西有穆山『正法眼蔵啓迪』開山のお示しじゃ!

梁楷 『寒山拾得』 宋

魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥

禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。

  • 寒山は詩にこう書いた。

人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し

三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし

これなら分かりやすい。道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」の冒頭でこのように書いている。

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしありぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)は、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めているのだ。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時で少し触れておいた。

西有穆山(にしありぼくざん 1821-1910)
90歳の肖影

弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道、つまり弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。だが、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。

どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。

阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。

何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。

「達磨はこれを凝住壁観(二入四行論)といわれ開山(道元)はこれを身心脱落(しんじんとつらく)といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊(人の心身を構成する要素)中の色心(物・心)をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」

それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧

そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。

法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。

法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」

法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」

ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。

だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。この天台本覚については『天台本覚思想と一心三観』に書いておいたのでここでは簡単にしか繰り返さない。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。

彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十八歳頃のことではないかと思われる。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の如淨禅師のもとで参禅することになるのである。

道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。

キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。

そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛の今がある。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。狸や白牛にあるのは表面的な意味で理解される諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性 行仏威儀 神通 座禅箴」注釈

穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。

その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」

馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。田地隠密にただ兀地(ごっち)に碍(さ)えられる、不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」

この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」

梁楷『六祖破経』宋

甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

「たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれど、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなわちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈(ねん)じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人仏になるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もまたあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを(『正法眼蔵』古鏡)」

「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることをと道元は書いている。この言い換えは独特だ。穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。胡来胡現、漢来漢現では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。

「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」

尽法界一面の鏡それは、すなわち法楽とは言えまいか。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元

 

西有穆山禅師略歴

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。

 

その他の参考図書

澤木興道全集 第七巻 『正法眼蔵講話』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻 筑摩書房

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part2 シナジェティック幾何学と自己規律

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

バックミンスター・フラーは1895年、ニューイングランドのマサチューセッツ州ミルトンに生まれた。奴隷制廃止運動の一翼を担ったことで知られる名家の生まれで、父はボストンで輸入業を営んでいた。大叔母のマーガレット・フラーはエマスンを中心とした超越主義者の一人で、女性の権利獲得の先導者として知られた人だった。そのあたりのことは、エミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で少しご紹介しておいた。

5歳の時、父親が亡くなる。母親は言った「坊や、何を考えたらいいかなんて思い悩むことはないのよ。いいこと? 私たちが教えてあげるから。」祖母は黄金律を教えてくれた。「汝の愛する如く汝の敵を愛せよ。汝の欲することを人にも行え(マタイ伝)。」叔父たちは、この地球上には誰もが生きていけるという保証はないのだから多くの人から生き延びるチャンスを奪わなければいけないんだと言う。大叔母のマーガレット・フラーならそんなことは言わなかっただろう。フラーは母や叔父たちが愛してくれていることが分かっていたから自分で考えることは一切注意を向けず、「人生ゲーム」を学ぶ訓練をフットボールの練習をするように行った。だが、ルールは全て誰かによって作られていた。

「この宇宙にはどんな〈個体〉も〈連続〉もないのである。われわれが扱えるのはネットワークパターンだけである。‥‥われわれはバスケットボールを連続的な表皮でできた不浸透性の〈個体〉という単体として、ゆえに球状に閉じた薄膜内部は、外部に出て行くことが気体の圧力で球形を保持できると捉えてきた。‥‥しかし、この表皮を強力な顕微鏡で見れば、結局それが連続的なフィルムてはなく、穴だらけであることに気づくはずだ。それは互いに等しく離れあった分子で構成されている。天の川のような、いわば原子の星くずのような強大なエネルギー集合体が現実に存在する。それは高分割(振動)数的エネルギー事象としての不可視な重力のように、柔軟な気球の網目を織り込んでいる〈繊維〉のもたらす張力の統合作用によってのみ互いに結合しているのである。気球は高分割数のテンセグリティ球の一例である。(B.フラー/梶川泰司 訳)」

ハーヴァード大学に進んだものの、大学のクラブの持つ階級制度に違和感を持ち始める。中間試験をサボってニューヨークのコーラスラインのメンバーを呼び、ひと騒ぎして退学になり、カナダの紡績工場で働いた。一度は許されて復学するも学費を使いこんで再び退学となった。第一次大戦が始ると海軍士官として任務にあたる。艦船と飛行機間の通信技術などの実際的な知識を学ぶことになる。

1917年、アン・ヒューレットと結婚。翌年、長女アレクサンドラが生まれるが、脊髄小児麻痺などを発症し四歳の誕生日に亡くなる。追い打ちをかけるように義父から受け継いだ新建材を製造する工場と住宅建築の会社は破産し、友人の投資は無に帰した。1927年、32歳の時、ビジネスの世界では、自分は「使い捨て」に過ぎないと感じた。自殺をしようとするほど追いつめられていた。この時、フラーにひとつの強い意識が生じる。

「体格も経験も能力も人並みで、養わなければならない妻と生まれたばかりの子供がいる健康な若い男が、資本やこれといった財産、貯金、富、信用もなく学位もない状態から始めて、宇宙船地球号に乗船しているすべての人から不本意な抑圧を取り除き、そして同時に、誰もがみんな納得のいく生き方ができるようにしながら全人類の生活の物質的保護と支えを永続的に増進するために、国や大企業にはできないことで一体何が効果的に行えるのかを発見する」ための実験をしようとすることだった。フラー自身が実験対象であった。こうして、実験動物モルモットBが誕生したのである。Bはバッキー、つまりフラーの愛称である。この年、次女アレグラが生まれている。

ここでフラーの開発した構造物などを動画で見ていただきたいと思う。その方が、これから述べるジオデシック・ドームなどを理解していただきやすいだろう。前回 part1 のダイマクションカーやウイチタハウス、ワールドゲームなども思いだしていただければよい。

5分で見るバックミンスター・フラーの世界 ”Earth’s Friendly Genius”  1983年制作

3.ジオデシック・ドーム

モントリオール・バイオスフィア 1967
(元モントリオール万博アメリカ館)

1954年フラーは〈ジオデシック・ドーム〉の特許を取得した。ジオデシック・ドームとは全方位に三角形化された構造原理によって作られたドームを指している。米国建築家協会から「人間がこれまで考案した、最強最軽量にして最も効率の優れた、空間を囲い込む手段」と評された。それは大きくなるほど強度を増し、都市全体をこのドームで覆うことも可能となる。ドームの直径を2倍にすると体積は8倍になるが表面積は4倍にしかならない。従ってドームの規模を2倍にすると一単位あたりに投入される建築資材の量は半分になり、熱効率は2倍になる。アーティファクト(人工物)に投入される単位資源あたりの性能を包括的に大きく向上させることが全人類の髙い生活水準を確保するには不可欠であるとフラーは考えていた(『コズモグラフィー』)。

1959年、フラーと実業家カイザーが共同開発した直径60メートルのジオデシック・ドームがモスクワ万博で展示され、時のソ連(現ロシア)の首相、フルシチョフの称賛を得て購入され、モスクワのソコーリキ公園に設置された。どうも、この動きにアメリカ政府は危惧と焦りを感じたらしく、フラーは1963年から1968年までNASAのアドヴァイザーとして後述するジオデシック・テンセグリティであるクラウド・ナインの開発に携わるようになるのだが大気圏をも自由に浮遊するアイデアは、大気圏外にしか興味のないNASAの反感をかったようだ(フラー+ 梶川泰司『宇宙エコロジー』)。1967年モントリオール万博のアメリカ館をまかされたフラーは、既に70歳を超えていたがこの国家プロジェクトに参画することになる。フラードームは多様な発展をみせ、日本では富士山の気象観測ドーム、イギリスのエデンプロジェクトに発展してゆく熱帯植物園を収容した直径53メートルのクライマトロン・ハウス、風速60メートルに耐えるという登山用ジオデシック・テントなどが次々と生み出されてゆく。

4.シナジェティック幾何学

正四面体 ジョイント部を稼働できるようにゴム管で接合しても自立するが、六面体は倒れてしまう。

彼は最小の構造体として4面体を考えていた。立方体や直方体の6つの辺にあたる部分を細い棒に置き換え、それらの接合部を稼働できるようにしておくと、六面体は自立できないが、正三角形を4つ持つ正4面体は自立する。それゆえ、フラーは三角形のみがあらゆる宇宙の構造的な形態を説明できると考えていた。彼のシナジェティック幾何学は三角形が基本にある。デカルトの規定した立方格子としての空間は、地球が平坦だと考えられていた時代の名残であり、宇宙時代にあっては既に時代遅れであった。正四面体の持つ四つの次元が今日の最小の次元数となるというわけである。二次元の人間にとって正三角形が四つ集まった正四面体が考察不可能であるように、部分だけ見ていては予測できないような全体としての働きがシナジーなのである。

フラーの幾何学はユークリッドのそれのように観念的なものでなく現実に即して考えられていた。詳しく知りたい方は、シナジェティック幾何学の概論である『コズモグラフィー』をご覧になるとよい。この『コズモグラフィー』の中では、シナジェティック・トポロジーという新しい概念が登場するのだが、それは、先ほどの正四面体のように接合部を稼働できるようにした立体が、ジョイン部で折り畳まれながら変形しうるというもので、例えば、フラーの共同研究者だった梶川泰司は、正十二面体のトポロジーを発見してフラーに認められることになる。それは回転しながら五重の正四面体に折り畳めるのである。その図は「正20頂点体(正十二面体のこと)モデルの対称性の破れ」と題してこの本の巻末に掲載されている。

植田信隆『不穏な原子核ベクトルモデルたち』2002-2003
梶川泰司のシナジェティック・トポロジーを参考に描いた作品

上の絵画は、梶川さんのこの正十二面体トポロジーを許可を得て僕の作品に使わせてもらったもので、ここで改めて感謝の意を表したい。『不穏な原子核ベクトルモデル』というタイトルはフラーが正四面体などの幾何学形複合体で原子核モデルを作ったことに由来している。この作品が発表された2003年は、奇しくもアメリカ軍がイラクに侵攻した年であった。

5.テンセグリティ

上左 八面体状テンセグリティ
上右 二十面体状テンセグリティ いずれも筆者制作
下左 正八面体 下右 正二十面体

シナジェティック幾何学から生まれた最も美しい構造体がテンセグリティである。テンション(張力)+ インテグリティ(統合)の造語となっている。1947年、アメリカのノースカロナイラにあったブラックマウンテン大学で、フラーは作曲家のジョン・ケージやコンテンポラリー・ダンスのマース・カニングハムらと共に教鞭を執っていた。この時、学生の一人に想像力に溢れ技術的に優れたケネス・スネルソンがやって来る。彼のアイデアを契機にジョン・モールマンやリー・ホグデンらによって新たなテンセグリティが次々に開発されるのである。テンセグリティは、金属や木材の圧縮材をステンレスワイヤーなどの張力で文字通り統合するもので、圧縮材が24本のヴェクトル平衡体状テンセグリティ、三十本、あるいは270本の球状テンセグリティというように圧縮材の数は何倍にもすることができる。例えばその圧縮材として金属製の円柱を使う場合、その直径を半分にするごとに相対的重量は8分の1に減少していく。

これをジオデシック構造のドームに応用すると、直径3キロメートル級の全球体を空中浮遊都市(前述のクラウド・ナイン)や人工衛星の環境を制御する装置として、あるいは都市の空間をまるごと制御できるような半球状の構造物を構想することが可能となる。そのような計画としてイリノイ州、イーストセントルイスのために企画されたオールドマン・リバーズ・シティ計画が知られている。周囲5.6キロの月のクレーターのようなコンクリート製の円錐台状の基部を直径1600メートル、高さ300メートルのテンセグリティドームで覆う計画であり、12万5千人がそこで暮らすことが可能とされていた。

ダイマクションハウスやワールドゲーム(part1参照)、それに空中に浮かぶ都市計画などを考えてみると、僕には、フラーが地球を自分の手のひらの上に載せてそれを眺めまわしているような光景を思い浮かべてしまうのである。彼の意識は地球よりも大きかった。ある展覧会のシンポジウムで、一人の女性アーティストが地球を飛び出て宇宙に行く、そんな作品を作りたいと言っていたのを思い出す。僕は宇宙船に乗ってみたいという人にフラーがこう言っていたというのを思い出した。「どんな感じだい。僕たちは今、地球号という宇宙船に乗っているじゃないか。」

6.自己規律

私は若い時のように他人の意見、信条、教育理論、空想、習慣に自分を合わせるよう努力するかわりに、経験から得た情報にのみ基づいて自分自身で考え、そして自分の思考と直感から生まれたものを使って、生来の切実な動機に形を与えようと努めた(梶川泰司 訳 以下「」内は梶川訳である)。切実な動機とは、あの1927年の精神的危機における覚醒であった。この『クリティカル・パス』からフラーの「自己規律」を抜粋してみる。

家族とか自分とか国家とか、あるいは自分の仲間のためだけに努力するのではなく、包括的に人類全体を保護したり、支えたり、また利益をもたらすことに全力を尽くして、私の潜在能力を可能な限り地球号とその全資源、そして累積的なノウハウ(知識)を取り扱うことにのみ差し向けることにした。

私は決して自分のアイデアや人工物を『奨励』したり『販売』したりしなかったし、金を払って人にそうしてもらったこともなかった。私としては、決して自分の宣伝のためにエージェントを雇ったり、講演や著述、『アイデア販売』のための代理人と契約したり、また私への支持を呼びかけるための職員を雇ったりしてはならなかった。支援はすべて、私の発明の進化が人間に関する事象の全体的な進化と統合されることによって、自然発生的に生ずるはずである。これは、驚くべきことと言わなければならない。

私は大部分のことを自分の間違いから学ぼうと努めた。

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

私は自然における化学元素の目録、その重さや反応特性、相対的な存在量、地理的分布、冶金学的な相互の合金化の可能性、化学的結合の可能性と不可能性に関して、包括的に理解できるように自己を教育しようと努めた。私はロジスティックス(兵站学/戦闘地帯より後方の、軍の諸活動・機関・諸施設に関する学)や、人類がその歴史的経験から引き出し整然と蓄積してきた動態統計はもちろんのこと、生産手段の全般の能力、エネルギー資源、そして関連するすべての地質学的データ、気象学的データ、人口統計、経済統計を理解しようと努めた。この規律が、彼のワールドゲームの基盤となる。

‥‥生き残れるのは『あなたか、さもなくば私』のどちらかだというこの恐ろしい先入観の存在にもかかわらず、私には次のことがはっきりしているように思われた。もし、ある個人が、エンジニアリング、マーケティング、航空学、造船学、建築学、大量生産技術、そして弾道学で実地の経験をもっていて、科学的発見のなかに顕在化している進化の可能性を認識することもでき、全人類の全体的な経済的成功を達成するには仕事の優先順位をどのように立てるべきかを理解でき、技術による人類の利益の拡大を実現するために残りの人生をすべて賭けることによってそれらの問題に関与するならば、そしてもしその個人が、自然がなそうと意図していることを行っているならば、その個人は自分が――そして自分を頼っている人たちが――何とかもちこたえ、達成すべき課題に関連した知識、能力、そして経験を増大させることがわかるのである。‥‥

我々が扱えるのはネットワークパターンだけだとフラーは言う。フラーの言うデザインサイエンスとは、我々人間の経験のネットワークを構成することかもしれないのである。かつて、人間の経験のネットワークは物語化され神話体系として伝承されてきた。それは、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで触れておいた。しかし、フラーは人間の経験の総体を未来へと鋳出そうとするのである。平均的な人間の創意として。

如何がでしたか。皆さんにもフラーファンになっていただけただろうか。もし、この『クリティカル・パス』や『コズモグラフィー』をお読みいただけたら、今度は是非、フラーと梶川の著作『宇宙エコロジー』をお読みいただければと思う。日本を含めた現代の問題が鋭く提起されている。きっと皆さんは、より広い視野を獲得されるに違いない。

 

球形を大円によって分割しながら、表面を三角形で覆っていくジオデシック・ドームの様子がCGで描かれている。

 

フラー先生によるベクトル平衡体(立方八面体とも呼ばれる)の講義。ベクトル平衡体が二重の正八面体に折り畳まれ、最終的に四重の正四面体になっていく様子が撮影されている。折り畳まれながら変形していくシナジェティック・トポロジーの様子がよく分かる。

 

 

その他のフラーの著作と関係書籍

1. バックミンスター・フラー『コズモグラフィー シナジェティクス原論』
2. バックミンスター・フラー 『宇宙船地球号操縦マニュアル』
3. リチャード・ブレネマン編『フラーがぼくたちに話したこと』
フラーが子供たちに語るシナジェテイックス
4. バックミンスター・フラー『ユア・プライベート・スカイ』
ヨアヒム・クラウセ編 2001年のフラー「日本展」に際して刊行された。フラーの画像資料として最良である。
5. バックミンスター・フラー『テトラスクロール』絵本になったフラー
6. ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

 

 

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part1 ダイマクションとワールドゲーム

このような刺激的な本が、ある。読み返してみると自分が、このフラーからどんなに大きな刺激を受けてきたかを今さらながら考えさせられる。何がそんなにこの人を偉大にさせたのか? 何が彼を一年に地球を7周半させるほど駆り立てたのか? 何が彼を自分自身をしてモルモットB(Bはバッキーの頭文字/フラーの愛称)にさせたのか? それを知れば、必ずや皆さんはフラー・ファンにならざるを得ない。

『宇宙エコロジー』という本はフラーの著作の抄訳が半分を、訳者でありフラーの共同研究者だった梶川泰司(かじかわ やすし)の文章が半分を占めている。これは、梶川の編集である。それゆえ面白いのだ。二人の文章は瓜二つだ。語り口のテイスト、言葉の選び方、単語の繋ぎ方。翻訳した当人の文章であるということを割り引いても、いかに訳者がフラーの世界と一つに分かちがたく溶け合っているかが分かる。だが、今回ご紹介するのはフラーの『クリティカル・パス』である。『宇宙エコロジー』は、是非このフラーの『クリティカル・パス』と『コズモグラフィー』の両書をお読みになってから、ひも解かれるとよい。いまや、フラーの開発した構造体は高校の美術の教科書にも掲載された。それは訳者が何よりも望み、喜びをもって迎えることのできる現実となったのである。その喜びを僕は彼自身から電話を通して聴くことができた。

いま私はこうして存在しているが
自分が何であるかは分からない。
しかし、自分が専門家した種(カテゴリー)でないことは確かである。
私は〈もの〉を表わす名詞ではない。
私は、宇宙のなかの
不可欠な機能として
漸進的変化の過程に作用する
動詞のようだ。
(B.フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』梶川泰司訳)

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

1.ダイマクション

フラーが20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われたのにはいくつかの理由がある。比較的分かりやすい発明はダイマクションカーやダイマクションハウスといったものだろう。ダイマクションという言葉は、ダイナミック、マキシマム、テンションの合成語であるのだが、この言葉はフラーの発案ではなくシカゴ・イヴニング・ポスト紙の芸術欄の編集長であったC.J.ヒューレットによる4Dハウスという言葉に端を発している。面白いのは1929年当時のパリ万博後に購入した斬新な家具を売り出すためにアメリカの大手デパートの企画推進者によって最も斬新だったフラーの住宅模型がその隣の部屋に展示され、広告宣伝されたのだという。フラーの建築モデルの横に置いておけば家具たちもそんなに斬新には見えないから買ってもらいやすいだろうというわけである。しかし、4D、つまり「第4の次元」では一般大衆には受け入れられにくい。そこで広告専門家のウォールド・ワレンがフラーのもとに派遣され、フラーの説明を手掛かりに彼がいくつかの言葉を合成した。フラーの意向を窺いながら最終的に残ったのがこのダイマクションという言葉だったのである(ロバート・W・マークス『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』)。個々の発明については、ジェイ・ボールドウィンの『バックミンスター・フラーの世界』が詳しいので、しばらくは、そこからご紹介したいと思っている。

ダイマクションカー 1933年制作 後はT型フォード

ダイマクションカーは1933年に開発された画期的な三輪自動車であった。それは軽量でなければならなかった。最終的には空を飛ぶ計画だったからである。プロペラかジェットエンジンと翼をつけて飛行機としても使えるようにと考えられていた。そのようなスケッチが残っている。V8エンジンを車体後部に搭載するリアエンジンで、前輪を駆動させる。それは、フロント・ウィール・ドライブ・レイアウトと呼ばれている通常のエンジンのレイアウトとは全く逆になっていた。そのほうが速く走れると考えたからである。実際記録した最高時速は140キロ、燃費はリッター/13キロ、11人乗り、イサム・ノグチがそのモデルを石膏で作ったという流線形の美しいデザインである。三台製作されたが、3号機は指揮者のレオポルト・ストコフスキーの所有となり1934年のシカゴ万博で展示され成功を収めた。だが、大量生産に結びつくプロトタイプを完成する資金は得られなかった。

上 ダイマクショオン展開ユニット(DDU)
下 ウィチタ・ハウス 1946年(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より)

