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種村季弘『パラケルススの世界』 part2 パラケルスス・人間・ 光

テオフラストゥス・ホーエンハイム
(1493-1541)
アウグスティン・フィルシュフォーゲル画 1538

ザルツブルクを逃亡したパラケルススことテオフラストゥス・ホーエンハイムは、各地で難病を治して歩いた。ロットウァイルでは尼僧院長の病を、バーデンでは辺境伯フィリップ1世の赤痢を治したが、フィリップは最初に約束した金額を引き下げた上に彼を追いだした。パラケルススは、貧乏人はただで診てやるが、金持ちには法外な料金を吹っ掛けるのが常であったらしい。貧乏人には天使だったのである。金持ちには悪魔に見えたかどうか僕は知らない。この頃、シュウァルツウァルトの温泉地を巡りながら重要な発見をする。本草学におけるシグナトロジーと温泉治療法の発見である。このシグナトロジーは、外部のシグナトゥール(表徴)が内部の活動と効能を表わすと考えるもので、野草や鉱物の外観からそこに含まれる薬物の成分を判断し、ひいては山の姿からその埋蔵資源を、人間の顔や手相から性格を、病状からは病因をというように多様な部門に亘っての応用が試みられる。著者の種村季弘(たねむら すえひろ)によれば、ルネサンスの観相術からゲシュタルト理論にいたる近代の知の脈流は、あげてシグナトロジーに発するという。若くして学んだヘルメス哲学を通して現実の生きた相と病気との結びつきが見え始めつつあった。後のヤコブ・ベーメ(1575-1624)の著書『シグナトゥーラ・レールム』などに影響を及ぼすことになる。

この頃、右足が悪性の壊疽に罹ったバーゼルの一患者を診察した。藁にもすがる思いで呼び寄せた放浪の医師は手術もせずにたちまち治してしまった。バーゼル中が沸きかえったという。この患者、実は当時ヨーロッパ全土に拡がる滔々たる人文主義的潮流の中心に位置していたヨハネス・フロベニウスだったのである。バーゼルをして世界で最も美しい書物を出版する町として名をたからしめた印刷出版史上超一流の大物、ルネサンス期の大文化人であったのだ。この放浪医師パラケルススにフロベニウスを通じてバーゼルの市医と同大学の医学部教授の席がもたらされた。

デジデリウス・エラスムス(1466-1535)
アルブレヒト・デューラー 1526

1526年、パラケルススは正式にバーゼル入りし、フロベニウスの食客であったエラスムスと出会い、診察を行った。だが、二人の間を猜疑の幕が隔てた。パラケルススは本来、文献主義的な俗流人文主義者を嫌っていて、エラスムスの思想は「坊主の飾り帽」であると述べたし、エラスムスにとってパラケルススは、腕はよいが胡散臭い放浪医師であり、その秘教としての錬金術的な側面に警戒心を持ったようだ。

問題は多発した。バーゼルに赴任した外来の医師は、医学博士号の学位取得を証明し、古典作家の一説について講演しなければならなかった。それをパラケルススは拒否したのである。反発は必至だった。学部の所属も講堂の使用も禁止された。それで、彼はバーゼル市内に次のようなビラをばら撒くと同時に、一大権威アヴィケンナの医書を焚書するというパフォーマンスまで行ったのである。医師の資格は称号によるのでもなければ、雄弁でもなく言葉の知識でもない、自然と神秘に精通し、諸病の種類、原因、徴候を認知し、知と刻苦とによって治療の素材を探究し、病態とその特性に応じて治療することにあるというわけである。称号と雄弁と語学力のみに頼って教授の椅子にしがみついている大学人にはスキャンダラスな危険文書であった。

おまけに、薬理学・薬剤処方、外科学、内科学などの学生への講義はラテン語ではなくドイツ語で行った。これは瞑想と読書の場であった大学に賎民が泥足で血まみれの手をかざしながら乱入してきたかのようであったと著者は述べている。いい加減な薬剤師たちに資格検定と経験のない徒弟に任せるのではなく、薬剤師自身による薬の調合を義務づけようとした。それに医師と薬剤師とのなれ合いを断とうともした。薬剤師たちも敵にまわしたのである。しかし、官僚的ともいえる言いがかりと闘ってきたパラケルススの抵抗も終わる時が来る。1528年フロベニウスが亡くなったのである。これで、バーゼルでの地位の後ろ盾も自分の著作を出版するという夢も失ったのである。

バーゼルを追われた翌年、ニュールンベルクで闘う医師パラケルススの預言書が出版され好評を博する。それに気をよくした出版社が『フランス病の起源と由来』を刊行しようとした。これにはライプチッヒ大学から横槍が来た。この大学の医学部長シュトローマーはフッガー家の御用学者だったのである。フッガー家は新大陸発見後の新たな交易チャンスに成り上がった財閥で、フランス病つまり、梅毒の薬と信じられていたハイチとキューバを原産地とする癒瘡木(グァヤック)を大量輸入していた。水銀による治療を行っていたパラケルススは、そんなものは効かないと例の調子で攻撃した内容らしい。つまり、時の大手財閥を敵にまわしたのである。彼は梅毒の症状を、天空の金星という宇宙の力と肉体という小宇宙である人間の道徳との相互作用だと考えた。奢侈とは金星の誘惑に嬉々として反応して興奮する精液の道徳的特殊相であるという。この病める精液の結果が薔薇疹や膿疱のような梅毒の症状となって皮膚に現われると判断した。

『十二宮 獣帯 遊星の描かれた天球図』
エアハルト・シェーン木版画 1515

この頃、医学書『ヴォールメン・パラミールム』が書かれている。『パラグラーヌム』『オプス・パラミールム』という医書三部作のうちの一つである。病気の治療法には5種類あり、医術は原因からではなく治療から始まると言う。治療が病気の原因を教えてくれると言うのである。その病因には5種類あり〈天体因〉風、〈毒因〉水、〈自然因〉地、〈精神因〉、〈神因〉火と精神以外はそれぞれ地水火風の四大と結びつけられているようだが、概要は巻末にご紹介しておく。

13世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパの総人口の四分の一から三分の一を奪った黒死病。梅毒が、近代社会が生み出した結果なら、ペストは中世共同体の崩壊と近代の止むを得ざる成立の原因であったと筆者は言う。人口の激減は労働力の低下と農村の崩壊、社会の再編成を促進し、悪疫に対して為すすべのない宗教と学問への懐疑を生み、宗教改革と反ガレノス(古代ローマの医師)医学への基盤を作り上げ、ひいては身分制の崩壊を引き起こした。そこからやって来たものは性的放縦と集団狂気だったと言うのである。

パラケルススは、彼のペスト論の中でこう述べている。「人間の知は神の表徴(みしるし)のはじまりである。人間が星辰を支配するなら、この知の力によって、星辰は人間の思うがままのことをなさざるを得ない。人がこの知のなかに生きているかぎり、あたかも地上で犬や馬を服従せしめ馴致するがごとくに、人はおのが意のままに天空の手綱を操る。かかる達意の手管は魔法にかけることのはじまりである。そのために人は知者を魔術師(マギ)と呼んできたのであった。」ここでは、ヘルメス学における魔術と星辰との関連が述べられている。彼の実践的治療は、魔術やカバラとも不可分の関係にあった。彼は、魔術の言葉やそれを強化するためのアナグラムを使用したし、数多くの護符や印章をデザインした。そして、こう述べた。「彼ら(未来の医師)は、〈土占い師 Geomanticus〉になるであろう。〈達人 Adeptus〉になるであろう。〈始源者 Archeus〉になるであろう。彼らは第五元素を手に入れることであろう(『パラグラーヌム』序文 榎木真吉訳)」と。彼は、こういった魔術的な側面に対する周囲の疑惑や反感に対してまったく無邪気であったという。

三層の宇宙の中の四大
アシュモウル編『英国の科学の劇場』1652

ここからは、カール・グスタフ・ユングの『パラケルスス論』から心理学者の見たパラケルススの哲学と医術とはどのようなものであったのかを見ていきたい。錬金術の化学的側面よりも、主に精神因に関わる部分が語られる。それらが体と密接に関連していることは言うまでもないだろう。

ユングはパラケルススが、ヤコブ・ブルクハルトの言うドイツ国民の魂に宿る「偉大な根源的なイメージ」と呼んだゲーテの『ファウスト』のモデルとされていることを指摘した上で、ファウストからシュテルナーを経てニーチェへと一本の真直ぐな線が引かれているという。この信仰厚いパラケルススと神の死を宣言したニーチェとがどのように結びつくかは、またいつか述べたいと思っている。

パラケルススはこう述べているという「鉄を錆びさせるものは何であるかを知らないために、どうして潰瘍ができるかが分からないのだ。何が地震を引き起こすかを知らないために、どうして壊疽が生じるのかが、分からないのだ。」外部の事象、つまり自然が障害を引き起こすことと人間の障害とがパラレルに関係することを見ぬく眼、彼にとってそのような「哲学」とは徹底的に秘教的なものであった。それは、シグナトロジーであり、若くしてヘルメス学から学び、それを発展させたものであったと想像できる。だから、この「哲学」は、自然そのもの、地水火風の四大から成る鏡のようなものであり、そこには人体というミクロコスモスが反映されている。逆に人体の中にも「樹木の、石の、草花の、様相」が同様に存在するのだとユングは言う。

例えば、鉱物の病いを知るためには錬金術の知識が最も有効であった。そして、その錬金術においては無意識と向き合うことによる心的な変容もまた重視されていたのである。鉱物の変成の過程では多様な形態が生じると言われている。その形態のひとつには、まさに龍とライオンの闘争のように見えるようなものもある。その時、術師はそこに自己の無意識を〈投影〉したヴィジョンを見る。パラケルススの時代にも依然として明確にあった原初的な精神状態、主観と客観の〈無意識的同一〉である。それは、妄想とか白昼夢などというより、無意識のもつエネルギーから生じるような根源的イメージであり、心理学的な問題に関わっていた。ただ、厄介なのは、そのような形態が確率論的にしか生じないことだったのではないかと僕は想像するのだ。

ヨラン・ヤコビ編 パラケルスス『自然の光』

パラケルススが求めたもの、それは肉体に呪縛された人間の不分明な本性である魂を意のままにすることであったとユングはいう。それは世界と物質にからめ取られて、異様なデモーニッシュ(超自然的)な姿をとって眼前におどろおどろしく立ち現れ、寿命を縮めるひそやかな原因の一つでもあった。この時、医師が指導を仰がなければならないのは「自然の光」である。彼の「哲学」は、「自然の光」に先導されるのである。それは、直感(イルミナチオーン)という啓示の書でもあった。自然の闇の中には一つの光が、闇そのものの「自然の光」があり、動物の本能や夢の意識と不可分のものだった。それは、人間にとってのダイモ―ン(守護霊)であり魂の導き手ともなるのである。この無意識の様々な表出が観察できる「自然の光」という発見は、心理学におけるパラケルススの多大な功績だったとユングは言う。ヘルメス学では、神的な知性に内在するイデアは世界の魂に投影され、その内に映像ないし形態として反照され、世界の身体内の物質の形態へと写り映えるとされた。星界の光を受けて反映される物質の光が「自然の光」なのである。

ヘルメス学と深く関連する錬金術は、古代の叡知であったと同時にキリストに結びつけられている。それはカール・グスタフ・ユング『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に書いておいた。錬金術は、プリマ・マテリア(第一質料)たるカオス、つまり、ありとあらゆるものをアクティブ(魂)なものとパッシブ(体)なものに分離することだと言われている。分離の後に両者は人格化され、「化学の結婚」が行われ、寓意的に「太陽」と「月」との祭儀的な床入りとして表現され、「賢者の子(石)」が出産される。それがキリストの寓意であった。醜く―美しい、悪しき―善きもの、ばかばかしく―真剣なもの、病気であり―健康なもの、非人間的―人間的なもの、非精神的―精神的なもの、非神的―神的なもの、そのような両義的な存在なのである。二極性を統合し、心的に変容を遂げた両性具有の人間の象徴というわけであるが、詳しくはユングの『赤の書』を読まれるのがよいだろう。賢者の子(石)の際立った属性の一つが、「自然の光」であるとユングはいう。この「自然の光」は自然のありようについての人間の眼を開かせ、それに応じて「自然の光」は、「賢者の子(石)」という形で生み出されるというのである。

