Blog / ブログ

サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part1 ダイマクションとワールドゲーム

このような刺激的な本が、ある。読み返してみると自分が、このフラーからどんなに大きな刺激を受けてきたかを今さらながら考えさせられる。何がそんなにこの人を偉大にさせたのか? 何が彼を一年に地球を7周半させるほど駆り立てたのか? 何が彼を自分自身をしてモルモットB(Bはバッキーの頭文字/フラーの愛称)にさせたのか? それを知れば、必ずや皆さんはフラー・ファンにならざるを得ない。

『宇宙エコロジー』という本はフラーの著作の抄訳が半分を、訳者でありフラーの共同研究者だった梶川泰司(かじかわ やすし)の文章が半分を占めている。これは、梶川の編集である。それゆえ面白いのだ。二人の文章は瓜二つだ。語り口のテイスト、言葉の選び方、単語の繋ぎ方。翻訳した当人の文章であるということを割り引いても、いかに訳者がフラーの世界と一つに分かちがたく溶け合っているかが分かる。だが、今回ご紹介するのはフラーの『クリティカル・パス』である。『宇宙エコロジー』は、是非このフラーの『クリティカル・パス』と『コズモグラフィー』の両書をお読みになってから、ひも解かれるとよい。いまや、フラーの開発した構造体は高校の美術の教科書にも掲載された。それは訳者が何よりも望み、喜びをもって迎えることのできる現実となったのである。その喜びを僕は彼自身から電話を通して聴くことができた。

いま私はこうして存在しているが
自分が何であるかは分からない。
しかし、自分が専門家した種(カテゴリー)でないことは確かである。
私は〈もの〉を表わす名詞ではない。
私は、宇宙のなかの
不可欠な機能として
漸進的変化の過程に作用する
動詞のようだ。
(B.フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』梶川泰司訳)

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

1.ダイマクション

フラーが20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われたのにはいくつかの理由がある。比較的分かりやすい発明はダイマクションカーやダイマクションハウスといったものだろう。ダイマクションという言葉は、ダイナミック、マキシマム、テンションの合成語であるのだが、この言葉はフラーの発案ではなくシカゴ・イヴニング・ポスト紙の芸術欄の編集長であったC.J.ヒューレットによる4Dハウスという言葉に端を発している。面白いのは1929年当時のパリ万博後に購入した斬新な家具を売り出すためにアメリカの大手デパートの企画推進者によって最も斬新だったフラーの住宅模型がその隣の部屋に展示され、広告宣伝されたのだという。フラーの建築モデルの横に置いておけば家具たちもそんなに斬新には見えないから買ってもらいやすいだろうというわけである。しかし、4D、つまり「第4の次元」では一般大衆には受け入れられにくい。そこで広告専門家のウォールド・ワレンがフラーのもとに派遣され、フラーの説明を手掛かりに彼がいくつかの言葉を合成した。フラーの意向を窺いながら最終的に残ったのがこのダイマクションという言葉だったのである(ロバート・W・マークス『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』)。個々の発明については、ジェイ・ボールドウィンの『バックミンスター・フラーの世界』が詳しいので、しばらくは、そこからご紹介したいと思っている。

ダイマクションカー 1933年制作 後はT型フォード

ダイマクションカーは1933年に開発された画期的な三輪自動車であった。それは軽量でなければならなかった。最終的には空を飛ぶ計画だったからである。プロペラかジェットエンジンと翼をつけて飛行機としても使えるようにと考えられていた。そのようなスケッチが残っている。V8エンジンを車体後部に搭載するリアエンジンで、前輪を駆動させる。それは、フロント・ウィール・ドライブ・レイアウトと呼ばれている通常のエンジンのレイアウトとは全く逆になっていた。そのほうが速く走れると考えたからである。実際記録した最高時速は140キロ、燃費はリッター/13キロ、11人乗り、イサム・ノグチがそのモデルを石膏で作ったという流線形の美しいデザインである。三台製作されたが、3号機は指揮者のレオポルト・ストコフスキーの所有となり1934年のシカゴ万博で展示され成功を収めた。だが、大量生産に結びつくプロトタイプを完成する資金は得られなかった。

上 ダイマクショオン展開ユニット(DDU)
下 ウィチタ・ハウス 1946年(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より)

ダイマクションハウスは、例のデパートに展示された模型に端を発する。マストのように支柱から吊り下げられた六角形の枠組みから成るアルミ製で、大量生産を前提にしたデザインだった。1940年には、穀物倉庫からヒントを得てダイマクシオン展開ユニット(DDU)を開発した。このユニットは第二次大戦中にペルシャ湾沿岸地域で兵士の居住用に実際に使用された。第二次大戦は終わったが、アメリカは退役軍人と軍需産業に従事していた労働者が職を求めて溢れていたのである。火薬工場は農薬や化学肥料の工場へと転換された。やがてレイチェル・カーソンの言う『沈黙の春』がやってくるのである。

その時、フラーの対応は早かった。戦争の終結時には、航空機の製造技術を住宅産業に初めて応用しようとしたのだ。どのような家だったのか。一言で言えば、それは宇宙船であった。アルミ製の大量生産型のモバイル・ハウスを考えたのである。熟練した組立業者を必要とせず、二日間で施工でき、分解して移動し、組み立て直すことができた。金属部品は溶かして容易に新しい部品として再生産できる。DDUで明らかになったことだが、建物内の暖まった空気は基礎部から換気できるようにしておけば、頭頂部の換気口を通じて新しい空気が流入し自己冷却装置のように働いた。それに加えて風向きによって回転する舵つきのダクトが取り付けられている。総重量2.7トン(車2台分)、費用も車二台分と同じ値段であったが、開発される前に売り出されたため、会社とフラーとの間に軋轢が生まれ、1946年にウイチタ・ハウスと呼ばれるプロトタイプが一つできただけで融資は止まり、計画は頓挫してしまう。

ウイチタ・ハウス頭頂のダクト内部
ヘンリー・フォード・ミュージアム

フラーはこんなコンセプトで住宅のデザインを考えようとしていた。排泄物は全てそれを生み出す場所で一次処理されなければならない。プラスチックバッグが自動的に排泄物を封印パックし、収集サービスによって回収され、化学処理されて堆肥となるかメタンガス製造のための原料とされるように考えた。パッケージング・トイレである。通常家庭では大量に水が消費される。それをフラーは極力抑えようとした。海軍にいた時、フラーは霧が甲板上の汚れ、それも油でさえ綺麗に除去してしまうことを知った。食器や洗濯物の洗浄やシャワーもフォッグガンと呼ばれる圧縮空気と少量の水で霧状のジェットを発生させる装置を用いてクリーンにしようというのだ。一回のシャワーは、コップ一杯の水で足り、石鹸は必要なかった。実際のプロトタイプにも施工されたバスルームはトイレとバスタブが一体成型されたユニットであった。試作品は4枚の金属板をプレス加工している。ニクロム線によって保温と乾燥がなされ、換気口は下にとりつけられて床にむかって空気を吸った。このユニットバスをドイツのメーカーがポリエステル・ファイバーグラスで製造し始めるのは43年後であり、その2年後、アメリカで大量生産される。

1927年に彼は風力を利用し空気圧搾して、その副産物として発生する廃熱を海水の脱塩に利用しようと考えていたし、液体酸素を得るために風力エネルギーで空気を液化しようとも考えていた。高密度の液体酸素を一滴ずつ高圧室に垂らして膨張させ、そこから噴出する冷たい空気によってタービンを駆動させ発電しようというのである。それを4Dハウスに採用すれば自家発電できる住宅になる。雨が降れば人間には飲み干せないほどの水が手に入る。消毒さえ気をつければ、一時的な貯水槽に蓄えた水は屋根の傾斜角度を利用して配水でき、蛇口をひねるだけで必要な頻度と量の水が得られる。上下水道も電線も必要としなくなるようなモバイル型住宅、それがフラーが開発したい理想の住宅だった。

フラーは、『〈インタヴュー〉バックミンスター・フラーすべてを語る』の中でこう述べている。「私たちは宇宙について何がわかっているのか。人間と生態系の相互作用全体のなにを知っているのだろうか。私たちはどのように宇宙の欲求を満たし、どう対処すればよいのだろうか。どうすれば、全人類の生活全体の必要条件を満たす最高の生産水準を達成できるのだろうか(『宇宙エコロジー』収載)。」僕が興味を持ってきたのは、そのような住宅を作りたいと彼を導いた哲学が何であったかと言うことなのである。それは、影響力を受ける力(エネルギー)と格闘しようとせず、その影響力を利用するデザイン、伝導するどんなエネルギーとも絶縁しない科学のデザイン革命であった。

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

2.ワールドゲーム

フラーは『クリティカル・パス』の中でこう述べている。ソ連(現ロシア)は冷戦の早い段階で核弾頭は使われないだろうという結論を出していた。核弾頭の開発を見せかけて史上最強の軍隊を作り上げていたのである。一方、アメリカの政治家は、アメリカがロシアよりはるかに多くの核弾頭を開発していると指摘できたので軍事的に安全であるという感覚をアメリカの大衆に与え続けることができた。アメリカがそうしてきた背景には、究極的には石油は使い果たされてしまうという認識のもとに石油巨大資本が 、ワシントンのキャピトル・ヒル(米国連邦議会)に対してエネルギー政策をめぐるロビー活動を行い、原子力産業およびその原子核研究員を育成するために核弾頭の生産を促進させていたという。彼ら世界権力機構組織は、世界の石油供給が減少するにしたがって原子力発電と送電ネットワークの運営に移らなければならない事情があった。その開発のために合衆国政府は2000億ドル以上の税金を費やした。核兵器開発と原子力発電とはいかなる国においてもセットになっている。それが将来的な願望であってもである。

そして、こう述べる。「1979年1月の第二次『オイル・ショック』は、目に見えないエネルギーのノウハウをもつ企業連合がスリーマイル島の原発事故と原子炉の『炉心溶融』という脅威から必死に大衆の関心をそらすために企てたものである。大衆は原子力施設に強く反対したが、石油会社の管理による突然のエネルギー供給規制は、一般社会に対して再びエネルギーへの渇望を非常に高めたので、その間は原子力エネルギー施設を縮小しようという人びとの声は無視された」という。さらに、このような事柄をあらわにするのである。

大英帝国地理学会の最高顧問であったハルフォード・マッキンダーは1900年初頭に鉄道の高い輸送力を指摘し、船舶中心だった貨物輸送が変化し始めると英国に示したという。ロシアのシベリア横断鉄道は北に寄り過ぎている。雪による障害が大きすぎて経済的に引き合わない。それに英国はロシアを大西洋の港からしめ出したために 巨大な海軍を持つロシアが大西洋に進出するためには白海のアルハンゲリスク、バルト海のいくつかの港、太平洋岸ではウラジオストクが残されていただけだった。この時、マッキンダーは英国にもう一つの指摘をしたという。ロシアがアフガニスタンとパキスタンを押えるとペルシャ湾に到達可能となり、インド洋に艦船を展開できるようになる。アフガニスタンは世界の「ハートランド」だという。ちなみに、このマッキンダーに学んだハウスホーファが、故国のドイツに帰ってヒトラー旗下の航空相ゲーリングのもとで戦闘機と戦車を用いた電撃作戦を立案するのである。

長期に亘って軍事介入を望んでいたロシアは、内乱に乗じて1979年にアフガニスタンを占領した。これでロシアはイランの東側の国境とパキスタンの西側国境を支配下に置いたのである。だが、内戦の続くアフガニスタンから1989年にはロシア軍は撤退する。その後、この国は、ビン=ラーディンとアルカーイダの問題でNATO軍によって介入され、タリバン政権は崩壊することになる。イランに対してロシアは、権力機構にとって一番効果的な方法である「征服するには分断せよ」を活用した。宗教的な分断をイランに選択したのである。イラン王朝を支配しているアメリカを追い出せば、イスラム教徒たちを小さな宗派に分裂させ、軍事的にイランを制圧できると考えていたとフラーは言う。アフガニスタンとイランとイラクの問題の核心にあるのは実はロシアの南下の問題なのである。この『クリティカル・パス』がアメリカで出版されたのは1981年であったことは覚えておいてほしい。アメリカ軍の大義なきイラク進攻は2003年のことだった。アメリカのイランに対する圧力は今もって強い。これが、ワールド・ウォー・ゲームである。訳者の梶川さんは、フラーがよく暗殺されなかったと僕に語ったことがある。

