江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟

黒式尉(こくしきじょう)

今回は、新しいシリーズに入るということもあり、お正月でもあるのでおめでたいものをと思って前からご紹介したかった「操り三番叟(さんばそう)」とその三番叟に関連した事柄を取りあげました。能の中で最も格式の高い『翁』は、翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)によって演じられる祝言曲です。それについては、『翁』とはなにかでご紹介しておきました。

しかし、今回ご紹介する「操り三番叟」は楽しい。能の三番叟を操り人形で演じたものを再び人間が真似るという二重のミメーシスとなっているのです。乱拍子で比較的リズミカルに舞う人間の踊りを人形にさせ、それを人の踊りに戻している。乱拍子や能の前身である猿楽の踊りなどについては沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』 踊る大黒に三番叟に書いておきました。糸で繋がれた人形のように人はぶらぶら揺れ、くるくる回転するのだけれど糸が絡まって立ち往生してしまう。それを人形遣いがさも糸があるように身振りで解いていくと言う分けです。舞踊としての美しさもけっして欠けていない。江戸時代の至芸と言ってよいと思います。後で動画を見てくださいね。

能の三番叟は前半は面(おもて)をつけないで演じられ、揉みの段という見せ場がある。後半には鈴の段と呼ばれる農耕儀礼に関係するといわれる舞いがありますが、この時、黒式尉(こくしきじょう)と呼ばれる黒い面を着けて演じられます。これは、神楽で三番叟が演じられる場合も同じです。神事の『翁舞』についてはこちらをご覧ください「折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ」しばらくして気がついたのですが、この操り三番叟の場合は人が演じていますが、途中で面を着けるということはなく、顔の色はずっと真っ白なままです。文楽の「寿式三番叟」には二体の人形の三番叟が登場するのですが、人形の顔は同じく真っ白です。僕は三番叟の面が何故黒いのかずっと不思議に思ってきた。どうも大黒天と関係しているのではないかというのが今一番有力な答えだと思っている。今回はそれも含めて「操り三番叟」をご紹介したいと思っています。

ともあれ、三番叟はおめでたい演目で、かつては、お正月に木偶(でこ)廻しによる門付けが行われていました。それに、お正月と言えば日本では獅子舞ですが、時期は、ずれるけれども所によっては裸祭りも見られるようです。中国、ヴェトナムには獅子舞だけが残っています。それらは八世紀以前にイランからサマルカンドおよびシナ・トルキスタン経由で、中国に入りました。もともとイランの正月に裸で走る少年たちにに冷水をかけるという変わった祭りがあり、それが獅子舞と共に伝えられたのです。寒さを追い払う祭りなのですが、チベットでは獅子舞も、裸の少年の競技と灌水の風習も共に並んで伝え残されたとフランスの東洋学の泰斗ロルフ・スタンは書いています。あの『盆栽の宇宙誌』の筆者です。西アジアやインドから発したものが行き着く所、それは日本とチベットなのかもしれませんね。

チベットの黒い老人と白い老人

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald ロルフ・スタン『チベットの文化』より

スタンがその著書の中で能の「翁」について述べているのでご紹介しておましょう。「翁」で冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではない。だが、舞台を清め、福を招く白い老人「翁」と黒い老人「三番叟」のそれぞれの面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉に含まれる長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントゥンゲルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人でした。

大黒天の仮面劇と地鎮の儀式

ラマ僧は瞑想によって神々や菩薩を降ろすことができるとされているし、吟遊詩人は忘我状態になって、英雄たちが向う側の世界で活躍している光景を幻視し、それを歌で描写しました。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられました。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなったのです。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけです。

どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていました。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神が現われるのを容易にすると考えられていたのです。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられました。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたといいます。その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表される、グルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラー)でした。これらの仮面劇の中でも、大黒天は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘しています。生身の人間は飛べませんが、大黒天はインドから飛んでくるに違いありませんね。

Der König von Gotsa, Lhasa
右手に金剛杵を持つGotsaの王 ラサ

この仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはよくわかりません。古いものは少なくとも10世紀に遡るといいます。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われました。金剛杵/こんごうしょう(あるいは金剛橛/こんごうけつ)によって聖域を区切るのですが、すでに八世紀のタントラの中に確認されています。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていた。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムエ寺建立の際の「地鎮」に用いられました。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られましたが、スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしています。

密教と土地神との関係は深く、例えば最澄が比叡山延暦寺を開く時に場所を譲り受けたとされる日吉の神である翁、つまり大山咋神(おおやまくいのかみ)は山王権現と呼ばれるようになる。これは中国の天台山国清寺で祀られていた地主神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」に由来します。禅竹の『明宿集』では、宇宙神・守護神としてのもっと壮大な規模の翁が語られるのですが、これは土地神としてのいわれを指し示しているかのようです。それに関連して三番叟の鈴の段は地鎮の儀式を模しているのではないかという説もなくはない。

チベットの追儺の行事

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせたようです。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味します。他の日に行われるのいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われました。

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮するのですが魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩きます。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのですが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしいのです。これは凄まじい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだといいますから徹底した鬼払いの行事であるようです。

歌川国貞『あやつり三番叟』
19世紀 メトロポリタン美術館

操り三番叟の来歴

さて、「操り三番叟」の方ですが、どのような来歴なのか見てみることにしましょう。ことの起こりは、嘉永六年(1853)に大阪の歌舞伎役者、二代目嵐璃珏(あらし りかく)が大阪で演じた「初櫓豊歳三番叟/はつやぐら たねまき さんばそう」を江戸のお目見え講演で演じたのが大当たりとなった。初演の時は、題目を『柳糸引御摂/やなぎのいとひくやごひいき』と改め、大阪公演と同じように翁と千歳役はゼンマイ仕掛けの人形振りで演じられ、三番叟は今回ご紹介するような操り人形振りになっていました。この操り人形は、いわゆる文楽でいう木偶(でこ)人形のように人の手で操る人形ではなく、糸で操るものでした。当時は「南京操り」と呼ばれていたようです。

その初演の詞書を篠田瑳助が、曲を四代杵屋(きねや)弥十郎と五代杵屋六三郎が改作しましたが、オリジナルである能の三番叟の音曲は結構耳につく上に上手に編曲されていて一度聞くと耳から離れません。歌舞伎の音楽は、歌ものである長唄と語り物である浄瑠璃に大きく分かれますが、この所作事(舞踏劇)の一つである『操り三番叟』の音楽は長唄です。そして、明治三十二年(1899)には五代目尾上菊五郎が西洋のマリオネットに似せて実際のゴム糸を体に繋ぎ空中に浮いて見せたという記録が残っているようです。三番叟も空中を飛んだのです。

糸あやつり

糸操り、つまりマリオネットのような人形が日本に伝来したのは戦国時代の終わり頃といわれ、江戸では元和(げんな)三年(1617)の文献に今の日本橋に浄瑠璃(語り物)狂言の糸操りが興行されていたという記載があります。徳川家康が亡くなった翌年のことです。寛永(1624-1645)年間に、説教節の歌い手たる太夫であった初代結城孫三郎が興行主となって説教節を糸操りで見せていた。京都の角太夫芝居では奇術的な演出がなされた舞台上の仕掛け物やゼンマイ仕掛けの人形なども加わってくるようです。しかし、江戸時代中期にあたる明和(1764-1772)の頃には上方で糸操りは殆ど絶えてしまいますが、江戸では「さんばそう、さんばそう、南京あやつり」と呼びながら三番叟の糸あやつり人形を行商する姿が山東京伝の『錦の裏』という洒落本に書かれるくらい流行していた。しかし、宝暦(1751-1764)の頃には、義太夫節が手操り人形で演じられるようになり、説経節そのものが廃れていくにつれ江戸の糸操りも少しずつ衰退していったようです。復活するのは明治になって糸操り中興の祖といわれる九代目結城孫三郎によってでした。

日本の正月に行われた三番叟の木偶廻し

チベットの詩聖ミラレパの歌を訳したおおえ まさのりは文楽の頭作りの名人と言われた大江巳之助(おおえ みのすけ)(1907-1997)のご子息にあたります。お父さんが子供の頃には、木偶(でこ)を入れた箱を天秤棒に担ぎ、その箱に竹竿をさして木偶を掛けて、嫁さんが三味線を弾き、おじさんが浄瑠璃語りしながら辻芸をしていたといいます。山東京伝作、北尾重政画による四人詰南片傀儡(よにんづめ なんぺん あやつり)に出てくるような風景が実際に徳島にはまだあった。

歌川国貞(二代豊国/1786-1865)
文楽 相撲人形

木偶廻しの起源は兵庫県は西宮にある戎(えびす)神社の傀儡子(くぐつし)と呼ばれる人形遣いにはじまると言われています。戎神社は不具の子として流された蛭児命(ひるこのみこと)を祀っています。17世紀の終わり頃には、同じく境内に祀られている道君坊百太夫(どうくんぼう ももだゆう)という神を信仰する当社の神人(じにん/神社の雑役係)たちが産所と呼ばれる社の周囲に40軒ほど軒を連ねていました。彼らが福の神のえびす舞いや五穀豊穣を祈願する三番叟の舞い、それに仏の功徳を語り物にした説経節を人形で演じて諸国を回った。こうして全国にえびす信仰を広めていったのです。それは、摂津名所図会などにみられるように一人で手を使って操る人形だったと思われます。

室町末期から江戸初期にかけて成立した『室町物語』のなかには、すでに大黒とえびすが大活躍する「大黒舞(大悦物語/だいえつものがたり)」の話が収録されていますから、すでに大黒、えびすを言祝ぐ環境は整っていたのでしょう。立身出世と福神信仰に由来する祝言物です。因みに文楽興行が開始されたのは竹本義太夫が大阪に竹本座を創設した1684年でした。

飛べ大黒天・踊れ操り三番叟

三番叟の起源を考えるとなかなかミステリアスで面白いのですが、チベットの寺院での仮面舞踏劇が仏法の守護神たる大黒天(マハーカーラー)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、ポタラでの身替りの魔王の追儺の儀式、おまけに民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、三番叟と大黒天との関係を考えてみる価値はおおいにありそうです。猿楽のメッカだった多武峰(とうのみね)寺での修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神(またらじん)や毘那夜迦(びなやか)という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にありました(彌永信美『大黒天変相』仏教神話学Ⅰ)。やはり、大黒天はインドからチベットや日本に飛んできたのかもしれない。地主神としての大黒天と大国主命とは習合しやすかった。そして三番叟との関連を考える時、中世の神仏習合の不可思議さに思いを馳せてしまいます。それが、田楽などともに猿楽(能)に取り入れられ、江戸時代を経て歌舞伎や糸操りなどの人形芝居の中で熟成されていった。

そのような中からこの「操り三番叟」も生まれた。しかし、能の演目を歌舞伎でアレンジし、それをまた能が歌舞伎のように演じたとしても何も面白くはないでしょう。この『操り三番叟』の面白さは操り人形の動きを人間が真似ることにあった。それも元々能の最も重要な作品であると同時に門付芸などで皆が知っていたものだった。能の三番叟を知っていれば、これがめちゃくちゃな三番叟だと分かる。パロディーなのです。折口信夫によれば、『三番叟』も『翁』のもどきだったのです。この二重に捻ったアイデアが素晴らしかった。こういった作品が現代に作れるかというとこれはかなり難しい。というのも、20世紀後半から日本人にとって古い芸術の意味が急激に失なわれていったからです。そういった本質的なものにどうかして繋がっていけないと本当の革新の可能性がない。ともあれ江戸の至芸たる操り三番叟をゆっくりご覧くださいね。

 

全部で18分くらいの動画ですが、残念ながら演者たちに関する記載はありません。しかし、いずれも名手です。

 

 

 

小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 ホメロスとウェルギリウス

オーギュスタン・カイヨ『ディードーの死』
1711 ルーヴル美術館

ヘンリー・パーセルの作曲したオペラ『ディドとエアネス』、バロックオペラの傑作として誉高い。トロイの王子エネアスとカルタゴの女王ディドとの悲恋を描いている。ウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネイス』を底本にして構想された。この作品の中でディドが自らの死を歌うアリアは名品である。

私が大地の中に横たわる時、あなたの胸の中に
私の過ちがなんの禍をもたらすことのないように
思いだしてください 思いだして ああ ! でも 私の運命のことは忘れて
私を思いだして ああ ! でも 私の定めは忘れてください

When I am laid, am laid in earth, May my wrongs create
No trouble, no trouble in thy breast;
Remember me, remember me, but ah! forget my fate.
Remember me, but ah! forget my fate.

しかし、ウェルギリウスの原作ではこのような哀感はない。本書ではエネアスはアエネアス、ディドはディードー、トロイはトロイアと表記されているのでそれに従う。そこでは、ディードーのアエネアスへの憎悪は極限に達して恐るべき呪詛の言葉が連発されるのである。

たとえあの憎らしい男が
港に到着し、陸地に漕ぎ着くことが必定で
それをユッピテルの運命が要求し、その結末が動かぬとしても、
どうかあいつが勇猛な民との戦さに悩まされ、
土地を追われ、ユールスを抱くことも奪われて、
はては援軍を請い求め、仲間の無残な死を見ることになれ !
そして不平等な条約に降伏し、待望の国も
この世の楽しみも味わえずに、時ならずして死ぬめに遇い、
埋葬もされず、砂の真ん中に置き去りにされよ !
これが私の祈り。この最後のことばを、血とともに注いでやる。
(『アエネイス』Ⅳ 小川正廣 訳)

『アエネアスとアンキセス』1697 ルーヴル美術館
ピエール・ルポールト(1659–1744)

そして、口を床に押しつけ、「いま死ねば仇を討てぬ。だが、死のう」「そうだ、こうして亡霊の世界へ行くがよい。この火を目から飲ませてやる、非情にも沖へ去ったダルダニア人(トロイア人のこと)に。わが死の凶兆をみやげにもたせてやる(『アエネイス』岡道男・高橋宏幸 訳)。」そう言い終えるとディードーは剣の上に倒れ伏した。

ここまで話が変わるのかと思うといささか不思議ささえ覚えるのだが、アエネアスはトロイアの優れた武将であり、その陥落に際してパラスの木像であるパラディウムを抱えた盲目の父親アンキセスを背負い、子のユールスの手を引いて脱出したといわれれ、敬神と孝心の武将として名高く、ホメロスの『イーリアス』でもヘクトルに次ぐ勇者として描かれた。パラディウムはトロイアの建設者イーロスの祈りに答えて天空から下ったといわれている。ちなみにトロイアの古名がイーリオンである。死に場所と決めていたその地をアエネアスは去り、妻や父親アンキセスを失い、多くの友人を失った。イタリアの地に向い、将来ローマとなる都市を建設する。彼こそがローマ建国の祖とされたのである。彼の母であるウェヌスのとりなしによってユッピテルは、トロイア人がイタリアの地で建設する都市は必ずや発展を遂げローマとなる、その「運命(fatum)」は不動であり、ローマ人の盛運は果ても限りも置かぬと定めたのである。

ホメロスの叙事詩

エドワード・シェフィールド・バーソロミュー
『ホメロス』1851 部分 メトロポリタン美術館

古代においてホメロスに対する哲学者たちの評価はけっして高くはなかった。紀元前6世紀には、ピュタゴラスやヘラクレイトス、クセノパネスらが神々に対して不敬だとしてホメロスを非難していたし、紀元前四世紀から五世紀の人であるプラトンは『国家』第三巻においてホメロスが描いた英雄たちが、あまりに感情に脆く、物欲が強く、残虐だとして英雄と言えど人間より何ら優れていないなどと若者たちに信じ込ませ、社会に好ましくない影響を与えているとした。国家の「守護者」の教育には勇気・節制とが理想とされなければならないというわけである。だが、一方で、『国家』第十巻では「あの素晴らしい悲劇作家たちの最初の教師であり指導者だった」と彼の詩に取り憑かれていたことを白状せずにはいられなかった。ホメロスの芸術的な長所を正当に評価できる感性を持っていたからこそ、叙事詩が文体においてミメーシスを含み、内容において神々の放埓な行いと人間の弱い性格や卑小さをあらわに描いているというマイナスの評価を下し、優れた文学が哲学の牙城を揺るがしかねないことをプラトンは懸念していたのであるという。

一方で、アリストテレスはプラトンと同じようにホメロスの詩を傑出した人間の模範的な行いを賛美するものではなく、弱点を持った人間たちの苦難の物語として受け止めていた。だが、『詩学』においてはホメロスを高く評価した。名声や幸福を享受していてもけっして理想的と言えない人間が、いわれなく不幸に転落し、そこで味わう苦難、それが悲劇や叙事詩における「厳粛な行為」の再現、つまりミメーシスなのである。それによって聴衆が感じるのは「恐怖」と「同情」から生じる「快感」であり、それが「カタルシス」であった。ホメロスは、その厳粛な事柄についての最大の作者だとされたのである。筆者の小川正廣はホメロスが追求したものは破滅に耐える人間の生、その誉を描くことなのであって破滅や死の美学を描くことではなかったという。そういえば、忠臣蔵だって運命の理不尽な重荷に耐えて本懐を遂げる物語だった。

ウェルギリウス『アエネーイス』
岡道男・高橋宏幸 訳

ウェルギリウスの野望

ウェルギリウスがホメロスが描いた登場人物の一人を『アエネイス』の主人公にしたことは大きな意味があるという。ギリシアの英雄からローマの英雄像を作り出さなければならなかった。そこに大きな矛盾と野望があったというのだ。

『イーリアス』におけるアカイア(ギリシア)軍とトロイア軍の血で血を洗う戦いは、争いの女神エリスの発案によってユーノ、アテネ、ウェヌスら女神たちの埒もない美貌争いから端を発した。まるで家族内の嫉妬や諍いを思わせる神々の軽薄な行いは、下界の人間たちに過酷な「運命」として重くのしかかる。ウェルギリウスの『アエネイス』においてもユーノは、トロイア戦争においてユーノ崇拝の中心地であったアルゴスの人々に対する殺戮への怒り、トロイア人パリスによって蔑(ないがしろ)にされた我が美貌、ユッピテルにさらわれ寵愛を受けたガニュメーデスとその子孫たるアエネアスへの遺恨によって彼を迫害した。ウェルギリウスは序歌に「かほどの憤怒を天上の神々が胸に宿すのか」と書いた。それにユーノは、自分の愛するカルタゴを世界を支配する国にしたいと考えていたが、「運命」によって妨げられる。ウェルギリウスの時代には、カルタゴとローマによるポエニ戦争(前264-前146)によってカルタゴは既に破壊されていた。それも世界のロゴスたるユッピテルの意志であったという。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
『キルケ―』1891

オデュッセウスは、魔女キルケ―から帰国のためには冥界に降り、預言者テレシアスからその方法を聞かねばならないと教えられる。ご存じのホメロスの『オデュッセイア』の一節である。アエネアスはクマエの女預言者シビュッラに導かれ冥界にいる父アンキセスに出会う。息子を慰労した後、父はこれからのローマの壮大な歴史と英雄たちのカタログを開示するのである。ロルムス、カエサル、アウグストゥスらによるローマの権勢(Imperium)と支配が言祝がれる。ここはウェルギリウスを寵愛したアウグストゥスに対するオマージュとして言挙げされていると見ていい。そして、国家のためには無慈悲に我が子を殺すブルートゥスに対して深い憐みと同情が述べられ、舅カエサルと婿ポンペ―ユスとの内戦を嘆き、外国との戦いに勝利したローマの英雄たちが語られる。父は息子に傲慢な者には最後まで戦い、従う者には寛容を示せ、おまえが覚えるべきことは諸国民を統治する技術であり、平和を人々の習いとさせよと諭す。

ここでは芸術や学問に対するギリシアの栄光が世界の統治というローマの栄光と比較されている。その世界の平和を確保するためには、自らの生命を危険に晒し、自らの感性や知性のための「技芸」を諦めなければならないのであった。アエネアスはポリスや国家に対する忠誠より個人の誉を重んじるギリシア的な英雄ではなく、国家に忠誠を誓い、我が身を犠牲にしてもその権勢拡大のために働く新しいローマの英雄像を託されている。

『イーリアス』では、友人パトロクロスを殺された恨みに燃えるアキレウスが、敵将ヘクトルの遺骸の足に穴を穿って紐をかけ戦車に繋いで地面の上を引きずり回した。同じように若い朋友パラスの死を知ったアエネアスは、八人の若い敵兵を生け捕りにし、その火葬の炎の中に投げ込み、最大の敵トゥルヌスとの戦いでは、命乞いをする敵の肩にパラスの剣帯が戦利品として吊るされているのを見て恐るべき狂気と怒りに襲われ、無慈悲にもその命を絶つのであった。こうして物語は極めて後味の悪い終わり方をするのである。既に、ユッピテルの命によって疫病の女神ディーラがトゥルヌスの力を奪っていた。ここにユッピテルの意志である運命の決定と、国家の礎を築くために懸命になりながらも、けっして完全ではない人間として破滅の危機に直面しながら苦難に耐えて生きていく主人公の有様が語られる。何故なら、それが「叙事詩」であったからである。ここには、ギリシアの叙事詩に対して新しい英雄像を掲げるという野心と叙事詩というギリシアの枠組みから離れられない矛盾があった。ウェルギリウスの時代、ローマが世界に誇った権勢は既に過去のものと言うほかない状況になっていた。しかし、彼らの真の栄誉は、彼らが断念せよと教えられた芸術の力によって、今なお生命を保ち続けていると筆者は結んでいる。

ウェルギリウス(前70-前19)
ナポリのヴェルギリアーノ公園

ウェルギリウスの生涯

プブリウス・ウェルギリウス・マロは、紀元前70年にイタリアのマントゥア(現在のマントヴァ)に近いアンデスに生まれた。通説では父親は下級官吏の使用人であったが、勤勉を買われてその養子となり、森林を買い占めたり蜜蜂を飼い小さな財産を大きく殖やしたという(スエトニウス『ヴェルギリウス伝』)。北イタリアのクレモナとミラノで教育を受けた後、17歳の頃ローマに出て修辞学を学んで弁護士になろうとした。一度だけ弁護のために法廷に出たが、極めて内気だったためか話し方はあまりにたどたどしく、教育のない者のようだったので、それきり辞めたと伝えられている。この内向性は並外れたもので、詩人として名をなしてから、「あれが、ウェルギリウスだと」人が指差すと手当たり次第近くの家に逃げ込んだという。

前40年頃に『牧歌』が世に出るまで詳しい消息は分かっていない。エピクロス派の哲学者シロンに弟子入りし、ルクレティウスの詩に親しんだが、「田園の神々を――パンや老いたるシルウァヌスやニンフの姉妹を知るものは幸いなるかな(『農耕詩』河津千代 訳)」と田園の世界に立ち戻っている。この頃(前40年代)、カエサルはルビコン川を渡ってローマに討ち入り、ファルサロスの戦いでポンペイウスは破れ、カエサルの独裁、ポンペイウスの残党とカエサルとのスペイン戦役、続いてカエサルの暗殺、カエサルの養子であったオクタウィアヌスと共和派に対するアントニウスとのモデナの戦い、第二回三頭政治(オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥス)の開始、キケロの惨死、オクタウィアヌスに対するカッシウス、ブルートゥスによるピリッピーの戦い、オクタウィアヌス派とアントニウス派とのペルージア戦争と、打ち続く内戦によってローマは混乱の極にあった。