メルクリウスの霊
四大の四位一体性の中で4番目のものが同時に全てのものの本体であり、この本体がヘルメスの秘伝伝授者である。☉太陽・☽月・♀金星との合一が ☿ 水星(メルクリウス)となる。

上位の光が聖霊から与えられるのに対して、下位の光である「自然の光」は、「アストルム(星体)」から与えられる。この「アストルム」は、人体の中にある天空なのである。この内なる天空をパラケルススは「最大なる人間」、「アルカナ(秘薬)」と呼ぶのだが、それは、「賢者の子(石)」でもあるのだ。それが、カバラの知恵と結びつく時、神的人間「アダム・カドモン」の姿と重なり始める。範疇が異なれば、名も異なるというわけである。それは、アダムの体に呪縛された「光体人」、人間の体の中にある「アントロポス」、「星体人」あるいは、始源者「アルケウス」、内なる人間である「アデク」と様々に呼ばれる。「アデク」は、不死、あるいは少なくとも数百年の寿命を持つといわれる最初の人間の一人である。

「アントロポス」=「アルカナ」=「賢者の子」は、「イリアステル」という子宮の中で生まれる。ギリシア語のイレ(質料)とアステル(星)との合成語であり、精神的な不可視の原理であった。パラケルススは造語マニアであったのだが、暗号術たるステノグラフィアを使ったかどうかは僕には分からない。この内なる人間を生み出す「イリアステル」は、人間の数だけ存在する「命の精気」であり「メルクリウスの霊」「四大の気」「天」「人間の全身を浸している真の霊気」「万物がその増大力を取りだしてくる自然の隠れた力」「メルクリウスの力」「体内に宿るあらゆる煙状の湿ったもの」「人体を腐敗から守るバルサム」、その最高段階において「他界への霊魂もしくは精神の移行」を意味していた。つまり、かつて星を構成するとされたエーテルである。錬金術では水銀の秘密の作用をさしていて、「アニマ(魂)」を「コルプス(身体)」から「永遠の水」と言う形で分離することだとユングはいう。このイリアステルはインドのブラジャーパティとプルシャ、イランのガヨーマート、カバラでいうメタトロンにあたるというのである。

「イリアステル」は「長寿」の出発点となる。この目的のために必要なのは四大を分離することによって不純な生命物質を浄化するための「瞑想」であった。それは錬金術の精神的な操作であり精神の「強化」を意味するという。こうした作業の中で人間は精神の上で高められ、エノク族と同じ高みに立つというのである。エノクは365歳まで生きて、天に移された。不純物は炉の中で赤熱され、レトルト蒸留が起こる。術師は自らを物質に投影する結果、無意識にその物質と一体化し、その物質と同じプロセスを精神的にこうむることになる。蒸留によって生じるヴィジョンの中心には水の精メルジーネがある。「イリアステル」の水の相「アクアステル(水+星)」のことで、維持する働きである体液に関わる。それは生命の精気が誕生する場であり、いわば子宮であり、その結果として長寿という不可視の「賢者の子」である「胎児」が産み落とされる。この「新しい生命」をパラケルススは「宇宙構造論的生命」と呼んだ。それは「神の栄光に与った身体」「復活体」「アストラル体」と同一であるとユングはいう。患者を「大いなる人間」、すなわち内なる霊的な人間と合一させ、それによってこの「大いなる人間」の長寿に与らしめることが医療の目的となる。ここらあたりは、パラケルスス思想の最も晦渋な部分なのだが、この恐るべき新造語の山は、敵を何としてでも屈服させたいという一種病的な状態、その症候であったろうとユングは言うのである。

種村季弘(たねむら すえひろ)は本書『パラケルススの世界』のなかで、パラケルススが星と運勢というような占星術的決定論から病気の原因を解放し、中世の悪魔学大系や魔女、淫夢魔などの民間伝承の諸表徴を媒介として人間の内部にひそむ観念連合の動きを解読し直し、メスメルの動物磁気説やフロイトの精神分析のための橋渡しをしたのではないかという。彼にとって、それらは治療の〈手段〉となっていたのである。フロイトやクラフト=エビング(1840-1902)らの精神科医がオイディプスなどの古典劇や近代文学の諸表徴を用いたのに対して妖精ニンフやホムンクルスなどの民族伝承の民衆的想像力を手掛かりにしたことは先進的な偉業ではなかったというのである。そろそろ、その『パラケルススの世界』に戻ろう。

ヨラン・ヤコビ編『自然の光』より 床屋の仕事

1536年、旅先で医療活動を続けながらパラケルススは、アウグスブルクへ向かった。執筆した『大外科学』が出版され、瞬く間に初版を売り尽くしたという。当時、外科は床屋や湯屋が行う下賤の術と考えられていた。例の如く「歯痛一つ治せない」アカデミズムの医者をこき下ろした。アカデミズムにも、宗教改革派の自治体にも、新興ブルジョアジーにも、教権にも幻滅を味わい、あまつさえ彼らを敵にまわしたのである。栄光の地位にあったバーゼルでは「医学のルター」と呼ばれたことにカトリックの彼は憤慨した。彼がプロテスタント側についていればもっと楽な道があったはずなのである。パラケルススを次第にペシミズムの影が蔽いはじめた。43歳のパラケルススを襲った疲労、改革の剣を振るう度に敵はヒドラのように殖えてくる。果てしない戦闘の末の諦観だった。そして、『今後二十四年間の預言』を出版する。それは、後のドイツ三十年戦争を思わせるような預言となっていた。

種村季弘『パラケルススの世界』

『七事弁明論』をはじめとする「ケルテン著作群」も結局刊行の陽の目を見ることがなかった。1540年には、農民戦争に加担したとされ、32歳頃に夜逃げ同然にその街を去ったザルツブルクに到着した。その時の司教で、鉱夫や農民が蜂起する契機を作ったマートイス・ラングが急逝したからである。後任はパラケルススが親交のあったパッサウの司教エルンスト・フォン・バイエルン公と目されていた。こうして、最初の永住の地と決めていた街の市民となることができた。しかし、その平和の日々のなんと短かったことかと著者は述べている。翌年、その地で亡くなったのである。48歳の年である。疲労と病気を押して死の直前まで診療を続けていたという。死因は不明だった。

ちなみに壮年期のパラケルススの日常がどのようなものであったのか、彼の弟子であったヨハネス・オポリヌスの言をご紹介しておこう。とはいえ、バーゼルを追い出されてから師のもとを去った裏切り者の言葉なので話半分に見ていただきたいのだが、話は派手なほうが面白いのでそのまま書いておく。

医療実践は驚異的だったが、その生活は怪物そのものだった。それまで一滴も飲まなかったが、25歳頃から「飲むことを覚え、テーブルいっぱいの百性どもをけしかけてへべれけに酔わせ、みずからも鯨飲馬食してしばしば咽喉に指を突っ込み、さながら豚であった。」その頃は、バーゼルを離れてアルザスの貴人や百性の中でもてはやされた絶頂の時期であった。「ほぼ、二年間私が彼の身辺で交際(つきあ)い暮らしている間、夜となく昼となく、飲めや歌えに身を持ち崩しっぱなしであって素面(しらふ)の時間といえばほとんど一時間か二時間しかなかった。」おまけに殆ど眠らない。へべれけに酔っぱらって帰ってくると猛烈な勢いで「哲学」の口述を筆記させる。驚くべきことに「素面の人間でもこれ以上はできないと思われるほど辻褄が合っている。」酔っぱらっているので寝る時は服を脱がなかった。年中ゴミだらけの服なのだが、毎月のように服を新調した。古い服は路で出会った最初の人間にやってしまうのだが、貰う方は必ずしも有り難くなかったという。見境のない浪費家であったが、すっからかんだと思っていると翌日には財布に金貨が詰まっているのにはしばしば驚愕したものだ。これには、伝説的な「錬金術師」の風聞が立つのも無理からぬことだった。極めつけは、拷問吏だか死刑執行人だかにもらった剣を泥酔してベットに倒れ込む時さえ肌身から離さないことで、時に夜中にガバと起きるなり、やおら抜き放ち床や壁に向って狂人のように振り回すので生きた心地がしなかった。

あまり、信用しないでほしいのだが、ユングが『パラケルスス論』の中で、同じ医師としてパラケルススが述べたことについて書いているのでご紹介して終わろう。彼はこう述べたと言う。「何よりもまず第一に是が非でも語っておかなければならないのは、医師が生まれながらに備えていなければならない慈悲心のことである。」「医師と医術は二つながらに、神から困窮した人々にあたえられた慈悲に他ならないのだ。」「愛のないところに、技術はない。」

 

その他の参考図書

カール・グスタフ・ユング
『パラケルスス論』

パラケルスス『奇蹟の医書』
ヴォルメン・パラミールムの翻訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈パラケルススによる五つの病因〉

ここからは『ボールメン・パラミールム』の翻訳である『奇蹟の医書』からパラケルススが考える五つの病因を簡単に纏めておきたい。

天体因

天体の影響によって起こる「天体因」。それは占星術に見られるような星の影響による体格付与や性格形成とは関係ない。肉体は薪であり生命は火である。薪を維持するには必要なものがある、それは、生命を維持する働きであり、天界からやって来る。そして、天空自体の生命を維持する〈秘質〉でもある。天体が悪い位置にあれば、この〈秘質〉も毒されたり変化したりするのだという。風を媒介として、それを人間が取り入れれば人間も汚染される。

毒因

二つ目は「毒因」。人間個々の栄養摂取はいわば外からの毒を栄養に変える錬金術なのだが、そこから出る滓の排出が問題にされる。体の中の錬金術師である胃は体に悪いものを良いものから分離し、良いものを体に染まるもの(ティンクトゥーラ)に変える。毒因の病気は腐敗的な消化と排泄の不具合からやってくる。水との関わりが強い。

自然因

三つ目は「自然因」。大地が果実を実らせるように体の中にも栄養を作り出し、血液、肉、バルサム(体から腐敗を守る要素)、体熱という四つの構成要素にその栄養を与え、それ自体は他からの栄養を必要としない器官がある。栄養はただ体の肥料になるに過ぎない。肝臓ー木星、脳ー月、心臓―太陽、脾臓ー土星、肺ー水星、腎臓ー金星、胆嚢ー火星という対応関係を持つが、それらは天空の星とは直接関係しない。それぞれの器官の中の精神的なものだけが、その星々のように働きかける。太陽が大地に働きかけるように太陽の光に相当する体の光が体に働きかけるのである。例えば、肝臓は血液の中でのみ、腎臓は尿道と腰の周囲のみにその運行にあたるものを行う。この時、肝臓の運行が他の道に迷い込んで、例えば胆嚢の運行と重なると病気が生まれる。

精神因

四つ目は「精神因」である。悪魔は精神などではないし、天使もまた精神ではない、それは、ただ我々の思考から生まれるものであり、生きているこの体に宿る。死後に生きいきとしてくるものは霊魂であるという。前の三つの病因は肉体に関わり、この精神因と神因は精神に関わる病因である。精神が傷つけば傷ついた方の肉体は、精神が受けた重荷を担わなくてはならない。心因性の病気があるというわけだ。精神は意志によって生まれ(練られ)、理性は霊魂を生む(育む)。例えば、巫術によって傷つけられる人は、その精神が傷つけられるのであって、直接体が傷つけられるのではない。何故なら、その傷を引き起こすのは当の本人の精神であるからである。ここで医術を施すべきは肉体へではなく、精神へなのである。

浄化の火としての病

神因

以上、四つは異教的な慣習からの論証であったが、最期はキリスト教的な立場から述べられる「神因」である。これまでの四つの原因に最終的な根拠を与えるものがこの神因であった。全ての病気は神がわれわれの罪を浄めるために与えたもう火である。その苦痛を通して深い神意を知り患者を導くのが医者の務めであり、神の代行者としての使徒の職務なのだというのである。そして、病気と健康を与えるのは神であり、定められた時が来なければ治癒は無いのである。

 