ダイマクションハウスは、例のデパートに展示された模型に端を発する。マストのように支柱から吊り下げられた六角形の枠組みから成るアルミ製で、大量生産を前提にしたデザインだった。1940年には、穀物倉庫からヒントを得てダイマクシオン展開ユニット(DDU)を開発した。このユニットは第二次大戦中にペルシャ湾沿岸地域で兵士の居住用に実際に使用された。第二次大戦は終わったが、アメリカは退役軍人と軍需産業に従事していた労働者が職を求めて溢れていたのである。火薬工場は農薬や化学肥料の工場へと転換された。やがてレイチェル・カーソンの言う『沈黙の春』がやってくるのである。

その時、フラーの対応は早かった。戦争の終結時には、航空機の製造技術を住宅産業に初めて応用しようとしたのだ。どのような家だったのか。一言で言えば、それは宇宙船であった。アルミ製の大量生産型のモバイル・ハウスを考えたのである。熟練した組立業者を必要とせず、二日間で施工でき、分解して移動し、組み立て直すことができた。金属部品は溶かして容易に新しい部品として再生産できる。DDUで明らかになったことだが、建物内の暖まった空気は基礎部から換気できるようにしておけば、頭頂部の換気口を通じて新しい空気が流入し自己冷却装置のように働いた。それに加えて風向きによって回転する舵つきのダクトが取り付けられている。総重量2.7トン(車2台分)、費用も車二台分と同じ値段であったが、開発される前に売り出されたため、会社とフラーとの間に軋轢が生まれ、1946年にウイチタ・ハウスと呼ばれるプロトタイプが一つできただけで融資は止まり、計画は頓挫してしまう。

ウイチタ・ハウス頭頂のダクト内部
ヘンリー・フォード・ミュージアム

フラーはこんなコンセプトで住宅のデザインを考えようとしていた。排泄物は全てそれを生み出す場所で一次処理されなければならない。プラスチックバッグが自動的に排泄物を封印パックし、収集サービスによって回収され、化学処理されて堆肥となるかメタンガス製造のための原料とされるように考えた。パッケージング・トイレである。通常家庭では大量に水が消費される。それをフラーは極力抑えようとした。海軍にいた時、フラーは霧が甲板上の汚れ、それも油でさえ綺麗に除去してしまうことを知った。食器や洗濯物の洗浄やシャワーもフォッグガンと呼ばれる圧縮空気と少量の水で霧状のジェットを発生させる装置を用いてクリーンにしようというのだ。一回のシャワーは、コップ一杯の水で足り、石鹸は必要なかった。実際のプロトタイプにも施工されたバスルームはトイレとバスタブが一体成型されたユニットであった。試作品は4枚の金属板をプレス加工している。ニクロム線によって保温と乾燥がなされ、換気口は下にとりつけられて床にむかって空気を吸った。このユニットバスをドイツのメーカーがポリエステル・ファイバーグラスで製造し始めるのは43年後であり、その2年後、アメリカで大量生産される。

1927年に彼は風力を利用し空気圧搾して、その副産物として発生する廃熱を海水の脱塩に利用しようと考えていたし、液体酸素を得るために風力エネルギーで空気を液化しようとも考えていた。高密度の液体酸素を一滴ずつ高圧室に垂らして膨張させ、そこから噴出する冷たい空気によってタービンを駆動させ発電しようというのである。それを4Dハウスに採用すれば自家発電できる住宅になる。雨が降れば人間には飲み干せないほどの水が手に入る。消毒さえ気をつければ、一時的な貯水槽に蓄えた水は屋根の傾斜角度を利用して配水でき、蛇口をひねるだけで必要な頻度と量の水が得られる。上下水道も電線も必要としなくなるようなモバイル型住宅、それがフラーが開発したい理想の住宅だった。

フラーは、『〈インタヴュー〉バックミンスター・フラーすべてを語る』の中でこう述べている。「私たちは宇宙について何がわかっているのか。人間と生態系の相互作用全体のなにを知っているのだろうか。私たちはどのように宇宙の欲求を満たし、どう対処すればよいのだろうか。どうすれば、全人類の生活全体の必要条件を満たす最高の生産水準を達成できるのだろうか(『宇宙エコロジー』収載)。」僕が興味を持ってきたのは、そのような住宅を作りたいと彼を導いた哲学が何であったかと言うことなのである。それは、影響力を受ける力(エネルギー)と格闘しようとせず、その影響力を利用するデザイン、伝導するどんなエネルギーとも絶縁しない科学のデザイン革命であった。

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

2.ワールドゲーム

フラーは『クリティカル・パス』の中でこう述べている。ソ連(現ロシア)は冷戦の早い段階で核弾頭は使われないだろうという結論を出していた。核弾頭の開発を見せかけて史上最強の軍隊を作り上げていたのである。一方、アメリカの政治家は、アメリカがロシアよりはるかに多くの核弾頭を開発していると指摘できたので軍事的に安全であるという感覚をアメリカの大衆に与え続けることができた。アメリカがそうしてきた背景には、究極的には石油は使い果たされてしまうという認識のもとに石油巨大資本が 、ワシントンのキャピトル・ヒル(米国連邦議会)に対してエネルギー政策をめぐるロビー活動を行い、原子力産業およびその原子核研究員を育成するために核弾頭の生産を促進させていたという。彼ら世界権力機構組織は、世界の石油供給が減少するにしたがって原子力発電と送電ネットワークの運営に移らなければならない事情があった。その開発のために合衆国政府は2000億ドル以上の税金を費やした。核兵器開発と原子力発電とはいかなる国においてもセットになっている。それが将来的な願望であってもである。

そして、こう述べる。「1979年1月の第二次『オイル・ショック』は、目に見えないエネルギーのノウハウをもつ企業連合がスリーマイル島の原発事故と原子炉の『炉心溶融』という脅威から必死に大衆の関心をそらすために企てたものである。大衆は原子力施設に強く反対したが、石油会社の管理による突然のエネルギー供給規制は、一般社会に対して再びエネルギーへの渇望を非常に高めたので、その間は原子力エネルギー施設を縮小しようという人びとの声は無視された」という。さらに、このような事柄をあらわにするのである。

大英帝国地理学会の最高顧問であったハルフォード・マッキンダーは1900年初頭に鉄道の高い輸送力を指摘し、船舶中心だった貨物輸送が変化し始めると英国に示したという。ロシアのシベリア横断鉄道は北に寄り過ぎている。雪による障害が大きすぎて経済的に引き合わない。それに英国はロシアを大西洋の港からしめ出したために 巨大な海軍を持つロシアが大西洋に進出するためには白海のアルハンゲリスク、バルト海のいくつかの港、太平洋岸ではウラジオストクが残されていただけだった。この時、マッキンダーは英国にもう一つの指摘をしたという。ロシアがアフガニスタンとパキスタンを押えるとペルシャ湾に到達可能となり、インド洋に艦船を展開できるようになる。アフガニスタンは世界の「ハートランド」だという。ちなみに、このマッキンダーに学んだハウスホーファが、故国のドイツに帰ってヒトラー旗下の航空相ゲーリングのもとで戦闘機と戦車を用いた電撃作戦を立案するのである。

長期に亘って軍事介入を望んでいたロシアは、内乱に乗じて1979年にアフガニスタンを占領した。これでロシアはイランの東側の国境とパキスタンの西側国境を支配下に置いたのである。だが、内戦の続くアフガニスタンから1989年にはロシア軍は撤退する。その後、この国は、ビン=ラーディンとアルカーイダの問題でNATO軍によって介入され、タリバン政権は崩壊することになる。イランに対してロシアは、権力機構にとって一番効果的な方法である「征服するには分断せよ」を活用した。宗教的な分断をイランに選択したのである。イラン王朝を支配しているアメリカを追い出せば、イスラム教徒たちを小さな宗派に分裂させ、軍事的にイランを制圧できると考えていたとフラーは言う。アフガニスタンとイランとイラクの問題の核心にあるのは実はロシアの南下の問題なのである。この『クリティカル・パス』がアメリカで出版されたのは1981年であったことは覚えておいてほしい。アメリカ軍の大義なきイラク進攻は2003年のことだった。アメリカのイランに対する圧力は今もって強い。これが、ワールド・ウォー・ゲームである。訳者の梶川さんは、フラーがよく暗殺されなかったと僕に語ったことがある。

ダイマクション・スカイオーシャン・マップ
地球表面を正二十面体に投影して展開した地図

このワールド・ウォー・ゲームが生む膨大な浪費とは対照的にフラーの考えるワールドゲームは、彼が52年間継続的に開発してきた全歴史的世界資源目録と絶えずエネルギー量と時間を減少化させる技術のエフェラリゼ―ション(短命化)を前提にした生産、供給、維持、デザイン改良、世界規模の統合などを通して、かつて人類が経験したことのない髙い生活水準を達成することであった。金に金を生ませる連中と彼らの経済学者は、この地球は人間の生活を支えるには根本的に不充分であるという政治的宗教的仮説を彼らのマネーゲームに利用しているという。トマス・ロバート・マルサスの幾何級数的な人口増加への恐怖とそれに伴う貧困を論じる『人口論』やローマクラブの著書『成長の限界』がその支柱である。彼らは、お金と本当の富と同じ不変の働きとを完全に切り離してしまったとフラーはいうのである。

バックミンスター・フラーによる世界電力ネットワーク図
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーは自らが開発した最も歪みの少ない地図であるダイマクションマップを見ながら世界的な電力ネットワークを考えていた。それは、ワールドゲームにおける最優先の課題だったのである。

昼夜の時間帯において東西間の相互の電力供給を、あるいは、夏季と冬季において南北間の相互の電力供給を可能にしたい。そのことによって既存の各発電機は最も効率のよいスピードで24時間の稼働が可能になり、エネルギー効率は飛躍的に向上する。発電所はピーク時の電力需要に合わせて設定されているためピーク時以外ではそれほど使用されているわけではない。そのため、この相互供給によって発電所の数をかなり減らすことができる(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』)。ボールドウィンによれば、このプロジェクトは1996年現在、進行中であるという。

彼は、このような世界規模での統合を訴え続けてきた。それが、彼を一年に地球を七周半させることになるのである。ある国の大学で講演を行うためにその大学に到着すると、次の大学や研究施設から依頼状と航空券が送られてくる。そんな晩年の生活であった。彼はワールドゲームを中心としたデザイン・サイエンスを説いてまわったのである。フォーチュン誌などの顧問をすることによって世界の資源や経済のデータは、的確に把握されていた。電力の相互供給ネットワークは、問題解決の第一歩にすぎない。飢餓と栄養不良の問題、核兵器の廃絶費用、難民の救済費用などの諸問題は当時の全世界の年間軍事予算7800億ドルの四分の一強の予算で解決できるとフラーは試算していた。下の図をみていただきたい。

全世界の年間軍事支出と最優先課題に掛る経費
1.飢餓と栄養不良の除去 190億ドル
2.住宅供給 210億ドル
3.健康管理及びエイズの抑制 210億ドル
4.人口の安定化 105億ドル
5.土壌浸食の防止 240億ドル
6.効率的で安全、汚染のないエネルギーと再生可能エネルギーの供給 500億ドル
7.開発途上国の債務返還 300億ドル
8.安全で清潔な水の供給 100億ドル
9.森林破壊の防止 70億ドル
10.酸性雨の防止 80億ドル
11.オゾン層破壊防止 50億ドル
12.地球温暖化防止 80億ドル
13.難民救済 50億ドル
14.識字率の向上 50億ドル
15.核兵器廃絶 70億ドル
16.地雷の撤去 20億ドル
17.民主主義の確立 20億ドル
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーはこう述べる。「ワールドゲームは、もし国家によるすべての統治権が放棄されないなら、そしてワールドゲーム方式の全世界的にコンピューター化された時間‐エネルギー計算システムが直ちに開始されないならば、この地球から人類が滅び去るだろうということを明らかにしている。脱国家権力を成し遂げるための第一歩は、世界の電力グリッドの空隙を埋めることにある。世界的に統合された電力計算システムが、世界経済を経営管理するための全エネルギー計算システムの始まりとなるだろう」と。フラーにとって「時間とは、二つの出来事の間の最短距離である。」一方、1974年のワールドゲーム・セミナーでは、ペンシルベニア大学が中心となってフラーらと共に完成させた「自然エネルギーによる(風力や波力など)〈自立的再生〉を達成させる方法論である『宇宙の資源と富』を発表している。

梶川泰司は『宇宙エコロジー』の中で、バックミンスター・フラーの半世紀にわたる絶えざるデザイン・サイエンス(平均的な革命)は、現在のエネルギー変換技術で全人類が必要とする全エネルギーを太陽からの放射エネルギーと重力エネルギー(風力発電などのクリーンな発電を指している)だけでまかなうことができるという科学的証明のために、シナジェティックスを発見し概念化しながら、ダイマクションマップのような大気圏全域をナビゲーションするための地図投影法とジオデシックス、テンセグリティの予測的発見と予測的発明に絶えず集中していたと述べている。

そのようなデザイン・サイエンスには、社会主義的な計画経済という側面が強調されると考えるのは自然なことなのだが、世界の大きなジレンマに対処するための政治家の能力に彼は期待していない。アナーキストでは勿論ないが政治家を信頼していなかった。彼は、平均的な人間の創意を強調する。自分のような平均的人間にそれが可能かどうか、自分をモルモットとして実験材料にしたのである。モルモットBが彼の別名となる。次回 part2は、彼の思想の基盤となるドームやテンセグリティなどの構造体と彼が自身をモルモットにした経緯をご紹介したいと思っている。お楽しみに。

 

ロバート・W・マークス
『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』
ロバート・マークスは雑誌『エクスワイアー』編集者、『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』のコラムニスト、バンタム・ブックス編集者を務めた理学博士。

ジェイ・ボールドウィン
『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究し、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バックミンスター・フラー
『コズモグラフィー シナジェティクス原論』

 

 

藪光生『和菓子 WAGASHI』と甘性文学集『ずっしり、あんこ』

旬月神楽に特注した和菓子 筆写撮影

僕は、広島での個展の時に三癸亭賣茶流(さんきていばいさりゅう)の島村幸忠さんに煎茶の茶会を開いてもらったことがある。最近ではアルルで茶会があったようだ。広島での茶会用に特別の御菓子を旬月神楽(しゅんげつかぐら)の明神宜之(みょうじん のりゆき)さんにお願いした。銀座の甘楽(かんら)で修行した人だ。そこは、豆大福とどら焼きが美味しい店である。夏の盛りでなければ東京の土産によく買って帰っている。小豆あんがいい。その明神さんの店に行った時に、テーブルの上に何気なく置いてあった文庫本が今回ご紹介する本の一つ、藪光生(やぶ みつお)の『和菓子 WAGASHI』だった。この人は、全国和菓子協会の専務理事、全日本菓子協会常務理事、専門学校の講師でもある。この業界の経営指導や広報活動に尽力されてきた方である。美しい写真と気の利いた解説付きのコンパクトな本で、店のテーブルに座って何気なく読むのにふさわしい本だと思った。しばらく、この本を軸に、虎屋文庫の『和菓子を愛した人たち』も交えながら和菓子の歴史を追ってみる。

藪光生『和菓子WAGASHI』

世界中どこでもそうかもしれないけれど菓子のルーツは木の実や果物だ。つまり、「果子」である。垂仁天皇の御代に田道間守(たじまもり)が「非時香具菓/ときじくのかぐのこのみ」を求め、九年の歳月をかけて常世から持ち帰ったのが橘の実だったという。上古では石榴、梨、林檎、柿などの菓菰(くだもの)の他に菰(くさくだもの)として瓜、黄瓜、茄、アケビ、蓮の実、覆盆子(いちご)などがあった。クヌギや楢はアクが強いから粉にして水に晒してアク抜きし、粥にしたり茹でるなどして食べた。「団子」の起源である。餅は古代より神聖なものだったが、景行天皇の御代に豊国氏の祖である菟名手(うなて)が豊前国(ぶぜんのくに)に来た時、白鳥が飛んできて、餅へと変わり、片時の間に芋草(米)に化したという伝承が『豊後国風土記』に記されている。

昔の甘味料は米を発芽させた「米もやし」から作られる飴で、でんぷんからつくられる。日本で発明された甘味であるようだ。もう一つは「甘葛/あまずら」で、つる草の一種であるアマチャヅルの茎を切り、切り口から出る汁を煮詰めた甘味料だそうである。『枕草子』にも「削り氷に甘葛かけて」と書かれている。当時の最高級の御菓子だと言えるだろう。

やがて、遣唐使が「唐菓子/からくだもの」を持ち帰るようになる。もち米、うるち米、麦などを捏ねたり、大豆、小豆に塩を入れて油で揚げたものなどであった。清少納言は藤原行成から鴨などの肉に雑菜を煮合わせたものを餅にくるんで四角に切った餅餤(へいだん)を送られ、自分で持って行かないのは冷淡かしらと洒落のめして紅梅を添えてお礼の文を送ったという。平安時代には上巳の節句に母子餅(草餅)、端午の節句には粽(ちまき)が食べられるようになった。和泉式部は息子の石蔵の宮に母子草を餅に混ぜた草餅を母の愛とともに送っている。(『和菓子を愛した人たち』)。草餅については、この人の文章がいい。

母子草 春の七草の一つ、御形(ごぎょう)のこと。

「写真を出してみる。若き母は、天女のようにあどけない。小豆や夏豆(そら豆)の時期はこう囃した。『ほらこの豆は、団子のあんこになってもらうとぞ、鼠女(じょ)どもにもやるまいぞ。』即興詩人だった。小さな子は鼠女どもにやるまいぞと、つけて言い、大切なあんこの、豆がらの束を担いでかけまわった。小麦も鼠も人間も、団子もあんこに同格となって、母のささやき語に出てくるのだった。‥‥その胸の内をおしはかりながら、教えてくれたとおりに蓬餅をつくる。どの季節でもない、早春の気配を聴く頃にだけ、一種鮮烈な感情が胸をよぎるのはなぜだろう。去りゆく冬と一緒に、振り返ることのできない過ぎ来しを、いっきょに断ち切るような断念と、いかなる未来か、わかりようもない心の原野に押し出されるような一瞬が、冬と春との間に訪れる。それはたぶん、かりそめの蘇生のときかもしれない(石牟礼道子『食べごしらえおままごと』。」

鎌倉時代に入ると栄西が茶の木を持ち帰って喫茶の風が起こり、菓子類にも趣向が凝らされるようになる。『正法眼蔵』の「看経/かんきん」巻には僧に出される点心、つまり、おやつとして饅頭の六・七個盛りが、羹(あつもの/スープ)と一緒に供されるとある。ただ、この饅頭は甘い小豆あんではなく一種のパンに近いものだったらしい(『和菓子を愛した人たち』)。室町時代には、羊の肉の羊羹、魚の白魚羹など48種もの羹(あつもの)類が伝えられたという。肉食は、はばかられたため小豆の粉や、小麦粉を練って羊の肉を象って汁に入れた。その汁を無くし蒸し菓子にしたものが後世の蒸し羊羹である。薬としてわずかにしか得られなかった砂糖が輸入されるようになり、菓子の味や種類、製造法に大きな影響を与えるようになる。ただ、本格的な流通には江戸後期を待たなければならない。同じ頃、南蛮菓子も伝わるようになり、カステラ、ボーロ、ビスケットなどが登場するようになる。織田信長は、フロイスにもらったガラス瓶入りの金平糖にヨーロッパへのロマンを感じただけではないのだが、フロイスに布教を許した。ちなみに茶の湯に血道をあげた豊臣秀吉、その師である千利休が好んだ菓子は、ふの焼きと言われる小麦粉を溶いてクレープ状に焼き、味噌をぬって巻いたものであったという(『和菓子を愛した人たち』)。

金平糖 斜めに回転する鍋の中で砂糖蜜を少しずつかけながら結晶を大きくしていく。

金平糖と言えば、時代がかなり下るけれど寺田寅彦の研究材料として知られている。「金平糖の生成に関する物理学的研究は、その根本において、将来物理学全般にわたっての基礎問題として重要なるべきあるものに必然に本質的に連関して来るものと言ってもよい」と述べているという(『和菓子を愛した人たち』)。日本の金平糖は、南蛮のものとちがって二週間もかけて角を成長させて行く。角が生まれるのは、初めの偶然できた凹凸の尖った部分が凹んだ部分より早く成長するためであるという。ちなみに、昨今では結晶の生成は確かオートポイエーシスの第一領域と呼ばれていたと記憶している。

江戸時代に入ると、平和な時代が続き、生活も安定してくる。菓子の需要も高まり、参勤交代などでの江戸と地方との交流によって全国的な菓子文化の発展に繋がっていった。落雁、饅頭、胡麻餅、外郎、羊羹、葛餅、草餅、松風、唐錦、求肥など現在まで知られる菓子がその製法書に掲載されるようになる。求肥は白玉粉や羽二重粉などの上質な餅粉に砂糖や水あめと水を加えて加熱しながら半透明になるまで煉ったもので和菓子の生地になる。

