Blog / ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』ミネルヴァ書房  2014年刊

パウル・クレーはこう書いている。「‥‥プリンツホルンの素晴らしい著書をご存じだろう。われわれも全く異論はない。そこに収容されている作品を見ると、あそこにもここにもいたるところに最良のクレーがいるのだ ! そこに示されている宗教上の主題の深さや表現力は私が絶対に到達できないものだ。それらは本当に崇高な芸術なのだ‥‥。(ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュツト』杉村昌昭 訳)より」

また、ヘルマン・ヘッセはこう書く。「狂気が、高い意味において、あらゆる知恵のはじめであるように、精神分裂症はあらゆる芸術、あらゆる空想のはじめです。学者でさえそれを既になかば認識していました。たとえば、『王子の魔法の角笛(プリンツホルンを指す/筆者)』というあの魅惑的な本、一学者の辛苦精励した仕事が精神病院に閉じ込められた多数の狂気の芸術家たちの天才的な協力によってりっぱにされているあの本を読めばわかるように。(『荒野の狼』高橋健二 訳)」

ハンス・プリンツホルンは総数450人もの精神病患者の5000点にものぼる作品をもとに『精神病患者の造形』を執筆し、その著作は1922年に出版された。それが、今回紹介する『精神病者はなにを創造したのか』の原題である。「狂人の芸術」というテーマの著作が、それまで無いわけではなかった。チェザーレ・ロンブローゾ『天才と狂気』(1864)、フリッツ・モール『精神病患者の絵とその診断について』(1906)、ヴァルター・モルゲンターラー『芸術家としての精神病患者』(1921)などがあったが、本書は、精神病者の病状と作品との関係だけではなく、膨大な数の造形作品そのものを精神医学と美学の両面から捉えていることに画期的な意味を持っていた。

「天才と狂気」というキャッチフレーズが存在するのは、昔の人たちが芸術家を襲う聖なる狂気のことを話し、恍惚や忘我状態のことを伝え、狂気の中に聖なるものを見いだしてきた過去があるからである。だが、こうした「狂気」のすべての形態の中に何か奥深い共通点があるのか、あるなら厳格な方法でより深い認識に到達すべきでないのか。何千年もの間、最高の文化的要素だとされてきた精神状態が病気だとされている現在、そう判断された手続きが完璧を期したつもりでも、その発端から誤っていたのではないか。このような様々な問いかけから本書は「芸術的インスピレーショーンや造形の過程」と「精神病患者の世界感情」の間に何らかの類似関係が見出せるかどうかを問おうとするのである。昔は互いに類似し、今は互いに縁遠いとされる二つの心理状態の形態の関係性を問いたいのだという。

本書のあとがきによれば、1886年にドイツ西部のヴェストファーレン州のヘーマーでプリンツホルンは生まれた。テュービンゲン、ライプチッヒ、ミュンヘンの大学で美術史と哲学を学ぶ。ドレスデンの州立歌劇場などを設計した新古典主義の建築家であるゴットフリート・ゼンパーにつての研究で博士号を取得した。その後、歌手を目指して数年間ライプチッヒとロンドンで声楽の専門教育を受けたという。1913年に同じ声楽科の妻が精神を病んだ。それで彼はフライブルクやシュトラスブールで医学を学び、1919年に医学博士の学位を得ている。

第一次大戦に従軍したプリンツホルンは、野戦病院でハイデルベルク大学付属病院の精神科院長のカール・ヴィルマンスと出会い、その勧めで1919年にその医局員となった。19世紀末にエミール・クレペリンが始めた教材用の精神病患者の作品の収集・拡大が仕事だった。ヴイルマンスと共に国内はもとより国外の造形作品5000点を集めた。それらは、1850年から1920年に制作されたもので現在のプリンツホルン・コレクションを形成していている。彼はそれらの作品を収蔵する美術館の建設と教授職を夢見ていたが、果たされず1921年に病院を退職した。その後、本書を1922年に完成するのである。そして、1933年にチフスで惜しくも亡くなっている。

幻覚体験による『大気現象』 作者未詳
プリンツホルンは、こういった幻覚の描写は滅多にないという。

美学者としての眼識、精神科医としての知識、そして家族に患者を持つという彼の立場が本書を不朽の名著にしたと言えるのではないか。「アール・ブリュット」、つまり生の芸術を提唱したジャン・デュビュッフェは23歳頃に、このプリツホルンの著作に触れ、ドイツ語はわからないものの、それらの作品の奇態な発想、無償の神秘、剥き出しの感覚に眼を見張り、1945年、7月にスイスのモルゲンターラー博士のいるヴァルダウの精神病院を訪れる。患者たちの作品を収蔵した小美術館を見学し、声を失うほどの感動を味わったという。そこには、アドルフ・ヴェルフリやハインリヒ・アントン・ミューラーらの作品があったのである(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。アール・ヴリュットやヴェルフリについてはミシェル・テヴォ―の著書『アール・ブリュット』で次回ご紹介する予定です。この『精神病者はなにを創造したのか』には10人ほどの患者の作品が紹介されているのだが、その中から二人の作品をご紹介しよう。

アウグスト・ネータ―

アウグスト・ネータ―は1868年にドイツに生まれた。父は銀行員だったが彼が生まれた3年後に亡くなっている。利発な子で実業学校に通い機械工の訓練を受けた。機械工として働きながら、ドイツはもとよりスイス、フランス、アメリカなどを放浪し、29歳頃にドイツで自分の店を構え10年ほどは順調だったという。鬱病傾向が続くようになり、最後の審判について不安そうにかつ興奮しながら話すようになった。やがて手首の動脈を切ろうとするようになり、施設に委ねられ、大規模な第一次幻覚体験を伴う精神分裂病(現在では統合失調症と呼ばれる)の急性期だと診断された。

アウグスト・ネーター(1868-1933)
『出現時の私の眼』1911-12

繰り返し同じ幻影を見た。城のある都市の兵舎にいる。最初、雲の中に白い斑点を見た。雲はみな立ち止まったままで、電光石火のような光景が、半時間に一万もあらわれては消えて行く。主なる神や世界を創造した魔女が姿を現わす。数々の戦争の情景、大陸、記念碑、数々の城、宮殿、世界の栄華を極めたもの‥‥動いているのは生きている人影であり、主の変容で満たされると生命が吹きこまれた。すべては不気味で刺激的だった。それが最後の審判の啓示であったというのである。ネーターの病状は外見上、その態度に大きな変化はもたらさなかったが、すべての段階を通して、妄想傾向は発展し、体系化されていったという。彼は真の家族史を発見した。祖母はナポレオン一世とルイ15世の孫にあたるイザベラ・フォン・パルマの嫡子であったというものである。

ネーター『世界軸と兎』 1919

『世界軸と兎』というこの絵をみていただきたい。雲が降りてきて、そこに世界軸があった。そこから雲は板となり七本の枝をつけた樹木が生まれる。それは七本腕の燭台であった。その樹木には山羊の足である両足が付けられた。そして馬の足に変化した。悪魔だ。この樹木の上には自分の系図が現われていた。樹木は神のやさしい手に守られていたが、それは優しい女性の手であった。‥‥樹木は嵐の中でローラーのように回転させられ、樹木に代わってジュピターの頭が、戦いの神のそれが現われ出てきた‥‥。ネーターのこの絵に関する説明文である。この絵は世界大戦を暗示しており、ネーターは戦争の結末も含めてあらゆることをあらかじめ知っていたという。彼が見たものには続きがあり、雲から突然兎が飛び降り、ローラーの上に乗る。兎は「壊れやすい幸福」を意味しているという。それからシマウマになり、ガラス製のロバに姿を変え、ナプキンがかけられ、毛が剃られた。傍らにはずっと聖杯があったという。

左 ネーター『奇蹟の羊飼い』 右 古賀春江『涯しなき逃避』1930

この図の左はネーターの作品、右は日本のシュルレアリスト古賀春江がネーターの作品から発想を得て描いた作品ではないかと考えられている。1923年、大正12年には本書が日本で雑誌『みずゑ』に紹介され、図像が一点掲載されている。2年後には『アトリエ』に図像6点が掲載され紹介されていて、右の古賀春江の作品がなによりの証しとなっている。クニュッブファーの下記の作品は芥川龍之介の『歯車』にも影響を与えたという。

ヨハン・クニュップファー

クニュップファーは、1866年にドイツ南西部のオーデンヴァルト山地で生まれた。父は離婚後しばらくして亡くなった。学校時代は可もなく不可もない生徒だったという。製パン工場で働いた後、20歳から30歳まで、二年半ほどセメント工場、6年半ほど機械工場で働いた。母親が亡くなってから、幾度も職種を変え、頻繁に仕事を休み、酒が弱いのにしばしば酩酊するようになる。気の進まなかった結婚生活は最初から破綻しており、妻への不信感はやがて被害妄想へと発展していった。頻繁に家を出て、戻ってくると殴り合いの諍いとなった。乞食行為をしたとして7度も罰され、「ひどい嫌がらせと責苦」を受けたとしてポケットナイフで人を刺して、心身ともぼろぼろになって施設に引き渡されたという。

ヨハン・クニュップファー『神の子羊』

妻の差し出す酒には毒が入っていて、誰かが部屋にクロロフォルムのような煙を吹きかけ、余りに金持ち過ぎる、奴を殺さなければならないという声を耳にし、彼に向って炎の矢が放たれた。あたかもキリストのように苦しまなければならなかった。主イエスはいまや彼を頻繁に訪れ、彼はその姿をまざまざと見たという。すでに若い時から選民思想を持ち、キリストさえも彼ほど苦しんだことはないと信じていた。時折、もはや苦痛に耐えられない。すぐにでも完璧に殺してくれと請願したという。自らの妄想の世界に閉じこもり、外からのいかなる要求からもいらだった反応を示した。大規模な幻覚はなく、無数の小さな妄想体験が徐々に繋がってはいくが、決して体系化されることがなかったという。

クニュップファーの資質は内向的で物静かな、活気のない特別な才能もない人のように見えた。施設に収容されてすぐに絵を描き始めるようになり、その時のモチーフは上述のような心中にある訴えだった。『神の子羊』は極めて強い形式的な枠組みの中にあり、中心の光の環は身体がその柄となっている聖体顕示台と考えられるという。矢に射貫かれたハートが彼に強い暗示的な力を及ぼしていたことが察せられる。彼は、もはやこの力から逃れられないでいるというのである。画面上の添え書きは神託のように謎めいていた。「それは太陽のベーガ、脚から出た内部、アビ・アビア・アバ――マホメットはキリストを生み出す――」といったものである。宗教的な情念は形式的な厳格さによって、遊戯的な部分は謎めいた文章の複雑な絡みあいによって表現されている。

