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石を聴く― 天と地を結んでけつまずくもの

 

わたしは星が好きだ
道の上の石に似ているから
空をはだしで歩いたら
やはり星にけつまずくだろう

わたしは道の上の石が好きだ
星に似ているから
朝から晩までわたしの
行く先を照らしてくれる(イジ―・ヴォルケル『巡礼のひとりごと』栗栖継 訳)

 

瑪瑙  Ploczki Gorne, Kaczawskie Mts., Poland

今回は石がテーマですが、いろんな人が色々に書いているのが面白い。まるでカタログのように石について述べているのは澁澤龍彦の『石の夢』。博覧強記の人も色々いるけれど、ちょっと感心する。古代エペイロスの王であったピュロスの持つ宝石のうちの一つ、それは九人のミューズと竪琴を手にしたアポロンの姿を見ることのできる瑪瑙だった。プリニウスの『博物誌』の中の記述である。それは、自然に石理(いしめ)によって生じた模様であった。同じように『和漢三才図絵』の「瑪瑙」の項にも「その中に人物、鳥、獣の形有るもの最も貴し」とあり、こんな石の模様を人間の想像力と「類推の魔」が、意味ある形に捉えてしまうのは洋の東西を問わないらしい。

瑪瑙 Dendritic Agate from Ken River, Bundelkhand Region, India 描かれた樹のような模様を見ることができる。

「絵のある石」については、フランスの美術史家バルトルシャイテスの著書『アベラシオン』に例が沢山紹介されているし、僕は未見だけれどもカイヨワの『石の書』にもあるらしい。普遍博士とよばれたケルンのキリスト教神学者であったアルベルトゥス・マグヌスは石の中に形成される絵は星の影響だとしている。稀代の錬金術師でもあったから魔術や錬金術と占星術とが親和しているのは当然だった。ルイ13世の宮廷司祭であり、リシュリュー枢機卿の司書でもあり、並びなき東洋学者でもあったジャック・ガファレルは、パラケルススのいう「ガマエ」なる石が星と感応し、その降り注ぐ光を吸収して成長する生きた霊石だと信じていた。フランスの詩的な哲学者・科学者であったガストン・バシュラールは『大地と意志の夢想』の中で「黄金は土中の中で松露のように熟する。しかし、完全な熟成に達するためには数千年が必要である。」と書いている。大地が意志と結びつけられているのは良い。

アポロ・ミトラス神の頭部 ネルムート・ダー、トルコ

17世紀の驚嘆すべきエンサイクロペディストであるわれらがイエズス会士アタナシウス・キルヒャーにとって、地球は一個の有機体であり、鉱物も金属も燃える地殻の内部に生じるとした。ということは岩石火生説の立場ということになろう。かたや、ノヴァーリスの師であった鉱物学者アブラハム・ゴットロップ・ウェルネルは岩石水生説を標榜し、おびただしい石の標本を家族のように愛していたという。

石を愛した人は多い。明恵上人は白上峰の眼下にある鷹島と刈藻島から拾ってきた小さな丸い石を生涯手もとに置いて愛玩していたと言うし、『雲根志』を著した木内石亭は幼き頃より玉石を珍玩し、ユングは少年の頃、ライン河から拾ってきた楕円の石を上下絵具で塗り分けてポケットに入れて持ち歩いていたと回想している。誰しも少年・少女の頃の記憶の断片の中にこのような光景が、そっと忍んでいないだろうか。そのユングは「神々の生まれた場所と見做された石(例えばミトラ神の生まれた石)は、石の誕生を説く原始の伝説と結びついている(『元型研究』)」と書き、折口信夫は「神の容れものとしての石(『霊魂の話』)と書いていてぴったり符合するというのである。

 


ときとして、星々からふりそそがれた光線は(同じ本性であるかぎり)、最高所からおちてきた金属、石、鉱物と結合し、それらにすっかり浸みこんで、それらと結合する。このような接合にこそ、ガマエはその起源をもつ。(ヨハンニス・グラセット『カバラ化学の円型視象をめぐる自然生理学』)


 

宮澤賢治の『虹の絵具皿』

水生説と火生説ではないけれど、石の中には火と水がある。石の中の水を書いているのはカイヨワで「程よい大きさの瑪瑙は‥‥その内部が中空になっていて水が入っていることが分かる(『石』)」という。「水以前の液体」だというのだ。石を気長に磨り上げて水から一分というところまでで留めると石の中の魚が泳いでいるこの上なく美しい姿が見えるというのは「長崎の石」の民話である。一方、石の中の火を書いたのは宮澤賢治の『貝の火』で、子ウサギが贈られたのは中が赤や黄の焔をあげてせわしく燃える玉だった。そして、鉱石の百花繚乱というべき世界を言祝いだ彼の極め付けの作品は、十力(じゅうりき)の金剛石を描いたこの『虹の絵具皿』である。

ほろびのほのお 湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………

(宮澤賢治『虹の絵具皿』より)

オパール(蛋白石) 火が見えるプレシャス・オパール

ある日、王子は光輝く蛋白石や大臣の子のいう虹の脚もとにあるルビーの絵具皿を探そう、あるいは山の頂上の金剛石を目指そうと出かけることになりました。霧が晴れて虹が立ちます。虹の脚元に行こうとするが虹は逃げるのです。また、霧が出ると「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。はやしのなかにふる霧は、蟻のお手玉、三角帽子のちいさなけまり」と歌うものがある。王子の青い大きな帽子につけられた雀蜂の飾りでした。彼らの案内で王子たちは、草の丘の頂上に立つ。あたりが明るくなると雨がざーと降りはじめ、あられに変わりました。それはみんなダイヤモンドやトパーズ、それにサファイアだったのです。賢治の描写が続きます。

「その宝石の雨は、草に落おちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は刻まれた天河石(アマゾンストン)と、打ち劈(くだか)れた天河石で組み上がり、その葉は、なめらかな硅孔雀石(クリソコラ)でできていました。黄色な草穂は、かがやく猫睛石(キャッツアイ)、いちめんのうめばちそうの花びらは、かすかな虹を含ふくむ乳色の蛋白石、とうやくの葉は碧玉(へきぎょく)、そのつぼみは紫水晶(アメシスト)の美しいさきを持っていました。そして、それらの中でいちばん立派なのは小さな野ばらの木でした。野ばらの枝は、茶色の琥珀や紫がかった霰石(アラゴナイト)でみがきあげられ、その実は、まっかなルビーでした。(『虹の絵具皿』)」

天河石(アマゾナイト)の結晶 コロラド、エル・パソ産

しかし、ダイヤモンドの露をしたたらせながら、りんどうは悲しげで、うめばちそうもこう歌います。「青空はふるい ひかりはくだけ 風のしきり 陽は織れど かなし」と。 そして、丘一面の草や花はいっせいに「十力の金剛石はきょうも来ず めぐみの宝石(いし)はきょうも降らず 十力の宝石の落ちざれば、 光の丘も まっくろのよる」と歌うのでした。さらにりんどうは、「十力の金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは卵がたです。霧より小さなつぶにでもなれば、そらとつちとをうずめもします」と語ります。と、俄かにスズメバチがキイーンと背中の鋼鉄の骨もはじけたかと思うほど鋭い叫びをあげると、とうとう十力の金剛石が降って来るのでした。かすかな楽の響、光の波、芳しく清い香り、透き通った風とともに、スズランの葉は今やほんとうに柔らかな、うす光する緑色となりました。賢治はこう書きます。

「ああ、そしてそして十力の金剛石は露ばかりではありませんでした。碧いそら、かがやく太陽、丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう丘や野原、王子たちのびろうどの上着や涙にかがやく瞳、すべてすべて十力の金剛石でした。あの十力の大宝珠でした。あの十力の尊い舎利でした。あの十力とは誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの蒼鷹(あおたか)のように若い二人がつつましく草の上にひざまずき指を膝に組んでいたことはなぜでしょうか(『虹の絵具皿』)。」

 


涯もなく青空おほふはてもなき闇(くら)がりを彫(ゑ)りて星々の棲む

身がわりの石くれ一つ投げおとし真昼のうつつきりぎし(切岸)を離(か)る

(明石海人『白描・白描以後』より)


 

日本の石信仰

大洗磯前神社の神磯鳥居
二つの奇妙な石が出現し、その神霊が人に依って大己貴(おおむなち)命、少名彦命と名のった。その石が現われた大洗磯前の二柱降臨の地。

石が海岸に漂着するという寄り石信仰は常陸の大洗磯前神社などが有名であるらしい。それから石の成長する話、その類話は石が子を産む話だろうか。石女といえば不生女(うまずめ)という蔑称の感があるが、救いはあった。富士山の麓の子持石村にはその名の石があり、石の脇の穴を竹竿でくじると羽根つきの球くらいの石が転び出たという。土地の伝承では「子無き婦人が一七日(七日)の間、身を清く保ち、朔日(ついたち)毎にこの石を清浄な水に浸し、その水を服する時は忽ち子を孕む」と伝えられたと江戸時代の奇石収集家であった木内石亭は『雲根志』に書いている。同じ石を持ち上げた時の軽重によって事の成就を占う「天神石」の話も同書に載っている。いわゆる石占いである。それから、ナマズが地震を起こすのを押えているというかなめ石は常陸の鹿島明神にあるが、これなどは石の霊力のなせる業と考えられていた。それにもう一つの石信仰は、生殖器の形をした石の崇拝で、岐(さえ)の神と呼ばれる。道祖神を思い浮かべていただければ良いだろう。これが折口信夫のいう石信仰のラインナップである。