煉りきり『もらい水』旬月神楽製

練りきりあんは白あんにこの求肥をつなぎに混ぜたもので、色々な形にアーティスティックに造形されるのがたまらない。はさみ菊などは芸術品といってよい。木型に入れてかたどるものとヘラなどを使って形作る「手形もの」とがある。ただ、形を細かく作るのに拘りすぎると、どうしても材料を固くしなければならないので食べるに適した硬さでなくなってしまう場合もあるとは明神さんの言葉である。親方から弟子へ、先輩から後輩へと受け継がれてはいくのだが、作り手が異なれば微妙に形も異なるものだという。手作りの技には「二つと同じものが作れない面白さ」と同時に「二つと同じものが作れない怖さ」が同居している藪さんはいう。

外郎(ういろう)はうるち米、もち米といった米粉、小麦粉、ワラビ粉などの穀粉に砂糖と湯水を練り合わせ、型に注いで蒸籠で蒸して作る。四代将軍家綱の頃に寒天が生まれ、あんに小麦粉や葛(くず)粉を混ぜて蒸し固める蒸し羊羹から、あんを型に流し込んで寒天で固める煉り羊羹が発明される。寒天の量が少なく、柔らかいものが水羊羹である。

白小豆羊羹 筆者撮影

夏目漱石は『草枕』の中で、主人公が、宿の若奥さんから御茶を出される場面でこう書いてる。「『ありがとう』またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹(ようかん)が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合が滑なめらかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた煉上げ方は、玉(ぎょく)と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い煉羊羹は、青磁のなかから今生れたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔(やわらか)だが、少し重苦しい。ジェリは、一目(いちもく)宝石のように見えるが、ぶるぶる顫(ふるえ)て、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である(『草枕』)。」これなど玉露を飲む時の描写と双璧して卓越なものだと思う。羊羹を描いて、青磁と玉のイメージを借り、その姿を褒め称えているのだ。

この漱石の羊羹を受けて谷崎潤一郎はこう書いている。「かつて漱石先生は『草枕』の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉(ぎょく)のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。‥‥だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる(『陰翳礼讃』)。羊羹には神秘性があるのかもしれない。

川原慶賀「小豆図」
江戸後期の画家。シーボルトの依頼で日本の動植物や風俗を描いたことで知られる。

和菓子で最も重要な材料は小豆と砂糖であろうか。大きさの比較で大豆に対して小豆であろうという。小豆を食べる習慣があるのは日本、韓国、中国、台湾などの東アジアの一角に限られているようだ。それは「陽力」のある食べ物であり邪気を祓う力があるとされた。品質の良いものは丹波、備中、北海道などでとれるものである。日中に温度が一定以上になり、夜間はすっと涼しくなるような昼夜の温度差がある地域が最適である。丹波などでは山間部で栽培されるようだ。小豆の成分は57パーセントが澱粉である。その澱粉は、ちょっと変わりものであるらしく、澱粉粒四~五個をセルロース系の食物繊維が包んだ「あん粒子」と呼ばれる特殊な粒子であるらしい。一見して粘り気があるようだが、食べてみると口の中でさらりと溶けるのはこの粒子の働きであるという。大豆系の豆には、この粒子はない。白あんの原料は白いんげん豆で、中でも「手亡/てぼう」がよく用いられる。いんげんは蔓性で栽培に支柱がいるのだが、手亡は半蔓性で支柱がいらないのでこう呼ばれた。独特の粘り気と風味を持つ豆であるという。豌豆はうぐいす餅の原料になる。

小豆は開花して実をつけると小さな莢(さや)をつける。豆が大きくなるまでには開花後四十日くらいかかる。その頃収穫されるのがよい。しかし、開花は一月から一月半に及ぶので、早く実になるものも遅くなるものもある。同じ畑でも未熟なものや乾燥しすぎてしまったものなど実の状態は様々である。それで、適期に収穫したものか、遅れて収穫したものかによって品質が異なる。土壌や畑の立地によっても品質は微妙に変わる。それを粒の大小などの異なるものを選別して同品質に近づけるわけである。それでも品質にはバラつきが出る。その年の日照時間や天候によって今年と去年とは異なってくる。

豆の表皮にある苦み成分サポニン、渋み成分タンニンは隠し味のように小豆の風味の一画を占めるのであるが、生育要因によって量に違いが出る。それを除去する作業を「渋を切る」という。小豆を炊いて、茹で汁を捨てる作業を三~五回繰り返す。沸騰が始る前に切るのか、沸騰してから切るのか、沸騰後何分で切るのか、職人によって異なると藪さんはいう。これが、あんを百人が作れば、百の味になる理由であるという。職人はそれらの困難を乗り越えながら変わらぬ味を作り出していると言うのである。

汁粉(小倉あん)

あの痩せた姿からは想像しにくいのだけれど芥川龍之介は、しるこファンだった。関西では、しるこは漉しあんで作り、ぜんざいは粒あんで作るという区別がある。「僕等はもう広小路の『常盤』にあのなみなみと盛った『おきな』を味わうことは出来ない。これは僕等下戸仲間の為には少なからぬ損失である。のみならず僕等の東京の為にも少なからぬ損失である(芥川龍之介『しるこ』)。」上野の常盤屋という店のなみなみと盛った「白あんのどろっとした小倉しるこ」を二杯食するのが通例だったという。これは、ちょっと凄いかもしれない。つまり、白あんのぜんざい好きだったというわけだ。それで、関東大震災以来、しるこ屋が減ってカフェばかりになっていくことを嘆いている。

これも想像し難いことなのだけれど、森鷗外は、意外なものが好きだったみたいで、饅頭を四つに割って御飯にのせ、煎茶をかけておいしそうに茶漬けにして食べていたと娘の茉莉さんが書いている。子供たちも真似して食べていたというのだ。その他に、焼いた餅を醤油にひたして、それをご飯にのせ、ほうじ茶や番茶をかけて茶漬けにしていたという(『和菓子を愛した人たち』)。変った茶漬けが大好きだった。里の津和野の習慣なのかしら。津和野の人に聞いてもみたいのだが、聞いたらしかられるかもしれない。そういえば、私の祖母は孫の自分たちに正月過ぎて、雑煮も飽きた頃、あん餅を白味噌仕立ての雑煮にしてよく食べさせてくれていた。関東にはない風習ではなかろうかと思う。そんな不味そうなものと思う方もいるかも知れないが、これが美味い。ちょっとくるみあんの餅を食べるような感覚になる。嘘だと思う人は一度お試しあれ。

砂糖にはあまり知られていない優れた特性があるらしい。この『和菓子 WAGASHI』を読むまで知らなかったのだけれど、甘みという美味しさの他に保水性という重要な特質を持っている。水分の蒸発を防ぐと同時に、そのものに含まれる水分が砂糖に取り込まれると自由に動くことができなくなるのである。自由に動き回れる自由水があると菌の発生や繁殖の原因となるという。砂糖を用いることによって和菓子の水分活性を抑え、一般生菌などの繁殖を防ぐのである。砂糖はサトウキビや砂糖大根(ビート)を搾って蜜にし、不純物を除き精製したものであることは皆さんご存じだろう。

沖縄の黒砂糖はよく使われるが、貴重な砂糖として知られるのは和三盆である。江戸時代の後期から作られるようになる。竹糖(ちくとう/通称ほそきび)と呼ばれるかなり細めの特殊なサトウキビであるらしく、花が咲かない。沖縄では地下茎を残しておけば来年そこから芽が出る。北限の徳島あたりでは寒いので一度根っこから抜いて土の中に寝かせておくと節に芽が出るので来年それを植えるのだと言う。だから、その年に植えなかったら種黍がないので来年作ることができなくなる。そのサトウキビを機械で搾って煮詰める。アクを抜かないと白い砂糖にならないので蒸気でふかしてアクを吹きこぼしてキャラメル色の白下糖(しろしたとう)を作る。もともと冬の農閑期での仕事だった。

その白下糖を布に包んで手水をつけ、押し搾る「研ぎ」と呼ばれる作業が行われる。槽(ふね)と呼ばれるかなり大きな台で搾るのだが、昔はお盆を使って最低三回やったので三盆糖と呼ばれた。のちに外来の三盆白というような砂糖と区別するために和三盆と呼ぶようになったのが名前の由来であるらしい。水あめ状の糖蜜を搾り切った板状の砂糖を砕いて乾燥させると砂糖になるのである。面白いのは、これらの作業ができる人たちはサトウキビ畑のある里の人ではなく、山あいから冬の間だけ出稼ぎにくる人たちなのだ。白下糖までを作るのが「締(し)め子」、酒造りの杜氏(とうじ)に匹敵するという。研ぎを専門にするのが「研ぎ師」と呼ばれる。その数は数えるほどになりつつあるという。詳しくは、塩野米松著『最後の職人伝』〈人の巻〉をご覧になるとよい。ちなみに、金沢の長生殿はこの和三盆と北陸産のもち米を原料に木型で固めて作られる最高級の落雁である。

三つ食えば葉三片桜餅 虚子

長命寺桜餅 道明寺桜餅と同じく江戸時代からある。

桜餅は僕の大好きな御菓子の一つだけれど、若い頃、東京の御菓子屋で全く異種の桜餅を見てカルチャーショックを受けたことがある。米粉にはいくつもの種類があり、日常食べるお米、つまり、うるち米を生のまま粉にしたものが「上新粉」で柏餅、草餅、団子に使われる。もっと細かく挽いたものが「上用粉」で、薯蕷(じょうよ)饅頭や外郎(ういろう)の材料になる。蒸して加工する米粉もある。うるち米を水洗いして水に漬け、水切りして蒸す。蒸した後、乾燥させて砕いたものを「道明寺粉」という。これは、大阪の道明寺が発祥の地で、「道明寺糒(ほしい)」として戦国時代には兵糧食になった。水にもどせば食べられたのである。これを桜餅に使ったのが道明寺桜餅だ。しかし、桜の葉で巻かれているのは同じだが全く異なる桜餅があったのである。長命寺桜餅と呼ばれるもので、皮は小麦粉に米粉を加えて水に溶いて薄く焼き上げたもので、それであんを巻く。こんな桜餅もあるのかと驚いた。関西にはない。

芋坂も団子も月のゆかりかな 子規

杉田淳子、武藤正人 編『ずっしり、あんこ』

東京は日暮里のあたり、谷中から根岸に向う坂は芋坂と呼ばれて文政二年創業という有名な茶屋があるらしい。田山花袋の揮毫による「羽二重団子」の扁額が飾られ、店の横には正岡子規の句碑が建てられているという。団子の肌理の細かさから羽二重団子と呼ばれた。きっと白い絹を思わせるような生地なのだろう。その団子のことを司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、あるいは夏目漱石が『吾輩は猫である』の中で書いている。団子は、漉した小豆あんをのせたのと生醤油に浸けて焼いたものしかない。もともと茶屋だったからビールと酒が置いてある。

『小説仕事人 池波正太郎』を書いたエッセイストの重金敦之(しげかね あつゆき)は、焼き団子で日本酒というのは悪くないという。続けてこう述べている。「じりじり色づいてきた団子を、片手に十四・五本すくい取って、もう一方の手には団扇がある。きびきびした手際の良さに感心しているうちに、お客が入ってくる。‥‥羽二重団子は庄内産のササニシキを使っている。もち米ではなく、日常食する『うるち米』だ。自分のところで製粉し、お湯でこねたものを蒸気で蒸す。火をつけるのは毎朝四時だ。蒸し上がった餅状のものを搗く。‥‥搗くことによって腰の強さと粘りが出てくる。そうでないと、口にしたとき歯のまわりにまとわりつくような「歯ぬかり」のする軟弱な団子になってしまう(重兼敦之『「羽二重団子」で日本酒を飲む』)。」

ちよっと面白い本を見つけた。〈美味しい文芸〉『ずっしり、あんこ』という主に文学者たちが描いた甘いものについての文章を集めた本だ。感性鋭いだけでなく甘性も十分ある、なかなか興味深い文章が集められているのでご紹介したくなった。上の文章の石牟礼道子、夏目漱石、谷崎潤一郎、芥川龍之介、重金敦之の文章はこの『ずっしり、あんこ』からご紹介した。この中にある安藤鶴夫の『たいやき』も面白い。僕の種本である。

僕は酒は全く飲めない、というか受けつけない。生醤油をつけて焼いた団子と日本酒を一緒にするとどういう味になるのか試してみることができない。人生の喜びの半分は失っているなどと言われたものだが、本人はちっとも残念だと思っていない。好きでもないからだろうか。酒については、かなりうるさい御仁が知り合いにいる。一緒に食べに行くと彼は、ぐい飲み片手に酒について一家言始まる。この人「マッサン」で知られるようになった竹鶴の杜氏(とうじ)なのだ。ゲストで何か書いてもらうのも面白いかもしれないと思っている。

 

その他の参考図書

虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』
京都・東京の老舗虎屋が菓子に関する資料や調査などをまとめた文庫。どちらかというと歴史的な視点に立った和菓子を愛した人々の紹介になっている。

塩野米松『最後の職人伝』
数少なくなった職人の手業を取材した秀逸な著作である。特に魯・櫂と和三盆の製法は興味深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和菓子作りの動画は「はさみ菊」などの華麗な技を映像にしたものもあるのだけれど、ただ、餡を練りきりに包むだけという、この基本技の凄さを見ていただきたいと思う。

 

 

 

ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part2 ヘレニズム化、死海文書、正典の確立

アレクサンダー大王の突然の死去の後、その帝国の一部であるエジプトは、部下であったプトレマイオス一世によって統治される。ギリシア人によってエジプトは支配されるようになるのである。前331年ナイルのデルタ地帯の西に建設されたその名もアレクサンドリア。ファロス島の灯台と図書館で世に名高い都市である。世界貿易の中心地であり、ギリシア人のほかにユダヤ人や多くの外国人たちが流入し始めていた。この王立図書館は前三世紀には世界の知の中心であり、講堂、会議室、庭園を備えた図書館は、ムセイオンと呼ばれた大型学術研究所の一部だった。長らく近東世界最大の知の宝庫、学識の象徴であった。そのような図書館にヘブライ語の聖書が蔵書としてないことに不満を感じるユダヤ人たちがいたことは想像に難くないと筆者であるカーギルは言う。今回もロバート・カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』からプロットしてみたい。

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

70人訳聖書

前三世紀から前二世紀にかけてユダヤ教は益々ヘレニズムの影響を受けるようになっていたが、ユダヤ人の歴史や宗教に関する事柄を世界的名著に加える価値があるとは考えられていなかったという。しかし、ユダヤ教徒の中にはギリシア語で読み書きできるものが増え、そのような学識あるユダヤ教徒の律法学者の中からヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳する者が現われるようになる。それが70人訳聖書と呼ばれるものであった。前250年頃から約150年の歳月をかけて翻訳され、概ね正確な版を完成させたといわれている。ただ、翻訳の過程で部分的な加筆、削除、解釈の変更は誤訳も含めて何百か所に及ぶといわれている。言い添えるけれど、翻訳に誤訳は避けられない。とりわけヘブライ語の翻訳は難しいとされている。この70人訳聖書には、従来のヘブライ語聖書になかった文書も含められた。それらは、後に聖書外典の名で呼ばれるようになる。この70人訳聖書は前一世紀から紀元後一世紀までユダヤ人にとって実質的な聖書であった。

前125年前後に書かれたと言われる『アリステアスの手紙』は、エジプトを支配したギリシア人であるプトレスマイオス一世の息子、プトレマイオス二世フィラデルフォス(前285-前246)の宮廷人であり異教徒だったアリステアスが兄弟のフィロクラテスに手紙を書き送るという体裁になっていて、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳される経緯が書かれている偽書である。アレクサンドリア図書館長のファレロンのデメトリオスが王に向ってユダヤ人の律法も転写してあなたの図書館に入れる価値があると進言するという架空の話から始まる。蔵書にヘブライ語聖書を加えたいと思った理由から書き起こされるのである。王がギリシア語への翻訳を命じる勅令を下し、ユダヤの12部族から各6名の翻訳者が二人一組になり72日間かけて律法(ト―ラー)を翻訳し、一言一句違わぬ翻訳版を36部作ったという展開になっている。この偽書の目的は、このギリシア語訳が申し分なく、敬虔になされ、現在の形を保持し、改変を加えないことが適正であることをユダヤ人たちに納得させることにあったようだ。

ギリシア語訳された70人訳聖書は、紀元後70年にローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ教徒の間に宗教的な伝統を守りたいという欲求が高まるに応じて人気がなくなる。一方ユダヤ教色の薄いギリシア語翻訳版はキリスト教徒に好まれていたが、それもラテン語聖書に取って代わられるのである。しかし、70人訳聖書が読まれた時代には、新約聖書の著者たちは、ギリシア語訳の本文がヘブライ語聖書の新解釈を導入する助けになると気づいたという。本書ではそのような二つの例が挙げられている。

紀元前8世紀のカナン付近

一つは出エジプト記13-15章でアラビア半島とアフリカ大陸を分断する大海を渡ったとされる場面であるが、この水域のヘブライ語名はヤム・スーフ「葦の海」であり、紅海とは訳せない言葉になっているという。訳者たちは、他の箇所で「葦」と「紅」の違いを訳し分けているから誤訳とは考えられない。当時はシナイ半島とエジプトを分断する水域を「紅海」と呼んでいたというから、何処だか分からない「葦の海」を「紅海」に置き換えた可能性がある。これは宣教の効果を考える上では重要であったかもしれない。もう一つはイザヤ書に登場する「おとめ」という一つの言葉だった。

それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる (イザヤ書7:14-16)。

このおとめはヘブライ語のアルマー、適齢期の女性を意味する。それを70人訳聖書ではギリシア語のパルテノスという単語で訳した。これは処女を意味していたのである。それゆえ、これを範とした新約聖書のマタイ福音書では、奇跡の懐妊を果たし、インマヌエルつまり「神はわれらとともにある」という神の化身を出産するマリアはパルテノスとして描かれたというのである。おそらく、この「おとめ」は聖母マリアの予型とされているのではないかと僕は思っている。予型についてはノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表に書いておいた。予言者イザヤはアハズ王のもとに赴き北王国(イスラエル王国)とアラム・ダマスコの同盟軍に対して、ダビデの血を引く次なるメシアが出現して再びユダヤ人は救済されるという預言を行った。そのおとめが身籠るメシアとはアハズ王の息子ヒゼキアを指している。アハズ王の時代ユダは持ちこたえるが、息子のヒゼキアの時代、前701年頃にエルサレムは新アッシリアに包囲される。その時イザヤは再び予言を行った。

エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。それゆえ/主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも/盾を持って向かって来ることも/都に対して土塁を築くこともない (イザヤ書 37:32- 33)

こうしてユダ王国とエルサレムは苦難をのりきるのであるが、後の前一世紀から後一世紀にかけての多くのユダヤ人はギリシア軍やローマ軍の圧政に苦しんでいて、イザヤ書のような預言書を読み返しては、現状のへの不満と悲しみを慰撫していた。70人訳聖書はそのような状況の中で読まれていた聖書なのであった。ちなみに現在の新共同訳聖書では「葦の海」「おとめ」共にヘブライ語旧約聖書のままとなっている。

『テオーシス』田島照久・阿部善彦編
著者 土橋茂樹、谷隆一郎、袴田渉、松村康平 他
「プラトン主義と神化思想の萌芽」収載
著者の一人である松村氏から寄贈いただいた。この場をお借りしてお礼申し上げたい。

プラトンとプロティノスの聖書への影響

ヘレニズム化されるユダヤ文化に浸透していったギリシア哲学の内でも、とりわけプラトン主義と新プラトン主義の影響は大きかった。プラトン主義は、影にすぎない物質界とその原型たる超越的な世界、つまりイデア界の存在を明確に区分する。そして、プラトンの著書『ティマイオス』にはこう述べられている。「神的なものについては、神自身が、その製作者となったのですが、死すべきものの誕生のほうは、その製作を、自分が生み出した子供たち(神々=天体)に命じたのでした。そこで、神の子らは父に倣って、魂の不死なる始原を受け取ると、次には、そのまわりに死すべき身体をまるくつくり〔=頭〕、それに乗り物として身体全体を与えたのですが、また、その身体の中に、魂の別の種類のもの、つまり死すべき種類のものを、もう一つつけ加えて組み立てようとしました(種村恭子 訳『プラトン全集12』)。」ここで、注目してほしいのは死すべき人間の魂は不死のものと死すべきものとに分けられて構成されたとしていることである。

最近、『テオーシス』というとってもいい本が出版されて、これも嬉しかったのだけれど、プラトンやプロティノスのギリシア哲学を起点としてキリスト教における東西教会(主に西方教会)の神化思想とその歴史的変遷を扱った本なのである。キリスト教へのギリシア思想の影響を知る上で貴重な本と言える。グノーシスもキリスト教との関係は濃密なのだが、それについては又の機会にご紹介したいと思っている。「テオーシス」とは一言でいうと「神に似ること」である。この感覚的な俗世から諸々の徳の理想的な範型へと「魂の向け変え」を行い、その観想によってなされる自身の浄化と倫理的徳の実践こそがプラトン(前427-前347)における「神に似ること」であったのである。プラトンのいう魂の不死性が、神に似たものになりゆく〈人間の生〉の永続性への根拠とされていたのではないかという(土橋茂樹「プラトン主義と神化思想の萌芽」)。