ダイマクション・スカイオーシャン・マップ
地球表面を正二十面体に投影して展開した地図

このワールド・ウォー・ゲームが生む膨大な浪費とは対照的にフラーの考えるワールドゲームは、彼が52年間継続的に開発してきた全歴史的世界資源目録と絶えずエネルギー量と時間を減少化させる技術のエフェラリゼ―ション(短命化)を前提にした生産、供給、維持、デザイン改良、世界規模の統合などを通して、かつて人類が経験したことのない髙い生活水準を達成することであった。金に金を生ませる連中と彼らの経済学者は、この地球は人間の生活を支えるには根本的に不充分であるという政治的宗教的仮説を彼らのマネーゲームに利用しているという。トマス・ロバート・マルサスの幾何級数的な人口増加への恐怖とそれに伴う貧困を論じる『人口論』やローマクラブの著書『成長の限界』がその支柱である。彼らは、お金と本当の富と同じ不変の働きとを完全に切り離してしまったとフラーはいうのである。

バックミンスター・フラーによる世界電力ネットワーク図
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーは自らが開発した最も歪みの少ない地図であるダイマクションマップを見ながら世界的な電力ネットワークを考えていた。それは、ワールドゲームにおける最優先の課題だったのである。

昼夜の時間帯において東西間の相互の電力供給を、あるいは、夏季と冬季において南北間の相互の電力供給を可能にしたい。そのことによって既存の各発電機は最も効率のよいスピードで24時間の稼働が可能になり、エネルギー効率は飛躍的に向上する。発電所はピーク時の電力需要に合わせて設定されているためピーク時以外ではそれほど使用されているわけではない。そのため、この相互供給によって発電所の数をかなり減らすことができる(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』)。ボールドウィンによれば、このプロジェクトは1996年現在、進行中であるという。

彼は、このような世界規模での統合を訴え続けてきた。それが、彼を一年に地球を七周半させることになるのである。ある国の大学で講演を行うためにその大学に到着すると、次の大学や研究施設から依頼状と航空券が送られてくる。そんな晩年の生活であった。彼はワールドゲームを中心としたデザイン・サイエンスを説いてまわったのである。フォーチュン誌などの顧問をすることによって世界の資源や経済のデータは、的確に把握されていた。電力の相互供給ネットワークは、問題解決の第一歩にすぎない。飢餓と栄養不良の問題、核兵器の廃絶費用、難民の救済費用などの諸問題は当時の全世界の年間軍事予算7800億ドルの四分の一強の予算で解決できるとフラーは試算していた。下の図をみていただきたい。

全世界の年間軍事支出と最優先課題に掛る経費
1.飢餓と栄養不良の除去 190億ドル
2.住宅供給 210億ドル
3.健康管理及びエイズの抑制 210億ドル
4.人口の安定化 105億ドル
5.土壌浸食の防止 240億ドル
6.効率的で安全、汚染のないエネルギーと再生可能エネルギーの供給 500億ドル
7.開発途上国の債務返還 300億ドル
8.安全で清潔な水の供給 100億ドル
9.森林破壊の防止 70億ドル
10.酸性雨の防止 80億ドル
11.オゾン層破壊防止 50億ドル
12.地球温暖化防止 80億ドル
13.難民救済 50億ドル
14.識字率の向上 50億ドル
15.核兵器廃絶 70億ドル
16.地雷の撤去 20億ドル
17.民主主義の確立 20億ドル
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーはこう述べる。「ワールドゲームは、もし国家によるすべての統治権が放棄されないなら、そしてワールドゲーム方式の全世界的にコンピューター化された時間‐エネルギー計算システムが直ちに開始されないならば、この地球から人類が滅び去るだろうということを明らかにしている。脱国家権力を成し遂げるための第一歩は、世界の電力グリッドの空隙を埋めることにある。世界的に統合された電力計算システムが、世界経済を経営管理するための全エネルギー計算システムの始まりとなるだろう」と。フラーにとって「時間とは、二つの出来事の間の最短距離(クリティカル・パス)である。」一方、1974年のワールド・ゲーム・セミナーでは、ペンシルベニア大学が中心となってフラーらと共に完成させた「自然エネルギーによる(風力や波力など)〈自立的再生〉を達成させる方法論である『宇宙の資源と富』を発表している。

梶川泰司は『宇宙エコロジー』の中で、バックミンスター・フラーの半世紀にわたる絶えざるデザイン・サイエンス(平均的な革命)は、現在のエネルギー変換技術で全人類が必要とする全エネルギーを太陽からの放射エネルギーと重力エネルギー(風力発電などのクリーンな発電を指している)だけでまかなうことができるという科学的証明のために、シナジェティックスを発見し概念化しながら、ダイマクションマップのような大気圏全域をナビゲーションするための地図投影法とジオデシックス、テンセグリティの予測的発見と予測的発明に絶えず集中していたと述べている。

そのようなデザイン・サイエンスには、社会主義的な計画経済という側面が強調されると考えるのは自然なことなのだが、世界の大きなジレンマに対処するための政治家の能力に彼は期待していない。アナーキストでは勿論ないが政治家を信頼していなかった。彼は、平均的な人間の創意を強調する。自分のような平均的人間にそれが可能かどうか、自分をモルモットとして実験材料にしたのである。モルモットBが彼の別名となる。次回 part2は、彼の思想の基盤となるドームやテンセグリティなどの構造体と彼が自身をモルモットにした経緯をご紹介したいと思っている。お楽しみに。

 

ロバート・W・マークス
『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』
ロバート・マークスは雑誌『エクスワイアー』編集者、『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』のコラムニスト、バンタム・ブックス編集者を務めた理学博士。

ジェイ・ボールドウィン
『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究し、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バックミンスター・フラー
『コズモグラフィー シナジェティクス原論』

 

 

藪光生『和菓子 WAGASHI』と甘性文学集『ずっしり、あんこ』

旬月神楽に特注した和菓子 筆写撮影

僕は、広島での個展の時に三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の島村幸忠さんに煎茶の茶会を開いてもらったことがある。最近ではアルルで茶会があったようだ。広島での茶会用に特別の御菓子を旬月神楽(しゅんげつかぐら)の明神宜之(みょうじん のりゆき)さんにお願いした。銀座の甘楽(かんら)で修行した人だ。そこは、豆大福とどら焼きが美味しい店である。夏の盛りでなければ東京の土産によく買って帰っている。小豆あんがいい。その明神さんの店に行った時に、テーブルの上に何気なく置いてあった文庫本が今回ご紹介する本の一つ、藪光生(やぶ みつお)の『和菓子 WAGASHI』だった。この人は、全国和菓子協会の専務理事、全日本菓子協会常務理事、専門学校の講師でもある。この業界の経営指導や広報活動に尽力されてきた方である。美しい写真と気の利いた解説付きのコンパクトな本で、店のテーブルに座って何気なく読むのにふさわしい本だと思った。しばらく、この本を軸に、虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』も交えながら和菓子の歴史を追ってみる。

藪光生『和菓子WAGASHI』

世界中どこでもそうかもしれないけれど菓子のルーツは木の実や果物だ。つまり、「果子」である。垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が「非時香具菓/ときじくのかぐのこのみ」を求め、九年の歳月をかけて常世から持ち帰ったのが橘の実だったという。上古では石榴、梨、林檎、柿などの菓菰(くだもの)の他に菰(くさくだもの)として瓜、黄瓜、茄、アケビ、蓮の実、覆盆子(いちご)などがあった。クヌギや楢はアクが強いから粉にして水に晒してアク抜きし、粥にしたり茹でるなどして食べた。「団子」の起源である。餅は古代より神聖なものだったが、景行天皇の御代に豊国氏の祖である菟名手(うなて)が豊前国(ぶぜんのくに)に来た時、白鳥が飛んできて、餅へと変わり、片時の間に芋草(米)に化したという伝承が『豊後国風土記』に記されている。

昔の甘味料は米を発芽させた「米もやし」から作られる飴で、でんぷんからつくられる。日本で発明された甘味であるようだ。もう一つは「甘葛/あまずら」で、つる草の一種であるアマチャヅルの茎を切り、切り口から出る汁を煮詰めた甘味料だそうである。『枕草子』にも「削り氷に甘葛かけて」と書かれている。当時の最高級の御菓子だと言えるだろう。

やがて、遣唐使が「唐菓子/からくだもの」を持ち帰るようになる。もち米、うるち米、麦などを捏ねたり、大豆、小豆に塩を入れて油で揚げたものなどであった。清少納言は藤原行成から鴨などの肉に雑菜を煮合わせたものを餅にくるんで四角に切った餅餤(へいだん)を送られ、自分で持って行かないのは冷淡かしらと洒落のめして紅梅を添えてお礼の文を送ったという。平安時代には上巳の節句に母子餅(草餅)、端午の節句には粽(ちまき)が食べられるようになった。和泉式部は息子の石蔵の宮に母子草を餅に混ぜた草餅を母の愛とともに送っている。(『和菓子を愛した人たち』)。草餅については、この人の文章がいい。

母子草 春の七草の一つ、御形(ごぎょう)のこと。

「写真を出してみる。若き母は、天女のようにあどけない。小豆や夏豆(そら豆)の時期はこう囃した。『ほらこの豆は、団子のあんこになってもらうとぞ、鼠女(じょ)どもにもやるまいぞ。』即興詩人だった。小さな子は鼠女どもにやるまいぞと、つけて言い、大切なあんこの、豆がらの束を担いでかけまわった。小麦も鼠も人間も、団子もあんこに同格となって、母のささやき語に出てくるのだった。‥‥その胸の内をおしはかりながら、教えてくれたとおりに蓬餅をつくる。どの季節でもない、早春の気配を聴く頃にだけ、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春との間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない(石牟礼道子『食べごしらえおままごと』。」

鎌倉時代に入ると栄西が茶の木を持ち帰って喫茶の風が起こり、菓子類にも趣向が凝らされるようになる。『正法眼蔵』の「看経/かんきん」巻には僧に出される点心、つまり、おやつとして饅頭の六・七個盛りが、羹(あつもの/スープ)と一緒に供されるとある。ただ、この饅頭は甘い小豆あんではなく一種のパンに近いものだったらしい(『和菓子を愛した人たち』)。室町時代には、羊の肉の羊羹、魚の白魚羹など48種もの羹(あつもの)類が伝えられたという。肉食は、はばかられたため小豆の粉や、小麦粉を練って羊の肉を象って汁に入れた。その汁を無くし蒸し菓子にしたものが後世の蒸し羊羹である。薬としてわずかにしか得られなかった砂糖が輸入されるようになり、菓子の味や種類、製造法に大きな影響を与えるようになる。ただ、本格的な流通には江戸後期を待たなければならない。同じ頃、南蛮菓子も伝わるようになり、カステラ、ボーロ、ビスケットなどが登場するようになる。織田信長は、フロイスにもらったガラス瓶入りの金平糖にヨーロッパへのロマンを感じただけではないのだが、フロイスに布教を許した。ちなみに茶の湯に血道をあげた豊臣秀吉、その師である千利休が好んだ菓子は、ふの焼きと言われる小麦粉を溶いてクレープ状に焼き、味噌をぬって巻いたものであったという(『和菓子を愛した人たち』)。

金平糖 斜めに回転する鍋の中で砂糖蜜を少しずつかけながら結晶を大きくしていく。

金平糖と言えば、時代がかなり下るけれど寺田寅彦の研究材料として知られている。「金平糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい」と述べているという(『和菓子を愛した人たち』)。日本の金平糖は、南蛮のものとちがって二週間もかけて角を成長させて行く。角が生まれるのは、初めの偶然できた凹凸の尖った部分が凹んだ部分より早く成長するためであるという。ちなみに、昨今では結晶の生成は確かオートポイエーシスの第一領域と呼ばれていたと記憶している。

