Blog / ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。

 

「アフロディテの系譜」エロスとタナトスの間

七月二十一日、思うことありて偶(たまた)ま題す

もやに包まれておぼろ月のもと、明け方の花の顔は露に泣きぬれ、柳に眠る夜のうぐいすは、その枝の冷たさに、まどかな夢を結びかねている。
いま起き上がったその石の枕に「恋しや」と刻まれた文字がある。むせるようなこの香り、それはあのベットを包むほのかな帷の中から漂ってくるのだ。
女が示すまっすぐな気持ち――その真実さは、ちょうど静かにたたえた水のようだ。そのかわいい顔がほころびて、それ、ポッと紅がさしてきた。
ともしびを背にして、汗にぬれた着物を脱ぎかえ、いとしい方に頼んで枕べから耳かざりを取って来てもらう。
別れの涙は、蘭の匂うしとねにも浸みるばかりにしとどなのに、愛し合うということが、蝉の羽にも似てはかないものであろうとは――
銀のひばしで、香炉の灰を掻きならしつつ、彼女は「幾久しく」と書きつけている。思えばそれは、幾層にも高く灯籠をかかげめぐらした楼館だった。その赤い欄干は、町の大通りから真向かいに仰ぎみられた。
だが今、かつてのあの歓楽の場所は、見ればただ草おいしげる高い塚があるだけ。ふと楓の根もとから亡霊の声が聞こえてくる。その淮楚のなまりには聞きおぼえがある。
おお、おんみ、おどろおどろしい女の魂よ、いまどこの山の雨となって降っているのか。
(入江義高 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
『ヴィーナスの誕生』部分 1484-1486

今回はちょっと艶(つや)な詩からはじまるのだけれど、終りのほうはなんだか卒塔婆小町ぽくてなかなか良いと思う。明代の袁宏道(えん こうどう)の詩の翻訳だ。この対比は、バタイユではないけれどエロスとタナトスと言えば定番すぎるだろうか。ディディ=ユベルマンが、その著書の中でヴィーナスの負の部分を切り開いていくのだが、裸体が欲望ばかりでなく残酷さと共鳴することについて、ボッティチェリの描いた『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』に描かれた臓器の抉り出しに言及し、バタイユを引き、あまつさえ18世紀のマルキ・ド・サドが書いた『イタリア紀行』に振っておいて、その著書『悪徳の栄え』のジュリエットの言葉を引く。いささか粘液質で力技だが、この結合の業は驚くべきものである。しかし、これ以上書くと脇道にそれそうなのでここで止めておく。

今回は中国の話ではなくて、美術史家ディディ=ユベルマンに刺激されて西アジアからギリシア・ローマへと話は飛びます。主人公は、ヴィーナス、つまりアフロディテ。その系譜を追ってみたいと思っている。

アフロディテの誕生

愛欲に満ちた大いなる天・ウラノスが夜を率いて大地・ガイアの全身を覆いその上に横たわる。待ち伏せしていた息子のクロノスは右手に握ったぎらぎらと光る大鎌で、父親の男根を一気に切り落とすと、それは限りない海原へと落ちていった。と、漂流していくうちに、その周囲から白い泡が湧きだし、中から一人の乙女が生まれたのである。ヘシオドスの神統記にはアフロディテの出自がうねるようなパトス(情念)の中に描かれていた。

一方、ホメロスのアフロディテ賛歌では、こう詠われている。

‥‥
女神は海に囲まれたキュプロス全島に聳える城塞を、その領邑として知ろしめす。
吹き渡る西風(ゼフィロス)の湿り気帯びた力が、
やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、
高鳴り轟く海の波間をわたって、この地に運び来た。
黄金の髪飾りしたホーラーたちが女神を喜び迎え、
神々のまとい賜う衣装を着せ、不死なる頭には、
美しい、黄金造りの見事な細工した冠を載せ、
穴穿った耳たぶには、真鍮と高価な黄金の花形の飾りをつけた。
柔らかなうなじと銀のごとく白く輝く胸を、黄金の首飾りで飾った。
‥‥
(『賛歌第六歌』沓掛良彦 訳)

アフロディテの岩 キプロス島 パフォス

アフロディテはキュプロス(現キプロス)島に上陸したのである。キュプロス島のパフォスには古代世界において最も有名な神殿の一つであるアフロディテ神殿があった。フェニキアのアスカロンから移住してきた人々によって建造された神殿だった。キュプロスの祭儀は近隣の小アジアの影響を受けていることを考えるとフェニキアの女神アスタルテの祭祀が取り入れられていた可能性は高い。

ここでは、バビロニアやアファカのように「神殿売春」が行われていたとJ.G.フレイザーは述べている。未婚の女性が神殿を訪れる男性に幾らかの代価で身を任せるしきたりがあった。それはキュプロス王のキ二ュラスによって創始されたと伝えられる。性愛と豊饒の女神アフロディテはそのキ二ュラスの美しさに惚れこんで求愛したという。その母であったパポスは自らが象牙で造ったガラテアと恋に落ちたピュグマリオンとの間に生まれた娘であった。ピュグマリオンの願いを叶え、彫刻のガラテアに命を与えたのはアフロディテだ。そして、キ二ュラスと実の娘との間にできた息子がアドニスであり、彼もまたアフロディテが愛する若者となる。キュプロスの地とその王キニュラスがいかにアフロディテと深い関わりを持つかを物語る。

 


古代の結婚制度は自由婚制から母権制を経て父権制のもとでの結婚制度へと舵をきった。その間には多くの諸段階があったといわれる。文化人類学・法学者だったバッハオーフェンは自由婚制をアフロディテに象徴させていた。性愛の神である。しかし、ある段階でこの性愛の神と母権制の象徴である地母神としてのデメテル的要素は混ざり合っていったのである。


 

乱婚制の象徴としてのアフロディテ

デメテル 国立ローマ博物館

古代の婚姻制に関する研究が進むにつれ、アフロディテ的な自由婚(乱婚)制から純粋なアポロン的父権制へと至る婚姻制度には諸々の段階があることがわかる。その一つは狂女のようなマイナスらに取り囲まれた酩酊させるファロスたるディオニソスに象徴される社会であり、あるいは男を奴隷的立場に追いやり、男の子であれば手足をなえさせ、女の子であれば右の乳房を焼いたというアマゾン的社会の制度である。婚姻を知らない母性の表象である野性の湿地植物という表象段階から永遠の若さを保つ父性というウラノス的天空世界の調和やアポロン的光輝という段階に至るとバッハオーフェンは述べている(『母権論』)。女性が肉体的に浪費されるという立場から逃れ、男性に伍するためには、嫁資という武器が必要だった。こうして娘だけに相続権が与えられるようになる。乱婚や売春という自由な性交渉を根絶するためには、このようなデメテル的原理と呼ばれる母権支配による社会制度が求められた。

祭祀における最も優位な天体の性、あるいは月崇拝が盛んな地域におけるその性によってその地で男性支配あるいは、女性支配のいずれが行われていたかを知ることができる。バッハオーフェンにとって神話は時代の生の現実を忠実に映し出す鏡であったのだ。神秘は全ての宗教の真の本質であり、女性が祭祀と日常世界の領域で指導的地位にある所では深い内的な敬虔さがあったという。地上における生と死との限りない交替は女性の内に、高次の再生を前提とする高い希望を呼びおこすとバッハオーフェンはいう。それが「秘儀の新たな獲得」であり、デメテルとその娘ペルセポネー信仰のように大地と豊饒と地下世界に関連していくのである。

 


ギルガメシュ叙事詩で知られる女神イシュタルはシュメールの女神イナンナの系譜を引いていてプリュギアではキュベレ、エジプトではイシス、フェニキアではアスタルテと呼ばれた。ギリシアのアフロディテは、この流れを汲む。豊饒神としての性格とともに、パートナーとして冥界と地上を往還する男神との関係が注目される。


 