クニュップファー Outsider Art Museum, Amsterdam detail

後年、彼の描く絵はほとんど親戚の農場を巡るものになっていった。母方の祖父が比較的大きな屋敷の所有者として主役を演じているという。母との強い絆を感じさせる。大きな紙に鉛筆で図面が引かれ、赤、青、緑といった色鉛筆でこってりと彩色されている。描かれた各箇所には名称が書かれ、解説文も書かれている。それは仰々しい箴言で覆い尽くされるという。「蘇った者たちが足を踏み入れる登り階段のとば口――十二世代の赤い階段石――馬小屋背後の秘密に満ちた裏庭――主がソドムとゴモラのように残酷にも炎の雨を降らせる――祖父R家にある3-5の羊飼いの小屋‥‥」というわけである。

特筆すべきは彼の動物に対する愛情であった。動物たちがひしめき合っている。とりわけ、鳥たちが多く描かれるようになる。故郷の庭、少年時代にしばしば見たのであろうハトやカラス、沢山の果樹、果樹酒用に毎年搾り出される果汁といった懐かしい過去の光景が彼の心の中に浮かんでいたのは間違いないだろうとプリンツホルンは書いている。

患者の作品にみられる特徴

絵を描く患者はどのくらいいるのか。ハイデルベルク大学の当時の調査では2パーセントに満たないという。アートセラピーなど皆無であった時代である。そして、その中にすばらしい才能の持ち主がどれくらいいるかを考えれば、その割合は健常者のそれと全く同じであろうとプリンツホルンはいうのである。精神病は才能のないものを才能あるものに仕立て上げる要因ではなく、造形の素質のないものを造形活動へと催す要因でもない。ただ、潜在する創作意欲が病気によって活性化されたというほかないという。その際、強烈で独創的な作品が装飾模様や体験の描写において数多く成立していることは誰もが認めるところである。それらの作品の特徴をざっとみておきたい。

プリンツホルンコレクション 本書より
作者未詳 遊戯的ーデコレーション的絵画

1.遊戯衝動

これらの作品から導き出される一般的な特徴の一つは遊戯衝動、つまり目的に従属しない行動への高ぶり、亢進する衝動の圧倒的な支配であるという。制作する意義や目的からは自由に、そして気まぐれに制作される。多くトイレットペーパーや新聞紙などの手近な紙に描かれるのはそのためである。それゆえ個人的特性が最も直接的に現われ出ていて、創作の過程で現われる造形的な原型を、それどころか概念に束縛されない真の直観の原型さえ表出しているという。

患者は彼らに知覚可能なあらゆる「存在の隠された意味」に、そして、とりわけ「自らによって生み出されたもの」に呪縛されているという。その隠された意味を見出すように義務付けられていると言ってよいのだが、その意味付けされた解釈を今日はこう明日はこうとまるで遊戯しているように投げだしてしまうのである。患者が物に与える意味や解釈は変貌していく。物という図の意味が変われば、物の周囲の地の意味も変わるというわけだ。こうしてめくるめく世界が形成されていくのかもしれない。彼らの作品は自然な関連性が支離滅裂になっているように見えても、たいていの場合、形式や内容の統一的な法則が支配していることが分かるという。描写されているものとそこに意味されているものとは乖離していても「意味」そのものは決して欠けていないというのだ。こうした遊戯的に生まれたフォルムの意味付けが体系化されたなら、この体系の奇矯ないびつさが病的基盤から生じたものだという確かな証拠が見て取れるかもしれないとプリンツホルンは述べている。

2.増殖と氾濫

特徴の二つ目は、装飾本能とも言うべきものと関連する。多くの場合、自由に戯れながら展開される筆遣いの一貫したリズムは、慣習や教育によって圧殺されていない真の活気と躍動感があるという。フォルムという言語が増殖し、画面いっぱいに氾濫する豊かさの傾向である。紙面が許すかぎり色彩とフォルムはぶちまけられる。これが「真空恐怖」と呼ばれるものに由来するのか、野蛮な要素、量的なものへの過度の礼讃、あるいは自然で天衣無縫な要素を持つ喜びに由来するのかは判然としない。ただ、これ自体を疾患の要素と決めつけられないという。それが、なんらかの秩序を持ちえず、カオスになってしまう場合と配列、規則変化、厳格なシンメトリーといった抽象的な秩序と法則を突きつけてくる場合も少なくない。クニュップファーの『神の子羊』の作品のような場合である。それは、しばしば硬直した機械的な連続の規則性であって、リズミカルで柔軟な自由さは少ないという。

ヒエロニムス・ボス(1450頃-1516)
『愚者の舟』

3.無責任な幻想性

フォルムの一部を選ぶときの気ままさ、その結果の馬鹿さ加減を明らかに喜びながら無頓着に混ぜ合わせる恣意性には、ほかではめったに見られない抑制の欠如とまとまりのなさがある。例えば双頭のカバが靴脱ぎ台の上に鎮座する彫刻といったものである。患者にとって外界の事物が固有の価値を失い、それ自体何ものでもなくなれば、自分の心的な家政のための素材、つまり気ままな材料としてしか使われないという。しかし、そのような特徴は、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルなどの作品に容易に発見できるし、古代や中世においてグロテスクなイメージは重要な要素であったのはバルトルシャイティスの『幻想の中世』を読んでいただければわかるだろう。普通、ファンタジーなどの芸術の領域で高く評価されている特性は、世界との自閉的な没交渉と独断から生まれると言って過言でないという。それは、病気のあるなしとは関係ないのだ。

4.象徴とシンボル

プリンツホルン・コレクション  作者未詳 
アレゴリー象徴的絵画 本書より

象徴は未だに魔術的力を残しているが、興味深いのは、患者たちが象徴的フォルムを使って象徴的、装飾的構造を打ち立てようとする偏愛、そして、表象の世界を図形によって反復想起しようとする偏愛をみせることであるという。

このような表現について考える上でシンボルの問題は避けて通れない。描く人間が、どの程度伝統的なシンボルを利用するのか、どの程度新しいシンボルを生み出しているのかという問題である。伝統的シンボルの供給源は教会や民俗的な慣習、そして特別な学習である。患者たちの場合、自らの衝動と文化的な影響力との戦いが徹底して行われる時に問題はやっかいで同時に興味深いものになるという。とりわけ、エロスと宗教におけるシンボルが、健常者に比較して全く異なる規模で患者を支配していることが分かるという。

プリンツホルンは、これらの作品ではシンボルの解釈が、たとえ原作者の詳細な解説があっても不可能なのだという。それは問題の一部、外面的な側面に過ぎず、造形という事象はそれ自体が元来もっと深い問題を孕んでいるというのだ。つまり、形には患者の解釈や常識や教育によって与えられる意味とは別個な意味を担い得る力があるということなのである。この領域の形象は、厳密な意味で再現的に描写することは不可能であって、線のリズム、フォルム間の関係、色彩の象徴性が感情の体験を伝えることで象徴的にのみ表現され得るという。彼は健常者と精神病患者の造形的基盤は同じだと見なしている。誰もが意識にのぼらない要素を造形の中に持ち込んでいるということである。それが、造形にある超個人的要素ということなのだが、これは重要な指摘ではないだろうか。こうなるとプリンツホルンがイコノロジストに見えてくる。イコノロジーについてはアーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿るに書いておいた。健常者と患者の大きな差は、健常者には、いつかは自分の制作したものが受け入れられるだろうという期待が、人間との繋がりの内にあり、患者には他者との繋がりが、その意欲も能力も欠けているという点であるという。その意味で結果に「無関心」な芸術と言える。

結論と問題点から

この本に紹介されている作品は、そのほとんどが施設の住人、つまり精神病が疑いない人たちのものであり、いかなる他者からの要求なしに、患者自身の欲求から生まれた自発的な作品である。これらの患者の大多数が学校時代以外には美術の教育や絵画やスケッチなどの訓練を受けていない素人であった。そのような人たちが誰もが認めるような芸術的で魅力的な造形作品を創作することは珍しいことではない。そして、それらは、子どもたちや発展途上国といわれる国の人たち、歴史的に文明化される以前の人たちの作品、それらの作品との驚くべき類似を見せている。

『エッケ・ホモ』 作者未詳 本書より

だが、最も緊密な類似性は我々の時代(1920年前後)の芸術とのそれであろうという。ここは美術史家としてプリンツホルンの眼が生きている。この時代の芸術は、その直観とインスピレーションを熱望する中で、精神分裂症において必然的に発生する心的な態度を意識的に追求し始める。表現主義やシュルレアリスムの作品などを見ていただければよい。この時代の傾向が、分裂病の心的な生活の理解を容易にしてくれるなら、逆にこの洞察が時代の傾向を評価する助けになるかもしれないという。そこにあるのは全世界との「神秘的合一」の中心に立って不遜に豪語する個人から湧き出る創意ではなく、伝統的な世界感情の崩壊なのである。

起源が異なる芸術同士が外見的に似ている事実をどう説明してよいか分からないとプリンツホルンは嘆いている。記号、シンボル、表象が本来どのように発生したかという問題は未解決のままだというのだ。この頃、フロイトのトーテムやユングの学説は知られ始めていた。原初のイメージ(おそらく元型のこと/筆者)は大変意義深いものではあるが、系統発生論上の残痕、退化、太古の思考については避けたいという。そこには自然科学的な思考方法がある。それを乗り越えるためには心的な生活の創造的な要素がそこにあってしかるべき場所に戻って観察するしかないというのである。

自分たちの資料であるハイデルベルク・コレクション(現プリンツホルン・コレクション)と一般の造形芸術との間に境界線を引くことはできないと彼はいう。その境界は流動的であるからだ。創作力はいかなる人間にも生まれつき備わった素質である。伝統と教育はこの人間の本源的な素質を飾る装飾にすぎない。この本源的な過程では造形的な無意識の要素が純粋に具現される。この過程を研究するための資料は自分たちのコレクションが最適だろうと自信を持っている。ただ、この研究は途上にあり、その努力の焦点は創造的人間の世界感情と精神病患者のそれとの関係であるという。最近になってその最初の礎石が据えられたのであって、将来は喜びと活気に満ちた世代によっていかなる懐疑的認識をも圧倒する確信に満ちたものに取って代わられるだろうと結んでいる。

