「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part2 今様から小歌、そして

文机房隆円『文机談』13世紀 宮内庁ホームページ

11世紀になると「今めかしたる」歌が一世を風靡し始める。「今様」である。催馬楽が徐々にその地位を今様に明け渡しはじめるのである。今様は、当時の最新流行のポップスであった。都市という生活環境が発達を見せ、人々が経済的余裕と余暇を持ち始めれば、芸謡を行う人々がそれを生業にしやすい環境が整っていったのである。『新猿楽記』には、熱狂する市井の姿が生き生きと描かれていた。それらの歌を傀儡女(くぐつめ)、遊女、白拍子などが歌ったのだが、その辺りのことは、沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』踊る大黒に三番叟に書いておいた。ちょっと、つけ加えておくと、遊女らは白拍子という素拍子で舞うのだが、もともと男巫(おとこみこ)たちの舞であったから巫女(みこ)の舞とは違って荘重なものであった。従って遊女たちが白拍子で舞えば自ずと男装ということになる。もともと白拍子に男装と神事性は欠かせないという(林屋辰三郎『歌謡と芸能』)。

梁塵秘抄

13世紀、琵琶奏者であった文机房隆円が対話形式で書いた琵琶の歴史物語『文机談』には、「そのころの上下、ちとうめきて頭(かしら)ふらぬ人はなかりけり。上の好む時、下の従わざる道なし。諸道の興廃は、ただ時の静謐なりとぞ申すめる」と書かれていた。この「うめきながら頭を振っていた」人のうちで最も知られた人は後白河院である。もっとも、古代中国の虞公(ぐこう)や韓娥(かんが)のように歌声の響で梁のうえの埃を舞いあがらせていたのかどうかは分からない。父親である鳥羽院も催馬楽を好んで歌っていたというから血筋だろうか。藤原俊成に『千載和歌集』を勅撰させたことでも知られる人だが、俊成の和歌に関する『俊成口伝』にならって『梁塵秘抄口伝集』全十巻を著し、勅撰歌詞集十巻を併せて『梁塵秘抄』二十巻とした。

後白河院『梁塵秘抄口伝』写本 国立国会図書館蔵

後白河院は、嘉応元年(1169)には、出家し、法皇となっている。33度に亘る熊野詣や京都内外の寺社への参詣、東大寺、比叡山での受戒など仏教への傾倒も一通りではなかった。しかし、重要なことは瓦坂法印家寛(かわらざかほういん かかん)に師事して声明にも研鑽を深めていたことである。言霊にも声霊にもシュプラッハ・ゲシュタルトゥング(振動が形態を形成するクラドニ図形と関係している)にも浸かっていたのである。「たとひまた今様うたふとも、などか蓮台の迎へにあづからざらむ」と一音成仏ならぬ一声成仏を確信していた。遊女でさえ一念の発起あれば極楽往生しうるし、法文の歌自体経文の尊い文章から離れたものではない、例え、世俗の文字の業であっても仏法を讃嘆する縁となり仏法を広める因ともなろうというわけである。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ(仏歌二四首より)

親鸞筆 『三帖和讃』 専修寺蔵

『梁塵秘抄』勅撰歌詞集の現存する巻一と巻二のうち巻二には法文歌220首、四句及び二句の神歌325首が収められている。法文歌には天台教学を軸とした法華経、浄土教、真言密教に関する内容が見られる。もし、今様が単なる流行歌謡でしかなかったのなら、後白河院のような知識人が終生夢中になるほどの意義は担い得なかったかもしれない。熊野参詣の折りの様子が『口伝』に次のように述べられていた‥‥法楽もの、長歌、心の今様、神歌などを歌いすませて、暁方皆人がしずまり、心澄ませて伊地古を歌っていると両所権現の内、西の御前からえもいわれぬ麝香の芳しい香りがしてきた。と、宝殿が鳴動しはじめ、御簾がそれをかかげて人が入ってくるかのように動いた。やがて、御神体の鏡が鳴り合って長い間揺れるという奇瑞があった。今様の歌唱が優れたものならこのような宗教的な奇瑞や霊験が起こることが、後白河院にとって、ともかくも現実であったのだろう。院が亡くなって50年後に親鸞が、日本語による声明の中でも最も秀逸とされる浄土和讃を作り上げる。

われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし(雑法文歌 五十首より)

後白河院がまだ、帝位にある31歳頃、今様の師として五条の尼とも呼ばれていた乙前(おとまえ)を迎える。現在の岐阜県大垣付近である青墓出身の傀儡女(くぐつめ)であったが、その系譜をたどると目井、四三、なびき、小三、宮姫とだどることができるという。既に高齢であり、数度に及び辞退したが聞き入れられなかった。10数年を費やして専門的な歌曲の習得に励んだという。84歳の重篤の彼女を院が見舞った際、院自ら薬師如来の難病治癒の今様を歌い、乙前を感涙させたのであった。梁塵秘抄の四句神歌(しくのかみうた)のうち雑の歌は、とりわけ庶民の暮らしを彷彿とさせるような面白い歌が多い。巫女は目よりも上で鈴振りせよとか、山田の番小屋の鳴子や砧を打つ音が澄みわたるとか、天魔が八幡神に前世の報いで髪が生えないんでしょとちょっかいを出す歌とか、亀を殺(あや)め鵜の首を絞める鵜飼の後生を心配する歌だとか、恋路は陸奥へ駿河へと思いは千里を走るなどなど‥‥有名な歌をご紹介しておこう。

遊びせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ(三五九)

舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば 馬の子や牛の子に蹴(く)ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん 実(まことに)美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせん(四〇八)

頭(こうべ)に遊ぶ頭虱(かしらじらみ)項(おなじ)の窪(くぼ)をぞ極(き)めて食ふ
櫛の歯より天降る 麻笥(をごけ/曲げわっぱの桶)の蓋にて命終はる(四一〇)

 


宮廷歌謡は、中央や地方の氏族の長またはその代理による天皇に対する寿歌(ほかいうた)と彼らが服属の儀礼として歌った宴会歌謡に大別できる。そのために地方からの風俗(ふぞく)歌が宮廷に集うことになるのであった。神楽歌や東遊(あづまあそび)での歌謡が引き継がれて、そこに唐楽などの外来の音楽が和風化されながら醸成されていったものが催馬楽であった。他にも踏歌、朗詠などもあったが、やがて新たなムーヴメントとしての今様が勃興した。そして、16世紀初頭・室町中期には、小歌(こうた)の時代がやってくるのである。


 

小歌とは何か

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

小歌の歌詞集である閑吟集は、古代中国の歌詞を集めた毛詩三百余編にならって三百十一首よりなり、さながら連歌のごとく関連性を持たせた構成になっている。当時、連歌は最盛期にあったが、それについては、芳賀幸四郎 『東山文化』 団欒の連歌・シンクロする冷え寂びに書いておいた。この『閑吟集』を誰が編集したか分かっていない。各首には小、大、近などの略符がつけられていて、それぞれの出自を指している。それは、このような種類と数になっていた。小歌231、大和節48、近江節2、田楽節10、吟詩句7、早歌8、放下歌3、狂言小歌2という割合である。小歌とは、陰暦11月、宮廷での五節の帖台の試み、つまり新嘗祭(または大嘗祭)に行われる女楽の儀式であるが、そこで典雅に歌われる大歌に対する歌で、もともと歌曲の名ではなく演ずる楽人である小歌女官のことを指していたという。古くからあるもので、それらの席で歌われた歌謡が、女房たちによって儀式以外の席でも歌われるようになり、それが遊女、傀儡女、白拍子たちによって広く伝搬されていくことになるのである。大和節は大和猿楽、近江節は近江猿楽、田楽節は田楽能、吟詩は杜甫、温庭筠、蘇軾らの詩を取り込んだ漢詩風のもの、早歌は宴曲の一節が、放下歌は散楽系の大道芸などと共に歌われた歌が、狂言小歌は勿論狂言から引用され小歌風にアレンジされた。

閑吟集と謡曲

小歌の曲節、つまり曲調や節回しは、世阿弥の『申楽談義』に見られる「小歌ぶし」の流れを引くと言われる。世阿弥については、能勢朝次『幽玄論』part2 世阿弥に書いておいた。観阿弥以前の猿楽では、優美な旋律と拍節不定の自由なリズムを持つ当時の流行歌である小歌の曲節を軸にしていたが、それに白拍子系統の曲舞(くせまい)の音曲を加味したのが観阿弥だった(徳江元『閑吟集解説』)。新たな謡曲が、曲舞の音曲と小歌とがクロスオーヴァ―することによって生まれたのである。

木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても
なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば
いま幾日(いくか)ありて摘ままし
春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞て白雪の
消えし跡こそ 路となれ(『閑吟集』四)

この小歌は大和節、つまり大和猿楽から生まれた謡曲『二人静』の一節からとられている。それは、もともと古今集の読人知らずの歌や新古今集の藤原良経らの歌を綴れ織りのように繋ぎ合わせたものだった。以下のような歌ですが、謡が作られていく過程において駆動するこのぞくぞくするような編集力はまさに偉大という他はない。謡曲の合成過程を上手に描いてくれる本がぜひ欲しい。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの 吉野の花も今や咲くらん(後鳥羽院)
春日野の飛火(とぶひ)の野守出でて見よ 今幾日(いくか)ありて若菜摘みてん(読人しらず)
春立つといふばかりにやみ吉野の 山も霞て今朝は見ゆらむ(壬生忠岑)
み吉野は山も霞みて白雪の ふりにし里に春は来にけり(藤原良経)

その他に謡曲から引用された作品として『俊寛』『鞍馬天狗』『鵜羽(うのは)』『籠太鼓(ろうだいこ)』『春日神子』などがある。

春過ぎ夏闌(た)けて又 秋暮れ冬来るをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思い出は何につけても (『閑吟集』二百二十/謡曲『俊寛』)

西楼に月落ちて 花の間も添ひはてぬ 契りぞ薄き灯火の
残りて焦がるる 影恥ずかしきわが身かな (『閑吟集』二九/謡曲『籠太鼓』)

僕の大好きな能楽師である観世喜正さんがシテ役で謡う『二人静』から「菜摘の女」の小歌に引かれたヶ所をお聞きください。この人の謡は、本当に素晴らしい。7:25頃からその場面が始ります。

 

小歌とそれ以後の日本の歌謡

『梁塵秘抄』では巫女、武者、関守、咒師(じゅし)、鵜飼、遊女、海人など職人尽くしさながら歌詞の中にそれと判る人物、その職業、その姿が目に見えていたけれども、『閑吟集』では、そのような人々の具体的な姿、生業の様子などは背後に押しやられて、あたかも個から一般へという抽象化が行われるごとく「男」「女」「世」という枠のなかにそれらが折り畳まれていくとは、秦恒平さんの『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』からのご紹介である。

小歌の八割以上を男女間の抒情的な歌で占める。ほとんどラブソングと言っていい。その愛情の表現の仕方が極めて自由であり、その調律においても極めて細やかであるといわれる。七五七五の定律が最も多いが、七七七五、七五七七、七七七七などがある。小歌は一節切(ひとよぎり)つまり尺八によって伴奏され、比較的自由に口語調に歌われたという。この尺八の伴奏による中世小歌は『隆達節』まで続くが、やがて、踊小歌を経て三味線組歌や女歌舞伎踊り歌などに継承されていく。戦国時代に三味線が日本にもたらされ、江戸時代に入り、この楽器が盛んに伴奏に使われるようになって「小唄」とよばれるようになるものが近世小唄であるが、これは、ある意味中世小歌からの一続きとして考えて良いとは、志田延義さんの説である(『閑吟集』総説)。愛情表現色々をご紹介しておく。

逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜は己が袖枕 枕余りに床広し 寄れ枕 此方(こち)寄れ枕よ 枕さへに疎むか (『閑吟集』一七一)

余り言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の 速さよ(『閑吟集』二三五)

余り見たさに そと隠れて走(は)して来た 先づ放さないなう 放して物を言わさいなう そぞろ愛(いと)ほしうて 何とせうぞなう(『閑吟集』二八二)

 


歌は世につれ世は歌につれ。日本人の心に添うものは、この歌謡のなかに脈々と流れ続けてきたのか、流行の波の上でたゆたってきたのか。おそらく、その両方であったろう。しかし、その中に日本人の心情に喰い込んでくるべきものが見つかるとしたら、それは何だろうか。一言では勿論語れないが、一つの例を挙げてみたい。


和泉恒二郎『日本人の心情』閑吟集を起点として

樋口夏子の雅号は一葉である。それは、桐の一葉ではなく、達磨の乗った蘆の葉の一葉であった。一葉は友人に内緒だとことわりながら「おあしがないから」と小声で言ったという。和泉恒二郎さんは『日本人の心情』の中でその一葉の雅号への思いは〈まけじだましい〉だったという。しかし、現実の生活が窮迫していくにつれて一種の楽天的現実主義となっていったと指摘している。そして閑吟集のこの歌を彼女の日記の前歌として掲載するのである。

なにともなやなう なにともなやなう うき世は風波の一葉よ(『閑吟集五十)

「人につねの産なければ、常のこころなし。手をふところにして、月花にあくがれぬとも塩噌なくして、天寿を終わるべきものならず。かつや文学は糊口の為に為すべき物ならず。おもひの馳するまま、趣くままにこそ筆は取らめ。いでや是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日の春の夢とわすれて、志賀の都のふりにしことは言わず、さざなみならぬ波銭小銭厘か毛なる利はもとめんとす。‥‥ひまあらば月もみん花もみん。興来らば歌もよまん文もつくらむ。小説もあらはさん。‥‥されど、うき世は、たなのだるま様。ねるもおきるも我が手にはあらず、造化の伯父様どうなとした給へとて、『とにかくにこえるをみまし空せみの よ渡る橋や夢のうきはし』」(樋口一葉『日記』明治26年7月)と、一葉は書いている。

桜かざして遊ぶ大宮人のような短歌仲間の集いもわすれよう。宮廷歌謡が廃れて今様や小歌の時代がやってきて、今は明治となったのだけれど、人のこころを趣くままに描き出す文学の時代が来たと言祝いででもいるかのようだ。一方で、生きていくために小商いまでせざるを得ない身の上と成り果てた。しかし、ここには、あなたまかせの処世、破れかぶれの大らかさがある。それは庶民の歌謡のなかに見られてきたものでもあるだろう。そして、何か自然という名の太母との繋がりに憧れているような感覚があるのだ。さらに一葉は書く。

「春のゆふべ よは花さきぬべしとて人ごころうかるゝ頃、三日四日のかけ斗(ばかり)に成りて一物も家にとゞめず、しづかにふみよむ時の心 いとをかし。はぎはぎの小袖の上に羽織きて何がしくれがしの会に出でつ。もすそふまれて破らじと心づかひする又をかし。身のいやしうて人のあなどる又をかし。折にふれて誰もいふなる一言のおもしろしとて才女などとたゝえられるいよいよをかし。此としの夏は江の嶋も見ん、箱根にもゆかん、名高き月花をなど家には一銭のたくはへもなくていひ居る ことにをかし。いかにして明日を過すらんとおもふに、ねがふこと大方 はづれゆくもをかし。おもひの外になるもをかし。すべて、よの中はをかしき物也。」(樋口一葉『日記』明治28年3月)

知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある
何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい
石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ
くり返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも (中島みゆき『命の別名』より)

一葉は20歳の日記にも、世の中の事業はどんどん進んでいるのに、私たちは昔のままで何一つ成し遂げたこともなくただ歳を取るばかりだと嘆くのである。中島みゆきさんの歌詞にも若い人たちの挫折や焦燥がある。と同時に自然との繋がりを感じさせるのである。家に一物も、一銭もなくても名高き月花を眺めたいという切実な願望は何処からくるのだろうか。結局、これは国見とその歌に通じるものなのか。そして、歌謡ではないけれど谷川俊太郎さんの詩にも生きている自然に抱かれる感覚を感じるのである。

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがるということ
いま兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ
いまいまがすぎてゆくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくということ
海はとどろくということ
かたつむりははうということ
人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ (谷川俊太郎『生きる』より第四連から最終第五連)

 

「国見歌から閑吟集へ」歌は世につれ・世は歌につれ part1 国見歌から催馬楽まで

 

忘れられない歌を 突然聞く
誰も知る人のない 遠い町の角で
やっと恨みも嘘も うすれた頃
忘れられない歌が もう一度はやる
愛してる愛してる 今は誰のため
愛してる愛してる 君よ歌う
やっと忘れた歌が もう一度はやる
(中島みゆき『りばいばる』)

思ひ出すとは 忘るるか
思ひ出さずや 忘れねば
(『閑吟集』八五)

真鍋昌弘『中世の歌謡』閑吟集の世界

中島みゆきさんは、僕より少し年上だから学生時代の頃からよく聞いていた。その詞にはジンときたものだった。ほぼ同時代を生きてきたといっていい。おお、青春の1ページ‥‥感傷はやめにしよう。谷川俊太郎さんは、彼女のファンだとか。ご本人に聞いたわけではないけれど噂ではそうらしい。彼女の歌詞と谷川さんの詩に使われる言葉との関係をみてみたら面白いかもしれないけれど、今回は、まず古代からの伝承文学と歌謡の流れなどを追ってみたいと思っている。伝承文学と歌謡とは互いに手を取り合ってきた。真鍋昌弘さんの『中世の歌謡 閑吟集の世界』には、恋やつれに関するこんな興味深いつながりが指摘されている。

一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべくわが身はなりぬ (『万葉集』巻四)

なんぼ恋には身が細る 二重の帯が三重にまわる(『松の葉』三味線組歌裏組/江戸中期歌謡集)

こなた思うたらこれほど痩せた 二重廻りが三重廻る(『山家鳥虫歌』/江戸中期民謡集)

春二重(ふたえ)に巻いた帯
三重に巻いても余る秋
暗(くら)や涯(はて)なや塩屋の岬
見えぬ心を照らしておくれ
ひとりぽっちにしないでおくれ
(美空ひばり 『みだれ髪』より 星野哲郎 作詞)

みだれ髪、憎や、恋しや、辛や、重たやなどの言葉は『閑吟集』にもみられる中世近世小歌ゆかりの語句であるという。作詞者の意識にあったのか、なかったか分からないけれど、小歌の抒情の流れの中に存在するある類型と見ることができるようだ。歌は世につれるだけでなく、世は歌につれるのである。

 


歌謡とは歌われる歌である。当然、上古から歌謡はあった。代表的なものは、万葉集は舒明天皇の「望国歌」につながる国見歌である。国見は歌垣と共に行われた春のはじめの行事であり、山行き、山遊び、花見に連なる春山入りの行事だった。天文暦が取り入れられた推古朝以降、春の国見と秋の新嘗祭に加えて正月の儀礼が加わったと言われる。古代には歌謡は宮廷社会で発達し、平安末以降は民間の芸謡が勃興し、宮廷歌謡は衰退をみた。


 

上代の歌謡 国見と花見・歌垣・宮廷歌謡

土橋寛『古代歌謡の世界』1973年刊

上代の歌謡は、古事記・日本書紀・万葉集にみられる。記紀にある歌謡は、伝承者・作者が作った物語のための歌謡と物語のために取り入れた既に存在した歌謡とに分けることができる。後者は独立歌謡と呼ばれ、酒宴や国見での歌謡、あるいは、当時の民謡・芸謡・童謡(わざうた)などとして知ることができる。芸謡とは専門の歌手によって歌われ、歌い手と聞き手とは完全に分けられる。聴き手の娯楽としての歌謡である。平安末の今様が生まれるまで歌謡の中で大きなシェアを占めることはなかった。これに対して民謡は歌い手が同時に聴き手でもあり、宗教行事であると共に娯楽でもあった。支配者が代わっても時代の思想がどう変化しようと村の民謡の性格は変化しない。個人が泣きたい気持ちを歌いたくてもそれを皆と歌う訳にはいかなかった。その社会的機能が民謡を不変のものにした理由だと日本文学者である土橋寛(つちはし ゆたか)さんは言う(『古代歌謡の世界』)。奈良朝の風土記にある歌垣の歌のような古代民謡と明治以降の盆踊り歌である近代の民謡とは驚くほど似ているというのである。土橋さんのこの著作からご紹介する。

 

1.国見歌と花見歌

古代の国見歌と現在の民謡を比べてみたい。

大和は 国のまほろば
畳なづく 青垣
山ごもれる 大和しうるはし (古事記三十)
千葉の葛野を見れば
百千足(ももちた)る 家庭も見ゆ 国の秀(ほ)も見ゆ(古事記四一)
おしてるや 難波の埼よ
出で立ちて わが国見れば
淡島 淤能碁呂島(おのころしま)
檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 佐気都島見ゆ(古事記五三)

高い山から谷底見れば 稲は苗代の花盛り (弘前 盆踊り歌)
八溝山から谷底見れば 瓜や茄子の花盛り (茨城 ヤーハー節)
桜山から瀬戸内見れば 瀬戸の島山真帆片帆(三原 やっさ節)

花盛りを讃めることは豊作の予祝行事であった。「田主さんの山には栗の花が咲いたげな 七重花が八重にさいたげな(山口 田植え歌)」山行は、山菜取り草取りと同時に宗教行事であり、男女の出会いを提供する場でもあった。栗や藤の花房は稲の穂を連想させるという。同じように花讃めに対して国讃めがある。豊作への祝歌が花讃め歌であるなら国讃め歌は郷土の繁栄の祝歌、お国自慢となる。

三諸は 人の守る山
本へは 馬酔木花咲き
末へは 椿花咲く
うら麗し 山ぞ 泣く子守る山 (『万葉集』)

人々が朝夕に眺める山は美しく花々の咲き乱れるたまふりの山。花讃め歌と同時に山讃め歌、国讃め歌ともなっていよう。国見は景色を愛でるのだが、とりわけ雲と煙への言及が注目される。景色の中の微妙な兆しを見るのは、そのような不定形なものに意を注ぐことが肝要にもなるのだろう。

2.歌垣の歌

天飛(あまだ)む 軽嬢子(かるおとめ)
したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(『古事記』)

夏草の あひねの浜の 蠣貝に
足踏ますな 明かして通れ(『古事記』)

歌垣の歌は異性を誘う歌が大胆にも歌われる。上の歌は古事記にある軽太子(かるのひつぎみこ)と母を同じくする実妹の軽大朗女(かるのおおいらつめ)との禁断の恋を描いた話しに登場する歌である。歌の内容が、話の流れとは繋がらないので独立歌謡であろうと言われている。軽は市の開かれた所であることから、上の歌は軽の市の歌垣で男たちが軽の乙女たちにこっそり寝て行きなさいと誘い、下は夜の浜は貝殻で足を傷つけるから明るくなってから帰ってよと男を引きとめる歌である。集団で行われる歌垣では大胆な歌詞が多い。誘う歌ばかりではない。相手を袖にする歌、結婚は早めにしろと忠告する歌、老いては懐旧の情と若者への教訓を歌うものなど特に現在まで残っている民謡には面白いものが多い。