愛と豊饒の女神イナンナ・イシュタル・キュベレ・アスタルテ

バビロンのイシュタル(夜の女王)
BC1800-1750

シュメールの豊饒の女神である大地母神イナンナは「全てのものを生み出す子宮、生けるものたちとともに 聖なる住まいに住みませるもの、生みの親、心に慈悲満てるもの、その手に全ての地の生命を保持しませるもの」と詠われた。イナンナの祭りは植物の神格であるドゥムジ神との祭儀であり、聖婚によって一年の半分の期間に生命を生み出し、その半分は地下に降る男神であった。アッカド人の間ではイシュタルとタンムズとなる。

メソポタミア神話においてギルガメッシュは、シュメールの都市ウルクの実在の王であったと言われている。神のごとき強力な王であったが、暴君でもあり、都の乙女たちはこの王に初夜権を握られていた。その英雄の姿にウルクの守護神イシュタルはぞっこんとなって、ギルガメシュに言い寄るが、女神の気の多さと思慮のなさを言い募りすげなく振ってしまうのである。

イシュタルは金星の女神であり、宵の明星としての女性的側面と明けの明星としての男性的・破壊的側面があるといわれる。因みにギルガメシュ叙事詩では、月は男神シンである。タンムズはイシュタルの夫、あるいは若い頃の恋人であり、弟という説もある。その祭礼のことはT.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに少し書いておいた。イシュタルの冥界降りとは、亡くなったタンムズをつれもどすために自分の姉である冥界の女王エレシュキガルのもとに行くために七つの門を通過し、再び地上に戻る話である。イシュタルは、アッカド語の呼び名で愛と逸楽の神であったが、同時に豊饒の女神でもあった。

エーゲ海沿岸地域

現アナトリア半島周辺のプリュギアではイシュタルにあたる女神は二頭の獅子を引き連れ、あるいは獅子の引く車にのる姿で表されるキュベレである。この女神はリュディア王の娘でキュベレ山に捨てられ、この名がある。この女神が愛したアッティスは植物の死と復活を司る。その魂は松の木に宿り、血からは菫が咲きでたとされる。このアッティスがギリシアではアドニスとなるのである。

アドニスの生誕

例のキュプロス王キニュラスとその娘ミュラとの間に生まれた子供がアドニスだった。王女はあまりに美しかったために家の者がミュラはアフロディテより美しいと自慢し、女神の恨みをかった。ミュラは父親を愛するように仕向けられ父を騙して床を共にするが、それが発覚するや父に殺されかける。この神話が成立した社会には、近親相姦のタヴーがあったことになる。憐れんだ神々によって没薬の木であるミルラに姿を変えられる。その木が裂けて生まれたのアドニスだった。成長した彼はアフロディテと冥界の女王ペルセポネーとの取り合いとなり一年の三分の一を冥界で三分の二をアフロディテと共に過ごすようになるのだが、やがて、狩りの途中に猪に突かれて死んでしまう。

アントニオ・コッラドーニ 『アドニス』 1723頃 メトロポリタン美術館

このアドニスという言葉は、おそらくフェニキア語で「わが主」を意味し、「アド二」「アドナイ」がなまったものであり、かつてタンムズを冥界から呼び戻すために女たちが発した言葉だと言われている。アドニスが亡くなった後には赤いアネモネの花が咲いたというが、タンムズ信仰の盛んだったレバノンでは春先に山から洗い流された赤土が河を赤く染め、赤いアネモネが咲き乱れるところから生じた神話ではないかという人もいる。

ここに登場する女神たちは、いずれも地母神的性格を付与されていながら男性神格をパートナーにしなければ豊饒神としての性格を全うできない。性愛の女神アフロディテに見られるエロスとタナトスという対比は、地母神としての生(豊饒)と死という対比となっていて物質を支配する女神としての性格が際立ち始めるのである。物質の暗黒面が死である。

 


ユッピテルによってトロイアの若者アンキセスを愛するように仕向けられたアフロディテはローマ建国の勇将アエネアスの母となり、アエネアスの英雄伝説とともにローマ神話の中に流れ込んでウェヌスとなった。やがて、中世世界を伏流してルネサンスに再び花開くことになる。


 

ローマのウェヌスへ

ホメロスは『緒神賛歌』の中で続けてこう書いた。「男神たちを死すべき身の人間の女たちと交わらせ、女たちは不死なる神々のために死すべき身の息子たちを産んだなどと神々のいならぶ中で(アフロディテが)自慢して言うことのないように」とユッピテルは、女神にイダの森で牛を放していたトロイア人のアンキセスへ甘い恋心を抱かせるよう差し向けたと。

この二人の間に生まれた子供がアエネアスであった。アエネアスについては小川正廣『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』ホメロスとウェルギリウスに詳しく書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスが活躍していた紀元前8世紀から200年後には英雄アエネアスが地中海を放浪してイタリアにたどり着きローマ建国の礎を築いたという伝説が生まれている。この過程でアフロディテは航行の安全を守る海神としての性格を併せ持つようになる。

帝政初期の地理学者ストラボン(前63-23)の記録ではアエネアスはイタリア到着後ラウィニウム(ローマの故地)にアフロディテの神殿を造った。3世紀のローマの博物学者ソリヌスはアエネアスがラウィニウムの野に陣営を築いた時、シキリアから携えてきた立像を「フルティス」と呼ばれる母神ウェヌスに捧げたと書いている。「フルティス」はアフロディテのエトルリア語の変形であるとされる。エトルリア版アフロディテがこの地で崇拝されていたことは、アエネアス伝説の受容にこの文化が大きな役割を果たしたことの証しとなる。このフルティス=アフロディテが女神ウェヌスとなるのである。その女神は天の神々の心を和らげ、その好意を人間に結びつける神秘的な力を持つとされた。ウェヌスの語源は「人間が呪術的行為において用いる霊妙な力」である venus という宗教的言語であったようだ。ホイジンガが言うように抽象的な働きや性格を神格化するのはローマ人の特性なのだろう。その神格化された働きであるウェヌスは本来「神々の好意を引き寄せる神」なのであった。

ニコラ・クストゥ『ガイウス・ユリウス・カエサル』 ルーブル美術館

ローマ建国の祖アエネアスがウェヌスの子であった事とこの国でウェヌス信仰が盛んになることとは当然無関係ではない。もうひとつウェヌス信仰に重要だったことがある。最高権力を目指す政治家にとって、この女神への信仰と子孫に関する伝説が国家の統一にとって不可欠と思われていたことである。ユリウス・カエサルは、わが一門の本家ユリウス家はウェヌスの血統であると自らの演説で強調したという。自分がトロイア人の血をひくことを強調したのである。彼は、自分とアエネアスとの神話的血縁関係をローマ国民と国家的な宗教との関係にまで拡大しようとした。これによってウェヌスはローマの国家宗教の中でこれまでにない高い位置を持つようになったと言われる。強固な父権制の布かれたローマだったが、ここにウェヌス=アフロディテに象徴される母権の復権がなされるのである。いつの時代にも父権制と母権制の闘争は見られるのだろう。こうして、ユリウス家の守護神は再びローマ人=アエネアスの子孫全体の母神となった。カエサルの養子で初代皇帝となったアウグストゥスは父の宗教的遺産を最大限に生かそうとした。この頃、ウェルギリウスが詠った『アエネイス』は過去へのノスタルジアではなく、その時代の風潮を反映していたのである。しかし、やがてキリスト教の時代がやってくる。

 


ルネサンス以降も、愛情運の星として占星術に、そして、結合術・親和力、あるいは金属の銅として錬金術に登場するアフロディテ=ウェヌスではあるが、19世紀以降になるとその姿はネガティブな表象に変化し、母神的要素は消えかかっていく。何故だろうか。最後は記号化される裸体としてのウェヌス=ヴィーナスを概観してみたい。


 

