Blog / ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

西谷啓治『正法眼蔵講話』世界とは何かを知る

梁楷  澤畔(さわぐり)行吟図  団扇 部分  宋

太陽山楷和尚衆に示していわく「青山常に運歩し、石女夜児を生む」

雲門匡真(うんもん きょうしん)大師いわく「東山水上を行く」

良寛(1758-1831)は越後の出雲崎に名主の長男として生まれた。名家である。11歳の時、大森子陽の狭川(きょうせん)塾で儒学を学び名主見習いとなったが出奔、隣町の光照寺で出家、やがて、10数年の長きを備中玉島の円通寺に国仙和尚のもとで修行することになる。曹洞宗の禅寺である。

良寛は親しく道元の語録に接していた。『読永平録』という詩が残されている。当時、『正法眼蔵』は、今日のように一般に流布されておらず、写本のみが秘蔵されていた。彼が読んだのは『正法眼蔵』説もあるけれど、この詩に関しては『永平広録』か『永平略録』であったろう。良寛はこのように書いている。

春夜 蒼茫たり二三更
春雨 雪に和して庭竹に灑(そそ)ぐ
寂寥を慰めんと欲して良(まこと)に由(よし)無く
暗裏模索す 永平録
明窓の下 几案の頭(ほとり)
香を焼(た)き燈を点じて静かに披読(そどく)す
身心脱落して只だ貞実のみ
‥‥
五百年来 塵埃に委(まか)せしは
職(もと)より是れ法を択ぶの眼無き由る
滔々として皆な是れなり 誰れか為に挙する
古を慕い今に感じて心曲を労す
一夜燈前 涙留まらず
湿(うるお)い尽くす 永平古仏録
‥‥

しかし、良寛の遺墨には正法眼蔵の巻名を羅列したものがあるらしく、『正法眼蔵』を読んでいた可能性もある。嗣法の乱れが、卍山道白(まんざんどうはく/1636-1715)らの宗統復古運動を呼び起こした。それについては一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少し触れておいた。こうした流れの中で永平寺五十世の玄透即中(げんとうそくちゅう/1729-1807)による『正法眼蔵』95巻本の出版事業が道元の五百五十回忌に因んで計画され、享和二年(1802)に「本山版」として刊行されている(大谷哲夫『道元読み解き事典』)。『正法眼蔵』の75巻に色々付け加えられ、整理されたものが95巻本である。良寛が『正法眼蔵』を読んだとすれば、40歳半ば以降ということになるのではないか。

良や 愚の如く 道 転(うた)た寛(ひろ)し、
騰々(とうとう)任運(にんうん) 誰を得てか看(み)せしめん。
為(ため)に附(ふ)す 山形の爛藤(らんとう)の杖、
到る処 壁間(へきかん)に午睡(ごすい) 閑(しず)かならん。
(水月老衲仙大忍)

国仙和尚は良寛に上のような印可の偈を与え、良寛は30半ばにして寺を出て40前後まで諸国を旅することになる。故郷近くに戻っていた頃、円通寺の典座(てんぞ)であった仙桂の訃報を知らされる。典座とは、禅宗寺院の食事係である。容貌は古の僧のようであり、言葉少なく飾らず、ゆったりと話す人であり菜園を作り食事を作り続けた。それは真の道者の姿だったと追悼の詩を残している。

秋月龍珉『道元禅師の「典座教訓」を読む』

典座とはどのようなものなのか、その真の姿を自覚したのは他ならぬ道元自身であった。日本では、それがどのようなものなのか全く理解されていなかったのである。彼は典座のような労働に真の修行の一端を見た。それで、帰国後『典座教訓』という心得を書くのである。

1223年の四月、明全とともに宋に着いた道元は、しばらくその船に留まっていた。翌五月、そこに禅宗五山の一つである阿育王山の年老いた典座が椎茸を求めに来る。20数キロの道のりを歩いて来たという。日本産の干し椎茸は美味で知られていた。端午の節句が近いから修行僧たちにご馳走するのだという。

道元は「あなたのような年齢で典座のような煩わしい仕事を何故なさるのです。座禅し、公案を参究されればよろしいのに」と言った。泊まって行けという道元の誘いに「外国の人、あなたは、まだ弁道のなんたるかをお解りでない」という。道元は恥ずかしさを覚えて「どのようなものが文字なのか。どのようなものが弁道ですか」と聞いた。すると老典座は「もし、その質問の意味するところとすれ違わないなら、それが文字を知り、弁道を体得した人というものです」と答えて、納得がいかなければ阿育王山においでなさいという言葉を残して急ぎ帰っていった。

同年の七月、道元が天童山・景徳寺で無際了派(むさいりょうは)のもとで修行していた時、その老典座がわざわざ訪ねに来てくれた。道元は感激して再び問うた。

道元「いかなるものが文字なのですか」
典座「一二三四五」
道元「いかなるものが弁道ですか」
典座「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう/あまねく世界は今まで何も隠していない)」
道元は自分が少々文字の何たるかを知り弁道の何たるかを了ったのは実にあの老典座のお蔭であったと述懐している。

西谷啓治(1900-1990)

さて、今回のテーマは実はこの「文字」と「あまねく世界」なのである。前回ご紹介した西有穆山『正法眼蔵啓迪(けいてき)』開山のお示しじゃ! を補足するものなので、まだお読みでない方は是非そちらを読んでからご覧くださればと思う。そこで少し、ご紹介した西谷啓治(にしたに けいじ)さんの『正法眼蔵講話』からご紹介したい。

西谷は1900年、明治三十三年石川県鳳至(ほうし)郡 宇出津(うつし)に生まれる。父は呉服商だった。小学校に上がると両親と共に東京に転居。中学時代に父親を亡くし、自らも病気の為一年高校進学が遅れる。後に京都大学哲学科へ進むのだが、たまたま書店で手に取った西田幾多郎の『思索と経験』を読んだことによる影響が大きかったと言われる。それは「自分よりも自分に近いもの」との出会いであったという。自分を登高に誘うもの、自分自身の道になるものの発見であった。京都大学で西田幾多郎、田辺元に学んだ。ばりばりの京都学派である。とりわけその著書『宗教とは何か』は英語やドイツ語に翻訳され大きな反響を呼んだ。彼の『正法眼蔵講話』は和辻哲郎や田辺元の道元理解を現在に引き継ぐものとして重要なものではないだろうか。

僕は思うのだけれど言葉とは分けることである。言分(ことわ)けすれば言割り(理)になる。仏と言えば仏とそうでないものに分けられる。衆生といえば、それとそうでないものに分けられる。つまり、その連続が「一二三四五」です。禅は、教外別伝(きょうげべつでん)と言って、教えから離れて、生きた働きから生きた働きへと法を伝えていく。何故言葉の世界を禅が嫌ってきたかといえば。分けられない世界を分割してきたからではないか。見方を変えるとレヴィ=ストロースの『神話論理』からメルロ=ポンティが出した結論のようなもの、すなわち、言葉は世界にならって作られたのではなく、言葉によって世界が作られたとも言える。それなら、世界はマーヤ(幻影)のようなものではないだろうか。交通法規を作っておいて、それに従って人間が行動する世界、世界はそのように言葉によって限定されてきたと考えられなくもない。そんなロジックな世界を嫌った。だが、道元は言葉の力を信じている。そうでなければ『正法眼蔵』75巻はいったい何なのだと問われる。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

『正法眼蔵』の「山水経」巻には、道元の言葉に対するこだわりの一端を見ることができる。西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師は『正法眼蔵啓迪』の中でこう書いている。青山は常に運歩する。それが分からぬ奴には人間の常運歩は分からぬ。念々起滅し、昼夜に流れ通しに流れている刹那滅には、とんと心づかずにいる。「青山常運歩」と「東山水上行」は同じことであると。これを無理会話(むりえわ)、つまり理解不能な言葉と見なすような輩は魔子六群禿子だと道元は罵っている。仏祖の悟りを示すものは究極的に言葉ではないと言うのが禅に限らず仏教の立場である。だが、道元は仏祖には理会話、つまり、理路を示す方法があるという。念願の語句というものがあり、語句が念慮透脱することを知れという。西谷は道元が禅の立場をそのまま押し進めながら教学としての思想を同時に押し進めてきたという。それが、『正法眼蔵』を中国・日本を問わず独自なものにしているというのである。

プラトンのイデア論には多様な円のイデアとして真の円という概念がある。本当の人間は「人間」のイデアであり、それぞれの人間は一種の断片、影にすぎないと考えた。誰それは人間である。これは本である。机である。そういうところから出発して、それらがあるとは何かと問いかけたところにイデアの思想が現われたと西谷はいう。不完全であっても人間と呼べるのは「人間」のイデアを分有(participate)しているからである。そういうイデアの本質、つまり神に向って完成していくという倫理的な意味においてもプラトンの思想は大きな意味を持っていた。それが、キリスト教における「神化/テオーシス」に影響を与えることになる。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