江戸時代に入ると、平和な時代が続き、生活も安定してくる。菓子の需要も高まり、参勤交代などでの江戸と地方との交流によって全国的な菓子文化の発展に繋がっていった。落雁、饅頭、胡麻餅、外郎、羊羹、葛餅、草餅、松風、唐錦、求肥など現在まで知られる菓子がその製法書に掲載されるようになる。求肥は白玉粉や羽二重粉などの上質な餅粉に砂糖や水あめと水を加えて加熱しながら半透明になるまで煉ったもので和菓子の生地になる。

煉りきり『もらい水』旬月神楽製

練りきりあんは白あんにこの求肥をつなぎに混ぜたもので、色々な形にアーティスティックに造形されるのがたまらない。はさみ菊などは芸術品といってよい。木型に入れてかたどるものとヘラなどを使って形作る「手形もの」とがある。ただ、形を細かく作るのに拘りすぎると、どうしても材料を固くしなければならないので食べるに適した硬さでなくなってしまう場合もあるとは明神さんの言葉である。親方から弟子へ、先輩から後輩へと受け継がれてはいくのだが、作り手が異なれば微妙に形も異なるものだという。手作りの技には「二つと同じものが作れない面白さ」と同時に「二つと同じものが作れない怖さ」が同居している藪さんはいう。

外郎(ういろう)はうるち米、もち米といった米粉、小麦粉、ワラビ粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る。四代将軍家綱の頃に寒天が生まれ、あんに小麦粉や葛(くず)粉を混ぜて蒸し固める蒸し羊羹から、あんを型に流し込んで寒天で固める煉り羊羹が発明される。寒天の量が少なく、柔らかいものが水羊羹である。

白小豆羊羹 筆者撮影

夏目漱石は『草枕』の中で、主人公が、宿の若奥さんから御茶を出される場面でこう書いてる。「『ありがとう』またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑なめらかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉(ぎょく)と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔(やわらか)だが、少し重苦しい。ジェリは、一目(いちもく)宝石のように見えるが、ぶるぶる顫(ふるえ)て、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である(『草枕』)。」これなど玉露を飲む時の描写と双璧して卓越なものだと思う。羊羹を描いて、青磁と玉のイメージを借り、その姿を褒め称えているのだ。

この漱石の羊羹を受けて谷崎潤一郎はこう書いている。「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。‥‥だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる(『陰翳礼讃』)。羊羹には神秘性があるのかもしれない。

川原慶賀「小豆図」
江戸後期の画家。シーボルトの依頼で日本の動植物や風俗を描いたことで知られる。

和菓子で最も重要な材料は小豆と砂糖であろうか。大きさの比較で大豆に対して小豆であろうという。小豆を食べる習慣があるのは日本、韓国、中国、台湾などの東アジアの一角に限られているようだ。それは「陽力」のある食べ物であり邪気を祓う力があるとされた。品質の良いものは丹波、備中、北海道などでとれるものである。日中に温度が一定以上になり、夜間はすっと涼しくなるような昼夜の温度差がある地域が最適である。丹波などでは山間部で栽培されるようだ。小豆の成分は57パーセントが澱粉である。その澱粉は、ちょっと変わりものであるらしく、澱粉粒四~五個をセルロース系の食物繊維が包んだ「あん粒子」と呼ばれる特殊な粒子であるらしい。一見して粘り気があるようだが、食べてみると口の中でさらりと溶けるのはこの粒子の働きであるという。大豆系の豆には、この粒子はない。白あんの原料は白いんげん豆で、中でも「手亡/てぼう」がよく用いられる。いんげんは蔓性で栽培に支柱がいるのだが、手亡は半蔓性で支柱がいらないのでこう呼ばれた。独特の粘り気と風味を持つ豆であるという。豌豆はうぐいす餅の原料になる。

小豆は開花して実をつけると小さな莢(さや)をつける。豆が大きくなるまでには開花後四十日くらいかかる。その頃収穫されるのがよい。しかし、開花は一月から一月半に及ぶので、早く実になるものも遅くなるものもある。同じ畑でも未熟なものや乾燥しすぎてしまったものなど実の状態は様々である。それで、適期に収穫したものか、遅れて収穫したものかによって品質が異なる。土壌や畑の立地によっても品質は微妙に変わる。それを粒の大小などの異なるものを選別して同品質に近づけるわけである。それでも品質にはバラつきが出る。その年の日照時間や天候によって今年と去年とは異なってくる。

豆の表皮にある苦み成分サポニン、渋み成分タンニンは隠し味のように小豆の風味の一画を占めるのであるが、生育要因によって量に違いが出る。それを除去する作業を「渋を切る」という。小豆を炊いて、茹で汁を捨てる作業を三~五回繰り返す。沸騰が始る前に切るのか、沸騰してから切るのか、沸騰後何分で切るのか、職人によって異なると藪さんはいう。これが、あんを百人が作れば、百の味になる理由であるという。職人はそれらの困難を乗り越えながら変わらぬ味を作り出していると言うのである。

汁粉(小倉あん)

あの痩せた姿からは想像しにくいのだけれど芥川龍之介は、しるこファンだった。関西では、しるこは漉しあんで作り、ぜんざいは粒あんで作るという区別がある。「僕等はもう広小路の『常盤』にあのなみなみと盛った『おきな』を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少なからぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にも少なからぬ損失である(芥川龍之介『しるこ』)。」上野の常盤屋という店のなみなみと盛った「白あんのどろっとした小倉しるこ」を二杯食するのが通例だったという。これは、ちょっと凄いかもしれない。つまり、白あんのぜんざい好きだったというわけだ。それで、関東大震災以来、しるこ屋が減ってカフェばかりになっていくことを嘆いている。

これも想像し難いことなのだけれど、森鷗外は、意外なものが好きだったみたいで、饅頭を四つに割って御飯にのせ、煎茶をかけておいしそうに茶漬けにして食べていたと娘の茉莉さんが書いている。子供たちも真似して食べていたというのだ。その他に、焼いた餅を醤油にひたして、それをご飯にのせ、ほうじ茶や番茶をかけて茶漬けにしていたという(『和菓子を愛した人たち』)。変った茶漬けが大好きだった。里の津和野の習慣なのかしら。津和野の人に聞いてもみたいのだが、聞いたらしかられるかもしれない。そういえば、私の祖母は孫の自分たちに正月過ぎて、雑煮も飽きた頃、あん餅を白味噌仕立ての雑煮にしてよく食べさせてくれていた。関東にはない風習ではなかろうかと思う。そんな不味そうなものと思う方もいるかも知れないが、これが美味い。ちょっとくるみあんの餅を食べるような感覚になる。嘘だと思う人は一度お試しあれ。

砂糖にはあまり知られていない優れた特性があるらしい。この『和菓子 WAGASHI』を読むまで知らなかったのだけれど、甘みという美味しさの他に保水性という重要な特質を持っている。水分の蒸発を防ぐと同時に、そのものに含まれる水分が砂糖に取り込まれると自由に動くことができなくなるのである。自由に動き回れる自由水があると菌の発生や繁殖の原因となるという。砂糖を用いることによって和菓子の水分活性を抑え、一般生菌などの繁殖を防ぐのである。砂糖はサトウキビや砂糖大根(ビート)を搾って蜜にし、不純物を除き精製したものであることは皆さんご存じだろう。

沖縄の黒砂糖はよく使われるが、貴重な砂糖として知られるのは和三盆である。江戸時代の後期から作られるようになる。竹糖(ちくとう/通称ほそきび)と呼ばれるかなり細めの特殊なサトウキビであるらしく、花が咲かない。沖縄では地下茎を残しておけば来年そこから芽が出る。北限の徳島あたりでは寒いので一度根っこから抜いて土の中に寝かせておくと節に芽が出るので来年それを植えるのだと言う。だから、その年に植えなかったら種黍がないので来年作ることができなくなる。そのサトウキビを機械で搾って煮詰める。アクを抜かないと白い砂糖にならないので蒸気でふかしてアクを吹きこぼしてキャラメル色の白下糖(しろしたとう)を作る。もともと冬の農閑期での仕事だった。

その白下糖を布に包んで手水をつけ、押し搾る「研ぎ」と呼ばれる作業が行われる。槽(ふね)と呼ばれるかなり大きな台で搾るのだが、昔はお盆を使って最低三回やったので三盆糖と呼ばれた。のちに外来の三盆白というような砂糖と区別するために和三盆と呼ぶようになったのが名前の由来であるらしい。水あめ状の糖蜜を搾り切った板状の砂糖を砕いて乾燥させると砂糖になるのである。面白いのは、これらの作業ができる人たちはサトウキビ畑のある里の人ではなく、山あいから冬の間だけ出稼ぎにくる人たちなのだ。白下糖までを作るのが「締(し)め子」、酒造りの杜氏(とうじ)に匹敵するという。研ぎを専門にするのが「研ぎ師」と呼ばれる。その数は数えるほどになりつつあるという。詳しくは、塩野米松著『最後の職人伝』〈人の巻〉をご覧になるとよい。ちなみに、金沢の長生殿はこの和三盆と北陸産のもち米を原料に木型で固めて作られる最高級の落雁である。

三つ食えば葉三片桜餅 虚子

長命寺桜餅 道明寺桜餅と同じく江戸時代からある。

桜餅は僕の大好きな御菓子の一つだけれど、若い頃、東京の御菓子屋で全く異種の桜餅を見てカルチャーショックを受けたことがある。米粉にはいくつもの種類があり、日常食べるお米、つまり、うるち米を生のまま粉にしたものが「上新粉」で柏餅、草餅、団子に使われる。もっと細かく挽いたものが「上用粉」で、薯蕷(じょうよ)饅頭や外郎(ういろう)の材料になる。蒸して加工する米粉もある。うるち米を水洗いして水に漬け、水切りして蒸す。蒸した後、乾燥させて砕いたものを「道明寺粉」という。これは、大阪の道明寺が発祥の地で、「道明寺糒(ほしい)」として戦国時代には兵糧食になった。水にもどせば食べられたのである。これを桜餅に使ったのが道明寺桜餅だ。しかし、桜の葉で巻かれているのは同じだが全く異なる桜餅があったのである。長命寺桜餅と呼ばれるもので、皮は小麦粉に米粉を加えて水に溶いて薄く焼き上げたもので、それであんを巻く。こんな桜餅もあるのかと驚いた。関西にはない。

芋坂も団子も月のゆかりかな 子規

杉田淳子、武藤正人 編『ずっしり、あんこ』

東京は日暮里のあたり、谷中から根岸に向う坂は芋坂と呼ばれて文政二年創業という有名な茶屋があるらしい。田山花袋の揮毫による「羽二重団子」の扁額が飾られ、店の横には正岡子規の句碑が建てられているという。団子の肌理の細かさから羽二重団子と呼ばれた。きっと白い絹を思わせるような生地なのだろう。その団子のことを司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、あるいは夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で書いている。団子は、漉した小豆あんをのせたのと生醤油に浸けて焼いたものしかない。もともと茶屋だったからビールと酒が置いてある。

『小説仕事人 池波正太郎』を書いたエッセイストの重金敦之(しげかね あつゆき)は、焼き団子で日本酒というのは悪くないという。続けてこう述べている。「じりじり色づいてきた団子を、片手に十四・五本すくい取って、もう一方の手には団扇がある。きびきびした手際の良さに感心しているうちに、お客が入ってくる。‥‥羽二重団子は庄内産のササニシキを使っている。もち米ではなく、日常食する『うるち米』だ。自分のところで製粉し、お湯でこねたものを蒸気で蒸す。火をつけるのは毎朝四時だ。蒸し上がった餅状のものを搗く。‥‥搗くことによって腰の強さと粘りが出てくる。そうでないと、口にしたとき歯のまわりにまとわりつくような「歯ぬかり」のする軟弱な団子になってしまう(重兼敦之『「羽二重団子」で日本酒を飲む』)。」