記号化される裸体

中世の時代にはギリシアやローマの異教の神々は当然、信仰の対象とはなり得なかった。しかし、図像や物語には登場してくる。その晴れやかな復権はイタリア・ルネサンスを待たなければならない。その頃の最も重要なイメージはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』であろう。ヴィーナスはウェヌスの英語読みである。僕が追いたいのは19世紀以降におけるヴィーナスの行方だ。その頃、フランスを中心としたヨーロッパ文化の中に際立って現われる女性たちは、ボードレールなどのデカダンス文学やマネやクリムトの絵画に現われる娼婦たち、男を破滅させるファム・ファタールであったりする。つまり、ネガティブなアフロディテ的側面である。象徴主義が代表するこの頃の時代的風潮については『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画に書いておいた。母のポジティブなイメージは聖母に吸収されたのかもしれない。もっと謎なのは20世紀以降のヴィーナスの行方だ。これを考えてみることは興味深い。アフロディテの古代からの流れを考えれば、銀幕の美女やプロモーション映像の女性アイドルたちはヴィーナスと言えるのか。ウーマン・リブやフェミニズムの波は母権というより女権の権利獲得の試みであったかもしれない。ジェンダー論も盛んだった。しかし、次の観点から性愛のアフロディテ=ウェヌスを眺めてみたい。

フェリシアン・ロプス『ポルノクラート』1878

象徴交換的視野から歴史的・構造的描写を展開するジャン・ボードリヤールが、衣服や化粧などのモードは性欲を無化すると書いているのは新鮮だった(『象徴交換と死』)。念入りに化粧された映像の女性たちは触れることのできない表象である。モードのレベルで作用しているのは自然の性欲ではなく変質した性欲であり、服装は儀式的な性格を失った記号となる。その儀式的な性格は18世紀までは維持されていた。モードが一般性を獲得して記号化される時、肉体はその性的な魅力を失ってマヌカンになってしまうと言うのだ。

同じように女性の裸体が性産業の中でメディア化された欲望と化す時、そのようなイメージは複製化され反復され、増殖し続ける。その表象を担うのは、現実の裸体ではなく、仮想の現実=商品でありながら人間を取り巻く別の現実となるのである。ここでは、現実の裸体は、裸体の摸造、つまり象徴的な記号に交換される。この商品=イメージに組み込まれたメッセージは消費者の体と脳をマッサージし続けるというわけだ。どんな時代よりも性欲のはるかに巧妙で根源的な抑圧とコントロールが行われ、前代未聞のシュミラークル(摸造)の生成が成し遂げられようとしている今、腐敗と死によって世界のあらゆる物質を次々に循環させてきた生命のプロセスは、仮想の現実の増殖によって中断されようとするかのようだ。何故なら完全な複製の可能性は、死のイメージを排除しようとするからである。今日では豊饒という問題に死の排除という答えが与えられようとしている。死がなければ裸体の残酷さもなく、タナトスが失われれば、真のエロスもない。この流れに対抗しうるものは何なのか。

僕が思っている神話を一つご紹介して終わろう。結合力・親和力としてのアフロディテから派生したもう一つの神話である。「記号内容と記号表現の区別は、男と女の差異と同じように今や廃絶されようとしている」とボードリヤールは述べているが、今はジェンダーの問題は置いておいてほしい。何故、この神話が、記号の王国である摸造の世界、浮動する諸価値に対抗しうる契機となるのか、是非考えてみていただきたいのである。

『ヘルマフロディトス』 ルーブル美術館
前2世紀のヘレニズム期の作品のコピー

ある絶世の美少年が故郷のイダ山を出て、リュキアに近いカリアの街近くまで来ると、そこに澄んだ池を初めて見た。その池には所在なくも呑気に暮らす水の精サルマキスが住んでいた。その美しさを見た水の精は恍惚となって彼に迫った。少年は赤く染まった象牙のように白銀の顔を赤らめながらすげなく彼女を追いかえすと透明なガラスの箱にいれられた白百合のような姿を水の中に煌めかせた。
水の精は、ここぞとばかり水に飛び込み必死に逆らう相手を四方に伸ばした触手で絡みつくヒドラのように捕まえ無理強いに接吻を奪うと強引に胸に触った。少年は待望の喜びをニンフに与えまいと頑張り抜く。と、水の精はいつまでも私からこの人を引き離さないでと神々に祈った。願いは聞き入れられ、二人は抱き合ったまま合体し男でもあり女でもある複合体となったのである。その少年とは、父をヘルメス、母をアフロディテとするヘルマフロディトスであった。

 

『徐渭の水墨』 疾走するストローク 超越か狂気か?

徐渭(じょい)が狂ったのか、それを演じたのか分からない。自分の墓誌銘を作り、斧で自分の頭を叩き割ろうとした。頭の骨は折れたが死ななかった。錐で耳を刺し、血は流れ続けたが死にはしなかった。ついには職人に自分の棺を作らせて槌で自分の睾丸を叩き潰したから悶絶はしただろう。同郷の張汝霖は、彼は失脚した胡宗憲(こ そうけん)との連座を恐れて狂気を演じたのだと言った。しかし、翌年の雪の降る日に召使いの少年に衣服を与えた後妻の張氏と言い争いになり、殴り殺した。46歳の年である。狂気は本物だったのだろうか。この年、明の世宗帝が崩御、穆宗(ぼくそう)帝が即位し、大赦が行われた。徐渭が死刑にならなかったのはそのためだろうが、それから7年もの間、獄中で過ごすことになるのである。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

狂気と造形作品との関係はハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情で詳しく書いておいた。しかし、徐渭の狂気がその絵画と全面的に関係しているのかどうかは断言できない。ずっと狂気に陥っていたわけではないからである。その作品は威容でもあり、異様でもある。風狂ではあったが、清狂、奇峭といった潔癖さや極端な鋭さはないと思う。その作品には、覇気があり洒脱もある。たっぷりとした墨を含んだ筆跡を見ていただければその性格を想像してもらえるのではないだろうか。

郭熙(1023頃-1085頃)『早春図』 台北故宮博物院

北と南

宋(960-1279)という時代は中国のルネサンスだった。絵画は技芸を越え、知性溢れる芸術となる。欧陽脩、蘇軾、黄庭堅、郭若虚らは視覚芸術が宇宙を写し出す鏡としての輝かしい芸術性を持つことに気づきはじめる。五代・宋初の山水画は荊浩(けいこう)に始まった。関同は荊浩に学び、范寛(はんかん)は関同、李成(919-967頃)によってその作風を確立した。

書画の鑑定をよくした北宋の董逌(とうゆう)は李成の絵に「霧と靄、自然の内的な働き、陰陽の交替」を見た。ここには風水や道教の洞天福地にみられる理想郷としてのトポスがトレースされていたはずである。風水と山水画の関係は壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』で解説しておいた。蘇軾は郭熙(かくき)の絵の中で過去を追想し、その情感の世界に遊び、華北の秋の響き、雲海に浮かぶ山々の姿に心を馳せたという。「山水は行くべきもの、望むもの、遊ぶべきもの、居るべきもの」なのである(『林良高致集』)。郭熙は画院画家でありながらこのような深遠な著書を書き蘇軾や黄庭堅の庇護を受け彼らに画を教えた。彼らの合言葉は「詩とは形のない画であり、画とは形になった詩」であったろう。蘇軾については一碗 茶・チャ・ちゃ part2 宋と明のチャで触れておいた。北宋山水画は、深遠・平遠・高遠の三遠を整理したこの郭熙によって一つの完成を見たのである。

馬遠(1160-1225)『春径山行図』 台北故宮博物院

一世を風靡した郭熙の作品だったが、風流天子と言われた徽宗は、その作品の息苦しいほどの完成度を嫌った。彼が好んだのは写実性と花鳥画にみるような自然の一角だった。サブライムな宇宙的山水など彼の好みではなかったのだ。時代は米芾(べいふつ)の言った「平淡天真」へと傾斜していくのである。北宋が滅び、南宋の時代になると、もはや華北にあるような峻厳な山々はなく画の題材としては、ゆるやかな山地しかない。現実の山塊をもって北宋のような山水を描くことは不可能になるのである。南宋四大家のうちの馬遠や夏珪は、よく自然の偏角を描いた。余白の美学である。馬遠の画面構成は馬一角とさえ呼ばれるようになる。もともと馬氏は山西の仏画家の末裔であり山水を得意としていない。画中の人物の持つ意味が大きくなったのは当然だろうという人もいる。いささかひねくれやの米芾(1051-1107)とその子の米友仁(1074-1153)は、同じ五代、宋初の画家でも江南の画家である董源と巨然を支持した。董源の用筆は大まかで、近くで見ると形をなしていなかったが、離れてみると粲然(さんぜん)として幽情遠思は異境を見るが如くだったという(沈括『夢渓筆談』)。李成や関同らの北方系の山水様式は否定され、江南画に対する強い共感が闡明にされるのである。

