ミレーナ=美智子・フラッシャール『ぼくとネクタイさん』鏡のなかへの墜落

この美しく、もしかすると意味のある世界から
君はどれほどのけ者にされ、
あらゆる自然な完璧さからどれほど遠く隔てられ、
君自身の虚無の中でどれほど孤独を感じ、
この大いなる沈黙のなかで、どれほど孤立無援であることか。

マックス・フリッシュ『沈黙からの答え』関口裕昭 訳

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』

この小説『ぼくとネクタイさん』の冒頭に引用されたスイスの小説家・劇作家であるマックス・フリッシュ(1911-1991)の言葉、ここに既にこの物語の前景が暗示されているのだが、今回ご紹介する小説の書き出しは、その最後の文章と共に異様に明るい。書き出しは、こう書かれている。

ぼくは彼をネクタイさんと名づけた。
彼もこの名前を気に入ってくれた。彼は笑い崩れた。
胸元の赤とグレーの縞模様。あのネクタイとともに、ぼくは彼を記憶に永遠に刻み続けるつもりだ。

この本の表紙にあるようなベンチが主な舞台だった。20歳の引きこもりの青年が、少し外出できるようになり、そのベンチで初老のサラリーマン風の男と会話するようになる。それがこの話の端緒なのだが、この二人には、この世界から切り離され、疎外され、孤立無援とならなければならない深い傷があったのである。

確か、昨年の10月にこの小説の翻訳者である関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんが学会で広島に来られると言うのでお会いできることになった。この人はパウル・ツェランの研究者として知られる人でオーストリア文学会賞などを受賞されているのだが、僕が関口さんの著書を 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇と題して書いた時にわざわざコメントをくださった。それがお会いすることになるきっかけだった。その時は、版画家だったツェランの奥さんのジゼルのことやツェランの親友であったクラウス・デムス(ピアニストのイェルク・デムスの兄)の息子でジゼルから版画の手ほどきを受けたというヤーコプ・デムス氏、作曲家の細川俊夫さんのこととか話した記憶があるのだけれど、別れ際に今訳している本を後で送りますよと言ってくださった。それがこの本なのである。

ザンクト・ペルテン ウィーンの西方56キロに位置する。バロック風の建物が多いことで知られる都市。

著者のミレーナ=美智子・フラッシャールは、1980年ウィーン郊外のザンクト・ペルテン生まれ。父親はチェコ系のオーストリア人で母親は岡山出身の日本人である。日本語は母の口から学んだまさに母語であったという。読み書きは、もっぱらドイツ語のようだ。ちなみにオーストリアの公用語はドイツ語である。ウィーン大学とベルリンの大学で比較文学、ドイツ文学、フランス文学を学んだ。卒業後は外国人にドイツ語を教えたりしながら小説を書き続け2008年『Ich bin/私は』、2010年『Okaasan』を発表した。この二作目は大きな注目を集めたという。2012年の本書によって、オーストリアの有望な新人に与えられる アルファ賞を受賞している。関口さんの「訳者あとがき」によれば、彼女は日本への長期滞在はないようだが、ほぼ毎年二週間ほどの滞在を繰り返していて、日本に住んでいる家族や親戚を訪れ、日本の風景・文化を楽しみ、時折自作の朗読もしているようだ。現在は、ウィーン市に夫と息子とともに生活している。

主人公は20歳くらいの青年タグチ・ヒロ。二年間、両親とともに住む家の自分の部屋に引き籠り、本棚の上にある髪の毛のように細い亀裂を眺めて暮らしていた。比較的短い文章でまとめられる114章は、こんな書かれ方がされている。

今ぼくが座っているのが、僕たち二人のベンチだ。ぼくたちのものになる前は、ぼくひとりのものだった。‥‥‥瞳を閉じてそのジグザグの線をなぞってみた。頭の中にあったその線はどんどん伸び続けて、心臓や血管にまで食い込んでいった。ぼく自身が血の通わない線だった。陽の当たらないところにいたので、肌が死人のように蒼ざめていた。ときどき陽の光に触れたいと憧れた。外に出て、人がけっして出て行くことのない部屋があるのを理解するのは、どんなことなのだろうかと想像してみた。‥‥ぼくは自分を欺こうとはしなかった。相変わらず重要なのは、自分のために存在するということだ。誰にも会いたくなかった。誰かに会うということは、何かに巻き込まれるということだ。きっと見えない糸があって、人から人へ繋がっているのだろう。どこもかしこも糸だらけ。誰かに会うということは、つまるところその織物の一部になることだ。これだけは避けたい。(第3章より)

彼は意味のある世界からはぐれた。そして、じっと見つめ続けていた自室の壁のヒビが自分自身の頭の中の線や心臓からの血管の線となっていく。それは、これからの他人との繋がりが生じることを暗示しているのである。ヒロが、閉じこもりを始めた契機には二つの事件があった。最終学年で同じクラスになったクマモトを巡る事件と16歳の時同じクラスになった幼なじみのユキコの事件だった。

ミレーナ=美智子・フラッシャール
『ぼくとネクタイさん』裏表紙

クマモトの家は三代続いた法学者の家系だったが、彼は詩人になりたがっていた。ヒロにはその詩がちっとも理解できなかったが、自分がどこかへ向かっていて、たどりついた場所でどのように孤独になるかを知っている、そんな光りを放つ彼と友達になった。ある日、待ち合わせの場所で、クマモトは道を渡ろうとしていた。周囲を見回しもせず車の往来の波に水泳選手のように飛び込んでいった。事故なのか自殺しようとしたのか。ヒロは気を失い目覚めたときには既にクマモトの姿はなかった。ヒロはその夜、恥の感情が込みあげてくるのを感じる。日本人の恥の感情がクローズアップされるのである。自分の持つ倫理と現実の対応とのギャップに対するある種の嫌悪のようなものが感じられはするのだが‥‥ここは、血のつながりを持ちながらも、外から日本人を見ている著者の距離感が興味深い。読む人それぞれに異なる感触を持つヶ所かもしれない。彼はもう誰の運命にも巻き込まれたくないと思うのだった。それが引きこもりの引き金になった。

ユキコは隣に住む腐敗物の臭いがただようような貧しい家の子供だった。家族は、興味よりもある種の不安からヒロに彼女のことを尋ねた。しかし、幼い子供にとってそんなことは問題ではなかった。ユキコは琴座の王女様で、はるかな故郷から地球に籠の中に入れられて運ばれてきたのだという。二人は、小刀で木の幹に名前を刻み、ユキコはスカートのポケットから赤い糸を引っ張り出して、枝に結びつけ、この赤い糸はわれわれが結ばれていることを永遠に記憶し続けるだろうと誓いの言葉を宣べるのだった。しかし、10歳にもなると二人の間は疎遠になっていった。そのことにヒロは苛立ちさえしたが、結局ユキコはヒロを避けるようになり、二人は離れてしまう。再会したのは16歳の時、同じクラスのクラスメイトとしてだった。しかし、この偶然の出会いはヒロに決定的な深い傷を残すことになる。

ベンチに坐るもう一人の人物ネクタイさんは、オオハラ・テツという名の58歳の元サラリーマンだった。職場での文字通り小さなつまずきが彼の生活を変えてしまった。書類の山を抱えて隣の部屋に移動しようとしてケーブルに足を取られた。職場の同僚たちは笑って、こうささやく者もあった。こんな人はいらないと。ちいさなきっかけから禍が雪崩をうつかのようであった。それから、彼を重い鉛のような眠気が襲い始めるようになる。こうして彼は会社をクビになった。それを妻のキョウコには言えなかった。彼女の作る美味しい弁当を持って毎日公園のベンチに坐っては、お昼になるとそれを食べ、夕方6時に帰っていく、そんな生活を繰り返していたのである。彼は若いヒロにこう語りかける。

今日、プラットフォームで人ごみの中にまみれながら、わたしは自分に問いかけました。この中の誰かひとりがいなくなったら、わたしの中にあるその人の一部分が欠けることになりはしないかと。そして、こう思ったのです。ただこうして触れ合うためにだけ、人は存在しているのではないか、と。そのとき、ようやく電車がホームに入ってきて、わたしの姿が車窓に映り、その後ろで寝ている人の顔に重なって通り過ぎていくのを見たとき、わたしの疑念は消え、こう悟りました。われわれは、ひとりひとりが互いに繋がっているのだということを。(第76章より)

オオハラにも忘れることのできない二人の人がいる。10歳の時ワタナベという名のピアノの先生についた。その先生の奥さんは肺病で余命いくばくもない人だったが、一緒に暮らしていた。ある時、ピアノの前の蠅を叩いて殺したことがあり、罪もない生き物を殺すなと叱られた。オオハラはそのとき、先生だって奥さんが咳をしているとき笑ったじゃないですかと反論した。先生はこう言った。ぼくが笑ったのは、妻がぼくに笑ってほしいからだ。ぼくは悲しみを封じ込める。ぼくの笑は彼女の伴奏をしなければならない。そう言いながら先生は泣いていた。結局、ピアニストにはなれずじまいで、1年間先生の演奏を聞くためだけにレッスンに通ったのだった。

もう一人はツヨシという名の初めての、そして最後の子供だった。オオハラが息子に関して記憶している言葉は、息子さんには障害がありますという一言だった。それは感情を失った感情と呼ぶほかはないものだった。子の障害を受け入れることのできない自分。普通の赤ちゃんのように元気に泣くこともない赤ん坊。たくましく世に生まれて、成長し、世界を少しでも良くしようとする人間のイメージを描いてツヨシという名をつけたのだった。間もなくツヨシは亡くなった。心臓に大きな障害を抱えて生まれて来ていた。

カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

翻訳者の関口さんは、この翻訳に関して一つの懸念を持っていた。それは、日本の読者が、この小説を日本の物語だと強く思い込んでしまうことだったという。舞台も登場人物も日本人で、ことさら、梅干しや弁当の海藻サラダという日本的なイメージが登場する。だが、現実世界とは、ズレたパラレルワールドなのだという。日本人の自分がこの物語を自分にあまり近づけ過ぎないように気をつけたというのである。著者は日本の文学や文化を深く愛する人だが、手探りで日本のイメージを描こうとしていた。彼女は自分の血の中の脈々と波打つ日本的感性を小説を書くことによって確認しようとしたのではないかと関口さんは書いている。

その点、カズオ・イシグロが、五歳頃までに過ごした日本の薄れゆく記憶を文章の中に留めようとして小説を書き始めたのと似ているかもしれないと関口さんはいう。生地の長崎を舞台にした日本に関する小説というと『遠い山なみの光』が思いだされるけれど、この小説は、戦前の日本の価値観が崩壊した戦後間もない長崎の住宅地が舞台であり、イギリス人と再婚した悦子がイギリスで日本の生活を回想するという設定になっていて、勿論、英語で書かれたものが日本語に訳されている。黄昏時に水溜りの多い空き地を、それらをよけながら向う側へ渡っていく。そのようなシーンが何度も登場する小説である。決定的な何かは描かれないし、長女の自殺という不幸の起こった理由もことさらに明かされない。すべては手さぐりされながら過ぎ去っていくなかに、悦子の女性としてのアイデンティティのふくらみが果樹園の上に広がる雲のようにただあるべきように描かれて終わる。関口さんのコメントを続けよう。

この『ぼくとネクタイさん』の原文には引用符がないらしく、訳者は語り手が変わるたびに一人称を「ぼく」「わたし」「おれ」「あたし」と訳し分けたという。語り手が誰なのか一読しただけでは明瞭でないこともあったという。ドイツ語で受ける明瞭なイメージと日本語への翻訳の難しさとはギャップがあって、その分、楽譜を見ながら指揮者が個々の音の様々な色合いを見つけ、強弱を明確にし、声部と声部を重層的に重ねあわせながら、交響曲として演奏し、聴衆に届ける過程と似ていて楽しかったというのである。オーストリアの文学を熱心に紹介していたのはドイツ文学者の池内紀(いけうち おさむ)さんだったけれど、関口さんにも是非これから色々な名作を紹介してもらえればと思っている。

ドイツの文学第10巻 フリッシュ
『わが名はガンテンバイン』1966年刊

冒頭で述べたマックス・フリッシュもカズオ・イシグロのように人間のアイデンティティを問題にする。その問題の仕方は独特であり、物語はいかにも唐突に展開する不思議な作家である。1954年に発表された『シュティラー』によって一躍世界的な作家となった。自己の自己に対する関係を描いた告白小説といわれている。僕が手に取れた本は、『アテネに死す』、これは「ホモ・ファーベル/作る人」が原題で、それはもともとベルグソンの言葉である。そして、『わが名はガンテンバイン』の二冊なのだけれど、後者は短い物語が脈絡なく続いているように思えるのだが、実は繋がっているのではないかと時々疑ってみたりする。その中の「裸の男(馬)」の話には病院でシャワーを浴びている男が様子を見に来た看護士の女性、彼女は思い切って叫ぶこともできないのだが、彼女の両の腕の付け根に両手にかけたまま、「ぼくはアダム、君はイヴ ! だ」というのである。呼び出された当直の医師の脇をすり抜けて、病院を抜け出し、街中を裸で歩きまわるという話になっている。奇妙だ。その次の物語「鏡の中の墜落」にはこのような文章が書かれている。

