Paintig / 絵画


”Image and the Art of Combination” 
表象と結合術










Flame and Silence  焔(ほむら)と沈黙(しじま) 2012-15



大地が咆哮し、海が山のように隆起した日。
星々も定かでない瀝青(タール)で洗われたような大空に
風は沈黙して漆黒の闇を抱いた。
焔はエーテルに漂う地球のように足もなく水面を滑った。
人々は四方に心の灯火を求めたが、眠れぬ夜が膝に覆いをかける。
焔(ほむら)と沈黙(しじま)の日々が訪れたのである。


Flame and Silence  焔(ほむら)と沈黙(しじま)





 


Empty Vessel  宇津保舟 2011-2012


 
宇津保は、空洞を意味する言葉で、空の入れ物を宇津保舟と云いった。民族学・国文学者の折口信夫(おりぐち しのぶ)さんは『霊魂の話』の中でこのように述べている。「日本の神々の話には、中には大きな神の出現する話もないではないが、其よりも小さい神の出現に就いて、説かれたものゝ方が多い。此らの神々は、大抵ものゝ中に這入つて来る。其容れ物がうつぼ舟である。ひさごのやうに、人工的につめをしたものでなく、中がうつろになつたものである。此に蓋があると考へたのは、後世の事である。書物で見られるもので、此代表的な神は、すくなひこなである。此神は、適切にたまと言ふものを思はす。即、おほくにぬしの外来魂の名が、此すくなひこなの形で示されたのだとも見られる。此神は、かゞみの舟に乗つて来た。さゝぎの皮衣を着て来たともあり、ひとり虫の衣を着て来たともあり、鵝或は蛾の字が宛てられて居る。かゞみはぱんやの実だとも言はれるが、とにかく、中のうつろなものに乗つて来たのであらう。嘗て柳田国男先生は、波荒い海中を乗り切つて来た神であるから、恐らく潜航艇のやうなものを想像したのだらうと言れた。」
 後に, この宇津保舟は虚(うつろ)舟とも記されるようになり江戸時代には、UFO伝説を思わせる奇談も伝わった。『兎園小説』(1825年刊行・江戸の文人や好事家の集まりの会で語られた奇談・怪談を、曲亭馬琴がまとめたもの)に『虚舟の蛮女』との題で図版とともに収録され今に知られている。
 Empty Vessel 宇津保舟は、これら中空の乗り物をテーマに小さな生き物たちや海に生きるものたちの表象を結合しながら霊的な乗り物のとしてのイメージを描いている。・・・・・


Empty Vessel 宇津保舟





 


Image and the Art of Combination
表象と結合術 
2010‐2011



モナドには、窓がないとライプニッツは、書いたけれども、こう言い換えたほうがすっきりするのではないだろうか。モナドの全表面は、窓である。それは、絶えず襞を生成しながら宇宙を映し出す表象劇場である。一方、モナドは、身体を持つ。それは、絶えず流動する宇宙の全てと結びついているエレメントによって構成されるが、この宇宙流体の中では、現象は変転し、アナモルフォーズ(歪像)されて正確な表れ方をしない。それをリアルにつかむ視点を持つこと。一望に見渡すことのできるパースペクティブの中で見てとること。結合術は、言葉や数や絵を単に結びつけるのではなく、『一望に見て取る』ことに結合させるのである。ホルスト・ブレーデカンプの著書『モナドの窓』を一部要約すると上のようになる。彼のような図像学者たちのご意見は、さて置くとして、今回は、表象と結合術とに焦点を当ててみた。モナドは、昨年からのテーマではあるが、今回それらがどのように結合されたかをご覧いただければと思っている。・・・・・・


Image and the Art of Combination 表象と結合術

“Non- Linear Modern” 
非線形性モダン






 