ちよっと面白い本を見つけた。〈美味しい文芸〉『ずっしり、あんこ』という主に文学者たちが描いた甘いものについての文章を集めた本だ。感性鋭いだけでなく甘性も十分ある、なかなか興味深い文章が集められているのでご紹介したくなった。上の文章の石牟礼道子、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、重金敦之の文章はこの『ずっしり、あんこ』からご紹介した。この中にある安藤鶴夫の『たいやき』も面白い。僕の種本である。

僕は酒は全く飲めない、というか受けつけない。生醤油をつけて焼いた団子と日本酒を一緒にするとどういう味になるのか試してみることができない。人生の喜びの半分は失っているなどと言われたものだが、本人はちっとも残念だと思っていない。好きでもないからだろうか。酒については、かなりうるさい御仁が知り合いにいる。一緒に食べに行くと彼は、ぐい飲み片手に酒について一家言始まる。この人「マッサン」で知られるようになった竹鶴の杜氏(とうじ)なのだ。ゲストで何か書いてもらうのも面白いかもしれないと思っている。

 

その他の参考図書

虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』
京都・東京の老舗虎屋が菓子に関する資料や調査などをまとめた文庫。どちらかというと歴史的な視点に立った和菓子を愛した人々の紹介になっている。

塩野米松『最後の職人伝』
数少なくなった職人の手業を取材した秀逸な著作である。特に魯・櫂と和三盆の製法は興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和菓子作りの動画は「はさみ菊」などの華麗な技を映像にしたものもあるのだけれど、ただ、餡を練りきりに包むだけという、この基本技の凄さを見ていただきたいと思う。

 

 

 

ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part2 ヘレニズム化、死海文書、正典の確立

アレクサンダー大王の突然の死去の後、その帝国の一部であるエジプトは、部下であったプトレマイオス一世によって統治される。ギリシア人によってエジプトは支配されるようになるのである。前331年ナイルのデルタ地帯の西に建設されたその名もアレクサンドリア。ファロス島の灯台と図書館で世に名高い都市である。世界貿易の中心地であり、ギリシア人のほかにユダヤ人や多くの外国人たちが流入し始めていた。この王立図書館は前三世紀には世界の知の中心であり、講堂、会議室、庭園を備えた図書館は、ムセイオンと呼ばれた大型学術研究所の一部だった。長らく近東世界最大の知の宝庫、学識の象徴であった。そのような図書館にヘブライ語の聖書が蔵書としてないことに不満を感じるユダヤ人たちがいたことは想像に難くないと筆者であるカーギルは言う。今回もロバート・カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』からプロットしてみたい。

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

70人訳聖書

前三世紀から前二世紀にかけてユダヤ教は益々ヘレニズムの影響を受けるようになっていたが、ユダヤ人の歴史や宗教に関する事柄を世界的名著に加える価値があるとは考えられていなかったという。しかし、ユダヤ教徒の中にはギリシア語で読み書きできるものが増え、そのような学識あるユダヤ教徒の律法学者の中からヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳する者が現われるようになる。それが70人訳聖書と呼ばれるものであった。前250年頃から約150年の歳月をかけて翻訳され、概ね正確な版を完成させたといわれている。ただ、翻訳の過程で部分的な加筆、削除、解釈の変更は誤訳も含めて何百か所に及ぶといわれている。言い添えるけれど、翻訳に誤訳は避けられない。とりわけヘブライ語の翻訳は難しいとされている。この70人訳聖書には、従来のヘブライ語聖書になかった文書も含められた。それらは、後に聖書外典の名で呼ばれるようになる。この70人訳聖書は前一世紀から紀元後一世紀までユダヤ人にとって実質的な聖書であった。

前125年前後に書かれたと言われる『アリステアスの手紙』は、エジプトを支配したギリシア人であるプトレスマイオス一世の息子、プトレマイオス二世フィラデルフォス(前285-前246)の宮廷人であり異教徒だったアリステアスが兄弟のフィロクラテスに手紙を書き送るという体裁になっていて、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳される経緯が書かれている偽書である。アレクサンドリア図書館長のファレロンのデメトリオスが王に向ってユダヤ人の律法も転写してあなたの図書館に入れる価値があると進言するという架空の話から始まる。蔵書にヘブライ語聖書を加えたいと思った理由から書き起こされるのである。王がギリシア語への翻訳を命じる勅令を下し、ユダヤの12部族から各6名の翻訳者が二人一組になり72日間かけて律法(ト―ラー)を翻訳し、一言一句違わぬ翻訳版を36部作ったという展開になっている。この偽書の目的は、このギリシア語訳が申し分なく、敬虔になされ、現在の形を保持し、改変を加えないことが適正であることをユダヤ人たちに納得させることにあったようだ。

ギリシア語訳された70人訳聖書は、紀元後70年にローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ教徒の間に宗教的な伝統を守りたいという欲求が高まるに応じて人気がなくなる。一方ユダヤ教色の薄いギリシア語翻訳版はキリスト教徒に好まれていたが、それもラテン語聖書に取って代わられるのである。しかし、70人訳聖書が読まれた時代には、新約聖書の著者たちは、ギリシア語訳の本文がヘブライ語聖書の新解釈を導入する助けになると気づいたという。本書ではそのような二つの例が挙げられている。

紀元前8世紀のカナン付近

一つは出エジプト記13-15章でアラビア半島とアフリカ大陸を分断する大海を渡ったとされる場面であるが、この水域のヘブライ語名はヤム・スーフ「葦の海」であり、紅海とは訳せない言葉になっているという。訳者たちは、他の箇所で「葦」と「紅」の違いを訳し分けているから誤訳とは考えられない。当時はシナイ半島とエジプトを分断する水域を「紅海」と呼んでいたというから、何処だか分からない「葦の海」を「紅海」に置き換えた可能性がある。これは宣教の効果を考える上では重要であったかもしれない。もう一つはイザヤ書に登場する「おとめ」という一つの言葉だった。

それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる (イザヤ書7:14-16)。

このおとめはヘブライ語のアルマー、適齢期の女性を意味する。それを70人訳聖書ではギリシア語のパルテノスという単語で訳した。これは処女を意味していたのである。それゆえ、これを範とした新約聖書のマタイ福音書では、奇跡の懐妊を果たし、インマヌエルつまり「神はわれらとともにある」という神の化身を出産するマリアはパルテノスとして描かれたというのである。おそらく、この「おとめ」は聖母マリアの予型とされているのではないかと僕は思っている。予型についてはノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表に書いておいた。予言者イザヤはアハズ王のもとに赴き北王国(イスラエル王国)とアラム・ダマスコの同盟軍に対して、ダビデの血を引く次なるメシアが出現して再びユダヤ人は救済されるという預言を行った。そのおとめが身籠るメシアとはアハズ王の息子ヒゼキアを指している。アハズ王の時代ユダは持ちこたえるが、息子のヒゼキアの時代、前701年頃にエルサレムは新アッシリアに包囲される。その時イザヤは再び予言を行った。

エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。それゆえ/主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも/盾を持って向かって来ることも/都に対して土塁を築くこともない (イザヤ書 37:32- 33)

こうしてユダ王国とエルサレムは苦難をのりきるのであるが、後の前一世紀から後一世紀にかけての多くのユダヤ人はギリシア軍やローマ軍の圧政に苦しんでいて、イザヤ書のような預言書を読み返しては、現状のへの不満と悲しみを慰撫していた。70人訳聖書はそのような状況の中で読まれていた聖書なのであった。ちなみに現在の新共同訳聖書では「葦の海」「おとめ」共にヘブライ語旧約聖書のままとなっている。

『テオーシス』田島照久・阿部善彦編
著者 土橋茂樹、谷隆一郎、袴田渉、松村康平 他
「プラトン主義と神化思想の萌芽」収載
著者の一人である松村氏から寄贈いただいた。この場をお借りしてお礼申し上げたい。

プラトンとプロティノスの聖書への影響

ヘレニズム化されるユダヤ文化に浸透していったギリシア哲学の内でも、とりわけプラトン主義と新プラトン主義の影響は大きかった。プラトン主義は、影にすぎない物質界とその原型たる超越的な世界、つまりイデア界の存在を明確に区分する。そして、プラトンの著書『ティマイオス』にはこう述べられている。「神的なものについては、神自身が、その製作者となったのですが、死すべきものの誕生のほうは、その製作を、自分が生み出した子供たち(神々=天体)に命じたのでした。そこで、神の子らは父に倣って、魂の不死なる始原を受け取ると、次には、そのまわりに死すべき身体をまるくつくり〔=頭〕、それに乗り物として身体全体を与えたのですが、また、その身体の中に、魂の別の種類のもの、つまり死すべき種類のものを、もう一つつけ加えて組み立てようとしました(種村恭子 訳『プラトン全集12』)。」ここで、注目してほしいのは死すべき人間の魂は不死のものと死すべきものとに分けられて構成されたとしていることである。

最近、『テオーシス』というとってもいい本が出版されて、これも嬉しかったのだけれど、プラトンやプロティノスのギリシア哲学を起点としてキリスト教における東西教会(主に西方教会)の神化思想とその歴史的変遷を扱った本なのである。キリスト教へのギリシア思想の影響を知る上で貴重な本と言える。グノーシスもキリスト教との関係は濃密なのだが、それについては又の機会にご紹介したいと思っている。「テオーシス」とは一言でいうと「神に似ること」である。この感覚的な俗世から諸々の徳の理想的な範型へと「魂の向け変え」を行い、その観想によってなされる自身の浄化と倫理的徳の実践こそがプラトン(前427-前347)における「神に似ること」であったのである。プラトンのいう魂の不死性が、神に似たものになりゆく〈人間の生〉の永続性への根拠とされていたのではないかという(土橋茂樹「プラトン主義と神化思想の萌芽」)。

ユダヤ人であり、プラトン主義に通じたフィロン(前25-後50)によってプラトンのイデアとヘブライの神が結び付けられる。彼はギリシア化される離散ユダヤ人がユダヤ教から離れて行くことを懸念してモーゼ五書を含む旧約聖書注解をストア派的に寓意化して注解を作ったといわれている。ストア派は普遍的理性たるロゴスの理解を重視し、道徳的、倫理的幸福を追求した。一方で、彼は、プラトンの言う「神に似ること」を正確に受け継いでいたという。プラトンにとって宇宙が、善のイデアの統合体たる〈理性の対象〉の似姿(エイコン)であったように、フィロンにとって、人間は神が御自身にかたどった〈神の像〉の似姿、つまり写し〈像〉であった。人間は〈神の像〉の像ということができる。彼には、絶対的な神に人間が直接似ることは不可能と思われた。それゆえフィロンは、イデア全体をも表す神の思考の働きとしての〈ロゴス〉を神の像の知恵としたのである。神に似るためには、〈神の像〉としての〈知恵〉や〈ロゴス〉という媒介を必要とすると考えられるようになった(土橋茂樹「同上」)。

プロティノス(205?-270)

やがて、プロティノス(204-270)の新プラトン主義によって、この神化思想は、より大きな発展を遂げる。被造物は〈一者〉と呼ばれる唯一の存在から流出する過程で全てが生み出される。それは、万物の源であった。そして、彼はプラトンの主張を受けて『エネアデス』においてこう述べている。「プラトンは『神に似ることは、この世から逃れることである』と言ったり、日常の市民生活に関係している徳を、何の制約もつけずに〔徳〕と呼ぶようなことをしないで〔市民的な〕という言葉を付け足したり、また別のところでは、〔徳〕を浄化と呼んだりしているが、この場合、彼がすべての徳を二通りに分け、〔神に似ること〕を市民的な徳によるものとはみなしていないことは明白である(土橋茂樹 訳)。」プロティノスにとって〔神に似ること〕は、もはや倫理的実践の問題ではなく、一者への帰還であり、神との合一という神秘学的な問題へと移行するというのである(土橋茂樹「同上」)。