これに対して道元と師の如淨との問答で表れているのはパーティシペイションというだけではないという。一つ一つが集まった全ては仏法の世界の中にある。「身心脱落(しんじんとつらく)」とは自分の身や心が抜け落ちることだけれど、自分の心身だけを問題にすると心理学的な範疇を出なくなる。そこで西谷は一切の身、一切の心を考えてはどうかという。それは現実にあるものだけでなく、遠い過去の、あるいは遠い未来に存在する、そんな可能な全てということを考えてよい。あらゆるものが存在している。そのための本質的な必要条件としての存在の場を考え、それが脱落することであるという。カントのいうあらゆる経験の対象の先験的可能性と言い換えてもよい。いわゆる心というものが成立する場が破られ、踏み越えられる。あるいは、ずり落ちる。それが「色即是空」の意味することであるという。我々の身も心も空である。それが「身心脱落、脱落身心」であるというのだ。脱落というのはそれが成立する次元が自分から脱落してゆくことだという。「身心脱落、脱落身心」このような言い換えは道元には非常に多い。近年、科学者の中にこの存在の場を捉え「場の論理」として注目してきた人もいるのだけれど、そこからちゃんとずり落ちることができただろうか。

全宇宙が刻々動いている、それに任せて自分も生きる。一つ一つのものがそれぞれ動き続けている。青山も東山も刻々絶えず新たである。その中には生も死もある。絶え間なく生まれては死ぬ、生まれてくる中から滅んでいく。そういう生死の入り混じった姿が一瞬一瞬、一刻も変わることがない。全てが変化しながら同時にいつも変わらない。新たであるためには変わらないということがなければならない。変わらないということは、絶えず新たに証しされることによって成り立つ。つまり、絶えず新たな創造的な働きにおいて証しされることが必要であると西谷はいう。

パルメニデス(BC 515-?)

ギリシアのパルメニデスという人が「一」ということを言った。永遠の存在というのはThe Oneであると。本当に存在するのは「一」そのものであって「多」は影のような現象に過ぎない。ところが「一者」を見るためには心で見る他はない。しかし、人間は「一者」の外にあって、それを対象として眺めることができない。何故なら人間は「一者」の一部に過ぎないからである。多数のものを客観的に見ている心は、分別の心であり、その「一者」を知る心とは本質的に異なるものである。それを知るためには成り切るということが必要とされるという。ここで、パルメニデスはエイナイ(在ること)とノエイン(考えること)とは一つだと言った。ハイデッガーにもそういう考え方があると西谷は言う。脱自という言葉はプロティノスに由来する。自分が自分というものからすっかり脱却した立場が本当に自分自身の故郷へ帰った姿だと。このように「一」と「多」、あるいは自己と他者という問題はパルメニデス、プロティノス、プラトンとギリシアだけとっても哲学において一貫した問題だというのである。

これを仏教でいう遍法界から見てみたい。遍法界とはあらゆるものを包んであらゆるものに行き渡っている世界である。あらゆる存在するものをひっくるめた万物万有の世界である法界にあまねく行き渡った智、それが阿耨菩提(あのくぼだい)である。それは人間の知性ではない。妙法(西有穆山『正法眼蔵啓迪』を参照)は、その世界を貫いてその中で生きて働いているものであり、対象的に掴むことのできないものである。それを知ることは、外から知るのではなく、その中から法を照らす光によって知ると言える。アウグスティヌスのいうイルミナティオを思い浮かべることもできる。しかし、法を照らす光もまた法であり、法と智とは分けることができない。それを何で証するかといえば自分がその智によって目ざめさせられる、自分が何たるかを知る者になった、つまり自覚したということであると西谷は言うのである。仏教の場合、とりわけ本覚の場合、その智は同時に本来自性心、つまり、それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それは有為によってではなく無為によって自ずから知れる。それが『正法眼蔵』「弁道話」巻、冒頭の「阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり」の意味である。こうして人は、「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう)」つまり、あまねく世界は今まで何も隠していないということを知る。

では、この法界という、いわば The One と個々に石がある水がある、桶があるとはどういう関係なのか。今度はそこが問題となる。本当に石ころがあるという実相を知るのは、身心脱落の時であると考えられる。そのもののありのままの姿、ものがそこにあるということに我々が自分を投げ入れた時、ものが初めてものとして在るということの本当の意味が明かされると西谷は言う。諸仏の世界に対して事物の世界とは一応分けて考えられるが、事々物々も本来は覚りの世界に属している。石ころ一つがころがっていることは、「宇宙のあらゆる事物がそれぞれ自身である」ということと無関係に成り立っていない。人間の身体のように肺も心臓も胃も肝臓もそれぞれでありながら有機的に関係しあっている。心臓が心臓であるためには全体によって支えられていなくてはならない。心臓の働きの中には肺や肝臓も働いている。かくれた所でたがいに相即している、これを仏教では「相依相入/そうえそうにゅう」と言う。たった一音でも現在・過去・未来のすべての音に支えられている。それが一音成仏の意味である。たった一人の人でもたった一つの石ころでも無限の存在しているものと「相依相入」している。従って瓦も悟りも鏡も無二一体となる。そして、自分が悟ると言うことの中に他の覚りを助けるという意味がある。他受用三昧もあるのである。

梁楷 『月下波濤図』 部分 宋

自(おの)ずと知る。これを自受用三昧(じじゅようざんまい)という別の観点から見てみたい。自受用三昧についても西有穆山『正法眼蔵啓迪』をご覧いただきたいが、ここでの自とは他のものに対していない立場、自分に相対する如何なるものもないということである。石も水も桶もそれぞれ絶対的に個別で一二三でありながらそれぞれが絶対的な仏の世界というわけである。石なら全世界が石、水なら全世界が水、桶なら全世界が桶となる。ここを押えておかないと『正法眼蔵』はわけが分からなくなるのである。これだけ見ていると全く外界と遮断されていながらそれぞれのモナドが全ての世界を映しだしているというライプニッツのモナド論を思いださせるけれど、モナドには階層構造がある。中国の詩に「河は自ずから流れて山は自ずから緑なり(『唐詩選』)」というのがある。河はおのずから自然のままに流れ、また自ら流れている。そこには人間の意志の届かない自然というものが詠われている。河が河として自然であり、山は山で、また花は花として赤く咲く。誰も頼んだわけでもないが咲く。

ふつう人は、自己と対象を区別した中で自己を立てる。しかし、河が自ずから流れ、自ずから然りという所に人間が自ら然りということで河と一つになることもあるのではないか。自然の中に人がすっかり自己を投げ込む。この自ずからというところに自を見出せないかと西谷は問う。あらゆるものと一つで、そのものになりきるということ。つまり、三昧の世界である。そうすると河が流れるということにも自己の遊化(ゆけ)ということが出てくるのではないか。法界のあらゆる出来事は、赤ん坊が自分の指をくわえるのと同じことで、自分が自分を使う。自分が自分を証すると言ってもよい。それが一つの基礎的な姿である。他の人間が相対の世界で色々なことをする、そのことがそのまま唯仏与仏となる。そのこともまた「自受用三昧」の意味となる。こうして、自分で自分を自由にしてゆく。自というおのずからとみずからが一つになった立場、その点を突き詰めて行けば本当の自己、自己本来の面目、父母未生以前の自己、天然自性心、各人に本来具足している本心本性といった自己の立場を自覚するのではないか。それがないと「身心脱落」の「脱落」は出てこないと西谷さんはいうのである。

三昧とはそれに成り切ることである。楽器を練習していて、上手になれば楽器を意識せずに演奏できるようになる。自分が演奏しているのか楽器が演奏しているのか‥‥それさえ意識していない状態。その状態を音楽が音楽を音楽するとも言える。何でもいいのです。ゲームがゲームをゲームするということだってある。ただ、そこにあるのは子供たちの遊ぶときのあの真剣さのようなものではないだろうか。

 

毬子(きゅうし/まり)

袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
謂言(おもへら)く 好手にして等匹(とうひつ)無しと
可中(かちゅう)の意旨 若し相問はば
一二三四五六七

袖の中のまりは値千金
思えば 見事な手並みは並ぶものなし
そこの極意をお尋ねあらば
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな

良寛

 

梁楷 『布袋和尚』 宋

機会があって広島市立図書館で井上ひさしの『道元の冒険』を手に取ることができた。道元をパロディ化した戯曲で1971年の出版である。パロディなのだけれど、道元の思想にかなり深い理解があるのが感じられるよい作品だと思う。こういった仕事が日本の古典でもっとあるといい。

ところで、ここのところ肩痛が完治せず、苦労しています。そういうわけで一ヶ月ほどブログはお休みしたいと思っています。次回は11月初旬にT.S.エリオットをお送りする予定です。しばらくお待ちくださいね。

 

 

 

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻

 

大谷哲夫 編著『道元読み解き事典』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』開山のお示しじゃ!