ユダヤ人であり、プラトン主義に通じたフィロン(前25-後50)によってプラトンのイデアとヘブライの神が結び付けられる。彼はギリシア化される離散ユダヤ人がユダヤ教から離れて行くことを懸念してモーゼ五書を含む旧約聖書注解をストア派的に寓意化して注解を作ったといわれている。ストア派は普遍的理性たるロゴスの理解を重視し、道徳的、倫理的幸福を追求した。一方で、彼は、プラトンの言う「神に似ること」を正確に受け継いでいたという。プラトンにとって宇宙が、善のイデアの統合体たる〈理性の対象〉の似姿(エイコン)であったように、フィロンにとって、人間は神が御自身にかたどった〈神の像〉の似姿、つまり写し〈像〉であった。人間は〈神の像〉の像ということができる。彼には、絶対的な神に人間が直接似ることは不可能と思われた。それゆえフィロンは、イデア全体をも表す神の思考の働きとしての〈ロゴス〉を神の像の知恵としたのである。神に似るためには、〈神の像〉としての〈知恵〉や〈ロゴス〉という媒介を必要とすると考えられるようになった(土橋茂樹「同上」)。

プロティノス(205?-270)

やがて、プロティノス(204-270)の新プラトン主義によって、この神化思想は、より大きな発展を遂げる。被造物は〈一者〉と呼ばれる唯一の存在から流出する過程で全てが生み出される。それは、万物の源であった。そして、彼はプラトンの主張を受けて『エネアデス』においてこう述べている。「プラトンは『神に似ることは、この世から逃れることである』と言ったり、日常の市民生活に関係している徳を、何の制約もつけずに〔徳〕と呼ぶようなことをしないで〔市民的な〕という言葉を付け足したり、また別のところでは、〔徳〕を浄化と呼んだりしているが、この場合、彼がすべての徳を二通りに分け、〔神に似ること〕を市民的な徳によるものとはみなしていないことは明白である(土橋茂樹 訳)。」プロティノスにとって〔神に似ること〕は、もはや倫理的実践の問題ではなく、一者への帰還であり、神との合一という神秘学的な問題へと移行するというのである(土橋茂樹「同上」)。

プロティノスが〈一者〉と呼ぶ存在と万物の源となる神聖な唯一の存在である神とは同質のものとして結びつけられていったのであろう。それは、キリスト教側からのアプローチであったと思われる。カーギルによれば、プロティノスの高弟テュロスのポリフュリオス(234-305)は『キリスト教徒駁論』を書いて、キリスト教を攻撃し、コンスタンティヌス帝から発禁処分を受け、後には焚書処分にもされているという。ともあれ、神化思想は、パウロにおいて神とキリストが同一化され、ニュッサのグレゴリオス(335頃-395頃)によって「神に似たものになること」は「キリストに似たものになること」に置き換えられ、偽ディオニュシオス・アレオパギタにおいて徹底的な自己無化による神との合一という神秘主義へと変遷していった。エピクロス派、犬儒派やストア派などのギリシア哲学の影響は part1 で述べたけれど、とりわけ、このプラトンやプロティノスの思想を受けてユダヤ・キリスト教思想は深化の度を深めてゆき、世界宗教としての風格を備えてゆくのである。さあ、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

死海文書発見の意味

死海北西部沿岸のクムラン廃墟と呼ばれる古代の住居跡、その付近にある泥灰土の崖にいくつかの洞窟があった。1946年の冬か47年の初め、そこから当地の牧夫が主にヘブライ語で書かれた羊皮紙の巻物を発見する。内容は紀元前1世紀ころ書かれたのではないかとされるもので、イザヤ書の写本、ハバクク書の注解、「共同体の規律」と呼ばれる「宗規要覧」であったが、さらにアラム語の外典創世記などの計七巻が発見される。この四つの巻物は古物商やシリア教会の大主教などの手を経てアメリカで競売にかけられ、既に購入されていた三巻とともにイスラエルにもたらされた。後には、この11の洞窟群から多くの断片が発見され、羊皮紙やパピルスなど書かれた写本の断片的な文書類は約800点にものぼったという。それらが死海文書と呼ばれるものである。概ね紀元前三世紀から後一世紀の時代のものであることが分かっている。

多くのゴシップや憶測を呼んだこととは別に、この死海文書の発見によって聖書研究はおおきな転換点を迎える。新約聖書ができる直前の旧約聖書の有様を垣間見ることができるからである。巻物の本文は90パーセント以上が従来の聖書の内容と同じだが、食い違う部分がある。つまり、旧約聖書の本文は部分的な書き換えがあり、長年にわたり変化してきたことの証しだと著者は述べている。

ジェームス・C・ヴァンダーカム
『死海文書のすべて』

死海文書の著作として定評のあるジェームス・ヴァンダーカムの『死海文書のすべて』によると、このクムランに住んでいたグループはパレスチナにおけるエッセネ派運動から派生した小さなグループであろうという。テオーシスの所でご紹介したフィロンやユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37-100頃)はエッセネ派の数をおよそ4000人としていることから、クムランに定住していたのは150から最大300人程度と推定している。エッセネ派というのはファリサイ派やサドカイ派などと同じくユダヤ教のグループの一つだが、サドカイ派は死者の復活を否定し、エッセネ派とファリサイ派は死者の復活を信じたという。

発見された「宗規要覧」から、このグループが神なき輩から自分たちを分かつことを求められ、イザヤの預言を成就するために荒野に入る、その目的が「律法の研究」であることが分かっている。写本の他におびただしい数の注解が同時に発見されていた。『死海文書のすべて』の執筆時までに明らかにされた写本で数の多い順に挙げると、詩編36本、申命記29本、イザヤ書21本、出エジプト記17本、創世記15本、レビ記13本となっていて、他はいずれも10本に満たない。詩編が多いのはそれが預言書として考えられていたからで、このクムラン共同体には終末の日の到来が強く意識されていて、自らの行動は最も厳しい戒めに合致したものでなければならなかったという。特筆すべきは「アロンとイスラエルのメシアたち」という二人のメシア信仰があったことだ。エッセネ派の生活習慣がキリスト教徒のそれとよく似ていることは専門家たちが指摘しているところだが、新約聖書の登場人物とクムラン共同体に関わる人物との関係は確認されていない。ヴァンダーガムは、初期キリスト教がそれを育んだユダヤ的な土壌に深く根ざしていることを死海文書は教えてくれると慎重な見解を述べている。

クムラン第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 部分

聖書のヘブライ語テキストには 、何世紀にもわたって細心の注意が払われて転写され、誤りをチェックされてきた伝統的写本であるマソラ本が存在していたのだが、転写されると古いものは処分されてしまうため、現存する最古のものは895年に筆写された「預言書のカイロ稿本」と925年頃完成した「アレッポ稿本」となっている。つまり、碑文などにある文章を除けば実物としてある聖書のテキストとしては、死海文書が最古のものということになるのである。

マソラ本とそれより1000年古い死海文書のイザヤ書とを比較した時、ほとんど違いがなかったと言われる。だが、マソラ本と70人訳聖書が一致せず、70人訳聖書と死海文書とが一致する場合もある。エレミア書は、70人訳聖書ではマソラ本より八分の一短いが、死海文書の六つの写本のなかには両方の長さのタイプのエレミア書があったのである。サムエル記のゴリアテの身長がマソラ本では約2メートル97センチ、70人訳聖書では2メートル6センチとなっていて約90cmの差があるが、死海文書では70人訳聖書と同じになっている。しかし、ダビデとゴリアテの物語は70人訳聖書で33節、マソラ本で58節費やしていて、長さに差があり、死海文書版のテキストではマソラ本と同じく70人訳聖書より長くなっているらしい。これらのことは、一部であるかもしれないが、70人訳聖書がマソラ本とは異なるヘブライ語テキストを使っていた可能性があるということなのである。それに、マソラ本と70人訳聖書には落ちていて死海文書にしかみられないサムエル記のパラグラフもあるという。

正典の確立へ

再びカーギルの著作に戻る。前49年にカエサルがルビコン川を渡り、翌年ファルサロスの戦いでポンペイウスに勝利すると、エルサレムの南、イドゥマヤの長官であったアンティパトロスは、ポンペイウスからカエサルに鞍替えして、後に初代ユダヤ総督に就任する。前43年にアンティパトロスが殺害されると、息子のヘロデがユダヤ王となった。ローマに就いた裏切り者の評判はさんざんなものだ。ヘロデの死後、王国は三人の息子とヘロデの女きょうだいの支配下に置かれる。この一世紀と二世紀初頭が新約聖書形成に寄与した時代である。イエスの誕生、総督ピラトゥスとへロデ・アンティパスの前でのイエスの裁判と受難が語られ、パウロの手紙がローマの領土に新設された教会に送られ、帝国全土の新しい教会を教導するため、パウロの名で牧会書簡が執筆される。新約聖書の誕生は、完全にローマ帝国での出来事であるとカーギルは言う。

破壊されたユダヤ第二神殿の西側の外壁 「嘆きの壁」と呼ばれる。

ユダヤ教徒と新興のキリスト教徒、そしてお粗末なローマの総督ポンティウス・ピラトゥスとの間の政治的緊張は66年のユダヤ教徒の叛乱に発展し、いわゆるユダヤ戦争が起こる。ローマ軍は70年にエルサレムの第二神殿を破壊した。そのため離散したユダヤ教徒は宗教活動に神殿を必要としないものに変えざるを得なくなる。律法を中心においたファリサイ派がユダヤ教の主流となっていった。神殿の喪失はユダヤ教徒とキリスト教徒にとって決定的な分かれ目になったという。第一神殿の破壊がヘブライ語聖書の編纂を催したように、第二神殿の崩壊は新約聖書の大部分とユダヤ教の最初の口伝集成であるミシュナを生んだというのである。先ほどの『死海文書のすべて』を書いたヴァンダーカムによれば、新約聖書は、ギリシア語で書かれていて、イエス自身はアラム語や多分ヘブライ語を話したが、「タリタ・クミ/娘よ、起きなさい」のような二、三のアラム語はギリシア語に音記されているという。

ハギア・イレネ教会 初期の総主教座 コンスタンティノープル
オスマン帝国時代はトプカピ宮殿の倉庫として使われた。

コンスタンティヌス大帝(272-337)が313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した後、キリスト教徒間の宗教的正統性を確立し、正統な教令の成立を目指して公会議を招集する。それがニカイア公会議であり、そこでキリスト教徒が「正式に」何を信仰するか定式化されたという。帝国の首都がコンスタンティノポリスに遷都されるとコンスタンティヌス帝はカイサリアのエウセビオスに帝都の主教アレクサンドロスが用いる聖書50部の作成を命じる。このように聖書の需要が高まってくれば、聖書としてどの書を選択するかを迫られることになる。イエスや使徒の教えに神学理論を根付かせようとしても引証するテキストがバラバラでは教会指導者にとっても問題だったのである。

367年にアレクサンドリア総主教アタナシオスは、ヨハネ黙示録を含めた27書の新約聖書正典目録を提示した。後の新約聖書正典となる全書を含む最初の目録であった。四世紀末にはローマ教皇ダマスス一世がヒエロニムス(347-420)に聖書のラテン語訳を依頼する。これが後のウルガータ聖書である。このラテン語訳には新約聖書の二十七書が収められ、この形が正典となった。しかし、旧約聖書については、ヘブライ語聖書か70人訳聖書をとるかで迷った。結果、ヘブライ語聖書をとって70人訳聖書にある他の書を外典としたのである。だが、ヒエロニムスは後に外典に関する考えを変えたという。翻訳者でさえ気持ちの揺れがあったというのだ。この外典をカトリックは第二正典として受け入れ、プロテスタントは受け入れなかった。

グーテンベルク聖書 1847年にアメリカにもたらされたグーテンベルク聖書のコピー

初期教会は、まず何を信じるか決定した後、その信条を指示するキリスト教文書を選んだという。初期キリスト文献や教会公会議の資料がそれを裏付けているという。正典と呼ばれた目録は驚くほど多く、意見の一致を見るのは四世紀の終わりだというのだ。教会発足後四世紀にわたる人間の解釈と議論の積み重ねが聖書をつくりあげたのである。

先ほどの『テオーシス』の中で筆者の一人である田島照久はニカイア公会議から第二コンスタンティノポリス公会議にいたる初期の公会議は「受肉論」すなわち「キリスト論」をめぐる戦いであったという。イエス・キリストは完全な神であり、同時に完全な人間であること。神性と人性という二つの本性を担い持つのは子というペルソナであり、この二つは融合せず、変化せず、分割せず、分離することなく存在する(『テオーシス』「総序」)。つまり、神とイエス・キリストとの関係はどうなっているかを議論したのである。

神化が人間において確実に起こることが保証されるためにはイエス・キリストがわれわれと同じ人間でなくてはならなかったし、逆にイエス・キリストが神でないのならペトロの約束する人間の神化、つまり、われわれ人間が不滅性と不死性を得て神に似た者(神の子)になるなどということは望むべくもないことになる。人間が神の神性にあずかり「神の似姿」を成就するという「テオーシス」の思想と神人イエスの教義である「神の受肉」の思想とがキリスト論を支える根本動機であったという。「テオーシス」は東方のギリシア正教会においては思想的伝統となったが、西方のローマ・カトリック教会においては堕罪・贖罪・十字架という方向性が強調されたため伝統的に継承されることはなかった。だが、それは後のグレゴリオス・パラマス、マルグリット・ポレート、エックハルト、タウラーたちからイグナチオ・デ・ロヨラにいたる修道者たちの思想に散見されることになるのである。

 

その他の参考図書

プラトン全集12「ティマイオス」「クリティアス」

モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』 アレクサンドリア図書館に関する広範で内容ある歴史書であり、お薦めしたい。

 

ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part1 聖書の神・文字・編集

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

こんな本が欲しかった。聖書が、いかに書かれたのか、その歴史的変遷が聖書にちなんだ都市毎にまとめられた本である。日本では2018年に出版されたようだ。この本では、歴史における時間軸の上を滑走するのではなく、東地中海沿岸地方を中心とした都市というトポスで区切って聖書との関わりを書いている。いいアイデアかもしれない。それほど線形には描けない飛び飛びの歴史を書くには、恐らく、その方が書き易かったこともあるのではなかろうか。聖書を形成した各都市が、今日のわたしたちの実際の聖書本文に最終的にどのような影響を与えたかを考察することが本書の目的であるという。著者には悪いのだけれど、僕は都市よりも聖書の成り立ちの経緯をご紹介したいと思っている。大乗仏教経典の成立などについても、このような一般向けの著作があるといいのだが。

本書は、主にヘブライ語聖書、つまり旧約聖書について書かれている。イエスが聖書を引用する場合は、旧約聖書からであり、キリスト教聖書の約75パーセントを旧約聖書が占めるからである。ヘブライ語の旧約聖書は、各分派によって基本的には同じでも少しずつ異なる内容のテキストが存在したということが死海文書の発見などによって明かされた。どのテキストのどの文書を正典にするかキリストの死後200年以上たっても、議論は続いていたという。教会発足後、四世紀に亘る人間の解釈と議論の積み重ねが聖書を作り上げたと著者は言うのである。以前に文学における聖書というテーマでノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表お送りをしたけれど、今回は歴史における聖書をテーマとしたい。

ロバート・R・カーギル
アテネのアレオバゴスに立つ(本書より)

著者のロバート・R・カーギルは、カルフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得し、アイオワ大学で古代近東の考古学と聖書の本文との関連について研究している学者である。CNNテレビで聖書や死海文書などについての番組の司会を度々務めていて、日本語に翻訳された本としてはこれが最初のものである。

本書の成り立ちが面白いのだけれど、2004年に女優のニコール・キッドマンに、ある大学で担当した「旧約聖書入門」講座の個人授業を頼まれたという。キッドマンと言えばヴァージニア・ウルフを演じた『めぐりあう時間たち』の名演を思いだすのだが、その講義は『奥様は魔女』の撮影場所にあるトレーラーハウスで行われたらしい。僕は子供の頃、サマンサ・モンゴメリー主演のテレビドラマ『奥様は魔女』をずっと楽しみに見ていたけれど、あの魔法をかける時の唇の動きの不可思議さと魅力に感じ入り、自分で真似るのだが、いっこうに同じようにはできなかった。それで、この人はやはり魔女なのだと思っていた。キッドマン主演の映画の方は見ていないので、どうだったか分からない。それはともかく、講義の時、こんな質問が飛んだという。「聖書ってどうやってできたの?」答えに詰まった筆者が、その後10年かけてまとめあげたのが本書なのである。

ウガリト宮殿入口の跡
紀元前1450年頃から前1200年にかけてが都市国家としての全盛であった。

旧約の神の環境

地中海のキプロス島の真東にあるシリア第一の港湾都市ラタキア、その近郊にあるミネト・エルベイダで、ある農夫が畑を耕していた、そんな時、古代の墓を偶然に掘り当てる。1928年のことである。キプロスの特徴を持つ紀元前13世紀のミケーネ文化の土器が出土した。輸入された物があるなら国際的な都市があったことになる。フランスの発掘隊が、そこからまた、800メートルほど内陸のシャムラ遺丘に宮殿と神殿二つ、居住区を含む巨大な遺跡を発見した。これが新石器時代(前5000年)からの何層にもわたる遺跡の最上部にあたる後期青銅時代(前1500年-前1200年)の古代都市ウガリトであった。ここで発掘された楔形文字の文書には、この都市の政治的、経済的状況が記されていたのだが、特筆すべきはイスラエルを含む南カナン一帯の神々の姿がウガリト語で詳述されていることだという。このウガリト語は、メソポタミアとカナンを繋ぐ言語上の架け橋であるともいう。楔形文字だが、30種類の子音のみによる表音文字であった。カナンはヨルダン川と地中海に挟まれた、現在のレバノンからガザを含む地域である。

二つの神殿遺跡とは、バアル・ハダド神殿とダゴン神殿で、城壁内の北東の丘の上に崇拝の中心地があった。この丘そのものが平地から20メートルの高さにある。バアル・ハダト神殿は、縦16メートル、横22メートル、高さは推定で20メートル、壁に囲まれた850平方メートルの敷地からなるかなり大きな規模のもので、海上からもはっきり見えただろうという。矛を振り上げるバアル神像とヒエログリフで記された宮廷書記官兼侍従の石碑が出土している。ダゴン神は、もともとメソポタミアの豊穣神で、古代シリアのマリ文書(前2500年)に「大地の王」「偉大なる神々の主」という記述が既にみられる。旧約聖書では、ペリシテ人が十戒の石板を納めた契約の箱を奪い、その民族神であるダゴン神像の傍に置くと、像が夜中に倒れて砕けたという記述がある(士師記16:23)。サムソンとデリラの話で知られるヶ所だ。

しかし、本書にとって重要なことは、この遺跡から出土した粘土板文書に「バアル神話」「ケレト王伝説」「アクハト叙事詩」といったウガリト文学が記載されていたことだった。ここに登場する神々の名、人間の物語、詩、知恵文学などの物語の内容は、ウガリトの宗教物語とヘブライ語聖書の内容との類似を示していた。ウガリトの北に位置するアクラ山は、聖書ではツァフォン山とされていること、イスラエル統一王国が成立する千年以上前にウガリトでバアル神らの神々が崇拝されていたことを考えると、ある専門家たちは古代イスラエル人の宗教の原型が、当時カナンで広く崇拝されていたウガリトの神々を合成したものか、あるいはその反動ではなかったのかと考えているという。ウガリトの神々を紹介しておこう。

エル神像 ブロンズに金箔
BC1400-1200 メギド出土

エル

造物主であり、ウガリトの神々の主。筆者によれば会社の社長に対立する会長のような立場にあるという。エルについては聖書に何度も記載されていて、実際の神の名なのか、ヘブライ人の神ヤハウェの別称なのか区別するのが難しい場合があるという。創世記28:19では、ベテル(ヘブライ語でエルの家/神の家)という語はヤハウエを指すのは間違いないという。士師記9:46にある「エル・ベリト」の神殿はヘブライ語で「契約のエル」の神殿という意味ではあるが、この場合はヤハウェとは別のウガリトの神であろうという。

アシェラ(アーシラト)

アシェラはエルの配偶神であり、シュメール神話では天神アヌの妻であり、ウガリト神話では海の神である。ちなみに天神アヌは『ギルガメシュ叙事詩』にも登場する。このアシェラは、旧約聖書では打ち砕くべき神の像としてしばしば登場する。

バアル・ハダト

バアルはウガリト語やヘブライ語で〈主〉を意味する。バアルは嵐の神であり、その声は雷鳴であり、天水と農業の神である。民数記33:7には「ツァフォン山のバアル」という地名で登場する。古代イスラエルはフェニキアと接触していたためにバアル信仰は比較的篤く、イスラエルの預言者は絶えずバアル信仰を戒めたという。列王記下21:3には、マナセ王の時代に父ヒゼキヤがこわした高台を建て直し、またイスラエルの王アハブがしたようにバアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造り、かつ天の万象にひれ伏して、これに仕えたという記述がある。