プロティノスが〈一者〉と呼ぶ存在と万物の源となる神聖な唯一の存在である神とは同質のものとして結びつけられていったのであろう。それは、キリスト教側からのアプローチであったと思われる。カーギルによれば、プロティノスの高弟テュロスのポリフュリオス(234-305)は『キリスト教徒駁論』を書いて、キリスト教を攻撃し、コンスタンティヌス帝から発禁処分を受け、後には焚書処分にもされているという。ともあれ、神化思想は、パウロにおいて神とキリストが同一化され、ニュッサのグレゴリオス(335頃-395頃)によって「神に似たものになること」は「キリストに似たものになること」に置き換えられ、偽ディオニュシオス・アレオパギタにおいて徹底的な自己無化による神との合一という神秘主義へと変遷していった。エピクロス派、犬儒派やストア派などのギリシア哲学の影響は part1 で述べたけれど、とりわけ、このプラトンやプロティノスの思想を受けてユダヤ・キリスト教思想は深化の度を深めてゆき、世界宗教としての風格を備えてゆくのである。さあ、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

死海文書発見の意味

死海北西部沿岸のクムラン廃墟と呼ばれる古代の住居跡、その付近にある泥灰土の崖にいくつかの洞窟があった。1946年の冬か47年の初め、そこから当地の牧夫が主にヘブライ語で書かれた羊皮紙の巻物を発見する。内容は紀元前1世紀ころ書かれたのではないかとされるもので、イザヤ書の写本、ハバクク書の注解、「共同体の規律」と呼ばれる「宗規要覧」であったが、さらにアラム語の外典創世記などの計七巻が発見される。この四つの巻物は古物商やシリア教会の大主教などの手を経てアメリカで競売にかけられ、既に購入されていた三巻とともにイスラエルにもたらされた。後には、この11の洞窟群から多くの断片が発見され、羊皮紙やパピルスなど書かれた写本の断片的な文書類は約800点にものぼったという。それらが死海文書と呼ばれるものである。概ね紀元前三世紀から後一世紀の時代のものであることが分かっている。

多くのゴシップや憶測を呼んだこととは別に、この死海文書の発見によって聖書研究はおおきな転換点を迎える。新約聖書ができる直前の旧約聖書の有様を垣間見ることができるからである。巻物の本文は90パーセント以上が従来の聖書の内容と同じだが、食い違う部分がある。つまり、旧約聖書の本文は部分的な書き換えがあり、長年にわたり変化してきたことの証しだと著者は述べている。

ジェームス・C・ヴァンダーカム
『死海文書のすべて』

死海文書の著作として定評のあるジェームス・ヴァンダーカムの『死海文書のすべて』によると、このクムランに住んでいたグループはパレスチナにおけるエッセネ派運動から派生した小さなグループであろうという。テオーシスの所でご紹介したフィロンやユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37-100頃)はエッセネ派の数をおよそ4000人としていることから、クムランに定住していたのは150から最大300人程度と推定している。エッセネ派というのはファリサイ派やサドカイ派などと同じくユダヤ教のグループの一つだが、サドカイ派は死者の復活を否定し、エッセネ派とファリサイ派は死者の復活を信じたという。

発見された「宗規要覧」から、このグループが神なき輩から自分たちを分かつことを求められ、イザヤの預言を成就するために荒野に入る、その目的が「律法の研究」であることが分かっている。写本の他におびただしい数の注解が同時に発見されていた。『死海文書のすべて』の執筆時までに明らかにされた写本で数の多い順に挙げると、詩編36本、申命記29本、イザヤ書21本、出エジプト記17本、創世記15本、レビ記13本となっていて、他はいずれも10本に満たない。詩編が多いのはそれが預言書として考えられていたからで、このクムラン共同体には終末の日の到来が強く意識されていて、自らの行動は最も厳しい戒めに合致したものでなければならなかったという。特筆すべきは「アロンとイスラエルのメシアたち」という二人のメシア信仰があったことだ。エッセネ派の生活習慣がキリスト教徒のそれとよく似ていることは専門家たちが指摘しているところだが、新約聖書の登場人物とクムラン共同体に関わる人物との関係は確認されていない。ヴァンダーガムは、初期キリスト教がそれを育んだユダヤ的な土壌に深く根ざしていることを死海文書は教えてくれると慎重な見解を述べている。

クムラン第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 部分

聖書のヘブライ語テキストには 、何世紀にもわたって細心の注意が払われて転写され、誤りをチェックされてきた伝統的写本であるマソラ本が存在していたのだが、転写されると古いものは処分されてしまうため、現存する最古のものは895年に筆写された「預言書のカイロ稿本」と925年頃完成した「アレッポ稿本」となっている。つまり、碑文などにある文章を除けば実物としてある聖書のテキストとしては、死海文書が最古のものということになるのである。

マソラ本とそれより1000年古い死海文書のイザヤ書とを比較した時、ほとんど違いがなかったと言われる。だが、マソラ本と70人訳聖書が一致せず、70人訳聖書と死海文書とが一致する場合もある。エレミア書は、70人訳聖書ではマソラ本より八分の一短いが、死海文書の六つの写本のなかには両方の長さのタイプのエレミア書があったのである。サムエル記のゴリアテの身長がマソラ本では約2メートル97センチ、70人訳聖書では2メートル6センチとなっていて約90cmの差があるが、死海文書では70人訳聖書と同じになっている。しかし、ダビデとゴリアテの物語は70人訳聖書で33節、マソラ本で58節費やしていて、長さに差があり、死海文書版のテキストではマソラ本と同じく70人訳聖書より長くなっているらしい。これらのことは、一部であるかもしれないが、70人訳聖書がマソラ本とは異なるヘブライ語テキストを使っていた可能性があるということなのである。それに、マソラ本と70人訳聖書には落ちていて死海文書にしかみられないサムエル記のパラグラフもあるという。

正典の確立へ

再びカーギルの著作に戻る。前49年にカエサルがルビコン川を渡り、翌年ファルサロスの戦いでポンペイウスに勝利すると、エルサレムの南、イドゥマヤの長官であったアンティパトロスは、ポンペイウスからカエサルに鞍替えして、後に初代ユダヤ総督に就任する。前43年にアンティパトロスが殺害されると、息子のヘロデがユダヤ王となった。ローマに就いた裏切り者の評判はさんざんなものだ。ヘロデの死後、王国は三人の息子とヘロデの女きょうだいの支配下に置かれる。この一世紀と二世紀初頭が新約聖書形成に寄与した時代である。イエスの誕生、総督ピラトゥスとへロデ・アンティパスの前でのイエスの裁判と受難が語られ、パウロの手紙がローマの領土に新設された教会に送られ、帝国全土の新しい教会を教導するため、パウロの名で牧会書簡が執筆される。新約聖書の誕生は、完全にローマ帝国での出来事であるとカーギルは言う。

破壊されたユダヤ第二神殿の西側の外壁 「嘆きの壁」と呼ばれる。

ユダヤ教徒と新興のキリスト教徒、そしてお粗末なローマの総督ポンティウス・ピラトゥスとの間の政治的緊張は66年のユダヤ教徒の叛乱に発展し、いわゆるユダヤ戦争が起こる。ローマ軍は70年にエルサレムの第二神殿を破壊した。そのため離散したユダヤ教徒は宗教活動に神殿を必要としないものに変えざるを得なくなる。律法を中心においたファリサイ派がユダヤ教の主流となっていった。神殿の喪失はユダヤ教徒とキリスト教徒にとって決定的な分かれ目になったという。第一神殿の破壊がヘブライ語聖書の編纂を催したように、第二神殿の崩壊は新約聖書の大部分とユダヤ教の最初の口伝集成であるミシュナを生んだというのである。先ほどの『死海文書のすべて』を書いたヴァンダーカムによれば、新約聖書は、ギリシア語で書かれていて、イエス自身はアラム語や多分ヘブライ語を話したが、「タリタ・クミ/娘よ、起きなさい」のような二、三のアラム語はギリシア語に音記されているという。

ハギア・イレネ教会 初期の総主教座 コンスタンティノープル
オスマン帝国時代はトプカピ宮殿の倉庫として使われた。

コンスタンティヌス大帝(272-337)が313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した後、キリスト教徒間の宗教的正統性を確立し、正統な教令の成立を目指して公会議を招集する。それがニカイア公会議であり、そこでキリスト教徒が「正式に」何を信仰するか定式化されたという。帝国の首都がコンスタンティノポリスに遷都されるとコンスタンティヌス帝はカイサリアのエウセビオスに帝都の主教アレクサンドロスが用いる聖書50部の作成を命じる。このように聖書の需要が高まってくれば、聖書としてどの書を選択するかを迫られることになる。イエスや使徒の教えに神学理論を根付かせようとしても引証するテキストがバラバラでは教会指導者にとっても問題だったのである。

367年にアレクサンドリア総主教アタナシオスは、ヨハネ黙示録を含めた27書の新約聖書正典目録を提示した。後の新約聖書正典となる全書を含む最初の目録であった。四世紀末にはローマ教皇ダマスス一世がヒエロニムス(347-420)に聖書のラテン語訳を依頼する。これが後のウルガータ聖書である。このラテン語訳には新約聖書の二十七書が収められ、この形が正典となった。しかし、旧約聖書については、ヘブライ語聖書か70人訳聖書をとるかで迷った。結果、ヘブライ語聖書をとって70人訳聖書にある他の書を外典としたのである。だが、ヒエロニムスは後に外典に関する考えを変えたという。翻訳者でさえ気持ちの揺れがあったというのだ。この外典をカトリックは第二正典として受け入れ、プロテスタントは受け入れなかった。

グーテンベルク聖書 1847年にアメリカにもたらされたグーテンベルク聖書のコピー

初期教会は、まず何を信じるか決定した後、その信条を指示するキリスト教文書を選んだという。初期キリスト文献や教会公会議の資料がそれを裏付けているという。正典と呼ばれた目録は驚くほど多く、意見の一致を見るのは四世紀の終わりだというのだ。教会発足後四世紀にわたる人間の解釈と議論の積み重ねが聖書をつくりあげたのである。

先ほどの『テオーシス』の中で筆者の一人である田島照久はニカイア公会議から第二コンスタンティノポリス公会議にいたる初期の公会議は「受肉論」すなわち「キリスト論」をめぐる戦いであったという。イエス・キリストは完全な神であり、同時に完全な人間であること。神性と人性という二つの本性を担い持つのは子というペルソナであり、この二つは融合せず、変化せず、分割せず、分離することなく存在する(『テオーシス』「総序」)。つまり、神とイエス・キリストとの関係はどうなっているかを議論したのである。

神化が人間において確実に起こることが保証されるためにはイエス・キリストがわれわれと同じ人間でなくてはならなかったし、逆にイエス・キリストが神でないのならペトロの約束する人間の神化、つまり、われわれ人間が不滅性と不死性を得て神に似た者(神の子)になるなどということは望むべくもないことになる。人間が神の神性にあずかり「神の似姿」を成就するという「テオーシス」の思想と神人イエスの教義である「神の受肉」の思想とがキリスト論を支える根本動機であったという。「テオーシス」は東方のギリシア正教会においては思想的伝統となったが、西方のローマ・カトリック教会においては堕罪・贖罪・十字架という方向性が強調されたため伝統的に継承されることはなかった。だが、それは後のグレゴリオス・パラマス、マルグリット・ポレート、エックハルト、タウラーたちからイグナチオ・デ・ロヨラにいたる修道者たちの思想に散見されることになるのである。

 

その他の参考図書

プラトン全集12「ティマイオス」「クリティアス」

モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』 アレクサンドリア図書館に関する広範で内容ある歴史書であり、お薦めしたい。

 

ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part1 聖書の神・文字・編集

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

こんな本が欲しかった。聖書が、いかに書かれたのか、その歴史的変遷が聖書にちなんだ都市毎にまとめられた本である。日本では2018年に出版されたようだ。この本では、歴史における時間軸の上を滑走するのではなく、東地中海沿岸地方を中心とした都市というトポスで区切って聖書との関わりを書いている。いいアイデアかもしれない。それほど線形には描けない飛び飛びの歴史を書くには、恐らく、その方が書き易かったこともあるのではなかろうか。聖書を形成した各都市が、今日のわたしたちの実際の聖書本文に最終的にどのような影響を与えたかを考察することが本書の目的であるという。著者には悪いのだけれど、僕は都市よりも聖書の成り立ちの経緯をご紹介したいと思っている。大乗仏教経典の成立などについても、このような一般向けの著作があるといいのだが。