中国の石のイメジャリー

女媧 簫雲従(1596-1673)「天問図」より 岩峰に巻きつく人面蛇身の神

どうも同じような内容の話は、中国の神話・伝承にもあるようだ。ジン・ワンの『石の物語』には中国の石に関する神話・伝承が紹介され、『紅楼夢』『西遊記』『水滸伝』に共通する石のイメジャリーが展開されるという極めて興味深い内容の本になっている。その石の話は女媧(じょか)の伝説に集約されそうだ。

「女媧は人の頭と蛇の体をもっていたと言われ、一日に七十回『化』した(屈原『洪興祖』)。」さらに『山海経』には「女媧の腸(はらわた)という十人の神がいる。彼らは神の姿となり、栗広の野に住んで道をふさいだ」とある。エーリッヒ・ノイマンは、それがグレート・マザー元型を支配する女性性に具わる変形という特徴であり、妊娠と出産においてその働きを象徴しているという。そして、女媧は、黄色い土を固めて人を作ったが、それが重労働であったために今度は泥の中に縄を入れて引き揚げ、振り落とされた泥で人を作った。しかし、前者は富貴で聡明な人となり、後者は貧賤で凡庸な人になったと習俗、伝承を集めた後漢末の『風俗通義』に記録されている。人を産みだす神であった。

共工は顓頊(せんぎょく)と天子の座を争った時、勝てなくて怒りにまかせて不周山に激突した。天の柱は折れ、地の四隅を繋いだ綱が切れて大地は傾いた。そこで、女媧は五色の石を溶かして天を補修した(『淮南子』)。石の霊力を以って癒す神である。縁結びと子授けの地母神である高媒においては、その祭壇に石が置かれている。高媒は夏王朝では女媧または塗山、殷では簡狄、周では姜嫄と女性の始祖として呼ばれたという説がある。石は地母神の最古の象徴であるという。ちなみに塗山は禹の妻で熊の姿になった夫を見ると石に変身し、その石が裂けて子供の啓を産んだ。「啓」の意味は「ひらく」である。禹の出生には諸説あるが、『淮南子』には禹が石から生まれたとあり、その母は石に感応して彼を産んだという注もある。また、別のテキスト『史記』には禹の母が、流星が昴を貫くのを見て、夢で心に感じるものがあって彼を産んだとある。禹は舜帝から黒い玉(ぎょく)を贈られて治水の功績を天下に知らされることになる。別のテキストでは人面蛇身の神が玉のふだを彼に授け、それによって禹は水と土を治めるのである。こうなると多くが繋がってくる。

玉壁 祭祀用の最も重要な玉器(透閃石や緑閃石などの軟玉で造られる。これに対して翡翠は硬玉と呼ばれる。)

その他に、秦の始皇帝がはじめたとされる泰山に登り石を立て壇を築いて供犠を行う封禅、厄除け石として知られる石敢当、漁師の網にかかった成長する石、動くのみならず足の生えた石、子授け石である乞子石、音・音楽や言葉を発する鳴石、鏡のように光る照石や石鏡、僧の説法を聞いて頷く点頭頑石(これなどは可愛らしい)、そして石女が紹介されている。

 


別世界の書は別世界の話を伝え、
人と石は再びまったき一つのものとなる

(曹雪芹『紅楼夢』)


 

西遊記・紅楼夢・水滸伝を結ぶ石

四大部州の一つ、東勝神州の海のかなたの傲来(ごうらい)国、その近くの大海中に花果山という名山があった。その頂には仙石があり、高さ三丈六尺五寸は天周三百六十五度に準じ、周囲二丈四尺は暦の二十四気になぞらえられていて、九つの竅(きょう/細い穴)と孔(つきぬけた穴)は九宮と八卦に基づくといわれている。この石は天地開闢以来、日月の精華を受けて霊気を孕み仙胎を宿す。ある日、その石が裂け割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿が生まれた。御存じ孫悟空である。

金陵十二釵 林黛玉 費丹旭(1801-1850)
『中国歴代仕女集』より

女媧が石を鍛えて天のほころびをつくろった時、大荒山の無稽崖にて高さ十二丈、幅二十四丈の大きな荒石三万六千五百一個を精錬するのだが、その内一つだけが使われずに青挭峰の下に捨てられる。この石は、精錬によって霊性を備え、歩くことも大きさを変えることも自由にできたが、使われなかった悲しみに昼夜泣いていた。ある日、僧と道士が通りがかり紅塵の下界の話をしていると石は富貴の園、温柔の郷に遊び楽しみたいと頻りに頼み込む。話す石なのである。願いを聞いてやった二人は、その石を扇子の根付くらいの大きさの通霊宝玉という美しい玉(ぎょく)に変えてやった。一方、天上界の太虚幻境では神瑛待者(しんえいじしゃ)が霊河のほとりに生えた絳珠草(こうじゅそう)に甘露をかけてやったので女性の姿に変わることができた。神瑛待者は下界に降りることを望んだ。姿を変えてもらった女媧石の五彩に輝く通霊宝玉を口にくわえて賈宝玉(か ほうぎょく)として下界に生まれ変わる。絳珠草は、林黛玉(りん たいぎょく)としてその後を追い、大貴族の賈(か)家に集うことになる。白話(口語体)小説『紅楼夢』は、こうして始まるのです。

ジン・ワン『石の物語』 アメリカの比較文学研究者の著作。間テキスト性満載になっている。

蔓延する疫病を調伏するための祈祷を竜虎山に住む仙人張天師に願うために北宋の皇帝仁宗は、国防大臣にあたる大尉の洪信を遣わした。仙人に出会えた洪信は翌日、道教寺院である道観内で「伏魔殿」という額の掛った建物を目にする。腕の太さほどもある鎖で閉ざされ数十枚の封印とその上に押された珠印で厳重に封印された朱塗りの格子扉があった。かつて、老祖天師が魔王をその中に閉じ込めたのだと道士たちはいう。止める道士たちを押し切って洪信は扉を開けさせた。ただ、石碑が真ん中に一つあるだけだった。高さは五・六尺ほどで下には石亀の台座があり、松明で照らしてみても表側は古代文字で読めない、しかし、裏には「洪に偶いて開く」と彫られてあった。欣喜雀躍した洪信は警告などものともせず、台座の下の四角い石版を掘り出して除けると忽ち閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去ったという。その石版が「かなめ石」であり、それらの星が梁山泊の百八人の頭領たちだった。つまり、石が魔星を封じていた。

水滸伝における読めない文字が彫られた石碑のかなめ石は、天の意思として開かれることが定められていた。一方、『紅楼夢』の話は人間界で過ごした女媧石がその経験した事件の顛末を自らに刻んで石碑の如くとなる。その文字を仙道修行の空空道人が写し取って世に伝えたとされている。それに、宝玉がくわえて生まれる玉には、その裏に三つの文章が刻まれていて、その一つが「祟りを除(はら)う」であった。そして玉になる前の女媧石は大きくなることも小さくなることも話すこと歩くことさえ可能だった。それは、石の持つエネルギー、ある種の豊饒さにつながる。石猿の孫悟空が如意棒を自在に操り、多彩に変化(へんげ)する活躍にも、梁山泊の頭領たちの立ちまわりにもそのエネルギーを見ることができるだろう。中国のこの三小説に関連する広大なテキスト相関的空間を横断しているのは、特定可能な神話や儀礼の一団であると筆者のワンは述べている。気の核である石は女媧の伝説に集約されてそのイメジャリーを巡る円環が生じるように僕にも思えるのである。そういえば、文学の統合原理は穏喩と神話だと言ったのはノースロップ・フライだった。

 


石たちは――とくに硬い石たちは――まともに耳をかたむけようとする人々に対して、語りかけつづける。聴く者のひとりひとりの尺度に応じて、石たちは言語をもつ。聴く者のしりたがっていることを教えてくれる。石たちの中には呼びあっているように見えるものもある。ふと近づいてみると、石どうしが語りあっているさまにであうこともある。そんな場合、石たちの会話は、太古のもの、不滅のものの実質そのものを私たち自身の思念の鋳型に流しこむことによって、私たちの条件をのりこえさせてくれるというはかりしれぬ益をもつ。(アンドレ・ブルトン『石の言葉』巖谷國士 訳)


 