プリンツホルン『精神病者の造形』“Bildnerei Der Geisteskranken” 1922

プリンツホルンの死後、精神病者の芸術作品に関する関心は特定の芸術家を除いて薄らいでいった。そして、ナチスの政権下になると、新たに制作された患者の作品は全て廃棄処分にされ、プリンツホルンの著作を絶賛したマックス・エルンストらシュルレアリスト、モダニズムの芸術家たちの作品も「退廃芸術」の烙印を押され、作品は美術館から追われた。1940年以降は、患者たちもナチスの優生政策のために劣等人種とみなされ、プリンツホルンのコレクションに貢献した患者も20人以上が安楽死の犠牲になったといわれる。だが、ハイデルベルク精神科主任教授カール・シュナイダーがそれらの作品を「劣等遺伝子」の「証拠品」として残したのであった。こうして、ドイツ国内を巡回した「退廃芸術展」に貸し出された作品以外は、破壊をまぬがれた。プリンツホルン・コレクションは、皮肉にもこのような運命を経て生き残ったのである。

 

 

その他の参考著書

ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュット』

末永照和『評伝 ジャン・デュビュッフェ』
極めて詳細にデュビュッフェの生涯を追っている立派な著書である。

ユルギス・バルトルシャイティス『幻想の中世ⅠⅡ』

 

 

T.S.エリオット part2 『四つの四重奏』比較文学の大渦へ

T.S.エリオット(1888-1965)1923年

トマス・スターンズ・エリオットには詩人としてだけではなく、文芸批評家としての顔がある。ちょっとご紹介しておこう。『エドガー・アラン・ポーからヴァレリーへ』でポーの作品を批評している。八木敏雄編『エドガー・アランポー』からの要約であるが、書き出しはこうである。

「その作品をつぶさに調べてみると、ずさんな書き物、広い読書や深い学識に支えられていない未熟な思考、また主として経済的必要に迫らてであろうが、完全性に欠けた、さまざまな種類の思いつきの実験しか見出せないように思える。だが、これでは公平さを欠くだろう(八木敏雄 訳)。」ここから、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーというフランスの詩人たちへの影響を語っていく。ポーの影響は、英米では皆無であるのに対してフランスでは絶大だったというのである。

ポーは例外的なほどに、詩の呪文的な要素である文字通りの意味の「韻文の魔術」に鋭敏であった。その効果が我々を深い感情の奥底で揺さぶるのだ。しかし、彼は正しい音を持つ言葉を選ぶのに慎重だったが、正しい意味を持つ言葉に関してはそうではなかった。『大鴉』は、ここでやり玉に挙がっている。ポーが短い詩しか書けなかったのは単一な情調の表現を望んだからであって、それは、何故ポーの作品が少年期からまさに脱却しようとする人生の一時期に強く訴えかけるのかを説明する。「ポーの生きいきした好奇心が選び取る形態は前思春期の精神状態にある者が喜ぶようなそれである――自然や力学や超自然の驚異、暗号文やその解読、謎に迷宮、機械仕掛けのチェス・プレイヤーに奇想天外な空想飛翔‥‥(同上)」というわけだ。欠けているの知力ではなく人間全体としての成熟であるという。ここでは、逆にエリオット自身が目指そうとしているものが透けてみえるのである。

エドガー・アラン・ポー(1809-1849)1849年

そのようなポーに、ボードレールは孤独な呪われた詩人の原型を見、マラルメは韻律法に眼を開かされ、ヴァレリーは「書く自己を観察する作業」への興味をかきたてられたという。ヴァレリーは内省的批評活動を詩学に浸透させるという行為を極限まで押し進め、その極限で批評活動が詩学を破壊しはじめるという。そして、我々が持つべきはポーとヴァレリーの美学を包含しながら、かつそれを超越する美学であるというのだ。しかし、自分はそれに頭を悩ませない。何故なら詩人の理論は詩作の実際から出てくるのであって理論から生まれるのではないからだという。詩は詩人の分泌物というわけである。

そして、こう結ぶ。ボードレール、マラルメ、そして、特にヴァレリーを通してポーを眺めることによって、全体として見たポーの作品の重要性をよりいっそう確信するようになる。未来のことに言及するならヴァレリーに見られるような過剰な自意識と言葉に対する極端な敏感さや関心は、人間の精神には耐えがたく破壊的であろう。それは科学や政治・社会機構が無限に複雑化すると、ついに人間は反発を感じ、その重荷を負い続けるより原始的な苦難を受け入れたいと望むようになるのと同じではないか。それについては自分は一定の意見を持たないので、読者の判断に委ねたいとしている。ポーは落とされたり、持ち上げられたり色々なのだが、エリオットの批評が非常に知的だが冷たいとよく言われる理由は分かるような気がする。

ヴァージニア・ウルフは、エリオットのこの冷たさを面白く書いている。「‥‥『批評家たちは、僕が学があって冷たいなんていってますが、』と彼は言った、『本当はどっちでもないんです』。こう言ったところを見ると、冷たいというのは、少なくとも彼の痛い所をついているに違いないと思う。‥‥しかしエリオットっていう男はいったい何なんだろう。彼をトムって呼べるようになるのだろうか。‥‥善き心っていうものは耐えているものなのだろうか。そして、人がそれに引かれたり、それを大事にしたりするのは、こっちにも善き心があるからなのだ。もっともトムは、私の書くものには、耐えてくれないらしい、チキショウ ! (T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』八代中 他訳)」

高柳俊一『T.S.エリオットの比較文学的研究』

僕が勤めていたカトリックの学校で長く同僚として教えていた神父さんがこの夏のはじめに亡くなった。絵の好きな人で御自分もよく描いたりしていて、その作品を見せてもらったことも何度かある。寡黙な人で自分の方から色々話し出すという人ではなかったが、淋しい。亡くなってから知ったことだけれど彼は、エリオットの詩が好きだったという。それで、今回はエリオットを取りあげる気になったのである。エリオットの晩年は宗教詩というべきものに傾斜していくのだが、そこから生み出される深い表現の源は老いを見詰めていくことにあったといわれる。今回はエリオットの詩『四つの四重奏』を標的に比較文学の観点から高柳俊一さんの『T.S.エリオットの比較文学的研究』を中心にご紹介する。

高柳さんは1932年のお生まれ。上智大学文学部を卒業後、アメリカのフォーダム大学で博士号を取得。その後、ドイツのザンクト・ゲオルゲン大学で神学を研究され、カトリック司祭に叙階されている。上智大学英文科教授を務められた。主な著書に『人間と都市』『ユートピアと都市』『精神史の中の英文学』『近代文学の中のキリスト教』『T.S.エリオットの思想形成』などがある。

1914年にエリオットは奨学金を得てヨーロッパ大陸経由でロンドンに到着しオックスフォードに落ち着いた。留学生活は「無感覚」という言葉で表現されるほど憂鬱なものになっていった。それを救ってくれたのエズラ・パウンドとの交流だった。パウンドは、ヴィクトリア朝の文学観から早く抜け出して新しい詩風を作り上げようとしていて、ジェイムズ・ジョイスなどの若い作家たちを積極的に支援していた。彼は、エリオットよりも早くロンドンで活躍しはじめたアメリカ人であったが、英国とアメリカの詩人たちが協力し、互いの作品を知り、相互に影響しあうような「詩における現代的な運動」を初めて可能にしたと高柳はいう。ちょうど、西側と旧東側の作曲者たちに対するギドン・クレーメルの活躍を思わせるものがある。ただ、パウンドの場合、晩年は不遇だった。

エズラ・パウンド(1885-1972)
ロンドン時代 1913

20世紀初頭の英文学は、19世紀末以来のフランス文学の流れと批評の影響下にあって、それらを吸収発展させた結果、モダニズムの可能性が開けていった。エリオット自身もそうであった。彼は、最後の評論集『批評家を批評する』の中でパウンドの手法をこのように述べている。それはとりもなおさずその頃のモダニズム騎手としてのエリオットの立場であったろうと高柳は書いている。「パウンドの『自由詩』は韻律法の厳格な形式やいくつかの異なった規則を飽くことなく取り上げてきた詩人のみに可能なものである。‥‥パウンドの詩における自由とは、自由と規律との対立から生じる緊張状態のことである。実際そこには、厳密な韻律法による詩と自由詩という二種類の詩があるわけではない。訓練を重ねた結果、本能的に形式を操ることができるようになり、その都度の目的にふさわしい形式を操ることができる、といった熟練があるのみなのだ(高柳俊一 訳)

『荒地』は、当時パリにいたパウンドによって大幅な編集の手が加えられたのはよく知られている。エリオット自身が彼のことを「主導権を握った演出家」と呼んでいる。これによって「ぶざまに延びて混乱の極みの詩」と呼ばれた『荒地』は半分の長さになったが、パウンドはその詩に自分の言葉を付け加えることは一度としてなかったという。この編集によって『荒地』がある程度筋の通ったものになったのか、逆に論理性が切断されてコミュニケーションの欠如を招いたかは議論されてきた。おそらく、前者であったろう。

西脇順三郎は、エリオットが詩をつくる時、詩の世界としての必要なメカニズムとして異なったものを結合させて、詩の内面的な構成を全面的に作り上げる(新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』)と述べている。外面的な構成ではないのだ。それはライプニッツの言う同じ構造を繋げていく結合術とはいささか異なるし、ウィリアム・ブレイクの神話のように複数の物語の同時進行とも異なるのである。単なるコラージュとは、ちょっと違うように僕は思う。パウンドは、エリオットの詩を読んだとき、ラフォルグ的なアイロニーに「厳密な不明確さ、計算され尽くした曖昧さの使用」があることに注目していた。このメカニズムと不明確さ、あるいは曖昧さと内面的な構成のせめぎ合いは、ある種の律動を呼んでかなり手強い。冒頭のポーの批評でさえ、そのようなある種の揺れが存在する。いわば、インテリジェントに変容された文章と世俗なそれとが内的な連想によって織りあわされるために表現されたイメージは飛び地のように広がって見える。ともあれ、パウンドの力によって1922年に発表された『荒地』は、ジョイスの『ユリシーズ』と共にこの時代の代表的な作品として評価されていくことになるのである。

渡英した翌年、エリオットはヴィヴィアンという英国の女性と結婚した。今回、伝記についてはピーター・アクロイドの『T.S.エリオット』からご紹介する。表現の才があり、機知のある、女優を思わせるような人であったが、自意識が強く神経過敏になりがちなであったともいう。エリオットは銀行に勤めながら、新聞雑誌に寄稿し、自分の主幹する雑誌『クライテリオン』の編集さえした。その雑誌には友人のパウンドやハーバート・リード、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、そしてガートルード・スタインらが寄稿していた。しかし、その頃、神経衰弱と診断されて、時々仕事を休んで旅行などの休暇をとらざるを得なくなるし、彼女も病気がちでエリオットはその世話もしなければならなくなり、かなり衰弱していった。そんな頃、『荒地』は出版されるのである。