「それは鏡のなかへの墜落のようだ、ふたたび目ざめたとき、彼にはそれ以上のことがわからない、あらゆる鏡のなかへの墜落、そしてそのあと、そのすぐあと、世界はふたたび修復される、まるで何事も起らなかったかのように。事実また何事も起らなかったのである。(中野孝次 訳)」

ヒロとオオハラは、打ち解けあい、心の重荷を分かち合うようになる。そして、ついにヒロはオオハラに一つの願い事をした。こんな会話が描かれている。

今晩、奥さんに本当のことを、会社を首になったことを言ってください。いろんなことがあったり、なかったりした後、今こそ奥さんにそう言う必要があります。 わかった。約束する、きっと言います。じゃあ、あなたも約束してくれますか、その髪を今日中に短く切ると? 長いこと言えなかったけれど、そんなもじゃもじゃの毛をしていると恐ろしく見えるよ。二人して笑った。じゃあ、指切りげんまん。(第92章より)

その後、オオハラは7週間たってもヒロとの共有の場所に戻ってこなかった。意を決した彼は前にもらった名刺の住所をたよりにオオハラの家を尋ねる決心をするのだった。かつては、誰かに会うということ、これだけは避けたいと思っていたヒロだった。見えない糸にからめ取られて身動きできなくなる自分を嫌悪していたはずなのに。彼は、ついに何かに巻き込まれて社会という織物の一部になる決心をしようとする。誰かに会おうというのだった。オオハラの妻に。しかし、その家を訪ねて妻のキョウコから聞いた話は意外なものだった。どうか、結末はこの著作をお読みくださるように。

 

その他の参考図書

マックス・フリッシュ『アテネに死す』
かつて、結婚まで考えていた女性との間に生まれた娘と知らずに恋に落ちた、落ちたと思い込んだ技術者の悲劇を描いた小説。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part2 土星とメランコリア

アルブレヒト・デューラー『夢のヴィジョン』1525年

「1525年、聖霊降臨祭の後の水曜日と木曜日との間の夜(6月7日~8日)就寝中、私はいくつもの大水が天から降ってくるこのような光景を見た。そして、その最初のものは私から4マイル離れた大地を巨大な轟音と爆発とともに打ち、すべての陸地を呑み込んだ。全く耐え難いこのような驚愕のうちに私はそこから目覚めたが、そのとき第二の水が降ってきた。そして、そこへ落ちた水は、(最初のものと)ほとんど同じ大きさであった。あるものは遠く、あるものは近く、そして、それらはきわめて高くから降ってくるので、みな同じくゆっくりと落ちるように思えた。しかし、大地を打った最初の水がずっとこちらへ近付いてくると、それは非常な速さと風と轟音とを伴って降ったので、私は大いに驚いて目覚めたが、全身が震えて長らくわれに返らなかった。しかし、翌朝起きたとき、私は、見たまゝを上図のように描いた。神はすべてのことを最善へと戻し給う。 アルブレヒト・デューラー(『自伝と書簡』前川誠郎 訳)」

アルブレヒト・デューラー『人体プロポーションの習作』
左 1523年 右 1507年
アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』より

さすが、画家デューラーは、このようの事態にも冷静に絵筆をとれる卓抜な精神力を持っていた。1520年にネーデルラントへの旅行中に打ち上げられた鯨を見るためにゼーラント地方へ出かけた折、マラリアにかかったらしく、その地で発熱している(『ネーデルラント旅日記』)。ニュルンベルクへ帰郷後も体調は改善することなく、この夢の3年後の1528年に亡くなった。この夢を見た頃、自らもこの参事会のメンバーであったニュルンベルク市参事会に寄贈すべく『四人の使徒』を制作中であったし、懸案の絵画論が最後の力を振り絞って執筆されていた。この努力は、アルベルティやダ・ヴィンチが人間のプロポーションを新しい科学的基礎の上に築こうとしたのと同一線上にある。古代ローマの建築家であるウィトルウィウスの伝統的な単位を参考にしながら独自の「理想的プロポーション」を探究していた。それは『アダムとイヴ』などの作品を見れば納得できよう。ただ、それは「あらゆるものが本質的に適切であり正しくなければならないように、集合全体が調和しなければならない」ような理想であったのである。

アルブレヒト・デューラー『十字架を荷う』1520年

印刷はされなかったが起草されたピエロ・デラ・フランチェスカの『画家の透視図について』が当時もっとも包括的な透視図の著書とされていた。したがって、まだ透視図の作図法はそれほど広くは知られていなかったことになる。デューラーは、1505~1507年にかけての二度目のヴェネチア滞在中に160キロ以上離れたボローニャを「ある人が私に教授したいと言った透視図法の〈芸術〉のために」訪れたとしている。こうして、彼は「正確さ」と「調和」という二つの要求を同時に満たすことのできる「空間を組織化する方法」を手にいれることになるのである。透視画法を扱う素描の大半は、帰国後の1510年~1515年までの数年間に集中的に描かれている。その成果は、後の1525年に『コンパスと定規による測定術教則』として纏められ、出版されることになる。このコンパスと測定に関わるイメージは中世以来の造物主のイメージとも重なっていることを指摘しておきたい。

アルブレヒト・デューラー『十字架の染み』
部分 1502~14年

1502年に敬愛した父が亡くなる。1503年にはデューラーが実際に見た最大の驚異と呼ぶ出来事が起きている。親友であるピルクハイマー家の裏手に坐っていた女中の麻布の下着に落ちた雨が、キリストの磔刑図のような染みを作り、それを見た彼女は自分は死ぬに違いないと恐れおののいたという。パノフスキーによればこのニュールンベルクを恐怖に落としいれた「血の雨」は無害な藻類の仕業であったらしい。大勢の人びと、とりわけ子供たちの上にこの十字架が降った。それから、「私は空に彗星を見たことがある」と記している(『自伝と書簡』)。1505年から二年にわたりニュルンベルクを離れてヴェネチアに滞在したことは先にのべた。一つには蔓延するペストを避けることが理由に挙げられている。そして、1514年には、母も他界した。

この年、透視図の探求中に一つの偉大な構想が浮かんだ『メレンコリアⅠ』である。美術史家のヴェルフリンが「解釈の戦場」と呼んだほど不可思議な版画であるのだが、パノフスキーは、このような作品を構想できるような画家でなければ、母の死の二ヶ月前にその肖像画をあのように描くことは出来なかったろうと述べている。彼女の斜視はシェイクスピアの『冬の夜話』に登場する「一方の目は夫を失った悲しみで下を向き、一方の目は、信託が実現した喜びで上を向いている」ポリーナを想起させるという。デューラーは、自分の裸体像の脾臓のある場所に指差す図に「私が指で示している黄色の斑点がある所が痛む」と書き入れている。プラトンは、脾臓は内部が空で血の気のないもので織られていて、汚れでいっぱいになると膿んで大きく腫れ、身体が浄化されると腫れが退いて元通り小さく萎むと『ティマイオス』の中で書いている。これこそ、憂鬱症の核心を示す臓器であった。

アルブレヒト・デューラー『母の肖像』1514年

この『メレンコリアⅠ』という作品は、四体液質の一つである「憂鬱質」の伝統と七学芸の一つとしての「幾何学」の伝統という、二つの偉大な図像的及び文学的伝統を融合させ、変形していると言われる。そこにあるのは、絵画という実践的技術を尊重しながらも、益々数学的理論に憧れ、天上の影響と永遠の観念に「霊感を受けた」と感じながらも益々強く人間の弱さと知性の限界に悩むルネサンスの芸術家の姿であったというのである。

フィッチーノに端を発し、ボリツィアーノとロレンツォ・メディチが生涯理想に掲げ、ピコ・デラ・ミランドラの広く知られた『人間の尊厳について』が称揚する「思索の生活」を送る「文人」あるいは「ムーサ(詩神)たちに仕える神官」。それは、「思索の生活」あるいは「研究の生活」を実践するという中世には存在しなかった人間の新しい在り方だった。ドイツ・ルネサンスが、観想の生活にもたらされる脅威と苦しみとして「メランコリー」を選んだことは、この「思索の生活」が熱烈に称賛され、土星が観想の守護星とされている反面、深遠な思索には悲しみと苦しみがつきまとうものであると言うことの表明でもあるのだ。ここからは、パノフスキーの著作『アルブレヒト・デューラー』とともに、パノフスキーとザクスルがデューラーの『メレンコリアⅠ」について書いた論文にクリパンスキーも加わって大著となったヴァ―ルブルク学派の『土星とメランコリー』も織り交ぜてご紹介したいと思っている。

図1 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分 
右から鍵、財布、大工道具、犬

『メレンコリアⅠ』についてデューラーが残した唯一の言葉は「幼児」を描いたスケッチに「鍵は力を、財布は富を示す」という短い文章だった。図1では右上に鍵、その斜め左下に財布、その下方に大工道具が描かれている。中世の人間にとってメランコリア/憂鬱質の人間は吝嗇家であり、それゆえ富めるものであるという暗黙の了解があったようだ。鍵は金庫を開ける権能の意味らしい。ギリシア神話のクロノス、あるいはローマ神話のサトゥルヌスは、自らの子供を喰らうように時間を食い尽くす時間の神、地の神、農耕の神、宝物管理係、繁栄を司る神、〈もっとも偉大なもの〉そして、老人とされていた。気質あるいは病気としてのメランコリアが、このクロノスあるいはサトゥルヌスの星である土星と関連づけられるのは9世紀のアラビアの学者たちによってであった。アブ―・マーシャルは『占星術入門』で、大地に似て冷たく乾いた黒胆汁を土星に、多血質を木星に、胆汁質を火星に、粘液質を月あるいは金星とに関係づけている。脾臓と土星を結びつけたのは「純粋なる兄弟団」と呼ばれるグループで、彼らのその著書は『純粋なる兄弟たちの書簡』であるという。

『霊魂と詩篇作者ダヴィデ』詩篇 9世紀初期
悲嘆のポーズをとるメランコリア症患者を音楽で癒す様子。

かつて、古代ギリシアにおいてヒポクラテスか、その義理の息子ポリュボスが述べたといわれる、「四体液(血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液)の正しい組み合わせが健康な体質を作る」とされる説に、ピュタゴラス派の影響を受けたエムペドクレスが四大元素を仲立ちとする四季と人間の四期を結びつけた。多血質に春・幼年、黄胆汁質に夏・青年、黒胆汁質に秋・壮年、粘液質に冬・老年を割り当てる。この黒胆汁がメランコリアである。時代が下ると黒胆汁が老年時代に割り当てられる場合もあった。黒胆汁が優勢になると最悪の場合、恐怖や人間嫌い、鬱状態が高じ精神異常に及ぶとされ、「メランコリー症」という病名で呼ばれるようになる。ところが、中世になるとオーヴェルニュのギョームなどによって「メランコリー体質が人間を肉体的快楽と世俗の喧騒から引き離し、神的恩寵が精神に直接入り込んでくるよう準備を整え、魂を高める基盤となって、神秘的・予言的幻像の現われを呼ぶ」というアリストテレス説が注目され、一部で脚光を浴び始める。それがフィッチーノやポリツィアーノに受け継がれることになるのである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『メレンコリアⅠ』1514

向って右に坐るメランコリーの擬人化された女性(長らく天使と思っていたがそうではないらしい)が顔に手をあてるポーズは、憂鬱質症患者のポーズであったが、元来の意味は悲嘆である。しかし、頬に当てられた手は握りしめられ、何らかの意志の持続があることを表わしている。顔色は黒胆汁のために黒ずむが眼は澄んで明るく「覚醒した眼差し」を保っている。

ここで注目しなければならないのは彼女のまわりに乱雑に置かれた道具類である。書物、コンパス、インク壺は純粋幾何学を表し、先端を切った菱面体は立体画法と透視図を、工作道具は応用幾何学であり、鐘のついた魔方陣・砂時計・天秤は空間と時間の測定を表わしていると言われる。彼女は確かに「幾何学」の擬人像としての意味を担っているのである。それは、プラトン以来の高貴な学問の擬人像であり、人間的感情や苦しみなどからは遠いはずだった。パノフスキーは、幾何学という言葉の中に含まれるすべての資質を備えた「憂鬱症」、つまり「芸術家の憂鬱」をデューラーは描いたと言うのである。それは、1502年から亡くなる1525年までフライブルクの小修道院長を務めたグレゴリウス・ライシュの著作に見られる挿絵の情景と同じものだった(図2左)。ちなみに七自由学芸とは、文法・修辞学・弁証法の三学と算術・幾何学・音楽・天文学の四科をいった。デューラーが遠近法を含めた幾何学にいかに腐心した画家であったのかが察せられるのである。

図2 左 グレゴリウス・ライシュ『哲学の真珠』「幾何学」1504年
右 デューラー『メレンコリア習作』幾何学立体

そして、「メランコリア」の左に蹲(うずくま)る犬。「憂鬱そうな顔をした犬ほど嗅覚が鋭い」という同時代の作家の言葉が残っているという。犬は伝統的に憂鬱質に結び付けられる。左上に飛ぶ蝙蝠は薄暮に出現し、寂しく暗い荒れ果てた場所に生息する動物である。版画の中心より少し上には盲目の印象を与える童子が〈メランコリア〉の物憂い不活発さとは対照的に石版の上に意味もないことを刻んでいる。この幼児は、行動はできるが思索できない「実践的技能」を表わし、成熟した学識豊かな〈メランコリア〉は思索するが行動できない「理論的洞察力」を表わしているといわれる。デューラーの〈メランコリア〉は守銭奴でもなく病人でもない。彼女は実在しないものにしがみついているのではなく、解決不能な問題に固執している困惑する思想家であるとパノフスキーは言う。