本書は、主にヘブライ語聖書、つまり旧約聖書について書かれている。イエスが聖書を引用する場合は、旧約聖書からであり、キリスト教聖書の約75パーセントを旧約聖書が占めるからである。ヘブライ語の旧約聖書は、各分派によって基本的には同じでも少しずつ異なる内容のテキストが存在したということが死海文書の発見などによって明かされた。どのテキストのどの文書を正典にするかキリストの死後200年以上たっても、議論は続いていたという。教会発足後、四世紀に亘る人間の解釈と議論の積み重ねが聖書を作り上げたと著者は言うのである。以前に文学における聖書というテーマでノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表お送りをしたけれど、今回は歴史における聖書をテーマとしたい。

ロバート・R・カーギル
アテネのアレオバゴスに立つ(本書より)

著者のロバート・R・カーギルは、カルフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得し、アイオワ大学で古代近東の考古学と聖書の本文との関連について研究している学者である。CNNテレビで聖書や死海文書などについての番組の司会を度々務めていて、日本語に翻訳された本としてはこれが最初のものである。

本書の成り立ちが面白いのだけれど、2004年に女優のニコール・キッドマンに、ある大学で担当した「旧約聖書入門」講座の個人授業を頼まれたという。キッドマンと言えばヴァージニア・ウルフを演じた『めぐりあう時間たち』の名演を思いだすのだが、その講義は『奥様は魔女』の撮影場所にあるトレーラーハウスで行われたらしい。僕は子供の頃、サマンサ・モンゴメリー主演のテレビドラマ『奥様は魔女』をずっと楽しみに見ていたけれど、あの魔法をかける時の唇の動きの不可思議さと魅力に感じ入り、自分で真似るのだが、いっこうに同じようにはできなかった。それで、この人はやはり魔女なのだと思っていた。キッドマン主演の映画の方は見ていないので、どうだったか分からない。それはともかく、講義の時、こんな質問が飛んだという。「聖書ってどうやってできたの?」答えに詰まった筆者が、その後10年かけてまとめあげたのが本書なのである。

ウガリト宮殿入口の跡
紀元前1450年頃から前1200年にかけてが都市国家としての全盛であった。

旧約の神の環境

地中海のキプロス島の真東にあるシリア第一の港湾都市ラタキア、その近郊にあるミネト・エルベイダで、ある農夫が畑を耕していた、そんな時、古代の墓を偶然に掘り当てる。1928年のことである。キプロスの特徴を持つ紀元前13世紀のミケーネ文化の土器が出土した。輸入された物があるなら国際的な都市があったことになる。フランスの発掘隊が、そこからまた、800メートルほど内陸のシャムラ遺丘に宮殿と神殿二つ、居住区を含む巨大な遺跡を発見した。これが新石器時代(前5000年)からの何層にもわたる遺跡の最上部にあたる後期青銅時代(前1500年-前1200年)の古代都市ウガリトであった。ここで発掘された楔形文字の文書には、この都市の政治的、経済的状況が記されていたのだが、特筆すべきはイスラエルを含む南カナン一帯の神々の姿がウガリト語で詳述されていることだという。このウガリト語は、メソポタミアとカナンを繋ぐ言語上の架け橋であるともいう。楔形文字だが、30種類の子音のみによる表音文字であった。カナンはヨルダン川と地中海に挟まれた、現在のレバノンからガザを含む地域である。

二つの神殿遺跡とは、バアル・ハダド神殿とダゴン神殿で、城壁内の北東の丘の上に崇拝の中心地があった。この丘そのものが平地から20メートルの高さにある。バアル・ハダト神殿は、縦16メートル、横22メートル、高さは推定で20メートル、壁に囲まれた850平方メートルの敷地からなるかなり大きな規模のもので、海上からもはっきり見えただろうという。矛を振り上げるバアル神像とヒエログリフで記された宮廷書記官兼侍従の石碑が出土している。ダゴン神は、もともとメソポタミアの豊穣神で、古代シリアのマリ文書(前2500年)に「大地の王」「偉大なる神々の主」という記述が既にみられる。旧約聖書では、ペリシテ人が十戒の石板を納めた契約の箱を奪い、その民族神であるダゴン神像の傍に置くと、像が夜中に倒れて砕けたという記述がある(士師記16:23)。サムソンとデリラの話で知られるヶ所だ。

しかし、本書にとって重要なことは、この遺跡から出土した粘土板文書に「バアル神話」「ケレト王伝説」「アクハト叙事詩」といったウガリト文学が記載されていたことだった。ここに登場する神々の名、人間の物語、詩、知恵文学などの物語の内容は、ウガリトの宗教物語とヘブライ語聖書の内容との類似を示していた。ウガリトの北に位置するアクラ山は、聖書ではツァフォン山とされていること、イスラエル統一王国が成立する千年以上前にウガリトでバアル神らの神々が崇拝されていたことを考えると、ある専門家たちは古代イスラエル人の宗教の原型が、当時カナンで広く崇拝されていたウガリトの神々を合成したものか、あるいはその反動ではなかったのかと考えているという。ウガリトの神々を紹介しておこう。

エル神像 ブロンズに金箔
BC1400-1200 メギド出土

エル

造物主であり、ウガリトの神々の主。筆者によれば会社の社長に対立する会長のような立場にあるという。エルについては聖書に何度も記載されていて、実際の神の名なのか、ヘブライ人の神ヤハウェの別称なのか区別するのが難しい場合があるという。創世記28:19では、ベテル(ヘブライ語でエルの家/神の家)という語はヤハウエを指すのは間違いないという。士師記9:46にある「エル・ベリト」の神殿はヘブライ語で「契約のエル」の神殿という意味ではあるが、この場合はヤハウェとは別のウガリトの神であろうという。

アシェラ(アーシラト)

アシェラはエルの配偶神であり、シュメール神話では天神アヌの妻であり、ウガリト神話では海の神である。ちなみに天神アヌは『ギルガメシュ叙事詩』にも登場する。このアシェラは、旧約聖書では打ち砕くべき神の像としてしばしば登場する。

バアル・ハダト

バアルはウガリト語やヘブライ語で〈主〉を意味する。バアルは嵐の神であり、その声は雷鳴であり、天水と農業の神である。民数記33:7には「ツァフォン山のバアル」という地名で登場する。古代イスラエルはフェニキアと接触していたためにバアル信仰は比較的篤く、イスラエルの預言者は絶えずバアル信仰を戒めたという。列王記下21:3には、マナセ王の時代に父ヒゼキヤがこわした高台を建て直し、またイスラエルの王アハブがしたようにバアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造り、かつ天の万象にひれ伏して、これに仕えたという記述がある。

バアル神 石碑 ウガリト出土

シナイ半島の砂漠にあるクンティレト・アジュルドで、前九世紀後半から前八世紀初頭頃の碑文が刻まれた二つのトピス(大甕の土器)が1970年に発見された。その一つには「アシェヤウ王の言葉。『イェハレル、ヤウアシュならびに[‥‥]に対して、《私はサマリアのヤハウェと彼のアシェラによる祝福をする》』」と書かれている。それに、ヤハウェに異なる名前、エルやその複数形エロヒム、エルヨーンやエル・シャッダイといった派生が何故あるのかが問われる。著者のカーギルは、古代イスラエルの人々が他の神々の存在を信じなかったわけではない、人々は神ヤハウェを唯一崇拝することを許されたのだという。これは学術的には「拝一神教」と呼ばれ、他の神々を認めない「一神教」とは、区別されるという。多神教のウガリト伝説の神々が、いかにヘブライの一神教に組み込まれたかという問題なのだろう。だが、これはもう少し考えてみる必要がある。

ピーター・C.・クレイギーの著書『ウガリトと旧約聖書』では、もっと慎重な表現になっている。ここからは、しばらく、この『ウガリトと旧約聖書』からご紹介したい。最も繁栄した前13世紀頃を中心としたウガリトは、南のエジプトと北のヒッタイト帝国に挟まれた交易と流通の要所であったという。そこでは多言語が使われ、宗教的にも宗教混合(シンクレティズム)が進行していたと言うのである。

メソポタミアで使われたアッカド語の方言であるアッシリア語とバビロニア語が東セム語。古典アラビア語、古代南アラビア語、エチオピア語が南セム語。このウガリト語、ヘブライ語、フェニキア語やモアブ語を初めとするカナン緒方言が北西セム語といわれる。クレイギーは、セム語はこのような三つの主要なグループに下位区分されるという。注目されるのはこのウガリト語とヘブライ語が多くの共通点を持ち、非常に近い言語であり、ウガリト文学の詩の技法と旧約聖書の文学のそれとも似た特徴があることをクレイギーは指摘している。

神々もまた、食べるために座った、
聖なる方の子らは、食事をするために。(ウガリト詩文)

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。(旧約『詩編』8-5)

ピーター・C.・クレイギー
『ウガリトと旧約聖書』
クレイギーは、カナダのカルガリ大学で教鞭を執ったウガリトと旧約聖書の研究者。

ウガリト詩文で最も特有な形式は、聖書の詩文によく用いられる並行法であるという。並行法の詩文では通常二、三行が一単位となっていて一行目で基本的な考えが述べられ、続く行で敷衍されるという。この巧みな言い換えと発想の展開は驚異的であるというのだ。このような修辞上の特徴に加えて神話や物語における共通の特徴も指摘されている。一つ例を挙げれば、『出エジプト記』の「海の歌」とバアル神話のバアルとヤム(海)神との戦いの場面がある。

わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい 光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り
(『詩編 』104:1-2)

だが、この『詩編』104編は、ウガリト文学だけでなく、エジプトのファラオであったアケンアテンの太陽賛歌、太陽神シャマシュのバビロニア賛歌などの類似が見られるという。ソロモン(前1011-前931)の時代にはエルサレムが文化交流の中心であって、その頃、詩篇が作られたのではないかとクレイギーは言うのである。そして、旧約聖書の特質として「神との契約」が挙げられる。

1961年に行われたウガリトの発掘によって、ヒッタイトなどで使われていたフリル語で「契約の神エル」と書かれた賛歌が見つかった。オリエント以外で、ある神と契約を同一視する宗教が一つだけあるという。それは古代インドのヴェーダにあるミトラ神であるというのだ。ミトラ(あるいはミスラ神)は観音やヘルメス神との関係も指摘される神格である。そのことはイメージの配列 彌永信美『観音変容譚』仏教神話学Ⅱで書いておいた。ここは大変興味深い所である。ヒッタイトやフリル人の宗教とヴェーダには重なる部分がある。おそらく、それは紀元前三千年期の民族大移動によってもたらされたのではないかとクレイギーは言う。フリル人の間では「大神ミトラ」と「大神エル」は宗教的に一つに融合していた。この宗教混合はウガリトを越えて南方のパレスチナまで広まっていた。それは、ヘブライ語以前の地名であるエル・ベリトがその地にあることによって窺えるという。ウガリトの神々だけが旧約聖書に影響を与えたわけではないのである。少なくとも、ヘブライの宗教がこのような多元的な環境の中から発達してきたということは言えるだろう。さて、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

フェニキア文字、アラム文字と古ヘブライ文字

聖書が書かれた文字

紀元前2000年から前1000年前半にかけて栄えたフェニキアは、ギリシア人たちによって「紫の国」と呼ばれていたという。その頃の古代フェニキア人は地中海東部とカナン北部を支配していて、アクキガイからとれる赤紫の染料による紫染めの織物の輸出を独占していた。この高貴の色は莫大な富を生み、それに伴い日用品や工芸品の交易が盛んとなって繁栄した。彼らはカナン人と呼ばれ、地中海の島々に植民地を建設、そのうちのカルタゴは後にフェニキアの首都となった。ヒュブロス、ティルス、シドンの三大海港都市を中心に発展したが、前883年に新アッシリア帝国に滅ぼされた。