二十過ぐれば奥山つつじ 咲いておれども人が見ん(石川 雑謡)
器量がよいとてけんたいぶり置きやれ、深山奥山その奥山の、岩に咲いたる千里のつつじ、なんぼ器量よく咲いたがとても、人が手出さなきゃ、その身そのままで果てる(岐阜 小大臣)
おらも若い時ゃ山でも寝たけゃ 山で木の蔭 草のかげ(岩手 さんさ踊り)

3.宮廷歌謡

東京楽所『日本古代歌謡の世界』CD 神楽歌、東歌、久米歌、田歌、倭歌など珍しい音源が多様に収録されている。特に一曲目の神楽歌の「縒合(よりあい)」は名曲、名演である。

正月行事が宮廷に取り入れられるようになって、春のはじめの国見の儀礼は次第に行われなくなる。宮廷行事も本質的に呪術行為であり、予祝儀礼であったことは民間と同様であったが、そこには当然政治的な意味合いも帯びていた。寿祝されるのは天皇であり、寿祝するのは中央や地方の氏族の長またはその代理であった。豊明(とよのあかり)などとも呼ばれた酒宴は新嘗会などの重要なファクターであり、主人の繁栄を寿ぐ儀礼的な「宴座」から主客入り乱れる無礼講たる「隠座」へと連続的に行われた。主人側が酒を勧める勧酒歌と客の方からの答礼となる謝酒歌がある。主役の天皇の傍で接待する役は「共食者(アヒタゲビト)」と呼ばれ、親王や一世源氏が勤めた。このような接待役を女性がつとめる場合、宮廷に限らないが、容姿の美しさ、美声が要求され、次第に専門化していった。民間では主人の子女がその役を果たしていたが、やがて接待役の女性が登場し、遊女と呼ばれるようになる。傀儡子(くぐつし)などの芸能者とも関係が深い。彼女たちが後代の今様などを流行させることになるのである。

宮廷儀式の中で最も重要なものは天皇即位に行われる大嘗祭である。それは中央・地方の氏族たちによる寿(ほかい)歌・芸能の奏上となる。「臣」姓氏族による勧酒的性格を持つ寿歌と「連」姓の伴造氏族による職制に即した忠誠を誓う戦歌謡に大きく分けることができる。前者には吉野に住む国栖(くず)が大御酒を応神天皇に捧げて歌った国栖の歌、天語(あめがたり)連の伝えた天皇への服属を誓う天語歌などがあり、後者には来目(くめ)部の戦時の酒宴の歌である来目歌がある。

白樺の生に 横臼を作り
横臼に 醸みして大御酒
甘らに 聞こしもち飲(を)せ まろが親(ち)(『記紀』国栖歌 部分)

 


宮廷における神楽歌・催馬楽・小歌の時代がやってくると外来の楽が日本の楽に融和し、歌詞が地方民謡の鄙びた性格を持ち始める。やがて、従来の宮廷歌謡は下火となり、平安時代末には最新流行の芸謡である今様が一世を風靡するようになる。こうして、中世は風俗的な歌謡の時代になっていくのである。


 

神楽歌

『神楽歌 催馬楽 梁塵秘抄 閑吟集』小学館

宮廷で行われる神楽は大嘗会の琴歌神宴に発したという。この神楽歌は、かがり火を焚き「庭火」の曲を奏する庭火に始まり、神降ろし(採物/とりもの)、神遊び(前張/さいばり)、神上がり(明星・其駒)という構成になっている。これはもともと石清水八幡の神遊びを宮廷に参上して行ったものが、宮廷の行事化されたものであるとは折口信夫の説である。天皇はまれ人神であり、群神を伴う長い旅路を象徴する庭でその経過を再演し、憑代である採物を人長が持ち、神の降臨によって一体化する。神遊び歌(前張)は一種の宴会歌謡であり催馬楽(さいばら)と同じく民間のものを多く取り入れている。このような神遊びの形態は民俗芸能にも多くみられ、笹の葉を先端に残した竹の枝によるサゲ杖を持った音頭取りであるサゲが「田の神おろし」の歌を歌って田の神そのものになっていくという「太田植」の神事などと同じであるという(臼田甚五郎『神楽歌』解説)。「明星」の歌にはじまって神々との別れを惜しみ、神を送る歌が終わると、神宴は御遊へと移り、雅楽、催馬楽の演奏となるのである。神楽歌の中から、もともとは恋の喩え歌であった「前張(さいばり)」と最後の曲である「神上」を掲載しておく。本と末とに分かれて歌われている。さしばりとは獣の害を防ぐために張り巡らした木綿の垂(しで)のことである。

「前張」
本 さしばりに 衣は染めむ 雨降れど
末 雨降れど 移ろひがたし 深く染めてば
本方 あちめ おおおお しししし
末方 あちめ おおおお しししし

「神上(かみあげ)」
本 すべ神は よき日祭りつ 明日よりは 八百万代を 祈るばかりぞ
末 すべ神の 今朝の神上に あふ人は 千歳のいのち ありといふなり

 

催馬楽

平安初期、清和天皇が即位した時の大嘗会が貞観元年(859)に行われた。大極殿の前に設けた悠紀、主基の両殿にて大嘗祭が終わると悠紀の帳で宴(うたげ)が開かれ、悠紀の国の産物が献上された。主基の座に移ると悠紀の国が風俗の歌舞を奏し、この国の献上した衣料を親王以下諸臣に賜った。この夜、天皇は豊楽殿の後房に留り文武百官も侍宿し、親王以下参議以上が御在所に侍り、琴歌神宴に終夜歓楽する。次の日は悠紀、主基の順番が入れ替わって同様の神宴が開かれる。三日目は悠紀・主基の両帳が取り払われ豊楽殿にて天皇が百官のための宴を開き、多治氏が田舞(たまい)、伴・佐伯の両氏による久米舞、阿倍氏の吉志舞(きしまい)、内舎人(うどねり)が倭舞(やまとまい)を、夜には宮人の五節舞が披露されたのである。この時には催馬楽の歌が多く取り上げられ、歌われた。同年に尚侍(ないしのかみ)であった広井女王(ひろいのひめみこ)が八十歳余りで亡くなったと記録に残っている。歌の名手であり催馬楽をも得意とした。諸大夫や少年の好事者が多くその歌を習ったという。この頃には既に催馬楽が宮中で盛んに歌われていたことになるのである。

催馬楽は、特に一条帝(980-1011)の頃が最も盛んであったが中世に入って衰退したといわれる。諸国から貢物を朝廷に運ぶときに歌われた歌というのが一般的な解釈であるが、万葉集にある『我駒(あがこま)』の歌が使われていることから馬を駆り催す歌であることは間違いない。こうしてみると万葉集の影響力は大きいのだ。それから唐楽の「催馬楽(さいばらく)」の拍子にあわせて歌われたという説、神楽歌の前張(さいばり)からサイバラになったなどの説があり、逆に催馬楽が前張に取り入れられ神楽歌になったなどの説があるようだ(臼田甚五郎『催馬楽解説』)。催馬楽は、律と呂という旋律で大別されているのだが、律の冒頭にある『我駒』をご紹介する。真土山(まつちやま)は特定の山というより、どの山にも当てはめることができる山である。

いで我(あ)が駒 早く行きこせ 真土山 あはれ 真土山 はれ
真土山 待つらむ人を 行て早(はや) あはれ 行きて早見む

催馬楽に歌われる世界は多様で、国見歌に繋がる在所の名物やお国自慢も多い。それから、歌垣歌に繋がる愛人との別れ、野遊びの求愛場面があり、博打の歌など日常世界にいたるまで広く人間世界を描いている。和琴、箏、琵琶、笛、笙、篳篥(ひちりき)で伴奏され、平安貴族の華麗な御遊(みあそび)と称された。大掛かりな御遊の饗宴だけでなく日常の色々の場面で口ずさまれていたのだろう。民間の歌謡が宮廷に浸透していた結果である。馬を催すとは「客人(まろうど)」が馬でやって来て馬で帰るというイメージが強く、その意味で「まれ人」の来臨と帰還という神楽歌と同じ構造を持つのではないかとは臼田甚五郎氏の説である。

なかなか良くできた催馬楽神楽の動画です。地鎮のために鈴を振りながら舞う神楽が登場しますので是非見てください。江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟でご紹介しましたが、三番叟を考える上で貴重です。久喜市公式動画チャンネルより(約11分)

 

催馬楽と源氏物語

ちょっと面白いのは源氏物語と催馬楽との関係である。この物語の中で催馬楽の語句、曲名などを含めて使われている例は、延べ56曲、曲数にして23曲にのぼるという。現存する催馬楽が61曲であるから三分の一を超える数である。『源氏物語』54帖のうち催馬楽が登場する巻は29巻に及ぶ。催馬楽は、民謡風な風俗歌を外来の雅楽調で歌った。舶来音楽に影響を受けた和製ポップスといったところだろうか。

「胡蝶」の巻には、冷泉帝が朱雀院に御幸の際、楽人を乗せた船が池を往来する華やかな宴会が催され、呂律の最初の曲『安名尊(あなとうと)』が歌われたとある。これは正式な宴席に歌われる催馬楽であった。

「物の師ども、ことにすぐれたる限り、双調吹きて、上に待ちとる御琴ども調べ、いとはなやかにかきたてて、『安名尊』遊びたまふほど、『生けるかひあり』と何のあやめも知らぬ賎の男も、御門のわたり隙なき馬、車の立処にまじりて笑みさかえ聞きたり。(『源氏物語』「胡蝶」)」

あな尊 今日の尊さや 古(いにしへ)も はれ
古も かくやあれけむや 今日の尊さ
あはれ そこよしや 今日の尊さ (『安名尊』)

これに対して笛か扇拍子程度の伴奏で気楽に歌われる場合や鼻歌まじりに口ずさむ場合もある。「花宴」の巻には、ほろ酔いの源氏が「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる女をとらえて一夜をともにする。女は名も明かさず、扇だけを交換して別れた。一ヶ月後、右大臣の藤の花の宴で、ここぞと思う几帳の前に立ち止まり「扇をとられてからき目を見る」と催馬楽の『石川』の替え歌を歌ってさぐりをいれた。「高麗人の言い違いですか」という者は事情を知らない者である。そこに、返事をせずに溜息をつく方がいるのである。色好みの源氏には、この種の例は多いという(仲井幸二郎『源氏物語と催馬楽』)。

「そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 『扇を取られて、からきめを見る』と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。『あやしくも、さま変へける高麗人(こまうど)かな』といらふるは、心知らぬにやあらむ。(『源氏物語』「花宴」)」

石川の 高麗人に 帯を取られて からき悔いする
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中はたいれなるか
かやるか あやるか 中はたいれたるか(『石川』)

このように源氏物語が書かれた11世紀初頭は、催馬楽が最も盛んな時代であった。催馬楽の歌詞は日常的につかわれるほど宮廷生活に浸透していたことになるのである。

 


今回は「国見歌から閑吟集へ」と題し、その part1 として「国見歌から催馬楽まで」をお送りした。歌は世につれるのだが、その中に見られる強力なファクターは万葉集だったことに今さらながら驚かされる。そして民謡の不変性を教えられた。若い人が民謡から離れていることに危惧を抱く人も多い。農村や町の共同体が失われていく現在では、皆で盆踊りを踊り、歌うということはなかろう。僕は、民謡が芸謡として特化するより、どんな人でもよいから町の盆踊り大会で民謡を小さな子供たちに歌って聞かせる、あるいは一緒に歌うことはできないのかと思っている。それが本来の民謡のあり方なのだから。


次回は、いよいよ今様と小歌をご紹介する予定です。お楽しみに。

 

「笑話あれこれ」笑いは東西を駆けまわる

琴栄辰『東アジア笑話比較研究』2012年刊

韓国には一度転ぶと三年しか生きられないという謂(いわ)れの『三年峠』という童話があるそうです。韓国伝来の童話として日本の小学校の国語の教科書にも紹介されたことがあるらしいのです。

三年峠で転ぶなよ。転ぶと三年しか生きられないという言い伝えがある。一人のお爺さんが石につまづいて、この峠で転んでしまった。気に病んだおじいさんはその日からご飯も食べれず寝込んでしまう。機転の利く水車屋のトリルという少年が、こう言ってお爺さんを慰めた。三年峠で一度転べば三年、二度ころべば六年、三度ころべば九年、何度も転べばうんと長生きできるよと。嬉しくなったお爺さんは峠から麓までころころところがり落ちて、すっかり元気になり、お婆さんと一緒に末長く仲良く暮らしたとさ。

実はこの話、植民地時代に日本から朝鮮にもたらされたのだといいます。もともと京都清水寺の「三年坂」にまつわる地名伝説でした。韓国の童話と信じて育った筆者の琴栄辰(ぐむ よんじん)さんにとって、これは驚くべき事実だったそうです。本書(『東アジア笑話比較研究』)の最大の特徴は日本近世の笑話の比較研究に中国一辺倒ではく朝鮮半島を視野に入れたことです。東アジア論という観点からも極めて貴重な研究と言わなければなりません。真に立派な研究論文なのですけれどかなり笑える。なにせ笑話がふんだんに盛り込まれているのですから。

李周洪 『韓国笑話集』

韓国にも日本にもある笑話をもう一つご紹介しておきましょう。共有の事実さえお互いに知らない笑話であるといいます。「姑の毒殺」という話ですが、ほんのりするような話になっています。

ある村に仲の悪い姑と嫁がいる。息子は二人の間に立って悩んでいた。ある日息子は妻にこう言う。「母さんが、お前をいびるやり方はあんまりだ。死なせたほうがいい。」息子は市場から栗を一斗買ってきて妻にこう言った。「これを毎朝三個ずつ焼いて母に食べさせなさい。この栗が亡くなる頃、母の命もないだろう。」その翌日から、嫁は毎朝栗を焼いては姑にやさしい声で勧める。すると、だんだん姑は嫁を虐めなくなり、二人はとうとう仲良くなったという話である(『任晳宰全集』韓国口伝説話)。

日本では霊松道人撰の『善謔随訳』という漢文体笑話集に類話があって、息子が医者に毒を与えてもらおうとするのですが医者は毒と称して砂糖を与え、焼いた餅に塗って姑に食べさせれば数日の内に効き目があらわれるだろうと言ってそれを渡す話になっています。安永七年(1775)の話ですから200年以上前から既にある話なのです。しかし、僕はこの話を全く知りませんでした。我ながら愕然とした次第です。『笑府』『笑海叢珠』などの中国の笑話集の影響は勿論大きなものがあり、シンデレラなどの童話が同工異曲の内容で世界規模の広がりを見せていることは南方熊楠などの著作で紹介されていますので意外な共通点は、まだまだあるのではないでしょうか。

 


日本の笑話集の起源はというとそれほど昔ではありません。平安末期の『今昔物語集』や鎌倉時代の『宇治拾遺物語』にはユーモラスな話が収録されてはいたのですが、本格的に笑話だけを集めたものが編集され、出版されるのは江戸時代になってからです。それをご紹介しましょう。


 

江戸の笑話集と落語

安楽庵策伝『醒睡笑』

日本で笑話が笑話集として集大成されたのは『醒睡笑(せいすいしょう)』八巻がその始まりでした。浄土宗の僧であった安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)が戦国時代の血生臭い時代を小僧として過ごした、その頃からの耳に触れて面白いと思った話を書きとめておいたものをまとめました。元和九年(1623)に序文が書かれますが、徳川家光が将軍職を継いだ年にあたります。後に京都所司代である板倉重宗に献じたもので、「是の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵という、柴の扉の明け暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかた しるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)を醒まして笑ふ」と序文にある、その「睡(ねむり)を醒まして笑ふ」がタイトルの由来になっています。眠たくても眼が覚めるほど笑えるというわけでしょうか。落語にもなっている有名な話を一つご紹介しましょう。

小僧あり、小夜ふけて長竿をもち、庭をあなたこなたに振りまはる。坊主これを見付け、それは何事するぞと問ふ。空の星がほしさに、打ち落とさんとすれども落ちぬと。扨(さ)て扨て鈍なるやつや。それほど作が無(の)うてなる物か。そこには竿がとゞくまい。屋根へあがれと。(「鈍副子」)

江戸初期には、この『醒睡笑』の他に『昨日は今日の物語』という笑話集があり、なかなか洒落たネーミングになっています。室町後期の『閑吟集』に「‥‥夢の夢の夢の昨日は今日のいにしえ、今日は明日の昔」などという表現があって、このような言葉に因んでいるのでしょう。元禄時代には江戸の鹿野武左衛門、京には露の五郎兵衛が笑話を巧みな話術で口演を盛んに行い、軽口という名で人気を博しました。次なるエポックは安永元年(1772)に木室卯雲(きむろ ぼううん)が書いた『鹿子餅(かのこもち)』です。この書の最大の特徴は口承されていた話をそのまま文章にするのではなく地の文を努めて省略し、江戸の市井言葉による会話を主として、結末も話中の人物の言葉で打ち切りにして「‥‥と云われた」という言葉を省略します。江戸子気質が存分に生かされ、歯切れの良い簡素な読む文学へと変貌していきます。しかし、一方で笑話=小噺と思われがちにもなるのです。この頃には、笑話の中心が上方から江戸に移り笑話は盛期を迎えることになります。『鹿子餅』から一話ご紹介しておきましょう。

朝とく起きて、楊枝つかいながら、垣の透間から隣を覗けば、寝乱れすがたの娘、縁側にこしかけ、朝顔の花をながめている。これはかわゆらしいと、息もせず のぞき居たるに、庭におり、留まりに咲きた一りんをちぎり、手のひらへのせて見る風情、どうも言へず。歌でも案ずるよと、いよいよゆかしく見て居たるに、今度は葉をひとつちぎりたり。何にするぞ見て居たりや、チント鼻をかんで捨てた。(「朝顔」)

海賀変哲著『落語の落1』

寛政年間には70種類近い笑話の出版がありましたが、この頃、書名に「落噺(おとしばなし)」とか「落語」と名づけられたものが目立つようになります。『鹿子餅』以降には〈落/おち・さげ〉に重きがおかれるようになったからです。烏亭焉馬(うてい えんば)によって天明六年(1781)には第一回の話の会が開かれ、やがて落語へと発展する端緒となります。化政期からは十返舎一九や式亭三馬らが、戯作と呼ばれる通俗小説を書くようになり、その中に「滑稽本」と呼ばれるいわば、諧謔と機知を武器とするユーモア小説がありました。式亭三馬の『酩酊気質』は、座敷噺(ざしきばなし)の名人であった桜川甚幸のために書いた話の台本を滑稽本として出版したものでした。職業としての落語家が生まれ、いよいよ話芸が本格化していく時代です。ここで落語の落の代表的なものを一つ挙げておきましょう。

親の使いで本郷座の前を通った息子が「近日開場仕りそうろう」という張り紙を見て、明日開くのだと勘違いする。そう早くは開かない。そのうち、開くという意味だ。商売というものは機転が利かないといけない。先へ先へと気を働かせろとみっちり言い聞かされた。そうこうする内に父親は疝気で腰が傷みはじめる。息子は、ふいといなくなると医者がやって来た。父親が不審に思って尋ねると、今、お宅の息子が呼びに来たという。医者を呼ぶほどの病気じゃないと詫びて追い返すと、今度は棺桶屋が棺桶をかついでやってくる。吃驚して理由を聞くと、またしてもお宅の息子さんに頼まれたのだという。息子は帰ってくるなり、お寺へ行こうと思ったが寺へは一人で行くものでないと言われたので帰ってきたという。向いの家では、あの家は変だ。さっきから色んな人が出入りしているが何だろうと思っていると忌中と書いた簾が下がったので、打ち揃ってお悔みに行くと、実はこれこれで間違いでしたと言って父親が詫びる。父親は、息子を仕方のない馬鹿野郎だと叱りつけるのだが、息子は「お父さん近所の人は馬鹿だねえ」と言う。「どうして」「忌中の下の添え書きを見ずに来たんだから」「何と書いた」「近日」(『新編落語の落』「近日息子」)

 


笑いの哲学や心理学を述べるのは、やめておきましょう。どちらにしても無粋です。純粋に笑話とは言えないかもしれませんが、滑稽譚の中には頓智話があります。日本では、一休さんや吉四六(きっちょむ)さんが有名ですが、トルコを中心とした小アジアにはムラー・ナスレッディンつまり、ナスレッディン・ホジャの有名な話が伝承されています。今度はアジアの西の端に飛んで、その話を覗いてみましょう。


 

ナスレッディン・ホジャの物語から一話

ナスレッディン・ホジャのホジャとはペルシア語の「ハージャ」に由来する言葉で、学者たちから選ばれた官吏に対する尊称のようですが、オスマン・トルコ時代には「学校で教育を受け、ターバンを巻き、法衣をまとった教役者」を指していました。ナスレッディン・ホジャの物語は滑稽な話ではあるのですが、寸鉄人を刺しもするのです。その例からまず述べてみましょう。目の不自由な人たちに対する不適切な話ではありますが、昔話としてご容赦ください。

ある日、盲人たちが珈琲店で胸の悲しみを打ち明け合っていた。ホジャ・ナスレッディンが通りがかって、心から親しげに話している様子を見てすっかり感じいった。なんて人間は素晴らしいんだ。だが、ふいに彼らの友情は本物で、どれくらい純粋なものなのだろうかという疑いが頭をもたげた。そこで懐から銭袋を取りだしてジャラジャラと音を立て「みなさんや、この銭をあげるから、仲良く分け合ってお使いなさい」と言った。銭をもらおうと彼らは音のしたほうに飛びだし駆けだした。「銭をとったのは誰だ」「ふざけるな、取った奴は銭を出せ」「何が何でも俺の取り分はもらうぞ」と口々にわめくやら喧嘩を始めるやら。ホジャはだんだん哀れを催して、一人一人にいくらかずつ握らせてやった。そのあと「神よ! 銭ってもんは、人間になんて酷いことをさせるんでしょうか! 」と独り言を言ったそうな。(『ナスレッディン・ホジャの物語』「ホジャのいたずら」)