バアル神 石碑 ウガリト出土

シナイ半島の砂漠にあるクンティレト・アジュルドで、前九世紀後半から前八世紀初頭頃の碑文が刻まれた二つのトピス(大甕の土器)が1970年に発見された。その一つには「アシェヤウ王の言葉。『イェハレル、ヤウアシュならびに[‥‥]に対して、《私はサマリアのヤハウェと彼のアシェラによる祝福をする》』」と書かれている。それに、ヤハウェに異なる名前、エルやその複数形エロヒム、エルヨーンやエル・シャッダイといった派生が何故あるのかが問われる。著者のカーギルは、古代イスラエルの人々が他の神々の存在を信じなかったわけではない、人々は神ヤハウェを唯一崇拝することを許されたのだという。これは学術的には「拝一神教」と呼ばれ、他の神々を認めない「一神教」とは、区別されるという。多神教のウガリト伝説の神々が、いかにヘブライの一神教に組み込まれたかという問題なのだろう。だが、これはもう少し考えてみる必要がある。

ピーター・C.・クレイギーの著書『ウガリトと旧約聖書』では、もっと慎重な表現になっている。ここからは、しばらく、この『ウガリトと旧約聖書』からご紹介したい。最も繁栄した前13世紀頃を中心としたウガリトは、南のエジプトと北のヒッタイト帝国に挟まれた交易と流通の要所であったという。そこでは多言語が使われ、宗教的にも宗教混合(シンクレティズム)が進行していたと言うのである。

メソポタミアで使われたアッカド語の方言であるアッシリア語とバビロニア語が東セム語。古典アラビア語、古代南アラビア語、エチオピア語が南セム語。このウガリト語、ヘブライ語、フェニキア語やモアブ語を初めとするカナン緒方言が北西セム語といわれる。クレイギーは、セム語はこのような三つの主要なグループに下位区分されるという。注目されるのはこのウガリト語とヘブライ語が多くの共通点を持ち、非常に近い言語であり、ウガリト文学の詩の技法と旧約聖書の文学のそれとも似た特徴があることをクレイギーは指摘している。

神々もまた、食べるために座った、
聖なる方の子らは、食事をするために。(ウガリト詩文)

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。(旧約『詩編』8-5)

ピーター・C.・クレイギー
『ウガリトと旧約聖書』
クレイギーは、カナダのカルガリ大学で教鞭を執ったウガリトと旧約聖書の研究者。

ウガリト詩文で最も特有な形式は、聖書の詩文によく用いられる並行法であるという。並行法の詩文では通常二、三行が一単位となっていて一行目で基本的な考えが述べられ、続く行で敷衍されるという。この巧みな言い換えと発想の展開は驚異的であるというのだ。このような修辞上の特徴に加えて神話や物語における共通の特徴も指摘されている。一つ例を挙げれば、『出エジプト記』の「海の歌」とバアル神話のバアルとヤム(海)神との戦いの場面がある。

わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい 光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り
(『詩編 』104:1-2)

だが、この『詩編』104編は、ウガリト文学だけでなく、エジプトのファラオであったアケンアテンの太陽賛歌、太陽神シャマシュのバビロニア賛歌などの類似が見られるという。ソロモン(前1011-前931)の時代にはエルサレムが文化交流の中心であって、その頃、詩篇が作られたのではないかとクレイギーは言うのである。そして、旧約聖書の特質として「神との契約」が挙げられる。

1961年に行われたウガリトの発掘によって、ヒッタイトなどで使われていたフリル語で「契約の神エル」と書かれた賛歌が見つかった。オリエント以外で、ある神と契約を同一視する宗教が一つだけあるという。それは古代インドのヴェーダにあるミトラ神であるというのだ。ミトラ(あるいはミスラ神)は観音やヘルメス神との関係も指摘される神格である。そのことはイメージの配列 彌永信美『観音変容譚』仏教神話学Ⅱで書いておいた。ここは大変興味深い所である。ヒッタイトやフリル人の宗教とヴェーダには重なる部分がある。おそらく、それは紀元前三千年期の民族大移動によってもたらされたのではないかとクレイギーは言う。フリル人の間では「大神ミトラ」と「大神エル」は宗教的に一つに融合していた。この宗教混合はウガリトを越えて南方のパレスチナまで広まっていた。それは、ヘブライ語以前の地名であるエル・ベリトがその地にあることによって窺えるという。ウガリトの神々だけが旧約聖書に影響を与えたわけではないのである。少なくとも、ヘブライの宗教がこのような多元的な環境の中から発達してきたということは言えるだろう。さて、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

フェニキア文字、アラム文字と古ヘブライ文字

聖書が書かれた文字

紀元前2000年から前1000年前半にかけて栄えたフェニキアは、ギリシア人たちによって「紫の国」と呼ばれていたという。その頃の古代フェニキア人は地中海東部とカナン北部を支配していて、アクキガイからとれる赤紫の染料による紫染めの織物の輸出を独占していた。この高貴の色は莫大な富を生み、それに伴い日用品や工芸品の交易が盛んとなって繁栄した。彼らはカナン人と呼ばれ、地中海の島々に植民地を建設、そのうちのカルタゴは後にフェニキアの首都となった。ヒュブロス、ティルス、シドンの三大海港都市を中心に発展したが、前883年に新アッシリア帝国に滅ぼされた。

交易が盛んになれば、注文書、送り状、領収書などの記録の必要が生まれてくる。楔形文字は、名詞、動詞など何百もの象形文字を覚えておかなければならなかった。それに対して、フェニキア人は簡単な子音22個よりなる文字を生みだしたのである。それは周囲の国であるギリシア、そして、現在のシリアあたりに定住していたアラム人たちに伝えられる。フェニキア文字とアラム語は使いやすかったために、ペルシアでは前6世紀にメソポタミアを征服したのち、それまで使っていた楔形文字のアッカド語を捨て、アラム語を採用した。

この便利なフェニキア文字はカナン地方の様々な民族に使用されたが、その中には、アラム人だけではなくヘブライ人もいた。前10世紀の「ゲゼル農事暦」がエルサレムの西、ゲゼルで発見されている。この粘土版の文字は「古ヘブライ語」と呼ばれている。古ヘブライ文字は、ほとんどフェニキア文字と同じである。後代、ヘブライ人がバビロンに捕囚されると現地のアラム語を母語としたとされる。そのため、旧約聖書のエズラ書、ダニエル書の本文の一部はアラム語で書かれているらしい。解放後もこのアラム語が使用され、イエスの時代にもこの語が引き続き使われていた。福音書のイエスの言葉は口語アラム語であるという。ヘブライ人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムへ帰還後も、フェニキア文字と方形アラム語が使われたようである。こうして、フェニキア人の発明した文字は、ヘブライ人、アラム人、ギリシア人に採用され、結果として聖書は、ヘブライ語、アラム語、ギリシア語によって書かれることになるのである。

バビロンの遺構 2005年撮影

ヘブライ語聖書の編集

バグダットの南90キロにあったバビロンは、聖書の形成に重要な役割を果たす都市である。バビロンの階段状のピラミッドであるジグラトはバベルの塔の物語のモデルらしいし、ハムラビ法典は聖書の法典の雛形になり、バビロニアによるエルサレム征服と破壊、それに続くバビロン捕囚が古代イスラエルにおける神理解を根本から変えたとカーギルはいう。哀歌や預言者イザヤ、エゼキエル、エレミアなどの数々の預言書の素地を作り、バビロン捕囚の間にヘブライ語聖書の作成ないしは編集が行われたと多くの専門家が指摘しているという。旧約聖書が文書の体裁をとり始めたのはこの時期なのである。

紀元前2000年期にはメソポタミアの全域をハムラビが統一し、バビロン第一王朝としてバビロンを中心に栄えた。バビロンは、その第一王朝の盛衰の後、一千年にわたって外国の支配を受けるが、前934年には、ついに新アッシリア帝国に組み込まれた。だが、前627年にナバポラッサルが叛乱を起こし、新バビロニア帝国の王として即位。その息子ネブカドネザル二世によってバビロンは再建される。神殿、宮殿、イシュタル門、空中庭園を建設したと言われる。

一方、ヘブライ王国はソロモン王の死後、前926年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。北王国は前722年に新アッシリアに滅ぼされるが、南王国は新アッシリアへの朝貢を続けていた。新アッシリアが滅び、先ほどのネブカドネザル二世の軍とエジプト軍との戦いが膠着状態になるとカナンやフェニキアの都市国家の支配者たちは同盟して新バビロニアに反乱を起こした。そのような支配者の中にユダの王、ヨヤキムがいた。新バビロニアは前598年エルサレムを包囲・攻略する。包囲中にヨヤキムが亡くなり、即位して3ケ月のヨヤキンは退位させられ、王族、貴族、エルサレムの多数の住民はバビロンに捕虜として連れて行かれてしまう。世に言うバビロン捕囚である。これが列王記下24章に書かれていることだ。

この時、予言者エレミアは新バビロニアへの徹底抗戦ではなく投降を主張した。降伏が生存を保障する道であると悟ったからである。そのため彼はベニヤミンの門に繋がれ、王子マルキヤの穴の泥の中に沈められたという(エレミア書20:2、38:6)。エルサレム神殿の破壊とバビロン捕囚は、ユダヤ教徒の心理に大きな傷跡を残し、神学的トラウマとなった。マナセ王が流させた罪なき者の血が、この悲劇のトリガーだったのだ。その心の傷から生まれたのが哀歌や詩編の一部にある嘆きの歌だったというのである。哀歌は全五章のうち四章が、冒頭の文字を繋げると語句や文になるという、いわゆる折句になっているらしい。とりわけ第一章、二章、四章は、それぞれ22節あって、ヘブライ文字の22字がアレフから順番に、それらの冒頭に割り当てられている。これは翻訳された聖書では分からないことなのである。哀歌5:20-22をご紹介しておく。

なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。
主よ、御もとに立ち帰らせてください
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。
あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。

新バビロニア帝国は前539年、ペルシアのキュロス王によって打ち破られ、滅亡する。捕囚は解放され、ユダのエルサレムに神殿の再建が許されたという。これが第二神殿といわれるものである。バビロニアへの激しい憎悪は、預言者イザヤをしてキュロスを油を注がれた者の意であるメシアとさえしたのである(イザヤ書44:28-45:4)。破壊と邪悪のシンボルとしてのバビロンのイメージは、新約のヨハネの黙示録にまで及ぶのだが、捕囚の期間におそらくヨヤキン王の宮廷書記の手で、ヘブライ語聖書の大部分が、少なくとも編纂・編集されたのではないかと言われている。一部は解放後もバビロンに留まったユダヤ人によって執筆された可能性もあるというのである。

地中海東部

ヘレニズムと聖書

メソポタミア、カナン、ペルシアの宗教的伝統に加えてギリシアの宗教と思想がユダヤ教を今日の形にした。ヘレニズム(ギリシア化)が起こらなければ、今日のようなユダヤ教は存在しなかっただろうとカーギルは述べている。このヘレニズム時代(前332-167)にギリシア化されることによってユダヤ教は様々な宗派に分かれ、この世での信義を尊ぶ従来のユダヤ教から来世の永遠の命を言祝ぐ宗教思想として発展していく。それは、世界の覇者となったローマ帝国に受け入れられるために、まことに好都合であったという。

アレクサンダー大王が地中海と近東を征服するや、ギリシア文化は当時ペルシアに帰属していたイェフド(後のユダヤ)とその中心地であったエルサレムにももたらされた。ところが、前323年にアレクサンダーが急死すると、その帝国は分割統治され、ディアドコイ(後継者)の一人プトレマイオス一世がエジプトを支配する。その中にユダヤやその都市エルサレムも含まれていた。ある程度の自治が許されていたが、前199年のパネイオンの戦いでシリアのセレウコス朝がエジプトを破り、その地を支配するようになると供え物や割礼といったユダヤ教の宗教儀式は禁止され、強権的なヘレニズム化政策がアンティオコス四世によって強要される。耐えかねたユダヤ人は前167年にマタティアと息子ユダ・マカベアらが反乱を起して独立国家ハスモン朝を打ち立て、それは約100年続いた。この間の事情はダニエル書に象徴的に描かれているという。

マタティア(?-前166)
ギヨーム・ルイエ『プロンプトゥアリ・イコヌム・インシギオルム』より。16世紀

そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの「麗しの地」へと力を伸ばした。 これは天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった。その上、天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。 (ダニエル書8:9-12)

こうして、ユダヤにギリシア思想が流入する。その影響として、エピクロス派からは真の快楽と利他的生が、ストア派からは道徳の涵養が、犬儒派からは清貧の思想がもたらされることになるという。コヘレトの言葉にはそれらの思想と似た表現が随所にみられるとカーギルは述べている。例として、僕が『コレヘトの言葉』から勝手に選んだ文章を掲載しておく。

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いしその労苦によって満足するのは神の賜物だ、と(コレヘトの言葉3:12‐13)。

目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない(コレヘトの言葉2:10‐11)。

ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい(コレヘトの言葉4:08‐12)。

コレヘトの言葉における神学はヘブライ語聖書の中でもかなり異質なものであるらしい。申命記のような神の法の順守といった紋切り型の神学への批判だとある専門家はみているという。ヘレニズム時代のユダヤ人編集者は、ユダヤ教に様々なギリシア哲学を組み入れ、彼らの時代の現実に応じたものにしたとカーギルは述べている。特定の宗教的指導者が独断で決めた偏狭な教義に合わないようなテキストを抹殺することなく、正典として多様な伝承を取り込んでいるという。この多様さこそ聖書の長所ではないのかと著書は言うのである。

さて、次回 part2 は、旧約聖書のギリシア語訳である70人訳聖書、ヘレニズム化の中でも最も重要な影響とされるプラトン主義と新プラトン主義、死海文書の発見による旧約聖書への新たな視点、そして何世紀にもわたる正典選別の経過などをご紹介する予定です。お楽しみに。

 

その他の参考作品

『ギルガメシュ叙事詩』
古代オリエント最大の文学作品、シュメール語版の編纂は紀元前3000年紀に遡る可能性がある。

ミレーナ=美智子・フラッシャール『ぼくとネクタイさん』鏡のなかへの墜落

この美しく、もしかすると意味のある世界から
君はどれほどのけ者にされ、
あらゆる自然な完璧さからどれほど遠く隔てられ、
君自身の虚無の中でどれほど孤独を感じ、
この大いなる沈黙のなかで、どれほど孤立無援であることか。

マックス・フリッシュ『沈黙からの答え』関口裕昭 訳

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』

この小説『ぼくとネクタイさん』の冒頭に引用されたスイスの小説家・劇作家であるマックス・フリッシュ(1911-1991)の言葉、ここに既にこの物語の前景が暗示されているのだが、今回ご紹介する小説の書き出しは、その最後の文章と共に異様に明るい。書き出しは、こう書かれている。

ぼくは彼をネクタイさんと名づけた。
彼もこの名前を気に入ってくれた。彼は笑い崩れた。
胸元の赤とグレーの縞模様。あのネクタイとともに、ぼくは彼を記憶に永遠に刻み続けるつもりだ。

この本の表紙にあるようなベンチが主な舞台だった。20歳の引きこもりの青年が、少し外出できるようになり、そのベンチで初老のサラリーマン風の男と会話するようになる。それがこの話の端緒なのだが、この二人には、この世界から切り離され、疎外され、孤立無援とならなければならない深い傷があったのである。

確か、昨年の10月にこの小説の翻訳者である関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんが学会で広島に来られると言うのでお会いできることになった。この人はパウル・ツェランの研究者として知られる人でオーストリア文学会賞などを受賞されているのだが、僕が関口さんの著書を 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇と題して書いた時にわざわざコメントをくださった。それがお会いすることになるきっかけだった。その時は、版画家だったツェランの奥さんのジゼルのことやツェランの親友であったクラウス・デムス(ピアニストのイェルク・デムスの兄)の息子でジゼルから版画の手ほどきを受けたというヤーコプ・デムス氏、作曲家の細川俊夫さんのこととか話した記憶があるのだけれど、別れ際に今訳している本を後で送りますよと言ってくださった。それがこの本なのである。

ザンクト・ペルテン ウィーンの西方56キロに位置する。バロック風の建物が多いことで知られる都市。

著者のミレーナ=美智子・フラッシャールは、1980年ウィーン郊外のザンクト・ペルテン生まれ。父親はチェコ系のオーストリア人で母親は岡山出身の日本人である。日本語は母の口から学んだまさに母語であったという。読み書きは、もっぱらドイツ語のようだ。ちなみにオーストリアの公用語はドイツ語である。ウィーン大学とベルリンの大学で比較文学、ドイツ文学、フランス文学を学んだ。卒業後は外国人にドイツ語を教えたりしながら小説を書き続け2008年『Ich bin/私は』、2010年『Okaasan』を発表した。この二作目は大きな注目を集めたという。2012年の本書によって、オーストリアの有望な新人に与えられる アルファ賞を受賞している。関口さんの「訳者あとがき」によれば、彼女は日本への長期滞在はないようだが、ほぼ毎年二週間ほどの滞在を繰り返していて、日本に住んでいる家族や親戚を訪れ、日本の風景・文化を楽しみ、時折自作の朗読もしているようだ。現在は、ウィーン市に夫と息子とともに生活している。

主人公は20歳くらいの青年タグチ・ヒロ。二年間、両親とともに住む家の自分の部屋に引き籠り、本棚の上にある髪の毛のように細い亀裂を眺めて暮らしていた。比較的短い文章でまとめられる114章は、こんな書かれ方がされている。

今ぼくが座っているのが、僕たち二人のベンチだ。ぼくたちのものになる前は、ぼくひとりのものだった。‥‥‥瞳を閉じてそのジグザグの線をなぞってみた。頭の中にあったその線はどんどん伸び続けて、心臓や血管にまで食い込んでいった。ぼく自身が血の通わない線だった。陽の当たらないところにいたので、肌が死人のように蒼ざめていた。ときどき陽の光に触れたいと憧れた。外に出て、人がけっして出て行くことのない部屋があるのを理解するのは、どんなことなのだろうかと想像してみた。‥‥ぼくは自分を欺こうとはしなかった。相変わらず重要なのは、自分のために存在するということだ。誰にも会いたくなかった。誰かに会うということは、何かに巻き込まれるということだ。きっと見えない糸があって、人から人へ繋がっているのだろう。どこもかしこも糸だらけ。誰かに会うということは、つまるところその織物の一部になることだ。これだけは避けたい。(第3章より)

彼は意味のある世界からはぐれた。そして、じっと見つめ続けていた自室の壁のヒビが自分自身の頭の中の線や心臓からの血管の線となっていく。それは、これからの他人との繋がりが生じることを暗示しているのである。ヒロが、閉じこもりを始めた契機には二つの事件があった。最終学年で同じクラスになったクマモトを巡る事件と16歳の時同じクラスになった幼なじみのユキコの事件だった。

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』裏表紙

クマモトの家は三代続いた法学者の家系だったが、彼は詩人になりたがっていた。ヒロにはその詩がちっとも理解できなかったが、自分がどこかへ向かっていて、たどりついた場所でどのように孤独になるかを知っている、そんな光りを放つ彼と友達になった。ある日、待ち合わせの場所で、クマモトは道を渡ろうとしていた。周囲を見回しもせず車の往来の波に水泳選手のように飛び込んでいった。事故なのか自殺しようとしたのか。ヒロは気を失い目覚めたときには既にクマモトの姿はなかった。ヒロはその夜、恥の感情が込みあげてくるのを感じる。日本人の恥の感情がクローズアップされるのである。自分の持つ倫理と現実の対応とのギャップに対するある種の嫌悪のようなものが感じられはするのだが‥‥ここは、血のつながりを持ちながらも、外から日本人を見ている著者の距離感が興味深い。読む人それぞれに異なる感触を持つヶ所かもしれない。彼はもう誰の運命にも巻き込まれたくないと思うのだった。それが引きこもりの引き金になった。

ユキコは隣に住む腐敗物の臭いがただようような貧しい家の子供だった。家族は、興味よりもある種の不安からヒロに彼女のことを尋ねた。しかし、幼い子供にとってそんなことは問題ではなかった。ユキコは琴座の王女様で、はるかな故郷から地球に籠の中に入れられて運ばれてきたのだという。二人は、小刀で木の幹に名前を刻み、ユキコはスカートのポケットから赤い糸を引っ張り出して、枝に結びつけ、この赤い糸はわれわれが結ばれていることを永遠に記憶し続けるだろうと誓いの言葉を宣べるのだった。しかし、10歳にもなると二人の間は疎遠になっていった。そのことにヒロは苛立ちさえしたが、結局ユキコはヒロを避けるようになり、二人は離れてしまう。再会したのは16歳の時、同じクラスのクラスメイトとしてだった。しかし、この偶然の出会いはヒロに決定的な深い傷を残すことになる。