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を喰らうサトゥルヌス』1819-23

フィッチーノらフィレンツェ知識人たちは、新プラトン主義の主導者であるプロティノスが、偉人は全て憂鬱質であるというアリストテレスと同様の主張、つまりサトゥルヌス(土星)を高く評価していたことを発見する。当時の新プラトン主義の影響力を考えれば、この『メレンコリアⅠ』のⅠは版画の番号ではなく、価値の尺度を表わしているとパノフスキーは言う。だが、このような土星の哲学的復権も土星が、惑星中最も不吉な星であるという中世の一般信仰を払拭できなかった。後年のゴヤの黒い絵のシリーズにもこのおどろおどろしい土星のイメージが描かれている。フィッチーノは不安を取り除くために木星の力を呼びおこすことによって土星の影響を中和する占星術的護符を用いていた。それが版画右上の魔方陣であるという。図3を見ていただきたい。16の枠に分かれた木星の祭壇と同じもので、それを錫板に刻んでおくと「悪を善に変え」「あらゆる心配と恐怖を取り除く」とされた。これらの知識をデューラーは、おそらくコルネリウス・アグリッパの『隠秘哲学』から得たのではないかとパノフスキーは推測している。

1503年のニュルンベルクに降った「血の雨」、不吉な彗星、蔓延するペストや赤痢、母の死、これら不吉な兆候から身を守るべく掲げられた魔方陣の下には遠近法や人体プロポーションに精通しよう不断の努力をなし続けてきた画家デューラー自身の姿である〈メランコリア〉の擬人像があったのである。土星の形而上学的領域の「知性」、木星の倫理的政治的領域の「理性」、火星や太陽に属する美術家や職人の領域である「想像力」、憂鬱質の狂気あるいはサトゥルヌスの霊感は以上三つの能力を刺激して、並外れた超人的活動に向わせるとアグリッパは述べる。

図3 アルブレヒト・デューラー 『メレンコリアⅠ』部分
  左から蝙蝠、彗星、三日月型の虹、量り、砂時計、魔方陣と鐘

アグリッパは、「知性」や「理性」より想像力に勝る画家や建築家は予言能力が授けられているとしても、彼らの予言は「嵐、地震、洪水、疫病、飢饉、及びその種の天災」のような物理的現象に限られるだろうとしている。推論的「理性」に勝るものは有能な科学者、医者、政治家になり、予言力は政治的な分野に限られる。そして、直感的「知性」に秀でた者は、神聖なる世界の神秘を知り、神学に含まれるすべての事象に卓越するであろう。予言能力があるなら新たな予言者あるいは新しい教義をもたらす者であろうとしている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

「想像力」の圏内で行動する人物〈メランコリア〉は人間の創意の三段階における最下層にあり、発明し組み立てることはできても形而上世界に踏み込むことは許されない。そのようなものに予言できるのは天変地異だけである。それが、冒頭でご紹介したデューラーの夢であったのかもしれないとパノフスキーは言う。洪水は土星もしくは土星の彗星によって引き起こされるとされた。そう『メレンコリアⅠ』の左上にある彗星である。それは「空間の限界の彼方まで思考を広げることのできない」者の憂鬱であったかもしれないのである。ただ、申し添えておくならば、この作品は『書斎の聖ヒエロニムス』と対にして制作されたと言われている。静謐で整理された室内において、思索しながら翻訳に勤しむ聖人の姿が描かれた。そこには直観的「知性」に秀でたものの世界が表現されている。

僕には、同じ時代を生きながらも性格も生き方も宗教も全く正反対だったパラケルスス(1493-1541)が思いだされる。常に医学の既成の枠組みを破壊しようとし、対抗勢力とは徹底域に戦い、定住することなく諸国を遍歴するしかなかったパラケルスス。デューラーは、父譲りの敬虔で篤実な性格であり、敵をつくらず周囲とも平和を保っていくことができた。パラケルススが敵にまわした、時の財閥ヤーコブ・フッガーはデューラーのパトロンであったし、ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公や皇帝マクシミリアン一世の寵愛さえ受けていた。パラケルススが嫌っていたエラスムスとも親密な関係であったのである。因みにエラスムスと画家ハンス・ホルバインは相互に理解しあっていたが、尊敬しあうことはなかった。エラスムスとデューラーは、たいして理解しあっていなかったのに、尊敬しあっていたという(パノフスキー『エラスムスと視覚芸術』)。パラケルススはカトリックに生涯忠誠を貫いたが、デューラーはルターに強い共感を持っていた。しかし、グリューネヴァルトのように農民戦争でルター派に加担してマインツ大司教治下の宮廷画家の職を解任されるような危険は冒さなかったのである。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

パラケルススとデューラーという、この対照的な二人の唯一の共通点、それは晩年における憂鬱症であった。想像力に勝る画家デューラー、そして推論的理性に秀でた医師パラケルスス。それはまさに、アリストテレスいう「偉人はすべて憂鬱質である」というテーゼやプロティノスが言うところの「土星の優位」を印象付けるのであったが、同時に直感的知性に届かなかった二人の憂鬱であったかもしれないのである。今回、一つだけ解けない問題が残った。この版画のタイトルは何故『メレンコリア』なのであって「メランコリア」ではないのかという問題なんです。これは分からない。

最後にヤーコプ・ブルクハルトの後継者としてバーゼル大学の美術史の教授となり、ベルリンやミュンヘン、チューリッヒでも教鞭を執ったハインリヒ・ヴェルフリンの『アルブレヒト・デューラーの芸術』(1905年)からの一節をご紹介して終わりたい。part1 でも少しご紹介した人だ。『美術史の基礎概念』という名著で知られている。様式史を中心とする美術史からの観点である。つまり形態学と言っていいだろう。いつか、機会があれば、名著の誉れ高いこの『美術史の基礎概念』をご紹介できればと思っている。

ハインリヒ・ヴェルフリン(1864-1945)
『美術史の基礎概念』

「‥‥人は何事もおろそかにしてはならず、どんな小さなしわ、血管も忠実に描かなければならない」と彼(デューラー)自身主張している。この素人が感嘆する、微細な部分に至るていねいな描写だけで彼は偉大な芸術家となったわけではない。ディテールが全体の印象の中に納まり、個々にはこまごましていても全体がすっきり見え、主要な線でまとめられ、本質的な性格を持ってはじめて、この詳細な観察が芸術に昇華するのだ。こうなるには、描き始める前に対象とする事物を明確につかみ取る必要がある。彼は苦労の多い長い時間を、どのようにして人間の完全な姿を作るかという事柄の研究に当てている。これを様々な時期に、様々な形で答えているのだが、結局は完全なものを見つけることに絶望している。最高の美しさは神のみが知りうるのであって、我々は個々の、それ自身が調和を保っている形にまとめることで満足しなければならず、自分がよしとする個々人の好みに委ねられているのだ。(ハインリヒ・ヴェルフリン『アルブレヒト・デューラーの芸術』相澤和子訳/出典はエルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』巻末)

 

 

その他の参考図書

デューラー『ネーデルランド旅日記』

デューラー『自伝と書簡』
表紙はデューラーの戯画

クリパンスキー、パノフスキー、ザクスル 
『土星とメランコリー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章がありルター、エラスムスの他ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

 

 

 

アーウィン・パノフスキー『アルブレヒト・デューラー』 part1 親愛なる神は細部に宿る

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『ネメシスあるいは幸運の女神』1502 部分
ネメシスとは、ギリシア神話の義憤・復讐の女神のことである。

僕はディテールの細かなものに惹かれる。それも硬質なものがいい。例えば、北宋の山水画、范寛の『渓山行旅図』、郭熙(かくき)『早春図』、李成『晴巒蕭寺図(せいらんしょうじず)』、巨然(きょねん)『層巌叢樹図』、関同『秋山晩翠図』、徐熙(じょき)『雪竹図』。気は結んで山となり、融けて川となる。すなわち山水である。その峻厳さ、孤高なたたずまいに息を飲む。南画は、僕にはいささかゆるすぎるのだ。山水画については、風水学とともに壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』に書いておいた。この東洋の細部に対して西洋において対抗しうる細部は、デューラーのドライポイント、エングレーヴィングといった金属版画が挙げられるだろう。それを継承するのはレンブラントのそれだろうか。

李成『晴巒蕭寺図』 10世紀 北宋 部分

デューラーは、1471年、勤勉で信仰心厚い金細工師の三男として生まれた。父はハンガリーのジューラという小村に生まれ17歳前後でドイツに移り、金細工師としての修行を積んで1455年にニュルンベルクに落ち着くようになる。母は、父がその工房で働いていた親方の娘でバルバラという名であった。18人の子供を儲けたが成人したのは、父の名を継いだ今回の主人公アルブレヒト・デューラー2世と二人の弟の3人だけだった。末弟アンドレアスは父親の金細工の工房を継いで親方となり、もう一人の弟ハンスは画家の修行を積みポーランド王の宮廷画家になったという(エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』)。ペストや赤痢などが蔓延した当時にあって、6人に一人の割合でしか幼児が育たなかったのは時代の趨勢だったらしい。いかに死と向かい合わせの生であったのか。学校に通って読み書きを覚えた後、金細工師としての修行を始めるが、絵の方に興味が移り始める。注文客に出来上がりの様子を描いてみせたり、金細工を施す前に下絵を描くことも重要な工程の一つだった。そのことを父に打ち明けると、父はデューラーが金細工修行に費やした無駄な時間を悔いたという。だが、それは、けっして無駄ではなかった。15歳の歳から近所にその工房があったミヒャエル・ヴォルゲムートの下で3年間、画家としての修行を積むことになる。

アーウィン・パノフスキー
『アルブレヒト・デューラー』

「15世紀のドイツにおいて、活版印刷、銅版画、木版画などの手段により、初めて個人が自分の着想を全世界に広めることができた。ドイツがようやく美術の分野で一大勢力にまでのしあがったのは、これら版画芸術によってであり、これは主に画家として有名であるが、もっぱら銅版・木版の下絵師としての能力によって国際的存在となった一人物、すなわちアルブレヒト・デューラーの活躍によるものである」とアーウィン・パノフスキー(1892-1963)は、その著書『アルブレヒト・デューラー』の中で書いている。イタリア・ルネサンスに対抗しうる作品をドイツで成し遂げたのは彼なのである。今回は、このパノフスキーの緻密で濃厚な著書を中心に僕の大好きなデューラーの版画にずっと頬ずりしたいと思っている。

パノフスキーは、アビ・ヴァ―ルブルクの偉大な弟子たちの一人であり、イコノロジーの大家である。1892年にドイツのハノーファーに生まれた。1914年にイタリア・ルネサンス絵画とデューラーとの関係を扱った論文によってフライブルク大学で哲学博士号を取得した。デューラーとの関係はこの頃から始まっている。1926年にハンブルク大学で美術史の教授になった。同じ大学の哲学教授であったエルンスト・カッシーラと知り合い、同地で活動していたイコノロジー(図像学)の泰斗アビ・ヴァ―ルブルクの知己を得た。ヴァ―ルブルク文庫の活動に協力して、その学派の形成にも寄与したようだ。しかし、ユダヤ人だった彼は1935年にプリンストン高等研究書に迎えられアメリカに渡った。主著に1939年『イコノロジー研究』、1943年この『アルブレヒト・デューラー』、1953年『初期ネーデルラント絵画』などがある。ちなみに日本のデューラー研究の第一人者である前川誠郎(まえかわ せいろう)は、留学先のミュンヘンの中央美術研究所の所長ハイデンライヒがパノフスキーの弟子であった縁で、デューラの『四人の使徒』に関する論文をパノフスキーに読んでもらったようだ。

上 ショーンガウア― 下 家屋台帖の画家
タイトルは、いずれも『十字架を荷う』。

デューラーが学んだミヒャエル・ヴォルゲムートはフランスで流行していた「死の舞踏」のイメージを1493年の『ニュールンベルク年代史』にその挿絵として制作したことで知られる。その作品はフランソワ・ヴィヨン『遺言詩集』中世の秋に贈る放蕩無頼でご紹介しておいた。その工房でデューラーは水彩、油彩などの絵画技術のみでなく印刷本のための木版画による挿絵などの版画の技術を習った。この工房の作品は彼の名付け親であり、ドイツ最大の出版業者の一人でもあったアントン・コーベルガーのもとで印刷されたのである。今でもそうかもしれないが徒弟の修行を終えた職人は遍歴の旅に出るのが習わしだった。1491年、デューラーは当時最高の版画家であり、画家でもあったマルティン・ショーンガウアー(1448-1491)をアルザスに尋ねたが、既に亡くなった後だった。それでも遺族からその作品を見せてもらうことができた。その前にオランダのもう一人の重要な版画家、家屋台帖の画家と呼ばれた人に会ったのではないかとパノフスキーは推測している。