梁楷 『寒山拾得』 宋

魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥

禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。

  • 寒山は詩にこう書いた。

人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し

三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし

これなら分かりやすい。道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」の冒頭でこのように書いている。

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしありぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)は、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めているのだ。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時で少し触れておいた。

西有穆山(にしありぼくざん 1821-1910)
90歳の肖影

弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道、つまり弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。だが、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。

どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。

阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。

何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。

「達磨はこれを凝住壁観(二入四行論)といわれ開山(道元)はこれを身心脱落(しんじんとつらく)といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊(人の心身を構成する要素)中の色心(物・心)をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」

それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧

そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。

法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。

法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」

法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」

ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。

だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。この天台本覚については『天台本覚思想と一心三観』に書いておいたのでここでは簡単にしか繰り返さない。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。

彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十八歳頃のことではないかと思われる。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の如淨禅師のもとで参禅することになるのである。

道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。

キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。

そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛の今がある。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。狸や白牛にあるのは表面的な意味で理解される諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性 行仏威儀 神通 座禅箴」注釈

穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。

その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」

馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。田地隠密にただ兀地(ごっち)に碍(さ)えられる、不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」

この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」

梁楷『六祖破経』宋

甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

「たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれど、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなわちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈(ねん)じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人仏になるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もまたあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを(『正法眼蔵』古鏡)」

「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることをと道元は書いている。この言い換えは独特だ。穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。胡来胡現、漢来漢現では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。

「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」

尽法界一面の鏡それは、すなわち法楽とは言えまいか。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元

 

西有穆山禅師略歴

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。

 

その他の参考図書

澤木興道全集 第七巻 『正法眼蔵講話』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻 筑摩書房

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part2 シナジェティック幾何学と自己規律

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

バックミンスター・フラーは1895年、ニューイングランドのマサチューセッツ州ミルトンに生まれた。奴隷制廃止運動の一翼を担ったことで知られる名家の生まれで、父はボストンで輸入業を営んでいた。大叔母のマーガレット・フラーはエマスンを中心とした超越主義者の一人で、女性の権利獲得の先導者として知られた人だった。そのあたりのことは、エミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で少しご紹介しておいた。

5歳の時、父親が亡くなる。母親は言った「坊や、何を考えたらいいかなんて思い悩むことはないのよ。いいこと? 私たちが教えてあげるから。」祖母は黄金律を教えてくれた。「汝の愛する如く汝の敵を愛せよ。汝の欲することを人にも行え(マタイ伝)。」叔父たちは、この地球上には誰もが生きていけるという保証はないのだから多くの人から生き延びるチャンスを奪わなければいけないんだと言う。大叔母のマーガレット・フラーならそんなことは言わなかっただろう。フラーは母や叔父たちが愛してくれていることが分かっていたから自分で考えることは一切注意を向けず、「人生ゲーム」を学ぶ訓練をフットボールの練習をするように行った。だが、ルールは全て誰かによって作られていた。

「この宇宙にはどんな〈個体〉も〈連続〉もないのである。われわれが扱えるのはネットワークパターンだけである。‥‥われわれはバスケットボールを連続的な表皮でできた不浸透性の〈個体〉という単体として、ゆえに球状に閉じた薄膜内部は、外部に出て行くことが気体の圧力で球形を保持できると捉えてきた。‥‥しかし、この表皮を強力な顕微鏡で見れば、結局それが連続的なフィルムてはなく、穴だらけであることに気づくはずだ。それは互いに等しく離れあった分子で構成されている。天の川のような、いわば原子の星くずのような強大なエネルギー集合体が現実に存在する。それは高分割(振動)数的エネルギー事象としての不可視な重力のように、柔軟な気球の網目を織り込んでいる〈繊維〉のもたらす張力の統合作用によってのみ互いに結合しているのである。気球は高分割数のテンセグリティ球の一例である。(B.フラー/梶川泰司 訳)」

ハーヴァード大学に進んだものの、大学のクラブの持つ階級制度に違和感を持ち始める。中間試験をサボってニューヨークのコーラスラインのメンバーを呼び、ひと騒ぎして退学になり、カナダの紡績工場で働いた。一度は許されて復学するも学費を使いこんで再び退学となった。第一次大戦が始ると海軍士官として任務にあたる。艦船と飛行機間の通信技術などの実際的な知識を学ぶことになる。

1917年、アン・ヒューレットと結婚。翌年、長女アレクサンドラが生まれるが、脊髄小児麻痺などを発症し四歳の誕生日に亡くなる。追い打ちをかけるように義父から受け継いだ新建材を製造する工場と住宅建築の会社は破産し、友人の投資は無に帰した。1927年、32歳の時、ビジネスの世界では、自分は「使い捨て」に過ぎないと感じた。自殺をしようとするほど追いつめられていた。この時、フラーにひとつの強い意識が生じる。

「体格も経験も能力も人並みで、養わなければならない妻と生まれたばかりの子供がいる健康な若い男が、資本やこれといった財産、貯金、富、信用もなく学位もない状態から始めて、宇宙船地球号に乗船しているすべての人から不本意な抑圧を取り除き、そして同時に、誰もがみんな納得のいく生き方ができるようにしながら全人類の生活の物質的保護と支えを永続的に増進するために、国や大企業にはできないことで一体何が効果的に行えるのかを発見する」ための実験をしようとすることだった。フラー自身が実験対象であった。こうして、実験動物モルモットBが誕生したのである。Bはバッキー、つまりフラーの愛称である。この年、次女アレグラが生まれている。

ここでフラーの開発した構造物などを動画で見ていただきたいと思う。その方が、これから述べるジオデシック・ドームなどを理解していただきやすいだろう。前回 part1 のダイマクションカーやウイチタハウス、ワールドゲームなども思いだしていただければよい。

5分で見るバックミンスター・フラーの世界 ”Earth’s Friendly Genius”  1983年制作

3.ジオデシック・ドーム

モントリオール・バイオスフィア 1967
(元モントリオール万博アメリカ館)

1954年フラーは〈ジオデシック・ドーム〉の特許を取得した。ジオデシック・ドームとは全方位に三角形化された構造原理によって作られたドームを指している。米国建築家協会から「人間がこれまで考案した、最強最軽量にして最も効率の優れた、空間を囲い込む手段」と評された。それは大きくなるほど強度を増し、都市全体をこのドームで覆うことも可能となる。ドームの直径を2倍にすると体積は8倍になるが表面積は4倍にしかならない。従ってドームの規模を2倍にすると一単位あたりに投入される建築資材の量は半分になり、熱効率は2倍になる。アーティファクト(人工物)に投入される単位資源あたりの性能を包括的に大きく向上させることが全人類の髙い生活水準を確保するには不可欠であるとフラーは考えていた(『コズモグラフィー』)。

1959年、フラーと実業家カイザーが共同開発した直径60メートルのジオデシック・ドームがモスクワ万博で展示され、時のソ連(現ロシア)の首相、フルシチョフの称賛を得て購入され、モスクワのソコーリキ公園に設置された。どうも、この動きにアメリカ政府は危惧と焦りを感じたらしく、フラーは1963年から1968年までNASAのアドヴァイザーとして後述するジオデシック・テンセグリティであるクラウド・ナインの開発に携わるようになるのだが大気圏をも自由に浮遊するアイデアは、大気圏外にしか興味のないNASAの反感をかったようだ(フラー+ 梶川泰司『宇宙エコロジー』)。1967年モントリオール万博のアメリカ館をまかされたフラーは、既に70歳を超えていたがこの国家プロジェクトに参画することになる。フラードームは多様な発展をみせ、日本では富士山の気象観測ドーム、イギリスのエデンプロジェクトに発展してゆく熱帯植物園を収容した直径53メートルのクライマトロン・ハウス、風速60メートルに耐えるという登山用ジオデシック・テントなどが次々と生み出されてゆく。

4.シナジェティック幾何学

正四面体 ジョイント部を稼働できるようにゴム管で接合しても自立するが、六面体は倒れてしまう。

彼は最小の構造体として4面体を考えていた。立方体や直方体の6つの辺にあたる部分を細い棒に置き換え、それらの接合部を稼働できるようにしておくと、六面体は自立できないが、正三角形を4つ持つ正4面体は自立する。それゆえ、フラーは三角形のみがあらゆる宇宙の構造的な形態を説明できると考えていた。彼のシナジェティック幾何学は三角形が基本にある。デカルトの規定した立方格子としての空間は、地球が平坦だと考えられていた時代の名残であり、宇宙時代にあっては既に時代遅れであった。正四面体の持つ四つの次元が今日の最小の次元数となるというわけである。二次元の人間にとって正三角形が四つ集まった正四面体が考察不可能であるように、部分だけ見ていては予測できないような全体としての働きがシナジーなのである。

フラーの幾何学はユークリッドのそれのように観念的なものでなく現実に即して考えられていた。詳しく知りたい方は、シナジェティック幾何学の概論である『コズモグラフィー』をご覧になるとよい。この『コズモグラフィー』の中では、シナジェティック・トポロジーという新しい概念が登場するのだが、それは、先ほどの正四面体のように接合部を稼働できるようにした立体が、ジョイン部で折り畳まれながら変形しうるというもので、例えば、フラーの共同研究者だった梶川泰司は、正十二面体のトポロジーを発見してフラーに認められることになる。それは回転しながら五重の正四面体に折り畳めるのである。その図は「正20頂点体(正十二面体のこと)モデルの対称性の破れ」と題してこの本の巻末に掲載されている。