ムラー・ナスレッディンとグルジェフ

ゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフ
(1877-1949)『ベルゼバブの孫への話』

トランス・コーカサスに住むジェリコ・ジャカスは商用で町に出かけた時、市場で見知らぬ果物を目にした。色も形もこの上なく美しい。すっかり魅せられた彼は、それをどうしても食べたくなり、金もないのに最低一つはこの偉大なる自然の贈り物を買って食べたいと思った。それで、彼にしては珍しく勇気を奮って店に入ると骨ばった指でその気に入った〈果物〉を指差して値段を聞くと1ポンドが2セントだという。そこで我がジャカスは1ポンド全部買うことにした。帰りの路で、食料袋からパンとあのとてもおいしそうに見えた〈果物〉を取りだしておもむろに食べ始めた。しかし、なんと恐ろしいことにたちまち彼の内蔵全体が燃えはじめるのだが、それにもかかわらず彼は食べ続けた。我らのジャカスが大自然の懐でこの奇妙な食事から生じた異様な感覚に圧倒されていたちょうどその時、その同じ道を村の者たちから賢人で経験豊かだとされている老人がやって来た。顔全体を燃えるような赤に染めて、目からは涙を流し、しかしそれにもかかわらず、まるで最も大切な義務でも果たすことに没頭しているかのように、正真正銘の〈赤トウガラシ〉を食べている彼を見てこう言った。「おい、ジェリコ、いったい何をしているんだ。生きたまま燃えてしまうぞ。そんな身体によくないとんでもないものを食べるのはよしなさい。」しかし、彼は答えた。「いえ、どんなことがあってもやめません。私は、これに最後の2セントを払ったんです。たとえ、私の魂が身体から離れようとも食べ続けます。」というわけで、我らが断固たるジェリコ・ジャカスは〈赤トウガラシ〉を食べ続けました(『ベルゼバブの孫への話』)。

グルジェフと言えば〈ごろつき聖者〉と異名をとった精神的な指導者、つまりグルとして知られます。アルメニアに生まれ、若くして「真理の探究者」というグループに参加し、エジプトなどの中近東・アフリカ、チベットを中心とした中央アジアなどを古代の叡知を求めて旅をします。ロシアで多くの弟子たちを教え、革命後はフランスに移ってフォンテンブローに「人間の調和発展のための学院」を設立しました。19世紀末から20世紀前半にかけて生まれたいくつかの神秘主義運動の一つの流れを作ったと言っていいでしょう。この『ベルゼバブの孫への話』は、笑話集ではありません。まるでスタートレックのような宇宙船のイメージから始まるこの書は、「真理探究」の結果として彼の人生の根本的な目標を達成するための方法全体の見取り図が表現されていると言われますが、暗号文書のようでもあるのです。晦渋この上ないのですが、その潤滑油の役割を果たしているのが、ふんだんに盛り込まれた笑話なのです。

グルジェフが賢者中の賢者と呼ぶムラー・ナスレッディンは先ほどご紹介したようにナスレッディン・ホジャという名で知られるトルコの頓智話の主人公でした。日本でいう吉四六(きっちょむ)さんにあたるでしょうか。彼の格言は、この本の中でまさに車の車軸に注す油のような役割を果たしています。「われらが令名高く、比ぶべき者のない師、ムラー・ナスレッディンがたびたび次のように言うのは、いわれなきことではありません。『どんなところに住んでも、賄賂を贈らなければ、我慢できる程度の生活どころか呼吸さえできはしない』‥‥というわけで何世紀にわたる人間集団生活の中で形成されてきた民間伝承のこう言った言葉やその他多くの格言に親しんでいる私は、誰もが知っているとおり、あらゆることに対するあり余る可能性と知識を所有しているベルゼバブ氏にきちんと〈賄賂を贈る〉ことに決めたのです」などと書かれているのです。

グルジェフは、あの〈赤トウガラシ〉のエピソードの後にこう述べています。金を払って何かを買ったら、それを最後の最後まで使い尽くさずにはおれないというこの人間固有の性質をわきまえ、また幾度となくその性質を憐れんできたこの私が〈欲求においても霊魂においても私の兄弟〉というべきあなた方に、―― この本を買った後で初めて、普通の便利で簡単に読める言語で書かれているものではないと判明したわけですから―― ただ外見だけに魅了されて買ったあの〈冗談どころではない〉高貴な赤トウガラシを食べ続けた村人のように、いかなる犠牲を払っても私の本を読み通そうなどという強迫観念を持つことのないよう、私がなぜ今、あらゆる手段を尽くそうと考えるに至ったか十分ご理解いただけるでしょうと。

この点に関して、このブログの筆者である私は極めて楽観視しております。私のブログを必ずやみなさんは読み通してくださるだろうと。なにせ無料ですから(汗)。

 

「アフロディテの系譜」エロスとタナトスの間

七月二十一日、思うことありて偶(たまた)ま題す

もやに包まれておぼろ月のもと、明け方の花の顔は露に泣きぬれ、柳に眠る夜のうぐいすは、その枝の冷たさに、まどかな夢を結びかねている。
いま起き上がったその石の枕に「恋しや」と刻まれた文字がある。むせるようなこの香り、それはあのベットを包むほのかな帷の中から漂ってくるのだ。
女が示すまっすぐな気持ち――その真実さは、ちょうど静かにたたえた水のようだ。そのかわいい顔がほころびて、それ、ポッと紅がさしてきた。
ともしびを背にして、汗にぬれた着物を脱ぎかえ、いとしい方に頼んで枕べから耳かざりを取って来てもらう。
別れの涙は、蘭の匂うしとねにも浸みるばかりにしとどなのに、愛し合うということが、蝉の羽にも似てはかないものであろうとは――
銀のひばしで、香炉の灰を掻きならしつつ、彼女は「幾久しく」と書きつけている。思えばそれは、幾層にも高く灯籠をかかげめぐらした楼館だった。その赤い欄干は、町の大通りから真向かいに仰ぎみられた。
だが今、かつてのあの歓楽の場所は、見ればただ草おいしげる高い塚があるだけ。ふと楓の根もとから亡霊の声が聞こえてくる。その淮楚のなまりには聞きおぼえがある。
おお、おんみ、おどろおどろしい女の魂よ、いまどこの山の雨となって降っているのか。
(入江義高 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)
『ヴィーナスの誕生』部分 1484-1486

今回はちょっと艶(つや)な詩からはじまるのだけれど、終りのほうはなんだか卒塔婆小町ぽくてなかなか良いと思う。明代の袁宏道(えん こうどう)の詩の翻訳だ。この対比は、バタイユではないけれどエロスとタナトスと言えば定番すぎるだろうか。ディディ=ユベルマンが、その著書の中でヴィーナスの負の部分を切り開いていくのだが、裸体が欲望ばかりでなく残酷さと共鳴することについて、ボッティチェリの描いた『ナスタージョ・デリ・オネスティの物語』に描かれた臓器の抉り出しに言及し、バタイユを引き、あまつさえ18世紀のマルキ・ド・サドが書いた『イタリア紀行』に振っておいて、その著書『悪徳の栄え』のジュリエットの言葉を引く。いささか粘液質で力技だが、この結合の業は驚くべきものである。しかし、これ以上書くと脇道にそれそうなのでここで止めておく。

今回は中国の話ではなくて、美術史家ディディ=ユベルマンに刺激されて西アジアからギリシア・ローマへと話は飛びます。主人公は、ヴィーナス、つまりアフロディテ。その系譜を追ってみたいと思っている。

アフロディテの誕生

愛欲に満ちた大いなる天・ウラノスが夜を率いて大地・ガイアの全身を覆いその上に横たわる。待ち伏せしていた息子のクロノスは右手に握ったぎらぎらと光る大鎌で、父親の男根を一気に切り落とすと、それは限りない海原へと落ちていった。と、漂流していくうちに、その周囲から白い泡が湧きだし、中から一人の乙女が生まれたのである。ヘシオドスの神統記にはアフロディテの出自がうねるようなパトス(情念)の中に描かれていた。

一方、ホメロスのアフロディテ賛歌では、こう詠われている。

‥‥
女神は海に囲まれたキュプロス全島に聳える城塞を、その領邑として知ろしめす。
吹き渡る西風(ゼフィロス)の湿り気帯びた力が、
やわらかな水泡(みなわ)に女神をそっと包んで、
高鳴り轟く海の波間をわたって、この地に運び来た。
黄金の髪飾りしたホーラーたちが女神を喜び迎え、
神々のまとい賜う衣装を着せ、不死なる頭には、
美しい、黄金造りの見事な細工した冠を載せ、
穴穿った耳たぶには、真鍮と高価な黄金の花形の飾りをつけた。
柔らかなうなじと銀のごとく白く輝く胸を、黄金の首飾りで飾った。
‥‥
(『賛歌第六歌』沓掛良彦 訳)

アフロディテの岩 キプロス島 パフォス

アフロディテはキュプロス(現キプロス)島に上陸したのである。キュプロス島のパフォスには古代世界において最も有名な神殿の一つであるアフロディテ神殿があった。フェニキアのアスカロンから移住してきた人々によって建造された神殿だった。キュプロスの祭儀は近隣の小アジアの影響を受けていることを考えるとフェニキアの女神アスタルテの祭祀が取り入れられていた可能性は高い。

ここでは、バビロニアやアファカのように「神殿売春」が行われていたとJ.G.フレイザーは述べている。未婚の女性が神殿を訪れる男性に幾らかの代価で身を任せるしきたりがあった。それはキュプロス王のキ二ュラスによって創始されたと伝えられる。性愛と豊饒の女神アフロディテはそのキ二ュラスの美しさに惚れこんで求愛したという。その母であったパポスは自らが象牙で造ったガラテアと恋に落ちたピュグマリオンとの間に生まれた娘であった。ピュグマリオンの願いを叶え、彫刻のガラテアに命を与えたのはアフロディテだ。そして、キ二ュラスと実の娘との間にできた息子がアドニスであり、彼もまたアフロディテが愛する若者となる。キュプロスの地とその王キニュラスがいかにアフロディテと深い関わりを持つかを物語る。

 


古代の結婚制度は自由婚制から母権制を経て父権制のもとでの結婚制度へと舵をきった。その間には多くの諸段階があったといわれる。文化人類学・法学者だったバッハオーフェンは自由婚制をアフロディテに象徴させていた。性愛の神である。しかし、ある段階でこの性愛の神と母権制の象徴である地母神としてのデメテル的要素は混ざり合っていったのである。


 

乱婚制の象徴としてのアフロディテ

デメテル 国立ローマ博物館

古代の婚姻制に関する研究が進むにつれ、アフロディテ的な自由婚(乱婚)制から純粋なアポロン的父権制へと至る婚姻制度には諸々の段階があることがわかる。その一つは狂女のようなマイナスらに取り囲まれた酩酊させるファロスたるディオニソスに象徴される社会であり、あるいは男を奴隷的立場に追いやり、男の子であれば手足をなえさせ、女の子であれば右の乳房を焼いたというアマゾン的社会の制度である。婚姻を知らない母性の表象である野性の湿地植物という表象段階から永遠の若さを保つ父性というウラノス的天空世界の調和やアポロン的光輝という段階に至るとバッハオーフェンは述べている(『母権論』)。女性が肉体的に浪費されるという立場から逃れ、男性に伍するためには、嫁資という武器が必要だった。こうして娘だけに相続権が与えられるようになる。乱婚や売春という自由な性交渉を根絶するためには、このようなデメテル的原理と呼ばれる母権支配による社会制度が求められた。

祭祀における最も優位な天体の性、あるいは月崇拝が盛んな地域におけるその性によってその地で男性支配あるいは、女性支配のいずれが行われていたかを知ることができる。バッハオーフェンにとって神話は時代の生の現実を忠実に映し出す鏡であったのだ。神秘は全ての宗教の真の本質であり、女性が祭祀と日常世界の領域で指導的地位にある所では深い内的な敬虔さがあったという。地上における生と死との限りない交替は女性の内に、高次の再生を前提とする高い希望を呼びおこすとバッハオーフェンはいう。それが「秘儀の新たな獲得」であり、デメテルとその娘ペルセポネー信仰のように大地と豊饒と地下世界に関連していくのである。

 


ギルガメシュ叙事詩で知られる女神イシュタルはシュメールの女神イナンナの系譜を引いていてプリュギアではキュベレ、エジプトではイシス、フェニキアではアスタルテと呼ばれた。ギリシアのアフロディテは、この流れを汲む。豊饒神としての性格とともに、パートナーとして冥界と地上を往還する男神との関係が注目される。


 

愛と豊饒の女神イナンナ・イシュタル・キュベレ・アスタルテ

バビロンのイシュタル(夜の女王)
BC1800-1750

シュメールの豊饒の女神である大地母神イナンナは「全てのものを生み出す子宮、生けるものたちとともに 聖なる住まいに住みませるもの、生みの親、心に慈悲満てるもの、その手に全ての地の生命を保持しませるもの」と詠われた。イナンナの祭りは植物の神格であるドゥムジ神との祭儀であり、聖婚によって一年の半分の期間に生命を生み出し、その半分は地下に降る男神であった。アッカド人の間ではイシュタルとタンムズとなる。

メソポタミア神話においてギルガメッシュは、シュメールの都市ウルクの実在の王であったと言われている。神のごとき強力な王であったが、暴君でもあり、都の乙女たちはこの王に初夜権を握られていた。その英雄の姿にウルクの守護神イシュタルはぞっこんとなって、ギルガメシュに言い寄るが、女神の気の多さと思慮のなさを言い募りすげなく振ってしまうのである。

イシュタルは金星の女神であり、宵の明星としての女性的側面と明けの明星としての男性的・破壊的側面があるといわれる。因みにギルガメシュ叙事詩では、月は男神シンである。タンムズはイシュタルの夫、あるいは若い頃の恋人であり、弟という説もある。その祭礼のことはT.S.エリオット part1 『荒地』 リシュヤシュリンガ・聖杯・アングロカトリックに少し書いておいた。イシュタルの冥界降りとは、亡くなったタンムズをつれもどすために自分の姉である冥界の女王エレシュキガルのもとに行くために七つの門を通過し、再び地上に戻る話である。イシュタルは、アッカド語の呼び名で愛と逸楽の神であったが、同時に豊饒の女神でもあった。

エーゲ海沿岸地域

現アナトリア半島周辺のプリュギアではイシュタルにあたる女神は二頭の獅子を引き連れ、あるいは獅子の引く車にのる姿で表されるキュベレである。この女神はリュディア王の娘でキュベレ山に捨てられ、この名がある。この女神が愛したアッティスは植物の死と復活を司る。その魂は松の木に宿り、血からは菫が咲きでたとされる。このアッティスがギリシアではアドニスとなるのである。

アドニスの生誕

例のキュプロス王キニュラスとその娘ミュラとの間に生まれた子供がアドニスだった。王女はあまりに美しかったために家の者がミュラはアフロディテより美しいと自慢し、女神の恨みをかった。ミュラは父親を愛するように仕向けられ父を騙して床を共にするが、それが発覚するや父に殺されかける。この神話が成立した社会には、近親相姦のタヴーがあったことになる。憐れんだ神々によって没薬の木であるミルラに姿を変えられる。その木が裂けて生まれたのアドニスだった。成長した彼はアフロディテと冥界の女王ペルセポネーとの取り合いとなり一年の三分の一を冥界で三分の二をアフロディテと共に過ごすようになるのだが、やがて、狩りの途中に猪に突かれて死んでしまう。

アントニオ・コッラドーニ 『アドニス』 1723頃 メトロポリタン美術館

このアドニスという言葉は、おそらくフェニキア語で「わが主」を意味し、「アド二」「アドナイ」がなまったものであり、かつてタンムズを冥界から呼び戻すために女たちが発した言葉だと言われている。アドニスが亡くなった後には赤いアネモネの花が咲いたというが、タンムズ信仰の盛んだったレバノンでは春先に山から洗い流された赤土が河を赤く染め、赤いアネモネが咲き乱れるところから生じた神話ではないかという人もいる。

ここに登場する女神たちは、いずれも地母神的性格を付与されていながら男性神格をパートナーにしなければ豊饒神としての性格を全うできない。性愛の女神アフロディテに見られるエロスとタナトスという対比は、地母神としての生(豊饒)と死という対比となっていて物質を支配する女神としての性格が際立ち始めるのである。物質の暗黒面が死である。

 


ユッピテルによってトロイアの若者アンキセスを愛するように仕向けられたアフロディテはローマ建国の勇将アエネアスの母となり、アエネアスの英雄伝説とともにローマ神話の中に流れ込んでウェヌスとなった。やがて、中世世界を伏流してルネサンスに再び花開くことになる。


 

ローマのウェヌスへ

ホメロスは『緒神賛歌』の中で続けてこう書いた。「男神たちを死すべき身の人間の女たちと交わらせ、女たちは不死なる神々のために死すべき身の息子たちを産んだなどと神々のいならぶ中で(アフロディテが)自慢して言うことのないように」とユッピテルは、女神にイダの森で牛を放していたトロイア人のアンキセスへ甘い恋心を抱かせるよう差し向けたと。

この二人の間に生まれた子供がアエネアスであった。アエネアスについては小川正廣『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』ホメロスとウェルギリウスに詳しく書いておいたのでここでは繰り返さない。ホメロスが活躍していた紀元前8世紀から200年後には英雄アエネアスが地中海を放浪してイタリアにたどり着きローマ建国の礎を築いたという伝説が生まれている。この過程でアフロディテは航行の安全を守る海神としての性格を併せ持つようになる。

帝政初期の地理学者ストラボン(前63-23)の記録ではアエネアスはイタリア到着後ラウィニウム(ローマの故地)にアフロディテの神殿を造った。3世紀のローマの博物学者ソリヌスはアエネアスがラウィニウムの野に陣営を築いた時、シキリアから携えてきた立像を「フルティス」と呼ばれる母神ウェヌスに捧げたと書いている。「フルティス」はアフロディテのエトルリア語の変形であるとされる。エトルリア版アフロディテがこの地で崇拝されていたことは、アエネアス伝説の受容にこの文化が大きな役割を果たしたことの証しとなる。このフルティス=アフロディテが女神ウェヌスとなるのである。その女神は天の神々の心を和らげ、その好意を人間に結びつける神秘的な力を持つとされた。ウェヌスの語源は「人間が呪術的行為において用いる霊妙な力」である venus という宗教的言語であったようだ。ホイジンガが言うように抽象的な働きや性格を神格化するのはローマ人の特性なのだろう。その神格化された働きであるウェヌスは本来「神々の好意を引き寄せる神」なのであった。

ニコラ・クストゥ『ガイウス・ユリウス・カエサル』 ルーブル美術館

ローマ建国の祖アエネアスがウェヌスの子であった事とこの国でウェヌス信仰が盛んになることとは当然無関係ではない。もうひとつウェヌス信仰に重要だったことがある。最高権力を目指す政治家にとって、この女神への信仰と子孫に関する伝説が国家の統一にとって不可欠と思われていたことである。ユリウス・カエサルは、わが一門の本家ユリウス家はウェヌスの血統であると自らの演説で強調したという。自分がトロイア人の血をひくことを強調したのである。彼は、自分とアエネアスとの神話的血縁関係をローマ国民と国家的な宗教との関係にまで拡大しようとした。これによってウェヌスはローマの国家宗教の中でこれまでにない高い位置を持つようになったと言われる。強固な父権制の布かれたローマだったが、ここにウェヌス=アフロディテに象徴される母権の復権がなされるのである。いつの時代にも父権制と母権制の闘争は見られるのだろう。こうして、ユリウス家の守護神は再びローマ人=アエネアスの子孫全体の母神となった。カエサルの養子で初代皇帝となったアウグストゥスは父の宗教的遺産を最大限に生かそうとした。この頃、ウェルギリウスが詠った『アエネイス』は過去へのノスタルジアではなく、その時代の風潮を反映していたのである。しかし、やがてキリスト教の時代がやってくる。

 


ルネサンス以降も、愛情運の星として占星術に、そして、結合術・親和力、あるいは金属の銅として錬金術に登場するアフロディテ=ウェヌスではあるが、19世紀以降になるとその姿はネガティブな表象に変化し、母神的要素は消えかかっていく。何故だろうか。最後は記号化される裸体としてのウェヌス=ヴィーナスを概観してみたい。


 

記号化される裸体

中世の時代にはギリシアやローマの異教の神々は当然、信仰の対象とはなり得なかった。しかし、図像や物語には登場してくる。その晴れやかな復権はイタリア・ルネサンスを待たなければならない。その頃の最も重要なイメージはボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』であろう。ヴィーナスはウェヌスの英語読みである。僕が追いたいのは19世紀以降におけるヴィーナスの行方だ。その頃、フランスを中心としたヨーロッパ文化の中に際立って現われる女性たちは、ボードレールなどのデカダンス文学やマネやクリムトの絵画に現われる娼婦たち、男を破滅させるファム・ファタールであったりする。つまり、ネガティブなアフロディテ的側面である。象徴主義が代表するこの頃の時代的風潮については『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画に書いておいた。母のポジティブなイメージは聖母に吸収されたのかもしれない。もっと謎なのは20世紀以降のヴィーナスの行方だ。これを考えてみることは興味深い。アフロディテの古代からの流れを考えれば、銀幕の美女やプロモーション映像の女性アイドルたちはヴィーナスと言えるのか。ウーマン・リブやフェミニズムの波は母権というより女権の権利獲得の試みであったかもしれない。ジェンダー論も盛んだった。しかし、次の観点から性愛のアフロディテ=ウェヌスを眺めてみたい。

フェリシアン・ロプス『ポルノクラート』1878

象徴交換的視野から歴史的・構造的描写を展開するジャン・ボードリヤールが、衣服や化粧などのモードは性欲を無化すると書いているのは新鮮だった(『象徴交換と死』)。念入りに化粧された映像の女性たちは触れることのできない表象である。モードのレベルで作用しているのは自然の性欲ではなく変質した性欲であり、服装は儀式的な性格を失った記号となる。その儀式的な性格は18世紀までは維持されていた。モードが一般性を獲得して記号化される時、肉体はその性的な魅力を失ってマヌカンになってしまうと言うのだ。

同じように女性の裸体が性産業の中でメディア化された欲望と化す時、そのようなイメージは複製化され反復され、増殖し続ける。その表象を担うのは、現実の裸体ではなく、仮想の現実=商品でありながら人間を取り巻く別の現実となるのである。ここでは、現実の裸体は、裸体の摸造、つまり象徴的な記号に交換される。この商品=イメージに組み込まれたメッセージは消費者の体と脳をマッサージし続けるというわけだ。どんな時代よりも性欲のはるかに巧妙で根源的な抑圧とコントロールが行われ、前代未聞のシュミラークル(摸造)の生成が成し遂げられようとしている今、腐敗と死によって世界のあらゆる物質を次々に循環させてきた生命のプロセスは、仮想の現実の増殖によって中断されようとするかのようだ。何故なら完全な複製の可能性は、死のイメージを排除しようとするからである。今日では豊饒という問題に死の排除という答えが与えられようとしている。死がなければ裸体の残酷さもなく、タナトスが失われれば、真のエロスもない。この流れに対抗しうるものは何なのか。

僕が思っている神話を一つご紹介して終わろう。結合力・親和力としてのアフロディテから派生したもう一つの神話である。「記号内容と記号表現の区別は、男と女の差異と同じように今や廃絶されようとしている」とボードリヤールは述べているが、今はジェンダーの問題は置いておいてほしい。何故、この神話が、記号の王国である摸造の世界、浮動する諸価値に対抗しうる契機となるのか、是非考えてみていただきたいのである。

『ヘルマフロディトス』 ルーブル美術館
前2世紀のヘレニズム期の作品のコピー

ある絶世の美少年が故郷のイダ山を出て、リュキアに近いカリアの街近くまで来ると、そこに澄んだ池を初めて見た。その池には所在なくも呑気に暮らす水の精サルマキスが住んでいた。その美しさを見た水の精は恍惚となって彼に迫った。少年は赤く染まった象牙のように白銀の顔を赤らめながらすげなく彼女を追いかえすと透明なガラスの箱にいれられた白百合のような姿を水の中に煌めかせた。
水の精は、ここぞとばかり水に飛び込み必死に逆らう相手を四方に伸ばした触手で絡みつくヒドラのように捕まえ無理強いに接吻を奪うと強引に胸に触った。少年は待望の喜びをニンフに与えまいと頑張り抜く。と、水の精はいつまでも私からこの人を引き離さないでと神々に祈った。願いは聞き入れられ、二人は抱き合ったまま合体し男でもあり女でもある複合体となったのである。その少年とは、父をヘルメス、母をアフロディテとするヘルマフロディトスであった。

 

『徐渭の水墨』 疾走するストローク 超越か狂気か?