ショーンガウアーがエングレーヴィングの名手であったの対して家屋台帖の画家はドライポイントの名手であった。エングレーヴィングは、銅板の表面をビュランと呼ばれる鋼(はがね)の道具で線や点を堀り削り、その時できた銅のめくれはスクレイパーと呼ばれるやはり鋼の道具で削り取る。その彫り削った凹部にインクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取るクールな感じの版画である。もともと金属細工の技法から発展したものらしい。ドライポイントは、鉄筆などで銅板を引っ掻き、表面のめくれはそのままにするので少し滲んだ感じの線になるのが特徴である。ちなみにエッチングは、銅板にグランドと呼ばれる腐食されない膜をひき、表面を鉄筆で引っ掻いて膜を削り取り、削れた膜の部分の銅を腐食液で腐食させて溝を深くし、インクを詰めてローラーで圧をかけて刷り取る技法である。

その翌年の1492年、当時ヨーロッパの出版業の中心地であったスイスのバーゼルにショーンガウア―の四男を訪れ、広く出版業者との知己を得たのである。その頃、デューラーの最初の出版物の挿絵である『聖ヒエロニムス書簡集』の木版の扉絵が制作され、好評を博した。

アルブレヒト・デューラー
『セゴンツァー付近のチェンブラ峡谷風景』水彩 1495

先達の様式を我がものにしながらデューラーは、いくつかの出版物の下絵を制作していくが、まだ、彼の名を轟かせるほどの仕事ではなかった。1494年、彼はニュルンベルクに呼び戻され、銅細工師で市参事会議員であるハンス・フライの長女アグネスとの結婚が取り決められる。フライの妻は当時銀行家をしていた上流階級ルメル家の出で、いわば破格の結婚相手だった。結婚早々、デューラーはベネチア行きを決意し、途中チロルの山岳風景やトリエント、アルコなどの風景を素描や水彩画として残していて、それらは、西洋最古の風景画として価値の高いものとなっている。チロルのクラウゼン峠の風景は、後に、『ネメシスあるいは希望の女神』の足元の風景としてそのまま使われたことで知られる。ヴェネチアでは、イタリア絵画、とりわけポライウォーロ、マンテーニャらの模写を精力的に行った。これらは、アビ・ヴァ―ルブルクの『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術 』で紹介されている。デューラーは、1495年の晩春には故郷ニュルンベルクに帰っている。

帰国後の作品としては、『ザクセン選帝侯フリードリッヒ賢明公の肖像』、『受難伝祭壇画』そして、おそらく妻のアグネスと思われる『婦人の頭部』などがあった。二度目のヴェネチア滞在は11年後の1505~1507年にかけてであるが、その間に、彼にとって重要な展開が生じている。それが版画によって成し遂げられるのである。1498年には木版画による『黙示録』『大受難伝』が出版され、それに先立つものを含めると計30点の木版画と6点の銅版画が制作された。殊に『黙示録』の影響力はヨーロッパ全土に及び一躍、世界的な作家となったのである。木版の技術的制約を克服し、新たな技術的な発展をもたらした。

美術史家の前川誠郎(まえかわ せいろう)によれば、15世紀半ば頃から西洋の木版画には二つの大きな変革が起こり始めていたという。一つは細密な平行斜線によって物体に三次元的な浮彫感を与えようとすること。この発展は一枚刷りの木版画から色彩を追い出してしまった。二つ目は、活字印刷の本格的な隆盛にともなって古典的・世俗的な書物も多く刊行され、書物の挿絵・扉絵としての木版画の受容が急速に高まって行ったことである。そして、パノフスキーも、この『黙示録』の企画が二つの点で斬新であったとしている。一つは一人の美術家が自分自身の仕事として下絵を描き刊行した最初の本であったこと。コーベルガーの工房で印刷されたが、デューラー自身も発行者として署名しているという。二つ目に、彼は14枚の1ページ大の版画とその裏面にテキストを印刷しているが、テキストは連続して裏面に印刷されているので必ずしも表の版画と内容は一致していないらしい。挿絵とテキストとは別個に連続して鑑賞されることを望んでいたことになる。木版画を書物の挿絵ではなく、テキストと同等か、それ以上のものとして考えたということになろう。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』木版画
「7つの燭台のヨハネ」 1498

続けてパノフスキーは、『黙示録』におけるイメージ上の発展がショーンガウア―の銅版画の図像に負うところが大きいという。「7つの燭台のヨハネ」では、足の裏を観照者に見せて坐る福音史家の姿、壮大な枝状の燭台はショーンガウア―の『聖母の死』の影響がはっきり見られるというのである。「人の子」と呼ばれる中心人物の顔はやはり、ショーンガウア―の『聖アントニウスの誘惑』のアントニウス(図3)のそれに近い。それに、マンテーニャの影響もみられる。デューラーの『第五、第六の封印開き』(図1)における母親の姿は、口を大きく開け、恐怖に苛まれており、マンテーニャの『十字架降下』の中の老女を原型(図2)としていると考えられる。ヴァ―ルブルクは、『デューラーとイタリア的古代』の中で初めて「パトスフォルメン(情念定型)」という言葉を用いている。有名な論考だ。古代の激しい情念を表現する身ぶりは、歴史の暗闇を経過して再び浮上し、北イタリアからデューラーに伝えられたというのである。これは、デューラーにとって第一次イタリア旅行での成果であったろう。

そして、7つの燭台の表現では、幾何学的に燭台を配置しているのではなく、遠近法的な配置になっていて、それぞれが全て形状を異にしている。これが実際の金細工であったなら、これもまさに傑作であったろうと言う。それらの燭台は、積乱雲のような雲の上に置かれ幻視者さえ乗せているように見える。従来の版画における幻視者はアーモンド型の光背に包まれて彼の幻影の前にひざまづいているだけだ。『黙示録』のテキストに「人の子」の目は焔のようであったと書かれてあれば、デューラーはその神的な顔から噴き出す炎を描いた(図4)。デューラーにおける幻想体験の表現は、単にそれを目撃させるばかりでなく、それを追体験させるように働きかけるというのである。

図1 左 デューラー『黙示録』「第五、第六の封印開き」木版画
図2 右 マンテーニャ『十字架降下』銅版画
母のイメージ、いずれも部分

デューラーは、エングレーヴィングなどの銅版画の精緻な表現を木版画の中に持ち込もうとした。空間感、量感をもった細部は現実的な充実したものとなり、それに加えてマンテーニャらの人体の動力学、感情表現の研究がそれらにいっそうの拍車をかけた。現世的な光景とその細部が本物に近ければ近いほど、変幻きわまりない幻影となって全体像をますます怪奇なものにさせ、身振りが自然であればあるほど、光景は益々途方もないものとなっていった。「四人の騎士」では、騎士と乗っている馬が迫真的であればあるほど、この恐ろしい騎士団が虚空から出現するという印象が避けがたいものとなる。

図3 左 ショーンガウアー『聖アントニウスの誘惑』部分
図4 右 デューラー『7つの燭台のヨハネ』部分
描かれた顔の類似。

同時代の人文学者エラスムスが称賛したように彼の線は、無定形の炎や頭髪や雲といったものまで劇的に表現することが可能であったのだ。デューラーによって高められた木版画による表現は、アリストテレスが劇作家に述べたこの助言を地で行っているとパノフスキーはいう。「不可能ではあるが、あり得るかもしれないと思われることの方が、あり得るかもしれないが納得させられないことよりも好まれてしかるべきである。」これらの作品はレオナルドの『最後の晩餐』と同様に人びとの避けて通ることのできない美術作品となった。ドイツのみならず、イタリア、フランス、ロシアにまで影響を及ぼし、木版画や銅版画による版画だけでなく彩色画、浮彫り、タペストリーなどでによっても模写されたという。申し添えておくと、デューラーはいくつかの作品は木版を自分自身が彫り、いくつかは彫師の見本のために一部のみ自身が彫ったようだが、工房の彫師の腕が上達するに伴い下絵を描くことに専念したようである。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『黙示録』「四人の騎士」1497-98

デューラーには、独創性の要請という近代的な芸術家としての意識が、かなり強かったといわれる。優れた画家とは「他のいかなる人の心にもかつて宿ったことのない新しいものを放出する」ことであった。それは、「意想」の新しさを言っているのである。アリストテレスが『詩学』で述べた「ディアノイア」だ。彼の図像には多くの先達たちのミメーシス(模倣)の上に、自らの新しいアイデアを重ねたのである。ともあれ、版画制作は、油彩画による注文制作という制約から、あるいは中世絵画の約束事から解き放ってくれ、注文を待つ代わりに自主的に制作した多数の作品を売りに出すことが出来た。それゆえ自由なテーマを思うままに制作できたのである。

当時、木版画は金属版画よりも手間がかからず、その分安価なために需要が高かった。しかし、基本的に細部の入念さよりも単純化された線の表現を狙い、明暗の強いコントラストを求めた。そもそも、微妙な明暗の諧調を表現するには不向きだった。したがって、絵画的洗練や裸体の美の極致といった「芸術至上主義的」なものを表現するには適していなかったのである。デューラーにとって金細工師の修行をしていたことは、銅版画制作にとって極めて有利な特質を彼に与えていた。エングレーヴィングに用いるビュランと呼ばれる道具は金細工師が使う道具でもあったからである。銅板の上に刻まれるその線は、ふくらみのある弾力性を感じさせ、フィギュアスケートの選手が氷上に作る幾何学形のような美しさを持っていた。デューラーはショーンガウアーの怜悧な線に家屋台帳の画家の持つ温かみを加えようとしたとパノフスキーは見ている。銅版による傑作が生み出されるようになるのだが、その代表作である『メレンコリアⅠ』については次回 part2 でご紹介する予定である。ここで、少しイコノロジーについて述べておきたい。

アーウィン(エルヴィン)・パノフスキー
『イコノロジー研究』

19世紀の終わりから20世紀の初頭の美術史は新しい方法論が相次いで提起され活況を呈していた。伊藤博明は、『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題の中で、ヴァ―ルブルク自身は次のように分析していたと述べている。一群には旧来の伝記的美術史があり、この熱狂的な美術史家は6グループに分けられるが、その第4群に「歴史的基盤の上に立って再構成する道徳的かつ英雄的な美術史家」としてヤーコプ・ブルクハルト(1818-1897)の名が挙げられる。第6群には「制作者の鑑定家たち」と呼ばれる、自らが英雄と崇める芸術家の個性を擁護する職業的な芸術鑑賞者としての美術史家があり、ヴァ―ルブルクは彼らを蔑んでいた。新しく興隆してきた第二群は「様式史の方法、すなわち典型的な形態学」呼ばれる。彼はこのグループを「技術」「未開人の心性」「人間の空間感覚の本質」「人間の表現動作の本質」「図像的伝統」「慣習やしきたり」の7つのカテゴリーに分けていて、大部分の美術史家はこのカテゴリーの幾つかに重複して属しているという。

例えば、様式史研究の代表的な学者であるハインリッヒ・ヴェルフリン(1864-1945)は「空間感の本質」と「図像的伝統」を制約条件としている美術史家である。ヴァ―ルブルク(1866-1929)は自分自身を「表現動作の本質」を制約条件として美術史を研究する唯一の学者だとしている。ついでに述べておくと「様式史としての美術史」に対して「精神史としての美術史」を提唱したのがウィーン大学のマックス・ドヴォルジャーク(1874-1921)であった。彼によれば「芸術は‥‥まず第一に、人類を支配する理念の表現であり、その歴史は宗教や哲学や、あるいは文学の歴史に劣らず一般精神史の一部をなすものである(『芸術の考察について』)」。その弟子がウィーンのアルベルティ-ナ美術館館長を務めたオットー・ベネッシュ(1896-1964)であり、父親とともにエゴン・シーレの絵のモデルにもなった人だった。この美術館には、あのデューラーの『野兎』や『芝草』といった素晴らしい水彩画とデッサンが収蔵されている。

アビ・ヴァ―ルブルクが〈イコノロジー〉という言葉を初めて使ったのは、1912年のローマにおける国際美術史学会においてであったという(伊藤博明『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』解題)。「親愛なる神は細部に宿る」という名言を残したことでも知られる人だ。しかし、一般にイコノロジーの定義はパノフスキーによるものが有名であるらしい。

アルブレヒト・デューラー 『聖母伝』09
木版画 1505 イエスに跪く聖母

パノフスキーは、『イコノロジー研究』の序文でこのような意味のことを述べている。14世紀から15世紀に聖母マリアが寝台や寝椅子に横たわる伝統的な「降誕図」にかわって、聖母が幼児キリストに跪いて礼拝している新しいタイプが登場する。この変化は「イコノグラフィー以前の記述」では、構図が長方形から三角形に変化したことを意味するだけであった。「イコノグラフィー上の分析」では擬ボナヴェントゥーラや聖ブリギッタらの著作家たちによって明文化された新しいテーマの導入を意味する。「イコノロジーによる総合」においては、中世の後期段階に特有の新しい情緒上の動きを意味するというのである。