Monads of Three Voices-In Memory of Sato Keijiro
三声のモナド
-佐藤慶次郎の思い出に-
2009‐2010



 ‥‥しかし、どのような回路を経てか、
「場」が作られたとき、人は、
はじめて静かにこちらを向く。
そして暗黙の会話が;はじまるのだが‥‥


        
『物化考断章』  瀧口修造
(佐藤慶次郎の南画廊における個展
に際してパンフレット掲載された言葉



 荻窪のJRの高架を渡って、東京電力の建物を右に見ながら、すずらん通りを少し上がると佐藤慶次郎(さとう けいじろう)さんのお宅がある。この道を春の日差しに少し汗ばみながら何度のぼったことだろう。佐藤さんとのお付き合いは、15年以上にもわたったが、2009年に惜しくも亡くなられた。これらの作品はその思い出に捧げたものでる。
 佐藤さんの印象は、何といったらいいだろうか? 芸術家というより人心の荒廃を憂える禅の老師といった風情の人だった。とはいえ、やはり、アーティストだ。伝説の一つや二つはある。 岐阜県美術館の館長をされている(2013年現在)古川秀昭(ふるかわ ひであき)さんは、家庭教師のアルバイトをしていた若い頃、バイト先の子の伯父さんに突然呼ばれて、ある作品を見せられた。それが佐藤慶次郎さんとの出会いだった。その時、見たのは「サスペンションL2B」(図版1)、細いステンレスの棒が磁性体によって振動し、その棒の中心を通る発泡スチロールの球が優雅に上下していた。しかし、その作品は、この写真のものよりはるかに長く、一階の天井はくり抜かれ、二階の床を突き抜けて天井にまで達していたという。佐藤さん曰く、「どこまで球が昇り降りするか試してみたかった」そうである。実験工房のメンバーとは、皆さんこうだったのだろうか。・・・・




図版1 佐藤慶次郎
「サスペンションL2B」



Monads of Three Voices 三声のモナド





     


Emergence and Movement
出現と運動 2008‐2009




 チャールズ・パース(1839-1914)の宇宙論 ( 伊藤邦武著 岩波書店)を読んで驚いた。パースのことは、松岡正剛さんのサイト「千夜千冊」を読んで知っていたし、かなり強い印象も残っていたが、その先進性には脱帽である http://1000ya.isis.ne.jp/css/bg/hashira08.jpg。パースによれば、世界は、三つのカテゴリーよりなる。この結論は、射影幾何学をもとに導きだされているのだが、この幾何学の祖ともいわれるデザルグの定理が発想のもとになっている。 パースの宇宙論では、この三つのカテゴリーの組み合わせで満ち満ちている。第一は、無限に多様な質の差異を持ち、強烈な意識のみが支配する全てがカオスの世界である。その無数の偶然的な生起は、確率統計的に一般化することができ、それにしたがって擬似的決定論的世界が現れ、新しい習慣や規則が形成される。それは、このような図で示す事ができるという(図1)。・・・・・ 


  
図 1


Emergence and Movement 出現と運動





    


Entenrakai :Moving spiral, Rotating circles
In Memory of Yutaka Matsuzawa

円転螺廻
2006-2007


 
これらの作品を 松澤宥の思い出に捧げます。 

 
「何故あんなに美しく飛べたのだろう?」 駿河ジョニーは、松澤宥 (まつざわ ゆたか)の死に際してこのように語ったという。確かに美しい生き様ではなかったか。その人は、炎のように軽やかで、春の日のように暖かだった。今、私は、その思い出のためにこの文章を書いている。
 松澤宥と最初に出会ったのは、2002年の春、東京は、東高円寺のギャラリーだった。白髪の小柄な老紳士が、手作りの私の展覧会のパンフレットにしばらく目を通した後、もの柔らかに2,3質問するのだった。紹介される前から松澤宥その人だと分かっていた。すでに久しい以前から松澤の名声は、コンセプチュアルアートの創始者として国の内外に響き渡っており、一種近づきがたい厳しさとストイックなイメージが作品とパフォーマンスの写真から際立ってくるのだが、それまでの私にとっては遠い存在でしかなかった。しかし、話をしてみて驚いた。あまりに優しく、謙虚な人柄ではなかったか。・・・・




Ѱ (プサイ)の部屋


Entenrakai:In Memory of Yutaka Matsuzawa
円転螺廻






 


Sowing the Wind,
Reaping the Whirlwind.

風を蒔いて旋風を刈る 
2003‐2004


 
彼らは風の中で蒔き嵐の中で刈り取る。 
芽が伸びても、穂が出ず麦粉を作ること
もできない。― 今や、彼らは諸国民の間
にあってだれにも喜ばれない器のようだ。
           
       ホセア書 8.7-8 


「風を蒔いて旋風を刈る」 旧約聖書からとられた言葉だが、上のような意味で使われている。展覧会と称して空騒ぎをしては、周りから無視される、そんな自分の身の上のようでもあり、それゆえ私にとっての自戒の言葉のようでもある。 しかし、この言葉にカオス理論をかさねた時、そこには言い尽くすことができないほどの深みが加わってくるのである。
 カオスという言葉の使い方には二つある。混沌というとまとまりのない複雑さ、でたらめな多様さという言葉が思い出される。ギリシャ神話のカオスや中国神話の混沌、太湖石に象徴されるような道教にまつわるイメージ、ケルトや縄文にみられる造形などを思い浮かべる人もいるだろう。こういう一般的な意味でのカオスという言葉と、かなり特殊な場合だが科学や数学で使われる場合のカオスという言葉がある。数学や科学で使われる場合は、決定論的なシステムにおける確率論的振る舞いをさす。決定論的システムとは、数式で表せるということであり、確率論的振る舞いとは、一見でたらめな予測不可能な振る舞いをするということである。 しかし、それはマクロ的に見ればある秩序を持っているのである。・・・・・
 