種村季弘『パラケルススの世界』 part1 魔術の如き哲学

アインジーデルン  下に見えるのがアインジーデルン修道院

「チューリッヒ湖畔プェフィコンからエッツェルの山道を越えて巡礼地アインジーデルンに向う巡礼街道、目的地から徒歩一時間程手前でジール河を横断する。巡礼者の往還が頻繁になるにつれて、大水のたびに流されていたジール河上の木橋は、1120年マリア・アインジーデルン・ベネディクト派修道院第十代院長ゲーロの手によってあらたに堅牢な石造りの橋に改築された。以来、ジール河に架かるこの橋は、その名も『悪魔の橋と呼ばれて今日にいたっている。」

スイスの悪魔の橋と言えばターナーも描いたゴッタルド峠の石橋が有名だが、このアインジーデルンは、ある医者の生まれ故郷として名を馳せている。その医者は悪魔ようでもあり、天使のようでもあった。冒頭の文は、種村季弘(たねむら すえひろ/1933-2004)『パラケルススの世界』の書き出しである。種村さんといえば僕の大好きなドイツ文学者だった。矢川澄子との共訳グスタフ・ルネ・ホッケの名著『迷宮としての世界』以来、多くの訳書や著書に触れさせていただいた。『ビンゲンのヒルデガルト世界』も名著なのだけれど、今回は、主にこの『パラケルススの世界』を中心に、ルネサンスのヘルメス学についてフランセス・イエイツ〈1899-1981〉の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』から、錬金術関係については心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875-1961)の著書『パラケルスス論』を織り交ぜて、このパラケルススの世界へ耽溺してみたいと思っている。

テオフラスト・ホーエンハイム 1493-1541
アウグスティン・フィルシュフォーゲル画 1540

今回の主人公、テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、この橋のたもとにある一軒の農家で生まれた。後の通称をパラケルススといった。この名の謂れは二説あって、一つはホーエンハイムのラテン語読み、もう一つは古代ローマの医学者ケルススを超える(パラ)という説である。父は、ドイツのシュウァーベンからスイス国内を放浪して、このアインジーデルンに定着した医師であった。パラケルススの父方の祖父はヨハネ騎士修道会の管区長を務めた人ではないかという説があり、騎士階級の出であったようだが、庶子であるために職業として医師を選んだ。母はアインジーデルン修道院に対する隷属と納税の義務を持ち、死後は遺品の一部を奉納しなければならない隷民の身分であったという。しかし、ある伝記によれば修道院直属ではあるが名望ある一家の女性とある。彼が生まれて9年後には、この父子はここを去って、現在のオーストリア領ケルテン州にあるフィラッハに移っていることから、母親は早くに亡くなったとされているようだ。パラケルススは、この母に関して、ほとんど無きもののように扱っていて、彼自身にも、生涯を通じて全く女性の影がないのは、伝記作家の中でも謎の一つのようである。

父は本草学に深い造詣があり、パラケルススの名であるテオフラストはアリストテレス没後のペリパトス学派の重要な指導者であったテオフラストス(BC371-BC287)の名に因んだと言われている。古代ギリシアの哲学者、植物学者、博物学者で「植物学の祖」と言われている人だ。ここアインジーデルンは多くの国々の巡礼者が訪れる聖地であり、彼の家の前を歌や祈りの文句を唱えながら行進していく様々な人々がいた。その中には不治の病に苦しむ人々も多く、教会付属の巡礼病院が父の仕事場であったことは、後のパラケルススの生涯の多くを暗示するかのようであった。美しいアインジーデルン修道院教会には有名な黒い聖母子像があり、彼が「子供はいかなる恒星をも遊星をも必要としない。母親が子供の遊星であり恒星である」という母についての唯一の記述を残した時、パラケルススの脳裏には、この聖母子の姿があっただろう。それが、グノーシスのソフィアと重なったかどうかは僕には分からない。

彼は後年、こう書いている。「私は生まれつき細やかな糸で紡がれているような人となりではない。お蚕ぐるみの綺麗事で何かをものにするなど、私の国のやり方ではない‥‥私の国の人間はまたいちじくや蜜酒や白パンで育てられるのではなく、チーズと牛乳と燕麦パンで育ったのだ。これで繊細な人間ができるわけはない。それにまた、子どもの頃に受けたものが一生の間その人につきまとうのである。‥‥樅の実の中で人となったわれわれは、頑固で物わかりが悪いのだ」と。ちなみにオーストリアのアルプスよりの町インスブルックには、魔術師としてのパラケルススの名が伝説の中に生きている。そこでは、グリム童話の壜の中の魔霊のように樅の実に閉じ込められた悪魔を解放して、その報酬に黄金製造薬と万病に効く霊薬を手に入れるしたたかな魔術師なのである。

父とともに移ったケルテン州は東をスロヴェニアに南をイタリアに接する交通の要所であり、パラケルススによれば、鉱山技術はこの町で習得されて他の国にもたらされ、ゲルマニアにおいて医学の最初の技術が受容されたのもこの国であったという。鉱山と医学にとってケルテンこそ濫觴(らんしょう)の地であったのだ。フィラッハは、その第二の都市であった。

父ウィルヘルムの薫陶の後、いくつかの付属学校、そして、聖パウル修道院で学んだ。その修道院長は、皇帝マキシミリアン一世のために降霊術を用いて、亡き王妃マリアを冥界から呼び戻したと言うヨハネス・トリテミウス(1462-1516)だったと言われている。この人は、『穏秘学』を書いたコルネリウス・アグリッパ(1486-1535)にステノグラフィア(ステガノグラフィー)を伝授したことで知られる。データを他のデータに埋め込んで、その存在を隠す技法であり、一種の暗号術である。モーセは秘密の知恵をユダヤ教説に表面上無害な言葉で書き残したとされ、その知を明かせる者は、それがどのように隠されているかを学んだ者のみであり、この隠蔽と再解読がカバラと呼ばれるものなのであるという。これは狭義のカバラなのだけれど、そのような隠す技術の伝統をステノグラフィアの中に見ている人もいるようだ。勿論、10代のパラケルススがステノグラフィアを学んだとは思えないが、このような知的環境の中にあったことは確かなようだ。

ヨハネス・トリテミウス(1462-1516)(ティルメン・リーメンシュナイダーによる彫像)と暗号学書ポリグラフィア 

1509年、16歳のパラケルススは一般教養の基礎である自由技芸七科の仕上げを大学で成すべくフィラッハを旅立った。二年間でその課程を終え、得業士(バカロレアト)の資格を得て、その後一年ウィーンあるいは南ドイツのいくつかの大学の門を叩いた。その間、チロルのインタールにあるシュウァッツ鉱山で「高貴にして晴れやかなユンカー(地主貴族)」と呼ばれた鉱山主のジークムント・フューガーとその弟子たちに錬金術化学の手ほどきを受けた。この技術は無機化学薬剤を作るうえで大きな助けとなる。

1513年から16年まで、そして1522年から24年の二度に亘ってイタリア・ルネサンス医学のメッカであったフェラーラ大学に学ぶ。このイタリアの大学には、ガレノス、プリニウス、アヴィケンナといったアラビア語訳の著書の誤りをギリシア語原典から校訂したニッコロ・レオニツェノがいたし、何よりも「無益な饒舌」より外科医術などの実践を重んじた革新的なルネサンス医学の旗手の一人だったジョバンニ・マナルディがいた。特筆すべきは、このマナルディがミランドラ伯ジョバンニ・フランチェスコ・ピコの宮廷に計13年あまり滞在していることである。フランチェスコの甥はあのピコ・デラ・ミランドラであった。ちなみにパラケルススが学んだ街フェラーラにあるスキファノイア宮殿の壁には、その約半世紀前にフランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477年頃)による占星術記号と12ヶ月にまつわる寓意画が描かれていた。アビ・ヴァ―ルブルク(1866-1929)がイコノロジーという言葉を使い始めた頃に研究していた壁画だ。

フランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477頃)
スキファノイア宮殿壁画
3月牡羊座の寓意「ミネルヴァの勝利」1469-1470

ピコの師であったマルシ―リオ・フィチーノ(1433-1499)は聖職者であると同時に医者だった。ここからはヴァ―ルブルクの偉大な弟子の一人フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』からルネサンスのヘルメス学についてプロットしてみる。長くなるけれど、この哲学を抑えておかないとパラケルススは、ただの法螺吹き医師に見えてくるのだ。

世界の知性、世界の魂、世界の身体という三層構造が想定される。神的な知性に内在するイデアは世界の魂に投影され、その内に映像ないし形態として反照され、世界の身体内の物質の形態へと写り映えるとされる。その世界の魂の中にはイデアの数だけ「種子的理性」があり、世界の様々な物質ないし身体にその実体を宿すと考えられた。世界の魂にある理性と下位の形態との調和的符合は、ゾロアスターによって「神的な連結」、キュレネーの司教シュレシウスには「魔術的呪縛」と呼ばれた。この魂の内にある天界には様々な図像があると考えられた。黄道帯にある12の星座とその外にある36の星座の「相」もこうした図像の一部である。このように整序された天上の形態に、より劣った地上の事物の形態は依存しているという。これは最も古い時代のプラトン主義者たちに由来するとフィチーノは述べた。

『ヘルメス選集』1471  右 マルシ―リオ・フィチーノ像

ヘルメス学あるいはヘルメス教でいうヘルメスは、書記であり叡知の化身であるエジプト神トートがギリシアの神ヘルメスと習合したもので、しばしば「三倍も偉大な(トリスメギストス)」という称号がつけられた。おそらく2世紀から3世紀にかけて(最も早期の文献は前3世紀『ヘルメス文書』)、アレクサンドリアなどの東地中海沿岸地域を中心にして、無名の多くはギリシア人たちが書いたと言われる文章が『アスクレピウス』や『ヘルメス選集』である。かつての栄えあるギリシア哲学は衰退し、禁欲と宗教的な生活に支えられ、神殿も儀典もない、「世界認識(グノーシス)」を内実とした孤独な心の内に執り行われる祭祀が起こりはじめる。グノーシスはヘルメス文献が書かれた頃、互いに影響しあった、同じく地中海世界に栄えた善悪二元論を特徴とした宗教・思想である。ギリシア化されたローマ帝国での特徴とされる親エジプト的風土にペルシアのゾロアスター教やカルデアの占星術が流れ込んでいた。そして、1200年後、一人の修行僧がマケドニアからギリシア語で書かれたヘルメス文献の写本を携えてフィレンツェにやって来る。コジモ・デ・メディチは、その写本の翻訳をフィチーノに命じたのである。こうして、ルネサンス期のイタリアにヘルメス学が請来された。

ピコ・デラ・ミランドラの墓
フィレンツェ、サン・マルコ寺院

フィチーノは、このヘルメス文書の中の「ポイマンドレス」に旧約聖書の「創世記」とよく似ている箇所があることに驚き、やがてヘルメストリスメギストスとモーセとが重なり始める。この大きな誤解がヘルメス学を時代の先端に押し上げて行く。ヘルメス文書は哲学的な部門と占星術、錬金術、魔術関係の文献に別れる。宇宙における占星術的パターンとこの哲学は関連しており、グノーシスと魔術は協同していた。すべての物体は星々から降り注ぐ秘密の影響に依存している。術者が惑星ウェヌス(金星)の力を用いたければ、ウェヌスの姿を知り、ウェヌスに属する植物、鉱物、動物を知り、占星術の告知する正しい時に、それを護符の上に正しく刻み込むならば、その星の精気を捉えて用いることができた。惑星だけでなく、黄道十二宮の〈宿〉の徴(しるし)も、それらに関係する植物、動物、図像等を持っていた。スキファノイア宮殿壁画はこの図像の印象的な例と言えるだろう。

「万有」は限りなく複雑な相互関係の網の目によって連結した「一者」であり、魔術師はこの網の目に参入できる者のことであった。上方から下方へと下ってくる霊的感応力の連鎖を知りつくし、地上の事物に内在するオカルト的共振、天上的な映像の数々、呪文や呼称を知らなければならなかった。フィチーノは、アウグゥスティヌスの魔術への論難をうまく逃れようとしながら通俗的で下賤な中世の魔術をルネサンスにおける神的な魔術へと格上げする契機を作り上げたのであった。ちなみに、コルネリウス・アグリッパの『穏秘哲学』は、ルネサンス魔術全領域の初めての概説書といわれているが、フィチーノの論述する魔術と大差ないとイエイツは述べている。