イメージの形式だけを考えるのはイコノグラフィー以前であり、図像そのものの意味やそのイメージの組み合わせとしての「物語」や「寓意」を考えるのはイコノグラフィーであり、その図像と周辺との関係、つまり無意識に作家の人格に具体化され、その作品に凝集される国や時代、宗教や哲学的信条まで考慮するがイコノロジーということになる。ある図像が「いかに」表象されたか、「何が」表象されていたかというより、「なぜ、そのように」表象されたかを探究するのである。ただ、この〈イコノロジー〉の概念が、パトスフォルメンを重視したヴァ―ルブルク自身と弟子たち、とりわけパノフスキーのそれとは食い違うのではないかとディディ=ユベルマンは『残存するイメージ』の中で指摘している。ここは、ヴァ―ルブルクが一時的に陥った狂気の問題とも絡んで思白い所ではある。

ここで、一つ言いたいのだが、日本でイコノロジーが定着しているかどうかは僕には分からないのだけれど、とりわけ悲惨なのは20世紀後半以降のいわゆる現代美術と呼ばれるジャンルの美術批評である。そこにはイコノロジーはおろかイコノグラフィーのかけらすら見つけることのできない不毛地帯ではないのか。これには、未だにアメリカ型のフォーマリズムに毒されている現状があるのかもしれない。しかし、このアメリカ型のフォーマリズムなどヨーロッパでは、たいして問題にされていないということは知られていない。日本やアメリカでヨーゼフ・ボイスが変なおじさんにしか見られなかったのは蓋し当然のことなのである。

 

その他の参考図書

エルンスト・ヴィース『アルブレヒト・デューラー』デューラーの伝記 
巻末に「アルブレヒト・デューラーを語る」という章があり、ルター、エラスムスの他、ヴェルフリンなどのコメントが収録されている。

前川誠郎『デューラー』人と作品
日本におけるデューラー研究の第一人者の著作。パノフスキーの著作が緻密でいささか煩雑なのに対して、本書はすっきりまとめられていて、デューラーについて初めて読む人には本書をお勧めしたい。

アビ・ヴァ―ルブルク
『デューラーの古代性とスキファノイア宮の国際的占星術』「デューラーとイタリア古代」収録

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノースロップ・フライ『大いなる体系』part2 神話の統合性と聖書

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『アダムとイヴ 』1504

キリスト教は一神教であり、他の神々は無きものである。イスラム教もユダヤ教もそうであるが、そこでは正しい信仰を持つものの最終的な勝利が革命的文脈の中で語られるとノースロップ・フライは述べる。ギリシア文化は二つの偉大な視覚的刺激を発達させた。彫刻における裸体と演劇であるコロス(合唱隊)の発達もありはしたが、演劇は基本的に視覚体験といえる。多神教は神々を識別するために彫像や絵を持たなければならなかった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にある伝統的な革命性は、裸体に対する忌諱と偶像破壊を生み、視覚的な芸術への拒絶の道を開いた。フライはこの偶像崇拝に対する憎しみの根底には自然神、つまり自然とそれを支配している思われる神々の消極的な態度に対する焦燥があるという。それは、革命を志向する者たちの憤懣であるというのである。運命と自然の循環に自らを任せて安逸をむさぼることに対する抗議であるらしい。

歴史的事実がどうあれ、エジプト脱出の後に律法が与えられるという旧約聖書の順序は、論理的、心理的に適切だったという。それは、危難の共有と共同体における律法、習慣、制度への深い関わりを実感させ、選ばれた民族という意識をもたらした。とはいえ、「律法/法則(law)」がもたらしたものは「自然法則」と言う概念の進展である。それは、ギリシア・ローマ的思考傾向である古典的志向とヘブライ的思考傾向である聖書的志向の共謀の結果であるという。その「自然法則」とは、人間の律法と自然の法則とを結合させるためにあったといえるのではないか。聖書は極めて特異な自然観を持っていて、道徳的秩序も自然秩序も同じように神の意志に支配されていると見なす。だから、全能の人格神においては奇蹟と自然的事象は、前者がごく稀であることを除いて区別はないという。このキリスト教の内にある自然法則という概念は、いまではかなり曖昧なものになりつつあるとフライは指摘しているが、西洋文化の内で普通いう意味の〈自然法則〉の探求に対する追い風となっていたのは確かだと思う。

アルブレヒト・デューラー『黙示録』
「第五、第六の封印開き」1497-98

黙示を表わすギリシア語アポカリプスは「覆いを取る」、あるいは「蓋を開ける」と言う意味である。それは心の中の忘却の覆い、真理を封鎖し黙示の顕われを妨げるものの除去である。黙示録は旧約聖書への言及の寄木細工であり、予表成就の行列なのだとフライはいう(予表成就に関してはpart1を参照してください)。黙示録は通常の意味での視覚的な書ではない。それは、聖書の真の意味を表わすものである。パトモスの幻視者であるヨハネが見たもの、それは「エゼキエル書」の四つの顔と四つの翼を持つ青銅のように光り輝く生き物であったり、「ゼカリア書」の四人の騎手に始まる〈八つの幻〉で見たものと言ってもよいのである。神の民は引き揚げられ、異教の王国は暗闇に投げ入れられ、疫病、戦争、飢餓、天からの星の落下が起こり、世界が新しい天と地に変容する。しかし、最も重要なことは、その幻視が示すものが「今起こりつつあることの内的な意味」、正確には「内的な形」なのだとフライはいうのだ。ヨハネはこれら全てを「霊において」、霊にみたされた体で見る。天の国の秘密が明らかにされ、不正の秘密は腐敗した人間の意志を暗闇の中へ突き落す。それは誰の身にも起こることであり、それは「泥棒のように夜訪れる」というのである。自然の秩序の破壊として象徴されているものは、時間と歴史の世界に閉じ込められた秩序という見方の破壊であり、聖書こそがそれを達成するものであるとフライは述べる。つまり、それは革命の真の意味であるかもしれないと僕は思うのだが。

ノースロップ・フライの聖書への言及から、僕にとって興味深いものをいくつかご紹介してみた。それでは、予告しておいたように、本書『大いなる体系』の四つの柱のうち残りの〈言語と〈神話についてこれから述べてみたい。

いかなる書物も文学的な要素を持つことなく文学的影響を与えることはできない。世俗的な文学から経験することは、ソナタ、フーガ、ロンドなどの形で具体化される音楽の形式原理が音楽の外部にないように、文学の形式原理が文学の外にはないことだという。彼は因習的な美学原理からは離れていたかった。そうするための規範の一つが「統合性」なのだというのである。彼は、文学の統合原理が〈穏喩〉と〈神話〉であると述べた(『ダブル・ヴィジョン』)。〈穏喩〉については part1 で既に述べたが、フライのいう統合性のもう一つの柱が何故神話であるのだろうか。これから、記述言語の歴史とともに、この問題を考えたいと思っている。

すべての言語構造体は神話の起源に由来するという原理を発見したのはイタリアの哲学者、修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコ(1668-1744)だとフライは指摘する(『力に満ちた言葉』)。彼はデカルトやロック、百科全書派の思想に満足できず、歴史こそ人間精神を反映するとし、古代法、古歌、言語、神話などの文献学研究の必要性を説いた。芸術を論理に従属させるのではなく、芸術的構想力が論理よりも優位に立つものであるとした。

フライは、こう述べている。「私たちにとって真実なるものは、私たちが作ったものである」というヴィーコの公準は「事物を知ることが出来るのはその事物を作ったものだけである」と言い換えられる。それゆえ、彼にとって自然は把握しきれるものではなかった。この立場からすれば神話は人間の創造したものである。僕のお節介をつけ加えるなら、神話的ヴィジョンを物語として定着させた創造行為である。ヴィーコは、エジプト人たちが明らかにしたという世界史の全行程を分ける三つのサイクル、神話的時代、英雄的時代、人民の時代を言語学的文献学的真理だとし、それらが再び繰り返されるとした。歴史哲学者としてのヴィーコの『新しい学』には、その詳細な記述がある。フライは、それらの時代の言語活動を秘儀的(詩的)、神官的(寓意的)、民衆的(記述的)活動に分類したのである。

秘儀的・隠喩的・詩的段階

その第一段階は、秘儀的・隠喩的段階と呼べる時代の言葉であり、本質的に詩的な言語である。そして、ホメロスに代表されるプラトン以前のギリシア文学や近東の新約聖書以前の文学、とりわけ旧約聖書には詩的かつ「秘儀的」な言語に見られるという。主体と客体の間の明確な区分よりも主客の間の共通のエネルギーのようなものが重視される。それは一種の言霊のような「呪文的」「魔術的」言語といってよかった。人間の精神は〈力に満ちた言葉〉つまり、神性文字による象形語、祝詞や神託などの式文によって制御されるという。それを端的に示す聖書の言葉がこれである。「『光あれ』こうして、光があった。」創造的動因としての言葉が物を生じさせるというのはヘブライ語に特徴的な要素であったことはパラケルススの所で述べた。

ノースロップ・フライ『力に満ちた言葉』
隠喩としての文学と聖書
『大いなる体系』の続編

それは、ホメロスの詩の中で魂、精神、時間、勇気、感情、思想などが強烈な肉体性を伴っているのとパラレルな関係にある。例えば『イリアス』ではアキレスの悲しみは、このように歌われる。「アキレスは愛する友を思っては泣きつづけ、 すべてを手なずける眠りさえよせつけなかった。彼はパトロクロスの男らしさと雄々しい力を惜しんでは身を展転とするのだった。二人でともになしとげた業、 ともに受けた難儀、戦士たちの合戦、苦しい船旅を思いおこしては涙をいっぱい流し、横向きに寝るかと思うとあおむけになり、またうつぶせになってみたりしたが、つと立ちあがり、苦悩で気も狂わんばかりに渚をさまよい歩くのだった(田中千春訳)。」

この段階では、隠喩(イメージ)の中心的な対象は一般的に太陽神や海神などの神であり、その個性の有様の一部が自然の様相と同一化していたという。世界が神々の複数性によって統合されていたこの言語の時代において、その複数の神に対応する心理的な諸力も複数であり(魂が何種類も想定されていた)、死とともに分離あるいは分解するものと考えられていた。この純粋な隠喩的概念に最も近いのは「霊」という語であろうとフライは指摘している。

神官的・換喩的・寓話的段階

第二段階はプラトンとともに「神官的」といえる段階に入る。知的なエリートに生み出されたと言う意味が一部に込められているという。ここでは、個性化の度合いが増し、言葉は主に思考や観念の外的表現となる。感情からある程度独立した意識が発達し、論理が構成されるようになるのである。超越的な神の概念は言葉の秩序の中心へ移動し、表現の基礎は人間と自然との間の生命や力の同一性を持ちうる本質的に詩的な隠喩から「これは、あれの代わりである」という換喩的な関係に移行するという。そこでは、自然の物質界から離れ、ある点でそれより優位にある思想の世界に参入する。

例えば、プラトンの著作『メノン』にはこの有名な言葉がある。「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれかわってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何ひとつとしてないのである。」「それはつまり、探求するとか学ぶとかいうことは、じつは全体として、想起することにほかならないからだ。(藤沢令夫訳)」プラトンの愛したユークリッド幾何学では、手描きを含めた何種類もの線が「線は幅のない長さ」という抽象的な公理に集約される。神々という複数の概念は、その統合概念としての一神教的「神」になりうる可能性をもつのである。

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評論としてのこの書は「文学形態論」ともいわれる

キリスト教が西洋における文化的優位を占めるようになると、換喩的な思考をする人々、つまり論理的に考える人々は、神がAと言った時、同時にBとは言えないという整合性との緊張に直面し始めるという。神の完全性に由来する演繹的思考が「異端」や「異教」を排除しはじめる。それは、魔女狩りのような社会的精神異常というレベルにまで進行した時代もあった。「不敬」な反キリスト教的教訓を含んだ物語の隠喩的要素は、解体されて他の言語手続きによって同化吸収されなければならなかった。この手続きが寓意(アレゴリー)である。寓意とは特殊なアナロジーであり、これを可能にしたのは連続的散文の発達だという。寓意については『薔薇物語』 バラと呼ばれる女性を巡る物語で触れておいた。隠喩段階における言葉の魔術は、換喩的な段階では連続性あるいは直線的整序に内在する疑似的魔力となる。中世が三段論法に魅惑されたのは啓示された諸前提からすべての知識を演繹するという中世の人びとの大いなる夢に由来するという。換喩的思考と一神教が発展するにつれ自分の中の「魂」と「肉体」によって人間は成り立っていると考えられるようになる。

民衆的・記述的・散文的時代

第三段階は、現実性という基準が自然の秩序における知覚経験の源泉となる。ここでは神は見つからず、神々は、もはや信じられていない。17世紀の天文学は神話的空間を科学的空間から分離し、19世紀の生物学と地質学は神話的時間を科学的時間から切り離した。この段階にとどまる限り神は存在するのかという問いに対しては、ノーと答えざるをえないという。三段論法的推理は何ひとつ新しいものを導かないと感じられるようになってくる。〈大前提 : 全ての人間は死すべきものである。〉〈小前提 : ソクラテスは人間である。〉〈結論 : ゆえにソクラテスは死すべきものである。〉結論はすでに前提に内包されているからである。そして、言語によるアナロジカルなアプローチは存在と非在の区別する基準を持っていなかった。ライオンと一角獣との間に文法的にも論理的にも統語上の違いはないという。違いを求めるには外部の基準を必要とした。その中で最も強力な基準は「物」、つまり自然の客体であった。