徐渭(じょい)が狂ったのか、それを演じたのか分からない。自分の墓誌銘を作り、斧で自分の頭を叩き割ろうとした。頭の骨は折れたが死ななかった。錐で耳を刺し、血は流れ続けたが死にはしなかった。ついには職人に自分の棺を作らせて槌で自分の睾丸を叩き潰したから悶絶はしただろう。同郷の張汝霖は、彼は失脚した胡宗憲(こ そうけん)との連座を恐れて狂気を演じたのだと言った。しかし、翌年の雪の降る日に召使いの少年に衣服を与えた後妻の張氏と言い争いになり、殴り殺した。46歳の年である。狂気は本物だったのだろうか。この年、明の世宗帝が崩御、穆宗(ぼくそう)帝が即位し、大赦が行われた。徐渭が死刑にならなかったのはそのためだろうが、それから7年もの間、獄中で過ごすことになるのである。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

狂気と造形作品との関係はハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情で詳しく書いておいた。しかし、徐渭の狂気がその絵画と全面的に関係しているのかどうかは断言できない。ずっと狂気に陥っていたわけではないからである。その作品は威容でもあり、異様でもある。風狂ではあったが、清狂、奇峭といった潔癖さや極端な鋭さはないと思う。その作品には、覇気があり洒脱もある。たっぷりとした墨を含んだ筆跡を見ていただければその性格を想像してもらえるのではないだろうか。

郭熙(1023頃-1085頃)『早春図』 台北故宮博物院

北と南

宋(960-1279)という時代は中国のルネサンスだった。絵画は技芸を越え、知性溢れる芸術となる。欧陽脩、蘇軾、黄庭堅、郭若虚らは視覚芸術が宇宙を写し出す鏡としての輝かしい芸術性を持つことに気づきはじめる。五代・宋初の山水画は荊浩(けいこう)に始まった。関同は荊浩に学び、范寛(はんかん)は関同、李成(919-967頃)によってその作風を確立した。

書画の鑑定をよくした北宋の董逌(とうゆう)は李成の絵に「霧と靄、自然の内的な働き、陰陽の交替」を見た。ここには風水や道教の洞天福地にみられる理想郷としてのトポスがトレースされていたはずである。風水と山水画の関係は壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』で解説しておいた。蘇軾は郭熙(かくき)の絵の中で過去を追想し、その情感の世界に遊び、華北の秋の響き、雲海に浮かぶ山々の姿に心を馳せたという。「山水は行くべきもの、望むもの、遊ぶべきもの、居るべきもの」なのである(『林良高致集』)。郭熙は画院画家でありながらこのような深遠な著書を書き蘇軾や黄庭堅の庇護を受け彼らに画を教えた。彼らの合言葉は「詩とは形のない画であり、画とは形になった詩」であったろう。蘇軾については一碗 茶・チャ・ちゃ part2 宋と明のチャで触れておいた。北宋山水画は、深遠・平遠・高遠の三遠を整理したこの郭熙によって一つの完成を見たのである。

馬遠(1160-1225)『春径山行図』 台北故宮博物院

一世を風靡した郭熙の作品だったが、風流天子と言われた徽宗は、その作品の息苦しいほどの完成度を嫌った。彼が好んだのは写実性と花鳥画にみるような自然の一角だった。サブライムな宇宙的山水など彼の好みではなかったのだ。時代は米芾(べいふつ)の言った「平淡天真」へと傾斜していくのである。北宋が滅び、南宋の時代になると、もはや華北にあるような峻厳な山々はなく画の題材としては、ゆるやかな山地しかない。現実の山塊をもって北宋のような山水を描くことは不可能になるのである。南宋四大家のうちの馬遠や夏珪は、よく自然の偏角を描いた。余白の美学である。馬遠の画面構成は馬一角とさえ呼ばれるようになる。もともと馬氏は山西の仏画家の末裔であり山水を得意としていない。画中の人物の持つ意味が大きくなったのは当然だろうという人もいる。いささかひねくれやの米芾(1051-1107)とその子の米友仁(1074-1153)は、同じ五代、宋初の画家でも江南の画家である董源と巨然を支持した。董源の用筆は大まかで、近くで見ると形をなしていなかったが、離れてみると粲然(さんぜん)として幽情遠思は異境を見るが如くだったという(沈括『夢渓筆談』)。李成や関同らの北方系の山水様式は否定され、江南画に対する強い共感が闡明にされるのである。

米友仁『雲山図』部分 クリーブランド美術館

 

墨戯から文人画へ

沈周(1427-1509)『蘆山高図』台北故宮博物院

黄庭堅は蘇軾の絵画を墨戯と名づけその筆意を讃えた。笹群や梅の枝などの自然の一角を描き、その自在な精神に禅機に似たものを見たようだ。ちょっとオーヴァーだが、その手腕を左官の鼻についた泥を落とすのに鉞を振るって旋風を起こすほどの技を以って為すことに例えた(『東坡居士墨戯賦』)。墨と筆によって遊戯し自在を得るための手段と言って良い。宋末までには文人の中に画工や画家では為し得ない精神性を表現できる者が出現するというわけである。

宋が滅び元の時代は、院体画は振るわず、いわゆる文人画の活況する時代であった。この頃、文人画家が文人という建前をつくろいながら画を売ることは既にさかんだった。文雅・文徳あるものを指す文人という言葉は古くからあるが、文人画と呼称するようになったのは明代からであるという(鈴木敬『中国絵画史下』)。明中期には文人画の中心は手工業や経済の中心地として繁栄を誇っていた呉、つまり蘇州だった。これに対して浙江省杭州を中心とした職業画家たちを浙派と呼んだ。その頃は、宋の時代と変わらないほど職業画家が活躍した時代でもあった。特にその中期は画院が盛期を迎えていた。このような中で文人画家も職業画家も相互に影響しあっていったのである。例えば明代中期の呉派の代表的画家である沈周(しん しゅう)だが、彼のような文人画家も職業画家のように技法的な完成を目指していたことが窺える。徐渭(じょい)が生まれるまでの時代とはこのような状況だったのである。

徐渭の前半生

明(1368-1644)の時代、それは復古と完全な皇帝独裁制の暗い時代であったと言われる。徐渭(じょい)は1521年(正徳16年)二月に紹興の士大夫の家に生まれた。父は四川の州同知を退官していたが、徐渭が生まれた100日後に亡くなり、後妻の苗宜人に育てられる。実母はこの後妻の侍女であったと言われる。10歳の頃、長兄の商売が思わしくなくなり生家は傾き始め、四人の奴僕は逃亡し、実母も暇を出された。嫡母には深く愛されたが、彼が14歳の時に亡くなった。その病が重くなるとあらゆる神仏に祈願し絶食は三日に及んだという。59歳で亡くなったが、百たび身を粉にしても報いられないとその墓誌銘に記した。徐渭は、恵まれない星の下に生まれたのかもしれない。

神童と言われた徐渭だったが20歳の時、杭州の郷試に受験するも落第。21年間に8回続けて落ちた。絶望的に退屈で画一的な勉学と受験技術の獲得には耐えられなかったのだろうと陳舜臣氏は述べている(『徐渭と董其昌』)。郷試に初めて落第した年、潘克敬の娘である介君と結婚した。入り婿のような形で妻の家族とともにその父親の任地であった広東の陽江に住んだ。四年後に息子の枚(ばい)が生まれたが、神仙を信じていた徐渭の長兄が丹薬を錬っていて亡くなり、妻も19歳の若さで亡くなるのである。束の間の幸せはあえなく消え去る。二年後に妻の実家を出て『荘子』から引いた「一枝堂」という名の塾を開いた。そして、19年も別れ別れだった実母を迎えている。

この頃、明は日本の倭寇に悩まされ続けていた。嘉靖(かせい)三十六年(1557)倭寇戦の戦死者のための慰霊祭が浙江で行われ、その時の祭文を徐渭が書いたのだが、それが、やがて兵部尚書(国防相)となる胡宗憲(こ そうけん)に認められることとなる。密貿易商人であり五島や平戸にも行き来し、やがて倭寇の頭目となった汪直も胡宗憲によって平定された。胡宗憲は厳嵩の派閥に属していたが、その八十歳の祝賀文を徐渭が書く。そして、翌年胡宗憲に代わって『鎮海楼記』を執筆。その報償として銀二百二十両という破格な金額を得る。40歳の時である。しかし、翌年再婚するもののその翌年には厳嵩が失脚した。明代にあっては、中央の派閥の頂点にあるものの失脚は、その系列にある人間たちの失脚をも意味した。胡宗憲も職を追われ、後に自殺する。徐渭の精神が歪みはじめるのはこの頃のことだ。

徐渭『雑花図巻』部分 南京博物院

 

逸格の系譜

日観『葡萄図』元

唐の中期には逸品画家と呼ばれる人たちが登場する。ちょうど呉道玄の白画の線が「意気をもちいて成る」と言われたように中唐の溌墨家たちが一気呵成で意志的な線描を発展させた。王墨、張志和、李霊省といった人たちが逸格の画家として知られているが、現存する作品はない。王墨は瘋癲にして酒狂と言われ松石山水を描いたが酔っては髻(もとどり)に墨を含ませて絹地に描いたという。張志和も山水を描くことを好み、痛飲しては興に乗って撃鼓吹笛し、目を閉じ、あるいは顔をそむけて筆が舞い墨が飛んで形を成していったと顔真卿(がん しんけい)が『文忠集』に書いている。そう言えば顔真卿の周囲には狂草と呼ばれる草書をよくした張旭(ちょう きょく)や懐素(かい そ)がいた。顔真卿については一碗 茶・チャ・ちゃ part1 陸羽『茶経』対話篇に触れておいた。茶聖陸羽はかつてこの張氏の食客であったという。墨を画面に注ぎ跳ね飛ばすといった動的な作画がなされた。それは墨がなせる不定形な形態から形象が現われ出てくると言った偶然を取り込むような作画である。アクション・ペインティングとオートマチズムの萌芽とも言えなくはないが中国には早くからこのような表現主義的な作品が登場する。想念にある形をイメージしながら一筆一筆、制作を積み重ねる従来の絵画とはまさに逆方向の絵画なのである。

その荒々しさや意気に溢れ画面に横溢する感情表現が禅の気風とも相まって水墨画に与えた影響は大きかった。蘇軾や黄庭堅のいう墨戯ともその精神において繋がるものもあっただろう。南宋の梁楷は自らを梁風子(狂人)と呼んだ画院画家であったが減筆体と呼ばれる水墨画も優れ、墨を惜しむこと金を惜しむが如しと皮肉られた。そして、元初に活躍した画僧日観は破れ袈裟と揶揄された葡萄図のような作品を描くようになる。明の中期には浙派の中に狂態邪学派と呼ばれる異端の画家たちが現われる。このネーミングはきっと呉派からの揶揄だろう。郭詡(かくく)、孫隆、陳子和、鄭顚仙(ていていせん)などの作家がいたが徐渭とは直接関係はなさそうである。しかし、徐渭の作品もまたこのような唐から続く逸格の系譜の内にあった。それは、筆が走りエネルギーがみなぎる。しかし、それだけではないのである。

狂気から浮かび上がる

七年の獄中生活は徐渭に心の安定をもたらした。読書や詩作の日々が許され、実母が亡くなった時も仮出獄が認められたという。州知事が変わるとより自由となり墓誌銘や郡学校の修復記念のための執筆などの依頼もされるようになる。1572年穆宗が崩御、大赦が行われ出獄が許された。52歳だった。その後の徐渭は数千の書籍を売り、絵を売り、詩文を作って糊塗をしのいだ。現在、我々が目にする作品はこの時期のものだという。

徐渭『雑花図巻』写し 徐渭旧居における展示

早くから英才教育を受けた徐渭だが、子どもの頃から激しやすい性格であり鬼神が乗り移るような発作がおきたともいう。一方で頓智話でも知られるような面もあったようだし、けっして世間に対して背を向けるタイプではなかった。文人として書第一、詩第二、文第三、画第四と自らランクづけしているが、詩に「山深くして石榴熟し/日に向って便(すなわ)ち開口す/深山 人の収ることまれにして/顆々(かか)明珠走れり」と自分の不遇を山深く顧みられることのない石榴に例えている。呉の知事をしたこともある詩人の袁宏道(えん こうどう/1568-1610)が彼を公安派の先駆と位置づけ、その伝記『徐文長伝』を書いていることは中田勇次郎の袁宏道『瓶史』文人と花の心に「文房清玩」のことと共に書いておいた。

牧谿『六柿図』 南宋・元初

そう言った複雑な性格であっても、世間との交わりを絶やさなかった徐渭なのだが、周囲の画家を手本にはしていないらしい。意外な画家を手本にしている。彼の作品がただ激しい、気魄あふれる、スピード感があるというだけではない、ある種の雅や潤いを持つのはそのためだ。その画家が牧谿なのである。この南宋末・元初の画僧の作品を最もよく理解した明の画家は徐渭ではなかったかと言われる。自然の一角を切り取って表現するような自然描写は北宋末の徽宗においては、自然景観とは完全に切り離されていなかったが、南宋の偏角画が一般化されるとこの頃には既に切枝画といったジャンルが定着していた。

「五十九年貧賤の身、何すれど嘗てみだりに洛陽の春を思いしや 然らざればあに胭脂(えんじ/紅い顔料)のあること少なからん、富貴の花 墨をもって神を写す」と自跋した徐渭の後半生は貧しかったではあろうが、その作品を見る限り心は豊かではなかったろうか。おそらく狂気は身を潜めていたにちがいない。万暦二十一年(1593)に73歳で亡くなるが、彼の作品は、やがて明末から清初にかけて活躍した八大山人や揚州八怪と呼ばれる画家たちに大きな影響を及ぼしていく。

実は、僕が徐渭に興味を持つのは、そこに何か東洋的な新たな絵画、それも自然に存在する形態の表象が内的に結びつくことができるような抽象と水墨画の間に存在するようなものの可能性を垣間見ているからである。その抽象と自然の形との関係はオーストリアの画家マックス・ヴェイラーによって眼を開かされた。僕にとって徐渭は、今極めて重要な作家なのである。

牧谿『燕と蓮』 南宋末・元初

 

江戸の至芸『操り三番叟』飛べ大黒天・舞え三番叟

黒式尉(こくしきじょう)

今回は、新しいシリーズに入るということもあり、お正月でもあるのでおめでたいものをと思って前からご紹介したかった「操り三番叟(さんばそう)」とその三番叟に関連した事柄を取りあげました。能の中で最も格式の高い『翁』は、翁、千歳(せんざい)、三番叟(さんばそう)によって演じられる祝言曲です。それについては、『翁』とはなにかでご紹介しておきました。

しかし、今回ご紹介する「操り三番叟」は楽しい。能の三番叟を操り人形で演じたものを再び人間が真似るという二重のミメーシスとなっているのです。乱拍子で比較的リズミカルに舞う人間の踊りを人形にさせ、それを人の踊りに戻している。乱拍子や能の前身である猿楽の踊りなどについては沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』 踊る大黒に三番叟に書いておきました。糸で繋がれた人形のように人はぶらぶら揺れ、くるくる回転するのだけれど糸が絡まって立ち往生してしまう。それを人形遣いがさも糸があるように身振りで解いていくと言う分けです。舞踊としての美しさもけっして欠けていない。江戸時代の至芸と言ってよいと思います。後で動画を見てくださいね。

能の三番叟は前半は面(おもて)をつけないで演じられ、揉みの段という見せ場がある。後半には鈴の段と呼ばれる農耕儀礼に関係するといわれる舞いがありますが、この時、黒式尉(こくしきじょう)と呼ばれる黒い面を着けて演じられます。これは、神楽で三番叟が演じられる場合も同じです。神事の『翁舞』についてはこちらをご覧ください「折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキ」しばらくして気がついたのですが、この操り三番叟の場合は人が演じていますが、途中で面を着けるということはなく、顔の色はずっと真っ白なままです。文楽の「寿式三番叟」には二体の人形の三番叟が登場するのですが、人形の顔は同じく真っ白です。僕は三番叟の面が何故黒いのかずっと不思議に思ってきた。どうも大黒天と関係しているのではないかというのが今一番有力な答えだと思っている。今回はそれも含めて「操り三番叟」をご紹介したいと思っています。

ともあれ、三番叟はおめでたい演目で、かつては、お正月に木偶(でこ)廻しによる門付けが行われていました。それに、お正月と言えば日本では獅子舞ですが、時期は、ずれるけれども所によっては裸祭りも見られるようです。中国、ヴェトナムには獅子舞だけが残っています。それらは八世紀以前にイランからサマルカンドおよびシナ・トルキスタン経由で、中国に入りました。もともとイランの正月に裸で走る少年たちにに冷水をかけるという変わった祭りがあり、それが獅子舞と共に伝えられたのです。寒さを追い払う祭りなのですが、チベットでは獅子舞も、裸の少年の競技と灌水の風習も共に並んで伝え残されたとフランスの東洋学の泰斗ロルフ・スタンは書いています。あの『盆栽の宇宙誌』の筆者です。西アジアやインドから発したものが行き着く所、それは日本とチベットなのかもしれませんね。

チベットの黒い老人と白い老人

チベットの旅芸人 狩人と姉娘役
photo A.W.Macdonald ロルフ・スタン『チベットの文化』より

スタンがその著書の中で能の「翁」について述べているのでご紹介しておましょう。「翁」で冒頭、謡われる「トウトウ タラリ」はおそらくチベット語ではない。だが、舞台を清め、福を招く白い老人「翁」と黒い老人「三番叟」のそれぞれの面に対応するものとして、チベットには「白い悪魔」の面(白)と狩人の面(黒)がある。また、「千代」という言葉に含まれる長寿の観念もチベットでは、やはり二人の人物によって表される。演劇の神タントゥンゲルポは生まれた時から老子のように老人で色黒であり、今一人は「長寿の人」と呼ばれ、ある種の仮面舞踏に登場する白い老人でした。

大黒天の仮面劇と地鎮の儀式

ラマ僧は瞑想によって神々や菩薩を降ろすことができるとされているし、吟遊詩人は忘我状態になって、英雄たちが向う側の世界で活躍している光景を幻視し、それを歌で描写しました。しかし、一般の人には見えるわけではない。それで絵画や仏像、仮面などが在家信者の教化のために用いられました。神の示現を理解しやすくするために仮面舞踏によって大衆の前で演じられるようにもなったのです。この儀式では、神は瞑想によって呼び出されると共に、仮面をつけた俳優が扮してもいるわけです。

どんな神でも仮面に作り得たわけではなく、「仏法の守護神」に限られていました。その仮面は、霊媒と同じく、この種の神が現われるのを容易にすると考えられていたのです。例えば「飛ぶことのできる黒」と名づけられた仮面はインドのある学匠から1000年頃、大訳経者と呼ばれたリンチェンサンポに渡され、彼がラダックに帰った時、その儀式の教えと一緒に他の僧たちに伝えられました。その伝授のとおり舞踏の間中その仮面は着けられていたといいます。その後、仮面はサキャ派の最初の僧院長に1111年頃伝えられ、19世紀まで同じ寺院に保存されていた。この仮面によって表される、グルキグンポと呼ばれるサキャ派の守護神は特別な姿の大黒天(マハーカーラー)でした。これらの仮面劇の中でも、大黒天は主神の役を演じるのが普通であるとロルフ・スタンは指摘しています。生身の人間は飛べませんが、大黒天はインドから飛んでくるに違いありませんね。

Der König von Gotsa, Lhasa
右手に金剛杵を持つGotsaの王 ラサ

この仮面舞踏が、どのようにして、また、いつ始められたかはよくわかりません。古いものは少なくとも10世紀に遡るといいます。あるいは、後期密教に属する8世紀の秘密集会タントラに遡りさえするといわれる。これらの仮面劇は、今一つの重要な要素である「地鎮」あるいは土地の「取得」の予備的な儀式としても行われました。金剛杵/こんごうしょう(あるいは金剛橛/こんごうけつ)によって聖域を区切るのですが、すでに八世紀のタントラの中に確認されています。そこには「金剛杵の踊り」と呼ばれる仮面のない舞踏が含まれていた。ニンマ派の金剛橛の儀式はパドマサンバヴァによってインドから持たらされ、チベット最初の僧院であるサムエ寺建立の際の「地鎮」に用いられました。後には、他の派でも詳細な舞踏の手引きが作られましたが、スタンはこれらの儀式は全てインド起源であるとしています。

密教と土地神との関係は深く、例えば最澄が比叡山延暦寺を開く時に場所を譲り受けたとされる日吉の神である翁、つまり大山咋神(おおやまくいのかみ)は山王権現と呼ばれるようになる。これは中国の天台山国清寺で祀られていた地主神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」に由来します。禅竹の『明宿集』では、宇宙神・守護神としてのもっと壮大な規模の翁が語られるのですが、これは土地神としてのいわれを指し示しているかのようです。それに関連して三番叟の鈴の段は地鎮の儀式を模しているのではないかという説もなくはない。