石を聴く

ヘイデン・ヘレーラ『石を聴く』2018年刊 とても詳しいイサム・ノグチの伝記

石に耳を傾け、太古のもの、不滅のものの実質をその作品の中に鋳込んだ芸術家、それが、イサム・ノグチだった。2018年にヘイデン・ヘレーラによる詳しい伝記が出版されている。1960年代の末、ノグチには四国の香川で石工の和泉正敏と運命的な出会いがあった。彼は花崗岩や玄武岩といった硬い石を彫りたいと考えるようになっていた。『黒い太陽』はブラジルから30トンの花崗岩を取り寄せ、高松近郊の庵治(あじ)で和泉をアシスタントとして彫られた素晴らしい作品だった。

同じく高松の牟礼(むれ)でノグチはこう語った。「自然石と向き合っていると、石が話をはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげるんです。‥‥」一方で石を彫る時のノグチは、石を征服しようとするかの如くで、そんな時には人が変るという。小さな子供なら近くによって話しかけられないほどの空気がみなぎるのだ 。あまりに顔を近づけて強く彫るので、石工たちは眼に石屑が入るのではないかと心配していた。実際、眼に入ってもノグチは、そんな心配を無視したという。1986年のヴェネチア・ビエンナーレの後、彼はインタヴューにこう答えた。「日本にもどり、石と向かい合ったら、石がともかくもぼくに語りかけてくれるだろう。ぼくは石の頭を叩く。石になにかを語らせるためなら、ぼくはなんでもするだろう。」

聴こえる人には聴こえるのだ。


さて、今回の石を巡るお話しはいかがでしたか。僕も石の話が聴こえる人になりたいと思った次第ですが、真のアーティストにしか与えられない特権かもしれませんね。しかし、石が語るのは天界の秘密だったのでしょうか。最後に、石に関する僕の最愛の詩をご紹介して終わりましょう。

 

きょうは こどもを
ころばせて
きょうは お馬を
つまずかす。
あしたは 誰が
とおるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。(金子みすゞ『石ころ』)

 

矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』やさしさの倫理とリヴァースする視線

金子みすゞ(1903-1930/本名 金子テル)
大正12(1923)年5月3日撮影 本書より

昭和二年の夏、西条八十(さいじょう やそ)は所用で九州に向う途中、下関のプラットフォームに降り立った。彼が高く評価していた童謡詩人と会う約束をしていた。プラットフォームには、それらしい人影はなかった。関門海峡を渡る連絡船に乗るためにあまり時間はない。構内を懸命に探した彼は、ほの暗い一隅に人目をはばかるように佇んでいる、一、二歳くらいの我が子を背負った彼女を見出した。二十二・三歳くらいのつくろわぬ蓬髪に普段着姿の彼女は、裏町の小さな商店の内儀のようであったという。手紙では饒舌で十枚近い消息をよこす彼女は、意外にも寡黙だったが、黒曜石のような瞳だけが雄弁に輝いていた。「お目にかかりたさに、山を越えてまいりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言う。彼女と言葉を交わす時間よりも、その子の頭を撫でている時間のほうが長かったようにも思われる。何事も語る暇もなく分かれたが、連絡船に乗り移る時、彼女は群衆の中でしばらく白いハンカチを振っていた。が、間もなく混雑の中に消え去ったという。

彼女の名前は金子テル。大正12年6月、テルは、『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星(金の船から改名)』という四誌に童謡詩を投稿してみた。その頃、童謡・童話の世界は驚異の発展を見せていた。大正7年、鈴木三重吉編集の月刊『赤い鳥』が、子供達のための芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する最初の運動として発刊される。それに呼応したのは、泉鏡花、徳田秋声、高浜虚子、有島武朗、芥川龍之介、島崎藤村、谷崎潤一郎、佐藤春男、菊池寛、北原白秋、そして西条八十ら、錚々たるメンバーだった。

翌年、斉藤佐次郎によって『金の船』、その翌年にも千葉省三によって『童話』が生まれ、三大童謡・童話雑誌が出揃うこととなる。大正14年にはラジオ放送も始まり、白秋の『からたちの花』『待ちぼうけ』、雨情の『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などがラジオで放送されるようになった。雑誌が文化を牽引した時代だったのである。『赤い鳥』の選者は北原白秋が、『金の船』は野口雨情、『童話』は西条八十が選者だった。彼らは、これらの雑誌に盛んに作品を発表し、自らが投稿欄の選者を務め、その評も書いた。希望に溢れる若い読者がそれに呼応しようとした。大正デモクラシーの良き時代であった。下関の商品館の一角に書店の小さな出店を任されていたテルは、そんな読者の一人だった。

テルは西条八十の詩の世界に惹かれた。この本の著者である矢崎節夫(やざき せつお)は八十とテルの作品世界の共通性を挙げている。

蟻 蟻 寂しかろ
はこべの葉っぱに ついてきた
道権山の 黒蟻を 神田の通りで 放したが
蟻 蟻 寂しかろ 路がわからず さびしかろ (西条八十『蟻』大正9年)

思いだすのは雪の日に 落ちて砕けた窓硝子
あとで あとでと思ってて ひろはなかった窓がらす
びっこの犬をみるたびに もしやあの日の窓下を とほりやせぬかと思っては
忘れられない、雪の日の 雪にひかった窓がらす(金子みすゞ『硝子』)

西条八三(1892-1970)

ここにあるのは、小さな者たちへの眼差しとやさしさゆえに生まれる倫理性というべきものであろうか。テルのペンネームは「みすゞ」という、篠竹のことを指すけれど、もともと「信濃の国」にかかる枕詞である「みすゞ刈る」に由来すると言われる。だが、筆者は、万葉集の「信濃」の国にかかる枕詞は「みこも刈る」であり、この「みこも」を江戸時代に賀茂真淵が「みすゞ」と読み間違えたために普及した言葉だという国文学者の稲岡耕治の説を引いている。アララギ派の詩人は、この「みすゞ」を好んで使っていたというのだ。

投稿してから三ヶ月後、みすゞは逃げ出したいほどの気持を抑えて、9月号の雑誌のページを開いた。『童話』には彼女の作品『お魚』『打ち出の小槌』が、『婦人倶楽部』には『芝居小舎』が、『金の星』には『八百屋のお鳩』が、『婦人画報』には『おとむらい』が入選していた。特にこの『おとむらい』は童謡欄ではなく抒情小曲欄に掲載されていて、後に西条八十編による『現代抒情小曲選集』に選ばれている。みすゞの作品は、優れた童謡詩人のそれとして、このように最初から受け入れられていたのである。

海の魚はかわいそう

お米は人につくられる
牛は牧場で飼われてる
鯉もお池で麩をもらう

けれども海のお魚は
何にも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる

ほんとに魚はかわいそう(金子みすゞ『お魚』)

クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)詩
『とんでいけ海のむこうへ』バーナデット・ワッツ画

この『お魚』ともう一つの『打出の小槌』について西条八十は『童話』誌の選評にこのように書いている。「言葉や調子の扱い方にはずいぶん不満の点があるが、どこかふっくりした温かい情味が謡全体を包んでいる。この感じはちょうどあの英国のクリスティーナ・ロセッテイ女史のそれと同じだ。閨秀の童謡詩人が皆無の今日、この調子で努力していただきたいとおもう。」クリスティーナ・ロセッティはあのラファエル前派のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妹にあたる。やはり詩人で童謡詩も多い。興味深いので、みすゞの作品と比較してみていただきたい。

 

もしも ネズミが空をとべて
もしも カラスがすいすいおよげて
もしも 魚があるいたり
おはなししたりできるなら
わたしだって
ねずみやカラスや魚になってみたい

ネズミが空をとべたなら
とおくへとんでいってしまいそう
カラスが水の中をおよげたら
灰色にかわってしまいそう
魚があるいたり おはなしできたら
さあ いったいなんていうかしら ? (クリスティーナ・ロセッティ『とんでいけ海のむこうへ』より 高木あきこ訳)

 

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)は速く走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)

 

上 海上アルプスと呼ばれる青海島  下 仙崎の街と仙崎港

金子みすゞは、明治36年(1903)山口県長門市仙崎に生まれた。日本海に面した漁師町である。向いには、海上アルプスと異名をとり多くの文人が訪れた風光明媚な青海島(おおみしま)がある。大型の真鰯である大羽鰯の獲れるシーズンには町は祭りのようになったという。土佐の津呂、紀州の太地とならぶ捕鯨基地でもあった。このような漁業を基盤にみすゞの生まれた明治の末から大正にかけて小さな町にもかかわらず芸者が三、四十人もいて、遊郭も七、八件あるような豊かさを誇っていたようだ。

父庄之助、母ミチの長女として生まれた。その父は下関の上山(うえやま)文英堂という叔母フジの嫁ぎ先であった書店の支店長として清国にある営口という町に赴任した。大連の近くだが、折からの反日運動によってこの営口で殺害される。テル(みすゞ)が三歳になろうという時だった。兄弟は、兄の堅助と弟の正祐(まさすけ)がいたが、叔母フジと嫁いだ上山文英堂の店主であった上山松蔵との間には、子供がなく、当時一歳だった正祐が養子に出された。それが悲劇の序章となるのだが、まだ誰も予想だにしなかったことである。