オクタウィアヌス(後のアウグストゥス/前63-14)初代ローマ帝国皇帝 ヴァティカン博物館

ウェルギリウスは最初、詩人でもあり軍人・政治家、キケロに次ぐ雄弁家として知られるガイウス・アシリウス・ポリオに庇護を受け牧歌を書くことを勧められた。ピリッピーの戦いで勝利を収めたオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は、当面不要になった軍隊に属していた退役兵のために勝利の報酬として土地を分配しなければならかった。そのため、敵方の所有地の農民を強制的に立ち退かせて分けたが、土地が足りなければその周辺も没収された。ウェルギリウスはその巻き添えをくったのである。友人のガルスの取り成しでオクタウィアヌスに会うことができ、正当に土地の没収を取り消してもらっている。

この土地没収はイタリアの内戦による農地の荒廃に拍車をかける結果となった。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』は、そのような背景のもとに書かれたのである。その後、彼は、このオクタウィアヌスや富豪で文芸の保護者として知られるマエケナスの庇護を受けて国民的詩人への道を歩むことになるのである。

ウェルギリウスの生涯についてはウェルギリウス『牧歌・農耕詩』にある河津千代さんの「ウェルギリウスの生涯」が詳しい。ここではさわりだけ紹介した(人名表記は小川さんの『ウェルギリウス研究』に準じている)。尚、ウェルギリウスが前19年にギリシアに旅立つ前に死の予感があったのか友人に生きて戻らなければ『アエネイス』の原稿を焼いてほしいと頼み、彼は亡くなったが、アウグストゥス(オクタウィアヌス)は焼却を許すことなく未完の部分を残して出版したという逸話がある。河津さんは、興味ある問題だが、その詮索は小説の領域になるとしている。

筆者の紹介とウェルギリウス作品の波紋

小川正廣『ヴェルギリウスの研究・ローマ詩人の創造』 京都大学出版会 1994

筆者の小川正廣(おがわ まさひろ)さんは、1951年に京都で生まれている。京都大学文学部を卒業後、同大学の博士過程を中退。京都大学文学部助手、京都産業大学や名古屋大学文学部などで教鞭を執られ、名古屋大学名誉教授となられた。ウェルギリウスとの出会いは、学生時代、T.S.エリオットの「文明」「キリスト教世界」「成熟」などが散見される評論集の中にその名を発見したことからだという。

ウェルギリウスの魅力は二つあるという。一つは言葉の美しさ、もう一つはその崇高な精神的な価値にある。アレクサンダー・ポープは『牧歌』を「世界で最も優美な詩」と称え、モンテーニュは『農耕詩』を「最も完璧な作品」と位置づけ、ヴォルテールは『アエネイス』について「ホメロスがウェルギリウスを作ったと言われるが、それが真実なら、ウェルギリウスはホメロスの最も美しい作品である」とした。その精神的な価値は、社会的人間のモラルを説き、国や民族の統一する根本理念を示そうとしたところにあるとされた。エリオットが両大戦の中でヨーロッパの統一の理念をウェルギリウスに見ていたことは間違いない。

ストア派的一神教思想に影響されたウェルギリウスは、ローマの建国は神の意志であり、この神聖な国家はアウグストゥスの時代に全盛を迎え、人類を平和に統治するだろうと詠った。キリスト教徒にとって救世主の出現が「ローマ帝国」の誕生とほぼ同時であるという歴史的事実は大きな意味を持っていた。地上におけるキリスト教の確立こそがキリスト教において神の意志であった。ウェルギリウスは『牧歌』第四歌においてこのように詠っている。

クマエの予言の告げる、最良の時代がやってくる
偉大なる世紀の秩序が再び始まる
いまや乙女は帰り来り、サトゥルヌスの王国が戻ってくる
いまや新しき血筋が、高き天より遣わされる
‥‥
その子によって、鉄の種族はついに絶え、黄金の種族が
全世界に立ち上がる‥‥
その子は神々の生活に加わり、英雄たちが神々と交わるさまを見、
みずからも彼らと共にあって、
父の徳がもたらした平和な世界を統べよう
‥‥
(河津千代 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)
『ダンテの肖像』1495

キリスト教徒ならずともこの時代をふり返るならばこの詩をキリスト到来の預言と考えて不思議はあるまい。ダンテの『神曲』はキリスト教徒によるウェルギリウス評価の総決算の感があるといわれる。それは中世において、神との合一を求めて「巡礼」の人生を送る聖職者たちにとってウェルギリウスが哲学的・宗教的な求道精神の権化であったからだ。同時にローマの歴史とキリスト教世界との関係性を教える最も有力な権威でもあったからだというのである。

最後に

ウェルギリウスは、『牧歌』ではテオクリトス、『農耕詩』においてはヘシオドス、『アエネイス』においてはホメロスというギリシアの詩人たちを手本としている。同時代のローマの詩人たちがそうであったようにギリシア文化を同化・吸収して新たなローマの詩を創作しようとした。日本では確かにホメロスなどに比較してウェルギリウスなどのローマの文学は馴染みが薄い。ラテン文学はギリシア文学の二番煎じだという偏見は根強くあるという。優れたギリシア文化は直接ギリシアから学べばよいのであって何もローマの「レプリカ」を通して研究する必要はないという見方は今も支配的であるという。しかし、世界の多くの地域で新しい文化は過去の文化の評価から始まっている。文化の歴史はその繰り返しであるという。小川さんはギリシア文化がローマ的な変形を受ける過程で、いったい何が吸収されて生かされ、何が消化されなかったのか、また、何が新たに付け加わったのか。この問題こそ日本も含めて後世の人々にとっても大切なことだろうと述べている。これは松岡正剛さんがずっと言ってこられたことでもある。

さて、前に予告しておきましたように、いつの頃からか初まった「著書の紹介シリーズ」ですが、ひとまず今回で最終回とさせていただきます。次回は新春ということもあって僕が江戸の至芸と勝手に考えている「操り三番叟」をご紹介する予定ですが、併せて三番叟と大黒天との関係も述べてみたいと思っています。どうぞ、お楽しみに。

 

ホメーロス『イーリアス上下』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェルギリウス『牧歌・農耕詩』
「ウェルギリウスの生涯」収載

ミシェル・テヴォー『アール・ヴリュツト』 壮麗な無関心の創造力

アーヌルフ・ライナー『カタログ』2006

まだ、かねこ・あーとギャラリーが東京は京橋にあった頃、僕はここでかなり個展をさせてもらっていた。オーナーの金子多朔(かねこ たさく)さんが、展覧会の度に「日本の作家の絵は脆弱なんだよ」と言っては、僕にアーヌルフ・ライナーのカタログを手渡してくる。最初は「はあ」と言って受けとっていたんだけれど、さすがに三度目にもらった時にはファンになっていた。「これは何かあるんだ」と鈍い僕も気がついたのである。このギャラリーはアンリ・ミショーやこのライナーを手がけた画廊として有名だった。恐らく僕のもらったカタログは、ライナーの日本初のカタログではないかと思う。勿論、このギャラリーのオリジナルであった。そのカタログは巻末に掲載しておく。

ライナーには、一度、ウィーンであったことがあるけれど何か気難しそうな人だという印象しかない。ウィーン幻想派のレームデンがとっても温かい感じの人だったのと好対照だった。ライナーは、いわゆるアール・ヴリュットに興味を持ち、そのような作品を意識的に自分の作品に取り入れて制作してきたオーストリアはバーデン出身の画家である。ライナーの作品を見るとかねこ・あーとギャラリーのことを思いだす。金子さんご健在かなあ。

デュシェンヌ・ド・ブローニュ(1806-1875)
顔の表情のメカニズムのためのデモンストレーション

既に19世紀には、デュシェンヌ・ド・ブローニュが電気生理学や神経科学の分野で筋委縮症や進行性麻痺などの患者の表情の変化を研究していたし、19世紀の末には、ジャン=マルタン・シャルコーが院長を務めたサルペトリエール精神病院でポール・リシェがヒステリーや癲癇の患者の様子を描いたりしていた。そのようなイメージについての関心が徐々に高まりつつあった。リシェのデッサンは『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画で少し触れておいたし、この硬直する肢体の様子はヴァールブルクの情念定型にも関わっている。ライナーは、患者たちの症状の様子に興味を持ち、それらに似せてパフォーマンスしたセルフポートレイトに彩色した。その作品が、上に掲載しておいたフランス語版のカタログの表紙である。彼は1950年ころから精神病院の患者たちの身体的な特徴だけでなく彼らの作品そのものに興味を持ち、それらを収集するようになっていた。それがアール・ブリュットと呼ばれるものである。ライナーの作品からは心の奥底の澱を下からまさぐられるような不気味さがある。そんな彼が惚れこんだアール・ヴリュットとは、いったいどんなアートなのだろう。

ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュット』

最近このアール・ヴリュットのいい本に出会った。ミシェル・テヴォ―のその名も『アール・ヴリュット』である。前回ご紹介したハンス・プリンツホルンの『精神病者はなにを創造したのか(原題/精神病者の造形)』が彼らの作品の芸術性に初めて美学的観点から光を当てた画期的著作であったのに対して、このテヴォ―の本はデュビュッフェ以降のいわゆる「アール・ヴリュット」の概念が広まり、定着していこうとする時代の著書を代表するものと言って良いのではないかと思う。フランスでは1975年の出版されているが、日本では2017年の刊行である。

筆者は、当然、この芸術を愛しているし、それらの作者たちにも暖かい眼が向けられている。だが、そこには色々な問題が山積しているようだが、筆者はそれらの問題に直面しながらも、どのようにこのアートの地位を維持するかに腐心している様子が窺える。ともあれ、非常にバランスのとれた、良い本だと思う。アール・ブリュットは「生の芸術」、つまり調理されていない芸術という意味だが、もともと美術史家が名づけたものではない。一人の画家によって提唱された。それがフランスのアーティスト、ジャン・デュビュッフェであった。彼が敬愛したアントナン・アルトーの述べた「生の映画(シネマ・ブリュット)」から発想を得たのではないかと言われている(『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。デュビュッフェは既成の美術界に反旗を翻し、このアール・ブリュットをそれを破壊する兵器とさえ考えていたのである。ちなみにアウトサイダー・アートという名称は1972年にイギリスの美術史家ロジャー・カーディナルが「アール・ブリュット」の英訳としたものである。

デュビュッフェの「アール・ヴリュット」の定義とはおよそ、このようなものである。このアートは芸術的文化の影響を免れた人たちによって作られた作品である。そこでは、ほとんどと言って模倣がない。創作者は主題、材料、表現方法などを伝統的なありきたりの型からではなく、自分自身奥深い所から引き出す。作り手自身の固有の衝動を唯一の起点として、その芸術が全ての局面において純粋で生のままの発明が遂行される芸術。したがって、ひとえに発明という機能だけが姿を表す芸術であり、文化芸術の中に絶えず姿を見せる無節操な猿真似とはおよそ異なったものだという。ミシェル・テヴォ―は、この定義から三つの特徴を引き出せるとして、こう述べている。

1. アール・ヴリュットの作者は精神的にも社会的にもマージナルな人々であり、彼らの作品は通常「美術」に関係すると思われている学校やギャラリーや美術館などのネットワークの外部で構想され、作られる。制作者は必ずしも精神病者や精神的な障害を持つ人とは限らないが、アール・ブリュットと呼ばれる作品が制作される場所の多くは精神病院や老人ホーム、稀に監獄であったりする。それから、プリンツホルンも指摘していることだけでけれど制作者が霊媒というケースもある。

2.それらは多くの場合如何なる受け手も想定されることなく慣習的な受け手を度外視して構想される。彼らはお互いに何の有機的関係を持っていないし、いかなる連続性にも配慮しないという。それは他者のための作品ではないのである。

3.それらの作品は伝統的な慣習や流行の影響を受けたものとはほとんど無関係である。それは個人の発明であり、その全特徴からして最も前衛的な形態をも含めて「文化芸術」と呼び慣わされたものと対極にある。既成文化の廃墟の中に、芸術創造がいかなる制度化された回路やいかなる社会定義とも無縁の、孤立した民衆性をもって再生しているというのである。

ミシェル・テヴォ―(1936-)
Émilienne Farny 画

筆者のテヴォ―はローザンヌ大学を卒業後、名門のフランス社会科学高等学院で学んだ。ロラン・バルトやミラン・クンデラらが教えていた学校だ。ローザンヌ州立美術館の学芸員を経て1975年から同じくローザンヌにあるアール・ヴリュット・コレクションの館長(1975-2001)となって美術館の管理、運営、作品収集を任された。このコレクションは「アール・ヴリュット」の名付け親であるジャン・デュビュッフェが中心となって収集したもので、当然ながら彼とも親交が厚かったようだ。美学を精神分析や哲学、社会学と関連させる多くの著作があるという。日本語訳された著書に『安らかな死のための宣言』『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』がある。

そういえば、何年か前の広島市現代美術館のカタログを調べてみたら、この人の名前があった。『解剖と変容』という、チェコのアーティストであるアンナ・ゼマンコヴァーとルボッシュ・プルニーの作品を紹介する展覧会だった。アール・ヴリュットの古典的な作家という触れ込みになっている。この展覧会で放映されていた映画『天空の赤』のなかにはアドルフ=ジュリアン・フレという隠遁司祭が17年間鏨とハンマーで彫り続けた圧倒的なロテヌフの崖(下の動画参照)、サイモン・ローディアのアナザーワールドたるワッツ・タワー、ヘンリー・ダーカー、ズデニェク・コシェック、松本国三などの作品が紹介されていた。

 

 

この映画『天空の赤』のなかにはテヴォ―も出演していて、こういったコメントがあった。「知るべきことは―― アール・ブリュットだけでなく 芸術一般において 錯乱にも似た狂気 狂った仮説の投影 現実との断絶は 精神の優れた機能で 人間の才能だということ 芸術に期待すべきは異常な何かだ それは新奇で私たちの思い込みを裏切る 狂気がなければ それは芸術ではない(『解剖と変容』収載)」

ここではいささかアグレッシブな発言になっているが、デュビュッフェは、「消化不良患者の芸術」や「膝の悪い人の芸術」という名称がありえないと同じ様に「狂人の芸術」などないと主張している。そこがアンドレ・ブルトンとの決別の原因となった。だが、「狂気による芸術」はありうるとして称賛している。芸術における狂気に対してポジティブな評価を与ているのである。テヴォ―も同じ立場だろう。前回紹介したプリンツホルンは、自分がいくら芸術的な幻想性の不気味さを熟知していたとしても、患者たちの作品がいつまでも不気味なままであり続けるのは彼らの個人的体験領域が基盤にあるからだと指摘している(『精神病者はなにを創造してきたのか』)。プリンツホルンが世に問うた創造的人間の世界感情と精神病患者のそれとの関係に再び照明が当てられるだろう。

『解剖と変容 アール・ヴリュットの極北へ』 現代企画室 2012年刊

同じ映画の中で、コレクターのジェラール・シュライナーはこう述べている。「アール・ヴリュットを買う人は それが重要だと思って買い それまでのコレクションを無に帰してしまう それほどに興味深い 理解しようと努力すればの話だが この芸術には嘘がない 芸術家もどき達の市場操作とは無関係だ 奴らは芸術家と呼ばれるが何の価値もない 30人も助手がいて20万ドルで売り出される それをテキサスのおバカさんが買う そんなのが芸術か? 分かるだろう? アール・ブリュットだけが永遠だ(『解剖と変容』収載)」実は、ここにもこの芸術が抱えなければならない大きな問題の一つがのぞいているのである。

例えば、精神病者のヴィジョンは特別魅力的で大きな影響力を持ってきたが、数十年くらい前から彼らの創造性がほとんど枯渇してきているという。1975年に書かれていることを考えると、現在ではその傾向はより強くなっているだろう。精神科医や看護士は病者の芸術的な表現を妨げることなく鼓舞するようになってきた。アトリエを持たない精神病院は一つもなく入院患者の作品はとてつもなく増えているという。しかし、これが創造性の低下に繋がっているというのだ。患者たちは彼らの作品に向けられる症候的・治療的関心、さらにそれが利益をもたらすことに無関心ではいられない。彼らは彼らの作品を認めた医学的な刊行物などにも触れ、その中に範を求めたりするようにもなるという。これが意識的なものか無意識的なものか僕には分からない。もっと深い意味で言えば、彼らは、その作品に「必然性」や強度の喪失を感じるようになる。かつては、いじめや抑圧にあっていた病院内で創造的な個人はそれらに立ち向かわなければならなかった。彼らの作品はこうした対立や秘密性の風土から過激性や活性的な性格を引き出してきたからだというのである。そして、精神病院の様相を一変させた神経弛緩薬(抗精神病薬)の問題があるという。

フェルディナン・シュヴァル(1836-1924)『理想宮』 1890

フェルディナン・シュヴァルがフランスの片田舎オートリーヴに創った『理想宮』。彼は郵便配達の仕事をしていたが、ある日、道々拾った石が面白くて自分の庭にコンクリートで固めながら「おとぎの国」を作り始めた。彼は精神的な障害も病気も持たなかったが、「あたまがいかれてる」などの中傷を受けることを予想し、理解できない人間を周囲の人びとが迫害し始めることも覚悟していたという。やがて、彼の名はアンドレ・ブルトンやピカソにも知られるようになり、時の文化相アンドレ・マルローによってこの『理想宮』は文化財として登録された。まさに、芸術的な制度の全くの枠外で活動したマージナルな存在、ブリコラージュを駆使した自分の楽しみのためだけのアートであった。このような人々の作品がアール・ブリュットの原点と考えられる。

このようなアートもやがて美術という制度の枠組みの中に組み込まれていくことは食い止めることはできないのではないかと僕は思っている。テヴォ―は、それにずっと抵抗してきた。既に欧米ではこのアール・ブリュットのマーケットが形成され、とてつもない値段で彼らの作品が売り買いされている現状がある。日本でもそれに追随する動きは当然起こる。早くからアール・ブリュットに触発されて優れた作品を制作するデュビュッフェやライナーのような作家たちがあらわれるようになり、当然ながら、単なるアール・ブリュットのエピゴーネン(模倣者)たちの作品などが溢れはじめる。このような経過を経て社会のエニグマであったものは、なおざなりに理解され無害化されてレッテルを貼られて分類されるというわけである。そうなる可能性は高いと思う。

さて、デュビュッフェが中心となって収集したローザンヌのアール・ブリュット・コレクションから二人だけご紹介しておこう。

パスカル・メゾーヌヴ

パスカル・メゾーヌヴ(1863-1934)
『長い耳を持った男』1927-28 
貝殻のアサンブラージュ

パスカル・メゾーヌヴ(1863-1943)は、攻撃的精神で知られるボルドーの骨董屋であったが、持ち前の反権威主義・アナーキスト的感情を滑稽極まりない手段で表現することを好んだという。64歳の時に著名な政治家や君主の肖像を貝殻でこしらえようとした。テヴォ―は、顔の形態は知覚の発生時に知覚を形成する役割を果たすところに由来するという。そう言えば顔の形態は視覚連合野だけでなく、脳のもっと古い時代に形成された部分でも把握されているという説を聞いたことがある。ミショーのデッサンではないが、顔は一生を通じて特権的なリビドー的価値を保持し、雲や岩などのカオス的相貌を伴って幻覚的形態のもとに現われたり、夢を見ていたり、ボーとしていたりすると再び現れたりするのだという。

メゾーヌヴが作る顔の奇妙な魅惑は、貝殻という突飛な素材の中へ置き換えられたために表現された人の個性がそこから取り去られ、その顔を顔が組み込まれていた心理学的なネットワークから解放されることにあるという。人は生まれて6ケ月まで顔を顔一般としてしか把握できないらしい。メゾーヌヴの作る顔は、その魂のない巨大な顔が自分に向って傾けられた時の幼児の原始的感動を覚醒させてくれるというのである。

アドルフ・ヴェルフリ

アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)は、八歳の時に母が亡くなり監獄にいた父もその数年後に亡くなる。農場に預けられるが、そこで酔っぱらいの親方による殴打と強制的な飲酒によって次第に監獄と精神病院への道を歩みはじめる。1897年から20年に亘って独房に閉じ込められたが、1899年のある日、彼はナイトテーブルを壊し、その破片で独房の戸と廊下の窓を打ち破った。しかし、逃げることなく自分で壊した穴の前で真っ青な顔をして体をこわばらせ汗まみれの状態で発見された。そのことがあった年、彼は絵を描いたり文章を書き始めるようになる。常時、作品の制作を行うようになり大量の手稿と楽譜を散りばめた絵を描いた。幅50センチの大きな紙に書かれ装飾で飾られた自伝は二メートルの高さにまでなったという。1930年に亡くなるまで間断なく制作は続けられた。

この人の作品を見ると、まず構造的な厳格さに驚かされる。形は際限のない拡張の原理にしたがって広がり、無限に重なりあい連なっていく。彼を診ていた精神科医のモルゲンターラーは「ヴェルフリは運動感覚の人である。”彼は鉛筆で考える”のであり、動きが彼の思想を触発するのである」と述べているという。彼のいたヴァルダウの精神病院の部屋の壁には彼の絵がそのまま残されていて、それを見る人は表面から狂乱的にはみ出していくエクリチュールに宇宙的使命感さえ感じるという。

彼の作品に書かれるおびただしい音符は楽譜としてだけでなく、表面を測定したり諧調化したりできる生理的なものと精神的なものの間の架け橋となるようだ。楽譜はメロディーとリズムとしての価値だけでなく造形的な価値ももっているという。文字は、彼の言葉の流れに沿ってローマン体からゴシック体、あるいは自分が発明した文字へと変貌していくという。彼は時に大文字を積み重ね、いくつかの子音を繰り返し使って解読を妨害し綴りを意図的に不透明にする。それは楽譜として口語的なメロディーと意味作用とが直結して、同時に文字がその視覚的な形によっても意味の生産に直接働きかけるように思えるという。ヴェルフリが書き残した楽譜を整理して音源化したものがあるので下にご紹介しておく。現代音楽の世界に「ムジーク・ブリュット(生の音楽)」という領域があるのかどうか僕は知らない。

彼のモチーフは薬物のメスカリンによる状態などと同様にあらゆる感覚印象を結びつける代数ののようなものを感じさせるとテヴォ―は言う。ただ、プリンツホルンは麻薬などの一時的な異常体験は、精神的な障害によって迫りくる圧倒的な幻覚のこちら側にあると指摘している。その比ではないのだ。ともあれ、伝達の欲求に資するための一連の絵文字、文、語、音節文字、表音文字はなんらかの象徴記号として生まれるのだと指摘している(『精神病者はなにを創造したのか』)。それらは代数のように変換・交換可能なのだ。ヴェルフリは言葉をもののように扱って戯れるのを好んだし、逆に形を概念のように扱い、形の様々な形態を変奏し、最も具象的な形を完全に抽象的なものにしたりするというのである。物がまだ、物体性を持っていない段階、持っていても不安定で変動しやすい状態に引き戻され、それぞれのものが常に思いがけない変換に晒される。それゆえ一つ一つのものに意味を割り振るのは無駄だというのである。これは、プリンツホルンが指摘した精神病患者の造形にある特性の一つ、遊戯性のことを言っている。