チベットの追儺の行事

18世紀の中国の書物や当時のイタリア伝道師の記録によると、新年の日、ダライラマはポタラの頂上で宴会を催し、中国人やチベットの役人を集めて戦争の舞踏をみせたようです。ちなみにダライラマのダライは、モンゴルの支配者アルタン・ハーン(1502‐1582)がデプン寺の僧院長を務めたソナムギャムツォに与えた称号で、モンゴル語で「海」を意味します。他の日に行われるのいくつかの催し物の後、30日には、ルゴンゲルポと呼ばれる「身替りの魔王」を追い払う式、つまり、追儺の儀式が行われました。

一人のラマがダライラマに扮し、民衆の一人が魔王に扮するのですが魔王は体の半分を白、半分を黒に塗る。魔王は家々を回ってその家の災禍を引き受け、かわりに寄進を受けて歩きます。そして30日になるとダライラマに扮した僧の前に現われ、宗教的な舌戦を繰り広げた後、クルミ大の骰子を振って勝負を着けるのですが、魔王の骰子は全て「負」、ダライラマの骰子は全て「勝」に塗ってある。魔王は怖れをなして逃げ出し、その後を大勢の人々が追いかけ、矢を射たり鉄砲や大砲まで撃ったりするらしいのです。これは凄まじい。川の対岸の牛魔の山(牛頭山)の頂上のテントまで逃げ込んで、大砲を鳴らされると、さらに遠くへ逃げて一年先にならないとチベットには帰ってこれないのだといいますから徹底した鬼払いの行事であるようです。

歌川国貞『あやつり三番叟』
19世紀 メトロポリタン美術館

操り三番叟の来歴

さて、「操り三番叟」の方ですが、どのような来歴なのか見てみることにしましょう。ことの起こりは、嘉永六年(1853)に大阪の歌舞伎役者、二代目嵐璃珏(あらし りかく)が大阪で演じた「初櫓豊歳三番叟/はつやぐら たねまき さんばそう」を江戸のお目見え講演で演じたのが大当たりとなった。初演の時は、題目を『柳糸引御摂/やなぎのいとひくやごひいき』と改め、大阪公演と同じように翁と千歳役はゼンマイ仕掛けの人形振りで演じられ、三番叟は今回ご紹介するような操り人形振りになっていました。この操り人形は、いわゆる文楽でいう木偶(でこ)人形のように人の手で操る人形ではなく、糸で操るものでした。当時は「南京操り」と呼ばれていたようです。

その初演の詞書を篠田瑳助が、曲を四代杵屋(きねや)弥十郎と五代杵屋六三郎が改作しましたが、オリジナルである能の三番叟の音曲は結構耳につく上に上手に編曲されていて一度聞くと耳から離れません。歌舞伎の音楽は、歌ものである長唄と語り物である浄瑠璃に大きく分かれますが、この所作事(舞踏劇)の一つである『操り三番叟』の音楽は長唄です。そして、明治三十二年(1899)には五代目尾上菊五郎が西洋のマリオネットに似せて実際のゴム糸を体に繋ぎ空中に浮いて見せたという記録が残っているようです。三番叟も空中を飛んだのです。

糸あやつり

糸操り、つまりマリオネットのような人形が日本に伝来したのは戦国時代の終わり頃といわれ、江戸では元和(げんな)三年(1617)の文献に今の日本橋に浄瑠璃(語り物)狂言の糸操りが興行されていたという記載があります。徳川家康が亡くなった翌年のことです。寛永(1624-1645)年間に、説教節の歌い手たる太夫であった初代結城孫三郎が興行主となって説教節を糸操りで見せていた。京都の角太夫芝居では奇術的な演出がなされた舞台上の仕掛け物やゼンマイ仕掛けの人形なども加わってくるようです。しかし、江戸時代中期にあたる明和(1764-1772)の頃には上方で糸操りは殆ど絶えてしまいますが、江戸では「さんばそう、さんばそう、南京あやつり」と呼びながら三番叟の糸あやつり人形を行商する姿が山東京伝の『錦の裏』という洒落本に書かれるくらい流行していた。しかし、宝暦(1751-1764)の頃には、義太夫節が手操り人形で演じられるようになり、説経節そのものが廃れていくにつれ江戸の糸操りも少しずつ衰退していったようです。復活するのは明治になって糸操り中興の祖といわれる九代目結城孫三郎によってでした。

日本の正月に行われた三番叟の木偶廻し

チベットの詩聖ミラレパの歌を訳したおおえ まさのりは文楽の頭作りの名人と言われた大江巳之助(おおえ みのすけ)(1907-1997)のご子息にあたります。お父さんが子供の頃には、木偶(でこ)を入れた箱を天秤棒に担ぎ、その箱に竹竿をさして木偶を掛けて、嫁さんが三味線を弾き、おじさんが浄瑠璃語りしながら辻芸をしていたといいます。山東京伝作、北尾重政画による四人詰南片傀儡(よにんづめ なんぺん あやつり)に出てくるような風景が実際に徳島にはまだあった。

歌川国貞(二代豊国/1786-1865)
文楽 相撲人形

木偶廻しの起源は兵庫県は西宮にある戎(えびす)神社の傀儡子(くぐつし)と呼ばれる人形遣いにはじまると言われています。戎神社は不具の子として流された蛭児命(ひるこのみこと)を祀っています。17世紀の終わり頃には、同じく境内に祀られている道君坊百太夫(どうくんぼう ももだゆう)という神を信仰する当社の神人(じにん/神社の雑役係)たちが産所と呼ばれる社の周囲に40軒ほど軒を連ねていました。彼らが福の神のえびす舞いや五穀豊穣を祈願する三番叟の舞い、それに仏の功徳を語り物にした説経節を人形で演じて諸国を回った。こうして全国にえびす信仰を広めていったのです。それは、摂津名所図会などにみられるように一人で手を使って操る人形だったと思われます。

室町末期から江戸初期にかけて成立した『室町物語』のなかには、すでに大黒とえびすが大活躍する「大黒舞(大悦物語/だいえつものがたり)」の話が収録されていますから、すでに大黒、えびすを言祝ぐ環境は整っていたのでしょう。立身出世と福神信仰に由来する祝言物です。因みに文楽興行が開始されたのは竹本義太夫が大阪に竹本座を創設した1684年でした。

飛べ大黒天・踊れ操り三番叟

三番叟の起源を考えるとなかなかミステリアスで面白いのですが、チベットの寺院での仮面舞踏劇が仏法の守護神たる大黒天(マハーカーラー)を主神として執り行われる事、もどき役がこの祭りには存在する事、ポタラでの身替りの魔王の追儺の儀式、おまけに民間レベルの祭りでは土地神へ奉納される演劇が豊作の予祝行事としての性格を持つこと、一部の祭りにおいては祖父母役と謎の人物の3人が登場する事などを考え併せると、三番叟と大黒天との関係を考えてみる価値はおおいにありそうです。猿楽のメッカだった多武峰(とうのみね)寺での修正会の鬼払いや東大寺二月堂の「お水取り」で知られる修二会で、鬼の役割をする摩多羅神(またらじん)や毘那夜迦(びなやか)という存在と大黒天とが関系していることは彌永信美さんの指摘にありました(彌永信美『大黒天変相』仏教神話学Ⅰ)。やはり、大黒天はインドからチベットや日本に飛んできたのかもしれない。地主神としての大黒天と大国主命とは習合しやすかった。そして三番叟との関連を考える時、中世の神仏習合の不可思議さに思いを馳せてしまいます。それが、田楽などともに猿楽(能)に取り入れられ、江戸時代を経て歌舞伎や糸操りなどの人形芝居の中で熟成されていった。

そのような中からこの「操り三番叟」も生まれた。しかし、能の演目を歌舞伎でアレンジし、それをまた能が歌舞伎のように演じたとしても何も面白くはないでしょう。この『操り三番叟』の面白さは操り人形の動きを人間が真似ることにあった。それも元々能の最も重要な作品であると同時に門付芸などで皆が知っていたものだった。能の三番叟を知っていれば、これがめちゃくちゃな三番叟だと分かる。パロディーなのです。折口信夫によれば、『三番叟』も『翁』のもどきだったのです。この二重に捻ったアイデアが素晴らしかった。こういった作品が現代に作れるかというとこれはかなり難しい。というのも、20世紀後半から日本人にとって古い芸術の意味が急激に失なわれていったからです。そういった本質的なものにどうかして繋がっていけないと本当の革新の可能性がない。ともあれ江戸の至芸たる操り三番叟をゆっくりご覧くださいね。

 

全部で18分くらいの動画ですが、残念ながら演者たちに関する記載はありません。しかし、いずれも名手です。

 

 

 

小川正廣 『ウェルギリウス研究 ローマ詩人の創造』 ホメロスとウェルギリウス

オーギュスタン・カイヨ『ディードーの死』
1711 ルーヴル美術館

ヘンリー・パーセルの作曲したオペラ『ディドとエアネス』、バロックオペラの傑作として誉高い。トロイの王子エネアスとカルタゴの女王ディドとの悲恋を描いている。ウェルギリウスが書いた叙事詩『アエネイス』を底本にして構想された。この作品の中でディドが自らの死を歌うアリアは名品である。

私が大地の中に横たわる時、あなたの胸の中に
私の過ちがなんの禍をもたらすことのないように
思いだしてください 思いだして ああ ! でも 私の運命のことは忘れて
私を思いだして ああ ! でも 私の定めは忘れてください

When I am laid, am laid in earth, May my wrongs create
No trouble, no trouble in thy breast;
Remember me, remember me, but ah! forget my fate.
Remember me, but ah! forget my fate.

しかし、ウェルギリウスの原作ではこのような哀感はない。本書ではエネアスはアエネアス、ディドはディードー、トロイはトロイアと表記されているのでそれに従う。そこでは、ディードーのアエネアスへの憎悪は極限に達して恐るべき呪詛の言葉が連発されるのである。

たとえあの憎らしい男が
港に到着し、陸地に漕ぎ着くことが必定で
それをユッピテルの運命が要求し、その結末が動かぬとしても、
どうかあいつが勇猛な民との戦さに悩まされ、
土地を追われ、ユールスを抱くことも奪われて、
はては援軍を請い求め、仲間の無残な死を見ることになれ !
そして不平等な条約に降伏し、待望の国も
この世の楽しみも味わえずに、時ならずして死ぬめに遇い、
埋葬もされず、砂の真ん中に置き去りにされよ !
これが私の祈り。この最後のことばを、血とともに注いでやる。
(『アエネイス』Ⅳ 小川正廣 訳)

『アエネアスとアンキセス』1697 ルーヴル美術館
ピエール・ルポールト(1659–1744)

そして、口を床に押しつけ、「いま死ねば仇を討てぬ。だが、死のう」「そうだ、こうして亡霊の世界へ行くがよい。この火を目から飲ませてやる、非情にも沖へ去ったダルダニア人(トロイア人のこと)に。わが死の凶兆をみやげにもたせてやる(『アエネイス』岡道男・高橋宏幸 訳)。」そう言い終えるとディードーは剣の上に倒れ伏した。

ここまで話が変わるのかと思うといささか不思議ささえ覚えるのだが、アエネアスはトロイアの優れた武将であり、その陥落に際してパラスの木像であるパラディウムを抱えた盲目の父親アンキセスを背負い、子のユールスの手を引いて脱出したといわれれ、敬神と孝心の武将として名高く、ホメロスの『イーリアス』でもヘクトルに次ぐ勇者として描かれた。パラディウムはトロイアの建設者イーロスの祈りに答えて天空から下ったといわれている。ちなみにトロイアの古名がイーリオンである。死に場所と決めていたその地をアエネアスは去り、妻や父親アンキセスを失い、多くの友人を失った。イタリアの地に向い、将来ローマとなる都市を建設する。彼こそがローマ建国の祖とされたのである。彼の母であるウェヌスのとりなしによってユッピテルは、トロイア人がイタリアの地で建設する都市は必ずや発展を遂げローマとなる、その「運命(fatum)」は不動であり、ローマ人の盛運は果ても限りも置かぬと定めたのである。

ホメロスの叙事詩

エドワード・シェフィールド・バーソロミュー
『ホメロス』1851 部分 メトロポリタン美術館

古代においてホメロスに対する哲学者たちの評価はけっして高くはなかった。紀元前6世紀には、ピュタゴラスやヘラクレイトス、クセノパネスらが神々に対して不敬だとしてホメロスを非難していたし、紀元前四世紀から五世紀の人であるプラトンは『国家』第三巻においてホメロスが描いた英雄たちが、あまりに感情に脆く、物欲が強く、残虐だとして英雄と言えど人間より何ら優れていないなどと若者たちに信じ込ませ、社会に好ましくない影響を与えているとした。国家の「守護者」の教育には勇気・節制とが理想とされなければならないというわけである。だが、一方で、『国家』第十巻では「あの素晴らしい悲劇作家たちの最初の教師であり指導者だった」と彼の詩に取り憑かれていたことを白状せずにはいられなかった。ホメロスの芸術的な長所を正当に評価できる感性を持っていたからこそ、叙事詩が文体においてミメーシスを含み、内容において神々の放埓な行いと人間の弱い性格や卑小さをあらわに描いているというマイナスの評価を下し、優れた文学が哲学の牙城を揺るがしかねないことをプラトンは懸念していたのであるという。

一方で、アリストテレスはプラトンと同じようにホメロスの詩を傑出した人間の模範的な行いを賛美するものではなく、弱点を持った人間たちの苦難の物語として受け止めていた。だが、『詩学』においてはホメロスを高く評価した。名声や幸福を享受していてもけっして理想的と言えない人間が、いわれなく不幸に転落し、そこで味わう苦難、それが悲劇や叙事詩における「厳粛な行為」の再現、つまりミメーシスなのである。それによって聴衆が感じるのは「恐怖」と「同情」から生じる「快感」であり、それが「カタルシス」であった。ホメロスは、その厳粛な事柄についての最大の作者だとされたのである。筆者の小川正廣はホメロスが追求したものは破滅に耐える人間の生、その誉を描くことなのであって破滅や死の美学を描くことではなかったという。そういえば、忠臣蔵だって運命の理不尽な重荷に耐えて本懐を遂げる物語だった。

ウェルギリウス『アエネーイス』
岡道男・高橋宏幸 訳

ウェルギリウスの野望

ウェルギリウスがホメロスが描いた登場人物の一人を『アエネイス』の主人公にしたことは大きな意味があるという。ギリシアの英雄からローマの英雄像を作り出さなければならなかった。そこに大きな矛盾と野望があったというのだ。

『イーリアス』におけるアカイア(ギリシア)軍とトロイア軍の血で血を洗う戦いは、争いの女神エリスの発案によってユーノ、アテネ、ウェヌスら女神たちの埒もない美貌争いから端を発した。まるで家族内の嫉妬や諍いを思わせる神々の軽薄な行いは、下界の人間たちに過酷な「運命」として重くのしかかる。ウェルギリウスの『アエネイス』においてもユーノは、トロイア戦争においてユーノ崇拝の中心地であったアルゴスの人々に対する殺戮への怒り、トロイア人パリスによって蔑(ないがしろ)にされた我が美貌、ユッピテルにさらわれ寵愛を受けたガニュメーデスとその子孫たるアエネアスへの遺恨によって彼を迫害した。ウェルギリウスは序歌に「かほどの憤怒を天上の神々が胸に宿すのか」と書いた。それにユーノは、自分の愛するカルタゴを世界を支配する国にしたいと考えていたが、「運命」によって妨げられる。ウェルギリウスの時代には、カルタゴとローマによるポエニ戦争(前264-前146)によってカルタゴは既に破壊されていた。それも世界のロゴスたるユッピテルの意志であったという。

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
『キルケ―』1891

オデュッセウスは、魔女キルケ―から帰国のためには冥界に降り、預言者テレシアスからその方法を聞かねばならないと教えられる。ご存じのホメロスの『オデュッセイア』の一節である。アエネアスはクマエの女預言者シビュッラに導かれ冥界にいる父アンキセスに出会う。息子を慰労した後、父はこれからのローマの壮大な歴史と英雄たちのカタログを開示するのである。ロルムス、カエサル、アウグストゥスらによるローマの権勢(Imperium)と支配が言祝がれる。ここはウェルギリウスを寵愛したアウグストゥスに対するオマージュとして言挙げされていると見ていい。そして、国家のためには無慈悲に我が子を殺すブルートゥスに対して深い憐みと同情が述べられ、舅カエサルと婿ポンペ―ユスとの内戦を嘆き、外国との戦いに勝利したローマの英雄たちが語られる。父は息子に傲慢な者には最後まで戦い、従う者には寛容を示せ、おまえが覚えるべきことは諸国民を統治する技術であり、平和を人々の習いとさせよと諭す。

ここでは芸術や学問に対するギリシアの栄光が世界の統治というローマの栄光と比較されている。その世界の平和を確保するためには、自らの生命を危険に晒し、自らの感性や知性のための「技芸」を諦めなければならないのであった。アエネアスはポリスや国家に対する忠誠より個人の誉を重んじるギリシア的な英雄ではなく、国家に忠誠を誓い、我が身を犠牲にしてもその権勢拡大のために働く新しいローマの英雄像を託されている。

『イーリアス』では、友人パトロクロスを殺された恨みに燃えるアキレウスが、敵将ヘクトルの遺骸の足に穴を穿って紐をかけ戦車に繋いで地面の上を引きずり回した。同じように若い朋友パラスの死を知ったアエネアスは、八人の若い敵兵を生け捕りにし、その火葬の炎の中に投げ込み、最大の敵トゥルヌスとの戦いでは、命乞いをする敵の肩にパラスの剣帯が戦利品として吊るされているのを見て恐るべき狂気と怒りに襲われ、無慈悲にもその命を絶つのであった。こうして物語は極めて後味の悪い終わり方をするのである。既に、ユッピテルの命によって疫病の女神ディーラがトゥルヌスの力を奪っていた。ここにユッピテルの意志である運命の決定と、国家の礎を築くために懸命になりながらも、けっして完全ではない人間として破滅の危機に直面しながら苦難に耐えて生きていく主人公の有様が語られる。何故なら、それが「叙事詩」であったからである。ここには、ギリシアの叙事詩に対して新しい英雄像を掲げるという野心と叙事詩というギリシアの枠組みから離れられない矛盾があった。ウェルギリウスの時代、ローマが世界に誇った権勢は既に過去のものと言うほかない状況になっていた。しかし、彼らの真の栄誉は、彼らが断念せよと教えられた芸術の力によって、今なお生命を保ち続けていると筆者は結んでいる。

ウェルギリウス(前70-前19)
ナポリのヴェルギリアーノ公園

ウェルギリウスの生涯

プブリウス・ウェルギリウス・マロは、紀元前70年にイタリアのマントゥア(現在のマントヴァ)に近いアンデスに生まれた。通説では父親は下級官吏の使用人であったが、勤勉を買われてその養子となり、森林を買い占めたり蜜蜂を飼い小さな財産を大きく殖やしたという(スエトニウス『ヴェルギリウス伝』)。北イタリアのクレモナとミラノで教育を受けた後、17歳の頃ローマに出て修辞学を学んで弁護士になろうとした。一度だけ弁護のために法廷に出たが、極めて内気だったためか話し方はあまりにたどたどしく、教育のない者のようだったので、それきり辞めたと伝えられている。この内向性は並外れたもので、詩人として名をなしてから、「あれが、ウェルギリウスだと」人が指差すと手当たり次第近くの家に逃げ込んだという。

前40年頃に『牧歌』が世に出るまで詳しい消息は分かっていない。エピクロス派の哲学者シロンに弟子入りし、ルクレティウスの詩に親しんだが、「田園の神々を――パンや老いたるシルウァヌスやニンフの姉妹を知るものは幸いなるかな(『農耕詩』河津千代 訳)」と田園の世界に立ち戻っている。この頃(前40年代)、カエサルはルビコン川を渡ってローマに討ち入り、ファルサロスの戦いでポンペイウスは破れ、カエサルの独裁、ポンペイウスの残党とカエサルとのスペイン戦役、続いてカエサルの暗殺、カエサルの養子であったオクタウィアヌスと共和派に対するアントニウスとのモデナの戦い、第二回三頭政治(オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥス)の開始、キケロの惨死、オクタウィアヌスに対するカッシウス、ブルートゥスによるピリッピーの戦い、オクタウィアヌス派とアントニウス派とのペルージア戦争と、打ち続く内戦によってローマは混乱の極にあった。

オクタウィアヌス(後のアウグストゥス/前63-14)初代ローマ帝国皇帝 ヴァティカン博物館

ウェルギリウスは最初、詩人でもあり軍人・政治家、キケロに次ぐ雄弁家として知られるガイウス・アシリウス・ポリオに庇護を受け牧歌を書くことを勧められた。ピリッピーの戦いで勝利を収めたオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)は、当面不要になった軍隊に属していた退役兵のために勝利の報酬として土地を分配しなければならかった。そのため、敵方の所有地の農民を強制的に立ち退かせて分けたが、土地が足りなければその周辺も没収された。ウェルギリウスはその巻き添えをくったのである。友人のガルスの取り成しでオクタウィアヌスに会うことができ、正当に土地の没収を取り消してもらっている。

この土地没収はイタリアの内戦による農地の荒廃に拍車をかける結果となった。ウェルギリウスの『牧歌』『農耕詩』は、そのような背景のもとに書かれたのである。その後、彼は、このオクタウィアヌスや富豪で文芸の保護者として知られるマエケナスの庇護を受けて国民的詩人への道を歩むことになるのである。

ウェルギリウスの生涯についてはウェルギリウス『牧歌・農耕詩』にある河津千代さんの「ウェルギリウスの生涯」が詳しい。ここではさわりだけ紹介した(人名表記は小川さんの『ウェルギリウス研究』に準じている)。尚、ウェルギリウスが前19年にギリシアに旅立つ前に死の予感があったのか友人に生きて戻らなければ『アエネイス』の原稿を焼いてほしいと頼み、彼は亡くなったが、アウグストゥス(オクタウィアヌス)は焼却を許すことなく未完の部分を残して出版したという逸話がある。河津さんは、興味ある問題だが、その詮索は小説の領域になるとしている。

筆者の紹介とウェルギリウス作品の波紋

小川正廣『ヴェルギリウスの研究・ローマ詩人の創造』 京都大学出版会 1994

筆者の小川正廣(おがわ まさひろ)さんは、1951年に京都で生まれている。京都大学文学部を卒業後、同大学の博士過程を中退。京都大学文学部助手、京都産業大学や名古屋大学文学部などで教鞭を執られ、名古屋大学名誉教授となられた。ウェルギリウスとの出会いは、学生時代、T.S.エリオットの「文明」「キリスト教世界」「成熟」などが散見される評論集の中にその名を発見したことからだという。