植田信隆『不穏な原子核ベクトルモデルたち』2002-2003
梶川泰司のシナジェティック・トポロジーを参考に描いた作品

上の絵画は、梶川さんのこの正十二面体トポロジーを許可を得て僕の作品に使わせてもらったもので、ここで改めて感謝の意を表したい。『不穏な原子核ベクトルモデル』というタイトルはフラーが正四面体などの幾何学形複合体で原子核モデルを作ったことに由来している。この作品が発表された2003年は、奇しくもアメリカ軍がイラクに侵攻した年であった。

5.テンセグリティ

上左 八面体状テンセグリティ
上右 二十面体状テンセグリティ いずれも筆者制作
下左 正八面体 下右 正二十面体

シナジェティック幾何学から生まれた最も美しい構造体がテンセグリティである。テンション(張力)+ インテグリティ(統合)の造語となっている。1947年、アメリカのノースカロナイラにあったブラックマウンテン大学で、フラーは作曲家のジョン・ケージやコンテンポラリー・ダンスのマース・カニングハムらと共に教鞭を執っていた。この時、学生の一人に想像力に溢れ技術的に優れたケネス・スネルソンがやって来る。彼のアイデアを契機にジョン・モールマンやリー・ホグデンらによって新たなテンセグリティが次々に開発されるのである。テンセグリティは、金属や木材の圧縮材をステンレスワイヤーなどの張力で文字通り統合するもので、圧縮材が24本のヴェクトル平衡体状テンセグリティ、三十本、あるいは270本の球状テンセグリティというように圧縮材の数は何倍にもすることができる。例えばその圧縮材として金属製の円柱を使う場合、その直径を半分にするごとに相対的重量は8分の1に減少していく。

これをジオデシック構造のドームに応用すると、直径3キロメートル級の全球体を空中浮遊都市(前述のクラウド・ナイン)や人工衛星の環境を制御する装置として、あるいは都市の空間をまるごと制御できるような半球状の構造物を構想することが可能となる。そのような計画としてイリノイ州、イーストセントルイスのために企画されたオールドマン・リバーズ・シティ計画が知られている。周囲5.6キロの月のクレーターのようなコンクリート製の円錐台状の基部を直径1600メートル、高さ300メートルのテンセグリティドームで覆う計画であり、12万5千人がそこで暮らすことが可能とされていた。

ダイマクションハウスやワールドゲーム(part1参照)、それに空中に浮かぶ都市計画などを考えてみると、僕には、フラーが地球を自分の手のひらの上に載せてそれを眺めまわしているような光景を思い浮かべてしまうのである。彼の意識は地球よりも大きかった。ある展覧会のシンポジウムで、一人の女性アーティストが地球を飛び出て宇宙に行く、そんな作品を作りたいと言っていたのを思い出す。僕は宇宙船に乗ってみたいという人にフラーがこう言っていたというのを思い出した。「どんな感じだい。僕たちは今、地球号という宇宙船に乗っているじゃないか。」

6.自己規律

私は若い時のように他人の意見、信条、教育理論、空想、習慣に自分を合わせるよう努力するかわりに、経験から得た情報にのみ基づいて自分自身で考え、そして自分の思考と直感から生まれたものを使って、生来の切実な動機に形を与えようと努めた(梶川泰司 訳 以下「」内は梶川訳である)。切実な動機とは、あの1927年の精神的危機における覚醒であった。この『クリティカル・パス』からフラーの「自己規律」を抜粋してみる。

家族とか自分とか国家とか、あるいは自分の仲間のためだけに努力するのではなく、包括的に人類全体を保護したり、支えたり、また利益をもたらすことに全力を尽くして、私の潜在能力を可能な限り地球号とその全資源、そして累積的なノウハウ(知識)を取り扱うことにのみ差し向けることにした。

私は決して自分のアイデアや人工物を『奨励』したり『販売』したりしなかったし、金を払って人にそうしてもらったこともなかった。私としては、決して自分の宣伝のためにエージェントを雇ったり、講演や著述、『アイデア販売』のための代理人と契約したり、また私への支持を呼びかけるための職員を雇ったりしてはならなかった。支援はすべて、私の発明の進化が人間に関する事象の全体的な進化と統合されることによって、自然発生的に生ずるはずである。これは、驚くべきことと言わなければならない。

私は大部分のことを自分の間違いから学ぼうと努めた。

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

私は自然における化学元素の目録、その重さや反応特性、相対的な存在量、地理的分布、冶金学的な相互の合金化の可能性、化学的結合の可能性と不可能性に関して、包括的に理解できるように自己を教育しようと努めた。私はロジスティックス(兵站学/戦闘地帯より後方の、軍の諸活動・機関・諸施設に関する学)や、人類がその歴史的経験から引き出し整然と蓄積してきた動態統計はもちろんのこと、生産手段の全般の能力、エネルギー資源、そして関連するすべての地質学的データ、気象学的データ、人口統計、経済統計を理解しようと努めた。この規律が、彼のワールドゲームの基盤となる。

‥‥生き残れるのは『あなたか、さもなくば私』のどちらかだというこの恐ろしい先入観の存在にもかかわらず、私には次のことがはっきりしているように思われた。もし、ある個人が、エンジニアリング、マーケティング、航空学、造船学、建築学、大量生産技術、そして弾道学で実地の経験をもっていて、科学的発見のなかに顕在化している進化の可能性を認識することもでき、全人類の全体的な経済的成功を達成するには仕事の優先順位をどのように立てるべきかを理解でき、技術による人類の利益の拡大を実現するために残りの人生をすべて賭けることによってそれらの問題に関与するならば、そしてもしその個人が、自然がなそうと意図していることを行っているならば、その個人は自分が――そして自分を頼っている人たちが――何とかもちこたえ、達成すべき課題に関連した知識、能力、そして経験を増大させることがわかるのである。‥‥

我々が扱えるのはネットワークパターンだけだとフラーは言う。フラーの言うデザインサイエンスとは、我々人間の経験のネットワークを構成することかもしれないのである。かつて、人間の経験のネットワークは物語化され神話体系として伝承されてきた。それは、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで触れておいた。しかし、フラーは人間の経験の総体を未来へと鋳出そうとするのである。平均的な人間の創意として。

如何がでしたか。皆さんにもフラーファンになっていただけただろうか。もし、この『クリティカル・パス』や『コズモグラフィー』をお読みいただけたら、今度は是非、フラーと梶川の著作『宇宙エコロジー』をお読みいただければと思う。日本を含めた現代の問題が鋭く提起されている。きっと皆さんは、より広い視野を獲得されるに違いない。

 

球形を大円によって分割しながら、表面を三角形で覆っていくジオデシック・ドームの様子がCGで描かれている。

 

フラー先生によるベクトル平衡体(立方八面体とも呼ばれる)の講義。ベクトル平衡体が二重の正八面体に折り畳まれ、最終的に四重の正四面体になっていく様子が撮影されている。折り畳まれながら変形していくシナジェティック・トポロジーの様子がよく分かる。

 

 

その他のフラーの著作と関係書籍

1. バックミンスター・フラー『コズモグラフィー シナジェティクス原論』
2. バックミンスター・フラー 『宇宙船地球号操縦マニュアル』
3. リチャード・ブレネマン編『フラーがぼくたちに話したこと』
フラーが子供たちに語るシナジェテイックス
4. バックミンスター・フラー『ユア・プライベート・スカイ』
ヨアヒム・クラウセ編 2001年のフラー「日本展」に際して刊行された。フラーの画像資料として最良である。
5. バックミンスター・フラー『テトラスクロール』絵本になったフラー
6. ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

 

 

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part1 ダイマクションとワールドゲーム

このような刺激的な本が、ある。読み返してみると自分が、このフラーからどんなに大きな刺激を受けてきたかを今さらながら考えさせられる。何がそんなにこの人を偉大にさせたのか? 何が彼を一年に地球を7周半させるほど駆り立てたのか? 何が彼を自分自身をしてモルモットB(Bはバッキーの頭文字/フラーの愛称)にさせたのか? それを知れば、必ずや皆さんはフラー・ファンにならざるを得ない。

『宇宙エコロジー』という本はフラーの著作の抄訳が半分を、訳者でありフラーの共同研究者だった梶川泰司(かじかわ やすし)の文章が半分を占めている。これは、梶川の編集である。それゆえ面白いのだ。二人の文章は瓜二つだ。語り口のテイスト、言葉の選び方、単語の繋ぎ方。翻訳した当人の文章であるということを割り引いても、いかに訳者がフラーの世界と一つに分かちがたく溶け合っているかが分かる。だが、今回ご紹介するのはフラーの『クリティカル・パス』である。『宇宙エコロジー』は、是非このフラーの『クリティカル・パス』と『コズモグラフィー』の両書をお読みになってから、ひも解かれるとよい。いまや、フラーの開発した構造体は高校の美術の教科書にも掲載された。それは訳者が何よりも望み、喜びをもって迎えることのできる現実となったのである。その喜びを僕は彼自身から電話を通して聴くことができた。