米友仁『雲山図』部分 クリーブランド美術館

 

墨戯から文人画へ

沈周(1427-1509)『蘆山高図』台北故宮博物院

黄庭堅は蘇軾の絵画を墨戯と名づけその筆意を讃えた。笹群や梅の枝などの自然の一角を描き、その自在な精神に禅機に似たものを見たようだ。ちょっとオーヴァーだが、その手腕を左官の鼻についた泥を落とすのに鉞を振るって旋風を起こすほどの技を以って為すことに例えた(『東坡居士墨戯賦』)。墨と筆によって遊戯し自在を得るための手段と言って良い。宋末までには文人の中に画工や画家では為し得ない精神性を表現できる者が出現するというわけである。

宋が滅び元の時代は、院体画は振るわず、いわゆる文人画の活況する時代であった。この頃、文人画家が文人という建前をつくろいながら画を売ることは既にさかんだった。文雅・文徳あるものを指す文人という言葉は古くからあるが、文人画と呼称するようになったのは明代からであるという(鈴木敬『中国絵画史下』)。明中期には文人画の中心は手工業や経済の中心地として繁栄を誇っていた呉、つまり蘇州だった。これに対して浙江省杭州を中心とした職業画家たちを浙派と呼んだ。その頃は、宋の時代と変わらないほど職業画家が活躍した時代でもあった。特にその中期は画院が盛期を迎えていた。このような中で文人画家も職業画家も相互に影響しあっていったのである。例えば明代中期の呉派の代表的画家である沈周(しん しゅう)だが、彼のような文人画家も職業画家のように技法的な完成を目指していたことが窺える。徐渭(じょい)が生まれるまでの時代とはこのような状況だったのである。

徐渭の前半生

明(1368-1644)の時代、それは復古と完全な皇帝独裁制の暗い時代であったと言われる。徐渭(じょい)は1521年(正徳16年)二月に紹興の士大夫の家に生まれた。父は四川の州同知を退官していたが、徐渭が生まれた100日後に亡くなり、後妻の苗宜人に育てられる。実母はこの後妻の侍女であったと言われる。10歳の頃、長兄の商売が思わしくなくなり生家は傾き始め、四人の奴僕は逃亡し、実母も暇を出された。嫡母には深く愛されたが、彼が14歳の時に亡くなった。その病が重くなるとあらゆる神仏に祈願し絶食は三日に及んだという。59歳で亡くなったが、百たび身を粉にしても報いられないとその墓誌銘に記した。徐渭は、恵まれない星の下に生まれたのかもしれない。

神童と言われた徐渭だったが20歳の時、杭州の郷試に受験するも落第。21年間に8回続けて落ちた。絶望的に退屈で画一的な勉学と受験技術の獲得には耐えられなかったのだろうと陳舜臣氏は述べている(『徐渭と董其昌』)。郷試に初めて落第した年、潘克敬の娘である介君と結婚した。入り婿のような形で妻の家族とともにその父親の任地であった広東の陽江に住んだ。四年後に息子の枚(ばい)が生まれたが、神仙を信じていた徐渭の長兄が丹薬を錬っていて亡くなり、妻も19歳の若さで亡くなるのである。束の間の幸せはあえなく消え去る。二年後に妻の実家を出て『荘子』から引いた「一枝堂」という名の塾を開いた。そして、19年も別れ別れだった実母を迎えている。

この頃、明は日本の倭寇に悩まされ続けていた。嘉靖(かせい)三十六年(1557)倭寇戦の戦死者のための慰霊祭が浙江で行われ、その時の祭文を徐渭が書いたのだが、それが、やがて兵部尚書(国防相)となる胡宗憲(こ そうけん)に認められることとなる。密貿易商人であり五島や平戸にも行き来し、やがて倭寇の頭目となった汪直も胡宗憲によって平定された。胡宗憲は厳嵩の派閥に属していたが、その八十歳の祝賀文を徐渭が書く。そして、翌年胡宗憲に代わって『鎮海楼記』を執筆。その報償として銀二百二十両という破格な金額を得る。40歳の時である。しかし、翌年再婚するもののその翌年には厳嵩が失脚した。明代にあっては、中央の派閥の頂点にあるものの失脚は、その系列にある人間たちの失脚をも意味した。胡宗憲も職を追われ、後に自殺する。徐渭の精神が歪みはじめるのはこの頃のことだ。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

 

逸格の系譜

日観『葡萄図』元

唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場する。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気をもちいて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させた。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻(もとどり)に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿(がん しんけい)が『文忠集』に書いている。そう言えば顔真卿の周囲には狂草と呼ばれる草書をよくした張旭(ちょう きょく)や懐素(かい そ)がいた。顔真卿については一碗 茶・チャ・ちゃ part1 陸羽『茶経』対話篇に触れておいた。茶聖陸羽はかつてこの張氏の食客であったという。墨を画面に注ぎ跳ね飛ばすといった動的な作画がなされた。それは墨がなせる不定形な形態から形象が現われ出てくると言った偶然を取り込むような作画である。アクション・ペインティングとオートマチズムの萌芽とも言えなくはないが中国には早くからこのような表現主義的な作品が登場する。想念にある形をイメージしながら一筆一筆、制作を積み重ねる従来の絵画とはまさに逆方向の絵画なのである。

その荒々しさや意気に溢れ画面に横溢する感情表現が禅の気風とも相まって水墨画に与えた影響は大きかった。蘇軾や黄庭堅のいう墨戯ともその精神において繋がるものもあっただろう。南宋の梁楷は自らを梁風子(狂人)と呼んだ画院画家であったが減筆体と呼ばれる水墨画も優れ、墨を惜しむこと金を惜しむが如しと皮肉られた。そして、元初に活躍した画僧日観は破れ袈裟と揶揄された葡萄図のような作品を描くようになる。明の中期には浙派の中に狂態邪学派と呼ばれる異端の画家たちが現われる。このネーミングはきっと呉派からの揶揄だろう。郭詡(かくく)、孫隆、陳子和、鄭顚仙(ていていせん)などの作家がいたが徐渭とは直接関係はなさそうである。しかし、徐渭の作品もまたこのような唐から続く逸格の系譜の内にあった。それは、筆が走りエネルギーがみなぎる。しかし、それだけではないのである。

狂気から浮かび上がる

七年の獄中生活は徐渭に心の安定をもたらした。読書や詩作の日々が許され、実母が亡くなった時も仮出獄が認められたという。州知事が変わるとより自由となり墓誌銘や郡学校の修復記念のための執筆などの依頼もされるようになる。1572年穆宗が崩御、大赦が行われ出獄が許された。52歳だった。その後の徐渭は数千の書籍を売り、絵を売り、詩文を作って糊塗をしのいだ。現在、我々が目にする作品はこの時期のものだという。

徐渭『雑花図巻』写し 徐渭旧居における展示

早くから英才教育を受けた徐渭だが、子どもの頃から激しやすい性格であり鬼神が乗り移るような発作がおきたともいう。一方で頓智話でも知られるような面もあったようだし、けっして世間に対して背を向けるタイプではなかった。文人として書第一、詩第二、文第三、画第四と自らランクづけしているが、詩に「山深くして石榴熟し/日に向って便(すなわ)ち開口す/深山 人の収ることまれにして/顆々(かか)明珠走れり」と自分の不遇を山深く顧みられることのない石榴に例えている。呉の知事をしたこともある詩人の袁宏道(えん こうどう/1568-1610)が彼を公安派の先駆と位置づけ、その伝記『徐文長伝』を書いていることは中田勇次郎の袁宏道『瓶史』文人と花の心に「文房清玩」のことと共に書いておいた。