ヴェルフリの書いた楽譜を整理して音源化したもの。短い曲が何曲も連続します。

Island Neveranger (1911) · Adolf Wölfli, Baudouin de Jaer
The Heavenly Ladder / Analysis of the Musical Cryptograms
Released on: 2011-04-09
Composer: Adolf Wölfli Composer: Baudouin de Jaer Music Publisher: D.R

川井田祥子『障害者の芸術表現』
福祉行政の立場から見た障害者の芸術活動を扱っている。コンパクトによくまとまっている。

日本でもアール・ブリュットに対する関心は、高まりつつあるようなので、少しご紹介しておく。1950年代の山下清ブームはあったもののアール・ブリュットに対する日本の反応は鈍かったようだ。その中でも、先頭を進み始めたのは福祉の関係者であるという。コンサート活動と並行した絵画、書、語りなどの活動を開始した「たんぽぽの家」から発展した「エイブル・アート・ジャパン(日本障害者芸術文化協会)」、西宮市の知的障害者通所授産施設すずかけ作業所、それに2004年に滋賀県近江八幡市に開館した、「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(社会福祉法人グロー/GLOW~生きることが光になる)」が挙げられている。アートとは別に身体的であろうが、精神的であろうが障害を持つ人たちに対するケアは社会として当然あるべきものだろう。

ただ、テヴォ―が指摘したように作家の制作に与える制度の影響はアール・ブリュットの枠そのものを破壊する。平等性や人権意識を重視する医療・福祉の論理と「芸術性の高い作品」を求める芸術の論理が衝突する場面も多いらしい(川井田祥子『障害者の芸術表現』)。障害者の中からアール・ブリュットの作家を育てようとする「アトリエ・インカーブ」というアートスタジオも2003年に設立されたようだ。当然といえば当然かもしれないが売れる作家と売れない作家の格差が生まれているという。アール・ブリュットの売れっ子たちが基金でも立ち上げられるようになればいいのかもしれないのだが、もはやそのような制度の中のアーティストはアール・ブリュットの定義から外れてしまうという矛盾が生じるのである。これはなかなか悩ましい問題と言わなければならない。

 

最後にヴェルフリの絵画作品をまとめて見ていただこうかとも思ったけれど、アール・ブリュットの作家ではないのですが、きっとこのライナーの作品の方がアール・ブリュットの作品の持っているようなある種の強烈な感覚が伝わりやすいのではないかと思ってこの映像にしました。興味のある人はどうぞ。

 

その他の参考図書

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』

アーヌルフ・ライナー カタログ 
かねこ・あーとギャラリー刊

末永照和『評伝 ジャン・デュビュッフェ』
極めて詳細にデュビュッフェの生涯を追っている立派な著書である。

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』ミネルヴァ書房  2014年刊

パウル・クレーはこう書いている。「‥‥プリンツホルンの素晴らしい著書をご存じだろう。われわれも全く異論はない。そこに収容されている作品を見ると、あそこにもここにもいたるところに最良のクレーがいるのだ ! そこに示されている宗教上の主題の深さや表現力は私が絶対に到達できないものだ。それらは本当に崇高な芸術なのだ‥‥。(ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュツト』杉村昌昭 訳)より」

また、ヘルマン・ヘッセはこう書く。「狂気が、高い意味において、あらゆる知恵のはじめであるように、精神分裂症はあらゆる芸術、あらゆる空想のはじめです。学者でさえそれを既になかば認識していました。たとえば、『王子の魔法の角笛(プリンツホルンを指す/筆者)』というあの魅惑的な本、一学者の辛苦精励した仕事が精神病院に閉じ込められた多数の狂気の芸術家たちの天才的な協力によってりっぱにされているあの本を読めばわかるように。(『荒野の狼』高橋健二 訳)」

ハンス・プリンツホルンは総数450人もの精神病患者の5000点にものぼる作品をもとに『精神病患者の造形』を執筆し、その著作は1922年に出版された。それが、今回紹介する『精神病者はなにを創造したのか』の原題である。「狂人の芸術」というテーマの著作が、それまで無いわけではなかった。チェザーレ・ロンブローゾ『天才と狂気』(1864)、フリッツ・モール『精神病患者の絵とその診断について』(1906)、ヴァルター・モルゲンターラー『芸術家としての精神病患者』(1921)などがあったが、本書は、精神病者の病状と作品との関係だけではなく、膨大な数の造形作品そのものを精神医学と美学の両面から捉えていることに画期的な意味を持っていた。

「天才と狂気」というキャッチフレーズが存在するのは、昔の人たちが芸術家を襲う聖なる狂気のことを話し、恍惚や忘我状態のことを伝え、狂気の中に聖なるものを見いだしてきた過去があるからである。だが、こうした「狂気」のすべての形態の中に何か奥深い共通点があるのか、あるなら厳格な方法でより深い認識に到達すべきでないのか。何千年もの間、最高の文化的要素だとされてきた精神状態が病気だとされている現在、そう判断された手続きが完璧を期したつもりでも、その発端から誤っていたのではないか。このような様々な問いかけから本書は「芸術的インスピレーショーンや造形の過程」と「精神病患者の世界感情」の間に何らかの類似関係が見出せるかどうかを問おうとするのである。昔は互いに類似し、今は互いに縁遠いとされる二つの心理状態の形態の関係性を問いたいのだという。

本書のあとがきによれば、1886年にドイツ西部のヴェストファーレン州のヘーマーでプリンツホルンは生まれた。テュービンゲン、ライプチッヒ、ミュンヘンの大学で美術史と哲学を学ぶ。ドレスデンの州立歌劇場などを設計した新古典主義の建築家であるゴットフリート・ゼンパーにつての研究で博士号を取得した。その後、歌手を目指して数年間ライプチッヒとロンドンで声楽の専門教育を受けたという。1913年に同じ声楽科の妻が精神を病んだ。それで彼はフライブルクやシュトラスブールで医学を学び、1919年に医学博士の学位を得ている。

第一次大戦に従軍したプリンツホルンは、野戦病院でハイデルベルク大学付属病院の精神科院長のカール・ヴィルマンスと出会い、その勧めで1919年にその医局員となった。19世紀末にエミール・クレペリンが始めた教材用の精神病患者の作品の収集・拡大が仕事だった。ヴイルマンスと共に国内はもとより国外の造形作品5000点を集めた。それらは、1850年から1920年に制作されたもので現在のプリンツホルン・コレクションを形成していている。彼はそれらの作品を収蔵する美術館の建設と教授職を夢見ていたが、果たされず1921年に病院を退職した。その後、本書を1922年に完成するのである。そして、1933年にチフスで惜しくも亡くなっている。

幻覚体験による『大気現象』 作者未詳
プリンツホルンは、こういった幻覚の描写は滅多にないという。

美学者としての眼識、精神科医としての知識、そして家族に患者を持つという彼の立場が本書を不朽の名著にしたと言えるのではないか。「アール・ブリュット」、つまり生の芸術を提唱したジャン・デュビュッフェは23歳頃に、このプリツホルンの著作に触れ、ドイツ語はわからないものの、それらの作品の奇態な発想、無償の神秘、剥き出しの感覚に眼を見張り、1945年、7月にスイスのモルゲンターラー博士のいるヴァルダウの精神病院を訪れる。患者たちの作品を収蔵した小美術館を見学し、声を失うほどの感動を味わったという。そこには、アドルフ・ヴェルフリやハインリヒ・アントン・ミューラーらの作品があったのである(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。アール・ヴリュットやヴェルフリについてはミシェル・テヴォ―の著書『アール・ブリュット』で次回ご紹介する予定です。この『精神病者はなにを創造したのか』には10人ほどの患者の作品が紹介されているのだが、その中から二人の作品をご紹介しよう。

アウグスト・ネータ―

アウグスト・ネータ―は1868年にドイツに生まれた。父は銀行員だったが彼が生まれた3年後に亡くなっている。利発な子で実業学校に通い機械工の訓練を受けた。機械工として働きながら、ドイツはもとよりスイス、フランス、アメリカなどを放浪し、29歳頃にドイツで自分の店を構え10年ほどは順調だったという。鬱病傾向が続くようになり、最後の審判について不安そうにかつ興奮しながら話すようになった。やがて手首の動脈を切ろうとするようになり、施設に委ねられ、大規模な第一次幻覚体験を伴う精神分裂病(現在では統合失調症と呼ばれる)の急性期だと診断された。

アウグスト・ネーター(1868-1933)
『出現時の私の眼』1911-12

繰り返し同じ幻影を見た。城のある都市の兵舎にいる。最初、雲の中に白い斑点を見た。雲はみな立ち止まったままで、電光石火のような光景が、半時間に一万もあらわれては消えて行く。主なる神や世界を創造した魔女が姿を現わす。数々の戦争の情景、大陸、記念碑、数々の城、宮殿、世界の栄華を極めたもの‥‥動いているのは生きている人影であり、主の変容で満たされると生命が吹きこまれた。すべては不気味で刺激的だった。それが最後の審判の啓示であったというのである。ネーターの病状は外見上、その態度に大きな変化はもたらさなかったが、すべての段階を通して、妄想傾向は発展し、体系化されていったという。彼は真の家族史を発見した。祖母はナポレオン一世とルイ15世の孫にあたるイザベラ・フォン・パルマの嫡子であったというものである。

ネーター『世界軸と兎』 1919

『世界軸と兎』というこの絵をみていただきたい。雲が降りてきて、そこに世界軸があった。そこから雲は板となり七本の枝をつけた樹木が生まれる。それは七本腕の燭台であった。その樹木には山羊の足である両足が付けられた。そして馬の足に変化した。悪魔だ。この樹木の上には自分の系図が現われていた。樹木は神のやさしい手に守られていたが、それは優しい女性の手であった。‥‥樹木は嵐の中でローラーのように回転させられ、樹木に代わってジュピターの頭が、戦いの神のそれが現われ出てきた‥‥。ネーターのこの絵に関する説明文である。この絵は世界大戦を暗示しており、ネーターは戦争の結末も含めてあらゆることをあらかじめ知っていたという。彼が見たものには続きがあり、雲から突然兎が飛び降り、ローラーの上に乗る。兎は「壊れやすい幸福」を意味しているという。それからシマウマになり、ガラス製のロバに姿を変え、ナプキンがかけられ、毛が剃られた。傍らにはずっと聖杯があったという。

左 ネーター『奇蹟の羊飼い』 右 古賀春江『涯しなき逃避』1930

この図の左はネーターの作品、右は日本のシュルレアリスト古賀春江がネーターの作品から発想を得て描いた作品ではないかと考えられている。1923年、大正12年には本書が日本で雑誌『みずゑ』に紹介され、図像が一点掲載されている。2年後には『アトリエ』に図像6点が掲載され紹介されていて、右の古賀春江の作品がなによりの証しとなっている。クニュッブファーの下記の作品は芥川龍之介の『歯車』にも影響を与えたという。

ヨハン・クニュップファー

クニュップファーは、1866年にドイツ南西部のオーデンヴァルト山地で生まれた。父は離婚後しばらくして亡くなった。学校時代は可もなく不可もない生徒だったという。製パン工場で働いた後、20歳から30歳まで、二年半ほどセメント工場、6年半ほど機械工場で働いた。母親が亡くなってから、幾度も職種を変え、頻繁に仕事を休み、酒が弱いのにしばしば酩酊するようになる。気の進まなかった結婚生活は最初から破綻しており、妻への不信感はやがて被害妄想へと発展していった。頻繁に家を出て、戻ってくると殴り合いの諍いとなった。乞食行為をしたとして7度も罰され、「ひどい嫌がらせと責苦」を受けたとしてポケットナイフで人を刺して、心身ともぼろぼろになって施設に引き渡されたという。

ヨハン・クニュップファー『神の子羊』

妻の差し出す酒には毒が入っていて、誰かが部屋にクロロフォルムのような煙を吹きかけ、余りに金持ち過ぎる、奴を殺さなければならないという声を耳にし、彼に向って炎の矢が放たれた。あたかもキリストのように苦しまなければならなかった。主イエスはいまや彼を頻繁に訪れ、彼はその姿をまざまざと見たという。すでに若い時から選民思想を持ち、キリストさえも彼ほど苦しんだことはないと信じていた。時折、もはや苦痛に耐えられない。すぐにでも完璧に殺してくれと請願したという。自らの妄想の世界に閉じこもり、外からのいかなる要求からもいらだった反応を示した。大規模な幻覚はなく、無数の小さな妄想体験が徐々に繋がってはいくが、決して体系化されることがなかったという。

クニュップファーの資質は内向的で物静かな、活気のない特別な才能もない人のように見えた。施設に収容されてすぐに絵を描き始めるようになり、その時のモチーフは上述のような心中にある訴えだった。『神の子羊』は極めて強い形式的な枠組みの中にあり、中心の光の環は身体がその柄となっている聖体顕示台と考えられるという。矢に射貫かれたハートが彼に強い暗示的な力を及ぼしていたことが察せられる。彼は、もはやこの力から逃れられないでいるというのである。画面上の添え書きは神託のように謎めいていた。「それは太陽のベーガ、脚から出た内部、アビ・アビア・アバ――マホメットはキリストを生み出す――」といったものである。宗教的な情念は形式的な厳格さによって、遊戯的な部分は謎めいた文章の複雑な絡みあいによって表現されている。

クニュップファー Outsider Art Museum, Amsterdam detail

後年、彼の描く絵はほとんど親戚の農場を巡るものになっていった。母方の祖父が比較的大きな屋敷の所有者として主役を演じているという。母との強い絆を感じさせる。大きな紙に鉛筆で図面が引かれ、赤、青、緑といった色鉛筆でこってりと彩色されている。描かれた各箇所には名称が書かれ、解説文も書かれている。それは仰々しい箴言で覆い尽くされるという。「蘇った者たちが足を踏み入れる登り階段のとば口――十二世代の赤い階段石――馬小屋背後の秘密に満ちた裏庭――主がソドムとゴモラのように残酷にも炎の雨を降らせる――祖父R家にある3-5の羊飼いの小屋‥‥」というわけである。

特筆すべきは彼の動物に対する愛情であった。動物たちがひしめき合っている。とりわけ、鳥たちが多く描かれるようになる。故郷の庭、少年時代にしばしば見たのであろうハトやカラス、沢山の果樹、果樹酒用に毎年搾り出される果汁といった懐かしい過去の光景が彼の心の中に浮かんでいたのは間違いないだろうとプリンツホルンは書いている。

患者の作品にみられる特徴

絵を描く患者はどのくらいいるのか。ハイデルベルク大学の当時の調査では2パーセントに満たないという。アートセラピーなど皆無であった時代である。そして、その中にすばらしい才能の持ち主がどれくらいいるかを考えれば、その割合は健常者のそれと全く同じであろうとプリンツホルンはいうのである。精神病は才能のないものを才能あるものに仕立て上げる要因ではなく、造形の素質のないものを造形活動へと催す要因でもない。ただ、潜在する創作意欲が病気によって活性化されたというほかないという。その際、強烈で独創的な作品が装飾模様や体験の描写において数多く成立していることは誰もが認めるところである。それらの作品の特徴をざっとみておきたい。

プリンツホルンコレクション 本書より
作者未詳 遊戯的ーデコレーション的絵画

1.遊戯衝動

これらの作品から導き出される一般的な特徴の一つは遊戯衝動、つまり目的に従属しない行動への高ぶり、亢進する衝動の圧倒的な支配であるという。制作する意義や目的からは自由に、そして気まぐれに制作される。多くトイレットペーパーや新聞紙などの手近な紙に描かれるのはそのためである。それゆえ個人的特性が最も直接的に現われ出ていて、創作の過程で現われる造形的な原型を、それどころか概念に束縛されない真の直観の原型さえ表出しているという。

患者は彼らに知覚可能なあらゆる「存在の隠された意味」に、そして、とりわけ「自らによって生み出されたもの」に呪縛されているという。その隠された意味を見出すように義務付けられていると言ってよいのだが、その意味付けされた解釈を今日はこう明日はこうとまるで遊戯しているように投げだしてしまうのである。患者が物に与える意味や解釈は変貌していく。物という図の意味が変われば、物の周囲の地の意味も変わるというわけだ。こうしてめくるめく世界が形成されていくのかもしれない。彼らの作品は自然な関連性が支離滅裂になっているように見えても、たいていの場合、形式や内容の統一的な法則が支配していることが分かるという。描写されているものとそこに意味されているものとは乖離していても「意味」そのものは決して欠けていないというのだ。こうした遊戯的に生まれたフォルムの意味付けが体系化されたなら、この体系の奇矯ないびつさが病的基盤から生じたものだという確かな証拠が見て取れるかもしれないとプリンツホルンは述べている。

2.増殖と氾濫

特徴の二つ目は、装飾本能とも言うべきものと関連する。多くの場合、自由に戯れながら展開される筆遣いの一貫したリズムは、慣習や教育によって圧殺されていない真の活気と躍動感があるという。フォルムという言語が増殖し、画面いっぱいに氾濫する豊かさの傾向である。紙面が許すかぎり色彩とフォルムはぶちまけられる。これが「真空恐怖」と呼ばれるものに由来するのか、野蛮な要素、量的なものへの過度の礼讃、あるいは自然で天衣無縫な要素を持つ喜びに由来するのかは判然としない。ただ、これ自体を疾患の要素と決めつけられないという。それが、なんらかの秩序を持ちえず、カオスになってしまう場合と配列、規則変化、厳格なシンメトリーといった抽象的な秩序と法則を突きつけてくる場合も少なくない。クニュップファーの『神の子羊』の作品のような場合である。それは、しばしば硬直した機械的な連続の規則性であって、リズミカルで柔軟な自由さは少ないという。

ヒエロニムス・ボス(1450頃-1516)
『愚者の舟』

3.無責任な幻想性

フォルムの一部を選ぶときの気ままさ、その結果の馬鹿さ加減を明らかに喜びながら無頓着に混ぜ合わせる恣意性には、ほかではめったに見られない抑制の欠如とまとまりのなさがある。例えば双頭のカバが靴脱ぎ台の上に鎮座する彫刻といったものである。患者にとって外界の事物が固有の価値を失い、それ自体何ものでもなくなれば、自分の心的な家政のための素材、つまり気ままな材料としてしか使われないという。しかし、そのような特徴は、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルなどの作品に容易に発見できるし、古代や中世においてグロテスクなイメージは重要な要素であったのはバルトルシャイティスの『幻想の中世』を読んでいただければわかるだろう。普通、ファンタジーなどの芸術の領域で高く評価されている特性は、世界との自閉的な没交渉と独断から生まれると言って過言でないという。それは、病気のあるなしとは関係ないのだ。

4.象徴とシンボル

プリンツホルン・コレクション  作者未詳 
アレゴリー象徴的絵画 本書より

象徴は未だに魔術的力を残しているが、興味深いのは、患者たちが象徴的フォルムを使って象徴的、装飾的構造を打ち立てようとする偏愛、そして、表象の世界を図形によって反復想起しようとする偏愛をみせることであるという。

このような表現について考える上でシンボルの問題は避けて通れない。描く人間が、どの程度伝統的なシンボルを利用するのか、どの程度新しいシンボルを生み出しているのかという問題である。伝統的シンボルの供給源は教会や民俗的な慣習、そして特別な学習である。患者たちの場合、自らの衝動と文化的な影響力との戦いが徹底して行われる時に問題はやっかいで同時に興味深いものになるという。とりわけ、エロスと宗教におけるシンボルが、健常者に比較して全く異なる規模で患者を支配していることが分かるという。

プリンツホルンは、これらの作品ではシンボルの解釈が、たとえ原作者の詳細な解説があっても不可能なのだという。それは問題の一部、外面的な側面に過ぎず、造形という事象はそれ自体が元来もっと深い問題を孕んでいるというのだ。つまり、形には患者の解釈や常識や教育によって与えられる意味とは別個な意味を担い得る力があるということなのである。この領域の形象は、厳密な意味で再現的に描写することは不可能であって、線のリズム、フォルム間の関係、色彩の象徴性が感情の体験を伝えることで象徴的にのみ表現され得るという。彼は健常者と精神病患者の造形的基盤は同じだと見なしている。誰もが意識にのぼらない要素を造形の中に持ち込んでいるということである。それが、造形にある超個人的要素ということなのだが、これは重要な指摘ではないだろうか。こうなるとプリンツホルンがイコノロジストに見えてくる。イコノロジーについてはアーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿るに書いておいた。健常者と患者の大きな差は、健常者には、いつかは自分の制作したものが受け入れられるだろうという期待が、人間との繋がりの内にあり、患者には他者との繋がりが、その意欲も能力も欠けているという点であるという。その意味で結果に「無関心」な芸術と言える。

結論と問題点から

この本に紹介されている作品は、そのほとんどが施設の住人、つまり精神病が疑いない人たちのものであり、いかなる他者からの要求なしに、患者自身の欲求から生まれた自発的な作品である。これらの患者の大多数が学校時代以外には美術の教育や絵画やスケッチなどの訓練を受けていない素人であった。そのような人たちが誰もが認めるような芸術的で魅力的な造形作品を創作することは珍しいことではない。そして、それらは、子どもたちや発展途上国といわれる国の人たち、歴史的に文明化される以前の人たちの作品、それらの作品との驚くべき類似を見せている。

『エッケ・ホモ』 作者未詳 本書より

だが、最も緊密な類似性は我々の時代(1920年前後)の芸術とのそれであろうという。ここは美術史家としてプリンツホルンの眼が生きている。この時代の芸術は、その直観とインスピレーションを熱望する中で、精神分裂症において必然的に発生する心的な態度を意識的に追求し始める。表現主義やシュルレアリスムの作品などを見ていただければよい。この時代の傾向が、分裂病の心的な生活の理解を容易にしてくれるなら、逆にこの洞察が時代の傾向を評価する助けになるかもしれないという。そこにあるのは全世界との「神秘的合一」の中心に立って不遜に豪語する個人から湧き出る創意ではなく、伝統的な世界感情の崩壊なのである。

起源が異なる芸術同士が外見的に似ている事実をどう説明してよいか分からないとプリンツホルンは嘆いている。記号、シンボル、表象が本来どのように発生したかという問題は未解決のままだというのだ。この頃、フロイトのトーテムやユングの学説は知られ始めていた。原初のイメージ(おそらく元型のこと/筆者)は大変意義深いものではあるが、系統発生論上の残痕、退化、太古の思考については避けたいという。そこには自然科学的な思考方法がある。それを乗り越えるためには心的な生活の創造的な要素がそこにあってしかるべき場所に戻って観察するしかないというのである。