彼女は神経過敏となっていき、病気は進行していった。郊外の小さな別荘を借りて養生するようになり、休みの日や休暇にエリオットはそこを訪れたが、医療費と家賃のために経済的にも逼迫していった。詩作の炎さえも消えかかったのである。しかし、助け舟がやってくる。1925年に出版社で働くことができるようになる。だが、ヴィヴィアンはリュウマチを伴う神経痛とその後遺症、あるいは神経症が進行しはじめていて、お互いの苦悩は深まるばかりだった。結局、彼女の兄に相談し、経済的な保証をした上で居所を明かすことなく彼女との別居に踏み切ることになる。致し方なかったとはいえ、この負目はヴィヴィアンの死後まで続いたという。

1927年にエリオットが、ユニテリアンからアングロ・カトリックに改宗したことは part1で述べたが、この年、同時に英国に帰化している。1930年には『マリーナ』や『灰の水曜日』などの詩も作られたが、より新しいものを模索し始めていた。1934年に聖スティーヴン教会のチータム神父のもとで、この教会の代表委員となり、教会の財務管理やミサ中の献金集めの監督さえ行ったのである。この頃のエリオットは詩劇のための戯曲をいくつか手がけていて、舞台にかけられたものの中で『岩』や『寺院の殺人』、それにもっと後の『カクテル・パーティー』は大きな成功を収めたようだ。この頃の詩『マリーナ』から一部ご紹介するが、旧約聖書のコレヘトの言葉を思わせるようなペシミズムが滲み出ている。

‥‥
犬の歯を研ぐ者は
死に向かい
蜂鳥の栄光に輝くものは
死に向かい
飽満の淫売の館に坐す者は
死に向かい
動物の恍惚を味わう者は
死に向かい
かくて彼らは空っぽになって風化する
‥‥
(古川隆夫訳)
‥‥
Those who sharpen the tooth of the dog, meaning / Death
Those who glitter with the glory of the hummingbird, meaning / Death
Those who sit in the sty of contentment, meaning / Death
Those who suffer the ecstasy of the animals, meaning / Death
Are become unsubstantial, reduced by a wind,
‥‥

エリオットは、早くから現代作家のオリジナルな文章などほとんどが出来そこないであって、古典の輝かしい文章を変容させることが作家の使命だと思っていた。その意味ではマニエリスムの作家だと言える。彼が理想としたもの、それが、ヴェルギリウスとダンテだった。ローマの声、ラテン語を代表する最高の声としてのウェルギリウス、キリスト教の教父たちに認められた『牧歌』の神秘性を持ち、ダンテが『神曲』の中で「もはやこれ以上先を見極めることのできない場所にお前は到達した」と述べた作品である。そのダンテは、自らの『神曲』をトマス・アクィナスの思想を土台に崇高なアレゴリー体系を持つ構造物、被造宇宙に対応する「神のまねび」にまで高めたという。この頃、エリオットはジャク・マリタンの新アクィナス主義を通じて、ダンテの古典主義的な秩序という理想へ再び繋がろうとした。それは『四つの四重奏』へと結実してゆくのである。

高柳は、エリオットには一種の文化的悲観論のようなものがあり、彼自身が無意識に持っていたピューリタン的な世界理解から生じたものかもしれないと述べている。そのような意識から当時のモラルというものに対する批判が生まれた。彼にとって近代の精神史は頽廃への進行であった。彼は評論『異神を追いて』の中で近現代の作家たちを攻撃し、近代そのものの価値さえ否定する。エリオットの改宗はモダニズム文学との決別であったという。こうした世俗化する流れの中でジョイスにも文学が救いであり、宗教の代用物であったとジョイスを評価している。

ジョイスの小説、『ユリシーズ』は複雑に絡み合った糸、混沌であり、絡み合うことによって膨らみ巨大なアナーキーへと成長していく神話形成であった。今日の神話形成、ポスト・ナラティヴ、神話的英雄の原型を借りるポスト・フィギュラティヴといった批評原理の先駆者としてエリオットを見ることも可能かもしれない。『荒地』と神話の関係は part1 で述べた。フレイザーの『金枝篇』はそれらの形成に大きな役割を果たしたのである。人間の生存の様相とその世界はストーリーとしてではなく神話と夢という無意識の同時性をもつ連想の集合体となる。スロップ・フライの文学の統合原理としての神話が思い浮かぶが、エリオットやジョイスの作品はこの神話解釈を通して古典化され、それに伴ってモダニズムも受け入れられていったというのは皮肉である。ジョイスの他にエリオットが評価していたもう一人の文学者がいた。それがイエイツだった。

当のイエイツ(1865-1939)は、エリオットの作品をマネの絵と比較して、自分はあの灰色がかった中間色が我慢ならないと述べ、明るい色彩や光が欲しい、そのようなエリオットの詩はシェイクスピアや聖書の翻訳者たちの末裔に加えることは出来ないとして、彼は詩人というより風刺家だと断定している。要するにエリオットの作品には感情の昂揚というものがないことに不満なのである。しかし、二人には荒廃した当時の精神風土を受け入れなければならないという共通の認識があった。エリオットはこの非神秘化された世界をすでに否定できない人生の事実として受け止め、自分の文体と言語をできるだけこの現実に近いものに煮詰めようとした時期があった。イエイツの出した答えは新しい神話の創造、世界の再神話化であったというのだ。

そして、1940年、エリオットは62歳になっていた。代表作の『四つの四重奏』が出揃う期である。60歳代にイエイツも『塔』(1928)や『螺旋階段』(1933)といった詩を残している。エリオットが気に入っていたイエイツの詩の一節がこれである。

君は、愛欲と狂気が
私の老年に寄り添ってご機嫌をとるのを、恐ろしいことだと思う。
若いときには愛欲も狂気も、それほど厄介なものではなかったが、
今、私を歌へ駆り立てるものが他にあるだろうか。
(高柳俊一訳)
You think it horrible that lust and rage
Should dance attendance upon my old age;
They were not such a plague when I was young:
What else have I to spur me into song?
” The spur,”

エリオットは、青年期から自身の「老人」を意識していたという。それは単に個人的な問題だけでなく、文明的・宇宙的な規模の問題であったと高柳は指摘している。彼の若い頃の詩『プルーフロックの恋歌』には既にこの一節があるという。

年をとる‥‥ 年をとる‥‥
ズボンの裾をまくって着るようになるだろう。
(高柳俊一訳)
I grow old‥‥ I grow old‥‥
I shall wear the bottoms of my trousers rolled.

T.S.エリオット『四つの四重奏』
四つの楽章のように構成されている詩が、「バーント・ノートン」「イースト・コウカー」「ドライ・サルヴェィジズ」「リトル・ギディング」という副題のもと四部で構成されている。

『荒地』が書かれた頃の、ヴィヴィアンとの生活、銀行での務め、そして文筆活動という多重の軋轢の中で、心理的に消耗していった自分を漁夫王(part1参照)という神話の登場人物にあてはめ、それを老人の体験という形で表現してきたとも高柳はいう。それからの歩みは『四つの四重奏』のうちの「イースト・コウカー」の中でこう纏められた。

こうして私は道のりの中ほどまで来た、二十年が過ぎ去って――
多くは無駄に過ごしてしまった二十年、二つの大戦に挟まれた歳月――
言葉をどう使うのか知ろうと努めて、‥‥
(高柳俊一訳)
So here I am, in the middle way, having had twenty years ――
Twenty years largely wasted, the years of l’entre deux guerres ――
Trying to learn to use words,‥‥

イエイツの「肉体という廃墟」「緩やかに進む血液の腐敗」「沈滞した老衰」といった表現は若者のエロスが理想化され、美そのものの象徴となって光と輝きを増していくことの相反としての肉体の表現である。イエイツもまた漁夫王ではなかったのか。若さを取り戻したいという願望と再生への確信がイエイツには内在していて、絶望とともにそれを乗り越えようとする試みが詩作であったと高柳は言う。ここに人間の死と生を超越する次元が「すべてが変わった、完全に変ってしまった。恐ろしい美が誕生したのである」という言葉と共に生まれるという。エリオットもまたそのような次元を見つめていた。若さも再生も死も生もが折り畳まれ、その一点の「時」の上でシヴァ神は踊る。相反するものの合一。エリオットは、第一部「バーント・ノートン」の中で深く美しく詠っている。長い引用になるけれど、このパートは緊密に結びついていて途中で切ることができない。

‥‥
廻る世界の静止の点に。
肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点――そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もない方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏など存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
そこにわたしたちはいたとは言えるけれど、どこかは言えない、
どれくらいの間なのかも言えない、それを時間の中に置くことになるから。
現実的欲望からの内的な自由、
行為と苦悩からの解放、しかも、まわりは
感覚の恩寵に、静止かつ動く光輝に、囲まれている。
運動のない〈止揚〉、消去のない
集中、新しい世界と古い世界が
二つながら明瞭にされ、
その半恍惚の完成と
半恐怖の解消の中で、了解される。
それでも、変わりゆく肉体の脆弱さの糸で織られた
過去と未来の連鎖が、
肉体の耐え得ぬ天国と地獄から
人類を守ってくれるのだ。
過去の時間と未来の時間は
ごくわずかの意識しか許さない。
意識するとは時間の中にいないこと、
だが、時間のなかでのみ、薔薇園での一時(ひととき)や、
はたはたと時雨の叩く四阿(あずまや)での一時、
霧の日の風吹き抜ける教会での一時が
思いだされもするのだ、過去と未来に取り込まれたまま。
時間を通してのみ時間は克服される。
(岩崎宗治訳)

‥‥
At the still point of the turning world. Neither flesh nor fleshless;
Neither from nor towards; at the still point, there the dance is,
But neither arrest nor movement. And do not call it fixity,
Where past and future are gathered. Neither movement from nor towards,
Neither ascent nor decline. Except for the point, the still point,
There would be no dance, and there is only the dance.
I can only say, there we have been: but I cannot say where.
And I cannot say, how long, for that is to place it in time.
The inner freedom from the practical desire,
The release from action and suffering, release from the inner
And the outer compulsion, yet surrounded
By a grace of sense, a white light still and moving,
Erhebung without motion, concentration
Without elimination, both a new world
And the old made explicit, understood
In the completion of its partial ecstasy,
The resolution of its partial horror.
Yet the enchainment of past and future
Woven in the weakness of the changing body,
Protects mankind from heaven and damnation
Which flesh cannot endure.
Time past and time future
Allow but a little consciousness.
To be conscious is not to be in time
But only in time can the moment in the rose-garden,
The moment in the arbour where the rain beat,
The moment in the draughty church at smokefall
Be remembered; involved with past and future.
Only through time time is conquered.