それらの関係もあってのことだろうが、金子文英堂という書籍と文房具を売る近辺の大津郡で唯一の書店を開業することになる。祖母ウメ、兄堅助、母ミチ、そしてみすゞとの四人暮らしだった。母は物静かで賢く美人で鈴を震わせるような声であったという。丁稚にさえ「あなたは本屋さんにきたのだから、本をたくさん読みなさい」と言ったような人で、文学志望する彼に「雲が流れる」という文章には何通りもの書き方があるのだと教えたとも言われている。店には、いつも子供たちの笑いが絶えなかった。

「母さま私は何になる。」
「いまに大きくなるんです。」

杉のこどもは想います
(大きくなったらさうしたら
峠のみちの百合のよな
大きな花を咲かせよし
ふもとの藪のうぐひすの
やさしい唄もおぼえよし‥‥‥。)

「母さま、大きくなりました
そして、私は何になる。」
杉の親木はもうゐない
山が答へていひました
「母さんみたいな杉の木に。」(金子みすゞ『杉の木』「童話」大正14年6月号に掲載)

みすゞは瀬戸崎尋常小学校、大津高等女学校を卒業した。級友たちは異口同音に彼女の優しさ、人の悪口を決して言わない性格の円満さ、笑顔の美しさ、頭の良さを指摘している。一度、先生にあてられて答えに窮していた時、ふと見るとみすゞは居眠りしている。あたらなければよいがと思っていると「金子さんはどうですか」と先生は問う。すると眠っていたはずの彼女は、すっくと立ち上がってすらすらと答え、級友たちをあっと驚かせた。「こっくり正解物語」は、一度ではないらしく下級生にも知れ渡っていたという。

大正7年、叔母のフジが亡くなった。翌年は、みすゞが女学校を卒業した年にあたるが、妻フジを亡くした上山松蔵と母ミチとの再婚が決まった。その後、兄堅助が結婚し、みすゞは、上山文英堂の手伝いをするために母のいる下関に移った。文英堂は、下関の中心部にあり、店員が常時5,6人いる比較的大きな書店で、洋書も扱い中国の営口や大連にも支店を持っていた。日露戦争当時は日本人が多く中国に進出し、日本の書籍に飢えた時期があって、成功を収めた。みすゞはというと、商品館と呼ばれた幅2.5メートルの道の両側にずっと小さな店の並ぶ一角にあった文英堂の支店を一人任されていた。好きな本に囲まれ、好きな時に好きな本が読め、童謡を書く時間も持てる。立ち読みしてもにっこり笑って怒らない、一緒に並んで読ませてくれるお姉さんに子供たちは、すぐになつくようになった。この頃、みすゞが童謡を童謡誌に投稿するようになる時期なのである。

矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』

筆者の矢崎節夫は、1947年東京の生まれ。早稲田大学英文科を卒業。詩人の佐藤義美、まど・みちおに師事した。佐藤義美さんと言えば『犬のおまわりさん』、まどさんと言えば『ぞうさん』という童謡を作詞した人として知られる。日本人なら誰でも知っている童謡である。ちなみに、まどさんは「詩は自分のなかの自分が書き、童謡は自分のなかのみんなが書く」と語った人だ。矢崎さん自身も1975年に『二十七ばん目のはこ』で児童文学学会賞、1982年には『ほしとそらのしたで』で赤い鳥文学賞を受賞している。

矢崎にとって金子みすゞは、10代の終わりからずっと憧れの存在だったという。ずっと時代は遡るけれど、童謡を雑誌に投稿し続けていた彼女は、当時、多くの若い読者たちの憧れの的でもあった。彼は、時という塵に覆われた彼女の作品を1960年代半ばからずっと探し続けていたという。端緒は、大学一年の時に『日本童謡集』の中に収録された『大漁』という詩を読んだとき、自分の中心と思っていた目の位置を逆転させられるほどの激しく、優しい鮮烈さを味わったという。それまで知っていた童謡の作品は全て消え去った。次にもう一つの作品を知ったのは大学のアルバイトで佐藤義美の所に原稿を取りに行った時である。佐藤は、みすゞと同じ時代に童謡誌に投稿していた人だった。しかし、みすゞ探しはいっこうに進展しなかった。1982年のこと、試しにと思い下関の書店のことを知人に調べてもらったのだが、偶然にも実弟上山正祐うえやま まさすけ)氏が東京の劇団若草で働いていることが分かったのである。こうして金子みすゞの生涯と作品が奇跡的に明らかとなる。その生涯を綴ったものが本書であり、それによって矢崎氏は日本児童文学学会賞を、『金子みすゞ全集』を編纂したことによって同特別賞を受賞されている。

 

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ。

浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。(金子みすゞ『大漁』大正13年)

 

しかし、事態は一歩一歩破局へと進んでいった。上山文英堂に養子に行った正祐には、養子であることは厳重に伏せられていた。したがって、みすゞが実の姉であることは知らずに恋心をいつしかいだくようになる。文学や作曲について話のできる女性、みすゞの兄と共にある種の文化サロンのような集まりもできるようになった。しかし、周囲はあわてはじめた。特に正祐の父親である松蔵は、みすゞの結婚を早めたかったのである。正祐は、「好きな人はいないのか」と詰め寄ったが、みすゞは「仕方がないの」、好きな人は「黒い着物を着て、長い鎌を持った人なの」と謎の言葉を漏らすだけだった。結婚相手として白羽の矢がたったのは宮本啓喜という上山文英堂書店の手代格の男だった。父親の松蔵としては息子の正祐が店を継げるようになるまで店を任せられる人間と考えていたようだ。

大正15年(1926)にみすゞは結婚した。夫の宮本啓喜は、1901年に熊本の酒屋と氷の卸業を営む家に生まれたが、母を亡くして後添えが実家に入ると家を飛び出すように博多に出て株屋に奉公した。当時は第一次大戦中の好景気で儲かれば遊郭で遊ぶ青春だった。しかし、大戦が終わると経済破綻と不況の時代がやってくる。結婚の2年前には、博多で遊郭の女性と心中事件も起こしていた。下関に渡って、大正14年に上山文英堂に勤めたのである。商売のうまさを店主の松蔵に買われた。

金子みすず『繭と墓』 壇上春清 編 金子みすゞと同時代の投稿詩人によって編集された初めてのまとまった詩集だった。1970年刊

養子であることの事実を知った弟の正祐は父親の松蔵にいっそう反抗するようになり家を飛び出した。松蔵は家出の原因をみすゞと宮本啓喜との不仲にあると思い、啓喜に当り散らし、夫婦二人は文英堂から出ていくことになる。一旦は松蔵と宮本の仲は修復するが、他の女性問題が浮上して、松蔵はみすゞと宮本を離婚させようとした。しかし、彼女は子供を宿している。この年、西条八十の渡仏に伴って童謡誌への寄稿を控えていたみすゞの詩は、その帰国とともに再び掲載されるようになるが『童話』誌そのものが突然廃刊になってしまう。一方で、大正15年7月には童謡詩人会編の『日本童謡集一九二六年版』に彼女の『大漁』と『お魚』が選ばれるという快挙を果たしている。みすゞが西条八十と下関の駅で会ったのは、この翌年のことだった。こうして、みすゞは「童謡詩人会」の一人として迎えられるのである。与謝野晶子に継ぐ女性会員であった。

 

蚕は繭に
はいります。
きゅうくつそうな
あの繭に。

けれど 蚕は
うれしかろ
蝶々になって
飛べるのよ。

人はお墓へ
はいります。
暗いさみしい
あの墓へ。

そしていい子は
翅が生え
天使になって
飛べるのよ。(金子みすゞ『繭と墓』)

 

一度、夫婦二人は熊本に里帰りした後、下関に戻って駄菓子屋とくじの景品につくおもちゃ卸業を始めた。しかし、夫の花柳病である淋病に感染したみすゞは娘のふさえと一緒に風呂に入ることもはばかる状態となり昭和3年には一時病床に伏せった。夫から童謡を書くことや投稿仲間からの多くの手紙に返事を書くことを止められていた。この頃、正祐は上京して文芸春秋社に就職している。みすゞの手紙が編集長の古川緑波を動かしたようだ。夫の啓喜は遊郭遊びが再燃し、家に金も入れず他に好きな女性をつくっていた。『みんなを好きに』や『私と小鳥と鈴と』は、結婚してからの作品だという。それらの作品とは、うらはらに夫婦仲は険悪になっていった。昭和4年から三冊の自らの童謡集を清書し始める。娘は3歳になり、その片言のおしゃべりを『南京玉』と題して記録するようになった。その年までに遊郭の周辺を4回もの転居を繰り返し、みすゞの体調は悪化していった。