この言語の第三段階はルネサンスとともに始まり、18世紀に花開く。ヴィーコも述べたようにフランシス・ベーコンが理論化しジョン・ロックとともに実践が始まるという。彼らによって主観と客観がはっきりと分離され始めるのである。言語は客観的自然の秩序を記述する根源的な道具となり、記述されるものと記述との間に満足のいく照応が見られるなら真理と呼ばれるようになる。この民衆的言語は日常使用されている言語に近い。例えば、エミール・ゾラ(1840-1902)のこの描写である。

「そして、テーブルに肘をつき、目をとろんとさせて、ひとりで笑っていたが、それは、隣のテーブルの二人の客、ずんぐり太った男とちんちくりんの男が、ぐでんぐでんに酔っぱらって、パンのように抱きあっているのがとてもおかしかったのだ。そうだ、彼女はこの《居酒屋》や、ラードでつくった膀胱そっくりのコロンブおやじの禿げ頭や、短いパイプをふかしたり、怒鳴ったり、唾を吐いたりしている客や、窓ガラスだとか酒瓶を煌めかすガス燈の炎に向って笑いかけていた(『居酒屋』古賀照一 訳)。」

きっと古代エジプト人やシュメール人も日常このような言語を使っていただろうとフライは指摘する。それに換喩は昔からあったはずである。ヴィーコのいう三つの時代の繰り返しは同時的に発生している。ただ、この文脈では、文学的に優位な、あるいは際立った言語は何だったかと言うことが問題なのだろう。このような変化が起こるには相当な社会変化が伴わなければならなかった。そのような変化の一つが帰納法的観察に基づく科学の進展である。自らの肉体を含む自然との関係が水平なものになるに及んで意識により連想される概念は「魂」から「精神」に転調し、頭脳と強固に結び付けられるようになるのだという。

マーシャル・マクルーハン(1911-1980)
『グーテンベルクの銀河系』

文明の回帰・時代の回転

ヴィーコは、「諸民族が再帰するとき、文明現象は反復される(『新しい学』)」と述べた。フライもまた、時代の反復を述べる。「言葉が物を喚起したホメロスの時代から物が言葉を換喩する現代へと言語の巨大なサイクルが一巡し、今はまさにそのサイクルをふたたび回転させようとしているかもしれない。われわれが今日、再び直面しているのは主体と客体に共有されるエネルギーであり、それはなんらかの隠喩的形式によってのみ言語的表現が可能になるかもしれないからだ(伊藤誓 訳)」とフライはいう。フロイト以来、我々は原初の隠喩的あるいは多元的意識概念に戻り〈心(サイキ)〉を識別可能な衝突する諸力の束と考える傾向にあると指摘してもいる。時代は回転しようとしているのだろうか。

フライと親しかったカナダ生まれのメディア学者マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』の中の終盤でこう述べている。ブレイクは、彼の時代の問題を分析する時、人間の知覚を形成する諸力と直接対決する。「彼は自分のヴィジョンにふさわしい神話形式を求める。この神話探求は彼にとって不可欠であったと同時に、あまり効果のないものであった。というのは、神話というものはたいへんに複雑に入りくんだ因果関係の網を、同時的に知覚する形式だからである。経験が分断され、線形でしかとらえられない時代においては(中略)神話的ヴィジョンはまったく不透明で、とらえがたいものになる。ロマン主義の詩人たちはブレイクの神話的、もしくは同時的ヴィジョンにはるかにおよばなかった(森常治 訳)。」

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

神話は複雑な因果関係を同時に統合しうる手段なのである。レヴィ=ストロースは、人間の精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出されると述べている。神話とは精神構造の表れとも言えるのだ。このことについては、クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどるで書いておいた。

マクルーハンは続けてこう述べる。その後の詩人たちがブレイクの同時性の世界、あるいは現代の神話への芸術的表現の手掛かりを発見したのは書物を通してではなく、マスコミ、とくに電送記事を主体として作られた新聞を通してであったと述べている。感覚の諸比率が変わる時、人間も変わるということを明確な形で述べたのはブレイクであったという。メディアの変化は人間の知覚をも変化させる。フライの言う主体と客体に共有されるエルルギーを回復させる穏喩形式とは、マクルーハンにとって文字文化の衰退と多種多様な口語芸術の台頭であるかもしれない。ちなみに本書のタイトルはブレイクのこの言葉からとられている。「旧約聖書と新約聖書は芸術の大いなる体系である。」

神託に原型的説話を与える中心的な形成力は神話であり、神話は神話体系へと拡大し、想像的なものと現実的な関心とを結びつけ、時代が下るにしたがって、その主要な機能は内に向って社会の関心に直面するようになる。想像的かつ創造的思考の一形式である神話体系の直系の子孫は文学であるという。神話は究極的に物語(ミュトス)、つまり文学形式を成り立たせている構成原理のひとつであり、神話の寓喩的解釈は中世やルネサンスでは非常に高い地位を占めていて、稀には今日にいたるまで続いている。ここから考えれば、文学の祖は神話と言うことになる。これが、彼が文学の統合原理の一つを、神話に置いた理由なのであろう。それでは、聖書と神話を分けるものは一体何なのか。修辞学的には聖書の予表の存在であるが、実質的には、ケリュグマ・宣教であるとフライは考える。そのことによって聖書は、先ほどの三つの時代に特徴的な文学形式を超える存在と考えられるのである。

最後にフライが神話から導き出した原型について、さわりだけご紹介して終わりたい。この原型による文学批評は、他の歴史主義や形式主義などの批評を相互に結びつける要素となる重要なものだ。彼は、典型的・反復的に現われるイメージを原型と呼んだ。神話相における伝達可能な象徴のことを指している。それは、一つの詩を他の詩と連結し、それによって詩から得られる経験を統一ないし統合するのを助ける。劇のような文学形式、あるいは見世物劇、人形劇、笑劇、パントマイムなどは祭儀との関わりが深いし、ロマンスや民話、バラッド、物真似においては夢との類似性が高い。この原型を主眼にした文学批評では祭儀や夢と関わることが多く、その意味でフレイザーの『金枝篇』における祭儀の研究やユングの夢に関する研究はこの批評にとってはダイレクトな価値を持つという。原型に中心があるとすれば、その中心に一群の普遍的象徴を見出すことができる。人間すべてに共通なイメージであり、潜在的に無制限な伝達力を持っている。原型相における文芸作品は神話であり、祭儀と夢とを結びつけるという。まあ、これ以上は、その筋の専門家の人たちにお任せしましょう。

 

その他の参考図書

ジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表

ノースロップ・フライ(1912-1991)
『大いなる体系』

聖書というものがどのような変遷をたどってきたのか、この本を読むまで考えもしなかったのだが、翻訳の長い苦闘の歴史があったようだ。そのこと以上にどのように書かれているのか、それを知ることはもっと興味深いのではないだろうか。マタイによる福音16:18「あなたはペトロ。わたしはこの岩(Petra)の上にわたしの教会を建てる」、これは洒落になっているらしい。聖書にも洒落はあるのか。ヨハネによる福音3:8では、ニコモデにイエスはこう語っている。「風は思いのままに吹く。‥‥霊から生まれた物も皆そのとおりである。」霊はキリスト教における聖霊としての概念であり、風はその具体的例であるから換喩的表現となっている。換喩(メトノミー)とは、王冠で王を表わすように部分をもって全体を表わす。ノースロップ・フライは『大いなる体系』の中でこう述べている。驚くべきことに、ギリシア語テキストでは風にも霊にも同じ単語の「プウネマ」が使われている。それなら、こう訳すことも可能である。「風は思いのままに吹く。‥‥風から生まれた物も皆そのとおりである。」私たち同様、ニコモデもこの表現に動揺したかもしれない。この例は、言語の歴史、言語に関わる思想の歴史が翻訳と深く関わっていることを示していると言う。

神字の日本での使われ方は「神秘な力をもつ神聖なものをいう。すべての自然物や獣畜の類、また雷鳴のようなものも、神威のものとして神とされた(『字訓』)」となっている。この使われ方から言えば、キリスト教の〈神〉に、自然神である神の字をあてるのは、いささか無理があるのだが、西洋にも大文字のGodとgodsの差くらいしかないのかもしれないので、あながち間違いとは言えまい。神はもともと神の字であり、祭卓の形である〈示〉に電光の走る形〈申〉が組みあわされている。張光直「中国青銅時代」”共餐と饕餮” part2 饕餮紋とは何かをみていただきたい。ギリシア神話のゼウスに重なる部分がないわけではない。字源事典である『字統』には、中国、周代の青銅器に刻まれた文字(金文)には、神を祖霊としての人格神の意味に用いている例はあるという。が、あくまで祖霊である。やがて、精神の働きやその優れたものを神爽(しんそう)、神悟のように言い、人智を超えるものを神秘と言うようになるとある。

中国では、霊は、もともと雨を祈る呪儀を示すものであったらしい。神霊の降下を求める時にも同じ祝禱が行われるので、後にその神霊を言うようになったとある。神霊にかかわることをみな霊という(『字統』)。日本語の「あやし」には、霊、異、怪、奇の字をあてる。意味は、「霊妙でふしぎである。常識では理解しがたいようなことに対して、驚きの感情をもつことを言う(『字訓』)」とある。異は、周代にその青銅器の金文に神霊の翼臨することの意味で使われるようになっている。これは、霊のイメージにあう。饕餮(とうてつ)ではないけれど、異相のものであるから怪異の意味にもなる。霊・異・怪・奇、みな「あや」なるものであるが、怪異は後に邪霊となったという。

特に日本では、霊という言葉に怪しいというニュアンスがつきまとうのである。幽霊などという使い方をするが、中国では鬼の字をあてる。霊の文字につまづく人がいるのも無理からぬことであるのだが、キリスト教でいう霊は、普通、聖霊であって怪しいという意味は無かろう。翻訳の問題なのだ。これに精神という言葉が登場するとかなり難しいことが起こる。そもそも霊魂と言うけれど霊と魂とはどう違うのか学校で教えてもらったことはないし、教えたこともない。精神と霊もどう違うのかはっきりとはわからない。ドイツ語では、精神も霊も Geist であり、英語では Spirit だからあんまり問題ない。しかし、Mind を精神と訳すといささか問題が起こる。

僕は、長らくカトリックのイエスズ会のミッションスクールで美術を教えていた。今も、またその職場に復帰している。しかし、聖書に関してあまりよくは知らないし、時々何かの本を読んだ時に聖書のエピソードを知りたくて、聖書を開くことはある。若い頃は、聖書よりも外国人の神父さんたちの影響で、ヨーロッパのカトリック文化の方に強い憧れを抱いていた。恥ずかしながら聖書の内容のことは、よく分かっていない。自分でこんな文章を書くようになって、書き方と言う問題には、いささか注意を向けるようにはなった。聖書も特殊ではあるが文字で書かれている以上、文学批評の俎上に乗せることはできるのである。今回は、この文学批評における聖書を中心に、ノースロップ・フライの著書『大いなる体系』からひも解いてみたいと思っている。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『書斎の聖ヒエロニムス』1514

この著書では1611年にジェイムズ一世が英国国教会のために欽定訳(国王の命によって翻訳)させた聖書、一般に欽定訳聖書と呼ばれるものを使用している。この聖書は、聖ヒエロニムス(347頃-420)が、校訂・翻訳したウルガータ聖書の伝統を引き継ぐものであり、5世紀以降の文筆家が親しんできた聖書に近いからだと言う。ヒエロニムスは、382年頃からローマで当時の教皇ダマスス1世のもと聖書の翻訳にとりかかる。ダマスス1世が逝去の後はエジプト、ベツレヘムに赴き405年頃までには翻訳を完成させた。傷ついたライオンの足を治してやったエピソードで知られる人だ。新約聖書をそれまでのラテン語訳イタラ聖書とギリシア語訳のテキストとつきあわせて誤っている部分を校訂した。旧約聖書はギリシア語訳の70人訳聖書やヘブライ語聖書などをもとにラテン語に翻訳しなおした。それは、時代を経るにつれて評価を高め16世紀にはカトリック教会の標準ラテン語訳聖書となったのである。ウルガータは普及版を意味する。他にルター訳のドイツ語聖書が有名だが、プロテスタント系聖書もある。20世紀後半になると、カトリックとプロテスタント諸派が共同して聖書の翻訳に取り組んだ共同訳聖書が生まれ、日本ではその改訂版である新共同訳聖書が主流となっているようだ。

フライの最後の著作『ダブル・ヴィジョン』については、『宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』の中で少し触れておいた。ダブル・ヴィジョンとは、フライの愛するウィリアム・ブレイクの述べたこの言葉による。「内なる眼で見れば白髪まじりの老人であり、外なる眼でみれば、行く手をさえぎるアザミだ。」その本には、こう述べられている。「過去50年間にわたって私は文学を研究してきた。文学における統合原理とは神話と隠喩である。神話とは語り(ストーリー)あるいは物語(ナラティヴ)であり、隠喩とは比喩の言語である(江田孝臣 訳)。」これは重要な指摘である。