ベンチに坐るもう一人の人物ネクタイさんは、オオハラ・テツという名の58歳の元サラリーマンだった。職場での文字通り小さなつまずきが彼の生活を変えてしまった。書類の山を抱えて隣の部屋に移動しようとしてケーブルに足を取られた。職場の同僚たちは笑って、こうささやく者もあった。こんな人はいらないと。ちいさなきっかけから禍が雪崩をうつかのようであった。それから、彼を重い鉛のような眠気が襲い始めるようになる。こうして彼は会社をクビになった。それを妻のキョウコには言えなかった。彼女の作る美味しい弁当を持って毎日公園のベンチに坐っては、お昼になるとそれを食べ、夕方6時に帰っていく、そんな生活を繰り返していたのである。彼は若いヒロにこう語りかける。

今日、プラットフォームで人ごみの中にまみれながら、わたしは自分に問いかけました。この中の誰かひとりがいなくなったら、わたしの中にあるその人の一部分が欠けることになりはしないかと。そして、こう思ったのです。ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか、と。そのとき、ようやく電車がホームに入ってきて、わたしの姿が車窓に映り、その後ろで寝ている人の顔に重なって通り過ぎていくのを見たとき、わたしの疑念は消え、こう悟りました。われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだということを。(第76章より)

オオハラにも忘れることのできない二人の人がいる。10歳の時ワタナベという名のピアノの先生についた。その先生の奥さんは肺病で余命いくばくもない人だったが、一緒に暮らしていた。ある時、ピアノの前の蠅を叩いて殺したことがあり、罪もない生き物を殺すなと叱られた。オオハラはそのとき、先生だって奥さんが咳をしているとき笑ったじゃないですかと反論した。先生はこう言った。ぼくが笑ったのは、妻がぼくに笑ってほしいからだ。ぼくは悲しみを封じ込める。ぼくの笑は彼女の伴奏をしなければならない。そう言いながら先生は泣いていた。結局、ピアニストにはなれずじまいで、1年間先生の演奏を聞くためだけにレッスンに通ったのだった。

もう一人はツヨシという名の初めての、そして最後の子供だった。オオハラが息子に関して記憶している言葉は、息子さんには障害がありますという一言だった。それは感情を失った感情と呼ぶほかはないものだった。子の障害を受け入れることのできない自分。普通の赤ちゃんのように元気に泣くこともない赤ん坊。たくましく世に生まれて、成長し、世界を少しでも良くしようとする人間のイメージを描いてツヨシという名をつけたのだった。間もなくツヨシは亡くなった。心臓に大きな障害を抱えて生まれて来ていた。

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

翻訳者の関口さんは、この翻訳に関して一つの懸念を持っていた。それは、日本の読者が、この小説を日本の物語だと強く思い込んでしまうことだったという。舞台も登場人物も日本人で、ことさら、梅干しや弁当の海藻サラダという日本的なイメージが登場する。だが、現実世界とは、ズレたパラレルワールドなのだという。日本人の自分がこの物語を自分にあまり近づけ過ぎないように気をつけたというのである。著者は日本の文学や文化を深く愛する人だが、手探りで日本のイメージを描こうとしていた。彼女は自分の血の中の脈々と波打つ日本的感性を小説を書くことによって確認しようとしたのではないかと関口さんは書いている。

その点、カズオ・イシグロが、五歳頃までに過ごした日本の薄れゆく記憶を文章の中に留めようとして小説を書き始めたのと似ているかもしれないと関口さんはいう。生地の長崎を舞台にした日本に関する小説というと『遠い山なみの光』が思いだされるけれど、この小説は、戦前の日本の価値観が崩壊した戦後間もない長崎の住宅地が舞台であり、イギリス人と再婚した悦子がイギリスで日本の生活を回想するという設定になっていて、勿論、英語で書かれたものが日本語に訳されている。黄昏時に水溜りの多い空き地を、それらをよけながら向う側へ渡っていく。そのようなシーンが何度も登場する小説である。決定的な何かは描かれないし、長女の自殺という不幸の起こった理由もことさらに明かされない。すべては手さぐりされながら過ぎ去っていくなかに、悦子の女性としてのアイデンティティのふくらみが果樹園の上に広がる雲のようにただあるべきように描かれて終わる。関口さんのコメントを続けよう。

この『ぼくとネクタイさん』の原文には引用符がないらしく、訳者は語り手が変わるたびに一人称を「ぼく」「わたし」「おれ」「あたし」と訳し分けたという。語り手が誰なのか一読しただけでは明瞭でないこともあったという。ドイツ語で受ける明瞭なイメージと日本語への翻訳の難しさとはギャップがあって、その分、楽譜を見ながら指揮者が個々の音の様々な色合いを見つけ、強弱を明確にし、声部と声部を重層的に重ねあわせながら、交響曲として演奏し、聴衆に届ける過程と似ていて楽しかったというのである。オーストリアの文学を熱心に紹介していたのはドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんだったけれど、関口さんにも是非これから色々な名作を紹介してもらえればと思っている。

ドイツの文学第10巻 フリッシュ
『わが名はガンテンバイン』1966年刊

冒頭で述べたマックス・フリッシュもカズオ・イシグロのように人間のアイデンティティを問題にする。その問題の仕方は独特であり、物語はいかにも唐突に展開する不思議な作家である。1954年に発表された『シュティラー』によって一躍世界的な作家となった。自己の自己に対する関係を描いた告白小説といわれている。僕が手に取れた本は、『アテネに死す』、これは「ホモ・ファーベル/作る人」が原題で、それはもともとベルグソンの言葉である。そして、『わが名はガンテンバイン』の二冊なのだけれど、後者は短い物語が脈絡なく続いているように思えるのだが、実は繋がっているのではないかと時々疑ってみたりする。その中の「裸の男(馬)」の話には病院でシャワーを浴びている男が様子を見に来た看護士の女性、彼女は思い切って叫ぶこともできないのだが、彼女の両の腕の付け根に両手にかけたまま、「ぼくはアダム、君はイヴ ! だ」というのである。呼び出された当直の医師の脇をすり抜けて、病院を抜け出し、街中を裸で歩きまわるという話になっている。奇妙だ。その次の物語「鏡の中の墜落」にはこのような文章が書かれている。

「それは鏡のなかへの墜落のようだ、ふたたび目ざめたとき、彼にはそれ以上のことがわからない、あらゆる鏡のなかへの墜落、そしてそのあと、そのすぐあと、世界はふたたび修復される、まるで何事も起らなかったかのように。事実また何事も起らなかったのである。(中野孝次 訳)」

ヒロとオオハラは、打ち解けあい、心の重荷を分かち合うようになる。そして、ついにヒロはオオハラに一つの願い事をした。こんな会話が描かれている。

今晩、奥さんに本当のことを、会社を首になったことを言ってください。いろんなことがあったり、なかったりした後、今こそ奥さんにそう言う必要があります。 わかった。約束する、きっと言います。じゃあ、あなたも約束してくれますか、その髪を今日中に短く切ると? 長いこと言えなかったけれど、そんなもじゃもじゃの毛をしていると恐ろしく見えるよ。二人して笑った。じゃあ、指切りげんまん。(第92章より)

その後、オオハラは7週間たってもヒロとの共有の場所に戻ってこなかった。意を決した彼は前にもらった名刺の住所をたよりにオオハラの家を尋ねる決心をするのだった。かつては、誰かに会うということ、これだけは避けたいと思っていたヒロだった。見えない糸にからめ取られて身動きできなくなる自分を嫌悪していたはずなのに。彼は、ついに何かに巻き込まれて社会という織物の一部になる決心をしようとする。誰かに会おうというのだった。オオハラの妻に。しかし、その家を訪ねて妻のキョウコから聞いた話は意外なものだった。どうか、結末はこの著作をお読みくださるように。

 

その他の参考図書

マックス・フリッシュ『アテネに死す』
かつて、結婚まで考えていた女性との間に生まれた娘と知らずに恋に落ちた、落ちたと思い込んだ技術者の悲劇を描いた小説。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part2 土星とメランコリア

アルブレヒト・デューラー『夢のヴィジョン』1525年

「1525年、聖霊降臨祭の後の水曜日と木曜日との間の夜(6月7日~8日)就寝中、私はいくつもの大水が天から降ってくるこのような光景を見た。そして、その最初のものは私から4マイル離れた大地を巨大な轟音と爆発とともに打ち、すべての陸地を呑み込んだ。全く耐え難いこのような驚愕のうちに私はそこから目覚めたが、そのとき第二の水が降ってきた。そして、そこへ落ちた水は、(最初のものと)ほとんど同じ大きさであった。あるものは遠く、あるものは近く、そして、それらはきわめて高くから降ってくるので、みな同じくゆっくりと落ちるように思えた。しかし、大地を打った最初の水がずっとこちらへ近付いてくると、それは非常な速さと風と轟音とを伴って降ったので、私は大いに驚いて目覚めたが、全身が震えて長らくわれに返らなかった。しかし、翌朝起きたとき、私は、見たまゝを上図のように描いた。神はすべてのことを最善へと戻し給う。 アルブレヒト・デューラー(『自伝と書簡』前川誠郎 訳)」

アルブレヒト・デューラー『人体プロポーションの習作』
左 1523年 右 1507年
アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』より

さすが、画家デューラーは、このようの事態にも冷静に絵筆をとれる卓抜な精神力を持っていた。1520年にネーデルラントへの旅行中に打ち上げられた鯨を見るためにゼーラント地方へ出かけた折、マラリアにかかったらしく、その地で発熱している(『ネーデルラント旅日記』)。ニュルンベルクへ帰郷後も体調は改善することなく、この夢の3年後の1528年に亡くなった。この夢を見た頃、自らもこの参事会のメンバーであったニュルンベルク市参事会に寄贈すべく『四人の使徒』を制作中であったし、懸案の絵画論が最後の力を振り絞って執筆されていた。この努力は、アルベルティやダ・ヴィンチが人間のプロポーションを新しい科学的基礎の上に築こうとしたのと同一線上にある。古代ローマの建築家であるウィトルウィウスの伝統的な単位を参考にしながら独自の「理想的プロポーション」を探究していた。それは『アダムとイヴ』などの作品を見れば納得できよう。ただ、それは「あらゆるものが本質的に適切であり正しくなければならないように、集合全体が調和しなければならない」ような理想であったのである。

アルブレヒト・デューラー『十字架を荷う』1520年

印刷はされなかったが起草されたピエロ・デラ・フランチェスカの『画家の透視図について』が当時もっとも包括的な透視図の著書とされていた。したがって、まだ透視図の作図法はそれほど広くは知られていなかったことになる。デューラーは、1505~1507年にかけての二度目のヴェネチア滞在中に160キロ以上離れたボローニャを「ある人が私に教授したいと言った透視図法の〈芸術〉のために」訪れたとしている。こうして、彼は「正確さ」と「調和」という二つの要求を同時に満たすことのできる「空間を組織化する方法」を手にいれることになるのである。透視画法を扱う素描の大半は、帰国後の1510年~1515年までの数年間に集中的に描かれている。その成果は、後の1525年に『コンパスと定規による測定術教則』として纏められ、出版されることになる。このコンパスと測定に関わるイメージは中世以来の造物主のイメージとも重なっていることを指摘しておきたい。

アルブレヒト・デューラー『十字架の染み』
部分 1502~14年

1502年に敬愛した父が亡くなる。1503年にはデューラーが実際に見た最大の驚異と呼ぶ出来事が起きている。親友であるピルクハイマー家の裏手に坐っていた女中の麻布の下着に落ちた雨が、キリストの磔刑図のような染みを作り、それを見た彼女は自分は死ぬに違いないと恐れおののいたという。パノフスキーによればこのニュールンベルクを恐怖に落としいれた「血の雨」は無害な藻類の仕業であったらしい。大勢の人びと、とりわけ子供たちの上にこの十字架が降った。それから、「私は空に彗星を見たことがある」と記している(『自伝と書簡』)。1505年から二年にわたりニュルンベルクを離れてヴェネチアに滞在したことは先にのべた。一つには蔓延するペストを避けることが理由に挙げられている。そして、1514年には、母も他界した。

この年、透視図の探求中に一つの偉大な構想が浮かんだ『メレンコリアⅠ』である。美術史家のヴェルフリンが「解釈の戦場」と呼んだほど不可思議な版画であるのだが、パノフスキーは、このような作品を構想できるような画家でなければ、母の死の二ヶ月前にその肖像画をあのように描くことは出来なかったろうと述べている。彼女の斜視はシェイクスピアの『冬の夜話』に登場する「一方の目は夫を失った悲しみで下を向き、一方の目は、信託が実現した喜びで上を向いている」ポリーナを想起させるという。デューラーは、自分の裸体像の脾臓のある場所に指差す図に「私が指で示している黄色の斑点がある所が痛む」と書き入れている。プラトンは、脾臓は内部が空で血の気のないもので織られていて、汚れでいっぱいになると膿んで大きく腫れ、身体が浄化されると腫れが退いて元通り小さく萎むと『ティマイオス』の中で書いている。これこそ、憂鬱症の核心を示す臓器であった。

アルブレヒト・デューラー『母の肖像』1514年

この『メレンコリアⅠ』という作品は、四体液質の一つである「憂鬱質」の伝統と七学芸の一つとしての「幾何学」の伝統という、二つの偉大な図像的及び文学的伝統を融合させ、変形していると言われる。そこにあるのは、絵画という実践的技術を尊重しながらも、益々数学的理論に憧れ、天上の影響と永遠の観念に「霊感を受けた」と感じながらも益々強く人間の弱さと知性の限界に悩むルネサンスの芸術家の姿であったというのである。

フィッチーノに端を発し、ボリツィアーノとロレンツォ・メディチが生涯理想に掲げ、ピコ・デラ・ミランドラの広く知られた『人間の尊厳について』が称揚する「思索の生活」を送る「文人」あるいは「ムーサ(詩神)たちに仕える神官」。それは、「思索の生活」あるいは「研究の生活」を実践するという中世には存在しなかった人間の新しい在り方だった。ドイツ・ルネサンスが、観想の生活にもたらされる脅威と苦しみとして「メランコリー」を選んだことは、この「思索の生活」が熱烈に称賛され、土星が観想の守護星とされている反面、深遠な思索には悲しみと苦しみがつきまとうものであると言うことの表明でもあるのだ。ここからは、パノフスキーの著作『アルブレヒト・デューラー』とともに、パノフスキーとザクスルがデューラーの『メレンコリアⅠ」について書いた論文にクリパンスキーも加わって大著となったヴァ―ルブルク学派の『土星とメランコリー』も織り交ぜてご紹介したいと思っている。

図1 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分 
右から鍵、財布、大工道具、犬

『メレンコリアⅠ』についてデューラーが残した唯一の言葉は「幼児」を描いたスケッチに「鍵は力を、財布は富を示す」という短い文章だった。図1では右上に鍵、その斜め左下に財布、その下方に大工道具が描かれている。中世の人間にとってメランコリア/憂鬱質の人間は吝嗇家であり、それゆえ富めるものであるという暗黙の了解があったようだ。鍵は金庫を開ける権能の意味らしい。ギリシア神話のクロノス、あるいはローマ神話のサトゥルヌスは、自らの子供を喰らうように時間を食い尽くす時間の神、地の神、農耕の神、宝物管理係、繁栄を司る神、〈もっとも偉大なもの〉そして、老人とされていた。気質あるいは病気としてのメランコリアが、このクロノスあるいはサトゥルヌスの星である土星と関連づけられるのは9世紀のアラビアの学者たちによってであった。アブ―・マーシャルは『占星術入門』で、大地に似て冷たく乾いた黒胆汁を土星に、多血質を木星に、胆汁質を火星に、粘液質を月あるいは金星とに関係づけている。脾臓と土星を結びつけたのは「純粋なる兄弟団」と呼ばれるグループで、彼らのその著書は『純粋なる兄弟たちの書簡』であるという。

『霊魂と詩篇作者ダヴィデ』詩篇 9世紀初期
悲嘆のポーズをとるメランコリア症患者を音楽で癒す様子。

かつて、古代ギリシアにおいてヒポクラテスか、その義理の息子ポリュボスが述べたといわれる、「四体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)の正しい組み合わせが健康な体質を作る」とされる説に、ピュタゴラス派の影響を受けたエムペドクレスが四大元素を仲立ちとする四季と人間の四期を結びつけた。多血質に春・幼年、黄胆汁質に夏・青年、黒胆汁質に秋・壮年、粘液質に冬・老年を割り当てる。この黒胆汁がメランコリアである。時代が下ると黒胆汁が老年時代に割り当てられる場合もあった。黒胆汁が優勢になると最悪の場合、恐怖や人間嫌い、鬱状態が高じ精神異常に及ぶとされ、「メランコリー症」という病名で呼ばれるようになる。ところが、中世になるとオーヴェルニュのギョームなどによって「メランコリー体質が人間を肉体的快楽と世俗の喧騒から引き離し、神的恩寵が精神に直接入り込んでくるよう準備を整え、魂を高める基盤となって、神秘的・予言的幻像の現われを呼ぶ」というアリストテレス説が注目され、一部で脚光を浴び始める。それがフィッチーノやポリツィアーノに受け継がれることになるのである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『メレンコリアⅠ』1514

向って右に坐るメランコリーの擬人化された女性(長らく天使と思っていたがそうではないらしい)が顔に手をあてるポーズは、憂鬱質症患者のポーズであったが、元来の意味は悲嘆である。しかし、頬に当てられた手は握りしめられ、何らかの意志の持続があることを表わしている。顔色は黒胆汁のために黒ずむが眼は澄んで明るく「覚醒した眼差し」を保っている。

ここで注目しなければならないのは彼女のまわりに乱雑に置かれた道具類である。書物、コンパス、インク壺は純粋幾何学を表し、先端を切った菱面体は立体画法と透視図を、工作道具は応用幾何学であり、鐘のついた魔方陣・砂時計・天秤は空間と時間の測定を表わしていると言われる。彼女は確かに「幾何学」の擬人像としての意味を担っているのである。それは、プラトン以来の高貴な学問の擬人像であり、人間的感情や苦しみなどからは遠いはずだった。パノフスキーは、幾何学という言葉の中に含まれるすべての資質を備えた「憂鬱症」、つまり「芸術家の憂鬱」をデューラーは描いたと言うのである。それは、1502年から亡くなる1525年までフライブルクの小修道院長を務めたグレゴリウス・ライシュの著作に見られる挿絵の情景と同じものだった(図2左)。ちなみに七自由学芸とは、文法・修辞学・弁証法の三学と算術・幾何学・音楽・天文学の四科をいった。デューラーが遠近法を含めた幾何学にいかに腐心した画家であったのかが察せられるのである。

図2 左 グレゴリウス・ライシュ『哲学の真珠』「幾何学」1504年
右 デューラー『メレンコリア習作』幾何学立体

そして、「メランコリア」の左に蹲(うずくま)る犬。「憂鬱そうな顔をした犬ほど嗅覚が鋭い」という同時代の作家の言葉が残っているという。犬は伝統的に憂鬱質に結び付けられる。左上に飛ぶ蝙蝠は薄暮に出現し、寂しく暗い荒れ果てた場所に生息する動物である。版画の中心より少し上には盲目の印象を与える童子が〈メランコリア〉の物憂い不活発さとは対照的に石版の上に意味もないことを刻んでいる。この幼児は、行動はできるが思索できない「実践的技能」を表わし、成熟した学識豊かな〈メランコリア〉は思索するが行動できない「理論的洞察力」を表わしているといわれる。デューラーの〈メランコリア〉は守銭奴でもなく病人でもない。彼女は実在しないものにしがみついているのではなく、解決不能な問題に固執している困惑する思想家であるとパノフスキーは言う。

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』1819-23

フィッチーノらフィレンツェ知識人たちは、新プラトン主義の主導者であるプロティノスが、偉人は全て憂鬱質であるというアリストテレスと同様の主張、つまりサトゥルヌス(土星)を高く評価していたことを発見する。当時の新プラトン主義の影響力を考えれば、この『メレンコリアⅠ』のⅠは版画の番号ではなく、価値の尺度を表わしているとパノフスキーは言う。だが、このような土星の哲学的復権も土星が、惑星中最も不吉な星であるという中世の一般信仰を払拭できなかった。後年のゴヤの黒い絵のシリーズにもこのおどろおどろしい土星のイメージが描かれている。フィッチーノは不安を取り除くために木星の力を呼びおこすことによって土星の影響を中和する占星術的護符を用いていた。それが版画右上の魔方陣であるという。図3を見ていただきたい。16の枠に分かれた木星の祭壇と同じもので、それを錫板に刻んでおくと「悪を善に変え」「あらゆる心配と恐怖を取り除く」とされた。これらの知識をデューラーは、おそらくコルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学』から得たのではないかとパノフスキーは推測している。

1503年のニュルンベルクに降った「血の雨」、不吉な彗星、蔓延するペストや赤痢、母の死、これら不吉な兆候から身を守るべく掲げられた魔方陣の下には遠近法や人体プロポーションに精通しよう不断の努力をなし続けてきた画家デューラー自身の姿である〈メランコリア〉の擬人像があったのである。土星の形而上学的領域の「知性」、木星の倫理的政治的領域の「理性」、火星や太陽に属する美術家や職人の領域である「想像力」、憂鬱質の狂気あるいはサトゥルヌスの霊感は以上三つの能力を刺激して、並外れた超人的活動に向わせるとアグリッパは述べる。