ウェルギリウスの魅力は二つあるという。一つは言葉の美しさ、もう一つはその崇高な精神的な価値にある。アレクサンダー・ポープは『牧歌』を「世界で最も優美な詩」と称え、モンテーニュは『農耕詩』を「最も完璧な作品」と位置づけ、ヴォルテールは『アエネイス』について「ホメロスがウェルギリウスを作ったと言われるが、それが真実なら、ウェルギリウスはホメロスの最も美しい作品である」とした。その精神的な価値は、社会的人間のモラルを説き、国や民族の統一する根本理念を示そうとしたところにあるとされた。エリオットが両大戦の中でヨーロッパの統一の理念をウェルギリウスに見ていたことは間違いない。

ストア派的一神教思想に影響されたウェルギリウスは、ローマの建国は神の意志であり、この神聖な国家はアウグストゥスの時代に全盛を迎え、人類を平和に統治するだろうと詠った。キリスト教徒にとって救世主の出現が「ローマ帝国」の誕生とほぼ同時であるという歴史的事実は大きな意味を持っていた。地上におけるキリスト教の確立こそがキリスト教において神の意志であった。ウェルギリウスは『牧歌』第四歌においてこのように詠っている。

クマエの予言の告げる、最良の時代がやってくる
偉大なる世紀の秩序が再び始まる
いまや乙女は帰り来り、サトゥルヌスの王国が戻ってくる
いまや新しき血筋が、高き天より遣わされる
‥‥
その子によって、鉄の種族はついに絶え、黄金の種族が
全世界に立ち上がる‥‥
その子は神々の生活に加わり、英雄たちが神々と交わるさまを見、
みずからも彼らと共にあって、
父の徳がもたらした平和な世界を統べよう
‥‥
(河津千代 訳)

サンドロ・ボッティチェリ(1445頃-1510)
『ダンテの肖像』1495

キリスト教徒ならずともこの時代をふり返るならばこの詩をキリスト到来の預言と考えて不思議はあるまい。ダンテの『神曲』はキリスト教徒によるウェルギリウス評価の総決算の感があるといわれる。それは中世において、神との合一を求めて「巡礼」の人生を送る聖職者たちにとってウェルギリウスが哲学的・宗教的な求道精神の権化であったからだ。同時にローマの歴史とキリスト教世界との関係性を教える最も有力な権威でもあったからだというのである。

最後に

ウェルギリウスは、『牧歌』ではテオクリトス、『農耕詩』においてはヘシオドス、『アエネイス』においてはホメロスというギリシアの詩人たちを手本としている。同時代のローマの詩人たちがそうであったようにギリシア文化を同化・吸収して新たなローマの詩を創作しようとした。日本では確かにホメロスなどに比較してウェルギリウスなどのローマの文学は馴染みが薄い。ラテン文学はギリシア文学の二番煎じだという偏見は根強くあるという。優れたギリシア文化は直接ギリシアから学べばよいのであって何もローマの「レプリカ」を通して研究する必要はないという見方は今も支配的であるという。しかし、世界の多くの地域で新しい文化は過去の文化の評価から始まっている。文化の歴史はその繰り返しであるという。小川さんはギリシア文化がローマ的な変形を受ける過程で、いったい何が吸収されて生かされ、何が消化されなかったのか、また、何が新たに付け加わったのか。この問題こそ日本も含めて後世の人々にとっても大切なことだろうと述べている。これは松岡正剛さんがずっと言ってこられたことでもある。

さて、前に予告しておきましたように、いつの頃からか初まった「著書の紹介シリーズ」ですが、ひとまず今回で最終回とさせていただきます。次回は新春ということもあって僕が江戸の至芸と勝手に考えている「操り三番叟」をご紹介する予定ですが、併せて三番叟と大黒天との関係も述べてみたいと思っています。どうぞ、お楽しみに。

 

ホメーロス『イーリアス上下』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウェルギリウス『牧歌・農耕詩』
「ウェルギリウスの生涯」収載

ミシェル・テヴォー『アール・ヴリュツト』 壮麗な無関心の創造力

アーヌルフ・ライナー『カタログ』2006

まだ、かねこ・あーとギャラリーが東京は京橋にあった頃、僕はここでかなり個展をさせてもらっていた。オーナーの金子多朔(かねこ たさく)さんが、展覧会の度に「日本の作家の絵は脆弱なんだよ」と言っては、僕にアーヌルフ・ライナーのカタログを手渡してくる。最初は「はあ」と言って受けとっていたんだけれど、さすがに三度目にもらった時にはファンになっていた。「これは何かあるんだ」と鈍い僕も気がついたのである。このギャラリーはアンリ・ミショーやこのライナーを手がけた画廊として有名だった。恐らく僕のもらったカタログは、ライナーの日本初のカタログではないかと思う。勿論、このギャラリーのオリジナルであった。そのカタログは巻末に掲載しておく。

ライナーには、一度、ウィーンであったことがあるけれど何か気難しそうな人だという印象しかない。ウィーン幻想派のレームデンがとっても温かい感じの人だったのと好対照だった。ライナーは、いわゆるアール・ヴリュットに興味を持ち、そのような作品を意識的に自分の作品に取り入れて制作してきたオーストリアはバーデン出身の画家である。ライナーの作品を見るとかねこ・あーとギャラリーのことを思いだす。金子さんご健在かなあ。

デュシェンヌ・ド・ブローニュ(1806-1875)
顔の表情のメカニズムのためのデモンストレーション

既に19世紀には、デュシェンヌ・ド・ブローニュが電気生理学や神経科学の分野で筋委縮症や進行性麻痺などの患者の表情の変化を研究していたし、19世紀の末には、ジャン=マルタン・シャルコーが院長を務めたサルペトリエール精神病院でポール・リシェがヒステリーや癲癇の患者の様子を描いたりしていた。そのようなイメージについての関心が徐々に高まりつつあった。リシェのデッサンは『エゴン・シーレ』part1 ジェスチャーする絵画で少し触れておいたし、この硬直する肢体の様子はヴァールブルクの情念定型にも関わっている。ライナーは、患者たちの症状の様子に興味を持ち、それらに似せてパフォーマンスしたセルフポートレイトに彩色した。その作品が、上に掲載しておいたフランス語版のカタログの表紙である。彼は1950年ころから精神病院の患者たちの身体的な特徴だけでなく彼らの作品そのものに興味を持ち、それらを収集するようになっていた。それがアール・ブリュットと呼ばれるものである。ライナーの作品からは心の奥底の澱を下からまさぐられるような不気味さがある。そんな彼が惚れこんだアール・ヴリュットとは、いったいどんなアートなのだろう。

ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュット』

最近このアール・ヴリュットのいい本に出会った。ミシェル・テヴォ―のその名も『アール・ヴリュット』である。前回ご紹介したハンス・プリンツホルンの『精神病者はなにを創造したのか(原題/精神病者の造形)』が彼らの作品の芸術性に初めて美学的観点から光を当てた画期的著作であったのに対して、このテヴォ―の本はデュビュッフェ以降のいわゆる「アール・ヴリュット」の概念が広まり、定着していこうとする時代の著書を代表するものと言って良いのではないかと思う。フランスでは1975年の出版されているが、日本では2017年の刊行である。

筆者は、当然、この芸術を愛しているし、それらの作者たちにも暖かい眼が向けられている。だが、そこには色々な問題が山積しているようだが、筆者はそれらの問題に直面しながらも、どのようにこのアートの地位を維持するかに腐心している様子が窺える。ともあれ、非常にバランスのとれた、良い本だと思う。アール・ブリュットは「生の芸術」、つまり調理されていない芸術という意味だが、もともと美術史家が名づけたものではない。一人の画家によって提唱された。それがフランスのアーティスト、ジャン・デュビュッフェであった。彼が敬愛したアントナン・アルトーの述べた「生の映画(シネマ・ブリュット)」から発想を得たのではないかと言われている(『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。デュビュッフェは既成の美術界に反旗を翻し、このアール・ブリュットをそれを破壊する兵器とさえ考えていたのである。ちなみにアウトサイダー・アートという名称は1972年にイギリスの美術史家ロジャー・カーディナルが「アール・ブリュット」の英訳としたものである。

デュビュッフェの「アール・ヴリュット」の定義とはおよそ、このようなものである。このアートは芸術的文化の影響を免れた人たちによって作られた作品である。そこでは、ほとんどと言って模倣がない。創作者は主題、材料、表現方法などを伝統的なありきたりの型からではなく、自分自身奥深い所から引き出す。作り手自身の固有の衝動を唯一の起点として、その芸術が全ての局面において純粋で生のままの発明が遂行される芸術。したがって、ひとえに発明という機能だけが姿を表す芸術であり、文化芸術の中に絶えず姿を見せる無節操な猿真似とはおよそ異なったものだという。ミシェル・テヴォ―は、この定義から三つの特徴を引き出せるとして、こう述べている。

1. アール・ヴリュットの作者は精神的にも社会的にもマージナルな人々であり、彼らの作品は通常「美術」に関係すると思われている学校やギャラリーや美術館などのネットワークの外部で構想され、作られる。制作者は必ずしも精神病者や精神的な障害を持つ人とは限らないが、アール・ブリュットと呼ばれる作品が制作される場所の多くは精神病院や老人ホーム、稀に監獄であったりする。それから、プリンツホルンも指摘していることだけでけれど制作者が霊媒というケースもある。

2.それらは多くの場合如何なる受け手も想定されることなく慣習的な受け手を度外視して構想される。彼らはお互いに何の有機的関係を持っていないし、いかなる連続性にも配慮しないという。それは他者のための作品ではないのである。

3.それらの作品は伝統的な慣習や流行の影響を受けたものとはほとんど無関係である。それは個人の発明であり、その全特徴からして最も前衛的な形態をも含めて「文化芸術」と呼び慣わされたものと対極にある。既成文化の廃墟の中に、芸術創造がいかなる制度化された回路やいかなる社会定義とも無縁の、孤立した民衆性をもって再生しているというのである。

ミシェル・テヴォ―(1936-)
Émilienne Farny 画

筆者のテヴォ―はローザンヌ大学を卒業後、名門のフランス社会科学高等学院で学んだ。ロラン・バルトやミラン・クンデラらが教えていた学校だ。ローザンヌ州立美術館の学芸員を経て1975年から同じくローザンヌにあるアール・ヴリュット・コレクションの館長(1975-2001)となって美術館の管理、運営、作品収集を任された。このコレクションは「アール・ヴリュット」の名付け親であるジャン・デュビュッフェが中心となって収集したもので、当然ながら彼とも親交が厚かったようだ。美学を精神分析や哲学、社会学と関連させる多くの著作があるという。日本語訳された著書に『安らかな死のための宣言』『不実なる鏡 絵画・ラカン・精神病』がある。

そういえば、何年か前の広島市現代美術館のカタログを調べてみたら、この人の名前があった。『解剖と変容』という、チェコのアーティストであるアンナ・ゼマンコヴァーとルボッシュ・プルニーの作品を紹介する展覧会だった。アール・ヴリュットの古典的な作家という触れ込みになっている。この展覧会で放映されていた映画『天空の赤』のなかにはアドルフ=ジュリアン・フレという隠遁司祭が17年間鏨とハンマーで彫り続けた圧倒的なロテヌフの崖(下の動画参照)、サイモン・ローディアのアナザーワールドたるワッツ・タワー、ヘンリー・ダーカー、ズデニェク・コシェック、松本国三などの作品が紹介されていた。

 

 

この映画『天空の赤』のなかにはテヴォ―も出演していて、こういったコメントがあった。「知るべきことは―― アール・ブリュットだけでなく 芸術一般において 錯乱にも似た狂気 狂った仮説の投影 現実との断絶は 精神の優れた機能で 人間の才能だということ 芸術に期待すべきは異常な何かだ それは新奇で私たちの思い込みを裏切る 狂気がなければ それは芸術ではない(『解剖と変容』収載)」

ここではいささかアグレッシブな発言になっているが、デュビュッフェは、「消化不良患者の芸術」や「膝の悪い人の芸術」という名称がありえないと同じ様に「狂人の芸術」などないと主張している。そこがアンドレ・ブルトンとの決別の原因となった。だが、「狂気による芸術」はありうるとして称賛している。芸術における狂気に対してポジティブな評価を与ているのである。テヴォ―も同じ立場だろう。前回紹介したプリンツホルンは、自分がいくら芸術的な幻想性の不気味さを熟知していたとしても、患者たちの作品がいつまでも不気味なままであり続けるのは彼らの個人的体験領域が基盤にあるからだと指摘している(『精神病者はなにを創造してきたのか』)。プリンツホルンが世に問うた創造的人間の世界感情と精神病患者のそれとの関係に再び照明が当てられるだろう。

『解剖と変容 アール・ヴリュットの極北へ』 現代企画室 2012年刊

同じ映画の中で、コレクターのジェラール・シュライナーはこう述べている。「アール・ヴリュットを買う人は それが重要だと思って買い それまでのコレクションを無に帰してしまう それほどに興味深い 理解しようと努力すればの話だが この芸術には嘘がない 芸術家もどき達の市場操作とは無関係だ 奴らは芸術家と呼ばれるが何の価値もない 30人も助手がいて20万ドルで売り出される それをテキサスのおバカさんが買う そんなのが芸術か? 分かるだろう? アール・ブリュットだけが永遠だ(『解剖と変容』収載)」実は、ここにもこの芸術が抱えなければならない大きな問題の一つがのぞいているのである。

例えば、精神病者のヴィジョンは特別魅力的で大きな影響力を持ってきたが、数十年くらい前から彼らの創造性がほとんど枯渇してきているという。1975年に書かれていることを考えると、現在ではその傾向はより強くなっているだろう。精神科医や看護士は病者の芸術的な表現を妨げることなく鼓舞するようになってきた。アトリエを持たない精神病院は一つもなく入院患者の作品はとてつもなく増えているという。しかし、これが創造性の低下に繋がっているというのだ。患者たちは彼らの作品に向けられる症候的・治療的関心、さらにそれが利益をもたらすことに無関心ではいられない。彼らは彼らの作品を認めた医学的な刊行物などにも触れ、その中に範を求めたりするようにもなるという。これが意識的なものか無意識的なものか僕には分からない。もっと深い意味で言えば、彼らは、その作品に「必然性」や強度の喪失を感じるようになる。かつては、いじめや抑圧にあっていた病院内で創造的な個人はそれらに立ち向かわなければならなかった。彼らの作品はこうした対立や秘密性の風土から過激性や活性的な性格を引き出してきたからだというのである。そして、精神病院の様相を一変させた神経弛緩薬(抗精神病薬)の問題があるという。

フェルディナン・シュヴァル(1836-1924)『理想宮』 1890

フェルディナン・シュヴァルがフランスの片田舎オートリーヴに創った『理想宮』。彼は郵便配達の仕事をしていたが、ある日、道々拾った石が面白くて自分の庭にコンクリートで固めながら「おとぎの国」を作り始めた。彼は精神的な障害も病気も持たなかったが、「あたまがいかれてる」などの中傷を受けることを予想し、理解できない人間を周囲の人びとが迫害し始めることも覚悟していたという。やがて、彼の名はアンドレ・ブルトンやピカソにも知られるようになり、時の文化相アンドレ・マルローによってこの『理想宮』は文化財として登録された。まさに、芸術的な制度の全くの枠外で活動したマージナルな存在、ブリコラージュを駆使した自分の楽しみのためだけのアートであった。このような人々の作品がアール・ブリュットの原点と考えられる。

このようなアートもやがて美術という制度の枠組みの中に組み込まれていくことは食い止めることはできないのではないかと僕は思っている。テヴォ―は、それにずっと抵抗してきた。既に欧米ではこのアール・ブリュットのマーケットが形成され、とてつもない値段で彼らの作品が売り買いされている現状がある。日本でもそれに追随する動きは当然起こる。早くからアール・ブリュットに触発されて優れた作品を制作するデュビュッフェやライナーのような作家たちがあらわれるようになり、当然ながら、単なるアール・ブリュットのエピゴーネン(模倣者)たちの作品などが溢れはじめる。このような経過を経て社会のエニグマであったものは、なおざなりに理解され無害化されてレッテルを貼られて分類されるというわけである。そうなる可能性は高いと思う。

さて、デュビュッフェが中心となって収集したローザンヌのアール・ブリュット・コレクションから二人だけご紹介しておこう。

パスカル・メゾーヌヴ

パスカル・メゾーヌヴ(1863-1934)
『長い耳を持った男』1927-28 
貝殻のアサンブラージュ

パスカル・メゾーヌヴ(1863-1943)は、攻撃的精神で知られるボルドーの骨董屋であったが、持ち前の反権威主義・アナーキスト的感情を滑稽極まりない手段で表現することを好んだという。64歳の時に著名な政治家や君主の肖像を貝殻でこしらえようとした。テヴォ―は、顔の形態は知覚の発生時に知覚を形成する役割を果たすところに由来するという。そう言えば顔の形態は視覚連合野だけでなく、脳のもっと古い時代に形成された部分でも把握されているという説を聞いたことがある。ミショーのデッサンではないが、顔は一生を通じて特権的なリビドー的価値を保持し、雲や岩などのカオス的相貌を伴って幻覚的形態のもとに現われたり、夢を見ていたり、ボーとしていたりすると再び現れたりするのだという。

メゾーヌヴが作る顔の奇妙な魅惑は、貝殻という突飛な素材の中へ置き換えられたために表現された人の個性がそこから取り去られ、その顔を顔が組み込まれていた心理学的なネットワークから解放されることにあるという。人は生まれて6ケ月まで顔を顔一般としてしか把握できないらしい。メゾーヌヴの作る顔は、その魂のない巨大な顔が自分に向って傾けられた時の幼児の原始的感動を覚醒させてくれるというのである。

アドルフ・ヴェルフリ

アドルフ・ヴェルフリ(1864-1930)は、八歳の時に母が亡くなり監獄にいた父もその数年後に亡くなる。農場に預けられるが、そこで酔っぱらいの親方による殴打と強制的な飲酒によって次第に監獄と精神病院への道を歩みはじめる。1897年から20年に亘って独房に閉じ込められたが、1899年のある日、彼はナイトテーブルを壊し、その破片で独房の戸と廊下の窓を打ち破った。しかし、逃げることなく自分で壊した穴の前で真っ青な顔をして体をこわばらせ汗まみれの状態で発見された。そのことがあった年、彼は絵を描いたり文章を書き始めるようになる。常時、作品の制作を行うようになり大量の手稿と楽譜を散りばめた絵を描いた。幅50センチの大きな紙に書かれ装飾で飾られた自伝は二メートルの高さにまでなったという。1930年に亡くなるまで間断なく制作は続けられた。

この人の作品を見ると、まず構造的な厳格さに驚かされる。形は際限のない拡張の原理にしたがって広がり、無限に重なりあい連なっていく。彼を診ていた精神科医のモルゲンターラーは「ヴェルフリは運動感覚の人である。”彼は鉛筆で考える”のであり、動きが彼の思想を触発するのである」と述べているという。彼のいたヴァルダウの精神病院の部屋の壁には彼の絵がそのまま残されていて、それを見る人は表面から狂乱的にはみ出していくエクリチュールに宇宙的使命感さえ感じるという。

彼の作品に書かれるおびただしい音符は楽譜としてだけでなく、表面を測定したり諧調化したりできる生理的なものと精神的なものの間の架け橋となるようだ。楽譜はメロディーとリズムとしての価値だけでなく造形的な価値ももっているという。文字は、彼の言葉の流れに沿ってローマン体からゴシック体、あるいは自分が発明した文字へと変貌していくという。彼は時に大文字を積み重ね、いくつかの子音を繰り返し使って解読を妨害し綴りを意図的に不透明にする。それは楽譜として口語的なメロディーと意味作用とが直結して、同時に文字がその視覚的な形によっても意味の生産に直接働きかけるように思えるという。ヴェルフリが書き残した楽譜を整理して音源化したものがあるので下にご紹介しておく。現代音楽の世界に「ムジーク・ブリュット(生の音楽)」という領域があるのかどうか僕は知らない。

彼のモチーフは薬物のメスカリンによる状態などと同様にあらゆる感覚印象を結びつける代数ののようなものを感じさせるとテヴォ―は言う。ただ、プリンツホルンは麻薬などの一時的な異常体験は、精神的な障害によって迫りくる圧倒的な幻覚のこちら側にあると指摘している。その比ではないのだ。ともあれ、伝達の欲求に資するための一連の絵文字、文、語、音節文字、表音文字はなんらかの象徴記号として生まれるのだと指摘している(『精神病者はなにを創造したのか』)。それらは代数のように変換・交換可能なのだ。ヴェルフリは言葉をもののように扱って戯れるのを好んだし、逆に形を概念のように扱い、形の様々な形態を変奏し、最も具象的な形を完全に抽象的なものにしたりするというのである。物がまだ、物体性を持っていない段階、持っていても不安定で変動しやすい状態に引き戻され、それぞれのものが常に思いがけない変換に晒される。それゆえ一つ一つのものに意味を割り振るのは無駄だというのである。これは、プリンツホルンが指摘した精神病患者の造形にある特性の一つ、遊戯性のことを言っている。

ヴェルフリの書いた楽譜を整理して音源化したもの。短い曲が何曲も連続します。

Island Neveranger (1911) · Adolf Wölfli, Baudouin de Jaer
The Heavenly Ladder / Analysis of the Musical Cryptograms
Released on: 2011-04-09
Composer: Adolf Wölfli Composer: Baudouin de Jaer Music Publisher: D.R

川井田祥子『障害者の芸術表現』
福祉行政の立場から見た障害者の芸術活動を扱っている。コンパクトによくまとまっている。

日本でもアール・ブリュットに対する関心は、高まりつつあるようなので、少しご紹介しておく。1950年代の山下清ブームはあったもののアール・ブリュットに対する日本の反応は鈍かったようだ。その中でも、先頭を進み始めたのは福祉の関係者であるという。コンサート活動と並行した絵画、書、語りなどの活動を開始した「たんぽぽの家」から発展した「エイブル・アート・ジャパン(日本障害者芸術文化協会)」、西宮市の知的障害者通所授産施設すずかけ作業所、それに2004年に滋賀県近江八幡市に開館した、「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA(社会福祉法人グロー/GLOW~生きることが光になる)」が挙げられている。アートとは別に身体的であろうが、精神的であろうが障害を持つ人たちに対するケアは社会として当然あるべきものだろう。

ただ、テヴォ―が指摘したように作家の制作に与える制度の影響はアール・ブリュットの枠そのものを破壊する。平等性や人権意識を重視する医療・福祉の論理と「芸術性の高い作品」を求める芸術の論理が衝突する場面も多いらしい(川井田祥子『障害者の芸術表現』)。障害者の中からアール・ブリュットの作家を育てようとする「アトリエ・インカーブ」というアートスタジオも2003年に設立されたようだ。当然といえば当然かもしれないが売れる作家と売れない作家の格差が生まれているという。アール・ブリュットの売れっ子たちが基金でも立ち上げられるようになればいいのかもしれないのだが、もはやそのような制度の中のアーティストはアール・ブリュットの定義から外れてしまうという矛盾が生じるのである。これはなかなか悩ましい問題と言わなければならない。