交易が盛んになれば、注文書、送り状、領収書などの記録の必要が生まれてくる。楔形文字は、名詞、動詞など何百もの象形文字を覚えておかなければならなかった。それに対して、フェニキア人は簡単な子音22個よりなる文字を生みだしたのである。それは周囲の国であるギリシア、そして、現在のシリアあたりに定住していたアラム人たちに伝えられる。フェニキア文字とアラム語は使いやすかったために、ペルシアでは前6世紀にメソポタミアを征服したのち、それまで使っていた楔形文字のアッカド語を捨て、アラム語を採用した。

この便利なフェニキア文字はカナン地方の様々な民族に使用されたが、その中には、アラム人だけではなくヘブライ人もいた。前10世紀の「ゲゼル農事暦」がエルサレムの西、ゲゼルで発見されている。この粘土版の文字は「古ヘブライ語」と呼ばれている。古ヘブライ文字は、ほとんどフェニキア文字と同じである。後代、ヘブライ人がバビロンに捕囚されると現地のアラム語を母語としたとされる。そのため、旧約聖書のエズラ書、ダニエル書の本文の一部はアラム語で書かれているらしい。解放後もこのアラム語が使用され、イエスの時代にもこの語が引き続き使われていた。福音書のイエスの言葉は口語アラム語であるという。ヘブライ人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムへ帰還後も、フェニキア文字と方形アラム語が使われたようである。こうして、フェニキア人の発明した文字は、ヘブライ人、アラム人、ギリシア人に採用され、結果として聖書は、ヘブライ語、アラム語、ギリシア語によって書かれることになるのである。

バビロンの遺構 2005年撮影

ヘブライ語聖書の編集

バグダットの南90キロにあったバビロンは、聖書の形成に重要な役割を果たす都市である。バビロンの階段状のピラミッドであるジグラトはバベルの塔の物語のモデルらしいし、ハムラビ法典は聖書の法典の雛形になり、バビロニアによるエルサレム征服と破壊、それに続くバビロン捕囚が古代イスラエルにおける神理解を根本から変えたとカーギルはいう。哀歌や預言者イザヤ、エゼキエル、エレミアなどの数々の預言書の素地を作り、バビロン捕囚の間にヘブライ語聖書の作成ないしは編集が行われたと多くの専門家が指摘しているという。旧約聖書が文書の体裁をとり始めたのはこの時期なのである。

紀元前2000年期にはメソポタミアの全域をハムラビが統一し、バビロン第一王朝としてバビロンを中心に栄えた。バビロンは、その第一王朝の盛衰の後、一千年にわたって外国の支配を受けるが、前934年には、ついに新アッシリア帝国に組み込まれた。だが、前627年にナバポラッサルが叛乱を起こし、新バビロニア帝国の王として即位。その息子ネブカドネザル二世によってバビロンは再建される。神殿、宮殿、イシュタル門、空中庭園を建設したと言われる。

一方、ヘブライ王国はソロモン王の死後、前926年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。北王国は前722年に新アッシリアに滅ぼされるが、南王国は新アッシリアへの朝貢を続けていた。新アッシリアが滅び、先ほどのネブカドネザル二世の軍とエジプト軍との戦いが膠着状態になるとカナンやフェニキアの都市国家の支配者たちは同盟して新バビロニアに反乱を起こした。そのような支配者の中にユダの王、ヨヤキムがいた。新バビロニアは前598年エルサレムを包囲・攻略する。包囲中にヨヤキムが亡くなり、即位して3ケ月のヨヤキンは退位させられ、王族、貴族、エルサレムの多数の住民はバビロンに捕虜として連れて行かれてしまう。世に言うバビロン捕囚である。これが列王記下24章に書かれていることだ。

この時、予言者エレミアは新バビロニアへの徹底抗戦ではなく投降を主張した。降伏が生存を保障する道であると悟ったからである。そのため彼はベニヤミンの門に繋がれ、王子マルキヤの穴の泥の中に沈められたという(エレミア書20:2、38:6)。エルサレム神殿の破壊とバビロン捕囚は、ユダヤ教徒の心理に大きな傷跡を残し、神学的トラウマとなった。マナセ王が流させた罪なき者の血が、この悲劇のトリガーだったのだ。その心の傷から生まれたのが哀歌や詩編の一部にある嘆きの歌だったというのである。哀歌は全五章のうち四章が、冒頭の文字を繋げると語句や文になるという、いわゆる折句になっているらしい。とりわけ第一章、二章、四章は、それぞれ22節あって、ヘブライ文字の22字がアレフから順番に、それらの冒頭に割り当てられている。これは翻訳された聖書では分からないことなのである。哀歌5:20-22をご紹介しておく。

なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。
主よ、御もとに立ち帰らせてください
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。
あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。

新バビロニア帝国は前539年、ペルシアのキュロス王によって打ち破られ、滅亡する。捕囚は解放され、ユダのエルサレムに神殿の再建が許されたという。これが第二神殿といわれるものである。バビロニアへの激しい憎悪は、預言者イザヤをしてキュロスを油を注がれた者の意であるメシアとさえしたのである(イザヤ書44:28-45:4)。破壊と邪悪のシンボルとしてのバビロンのイメージは、新約のヨハネの黙示録にまで及ぶのだが、捕囚の期間におそらくヨヤキン王の宮廷書記の手で、ヘブライ語聖書の大部分が、少なくとも編纂・編集されたのではないかと言われている。一部は解放後もバビロンに留まったユダヤ人によって執筆された可能性もあるというのである。

地中海東部

ヘレニズムと聖書

メソポタミア、カナン、ペルシアの宗教的伝統に加えてギリシアの宗教と思想がユダヤ教を今日の形にした。ヘレニズム(ギリシア化)が起こらなければ、今日のようなユダヤ教は存在しなかっただろうとカーギルは述べている。このヘレニズム時代(前332-167)にギリシア化されることによってユダヤ教は様々な宗派に分かれ、この世での信義を尊ぶ従来のユダヤ教から来世の永遠の命を言祝ぐ宗教思想として発展していく。それは、世界の覇者となったローマ帝国に受け入れられるために、まことに好都合であったという。

アレクサンダー大王が地中海と近東を征服するや、ギリシア文化は当時ペルシアに帰属していたイェフド(後のユダヤ)とその中心地であったエルサレムにももたらされた。ところが、前323年にアレクサンダーが急死すると、その帝国は分割統治され、ディアドコイ(後継者)の一人プトレマイオス一世がエジプトを支配する。その中にユダヤやその都市エルサレムも含まれていた。ある程度の自治が許されていたが、前199年のパネイオンの戦いでシリアのセレウコス朝がエジプトを破り、その地を支配するようになると供え物や割礼といったユダヤ教の宗教儀式は禁止され、強権的なヘレニズム化政策がアンティオコス四世によって強要される。耐えかねたユダヤ人は前167年にマタティアと息子ユダ・マカベアらが反乱を起して独立国家ハスモン朝を打ち立て、それは約100年続いた。この間の事情はダニエル書に象徴的に描かれているという。

マタティア(?-前166)
ギヨーム・ルイエ『プロンプトゥアリ・イコヌム・インシギオルム』より。16世紀

そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの「麗しの地」へと力を伸ばした。 これは天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった。その上、天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。 (ダニエル書8:9-12)

こうして、ユダヤにギリシア思想が流入する。その影響として、エピクロス派からは真の快楽と利他的生が、ストア派からは道徳の涵養が、犬儒派からは清貧の思想がもたらされることになるという。コヘレトの言葉にはそれらの思想と似た表現が随所にみられるとカーギルは述べている。例として、僕が『コレヘトの言葉』から勝手に選んだ文章を掲載しておく。

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いしその労苦によって満足するのは神の賜物だ、と(コレヘトの言葉3:12‐13)。

目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない(コレヘトの言葉2:10‐11)。

ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい(コレヘトの言葉4:08‐12)。

コレヘトの言葉における神学はヘブライ語聖書の中でもかなり異質なものであるらしい。申命記のような神の法の順守といった紋切り型の神学への批判だとある専門家はみているという。ヘレニズム時代のユダヤ人編集者は、ユダヤ教に様々なギリシア哲学を組み入れ、彼らの時代の現実に応じたものにしたとカーギルは述べている。特定の宗教的指導者が独断で決めた偏狭な教義に合わないようなテキストを抹殺することなく、正典として多様な伝承を取り込んでいるという。この多様さこそ聖書の長所ではないのかと著書は言うのである。

さて、次回 part2 は、旧約聖書のギリシア語訳である70人訳聖書、ヘレニズム化の中でも最も重要な影響とされるプラトン主義と新プラトン主義、死海文書の発見による旧約聖書への新たな視点、そして何世紀にもわたる正典選別の経過などをご紹介する予定です。お楽しみに。

 

その他の参考作品

『ギルガメシュ叙事詩』
古代オリエント最大の文学作品、シュメール語版の編纂は紀元前3000年紀に遡る可能性がある。

ミレーナ=美智子・フラッシャール『ぼくとネクタイさん』鏡のなかへの墜落

この美しく、もしかすると意味のある世界から
君はどれほどのけ者にされ、
あらゆる自然な完璧さからどれほど遠く隔てられ、
君自身の虚無の中でどれほど孤独を感じ、
この大いなる沈黙のなかで、どれほど孤立無援であることか。

マックス・フリッシュ『沈黙からの答え』関口裕昭 訳

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』

この小説『ぼくとネクタイさん』の冒頭に引用されたスイスの小説家・劇作家であるマックス・フリッシュ(1911-1991)の言葉、ここに既にこの物語の前景が暗示されているのだが、今回ご紹介する小説の書き出しは、その最後の文章と共に異様に明るい。書き出しは、こう書かれている。

ぼくは彼をネクタイさんと名づけた。
彼もこの名前を気に入ってくれた。彼は笑い崩れた。
胸元の赤とグレーの縞模様。あのネクタイとともに、ぼくは彼を記憶に永遠に刻み続けるつもりだ。

この本の表紙にあるようなベンチが主な舞台だった。20歳の引きこもりの青年が、少し外出できるようになり、そのベンチで初老のサラリーマン風の男と会話するようになる。それがこの話の端緒なのだが、この二人には、この世界から切り離され、疎外され、孤立無援とならなければならない深い傷があったのである。

確か、昨年の10月にこの小説の翻訳者である関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんが学会で広島に来られると言うのでお会いできることになった。この人はパウル・ツェランの研究者として知られる人でオーストリア文学会賞などを受賞されているのだが、僕が関口さんの著書を 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇と題して書いた時にわざわざコメントをくださった。それがお会いすることになるきっかけだった。その時は、版画家だったツェランの奥さんのジゼルのことやツェランの親友であったクラウス・デムス(ピアニストのイェルク・デムスの兄)の息子でジゼルから版画の手ほどきを受けたというヤーコプ・デムス氏、作曲家の細川俊夫さんのこととか話した記憶があるのだけれど、別れ際に今訳している本を後で送りますよと言ってくださった。それがこの本なのである。

ザンクト・ペルテン ウィーンの西方56キロに位置する。バロック風の建物が多いことで知られる都市。

著者のミレーナ=美智子・フラッシャールは、1980年ウィーン郊外のザンクト・ペルテン生まれ。父親はチェコ系のオーストリア人で母親は岡山出身の日本人である。日本語は母の口から学んだまさに母語であったという。読み書きは、もっぱらドイツ語のようだ。ちなみにオーストリアの公用語はドイツ語である。ウィーン大学とベルリンの大学で比較文学、ドイツ文学、フランス文学を学んだ。卒業後は外国人にドイツ語を教えたりしながら小説を書き続け2008年『Ich bin/私は』、2010年『Okaasan』を発表した。この二作目は大きな注目を集めたという。2012年の本書によって、オーストリアの有望な新人に与えられる アルファ賞を受賞している。関口さんの「訳者あとがき」によれば、彼女は日本への長期滞在はないようだが、ほぼ毎年二週間ほどの滞在を繰り返していて、日本に住んでいる家族や親戚を訪れ、日本の風景・文化を楽しみ、時折自作の朗読もしているようだ。現在は、ウィーン市に夫と息子とともに生活している。