自分たちの資料であるハイデルベルク・コレクション(現プリンツホルン・コレクション)と一般の造形芸術との間に境界線を引くことはできないと彼はいう。その境界は流動的であるからだ。創作力はいかなる人間にも生まれつき備わった素質である。伝統と教育はこの人間の本源的な素質を飾る装飾にすぎない。この本源的な過程では造形的な無意識の要素が純粋に具現される。この過程を研究するための資料は自分たちのコレクションが最適だろうと自信を持っている。ただ、この研究は途上にあり、その努力の焦点は創造的人間の世界感情と精神病患者のそれとの関係であるという。最近になってその最初の礎石が据えられたのであって、将来は喜びと活気に満ちた世代によっていかなる懐疑的認識をも圧倒する確信に満ちたものに取って代わられるだろうと結んでいる。

プリンツホルン『精神病者の造形』“Bildnerei Der Geisteskranken” 1922

プリンツホルンの死後、精神病者の芸術作品に関する関心は特定の芸術家を除いて薄らいでいった。そして、ナチスの政権下になると、新たに制作された患者の作品は全て廃棄処分にされ、プリンツホルンの著作を絶賛したマックス・エルンストらシュルレアリスト、モダニズムの芸術家たちの作品も「退廃芸術」の烙印を押され、作品は美術館から追われた。1940年以降は、患者たちもナチスの優生政策のために劣等人種とみなされ、プリンツホルンのコレクションに貢献した患者も20人以上が安楽死の犠牲になったといわれる。だが、ハイデルベルク精神科主任教授カール・シュナイダーがそれらの作品を「劣等遺伝子」の「証拠品」として残したのであった。こうして、ドイツ国内を巡回した「退廃芸術展」に貸し出された作品以外は、破壊をまぬがれた。プリンツホルン・コレクションは、皮肉にもこのような運命を経て生き残ったのである。

 

 

その他の参考著書

ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュット』

末永照和『評伝 ジャン・デュビュッフェ』
極めて詳細にデュビュッフェの生涯を追っている立派な著書である。

ユルギス・バルトルシャイティス『幻想の中世ⅠⅡ』

 

 

T.S.エリオット part2 『四つの四重奏』比較文学の大渦へ

T.S.エリオット(1888-1965)1923年

トマス・スターンズ・エリオットには詩人としてだけではなく、文芸批評家としての顔がある。ちょっとご紹介しておこう。『エドガー・アラン・ポーからヴァレリーへ』でポーの作品を批評している。八木敏雄編『エドガー・アランポー』からの要約であるが、書き出しはこうである。

「その作品をつぶさに調べてみると、ずさんな書き物、広い読書や深い学識に支えられていない未熟な思考、また主として経済的必要に迫らてであろうが、完全性に欠けた、さまざまな種類の思いつきの実験しか見出せないように思える。だが、これでは公平さを欠くだろう(八木敏雄 訳)。」ここから、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーというフランスの詩人たちへの影響を語っていく。ポーの影響は、英米では皆無であるのに対してフランスでは絶大だったというのである。

ポーは例外的なほどに、詩の呪文的な要素である文字通りの意味の「韻文の魔術」に鋭敏であった。その効果が我々を深い感情の奥底で揺さぶるのだ。しかし、彼は正しい音を持つ言葉を選ぶのに慎重だったが、正しい意味を持つ言葉に関してはそうではなかった。『大鴉』は、ここでやり玉に挙がっている。ポーが短い詩しか書けなかったのは単一な情調の表現を望んだからであって、それは、何故ポーの作品が少年期からまさに脱却しようとする人生の一時期に強く訴えかけるのかを説明する。「ポーの生きいきした好奇心が選び取る形態は前思春期の精神状態にある者が喜ぶようなそれである――自然や力学や超自然の驚異、暗号文やその解読、謎に迷宮、機械仕掛けのチェス・プレイヤーに奇想天外な空想飛翔‥‥(同上)」というわけだ。欠けているの知力ではなく人間全体としての成熟であるという。ここでは、逆にエリオット自身が目指そうとしているものが透けてみえるのである。

エドガー・アラン・ポー(1809-1849)1849年

そのようなポーに、ボードレールは孤独な呪われた詩人の原型を見、マラルメは韻律法に眼を開かされ、ヴァレリーは「書く自己を観察する作業」への興味をかきたてられたという。ヴァレリーは内省的批評活動を詩学に浸透させるという行為を極限まで押し進め、その極限で批評活動が詩学を破壊しはじめるという。そして、我々が持つべきはポーとヴァレリーの美学を包含しながら、かつそれを超越する美学であるというのだ。しかし、自分はそれに頭を悩ませない。何故なら詩人の理論は詩作の実際から出てくるのであって理論から生まれるのではないからだという。詩は詩人の分泌物というわけである。

そして、こう結ぶ。ボードレール、マラルメ、そして、特にヴァレリーを通してポーを眺めることによって、全体として見たポーの作品の重要性をよりいっそう確信するようになる。未来のことに言及するならヴァレリーに見られるような過剰な自意識と言葉に対する極端な敏感さや関心は、人間の精神には耐えがたく破壊的であろう。それは科学や政治・社会機構が無限に複雑化すると、ついに人間は反発を感じ、その重荷を負い続けるより原始的な苦難を受け入れたいと望むようになるのと同じではないか。それについては自分は一定の意見を持たないので、読者の判断に委ねたいとしている。ポーは落とされたり、持ち上げられたり色々なのだが、エリオットの批評が非常に知的だが冷たいとよく言われる理由は分かるような気がする。

ヴァージニア・ウルフは、エリオットのこの冷たさを面白く書いている。「‥‥『批評家たちは、僕が学があって冷たいなんていってますが、』と彼は言った、『本当はどっちでもないんです』。こう言ったところを見ると、冷たいというのは、少なくとも彼の痛い所をついているに違いないと思う。‥‥しかしエリオットっていう男はいったい何なんだろう。彼をトムって呼べるようになるのだろうか。‥‥善き心っていうものは耐えているものなのだろうか。そして、人がそれに引かれたり、それを大事にしたりするのは、こっちにも善き心があるからなのだ。もっともトムは、私の書くものには、耐えてくれないらしい、チキショウ ! (T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』八代中 他訳)」

高柳俊一『T.S.エリオットの比較文学的研究』

僕が勤めていたカトリックの学校で長く同僚として教えていた神父さんがこの夏のはじめに亡くなった。絵の好きな人で御自分もよく描いたりしていて、その作品を見せてもらったことも何度かある。寡黙な人で自分の方から色々話し出すという人ではなかったが、淋しい。亡くなってから知ったことだけれど彼は、エリオットの詩が好きだったという。それで、今回はエリオットを取りあげる気になったのである。エリオットの晩年は宗教詩というべきものに傾斜していくのだが、そこから生み出される深い表現の源は老いを見詰めていくことにあったといわれる。今回はエリオットの詩『四つの四重奏』を標的に比較文学の観点から高柳俊一さんの『T.S.エリオットの比較文学的研究』を中心にご紹介する。

高柳さんは1932年のお生まれ。上智大学文学部を卒業後、アメリカのフォーダム大学で博士号を取得。その後、ドイツのザンクト・ゲオルゲン大学で神学を研究され、カトリック司祭に叙階されている。上智大学英文科教授を務められた。主な著書に『人間と都市』『ユートピアと都市』『精神史の中の英文学』『近代文学の中のキリスト教』『T.S.エリオットの思想形成』などがある。

1914年にエリオットは奨学金を得てヨーロッパ大陸経由でロンドンに到着しオックスフォードに落ち着いた。留学生活は「無感覚」という言葉で表現されるほど憂鬱なものになっていった。それを救ってくれたのエズラ・パウンドとの交流だった。パウンドは、ヴィクトリア朝の文学観から早く抜け出して新しい詩風を作り上げようとしていて、ジェイムズ・ジョイスなどの若い作家たちを積極的に支援していた。彼は、エリオットよりも早くロンドンで活躍しはじめたアメリカ人であったが、英国とアメリカの詩人たちが協力し、互いの作品を知り、相互に影響しあうような「詩における現代的な運動」を初めて可能にしたと高柳はいう。ちょうど、西側と旧東側の作曲者たちに対するギドン・クレーメルの活躍を思わせるものがある。ただ、パウンドの場合、晩年は不遇だった。

エズラ・パウンド(1885-1972)
ロンドン時代 1913

20世紀初頭の英文学は、19世紀末以来のフランス文学の流れと批評の影響下にあって、それらを吸収発展させた結果、モダニズムの可能性が開けていった。エリオット自身もそうであった。彼は、最後の評論集『批評家を批評する』の中でパウンドの手法をこのように述べている。それはとりもなおさずその頃のモダニズム騎手としてのエリオットの立場であったろうと高柳は書いている。「パウンドの『自由詩』は韻律法の厳格な形式やいくつかの異なった規則を飽くことなく取り上げてきた詩人のみに可能なものである。‥‥パウンドの詩における自由とは、自由と規律との対立から生じる緊張状態のことである。実際そこには、厳密な韻律法による詩と自由詩という二種類の詩があるわけではない。訓練を重ねた結果、本能的に形式を操ることができるようになり、その都度の目的にふさわしい形式を操ることができる、といった熟練があるのみなのだ(高柳俊一 訳)

『荒地』は、当時パリにいたパウンドによって大幅な編集の手が加えられたのはよく知られている。エリオット自身が彼のことを「主導権を握った演出家」と呼んでいる。これによって「ぶざまに延びて混乱の極みの詩」と呼ばれた『荒地』は半分の長さになったが、パウンドはその詩に自分の言葉を付け加えることは一度としてなかったという。この編集によって『荒地』がある程度筋の通ったものになったのか、逆に論理性が切断されてコミュニケーションの欠如を招いたかは議論されてきた。おそらく、前者であったろう。

西脇順三郎は、エリオットが詩をつくる時、詩の世界としての必要なメカニズムとして異なったものを結合させて、詩の内面的な構成を全面的に作り上げる(新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』)と述べている。外面的な構成ではないのだ。それはライプニッツの言う同じ構造を繋げていく結合術とはいささか異なるし、ウィリアム・ブレイクの神話のように複数の物語の同時進行とも異なるのである。単なるコラージュとは、ちょっと違うように僕は思う。パウンドは、エリオットの詩を読んだとき、ラフォルグ的なアイロニーに「厳密な不明確さ、計算され尽くした曖昧さの使用」があることに注目していた。このメカニズムと不明確さ、あるいは曖昧さと内面的な構成のせめぎ合いは、ある種の律動を呼んでかなり手強い。冒頭のポーの批評でさえ、そのようなある種の揺れが存在する。いわば、インテリジェントに変容された文章と世俗なそれとが内的な連想によって織りあわされるために表現されたイメージは飛び地のように広がって見える。ともあれ、パウンドの力によって1922年に発表された『荒地』は、ジョイスの『ユリシーズ』と共にこの時代の代表的な作品として評価されていくことになるのである。

渡英した翌年、エリオットはヴィヴィアンという英国の女性と結婚した。今回、伝記についてはピーター・アクロイドの『T.S.エリオット』からご紹介する。表現の才があり、機知のある、女優を思わせるような人であったが、自意識が強く神経過敏になりがちなであったともいう。エリオットは銀行に勤めながら、新聞雑誌に寄稿し、自分の主幹する雑誌『クライテリオン』の編集さえした。その雑誌には友人のパウンドやハーバート・リード、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、そしてガートルード・スタインらが寄稿していた。しかし、その頃、神経衰弱と診断されて、時々仕事を休んで旅行などの休暇をとらざるを得なくなるし、彼女も病気がちでエリオットはその世話もしなければならなくなり、かなり衰弱していった。そんな頃、『荒地』は出版されるのである。

彼女は神経過敏となっていき、病気は進行していった。郊外の小さな別荘を借りて養生するようになり、休みの日や休暇にエリオットはそこを訪れたが、医療費と家賃のために経済的にも逼迫していった。詩作の炎さえも消えかかったのである。しかし、助け舟がやってくる。1925年に出版社で働くことができるようになる。だが、ヴィヴィアンはリュウマチを伴う神経痛とその後遺症、あるいは神経症が進行しはじめていて、お互いの苦悩は深まるばかりだった。結局、彼女の兄に相談し、経済的な保証をした上で居所を明かすことなく彼女との別居に踏み切ることになる。致し方なかったとはいえ、この負目はヴィヴィアンの死後まで続いたという。

1927年にエリオットが、ユニテリアンからアングロ・カトリックに改宗したことは part1で述べたが、この年、同時に英国に帰化している。1930年には『マリーナ』や『灰の水曜日』などの詩も作られたが、より新しいものを模索し始めていた。1934年に聖スティーヴン教会のチータム神父のもとで、この教会の代表委員となり、教会の財務管理やミサ中の献金集めの監督さえ行ったのである。この頃のエリオットは詩劇のための戯曲をいくつか手がけていて、舞台にかけられたものの中で『岩』や『寺院の殺人』、それにもっと後の『カクテル・パーティー』は大きな成功を収めたようだ。この頃の詩『マリーナ』から一部ご紹介するが、旧約聖書のコレヘトの言葉を思わせるようなペシミズムが滲み出ている。

‥‥
犬の歯を研ぐ者は
死に向かい
蜂鳥の栄光に輝くものは
死に向かい
飽満の淫売の館に坐す者は
死に向かい
動物の恍惚を味わう者は
死に向かい
かくて彼らは空っぽになって風化する
‥‥
(古川隆夫訳)
‥‥
Those who sharpen the tooth of the dog, meaning / Death
Those who glitter with the glory of the hummingbird, meaning / Death
Those who sit in the sty of contentment, meaning / Death
Those who suffer the ecstasy of the animals, meaning / Death
Are become unsubstantial, reduced by a wind,
‥‥

エリオットは、早くから現代作家のオリジナルな文章などほとんどが出来そこないであって、古典の輝かしい文章を変容させることが作家の使命だと思っていた。その意味ではマニエリスムの作家だと言える。彼が理想としたもの、それが、ウェルギリウスとダンテだった。ローマの声、ラテン語を代表する最高の声としてのウェルギリウス、キリスト教の教父たちに認められた『牧歌』の神秘性を持ち、ダンテが『神曲』の中で「もはやこれ以上先を見極めることのできない場所にお前は到達した」と述べた作品である。そのダンテは、自らの『神曲』をトマス・アクィナスの思想を土台に崇高なアレゴリー体系を持つ構造物、被造宇宙に対応する「神のまねび」にまで高めたという。この頃、エリオットはジャク・マリタンの新アクィナス主義を通じて、ダンテの古典主義的な秩序という理想へ再び繋がろうとした。それは『四つの四重奏』へと結実してゆくのである。

高柳は、エリオットには一種の文化的悲観論のようなものがあり、彼自身が無意識に持っていたピューリタン的な世界理解から生じたものかもしれないと述べている。そのような意識から当時のモラルというものに対する批判が生まれた。彼にとって近代の精神史は頽廃への進行であった。彼は評論『異神を追いて』の中で近現代の作家たちを攻撃し、近代そのものの価値さえ否定する。エリオットの改宗はモダニズム文学との決別であったという。こうした世俗化する流れの中でジョイスにも文学が救いであり、宗教の代用物であったとジョイスを評価している。

ジョイスの小説、『ユリシーズ』は複雑に絡み合った糸、混沌であり、絡み合うことによって膨らみ巨大なアナーキーへと成長していく神話形成であった。今日の神話形成、ポスト・ナラティヴ、神話的英雄の原型を借りるポスト・フィギュラティヴといった批評原理の先駆者としてエリオットを見ることも可能かもしれない。『荒地』と神話の関係は part1 で述べた。フレイザーの『金枝篇』はそれらの形成に大きな役割を果たしたのである。人間の生存の様相とその世界はストーリーとしてではなく神話と夢という無意識の同時性をもつ連想の集合体となる。スロップ・フライの文学の統合原理としての神話が思い浮かぶが、エリオットやジョイスの作品はこの神話解釈を通して古典化され、それに伴ってモダニズムも受け入れられていったというのは皮肉である。ジョイスの他にエリオットが評価していたもう一人の文学者がいた。それがイエイツだった。

当のイエイツ(1865-1939)は、エリオットの作品をマネの絵と比較して、自分はあの灰色がかった中間色が我慢ならないと述べ、明るい色彩や光が欲しい、そのようなエリオットの詩はシェイクスピアや聖書の翻訳者たちの末裔に加えることは出来ないとして、彼は詩人というより風刺家だと断定している。要するにエリオットの作品には感情の昂揚というものがないことに不満なのである。しかし、二人には荒廃した当時の精神風土を受け入れなければならないという共通の認識があった。エリオットはこの非神秘化された世界をすでに否定できない人生の事実として受け止め、自分の文体と言語をできるだけこの現実に近いものに煮詰めようとした時期があった。イエイツの出した答えは新しい神話の創造、世界の再神話化であったというのだ。

そして、1940年、エリオットは62歳になっていた。代表作の『四つの四重奏』が出揃う期である。60歳代にイエイツも『塔』(1928)や『螺旋階段』(1933)といった詩を残している。エリオットが気に入っていたイエイツの詩の一節がこれである。

君は、愛欲と狂気が
私の老年に寄り添ってご機嫌をとるのを、恐ろしいことだと思う。
若いときには愛欲も狂気も、それほど厄介なものではなかったが、
今、私を歌へ駆り立てるものが他にあるだろうか。
(高柳俊一訳)
You think it horrible that lust and rage
Should dance attendance upon my old age;
They were not such a plague when I was young:
What else have I to spur me into song?
” The spur,”

エリオットは、青年期から自身の「老人」を意識していたという。それは単に個人的な問題だけでなく、文明的・宇宙的な規模の問題であったと高柳は指摘している。彼の若い頃の詩『プルーフロックの恋歌』には既にこの一節があるという。

年をとる‥‥ 年をとる‥‥
ズボンの裾をまくって着るようになるだろう。
(高柳俊一訳)
I grow old‥‥ I grow old‥‥
I shall wear the bottoms of my trousers rolled.

T.S.エリオット『四つの四重奏』
四つの楽章のように構成されている詩が、「バーント・ノートン」「イースト・コウカー」「ドライ・サルヴェィジズ」「リトル・ギディング」という副題のもと四部で構成されている。

『荒地』が書かれた頃の、ヴィヴィアンとの生活、銀行での務め、そして文筆活動という多重の軋轢の中で、心理的に消耗していった自分を漁夫王(part1参照)という神話の登場人物にあてはめ、それを老人の体験という形で表現してきたとも高柳はいう。それからの歩みは『四つの四重奏』のうちの「イースト・コウカー」の中でこう纏められた。

こうして私は道のりの中ほどまで来た、二十年が過ぎ去って――
多くは無駄に過ごしてしまった二十年、二つの大戦に挟まれた歳月――
言葉をどう使うのか知ろうと努めて、‥‥
(高柳俊一訳)
So here I am, in the middle way, having had twenty years ――
Twenty years largely wasted, the years of l’entre deux guerres ――
Trying to learn to use words,‥‥

イエイツの「肉体という廃墟」「緩やかに進む血液の腐敗」「沈滞した老衰」といった表現は若者のエロスが理想化され、美そのものの象徴となって光と輝きを増していくことの相反としての肉体の表現である。イエイツもまた漁夫王ではなかったのか。若さを取り戻したいという願望と再生への確信がイエイツには内在していて、絶望とともにそれを乗り越えようとする試みが詩作であったと高柳は言う。ここに人間の死と生を超越する次元が「すべてが変わった、完全に変ってしまった。恐ろしい美が誕生したのである」という言葉と共に生まれるという。エリオットもまたそのような次元を見つめていた。若さも再生も死も生もが折り畳まれ、その一点の「時」の上でシヴァ神は踊る。相反するものの合一。エリオットは、第一部「バーント・ノートン」の中で深く美しく詠っている。長い引用になるけれど、このパートは緊密に結びついていて途中で切ることができない。

‥‥
廻る世界の静止の点に。
肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点――そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もない方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏など存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
そこにわたしたちはいたとは言えるけれど、どこかは言えない、
どれくらいの間なのかも言えない、それを時間の中に置くことになるから。
現実的欲望からの内的な自由、
行為と苦悩からの解放、しかも、まわりは
感覚の恩寵に、静止かつ動く光輝に、囲まれている。
運動のない〈止揚〉、消去のない
集中、新しい世界と古い世界が
二つながら明瞭にされ、
その半恍惚の完成と
半恐怖の解消の中で、了解される。
それでも、変わりゆく肉体の脆弱さの糸で織られた
過去と未来の連鎖が、
肉体の耐え得ぬ天国と地獄から
人類を守ってくれるのだ。
過去の時間と未来の時間は
ごくわずかの意識しか許さない。
意識するとは時間の中にいないこと、
だが、時間のなかでのみ、薔薇園での一時(ひととき)や、
はたはたと時雨の叩く四阿(あずまや)での一時、
霧の日の風吹き抜ける教会での一時が
思いだされもするのだ、過去と未来に取り込まれたまま。
時間を通してのみ時間は克服される。
(岩崎宗治訳)

‥‥
At the still point of the turning world. Neither flesh nor fleshless;
Neither from nor towards; at the still point, there the dance is,
But neither arrest nor movement. And do not call it fixity,
Where past and future are gathered. Neither movement from nor towards,
Neither ascent nor decline. Except for the point, the still point,
There would be no dance, and there is only the dance.
I can only say, there we have been: but I cannot say where.
And I cannot say, how long, for that is to place it in time.
The inner freedom from the practical desire,
The release from action and suffering, release from the inner
And the outer compulsion, yet surrounded
By a grace of sense, a white light still and moving,
Erhebung without motion, concentration
Without elimination, both a new world
And the old made explicit, understood
In the completion of its partial ecstasy,
The resolution of its partial horror.
Yet the enchainment of past and future
Woven in the weakness of the changing body,
Protects mankind from heaven and damnation
Which flesh cannot endure.
Time past and time future
Allow but a little consciousness.
To be conscious is not to be in time
But only in time can the moment in the rose-garden,
The moment in the arbour where the rain beat,
The moment in the draughty church at smokefall
Be remembered; involved with past and future.
Only through time time is conquered.