 

ミュージカル『キャツ』のポスターとエリオットの『キャッツ』

もう一つ、是非、つけ加えておきたいのは、モノトーンだとか冷たいとかいわれるエリオットが、アンドルー・ロイド・ウェバーの台本で知られるミュージカル『キャツ』の原作を書いていることだ。子供たちのための詩の絵本だがとても楽しい。1939年の作品である。副題のオポッサムおじさんは、確かパウンドがエリオットにつけたあだ名だったと思う。意外な一面が有る方が世の中は面白い。ヴィヴィアンの亡くなった後、再婚したエリオットの晩年は幸福だったようだ。

 

エリオット自身の朗読の録音もあるのだけれど、彼の『灰の水曜日』を俳優のジェレミー・アイアンズが朗読した録音があったので紹介しておきます。彼の詩を英語で聴いてみたいという人はどうぞ、いささか音楽の音が大きいのが難だけれど原詩の美しさがよく分かる。

 

このブログも100話を超えるくらいから少し変化をもたせようかと考えてきたのですが、外部の評価も良くないこともあって、来年2019年から本の紹介に特化するのをやめてエッセイ風のものも混ぜて幅を広げたいと思っています。今、一話が平均8000字くらいの量ですが、もっと短いもののほうが読みやすいのではないかと思ったりしています。勿論、面白い本があればご紹介も怠りません。これからもどうぞごひいきに。

 

 

 

 

 

 

 

 

その他の参考図書

アメリカ文学作家論選集 
『エドガー・アラン・ポー』
エリオットの他、D.H.・ロレンス、W.H.・オーデン、アレン・テートらの「ポー論」が集められている。

ピーター・アクロイド
『T.S.エリオット』
伝記として充実している。

西脇順三郎 新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』

2018年11月16日 | カテゴリー : Blog | タグ : | 投稿者 : 植田信隆

T.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリック

歌川国貞(1786-1865/三代目豊国)『鳴神』 江戸

能の『一角仙人』や歌舞伎の『鳴神』が T.S.エリオットの詩と繋がっていると言ったらエリオットファンは興がるのか、嫌がるのかどっちなのだろう。時々、非常に遠いものを結び付けてみる。ランダム・リンクではないけれど遠いところへリンクを張るとスモール・ワールドを作れるらしい。

『鳴神』は初代の市川團十郎に端を発し、七代目團十郎によって歌舞伎十八番に選ばれた。鳴神(なるかみ)上人が世継ぎのない帝のために皇子誕生の願をかけ成就させるのだが、寺院建立の約束を反故にされたため龍神を滝壺に封印して国中を旱魃にしてしまう。そこで宮廷一の美女である雲の絶間が送り込まれて上人を籠絡し、滝壺の注連縄を切って龍神を解放するという話になっている。

『一角仙人』の方は、天竺の波羅奈(はらな)国での話。鹿のつるむのを見た仙人が思わず漏精し、そのしずくの掛った草の葉を食べた雌鹿が額に一つの角のある人の子を産む。その子は神通力を得て一角仙人となったが、ある日濡れた山道で足を滑らせて癇癪を起こし、雨の原因である龍王をことごとく岩屋に閉じ込めてしまい、天の下を旱魃にしてしまう。王国の智臣が宮廷一の美女である扇陀女(せんだにょ)と五百人の美人を一角仙人のもとに送った。淫欲に染まった仙人は神通力を失って、ついに身罷(みまか)り、龍王たちは解放されるという話が『今昔物語』や『太平記』にある。ここから一角獣の話に繋がっても面白いのだけれど、今回は見送ります。その話をもとにした能は金春禅鳳(こんぱる ぜんぽう)作で、一角仙人が扇陀女の舞にみとれて一緒に相舞(あいまい)するのが見どころになっているようだ。僕はまだ見ていない。見たい !

ジェシー・L・ウェストン(1850-1928)
『祭祀からロマンスへ』

それが、一体エリオットの詩と何の関係があるかというと話は長いのである。エズラ・パウンドやイエイツ、アーサー・ウェイリーが一時期没頭していた能の「謡」との関係は、エリオットにはほとんどないようで、インド思想と関連している。彼を一躍、詩壇の檜舞台に押し上げた作品といえば『荒地』なのであるが、この作品の注にはわざわざ文化人類学者であるジェシー・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』という著作が発想のもとになっていると書かれていた。この著作は、聖杯伝説が古代のギリシア・オリエントの祭祀や秘儀と関わっていることをJ.G.フレイザーの『金枝篇』やレオポルド・フォン・シュレーダーの『リグ・ヴェーダと笑劇』などの説を交えて詳述している。

その中に古代インドの叙事詩であるバラタ族の物語『マハーバーラタ』もあって、リシュヤシュリンガの物語が紹介されている。「カモシカの角を持つ者」の意味だが、仏教説話では「一角仙人」と呼ばれるようになる。聖仙ヴィバーンダカが苦行の後、湖で沐浴をしていると天界一の美女と謳われたアプサラスとウルヴァーシーの姿を見て漏精し、その水を梵天の命(めい)で牝鹿に変身したウルヴァーシーが飲んで額に小さな角のあるリシュヤシュリンガを生んだ。ここまでは「一角仙人」の話に近い。

彼は父のヴィヴァーンダカと二人だけで森の中で苦行に励み、若き婆羅門に育った。隣国ではローマパーダ王が婆羅門を騙したために、すべての婆羅門に見捨てられ祭祀がとり行えなくなり、インドラの怒りに触れて大旱魃が起こった。それを除くためには一点の汚れもない聖なる婆羅門であるリシュヤシュリンガをこの国に連れてこなければならない。王の命を受けた年老いた娼婦が、自分の美しい娘と数人の美女を心地よい庵とうつくしい花々、人口の樹に種々の果物を乗せた船とともに彼のもとに送る。父の留守に娘はリシュヤシュリンガに接近するのだ。彼は、父以外の人間に初めて出会った。それも、とびきりの美女だったのである。父は悪魔の誘惑であることを警告するが、娘はまんまと彼を船に乗せ旱魃の国へと向かった。すると王国は黒雲に覆われて盛大に雨が降り始め、王は自分の娘を若者に妻として与えるという話になっている。

結婚の儀礼が〈豊饒〉祭祀の一部をなしているという分けなのである。そして、それは水の解放と大地の豊饒という神話の一例となっている。儀礼の効能が高まるかどうかは司宰者が儀礼に先立って如何に貞節を厳守するかによるという。一角仙人や鳴神の劇は、この『マハーバーラタ』の豊饒祭祀の話が『ジャータカ』などの仏教説話に取り込まれ、『今昔物語』などで紹介されるに及んで生まれたと推測できる。しかし、意外にもウェストンは「聖杯伝説」との関連を指摘するのである。

トマス・スターンズ・エリオットは1888年アメリカはミズリー州セントルイスに生まれた。伝記については、T.S.マシューズの『評伝T.S.エリオット』からご紹介する。父方の祖父であるウィリアムはユニテリアン派の聖職者であり、植民地時代からアメリカ市民生活における指導的な役割を担ってきた家系の出身といわれている。このセントルイスに教会を建て、セントルイス・ワシントン大学の創立に尽力し、後にその総長となる。教育にも熱心な人であり、奴隷制の廃止も粘り強く主張した人だった。時には詩を書くこともある軽妙な文筆家であったという。ユニテリアンについてはエミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で触れておいた。

父親のヘンリーはユニテリアンの牧師を継ぐことなくあっさり実業家になった。しかし、ユニテリアンの信仰を持ち続け、禁酒と禁煙を守る模範的市民だったといわれる。母はニューイングランド出身でセントルイスの師範学校で教師をしていた人だった。詩を書くことが念願であったという。トマスはその七番目の子供で、一番上の姉とは19歳の年の開きがあった。末っ子として猫可愛がりされたのは想像に難くない。幼いトマスは本好きであったが、彼が読むことを許されない「俗悪書」があったようで、それが『トム・ソーヤ』と『ハックスベリ・フィン』であったという。気の毒な ! 後年エリオットは「幼い頃あれを読んでさえいたらと思う。今はどうしても批評家の眼で読んでしまう」と嘆いたという。

1906年ハーヴァードの学生となったエリオットは、ダンテの『神曲』をイタリア語で口ずさみながら三年間で文学士の資格を得ている。その頃、ハーヴァードの教授には孔子好きのフランス文学者アーヴィング・バビットと哲学者のバートランド・ラッセルがいた。この二人からの影響は大きかったようだ。バビットを通じてフランスの象徴派の詩人たちを知る。一方で独自にラフォルグのことを知ったエリオットは、彼の詩集全三巻を取り寄せた。ラフォルグは中原中也を魅惑した詩人でもあるが、エリオットは彼の詩集を読んだ最初のアメリカ人ではないかといわれている。フランスへの憧れが彼をパリへと一年間遊学させることになる。そこでベルグソンの講義を聴講した。

しかし、特筆すべきは大学院時代二年間サンスクリットを一年間パタンジャリを研究したことだった。パタンジャリに迷いブッダにしびれていたのだ。『荒地』には『ウパニシャッド』や、いわゆる南伝仏教経典である『スッタニパータ』の内容が見られるという(柴田多賀治『エリオットとインド思想』)。分かりやすい例で言えば『荒地』の最終連において三度繰り返される言葉「シャンティ」がある。これは、『ウパニシャッド』にみられる結語で、反復されて使われる「知的な理解を超える平安」を意味する言葉といわれている。

ヨーロッパの偉大な哲学者のほとんどが小学生にみえてくる、そんなインド哲学者が追求していた問題、それを理解しようとすれば、アメリカ人、あるいはヨーロッパ人としての思考や感性を忘れ去るほかないとエリオットは書いている(『異神を追いて』)。若き日に東洋の神秘的な哲学思想の洗礼を受けたのである。その彼がヨーロッパの古代にも眼を向けたことは容易に想像できるのではないか。エリオットを可愛がっていた長姉のエイダは、彼が「人間関係」から引きこもり、現実の中ではただ「演技する生活」になって心の奥底の神秘主義にはまり込んでいくことを危惧していたという(アクロイド『T.S.エリオット』)。彼には神秘主義への秘めた憧れがあった。