今野勉『金子みすゞ ふたたび』

昭和5年、みすゞは宮本啓喜との離婚を決意し、上山文英堂の近くに別居する。夫は、離婚話に乗ったが娘は引き取りたかった。昭和5年には離婚届が提出された。啓喜は仕事もうまくいかず、娘か金かという要求をつきつけたが、みすゞは拒絶する。やがて、期日をきって3月10日に娘を引き取りに行くという強引な手紙がくる。3月9日、みすゞは、親しかった知人に会い、写真館で自らの写真を撮影してもらった。娘と沢山の童謡を唄ったあと寝付いたの見さだめて、文英堂の二階の奥の部屋に入り、三通の遺書を書いた。夫には「あなたが、ふうちゃん(娘のふさえ)に与えられるのは、お金であって、心の糧ではありません。ふうちゃんは心の豊かな子に育てたいのです」と書いている。もう一通は弟の正祐宛てで、母には、こう書いた。「主人と私は気性が合いませんでした。それで、私は主人を満足させるようなことはできませんでした。主人は私と一緒になっても、他で浮気をしていました。浮気をとがめたりはしません。そういうことをするのは、私にそれだけの価値がなかったからでしょう。また、私は妻に値する女ではなかったのでしょう。ただ、一緒にいることは不可能でした。」そして、睡眠薬のカルモチンを飲んだ。芥川龍之介が、それで自殺したことで知られる薬だ。こうして、26歳の彼女は旅立ったのである。

当時のならいとして、女性の立場とは、このようなものであったかもしれないが、童謡詩人として名を馳せようとしていた文学を目指す人間と商売に奔走し遊興に馴染んだ夫とは相いれるはずもなかったのである。そして、みすゞの性格では、結婚を拒否できなかったし、それらのことで人を非難できなかった。それは彼女の精神的な基盤を形成している何かだろう。それなくして、このような詩は生まれなかった。それもやさしさの倫理というべきものであった。刃は自らに向けられたのである。娘の将来を案じてでもあろうが、夫との価値観の相違を訴える手段でもあったろう。それを考える胸が詰まる。

 

流れの岸のみそはぎは、
誰も知らない花でした。
ながれの水のはるばると、
とおくの海へゆきました。

大きな、大きな、大海で、
小さな、小さな、一しずく、
誰も、知らないみそはぎを、
いつもおもって居りました。

それは、さみしいみそはぎの、
花からこぼれた露でした。(金子みすゞ『みそはぎ』)

 

みそはぎ(禊萩の名に由来する)

演出家で脚本家である今野勉(こんの つとむ)氏は、独自に金子みすゞの生涯を追った『金子みすゞ ふたたび』を著しているけれど、そこで、いくつかの疑問点を提起している。ひとつは、当の3月10日に夫の啓喜は東京にいて、みすゞの死の知らせを受け取り弟の正祐と下関へ向かっていることだった。そして、弟の正祐は、自殺の責任が全て夫の啓喜にあるとは思っていなかったという。啓喜自身は、麻雀と芝居好きで、後年の彼を知る人は酒の飲めない温厚な人柄だと語っている。みすゞの父親の命日が2月10日であったことから、その10日を選んだのではないかという推測もあった。その自死については謎がある。娘のふさえは、松蔵が啓喜の父親に懇願の手紙を出し、結局みすゞの母ミチによって育てられることになった。

確かにみすゞの詩は、童謡という枠からはみ出てしまっているようなところがある。『海を歩く母さま』という、こんな逼迫した悪夢を見るようなイメージは、うちの母様はえらいという言葉にまとめあげられているのだが、何かを暗示している。何だろうか。彼女の詩には、虫の目や鳥の目、リヴァースする驚異的な視線があり、スケーリングする輪廻さえある。しかし、詩についてあれこれ述べるのは控えたい。谷川俊太郎さんが、まど・みちおさんの詩について語ったように「その詩について、さかしらに物言えば言うほど、自分がアホに思えてくる」のだから。

 

母さま、いやよ、
そこ、海なのよ。
ほら、ここ、港、
この椅子、お舟、
これから出るの。
お船に乗ってよ。

あら、あら、だァめ、
海んなか歩いちゃ、
あっぷあっぷしてよ。
母さま、ほんと、
笑ってないで、
はよ、はよ、乗ってよ。

とうとう行っちゃった。
でも、でも、いいの、
うちの母さま、えらいの、
海、あるけるの。
えェらいな、えェらいな。(金子みすゞ『海を歩く母さま』)

 

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
見えぬけれどもあるんだよ、
見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ『星とたんぽぽ』)

 

今回は久しぶりに本の紹介をしました。前回の歌謡のようにある程度全体を俯瞰するためには色々な材料が必要になるからです。今回は、自分のブログのための栄養補給ということになるでしょうか。機会があれば、またご紹介しますね。

金子みすゞの全集は『童謡詩集シリーズ』と『童謡全集』がある。コンパクトな『豆文庫』などもあるが、かなり色々な分野の人たちがみすゞについて書き、語っている。その中で矢崎氏が聞き手となっている『金子みすゞをめぐって』1,2,3と『あしたのジョー』の作者として知られる漫画家のちば・てつや氏が絵を添えた『わたしの金子みすゞ』をご紹介しておく。

『金子みすゞをめぐって』1,2,3 聞き手 矢崎節夫

ちば・てつや『わたしの金子みすゞ』

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に謡曲から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)

 

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part1 国見歌から催馬楽まで

 

忘れられない歌を 突然聞く
誰も知る人のない 遠い町の角で
やっと恨みも嘘も うすれた頃
忘れられない歌が もう一度はやる
愛してる愛してる 今は誰のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度はやる
(中島みゆき『りばいばる』)

思ひ出すとは 忘るるか
思ひ出さずや 忘れねば
(『閑吟集』八五)

真鍋昌弘『中世の歌謡』閑吟集の世界

中島みゆきさんは、僕より少し年上だから学生時代の頃からよく聞いていた。その詞にはジンときたものだった。ほぼ同時代を生きてきたといっていい。おお、青春の1ページ‥‥感傷はやめにしよう。谷川俊太郎さんは、彼女のファンだとか。ご本人に聞いたわけではないけれど噂ではそうらしい。彼女の歌詞と谷川さんの詩に使われる言葉との関係をみてみたら面白いかもしれないけれど、今回は、まず古代からの伝承文学と歌謡の流れなどを追ってみたいと思っている。伝承文学と歌謡とは互いに手を取り合ってきた。真鍋昌弘さんの『中世の歌謡 閑吟集の世界』には、恋やつれに関するこんな興味深いつながりが指摘されている。

一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくわが身はなりぬ (『万葉集』巻四)

なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重にまわる(『松の葉』三味線組歌裏組/江戸中期歌謡集)

こなた思うたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る(『山家鳥虫歌』/江戸中期民謡集)

春二重(ふたえ)に巻いた帯
三重に巻いても余る秋
暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
(美空ひばり 『みだれ髪』より 星野哲郎 作詞)

みだれ髪、憎や、恋しや、辛や、重たやなどの言葉は『閑吟集』にもみられる中世近世小歌ゆかりの語句であるという。作詞者の意識にあったのか、なかったか分からないけれど、小歌の抒情の流れの中に存在するある類型と見ることができるようだ。歌は世につれるだけでなく、世は歌につれるのである。

 


歌謡とは歌われる歌である。当然、上古から歌謡はあった。代表的なものは、万葉集は舒明天皇の「望国歌」につながる国見歌である。国見は歌垣と共に行われた春のはじめの行事であり、山行き、山遊び、花見に連なる春山入りの行事だった。天文暦が取り入れられた推古朝以降、春の国見と秋の新嘗祭に加えて正月の儀礼が加わったと言われる。古代には歌謡は宮廷社会で発達し、平安末以降は民間の芸謡が勃興し、宮廷歌謡は衰退をみた。


 

上代の歌謡 国見と花見・歌垣・宮廷歌謡

土橋寛『古代歌謡の世界』1973年刊

上代の歌謡は、古事記・日本書紀・万葉集にみられる。記紀にある歌謡は、伝承者・作者が作った物語のための歌謡と物語のために取り入れた既に存在した歌謡とに分けることができる。後者は独立歌謡と呼ばれ、酒宴や国見での歌謡、あるいは、当時の民謡・芸謡・童謡(わざうた)などとして知ることができる。芸謡とは専門の歌手によって歌われ、歌い手と聞き手とは完全に分けられる。聴き手の娯楽としての歌謡である。平安末の今様が生まれるまで歌謡の中で大きなシェアを占めることはなかった。これに対して民謡は歌い手が同時に聴き手でもあり、宗教行事であると共に娯楽でもあった。支配者が代わっても時代の思想がどう変化しようと村の民謡の性格は変化しない。個人が泣きたい気持ちを歌いたくてもそれを皆と歌う訳にはいかなかった。その社会的機能が民謡を不変のものにした理由だと日本文学者である土橋寛(つちはし ゆたか)さんは言う(『古代歌謡の世界』)。奈良朝の風土記にある歌垣の歌のような古代民謡と明治以降の盆踊り歌である近代の民謡とは驚くほど似ているというのである。土橋さんのこの著作からご紹介する。

 