フィチーノのヘルメス教(学)的魔術は、その弟子ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)によって強力に、イェイツの言葉を借りれば、あけすけに標榜された。ピコはルネサンス魔術に別の範疇から極めて重要な要素を付け加えた。それが、実践的カバラと呼ばれるカバラの魔術である。ヘルメス教とカバラは神のロゴスによって結び付けられる。モーセの時代の書と誤解された『ヘルメス文書』には「あの光は、私であり、お前の神なるヌース(叡知)であり、ヌースから出た、輝くロゴスは神の子である(荒井献、柴田有 訳)」と述べられている。旧約聖書の創世記において被造世界は「〈神〉の言葉(ロゴス)」によって形成されたのであり、それはヘブライ語であったはずである。それゆえヘブライ語は魔術的威力を発揮するはずのものであったのだ。ピコが創り上げ、ほとんど煽ったとさえ言えるヘルメス教とカバラの融合は、数秘学とピュタゴラス的和声学を吸収しながら、その複雑な宗教的迷宮の内で世界創造と人間の本性に関する学として後世に影響を及ぼし続けることになる。

カバラはヘブライ語の「伝承」あるいは「受け入れ」を意味する言葉である。物質世界は、創造神エイン・ソフから聖性の10段階にわたる流出の過程で生起すると考えられた。この中世期のスペインで発達したカバラは10のセフィロト(生命の樹)と22のヘブライ語のアルファベットが基盤となっている。セフィロトは、一般的な神の呼称からなり、全体として唯一の名をなすと同時に、世界へ向けて言挙げされた創造する10の名である。文献としては13世紀につくられた『ゾハール』の書が、良く知られている。10のセフィロトは7つの惑星圏、恒星圏、高次の天球という10の天球圏に対応していて、その仲介者としての天使や神霊、それに対偶する悪しき天使や悪霊も階層をなし、他の範疇の位階に対応している。ヘブライ語のアルファべットはカバラ主義者にとって〈神〉の名を含むものであり、創造する言語としての霊的本性を含むものであった。そして、それらを観相することは〈神〉それ自体と〈名の威力〉に対する瞑想でもあった。

13世紀スペインに生きたユダヤ人であるアブラハム・アブラフィア(1240-1291頃)は、ヘブライ語の文字を組み合わせるシステムを作り、それによって限りない順列と組み合わせを可能にし非常に複雑な瞑想技法を作り上げた。それによって新たな天使たちの名を創出し、護符に刻みつけて魔術の手段にもし、ヘブライ語の短縮やアナグラムによってより強力な言葉を創出しさえした。しかし、その最も複雑な技法がゲマトリアと呼ばれるものでヘブライ語のそれぞれに一定の数を割り当て、言葉を数値に転換し、その逆も可能にした。こうして全世界の物事は言葉=数として読み取り可能となる。世界は方程式化され天使たちの名に結び付けられて実践的カバラの手段となるのである。これは、ライモンド・ルルスのアルファベットの回転盤による新たな概念の創出という「結合術」に結びつくかもしれないし、世界は既に全てが書きこまれている一冊の本という考えにも結び付き、ライプニッツやマラルメへと繋がっていく。

カバラ学者のゲオルグ・ショーレム(1897-1982)は、ピコがこのアブラフィアの文字-結合を知っていたのではないかと考えているらしい。そして、ピコがこれらカバラの研究に没頭したのは三位一体やキリストの神性に関しての深い洞察を与えてくれると信じていたからだとフランセス・イエイツは述べている。ピコこそ、新しいヨーロッパ的人間を大胆奔放に定式化した人物であった。魔術とカバラを二つながら用いて世界に働きかけ科学によって自己の運命を支配しようとする人間である。さあ、それでは、そろそろ『パラケルススの世界』に戻ろう。

種村季弘『パラケルススの世界』

パラケルススの医学の師マナルディは、ピコからこのような「哲学」を引き継いだであろうと考えられる。それは、後のパラケルススの著書に窺える思想が、この「哲学」を抜きにしては成り立たないからである。一途なイデア的な世界への憧憬ではなく、暗黒の地上世界は天上の光を宿しており、それを救済するための手段としての医学という考え方であった。天上の光とその反映である自然の光を捉えて地上の物質を救済すること、この真のキリスト教へ到るための哲学がパラケルルススの生涯を貫いているのは間違いないだろう。あとは、このような原理から実践へと移らなければならなかった。彼は、フェラーラを発って、ヴェネチア、ボローニャ、フィレンツェ、シエナを経てローマに向う。中世共同体は、現在よりはるかに国際的であったと種村は述べている。イタリアで取得した学位はドイツでも通用し、その逆もまた可であったという。グラナダ、リスボンに旅し、ヒスパニア、イングランド、マルク、プロイセン、ハンガリア、ウァラキア、クロアチアその他様々な国を巡り歩いた。1516年から1524年までの8年間に亘る大遍歴時代である。

ローマやパリの大学で大きな失望を味わい、ナポリで多数の梅毒患者を見、途中オランダ戦争やヴェネチア戦争に野戦医として従軍する。旅金稼ぎのためだったようだ。ここで外科医の重要性を再認識することになるのだが、事にあたって素早く逃げ出す彼の特性はこのような戦争での体験からきているのではないかと僕は思ったりする。博士のもとばかりではなく理髪外科医、湯屋外科医、経験ある医師や女呪医、医療を事する魔術師、錬金術師、僧院など貴人賎民を問わず訪れた。このような機会を通じて有効な治療法とペテンとを見分けたのである。後年の著作『大外科医』にはこんな話が紹介されている。ある男が片耳を切り落とされ、一人の湯屋外科医がそれを拾って、石工用のパテ、練りチーズなどで元の所にくっつけた。この外科医は称賛を博し、驚異の叫びを浴びたが、翌日膿が広がって、耳はまたもげてしまった。民間療法全てが正しいわけではないが、外科医術に関して、当時の大学では全くかえりみられることなく、下賤の術として切り捨てられていたことは知っておかなくてはならないだろう。

大遍歴時代を終えて一旦父の住むフィラッハに戻ったパラケルススは、再び第二遍歴時代と呼ばれる時期に入る。三十歳になっていた彼は、適当な定住地を得るためにザルツブルクを目指したが、そこでの滞在は1524年から1年間のみであった。パラケルススは滞在中に、この市の司教側の神学者と公開論争を行ったのであるが、彼は素面で緊張すると強度の吃音になるらしかった。赤面恐怖症はこの論争を支離滅裂なものにしたらしいのである。折からドイツ農民戦争は頂点にさしかかっていたのだが、ザルツブルクの司教は数人の炭鉱夫を信仰の問題で裁判に付した。それに対して他の鉱夫が蜂起し、それに呼応して農民軍がザルツブルク市を占領した事件が起こる。パラケルススはその間、火酒を片手に街道筋や市内の旅籠で農民たちを煽動したらしい。酒が入れば、舌鋒火を噴くのである。「もし余の弁舌が悪魔のものであるならば、彼らは諸君に従って余には従わぬであろう。だが、彼らがかように余に従って諸君に従わぬのであるからには、精霊が彼らのなかに宿って、彼らに諸君の魂胆や欺瞞や大嘘を見分けるように教えているのだとしか考えられないのである」と後に述べたらしい。彼の添え名であるボムバストは、彼の家系ではよく使われた名前だが大法螺吹きという意味である。それはともかく、歯に衣着せぬ反教権主義者をほっとくほどザルツブルク司教は寛大でなかった。彼は逮捕され尋問を受けたが、証拠はなく釈放された。だが、再逮捕の可能性は十分ある。それで、彼は家財をそのままにザルツブルクを夜逃げしたのである。

今回は、パラケルススの前半生と彼の哲学の根幹にかかわるヘルメス学を中心にご紹介した。次回 part2はパラケルススの後半生、そして心理学者のユングが語るパラケルススと錬金術との関わりをご紹介する予定である。

 

その他の参考文献

フランセス・イエイツ(1899-1981)
『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』

『ヘルメス文書』荒井献、柴田有 訳

『宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』

『うつほ物語』② 1999年刊
原文、注の他に非常に読みやすい現代語訳が掲載されている。

今回は、前回の『宇津保物語』の内容についてもう少し述べた後、小説家・中上健次(なかがみ けんじ/1946-1992)が、この『宇津保物語』をベースとして描いた同名の小説をご紹介したいと思っている。1978年~79年、雑誌『海』に、「北山のうつほ」「あて宮」「吉野」「吹上」「梨壺」が、1982年に「波斯風の琴」が掲載されたものだが、単行本にはなっていない。

『宇津保物語』は不思議な物語である。主要なテーマは三つある。一つはpart1でご紹介した俊蔭(とかげ)を中心とした霊琴の物語であり、この物語の成立する以前のいわば『古宇津保』と呼ぶべきもので、それは異国と異界の物語であった。それに貴宮(あてみや)を中心とする求婚譚、そして「国譲り」巻を中心とした政争の物語が宮中行事の詳しい描写や下層階級を含めた人びとの生き生きとした生活とともに描かれている。琴と恋と政治が描かれているのである。だが、その面白さにもかかわらず物語の構成に問題を残しているのは研究者の指摘するところである。複数の物語が合成されているのだが、それはスムースに繋ぎ合わされておらず、一つの物語とは言えないような体裁になっているのだ。だが、そのブリコラージュぶりが妙に気を引くのである。

貴宮への求愛物語は、霊琴の物語とは対照的に平安京の都市生活にみられるあらゆる階層の人々の型がリアルに描かれている。左大将・源正頼の娘である九の君・貴宮(あてみや)は絶世の美女であり、プッチーニのオペラに登場するトゥーランドットのようなクールビューティーなのだが、彼女をめぐるにぎやかな求婚譚は竹取物語を連想させる。しかし、登場人物は、はるかに多様で子細な描写になっているのである。妻を捨てて顧みない宰相・実忠(さねただ)、貴宮の略奪計画を立てるも逆に罠に落ちる上野(かんづけ)の宮、屋敷に畑まで作って財産を増やそうとする守銭奴の三春高基、貴宮の弟の笛の師・良岑行政、肉親の妹・貴宮に恋する異父兄仲澄(なかずみ)、継母の陰謀によって出家した忠こそ、右近少将・源仲頼、60歳になる太宰の大弐(だいに)滋野真菅(しげののますげ)、嵯峨院のご落胤・源涼(すずし)、貧乏ゆえに笑いものにされながら勧学院で学ぶ藤原季英(すえふさ)通称藤英(とうえい)、俊蔭の孫でこの物語の主人公、仲忠(なかただ)自身、そして、仲忠の父である藤原兼雅(かねまさ)など多彩な顔ぶれになっている。このような人々の紹介の記述が、いちいちあるのだから話が長くなるのは止むをえまい。

藤英、詩作の図 『うつほ物語』①
(小学館)より

歴史の研究者たち、例えば石母田正(いしもだ しょう)によれば、これら求婚者たちが、この時代の貴族社会内部の多様な階層、多様な種類の人間を代表させるものであり、堂上の顕貴の人びとから零落しつつある下級の貴族、地方官、僧侶、窮迫した学生、富裕な地方長官らまでもが描かれているという。さらに副次的な人物として述べられている無頼の徒、侍女や召使い等まで数えるならば、平安京の都市生活で遭遇し得るあらゆる層の人間がそれぞれの役割をもって描かれている。そういった人物たちが作者によって厳しく選別されているわけではなく、文学的効果を上げているわけでもないが、求婚者を同一の生活意識を持つ限られた階層に求めなかったことがこの物語に別な魅力を与えたというのである。それは、異なった生活条件のあるところ、異なった人間の型があり、その認識がこの物語をして単なる求婚譚ではなく平安中期の複雑な人間の集合である都市生活の生きいきした包括的表現たらしめたというのである(『宇津保物語についての覚書』)。庶民のエネルギーの躍動を描いた藤原明衡(あきひら)の『新猿楽記』の登場までもうすぐなのだ。