 

最後にヴェルフリの絵画作品をまとめて見ていただこうかとも思ったけれど、アール・ブリュットの作家ではないのですが、きっとこのライナーの作品の方がアール・ブリュットの作品の持っているようなある種の強烈な感覚が伝わりやすいのではないかと思ってこの映像にしました。興味のある人はどうぞ。

 

その他の参考図書

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』

アーヌルフ・ライナー カタログ 
かねこ・あーとギャラリー刊

末永照和『評伝 ジャン・デュビュッフェ』
極めて詳細にデュビュッフェの生涯を追っている立派な著書である。

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』芸術家と精神病者の世界感情

ハンス・プリンツホルン『精神病者はなにを創造したのか』ミネルヴァ書房  2014年刊

パウル・クレーはこう書いている。「‥‥プリンツホルンの素晴らしい著書をご存じだろう。われわれも全く異論はない。そこに収容されている作品を見ると、あそこにもここにもいたるところに最良のクレーがいるのだ ! そこに示されている宗教上の主題の深さや表現力は私が絶対に到達できないものだ。それらは本当に崇高な芸術なのだ‥‥。(ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュツト』杉村昌昭 訳)より」

また、ヘルマン・ヘッセはこう書く。「狂気が、高い意味において、あらゆる知恵のはじめであるように、精神分裂症はあらゆる芸術、あらゆる空想のはじめです。学者でさえそれを既になかば認識していました。たとえば、『王子の魔法の角笛(プリンツホルンを指す/筆者)』というあの魅惑的な本、一学者の辛苦精励した仕事が精神病院に閉じ込められた多数の狂気の芸術家たちの天才的な協力によってりっぱにされているあの本を読めばわかるように。(『荒野の狼』高橋健二 訳)」

ハンス・プリンツホルンは総数450人もの精神病患者の5000点にものぼる作品をもとに『精神病患者の造形』を執筆し、その著作は1922年に出版された。それが、今回紹介する『精神病者はなにを創造したのか』の原題である。「狂人の芸術」というテーマの著作が、それまで無いわけではなかった。チェザーレ・ロンブローゾ『天才と狂気』(1864)、フリッツ・モール『精神病患者の絵とその診断について』(1906)、ヴァルター・モルゲンターラー『芸術家としての精神病患者』(1921)などがあったが、本書は、精神病者の病状と作品との関係だけではなく、膨大な数の造形作品そのものを精神医学と美学の両面から捉えていることに画期的な意味を持っていた。

「天才と狂気」というキャッチフレーズが存在するのは、昔の人たちが芸術家を襲う聖なる狂気のことを話し、恍惚や忘我状態のことを伝え、狂気の中に聖なるものを見いだしてきた過去があるからである。だが、こうした「狂気」のすべての形態の中に何か奥深い共通点があるのか、あるなら厳格な方法でより深い認識に到達すべきでないのか。何千年もの間、最高の文化的要素だとされてきた精神状態が病気だとされている現在、そう判断された手続きが完璧を期したつもりでも、その発端から誤っていたのではないか。このような様々な問いかけから本書は「芸術的インスピレーショーンや造形の過程」と「精神病患者の世界感情」の間に何らかの類似関係が見出せるかどうかを問おうとするのである。昔は互いに類似し、今は互いに縁遠いとされる二つの心理状態の形態の関係性を問いたいのだという。

本書のあとがきによれば、1886年にドイツ西部のヴェストファーレン州のヘーマーでプリンツホルンは生まれた。テュービンゲン、ライプチッヒ、ミュンヘンの大学で美術史と哲学を学ぶ。ドレスデンの州立歌劇場などを設計した新古典主義の建築家であるゴットフリート・ゼンパーにつての研究で博士号を取得した。その後、歌手を目指して数年間ライプチッヒとロンドンで声楽の専門教育を受けたという。1913年に同じ声楽科の妻が精神を病んだ。それで彼はフライブルクやシュトラスブールで医学を学び、1919年に医学博士の学位を得ている。

第一次大戦に従軍したプリンツホルンは、野戦病院でハイデルベルク大学付属病院の精神科院長のカール・ヴィルマンスと出会い、その勧めで1919年にその医局員となった。19世紀末にエミール・クレペリンが始めた教材用の精神病患者の作品の収集・拡大が仕事だった。ヴイルマンスと共に国内はもとより国外の造形作品5000点を集めた。それらは、1850年から1920年に制作されたもので現在のプリンツホルン・コレクションを形成していている。彼はそれらの作品を収蔵する美術館の建設と教授職を夢見ていたが、果たされず1921年に病院を退職した。その後、本書を1922年に完成するのである。そして、1933年にチフスで惜しくも亡くなっている。

幻覚体験による『大気現象』 作者未詳
プリンツホルンは、こういった幻覚の描写は滅多にないという。

美学者としての眼識、精神科医としての知識、そして家族に患者を持つという彼の立場が本書を不朽の名著にしたと言えるのではないか。「アール・ブリュット」、つまり生の芸術を提唱したジャン・デュビュッフェは23歳頃に、このプリツホルンの著作に触れ、ドイツ語はわからないものの、それらの作品の奇態な発想、無償の神秘、剥き出しの感覚に眼を見張り、1945年、7月にスイスのモルゲンターラー博士のいるヴァルダウの精神病院を訪れる。患者たちの作品を収蔵した小美術館を見学し、声を失うほどの感動を味わったという。そこには、アドルフ・ヴェルフリやハインリヒ・アントン・ミューラーらの作品があったのである(末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ』)。アール・ヴリュットやヴェルフリについてはミシェル・テヴォ―の著書『アール・ブリュット』で次回ご紹介する予定です。この『精神病者はなにを創造したのか』には10人ほどの患者の作品が紹介されているのだが、その中から二人の作品をご紹介しよう。

アウグスト・ネータ―

アウグスト・ネータ―は1868年にドイツに生まれた。父は銀行員だったが彼が生まれた3年後に亡くなっている。利発な子で実業学校に通い機械工の訓練を受けた。機械工として働きながら、ドイツはもとよりスイス、フランス、アメリカなどを放浪し、29歳頃にドイツで自分の店を構え10年ほどは順調だったという。鬱病傾向が続くようになり、最後の審判について不安そうにかつ興奮しながら話すようになった。やがて手首の動脈を切ろうとするようになり、施設に委ねられ、大規模な第一次幻覚体験を伴う精神分裂病(現在では統合失調症と呼ばれる)の急性期だと診断された。

アウグスト・ネーター(1868-1933)
『出現時の私の眼』1911-12

繰り返し同じ幻影を見た。城のある都市の兵舎にいる。最初、雲の中に白い斑点を見た。雲はみな立ち止まったままで、電光石火のような光景が、半時間に一万もあらわれては消えて行く。主なる神や世界を創造した魔女が姿を現わす。数々の戦争の情景、大陸、記念碑、数々の城、宮殿、世界の栄華を極めたもの‥‥動いているのは生きている人影であり、主の変容で満たされると生命が吹きこまれた。すべては不気味で刺激的だった。それが最後の審判の啓示であったというのである。ネーターの病状は外見上、その態度に大きな変化はもたらさなかったが、すべての段階を通して、妄想傾向は発展し、体系化されていったという。彼は真の家族史を発見した。祖母はナポレオン一世とルイ15世の孫にあたるイザベラ・フォン・パルマの嫡子であったというものである。

ネーター『世界軸と兎』 1919

『世界軸と兎』というこの絵をみていただきたい。雲が降りてきて、そこに世界軸があった。そこから雲は板となり七本の枝をつけた樹木が生まれる。それは七本腕の燭台であった。その樹木には山羊の足である両足が付けられた。そして馬の足に変化した。悪魔だ。この樹木の上には自分の系図が現われていた。樹木は神のやさしい手に守られていたが、それは優しい女性の手であった。‥‥樹木は嵐の中でローラーのように回転させられ、樹木に代わってジュピターの頭が、戦いの神のそれが現われ出てきた‥‥。ネーターのこの絵に関する説明文である。この絵は世界大戦を暗示しており、ネーターは戦争の結末も含めてあらゆることをあらかじめ知っていたという。彼が見たものには続きがあり、雲から突然兎が飛び降り、ローラーの上に乗る。兎は「壊れやすい幸福」を意味しているという。それからシマウマになり、ガラス製のロバに姿を変え、ナプキンがかけられ、毛が剃られた。傍らにはずっと聖杯があったという。

左 ネーター『奇蹟の羊飼い』 右 古賀春江『涯しなき逃避』1930

この図の左はネーターの作品、右は日本のシュルレアリスト古賀春江がネーターの作品から発想を得て描いた作品ではないかと考えられている。1923年、大正12年には本書が日本で雑誌『みずゑ』に紹介され、図像が一点掲載されている。2年後には『アトリエ』に図像6点が掲載され紹介されていて、右の古賀春江の作品がなによりの証しとなっている。クニュッブファーの下記の作品は芥川龍之介の『歯車』にも影響を与えたという。

ヨハン・クニュップファー

クニュップファーは、1866年にドイツ南西部のオーデンヴァルト山地で生まれた。父は離婚後しばらくして亡くなった。学校時代は可もなく不可もない生徒だったという。製パン工場で働いた後、20歳から30歳まで、二年半ほどセメント工場、6年半ほど機械工場で働いた。母親が亡くなってから、幾度も職種を変え、頻繁に仕事を休み、酒が弱いのにしばしば酩酊するようになる。気の進まなかった結婚生活は最初から破綻しており、妻への不信感はやがて被害妄想へと発展していった。頻繁に家を出て、戻ってくると殴り合いの諍いとなった。乞食行為をしたとして7度も罰され、「ひどい嫌がらせと責苦」を受けたとしてポケットナイフで人を刺して、心身ともぼろぼろになって施設に引き渡されたという。

ヨハン・クニュップファー『神の子羊』

妻の差し出す酒には毒が入っていて、誰かが部屋にクロロフォルムのような煙を吹きかけ、余りに金持ち過ぎる、奴を殺さなければならないという声を耳にし、彼に向って炎の矢が放たれた。あたかもキリストのように苦しまなければならなかった。主イエスはいまや彼を頻繁に訪れ、彼はその姿をまざまざと見たという。すでに若い時から選民思想を持ち、キリストさえも彼ほど苦しんだことはないと信じていた。時折、もはや苦痛に耐えられない。すぐにでも完璧に殺してくれと請願したという。自らの妄想の世界に閉じこもり、外からのいかなる要求からもいらだった反応を示した。大規模な幻覚はなく、無数の小さな妄想体験が徐々に繋がってはいくが、決して体系化されることがなかったという。

クニュップファーの資質は内向的で物静かな、活気のない特別な才能もない人のように見えた。施設に収容されてすぐに絵を描き始めるようになり、その時のモチーフは上述のような心中にある訴えだった。『神の子羊』は極めて強い形式的な枠組みの中にあり、中心の光の環は身体がその柄となっている聖体顕示台と考えられるという。矢に射貫かれたハートが彼に強い暗示的な力を及ぼしていたことが察せられる。彼は、もはやこの力から逃れられないでいるというのである。画面上の添え書きは神託のように謎めいていた。「それは太陽のベーガ、脚から出た内部、アビ・アビア・アバ――マホメットはキリストを生み出す――」といったものである。宗教的な情念は形式的な厳格さによって、遊戯的な部分は謎めいた文章の複雑な絡みあいによって表現されている。

クニュップファー Outsider Art Museum, Amsterdam detail

後年、彼の描く絵はほとんど親戚の農場を巡るものになっていった。母方の祖父が比較的大きな屋敷の所有者として主役を演じているという。母との強い絆を感じさせる。大きな紙に鉛筆で図面が引かれ、赤、青、緑といった色鉛筆でこってりと彩色されている。描かれた各箇所には名称が書かれ、解説文も書かれている。それは仰々しい箴言で覆い尽くされるという。「蘇った者たちが足を踏み入れる登り階段のとば口――十二世代の赤い階段石――馬小屋背後の秘密に満ちた裏庭――主がソドムとゴモラのように残酷にも炎の雨を降らせる――祖父R家にある3-5の羊飼いの小屋‥‥」というわけである。

特筆すべきは彼の動物に対する愛情であった。動物たちがひしめき合っている。とりわけ、鳥たちが多く描かれるようになる。故郷の庭、少年時代にしばしば見たのであろうハトやカラス、沢山の果樹、果樹酒用に毎年搾り出される果汁といった懐かしい過去の光景が彼の心の中に浮かんでいたのは間違いないだろうとプリンツホルンは書いている。

患者の作品にみられる特徴

絵を描く患者はどのくらいいるのか。ハイデルベルク大学の当時の調査では2パーセントに満たないという。アートセラピーなど皆無であった時代である。そして、その中にすばらしい才能の持ち主がどれくらいいるかを考えれば、その割合は健常者のそれと全く同じであろうとプリンツホルンはいうのである。精神病は才能のないものを才能あるものに仕立て上げる要因ではなく、造形の素質のないものを造形活動へと催す要因でもない。ただ、潜在する創作意欲が病気によって活性化されたというほかないという。その際、強烈で独創的な作品が装飾模様や体験の描写において数多く成立していることは誰もが認めるところである。それらの作品の特徴をざっとみておきたい。

プリンツホルンコレクション 本書より
作者未詳 遊戯的ーデコレーション的絵画

1.遊戯衝動

これらの作品から導き出される一般的な特徴の一つは遊戯衝動、つまり目的に従属しない行動への高ぶり、亢進する衝動の圧倒的な支配であるという。制作する意義や目的からは自由に、そして気まぐれに制作される。多くトイレットペーパーや新聞紙などの手近な紙に描かれるのはそのためである。それゆえ個人的特性が最も直接的に現われ出ていて、創作の過程で現われる造形的な原型を、それどころか概念に束縛されない真の直観の原型さえ表出しているという。

患者は彼らに知覚可能なあらゆる「存在の隠された意味」に、そして、とりわけ「自らによって生み出されたもの」に呪縛されているという。その隠された意味を見出すように義務付けられていると言ってよいのだが、その意味付けされた解釈を今日はこう明日はこうとまるで遊戯しているように投げだしてしまうのである。患者が物に与える意味や解釈は変貌していく。物という図の意味が変われば、物の周囲の地の意味も変わるというわけだ。こうしてめくるめく世界が形成されていくのかもしれない。彼らの作品は自然な関連性が支離滅裂になっているように見えても、たいていの場合、形式や内容の統一的な法則が支配していることが分かるという。描写されているものとそこに意味されているものとは乖離していても「意味」そのものは決して欠けていないというのだ。こうした遊戯的に生まれたフォルムの意味付けが体系化されたなら、この体系の奇矯ないびつさが病的基盤から生じたものだという確かな証拠が見て取れるかもしれないとプリンツホルンは述べている。

2.増殖と氾濫

特徴の二つ目は、装飾本能とも言うべきものと関連する。多くの場合、自由に戯れながら展開される筆遣いの一貫したリズムは、慣習や教育によって圧殺されていない真の活気と躍動感があるという。フォルムという言語が増殖し、画面いっぱいに氾濫する豊かさの傾向である。紙面が許すかぎり色彩とフォルムはぶちまけられる。これが「真空恐怖」と呼ばれるものに由来するのか、野蛮な要素、量的なものへの過度の礼讃、あるいは自然で天衣無縫な要素を持つ喜びに由来するのかは判然としない。ただ、これ自体を疾患の要素と決めつけられないという。それが、なんらかの秩序を持ちえず、カオスになってしまう場合と配列、規則変化、厳格なシンメトリーといった抽象的な秩序と法則を突きつけてくる場合も少なくない。クニュップファーの『神の子羊』の作品のような場合である。それは、しばしば硬直した機械的な連続の規則性であって、リズミカルで柔軟な自由さは少ないという。

ヒエロニムス・ボス(1450頃-1516)
『愚者の舟』

3.無責任な幻想性

フォルムの一部を選ぶときの気ままさ、その結果の馬鹿さ加減を明らかに喜びながら無頓着に混ぜ合わせる恣意性には、ほかではめったに見られない抑制の欠如とまとまりのなさがある。例えば双頭のカバが靴脱ぎ台の上に鎮座する彫刻といったものである。患者にとって外界の事物が固有の価値を失い、それ自体何ものでもなくなれば、自分の心的な家政のための素材、つまり気ままな材料としてしか使われないという。しかし、そのような特徴は、ヒエロニムス・ボスやブリューゲルなどの作品に容易に発見できるし、古代や中世においてグロテスクなイメージは重要な要素であったのはバルトルシャイティスの『幻想の中世』を読んでいただければわかるだろう。普通、ファンタジーなどの芸術の領域で高く評価されている特性は、世界との自閉的な没交渉と独断から生まれると言って過言でないという。それは、病気のあるなしとは関係ないのだ。

4.象徴とシンボル

プリンツホルン・コレクション  作者未詳 
アレゴリー象徴的絵画 本書より

象徴は未だに魔術的力を残しているが、興味深いのは、患者たちが象徴的フォルムを使って象徴的、装飾的構造を打ち立てようとする偏愛、そして、表象の世界を図形によって反復想起しようとする偏愛をみせることであるという。

このような表現について考える上でシンボルの問題は避けて通れない。描く人間が、どの程度伝統的なシンボルを利用するのか、どの程度新しいシンボルを生み出しているのかという問題である。伝統的シンボルの供給源は教会や民俗的な慣習、そして特別な学習である。患者たちの場合、自らの衝動と文化的な影響力との戦いが徹底して行われる時に問題はやっかいで同時に興味深いものになるという。とりわけ、エロスと宗教におけるシンボルが、健常者に比較して全く異なる規模で患者を支配していることが分かるという。

プリンツホルンは、これらの作品ではシンボルの解釈が、たとえ原作者の詳細な解説があっても不可能なのだという。それは問題の一部、外面的な側面に過ぎず、造形という事象はそれ自体が元来もっと深い問題を孕んでいるというのだ。つまり、形には患者の解釈や常識や教育によって与えられる意味とは別個な意味を担い得る力があるということなのである。この領域の形象は、厳密な意味で再現的に描写することは不可能であって、線のリズム、フォルム間の関係、色彩の象徴性が感情の体験を伝えることで象徴的にのみ表現され得るという。彼は健常者と精神病患者の造形的基盤は同じだと見なしている。誰もが意識にのぼらない要素を造形の中に持ち込んでいるということである。それが、造形にある超個人的要素ということなのだが、これは重要な指摘ではないだろうか。こうなるとプリンツホルンがイコノロジストに見えてくる。イコノロジーについてはアーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿るに書いておいた。健常者と患者の大きな差は、健常者には、いつかは自分の制作したものが受け入れられるだろうという期待が、人間との繋がりの内にあり、患者には他者との繋がりが、その意欲も能力も欠けているという点であるという。その意味で結果に「無関心」な芸術と言える。

結論と問題点から

この本に紹介されている作品は、そのほとんどが施設の住人、つまり精神病が疑いない人たちのものであり、いかなる他者からの要求なしに、患者自身の欲求から生まれた自発的な作品である。これらの患者の大多数が学校時代以外には美術の教育や絵画やスケッチなどの訓練を受けていない素人であった。そのような人たちが誰もが認めるような芸術的で魅力的な造形作品を創作することは珍しいことではない。そして、それらは、子どもたちや発展途上国といわれる国の人たち、歴史的に文明化される以前の人たちの作品、それらの作品との驚くべき類似を見せている。

『エッケ・ホモ』 作者未詳 本書より

だが、最も緊密な類似性は我々の時代(1920年前後)の芸術とのそれであろうという。ここは美術史家としてプリンツホルンの眼が生きている。この時代の芸術は、その直観とインスピレーションを熱望する中で、精神分裂症において必然的に発生する心的な態度を意識的に追求し始める。表現主義やシュルレアリスムの作品などを見ていただければよい。この時代の傾向が、分裂病の心的な生活の理解を容易にしてくれるなら、逆にこの洞察が時代の傾向を評価する助けになるかもしれないという。そこにあるのは全世界との「神秘的合一」の中心に立って不遜に豪語する個人から湧き出る創意ではなく、伝統的な世界感情の崩壊なのである。

起源が異なる芸術同士が外見的に似ている事実をどう説明してよいか分からないとプリンツホルンは嘆いている。記号、シンボル、表象が本来どのように発生したかという問題は未解決のままだというのだ。この頃、フロイトのトーテムやユングの学説は知られ始めていた。原初のイメージ(おそらく元型のこと/筆者)は大変意義深いものではあるが、系統発生論上の残痕、退化、太古の思考については避けたいという。そこには自然科学的な思考方法がある。それを乗り越えるためには心的な生活の創造的な要素がそこにあってしかるべき場所に戻って観察するしかないというのである。

自分たちの資料であるハイデルベルク・コレクション(現プリンツホルン・コレクション)と一般の造形芸術との間に境界線を引くことはできないと彼はいう。その境界は流動的であるからだ。創作力はいかなる人間にも生まれつき備わった素質である。伝統と教育はこの人間の本源的な素質を飾る装飾にすぎない。この本源的な過程では造形的な無意識の要素が純粋に具現される。この過程を研究するための資料は自分たちのコレクションが最適だろうと自信を持っている。ただ、この研究は途上にあり、その努力の焦点は創造的人間の世界感情と精神病患者のそれとの関係であるという。最近になってその最初の礎石が据えられたのであって、将来は喜びと活気に満ちた世代によっていかなる懐疑的認識をも圧倒する確信に満ちたものに取って代わられるだろうと結んでいる。

プリンツホルン『精神病者の造形』“Bildnerei Der Geisteskranken” 1922

プリンツホルンの死後、精神病者の芸術作品に関する関心は特定の芸術家を除いて薄らいでいった。そして、ナチスの政権下になると、新たに制作された患者の作品は全て廃棄処分にされ、プリンツホルンの著作を絶賛したマックス・エルンストらシュルレアリスト、モダニズムの芸術家たちの作品も「退廃芸術」の烙印を押され、作品は美術館から追われた。1940年以降は、患者たちもナチスの優生政策のために劣等人種とみなされ、プリンツホルンのコレクションに貢献した患者も20人以上が安楽死の犠牲になったといわれる。だが、ハイデルベルク精神科主任教授カール・シュナイダーがそれらの作品を「劣等遺伝子」の「証拠品」として残したのであった。こうして、ドイツ国内を巡回した「退廃芸術展」に貸し出された作品以外は、破壊をまぬがれた。プリンツホルン・コレクションは、皮肉にもこのような運命を経て生き残ったのである。