1.国見歌と花見歌

古代の国見歌と現在の民謡を比べてみたい。

大和は 国のまほろば
畳なづく 青垣
山ごもれる 大和しうるはし (古事記三十)
千葉の葛野を見れば
百千足(ももちた)る 家庭も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(古事記四一)
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
淡島 淤能碁呂島(おのころしま)
檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ(古事記五三)

高い山から谷底見れば 稲は苗代の花盛り (弘前 盆踊り歌)
八溝山から谷底見れば 瓜や茄子の花盛り (茨城 ヤーハー節)
桜山から瀬戸内見れば 瀬戸の島山真帆片帆(三原 やっさ節)

花盛りを讃めることは豊作の予祝行事であった。「田主さんの山には栗の花が咲いたげな 七重花が八重にさいたげな(山口 田植え歌)」山行は、山菜取り草取りと同時に宗教行事であり、男女の出会いを提供する場でもあった。栗や藤の花房は稲の穂を連想させるという。同じように花讃めに対して国讃めがある。豊作への祝歌が花讃め歌であるなら国讃め歌は郷土の繁栄の祝歌、お国自慢となる。

三諸は 人の守る山
本へは 馬酔木花咲き
末へは 椿花咲く
うら麗し 山ぞ 泣く子守る山 (『万葉集』)

人々が朝夕に眺める山は美しく花々の咲き乱れるたまふりの山。花讃め歌と同時に山讃め歌、国讃め歌ともなっていよう。国見は景色を愛でるのだが、とりわけ雲と煙への言及が注目される。景色の中の微妙な兆しを見るのは、そのような不定形なものに意を注ぐことが肝要にもなるのだろう。

2.歌垣の歌

天飛(あまだ)む 軽嬢子(かるおとめ)
したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(『古事記』)

夏草の あひねの浜の 蠣貝に
足踏ますな 明かして通れ(『古事記』)

歌垣の歌は異性を誘う歌が大胆にも歌われる。上の歌は古事記にある軽太子(かるのひつぎみこ)と母を同じくする実妹の軽大朗女(かるのおおいらつめ)との禁断の恋を描いた話しに登場する歌である。歌の内容が、話の流れとは繋がらないので独立歌謡であろうと言われている。軽は市の開かれた所であることから、上の歌は軽の市の歌垣で男たちが軽の乙女たちにこっそり寝て行きなさいと誘い、下は夜の浜は貝殻で足を傷つけるから明るくなってから帰ってよと男を引きとめる歌である。集団で行われる歌垣では大胆な歌詞が多い。誘う歌ばかりではない。相手を袖にする歌、結婚は早めにしろと忠告する歌、老いては懐旧の情と若者への教訓を歌うものなど特に現在まで残っている民謡には面白いものが多い。

二十過ぐれば奥山つつじ 咲いておれども人が見ん(石川 雑謡)
器量がよいとてけんたいぶり置きやれ、深山奥山その奥山の、岩に咲いたる千里のつつじ、なんぼ器量よく咲いたがとても、人が手出さなきゃ、その身そのままで果てる(岐阜 小大臣)
おらも若い時ゃ山でも寝たけゃ 山で木の蔭 草のかげ(岩手 さんさ踊り)

3.宮廷歌謡

東京楽所『日本古代歌謡の世界』CD 神楽歌、東歌、久米歌、田歌、倭歌など珍しい音源が多様に収録されている。特に一曲目の神楽歌の「縒合(よりあい)」は名曲、名演である。

正月行事が宮廷に取り入れられるようになって、春のはじめの国見の儀礼は次第に行われなくなる。宮廷行事も本質的に呪術行為であり、予祝儀礼であったことは民間と同様であったが、そこには当然政治的な意味合いも帯びていた。寿祝されるのは天皇であり、寿祝するのは中央や地方の氏族の長またはその代理であった。豊明(とよのあかり)などとも呼ばれた酒宴は新嘗会などの重要なファクターであり、主人の繁栄を寿ぐ儀礼的な「宴座」から主客入り乱れる無礼講たる「隠座」へと連続的に行われた。主人側が酒を勧める勧酒歌と客の方からの答礼となる謝酒歌がある。主役の天皇の傍で接待する役は「共食者(アヒタゲビト)」と呼ばれ、親王や一世源氏が勤めた。このような接待役を女性がつとめる場合、宮廷に限らないが、容姿の美しさ、美声が要求され、次第に専門化していった。民間では主人の子女がその役を果たしていたが、やがて接待役の女性が登場し、遊女と呼ばれるようになる。傀儡子(くぐつし)などの芸能者とも関係が深い。彼女たちが後代の今様などを流行させることになるのである。

宮廷儀式の中で最も重要なものは天皇即位に行われる大嘗祭である。それは中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上となる。「臣」姓氏族による勧酒的性格を持つ寿歌と「連」姓の伴造氏族による職制に即した忠誠を誓う戦歌謡に大きく分けることができる。前者には吉野に住む国栖(くず)が大御酒を応神天皇に捧げて歌った国栖の歌、天語(あめがたり)連の伝えた天皇への服属を誓う天語歌などがあり、後者には来目(くめ)部の戦時の酒宴の歌である来目歌がある。

白樺の生に 横臼を作り
横臼に 醸みして大御酒
甘らに 聞こしもち飲(を)せ まろが親(ち)(『記紀』国栖歌 部分)

 


宮廷における神楽歌・催馬楽・小歌の時代がやってくると外来の楽が日本の楽に融和し、歌詞が地方民謡の鄙びた性格を持ち始める。やがて、従来の宮廷歌謡は下火となり、平安時代末には最新流行の芸謡である今様が一世を風靡するようになる。こうして、中世は風俗的な歌謡の時代になっていくのである。


 

神楽歌

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

宮廷で行われる神楽は大嘗会の琴歌神宴に発したという。この神楽歌は、かがり火を焚き「庭火」の曲を奏する庭火に始まり、神降ろし(採物/とりもの)、神遊び(前張/さいばり)、神上がり(明星・其駒)という構成になっている。これはもともと石清水八幡の神遊びを宮廷に参上して行ったものが、宮廷の行事化されたものであるとは折口信夫の説である。天皇はまれ人神であり、群神を伴う長い旅路を象徴する庭でその経過を再演し、憑代である採物を人長が持ち、神の降臨によって一体化する。神遊び歌(前張)は一種の宴会歌謡であり催馬楽(さいばら)と同じく民間のものを多く取り入れている。このような神遊びの形態は民俗芸能にも多くみられ、笹の葉を先端に残した竹の枝によるサゲ杖を持った音頭取りであるサゲが「田の神おろし」の歌を歌って田の神そのものになっていくという「太田植」の神事などと同じであるという(臼田甚五郎『神楽歌』解説)。「明星」の歌にはじまって神々との別れを惜しみ、神を送る歌が終わると、神宴は御遊へと移り、雅楽、催馬楽の演奏となるのである。神楽歌の中から、もともとは恋の喩え歌であった「前張(さいばり)」と最後の曲である「神上」を掲載しておく。本と末とに分かれて歌われている。さしばりとは獣の害を防ぐために張り巡らした木綿の垂(しで)のことである。

「前張」
本 さしばりに 衣は染めむ 雨降れど
末 雨降れど 移ろひがたし 深く染めてば
本方 あちめ おおおお しししし
末方 あちめ おおおお しししし

「神上(かみあげ)」
本 すべ神は よき日祭りつ 明日よりは 八百万代を 祈るばかりぞ
末 すべ神の 今朝の神上に あふ人は 千歳のいのち ありといふなり

 

催馬楽

平安初期、清和天皇が即位した時の大嘗会が貞観元年(859)に行われた。大極殿の前に設けた悠紀、主基の両殿にて大嘗祭が終わると悠紀の帳で宴(うたげ)が開かれ、悠紀の国の産物が献上された。主基の座に移ると悠紀の国が風俗の歌舞を奏し、この国の献上した衣料を親王以下諸臣に賜った。この夜、天皇は豊楽殿の後房に留り文武百官も侍宿し、親王以下参議以上が御在所に侍り、琴歌神宴に終夜歓楽する。次の日は悠紀、主基の順番が入れ替わって同様の神宴が開かれる。三日目は悠紀・主基の両帳が取り払われ豊楽殿にて天皇が百官のための宴を開き、多治氏が田舞(たまい)、伴・佐伯の両氏による久米舞、阿倍氏の吉志舞(きしまい)、内舎人(うどねり)が倭舞(やまとまい)を、夜には宮人の五節舞が披露されたのである。この時には催馬楽の歌が多く取り上げられ、歌われた。同年に尚侍(ないしのかみ)であった広井女王(ひろいのひめみこ)が八十歳余りで亡くなったと記録に残っている。歌の名手であり催馬楽をも得意とした。諸大夫や少年の好事者が多くその歌を習ったという。この頃には既に催馬楽が宮中で盛んに歌われていたことになるのである。