『エリオット評論選集』「異神を追いて」収載

『リグ・ヴェーダ』賛歌において、雷神インドラは悪龍ヴリトラを退治し、七つの大河を解放する。「水の解放」と「大地の豊饒」が言祝がれるのである。『金枝篇』によると、シュメール・バビロニアの生命原理神タムムズ(タンムーズ)の死は植物を枯らし動物や人の死を呼ぶが、女神イシュタルが冥界に下ることによって年の半分を地上に帰還できるようになる。フェニキアからギリシアに広がった古代祭祀の特徴を色濃く残す植物神アドーニスの祭祀は、アプロディーテーに愛された美少年アドーニスの物語としてギリシア神話で知られる。彼は、嬰児の折に冥界の女王ペルセポネーとアフロディーテーとの間で取り合いとなりゼウスの仲裁によって冥界と地上とを行き来するようになるが、成長してアフロディーテーとの狩りのさなか猪に突かれて死ぬ。その祭祀は、傷あるいは死によって神のもたらす生殖力が停止ないし休止することを意味し、その復活を祈る儀礼と考えられている。フェニキアにおけるアドーニスにあたるものが、現トルコ中央部であるフリギアにおけるアッティスであった。アッティスは穀物神であり、小麦の刈入れられる春あるいは夏にひき臼で挽かれて死に、それにかたどられた人形は哀哭とともに水に投げ捨てられ、次の年の復活が祈念された。エジプトではそれがオシリスにあたる。

『荒地』の冒頭「四月は最も残酷な月」もむべなるかなである。第一次大戦が勃発した1914年に大陸経由でロンドンに渡ったエリオットだが、この作品は大戦の終結した4年後の1922年に発表された。大戦後の荒廃と混乱を詠った詩として注目されたのだが、それだけではないのである。古代祭祀イメージを当時の常況の中に滑り込ませているのだ。これがモダニズムの手法なのだが、エリオットの『荒地』の冒頭部分をご紹介したい。エリオットは1914年に南ドイツのバイエルンでウィーン出身の作家ホフマンスタールの作品を読んでいる。文学上の問題については次回 part2 で述べる予定です。この詩にでてくるシュタルンべルク湖は南ドイツにあり、ルートヴィッヒ二世の水死体が発見された所として知られている。王の死 !

Ⅰ 死者の埋葬

四月は最も残酷な月、リラの花を
凍土の中から目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を
忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた
夏がぼくたちを驚かせた、シュタルンベルク胡を渡ってきたのだ。
夕立があった。ぼくたちは柱廊で雨宿りをして
それから、日差しの中をホーフガルテンに行って
コーヒーを飲み、一時間ほど話をした。
ワタシハロシア人ジャナイノ。リトアニア生マレノ生粋ノドイツ人ナノ。
そう、わたしたち、子どものころ大公の城に滞在して、
従兄なのよ、彼がわたしを外につれ出して橇(そり)にのせたの。
こわかったわ。彼が「マリー、
マリー、しっかりつかまって」って言って、滑り降りたの。
山国にいると、とっても解放された気分になれます。
夜はたいてい本を読んで、冬になると南へ行きます。

(岩崎宗治 訳)

THE BURIAL OF THE DEAD

APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
With a shower of rain; we stopped in the colonnade,
And went on in sunlight, into the Hofgarten,
And drank coffee, and talked for an hour.
Bin gar keine Russin, stamm’ aus Litauen, echt deutsch.
And when we were children, staying at the archduke’s,
My cousin’s, he took me out on a sled,
And I was frightened. He said, Marie,
Marie, hold on tight. And down we went.
In the mountains, there you feel free.
I read, much of the night, and go south in the winter.

 

ジャン・フラピエ『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』
アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。訳者も述べているが、クレチヤンの著作で日本語訳された本はない。この解説書だけが存在している。惜しい。1988年刊

ウェストンの『祭祀からロマンスへ』では、インドやオリエントに伝わる古(いにしえ)の豊饒神話とケルトのアーサー王伝説が結びついて聖杯物語が成立したと考えられている。もともとキリスト教起源の話ではないという。ジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯伝説はウェールズかノルマンディー近くのアルモニカ出身であったジョフロワ・ド・モンムートが1136年に書いた『ブリタニア王列伝』に端を発するという。それをもとに、フランスの詩人クレチヤン・ド・トロワが大ブルターニュと呼ばれたブリテン島と大陸にある小ブルターニュと呼ばれた地域に残るケルトの伝承を参考にロマンス(物語)にした。こうして『聖杯物語あるいはペルスヴァル』などのアーサー王にまつわる物語が12世紀終わり頃に書かれる。13世紀初頭には、同じくフランス人ロベール・ド・ボロンの『アリマタヤのヨセフ』、続いてドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』などが書かれていて、かなりのヴァリエーションがあることが知られている。このエッシェンバッハの作が後にワーグナーによって楽劇『パルジファル』となるのは皆さんご存じだろう。

「聖杯伝説」における初期のテキストにおいて聖杯城は海上か海辺、あるいは河川の岸辺にあり、聖杯のその最後の在りかは島の修道院なのである。漁夫王が衰弱すると国土は旱魃に苦しみ、多くの民も死ぬ。国土の豊饒とその繁栄は単なる人間ではなく神聖な王の生命と活力に依存している。国土の荒廃は、ぺルスヴァルが聖杯と血をしたたらせる槍とは何かと問いを発しなかったことによるのではなく、王の病気あるいは体の障害から来るものであることをウェストンは確認した。ペルスヴァルの過失とは、問いを発しなかったために王を救えなかったことにある。彼は、聖杯城をもう一度探す旅に出るのである。そのために国土は “The Waste Land “、荒廃国、つまり『荒地』から解放されることがなかった。その詩『荒地』の「雷が言ったこと」から第5連をご紹介する。

 

ガンジスの水位は下がり、群葉は萎れ
雨を待っていた。黒い雲が
遠く、ヒマラヤ山脈の上に湧き出た。
ジャングルは蹲(うず)くまり、静かに身をかがめていた。
そのとき、雷が言った
DA
ダッタ――与えよ。我々は何を与えたか?
友よ、熱い血が心臓を揺さぶり
一瞬身を任せるあの盲進
古老の分別も引き戻すことはできない
これによって、これによってのみ、われわれは存在してきたのだ
それは新聞の死亡広告欄にも見られず
善意の蜘蛛の巣が覆いかくしてくれる回想録にも
人気のない部屋で痩せた公証人の開く遺言状にも
現われはしない
DA
ダヤヅワム――相憐れめ。わたしはただ一度だけ鍵が
回される音を聞いた、ただ一度だけ
われわれは鍵のことを思う、めいめい自分の独房にいて
鍵のことを思いつつ、めいめいの独房を確認する
ただ日暮れどき、霊気にも似た幽かな声が
一瞬、虐殺されたコリオレイナスを甦らせる
DA
ダミヤタ――己を制せよ。船は従った
楽しげに、帆と櫂に熟達した人の手に
海は凪いでいた。もし誘われれば、きみの心も快く
応じたことだろう、指図する者の手の動きに
従順に鼓動して

(岩崎宗治 訳)

Ganga was sunken, and the limp leaves
Waited for rain, while the black clouds
Gathered far distant, over Himavant.
The jungle crouched, humped in silence.
Then spoke the thunder
DA
Datta: what have we given?
My friend, blood shaking my heart
The awful daring of a moment’s surrender
Which an age of prudence can never retract
By this, and this only, we have existed
Which is not to be found in our obituaries
Or in memories draped by the beneficent spider
Or under seals broken by the lean solicitor
In our empty rooms
DA
Dayadhvam: I have heard the key
Turn in the door once and turn once only
We think of the key, each in his prison
Thinking of the key, each confirms a prison
Only at nightfall, aetherial rumours
Revive for a moment a broken Coriolanus
DA
Damyata: The boat responded
Gaily, to the hand expert with sail and oar
The sea was calm, your heart would have responded
Gaily, when invited, beating obedient
To controlling hands

 

DAは雷の音、ダッタ、ダヤヅワム、ダミヤタはサンスクリット語で、――でそれぞれ結ばれた隣の言葉がその意味である。三つのDAで分けられた四つのパートの内、二つ目の「友よ、熱い心臓を‥‥」で始まる部分は性の禁忌を侵したことを暗示してはいないだろうか。コリオレイナスはシェイクスピアが書いた最後の悲劇の主人公である。

T.S.エリオット『荒地』岩崎訳がすばらしい。

ウェストンは、キリスト教の儀礼の中核を求められるとするなら「礼拝者がたんに象徴的にだけでなく、実際にその分け前にあずかり、神と一体になることで、永遠の生命の確証を得る聖餐式の聖食であると言ってはならないだろうか(丸子哲雄 訳)」と述べている。フリギアにおけるアッティスの母、つまり大地母神キュベレーに捧げられた銘板には魚と杯がみられるという。さきほどのジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯と訳された「グラール」とは、当時、かなりの大きさの窪んだ平皿を指していたという。それはケルトに伝わる富と豊饒のをもたらす魔法の器であったのだ。水と豊饒の関係を示す象徴でもある。ボロンの『アリマタヤのヨセフ』では、ヨセフの義兄弟ブロンズが捕ってくる魚が食卓の片側に聖杯がその反対側に置かれる。食卓に着いたものは「大いなる心地よさ」と「心の満足」を得たという。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハでは、食卓にいる者一人一人に欲しい料理と飲み物が聖杯によってもたらされる。魚とは呑み込もうとする貧欲さの考えられうる千姿万態であるとユングは書いていたが、聖杯は逆に惜しみなく与える器なのである。ちなみに魚とキリスト教との関連はカール・グスタフ・ユング 『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に述べておいた。

カトリックとプロテスタントを分ける重要な要素はミサの有無であろう。カトリックの典礼に聖餐式の聖食という要素があるのは確かである。ウェストンはユダヤ人には安息日に魚を食べる習慣があり、その習慣は初期キリスト教に引き継がれ、魚、パン、葡萄酒による聖餐式が行われたという。1927年にエリオットがカトリックに改宗した理由がここらあたりに見いだされるかもしれないと僕は思う。何かを直感した。古代の再生儀礼と深く関わるカトリックのこの典礼に計り知ることのできない何かをである。伝統と正統を重視し、それらは相互補完的だとする立場にあるエリオットはこう書いている。「我々は世界を見るに際して、キリスト教の教父たちのような世界の見方を知る必要がある。そして、根源にたどりつくことの目的は、より大きな精神的知識をもって我々自身の状況に戻ってこられるようになることである(『キリスト教社会の理念』高柳俊一 訳)。」