主人公は20歳くらいの青年タグチ・ヒロ。二年間、両親とともに住む家の自分の部屋に引き籠り、本棚の上にある髪の毛のように細い亀裂を眺めて暮らしていた。比較的短い文章でまとめられる114章は、こんな書かれ方がされている。

今ぼくが座っているのが、僕たち二人のベンチだ。ぼくたちのものになる前は、ぼくひとりのものだった。‥‥‥瞳を閉じてそのジグザグの線をなぞってみた。頭の中にあったその線はどんどん伸び続けて、心臓や血管にまで食い込んでいった。ぼく自身が血の通わない線だった。陽の当たらないところにいたので、肌が死人のように蒼ざめていた。ときどき陽の光に触れたいと憧れた。外に出て、人がけっして出て行くことのない部屋があるのを理解するのは、どんなことなのだろうかと想像してみた。‥‥ぼくは自分を欺こうとはしなかった。相変わらず重要なのは、自分のために存在するということだ。誰にも会いたくなかった。誰かに会うということは、何かに巻き込まれるということだ。きっと見えない糸があって、人から人へ繋がっているのだろう。どこもかしこも糸だらけ。誰かに会うということは、つまるところその織物の一部になることだ。これだけは避けたい。(第3章より)

彼は意味のある世界からはぐれた。そして、じっと見つめ続けていた自室の壁のヒビが自分自身の頭の中の線や心臓からの血管の線となっていく。それは、これからの他人との繋がりが生じることを暗示しているのである。ヒロが、閉じこもりを始めた契機には二つの事件があった。最終学年で同じクラスになったクマモトを巡る事件と16歳の時同じクラスになった幼なじみのユキコの事件だった。

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』裏表紙

クマモトの家は三代続いた法学者の家系だったが、彼は詩人になりたがっていた。ヒロにはその詩がちっとも理解できなかったが、自分がどこかへ向かっていて、たどりついた場所でどのように孤独になるかを知っている、そんな光りを放つ彼と友達になった。ある日、待ち合わせの場所で、クマモトは道を渡ろうとしていた。周囲を見回しもせず車の往来の波に水泳選手のように飛び込んでいった。事故なのか自殺しようとしたのか。ヒロは気を失い目覚めたときには既にクマモトの姿はなかった。ヒロはその夜、恥の感情が込みあげてくるのを感じる。日本人の恥の感情がクローズアップされるのである。自分の持つ倫理と現実の対応とのギャップに対するある種の嫌悪のようなものが感じられはするのだが‥‥ここは、血のつながりを持ちながらも、外から日本人を見ている著者の距離感が興味深い。読む人それぞれに異なる感触を持つヶ所かもしれない。彼はもう誰の運命にも巻き込まれたくないと思うのだった。それが引きこもりの引き金になった。

ユキコは隣に住む腐敗物の臭いがただようような貧しい家の子供だった。家族は、興味よりもある種の不安からヒロに彼女のことを尋ねた。しかし、幼い子供にとってそんなことは問題ではなかった。ユキコは琴座の王女様で、はるかな故郷から地球に籠の中に入れられて運ばれてきたのだという。二人は、小刀で木の幹に名前を刻み、ユキコはスカートのポケットから赤い糸を引っ張り出して、枝に結びつけ、この赤い糸はわれわれが結ばれていることを永遠に記憶し続けるだろうと誓いの言葉を宣べるのだった。しかし、10歳にもなると二人の間は疎遠になっていった。そのことにヒロは苛立ちさえしたが、結局ユキコはヒロを避けるようになり、二人は離れてしまう。再会したのは16歳の時、同じクラスのクラスメイトとしてだった。しかし、この偶然の出会いはヒロに決定的な深い傷を残すことになる。

ベンチに坐るもう一人の人物ネクタイさんは、オオハラ・テツという名の58歳の元サラリーマンだった。職場での文字通り小さなつまずきが彼の生活を変えてしまった。書類の山を抱えて隣の部屋に移動しようとしてケーブルに足を取られた。職場の同僚たちは笑って、こうささやく者もあった。こんな人はいらないと。ちいさなきっかけから禍が雪崩をうつかのようであった。それから、彼を重い鉛のような眠気が襲い始めるようになる。こうして彼は会社をクビになった。それを妻のキョウコには言えなかった。彼女の作る美味しい弁当を持って毎日公園のベンチに坐っては、お昼になるとそれを食べ、夕方6時に帰っていく、そんな生活を繰り返していたのである。彼は若いヒロにこう語りかける。

今日、プラットフォームで人ごみの中にまみれながら、わたしは自分に問いかけました。この中の誰かひとりがいなくなったら、わたしの中にあるその人の一部分が欠けることになりはしないかと。そして、こう思ったのです。ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか、と。そのとき、ようやく電車がホームに入ってきて、わたしの姿が車窓に映り、その後ろで寝ている人の顔に重なって通り過ぎていくのを見たとき、わたしの疑念は消え、こう悟りました。われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだということを。(第76章より)

オオハラにも忘れることのできない二人の人がいる。10歳の時ワタナベという名のピアノの先生についた。その先生の奥さんは肺病で余命いくばくもない人だったが、一緒に暮らしていた。ある時、ピアノの前の蠅を叩いて殺したことがあり、罪もない生き物を殺すなと叱られた。オオハラはそのとき、先生だって奥さんが咳をしているとき笑ったじゃないですかと反論した。先生はこう言った。ぼくが笑ったのは、妻がぼくに笑ってほしいからだ。ぼくは悲しみを封じ込める。ぼくの笑は彼女の伴奏をしなければならない。そう言いながら先生は泣いていた。結局、ピアニストにはなれずじまいで、1年間先生の演奏を聞くためだけにレッスンに通ったのだった。

もう一人はツヨシという名の初めての、そして最後の子供だった。オオハラが息子に関して記憶している言葉は、息子さんには障害がありますという一言だった。それは感情を失った感情と呼ぶほかはないものだった。子の障害を受け入れることのできない自分。普通の赤ちゃんのように元気に泣くこともない赤ん坊。たくましく世に生まれて、成長し、世界を少しでも良くしようとする人間のイメージを描いてツヨシという名をつけたのだった。間もなくツヨシは亡くなった。心臓に大きな障害を抱えて生まれて来ていた。

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

翻訳者の関口さんは、この翻訳に関して一つの懸念を持っていた。それは、日本の読者が、この小説を日本の物語だと強く思い込んでしまうことだったという。舞台も登場人物も日本人で、ことさら、梅干しや弁当の海藻サラダという日本的なイメージが登場する。だが、現実世界とは、ズレたパラレルワールドなのだという。日本人の自分がこの物語を自分にあまり近づけ過ぎないように気をつけたというのである。著者は日本の文学や文化を深く愛する人だが、手探りで日本のイメージを描こうとしていた。彼女は自分の血の中の脈々と波打つ日本的感性を小説を書くことによって確認しようとしたのではないかと関口さんは書いている。

その点、カズオ・イシグロが、五歳頃までに過ごした日本の薄れゆく記憶を文章の中に留めようとして小説を書き始めたのと似ているかもしれないと関口さんはいう。生地の長崎を舞台にした日本に関する小説というと『遠い山なみの光』が思いだされるけれど、この小説は、戦前の日本の価値観が崩壊した戦後間もない長崎の住宅地が舞台であり、イギリス人と再婚した悦子がイギリスで日本の生活を回想するという設定になっていて、勿論、英語で書かれたものが日本語に訳されている。黄昏時に水溜りの多い空き地を、それらをよけながら向う側へ渡っていく。そのようなシーンが何度も登場する小説である。決定的な何かは描かれないし、長女の自殺という不幸の起こった理由もことさらに明かされない。すべては手さぐりされながら過ぎ去っていくなかに、悦子の女性としてのアイデンティティのふくらみが果樹園の上に広がる雲のようにただあるべきように描かれて終わる。関口さんのコメントを続けよう。

この『ぼくとネクタイさん』の原文には引用符がないらしく、訳者は語り手が変わるたびに一人称を「ぼく」「わたし」「おれ」「あたし」と訳し分けたという。語り手が誰なのか一読しただけでは明瞭でないこともあったという。ドイツ語で受ける明瞭なイメージと日本語への翻訳の難しさとはギャップがあって、その分、楽譜を見ながら指揮者が個々の音の様々な色合いを見つけ、強弱を明確にし、声部と声部を重層的に重ねあわせながら、交響曲として演奏し、聴衆に届ける過程と似ていて楽しかったというのである。オーストリアの文学を熱心に紹介していたのはドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんだったけれど、関口さんにも是非これから色々な名作を紹介してもらえればと思っている。

ドイツの文学第10巻 フリッシュ
『わが名はガンテンバイン』1966年刊

冒頭で述べたマックス・フリッシュもカズオ・イシグロのように人間のアイデンティティを問題にする。その問題の仕方は独特であり、物語はいかにも唐突に展開する不思議な作家である。1954年に発表された『シュティラー』によって一躍世界的な作家となった。自己の自己に対する関係を描いた告白小説といわれている。僕が手に取れた本は、『アテネに死す』、これは「ホモ・ファーベル/作る人」が原題で、それはもともとベルグソンの言葉である。そして、『わが名はガンテンバイン』の二冊なのだけれど、後者は短い物語が脈絡なく続いているように思えるのだが、実は繋がっているのではないかと時々疑ってみたりする。その中の「裸の男(馬)」の話には病院でシャワーを浴びている男が様子を見に来た看護士の女性、彼女は思い切って叫ぶこともできないのだが、彼女の両の腕の付け根に両手にかけたまま、「ぼくはアダム、君はイヴ ! だ」というのである。呼び出された当直の医師の脇をすり抜けて、病院を抜け出し、街中を裸で歩きまわるという話になっている。奇妙だ。その次の物語「鏡の中の墜落」にはこのような文章が書かれている。

「それは鏡のなかへの墜落のようだ、ふたたび目ざめたとき、彼にはそれ以上のことがわからない、あらゆる鏡のなかへの墜落、そしてそのあと、そのすぐあと、世界はふたたび修復される、まるで何事も起らなかったかのように。事実また何事も起らなかったのである。(中野孝次 訳)」

ヒロとオオハラは、打ち解けあい、心の重荷を分かち合うようになる。そして、ついにヒロはオオハラに一つの願い事をした。こんな会話が描かれている。

今晩、奥さんに本当のことを、会社を首になったことを言ってください。いろんなことがあったり、なかったりした後、今こそ奥さんにそう言う必要があります。 わかった。約束する、きっと言います。じゃあ、あなたも約束してくれますか、その髪を今日中に短く切ると? 長いこと言えなかったけれど、そんなもじゃもじゃの毛をしていると恐ろしく見えるよ。二人して笑った。じゃあ、指切りげんまん。(第92章より)

その後、オオハラは7週間たってもヒロとの共有の場所に戻ってこなかった。意を決した彼は前にもらった名刺の住所をたよりにオオハラの家を尋ねる決心をするのだった。かつては、誰かに会うということ、これだけは避けたいと思っていたヒロだった。見えない糸にからめ取られて身動きできなくなる自分を嫌悪していたはずなのに。彼は、ついに何かに巻き込まれて社会という織物の一部になる決心をしようとする。誰かに会おうというのだった。オオハラの妻に。しかし、その家を訪ねて妻のキョウコから聞いた話は意外なものだった。どうか、結末はこの著作をお読みくださるように。

 

その他の参考図書

マックス・フリッシュ『アテネに死す』
かつて、結婚まで考えていた女性との間に生まれた娘と知らずに恋に落ちた、落ちたと思い込んだ技術者の悲劇を描いた小説。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニュース

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日

2014年8月 オープン・アトリエのご案内

日頃あまりお目にかけないのが自分のアトリエなのですが、たまには解放したらとか、ちょっと寄ってみたいけれど敷居が高いなどのご意見もあり、この8月下旬の23日(土)・24日(日)の二日間、皆さんに見ていただくことにしました。どなたでもご自由に来ていただけます。どうぞおいでください。通常のマンションですので入口のインターフォンで呼び出していただければと思います。

オープン・アトリエ日時と場所

オープン・アトリエ日時と場所

2014年8月9日
› 続きを読む