ノースロップ・フライ『ダブル・ヴィジョン』

「聖書を通読しようとする者の多くは、たいてい『レビ記』のあたりで身動きがとれなくなる。その理由の一つは、聖書は現実の一冊の書物というより小さな図書館だからである(伊藤誓 訳)」とフライは述べる。それでも、聖書には、世界創造とともに始まり、黙示録とともに終わる全体的な構造らしきものがある。そして、その間にはさまれた人間の歴史、もしくは聖書が関心を示す歴史の一側面をアダムとイスラエルの民を象徴的な名義人として俯瞰した書であろうという。町、山、川、庭、木、油、泉、パン、ワイン、花嫁、羊などの具体的なイメージ群があり、それが頻繁に反復されることを考えれば、そこに何らかの統合原理がある。自分のような文学批評家にとって、その原理は意味の統合原理ではなく形態の統合原理であるという。形態に何らかの一貫性がなければ書物は一貫した意味を持ち得ないからである。具体的イメージが隠喩として表現されれば、それによって統合性は与えられる。隠喩(メタファー)は、その言葉をある具体的なイメージで類推させる。「人生は旅だ」などがよく知られる例である。フライは「隠喩とはイメージである」と言い切るのである。

文学の世界は、自由な世界であり、その中で精神はのびのびと羽ばたくことが許される。物語は、それを信じろとか、それにもとづいて行動しろと強要することはない。文学は虚構の世界であってもいいし、現実の描写であってもよい。困難に立ち向かう人間の葛藤、身の毛もよだつ悲劇、癒しや寛ぎの世界、日常では経験できない法外な激烈さを伴う世界でもありうる。文学は霊性が活性化する世界を作り出すが、我々を霊的な存在に変えるわけではないという。それゆえ、聖書を文学作品とだけ見ることには無理があるとフライはいう。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『十字架を荷う』 1512

新約聖書が述べているのは「メシアが降臨するとき、このようなことが起こる」ということである。そのような事柄にどのように接近するかは一考を要する。処女懐胎などが問題にされる時、それを歴史的真実かどうか問うことは、そもそも、アプローチの仕方全体が間違っているとフライは考えている。彼が本書の前提とするものは、聖書は歴史的でもなければ反歴史的でもなく、歴史に拮抗する同等のものだということである。イエスは歴史上の存在として提示されるのではなく、別の次元から歴史の中に落下し、歴史という視界の限界を示す存在として提示されているという。過去の資料から事実と思われるあらゆる事件を抜きだし「世界史」を作る時、信じがたい事件という突起物は非神話化という手法によって削り取られる。しかし、福音書は突起物のかたまりである。新約聖書はメシアの誕生に始まり、黙示録におけるメシアの再臨の預言で終わる。それは、無限の様相を持つ万物がキリストの身体と一つに結ばれるというヴィジョンであるというのだ。

ドイツの聖書学者であるルドルフ・ブルトマン(1884-1976)が、史的イエスの実際の姿を再現することは複数の多様な伝承からなるマタイ、マルコ、ルカの福音書からは無理があり、新約聖書の本来の性格はケリュグマ、つまり宣教にあるとした考え方とフライの主張は、軌を一にする。だが、ブルトマンは、ハイデッガーの影響を受けて実存主義的聖書理解に傾斜し、聖書の非神話化を論ずるようになる。ここでは、フライとの立場の差は大きい。

ちょうど聖書が反歴史的ではなく、歴史に拮抗するものであるように、「~のようだ」「~みたいな」という言葉を使わないで、そのものの特徴を直接表現する隠喩は、論理的なものでも反論理的なものでもなく論理に拮抗するものであるとフライは言う。経験世界の逆説、例えば「私は、私のまわりにあるものである(ウォレス・スティーヴンズ)」とは隠喩によって表現される逆説である。聖書では、よく知られるこのような隠喩が使われる。ヨハネによる福音14:6「 わたしは道であり、真理であり、命である。」「AはBである」という比喩は「仮にAをBとしよう」という型の同一性を語る形式である。もし、AがBであるならばBはAであるが、実際に言っていることはAはそれ自身に他ならないという意味でもあるとフライは言う。「その英雄はライオンであった」と言うなら私たちは英雄とライオンを同一視しているが、一方で英雄もライオンも、各々それ以外の何者でもないことが示されているという。そこには逆説的な構造があるのだ。文芸作品の統一性はこの同一化の過程から生まれ、その多様さ、明晰さ、強烈さはこの個別性の提示過程に由来するという(『批評の解剖』)。つまり、登場する人や物は隠喩によって多様に特徴づけられながら一つの統合体となってゆくのである。

聖書の隠喩が統合される時、新約聖書の文学的言語は霊的生活のヴィジョンを伝達するという意図を達成する。あるいは、その可能性を持つのではなかろうか。そこから現れるヴィジョンによって我々自身の霊的生活を変容させ拡大させ続けるのだとフライはいう。聖書の隠喩複合体からは〈啓示〉という言葉に出会う。そこに、神話における隠喩が持つ働き以上のものを我々は聖書に見ることが出来るかもしれないのだ。それが、霊的な変容をもたらす力の源であるケリュグマ、すなわち宣教ではないか。それは真理についてのヴィジョンから始まるという。

ノースロップ・フライは、1912年カナダのケベック州シャーブルックにカナダ人の両親のもとに生まれた。トロント大学で哲学と英文学を学ぶ。1933年にカナダ合同教会の神学校エマニュエル・カレッジに入学し、1936年に卒業。聖職位を与えられた。24歳の時である。奨学金を得てオックスフォード大学に留学、詩人で文芸評論家でもあったエドマンド・ブランデンに師事した。卒業後、1940年に母校であるトロント大学のヴィクトリア・カレッジで教鞭を執るようになる。その頃、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の研究書を書き、ジョン・ミルトン(1608-1674)を授業で教えていたという。この二人を研究するうちに英文学と聖書との関係に興味を持ち始めるようになった。1957年には、彼の文学批評論を代表する著書である『批評の解剖』が刊行され、1960年代にカナダ、アメリカを中心に大きな影響を及ぼすようになる。

彼が宗教的な基礎教育を受けたのは、メゾシスト教会であった。メゾシストの名は規則正しい生活方法(メソッド)を重んじることから「記帳面屋(メゾシスト)」のあだ名に由来しているらしい。もともと18世紀にジョン・ウェスレーによる英国でのキリスト教信仰覚醒運動から興っている。そこでは、教義とは別に宗教経験に重きが置かれていたという。その後、長老派、組合派、そして、このメゾシスト派が合同して1925年にカナダ合同教会が設立された。フライは、このカナダ最大のプロテスタント教会である合同教会に属していた。1991年に癌で亡くなる直前まで教壇に立った人である。

今回ご紹介する 『大いなる体系』は、四つの柱である〈言葉〉〈隠喩〉〈神話〉〈予表〉が合わせ鏡のような章立てになっていて全部で八章ある。そのうち、この part1 では〈隠喩〉と〈予表〉を取扱い、残りの〈言葉〉と〈神話〉についてはフライが大きな影響を受けたイタリアの哲学者・修辞学者であるジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』などを踏まえて part2 でご紹介したいと思っている。隠喩については、いささか述べたので、後半は聖書の極めて特殊な修辞である予表について述べてみたい。

旧約聖書と新約聖書は互いに相手を写し出す合わせ鏡である。そして、旧約聖書は新約聖書を証し、新約聖書は旧約聖書を証す。だが、いかなる歴史的確証も我々には与えられていないとノースロップ・フライは言う。

詩編22:2(旧約)
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。

マタイによる福音27:46(新約)
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」


ゼカリア書11:12-13(旧約)
わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目によしとするなら、わたしに賃金を支払え 。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」

マタイによる福音書27:3-5(新約)
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。おまえの問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」


ハバクク書2:4(旧約)
見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。

ローマ信徒への手紙1:17(新約)
福音には、神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰に生きる」と書いてあるとおりです。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『カイアファとイエス』1512

聖書解釈は一般的に「旧約聖書には新約聖書が隠されており、新約聖書に旧約聖書は開示される」と言われ、旧約聖書で起こることは全て新約聖書で起こる何かの「予表(タイプ)」もしくは前兆と言われる。これらに関する学問全体が予表論と呼ばれている。やがて到来する偉大な人物や出来事を予め共通の型を持つ人や物で示すことが予型である。アダムはキリストのテュポス(予型)であり、その原型であるキリストはアンティテュポス(対型)と呼ばれる。聖ヒエロニムス訳のウルガータ聖書では、「テュポス」はラテン語の「フォルマ(形)」と訳されているが、欽定訳聖書では英語の「フィギュア(象徴)」となっている。創造神話の本質的意味は、その成就を黙示録に約束されているところの予表であろうとさえフライは言うのである。「ヨハネ黙示録21:1(新約) わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」

聖書のように予表論として編集され組織化された書物は、ほんの少しでも似ているようなものさえ見つけられなかったフライは述べる。予表論における彼の関心は、思考様式と比喩にある。予表論は修辞の一形式であり、他の修辞の形式と同様に、批評的研究の対象になるという。予表は過去に予表成就は現在にある。あるいは予表は現在に、予表成就は未来にというように予表は時間の中を動く比喩であると言うのである。連続的散文は因果律と結びついている語の配列方法である。因果律は我々が系統的に知っている全ての過去から発して未来に結びつけられる。予表論も未来に、その成就に関係する。

旧約聖書の「律法(ト―ラー)」とは、「教え」とか「指示」の意味であり、〈創世記〉〈出エジプト記〉〈レビ記〉〈民数記〉〈申命記〉の五つの書を指している。初期の預言者の教えの影響下で仕事をしていた編集者によって纏められた伝承にまつわる文書に由来するといわれる。プラトンの著作には、独力で聖書のような著作を書こうとする壮大な意図を感じさせるような部分があるとフライは指摘する。『国家』におけるソクラテスの問答は預言的な展開を含んで哲学者の統治による理想的な国家を構築しようとする。『ティマイオス』と『クリティアス』において、創造神話、洪水神話、そして、アトランティスの古代伝承などが言及される。その後、プラトンは『法律』に没頭するのである。それは、「律法(ト―ラー)」が600余りの規則に没頭しているのと似ているとフライはいう。中心人物であるソクラテスの殉教という成り行きは、展開される多くの議論の焦点であり、福音書の受難に対応しうる。しかし、マルクスがその歴史学を通して未来の社会の救済を描いたとしても、けっして、予表論的とは言えないのと同じようにプラトンの著作もそれとは、やはり異なるのである。

プラトンの「アナムネーシス(想起)」は新しいものは古いものと同一視可能として再認することである。それは、後向きの運動となる。因果律は通常この逆であって原因から結果へと向かう前向きの運動である。それは、科学的な思考を育んだゆりかごであり、時間の矢を持っていたと言えるだろう。予表論も因果律と同じく前向きの方向性をもち、その意味で、形式的には修辞的相似物であるという。しかし、因果論が理性や観察、それによってもたらされる知識に基づくのに対して予表論は希望や展望に基づく信仰と関係づけられている。ある種、夢から目覚めるような体験と似ているとフライはいうのだ。前向きの水平性に覚醒の垂直性が交わるところ、それが予表成就なのである。つまり、十字架である。聖書と一般の文学を分かつ修辞上の差異が、すなわち予表である。

ある教会員がこう述べたという。「聖書の一説が私を変容させなくても、それでも聖書の言葉は真理と言えるのか。」それに対して、フライはこう述べている。「霊的な事柄において何が真理であるかは人間の与り知らぬことである。我々の霊的目標は神であるが、神は霊的〈他者〉であり、霊的対象でもなく、いわんや概念的対象でもない。それゆえ福音書は警告し続けるのである。いかに耳そばだてる者が多く、いかに聞くものが少ないかを。福音書が説く種類の真理は、個人の経験によってしか立証し得ない(『ダブル・ヴィジョン』江田孝臣 訳)。」なるほど、この一節はフライの宗教者としての立場を闡明にしているのである。

次回は、残る二つの柱である、〈言葉〉と〈神話〉を取りあげます。

 

その他の参考図書

ノースロップ・フライ『批評の解剖』
文学批評としてのこの書は「文学形態論」といわれる。

ブルトマン著作集
共観福音書伝承史Ⅰ
マルコ福音書は教会神学に立脚した著者の労作であり、自身に伝えられた伝承を整合し加筆したとするウィリアム・ヴレーデなどの説を紹介している。学術書であるので、一般の人向けとは言い難い。

 

 

種村季弘『パラケルススの世界』 part2 パラケルスス・人間・ 光

テオフラストゥス・ホーエンハイム
(1493-1541)
アウグスティン・フィルシュフォーゲル画 1538

ザルツブルクを逃亡したパラケルススことテオフラストゥス・ホーエンハイムは、各地で難病を治して歩いた。ロットウァイルでは尼僧院長の病を、バーデンでは辺境伯フィリップ1世の赤痢を治したが、フィリップは最初に約束した金額を引き下げた上に彼を追いだした。パラケルススは、貧乏人はただで診てやるが、金持ちには法外な料金を吹っ掛けるのが常であったらしい。貧乏人には天使だったのである。金持ちには悪魔に見えたかどうか僕は知らない。この頃、シュウァルツウァルトの温泉地を巡りながら重要な発見をする。本草学におけるシグナトロジーと温泉治療法の発見である。このシグナトロジーは、外部のシグナトゥール(表徴)が内部の活動と効能を表わすと考えるもので、野草や鉱物の外観からそこに含まれる薬物の成分を判断し、ひいては山の姿からその埋蔵資源を、人間の顔や手相から性格を、病状からは病因をというように多様な部門に亘っての応用が試みられる。著者の種村季弘(たねむら すえひろ)によれば、ルネサンスの観相術からゲシュタルト理論にいたる近代の知の脈流は、あげてシグナトロジーに発するという。若くして学んだヘルメス哲学を通して現実の生きた相と病気との結びつきが見え始めつつあった。後のヤコブ・ベーメ(1575-1624)の著書『シグナトゥーラ・レールム』などに影響を及ぼすことになる。