高柳俊一『TSエリオットの比較文学的研究』

しかし、何故エリオットは、ローマカトリックではなくアングロカトリック、つまり英国国教会における初代教会との繋がりと典礼を重視する宗派に改宗したのだろうか。コモンセンスが重要だったのだろうか。ヒントは、彼が主幹していた『クライテリオン』誌に掲載された「論壇」の中の文章にあるようだ。英国はラテン文化とゲルマン文化双方の要素を共有して、二つの文化の懸け橋となっている。ローマ帝国がそうであったように、かつて英国も世界に広がる帝国であった。それゆえ、ヨーロッパのみならずヨーロッパとその他の世界を結びつけることができると考えた。第一次大戦を経験した者にとってそれは切実な問題であったろう。確かにローマ帝国からキリスト教的西欧としての神聖帝国は生まれた。しかし、文化再興の原動力として英国にそれを期待するのはすでに時代錯誤であったのではないか。もはや、世界の主導権は英国の手から滑り落ちていたのである。

高柳俊一は『T.S.エリオットの比較文学研究』の中でこうのべている。エリオットは、内にアメリカ生まれの知識人の不安定さを抱えながら、一方で現実には存在しない理念としての英国の文化伝統の理想を掲げて、自らそれと同一化していった。しかし、他方では、現実の英国が島国的で、ヨーロッパ大陸の伝統から切り離されていることを嘆いていた。このことは、彼自身の心的な不安定さを克服しようとする内的な圧力と理念と現実との複雑な絡みあいを考え併せて、初めて理解できることだという。そこには、文化の理想として西欧文化をより普遍的なものにしようとする無意識の傾向すら認められるというのである。彼にとって英国とは聖杯城だったのかもしれないのである。

 

その他の文献

T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』

J.G.フレイザー『金枝篇』第五巻
第四部―アドニス、アッティス、オシリス―
神成利男訳 国書刊行会

 

マハーバーラタ 第二巻 森の巻
「角のある聖仙の話」収載

西谷啓治『正法眼蔵講話』世界とは何かを知る

梁楷  澤畔(さわぐり)行吟図  団扇 部分  宋

太陽山楷和尚衆に示していわく「青山常に運歩し、石女夜児を生む」

雲門匡真(うんもん きょうしん)大師いわく「東山水上を行く」

良寛(1758-1831)は越後の出雲崎に名主の長男として生まれた。名家である。11歳の時、大森子陽の狭川(きょうせん)塾で儒学を学び名主見習いとなったが出奔、隣町の光照寺で出家、やがて、10数年の長きを備中玉島の円通寺に国仙和尚のもとで修行することになる。曹洞宗の禅寺である。

良寛は親しく道元の語録に接していた。『読永平録』という詩が残されている。当時、『正法眼蔵』は、今日のように一般に流布されておらず、写本のみが秘蔵されていた。彼が読んだのは『正法眼蔵』説もあるけれど、この詩に関しては『永平広録』か『永平略録』であったろう。良寛はこのように書いている。

春夜 蒼茫たり二三更
春雨 雪に和して庭竹に灑(そそ)ぐ
寂寥を慰めんと欲して良(まこと)に由(よし)無く
暗裏模索す 永平録
明窓の下 几案の頭(ほとり)
香を焼(た)き燈を点じて静かに披読(そどく)す
身心脱落して只だ貞実のみ
‥‥
五百年来 塵埃に委(まか)せしは
職(もと)より是れ法を択ぶの眼無き由る
滔々として皆な是れなり 誰れか為に挙する
古を慕い今に感じて心曲を労す
一夜燈前 涙留まらず
湿(うるお)い尽くす 永平古仏録
‥‥

しかし、良寛の遺墨には正法眼蔵の巻名を羅列したものがあるらしく、『正法眼蔵』を読んでいた可能性もある。嗣法の乱れが、卍山道白(まんざんどうはく/1636-1715)らの宗統復古運動を呼び起こした。それについては一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少し触れておいた。こうした流れの中で永平寺五十世の玄透即中(げんとうそくちゅう/1729-1807)による『正法眼蔵』95巻本の出版事業が道元の五百五十回忌に因んで計画され、享和二年(1802)に「本山版」として刊行されている(大谷哲夫『道元読み解き事典』)。『正法眼蔵』の75巻に色々付け加えられ、整理されたものが95巻本である。良寛が『正法眼蔵』を読んだとすれば、40歳半ば以降ということになるのではないか。

良や 愚の如く 道 転(うた)た寛(ひろ)し、
騰々(とうとう)任運(にんうん) 誰を得てか看(み)せしめん。
為(ため)に附(ふ)す 山形の爛藤(らんとう)の杖、
到る処 壁間(へきかん)に午睡(ごすい) 閑(しず)かならん。
(水月老衲仙大忍)

国仙和尚は良寛に上のような印可の偈を与え、良寛は30半ばにして寺を出て40前後まで諸国を旅することになる。故郷近くに戻っていた頃、円通寺の典座(てんぞ)であった仙桂の訃報を知らされる。典座とは、禅宗寺院の食事係である。容貌は古の僧のようであり、言葉少なく飾らず、ゆったりと話す人であり菜園を作り食事を作り続けた。それは真の道者の姿だったと追悼の詩を残している。

秋月龍珉『道元禅師の「典座教訓」を読む』

典座とはどのようなものなのか、その真の姿を自覚したのは他ならぬ道元自身であった。日本では、それがどのようなものなのか全く理解されていなかったのである。彼は典座のような労働に真の修行の一端を見た。それで、帰国後『典座教訓』という心得を書くのである。

1223年の四月、明全とともに宋に着いた道元は、しばらくその船に留まっていた。翌五月、そこに禅宗五山の一つである阿育王山の年老いた典座が椎茸を求めに来る。20数キロの道のりを歩いて来たという。日本産の干し椎茸は美味で知られていた。端午の節句が近いから修行僧たちにご馳走するのだという。

道元は「あなたのような年齢で典座のような煩わしい仕事を何故なさるのです。座禅し、公案を参究されればよろしいのに」と言った。泊まって行けという道元の誘いに「外国の人、あなたは、まだ弁道のなんたるかをお解りでない」という。道元は恥ずかしさを覚えて「どのようなものが文字なのか。どのようなものが弁道ですか」と聞いた。すると老典座は「もし、その質問の意味するところとすれ違わないなら、それが文字を知り、弁道を体得した人というものです」と答えて、納得がいかなければ阿育王山においでなさいという言葉を残して急ぎ帰っていった。

同年の七月、道元が天童山・景徳寺で無際了派(むさいりょうは)のもとで修行していた時、その老典座がわざわざ訪ねに来てくれた。道元は感激して再び問うた。

道元「いかなるものが文字なのですか」
典座「一二三四五」
道元「いかなるものが弁道ですか」
典座「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう/あまねく世界は今まで何も隠していない)」
道元は自分が少々文字の何たるかを知り弁道の何たるかを了ったのは実にあの老典座のお蔭であったと述懐している。

西谷啓治(1900-1990)

さて、今回のテーマは実はこの「文字」と「あまねく世界」なのである。前回ご紹介した西有穆山『正法眼蔵啓迪(けいてき)』開山のお示しじゃ! を補足するものなので、まだお読みでない方は是非そちらを読んでからご覧くださればと思う。そこで少し、ご紹介した西谷啓治(にしたに けいじ)さんの『正法眼蔵講話』からご紹介したい。

西谷は1900年、明治三十三年石川県鳳至(ほうし)郡 宇出津(うつし)に生まれる。父は呉服商だった。小学校に上がると両親と共に東京に転居。中学時代に父親を亡くし、自らも病気の為一年高校進学が遅れる。後に京都大学哲学科へ進むのだが、たまたま書店で手に取った西田幾多郎の『思索と経験』を読んだことによる影響が大きかったと言われる。それは「自分よりも自分に近いもの」との出会いであったという。自分を登高に誘うもの、自分自身の道になるものの発見であった。京都大学で西田幾多郎、田辺元に学んだ。ばりばりの京都学派である。とりわけその著書『宗教とは何か』は英語やドイツ語に翻訳され大きな反響を呼んだ。彼の『正法眼蔵講話』は和辻哲郎や田辺元の道元理解を現在に引き継ぐものとして重要なものではないだろうか。

僕は思うのだけれど言葉とは分けることである。言分(ことわ)けすれば言割り(理)になる。仏と言えば仏とそうでないものに分けられる。衆生といえば、それとそうでないものに分けられる。つまり、その連続が「一二三四五」です。禅は、教外別伝(きょうげべつでん)と言って、教えから離れて、生きた働きから生きた働きへと法を伝えていく。何故言葉の世界を禅が嫌ってきたかといえば。分けられない世界を分割してきたからではないか。見方を変えるとレヴィ=ストロースの『神話論理』からメルロ=ポンティが出した結論のようなもの、すなわち、言葉は世界にならって作られたのではなく、言葉によって世界が作られたとも言える。それなら、世界はマーヤ(幻影)のようなものではないだろうか。交通法規を作っておいて、それに従って人間が行動する世界、世界はそのように言葉によって限定されてきたと考えられなくもない。そんなロジックな世界を嫌った。だが、道元は言葉の力を信じている。そうでなければ『正法眼蔵』75巻はいったい何なのだと問われる。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

『正法眼蔵』の「山水経」巻には、道元の言葉に対するこだわりの一端を見ることができる。西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師は『正法眼蔵啓迪』の中でこう書いている。青山は常に運歩する。それが分からぬ奴には人間の常運歩は分からぬ。念々起滅し、昼夜に流れ通しに流れている刹那滅には、とんと心づかずにいる。「青山常運歩」と「東山水上行」は同じことであると。これを無理会話(むりえわ)、つまり理解不能な言葉と見なすような輩は魔子六群禿子だと道元は罵っている。仏祖の悟りを示すものは究極的に言葉ではないと言うのが禅に限らず仏教の立場である。だが、道元は仏祖には理会話、つまり、理路を示す方法があるという。念願の語句というものがあり、語句が念慮透脱することを知れという。西谷は道元が禅の立場をそのまま押し進めながら教学としての思想を同時に押し進めてきたという。それが、『正法眼蔵』を中国・日本を問わず独自なものにしているというのである。

プラトンのイデア論には多様な円のイデアとして真の円という概念がある。本当の人間は「人間」のイデアであり、それぞれの人間は一種の断片、影にすぎないと考えた。誰それは人間である。これは本である。机である。そういうところから出発して、それらがあるとは何かと問いかけたところにイデアの思想が現われたと西谷はいう。不完全であっても人間と呼べるのは「人間」のイデアを分有(participate)しているからである。そういうイデアの本質、つまり神に向って完成していくという倫理的な意味においてもプラトンの思想は大きな意味を持っていた。それが、キリスト教における「神化/テオーシス」に影響を与えることになる。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