いま私はこうして存在しているが
自分が何であるかは分からない。
しかし、自分が専門家した種(カテゴリー)でないことは確かである。
私は〈もの〉を表わす名詞ではない。
私は、宇宙のなかの
不可欠な機能として
漸進的変化の過程に作用する
動詞のようだ。
(B.フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』梶川泰司訳)

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

1.ダイマクション

フラーが20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われたのにはいくつかの理由がある。比較的分かりやすい発明はダイマクションカーやダイマクションハウスといったものだろう。ダイマクションという言葉は、ダイナミック、マキシマム、テンションの合成語であるのだが、この言葉はフラーの発案ではなくシカゴ・イヴニング・ポスト紙の芸術欄の編集長であったC.J.ヒューレットによる4Dハウスという言葉に端を発している。面白いのは1929年当時のパリ万博後に購入した斬新な家具を売り出すためにアメリカの大手デパートの企画推進者によって最も斬新だったフラーの住宅模型がその隣の部屋に展示され、広告宣伝されたのだという。フラーの建築モデルの横に置いておけば家具たちもそんなに斬新には見えないから買ってもらいやすいだろうというわけである。しかし、4D、つまり「第4の次元」では一般大衆には受け入れられにくい。そこで広告専門家のウォールド・ワレンがフラーのもとに派遣され、フラーの説明を手掛かりに彼がいくつかの言葉を合成した。フラーの意向を窺いながら最終的に残ったのがこのダイマクションという言葉だったのである(ロバート・W・マークス『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』)。個々の発明については、ジェイ・ボールドウィンの『バックミンスター・フラーの世界』が詳しいので、しばらくは、そこからご紹介したいと思っている。

ダイマクションカー 1933年制作 後はT型フォード

ダイマクションカーは1933年に開発された画期的な三輪自動車であった。それは軽量でなければならなかった。最終的には空を飛ぶ計画だったからである。プロペラかジェットエンジンと翼をつけて飛行機としても使えるようにと考えられていた。そのようなスケッチが残っている。V8エンジンを車体後部に搭載するリアエンジンで、前輪を駆動させる。それは、フロント・ウィール・ドライブ・レイアウトと呼ばれている通常のエンジンのレイアウトとは全く逆になっていた。そのほうが速く走れると考えたからである。実際記録した最高時速は140キロ、燃費はリッター/13キロ、11人乗り、イサム・ノグチがそのモデルを石膏で作ったという流線形の美しいデザインである。三台製作されたが、3号機は指揮者のレオポルト・ストコフスキーの所有となり1934年のシカゴ万博で展示され成功を収めた。だが、大量生産に結びつくプロトタイプを完成する資金は得られなかった。

上 ダイマクショオン展開ユニット(DDU)
下 ウィチタ・ハウス 1946年(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より)

ダイマクションハウスは、例のデパートに展示された模型に端を発する。マストのように支柱から吊り下げられた六角形の枠組みから成るアルミ製で、大量生産を前提にしたデザインだった。1940年には、穀物倉庫からヒントを得てダイマクシオン展開ユニット(DDU)を開発した。このユニットは第二次大戦中にペルシャ湾沿岸地域で兵士の居住用に実際に使用された。第二次大戦は終わったが、アメリカは退役軍人と軍需産業に従事していた労働者が職を求めて溢れていたのである。火薬工場は農薬や化学肥料の工場へと転換された。やがてレイチェル・カーソンの言う『沈黙の春』がやってくるのである。

その時、フラーの対応は早かった。戦争の終結時には、航空機の製造技術を住宅産業に初めて応用しようとしたのだ。どのような家だったのか。一言で言えば、それは宇宙船であった。アルミ製の大量生産型のモバイル・ハウスを考えたのである。熟練した組立業者を必要とせず、二日間で施工でき、分解して移動し、組み立て直すことができた。金属部品は溶かして容易に新しい部品として再生産できる。DDUで明らかになったことだが、建物内の暖まった空気は基礎部から換気できるようにしておけば、頭頂部の換気口を通じて新しい空気が流入し自己冷却装置のように働いた。それに加えて風向きによって回転する舵つきのダクトが取り付けられている。総重量2.7トン(車2台分)、費用も車二台分と同じ値段であったが、開発される前に売り出されたため、会社とフラーとの間に軋轢が生まれ、1946年にウイチタ・ハウスと呼ばれるプロトタイプが一つできただけで融資は止まり、計画は頓挫してしまう。

ウイチタ・ハウス頭頂のダクト内部
ヘンリー・フォード・ミュージアム

フラーはこんなコンセプトで住宅のデザインを考えようとしていた。排泄物は全てそれを生み出す場所で一次処理されなければならない。プラスチックバッグが自動的に排泄物を封印パックし、収集サービスによって回収され、化学処理されて堆肥となるかメタンガス製造のための原料とされるように考えた。パッケージング・トイレである。通常家庭では大量に水が消費される。それをフラーは極力抑えようとした。海軍にいた時、フラーは霧が甲板上の汚れ、それも油でさえ綺麗に除去してしまうことを知った。食器や洗濯物の洗浄やシャワーもフォッグガンと呼ばれる圧縮空気と少量の水で霧状のジェットを発生させる装置を用いてクリーンにしようというのだ。一回のシャワーは、コップ一杯の水で足り、石鹸は必要なかった。実際のプロトタイプにも施工されたバスルームはトイレとバスタブが一体成型されたユニットであった。試作品は4枚の金属板をプレス加工している。ニクロム線によって保温と乾燥がなされ、換気口は下にとりつけられて床にむかって空気を吸った。このユニットバスをドイツのメーカーがポリエステル・ファイバーグラスで製造し始めるのは43年後であり、その2年後、アメリカで大量生産される。

1927年に彼は風力を利用し空気圧搾して、その副産物として発生する廃熱を海水の脱塩に利用しようと考えていたし、液体酸素を得るために風力エネルギーで空気を液化しようとも考えていた。高密度の液体酸素を一滴ずつ高圧室に垂らして膨張させ、そこから噴出する冷たい空気によってタービンを駆動させ発電しようというのである。それを4Dハウスに採用すれば自家発電できる住宅になる。雨が降れば人間には飲み干せないほどの水が手に入る。消毒さえ気をつければ、一時的な貯水槽に蓄えた水は屋根の傾斜角度を利用して配水でき、蛇口をひねるだけで必要な頻度と量の水が得られる。上下水道も電線も必要としなくなるようなモバイル型住宅、それがフラーが開発したい理想の住宅だった。

フラーは、『〈インタヴュー〉バックミンスター・フラーすべてを語る』の中でこう述べている。「私たちは宇宙について何がわかっているのか。人間と生態系の相互作用全体のなにを知っているのだろうか。私たちはどのように宇宙の欲求を満たし、どう対処すればよいのだろうか。どうすれば、全人類の生活全体の必要条件を満たす最高の生産水準を達成できるのだろうか(『宇宙エコロジー』収載)。」僕が興味を持ってきたのは、そのような住宅を作りたいと彼を導いた哲学が何であったかと言うことなのである。それは、影響力を受ける力(エネルギー)と格闘しようとせず、その影響力を利用するデザイン、伝導するどんなエネルギーとも絶縁しない科学のデザイン革命であった。

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

2.ワールドゲーム

フラーは『クリティカル・パス』の中でこう述べている。ソ連(現ロシア)は冷戦の早い段階で核弾頭は使われないだろうという結論を出していた。核弾頭の開発を見せかけて史上最強の軍隊を作り上げていたのである。一方、アメリカの政治家は、アメリカがロシアよりはるかに多くの核弾頭を開発していると指摘できたので軍事的に安全であるという感覚をアメリカの大衆に与え続けることができた。アメリカがそうしてきた背景には、究極的には石油は使い果たされてしまうという認識のもとに石油巨大資本が 、ワシントンのキャピトル・ヒル(米国連邦議会)に対してエネルギー政策をめぐるロビー活動を行い、原子力産業およびその原子核研究員を育成するために核弾頭の生産を促進させていたという。彼ら世界権力機構組織は、世界の石油供給が減少するにしたがって原子力発電と送電ネットワークの運営に移らなければならない事情があった。その開発のために合衆国政府は2000億ドル以上の税金を費やした。核兵器開発と原子力発電とはいかなる国においてもセットになっている。それが将来的な願望であってもである。

そして、こう述べる。「1979年1月の第二次『オイル・ショック』は、目に見えないエネルギーのノウハウをもつ企業連合がスリーマイル島の原発事故と原子炉の『炉心溶融』という脅威から必死に大衆の関心をそらすために企てたものである。大衆は原子力施設に強く反対したが、石油会社の管理による突然のエネルギー供給規制は、一般社会に対して再びエネルギーへの渇望を非常に高めたので、その間は原子力エネルギー施設を縮小しようという人びとの声は無視された」という。さらに、このような事柄をあらわにするのである。