催馬楽は、特に一条帝(980-1011)の頃が最も盛んであったが中世に入って衰退したといわれる。諸国から貢物を朝廷に運ぶときに歌われた歌というのが一般的な解釈であるが、万葉集にある『我駒(あがこま)』の歌が使われていることから馬を駆り催す歌であることは間違いない。こうしてみると万葉集の影響力は大きいのだ。それから唐楽の「催馬楽(さいばらく)」の拍子にあわせて歌われたという説、神楽歌の前張(さいばり)からサイバラになったなどの説があり、逆に催馬楽が前張に取り入れられ神楽歌になったなどの説があるようだ(臼田甚五郎『催馬楽解説』)。催馬楽は、律と呂という旋律で大別されているのだが、律の冒頭にある『我駒』をご紹介する。真土山(まつちやま)は特定の山というより、どの山にも当てはめることができる山である。

いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山 あはれ 真土山 はれ
真土山 待つらむ人を 行て早(はや) あはれ 行きて早見む

催馬楽に歌われる世界は多様で、国見歌に繋がる在所の名物やお国自慢も多い。それから、歌垣歌に繋がる愛人との別れ、野遊びの求愛場面があり、博打の歌など日常世界にいたるまで広く人間世界を描いている。和琴、箏、琵琶、笛、笙、篳篥(ひちりき)で伴奏され、平安貴族の華麗な御遊(みあそび)と称された。大掛かりな御遊の饗宴だけでなく日常の色々の場面で口ずさまれていたのだろう。民間の歌謡が宮廷に浸透していた結果である。馬を催すとは「客人(まろうど)」が馬でやって来て馬で帰るというイメージが強く、その意味で「まれ人」の来臨と帰還という神楽歌と同じ構造を持つのではないかとは臼田甚五郎氏の説である。

なかなか良くできた催馬楽神楽の動画です。地鎮のために鈴を振りながら舞う神楽が登場しますので是非見てください。江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介しましたが、三番叟を考える上で貴重です。久喜市公式動画チャンネルより(約11分)

 

催馬楽と源氏物語

ちょっと面白いのは源氏物語と催馬楽との関係である。この物語の中で催馬楽の語句、曲名などを含めて使われている例は、延べ56曲、曲数にして23曲にのぼるという。現存する催馬楽が61曲であるから三分の一を超える数である。『源氏物語』54帖のうち催馬楽が登場する巻は29巻に及ぶ。催馬楽は、民謡風な風俗歌を外来の雅楽調で歌った。舶来音楽に影響を受けた和製ポップスといったところだろうか。

「胡蝶」の巻には、冷泉帝が朱雀院に御幸の際、楽人を乗せた船が池を往来する華やかな宴会が催され、呂律の最初の曲『安名尊(あなとうと)』が歌われたとある。これは正式な宴席に歌われる催馬楽であった。

「物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴ども調べ、いとはなやかにかきたてて、『安名尊』遊びたまふほど、『生けるかひあり』と何のあやめも知らぬ賎の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処にまじりて笑みさかえ聞きたり。(『源氏物語』「胡蝶」)」

あな尊 今日の尊さや 古(いにしへ)も はれ
古も かくやあれけむや 今日の尊さ
あはれ そこよしや 今日の尊さ (『安名尊』)

これに対して笛か扇拍子程度の伴奏で気楽に歌われる場合や鼻歌まじりに口ずさむ場合もある。「花宴」の巻には、ほろ酔いの源氏が「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる女をとらえて一夜をともにする。女は名も明かさず、扇だけを交換して別れた。一ヶ月後、右大臣の藤の花の宴で、ここぞと思う几帳の前に立ち止まり「扇をとられてからき目を見る」と催馬楽の『石川』の替え歌を歌ってさぐりをいれた。「高麗人の言い違いですか」という者は事情を知らない者である。そこに、返事をせずに溜息をつく方がいるのである。色好みの源氏には、この種の例は多いという(仲井幸二郎『源氏物語と催馬楽』)。

「そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 『扇を取られて、からきめを見る』と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。『あやしくも、さま変へける高麗人(こまうど)かな』といらふるは、心知らぬにやあらむ。(『源氏物語』「花宴」)」

石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔いする
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれなるか
かやるか あやるか 中はたいれたるか(『石川』)

このように源氏物語が書かれた11世紀初頭は、催馬楽が最も盛んな時代であった。催馬楽の歌詞は日常的につかわれるほど宮廷生活に浸透していたことになるのである。

 


今回は「国見歌から閑吟集へ」と題し、その part1 として「国見歌から催馬楽まで」をお送りした。歌は世につれるのだが、その中に見られる強力なファクターは万葉集だったことに今さらながら驚かされる。そして民謡の不変性を教えられた。若い人が民謡から離れていることに危惧を抱く人も多い。農村や町の共同体が失われていく現在では、皆で盆踊りを踊り、歌うということはなかろう。僕は、民謡が芸謡として特化するより、どんな人でもよいから町の盆踊り大会で民謡を小さな子供たちに歌って聞かせる、あるいは一緒に歌うことはできないのかと思っている。それが本来の民謡のあり方なのだから。


次回は、いよいよ今様と小歌をご紹介する予定です。お楽しみに。

 

「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。

 

ニュース

ロンドンでのグループ展 2018

ロンドンでのグループ展

2018  11/26-30

スウェイギャラリー ロンドン       http://london.sway-gallery.com/home/exhbition/

月曜ー金曜 11:00~19:00
土・日曜 11:00~20:00 要予約 

Sway gallery , London

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Afterimage of monochrome 15
60.6cm×50cm

Sway gallery , London

26-30 November 2018

70-72 OLD STREET, LONDONEC1V 9AN

 +44 (0)20-7637-1700

A group exhibition of unique and creative Japanese artists, curated by Artrates
Mon-Fri → 11:00-19:00 Late Opening Thu 29 Nov → 11:00-20:00 (RSVP)

PARTICIPATING ARTISTS:
● Maki NOHARA (Oil Painting)
● Sei Amei (Watercolour)
● Fumi Yamamoto (Mixed Media Painting)
● chizuko matsukawa (Embroidery Illustration)
● Naho Katayama (Paper Cut Works)
● Yuki Minato (Japanese Ink Painting)
● noco (Mixed Media Painting)
● Nobutaka UEDA (Mixed Media Painting)
● Harumi Yukawa (Watercolour)
● Kaoruko Negishi (Acrylic Painting)

● IWACO (Doll Maker)

 


展覧会の報告

Sway Gallery , London     26-30 November 2018

ロンドンのSway Gallery から展覧会の報告をいただきました。「伝統的な作風の中にもモダン性を感じる」「色の濃淡のコントラストがインパクトがある」というお客様のコメントがあったとのこと。作品の背後の世界やストーリーについても知りたいというお客様もいらっしゃり、ぜひご本人がいらっしゃれば!というギャラリーのスタッフからのコメントもありました。好評をいただいたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年 ニューヨークでのグループ展

ニューヨークでのグループ展です。 2017年 10月17日(火)~21日(土)

短期間の展覧会で恐縮ですが、おいでください。

Jadite Galleries   New York

413 W 50th St.
New York, NY 10019
212.315.2740

https://jadite.com/

【Art Fusion 2017 Exhibition】

October 16-21
Hours: Tuesday – Saturday Noon-6pm

 

Fumiaki Asai, UEDA Nobutaka, Izumi Ohwada, Ayumi Motoki
and others

Opening: Tuesday, October 17 6-8pm

MAP(地図) https://jadite.com/contact/


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Opsis-Physis 12
1997   53cm×45.5cm


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterimage of monochrome
2016  45.5cm×53cm

 

 

2017年10月18日

秋島芳惠 処女詩集『無垢な時間』表紙デザイン

 

秋島芳惠詩集『無垢な時間』表紙

秋島芳惠(あきしま よしえ)さんは、現在90歳を超えておられると聞いている。広島に住み、60年以上に亘って詩を書き続けてこられた。だが、生きているうちに自分の詩集を出版するという気持ちは持たれていなかったようだ。

この間、僕が彼の詩集の表紙をデザインした豊田和司さんが訪ねて来て、こんな素晴らしい詩を書く人なのに、詩集が一冊も出版されていない。それで自分たちは、それを出版したいと思っている、ついては、表紙をデザインして欲しいとおっしゃったのである。僕は、正直言ってちょっと困った。自分のグループ展も近かったからである。だが、自分の母親をこの4月に亡くしたばかりだった。秋島さんとほぼ同い年のはずである。ちょっと心が疼かないはずもなかった。母への想いが秋島さんと重なってしまったのである。それで、お引き受けした。

しかし、デザインはかなり難航した。表紙に使う絵は決まっていたのだけれど、どうも色がしっくりこないのである。僕は絵を制作する時には、ほとんど煮詰まったりしないタイプなのだけれど、今回は久々に頭を抱えた。色が合わない。渋くはしたいが、かといって色は少し欲しかったからである。色校もし直した。その時点でのベストだと思っている。秋島さん御自身が気に入ってくださったと聞いて、ほっとした。

自分のことはさておき、このような企画を実現した松尾静明さんや豊田和司さんにエールをお送りしたいと思う。自分たちが、良いと思うものを残していかなければ、やはり地域の文化は育っていかないからである。こんな企画が色々な分野でもっとあればいい。