貴宮(あてみや)は東宮(皇太子)に嫁ぐことが決まった。実忠は気を失い、太宰の師の滋野真菅は身分を省みず朝廷に愁訴して流罪、失意の仲頼は出家、三春高基は狂気のうちに屋敷に火を放ち山に籠る。仲澄(なかずみ)は悶絶するも祈祷によって蘇生するが、貴宮からの文を飲み込んで息絶える。藤壺と呼ばれるようになったその貴宮は、東宮の寵愛を一身に受け男子を出産するが、他の親王妃たちの嫉妬を一身に集めることとなる。ここまでが「あて宮」巻の内容である。「蔵開」巻は仲忠が祖父俊蔭の蔵を開けることからはじまるが、この巻では、藤壺(貴宮)が兄の祐澄(すけずみ)と対話する中で、亡くなった兄仲澄に心動かされていたこと、東宮との関係は心安らかなものではなく、仲忠とその妻の女一宮との関係が羨ましいと述懐するのである。「国譲」巻では、仲忠の異母妹である梨壺も東宮の皇子を生んで、朱雀帝の譲位後、東宮が今上帝となるに及んで、その皇太子の立坊に世間の関心は移って行った。朱雀帝の中宮であった后の宮(きさいのみや)は兄の太政大臣である忠雅や兼雅(梨壺の父)に梨壺の子の立坊を働きかけるように持ちかけるが、結局、藤壺の子が東宮として選ばれる。これが藤壺側の源氏と梨壺側の藤原氏との政争の内容となるのである。

『うつほ物語』③ 1999年刊

『古宇津保』というべき「俊蔭」の話は、強烈な異界の物語であった。その他、僕がこの物語で面白いと思うのは、仲忠の代になって貴族社会の生活を描いたなかにも、ふっと小さな異界が登場することである。貴宮(あてみや)の略奪計画を立てる上野(かんづけ)の宮の話では、東山で御堂供養の法会をするための下稽古を大がかりですると噂をたて、そこに牛車でやって来た貴宮を奪い取る計画であった。だが、それは貴宮の父である左大将の知るところとなり、貴宮のかわりに器量のよい下仕えの娘が貴宮の身代わりとなって上野の宮に奪われることになる。この車を奪う場面は、『源氏物語』「葵」巻の車争いのシーンのヒントとされたのではないかと言われているが、七日七夜の祝宴の後に偽物だとは気付かれず歌など交わしているのである。つまり、現実の世界では低い身分の偽貴宮は上野の宮の世界では高貴な貴宮に変貌してしまうのである。

光源氏が光り輝く君でありながらその恋の過ちに終生暗い影を落とすのとは対照的に、この『宇津保物語』では、仲忠の男映えが爽快さを以って描かれていくのである。この仲忠とやはり琴の名手であった涼(すずし)とどちらがいい男かという議論は、この物語を愛する宮中の人々、とりわけ女性たちの間で、後々まで続いたようで、円融院の時代に涼を押す親王方と仲忠を贔屓する女一宮方との論争にまで発展した。それで、藤原公任が意見を聞かれて歌を詠んだという話が伝えられている。清少納言は自らの出自が清原氏であり、仲忠の祖父俊蔭(としかげ)が清原氏であったことからか、だんぜん仲忠ファンであって、それを中宮定子にからかわれたりしている。

中上健次『エッセイ選集』文学・芸能
「宇津保物語と現代」「音の人 折口信夫」収載

日本文学の研究者である竹原崇雄(たけはら たかお)は、『宇津保物語の成立と構造』の中で、『今昔物語』を本歌取りして『芋粥』などの作品を書いた芥川龍之介が、『今昔物語』を「ブルータリティ」・「野生の美」と評したが、『宇津保物語』の世界には貴族的な教養を備えながらも野生の面影をなお残した純粋で素朴な力が支配していると述べている。この野性の問題は、中上健次(なかがみ けんじ)の同名の小説のなかでより一層はっきりと、そして翳りを以って描かれることとなるのである。僕が中上という人に興味を持ったのは朝鮮半島の民俗芸能であるパンソリに耽溺していたというのを知ってからなのだけれど、それは『ユン・イサン(尹伊桑)』part1 駆け抜ける龍で少しご紹介しておいた。

中上健次(1946-1992)の伝記『エレクトラ』を書いた高山文彦(たかやま ふみひこ)の文章の中にこのような意味の言葉がある。中上の故郷とは、そこを知らない人々にとっては、〈彼岸〉である。正確に言えば、彼ら正常な人々によって構成される〈社会〉が作り出した〈彼岸である。私たちがそこを〈彼岸〉と見るのは、たんにそこが〈霊魂の集うところ〉〈よみがえりの地〉、あるいは〈人間の外にある者たちの里〉を意味するだけでなく、正常な人々が営む一般社会にはありえない、もうひとつの自立した〈国家〉や〈社会〉があるのかもしれないという願望を含んでいる。このように述べているのである。

中上は、そこに愛も憎しみも憧れも郷愁も、そして小説の題材としても、全てを注ぎ込んでいった。同時に、そこはアメリカの作家、ウィリアム・フォークナーの小説『アブサロム アブサロム ! 』に登場する主人公トマス・サトペンのような流れ者が奸計を弄して成り上がり、破滅していくような人物のイメージを膨らますことのできる場所でもあった。ちなみに、この小説の巻末には、その舞台となったヨナクパートファ州ジェファスンという架空の町の詳細な地図が載っていて、町の面積、白人と黒人のそれぞれの人口が記され、こう書き添えられていた。「ウィリアム・フォークナーを唯一の所有者とする。」中上はこのユーモアと神のような視座に驚きと憧れを感じたという。フォークナーは、くり返し、この町と同一人物が登場する小説を書き、人はそれらを「ヨナクパートファ・サーガ(物語群)」と呼んだというのである。中上の故郷を中心とした小説群を紀州サーガと呼ぶ人もいる。

高山文彦『エレクトラ』
高山文彦(たかやま ふみひこ)は1958年生まれ。法政大学文学部中退。『火花 』で大宅壮一及び講談社ノンフィクション賞を受賞している。著書に『少年A 14歳の肖像』『水平記 松本治一郎と部落解放運動の100年』『鬼降る森』『ミラコロ』などがある。この『エレクトラ』は伝記としても、読み物としても良くできていると思う。

中上健次は1946年和歌山県の新宮市に生まれる。その故郷は「路地」と呼ばれた。母方で言えば三男、父方で長男、育った家庭では次男という極めて複雑な家庭環境の中で育った。母の連れ子であったが実子として分け隔てなく育てられた。だが、酒を飲んで暴れる異父兄は大きな衝撃と不安をもたらしたという。12歳の時にその兄も首つり自殺する。この兄の死によって姉の一人も精神に失調をきたすようになった。後に「世界は/いつまでも/ギリシア悲劇を上演している(『海へ』)」と書いた。この兄の死と息子として認知しなかった実の父に対する複雑な感情が、彼の小説への情念を形成していったのかもしれない。中学生の時は不良少年仲間からよくリンチも受けたが、高校では、ぐれてはいないが勉強のできない平凡な生徒であったという。この頃、大江健三郎、石原慎太郎、サド、セリーヌ、ジュネ、ランボーなどを読んでいた。

19歳の時、東京へ出て、コルトレーンなどのモダンジャズ、新左翼運動、小劇場、ヌーベルバーグと出会った。「文芸首都」の会員となり、1966年に『18歳』が同誌に掲載される。初期の作品は大江健三郎の影響が大きかったといわれている。その二年後に「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う。かすみ夫人と結婚、自動車工場の臨時工をへて羽田空港で飛行機の洗浄や航空貨物の積み下ろしの仕事を始めた。「物は、言葉を語り、一個の貨物がそこに確かに在ることがけっしてあなどれない思想そのものだという実感」があったという。ともすれば観念的になりがちな小説から抜け出る契機となった。その後も築地の魚河岸や小平にある運送会社でフォークリフトの運転手をした。この頃、紀州と紀州弁を小説の舞台にのせるようになり、自分の故郷や家族をモデルに小説を書いた。三度の芥川賞候補を経て、1972年『岬』で同賞を受賞した。

やがて、自らがその出身である被差別部落について書き始めるようになる。「半島ではほどほど、中庸がない。なにもかもむき出しである。貧困は貧困のまま、日本的自然の帰結である差別は差別のまま、被差別は被差別のまま(『美しさを越えて映える半島』)。」カナダの文学研究者ノースロップ・フライは、文学の統合原理は神話と穏喩だと言ったけれど(『ダブル・ヴィジョン』)、中上にとって物語とは法・制度であり、育まれた自然と差別被差別という連関の中で、解明され解体されなければならないものだといわれる(永島貴吉『中上健次小伝』)。しかし、神話は彼の小説の中でも統合原理であったろう。1977年以降はアメリカ、韓国、インド、フィリピン等への旅行を繰り返していた。「日本にいると往々にアジアが見えなくなる」からだという。マイノリティへの興味とアジアの多様性を感じたかったようだ。同じ頃、自分の故郷で「部落青年文化会」を自費で開催しはじめる。ゲストは佐木隆三、石原慎太郎、吉増剛造、瀬戸内晴美、森敦、唐十郎、金時鐘、吉本隆明を擁した。しかし、全てが中断される時が来る。1992年、46歳の若さで腎臓がんで亡くなった。

折口信夫(1887-1953)
民俗学者・国文学者・国語学者

ちょっと道草するのだけれど、この人、折口信夫のどこを切っても金太郎飴みたいに同じだと言った人である(『音の人 折口信夫』)。どう細切れにしてもそれぞれが磁石のN極のように北を指しているということらしい。どの方向かというと、言葉の内側へ分け入って『うつほ』なら「うつむろ」「うつはた」「うつぼ」「うつせみ」のようにUやTSやHなどに聞き入り続けるという方向である。そこが、縄文でもなく旧石器時代でもない折口の古代だというのだ。その面白味は音が言(こと)であり、言が同時に魂(たま)であり霊であり、物であるという言葉の還流に身を置いていることから来るという。音がマグマのように蠢(うごめ)いている世界に分け入って、これも言える、あれも言えるとして、言の葉の貴種流離を言わけしてくれる。言葉を細かく切って行って何もなくなるのではなく、先のものが次々動き出して行って、別のものとくっついて行く、そういう要素を持っている方が豊かなのだと言う。それが、折口の健康であり、強さであり、読む者をわくわくさせる源だと。それは万葉時代の歌人が隣に坐っていて、自分に何か語りかけてくれるような、そんな豊かな気持ちにさせてくれると言うのである。そうなのだ。おっしゃるとおりである。中上氏を僕といっしょくたにするのは失礼ながら、我々は、ずっとこの金太郎飴を味わい続けていたいと思うのである。

改めまして。中上健次はエッセイ『宇津保物語と現代』の中で「『宇津保物語』が私に刺激を与える一つにはこの治者の文学であってしまうことである」と述べている。「この物語は、このうつほということを通して、楽とまつり事は一諸だということを言っている。芸事である琴が政治と密着している。摂関政治が婚姻関係を軸にしているなら、さらに性と楽とまつり事は混交しているように見える。『宇津保物語』は治者の文学と呼んでもさしつかえない」というのである。楽が政事と密接な関係にあることは part1で既に述べた。彼がこの『宇津保物語』を換骨奪胎して自分の、20世紀の、『宇津保物語』を書いた時、まさにその野性と楽と性を書いたのである。宇津保は京都の北山にはなく、山深い熊野の北山に移されている。紀州熊野。

『中上健次全集』12 未完小説集1
「宇津保物語」収録

「‥‥石が空洞の外壁に投げられ、オニ、オニと子供らの声がする。仲忠は正座し母の奏でる琴を聴き、その石にも自分の身がさらされ皮をはがされている気がする。石を投げる音と声が止むと、闇が北山一帯に降り下る。他に音はまったくない。琴の音が鬼夜叉鬼人をでも導き出してでもいるようにかさとも音がしない。オニ、オニ、仲忠は母の顔を見て独り空耳を聴いている(『宇津保物語』)。」

仲忠は、メルヘンの中の聖なる子供ではなく、村の子供たちにオニの子と呼ばれて石を投げられ、里の作物を盗んでは村人にぶたれ、それでも泣かない不気味な子として描かれる。母が唐天竺の着物にも劣らないというそれは、垢と泥と草木の汁にまみれた黒ずんだ重ったるい布だった。そこには貴い出自の者が零落し艱難辛苦に耐える姿がリアルに描かれている。

「‥‥確かに琴は女だった。‥‥仲忠は涼(すずし)の音にぴったりあわせて琴を弾いた。二つの琴は一つの音になって闇の中に広がり、涼はむしろ音の単純さこそ琴という楽器には合っているのだと弾く。仲忠はその音の合間に呻きのような音を入れた‥‥音は血を流した。血は腐り、臭いを放った。‥‥仲忠は空洞の中にこもっていた血の腐った臭いと血のついた草葉を思いだす。その臭いと血が、やんごとない母の月のものだったと知ったのは随分後になってからのことだった(『宇津保物語』)。」