大英帝国地理学会の最高顧問であったハルフォード・マッキンダーは1900年初頭に鉄道の高い輸送力を指摘し、船舶中心だった貨物輸送が変化し始めると英国に示したという。ロシアのシベリア横断鉄道は北に寄り過ぎている。雪による障害が大きすぎて経済的に引き合わない。それに英国はロシアを大西洋の港からしめ出したために 巨大な海軍を持つロシアが大西洋に進出するためには白海のアルハンゲリスク、バルト海のいくつかの港、太平洋岸ではウラジオストクが残されていただけだった。この時、マッキンダーは英国にもう一つの指摘をしたという。ロシアがアフガニスタンとパキスタンを押えるとペルシャ湾に到達可能となり、インド洋に艦船を展開できるようになる。アフガニスタンは世界の「ハートランド」だという。ちなみに、このマッキンダーに学んだハウスホーファが、故国のドイツに帰ってヒトラー旗下の航空相ゲーリングのもとで戦闘機と戦車を用いた電撃作戦を立案するのである。

長期に亘って軍事介入を望んでいたロシアは、内乱に乗じて1979年にアフガニスタンを占領した。これでロシアはイランの東側の国境とパキスタンの西側国境を支配下に置いたのである。だが、内戦の続くアフガニスタンから1989年にはロシア軍は撤退する。その後、この国は、ビン=ラーディンとアルカーイダの問題でNATO軍によって介入され、タリバン政権は崩壊することになる。イランに対してロシアは、権力機構にとって一番効果的な方法である「征服するには分断せよ」を活用した。宗教的な分断をイランに選択したのである。イラン王朝を支配しているアメリカを追い出せば、イスラム教徒たちを小さな宗派に分裂させ、軍事的にイランを制圧できると考えていたとフラーは言う。アフガニスタンとイランとイラクの問題の核心にあるのは実はロシアの南下の問題なのである。この『クリティカル・パス』がアメリカで出版されたのは1981年であったことは覚えておいてほしい。アメリカ軍の大義なきイラク進攻は2003年のことだった。アメリカのイランに対する圧力は今もって強い。これが、ワールド・ウォー・ゲームである。訳者の梶川さんは、フラーがよく暗殺されなかったと僕に語ったことがある。

ダイマクション・スカイオーシャン・マップ
地球表面を正二十面体に投影して展開した地図

このワールド・ウォー・ゲームが生む膨大な浪費とは対照的にフラーの考えるワールドゲームは、彼が52年間継続的に開発してきた全歴史的世界資源目録と絶えずエネルギー量と時間を減少化させる技術のエフェラリゼ―ション(短命化)を前提にした生産、供給、維持、デザイン改良、世界規模の統合などを通して、かつて人類が経験したことのない髙い生活水準を達成することであった。金に金を生ませる連中と彼らの経済学者は、この地球は人間の生活を支えるには根本的に不充分であるという政治的宗教的仮説を彼らのマネーゲームに利用しているという。トマス・ロバート・マルサスの幾何級数的な人口増加への恐怖とそれに伴う貧困を論じる『人口論』やローマクラブの著書『成長の限界』がその支柱である。彼らは、お金と本当の富と同じ不変の働きとを完全に切り離してしまったとフラーはいうのである。

バックミンスター・フラーによる世界電力ネットワーク図
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーは自らが開発した最も歪みの少ない地図であるダイマクションマップを見ながら世界的な電力ネットワークを考えていた。それは、ワールドゲームにおける最優先の課題だったのである。

昼夜の時間帯において東西間の相互の電力供給を、あるいは、夏季と冬季において南北間の相互の電力供給を可能にしたい。そのことによって既存の各発電機は最も効率のよいスピードで24時間の稼働が可能になり、エネルギー効率は飛躍的に向上する。発電所はピーク時の電力需要に合わせて設定されているためピーク時以外ではそれほど使用されているわけではない。そのため、この相互供給によって発電所の数をかなり減らすことができる(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』)。ボールドウィンによれば、このプロジェクトは1996年現在、進行中であるという。

彼は、このような世界規模での統合を訴え続けてきた。それが、彼を一年に地球を七周半させることになるのである。ある国の大学で講演を行うためにその大学に到着すると、次の大学や研究施設から依頼状と航空券が送られてくる。そんな晩年の生活であった。彼はワールドゲームを中心としたデザイン・サイエンスを説いてまわったのである。フォーチュン誌などの顧問をすることによって世界の資源や経済のデータは、的確に把握されていた。電力の相互供給ネットワークは、問題解決の第一歩にすぎない。飢餓と栄養不良の問題、核兵器の廃絶費用、難民の救済費用などの諸問題は当時の全世界の年間軍事予算7800億ドルの四分の一強の予算で解決できるとフラーは試算していた。下の図をみていただきたい。

全世界の年間軍事支出と最優先課題に掛る経費
1.飢餓と栄養不良の除去 190億ドル
2.住宅供給 210億ドル
3.健康管理及びエイズの抑制 210億ドル
4.人口の安定化 105億ドル
5.土壌浸食の防止 240億ドル
6.効率的で安全、汚染のないエネルギーと再生可能エネルギーの供給 500億ドル
7.開発途上国の債務返還 300億ドル
8.安全で清潔な水の供給 100億ドル
9.森林破壊の防止 70億ドル
10.酸性雨の防止 80億ドル
11.オゾン層破壊防止 50億ドル
12.地球温暖化防止 80億ドル
13.難民救済 50億ドル
14.識字率の向上 50億ドル
15.核兵器廃絶 70億ドル
16.地雷の撤去 20億ドル
17.民主主義の確立 20億ドル
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーはこう述べる。「ワールドゲームは、もし国家によるすべての統治権が放棄されないなら、そしてワールドゲーム方式の全世界的にコンピューター化された時間‐エネルギー計算システムが直ちに開始されないならば、この地球から人類が滅び去るだろうということを明らかにしている。脱国家権力を成し遂げるための第一歩は、世界の電力グリッドの空隙を埋めることにある。世界的に統合された電力計算システムが、世界経済を経営管理するための全エネルギー計算システムの始まりとなるだろう」と。フラーにとって「時間とは、二つの出来事の間の最短距離である。」一方、1974年のワールドゲーム・セミナーでは、ペンシルベニア大学が中心となってフラーらと共に完成させた「自然エネルギーによる(風力や波力など)〈自立的再生〉を達成させる方法論である『宇宙の資源と富』を発表している。

梶川泰司は『宇宙エコロジー』の中で、バックミンスター・フラーの半世紀にわたる絶えざるデザイン・サイエンス(平均的な革命)は、現在のエネルギー変換技術で全人類が必要とする全エネルギーを太陽からの放射エネルギーと重力エネルギー(風力発電などのクリーンな発電を指している)だけでまかなうことができるという科学的証明のために、シナジェティックスを発見し概念化しながら、ダイマクションマップのような大気圏全域をナビゲーションするための地図投影法とジオデシックス、テンセグリティの予測的発見と予測的発明に絶えず集中していたと述べている。

そのようなデザイン・サイエンスには、社会主義的な計画経済という側面が強調されると考えるのは自然なことなのだが、世界の大きなジレンマに対処するための政治家の能力に彼は期待していない。アナーキストでは勿論ないが政治家を信頼していなかった。彼は、平均的な人間の創意を強調する。自分のような平均的人間にそれが可能かどうか、自分をモルモットとして実験材料にしたのである。モルモットBが彼の別名となる。次回 part2は、彼の思想の基盤となるドームやテンセグリティなどの構造体と彼が自身をモルモットにした経緯をご紹介したいと思っている。お楽しみに。

 

ロバート・W・マークス
『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』
ロバート・マークスは雑誌『エクスワイアー』編集者、『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』のコラムニスト、バンタム・ブックス編集者を務めた理学博士。

ジェイ・ボールドウィン
『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究し、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

バックミンスター・フラー
『コズモグラフィー シナジェティクス原論』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

藪光生『和菓子 WAGASHI』と甘性文学集『ずっしり、あんこ』

旬月神楽に特注した和菓子 筆写撮影

僕は、広島での個展の時に三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の島村幸忠さんに煎茶の茶会を開いてもらったことがある。最近ではアルルで茶会があったようだ。広島での茶会用に特別の御菓子を旬月神楽(しゅんげつかぐら)の明神宜之(みょうじん のりゆき)さんにお願いした。銀座の甘楽(かんら)で修行した人だ。そこは、豆大福とどら焼きが美味しい店である。夏の盛りでなければ東京の土産によく買って帰っている。小豆あんがいい。その明神さんの店に行った時に、テーブルの上に何気なく置いてあった文庫本が今回ご紹介する本の一つ、藪光生(やぶ みつお)の『和菓子 WAGASHI』だった。この人は、全国和菓子協会の専務理事、全日本菓子協会常務理事、専門学校の講師でもある。この業界の経営指導や広報活動に尽力されてきた方である。美しい写真と気の利いた解説付きのコンパクトな本で、店のテーブルに座って何気なく読むのにふさわしい本だと思った。しばらく、この本を軸に、虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』も交えながら和菓子の歴史を追ってみる。