秋島芳惠詩集 表・裏表紙

2017年 6/9~7/15 ウィーンでのグループ展です。


ウィーンでのグループ展、開催のお知らせ。

場所: アートマークギャラリー・ウィーン   artmark – Die Kunstgalerie in Wien

日時: 2017年6月9日(金)~7月15日(土)

作家
Frederic Berger-Cardi | Norio Kajiura | Imi Mora
Karl Mostböck | Fritz Ruprechter |  Chen Xi
中島 修  |  植田 信隆


 

 

 

artmark Galerie

Wien
Palais Rottal
Singerstraße 17
Tor Grünangergasse
A-1010 Wien

T: +43 664 3948295
M: wien@artmark.at

http://www.artmark-galerie.at/de/

artmark galerie map

 

 

 

 

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

豊田和司 処女詩集『あんぱん』表紙デザイン

ご縁があって、詩人豊田和司(とよた かずし)さんの処女詩集『あんぱん』のカヴァーデザインをさせていただきました。僕は折々、自分の画集を作ったことはあるのですが、その経験が活かせたのか、豊田さん御本人には、気に入ってもらっているようです。彼の作品は、とても好きなのでお引き受けしました。詩と御本人とのギャップに悩むと言う方もいらっしゃるようですが、そういう方が芸術としては、興味深い。ご本人に了解を得たのでひとつ作品をご紹介しておきます。

 

豊田和司詩集『あんぱん』表

みみをたべる

みみをたべる
パンのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
おんなのためにとっておいて

みみをたべる
おんなのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
たましいのためにとっておいて

たましいの
みみをたべる
やわらかくておいしいところは
しのためにとっておいて

みみをたべる
しのみみをたべる
やわらかくておいしいところは
とわのいのちに
なっていって

 


皆様、この「遅れてやって来た文学おじさん」の詩集を是非手に取ってご覧くださればと思います。

お問い合わせ tawashi2014@gmail.com

三宝社 一部 1500円+税

豊田和司詩集『あんぱん』表(帯付)と裏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年2月27日

2016年『煎茶への誘い 植田信隆絵画展』のお知らせ

『煎茶への誘い 植田信隆 絵画展』

2016年の植田信隆絵画展は、三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の若宗匠 島村幸忠(しまむら ゆきただ)さんと旬月神楽の菓匠 明神宜之(みょうじん のりゆき)さんのご協力を得て賣茶翁当時のすばらしい煎茶を再現していただき、この会に相応しい美しい意匠の御菓子を作っていただくことになりました。加えて、しつらえとして長年お付き合いしていただいた佐藤慶次郎さんの作品映像をご覧いただくことができます。「煎茶への誘い」を現代美術とのコラボレーションとして開催することができたのは私にとって何よりの喜びです。日程は以下のようになっております。どうぞご来場ください。

 

2016年10月11日(火)~10月16日(日)
広島市西区古江新町8-19
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com
 

『煎茶への誘い』

煎茶会は15日(土)、16日(日)の13:00~17:30に開催を予定しております。

茶会の席は、テーブルと椅子をご用意しています。

ご希望の方は、15日、16日の別と時間帯①13:00~14:00、②14:00~15:00、③15:30~16:30、④16:30~17:30を指定してGallery Cafe 月~yue~までお申込みください。会は30分で5名の定員となっております。お早目にご予約くださればと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

<参加費>2,000円(茶席1席 税込) 当日受付けにてお支払ください。

お申し込先 Gallery Cafe 月~Yue~
広島市西区古江新町8-19  営業時間/10:30〜18:30  定休日/月曜日
TEL 082-533-8021  yue-tsuki@hi3.enjoy.ne.jp

先着順に受け付けを行っております。茶会は一グループ30分です。各時間帯の前半、後半どちらかのグループに参加していただくことになりますが、前半の会になるか後半の会になるかは、当日の状況によりますので、あらかじめご了承ください。

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 表

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

「煎茶への誘い 植田信隆絵画展 リーフレット」 裏

 

 

 

 

 

 

2015-16年 大分県立美術館開館記念展Vol.2 『神々の黄昏』展

今年オープンした大分県立美術館(OPAM)の開館記念展Vol.2、『神々の黄昏』展に出品させていただきました。194cm×390cm(120号3枚組)が4点並んでいます。しかし、展示場はとても広いのであまり大きく感じません。こんな大きな空間でゆっくり見ていただけるのは、めったにないことなので是非実際に会場に行ってご覧くださればと思います。

近くには別府や湯布院などとてもいい温泉が沢山ありますので温泉に浸かって帰られるのもまた良いのではないでしょうか。広島からJRで2時間半くらいの距離です。

2015年 10/31(土) - 2016年 1/24(日)  http://www.opam.jp/topics/detail/295

『神々の黄昏』展会場 大分県立美術館

『神々の黄昏』展会場
大分県立美術館

大分県立美術館(OPAM)外観 板茂(ばん しげる)設計

大分県立美術館(OPAM)外観
坂茂(ばん しげる)さん設計の美しい建築です。

 

 

大分県立美術館内部 エントランスから西側を概観

大分県立美術館内部
エントランスから西側を概観

 

 

2015年11月2日

2015年 広島での個展と『能とのコラボレーション』

吉田先生の御長男も特別出演していただくことになりました。とても楽しみですね。「能への誘い」の後20~30分をめどに吉田先生とお話をしていただける機会を持ちたいと考えております。お時間のある方は、そのまま会場にお残りくださればと思います。どうぞよろしくお願いします。

『能の誘い』 2015年7月29日(水) 14:30~15:30
25席はお蔭様をもちまして予約完了となりました。

予約していただいた方々には予約整理券をお送りしております。それをお持ちになって当日会場受付までお越しください。尚、現在2名の方がキャンセル待ち予約に入っていただいております。

ueda and yoshida collaboration 1ss

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『植田信隆絵画展』
日時 2015年7月28日(火)~8月2日(日)

10:30~18:30 (最終日17:00まで)
新作を含めて10数点を展示いたします。

『能の誘い』
「能のいろ」
2015年7月29日(水)
14:30~15:30
能装束と扇のお話を中心にしていただくとともに吉田さんのすばらしい謡・仕舞の実演をご覧いただけます。
『能の誘い』は全席25名ほどのわずかな席しかありませんので、ご予約をお願いします。ご予約後整理券をお送りします。
「能への誘い」料金 2000円
予約連絡先 (7月1日より予約開始です)

植田信隆方  携帯090-8996-4204  hartforum@gmail.com
ご予約はどうぞお早めにお願いいたします。

場所
Gallery Cafe 月~yue~
http://www.g-yue.com/index.php

以上よろしくお願いしたします。

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

Gallery Cafe 月 ~yue~ 地図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015年5月14日

2014年12月 安佐北区の新しいアトリエのご案内

DSC_0291昨日12月13日に新しいアトリエに引っ越しました。広島駅近くのマンションはおいでいただくには便利なところだったのですが、大家さんもかわり長居もできなくなったので、もっと広いアトリエを探しておりました。安佐北区にある今は使われていない福祉専門学校の一室をお借りできることになりほっとしています。

 生涯でこれが最初で最後になると思われますが、こんな広い所で制作させていただいています。広島を中心に幼稚園や介護施設を運営するIGL(インターナショナル・ゴスペル・リーグの名前を記念として使われているようです)グループの建物ですが、二年は確実に使わないので好きに使ってくださいと理事長さんにいわれています。この空間にいると、とても幸福な気持ちになれます。時々、隣の介護施設から若い介護士さんたちの元気な声も聞こえてきます。

気軽に来ていただくには交通の便は良くないのですが、安佐動物公園が近くにあり、自然がとっても豊かなところなので私はとても嬉しく思っています。是非おいでください。小さな作品は佐伯区の自宅で、大きな作品はこちらで制作となります。お出での際にはメールか電話でご連絡くださればと思います。

住所はこちらです。

〒731-3352 広島市安佐北区安佐町後山 2415-6

同じ敷地内に同じくIGLグループの介護 グループホーム「ゆうゆう」がありますのでそちらの建物を目印においでください。

建物背後の権現山

建物背後の権現山

 

2014年12月14日

2014年 10月 広島での個展です。

UEDA Nobutaka one man show

『植田 信隆 絵画展 2014』 のお知らせ

昨年に続いて今年も広島で個展を開催することとなりました。皆様に支えていただいているのをとても実感しています。今年も多くの方々にご覧いただければと思います。最近作『ANIMA-L』を含めた20点あまりを展示いたします。どうぞご来場ください。

 

日時・場所は以下のとおりです。

2014年 10月16日(木)~10月22日(水)

営業時間 木・日・月・火曜日 10:00~19:30   金曜日・土曜日 10:00~20:00

最終日 水曜日 10:00~17:00

福屋八丁堀本店7階 美術画廊

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014 福屋八丁堀店 美術画廊 DM

2014年9月21日
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