牧谿『六柿図』 南宋・元初

そう言った複雑な性格であっても、世間との交わりを絶やさなかった徐渭なのだが、周囲の画家を手本にはしていないらしい。意外な画家を手本にしている。彼の作品がただ激しい、気魄あふれる、スピード感があるというだけではない、ある種の雅や潤いを持つのはそのためだ。その画家が牧谿なのである。この南宋末・元初の画僧の作品を最もよく理解した明の画家は徐渭ではなかったかと言われる。自然の一角を切り取って表現するような自然描写は北宋末の徽宗においては、自然景観とは完全に切り離されていなかったが、南宋の偏角画が一般化されるとこの頃には既に切枝画といったジャンルが定着していた。

「五十九年貧賤の身、何すれど嘗てみだりに洛陽の春を思いしや 然らざればあに胭脂(えんじ/紅い顔料)のあること少なからん、富貴の花 墨をもって神を写す」と自跋した徐渭の後半生は貧しかったではあろうが、その作品を見る限り心は豊かではなかったろうか。おそらく狂気は身を潜めていたにちがいない。万暦二十一年(1593)に73歳で亡くなるが、彼の作品は、やがて明末から清初にかけて活躍した八大山人や揚州八怪と呼ばれる画家たちに大きな影響を及ぼしていく。

実は、僕が徐渭に興味を持つのは、そこに何か東洋的な新たな絵画、それも自然に存在する形態の表象が内的に結びつくことができるような抽象と水墨画の間に存在するようなものの可能性を垣間見ているからである。その抽象と自然の形との関係はオーストリアの画家マックス・ヴェイラーによって眼を開かされた。僕にとって徐渭は、今極めて重要な作家なのである。

牧谿『燕と蓮』 南宋末・元初

 

江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟

黒式尉(こくしきじょう)

今回は、新しいシリーズに入るということもあり、お正月でもあるのでおめでたいものをと思って前からご紹介したかった「操り三番叟(さんばそう)」とその三番叟に関連した事柄を取りあげました。能の中で最も格式の高い『翁』は、翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)によって演じられる祝言曲です。それについては、『翁』とはなにかでご紹介しておきました。

しかし、今回ご紹介する「操り三番叟」は楽しい。能の三番叟を操り人形で演じたものを再び人間が真似るという二重のミメーシスとなっているのです。乱拍子で比較的リズミカルに舞う人間の踊りを人形にさせ、それを人の踊りに戻している。乱拍子や能の前身である猿楽の踊りなどについては沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』 踊る大黒に三番叟に書いておきました。糸で繋がれた人形のように人はぶらぶら揺れ、くるくる回転するのだけれど糸が絡まって立ち往生してしまう。それを人形遣いがさも糸があるように身振りで解いていくと言う分けです。舞踊としての美しさもけっして欠けていない。江戸時代の至芸と言ってよいと思います。後で動画を見てくださいね。

能の三番叟は前半は面(おもて)をつけないで演じられ、揉みの段という見せ場がある。後半には鈴の段と呼ばれる農耕儀礼に関係するといわれる舞いがありますが、この時、黒式尉(こくしきじょう)と呼ばれる黒い面を着けて演じられます。これは、神楽で三番叟が演じられる場合も同じです。神事の『翁舞』についてはこちらをご覧ください「折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ」しばらくして気がついたのですが、この操り三番叟の場合は人が演じていますが、途中で面を着けるということはなく、顔の色はずっと真っ白なままです。文楽の「寿式三番叟」には二体の人形の三番叟が登場するのですが、人形の顔は同じく真っ白です。僕は三番叟の面が何故黒いのかずっと不思議に思ってきた。どうも大黒天と関係しているのではないかというのが今一番有力な答えだと思っている。今回はそれも含めて「操り三番叟」をご紹介したいと思っています。

ともあれ、三番叟はおめでたい演目で、かつては、お正月に木偶(でこ)廻しによる門付けが行われていました。それに、お正月と言えば日本では獅子舞ですが、時期は、ずれるけれども所によっては裸祭りも見られるようです。中国、ヴェトナムには獅子舞だけが残っています。それらは八世紀以前にイランからサマルカンドおよびシナ・トルキスタン経由で、中国に入りました。もともとイランの正月に裸で走る少年たちにに冷水をかけるという変わった祭りがあり、それが獅子舞と共に伝えられたのです。寒さを追い払う祭りなのですが、チベットでは獅子舞も、裸の少年の競技と灌水の風習も共に並んで伝え残されたとフランスの東洋学の泰斗ロルフ・スタンは書いています。あの『盆栽の宇宙誌』の筆者です。西アジアやインドから発したものが行き着く所、それは日本とチベットなのかもしれませんね。

チベットの黒い老人と白い老人

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald ロルフ・スタン『チベットの文化』より

スタンがその著書の中で能の「翁」について述べているのでご紹介しておましょう。「翁」で冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではない。だが、舞台を清め、福を招く白い老人「翁」と黒い老人「三番叟」のそれぞれの面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉に含まれる長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントゥンゲルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人でした。

大黒天の仮面劇と地鎮の儀式

ラマ僧は瞑想によって神々や菩薩を降ろすことができるとされているし、吟遊詩人は忘我状態になって、英雄たちが向う側の世界で活躍している光景を幻視し、それを歌で描写しました。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられました。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなったのです。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけです。

どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていました。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神が現われるのを容易にすると考えられていたのです。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられました。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたといいます。その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表される、グルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラー)でした。これらの仮面劇の中でも、大黒天は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘しています。生身の人間は飛べませんが、大黒天はインドから飛んでくるに違いありませんね。

Der König von Gotsa, Lhasa
右手に金剛杵を持つGotsaの王 ラサ

この仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはよくわかりません。古いものは少なくとも10世紀に遡るといいます。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われました。金剛杵/こんごうしょう(あるいは金剛橛/こんごうけつ)によって聖域を区切るのですが、すでに八世紀のタントラの中に確認されています。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていた。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムエ寺建立の際の「地鎮」に用いられました。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られましたが、スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしています。

密教と土地神との関係は深く、例えば最澄が比叡山延暦寺を開く時に場所を譲り受けたとされる日吉の神である翁、つまり大山咋神(おおやまくいのかみ)は山王権現と呼ばれるようになる。これは中国の天台山国清寺で祀られていた地主神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」に由来します。禅竹の『明宿集』では、宇宙神・守護神としてのもっと壮大な規模の翁が語られるのですが、これは土地神としてのいわれを指し示しているかのようです。それに関連して三番叟の鈴の段は地鎮の儀式を模しているのではないかという説もなくはない。

チベットの追儺の行事

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせたようです。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味します。他の日に行われるのいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われました。

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮するのですが魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩きます。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのですが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしいのです。これは凄まじい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだといいますから徹底した鬼払いの行事であるようです。

歌川国貞『あやつり三番叟』
19世紀 メトロポリタン美術館

操り三番叟の来歴

さて、「操り三番叟」の方ですが、どのような来歴なのか見てみることにしましょう。ことの起こりは、嘉永六年(1853)に大阪の歌舞伎役者、二代目嵐璃珏(あらし りかく)が大阪で演じた「初櫓豊歳三番叟/はつやぐら たねまき さんばそう」を江戸のお目見え講演で演じたのが大当たりとなった。初演の時は、題目を『柳糸引御摂/やなぎのいとひくやごひいき』と改め、大阪公演と同じように翁と千歳役はゼンマイ仕掛けの人形振りで演じられ、三番叟は今回ご紹介するような操り人形振りになっていました。この操り人形は、いわゆる文楽でいう木偶(でこ)人形のように人の手で操る人形ではなく、糸で操るものでした。当時は「南京操り」と呼ばれていたようです。

