってしまいそうな、なんとなく気をもたせる終わり方になっている。「さわり」の美学というのでしょうか。まあ、「おのれの所業をかえりみろ」としたヴィヨンの視点はきれいに無視されているという訳なのです。それも、到しかた無いでしょうね。訳者の堀越孝一の著書『わがヴィヨン』には太宰のことがもう少し詳しく書かれてあるので併せてお読みになると良い。ついでと言っては失礼ですが、かのドビュッシーには、ヴィヨンの詩に曲をつけた『フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード』という作品もあります。

ドビュッシー歌曲集CD
選ばれた乙女、フランソワ・ヴィヨンの3つのバラード、願い事、ようこそ春よ

最後になって恐縮ですが、訳者のご紹介をしておきます。堀越孝一(ほりこし こういち)は1933年、東京の生まれ。東京大学文学部、同大学院人文科学研究科で学び、茨城大学、学習院大学、日本大学などで教鞭を執られた。学習院大学名誉教授であられる。著書に『中世の秋の画家たち』『わがヴィヨン』『ヴィヨン遺言詩注釈Ⅰ~Ⅳ』『わが梁塵秘抄』、訳書にホイジンガの『中世の秋』『朝の影のなかに』、『パリの住人の日記』、C.B.ブシャード『騎士道百科図鑑』などがあります。

堀越孝一『わがヴィヨン』

太宰治『ヴィヨンの妻』他

 

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
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