藪光生『和菓子WAGASHI』

世界中どこでもそうかもしれないけれど菓子のルーツは木の実や果物だ。つまり、「果子」である。垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が「非時香具菓/ときじくのかぐのこのみ」を求め、九年の歳月をかけて常世から持ち帰ったのが橘の実だったという。上古では石榴、梨、林檎、柿などの菓菰(くだもの)の他に菰(くさくだもの)として瓜、黄瓜、茄、アケビ、蓮の実、覆盆子(いちご)などがあった。クヌギや楢はアクが強いから粉にして水に晒してアク抜きし、粥にしたり茹でるなどして食べた。「団子」の起源である。餅は古代より神聖なものだったが、景行天皇の御代に豊国氏の祖である菟名手(うなて)が豊前国(ぶぜんのくに)に来た時、白鳥が飛んできて、餅へと変わり、片時の間に芋草(米)に化したという伝承が『豊後国風土記』に記されている。

昔の甘味料は米を発芽させた「米もやし」から作られる飴で、でんぷんからつくられる。日本で発明された甘味であるようだ。もう一つは「甘葛/あまずら」で、つる草の一種であるアマチャヅルの茎を切り、切り口から出る汁を煮詰めた甘味料だそうである。『枕草子』にも「削り氷に甘葛かけて」と書かれている。当時の最高級の御菓子だと言えるだろう。

やがて、遣唐使が「唐菓子/からくだもの」を持ち帰るようになる。もち米、うるち米、麦などを捏ねたり、大豆、小豆に塩を入れて油で揚げたものなどであった。清少納言は藤原行成から鴨などの肉に雑菜を煮合わせたものを餅にくるんで四角に切った餅餤(へいだん)を送られ、自分で持って行かないのは冷淡かしらと洒落のめして紅梅を添えてお礼の文を送ったという。平安時代には上巳の節句に母子餅(草餅)、端午の節句には粽(ちまき)が食べられるようになった。和泉式部は息子の石蔵の宮に母子草を餅に混ぜた草餅を母の愛とともに送っている。(『和菓子を愛した人たち』)。草餅については、この人の文章がいい。

母子草 春の七草の一つ、御形(ごぎょう)のこと。

「写真を出してみる。若き母は、天女のようにあどけない。小豆や夏豆(そら豆)の時期はこう囃した。『ほらこの豆は、団子のあんこになってもらうとぞ、鼠女(じょ)どもにもやるまいぞ。』即興詩人だった。小さな子は鼠女どもにやるまいぞと、つけて言い、大切なあんこの、豆がらの束を担いでかけまわった。小麦も鼠も人間も、団子もあんこに同格となって、母のささやき語に出てくるのだった。‥‥その胸の内をおしはかりながら、教えてくれたとおりに蓬餅をつくる。どの季節でもない、早春の気配を聴く頃にだけ、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春との間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない(石牟礼道子『食べごしらえおままごと』。」

鎌倉時代に入ると栄西が茶の木を持ち帰って喫茶の風が起こり、菓子類にも趣向が凝らされるようになる。『正法眼蔵』の「看経/かんきん」巻には僧に出される点心、つまり、おやつとして饅頭の六・七個盛りが、羹(あつもの/スープ)と一緒に供されるとある。ただ、この饅頭は甘い小豆あんではなく一種のパンに近いものだったらしい(『和菓子を愛した人たち』)。室町時代には、羊の肉の羊羹、魚の白魚羹など48種もの羹(あつもの)類が伝えられたという。肉食は、はばかられたため小豆の粉や、小麦粉を練って羊の肉を象って汁に入れた。その汁を無くし蒸し菓子にしたものが後世の蒸し羊羹である。薬としてわずかにしか得られなかった砂糖が輸入されるようになり、菓子の味や種類、製造法に大きな影響を与えるようになる。ただ、本格的な流通には江戸後期を待たなければならない。同じ頃、南蛮菓子も伝わるようになり、カステラ、ボーロ、ビスケットなどが登場するようになる。織田信長は、フロイスにもらったガラス瓶入りの金平糖にヨーロッパへのロマンを感じただけではないのだが、フロイスに布教を許した。ちなみに茶の湯に血道をあげた豊臣秀吉、その師である千利休が好んだ菓子は、ふの焼きと言われる小麦粉を溶いてクレープ状に焼き、味噌をぬって巻いたものであったという(『和菓子を愛した人たち』)。

金平糖 斜めに回転する鍋の中で砂糖蜜を少しずつかけながら結晶を大きくしていく。

金平糖と言えば、時代がかなり下るけれど寺田寅彦の研究材料として知られている。「金平糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい」と述べているという(『和菓子を愛した人たち』)。日本の金平糖は、南蛮のものとちがって二週間もかけて角を成長させて行く。角が生まれるのは、初めの偶然できた凹凸の尖った部分が凹んだ部分より早く成長するためであるという。ちなみに、昨今では結晶の生成は確かオートポイエーシスの第一領域と呼ばれていたと記憶している。

江戸時代に入ると、平和な時代が続き、生活も安定してくる。菓子の需要も高まり、参勤交代などでの江戸と地方との交流によって全国的な菓子文化の発展に繋がっていった。落雁、饅頭、胡麻餅、外郎、羊羹、葛餅、草餅、松風、唐錦、求肥など現在まで知られる菓子がその製法書に掲載されるようになる。求肥は白玉粉や羽二重粉などの上質な餅粉に砂糖や水あめと水を加えて加熱しながら半透明になるまで煉ったもので和菓子の生地になる。

煉りきり『もらい水』旬月神楽製

練りきりあんは白あんにこの求肥をつなぎに混ぜたもので、色々な形にアーティスティックに造形されるのがたまらない。はさみ菊などは芸術品といってよい。木型に入れてかたどるものとヘラなどを使って形作る「手形もの」とがある。ただ、形を細かく作るのに拘りすぎると、どうしても材料を固くしなければならないので食べるに適した硬さでなくなってしまう場合もあるとは明神さんの言葉である。親方から弟子へ、先輩から後輩へと受け継がれてはいくのだが、作り手が異なれば微妙に形も異なるものだという。手作りの技には「二つと同じものが作れない面白さ」と同時に「二つと同じものが作れない怖さ」が同居している藪さんはいう。

外郎(ういろう)はうるち米、もち米といった米粉、小麦粉、ワラビ粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る。四代将軍家綱の頃に寒天が生まれ、あんに小麦粉や葛(くず)粉を混ぜて蒸し固める蒸し羊羹から、あんを型に流し込んで寒天で固める煉り羊羹が発明される。寒天の量が少なく、柔らかいものが水羊羹である。

白小豆羊羹 筆者撮影

夏目漱石は『草枕』の中で、主人公が、宿の若奥さんから御茶を出される場面でこう書いてる。「『ありがとう』またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑なめらかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉(ぎょく)と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔(やわらか)だが、少し重苦しい。ジェリは、一目(いちもく)宝石のように見えるが、ぶるぶる顫(ふるえ)て、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である(『草枕』)。」これなど玉露を飲む時の描写と双璧して卓越なものだと思う。羊羹を描いて、青磁と玉のイメージを借り、その姿を褒め称えているのだ。

この漱石の羊羹を受けて谷崎潤一郎はこう書いている。「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。‥‥だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる(『陰翳礼讃』)。羊羹には神秘性があるのかもしれない。

川原慶賀「小豆図」
江戸後期の画家。シーボルトの依頼で日本の動植物や風俗を描いたことで知られる。

和菓子で最も重要な材料は小豆と砂糖であろうか。大きさの比較で大豆に対して小豆であろうという。小豆を食べる習慣があるのは日本、韓国、中国、台湾などの東アジアの一角に限られているようだ。それは「陽力」のある食べ物であり邪気を祓う力があるとされた。品質の良いものは丹波、備中、北海道などでとれるものである。日中に温度が一定以上になり、夜間はすっと涼しくなるような昼夜の温度差がある地域が最適である。丹波などでは山間部で栽培されるようだ。小豆の成分は57パーセントが澱粉である。その澱粉は、ちょっと変わりものであるらしく、澱粉粒四~五個をセルロース系の食物繊維が包んだ「あん粒子」と呼ばれる特殊な粒子であるらしい。一見して粘り気があるようだが、食べてみると口の中でさらりと溶けるのはこの粒子の働きであるという。大豆系の豆には、この粒子はない。白あんの原料は白いんげん豆で、中でも「手亡/てぼう」がよく用いられる。いんげんは蔓性で栽培に支柱がいるのだが、手亡は半蔓性で支柱がいらないのでこう呼ばれた。独特の粘り気と風味を持つ豆であるという。豌豆はうぐいす餅の原料になる。

小豆は開花して実をつけると小さな莢(さや)をつける。豆が大きくなるまでには開花後四十日くらいかかる。その頃収穫されるのがよい。しかし、開花は一月から一月半に及ぶので、早く実になるものも遅くなるものもある。同じ畑でも未熟なものや乾燥しすぎてしまったものなど実の状態は様々である。それで、適期に収穫したものか、遅れて収穫したものかによって品質が異なる。土壌や畑の立地によっても品質は微妙に変わる。それを粒の大小などの異なるものを選別して同品質に近づけるわけである。それでも品質にはバラつきが出る。その年の日照時間や天候によって今年と去年とは異なってくる。