政事の一環として演奏される場にある琴。そうでありながらも、その音が血を連想させる。ここには、うつほという空洞が、琴という楽器の空洞であり、母の膣であり、母の胎であるということの穏喩として描かれているのである。そこには古代世界の長閑さから縄文世界のごとき野性へと遡及していく視点が闡明にされる。さらに中上は、この『宇津保物語』と、さきほどのエッセイ『宇津保物語と現代』の中でこう述べる。

『中上健次』別冊太陽
「中上健次は『路地(故郷)』を『ウツホ』に例えた。」斉藤環

「幻は統る御人がいなければ地に這い高みにのぼることが出来ず魑魅魍魎となって広がる。それが空洞のあった北山であったし、俊蔭が波斯国(はしこく)で体験したことだった。音は精霊としてではなく物の怨霊として鳴る。物音は眼とも鼻ともつかない形で仲忠が琴を奏でると空気の中に集まり爪が弦に触れるや音に固まり弾け出して表われ、天に駆けのぼり地を這う(『宇津保物語』)。」

この濃厚な文体でリアルに描かれる新たな『宇津保物語』を、時に深い暗黒が覆う。神武以来、敗れ続けて闇に沈んだ国・紀州。ここには、神話の得体のしれない深い闇の部分が厳然と存在してはいないだろうか。神話は、けっして長閑で大らかな側面ばかりではない。霊異の世界・熊野。隠国(こもりく)。

「確かに藤原仲忠の物語は原物語がそうであるようにみなし児(原物語では13歳まで父が不明な子)、私生児であり、これは私の『枯木灘』の主人公 秋幸や『鳳仙花』のフサも共通だが主人公が物語に登場する以前、聖痕のようにその死、再生、不死というものを経過している故に堕ちた神人として人を感動させたり共感させたりするものなら『宇津保物語』は、うつほに生きた子である仲忠が最初から親であるように、子として味わったであろう不如意を描いていない。物語の不思議としか言いようがない。それゆえに輝いていると言える(『宇津保物語と現代』)。」

この堕ちた神人という意識は、僕が part1「籠りと神器」で書いたように貴種流離譚としての原『宇津保物語』の内容を思い出させるし、熊野に関して言えば小栗判官の『餓鬼阿弥蘇生譚』を連想させる。神の前身が人であり、人間として生を得て、やがて流離・困憊(こんぱい)の極を味わい、あるいは死の解脱によってはじめて転生して神となることができるという古代以来の信仰が、この神人の背後にはある。貴い身分のはずの仲忠とその母は、京都北山にある樹のうつほで暮らさなければならなかったが、貴族の身分にやがて戻る。加えて、この原物語では、身分の低い偽貴宮が高貴な貴宮に成りおおせるという変容もある。伝記作者の高山文彦がいう中上の故郷〈彼岸〉とは、誰もが貴種であるはずの人間の「死・再生・不死の起きる場所」、つまり〈異界〉であり、物語の元型をなぞる場所である。そして、先ほどのフォークナ―の小説にある町ジェファスンのように作家が統べる「仮想の場所」、作家が治者となるアナザー・ワールドでもあった。中上は、故郷〈此岸〉に対峙し家族を見つめ、それをモデルとして小説を書くことによって、この〈彼岸〉と〈此岸〉というダブル・ヴィジョンの間に橋を架けた。こうして、彼は神話という無底の世界に浮かんで差別被差別を見つめたのである。中上はこう書いている。

「考えてみれば芸能・芸術の一切はうつほから出て来る。一切合財はそこから生みだされ、外に出るのだ。うつほを別の言葉で言ってみれば被差別空間となる。それは宗教と性と暴力と、そんなものが混交した場所であり、それがさらに神話の持っている意味だとしたら、何もかもある(『宇津保物語と現代』)。」

 

その他の参考図書

中上健次『紀州』木の国・根の国物語
中上の故郷である新宮を起点に紀伊半島の隠国の町々土地土地を巡るルポタージュ。
この著書の中で、中上は「どんな事であれ、言葉を持っている者は書き言葉を持たぬ者の『批判』にさらされる義務がある」と書いている。

『宇津保物語』part1 籠りと神器

『宇津保物語』は面白いと僕は思うのだけれど、源氏物語と比較されてか、意外に人気がないらしい。これは偏見ではないのか。源氏物語以前の物語としては、竹取物語、この宇津保物語、そして、落窪(おちくぼ)物語が知られている。いずれも作者不詳である。竹取物語は、主人公が竹の中に誕生し、月の世界へ帰っていくというメルヘンの中に求婚難題譚が挟まれている。落窪物語は住吉物語の原形となった平安時代の作品のパロディと言われる(三谷那明『落窪物語解説』)。北の方の落窪の君への徹底的な継子いじめと、侍女あこぎと落窪の君の夫になる蔵人(くらんど)の少将との徹底的な復讐劇、そして継子の恩恵を受けながらも改心のないしたたかな継母というストーリーになっていて、典型的な継子虐め譚となっているのだが、継子の仇名が落窪であり、土間のような一段低い部屋に住まわされていたことによってついた名だと言うのは興味深い。

武雄神社の神木、大楠とその祠 
佐賀県 樹齢3000年 空洞は12畳の広さがある

宇津保とは何だろう。こういう時は、この人の著作をひも解くに限る。古い言葉に、うつと言う語があり、空・虚、或は全の字をあてた。熟語としては、うつはた(全衣)・うつむろ(空室)などがあるという。うつは全で、完全にものに包まれている事らしい。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のうつむろは、戸なき八尋殿を、更に土もて塗り塞いだとあるから、すっかりものに包まれた、窓のない室の意で、空(から)の室を言ったのではないか。これはうつぼにも関係があるという。うつぼ舟・うつせみなど、からっぽの意にも、目のないものの意にも考へられるようになったいうのである(折口信夫『霊魂の話』)。

宇津保物語は主人公の仲忠(なかただ)が幼少期にその母と山中の木の空洞、つまり「うつほ」に暮らすことからタイトルとして用いられた。竹取物語は中空の竹のなかに宿った姫が主人公だった。この宇津保物語より後に成立したといわれる、落窪(おちくぼ)物語の主人公は日常とは異なる床が一段低い狭い部屋に入れられている。これについて心理学者の河合隼雄さんは『うつほ物語のなかの女性像』の中で、少女が低い位置に貶められたり、閉じ込められたりした後に幸福生活を送るというのは相当に普遍性を持った物語で、シンデレラ、塔に閉じ込められるラプンツェル、いばら姫などの例にこと欠かないという。宇津保物語では、うつほに籠りはするのだが、既に子供がいる。落窪物語のほうが思春期に適切な「内閉」の時期を持ち、それを経て結婚という幸福を得るという、より普遍的な性格を持っている。しかし、訳も分からず結婚して、あるいはさせられて、子供ができるが、夫との関係も理解できずに内に籠る期間があって、その後、母であることを通して夫婦であることが実感されるというパターンがあるのではないか。『うつほ』の方が古い型で、それが『落窪』型に変化していったとも考えられるというのである。ともあれ、主人公の閉じこもる空間は、全て覆われた竹の中から、穴の開いた樹の洞となり、出入り口があるのだが凹んだ部屋へとモダンになっていく様子は進化と見るべきだろうか。

『うつほ物語』① 1999年刊

『宇津保物語』「俊蔭」一

物語は式部の大輔と左大弁を兼任する清原の王(おおきみ)と皇女との間に容姿の美しい世にも稀な学才を持つ男の子、俊蔭(としかげ)が生まれることから始まる。若くして進士、秀才になるための試験に事もなく合格し、遣唐使に抜擢される。しかし、船は遭難して波斯(はし)国という未知の国に漂着した。涼しい栴檀の木蔭で琴を弾いていた三人の奏者に琴を習う。この三は、俊蔭以降の三代の子孫とその秘伝伝授に対応しているのではないだろうか。木を切るような不思議な響きに促され、3年を費やしてその音のする険しい山の谷底の大木にたどり着く。そこでは阿修羅が罪障消滅のためにその桐の霊木を切っていた。琴を作るためにその木の一部を貰い受けようとした俊蔭は、天下った天稚御子(あめのわかみこ)の助けで三十もの琴を授けられて日本に帰ることになるのだが、七人の仙人と合奏していると仏が現われて俊蔭に汝は淫欲の罪によって人の身を受くることなき身なれども高徳の仙人を助けたことによって人に生まれることができた。阿修羅に憐みの情を覚えさせ、菩薩・仏の耳驚かせた因縁によって何世にも亘って仏との縁を持つことになろう。そして、この山の仙人の七番目にあたる子孫を汝の三代目の孫として得られるであろうと予言した。仏や仙人に琴を献上して12の銘のある琴を持ち帰るのであった。23年の月日が流れていた。

帰国後、東宮(皇太子)の指導役となった俊蔭は、天皇の皇女で臣籍に下りた一世の源氏の女性と結婚し、娘を一人授かる。父と同じ式部大輔と左代弁兼務となった。その娘にあの波斯(はし)国から持ち帰った琴を習わせる。七つの琴は嵯峨帝や東宮、高官たちに献上し、帝の前でせた風と銘のある琴をかき鳴らすと御殿の屋根の瓦がこなごなに砕けて花のように散ったという。だが、それから俊蔭は出仕を辞退し京極に風流な邸宅を建てて娘の琴の教育のみに専念するようになる。美しく成長していく娘に結婚の申し込みはあとを絶たなかったが、俊蔭は一切とりあわない。しかし、娘が十五の歳に妻が亡くなる。追う様に俊蔭も亡くなるが、遺言に屋敷の片隅に埋めた二つの秘琴の存在を告げる。俊蔭の家は、その頃には既に窮乏していて使用人も召使の老女のみとなっていた。

豊永聡美『天皇の音楽史』

古琴について

琴について少し述べておきたい。音楽史の研究者である豊永聡美(とよなが さとみ)によれば、3~5世紀にかけて仲哀・応神・允恭(いんぎょう)・雄略といった天皇たちが琴を弾いたという記述が古事記や日本書紀にみられるという。この頃の琴は四絃ないし五弦であったようだ。とりわけ応神天皇が愛した琴は「枯野(からの)」と呼ばれる神器であったという。潮焼けした官船から得られた木で作られ、その波で打たれた材から発する琴の妙なる音は七里先まで響いたといわれる。それは降神や政りごとのための神事と関わっていた。

後には天皇が学ぶべき学芸となり、管(笛、笙)と絃(琴、琵琶)が主流で打はなかったという。天皇がどの楽器を演奏するかは宮廷音楽に参加する殿上人などの栄枯盛衰に関係することもあり、時に皇統の在り方も左右したという。平安時代は桓武天皇から平安中期の醍醐、村上天皇に至るまでほぼ琴(和琴、七絃琴、筝)の時代であった。13世紀の『文机談』には、桓武帝が、なら丸という御師について琴を学んだという記述があり、とりわけその第二皇子であった後の嵯峨天皇は『和琴血脈』という和琴の相承図の筆頭に名が挙げられている。この『宇津保物語』に帝、後に院として、その名が登場するのも故あってのことのようだ。大まかに言って、平安中期以降は笛(龍笛)、鎌倉時代に入ると琵琶が主流となっていくようである。『天皇の音楽史』からご紹介した。

中国では、オルガンを風琴、ピアノは鋼琴というように楽器のことを琴というため日本でも琵琶の琴(こと)とか琴の琴(こと)と言っていた時期もあるようだ。この宇津保物語に登場する琴は、漢の時代に形が整えられ、その後、奈良時代に日本に伝来した七絃琴で古琴と尊称されていた。上面は天を象って丸く桐で作られ、下面は地を象って平らに梓(あずさ)を材料にしたものを貼りあわせて共鳴箱を作る。梓は弓の材料として知られる木である。全面を焼いて灰の漆喰が塗られ、さらにその上に漆が塗られる。長さ約120cm、肩の幅が20cm、腰の幅15cmと決められている。下面に音穴と呼ばれる音の出る空洞が作られ、大きい方を龍池、小さい方を鳳池と呼ぶ。そして、絹糸の七絃が張られるのである。この数は、俊蔭が出会った7人の仙人と対応している。筝(そう)のように琴柱(ことじ)と呼ばれる木の駒で音程を調節することは無く、螺鈿を嵌め込まれた徽(き)と呼ばれる部分を目安に手で絃を押えて音程を決める。特に絃の上を指が滑る時に出る音は走音と呼ばれる。一種の衣擦れのような雑音であるけれども琴独自の雰囲気を醸し出すといわれ、古人はこの音色を「松風」と呼んだ。