 

ミュージカル『キャツ』のポスターとエリオットの『キャッツ』

もう一つ、是非、つけ加えておきたいのは、モノトーンだとか冷たいとかいわれるエリオットが、アンドルー・ロイド・ウェバーの台本で知られるミュージカル『キャツ』の原作を書いていることだ。子供たちのための詩の絵本だがとても楽しい。1939年の作品である。副題のオポッサムおじさんは、確かパウンドがエリオットにつけたあだ名だったと思う。意外な一面が有る方が世の中は面白い。ヴィヴィアンの亡くなった後、再婚したエリオットの晩年は幸福だったようだ。

 

エリオット自身の朗読の録音もあるのだけれど、彼の『灰の水曜日』を俳優のジェレミー・アイアンズが朗読した録音があったので紹介しておきます。彼の詩を英語で聴いてみたいという人はどうぞ、いささか音楽の音が大きいのが難だけれど原詩の美しさがよく分かる。

 

このブログも100話を超えるくらいから少し変化をもたせようかと考えてきたのですが、外部の評価も良くないこともあって、来年2019年から本の紹介に特化するのをやめてエッセイ風のものも混ぜて幅を広げたいと思っています。今、一話が平均8000字くらいの量ですが、もっと短いもののほうが読みやすいのではないかと思ったりしています。勿論、面白い本があればご紹介も怠りません。これからもどうぞごひいきに。

 

 

 

 

 

 

 

 

その他の参考図書

アメリカ文学作家論選集 
『エドガー・アラン・ポー』
エリオットの他、D.H.・ロレンス、W.H.・オーデン、アレン・テートらの「ポー論」が集められている。

ピーター・アクロイド
『T.S.エリオット』
伝記として充実している。

西脇順三郎 新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』

2018年11月16日 | カテゴリー : Blog | タグ : | 投稿者 : 植田信隆

T.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリック

歌川国貞(1786-1865/三代目豊国)『鳴神』 江戸

能の『一角仙人』や歌舞伎の『鳴神』が T.S.エリオットの詩と繋がっていると言ったらエリオットファンは興がるのか、嫌がるのかどっちなのだろう。時々、非常に遠いものを結び付けてみる。ランダム・リンクではないけれど遠いところへリンクを張るとスモール・ワールドを作れるらしい。

『鳴神』は初代の市川團十郎に端を発し、七代目團十郎によって歌舞伎十八番に選ばれた。鳴神(なるかみ)上人が世継ぎのない帝のために皇子誕生の願をかけ成就させるのだが、寺院建立の約束を反故にされたため龍神を滝壺に封印して国中を旱魃にしてしまう。そこで宮廷一の美女である雲の絶間が送り込まれて上人を籠絡し、滝壺の注連縄を切って龍神を解放するという話になっている。

『一角仙人』の方は、天竺の波羅奈(はらな)国での話。鹿のつるむのを見た仙人が思わず漏精し、そのしずくの掛った草の葉を食べた雌鹿が額に一つの角のある人の子を産む。その子は神通力を得て一角仙人となったが、ある日濡れた山道で足を滑らせて癇癪を起こし、雨の原因である龍王をことごとく岩屋に閉じ込めてしまい、天の下を旱魃にしてしまう。王国の智臣が宮廷一の美女である扇陀女(せんだにょ)と五百人の美人を一角仙人のもとに送った。淫欲に染まった仙人は神通力を失って、ついに身罷(みまか)り、龍王たちは解放されるという話が『今昔物語』や『太平記』にある。ここから一角獣の話に繋がっても面白いのだけれど、今回は見送ります。その話をもとにした能は金春禅鳳(こんぱる ぜんぽう)作で、一角仙人が扇陀女の舞にみとれて一緒に相舞(あいまい)するのが見どころになっているようだ。僕はまだ見ていない。見たい !

ジェシー・L・ウェストン(1850-1928)
『祭祀からロマンスへ』

それが、一体エリオットの詩と何の関係があるかというと話は長いのである。エズラ・パウンドやイエイツ、アーサー・ウェイリーが一時期没頭していた能の「謡」との関係は、エリオットにはほとんどないようで、インド思想と関連している。彼を一躍、詩壇の檜舞台に押し上げた作品といえば『荒地』なのであるが、この作品の注にはわざわざ文化人類学者であるジェシー・ウェストンの『祭祀からロマンスへ』という著作が発想のもとになっていると書かれていた。この著作は、聖杯伝説が古代のギリシア・オリエントの祭祀や秘儀と関わっていることをJ.G.フレイザーの『金枝篇』やレオポルド・フォン・シュレーダーの『リグ・ヴェーダと笑劇』などの説を交えて詳述している。

その中に古代インドの叙事詩であるバラタ族の物語『マハーバーラタ』もあって、リシュヤシュリンガの物語が紹介されている。「カモシカの角を持つ者」の意味だが、仏教説話では「一角仙人」と呼ばれるようになる。聖仙ヴィバーンダカが苦行の後、湖で沐浴をしていると天界一の美女と謳われたアプサラスとウルヴァーシーの姿を見て漏精し、その水を梵天の命(めい)で牝鹿に変身したウルヴァーシーが飲んで額に小さな角のあるリシュヤシュリンガを生んだ。ここまでは「一角仙人」の話に近い。

彼は父のヴィヴァーンダカと二人だけで森の中で苦行に励み、若き婆羅門に育った。隣国ではローマパーダ王が婆羅門を騙したために、すべての婆羅門に見捨てられ祭祀がとり行えなくなり、インドラの怒りに触れて大旱魃が起こった。それを除くためには一点の汚れもない聖なる婆羅門であるリシュヤシュリンガをこの国に連れてこなければならない。王の命を受けた年老いた娼婦が、自分の美しい娘と数人の美女を心地よい庵とうつくしい花々、人口の樹に種々の果物を乗せた船とともに彼のもとに送る。父の留守に娘はリシュヤシュリンガに接近するのだ。彼は、父以外の人間に初めて出会った。それも、とびきりの美女だったのである。父は悪魔の誘惑であることを警告するが、娘はまんまと彼を船に乗せ旱魃の国へと向かった。すると王国は黒雲に覆われて盛大に雨が降り始め、王は自分の娘を若者に妻として与えるという話になっている。

結婚の儀礼が〈豊饒〉祭祀の一部をなしているという分けなのである。そして、それは水の解放と大地の豊饒という神話の一例となっている。儀礼の効能が高まるかどうかは司宰者が儀礼に先立って如何に貞節を厳守するかによるという。一角仙人や鳴神の劇は、この『マハーバーラタ』の豊饒祭祀の話が『ジャータカ』などの仏教説話に取り込まれ、『今昔物語』などで紹介されるに及んで生まれたと推測できる。しかし、意外にもウェストンは「聖杯伝説」との関連を指摘するのである。

トマス・スターンズ・エリオットは1888年アメリカはミズリー州セントルイスに生まれた。伝記については、T.S.マシューズの『評伝T.S.エリオット』からご紹介する。父方の祖父であるウィリアムはユニテリアン派の聖職者であり、植民地時代からアメリカ市民生活における指導的な役割を担ってきた家系の出身といわれている。このセントルイスに教会を建て、セントルイス・ワシントン大学の創立に尽力し、後にその総長となる。教育にも熱心な人であり、奴隷制の廃止も粘り強く主張した人だった。時には詩を書くこともある軽妙な文筆家であったという。ユニテリアンについてはエミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で触れておいた。

父親のヘンリーはユニテリアンの牧師を継ぐことなくあっさり実業家になった。しかし、ユニテリアンの信仰を持ち続け、禁酒と禁煙を守る模範的市民だったといわれる。母はニューイングランド出身でセントルイスの師範学校で教師をしていた人だった。詩を書くことが念願であったという。トマスはその七番目の子供で、一番上の姉とは19歳の年の開きがあった。末っ子として猫可愛がりされたのは想像に難くない。幼いトマスは本好きであったが、彼が読むことを許されない「俗悪書」があったようで、それが『トム・ソーヤ』と『ハックスベリ・フィン』であったという。気の毒な ! 後年エリオットは「幼い頃あれを読んでさえいたらと思う。今はどうしても批評家の眼で読んでしまう」と嘆いたという。

1906年ハーヴァードの学生となったエリオットは、ダンテの『神曲』をイタリア語で口ずさみながら三年間で文学士の資格を得ている。その頃、ハーヴァードの教授には孔子好きのフランス文学者アーヴィング・バビットと哲学者のバートランド・ラッセルがいた。この二人からの影響は大きかったようだ。バビットを通じてフランスの象徴派の詩人たちを知る。一方で独自にラフォルグのことを知ったエリオットは、彼の詩集全三巻を取り寄せた。ラフォルグは中原中也を魅惑した詩人でもあるが、エリオットは彼の詩集を読んだ最初のアメリカ人ではないかといわれている。フランスへの憧れが彼をパリへと一年間遊学させることになる。そこでベルグソンの講義を聴講した。

しかし、特筆すべきは大学院時代二年間サンスクリットを一年間パタンジャリを研究したことだった。パタンジャリに迷いブッダにしびれていたのだ。『荒地』には『ウパニシャッド』や、いわゆる南伝仏教経典である『スッタニパータ』の内容が見られるという(柴田多賀治『エリオットとインド思想』)。分かりやすい例で言えば『荒地』の最終連において三度繰り返される言葉「シャンティ」がある。これは、『ウパニシャッド』にみられる結語で、反復されて使われる「知的な理解を超える平安」を意味する言葉といわれている。

ヨーロッパの偉大な哲学者のほとんどが小学生にみえてくる、そんなインド哲学者が追求していた問題、それを理解しようとすれば、アメリカ人、あるいはヨーロッパ人としての思考や感性を忘れ去るほかないとエリオットは書いている(『異神を追いて』)。若き日に東洋の神秘的な哲学思想の洗礼を受けたのである。その彼がヨーロッパの古代にも眼を向けたことは容易に想像できるのではないか。エリオットを可愛がっていた長姉のエイダは、彼が「人間関係」から引きこもり、現実の中ではただ「演技する生活」になって心の奥底の神秘主義にはまり込んでいくことを危惧していたという(アクロイド『T.S.エリオット』)。彼には神秘主義への秘めた憧れがあった。

『エリオット評論選集』「異神を追いて」収載

『リグ・ヴェーダ』賛歌において、雷神インドラは悪龍ヴリトラを退治し、七つの大河を解放する。「水の解放」と「大地の豊饒」が言祝がれるのである。『金枝篇』によると、シュメール・バビロニアの生命原理神タムムズ(タンムーズ)の死は植物を枯らし動物や人の死を呼ぶが、女神イシュタルが冥界に下ることによって年の半分を地上に帰還できるようになる。フェニキアからギリシアに広がった古代祭祀の特徴を色濃く残す植物神アドーニスの祭祀は、アプロディーテーに愛された美少年アドーニスの物語としてギリシア神話で知られる。彼は、嬰児の折に冥界の女王ペルセポネーとアフロディーテーとの間で取り合いとなりゼウスの仲裁によって冥界と地上とを行き来するようになるが、成長してアフロディーテーとの狩りのさなか猪に突かれて死ぬ。その祭祀は、傷あるいは死によって神のもたらす生殖力が停止ないし休止することを意味し、その復活を祈る儀礼と考えられている。フェニキアにおけるアドーニスにあたるものが、現トルコ中央部であるフリギアにおけるアッティスであった。アッティスは穀物神であり、小麦の刈入れられる春あるいは夏にひき臼で挽かれて死に、それにかたどられた人形は哀哭とともに水に投げ捨てられ、次の年の復活が祈念された。エジプトではそれがオシリスにあたる。

『荒地』の冒頭「四月は最も残酷な月」もむべなるかなである。第一次大戦が勃発した1914年に大陸経由でロンドンに渡ったエリオットだが、この作品は大戦の終結した4年後の1922年に発表された。大戦後の荒廃と混乱を詠った詩として注目されたのだが、それだけではないのである。古代祭祀イメージを当時の常況の中に滑り込ませているのだ。これがモダニズムの手法なのだが、エリオットの『荒地』の冒頭部分をご紹介したい。エリオットは1914年に南ドイツのバイエルンでウィーン出身の作家ホフマンスタールの作品を読んでいる。文学上の問題については次回 part2 で述べる予定です。この詩にでてくるシュタルンべルク湖は南ドイツにあり、ルートヴィッヒ二世の水死体が発見された所として知られている。王の死 !

Ⅰ 死者の埋葬

四月は最も残酷な月、リラの花を
凍土の中から目覚めさせ、記憶と
欲望をないまぜにし、春の雨で
生気のない根をふるい立たせる。
冬はぼくたちを暖かくまもり、大地を
忘却の雪で覆い、乾いた
球根で、小さな命を養ってくれた
夏がぼくたちを驚かせた、シュタルンベルク胡を渡ってきたのだ。
夕立があった。ぼくたちは柱廊で雨宿りをして
それから、日差しの中をホーフガルテンに行って
コーヒーを飲み、一時間ほど話をした。
ワタシハロシア人ジャナイノ。リトアニア生マレノ生粋ノドイツ人ナノ。
そう、わたしたち、子どものころ大公の城に滞在して、
従兄なのよ、彼がわたしを外につれ出して橇(そり)にのせたの。
こわかったわ。彼が「マリー、
マリー、しっかりつかまって」って言って、滑り降りたの。
山国にいると、とっても解放された気分になれます。
夜はたいてい本を読んで、冬になると南へ行きます。

(岩崎宗治 訳)

THE BURIAL OF THE DEAD

APRIL is the cruellest month, breeding
Lilacs out of the dead land, mixing
Memory and desire, stirring
Dull roots with spring rain.
Winter kept us warm, covering
Earth in forgetful snow, feeding
A little life with dried tubers.
Summer surprised us, coming over the Starnbergersee
With a shower of rain; we stopped in the colonnade,
And went on in sunlight, into the Hofgarten,
And drank coffee, and talked for an hour.
Bin gar keine Russin, stamm’ aus Litauen, echt deutsch.
And when we were children, staying at the archduke’s,
My cousin’s, he took me out on a sled,
And I was frightened. He said, Marie,
Marie, hold on tight. And down we went.
In the mountains, there you feel free.
I read, much of the night, and go south in the winter.

 

ジャン・フラピエ『アーサー王物語とクレチヤン・ド・トロワ』
アーサー王伝説の原型を知る上で貴重な著作である。訳者も述べているが、クレチヤンの著作で日本語訳された本はない。この解説書だけが存在している。惜しい。1988年刊

ウェストンの『祭祀からロマンスへ』では、インドやオリエントに伝わる古(いにしえ)の豊饒神話とケルトのアーサー王伝説が結びついて聖杯物語が成立したと考えられている。もともとキリスト教起源の話ではないという。ジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯伝説はウェールズかノルマンディー近くのアルモニカ出身であったジョフロワ・ド・モンムートが1136年に書いた『ブリタニア王列伝』に端を発するという。それをもとに、フランスの詩人クレチヤン・ド・トロワが大ブルターニュと呼ばれたブリテン島と大陸にある小ブルターニュと呼ばれた地域に残るケルトの伝承を参考にロマンス(物語)にした。こうして『聖杯物語あるいはペルスヴァル』などのアーサー王にまつわる物語が12世紀終わり頃に書かれる。13世紀初頭には、同じくフランス人ロベール・ド・ボロンの『アリマタヤのヨセフ』、続いてドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』などが書かれていて、かなりのヴァリエーションがあることが知られている。このエッシェンバッハの作が後にワーグナーによって楽劇『パルジファル』となるのは皆さんご存じだろう。

「聖杯伝説」における初期のテキストにおいて聖杯城は海上か海辺、あるいは河川の岸辺にあり、聖杯のその最後の在りかは島の修道院なのである。漁夫王が衰弱すると国土は旱魃に苦しみ、多くの民も死ぬ。国土の豊饒とその繁栄は単なる人間ではなく神聖な王の生命と活力に依存している。国土の荒廃は、ぺルスヴァルが聖杯と血をしたたらせる槍とは何かと問いを発しなかったことによるのではなく、王の病気あるいは体の障害から来るものであることをウェストンは確認した。ペルスヴァルの過失とは、問いを発しなかったために王を救えなかったことにある。彼は、聖杯城をもう一度探す旅に出るのである。そのために国土は “The Waste Land “、荒廃国、つまり『荒地』から解放されることがなかった。その詩『荒地』の「雷が言ったこと」から第5連をご紹介する。

 

ガンジスの水位は下がり、群葉は萎れ
雨を待っていた。黒い雲が
遠く、ヒマラヤ山脈の上に湧き出た。
ジャングルは蹲(うず)くまり、静かに身をかがめていた。
そのとき、雷が言った
DA
ダッタ――与えよ。我々は何を与えたか?
友よ、熱い血が心臓を揺さぶり
一瞬身を任せるあの盲進
古老の分別も引き戻すことはできない
これによって、これによってのみ、われわれは存在してきたのだ
それは新聞の死亡広告欄にも見られず
善意の蜘蛛の巣が覆いかくしてくれる回想録にも
人気のない部屋で痩せた公証人の開く遺言状にも
現われはしない
DA
ダヤヅワム――相憐れめ。わたしはただ一度だけ鍵が
回される音を聞いた、ただ一度だけ
われわれは鍵のことを思う、めいめい自分の独房にいて
鍵のことを思いつつ、めいめいの独房を確認する
ただ日暮れどき、霊気にも似た幽かな声が
一瞬、虐殺されたコリオレイナスを甦らせる
DA
ダミヤタ――己を制せよ。船は従った
楽しげに、帆と櫂に熟達した人の手に
海は凪いでいた。もし誘われれば、きみの心も快く
応じたことだろう、指図する者の手の動きに
従順に鼓動して

(岩崎宗治 訳)

Ganga was sunken, and the limp leaves
Waited for rain, while the black clouds
Gathered far distant, over Himavant.
The jungle crouched, humped in silence.
Then spoke the thunder
DA
Datta: what have we given?
My friend, blood shaking my heart
The awful daring of a moment’s surrender
Which an age of prudence can never retract
By this, and this only, we have existed
Which is not to be found in our obituaries
Or in memories draped by the beneficent spider
Or under seals broken by the lean solicitor
In our empty rooms
DA
Dayadhvam: I have heard the key
Turn in the door once and turn once only
We think of the key, each in his prison
Thinking of the key, each confirms a prison
Only at nightfall, aetherial rumours
Revive for a moment a broken Coriolanus
DA
Damyata: The boat responded
Gaily, to the hand expert with sail and oar
The sea was calm, your heart would have responded
Gaily, when invited, beating obedient
To controlling hands

 

DAは雷の音、ダッタ、ダヤヅワム、ダミヤタはサンスクリット語で、――でそれぞれ結ばれた隣の言葉がその意味である。三つのDAで分けられた四つのパートの内、二つ目の「友よ、熱い心臓を‥‥」で始まる部分は性の禁忌を侵したことを暗示してはいないだろうか。コリオレイナスはシェイクスピアが書いた最後の悲劇の主人公である。

T.S.エリオット『荒地』岩崎訳がすばらしい。

ウェストンは、キリスト教の儀礼の中核を求められるとするなら「礼拝者がたんに象徴的にだけでなく、実際にその分け前にあずかり、神と一体になることで、永遠の生命の確証を得る聖餐式の聖食であると言ってはならないだろうか(丸子哲雄 訳)」と述べている。フリギアにおけるアッティスの母、つまり大地母神キュベレーに捧げられた銘板には魚と杯がみられるという。さきほどのジャン・フラピエの『アーサ―王物語とクレチヤン・ド・トロワ』によれば、聖杯と訳された「グラール」とは、当時、かなりの大きさの窪んだ平皿を指していたという。それはケルトに伝わる富と豊饒のをもたらす魔法の器であったのだ。水と豊饒の関係を示す象徴でもある。ボロンの『アリマタヤのヨセフ』では、ヨセフの義兄弟ブロンズが捕ってくる魚が食卓の片側に聖杯がその反対側に置かれる。食卓に着いたものは「大いなる心地よさ」と「心の満足」を得たという。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハでは、食卓にいる者一人一人に欲しい料理と飲み物が聖杯によってもたらされる。魚とは呑み込もうとする貧欲さの考えられうる千姿万態であるとユングは書いていたが、聖杯は逆に惜しみなく与える器なのである。ちなみに魚とキリスト教との関連はカール・グスタフ・ユング 『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に述べておいた。

カトリックとプロテスタントを分ける重要な要素はミサの有無であろう。カトリックの典礼に聖餐式の聖食という要素があるのは確かである。ウェストンはユダヤ人には安息日に魚を食べる習慣があり、その習慣は初期キリスト教に引き継がれ、魚、パン、葡萄酒による聖餐式が行われたという。1927年にエリオットがカトリックに改宗した理由がここらあたりに見いだされるかもしれないと僕は思う。何かを直感した。古代の再生儀礼と深く関わるカトリックのこの典礼に計り知ることのできない何かをである。伝統と正統を重視し、それらは相互補完的だとする立場にあるエリオットはこう書いている。「我々は世界を見るに際して、キリスト教の教父たちのような世界の見方を知る必要がある。そして、根源にたどりつくことの目的は、より大きな精神的知識をもって我々自身の状況に戻ってこられるようになることである(『キリスト教社会の理念』高柳俊一 訳)。」

高柳俊一『TSエリオットの比較文学的研究』

しかし、何故エリオットは、ローマカトリックではなくアングロカトリック、つまり英国国教会における初代教会との繋がりと典礼を重視する宗派に改宗したのだろうか。コモンセンスが重要だったのだろうか。ヒントは、彼が主幹していた『クライテリオン』誌に掲載された「論壇」の中の文章にあるようだ。英国はラテン文化とゲルマン文化双方の要素を共有して、二つの文化の懸け橋となっている。ローマ帝国がそうであったように、かつて英国も世界に広がる帝国であった。それゆえ、ヨーロッパのみならずヨーロッパとその他の世界を結びつけることができると考えた。第一次大戦を経験した者にとってそれは切実な問題であったろう。確かにローマ帝国からキリスト教的西欧としての神聖帝国は生まれた。しかし、文化再興の原動力として英国にそれを期待するのはすでに時代錯誤であったのではないか。もはや、世界の主導権は英国の手から滑り落ちていたのである。

高柳俊一は『T.S.エリオットの比較文学研究』の中でこうのべている。エリオットは、内にアメリカ生まれの知識人の不安定さを抱えながら、一方で現実には存在しない理念としての英国の文化伝統の理想を掲げて、自らそれと同一化していった。しかし、他方では、現実の英国が島国的で、ヨーロッパ大陸の伝統から切り離されていることを嘆いていた。このことは、彼自身の心的な不安定さを克服しようとする内的な圧力と理念と現実との複雑な絡みあいを考え併せて、初めて理解できることだという。そこには、文化の理想として西欧文化をより普遍的なものにしようとする無意識の傾向すら認められるというのである。彼にとって英国とは聖杯城だったのかもしれないのである。

 

その他の文献

T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』

J.G.フレイザー『金枝篇』第五巻
第四部―アドニス、アッティス、オシリス―
神成利男訳 国書刊行会

 

マハーバーラタ 第二巻 森の巻
「角のある聖仙の話」収載

西谷啓治『正法眼蔵講話』世界とは何かを知る

梁楷  澤畔(さわぐり)行吟図  団扇 部分  宋

太陽山楷和尚衆に示していわく「青山常に運歩し、石女夜児を生む」

雲門匡真(うんもん きょうしん)大師いわく「東山水上を行く」

良寛(1758-1831)は越後の出雲崎に名主の長男として生まれた。名家である。11歳の時、大森子陽の狭川(きょうせん)塾で儒学を学び名主見習いとなったが出奔、隣町の光照寺で出家、やがて、10数年の長きを備中玉島の円通寺に国仙和尚のもとで修行することになる。曹洞宗の禅寺である。

良寛は親しく道元の語録に接していた。『読永平録』という詩が残されている。当時、『正法眼蔵』は、今日のように一般に流布されておらず、写本のみが秘蔵されていた。彼が読んだのは『正法眼蔵』説もあるけれど、この詩に関しては『永平広録』か『永平略録』であったろう。良寛はこのように書いている。

春夜 蒼茫たり二三更
春雨 雪に和して庭竹に灑(そそ)ぐ
寂寥を慰めんと欲して良(まこと)に由(よし)無く
暗裏模索す 永平録
明窓の下 几案の頭(ほとり)
香を焼(た)き燈を点じて静かに披読(そどく)す
身心脱落して只だ貞実のみ
‥‥
五百年来 塵埃に委(まか)せしは
職(もと)より是れ法を択ぶの眼無き由る
滔々として皆な是れなり 誰れか為に挙する
古を慕い今に感じて心曲を労す
一夜燈前 涙留まらず
湿(うるお)い尽くす 永平古仏録
‥‥