その初演の詞書を篠田瑳助が、曲を四代杵屋(きねや)弥十郎と五代杵屋六三郎が改作しましたが、オリジナルである能の三番叟の音曲は結構耳につく上に上手に編曲されていて一度聞くと耳から離れません。歌舞伎の音楽は、歌ものである長唄と語り物である浄瑠璃に大きく分かれますが、この所作事(舞踏劇)の一つである『操り三番叟』の音楽は長唄です。そして、明治三十二年(1899)には五代目尾上菊五郎が西洋のマリオネットに似せて実際のゴム糸を体に繋ぎ空中に浮いて見せたという記録が残っているようです。三番叟も空中を飛んだのです。

糸あやつり

糸操り、つまりマリオネットのような人形が日本に伝来したのは戦国時代の終わり頃といわれ、江戸では元和(げんな)三年(1617)の文献に今の日本橋に浄瑠璃(語り物)狂言の糸操りが興行されていたという記載があります。徳川家康が亡くなった翌年のことです。寛永(1624-1645)年間に、説教節の歌い手たる太夫であった初代結城孫三郎が興行主となって説教節を糸操りで見せていた。京都の角太夫芝居では奇術的な演出がなされた舞台上の仕掛け物やゼンマイ仕掛けの人形なども加わってくるようです。しかし、江戸時代中期にあたる明和(1764-1772)の頃には上方で糸操りは殆ど絶えてしまいますが、江戸では「さんばそう、さんばそう、南京あやつり」と呼びながら三番叟の糸あやつり人形を行商する姿が山東京伝の『錦の裏』という洒落本に書かれるくらい流行していた。しかし、宝暦(1751-1764)の頃には、義太夫節が手操り人形で演じられるようになり、説経節そのものが廃れていくにつれ江戸の糸操りも少しずつ衰退していったようです。復活するのは明治になって糸操り中興の祖といわれる九代目結城孫三郎によってでした。

日本の正月に行われた三番叟の木偶廻し

チベットの詩聖ミラレパの歌を訳したおおえ まさのりは文楽の頭作りの名人と言われた大江巳之助(おおえ みのすけ)(1907-1997)のご子息にあたります。お父さんが子供の頃には、木偶(でこ)を入れた箱を天秤棒に担ぎ、その箱に竹竿をさして木偶を掛けて、嫁さんが三味線を弾き、おじさんが浄瑠璃語りしながら辻芸をしていたといいます。山東京伝作、北尾重政画による四人詰南片傀儡(よにんづめ なんぺん あやつり)に出てくるような風景が実際に徳島にはまだあった。

歌川国貞(二代豊国/1786-1865)
文楽 相撲人形

木偶廻しの起源は兵庫県は西宮にある戎(えびす)神社の傀儡子(くぐつし)と呼ばれる人形遣いにはじまると言われています。戎神社は不具の子として流された蛭児命(ひるこのみこと)を祀っています。17世紀の終わり頃には、同じく境内に祀られている道君坊百太夫(どうくんぼう ももだゆう)という神を信仰する当社の神人(じにん/神社の雑役係)たちが産所と呼ばれる社の周囲に40軒ほど軒を連ねていました。彼らが福の神のえびす舞いや五穀豊穣を祈願する三番叟の舞い、それに仏の功徳を語り物にした説経節を人形で演じて諸国を回った。こうして全国にえびす信仰を広めていったのです。それは、摂津名所図会などにみられるように一人で手を使って操る人形だったと思われます。

室町末期から江戸初期にかけて成立した『室町物語』のなかには、すでに大黒とえびすが大活躍する「大黒舞(大悦物語/だいえつものがたり)」の話が収録されていますから、すでに大黒、えびすを言祝ぐ環境は整っていたのでしょう。立身出世と福神信仰に由来する祝言物です。因みに文楽興行が開始されたのは竹本義太夫が大阪に竹本座を創設した1684年でした。

飛べ大黒天・踊れ操り三番叟

三番叟の起源を考えるとなかなかミステリアスで面白いのですが、チベットの寺院での仮面舞踏劇が仏法の守護神たる大黒天(マハーカーラー)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、ポタラでの身替りの魔王の追儺の儀式、おまけに民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、三番叟と大黒天との関係を考えてみる価値はおおいにありそうです。猿楽のメッカだった多武峰(とうのみね)寺での修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神(またらじん)や毘那夜迦(びなやか)という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にありました(彌永信美『大黒天変相』仏教神話学Ⅰ)。やはり、大黒天はインドからチベットや日本に飛んできたのかもしれない。地主神としての大黒天と大国主命とは習合しやすかった。そして三番叟との関連を考える時、中世の神仏習合の不可思議さに思いを馳せてしまいます。それが、田楽などともに猿楽(能)に取り入れられ、江戸時代を経て歌舞伎や糸操りなどの人形芝居の中で熟成されていった。

そのような中からこの「操り三番叟」も生まれた。しかし、能の演目を歌舞伎でアレンジし、それをまた能が歌舞伎のように演じたとしても何も面白くはないでしょう。この『操り三番叟』の面白さは操り人形の動きを人間が真似ることにあった。それも元々能の最も重要な作品であると同時に門付芸などで皆が知っていたものだった。能の三番叟を知っていれば、これがめちゃくちゃな三番叟だと分かる。パロディーなのです。折口信夫によれば、『三番叟』も『翁』のもどきだったのです。この二重に捻ったアイデアが素晴らしかった。こういった作品が現代に作れるかというとこれはかなり難しい。というのも、20世紀後半から日本人にとって古い芸術の意味が急激に失なわれていったからです。そういった本質的なものにどうかして繋がっていけないと本当の革新の可能性がない。ともあれ江戸の至芸たる操り三番叟をゆっくりご覧くださいね。

 

全部で18分くらいの動画ですが、残念ながら演者たちに関する記載はありません。しかし、いずれも名手です。

 

 

 

小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 ホメロスとウェルギリウス

オーギュスタン・カイヨ『ディードーの死』
1711 ルーヴル美術館

ヘンリー・パーセルの作曲したオペラ『ディドとエアネス』、バロックオペラの傑作として誉高い。トロイの王子エネアスとカルタゴの女王ディドとの悲恋を描いている。ウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネイス』を底本にして構想された。この作品の中でディドが自らの死を歌うアリアは名品である。

私が大地の中に横たわる時、あなたの胸の中に
私の過ちがなんの禍をもたらすことのないように
思いだしてください 思いだして ああ ! でも 私の運命のことは忘れて
私を思いだして ああ ! でも 私の定めは忘れてください

When I am laid, am laid in earth, May my wrongs create
No trouble, no trouble in thy breast;
Remember me, remember me, but ah! forget my fate.
Remember me, but ah! forget my fate.

しかし、ウェルギリウスの原作ではこのような哀感はない。本書ではエネアスはアエネアス、ディドはディードー、トロイはトロイアと表記されているのでそれに従う。そこでは、ディードーのアエネアスへの憎悪は極限に達して恐るべき呪詛の言葉が連発されるのである。

たとえあの憎らしい男が
港に到着し、陸地に漕ぎ着くことが必定で
それをユッピテルの運命が要求し、その結末が動かぬとしても、
どうかあいつが勇猛な民との戦さに悩まされ、
土地を追われ、ユールスを抱くことも奪われて、
はては援軍を請い求め、仲間の無残な死を見ることになれ !
そして不平等な条約に降伏し、待望の国も
この世の楽しみも味わえずに、時ならずして死ぬめに遇い、
埋葬もされず、砂の真ん中に置き去りにされよ !
これが私の祈り。この最後のことばを、血とともに注いでやる。
(『アエネイス』Ⅳ 小川正廣 訳)

『アエネアスとアンキセス』1697 ルーヴル美術館
ピエール・ルポールト(1659–1744)

そして、口を床に押しつけ、「いま死ねば仇を討てぬ。だが、死のう」「そうだ、こうして亡霊の世界へ行くがよい。この火を目から飲ませてやる、非情にも沖へ去ったダルダニア人(トロイア人のこと)に。わが死の凶兆をみやげにもたせてやる(『アエネイス』岡道男・高橋宏幸 訳)。」そう言い終えるとディードーは剣の上に倒れ伏した。