古琴奏者の伏見无家(ふしみ むか)によると、この琴の音は心の昂揚するような音ではなく、人の心を深く沈思させ寂寞とした気分にさせる音色で低音は野太く重厚、高音は玉石を叩くような玲瓏とした音であるという。龍池、鳳池の音穴は下を向いていて下方から響き渡り、人の内面に向うという。そして表面の漆喰と漆は音響を逆に抑える。「琴は禁」に通ずるといわれ、身を修め、性(こころ)を理(おさ)めるための楽器だった。したがって、歌舞音曲といった類の音楽に使用されることはなく、雅楽に取り入れることも困難だったと言う。しかし、現在はスチール製やナイロン製の絃が使われるようになり古琴の音も大きく鋭くなったといわれている。

16絃古筝
絃と胴の間に木製の駒がある

『宇津保物語』「俊蔭」二

主人を失った屋敷が見る影もなくなった頃、時の太政大臣が願掛けのため賀茂神社に参詣することがあった。娘はその行列をなんとなしに蔀戸(しとみど)のそばに寄って見ていた。そのお供の中にやはり十五歳くらいの若小君(わかこぎみ)と呼ばれる美しい少年がいる。その願掛けの帰りに二人は結ばれるが、少年は無断で外泊したことを両親に責められ以後は厳しい監視の目にさらされ、屋敷を出ることが出来なくなった。娘との再会を固く契ったが果たすことができなくなる。

若小君の子供を宿した娘は、召使の老婆に懐妊を教えられ、恥ずかしくさえ思えて泣いた。しかし、老女はしっかり者でわずかに家に残った高価な鞍を売り、出産の用意を整えると、娘は無事に玉のように美しい男の子を生んだ。この子が五つになった時、老女も亡くなり、この子は母のために魚釣りを習い、魚を持ち帰る。しかし、普通の魚と思っていたものはたちまち百味を備えた食物に変わったという。冬には山芋、木の実、葛(かづら)の根を掘り取ってきた。深く山に分け入って食べ物を探す時を惜しむ少年は、北山にある築山のような丘の上に杉の大木が四本合わさって大きな部屋ぐらいになっている空洞を見つける。その前は明るく開けていて近くに泉もあり椎や栗の林がぐるり囲んでいた。少年の孝心に打たれた熊はその洞を少年に譲って立ち去った。母は息子にいざなわれるままに琴とともにその洞に移る。母と息子は昼となく夜となく琴を合奏した。猿たちは演奏に感じ入ったのか、芋や果物などの色々の食べ物を葉に包んで持ち来たって、集まるようになった。木の根を食べ、木の皮を着、木のうつほを住処にしていてもこの子には輝くような光が備わっていたし、母の容貌も一段と勝って美しいものになっていく。息子は既に十三歳になっていた。

帝が北野神社への御幸される日、お供の右大将兼雅(かねまさ)は琴の音を聞いた。縁(えにし)の糸は再び結び合わされる。音を尋ねた場所で出会った少年の話には心当たりがある。兼雅は、あの若小君であった。言葉を尽くして少年を説得し、母は、また息子の言葉に従って京に戻ることになる。此の息子が、この物語の主人公、仲忠(なかただ)である。

『うつほ物語』③ 1999年刊

神器の琴と籠り

神器の琴がどのようなものだったかは、大国主命が天の沼琴(ぬこと)を持ち運ぶ際、木々にそれが触れると大地が震撼したという記述が古事記にある。こんな不可思議が、宇津保物語にもしばしば述べられている。例えば俊蔭(としかげ)の娘が隠れ住んでいた宇津保の近くに東国からの武者四、五百人が陣取り、山中にあふれ、目に入った鳥獣を片端から殺して食べた。食べ物を運んでくれていた猿たちも容易には近付けない。そこで俊蔭の娘は、幸福な時、不幸な時の極限に至ったらこの琴を弾くように遺言された「なん風の琴」を一声かき鳴らした。すると山の大木はことごとく倒れ、山は逆さまになって崩壊したという。宇津保を取り囲んでいた武士たちは崩れた山に埋もれた。また、最終話「楼の上」の下巻では、俊蔭の娘とその息子仲忠、そして、その娘の犬宮がそろって演奏する場面がある。その同じ音色の音は空高らかに鳴り、あらゆる種類の鼓や管楽器、弦楽器を合わせて一つにしたような音となって響き渡った。聴く者は宙に浮き上がりそうになり、星たちは激しく瞬き、雷の鳴るような閃光が入り乱れたという。

ほとんどの楽器には「うつほ」のように空洞がある。その空洞が振動を響かせ天地と共鳴する。今まで何度か述べてきたことだけれど、日本の古代には、現在の神と等しく考えられていた魂(たま)が、この宇津保のような空洞に人知れず宿ると考えられてきた。これを籠りという。日本の古代宗教にとって最も重要な概念になっている。そのうつろなものの中で霊力を蓄え、成長した魂が、このウツツの世界にみあれするのである(折口信夫『霊魂の話』)。音は楽器という「うつほ」へ籠り、共鳴して世界へと鳴り響く。「うつほ」は霊力を蓄える場であり、音魂としての神がそこに現われる。そのような力を秘めるからこそ神器と呼ばれることになるのではないだろうか。琴は、巨大な象徴なのではないか。波斯(はし)国への漂流という俊蔭漂流譚に始まるこの物語は、その孫である仲忠とその母の宇津保への貴種流離譚でもあった。しかし、俊蔭とその子孫の籠りの物語とも読むこともできる。秘伝伝授のために俊蔭が娘に対して行う屋敷への徹底的な籠り、娘と仲忠との「うつほ」への籠り、俊蔭の娘と息子の仲忠そしてその子の犬宮との東の楼への籠りと三重に重ねられた籠りという空間の中で、琴の秘伝は伝えられていくからである。この物語は古来の神話の原型が幾重にも繰り返される構造となってはいないだろうか。

貴種流離譚については平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者 part2 紫式部の手法に書いておいたのでそちらをお読みくださればと思います。次回part2は『宇津保物語』の野性をテーマに中上健次がこの物語を基に書いた同名の小説『宇津保物語』をご紹介する予定です。

 

古琴の演奏を掲載しておきます。

 

『ウィリアム・ブレイク』最終回「脱構築する神話」六千年のヴィジョン

1795年、38歳で『ロスの書』や『ロスの歌』を制作していた頃、ブレイクは銅板から直接彩色印刷を行う新しい実験に没頭していた。エッチング(腐食)を施したレリーフ状の銅板に色を塗り、プレス機や手の圧力で刷る。絵具には、滲み止めや糊が混ぜられ、その外観は厚塗りの斑(まだら)な質感が強調された、一種のデカルコマニーのような効果が起きる。その頃、妻のキャサリンは有能な助手となって彼を助けている。絵具は速乾性なのですばやく作業する必要があった。やがて、なめらかなエッチングされてない板に色を塗り、印刷し、筆で色を加え、ペンで輪郭と形を整えはじめた。

その成果は『ヨーロッパ 一つの預言』や『ロスの歌』に表れている。その頃の代表的な作品は『ニュートン』であろう。彼は、この新しい試みが大衆に受けると信じていた。しかし、現実には、好事家や他の芸術家たちに売れ口は限定されていたと言う。増刷もしたけれど、大きな注文を受けた時以外は、この彩色印刷法には二度と戻らなかった。フラックスマンやフューズリと言った友人などから仕事の斡旋してもらい、伝統的な技法で他人のために制作することで生計を立てることになるのである。

1800年には、ロンドンからイギリスの南海岸チチェスター近効のフェルファムに転居した。ポーツマスの近くである。海辺の黄砂の上に坐っていると「光輝く粒子」が人の姿となり、「岸辺のない海」のように広がって、自然界がひとりの人間のように見えたという。あるいは、野原を歩いていると太陽がロス(part2参照)の姿になり「激しい炎に包まれ」地面に降りてくるヴィジョンを見た。三年後、自宅の庭にいた兵士を力ずくで追い出そうとし、口論となって、小競り合いが起きた。その時、反国家的な言葉を発したとして「暴動教唆」の罪で訴えられる。いわゆるスコウフィールド事件である。1804年、ブレイクは無罪の判決を受けた。湿った気候が妻の健康を害し始めたのでロンドンに再び引っ越した後のことである。ブレイクを告発した兵士スコウフィールドの名は詩の中に時々登場するようになり、御気の毒ながら堕落した物質幻想を作り出した巨人の一人とされるのである。この頃『ミルトン』『エルサレム』という預言書・神話が書かれ始める。

聖テレサ(テレージア)の法悦』
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ 1652

ブレイクは「理性を見る人は、自分自身だけを見ているだけだ」と言い続けたという。何もかもが、自分たちの(間違った)知覚のイメージで創られていると信じるのは、哲学者や神を創造主として認めはするが啓示を否定する理神論者の罪であるというのである。聖テレサ(1515-1582)は「ヴィジョンはどうすることもできない。見ようと思っても見ることはできないし、努力して呼び出したり、消したりすることもできない」と述べた。彼女は、自然ないきいきとしたスタイルで死者のヴィジョンを書いたともいわれる。ブレイクは、「仕事中に、愚にもつかないことを考えていると、現実のものではない、死者の亡霊がさまよう幻の国にある山や谷に連れて行かれてしまうのだ」と述べた。これは彼が彫版の仕事が遅いといわれていた原因の一つでもあるかもしれないとピーター・アクロイドはその著書『ブレイク伝』に述べている。

『ヴェイラあるいは四人のゾア』『ミルトン』『エルサレム』の預言書が20世紀の思想とどのように関係づけられているかを大熊昭信の著書『ウィリアム・ブレイク研究』から考察してみたい。彼の預言書を読む時、色々な困難があるという。句読点の度重なる省略、語と語の異様な結びつきなどによって意味が容易には通らない。登場人物たちは複雑に分裂したかと思うと勝手にお互いに融合してしまう。物語も気ままに過去に遡りもすれば、イギリスの地にシオン山やエルサレムが突如、登場したりする。予測もつかない変貌をしょっちゅう遂げるというわけだ。著者は、80年代以降、こうした物語が、ポストモダンや脱構築の批評的立場に立つ人たちに歓迎され始めたと言う。

大熊昭信『ウィリアム・ブレイク研究』
「四重の人間」と性愛、友情、犠牲、救済をめぐって

大熊昭信(おおくま あきのぶ)は、1944年生まれ。東京教育大学英文科、東京都立大学大学院及び東京教育大学大学院で修士過程を修了し、文学博士号を取得した。筑波大学、成蹊大学などで教鞭を執られている。著書に『文学人類学への招待 生の構造を求めて』『D・H・ロレンスの文学人類学的考察 性愛の神秘主義、ポストコロニアリズム、単独者をめぐって』訳書にA.J.エイヤー『トマス・ペイン 社会思想家の生涯 』、エドワード・ゴールドスミス『エコロジーの道 人間と地球の存続の知恵を求めて』などがある。

著者はブレイクが『エルサレム』のサブタイトルを「巨人アルビオンの流出」としているところから新プラトン主義の「一者からの流出」に基づいていると仮定した。霊魂も全て一者から流出したというわけだ。新プラトン主義については”世界をロマン化する” part1 中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』のところで述べておいた。そして、「天界の形」とは「霊体」であるというW.H.スティーブンソンの説を紹介する。一般には、霊体は人間の魂がこの世の生を終えた後、天界でまとう一種の衣服であると想定されている。パウロは、そう述べたという。パウロが霊界で着るとした霊体をブレイクでは霊界で脱ぐと言うのである。