しかし、良寛の遺墨には正法眼蔵の巻名を羅列したものがあるらしく、『正法眼蔵』を読んでいた可能性もある。嗣法の乱れが、卍山道白(まんざんどうはく/1636-1715)らの宗統復古運動を呼び起こした。それについては一碗 茶・チャ・ちゃ 最終回 売茶翁と煎ちゃで少し触れておいた。こうした流れの中で永平寺五十世の玄透即中(げんとうそくちゅう/1729-1807)による『正法眼蔵』95巻本の出版事業が道元の五百五十回忌に因んで計画され、享和二年(1802)に「本山版」として刊行されている(大谷哲夫『道元読み解き事典』)。『正法眼蔵』の75巻に色々付け加えられ、整理されたものが95巻本である。良寛が『正法眼蔵』を読んだとすれば、40歳半ば以降ということになるのではないか。

良や 愚の如く 道 転(うた)た寛(ひろ)し、
騰々(とうとう)任運(にんうん) 誰を得てか看(み)せしめん。
為(ため)に附(ふ)す 山形の爛藤(らんとう)の杖、
到る処 壁間(へきかん)に午睡(ごすい) 閑(しず)かならん。
(水月老衲仙大忍)

国仙和尚は良寛に上のような印可の偈を与え、良寛は30半ばにして寺を出て40前後まで諸国を旅することになる。故郷近くに戻っていた頃、円通寺の典座(てんぞ)であった仙桂の訃報を知らされる。典座とは、禅宗寺院の食事係である。容貌は古の僧のようであり、言葉少なく飾らず、ゆったりと話す人であり菜園を作り食事を作り続けた。それは真の道者の姿だったと追悼の詩を残している。

秋月龍珉『道元禅師の「典座教訓」を読む』

典座とはどのようなものなのか、その真の姿を自覚したのは他ならぬ道元自身であった。日本では、それがどのようなものなのか全く理解されていなかったのである。彼は典座のような労働に真の修行の一端を見た。それで、帰国後『典座教訓』という心得を書くのである。

1223年の四月、明全とともに宋に着いた道元は、しばらくその船に留まっていた。翌五月、そこに禅宗五山の一つである阿育王山の年老いた典座が椎茸を求めに来る。20数キロの道のりを歩いて来たという。日本産の干し椎茸は美味で知られていた。端午の節句が近いから修行僧たちにご馳走するのだという。

道元は「あなたのような年齢で典座のような煩わしい仕事を何故なさるのです。座禅し、公案を参究されればよろしいのに」と言った。泊まって行けという道元の誘いに「外国の人、あなたは、まだ弁道のなんたるかをお解りでない」という。道元は恥ずかしさを覚えて「どのようなものが文字なのか。どのようなものが弁道ですか」と聞いた。すると老典座は「もし、その質問の意味するところとすれ違わないなら、それが文字を知り、弁道を体得した人というものです」と答えて、納得がいかなければ阿育王山においでなさいという言葉を残して急ぎ帰っていった。

同年の七月、道元が天童山・景徳寺で無際了派(むさいりょうは)のもとで修行していた時、その老典座がわざわざ訪ねに来てくれた。道元は感激して再び問うた。

道元「いかなるものが文字なのですか」
典座「一二三四五」
道元「いかなるものが弁道ですか」
典座「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう/あまねく世界は今まで何も隠していない)」
道元は自分が少々文字の何たるかを知り弁道の何たるかを了ったのは実にあの老典座のお蔭であったと述懐している。

西谷啓治(1900-1990)

さて、今回のテーマは実はこの「文字」と「あまねく世界」なのである。前回ご紹介した西有穆山『正法眼蔵啓迪(けいてき)』開山のお示しじゃ! を補足するものなので、まだお読みでない方は是非そちらを読んでからご覧くださればと思う。そこで少し、ご紹介した西谷啓治(にしたに けいじ)さんの『正法眼蔵講話』からご紹介したい。

西谷は1900年、明治三十三年石川県鳳至(ほうし)郡 宇出津(うつし)に生まれる。父は呉服商だった。小学校に上がると両親と共に東京に転居。中学時代に父親を亡くし、自らも病気の為一年高校進学が遅れる。後に京都大学哲学科へ進むのだが、たまたま書店で手に取った西田幾多郎の『思索と経験』を読んだことによる影響が大きかったと言われる。それは「自分よりも自分に近いもの」との出会いであったという。自分を登高に誘うもの、自分自身の道になるものの発見であった。京都大学で西田幾多郎、田辺元に学んだ。ばりばりの京都学派である。とりわけその著書『宗教とは何か』は英語やドイツ語に翻訳され大きな反響を呼んだ。彼の『正法眼蔵講話』は和辻哲郎や田辺元の道元理解を現在に引き継ぐものとして重要なものではないだろうか。

僕は思うのだけれど言葉とは分けることである。言分(ことわ)けすれば言割り(理)になる。仏と言えば仏とそうでないものに分けられる。衆生といえば、それとそうでないものに分けられる。つまり、その連続が「一二三四五」です。禅は、教外別伝(きょうげべつでん)と言って、教えから離れて、生きた働きから生きた働きへと法を伝えていく。何故言葉の世界を禅が嫌ってきたかといえば。分けられない世界を分割してきたからではないか。見方を変えるとレヴィ=ストロースの『神話論理』からメルロ=ポンティが出した結論のようなもの、すなわち、言葉は世界にならって作られたのではなく、言葉によって世界が作られたとも言える。それなら、世界はマーヤ(幻影)のようなものではないだろうか。交通法規を作っておいて、それに従って人間が行動する世界、世界はそのように言葉によって限定されてきたと考えられなくもない。そんなロジックな世界を嫌った。だが、道元は言葉の力を信じている。そうでなければ『正法眼蔵』75巻はいったい何なのだと問われる。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

『正法眼蔵』の「山水経」巻には、道元の言葉に対するこだわりの一端を見ることができる。西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師は『正法眼蔵啓迪』の中でこう書いている。青山は常に運歩する。それが分からぬ奴には人間の常運歩は分からぬ。念々起滅し、昼夜に流れ通しに流れている刹那滅には、とんと心づかずにいる。「青山常運歩」と「東山水上行」は同じことであると。これを無理会話(むりえわ)、つまり理解不能な言葉と見なすような輩は魔子六群禿子だと道元は罵っている。仏祖の悟りを示すものは究極的に言葉ではないと言うのが禅に限らず仏教の立場である。だが、道元は仏祖には理会話、つまり、理路を示す方法があるという。念願の語句というものがあり、語句が念慮透脱することを知れという。西谷は道元が禅の立場をそのまま押し進めながら教学としての思想を同時に押し進めてきたという。それが、『正法眼蔵』を中国・日本を問わず独自なものにしているというのである。

プラトンのイデア論には多様な円のイデアとして真の円という概念がある。本当の人間は「人間」のイデアであり、それぞれの人間は一種の断片、影にすぎないと考えた。誰それは人間である。これは本である。机である。そういうところから出発して、それらがあるとは何かと問いかけたところにイデアの思想が現われたと西谷はいう。不完全であっても人間と呼べるのは「人間」のイデアを分有(participate)しているからである。そういうイデアの本質、つまり神に向って完成していくという倫理的な意味においてもプラトンの思想は大きな意味を持っていた。それが、キリスト教における「神化/テオーシス」に影響を与えることになる。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

これに対して道元と師の如淨との問答で表れているのはパーティシペイションというだけではないという。一つ一つが集まった全ては仏法の世界の中にある。「身心脱落(しんじんとつらく)」とは自分の身や心が抜け落ちることだけれど、自分の心身だけを問題にすると心理学的な範疇を出なくなる。そこで西谷は一切の身、一切の心を考えてはどうかという。それは現実にあるものだけでなく、遠い過去の、あるいは遠い未来に存在する、そんな可能な全てということを考えてよい。あらゆるものが存在している。そのための本質的な必要条件としての存在の場を考え、それが脱落することであるという。カントのいうあらゆる経験の対象の先験的可能性と言い換えてもよい。いわゆる心というものが成立する場が破られ、踏み越えられる。あるいは、ずり落ちる。それが「色即是空」の意味することであるという。我々の身も心も空である。それが「身心脱落、脱落身心」であるというのだ。脱落というのはそれが成立する次元が自分から脱落してゆくことだという。「身心脱落、脱落身心」このような言い換えは道元には非常に多い。近年、科学者の中にこの存在の場を捉え「場の論理」として注目してきた人もいるのだけれど、そこからちゃんとずり落ちることができただろうか。

全宇宙が刻々動いている、それに任せて自分も生きる。一つ一つのものがそれぞれ動き続けている。青山も東山も刻々絶えず新たである。その中には生も死もある。絶え間なく生まれては死ぬ、生まれてくる中から滅んでいく。そういう生死の入り混じった姿が一瞬一瞬、一刻も変わることがない。全てが変化しながら同時にいつも変わらない。新たであるためには変わらないということがなければならない。変わらないということは、絶えず新たに証しされることによって成り立つ。つまり、絶えず新たな創造的な働きにおいて証しされることが必要であると西谷はいう。

パルメニデス(BC 515-?)

ギリシアのパルメニデスという人が「一」ということを言った。永遠の存在というのはThe Oneであると。本当に存在するのは「一」そのものであって「多」は影のような現象に過ぎない。ところが「一者」を見るためには心で見る他はない。しかし、人間は「一者」の外にあって、それを対象として眺めることができない。何故なら人間は「一者」の一部に過ぎないからである。多数のものを客観的に見ている心は、分別の心であり、その「一者」を知る心とは本質的に異なるものである。それを知るためには成り切るということが必要とされるという。ここで、パルメニデスはエイナイ(在ること)とノエイン(考えること)とは一つだと言った。ハイデッガーにもそういう考え方があると西谷は言う。脱自という言葉はプロティノスに由来する。自分が自分というものからすっかり脱却した立場が本当に自分自身の故郷へ帰った姿だと。このように「一」と「多」、あるいは自己と他者という問題はパルメニデス、プロティノス、プラトンとギリシアだけとっても哲学において一貫した問題だというのである。

これを仏教でいう遍法界から見てみたい。遍法界とはあらゆるものを包んであらゆるものに行き渡っている世界である。あらゆる存在するものをひっくるめた万物万有の世界である法界にあまねく行き渡った智、それが阿耨菩提(あのくぼだい)である。それは人間の知性ではない。妙法(西有穆山『正法眼蔵啓迪』を参照)は、その世界を貫いてその中で生きて働いているものであり、対象的に掴むことのできないものである。それを知ることは、外から知るのではなく、その中から法を照らす光によって知ると言える。アウグスティヌスのいうイルミナティオを思い浮かべることもできる。しかし、法を照らす光もまた法であり、法と智とは分けることができない。それを何で証するかといえば自分がその智によって目ざめさせられる、自分が何たるかを知る者になった、つまり自覚したということであると西谷は言うのである。仏教の場合、とりわけ本覚の場合、その智は同時に本来自性心、つまり、それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それは有為によってではなく無為によって自ずから知れる。それが『正法眼蔵』「弁道話」巻、冒頭の「阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり」の意味である。こうして人は、「徧界不曾蔵(へんかいふそんぞう)」つまり、あまねく世界は今まで何も隠していないということを知る。

では、この法界という、いわば The One と個々に石がある水がある、桶があるとはどういう関係なのか。今度はそこが問題となる。本当に石ころがあるという実相を知るのは、身心脱落の時であると考えられる。そのもののありのままの姿、ものがそこにあるということに我々が自分を投げ入れた時、ものが初めてものとして在るということの本当の意味が明かされると西谷は言う。諸仏の世界に対して事物の世界とは一応分けて考えられるが、事々物々も本来は覚りの世界に属している。石ころ一つがころがっていることは、「宇宙のあらゆる事物がそれぞれ自身である」ということと無関係に成り立っていない。人間の身体のように肺も心臓も胃も肝臓もそれぞれでありながら有機的に関係しあっている。心臓が心臓であるためには全体によって支えられていなくてはならない。心臓の働きの中には肺や肝臓も働いている。かくれた所でたがいに相即している、これを仏教では「相依相入/そうえそうにゅう」と言う。たった一音でも現在・過去・未来のすべての音に支えられている。それが一音成仏の意味である。たった一人の人でもたった一つの石ころでも無限の存在しているものと「相依相入」している。従って瓦も悟りも鏡も無二一体となる。そして、自分が悟ると言うことの中に他の覚りを助けるという意味がある。他受用三昧もあるのである。

梁楷 『月下波濤図』 部分 宋

自(おの)ずと知る。これを自受用三昧(じじゅようざんまい)という別の観点から見てみたい。自受用三昧についても西有穆山『正法眼蔵啓迪』をご覧いただきたいが、ここでの自とは他のものに対していない立場、自分に相対する如何なるものもないということである。石も水も桶もそれぞれ絶対的に個別で一二三でありながらそれぞれが絶対的な仏の世界というわけである。石なら全世界が石、水なら全世界が水、桶なら全世界が桶となる。ここを押えておかないと『正法眼蔵』はわけが分からなくなるのである。これだけ見ていると全く外界と遮断されていながらそれぞれのモナドが全ての世界を映しだしているというライプニッツのモナド論を思いださせるけれど、モナドには階層構造がある。中国の詩に「河は自ずから流れて山は自ずから緑なり(『唐詩選』)」というのがある。河はおのずから自然のままに流れ、また自ら流れている。そこには人間の意志の届かない自然というものが詠われている。河が河として自然であり、山は山で、また花は花として赤く咲く。誰も頼んだわけでもないが咲く。

ふつう人は、自己と対象を区別した中で自己を立てる。しかし、河が自ずから流れ、自ずから然りという所に人間が自ら然りということで河と一つになることもあるのではないか。自然の中に人がすっかり自己を投げ込む。この自ずからというところに自を見出せないかと西谷は問う。あらゆるものと一つで、そのものになりきるということ。つまり、三昧の世界である。そうすると河が流れるということにも自己の遊化(ゆけ)ということが出てくるのではないか。法界のあらゆる出来事は、赤ん坊が自分の指をくわえるのと同じことで、自分が自分を使う。自分が自分を証すると言ってもよい。それが一つの基礎的な姿である。他の人間が相対の世界で色々なことをする、そのことがそのまま唯仏与仏となる。そのこともまた「自受用三昧」の意味となる。こうして、自分で自分を自由にしてゆく。自というおのずからとみずからが一つになった立場、その点を突き詰めて行けば本当の自己、自己本来の面目、父母未生以前の自己、天然自性心、各人に本来具足している本心本性といった自己の立場を自覚するのではないか。それがないと「身心脱落」の「脱落」は出てこないと西谷さんはいうのである。

三昧とはそれに成り切ることである。楽器を練習していて、上手になれば楽器を意識せずに演奏できるようになる。自分が演奏しているのか楽器が演奏しているのか‥‥それさえ意識していない状態。その状態を音楽が音楽を音楽するとも言える。何でもいいのです。ゲームがゲームをゲームするということだってある。ただ、そこにあるのは子供たちの遊ぶときのあの真剣さのようなものではないだろうか。

 

毬子(きゅうし/まり)

袖裏(しゅうり)の毬子 直(あたい)千金
謂言(おもへら)く 好手にして等匹(とうひつ)無しと
可中(かちゅう)の意旨 若し相問はば
一二三四五六七

袖の中のまりは値千金
思えば 見事な手並みは並ぶものなし
そこの極意をお尋ねあらば
ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな

良寛

 

梁楷 『布袋和尚』 宋

機会があって広島市立図書館で井上ひさしの『道元の冒険』を手に取ることができた。道元をパロディ化した戯曲で1971年の出版である。パロディなのだけれど、道元の思想にかなり深い理解があるのが感じられるよい作品だと思う。こういった仕事が日本の古典でもっとあるといい。

ところで、ここのところ肩痛が完治せず、苦労しています。そういうわけで一ヶ月ほどブログはお休みしたいと思っています。次回は11月初旬にT.S.エリオットをお送りする予定です。しばらくお待ちくださいね。

 

 

 

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻

 

大谷哲夫 編著『道元読み解き事典』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』開山のお示しじゃ!

梁楷 『寒山拾得』 宋

魁夷なる異貌、風狂聖、放蕩無頼、天衣無縫‥‥

禅のお坊さんにはこんなイメージが付いて回る。しかし、道元にはそんなイメージが欠片もない。あくまで端正だ。その点、禅の修行にことさら励んだ明恵上人に通ずるところがある。道元は、一休じゃないし、白隠でもない、ましてや寒山や拾得(じっとく)、普化(ふけ)でもないのである。

  • 寒山は詩にこう書いた。

人生の塵蒙(じんもう)に在るや
恰(あたか)も盆中の蟲に似たり
終日 行くこと遶遶(じょうじょう/めぐりめぐり)たるも
その盆中を離れず
神仙は得可からず
煩悩は計るに窮まり無し
歳月 流水の如し

三界に人蠢蠢(しゅんしゅん/愚かに動き回る)
六道に人茫茫(ぼうぼう/多く)
財を貪り淫欲を愛し
心の悪しきこと豺狼(さいろう)のごとし

これなら分かりやすい。道元(1200-1253)は、かの高名な『正法眼蔵/しょうぼうげんぞう』の冒頭、つまり「弁道話」の冒頭でこのように書いている。

諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨(あのく)菩提を証するに、最上無為の妙術あり。
これはただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなわち自受用三昧(じじゅようざんまい)、その標準なり。
この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。

通り一遍読んでも何のことか分からない。明治の曹洞宗の僧侶である西有穆山(にしありぼくざん)禅師は、その講話を収めた『正法眼蔵啓迪/しょうぼうげんぞうけいてき』(以下啓迪)の中で、この冒頭の一段は、一篇の始終を数百篇熟読してみなければ分からないと書いている。啓迪とは教え導くことだ。西田幾多郎の弟子筋である西谷啓治(にしたに けいじ)は、自分など2,3度しか読んでないので分かるはずもないと書いている(正法眼蔵講話)ものの、ちゃんと解説してくださっている。この西谷さんが『正法眼蔵』の注釈を読むなら澤木興道(さわき こうどう)禅師の『正法眼蔵弁道話提唱』か、近代の曹洞宗で有名なものとして、この西有穆山禅師の『啓迪』を薦めているのだ。それは、正解だと僕は膝を打った。西谷さんについては『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時で少し触れておいた。

西有穆山(にしありぼくざん 1821-1910)
90歳の肖影

弁道とは成弁道業のことで成弁は完成すること、道業は仏道の事業のことである。仏道は無上であり、それを成し遂げる道、つまり弁道とは三昧座禅のことだという。したがって、弁道話とは座禅物語、座禅話のことだと穆山師は言うのである。だが、妙法とは何か。仏道とは阿耨菩提(あのくぼだい)の無上道のことだが、では、阿耨菩提とは何か。そして、自受用三昧とは何のことなのだろうか。

どうも、学者先生や文人たちの書く『正法眼蔵』は、あまりスッキリしたものがない。字義にこだわり過ぎるのか推測の域を出ないと自分で感じられるのかスパッとしたものがないのである。その点、この穆山師の『啓迪』は、実に小気味いい。

阿耨菩提とは上に書かれた妙法を指している。「妙法蓮華」という。それは、人の本性である。蓮華が泥の中にあって泥に染まらないように前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する。それが人の本性なのだというのである。十方三世の諸仏に決して余の仕事は無い。この妙法を蝋燭から蝋燭へと火をともすように単伝し、人の心を開明する。そこで「阿耨菩提を証する」。阿耨菩提とは無上の智慧、仏果の円満を指すのである。百千万劫の修行によって我が心田に鋼鉄の撃てど砕けぬ確証が生まれ、仏祖の恩力も借りぬ「肯心自ら許す」証拠が上がらなければならないという。「智慧がいつも、喜怒哀楽の後におるから愚痴になるのだ、智慧の方が七情の先におれば、決して動転することはない」と穆山(ぼくざん)師はいう。修行せよと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』上巻
「弁道話 摩訶般若波羅密 現成公案 一顆明珠 即心是仏 有時 山水経 心不可得」注釈

その仏果の智慧である阿耨菩提を証する方法には、「最上無為の妙術あり」という分けなのだが、無為とは無分別のことである。ああしよう、こうしようと分別しない。阿耨菩提は分別では届かない。それは無分別であるからだと穆山師は言う。人はこの阿耨菩提を合点すれば誰でも仏である。悟る者は誰でも仏であり、凡夫が伝授しても凡法には堕さない。だから、「よこしまなることなし」なのである。

何でそうなのかといえば自受用三昧、これが目印だからだという。この自受用三昧という語は、『唯識』『梵網』、あるいは洞山禅師の語にもある。ごくベッタリ言うと自とは己であり、己を受用するとは手前で手前を用いることだという。己が己を自由にしていくこと。自分の働きを自分で自由にして、自心を自心で自由にする。仏の恩も、祖師の力も天神地祇、父母師僧、山河大地、そのような恩分など決して蒙らぬ自己独立の境界、これを自受用三昧というのである。穆山師の言葉を引こう。

「達磨はこれを凝住壁観(二入四行論)といわれ開山(道元)はこれを身心脱落(しんじんとつらく)といわれる。凝住壁観という時、達磨の外に世界はない。尽界が一蒲団上じゃ。身心というも、五蘊(人の心身を構成する要素)中の色心(物・心)をいうのではない。この身心は法界の身心で、故に身心脱落という時は法界が開山の身心となりきる時である。先ずかように自己の特立、自己の徧法界、対手なしの境界を自受用三昧という。」

それは非思量の座布団なのである。この自受用三昧に遊び戯れる。学問をするとも考えるとも皆外のものを目がけるのであって自己に遊戯するのではない。何でも独りで対手なしにいる、この法楽は何がもたらすかといえば座禅である。妙法とは前念後念、念々生滅して、念々跡形なく、念々脱落する人の本性なのだ。それが無上の智慧である阿耨菩提である。阿耨菩提を証する方法には、最上無為の妙術があり、それが自受用三昧だという。無分別であること、対手なしに己が己を自由にしていくこと。対手がないから妄念の起こりようもない。それは座禅によってもたらされる。そういう座禅話、それが弁道話だと言うのである。スッキリしている。

法眼文益(885-958)唐末五代の禅僧

そこで、なんだ自受用三昧とは自分勝手にやりたいことをすることかと思った人は、人のことは言えないが自分の胸に手を当てて考えてみてください。やりたいことには対手がある。それは、自由ではない。では、己が己を自由にして「自己とはすなわち仏」と了解しきることが妙法を得たことだと思ったとしたら「目出度くも的はずれ」。「弁道話」には道元の老婆心が表れているという問答が書かれている。その中でも有数な十六問答には、「即心是仏が分かれば他に何を求める必要がある。座禅など煩わしいのではないか」という問いが提出されている。それに対して道元は法眼禅師と則監寺(そくかんす)の問答をもって答えるのである。監寺とは寺の事務を預かる役職である。