豆の表皮にある苦み成分サポニン、渋み成分タンニンは隠し味のように小豆の風味の一画を占めるのであるが、生育要因によって量に違いが出る。それを除去する作業を「渋を切る」という。小豆を炊いて、茹で汁を捨てる作業を三~五回繰り返す。沸騰が始る前に切るのか、沸騰してから切るのか、沸騰後何分で切るのか、職人によって異なると藪さんはいう。これが、あんを百人が作れば、百の味になる理由であるという。職人はそれらの困難を乗り越えながら変わらぬ味を作り出していると言うのである。

汁粉(小倉あん)

あの痩せた姿からは想像しにくいのだけれど芥川龍之介は、しるこファンだった。関西では、しるこは漉しあんで作り、ぜんざいは粒あんで作るという区別がある。「僕等はもう広小路の『常盤』にあのなみなみと盛った『おきな』を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少なからぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にも少なからぬ損失である(芥川龍之介『しるこ』)。」上野の常盤屋という店のなみなみと盛った「白あんのどろっとした小倉しるこ」を二杯食するのが通例だったという。これは、ちょっと凄いかもしれない。つまり、白あんのぜんざい好きだったというわけだ。それで、関東大震災以来、しるこ屋が減ってカフェばかりになっていくことを嘆いている。

これも想像し難いことなのだけれど、森鷗外は、意外なものが好きだったみたいで、饅頭を四つに割って御飯にのせ、煎茶をかけておいしそうに茶漬けにして食べていたと娘の茉莉さんが書いている。子供たちも真似して食べていたというのだ。その他に、焼いた餅を醤油にひたして、それをご飯にのせ、ほうじ茶や番茶をかけて茶漬けにしていたという(『和菓子を愛した人たち』)。変った茶漬けが大好きだった。里の津和野の習慣なのかしら。津和野の人に聞いてもみたいのだが、聞いたらしかられるかもしれない。そういえば、私の祖母は孫の自分たちに正月過ぎて、雑煮も飽きた頃、あん餅を白味噌仕立ての雑煮にしてよく食べさせてくれていた。関東にはない風習ではなかろうかと思う。そんな不味そうなものと思う方もいるかも知れないが、これが美味い。ちょっとくるみあんの餅を食べるような感覚になる。嘘だと思う人は一度お試しあれ。

砂糖にはあまり知られていない優れた特性があるらしい。この『和菓子 WAGASHI』を読むまで知らなかったのだけれど、甘みという美味しさの他に保水性という重要な特質を持っている。水分の蒸発を防ぐと同時に、そのものに含まれる水分が砂糖に取り込まれると自由に動くことができなくなるのである。自由に動き回れる自由水があると菌の発生や繁殖の原因となるという。砂糖を用いることによって和菓子の水分活性を抑え、一般生菌などの繁殖を防ぐのである。砂糖はサトウキビや砂糖大根(ビート)を搾って蜜にし、不純物を除き精製したものであることは皆さんご存じだろう。

沖縄の黒砂糖はよく使われるが、貴重な砂糖として知られるのは和三盆である。江戸時代の後期から作られるようになる。竹糖(ちくとう/通称ほそきび)と呼ばれるかなり細めの特殊なサトウキビであるらしく、花が咲かない。沖縄では地下茎を残しておけば来年そこから芽が出る。北限の徳島あたりでは寒いので一度根っこから抜いて土の中に寝かせておくと節に芽が出るので来年それを植えるのだと言う。だから、その年に植えなかったら種黍がないので来年作ることができなくなる。そのサトウキビを機械で搾って煮詰める。アクを抜かないと白い砂糖にならないので蒸気でふかしてアクを吹きこぼしてキャラメル色の白下糖(しろしたとう)を作る。もともと冬の農閑期での仕事だった。

その白下糖を布に包んで手水をつけ、押し搾る「研ぎ」と呼ばれる作業が行われる。槽(ふね)と呼ばれるかなり大きな台で搾るのだが、昔はお盆を使って最低三回やったので三盆糖と呼ばれた。のちに外来の三盆白というような砂糖と区別するために和三盆と呼ぶようになったのが名前の由来であるらしい。水あめ状の糖蜜を搾り切った板状の砂糖を砕いて乾燥させると砂糖になるのである。面白いのは、これらの作業ができる人たちはサトウキビ畑のある里の人ではなく、山あいから冬の間だけ出稼ぎにくる人たちなのだ。白下糖までを作るのが「締(し)め子」、酒造りの杜氏(とうじ)に匹敵するという。研ぎを専門にするのが「研ぎ師」と呼ばれる。その数は数えるほどになりつつあるという。詳しくは、塩野米松著『最後の職人伝』〈人の巻〉をご覧になるとよい。ちなみに、金沢の長生殿はこの和三盆と北陸産のもち米を原料に木型で固めて作られる最高級の落雁である。

三つ食えば葉三片桜餅 虚子

長命寺桜餅 道明寺桜餅と同じく江戸時代からある。

桜餅は僕の大好きな御菓子の一つだけれど、若い頃、東京の御菓子屋で全く異種の桜餅を見てカルチャーショックを受けたことがある。米粉にはいくつもの種類があり、日常食べるお米、つまり、うるち米を生のまま粉にしたものが「上新粉」で柏餅、草餅、団子に使われる。もっと細かく挽いたものが「上用粉」で、薯蕷(じょうよ)饅頭や外郎(ういろう)の材料になる。蒸して加工する米粉もある。うるち米を水洗いして水に漬け、水切りして蒸す。蒸した後、乾燥させて砕いたものを「道明寺粉」という。これは、大阪の道明寺が発祥の地で、「道明寺糒(ほしい)」として戦国時代には兵糧食になった。水にもどせば食べられたのである。これを桜餅に使ったのが道明寺桜餅だ。しかし、桜の葉で巻かれているのは同じだが全く異なる桜餅があったのである。長命寺桜餅と呼ばれるもので、皮は小麦粉に米粉を加えて水に溶いて薄く焼き上げたもので、それであんを巻く。こんな桜餅もあるのかと驚いた。関西にはない。

芋坂も団子も月のゆかりかな 子規

杉田淳子、武藤正人 編『ずっしり、あんこ』

東京は日暮里のあたり、谷中から根岸に向う坂は芋坂と呼ばれて文政二年創業という有名な茶屋があるらしい。田山花袋の揮毫による「羽二重団子」の扁額が飾られ、店の横には正岡子規の句碑が建てられているという。団子の肌理の細かさから羽二重団子と呼ばれた。きっと白い絹を思わせるような生地なのだろう。その団子のことを司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、あるいは夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で書いている。団子は、漉した小豆あんをのせたのと生醤油に浸けて焼いたものしかない。もともと茶屋だったからビールと酒が置いてある。

『小説仕事人 池波正太郎』を書いたエッセイストの重金敦之(しげかね あつゆき)は、焼き団子で日本酒というのは悪くないという。続けてこう述べている。「じりじり色づいてきた団子を、片手に十四・五本すくい取って、もう一方の手には団扇がある。きびきびした手際の良さに感心しているうちに、お客が入ってくる。‥‥羽二重団子は庄内産のササニシキを使っている。もち米ではなく、日常食する『うるち米』だ。自分のところで製粉し、お湯でこねたものを蒸気で蒸す。火をつけるのは毎朝四時だ。蒸し上がった餅状のものを搗く。‥‥搗くことによって腰の強さと粘りが出てくる。そうでないと、口にしたとき歯のまわりにまとわりつくような「歯ぬかり」のする軟弱な団子になってしまう(重兼敦之『「羽二重団子」で日本酒を飲む』)。」

ちよっと面白い本を見つけた。〈美味しい文芸〉『ずっしり、あんこ』という主に文学者たちが描いた甘いものについての文章を集めた本だ。感性鋭いだけでなく甘性も十分ある、なかなか興味深い文章が集められているのでご紹介したくなった。上の文章の石牟礼道子、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、重金敦之の文章はこの『ずっしり、あんこ』からご紹介した。この中にある安藤鶴夫の『たいやき』も面白い。僕の種本である。

僕は酒は全く飲めない、というか受けつけない。生醤油をつけて焼いた団子と日本酒を一緒にするとどういう味になるのか試してみることができない。人生の喜びの半分は失っているなどと言われたものだが、本人はちっとも残念だと思っていない。好きでもないからだろうか。酒については、かなりうるさい御仁が知り合いにいる。一緒に食べに行くと彼は、ぐい飲み片手に酒について一家言始まる。この人「マッサン」で知られるようになった竹鶴の杜氏(とうじ)なのだ。ゲストで何か書いてもらうのも面白いかもしれないと思っている。

 

その他の参考図書

虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』
京都・東京の老舗虎屋が菓子に関する資料や調査などをまとめた文庫。どちらかというと歴史的な視点に立った和菓子を愛した人々の紹介になっている。

塩野米松『最後の職人伝』
数少なくなった職人の手業を取材した秀逸な著作である。特に魯・櫂と和三盆の製法は興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和菓子作りの動画は「はさみ菊」などの華麗な技を映像にしたものもあるのだけれど、ただ、餡を練りきりに包むだけという、この基本技の凄さを見ていただきたいと思う。

 

 

 

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
› 続きを読む