マンデルブロ集合をプロットした時に
現れる形態
ジンジャーブレッドマン


Sowing the Wind, Reaping the Whirlwind.
風を蒔いて旋風を刈る






 


Turbulent Nuclear Vector
Models

不穏な原子核ベクトルモデルたち 
2002‐2003




松澤宥/ポスト・ヒロシマの芸術へ
のオマージュ
この展覧会は、ヒロシマ・ナガサキへの
原爆投下という事件を自らの制作活動の
出発点とした松澤宥(まつざわ ゆたか)
の真摯な芸術活動へのオマージュ
(捧げ物)である。 


2002年の四月四日、私は、松澤宥(まつざわ ゆたか)に出会った。 コンセプチュアルアートの巨人として現代美術の世界では知らぬものはない作家である。「人類よ、消滅しよう」 そのラディカルな言葉と厳格なポートレートとはうらはらに、その人柄は温和で語り口は謙虚だった。その人となりに魅せられた。その後、松澤の作品の底流には、ヒロシマやナガサキに投下された原爆が黒い影を落としていることを知った。評論家の石川翠(いしかわ みどり)氏は、松澤の様々な営みには深い悲しみと喪失感が潜んでいると書いている(「スピリチュアリズム・松澤宥 1954-1997」 川口現代美術館カタログ)。原爆投下の日の朝、彼は、物質文明の、人智の、科学技術の未曾有の逆理に出会う。 この人間の終焉の可能性が、個や国家を超えた「ひとつの世界」を実現することを松澤に強いた。この危機を伝道し、乗り越えるための芸術を創造すること、そのような強い衝動が彼の中で生まれ、育ったというのである。 日本にもこのような誠実な作家がまだいたのか。この驚きは、ゆっくりと畏敬へと変化していったのであった。
 1975年、バックミンスター・フラーは原子内の電子、陽子、中性子の関係を正四面体、正八面体、正二十面体の組み合わせとしてモデル化している。彼の発見した原子核ベクトルモデル(図版1)は、これら電子、陽子、中性子の関係が形作る空間構造の動的モデルと言える。・・・・・・



バックミンスター・フラー
 「原子核ベクトルモデル」
コンピューターによる模写


Turbulent Nuclear Vector Models
不穏な原子核ベクトルモデルたち
 






 


Reversed Internal Interface
反転する内界面 2001‐2002




時には、手袋を裏返すように全てを裏返してみては
どうだろうか?
反転する内界面によせて 


このシリーズを制作している時には、まだインヴァージョン(反転運動)という言葉を知らなかったのではないかと思うのだが、その言葉を聞いたのは、確か、カスパー・シュワーベさんからだったと記憶している。手袋を裏返すように形をひっくり返してみる事を指す。彼は、スイス出身の立体幾何学を研究するデザイナーであり、バックミンスター・フラー展を開催したディレクターでもある。それに、神戸の大学でテンセグリティー(張力統合体)を教えてくれたぼくの先生なのである。
 一度、この「裏返す」をテーマに展覧会をしてみたかったのであるが、何故このことに興味を持ったかと言うと、人間の胎児の体の器官が形成される時、眼はやがて脳になる脳胞と呼ばれる一部から切り離されて、裏返りながら眼球になるという離れワザをやってのけてるらしいということを知ったからなのである。まるで、ボルボックスが親から生まれ出る時に裏返って外界に飛び出てくるようで面白かった。そう言えば、眼には情報を処理する能力があることが知られているが、元々脳の一部なのだから当然のことなのかもしれない。・・・・・


カスパー・シュワーべさんと
オリジナルのテンセグリティー
(畳まれた状態)


Reversed Internal Interface
反転する内界面






 