図3 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分
  左から蝙蝠、彗星、三日月型の虹、量り、砂時計、魔方陣と鐘

アグリッパは、「知性」や「理性」より想像力に勝る画家や建築家は予言能力が授けられているとしても、彼らの予言は「嵐、地震、洪水、疫病、飢饉、及びその種の天災」のような物理的現象に限られるだろうとしている。推論的「理性」に勝るものは有能な科学者、医者、政治家になり、予言力は政治的な分野に限られる。そして、直感的「知性」に秀でた者は、神聖なる世界の神秘を知り、神学に含まれるすべての事象に卓越するであろう。予言能力があるなら新たな予言者あるいは新しい教義をもたらす者であろうとしている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

「想像力」の圏内で行動する人物〈メランコリア〉は人間の創意の三段階における最下層にあり、発明し組み立てることはできても形而上世界に踏み込むことは許されない。そのようなものに予言できるのは天変地異だけである。それが、冒頭でご紹介したデューラーの夢であったのかもしれないとパノフスキーは言う。洪水は土星もしくは土星の彗星によって引き起こされるとされた。そう『メレンコリアⅠ』の左上にある彗星である。それは「空間の限界の彼方まで思考を広げることのできない」者の憂鬱であったかもしれないのである。ただ、申し添えておくならば、この作品は『書斎の聖ヒエロニムス』と対にして制作されたと言われている。静謐で整理された室内において、思索しながら翻訳に勤しむ聖人の姿が描かれた。そこには直観的「知性」に秀でたものの世界が表現されている。

僕には、同じ時代を生きながらも性格も生き方も宗教も全く正反対だったパラケルスス(1493-1541)が思いだされる。常に医学の既成の枠組みを破壊しようとし、対抗勢力とは徹底域に戦い、定住することなく諸国を遍歴するしかなかったパラケルスス。デューラーは、父譲りの敬虔で篤実な性格であり、敵をつくらず周囲とも平和を保っていくことができた。パラケルススが敵にまわした、時の財閥ヤーコブ・フッガーはデューラーのパトロンであったし、ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公や皇帝マクシミリアン一世の寵愛さえ受けていた。パラケルススが嫌っていたエラスムスとも親密な関係であったのである。因みにエラスムスと画家ハンス・ホルバインは相互に理解しあっていたが、尊敬しあうことはなかった。エラスムスとデューラーは、たいして理解しあっていなかったのに、尊敬しあっていたという(パノフスキー『エラスムスと視覚芸術』)。パラケルススはカトリックに生涯忠誠を貫いたが、デューラーはルターに強い共感を持っていた。しかし、グリューネヴァルトのように農民戦争でルター派に加担してマインツ大司教治下の宮廷画家の職を解任されるような危険は冒さなかったのである。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

パラケルススとデューラーという、この対照的な二人の唯一の共通点、それは晩年における憂鬱症であった。想像力に勝る画家デューラー、そして推論的理性に秀でた医師パラケルスス。それはまさに、アリストテレスいう「偉人はすべて憂鬱質である」というテーゼやプロティノスが言うところの「土星の優位」を印象付けるのであったが、同時に直感的知性に届かなかった二人の憂鬱であったかもしれないのである。今回、一つだけ解けない問題が残った。この版画のタイトルは何故『メレンコリア』なのであって「メランコリア」ではないのかという問題なんです。これは分からない。

最後にヤーコプ・ブルクハルトの後継者としてバーゼル大学の美術史の教授となり、ベルリンやミュンヘン、チューリッヒでも教鞭を執ったハインリヒ・ヴェルフリンの『アルブレヒト・デューラーの芸術』(1905年)からの一節をご紹介して終わりたい。part1 でも少しご紹介した人だ。『美術史の基礎概念』という名著で知られている。様式史を中心とする美術史からの観点である。つまり形態学と言っていいだろう。いつか、機会があれば、名著の誉れ高いこの『美術史の基礎概念』をご紹介できればと思っている。

ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)
『美術史の基礎概念』

「‥‥人は何事もおろそかにしてはならず、どんな小さなしわ、血管も忠実に描かなければならない」と彼(デューラー)自身主張している。この素人が感嘆する、微細な部分に至るていねいな描写だけで彼は偉大な芸術家となったわけではない。ディテールが全体の印象の中に納まり、個々にはこまごましていても全体がすっきり見え、主要な線でまとめられ、本質的な性格を持ってはじめて、この詳細な観察が芸術に昇華するのだ。こうなるには、描き始める前に対象とする事物を明確につかみ取る必要がある。彼は苦労の多い長い時間を、どのようにして人間の完全な姿を作るかという事柄の研究に当てている。これを様々な時期に、様々な形で答えているのだが、結局は完全なものを見つけることに絶望している。最高の美しさは神のみが知りうるのであって、我々は個々の、それ自身が調和を保っている形にまとめることで満足しなければならず、自分がよしとする個々人の好みに委ねられているのだ。(ハインリヒ・ヴェルフリン『アルブレヒト・デューラーの芸術』相澤和子訳/出典はエルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』巻末)

 

 

その他の参考図書

デューラー『ネーデルランド旅日記』

デューラー『自伝と書簡』
表紙はデューラーの戯画

クリパンスキー、パノフスキー、ザクスル 
『土星とメランコリー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章がありルター、エラスムスの他ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿る

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『ネメシスあるいは幸運の女神』1502 部分
ネメシスとは、ギリシア神話の義憤・復讐の女神のことである。

僕はディテールの細かなものに惹かれる。それも硬質なものがいい。例えば、北宋の山水画、范寛の『渓山行旅図』、郭熙(かくき)『早春図』、李成『晴巒蕭寺図(せいらんしょうじず)』、巨然(きょねん)『層巌叢樹図』、関同『秋山晩翠図』、徐熙(じょき)『雪竹図』。気は結んで山となり、融けて川となる。すなわち山水である。その峻厳さ、孤高なたたずまいに息を飲む。南画は、僕にはいささかゆるすぎるのだ。山水画については、風水学とともに壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』に書いておいた。この東洋の細部に対して西洋において対抗しうる細部は、デューラーのドライポイント、エングレーヴィングといった金属版画が挙げられるだろう。それを継承するのはレンブラントのそれだろうか。

李成『晴巒蕭寺図』 10世紀 北宋 部分

デューラーは、1471年、勤勉で信仰心厚い金細工師の三男として生まれた。父はハンガリーのジューラという小村に生まれ17歳前後でドイツに移り、金細工師としての修行を積んで1455年にニュルンベルクに落ち着くようになる。母は、父がその工房で働いていた親方の娘でバルバラという名であった。18人の子供を儲けたが成人したのは、父の名を継いだ今回の主人公アルブレヒト・デューラー2世と二人の弟の3人だけだった。末弟アンドレアスは父親の金細工の工房を継いで親方となり、もう一人の弟ハンスは画家の修行を積みポーランド王の宮廷画家になったという(エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』)。ペストや赤痢などが蔓延した当時にあって、6人に一人の割合でしか幼児が育たなかったのは時代の趨勢だったらしい。いかに死と向かい合わせの生であったのか。学校に通って読み書きを覚えた後、金細工師としての修行を始めるが、絵の方に興味が移り始める。注文客に出来上がりの様子を描いてみせたり、金細工を施す前に下絵を描くことも重要な工程の一つだった。そのことを父に打ち明けると、父はデューラーが金細工修行に費やした無駄な時間を悔いたという。だが、それは、けっして無駄ではなかった。15歳の歳から近所にその工房があったミヒャエル・ヴォルゲムートの下で3年間、画家としての修行を積むことになる。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

「15世紀のドイツにおいて、活版印刷、銅版画、木版画などの手段により、初めて個人が自分の着想を全世界に広めることができた。ドイツがようやく美術の分野で一大勢力にまでのしあがったのは、これら版画芸術によってであり、これは主に画家として有名であるが、もっぱら銅版・木版の下絵師としての能力によって国際的存在となった一人物、すなわちアルブレヒト・デューラーの活躍によるものである」とアーウィン・パノフスキー(1892-1963)は、その著書『アルブレヒト・デューラー』の中で書いている。イタリア・ルネサンスに対抗しうる作品をドイツで成し遂げたのは彼なのである。今回は、このパノフスキーの緻密で濃厚な著書を中心に僕の大好きなデューラーの版画にずっと頬ずりしたいと思っている。

パノフスキーは、アビ・ヴァ―ルブルクの偉大な弟子たちの一人であり、イコノロジーの大家である。1892年にドイツのハノーファーに生まれた。1914年にイタリア・ルネサンス絵画とデューラーとの関係を扱った論文によってフライブルク大学で哲学博士号を取得した。デューラーとの関係はこの頃から始まっている。1926年にハンブルク大学で美術史の教授になった。同じ大学の哲学教授であったエルンスト・カッシーラと知り合い、同地で活動していたイコノロジー(図像学)の泰斗アビ・ヴァ―ルブルクの知己を得た。ヴァ―ルブルク文庫の活動に協力して、その学派の形成にも寄与したようだ。しかし、ユダヤ人だった彼は1935年にプリンストン高等研究書に迎えられアメリカに渡った。主著に1939年『イコノロジー研究』、1943年この『アルブレヒト・デューラー』、1953年『初期ネーデルラント絵画』などがある。ちなみに日本のデューラー研究の第一人者である前川誠郎(まえかわ せいろう)は、留学先のミュンヘンの中央美術研究所の所長ハイデンライヒがパノフスキーの弟子であった縁で、デューラの『四人の使徒』に関する論文をパノフスキーに読んでもらったようだ。

上 ショーンガウア― 下 家屋台帖の画家
タイトルは、いずれも『十字架を荷う』。

デューラーが学んだミヒャエル・ヴォルゲムートはフランスで流行していた「死の舞踏」のイメージを1493年の『ニュールンベルク年代史』にその挿絵として制作したことで知られる。その作品はフランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』中世の秋に贈る放蕩無頼でご紹介しておいた。その工房でデューラーは水彩、油彩などの絵画技術のみでなく印刷本のための木版画による挿絵などの版画の技術を習った。この工房の作品は彼の名付け親であり、ドイツ最大の出版業者の一人でもあったアントン・コーベルガーのもとで印刷されたのである。今でもそうかもしれないが徒弟の修行を終えた職人は遍歴の旅に出るのが習わしだった。1491年、デューラーは当時最高の版画家であり、画家でもあったマルティン・ショーンガウアー(1448-1491)をアルザスに尋ねたが、既に亡くなった後だった。それでも遺族からその作品を見せてもらうことができた。その前にオランダのもう一人の重要な版画家、家屋台帖の画家と呼ばれた人に会ったのではないかとパノフスキーは推測している。

ショーンガウアーがエングレーヴィングの名手であったの対して家屋台帖の画家はドライポイントの名手であった。エングレーヴィングは、銅板の表面をビュランと呼ばれる鋼(はがね)の道具で線や点を堀り削り、その時できた銅のめくれはスクレイパーと呼ばれるやはり鋼の道具で削り取る。その彫り削った凹部にインクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取るクールな感じの版画である。もともと金属細工の技法から発展したものらしい。ドライポイントは、鉄筆などで銅板を引っ掻き、表面のめくれはそのままにするので少し滲んだ感じの線になるのが特徴である。ちなみにエッチングは、銅板にグランドと呼ばれる腐食されない膜をひき、表面を鉄筆で引っ掻いて膜を削り取り、削れた膜の部分の銅を腐食液で腐食させて溝を深くし、インクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取る技法である。

その翌年の1492年、当時ヨーロッパの出版業の中心地であったスイスのバーゼルにショーンガウア―の四男を訪れ、広く出版業者との知己を得たのである。その頃、デューラーの最初の出版物の挿絵である『聖ヒエロニムス書簡集』の木版の扉絵が制作され、好評を博した。

アルブレヒト・デューラー
『セゴンツァー付近のチェンブラ峡谷風景』水彩 1495

先達の様式を我がものにしながらデューラーは、いくつかの出版物の下絵を制作していくが、まだ、彼の名を轟かせるほどの仕事ではなかった。1494年、彼はニュルンベルクに呼び戻され、銅細工師で市参事会議員であるハンス・フライの長女アグネスとの結婚が取り決められる。フライの妻は当時銀行家をしていた上流階級ルメル家の出で、いわば破格の結婚相手だった。結婚早々、デューラーはベネチア行きを決意し、途中チロルの山岳風景やトリエント、アルコなどの風景を素描や水彩画として残していて、それらは、西洋最古の風景画として価値の高いものとなっている。チロルのクラウゼン峠の風景は、後に、『ネメシスあるいは希望の女神』の足元の風景としてそのまま使われたことで知られる。ヴェネチアでは、イタリア絵画、とりわけポライウォーロ、マンテーニャらの模写を精力的に行った。これらは、アビ・ヴァ―ルブルクの『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術 』で紹介されている。デューラーは、1495年の晩春には故郷ニュルンベルクに帰っている。

帰国後の作品としては、『ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公の肖像』、『受難伝祭壇画』そして、おそらく妻のアグネスと思われる『婦人の頭部』などがあった。二度目のヴェネチア滞在は11年後の1505~1507年にかけてであるが、その間に、彼にとって重要な展開が生じている。それが版画によって成し遂げられるのである。1498年には木版画による『黙示録』『大受難伝』が出版され、それに先立つものを含めると計30点の木版画と6点の銅版画が制作された。殊に『黙示録』の影響力はヨーロッパ全土に及び一躍、世界的な作家となったのである。木版の技術的制約を克服し、新たな技術的な発展をもたらした。

美術史家の前川誠郎(まえかわ せいろう)によれば、15世紀半ば頃から西洋の木版画には二つの大きな変革が起こり始めていたという。一つは細密な平行斜線によって物体に三次元的な浮彫感を与えようとすること。この発展は一枚刷りの木版画から色彩を追い出してしまった。二つ目は、活字印刷の本格的な隆盛にともなって古典的・世俗的な書物も多く刊行され、書物の挿絵・扉絵としての木版画の受容が急速に高まって行ったことである。そして、パノフスキーも、この『黙示録』の企画が二つの点で斬新であったとしている。一つは一人の美術家が自分自身の仕事として下絵を描き刊行した最初の本であったこと。コーベルガーの工房で印刷されたが、デューラー自身も発行者として署名しているという。二つ目に、彼は14枚の1ページ大の版画とその裏面にテキストを印刷しているが、テキストは連続して裏面に印刷されているので必ずしも表の版画と内容は一致していないらしい。挿絵とテキストとは別個に連続して鑑賞されることを望んでいたことになる。木版画を書物の挿絵ではなく、テキストと同等か、それ以上のものとして考えたということになろう。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』木版画
「7つの燭台のヨハネ」 1498

続けてパノフスキーは、『黙示録』におけるイメージ上の発展がショーンガウア―の銅版画の図像に負うところが大きいという。「7つの燭台のヨハネ」では、足の裏を観照者に見せて坐る福音史家の姿、壮大な枝状の燭台はショーンガウア―の『聖母の死』の影響がはっきり見られるというのである。「人の子」と呼ばれる中心人物の顔はやはり、ショーンガウア―の『聖アントニウスの誘惑』のアントニウス(図3)のそれに近い。それに、マンテーニャの影響もみられる。デューラーの『第五、第六の封印開き』(図1)における母親の姿は、口を大きく開け、恐怖に苛まれており、マンテーニャの『十字架降下』の中の老女を原型(図2)としていると考えられる。ヴァ―ルブルクは、『デューラーとイタリア的古代』の中で初めて「パトスフォルメン(情念定型)」という言葉を用いている。有名な論考だ。古代の激しい情念を表現する身ぶりは、歴史の暗闇を経過して再び浮上し、北イタリアからデューラーに伝えられたというのである。これは、デューラーにとって第一次イタリア旅行での成果であったろう。

そして、7つの燭台の表現では、幾何学的に燭台を配置しているのではなく、遠近法的な配置になっていて、それぞれが全て形状を異にしている。これが実際の金細工であったなら、これもまさに傑作であったろうと言う。それらの燭台は、積乱雲のような雲の上に置かれ幻視者さえ乗せているように見える。従来の版画における幻視者はアーモンド型の光背に包まれて彼の幻影の前にひざまづいているだけだ。『黙示録』のテキストに「人の子」の目は焔のようであったと書かれてあれば、デューラーはその神的な顔から噴き出す炎を描いた(図4)。デューラーにおける幻想体験の表現は、単にそれを目撃させるばかりでなく、それを追体験させるように働きかけるというのである。

図1 左 デューラー『黙示録』「第五、第六の封印開き」木版画
図2 右 マンテーニャ『十字架降下』銅版画
母のイメージ、いずれも部分

デューラーは、エングレーヴィングなどの銅版画の精緻な表現を木版画の中に持ち込もうとした。空間感、量感をもった細部は現実的な充実したものとなり、それに加えてマンテーニャらの人体の動力学、感情表現の研究がそれらにいっそうの拍車をかけた。現世的な光景とその細部が本物に近ければ近いほど、変幻きわまりない幻影となって全体像をますます怪奇なものにさせ、身振りが自然であればあるほど、光景は益々途方もないものとなっていった。「四人の騎士」では、騎士と乗っている馬が迫真的であればあるほど、この恐ろしい騎士団が虚空から出現するという印象が避けがたいものとなる。

図3 左 ショーンガウアー『聖アントニウスの誘惑』部分
図4 右 デューラー『7つの燭台のヨハネ』部分
描かれた顔の類似。

同時代の人文学者エラスムスが称賛したように彼の線は、無定形の炎や頭髪や雲といったものまで劇的に表現することが可能であったのだ。デューラーによって高められた木版画による表現は、アリストテレスが劇作家に述べたこの助言を地で行っているとパノフスキーはいう。「不可能ではあるが、あり得るかもしれないと思われることの方が、あり得るかもしれないが納得させられないことよりも好まれてしかるべきである。」これらの作品はレオナルドの『最後の晩餐』と同様に人びとの避けて通ることのできない美術作品となった。ドイツのみならず、イタリア、フランス、ロシアにまで影響を及ぼし、木版画や銅版画による版画だけでなく彩色画、浮彫り、タペストリーなどでによっても模写されたという。申し添えておくと、デューラーはいくつかの作品は木版を自分自身が彫り、いくつかは彫師の見本のために一部のみ自身が彫ったようだが、工房の彫師の腕が上達するに伴い下絵を描くことに専念したようである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『黙示録』「四人の騎士」1497-98

デューラーには、独創性の要請という近代的な芸術家としての意識が、かなり強かったといわれる。優れた画家とは「他のいかなる人の心にもかつて宿ったことのない新しいものを放出する」ことであった。それは、「意想」の新しさを言っているのである。アリストテレスが『詩学』で述べた「ディアノイア」だ。彼の図像には多くの先達たちのミメーシス(模倣)の上に、自らの新しいアイデアを重ねたのである。ともあれ、版画制作は、油彩画による注文制作という制約から、あるいは中世絵画の約束事から解き放ってくれ、注文を待つ代わりに自主的に制作した多数の作品を売りに出すことが出来た。それゆえ自由なテーマを思うままに制作できたのである。

当時、木版画は金属版画よりも手間がかからず、その分安価なために需要が高かった。しかし、基本的に細部の入念さよりも単純化された線の表現を狙い、明暗の強いコントラストを求めた。そもそも、微妙な明暗の諧調を表現するには不向きだった。したがって、絵画的洗練や裸体の美の極致といった「芸術至上主義的」なものを表現するには適していなかったのである。デューラーにとって金細工師の修行をしていたことは、銅版画制作にとって極めて有利な特質を彼に与えていた。エングレーヴィングに用いるビュランと呼ばれる道具は金細工師が使う道具でもあったからである。銅板の上に刻まれるその線は、ふくらみのある弾力性を感じさせ、フィギュアスケートの選手が氷上に作る幾何学形のような美しさを持っていた。デューラーはショーンガウアーの怜悧な線に家屋台帳の画家の持つ温かみを加えようとしたとパノフスキーは見ている。銅版による傑作が生み出されるようになるのだが、その代表作である『メレンコリアⅠ』については次回 part2 でご紹介する予定である。ここで、少しイコノロジーについて述べておきたい。

アーウィン(エルヴィン)・パノフスキー
『イコノロジー研究』

19世紀の終わりから20世紀の初頭の美術史は新しい方法論が相次いで提起され活況を呈していた。伊藤博明は、『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題の中で、ヴァ―ルブルク自身は次のように分析していたと述べている。一群には旧来の伝記的美術史があり、この熱狂的な美術史家は6グループに分けられるが、その第4群に「歴史的基盤の上に立って再構成する道徳的かつ英雄的な美術史家」としてヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)の名が挙げられる。第6群には「制作者の鑑定家たち」と呼ばれる、自らが英雄と崇める芸術家の個性を擁護する職業的な芸術鑑賞者としての美術史家があり、ヴァ―ルブルクは彼らを蔑んでいた。新しく興隆してきた第二群は「様式史の方法、すなわち典型的な形態学」呼ばれる。彼はこのグループを「技術」「未開人の心性」「人間の空間感覚の本質」「人間の表現動作の本質」「図像的伝統」「慣習やしきたり」の7つのカテゴリーに分けていて、大部分の美術史家はこのカテゴリーの幾つかに重複して属しているという。