 

 

その他の参考著書

ミシェル・テヴォ―『アール・ヴリュット』

末永照和『評伝 ジャン・デュビュッフェ』
極めて詳細にデュビュッフェの生涯を追っている立派な著書である。

ユルギス・バルトルシャイティス『幻想の中世ⅠⅡ』

 

 

T.S.エリオット part2 『四つの四重奏』比較文学の大渦へ

T.S.エリオット(1888-1965)1923年

トマス・スターンズ・エリオットには詩人としてだけではなく、文芸批評家としての顔がある。ちょっとご紹介しておこう。『エドガー・アラン・ポーからヴァレリーへ』でポーの作品を批評している。八木敏雄編『エドガー・アランポー』からの要約であるが、書き出しはこうである。

「その作品をつぶさに調べてみると、ずさんな書き物、広い読書や深い学識に支えられていない未熟な思考、また主として経済的必要に迫らてであろうが、完全性に欠けた、さまざまな種類の思いつきの実験しか見出せないように思える。だが、これでは公平さを欠くだろう(八木敏雄 訳)。」ここから、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーというフランスの詩人たちへの影響を語っていく。ポーの影響は、英米では皆無であるのに対してフランスでは絶大だったというのである。

ポーは例外的なほどに、詩の呪文的な要素である文字通りの意味の「韻文の魔術」に鋭敏であった。その効果が我々を深い感情の奥底で揺さぶるのだ。しかし、彼は正しい音を持つ言葉を選ぶのに慎重だったが、正しい意味を持つ言葉に関してはそうではなかった。『大鴉』は、ここでやり玉に挙がっている。ポーが短い詩しか書けなかったのは単一な情調の表現を望んだからであって、それは、何故ポーの作品が少年期からまさに脱却しようとする人生の一時期に強く訴えかけるのかを説明する。「ポーの生きいきした好奇心が選び取る形態は前思春期の精神状態にある者が喜ぶようなそれである――自然や力学や超自然の驚異、暗号文やその解読、謎に迷宮、機械仕掛けのチェス・プレイヤーに奇想天外な空想飛翔‥‥(同上)」というわけだ。欠けているの知力ではなく人間全体としての成熟であるという。ここでは、逆にエリオット自身が目指そうとしているものが透けてみえるのである。

エドガー・アラン・ポー(1809-1849)1849年

そのようなポーに、ボードレールは孤独な呪われた詩人の原型を見、マラルメは韻律法に眼を開かされ、ヴァレリーは「書く自己を観察する作業」への興味をかきたてられたという。ヴァレリーは内省的批評活動を詩学に浸透させるという行為を極限まで押し進め、その極限で批評活動が詩学を破壊しはじめるという。そして、我々が持つべきはポーとヴァレリーの美学を包含しながら、かつそれを超越する美学であるというのだ。しかし、自分はそれに頭を悩ませない。何故なら詩人の理論は詩作の実際から出てくるのであって理論から生まれるのではないからだという。詩は詩人の分泌物というわけである。

そして、こう結ぶ。ボードレール、マラルメ、そして、特にヴァレリーを通してポーを眺めることによって、全体として見たポーの作品の重要性をよりいっそう確信するようになる。未来のことに言及するならヴァレリーに見られるような過剰な自意識と言葉に対する極端な敏感さや関心は、人間の精神には耐えがたく破壊的であろう。それは科学や政治・社会機構が無限に複雑化すると、ついに人間は反発を感じ、その重荷を負い続けるより原始的な苦難を受け入れたいと望むようになるのと同じではないか。それについては自分は一定の意見を持たないので、読者の判断に委ねたいとしている。ポーは落とされたり、持ち上げられたり色々なのだが、エリオットの批評が非常に知的だが冷たいとよく言われる理由は分かるような気がする。

ヴァージニア・ウルフは、エリオットのこの冷たさを面白く書いている。「‥‥『批評家たちは、僕が学があって冷たいなんていってますが、』と彼は言った、『本当はどっちでもないんです』。こう言ったところを見ると、冷たいというのは、少なくとも彼の痛い所をついているに違いないと思う。‥‥しかしエリオットっていう男はいったい何なんだろう。彼をトムって呼べるようになるのだろうか。‥‥善き心っていうものは耐えているものなのだろうか。そして、人がそれに引かれたり、それを大事にしたりするのは、こっちにも善き心があるからなのだ。もっともトムは、私の書くものには、耐えてくれないらしい、チキショウ ! (T.S.マシューズ『評伝T.S.エリオット』八代中 他訳)」

高柳俊一『T.S.エリオットの比較文学的研究』

僕が勤めていたカトリックの学校で長く同僚として教えていた神父さんがこの夏のはじめに亡くなった。絵の好きな人で御自分もよく描いたりしていて、その作品を見せてもらったことも何度かある。寡黙な人で自分の方から色々話し出すという人ではなかったが、淋しい。亡くなってから知ったことだけれど彼は、エリオットの詩が好きだったという。それで、今回はエリオットを取りあげる気になったのである。エリオットの晩年は宗教詩というべきものに傾斜していくのだが、そこから生み出される深い表現の源は老いを見詰めていくことにあったといわれる。今回はエリオットの詩『四つの四重奏』を標的に比較文学の観点から高柳俊一さんの『T.S.エリオットの比較文学的研究』を中心にご紹介する。

高柳さんは1932年のお生まれ。上智大学文学部を卒業後、アメリカのフォーダム大学で博士号を取得。その後、ドイツのザンクト・ゲオルゲン大学で神学を研究され、カトリック司祭に叙階されている。上智大学英文科教授を務められた。主な著書に『人間と都市』『ユートピアと都市』『精神史の中の英文学』『近代文学の中のキリスト教』『T.S.エリオットの思想形成』などがある。

1914年にエリオットは奨学金を得てヨーロッパ大陸経由でロンドンに到着しオックスフォードに落ち着いた。留学生活は「無感覚」という言葉で表現されるほど憂鬱なものになっていった。それを救ってくれたのエズラ・パウンドとの交流だった。パウンドは、ヴィクトリア朝の文学観から早く抜け出して新しい詩風を作り上げようとしていて、ジェイムズ・ジョイスなどの若い作家たちを積極的に支援していた。彼は、エリオットよりも早くロンドンで活躍しはじめたアメリカ人であったが、英国とアメリカの詩人たちが協力し、互いの作品を知り、相互に影響しあうような「詩における現代的な運動」を初めて可能にしたと高柳はいう。ちょうど、西側と旧東側の作曲者たちに対するギドン・クレーメルの活躍を思わせるものがある。ただ、パウンドの場合、晩年は不遇だった。

エズラ・パウンド(1885-1972)
ロンドン時代 1913

20世紀初頭の英文学は、19世紀末以来のフランス文学の流れと批評の影響下にあって、それらを吸収発展させた結果、モダニズムの可能性が開けていった。エリオット自身もそうであった。彼は、最後の評論集『批評家を批評する』の中でパウンドの手法をこのように述べている。それはとりもなおさずその頃のモダニズム騎手としてのエリオットの立場であったろうと高柳は書いている。「パウンドの『自由詩』は韻律法の厳格な形式やいくつかの異なった規則を飽くことなく取り上げてきた詩人のみに可能なものである。‥‥パウンドの詩における自由とは、自由と規律との対立から生じる緊張状態のことである。実際そこには、厳密な韻律法による詩と自由詩という二種類の詩があるわけではない。訓練を重ねた結果、本能的に形式を操ることができるようになり、その都度の目的にふさわしい形式を操ることができる、といった熟練があるのみなのだ(高柳俊一 訳)

『荒地』は、当時パリにいたパウンドによって大幅な編集の手が加えられたのはよく知られている。エリオット自身が彼のことを「主導権を握った演出家」と呼んでいる。これによって「ぶざまに延びて混乱の極みの詩」と呼ばれた『荒地』は半分の長さになったが、パウンドはその詩に自分の言葉を付け加えることは一度としてなかったという。この編集によって『荒地』がある程度筋の通ったものになったのか、逆に論理性が切断されてコミュニケーションの欠如を招いたかは議論されてきた。おそらく、前者であったろう。

西脇順三郎は、エリオットが詩をつくる時、詩の世界としての必要なメカニズムとして異なったものを結合させて、詩の内面的な構成を全面的に作り上げる(新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』)と述べている。外面的な構成ではないのだ。それはライプニッツの言う同じ構造を繋げていく結合術とはいささか異なるし、ウィリアム・ブレイクの神話のように複数の物語の同時進行とも異なるのである。単なるコラージュとは、ちょっと違うように僕は思う。パウンドは、エリオットの詩を読んだとき、ラフォルグ的なアイロニーに「厳密な不明確さ、計算され尽くした曖昧さの使用」があることに注目していた。このメカニズムと不明確さ、あるいは曖昧さと内面的な構成のせめぎ合いは、ある種の律動を呼んでかなり手強い。冒頭のポーの批評でさえ、そのようなある種の揺れが存在する。いわば、インテリジェントに変容された文章と世俗なそれとが内的な連想によって織りあわされるために表現されたイメージは飛び地のように広がって見える。ともあれ、パウンドの力によって1922年に発表された『荒地』は、ジョイスの『ユリシーズ』と共にこの時代の代表的な作品として評価されていくことになるのである。

渡英した翌年、エリオットはヴィヴィアンという英国の女性と結婚した。今回、伝記についてはピーター・アクロイドの『T.S.エリオット』からご紹介する。表現の才があり、機知のある、女優を思わせるような人であったが、自意識が強く神経過敏になりがちなであったともいう。エリオットは銀行に勤めながら、新聞雑誌に寄稿し、自分の主幹する雑誌『クライテリオン』の編集さえした。その雑誌には友人のパウンドやハーバート・リード、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、そしてガートルード・スタインらが寄稿していた。しかし、その頃、神経衰弱と診断されて、時々仕事を休んで旅行などの休暇をとらざるを得なくなるし、彼女も病気がちでエリオットはその世話もしなければならなくなり、かなり衰弱していった。そんな頃、『荒地』は出版されるのである。

彼女は神経過敏となっていき、病気は進行していった。郊外の小さな別荘を借りて養生するようになり、休みの日や休暇にエリオットはそこを訪れたが、医療費と家賃のために経済的にも逼迫していった。詩作の炎さえも消えかかったのである。しかし、助け舟がやってくる。1925年に出版社で働くことができるようになる。だが、ヴィヴィアンはリュウマチを伴う神経痛とその後遺症、あるいは神経症が進行しはじめていて、お互いの苦悩は深まるばかりだった。結局、彼女の兄に相談し、経済的な保証をした上で居所を明かすことなく彼女との別居に踏み切ることになる。致し方なかったとはいえ、この負目はヴィヴィアンの死後まで続いたという。

1927年にエリオットが、ユニテリアンからアングロ・カトリックに改宗したことは part1で述べたが、この年、同時に英国に帰化している。1930年には『マリーナ』や『灰の水曜日』などの詩も作られたが、より新しいものを模索し始めていた。1934年に聖スティーヴン教会のチータム神父のもとで、この教会の代表委員となり、教会の財務管理やミサ中の献金集めの監督さえ行ったのである。この頃のエリオットは詩劇のための戯曲をいくつか手がけていて、舞台にかけられたものの中で『岩』や『寺院の殺人』、それにもっと後の『カクテル・パーティー』は大きな成功を収めたようだ。この頃の詩『マリーナ』から一部ご紹介するが、旧約聖書のコレヘトの言葉を思わせるようなペシミズムが滲み出ている。

‥‥
犬の歯を研ぐ者は
死に向かい
蜂鳥の栄光に輝くものは
死に向かい
飽満の淫売の館に坐す者は
死に向かい
動物の恍惚を味わう者は
死に向かい
かくて彼らは空っぽになって風化する
‥‥
(古川隆夫訳)
‥‥
Those who sharpen the tooth of the dog, meaning / Death
Those who glitter with the glory of the hummingbird, meaning / Death
Those who sit in the sty of contentment, meaning / Death
Those who suffer the ecstasy of the animals, meaning / Death
Are become unsubstantial, reduced by a wind,
‥‥

エリオットは、早くから現代作家のオリジナルな文章などほとんどが出来そこないであって、古典の輝かしい文章を変容させることが作家の使命だと思っていた。その意味ではマニエリスムの作家だと言える。彼が理想としたもの、それが、ウェルギリウスとダンテだった。ローマの声、ラテン語を代表する最高の声としてのウェルギリウス、キリスト教の教父たちに認められた『牧歌』の神秘性を持ち、ダンテが『神曲』の中で「もはやこれ以上先を見極めることのできない場所にお前は到達した」と述べた作品である。そのダンテは、自らの『神曲』をトマス・アクィナスの思想を土台に崇高なアレゴリー体系を持つ構造物、被造宇宙に対応する「神のまねび」にまで高めたという。この頃、エリオットはジャク・マリタンの新アクィナス主義を通じて、ダンテの古典主義的な秩序という理想へ再び繋がろうとした。それは『四つの四重奏』へと結実してゆくのである。

高柳は、エリオットには一種の文化的悲観論のようなものがあり、彼自身が無意識に持っていたピューリタン的な世界理解から生じたものかもしれないと述べている。そのような意識から当時のモラルというものに対する批判が生まれた。彼にとって近代の精神史は頽廃への進行であった。彼は評論『異神を追いて』の中で近現代の作家たちを攻撃し、近代そのものの価値さえ否定する。エリオットの改宗はモダニズム文学との決別であったという。こうした世俗化する流れの中でジョイスにも文学が救いであり、宗教の代用物であったとジョイスを評価している。

ジョイスの小説、『ユリシーズ』は複雑に絡み合った糸、混沌であり、絡み合うことによって膨らみ巨大なアナーキーへと成長していく神話形成であった。今日の神話形成、ポスト・ナラティヴ、神話的英雄の原型を借りるポスト・フィギュラティヴといった批評原理の先駆者としてエリオットを見ることも可能かもしれない。『荒地』と神話の関係は part1 で述べた。フレイザーの『金枝篇』はそれらの形成に大きな役割を果たしたのである。人間の生存の様相とその世界はストーリーとしてではなく神話と夢という無意識の同時性をもつ連想の集合体となる。スロップ・フライの文学の統合原理としての神話が思い浮かぶが、エリオットやジョイスの作品はこの神話解釈を通して古典化され、それに伴ってモダニズムも受け入れられていったというのは皮肉である。ジョイスの他にエリオットが評価していたもう一人の文学者がいた。それがイエイツだった。

当のイエイツ(1865-1939)は、エリオットの作品をマネの絵と比較して、自分はあの灰色がかった中間色が我慢ならないと述べ、明るい色彩や光が欲しい、そのようなエリオットの詩はシェイクスピアや聖書の翻訳者たちの末裔に加えることは出来ないとして、彼は詩人というより風刺家だと断定している。要するにエリオットの作品には感情の昂揚というものがないことに不満なのである。しかし、二人には荒廃した当時の精神風土を受け入れなければならないという共通の認識があった。エリオットはこの非神秘化された世界をすでに否定できない人生の事実として受け止め、自分の文体と言語をできるだけこの現実に近いものに煮詰めようとした時期があった。イエイツの出した答えは新しい神話の創造、世界の再神話化であったというのだ。

そして、1940年、エリオットは62歳になっていた。代表作の『四つの四重奏』が出揃う期である。60歳代にイエイツも『塔』(1928)や『螺旋階段』(1933)といった詩を残している。エリオットが気に入っていたイエイツの詩の一節がこれである。

君は、愛欲と狂気が
私の老年に寄り添ってご機嫌をとるのを、恐ろしいことだと思う。
若いときには愛欲も狂気も、それほど厄介なものではなかったが、
今、私を歌へ駆り立てるものが他にあるだろうか。
(高柳俊一訳)
You think it horrible that lust and rage
Should dance attendance upon my old age;
They were not such a plague when I was young:
What else have I to spur me into song?
” The spur,”

エリオットは、青年期から自身の「老人」を意識していたという。それは単に個人的な問題だけでなく、文明的・宇宙的な規模の問題であったと高柳は指摘している。彼の若い頃の詩『プルーフロックの恋歌』には既にこの一節があるという。

年をとる‥‥ 年をとる‥‥
ズボンの裾をまくって着るようになるだろう。
(高柳俊一訳)
I grow old‥‥ I grow old‥‥
I shall wear the bottoms of my trousers rolled.

T.S.エリオット『四つの四重奏』
四つの楽章のように構成されている詩が、「バーント・ノートン」「イースト・コウカー」「ドライ・サルヴェィジズ」「リトル・ギディング」という副題のもと四部で構成されている。

『荒地』が書かれた頃の、ヴィヴィアンとの生活、銀行での務め、そして文筆活動という多重の軋轢の中で、心理的に消耗していった自分を漁夫王(part1参照)という神話の登場人物にあてはめ、それを老人の体験という形で表現してきたとも高柳はいう。それからの歩みは『四つの四重奏』のうちの「イースト・コウカー」の中でこう纏められた。

こうして私は道のりの中ほどまで来た、二十年が過ぎ去って――
多くは無駄に過ごしてしまった二十年、二つの大戦に挟まれた歳月――
言葉をどう使うのか知ろうと努めて、‥‥
(高柳俊一訳)
So here I am, in the middle way, having had twenty years ――
Twenty years largely wasted, the years of l’entre deux guerres ――
Trying to learn to use words,‥‥

イエイツの「肉体という廃墟」「緩やかに進む血液の腐敗」「沈滞した老衰」といった表現は若者のエロスが理想化され、美そのものの象徴となって光と輝きを増していくことの相反としての肉体の表現である。イエイツもまた漁夫王ではなかったのか。若さを取り戻したいという願望と再生への確信がイエイツには内在していて、絶望とともにそれを乗り越えようとする試みが詩作であったと高柳は言う。ここに人間の死と生を超越する次元が「すべてが変わった、完全に変ってしまった。恐ろしい美が誕生したのである」という言葉と共に生まれるという。エリオットもまたそのような次元を見つめていた。若さも再生も死も生もが折り畳まれ、その一点の「時」の上でシヴァ神は踊る。相反するものの合一。エリオットは、第一部「バーント・ノートン」の中で深く美しく詠っている。長い引用になるけれど、このパートは緊密に結びついていて途中で切ることができない。

‥‥
廻る世界の静止の点に。
肉体があるでもなく、ないでもなく、
出発点も方向もなく、その静止の点――そこにこそ舞踏がある、
だが、抑止も運動もない。それは固定とは言えない、そこで
過去と未来が一つに収斂するのだ。出発点もない方向もない運動、
上昇でも下降でもない。その一点が、その静止の点がもしなければ
舞踏など存在しないだろう。だが、現実には舞踏こそ唯一の存在。
そこにわたしたちはいたとは言えるけれど、どこかは言えない、
どれくらいの間なのかも言えない、それを時間の中に置くことになるから。
現実的欲望からの内的な自由、
行為と苦悩からの解放、しかも、まわりは
感覚の恩寵に、静止かつ動く光輝に、囲まれている。
運動のない〈止揚〉、消去のない
集中、新しい世界と古い世界が
二つながら明瞭にされ、
その半恍惚の完成と
半恐怖の解消の中で、了解される。
それでも、変わりゆく肉体の脆弱さの糸で織られた
過去と未来の連鎖が、
肉体の耐え得ぬ天国と地獄から
人類を守ってくれるのだ。
過去の時間と未来の時間は
ごくわずかの意識しか許さない。
意識するとは時間の中にいないこと、
だが、時間のなかでのみ、薔薇園での一時(ひととき)や、
はたはたと時雨の叩く四阿(あずまや)での一時、
霧の日の風吹き抜ける教会での一時が
思いだされもするのだ、過去と未来に取り込まれたまま。
時間を通してのみ時間は克服される。
(岩崎宗治訳)

‥‥
At the still point of the turning world. Neither flesh nor fleshless;
Neither from nor towards; at the still point, there the dance is,
But neither arrest nor movement. And do not call it fixity,
Where past and future are gathered. Neither movement from nor towards,
Neither ascent nor decline. Except for the point, the still point,
There would be no dance, and there is only the dance.
I can only say, there we have been: but I cannot say where.
And I cannot say, how long, for that is to place it in time.
The inner freedom from the practical desire,
The release from action and suffering, release from the inner
And the outer compulsion, yet surrounded
By a grace of sense, a white light still and moving,
Erhebung without motion, concentration
Without elimination, both a new world
And the old made explicit, understood
In the completion of its partial ecstasy,
The resolution of its partial horror.
Yet the enchainment of past and future
Woven in the weakness of the changing body,
Protects mankind from heaven and damnation
Which flesh cannot endure.
Time past and time future
Allow but a little consciousness.
To be conscious is not to be in time
But only in time can the moment in the rose-garden,
The moment in the arbour where the rain beat,
The moment in the draughty church at smokefall
Be remembered; involved with past and future.
Only through time time is conquered.

 

ミュージカル『キャツ』のポスターとエリオットの『キャッツ』

もう一つ、是非、つけ加えておきたいのは、モノトーンだとか冷たいとかいわれるエリオットが、アンドルー・ロイド・ウェバーの台本で知られるミュージカル『キャツ』の原作を書いていることだ。子供たちのための詩の絵本だがとても楽しい。1939年の作品である。副題のオポッサムおじさんは、確かパウンドがエリオットにつけたあだ名だったと思う。意外な一面が有る方が世の中は面白い。ヴィヴィアンの亡くなった後、再婚したエリオットの晩年は幸福だったようだ。

 

エリオット自身の朗読の録音もあるのだけれど、彼の『灰の水曜日』を俳優のジェレミー・アイアンズが朗読した録音があったので紹介しておきます。彼の詩を英語で聴いてみたいという人はどうぞ、いささか音楽の音が大きいのが難だけれど原詩の美しさがよく分かる。

 

このブログも100話を超えるくらいから少し変化をもたせようかと考えてきたのですが、外部の評価も良くないこともあって、来年2019年から本の紹介に特化するのをやめてエッセイ風のものも混ぜて幅を広げたいと思っています。今、一話が平均8000字くらいの量ですが、もっと短いもののほうが読みやすいのではないかと思ったりしています。勿論、面白い本があればご紹介も怠りません。これからもどうぞごひいきに。

 

 

 

 

 

 

 

 

その他の参考図書

アメリカ文学作家論選集 
『エドガー・アラン・ポー』
エリオットの他、D.H.・ロレンス、W.H.・オーデン、アレン・テートらの「ポー論」が集められている。

ピーター・アクロイド
『T.S.エリオット』
伝記として充実している。

西脇順三郎 新英米文学評伝叢書『T.S.エリオット』

2018年11月16日 | カテゴリー : Blog | タグ : | 投稿者 : 植田信隆