法眼禅師が、その則公という弟子にこう尋ねることから話は始まる。

法眼「お前は俺の所に来てからどれくらいになる。」
則公「三年になります。」
法眼「それは随分永いことだ。なんで俺に仏法を問はないのだ。」
則公「私は、あなたを欺いたりしません。青峰禅師のところで得心することがありました。」
ここでは、則公は無私であり正直だった。法眼は三年の間に機の熟するのを待っていたのである。どういう悟道があったのか言ってみろという。則公は青峰禅師に「いかなるかこれ学人の自己なる」と問うた。
則公「青峰禅師は『丙丁(びょうじょう)童子来りて火を求む』と答えられました。」
法眼「良い答えだが、お前は分かってはおるまい。」
則公「丙(ひのえ)丁(ひのと)は火に属します。その童子ならばみな火です。その丙丁(びょうじょう)童子が来て火を求むと言えば火をもって火を求めるということです。即ち自己をもって自己を求めるの道理です。」
これは大正解なのだが法眼はこう言って罵った。
法眼「よく分かった。お前は分かっておらぬ。そんなことなら仏法も今日まで伝わってはおらぬわ。」

法眼には初めからそうだと分かっていて則公をからかいあざけった。則公はむっとして立ち上がり出て行ったが、途中で引き返す。則公気がついたのである。師には思うところあってそう言われたに違いない。懺悔して詫びた。ここで鼻は折れて素っ裸になる。そして、こう問うた。
則公「いかなるかこれ学人の自己。」

ところがである、法眼はこう答えた。「『丙丁童子来りて火を求む』。」百雷落下するようなこの言葉の音声に則公は一撃された。穆山師は、この時、則公は全身これ独露現成したという。初めて自己即仏に成り切ったと言うのだ。以前の則公にとって「自己をもって自己を求める」ということが既に対手になってしまっていた。それでは自由とは言えない。禅とは動詞である。だから修行しなければならんだが‥‥

道元『宝慶記』
渡宋した道元が記す師・如淨への求法の記録

道元は、正治2年(1200年)、京都の久我家に庶子として生まれた。両親が誰であるかについては諸説ある。村上源氏の第六代で内大臣であった源通親(みちちか/1149-1202)、あるいはその後継の通具(みちとも/1171-1227)ではないかと言われている。後鳥羽院政期の頃のことだ。母は藤原基房(もとふさ/1144-1230)の娘というのが有力な説であり、そうなら道元は藤原北家の血筋でもあった。木曾義仲の妻であったが、再度政略結婚を強いられる。八歳の年、母が亡くなった。この母の遺言もあって早くから出家を志したと言われる。十三歳の年、比叡山に登った。奇しくも法然が八十歳で示寂した年である。翌年剃髪・得度し、天台宗の密教の方ではなく止観業(しかんごう)と呼ばれる顕教の課程を学んだ。

だが、学べば学ぶほどに頭をもたげてくる問いがあった。それが、天台本覚思想である。この天台本覚については『天台本覚思想と一心三観』に書いておいたのでここでは簡単にしか繰り返さない。無明によって迷い、目覚めていない心の状態を不覚という。不覚を徐々に打ち破って心の本源を悟るのを始覚と呼ぶ。人はそのために修行するのだが、「本覚」とは、人が初めから目覚めているとする。「本来本法性、天然自性身」を言挙げしている。それ自身絶対であるものが、完全であるものが、初めからもともとある。それが自然な自性身ならわざわざ見性成仏の必要はないのではないか。初めから目覚めているなら、「何故修行しなければならないのか」という疑問が彼を捉えて離さなくなるのである。

彼は悩み抜く。そして自分の内にではなく、外に向って答えを求めた。親戚であった三井寺の公胤(こういん)僧正に尋ねたが、要領を得ない。そこで、渡宋の経験をもつ建仁寺の栄西に会うように薦められ、その弟子明全のもとで修行することになる。明全は道元の問いにこう答えた。「三世の諸仏有ることを知らず、狸奴白牯却(りぬびゃっこかえ)って有ることを知る。」「過去・現在・未来の諸仏は知らないが、狸や白牛なら知っている」という南泉普願の語(『碧巌録』六十一則)をもって答えたのである。道元は「はぁ?」と思ったことだろう。十八歳頃のことではないかと思われる。建仁寺で修行の後、二十四歳の年にその明全とともに宋に渡り、天童山の如淨禅師のもとで参禅することになるのである。

道元は如淨への求法録とも言うべき『宝慶記』(ほうきょうき)の中で、如淨にもそのことを尋ねたことを書いている。「魚は水の中に住み冷暖を自ずから知るといいます。もし自らを知ることが仏の悟りとするなら生きとし生けるものは皆自ら知る働きを持っており、そのことを以って、はたして悟りを得た仏といえるのでしょうか」と。如淨はそれを明確に否定してこう答えた。「本来あるものでもない自分をその自分が得たと思って諸仏と比較するなどとは、真実をまだ得ないのに得たと言い、真実を実証していないのに実証したという増長慢の謗りを逃れるものではない。」ここに修証一等という実践が標榜されることになるのである。「本来あるものでもない自分」とは対手がまだある自分のことである。一時の修は一時の証となる。座禅せよと。

西谷啓治『正法眼蔵講話一』

証とは、究極に達して決着することであり、完成して故郷に在ることをいうと西谷啓治はいう。何故なら人は仏の世界の中にいるからである。それが本覚の立場だ。修とはどこまでも途中にいることである。これでもう救われたという安心が証であり、いつまでも旅の途中にあるという意識が修である。人は仏の世界にいて仏に向う。人は求め、仏に求められる。その二面が一体のことを修証一等という。我が家にいなから動詞となって進み続けることだ。そして、この本覚始覚の問題を西谷啓治は西欧思想と比較している。彼の『正法眼蔵講話』にちょっと脱線したい。

キリスト教では神の意図が一切の出来事の基礎となっている。神の摂理(プロヴィデンス)という考えである。神の永遠の立場からは、あらゆる出来事は前もって全て一挙に見通されている。人間の自由はどこにあるのか、悪は何処から現れるのか。この悪の問題は、ベーメを悩ませた。プロティノスでは「絶対の一者」が根本にあり、それと結びついた理法界ともいうべき「ヌース」の世界がある。では、悪はどうなるのか。

そういう神の摂理やヌースの世界の内にあって何故救済や信仰が必要なのか。それは「本覚ー始覚」の問題とパラレルになっているという。イデアのような絶対的なものや諸仏の本体としての永遠なもの、そのようなもののアンチテーゼとして狸や白牛の今がある。眠りが来れば眠り、空腹が来れば食べ、恐怖が来れば恐怖に成り切る。そこに対手という隙間がない。そこには生きていることの確かさ、本質がある。天然に成り切り、法に成り切っているという。狸や白牛にあるのは表面的な意味で理解される諸仏の永遠の法ではなく、積極的、実定的な形で現成される法、時間の内に働く永遠というようなものだというのである。瞬間=永遠、それが西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」、絶対否定を含んだ絶対肯定すなわち即非の論理だと。

西有穆山『正法眼蔵啓迪』中巻
「古鏡 看経 仏性 行仏威儀 神通 座禅箴」注釈

穆山(ぼくざん)師の『啓迪』に戻りたい。今度は『正法眼蔵』の「古鏡」注釈を取りあげる。この古鏡とは森羅万象を写す心の鏡のことではない。写す、写されるという関係はない。道元のいう鏡とは尽法界ただ一面の鏡なのである。山の突兀たるこれ鏡、海の満々たるこれ鏡、尽天尽地にこれに対するものはないのである。諸仏諸祖が受持し単伝するのはこの鏡だ。第十八祖の伽耶舎多尊者の誕生と共に生じた円鏡、第三十三祖の大鑑禅師の明鏡、黄帝の十二面の鏡の話など、鏡にまつわる禅話がこの「古鏡」では語られている。

その中の馬祖と南嶽との磨塼(ません)の話をご紹介して終わりたいと思う。磨塼とは瓦か材質が瓦のような床石を磨くことであるという。師の南嶽が弟子の馬祖に問う。「お前は、近頃どうしておる。」

馬祖「坐っております。」
南嶽「座禅してどうするつもりだ。」
馬祖「仏になろうと思います。」
座禅とはひたすら座ることである。ぜんたい何をすることもない。田地隠密にただ兀地(ごっち)に碍(さ)えられる、不思量底を思量することであり、只管打座(しかんたざ)する。しかし、馬祖は南嶽のもとで印可を受け、15年修行した強者である。仏になろうと思いますとぬけぬけと言ったのである。南嶽は馬祖に老婆心でちょっかいを出す。一片の甎(かわら)を持って来て馬祖の庵のほとりにあった石にこすって磨きはじめた。
馬祖「甎を磨いてどうするおつもりで。」
南嶽「磨いて鏡にしようと思う。」
馬祖「甎を磨いたら鏡になるのですか。」
南嶽「座禅したら仏になれるのか。」

この一段は、昔から身体を用いる禅だけではなく心の禅も心がけよと南嶽が馬祖を教え励ましているのだと捉えられてきた。道元はそうではないという。

「磨塼(ません)の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、座禅すみやかに座禅となる。かるがゆゑに塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる、しかあれば塼のなれる古鏡あり。この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汙なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに作鏡の功徳現成する、すなわち仏祖の工夫なり(『正法眼蔵』古鏡)」

梁楷『六祖破経』宋

甎(かわら)は決して鏡にはならない。仏になろうと座禅して仏にはなれない。磨塼とは、座禅を徹底座禅で貫くことを指していると穆山師はいう。座に入れば座で十方三世を貫く。仏も図らない。甎は甎で貫くのである。しかし、座禅は直に仏なのだともいう。ここに即非の論理がある。「馬祖が作仏する時、馬祖はすみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となる時、座禅はすみやかに座禅となる。」このゆえに作鏡の功徳が現成し、古鏡が現われる。座禅になりきることが南嶽のいう鏡だ。己を己で自由にするからである。自己の正しく自己なる時が座禅である。一時の座禅は一時の作仏であろう。六祖慧能はもと樵夫であった。それが米搗きをしていて本来無一物と磨きを入れたら大鑑高祖と現成したという。これが明鏡、つまり古鏡である。

「たれかはかることあらん、この作に作仏あり、作鏡あることを。また疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれど、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなわちこれ磨塼作鏡なるべし。いまの人も、いまの塼を拈(ねん)じ磨してこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずば、人仏になるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼もまたあるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子あることを。またたれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを(『正法眼蔵』古鏡)」

「仏を作り、鏡を作るという『作』があるということを誰が図り得るだろうか。」また、「古鏡を磨こうとして甎を磨いてはいないかと疑う必要もない。」悟りも甎も鏡も一体無二であり、古鏡のありどうしなのである。人は仏になる。人が仏になるからには塼は鏡となる。人が心あらば塼にも心ある。三界唯心の時、甎も石もみな心である。道元の表現はいよいよ彼独特なものになっていく。誰が知ろう、塼来塼現の鏡子があることを。また誰が知ろう、鏡来鏡現の鏡子あることをと道元は書いている。この言い換えは独特だ。穆山師は塼来って塼が現ずるというのはそれがそれということであるという。胡来胡現、漢来漢現では胡漢が鏡に写ることになって対手が出来てしまう。塼が現われたとは鏡=それが現われたのである。塼が鏡に写ったのではない。塼来は鏡現であり、鏡来は塼現であると言われる。これで対手がなくなる。穆山師の言葉を引こう。

「さらに『鏡来鏡現の鏡子』があると。これはまたいっそうきりつめたお言葉じゃ。鏡が現われたとは鏡が現われたことである。尽界は古鏡の千変万化で、古鏡のほかに森羅万象もない。塼来塼現、鏡来鏡現の鏡子、これはまことに適切である。」

尽法界一面の鏡それは、すなわち法楽とは言えまいか。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり  道元

 

西有穆山禅師略歴

文政4年(1821年)に八戸に生まれる。天保3年(1832年)に地元の長竜寺で出家し、天保12年(1841年)に江戸に出て吉祥寺旃檀林学寮に入る。小田原海蔵寺月潭全竜の下で修行。東京の宗参寺、桐生の鳳仙寺を経て、横浜にある總持寺の出張所監院、本山貫首代理になる。明治33年(1900年)に横浜に西有寺を創建、翌年に總持寺貫首に選ばれる。翌明治35年(1902年)に曹洞宗管長となった。明治38年(1905年)に横浜に引退、明治43年(1910年)12月4日に遷化。

 

その他の参考図書

澤木興道全集 第七巻 『正法眼蔵講話』

西有穆山『正法眼蔵啓迪』下巻
「恁麼 海印三昧 授記 観音 阿羅漢 栢樹子 光明 身心学道 夢中説夢 画餅 説心説性 諸法実相 無情説法 生死」注釈

西谷啓治『正法眼蔵講話』第一~四巻 筑摩書房

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part2 シナジェティック幾何学と自己規律

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

バックミンスター・フラーは1895年、ニューイングランドのマサチューセッツ州ミルトンに生まれた。奴隷制廃止運動の一翼を担ったことで知られる名家の生まれで、父はボストンで輸入業を営んでいた。大叔母のマーガレット・フラーはエマスンを中心とした超越主義者の一人で、女性の権利獲得の先導者として知られた人だった。そのあたりのことは、エミリー・ディキンスン『ディキンスン詩集』part1 不滅の裏側で少しご紹介しておいた。

5歳の時、父親が亡くなる。母親は言った「坊や、何を考えたらいいかなんて思い悩むことはないのよ。いいこと? 私たちが教えてあげるから。」祖母は黄金律を教えてくれた。「汝の愛する如く汝の敵を愛せよ。汝の欲することを人にも行え(マタイ伝)。」叔父たちは、この地球上には誰もが生きていけるという保証はないのだから多くの人から生き延びるチャンスを奪わなければいけないんだと言う。大叔母のマーガレット・フラーならそんなことは言わなかっただろう。フラーは母や叔父たちが愛してくれていることが分かっていたから自分で考えることは一切注意を向けず、「人生ゲーム」を学ぶ訓練をフットボールの練習をするように行った。だが、ルールは全て誰かによって作られていた。

「この宇宙にはどんな〈個体〉も〈連続〉もないのである。われわれが扱えるのはネットワークパターンだけである。‥‥われわれはバスケットボールを連続的な表皮でできた不浸透性の〈個体〉という単体として、ゆえに球状に閉じた薄膜内部は、外部に出て行くことが気体の圧力で球形を保持できると捉えてきた。‥‥しかし、この表皮を強力な顕微鏡で見れば、結局それが連続的なフィルムてはなく、穴だらけであることに気づくはずだ。それは互いに等しく離れあった分子で構成されている。天の川のような、いわば原子の星くずのような強大なエネルギー集合体が現実に存在する。それは高分割(振動)数的エネルギー事象としての不可視な重力のように、柔軟な気球の網目を織り込んでいる〈繊維〉のもたらす張力の統合作用によってのみ互いに結合しているのである。気球は高分割数のテンセグリティ球の一例である。(B.フラー/梶川泰司 訳)」

ハーヴァード大学に進んだものの、大学のクラブの持つ階級制度に違和感を持ち始める。中間試験をサボってニューヨークのコーラスラインのメンバーを呼び、ひと騒ぎして退学になり、カナダの紡績工場で働いた。一度は許されて復学するも学費を使いこんで再び退学となった。第一次大戦が始ると海軍士官として任務にあたる。艦船と飛行機間の通信技術などの実際的な知識を学ぶことになる。

1917年、アン・ヒューレットと結婚。翌年、長女アレクサンドラが生まれるが、脊髄小児麻痺などを発症し四歳の誕生日に亡くなる。追い打ちをかけるように義父から受け継いだ新建材を製造する工場と住宅建築の会社は破産し、友人の投資は無に帰した。1927年、32歳の時、ビジネスの世界では、自分は「使い捨て」に過ぎないと感じた。自殺をしようとするほど追いつめられていた。この時、フラーにひとつの強い意識が生じる。

「体格も経験も能力も人並みで、養わなければならない妻と生まれたばかりの子供がいる健康な若い男が、資本やこれといった財産、貯金、富、信用もなく学位もない状態から始めて、宇宙船地球号に乗船しているすべての人から不本意な抑圧を取り除き、そして同時に、誰もがみんな納得のいく生き方ができるようにしながら全人類の生活の物質的保護と支えを永続的に増進するために、国や大企業にはできないことで一体何が効果的に行えるのかを発見する」ための実験をしようとすることだった。フラー自身が実験対象であった。こうして、実験動物モルモットBが誕生したのである。Bはバッキー、つまりフラーの愛称である。この年、次女アレグラが生まれている。

ここでフラーの開発した構造物などを動画で見ていただきたいと思う。その方が、これから述べるジオデシック・ドームなどを理解していただきやすいだろう。前回 part1 のダイマクションカーやウイチタハウス、ワールドゲームなども思いだしていただければよい。

5分で見るバックミンスター・フラーの世界 ”Earth’s Friendly Genius”  1983年制作

3.ジオデシック・ドーム

モントリオール・バイオスフィア 1967
(元モントリオール万博アメリカ館)

1954年フラーは〈ジオデシック・ドーム〉の特許を取得した。ジオデシック・ドームとは全方位に三角形化された構造原理によって作られたドームを指している。米国建築家協会から「人間がこれまで考案した、最強最軽量にして最も効率の優れた、空間を囲い込む手段」と評された。それは大きくなるほど強度を増し、都市全体をこのドームで覆うことも可能となる。ドームの直径を2倍にすると体積は8倍になるが表面積は4倍にしかならない。従ってドームの規模を2倍にすると一単位あたりに投入される建築資材の量は半分になり、熱効率は2倍になる。アーティファクト(人工物)に投入される単位資源あたりの性能を包括的に大きく向上させることが全人類の髙い生活水準を確保するには不可欠であるとフラーは考えていた(『コズモグラフィー』)。

1959年、フラーと実業家カイザーが共同開発した直径60メートルのジオデシック・ドームがモスクワ万博で展示され、時のソ連(現ロシア)の首相、フルシチョフの称賛を得て購入され、モスクワのソコーリキ公園に設置された。どうも、この動きにアメリカ政府は危惧と焦りを感じたらしく、フラーは1963年から1968年までNASAのアドヴァイザーとして後述するジオデシック・テンセグリティであるクラウド・ナインの開発に携わるようになるのだが大気圏をも自由に浮遊するアイデアは、大気圏外にしか興味のないNASAの反感をかったようだ(フラー+ 梶川泰司『宇宙エコロジー』)。1967年モントリオール万博のアメリカ館をまかされたフラーは、既に70歳を超えていたがこの国家プロジェクトに参画することになる。フラードームは多様な発展をみせ、日本では富士山の気象観測ドーム、イギリスのエデンプロジェクトに発展してゆく熱帯植物園を収容した直径53メートルのクライマトロン・ハウス、風速60メートルに耐えるという登山用ジオデシック・テントなどが次々と生み出されてゆく。

4.シナジェティック幾何学

正四面体 ジョイント部を稼働できるようにゴム管で接合しても自立するが、六面体は倒れてしまう。

彼は最小の構造体として4面体を考えていた。立方体や直方体の6つの辺にあたる部分を細い棒に置き換え、それらの接合部を稼働できるようにしておくと、六面体は自立できないが、正三角形を4つ持つ正4面体は自立する。それゆえ、フラーは三角形のみがあらゆる宇宙の構造的な形態を説明できると考えていた。彼のシナジェティック幾何学は三角形が基本にある。デカルトの規定した立方格子としての空間は、地球が平坦だと考えられていた時代の名残であり、宇宙時代にあっては既に時代遅れであった。正四面体の持つ四つの次元が今日の最小の次元数となるというわけである。二次元の人間にとって正三角形が四つ集まった正四面体が考察不可能であるように、部分だけ見ていては予測できないような全体としての働きがシナジーなのである。

フラーの幾何学はユークリッドのそれのように観念的なものでなく現実に即して考えられていた。詳しく知りたい方は、シナジェティック幾何学の概論である『コズモグラフィー』をご覧になるとよい。この『コズモグラフィー』の中では、シナジェティック・トポロジーという新しい概念が登場するのだが、それは、先ほどの正四面体のように接合部を稼働できるようにした立体が、ジョイン部で折り畳まれながら変形しうるというもので、例えば、フラーの共同研究者だった梶川泰司は、正十二面体のトポロジーを発見してフラーに認められることになる。それは回転しながら五重の正四面体に折り畳めるのである。その図は「正20頂点体(正十二面体のこと)モデルの対称性の破れ」と題してこの本の巻末に掲載されている。

植田信隆『不穏な原子核ベクトルモデルたち』2002-2003
梶川泰司のシナジェティック・トポロジーを参考に描いた作品

上の絵画は、梶川さんのこの正十二面体トポロジーを許可を得て僕の作品に使わせてもらったもので、ここで改めて感謝の意を表したい。『不穏な原子核ベクトルモデル』というタイトルはフラーが正四面体などの幾何学形複合体で原子核モデルを作ったことに由来している。この作品が発表された2003年は、奇しくもアメリカ軍がイラクに侵攻した年であった。

5.テンセグリティ

上左 八面体状テンセグリティ
上右 二十面体状テンセグリティ いずれも筆者制作
下左 正八面体 下右 正二十面体

シナジェティック幾何学から生まれた最も美しい構造体がテンセグリティである。テンション(張力)+ インテグリティ(統合)の造語となっている。1947年、アメリカのノースカロナイラにあったブラックマウンテン大学で、フラーは作曲家のジョン・ケージやコンテンポラリー・ダンスのマース・カニングハムらと共に教鞭を執っていた。この時、学生の一人に想像力に溢れ技術的に優れたケネス・スネルソンがやって来る。彼のアイデアを契機にジョン・モールマンやリー・ホグデンらによって新たなテンセグリティが次々に開発されるのである。テンセグリティは、金属や木材の圧縮材をステンレスワイヤーなどの張力で文字通り統合するもので、圧縮材が24本のヴェクトル平衡体状テンセグリティ、三十本、あるいは270本の球状テンセグリティというように圧縮材の数は何倍にもすることができる。例えばその圧縮材として金属製の円柱を使う場合、その直径を半分にするごとに相対的重量は8分の1に減少していく。

これをジオデシック構造のドームに応用すると、直径3キロメートル級の全球体を空中浮遊都市(前述のクラウド・ナイン)や人工衛星の環境を制御する装置として、あるいは都市の空間をまるごと制御できるような半球状の構造物を構想することが可能となる。そのような計画としてイリノイ州、イーストセントルイスのために企画されたオールドマン・リバーズ・シティ計画が知られている。周囲5.6キロの月のクレーターのようなコンクリート製の円錐台状の基部を直径1600メートル、高さ300メートルのテンセグリティドームで覆う計画であり、12万5千人がそこで暮らすことが可能とされていた。

ダイマクションハウスやワールドゲーム(part1参照)、それに空中に浮かぶ都市計画などを考えてみると、僕には、フラーが地球を自分の手のひらの上に載せてそれを眺めまわしているような光景を思い浮かべてしまうのである。彼の意識は地球よりも大きかった。ある展覧会のシンポジウムで、一人の女性アーティストが地球を飛び出て宇宙に行く、そんな作品を作りたいと言っていたのを思い出す。僕は宇宙船に乗ってみたいという人にフラーがこう言っていたというのを思い出した。「どんな感じだい。僕たちは今、地球号という宇宙船に乗っているじゃないか。」