Uzume: Metamorphosis of vortexes
渦たちの変容 2000-2001



UZUMEと綴ると渦眼とか渦芽、それに渦女とか読めてしまう。埋めと読む人は少ない。渦女というとやはり天宇受売命(あめのうずめのみこと)を思い浮かべるのも自然だ。天宇受売命といえば天の岩戸神事の重要な神様なのであるが、猿田彦とは夫婦神であること知る人は少ないのかもしれない。媛女(さるめ)の神ともいわれる。俳優(わざおぎ)、神楽、技芸の祖神(おやがみ)とあるから、猿楽との関連もおしはかられるところだが今は置いておこう。渦に関係してるのだから水の神様かとも思うがはっきりしない。逆に猿田彦の神は海で貝に手を挟まれて溺れたりしている。夫婦なんだからヤマノカミだなどという不謹慎な人もいた。UZUMEをテーマに作品を描いたことがある。その後も渦のことを色々調べたりしていた時期があるのだが、その内の一つを今回は、ご紹介しよう。・・・・
 水の精霊のかたちとも言うべき数々の写真を紹介してくれた学者がいる。ぼくの大好きなテオドール・シュベンク。ドイツの流体力学者だ。工作舎から「カオスの自然学」というタイトルの本が出版されている。原題は「センシティブカオス」という。この本がなかったらぼくは神戸まで行って渦を研究することはなかった。・・・・・


図1 水中のカルマン渦 



図2 韓国・済州島付近に生じたカルマン渦
気象衛星 ひまわりによる映像


Uzume: Metamorphosis of vortexes
渦たちの変容






 


Implicating Rheo Movement
織り込まれる流れ運動 1999-2000




世界は渦の中に記憶されるのか?
デヴィッド・ボームの全体流動と宇宙の記憶

デヴィッド・ボームのこと知ったのは、心理学者のケン・ウィルバーが編集した「空象としての世界」を読んだのがきっかけだったと思う。ウィルバーには、「進化の構造」(春秋社)という著書があって、ポスト・モダンを徹底的に批判しているのを面白く読んだものだった。デヴィッド・ボームは、アインシュタインとも共同研究をしたことのある著名な物理学者である。当然ながら20世紀の物理学者なら誰でもそうだったようにアインシュタインには強い影響を受けた。どの部分に強く反応したかというと世界は分割できないという考え方にだった。
 量子を観察しようとすると実験装置の影響によって観察結果が左右されるという事態が起きる。だから、実験条件と観察対象は一つのパターンの異なる二つの側面であって、分割して考える事に意味がない。これは、不確定性原理が知らしめる通りである。アインシュタインのいうように、場を観測する装置は、その場の中に存在し、それと分離して考える事は不可能なのだとボームは、強調する。煎じつめて言えば、見るものと見られるものを別個に考えるのは、意味がないと言っている。なんだか、禅みたいだが、禅の場合は、場という足がかりさえ取り払われるからもっとラディカルだ。場が重要だとする考え方は、1970年代を過ぎるころから結構登場しはじめてくるのである。この頃から、・・・・・




図1 デヴィド・ボームが全体流動のモデル
として使ったクエット・テイラーシステムによる渦 
上 水平にできる渦 下 乱れた渦



Implicating Rheo Movement
織り込まれる流れ運動






 


Crystallography of Turbulent Flow
乱流の結晶学 1989-1999



 
結晶と乱流を繋げてみる。
― 物質は、熱いほど知的らしい ―

時々、対極を結びつけるということを面白半分に (半分は真面目だから性質が悪いのかもしれないが) することがある。この時は、結晶と乱流というどうやっても結びつきそうもないものを結びつけてみた。結晶というとだいたいあの水晶のような形を思い浮かべる。結晶をどのように描くかを考えていた時、面白い図を見つけた。ジョージ・アダムスという科学者が、射影幾何学を使って描いたものだった(図1)。この人、流体力学者のテオドール・シュベンクと共同研究していた人らしい。 このシュベンクの研究所へイギリスから学びに来ていた人物が、フローフォームの生みの親、ジョン・ウィルクスだったのである。・・・・フローフォームは、空豆を左右対称に開いたような器に水を上から流し入れてレムニスカート(無限大の記号)のような形の流れを形成する装置である。なんとなくローレンツアトラクターを想像させる形だが、水を浄化する働きがあると言われている。上から段々に並べられた器の形状は、脊椎骨を思わせる。・・・・・・


図1 ジョージ・アダムスによる結晶の図


Crystallography of Turbulent Flow
乱流の結晶学






 