ここまで話が変わるのかと思うといささか不思議ささえ覚えるのだが、アエネアスはトロイアの優れた武将であり、その陥落に際してパラスの木像であるパラディウムを抱えた盲目の父親アンキセスを背負い、子のユールスの手を引いて脱出したといわれれ、敬神と孝心の武将として名高く、ホメロスの『イーリアス』でもヘクトルに次ぐ勇者として描かれた。パラディウムはトロイアの建設者イーロスの祈りに答えて天空から下ったといわれている。ちなみにトロイアの古名がイーリオンである。死に場所と決めていたその地をアエネアスは去り、妻や父親アンキセスを失い、多くの友人を失った。イタリアの地に向い、将来ローマとなる都市を建設する。彼こそがローマ建国の祖とされたのである。彼の母であるウェヌスのとりなしによってユッピテルは、トロイア人がイタリアの地で建設する都市は必ずや発展を遂げローマとなる、その「運命(fatum)」は不動であり、ローマ人の盛運は果ても限りも置かぬと定めたのである。

ホメロスの叙事詩

エドワード・シェフィールド・バーソロミュー
『ホメロス』1851 部分 メトロポリタン美術館

古代においてホメロスに対する哲学者たちの評価はけっして高くはなかった。紀元前6世紀には、ピュタゴラスやヘラクレイトス、クセノパネスらが神々に対して不敬だとしてホメロスを非難していたし、紀元前四世紀から五世紀の人であるプラトンは『国家』第三巻においてホメロスが描いた英雄たちが、あまりに感情に脆く、物欲が強く、残虐だとして英雄と言えど人間より何ら優れていないなどと若者たちに信じ込ませ、社会に好ましくない影響を与えているとした。国家の「守護者」の教育には勇気・節制とが理想とされなければならないというわけである。だが、一方で、『国家』第十巻では「あの素晴らしい悲劇作家たちの最初の教師であり指導者だった」と彼の詩に取り憑かれていたことを白状せずにはいられなかった。ホメロスの芸術的な長所を正当に評価できる感性を持っていたからこそ、叙事詩が文体においてミメーシスを含み、内容において神々の放埓な行いと人間の弱い性格や卑小さをあらわに描いているというマイナスの評価を下し、優れた文学が哲学の牙城を揺るがしかねないことをプラトンは懸念していたのであるという。

一方で、アリストテレスはプラトンと同じようにホメロスの詩を傑出した人間の模範的な行いを賛美するものではなく、弱点を持った人間たちの苦難の物語として受け止めていた。だが、『詩学』においてはホメロスを高く評価した。名声や幸福を享受していてもけっして理想的と言えない人間が、いわれなく不幸に転落し、そこで味わう苦難、それが悲劇や叙事詩における「厳粛な行為」の再現、つまりミメーシスなのである。それによって聴衆が感じるのは「恐怖」と「同情」から生じる「快感」であり、それが「カタルシス」であった。ホメロスは、その厳粛な事柄についての最大の作者だとされたのである。筆者の小川正廣はホメロスが追求したものは破滅に耐える人間の生、その誉を描くことなのであって破滅や死の美学を描くことではなかったという。そういえば、忠臣蔵だって運命の理不尽な重荷に耐えて本懐を遂げる物語だった。

ウェルギリウス『アエネーイス』
岡道男・高橋宏幸 訳

ウェルギリウスの野望

ウェルギリウスがホメロスが描いた登場人物の一人を『アエネイス』の主人公にしたことは大きな意味があるという。ギリシアの英雄からローマの英雄像を作り出さなければならなかった。そこに大きな矛盾と野望があったというのだ。

『イーリアス』におけるアカイア(ギリシア)軍とトロイア軍の血で血を洗う戦いは、争いの女神エリスの発案によってユーノ、アテネ、ウェヌスら女神たちの埒もない美貌争いから端を発した。まるで家族内の嫉妬や諍いを思わせる神々の軽薄な行いは、下界の人間たちに過酷な「運命」として重くのしかかる。ウェルギリウスの『アエネイス』においてもユーノは、トロイア戦争においてユーノ崇拝の中心地であったアルゴスの人々に対する殺戮への怒り、トロイア人パリスによって蔑(ないがしろ)にされた我が美貌、ユッピテルにさらわれ寵愛を受けたガニュメーデスとその子孫たるアエネアスへの遺恨によって彼を迫害した。ウェルギリウスは序歌に「かほどの憤怒を天上の神々が胸に宿すのか」と書いた。それにユーノは、自分の愛するカルタゴを世界を支配する国にしたいと考えていたが、「運命」によって妨げられる。ウェルギリウスの時代には、カルタゴとローマによるポエニ戦争(前264-前146)によってカルタゴは既に破壊されていた。それも世界のロゴスたるユッピテルの意志であったという。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
『キルケ―』1891

オデュッセウスは、魔女キルケ―から帰国のためには冥界に降り、預言者テレシアスからその方法を聞かねばならないと教えられる。ご存じのホメロスの『オデュッセイア』の一節である。アエネアスはクマエの女預言者シビュッラに導かれ冥界にいる父アンキセスに出会う。息子を慰労した後、父はこれからのローマの壮大な歴史と英雄たちのカタログを開示するのである。ロルムス、カエサル、アウグストゥスらによるローマの権勢(Imperium)と支配が言祝がれる。ここはウェルギリウスを寵愛したアウグストゥスに対するオマージュとして言挙げされていると見ていい。そして、国家のためには無慈悲に我が子を殺すブルートゥスに対して深い憐みと同情が述べられ、舅カエサルと婿ポンペ―ユスとの内戦を嘆き、外国との戦いに勝利したローマの英雄たちが語られる。父は息子に傲慢な者には最後まで戦い、従う者には寛容を示せ、おまえが覚えるべきことは諸国民を統治する技術であり、平和を人々の習いとさせよと諭す。

ここでは芸術や学問に対するギリシアの栄光が世界の統治というローマの栄光と比較されている。その世界の平和を確保するためには、自らの生命を危険に晒し、自らの感性や知性のための「技芸」を諦めなければならないのであった。アエネアスはポリスや国家に対する忠誠より個人の誉を重んじるギリシア的な英雄ではなく、国家に忠誠を誓い、我が身を犠牲にしてもその権勢拡大のために働く新しいローマの英雄像を託されている。

『イーリアス』では、友人パトロクロスを殺された恨みに燃えるアキレウスが、敵将ヘクトルの遺骸の足に穴を穿って紐をかけ戦車に繋いで地面の上を引きずり回した。同じように若い朋友パラスの死を知ったアエネアスは、八人の若い敵兵を生け捕りにし、その火葬の炎の中に投げ込み、最大の敵トゥルヌスとの戦いでは、命乞いをする敵の肩にパラスの剣帯が戦利品として吊るされているのを見て恐るべき狂気と怒りに襲われ、無慈悲にもその命を絶つのであった。こうして物語は極めて後味の悪い終わり方をするのである。既に、ユッピテルの命によって疫病の女神ディーラがトゥルヌスの力を奪っていた。ここにユッピテルの意志である運命の決定と、国家の礎を築くために懸命になりながらも、けっして完全ではない人間として破滅の危機に直面しながら苦難に耐えて生きていく主人公の有様が語られる。何故なら、それが「叙事詩」であったからである。ここには、ギリシアの叙事詩に対して新しい英雄像を掲げるという野心と叙事詩というギリシアの枠組みから離れられない矛盾があった。ウェルギリウスの時代、ローマが世界に誇った権勢は既に過去のものと言うほかない状況になっていた。しかし、彼らの真の栄誉は、彼らが断念せよと教えられた芸術の力によって、今なお生命を保ち続けていると筆者は結んでいる。