これに対して、ギリシアの新プラトン主義の哲学者プロクロス(412頃-485)は、霊魂が三種類の霊の衣服をまとっているとした。人間は死ぬと肉体を脱ぎ、天界とこの世の間の霊界に幽体を脱ぎ、輝体をまとったままで天界に回帰する。中間的霊界に残された霊の衣服がデーモン(幽鬼)の類となってこの世に現われるという。霊魂、オケーマ、幽体、肉体という層構造が考えられている。大まかだが、神智学の分類に近い。オケーマはパラケルススのいう星の体(アストラル体)、あるいは魂の車と呼ばれるものと同じであろうという。ブレイクの預言書で、主人公的な役割を持つロス(part2参照)が「四番目の不死の星の存在」とか「アーソナの乗り物の形」といわれることから、筆者は人祖アルビオンから分離したロスたちがこの霊体の分離した姿ではないかと考えた。ブレイクは当時、このプロクロスを翻訳したトマス・テイラーの講演に出席していたようだ。

『ユアリズンの第一の書』1794-96
ロスから分離するエニサーモン

ブレイクの『エルサレム』では、人祖アルビオンはヒューマニティ、エメネイション、スペクター、シャドウの四つの段階に分裂する。これを著者は、それぞれ霊魂、流出霊、幻霊、影霊と名づける。流出霊は輝体であり善のニュアンスを持ち、幻霊と影霊は幽体であり悪のニュアンスがあるという。魂には男性性が、輝体は女性性が、幽体では息子が、影霊では娘のイメージが割り当てられている。人祖アルビオンはpart2『四人のゾア』でもご紹介したように、その四つの人間的特性に対応する四人の男性性を持つ存在に分離する。そして、この特性に対応する女性性として、やはり四人が分離された。この『エルサレム』では、アルビオンが天界を降下する時、輝体である女性エルサレムを一つ下の霊界であるべウラ(ビューラ)に残し、その幽体をまとって死の世界である最下層のウルロに降下する。ところが、霊魂が脱した輝体なり幽体なりが、もう一度それぞれ独立した霊的な存在として同じように分裂を繰り返して、天界を下り、この世に降下したりするというのだ。主体としての霊魂が、他者の霊の衣をまとうというのはルドルフ・シュタイナーのいう「霊の経済原理」に見られる説だが、霊の衣自体が新たな主体となるというのは、ブレイクのオリジナルだろう。

日本にも古くは、分霊の例は多く、例えば留守宅の妻や女性が、旅する愛する者のために自らの魂を彼等に分けてつけた。それが、万葉の「妹の結びし紐」という慣用句になる。魂結びの紐の緒のことである。その魂の来りて触れて一つになることが「たまふり」の原義だという。魂の離合は極めて自由なものであったし、分離した魂がめいめいある姿を持つこともある考えられていたというのである(折口信夫『小栗外伝』)。なかなか興味深い話である。また、ピュタゴラスの影響を受けたオウィディウスは、ブレイクが愛した『変身物語』の中でこのように述べている。「万物は流転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいった体に住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ(中村善也 訳)。」輪廻転生については今はおくとして、魂が自由に他者に移るという考えは古い時代にはあった。しかし、こうしたことがらも、ブレイクがヴィジョンに従って書いたとしたら、不思議なものでもなんでもなくなるのである。ロスが、自分はアーソナの霊の衣から分離されたとブレイクに告げたなら、彼はそう書いただろう。

ロバート・ブレア 詩『墓』1808
第12プレート「再び統合する魂と肉体」
ブレイク原画 ルイジ・スキアヴォネッティ彫版

だが、書き方は、また別の問題である。自動筆記のように書いたという自らのコメントもありはするが(トマス・バッツ宛て手紙)、全てそのように書いたとしたら『ヴェイラあるいは四人のゾア』の10年にわたる苦闘を説明することはできなくなる。読者は、世界の創造と破壊と再生の物語の中に、様々な登場人物のエピソードが盛り込まれ、それにほとんど恣意的なまでに多様な寓意が説明的に張り付けられるのを目にする。おまけに、ブレイクの「対立の原理」は、相反する価値や意味を物語の中にバラバラに並置するのだ。付加される領域は広範囲に及び、抽象的な徳目あり、同時代の政治思想あり、自伝的要素まで挿入されるというわけである。そうすると、読者はブレイクのこの虚構の世界にすんなり感情移入できなくなる。読者は物語の世界から身を引き離し、リニア―な意味の把握を断念するようになり、垂直的な読みをするようになると著者は言うのである。つまり、自ら物語を再構成し、何層もの寓意の地下水の流れを見分け、それらを平行して眺める。ロスとエニサーモンとの諍いを多様な神話に関連づけ、その中にブレイクと妻キャサリンとの関係さえ読み取ることになるというわけだ。つまり、これがポスト構造主義的読みなのである。

このようなリニア―な解釈を許さない作品が19世紀後半に生まれていたことはミリー・ディキンスンの詩でご紹介しておいた。そして、同じように語り手が誰かを意図的に曖昧にするジェイムズ・ジョイスの手法があった。彼がブレイクの影響を受けた(part2参照)ということを知っておいてもらえればブレイク文学の先進性は理解していただけるだろう。

『死者の復活』1806
(ブレア作『墓』の扉の別案)

1805年にブレイクは、新進気鋭の出版業者ロバート・クロメックにロバート・ブレア作の『墓』の挿絵を頼まれた。原画を描き、版画にするのだったが、クロメックは当時ブレイクが手がけようとしていた白線によるレリーフエッチングを嫌って他の彫版師に任せた。こうしてブレイクの原画は、「ここちよい」「優雅な」銅版画に作りかえられた。これは、ブレイクにとって心の痛手であったことは言うまでもないことだが、クロメックは宣伝力に長けていてブレイクの名をイギリス社会に浸透させるという功績はあった。だが、批評は相変わらず辛辣で、「アンチ・ジャコバン」誌には「病的な空想力が生み出した作品」と書かれたという。ブレイクへの攻撃は「狂気」という宣伝の形で行われていった。しかし、作品は「あのみなぎる霊性と強烈なフォルム」を再び確認させる徒弟時代のウェストミンスター寺院での経験に照らされていたアクロイドは述べている(『ブレイク伝』)。

1809年、52歳の時、ブレイクは「フレスコ画展、ウィリアム・ブレイクの詩的で歴史的試み」と題した展覧会を兄の靴下店で開いた。彼の関心事は中世美術、あるいはゴシックの新しい形態についてであったという。この個展では、チョーサーの『カンタベリー物語』をテーマにした「チョーサーの巡礼」がメインになっていたが、訪れる人は稀で、絵は一枚も売れなかった。『エグザミナー』誌の批評はこうであった。「攻撃性がないので監禁を免れている不幸な狂人。」ブレイクは疎外感を感じはじめていた。「狂気」というレッテル、売れない作品、芸術家仲間からの疎遠、上流階級や中流階級の趣味に対する嫌悪、画一化や標準化といった機械化が進む時代の流れへの反感。

神曲「天国編」より 1824-27
『聖ペテロ、聖ヤコフ゛、聖ヨハネとダンテ、ベアトリーチェ』

貧困にあえぐ晩年のブレイクを支援したのは、若い画家のジョン・リネル(1792-1882)だった。作品を購入してくれそうな人物の斡旋から金銭的な援助まで惜しまなかったが、彼の最大の功績はブレイクに『ヨブ』の水彩画を版画にすることを提案し、資金を工面してくれたこと、そして、ダンテの『神曲』の連作を依頼したことだろう。ブレイクはそのためにイタリア語を学び原著を読んだという。70歳になろうとしていた。ダンテの『神曲』の挿絵は色彩の美しさと明るさで極めて印象的な作品となっている。まさに晩年を飾る傑作となったのである。そして、人生の最後の数ヶ月に聖書の彩飾本の制作を開始した。この頃、ターナー(1775-1851)は『青白い馬に乗った死』を描いていたし、スペインでは、フランシス・デ・ゴヤ(1746-1828)が陰鬱な黒い絵のシリーズを描いていた。

胆石のような症状や下痢、発熱、理由の分からない発作に襲われるようになり、次第に弱っていったが、永遠の想像力は共に在った。死に対する不安はあったが、あれほど酷い仕打ちを受けたこの世を去ることは幸せであったのだろう。最期は、息を漏らすように穏やかに息を引き取った。1827年のことである。70歳だった。その場に立ち会った人によれば、清らかな天使のような旅立ちであったという。

柳宗悦全集 第四巻 1981年刊
「ヰリアム・ブレーク」収録

日本にブレイクの本格的紹介を行ったのは柳宗悦である。柳宗悦らの民芸運動とラスキンやモリスの英国アーツ・アンド・クラフツ運動と比較する時、民芸に際立つのは心を無にすると言う宗教性にあると佐藤光(さとう ひかり)はいう(『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。ブレイクは、「自己滅却」というキーコンセプトのもと、キリスト教をイエスの「ゆるしの宗教」へと解釈し直し相互寛容の思想を打ち立てた。「対立なくして進歩なし」という対立の原理と「生きとし生ける者すべて神性である」という「肯定的世界観」は、バナード・リーチの来日と共に柳の思想に大きな影響を与え、それは民芸にも及んだと言うのである。この西回りの「肯定の思想」は、柳の中で大乗仏教という東回りの「肯定の思想」と合流した。少なくとも20代の柳にはそう思えたのである。ここで、柳が25歳頃、精魂込めて綴った『ヰリアム・ブレーク』からいささかご紹介して終わりたいと思っている。この『ヰリアム・ブレーク』は、彼の伝記・思想・芸術のかなり詳しい紹介からなっていて原文を含めたブレイクの文章の引用も極めて多い。心酔している様子がよく伝わる。

わずか4歳で神の姿を目の前に見てから(アクロイドの『ブレイク伝』では8歳頃、天使を見たのが最初とある)、再び神の声を耳にしてこの世を去るまで彼の70年の生涯は殆ど幻像(ヴィジョン)に充たされていた。彼にとって凡ては驚愕と奇蹟に充ちていて、啓示に襲われれば、その内にいつも永遠相を見出していたと柳は述べている。そして、ブレイクの手紙にあるこの言葉を引用した。「私は此の詩を精霊から直接の命令で書いた。しかも、どういうことを書くかという予期なしに12行または20行、30行を一時に書き下すこともあった。私の意志に反して書くことすらあった。従って書くために費やされた時間というものは存在していない。」そして、「‥‥幻像はこの世に存在しないと言う者があるならそれは謬見である。自分にとって、この世界は幻像と想像とからなる一個の連続体である。」彼の空間とはこのようなものであり、時間とは以下のようなものであった。「自分は過去、現在、未来が同時に自分の前に存在することを知っている。」「自分は上下六千年の間を歩いている、彼等の現象は凡て自分と共にある。」

『青年と老年のウィリアム・ブレイク 28歳と69歳の二重肖像』ジョージ・リッチモンド、フレディリック・テイサム 1826

そして、柳はこう述べた。凡ての芸術、凡ての宗教がその高調に達する時、彼等は自ずから預言の権威を帯びてくると。悪はひとつの状態でしかないという「救済」の宗教観、宗教は一つであり、その源は詩的創造力であるという内発性と芸術の優位、すべての人の内に神はあるという強烈なメッセージ、そして「自己を無にする」という東洋的ともいうべき姿勢に、柳はブレイクのテンペラメントの卓越性を感じ、六千年のヴィジョンを猟歩したその思想に帰依するほかなかったのである。

‥‥
深い真夜中の学びに励む時刻に
書くようにとこの手に神が命じた時
彼は私に語った 私の書くすべては 地上で
私が愛するすべてのものの禍となるであろうと
‥‥
ウィリアム・ブレイク
『手帳からの詩と断片』1800-1803頃
(梅津濟美/うめつ なるみ 訳)

 

その他の参考文献

佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』
佐藤光(さとう ひかり)は1969年生まれ。京都大学文学部で学び文学博士号を取得、その後ロンドン大学でも博士課程で学ばれている。東京大学で教鞭を執っておられるようだ。本書は柳宗悦とウィリアム・ブレイクとの関係を述べたものだが、ブレイクについてもかなり詳しい紹介があり、彼のことを知る上でも貴重な著書となっている。

ブレイク全著作 梅津濟美 訳
ブレイクの全著作が翻訳されている労作である。感謝の他はない。文章がいささか生硬なきらいはあるが、正確な訳に徹しておられるのだろう。そして、安価に、しかも、新品のような古書を送って下さった大学堂書店さんにもこの場をお借りして感謝したい。

 

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
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