6.自己規律

私は若い時のように他人の意見、信条、教育理論、空想、習慣に自分を合わせるよう努力するかわりに、経験から得た情報にのみ基づいて自分自身で考え、そして自分の思考と直感から生まれたものを使って、生来の切実な動機に形を与えようと努めた(梶川泰司 訳 以下「」内は梶川訳である)。切実な動機とは、あの1927年の精神的危機における覚醒であった。この『クリティカル・パス』からフラーの「自己規律」を抜粋してみる。

家族とか自分とか国家とか、あるいは自分の仲間のためだけに努力するのではなく、包括的に人類全体を保護したり、支えたり、また利益をもたらすことに全力を尽くして、私の潜在能力を可能な限り地球号とその全資源、そして累積的なノウハウ(知識)を取り扱うことにのみ差し向けることにした。

私は決して自分のアイデアや人工物を『奨励』したり『販売』したりしなかったし、金を払って人にそうしてもらったこともなかった。私としては、決して自分の宣伝のためにエージェントを雇ったり、講演や著述、『アイデア販売』のための代理人と契約したり、また私への支持を呼びかけるための職員を雇ったりしてはならなかった。支援はすべて、私の発明の進化が人間に関する事象の全体的な進化と統合されることによって、自然発生的に生ずるはずである。これは、驚くべきことと言わなければならない。

私は大部分のことを自分の間違いから学ぼうと努めた。

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

私は自然における化学元素の目録、その重さや反応特性、相対的な存在量、地理的分布、冶金学的な相互の合金化の可能性、化学的結合の可能性と不可能性に関して、包括的に理解できるように自己を教育しようと努めた。私はロジスティックス(兵站学/戦闘地帯より後方の、軍の諸活動・機関・諸施設に関する学)や、人類がその歴史的経験から引き出し整然と蓄積してきた動態統計はもちろんのこと、生産手段の全般の能力、エネルギー資源、そして関連するすべての地質学的データ、気象学的データ、人口統計、経済統計を理解しようと努めた。この規律が、彼のワールドゲームの基盤となる。

‥‥生き残れるのは『あなたか、さもなくば私』のどちらかだというこの恐ろしい先入観の存在にもかかわらず、私には次のことがはっきりしているように思われた。もし、ある個人が、エンジニアリング、マーケティング、航空学、造船学、建築学、大量生産技術、そして弾道学で実地の経験をもっていて、科学的発見のなかに顕在化している進化の可能性を認識することもでき、全人類の全体的な経済的成功を達成するには仕事の優先順位をどのように立てるべきかを理解でき、技術による人類の利益の拡大を実現するために残りの人生をすべて賭けることによってそれらの問題に関与するならば、そしてもしその個人が、自然がなそうと意図していることを行っているならば、その個人は自分が――そして自分を頼っている人たちが――何とかもちこたえ、達成すべき課題に関連した知識、能力、そして経験を増大させることがわかるのである。‥‥

我々が扱えるのはネットワークパターンだけだとフラーは言う。フラーの言うデザインサイエンスとは、我々人間の経験のネットワークを構成することかもしれないのである。かつて、人間の経験のネットワークは物語化され神話体系として伝承されてきた。それは、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで触れておいた。しかし、フラーは人間の経験の総体を未来へと鋳出そうとするのである。平均的な人間の創意として。

如何がでしたか。皆さんにもフラーファンになっていただけただろうか。もし、この『クリティカル・パス』や『コズモグラフィー』をお読みいただけたら、今度は是非、フラーと梶川の著作『宇宙エコロジー』をお読みいただければと思う。日本を含めた現代の問題が鋭く提起されている。きっと皆さんは、より広い視野を獲得されるに違いない。

 

球形を大円によって分割しながら、表面を三角形で覆っていくジオデシック・ドームの様子がCGで描かれている。

 

フラー先生によるベクトル平衡体(立方八面体とも呼ばれる)の講義。ベクトル平衡体が二重の正八面体に折り畳まれ、最終的に四重の正四面体になっていく様子が撮影されている。折り畳まれながら変形していくシナジェティック・トポロジーの様子がよく分かる。

 

 

その他のフラーの著作と関係書籍

1. バックミンスター・フラー『コズモグラフィー シナジェティクス原論』
2. バックミンスター・フラー 『宇宙船地球号操縦マニュアル』
3. リチャード・ブレネマン編『フラーがぼくたちに話したこと』
フラーが子供たちに語るシナジェテイックス
4. バックミンスター・フラー『ユア・プライベート・スカイ』
ヨアヒム・クラウセ編 2001年のフラー「日本展」に際して刊行された。フラーの画像資料として最良である。
5. バックミンスター・フラー『テトラスクロール』絵本になったフラー
6. ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

 

 

バックミンスター・フラー 『クリティカル・パス』 part1 ダイマクションとワールドゲーム

このような刺激的な本が、ある。読み返してみると自分が、このフラーからどんなに大きな刺激を受けてきたかを今さらながら考えさせられる。何がそんなにこの人を偉大にさせたのか? 何が彼を一年に地球を7周半させるほど駆り立てたのか? 何が彼を自分自身をしてモルモットB(Bはバッキーの頭文字/フラーの愛称)にさせたのか? それを知れば、必ずや皆さんはフラー・ファンにならざるを得ない。

『宇宙エコロジー』という本はフラーの著作の抄訳が半分を、訳者でありフラーの共同研究者だった梶川泰司(かじかわ やすし)の文章が半分を占めている。これは、梶川の編集である。それゆえ面白いのだ。二人の文章は瓜二つだ。語り口のテイスト、言葉の選び方、単語の繋ぎ方。翻訳した当人の文章であるということを割り引いても、いかに訳者がフラーの世界と一つに分かちがたく溶け合っているかが分かる。だが、今回ご紹介するのはフラーの『クリティカル・パス』である。『宇宙エコロジー』は、是非このフラーの『クリティカル・パス』と『コズモグラフィー』の両書をお読みになってから、ひも解かれるとよい。いまや、フラーの開発した構造体は高校の美術の教科書にも掲載された。それは訳者が何よりも望み、喜びをもって迎えることのできる現実となったのである。その喜びを僕は彼自身から電話を通して聴くことができた。

いま私はこうして存在しているが
自分が何であるかは分からない。
しかし、自分が専門家した種(カテゴリー)でないことは確かである。
私は〈もの〉を表わす名詞ではない。
私は、宇宙のなかの
不可欠な機能として
漸進的変化の過程に作用する
動詞のようだ。
(B.フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』梶川泰司訳)

バックミンスター・フラー+梶川泰司
『宇宙エコロジー』

1.ダイマクション

フラーが20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われたのにはいくつかの理由がある。比較的分かりやすい発明はダイマクションカーやダイマクションハウスといったものだろう。ダイマクションという言葉は、ダイナミック、マキシマム、テンションの合成語であるのだが、この言葉はフラーの発案ではなくシカゴ・イヴニング・ポスト紙の芸術欄の編集長であったC.J.ヒューレットによる4Dハウスという言葉に端を発している。面白いのは1929年当時のパリ万博後に購入した斬新な家具を売り出すためにアメリカの大手デパートの企画推進者によって最も斬新だったフラーの住宅模型がその隣の部屋に展示され、広告宣伝されたのだという。フラーの建築モデルの横に置いておけば家具たちもそんなに斬新には見えないから買ってもらいやすいだろうというわけである。しかし、4D、つまり「第4の次元」では一般大衆には受け入れられにくい。そこで広告専門家のウォールド・ワレンがフラーのもとに派遣され、フラーの説明を手掛かりに彼がいくつかの言葉を合成した。フラーの意向を窺いながら最終的に残ったのがこのダイマクションという言葉だったのである(ロバート・W・マークス『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』)。個々の発明については、ジェイ・ボールドウィンの『バックミンスター・フラーの世界』が詳しいので、しばらくは、そこからご紹介したいと思っている。

ダイマクションカー 1933年制作 後はT型フォード

ダイマクションカーは1933年に開発された画期的な三輪自動車であった。それは軽量でなければならなかった。最終的には空を飛ぶ計画だったからである。プロペラかジェットエンジンと翼をつけて飛行機としても使えるようにと考えられていた。そのようなスケッチが残っている。V8エンジンを車体後部に搭載するリアエンジンで、前輪を駆動させる。それは、フロント・ウィール・ドライブ・レイアウトと呼ばれている通常のエンジンのレイアウトとは全く逆になっていた。そのほうが速く走れると考えたからである。実際記録した最高時速は140キロ、燃費はリッター/13キロ、11人乗り、イサム・ノグチがそのモデルを石膏で作ったという流線形の美しいデザインである。三台製作されたが、3号機は指揮者のレオポルト・ストコフスキーの所有となり1934年のシカゴ万博で展示され成功を収めた。だが、大量生産に結びつくプロトタイプを完成する資金は得られなかった。

上 ダイマクショオン展開ユニット(DDU)
下 ウィチタ・ハウス 1946年(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より)

ダイマクションハウスは、例のデパートに展示された模型に端を発する。マストのように支柱から吊り下げられた六角形の枠組みから成るアルミ製で、大量生産を前提にしたデザインだった。1940年には、穀物倉庫からヒントを得てダイマクシオン展開ユニット(DDU)を開発した。このユニットは第二次大戦中にペルシャ湾沿岸地域で兵士の居住用に実際に使用された。第二次大戦は終わったが、アメリカは退役軍人と軍需産業に従事していた労働者が職を求めて溢れていたのである。火薬工場は農薬や化学肥料の工場へと転換された。やがてレイチェル・カーソンの言う『沈黙の春』がやってくるのである。

その時、フラーの対応は早かった。戦争の終結時には、航空機の製造技術を住宅産業に初めて応用しようとしたのだ。どのような家だったのか。一言で言えば、それは宇宙船であった。アルミ製の大量生産型のモバイル・ハウスを考えたのである。熟練した組立業者を必要とせず、二日間で施工でき、分解して移動し、組み立て直すことができた。金属部品は溶かして容易に新しい部品として再生産できる。DDUで明らかになったことだが、建物内の暖まった空気は基礎部から換気できるようにしておけば、頭頂部の換気口を通じて新しい空気が流入し自己冷却装置のように働いた。それに加えて風向きによって回転する舵つきのダクトが取り付けられている。総重量2.7トン(車2台分)、費用も車二台分と同じ値段であったが、開発される前に売り出されたため、会社とフラーとの間に軋轢が生まれ、1946年にウイチタ・ハウスと呼ばれるプロトタイプが一つできただけで融資は止まり、計画は頓挫してしまう。

ウイチタ・ハウス頭頂のダクト内部
ヘンリー・フォード・ミュージアム

フラーはこんなコンセプトで住宅のデザインを考えようとしていた。排泄物は全てそれを生み出す場所で一次処理されなければならない。プラスチックバッグが自動的に排泄物を封印パックし、収集サービスによって回収され、化学処理されて堆肥となるかメタンガス製造のための原料とされるように考えた。パッケージング・トイレである。通常家庭では大量に水が消費される。それをフラーは極力抑えようとした。海軍にいた時、フラーは霧が甲板上の汚れ、それも油でさえ綺麗に除去してしまうことを知った。食器や洗濯物の洗浄やシャワーもフォッグガンと呼ばれる圧縮空気と少量の水で霧状のジェットを発生させる装置を用いてクリーンにしようというのだ。一回のシャワーは、コップ一杯の水で足り、石鹸は必要なかった。実際のプロトタイプにも施工されたバスルームはトイレとバスタブが一体成型されたユニットであった。試作品は4枚の金属板をプレス加工している。ニクロム線によって保温と乾燥がなされ、換気口は下にとりつけられて床にむかって空気を吸った。このユニットバスをドイツのメーカーがポリエステル・ファイバーグラスで製造し始めるのは43年後であり、その2年後、アメリカで大量生産される。

1927年に彼は風力を利用し空気圧搾して、その副産物として発生する廃熱を海水の脱塩に利用しようと考えていたし、液体酸素を得るために風力エネルギーで空気を液化しようとも考えていた。高密度の液体酸素を一滴ずつ高圧室に垂らして膨張させ、そこから噴出する冷たい空気によってタービンを駆動させ発電しようというのである。それを4Dハウスに採用すれば自家発電できる住宅になる。雨が降れば人間には飲み干せないほどの水が手に入る。消毒さえ気をつければ、一時的な貯水槽に蓄えた水は屋根の傾斜角度を利用して配水でき、蛇口をひねるだけで必要な頻度と量の水が得られる。上下水道も電線も必要としなくなるようなモバイル型住宅、それがフラーが開発したい理想の住宅だった。

フラーは、『〈インタヴュー〉バックミンスター・フラーすべてを語る』の中でこう述べている。「私たちは宇宙について何がわかっているのか。人間と生態系の相互作用全体のなにを知っているのだろうか。私たちはどのように宇宙の欲求を満たし、どう対処すればよいのだろうか。どうすれば、全人類の生活全体の必要条件を満たす最高の生産水準を達成できるのだろうか(『宇宙エコロジー』収載)。」僕が興味を持ってきたのは、そのような住宅を作りたいと彼を導いた哲学が何であったかと言うことなのである。それは、影響力を受ける力(エネルギー)と格闘しようとせず、その影響力を利用するデザイン、伝導するどんなエネルギーとも絶縁しない科学のデザイン革命であった。

バックミンスター・フラー『クリティカル・パス』

2.ワールドゲーム

フラーは『クリティカル・パス』の中でこう述べている。ソ連(現ロシア)は冷戦の早い段階で核弾頭は使われないだろうという結論を出していた。核弾頭の開発を見せかけて史上最強の軍隊を作り上げていたのである。一方、アメリカの政治家は、アメリカがロシアよりはるかに多くの核弾頭を開発していると指摘できたので軍事的に安全であるという感覚をアメリカの大衆に与え続けることができた。アメリカがそうしてきた背景には、究極的には石油は使い果たされてしまうという認識のもとに石油巨大資本が 、ワシントンのキャピトル・ヒル(米国連邦議会)に対してエネルギー政策をめぐるロビー活動を行い、原子力産業およびその原子核研究員を育成するために核弾頭の生産を促進させていたという。彼ら世界権力機構組織は、世界の石油供給が減少するにしたがって原子力発電と送電ネットワークの運営に移らなければならない事情があった。その開発のために合衆国政府は2000億ドル以上の税金を費やした。核兵器開発と原子力発電とはいかなる国においてもセットになっている。それが将来的な願望であってもである。

そして、こう述べる。「1979年1月の第二次『オイル・ショック』は、目に見えないエネルギーのノウハウをもつ企業連合がスリーマイル島の原発事故と原子炉の『炉心溶融』という脅威から必死に大衆の関心をそらすために企てたものである。大衆は原子力施設に強く反対したが、石油会社の管理による突然のエネルギー供給規制は、一般社会に対して再びエネルギーへの渇望を非常に高めたので、その間は原子力エネルギー施設を縮小しようという人びとの声は無視された」という。さらに、このような事柄をあらわにするのである。

大英帝国地理学会の最高顧問であったハルフォード・マッキンダーは1900年初頭に鉄道の高い輸送力を指摘し、船舶中心だった貨物輸送が変化し始めると英国に示したという。ロシアのシベリア横断鉄道は北に寄り過ぎている。雪による障害が大きすぎて経済的に引き合わない。それに英国はロシアを大西洋の港からしめ出したために 巨大な海軍を持つロシアが大西洋に進出するためには白海のアルハンゲリスク、バルト海のいくつかの港、太平洋岸ではウラジオストクが残されていただけだった。この時、マッキンダーは英国にもう一つの指摘をしたという。ロシアがアフガニスタンとパキスタンを押えるとペルシャ湾に到達可能となり、インド洋に艦船を展開できるようになる。アフガニスタンは世界の「ハートランド」だという。ちなみに、このマッキンダーに学んだハウスホーファが、故国のドイツに帰ってヒトラー旗下の航空相ゲーリングのもとで戦闘機と戦車を用いた電撃作戦を立案するのである。

長期に亘って軍事介入を望んでいたロシアは、内乱に乗じて1979年にアフガニスタンを占領した。これでロシアはイランの東側の国境とパキスタンの西側国境を支配下に置いたのである。だが、内戦の続くアフガニスタンから1989年にはロシア軍は撤退する。その後、この国は、ビン=ラーディンとアルカーイダの問題でNATO軍によって介入され、タリバン政権は崩壊することになる。イランに対してロシアは、権力機構にとって一番効果的な方法である「征服するには分断せよ」を活用した。宗教的な分断をイランに選択したのである。イラン王朝を支配しているアメリカを追い出せば、イスラム教徒たちを小さな宗派に分裂させ、軍事的にイランを制圧できると考えていたとフラーは言う。アフガニスタンとイランとイラクの問題の核心にあるのは実はロシアの南下の問題なのである。この『クリティカル・パス』がアメリカで出版されたのは1981年であったことは覚えておいてほしい。アメリカ軍の大義なきイラク進攻は2003年のことだった。アメリカのイランに対する圧力は今もって強い。これが、ワールド・ウォー・ゲームである。訳者の梶川さんは、フラーがよく暗殺されなかったと僕に語ったことがある。

ダイマクション・スカイオーシャン・マップ
地球表面を正二十面体に投影して展開した地図

このワールド・ウォー・ゲームが生む膨大な浪費とは対照的にフラーの考えるワールドゲームは、彼が52年間継続的に開発してきた全歴史的世界資源目録と絶えずエネルギー量と時間を減少化させる技術のエフェラリゼ―ション(短命化)を前提にした生産、供給、維持、デザイン改良、世界規模の統合などを通して、かつて人類が経験したことのない髙い生活水準を達成することであった。金に金を生ませる連中と彼らの経済学者は、この地球は人間の生活を支えるには根本的に不充分であるという政治的宗教的仮説を彼らのマネーゲームに利用しているという。トマス・ロバート・マルサスの幾何級数的な人口増加への恐怖とそれに伴う貧困を論じる『人口論』やローマクラブの著書『成長の限界』がその支柱である。彼らは、お金と本当の富と同じ不変の働きとを完全に切り離してしまったとフラーはいうのである。

バックミンスター・フラーによる世界電力ネットワーク図
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーは自らが開発した最も歪みの少ない地図であるダイマクションマップを見ながら世界的な電力ネットワークを考えていた。それは、ワールドゲームにおける最優先の課題だったのである。

昼夜の時間帯において東西間の相互の電力供給を、あるいは、夏季と冬季において南北間の相互の電力供給を可能にしたい。そのことによって既存の各発電機は最も効率のよいスピードで24時間の稼働が可能になり、エネルギー効率は飛躍的に向上する。発電所はピーク時の電力需要に合わせて設定されているためピーク時以外ではそれほど使用されているわけではない。そのため、この相互供給によって発電所の数をかなり減らすことができる(ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』)。ボールドウィンによれば、このプロジェクトは1996年現在、進行中であるという。

彼は、このような世界規模での統合を訴え続けてきた。それが、彼を一年に地球を七周半させることになるのである。ある国の大学で講演を行うためにその大学に到着すると、次の大学や研究施設から依頼状と航空券が送られてくる。そんな晩年の生活であった。彼はワールドゲームを中心としたデザイン・サイエンスを説いてまわったのである。フォーチュン誌などの顧問をすることによって世界の資源や経済のデータは、的確に把握されていた。電力の相互供給ネットワークは、問題解決の第一歩にすぎない。飢餓と栄養不良の問題、核兵器の廃絶費用、難民の救済費用などの諸問題は当時の全世界の年間軍事予算7800億ドルの四分の一強の予算で解決できるとフラーは試算していた。下の図をみていただきたい。

全世界の年間軍事支出と最優先課題に掛る経費
1.飢餓と栄養不良の除去 190億ドル
2.住宅供給 210億ドル
3.健康管理及びエイズの抑制 210億ドル
4.人口の安定化 105億ドル
5.土壌浸食の防止 240億ドル
6.効率的で安全、汚染のないエネルギーと再生可能エネルギーの供給 500億ドル
7.開発途上国の債務返還 300億ドル
8.安全で清潔な水の供給 100億ドル
9.森林破壊の防止 70億ドル
10.酸性雨の防止 80億ドル
11.オゾン層破壊防止 50億ドル
12.地球温暖化防止 80億ドル
13.難民救済 50億ドル
14.識字率の向上 50億ドル
15.核兵器廃絶 70億ドル
16.地雷の撤去 20億ドル
17.民主主義の確立 20億ドル
ジェイ・ボールドウィン『バックミンスター・フラーの世界』より

フラーはこう述べる。「ワールドゲームは、もし国家によるすべての統治権が放棄されないなら、そしてワールドゲーム方式の全世界的にコンピューター化された時間‐エネルギー計算システムが直ちに開始されないならば、この地球から人類が滅び去るだろうということを明らかにしている。脱国家権力を成し遂げるための第一歩は、世界の電力グリッドの空隙を埋めることにある。世界的に統合された電力計算システムが、世界経済を経営管理するための全エネルギー計算システムの始まりとなるだろう」と。フラーにとって「時間とは、二つの出来事の間の最短距離である。」一方、1974年のワールドゲーム・セミナーでは、ペンシルベニア大学が中心となってフラーらと共に完成させた「自然エネルギーによる(風力や波力など)〈自立的再生〉を達成させる方法論である『宇宙の資源と富』を発表している。

梶川泰司は『宇宙エコロジー』の中で、バックミンスター・フラーの半世紀にわたる絶えざるデザイン・サイエンス(平均的な革命)は、現在のエネルギー変換技術で全人類が必要とする全エネルギーを太陽からの放射エネルギーと重力エネルギー(風力発電などのクリーンな発電を指している)だけでまかなうことができるという科学的証明のために、シナジェティックスを発見し概念化しながら、ダイマクションマップのような大気圏全域をナビゲーションするための地図投影法とジオデシックス、テンセグリティの予測的発見と予測的発明に絶えず集中していたと述べている。

そのようなデザイン・サイエンスには、社会主義的な計画経済という側面が強調されると考えるのは自然なことなのだが、世界の大きなジレンマに対処するための政治家の能力に彼は期待していない。アナーキストでは勿論ないが政治家を信頼していなかった。彼は、平均的な人間の創意を強調する。自分のような平均的人間にそれが可能かどうか、自分をモルモットとして実験材料にしたのである。モルモットBが彼の別名となる。次回 part2は、彼の思想の基盤となるドームやテンセグリティなどの構造体と彼が自身をモルモットにした経緯をご紹介したいと思っている。お楽しみに。

 

ロバート・W・マークス
『バックミンスター・フラーのダイマキシオンの世界』
ロバート・マークスは雑誌『エクスワイアー』編集者、『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』のコラムニスト、バンタム・ブックス編集者を務めた理学博士。

ジェイ・ボールドウィン
『バックミンスター・フラーの世界』
フラーに学び、そのプロジェクトに携わる。ロッキー・マウンテン研究所でRV車の開発研究し、カリフォルニア工芸大学で工業デザインを教えている。環境問題に関する著書がある。

バックミンスター・フラー
『コズモグラフィー シナジェティクス原論』