ウェルギリウス(前70-前19)
ナポリのヴェルギリアーノ公園

ウェルギリウスの生涯

プブリウス・ウェルギリウス・マロは、紀元前70年にイタリアのマントゥア(現在のマントヴァ)に近いアンデスに生まれた。通説では父親は下級官吏の使用人であったが、勤勉を買われてその養子となり、森林を買い占めたり蜜蜂を飼い小さな財産を大きく殖やしたという(スエトニウス『ヴェルギリウス伝』)。北イタリアのクレモナとミラノで教育を受けた後、17歳の頃ローマに出て修辞学を学んで弁護士になろうとした。一度だけ弁護のために法廷に出たが、極めて内気だったためか話し方はあまりにたどたどしく、教育のない者のようだったので、それきり辞めたと伝えられている。この内向性は並外れたもので、詩人として名をなしてから、「あれが、ウェルギリウスだと」人が指差すと手当たり次第近くの家に逃げ込んだという。

前40年頃に『牧歌』が世に出るまで詳しい消息は分かっていない。エピクロス派の哲学者シロンに弟子入りし、ルクレティウスの詩に親しんだが、「田園の神々を――パンや老いたるシルウァヌスやニンフの姉妹を知るものは幸いなるかな(『農耕詩』河津千代 訳)」と田園の世界に立ち戻っている。この頃(前40年代)、カエサルはルビコン川を渡ってローマに討ち入り、ファルサロスの戦いでポンペイウスは破れ、カエサルの独裁、ポンペイウスの残党とカエサルとのスペイン戦役、続いてカエサルの暗殺、カエサルの養子であったオクタウィアヌスと共和派に対するアントニウスとのモデナの戦い、第二回三頭政治(オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥス)の開始、キケロの惨死、オクタウィアヌスに対するカッシウス、ブルートゥスによるピリッピーの戦い、オクタウィアヌス派とアントニウス派とのペルージア戦争と、打ち続く内戦によってローマは混乱の極にあった。

オクタウィアヌス(後のアウグストゥス/前63-14)初代ローマ帝国皇帝 ヴァティカン博物館

ウェルギリウスは最初、詩人でもあり軍人・政治家、キケロに次ぐ雄弁家として知られるガイウス・アシリウス・ポリオに庇護を受け牧歌を書くことを勧められた。ピリッピーの戦いで勝利を収めたオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は、当面不要になった軍隊に属していた退役兵のために勝利の報酬として土地を分配しなければならかった。そのため、敵方の所有地の農民を強制的に立ち退かせて分けたが、土地が足りなければその周辺も没収された。ウェルギリウスはその巻き添えをくったのである。友人のガルスの取り成しでオクタウィアヌスに会うことができ、正当に土地の没収を取り消してもらっている。

この土地没収はイタリアの内戦による農地の荒廃に拍車をかける結果となった。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』は、そのような背景のもとに書かれたのである。その後、彼は、このオクタウィアヌスや富豪で文芸の保護者として知られるマエケナスの庇護を受けて国民的詩人への道を歩むことになるのである。

ウェルギリウスの生涯についてはウェルギリウス『牧歌・農耕詩』にある河津千代さんの「ウェルギリウスの生涯」が詳しい。ここではさわりだけ紹介した(人名表記は小川さんの『ウェルギリウス研究』に準じている)。尚、ウェルギリウスが前19年にギリシアに旅立つ前に死の予感があったのか友人に生きて戻らなければ『アエネイス』の原稿を焼いてほしいと頼み、彼は亡くなったが、アウグストゥス(オクタウィアヌス)は焼却を許すことなく未完の部分を残して出版したという逸話がある。河津さんは、興味ある問題だが、その詮索は小説の領域になるとしている。

筆者の紹介とウェルギリウス作品の波紋

小川正廣『ヴェルギリウスの研究・ローマ詩人の創造』 京都大学出版会 1994

筆者の小川正廣(おがわ まさひろ)さんは、1951年に京都で生まれている。京都大学文学部を卒業後、同大学の博士過程を中退。京都大学文学部助手、京都産業大学や名古屋大学文学部などで教鞭を執られ、名古屋大学名誉教授となられた。ウェルギリウスとの出会いは、学生時代、T.S.エリオットの「文明」「キリスト教世界」「成熟」などが散見される評論集の中にその名を発見したことからだという。

ウェルギリウスの魅力は二つあるという。一つは言葉の美しさ、もう一つはその崇高な精神的な価値にある。アレクサンダー・ポープは『牧歌』を「世界で最も優美な詩」と称え、モンテーニュは『農耕詩』を「最も完璧な作品」と位置づけ、ヴォルテールは『アエネイス』について「ホメロスがウェルギリウスを作ったと言われるが、それが真実なら、ウェルギリウスはホメロスの最も美しい作品である」とした。その精神的な価値は、社会的人間のモラルを説き、国や民族の統一する根本理念を示そうとしたところにあるとされた。エリオットが両大戦の中でヨーロッパの統一の理念をウェルギリウスに見ていたことは間違いない。

ストア派的一神教思想に影響されたウェルギリウスは、ローマの建国は神の意志であり、この神聖な国家はアウグストゥスの時代に全盛を迎え、人類を平和に統治するだろうと詠った。キリスト教徒にとって救世主の出現が「ローマ帝国」の誕生とほぼ同時であるという歴史的事実は大きな意味を持っていた。地上におけるキリスト教の確立こそがキリスト教において神の意志であった。ウェルギリウスは『牧歌』第四歌においてこのように詠っている。

クマエの予言の告げる、最良の時代がやってくる
偉大なる世紀の秩序が再び始まる
いまや乙女は帰り来り、サトゥルヌスの王国が戻ってくる
いまや新しき血筋が、高き天より遣わされる
‥‥
その子によって、鉄の種族はついに絶え、黄金の種族が
全世界に立ち上がる‥‥
その子は神々の生活に加わり、英雄たちが神々と交わるさまを見、
みずからも彼らと共にあって、
父の徳がもたらした平和な世界を統べよう
‥‥
(河津千代 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)
『ダンテの肖像』1495

キリスト教徒ならずともこの時代をふり返るならばこの詩をキリスト到来の預言と考えて不思議はあるまい。ダンテの『神曲』はキリスト教徒によるウェルギリウス評価の総決算の感があるといわれる。それは中世において、神との合一を求めて「巡礼」の人生を送る聖職者たちにとってウェルギリウスが哲学的・宗教的な求道精神の権化であったからだ。同時にローマの歴史とキリスト教世界との関係性を教える最も有力な権威でもあったからだというのである。

最後に

ウェルギリウスは、『牧歌』ではテオクリトス、『農耕詩』においてはヘシオドス、『アエネイス』においてはホメロスというギリシアの詩人たちを手本としている。同時代のローマの詩人たちがそうであったようにギリシア文化を同化・吸収して新たなローマの詩を創作しようとした。日本では確かにホメロスなどに比較してウェルギリウスなどのローマの文学は馴染みが薄い。ラテン文学はギリシア文学の二番煎じだという偏見は根強くあるという。優れたギリシア文化は直接ギリシアから学べばよいのであって何もローマの「レプリカ」を通して研究する必要はないという見方は今も支配的であるという。しかし、世界の多くの地域で新しい文化は過去の文化の評価から始まっている。文化の歴史はその繰り返しであるという。小川さんはギリシア文化がローマ的な変形を受ける過程で、いったい何が吸収されて生かされ、何が消化されなかったのか、また、何が新たに付け加わったのか。この問題こそ日本も含めて後世の人々にとっても大切なことだろうと述べている。これは松岡正剛さんがずっと言ってこられたことでもある。

さて、前に予告しておきましたように、いつの頃からか初まった「著書の紹介シリーズ」ですが、ひとまず今回で最終回とさせていただきます。次回は新春ということもあって僕が江戸の至芸と勝手に考えている「操り三番叟」をご紹介する予定ですが、併せて三番叟と大黒天との関係も述べてみたいと思っています。どうぞ、お楽しみに。

 

ホメーロス『イーリアス上下』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェルギリウス『牧歌・農耕詩』
「ウェルギリウスの生涯」収載

ニュース

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日
› 続きを読む