これに対して道元と師の如淨との問答で表れているのはパーティシペイションというだけではないという。一つ一つが集まった全ては仏法の世界の中にある。「身心脱落(しんじんとつらく)」とは自分の身や心が抜け落ちることだけれど、自分の心身だけを問題にすると心理学的な範疇を出なくなる。そこで西谷は一切の身、一切の心を考えてはどうかという。それは現実にあるものだけでなく、遠い過去の、あるいは遠い未来に存在する、そんな可能な全てということを考えてよい。あらゆるものが存在している。そのための本質的な必要条件としての存在の場を考え、それが脱落することであるという。カントのいうあらゆる経験の対象の先験的可能性と言い換えてもよい。いわゆる心というものが成立する場が破られ、踏み越えられる。あるいは、ずり落ちる。それが「色即是空」の意味することであるという。我々の身も心も空である。それが「身心脱落、脱落身心」であるというのだ。脱落というのはそれが成立する次元が自分から脱落してゆくことだという。「身心脱落、脱落身心」このような言い換えは道元には非常に多い。近年、科学者の中にこの存在の場を捉え「場の論理」として注目してきた人もいるのだけれど、そこからちゃんとずり落ちることができただろうか。

全宇宙が刻々動いている、それに任せて自分も生きる。一つ一つのものがそれぞれ動き続けている。青山も東山も刻々絶えず新たである。その中には生も死もある。絶え間なく生まれては死ぬ、生まれてくる中から滅んでいく。そういう生死の入り混じった姿が一瞬一瞬、一刻も変わることがない。全てが変化しながら同時にいつも変わらない。新たであるためには変わらないということがなければならない。変わらないということは、絶えず新たに証しされることによって成り立つ。つまり、絶えず新たな創造的な働きにおいて証しされることが必要であると西谷はいう。

パルメニデス(BC 515-?)

ギリシアのパルメニデスという人が「一」ということを言った。永遠の存在というのはThe Oneであると。本当に存在するのは「一」そのものであって「多」は影のような現象に過ぎない。ところが「一者」を見るためには心で見る他はない。しかし、人間は「一者」の外にあって、それを対象として眺めることができない。何故なら人間は「一者」の一部に過ぎないからである。多数のものを客観的に見ている心は、分別の心であり、その「一者」を知る心とは本質的に異なるものである。それを知るためには成り切るということが必要とされるという。ここで、パルメニデスはエイナイ(在ること)とノエイン(考えること)とは一つだと言った。ハイデッガーにもそういう考え方があると西谷は言う。脱自という言葉はプロティノスに由来する。自分が自分というものからすっかり脱却した立場が本当に自分自身の故郷へ帰った姿だと。このように「一」と「多」、あるいは自己と他者という問題はパルメニデス、プロティノス、プラトンとギリシアだけとっても哲学において一貫した問題だというのである。

これを仏教でいう遍法界から見てみたい。遍法界とはあらゆるものを包んであらゆるものに行き渡っている世界である。あらゆる存在するものをひっくるめた万物万有の世界である法界にあまねく行き渡った智、それが阿耨菩提(あのくぼだい)である。それは人間の知性ではない。妙法(西有穆山『正法眼蔵啓迪』を参照)は、その世界を貫いてその中で生きて働いているものであり、対象的に掴むことのできないものである。それを知ることは、外から知るのではなく、その中から法を照らす光によって知ると言える。アウグスティヌスのいうイルミナティオを思い浮かべることもできる。しかし、法を照らす光もまた法であり、法と智とは分けることができない。それを何で証するかといえば自分がその智によって目ざめさせられる、自分が何たるかを知る者になった、つまり自覚したということであると西谷は言うのである。仏教の場合、とりわけ本覚の場合、その智は同時に本来自性心、つまり、それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それは有為によってではなく無為によって自ずから知れる。それが『正法眼蔵』「弁道話」巻、冒頭の「阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり」の意味である。こうして人は、「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう)」つまり、あまねく世界は今まで何も隠していないということを知る。

では、この法界という、いわば The One と個々に石がある水がある、桶があるとはどういう関係なのか。今度はそこが問題となる。本当に石ころがあるという実相を知るのは、身心脱落の時であると考えられる。そのもののありのままの姿、ものがそこにあるということに我々が自分を投げ入れた時、ものが初めてものとして在るということの本当の意味が明かされると西谷は言う。諸仏の世界に対して事物の世界とは一応分けて考えられるが、事々物々も本来は覚りの世界に属している。石ころ一つがころがっていることは、「宇宙のあらゆる事物がそれぞれ自身である」ということと無関係に成り立っていない。人間の身体のように肺も心臓も胃も肝臓もそれぞれでありながら有機的に関係しあっている。心臓が心臓であるためには全体によって支えられていなくてはならない。心臓の働きの中には肺や肝臓も働いている。かくれた所でたがいに相即している、これを仏教では「相依相入/そうえそうにゅう」と言う。たった一音でも現在・過去・未来のすべての音に支えられている。それが一音成仏の意味である。たった一人の人でもたった一つの石ころでも無限の存在しているものと「相依相入」している。従って瓦も悟りも鏡も無二一体となる。そして、自分が悟ると言うことの中に他の覚りを助けるという意味がある。他受用三昧もあるのである。

梁楷 『月下波濤図』 部分 宋

自(おの)ずと知る。これを自受用三昧(じじゅようざんまい)という別の観点から見てみたい。自受用三昧についても西有穆山『正法眼蔵啓迪』をご覧いただきたいが、ここでの自とは他のものに対していない立場、自分に相対する如何なるものもないということである。石も水も桶もそれぞれ絶対的に個別で一二三でありながらそれぞれが絶対的な仏の世界というわけである。石なら全世界が石、水なら全世界が水、桶なら全世界が桶となる。ここを押えておかないと『正法眼蔵』はわけが分からなくなるのである。これだけ見ていると全く外界と遮断されていながらそれぞれのモナドが全ての世界を映しだしているというライプニッツのモナド論を思いださせるけれど、モナドには階層構造がある。中国の詩に「河は自ずから流れて山は自ずから緑なり(『唐詩選』)」というのがある。河はおのずから自然のままに流れ、また自ら流れている。そこには人間の意志の届かない自然というものが詠われている。河が河として自然であり、山は山で、また花は花として赤く咲く。誰も頼んだわけでもないが咲く。

ふつう人は、自己と対象を区別した中で自己を立てる。しかし、河が自ずから流れ、自ずから然りという所に人間が自ら然りということで河と一つになることもあるのではないか。自然の中に人がすっかり自己を投げ込む。この自ずからというところに自を見出せないかと西谷は問う。あらゆるものと一つで、そのものになりきるということ。つまり、三昧の世界である。そうすると河が流れるということにも自己の遊化(ゆけ)ということが出てくるのではないか。法界のあらゆる出来事は、赤ん坊が自分の指をくわえるのと同じことで、自分が自分を使う。自分が自分を証すると言ってもよい。それが一つの基礎的な姿である。他の人間が相対の世界で色々なことをする、そのことがそのまま唯仏与仏となる。そのこともまた「自受用三昧」の意味となる。こうして、自分で自分を自由にしてゆく。自というおのずからとみずからが一つになった立場、その点を突き詰めて行けば本当の自己、自己本来の面目、父母未生以前の自己、天然自性心、各人に本来具足している本心本性といった自己の立場を自覚するのではないか。それがないと「身心脱落」の「脱落」は出てこないと西谷さんはいうのである。

三昧とはそれに成り切ることである。楽器を練習していて、上手になれば楽器を意識せずに演奏できるようになる。自分が演奏しているのか楽器が演奏しているのか‥‥それさえ意識していない状態。その状態を音楽が音楽を音楽するとも言える。何でもいいのです。ゲームがゲームをゲームするということだってある。ただ、そこにあるのは子供たちの遊ぶときのあの真剣さのようなものではないだろうか。

 

毬子(きゅうし/まり)

袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
謂言(おもへら)く 好手にして等匹(とうひつ)無しと
可中(かちゅう)の意旨 若し相問はば
一二三四五六七

袖の中のまりは値千金
思えば 見事な手並みは並ぶものなし
そこの極意をお尋ねあらば
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな

良寛

 

梁楷 『布袋和尚』 宋

機会があって広島市立図書館で井上ひさしの『道元の冒険』を手に取ることができた。道元をパロディ化した戯曲で1971年の出版である。パロディなのだけれど、道元の思想にかなり深い理解があるのが感じられるよい作品だと思う。こういった仕事が日本の古典でもっとあるといい。

ところで、ここのところ肩痛が完治せず、苦労しています。そういうわけで一ヶ月ほどブログはお休みしたいと思っています。次回は11月初旬にT.S.エリオットをお送りする予定です。しばらくお待ちくださいね。

 

 

 

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻

 

大谷哲夫 編著『道元読み解き事典』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』開山のお示しじゃ!

梁楷 『寒山拾得』 宋

魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥

禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。

  • 寒山は詩にこう書いた。

人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し

三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし

これなら分かりやすい。道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」の冒頭でこのように書いている。

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしありぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)は、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めているのだ。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時で少し触れておいた。

西有穆山(にしありぼくざん 1821-1910)
90歳の肖影

弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道、つまり弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。だが、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。

どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。

阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。

何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。

「達磨はこれを凝住壁観(二入四行論)といわれ開山(道元)はこれを身心脱落(しんじんとつらく)といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊(人の心身を構成する要素)中の色心(物・心)をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」

それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧

そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。

法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。

法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」

法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」

ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。

だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。この天台本覚については『天台本覚思想と一心三観』に書いておいたのでここでは簡単にしか繰り返さない。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。

彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十八歳頃のことではないかと思われる。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の如淨禅師のもとで参禅することになるのである。

道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。

キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。

そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛の今がある。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。狸や白牛にあるのは表面的な意味で理解される諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性 行仏威儀 神通 座禅箴」注釈

穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。

その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」

馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。田地隠密にただ兀地(ごっち)に碍(さ)えられる、不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」

この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」

梁楷『六祖破経』宋

甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

「たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれど、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなわちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈(ねん)じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人仏になるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もまたあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを(『正法眼蔵』古鏡)」

「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることをと道元は書いている。この言い換えは独特だ。穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。胡来胡現、漢来漢現では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。

「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」

尽法界一面の鏡それは、すなわち法楽とは言えまいか。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元

 

西有穆山禅師略歴

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。

 

その他の参考図書

澤木興道全集 第七巻 『正法眼蔵講話』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻 筑摩書房

ニュース

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日
› 続きを読む