Opsis-Physis
光輝と質量 1997-1998




色彩とは何か?
光はたもち その電燈は失はれ‥‥

私の最初の画集『自己組織化するカオス 植田信隆作品集1996-1997』を出版するにあたってシュタイナーの研究者である佐藤公俊(さとう きみとし)さんに文章を書いてもらったことがある。その中に宮澤賢治の詩「春と修羅 第一集」の有名な冒頭が引用されてあった。それが晴れやかで嬉しかったのを憶えている。当時は、ゲーテの科学観に興味を持ちはじめた時期で、形態論(原形態を参照してください)やモナド論(三声のモナドを参照してください)など私にとって重要な思想を見つけていた時期だったように思う。その中に、ゲーテの色彩論があった。ゲーテは、勿論ながら詩人、小説家であったが、同時に形態学や、植物学、とりわけ色彩学を熱心に研究したことでも有名である。佐藤さんは、色彩論との関連で宮澤賢治の詩「春と修羅 第一集」の有名な冒頭を引用したのである。

  わたしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せわしくせわしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
‥‥‥



 この詩は、賢治の仏教的縁起についての解釈が込められているようで、私にとってはとても大切な箇所なのである。実は、この「光輝と質料」というシリーズを描いていた時にもこの詩が念頭にあったのである。・・・・・・


 
                        



 ゲーテの色相環


Opsis-Physis
光輝と質量 







 


“Urformen” 
原形態 1996‐1997



 
形態学とは面影の学問
存在する全てのものが自己を表す方法が形である
何故,柄にもなくこんなタイトルかというとゲーテの形態学に敬意を表したかったからである。ほんとは、定冠詞のdieが必要かもしれないが省略した。ゲーテ自然学という名称があるくらい彼の自然へのアプローチの仕方は、独特で興味深い。ドイツだけでなく日本にもこのようなアプローチを愛する人は、多いようである。最近(2009年春)、筑摩学芸文庫からゲーテ形態学論集の植物編と動物編があいついで刊行された。三木成夫(みき しげお)さんは、そのようなゲーテ自然学の立場に立つ解剖学者である。
 三木さんの「解剖学論集」(うぶすな書院)を読んで仰天してしまった。三木さんによれば、動物とは、二重の筒である。こんな形に還元してしまうのかと驚いたのである。まず栄養・生殖過程を担当する内臓系がある。それは、植物的な器官なのである。試しに、動物を一匹捕まえて口の中から手を突っ込み肛門まで表裏を靴下のように引っくり返して、粘膜のすべての穴から中の臓器を引張り出した姿が、植物の姿に重なるのだという。動物の内的構造は、植物の外的構造なのだ。なんて人だと思ったが、形態から考えると確かにそうなのである。その筒の外側に感覚・運動機能を担当する新たな筒である体壁を獲得したのが動物なのだ。だから、動物には、食べ物をみつけてきわどく掠め取るための近の感覚と同時に、植物から継続した器官を持つために宇宙のリズムに反応する遠の感覚があるのだという。宇宙リズムに共振する生体リズムについて説明する必要はないだろう。まさに暗在系と明在系の器官を併せ持つ存在なのである。・・・・・・


Urformen 
原形態







 


Entelechie
エンテレケイア 1995‐1996



エンテレケイア ― 根源力 ―
文化の中の熱要素

35の時、勤めを休職してウィーンに留学した。受け入れ先が、決まっていたわけではない。ウィーンの美大の絵画クラスをまわって教授たちに交渉して歩いた。その時、応用美術大学のアドルフ・フローナーが拾ってくれた。どこの馬の骨だか分らない人間をである。師の、その度量の広さと寛容さを思うと今も心が熱くなる。当時は、フンデルトヴァッサーや、ウィーン幻想派の作家たち、レームデン、ブラウアーらがまだ教えていたし、抽象のプラヘンスキーや表現主義的な画風のアーノルフ・ライナーたちがいて、ウィーンも元気だった。フローナーも表現主義的な作家の一人である。
ヨーロッパを広く歩いたわけではない。ベルリンの壁が崩壊して、開いたばかりの東ヨーロッパが気になっていた。作品も色々見て歩いたが、ウィーンの20世紀美術館で見たヨーゼフ・ボイスの作品は、ヨーロッパで見た最良のものだった。焼け爛れた木製のドア、そのドアノブには、ウサギの耳と鳥の嘴(おそらくツグミ)がかけられている。その前には、V字の樋のような形の塊が床に置かれていて、その上に裸電球が一つ灯っていた。作品のコンセプチュアルな部分もさることながら、その周囲の空気が震えてみえた。その強烈な物質性がどこからやってくるのか、その感動とそれに付随した疑問がずっと頭を離れなかった。・・・・・



 

ヨーゼフ・ボイス Josef Beuys
1921‐1986



Entelechie
エンテレケイア







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