例えば、様式史研究の代表的な学者であるハインリッヒ・ヴェルフリン(1864-1945)は「空間感の本質」と「図像的伝統」を制約条件としている美術史家である。ヴァ―ルブルク(1866-1929)は自分自身を「表現動作の本質」を制約条件として美術史を研究する唯一の学者だとしている。ついでに述べておくと「様式史としての美術史」に対して「精神史としての美術史」を提唱したのがウィーン大学のマックス・ドヴォルジャーク(1874-1921)であった。彼によれば「芸術は‥‥まず第一に、人類を支配する理念の表現であり、その歴史は宗教や哲学や、あるいは文学の歴史に劣らず一般精神史の一部をなすものである(『芸術の考察について』)」。その弟子がウィーンのアルベルティ-ナ美術館館長を務めたオットー・ベネッシュ(1896-1964)であり、父親とともにエゴン・シーレの絵のモデルにもなった人だった。この美術館には、あのデューラーの『野兎』や『芝草』といった素晴らしい水彩画とデッサンが収蔵されている。

アビ・ヴァ―ルブルクが〈イコノロジー〉という言葉を初めて使ったのは、1912年のローマにおける国際美術史学会においてであったという(伊藤博明『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題)。「親愛なる神は細部に宿る」という名言を残したことでも知られる人だ。しかし、一般にイコノロジーの定義はパノフスキーによるものが有名であるらしい。

アルブレヒト・デューラー 『聖母伝』09
木版画 1505 イエスに跪く聖母

パノフスキーは、『イコノロジー研究』の序文でこのような意味のことを述べている。14世紀から15世紀に聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる伝統的な「降誕図」にかわって、聖母が幼児キリストに跪いて礼拝している新しいタイプが登場する。この変化は「イコノグラフィー以前の記述」では、構図が長方形から三角形に変化したことを意味するだけであった。「イコノグラフィー上の分析」では擬ボナヴェントゥーラや聖ブリギッタらの著作家たちによって明文化された新しいテーマの導入を意味する。「イコノロジーによる総合」においては、中世の後期段階に特有の新しい情緒上の動きを意味するというのである。

イメージの形式だけを考えるのはイコノグラフィー以前であり、図像そのものの意味やそのイメージの組み合わせとしての「物語」や「寓意」を考えるのはイコノグラフィーであり、その図像と周辺との関係、つまり無意識に作家の人格に具体化され、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するがイコノロジーということになる。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというより、「なぜ、そのように」表象されたかを探究するのである。ただ、この〈イコノロジー〉の概念が、パトスフォルメンを重視したヴァ―ルブルク自身と弟子たち、とりわけパノフスキーのそれとは食い違うのではないかとディディ=ユベルマンは『残存するイメージ』の中で指摘している。ここは、ヴァ―ルブルクが一時的に陥った狂気の問題とも絡んで思白い所ではある。

ここで、一つ言いたいのだが、日本でイコノロジーが定着しているかどうかは僕には分からないのだけれど、とりわけ悲惨なのは20世紀後半以降のいわゆる現代美術と呼ばれるジャンルの美術批評である。そこにはイコノロジーはおろかイコノグラフィーのかけらすら見つけることのできない不毛地帯ではないのか。これには、未だにアメリカ型のフォーマリズムに毒されている現状があるのかもしれない。しかし、このアメリカ型のフォーマリズムなどヨーロッパでは、たいして問題にされていないということは知られていない。日本やアメリカでヨーゼフ・ボイスが変なおじさんにしか見られなかったのは蓋し当然のことなのである。

 

その他の参考図書

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章があり、ルター、エラスムスの他、ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

前川誠郎『デューラー』人と作品
日本におけるデューラー研究の第一人者の著作。パノフスキーの著作が緻密でいささか煩雑なのに対して、本書はすっきりまとめられていて、デューラーについて初めて読む人には本書をお勧めしたい。

アビ・ヴァ―ルブルク
『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』「デューラーとイタリア古代」収録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノースロップ・フライ『大いなる体系』part2 神話の統合性と聖書

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『アダムとイヴ 』1504

キリスト教は一神教であり、他の神々は無きものである。イスラム教もユダヤ教もそうであるが、そこでは正しい信仰を持つものの最終的な勝利が革命的文脈の中で語られるとノースロップ・フライは述べる。ギリシア文化は二つの偉大な視覚的刺激を発達させた。彫刻における裸体と演劇であるコロス(合唱隊)の発達もありはしたが、演劇は基本的に視覚体験といえる。多神教は神々を識別するために彫像や絵を持たなければならなかった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にある伝統的な革命性は、裸体に対する忌諱と偶像破壊を生み、視覚的な芸術への拒絶の道を開いた。フライはこの偶像崇拝に対する憎しみの根底には自然神、つまり自然とそれを支配している思われる神々の消極的な態度に対する焦燥があるという。それは、革命を志向する者たちの憤懣であるというのである。運命と自然の循環に自らを任せて安逸をむさぼることに対する抗議であるらしい。

歴史的事実がどうあれ、エジプト脱出の後に律法が与えられるという旧約聖書の順序は、論理的、心理的に適切だったという。それは、危難の共有と共同体における律法、習慣、制度への深い関わりを実感させ、選ばれた民族という意識をもたらした。とはいえ、「律法/法則(law)」がもたらしたものは「自然法則」と言う概念の進展である。それは、ギリシア・ローマ的思考傾向である古典的志向とヘブライ的思考傾向である聖書的志向の共謀の結果であるという。その「自然法則」とは、人間の律法と自然の法則とを結合させるためにあったといえるのではないか。聖書は極めて特異な自然観を持っていて、道徳的秩序も自然秩序も同じように神の意志に支配されていると見なす。だから、全能の人格神においては奇蹟と自然的事象は、前者がごく稀であることを除いて区別はないという。このキリスト教の内にある自然法則という概念は、いまではかなり曖昧なものになりつつあるとフライは指摘しているが、西洋文化の内で普通いう意味の〈自然法則〉の探求に対する追い風となっていたのは確かだと思う。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』
「第五、第六の封印開き」1497-98

黙示を表わすギリシア語アポカリプスは「覆いを取る」、あるいは「蓋を開ける」と言う意味である。それは心の中の忘却の覆い、真理を封鎖し黙示の顕われを妨げるものの除去である。黙示録は旧約聖書への言及の寄木細工であり、予表成就の行列なのだとフライはいう(予表成就に関してはpart1を参照してください)。黙示録は通常の意味での視覚的な書ではない。それは、聖書の真の意味を表わすものである。パトモスの幻視者であるヨハネが見たもの、それは「エゼキエル書」の四つの顔と四つの翼を持つ青銅のように光り輝く生き物であったり、「ゼカリア書」の四人の騎手に始まる〈八つの幻〉で見たものと言ってもよいのである。神の民は引き揚げられ、異教の王国は暗闇に投げ入れられ、疫病、戦争、飢餓、天からの星の落下が起こり、世界が新しい天と地に変容する。しかし、最も重要なことは、その幻視が示すものが「今起こりつつあることの内的な意味」、正確には「内的な形」なのだとフライはいうのだ。ヨハネはこれら全てを「霊において」、霊にみたされた体で見る。天の国の秘密が明らかにされ、不正の秘密は腐敗した人間の意志を暗闇の中へ突き落す。それは誰の身にも起こることであり、それは「泥棒のように夜訪れる」というのである。自然の秩序の破壊として象徴されているものは、時間と歴史の世界に閉じ込められた秩序という見方の破壊であり、聖書こそがそれを達成するものであるとフライは述べる。つまり、それは革命の真の意味であるかもしれないと僕は思うのだが。

ノースロップ・フライの聖書への言及から、僕にとって興味深いものをいくつかご紹介してみた。それでは、予告しておいたように、本書『大いなる体系』の四つの柱のうち残りの〈言語と〈神話についてこれから述べてみたい。

いかなる書物も文学的な要素を持つことなく文学的影響を与えることはできない。世俗的な文学から経験することは、ソナタ、フーガ、ロンドなどの形で具体化される音楽の形式原理が音楽の外部にないように、文学の形式原理が文学の外にはないことだという。彼は因習的な美学原理からは離れていたかった。そうするための規範の一つが「統合性」なのだというのである。彼は、文学の統合原理が〈穏喩〉と〈神話〉であると述べた(『ダブル・ヴィジョン』)。〈穏喩〉については part1 で既に述べたが、フライのいう統合性のもう一つの柱が何故神話であるのだろうか。これから、記述言語の歴史とともに、この問題を考えたいと思っている。

すべての言語構造体は神話の起源に由来するという原理を発見したのはイタリアの哲学者、修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)だとフライは指摘する(『力に満ちた言葉』)。彼はデカルトやロック、百科全書派の思想に満足できず、歴史こそ人間精神を反映するとし、古代法、古歌、言語、神話などの文献学研究の必要性を説いた。芸術を論理に従属させるのではなく、芸術的構想力が論理よりも優位に立つものであるとした。

フライは、こう述べている。「私たちにとって真実なるものは、私たちが作ったものである」というヴィーコの公準は「事物を知ることが出来るのはその事物を作ったものだけである」と言い換えられる。それゆえ、彼にとって自然は把握しきれるものではなかった。この立場からすれば神話は人間の創造したものである。僕のお節介をつけ加えるなら、神話的ヴィジョンを物語として定着させた創造行為である。ヴィーコは、エジプト人たちが明らかにしたという世界史の全行程を分ける三つのサイクル、神話的時代、英雄的時代、人民の時代を言語学的文献学的真理だとし、それらが再び繰り返されるとした。歴史哲学者としてのヴィーコの『新しい学』には、その詳細な記述がある。フライは、それらの時代の言語活動を秘儀的(詩的)、神官的(寓意的)、民衆的(記述的)活動に分類したのである。

秘儀的・隠喩的・詩的段階

その第一段階は、秘儀的・隠喩的段階と呼べる時代の言葉であり、本質的に詩的な言語である。そして、ホメロスに代表されるプラトン以前のギリシア文学や近東の新約聖書以前の文学、とりわけ旧約聖書には詩的かつ「秘儀的」な言語に見られるという。主体と客体の間の明確な区分よりも主客の間の共通のエネルギーのようなものが重視される。それは一種の言霊のような「呪文的」「魔術的」言語といってよかった。人間の精神は〈力に満ちた言葉〉つまり、神性文字による象形語、祝詞や神託などの式文によって制御されるという。それを端的に示す聖書の言葉がこれである。「『光あれ』こうして、光があった。」創造的動因としての言葉が物を生じさせるというのはヘブライ語に特徴的な要素であったことはパラケルススの所で述べた。

ノースロップ・フライ『力に満ちた言葉』
隠喩としての文学と聖書
『大いなる体系』の続編

それは、ホメロスの詩の中で魂、精神、時間、勇気、感情、思想などが強烈な肉体性を伴っているのとパラレルな関係にある。例えば『イリアス』ではアキレスの悲しみは、このように歌われる。「アキレスは愛する友を思っては泣きつづけ、 すべてを手なずける眠りさえよせつけなかった。彼はパトロクロスの男らしさと雄々しい力を惜しんでは身を展転とするのだった。二人でともになしとげた業、 ともに受けた難儀、戦士たちの合戦、苦しい船旅を思いおこしては涙をいっぱい流し、横向きに寝るかと思うとあおむけになり、またうつぶせになってみたりしたが、つと立ちあがり、苦悩で気も狂わんばかりに渚をさまよい歩くのだった(田中千春訳)。」

この段階では、隠喩(イメージ)の中心的な対象は一般的に太陽神や海神などの神であり、その個性の有様の一部が自然の様相と同一化していたという。世界が神々の複数性によって統合されていたこの言語の時代において、その複数の神に対応する心理的な諸力も複数であり(魂が何種類も想定されていた)、死とともに分離あるいは分解するものと考えられていた。この純粋な隠喩的概念に最も近いのは「霊」という語であろうとフライは指摘している。

神官的・換喩的・寓話的段階

第二段階はプラトンとともに「神官的」といえる段階に入る。知的なエリートに生み出されたと言う意味が一部に込められているという。ここでは、個性化の度合いが増し、言葉は主に思考や観念の外的表現となる。感情からある程度独立した意識が発達し、論理が構成されるようになるのである。超越的な神の概念は言葉の秩序の中心へ移動し、表現の基礎は人間と自然との間の生命や力の同一性を持ちうる本質的に詩的な隠喩から「これは、あれの代わりである」という換喩的な関係に移行するという。そこでは、自然の物質界から離れ、ある点でそれより優位にある思想の世界に参入する。

例えば、プラトンの著作『メノン』にはこの有名な言葉がある。「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。」「それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。(藤沢令夫訳)」プラトンの愛したユークリッド幾何学では、手描きを含めた何種類もの線が「線は幅のない長さ」という抽象的な公理に集約される。神々という複数の概念は、その統合概念としての一神教的「神」になりうる可能性をもつのである。

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評論としてのこの書は「文学形態論」ともいわれる

キリスト教が西洋における文化的優位を占めるようになると、換喩的な思考をする人々、つまり論理的に考える人々は、神がAと言った時、同時にBとは言えないという整合性との緊張に直面し始めるという。神の完全性に由来する演繹的思考が「異端」や「異教」を排除しはじめる。それは、魔女狩りのような社会的精神異常というレベルにまで進行した時代もあった。「不敬」な反キリスト教的教訓を含んだ物語の隠喩的要素は、解体されて他の言語手続きによって同化吸収されなければならなかった。この手続きが寓意(アレゴリー)である。寓意とは特殊なアナロジーであり、これを可能にしたのは連続的散文の発達だという。寓意については『薔薇物語』 バラと呼ばれる女性を巡る物語で触れておいた。隠喩段階における言葉の魔術は、換喩的な段階では連続性あるいは直線的整序に内在する疑似的魔力となる。中世が三段論法に魅惑されたのは啓示された諸前提からすべての知識を演繹するという中世の人びとの大いなる夢に由来するという。換喩的思考と一神教が発展するにつれ自分の中の「魂」と「肉体」によって人間は成り立っていると考えられるようになる。

民衆的・記述的・散文的時代

第三段階は、現実性という基準が自然の秩序における知覚経験の源泉となる。ここでは神は見つからず、神々は、もはや信じられていない。17世紀の天文学は神話的空間を科学的空間から分離し、19世紀の生物学と地質学は神話的時間を科学的時間から切り離した。この段階にとどまる限り神は存在するのかという問いに対しては、ノーと答えざるをえないという。三段論法的推理は何ひとつ新しいものを導かないと感じられるようになってくる。〈大前提 : 全ての人間は死すべきものである。〉〈小前提 : ソクラテスは人間である。〉〈結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。〉結論はすでに前提に内包されているからである。そして、言語によるアナロジカルなアプローチは存在と非在の区別する基準を持っていなかった。ライオンと一角獣との間に文法的にも論理的にも統語上の違いはないという。違いを求めるには外部の基準を必要とした。その中で最も強力な基準は「物」、つまり自然の客体であった。

この言語の第三段階はルネサンスとともに始まり、18世紀に花開く。ヴィーコも述べたようにフランシス・ベーコンが理論化しジョン・ロックとともに実践が始まるという。彼らによって主観と客観がはっきりと分離され始めるのである。言語は客観的自然の秩序を記述する根源的な道具となり、記述されるものと記述との間に満足のいく照応が見られるなら真理と呼ばれるようになる。この民衆的言語は日常使用されている言語に近い。例えば、エミール・ゾラ(1840-1902)のこの描写である。

「そして、テーブルに肘をつき、目をとろんとさせて、ひとりで笑っていたが、それは、隣のテーブルの二人の客、ずんぐり太った男とちんちくりんの男が、ぐでんぐでんに酔っぱらって、パンのように抱きあっているのがとてもおかしかったのだ。そうだ、彼女はこの《居酒屋》や、ラードでつくった膀胱そっくりのコロンブおやじの禿げ頭や、短いパイプをふかしたり、怒鳴ったり、唾を吐いたりしている客や、窓ガラスだとか酒瓶を煌めかすガス燈の炎に向って笑いかけていた(『居酒屋』古賀照一 訳)。」

きっと古代エジプト人やシュメール人も日常このような言語を使っていただろうとフライは指摘する。それに換喩は昔からあったはずである。ヴィーコのいう三つの時代の繰り返しは同時的に発生している。ただ、この文脈では、文学的に優位な、あるいは際立った言語は何だったかと言うことが問題なのだろう。このような変化が起こるには相当な社会変化が伴わなければならなかった。そのような変化の一つが帰納法的観察に基づく科学の進展である。自らの肉体を含む自然との関係が水平なものになるに及んで意識により連想される概念は「魂」から「精神」に転調し、頭脳と強固に結び付けられるようになるのだという。

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

文明の回帰・時代の回転

ヴィーコは、「諸民族が再帰するとき、文明現象は反復される(『新しい学』)」と述べた。フライもまた、時代の反復を述べる。「言葉が物を喚起したホメロスの時代から物が言葉を換喩する現代へと言語の巨大なサイクルが一巡し、今はまさにそのサイクルをふたたび回転させようとしているかもしれない。われわれが今日、再び直面しているのは主体と客体に共有されるエネルギーであり、それはなんらかの隠喩的形式によってのみ言語的表現が可能になるかもしれないからだ(伊藤誓 訳)」とフライはいう。フロイト以来、我々は原初の隠喩的あるいは多元的意識概念に戻り〈心(サイキ)〉を識別可能な衝突する諸力の束と考える傾向にあると指摘してもいる。時代は回転しようとしているのだろうか。

フライと親しかったカナダ生まれのメディア学者マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』の中の終盤でこう述べている。ブレイクは、彼の時代の問題を分析する時、人間の知覚を形成する諸力と直接対決する。「彼は自分のヴィジョンにふさわしい神話形式を求める。この神話探求は彼にとって不可欠であったと同時に、あまり効果のないものであった。というのは、神話というものはたいへんに複雑に入りくんだ因果関係の網を、同時的に知覚する形式だからである。経験が分断され、線形でしかとらえられない時代においては(中略)神話的ヴィジョンはまったく不透明で、とらえがたいものになる。ロマン主義の詩人たちはブレイクの神話的、もしくは同時的ヴィジョンにはるかにおよばなかった(森常治 訳)。」

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

神話は複雑な因果関係を同時に統合しうる手段なのである。レヴィ=ストロースは、人間の精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出されると述べている。神話とは精神構造の表れとも言えるのだ。このことについては、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで書いておいた。

マクルーハンは続けてこう述べる。その後の詩人たちがブレイクの同時性の世界、あるいは現代の神話への芸術的表現の手掛かりを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞を通してであったと述べている。感覚の諸比率が変わる時、人間も変わるということを明確な形で述べたのはブレイクであったという。メディアの変化は人間の知覚をも変化させる。フライの言う主体と客体に共有されるエルルギーを回復させる穏喩形式とは、マクルーハンにとって文字文化の衰退と多種多様な口語芸術の台頭であるかもしれない。ちなみに本書のタイトルはブレイクのこの言葉からとられている。「旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系である。」

神託に原型的説話を与える中心的な形成力は神話であり、神話は神話体系へと拡大し、想像的なものと現実的な関心とを結びつけ、時代が下るにしたがって、その主要な機能は内に向って社会の関心に直面するようになる。想像的かつ創造的思考の一形式である神話体系の直系の子孫は文学であるという。神話は究極的に物語(ミュトス)、つまり文学形式を成り立たせている構成原理のひとつであり、神話の寓喩的解釈は中世やルネサンスでは非常に高い地位を占めていて、稀には今日にいたるまで続いている。ここから考えれば、文学の祖は神話と言うことになる。これが、彼が文学の統合原理の一つを、神話に置いた理由なのであろう。それでは、聖書と神話を分けるものは一体何なのか。修辞学的には聖書の予表の存在であるが、実質的には、ケリュグマ・宣教であるとフライは考える。そのことによって聖書は、先ほどの三つの時代に特徴的な文学形式を超える存在と考えられるのである。

最後にフライが神話から導き出した原型について、さわりだけご紹介して終わりたい。この原型による文学批評は、他の歴史主義や形式主義などの批評を相互に結びつける要素となる重要なものだ。彼は、典型的・反復的に現われるイメージを原型と呼んだ。神話相における伝達可能な象徴のことを指している。それは、一つの詩を他の詩と連結し、それによって詩から得られる経験を統一ないし統合するのを助ける。劇のような文学形式、あるいは見世物劇、人形劇、笑劇、パントマイムなどは祭儀との関わりが深いし、ロマンスや民話、バラッド、物真似においては夢との類似性が高い。この原型を主眼にした文学批評では祭儀や夢と関わることが多く、その意味でフレイザーの『金枝篇』における祭儀の研究やユングの夢に関する研究はこの批評にとってはダイレクトな価値を持つという。原型に中心があるとすれば、その中心に一群の普遍的象徴を見出すことができる。人間すべてに共通なイメージであり、潜在的に無制限な伝達力を持っている。原型相における文芸作品は神話であり、祭儀と夢とを結びつけるという。まあ、これ以上は、その筋の専門家の人たちにお任せしましょう。

 

その他の参考図書

ジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』