この頃、右足が悪性の壊疽に罹ったバーゼルの一患者を診察した。藁にもすがる思いで呼び寄せた放浪の医師は手術もせずにたちまち治してしまった。バーゼル中が沸きかえったという。この患者、実は当時ヨーロッパ全土に拡がる滔々たる人文主義的潮流の中心に位置していたヨハネス・フロベニウスだったのである。バーゼルをして世界で最も美しい書物を出版する町として名をたからしめた印刷出版史上超一流の大物、ルネサンス期の大文化人であったのだ。この放浪医師パラケルススにフロベニウスを通じてバーゼルの市医と同大学の医学部教授の席がもたらされた。

デジデリウス・エラスムス(1466-1535)
アルブレヒト・デューラー 1526

1526年、パラケルススは正式にバーゼル入りし、フロベニウスの食客であったエラスムスと出会い、診察を行った。だが、二人の間を猜疑の幕が隔てた。パラケルススは本来、文献主義的な俗流人文主義者を嫌っていて、エラスムスの思想は「坊主の飾り帽」であると述べたし、エラスムスにとってパラケルススは、腕はよいが胡散臭い放浪医師であり、その秘教としての錬金術的な側面に警戒心を持ったようだ。

問題は多発した。バーゼルに赴任した外来の医師は、医学博士号の学位取得を証明し、古典作家の一説について講演しなければならなかった。それをパラケルススは拒否したのである。反発は必至だった。学部の所属も講堂の使用も禁止された。それで、彼はバーゼル市内に次のようなビラをばら撒くと同時に、一大権威アヴィケンナの医書を焚書するというパフォーマンスまで行ったのである。医師の資格は称号によるのでもなければ、雄弁でもなく言葉の知識でもない、自然と神秘に精通し、諸病の種類、原因、徴候を認知し、知と刻苦とによって治療の素材を探究し、病態とその特性に応じて治療することにあるというわけである。称号と雄弁と語学力のみに頼って教授の椅子にしがみついている大学人にはスキャンダラスな危険文書であった。

おまけに、薬理学・薬剤処方、外科学、内科学などの学生への講義はラテン語ではなくドイツ語で行った。これは瞑想と読書の場であった大学に賎民が泥足で血まみれの手をかざしながら乱入してきたかのようであったと著者は述べている。いい加減な薬剤師たちに資格検定と経験のない徒弟に任せるのではなく、薬剤師自身による薬の調合を義務づけようとした。それに医師と薬剤師とのなれ合いを断とうともした。薬剤師たちも敵にまわしたのである。しかし、官僚的ともいえる言いがかりと闘ってきたパラケルススの抵抗も終わる時が来る。1528年フロベニウスが亡くなったのである。これで、バーゼルでの地位の後ろ盾も自分の著作を出版するという夢も失ったのである。

バーゼルを追われた翌年、ニュールンベルクで闘う医師パラケルススの預言書が出版され好評を博する。それに気をよくした出版社が『フランス病の起源と由来』を刊行しようとした。これにはライプチッヒ大学から横槍が来た。この大学の医学部長シュトローマーはフッガー家の御用学者だったのである。フッガー家は新大陸発見後の新たな交易チャンスに成り上がった財閥で、フランス病つまり、梅毒の薬と信じられていたハイチとキューバを原産地とする癒瘡木(グァヤック)を大量輸入していた。水銀による治療を行っていたパラケルススは、そんなものは効かないと例の調子で攻撃した内容らしい。つまり、時の大手財閥を敵にまわしたのである。彼は梅毒の症状を、天空の金星という宇宙の力と肉体という小宇宙である人間の道徳との相互作用だと考えた。奢侈とは金星の誘惑に嬉々として反応して興奮する精液の道徳的特殊相であるという。この病める精液の結果が薔薇疹や膿疱のような梅毒の症状となって皮膚に現われると判断した。

『十二宮 獣帯 遊星の描かれた天球図』
エアハルト・シェーン木版画 1515

この頃、医学書『ヴォールメン・パラミールム』が書かれている。『パラグラーヌム』『オプス・パラミールム』という医書三部作のうちの一つである。病気の治療法には5種類あり、医術は原因からではなく治療から始まると言う。治療が病気の原因を教えてくれると言うのである。その病因には5種類あり〈天体因〉風、〈毒因〉水、〈自然因〉地、〈精神因〉、〈神因〉火と精神以外はそれぞれ地水火風の四大と結びつけられているようだが、概要は巻末にご紹介しておく。

13世紀から16世紀にかけて、ヨーロッパの総人口の四分の一から三分の一を奪った黒死病。梅毒が、近代社会が生み出した結果なら、ペストは中世共同体の崩壊と近代の止むを得ざる成立の原因であったと筆者は言う。人口の激減は労働力の低下と農村の崩壊、社会の再編成を促進し、悪疫に対して為すすべのない宗教と学問への懐疑を生み、宗教改革と反ガレノス(古代ローマの医師)医学への基盤を作り上げ、ひいては身分制の崩壊を引き起こした。そこからやって来たものは性的放縦と集団狂気だったと言うのである。

パラケルススは、彼のペスト論の中でこう述べている。「人間の知は神の表徴(みしるし)のはじまりである。人間が星辰を支配するなら、この知の力によって、星辰は人間の思うがままのことをなさざるを得ない。人がこの知のなかに生きているかぎり、あたかも地上で犬や馬を服従せしめ馴致するがごとくに、人はおのが意のままに天空の手綱を操る。かかる達意の手管は魔法にかけることのはじまりである。そのために人は知者を魔術師(マギ)と呼んできたのであった。」ここでは、ヘルメス学における魔術と星辰との関連が述べられている。彼の実践的治療は、魔術やカバラとも不可分の関係にあった。彼は、魔術の言葉やそれを強化するためのアナグラムを使用したし、数多くの護符や印章をデザインした。そして、こう述べた。「彼ら(未来の医師)は、〈土占い師 Geomanticus〉になるであろう。〈達人 Adeptus〉になるであろう。〈始源者 Archeus〉になるであろう。彼らは第五元素を手に入れることであろう(『パラグラーヌム』序文 榎木真吉訳)」と。彼は、こういった魔術的な側面に対する周囲の疑惑や反感に対してまったく無邪気であったという。

三層の宇宙の中の四大
アシュモウル編『英国の科学の劇場』1652

ここからは、カール・グスタフ・ユングの『パラケルスス論』から心理学者の見たパラケルススの哲学と医術とはどのようなものであったのかを見ていきたい。錬金術の化学的側面よりも、主に精神因に関わる部分が語られる。それらが体と密接に関連していることは言うまでもないだろう。

ユングはパラケルススが、ヤコブ・ブルクハルトの言うドイツ国民の魂に宿る「偉大な根源的なイメージ」と呼んだゲーテの『ファウスト』のモデルとされていることを指摘した上で、ファウストからシュテルナーを経てニーチェへと一本の真直ぐな線が引かれているという。この信仰厚いパラケルススと神の死を宣言したニーチェとがどのように結びつくかは、またいつか述べたいと思っている。

パラケルススはこう述べているという「鉄を錆びさせるものは何であるかを知らないために、どうして潰瘍ができるかが分からないのだ。何が地震を引き起こすかを知らないために、どうして壊疽が生じるのかが、分からないのだ。」外部の事象、つまり自然が障害を引き起こすことと人間の障害とがパラレルに関係することを見ぬく眼、彼にとってそのような「哲学」とは徹底的に秘教的なものであった。それは、シグナトロジーであり、若くしてヘルメス学から学び、それを発展させたものであったと想像できる。だから、この「哲学」は、自然そのもの、地水火風の四大から成る鏡のようなものであり、そこには人体というミクロコスモスが反映されている。逆に人体の中にも「樹木の、石の、草花の、様相」が同様に存在するのだとユングは言う。

例えば、鉱物の病いを知るためには錬金術の知識が最も有効であった。そして、その錬金術においては無意識と向き合うことによる心的な変容もまた重視されていたのである。鉱物の変成の過程では多様な形態が生じると言われている。その形態のひとつには、まさに龍とライオンの闘争のように見えるようなものもある。その時、術師はそこに自己の無意識を〈投影〉したヴィジョンを見る。パラケルススの時代にも依然として明確にあった原初的な精神状態、主観と客観の〈無意識的同一〉である。それは、妄想とか白昼夢などというより、無意識のもつエネルギーから生じるような根源的イメージであり、心理学的な問題に関わっていた。ただ、厄介なのは、そのような形態が確率論的にしか生じないことだったのではないかと僕は想像するのだ。

ヨラン・ヤコビ編 パラケルスス『自然の光』

パラケルススが求めたもの、それは肉体に呪縛された人間の不分明な本性である魂を意のままにすることであったとユングはいう。それは世界と物質にからめ取られて、異様なデモーニッシュ(超自然的)な姿をとって眼前におどろおどろしく立ち現れ、寿命を縮めるひそやかな原因の一つでもあった。この時、医師が指導を仰がなければならないのは「自然の光」である。彼の「哲学」は、「自然の光」に先導されるのである。それは、直感(イルミナチオーン)という啓示の書でもあった。自然の闇の中には一つの光が、闇そのものの「自然の光」があり、動物の本能や夢の意識と不可分のものだった。それは、人間にとってのダイモ―ン(守護霊)であり魂の導き手ともなるのである。この無意識の様々な表出が観察できる「自然の光」という発見は、心理学におけるパラケルススの多大な功績だったとユングは言う。ヘルメス学では、神的な知性に内在するイデアは世界の魂に投影され、その内に映像ないし形態として反照され、世界の身体内の物質の形態へと写り映えるとされた。星界の光を受けて反映される物質の光が「自然の光」なのである。

ヘルメス学と深く関連する錬金術は、古代の叡知であったと同時にキリストに結びつけられている。それはカール・グスタフ・ユング『アイオーン』part2 シンボルとしての魚と蛇に書いておいた。錬金術は、プリマ・マテリア(第一質料)たるカオス、つまり、ありとあらゆるものをアクティブ(魂)なものとパッシブ(体)なものに分離することだと言われている。分離の後に両者は人格化され、「化学の結婚」が行われ、寓意的に「太陽」と「月」との祭儀的な床入りとして表現され、「賢者の子(石)」が出産される。それがキリストの寓意であった。醜く―美しい、悪しき―善きもの、ばかばかしく―真剣なもの、病気であり―健康なもの、非人間的―人間的なもの、非精神的―精神的なもの、非神的―神的なもの、そのような両義的な存在なのである。二極性を統合し、心的に変容を遂げた両性具有の人間の象徴というわけであるが、詳しくはユングの『赤の書』を読まれるのがよいだろう。賢者の子(石)の際立った属性の一つが、「自然の光」であるとユングはいう。この「自然の光」は自然のありようについての人間の眼を開かせ、それに応じて「自然の光」は、「賢者の子(石)」という形で生み出されるというのである。

メルクリウスの霊
四大の四位一体性の中で4番目のものが同時に全てのものの本体であり、この本体がヘルメスの秘伝伝授者である。☉太陽・☽月・♀金星との合一が ☿ 水星(メルクリウス)となる。

上位の光が聖霊から与えられるのに対して、下位の光である「自然の光」は、「アストルム(星体)」から与えられる。この「アストルム」は、人体の中にある天空なのである。この内なる天空をパラケルススは「最大なる人間」、「アルカナ(秘薬)」と呼ぶのだが、それは、「賢者の子(石)」でもあるのだ。それが、カバラの知恵と結びつく時、神的人間「アダム・カドモン」の姿と重なり始める。範疇が異なれば、名も異なるというわけである。それは、アダムの体に呪縛された「光体人」、人間の体の中にある「アントロポス」、「星体人」あるいは、始源者「アルケウス」、内なる人間である「アデク」と様々に呼ばれる。「アデク」は、不死、あるいは少なくとも数百年の寿命を持つといわれる最初の人間の一人である。

「アントロポス」=「アルカナ」=「賢者の子」は、「イリアステル」という子宮の中で生まれる。ギリシア語のイレ(質料)とアステル(星)との合成語であり、精神的な不可視の原理であった。パラケルススは造語マニアであったのだが、暗号術たるステノグラフィアを使ったかどうかは僕には分からない。この内なる人間を生み出す「イリアステル」は、人間の数だけ存在する「命の精気」であり「メルクリウスの霊」「四大の気」「天」「人間の全身を浸している真の霊気」「万物がその増大力を取りだしてくる自然の隠れた力」「メルクリウスの力」「体内に宿るあらゆる煙状の湿ったもの」「人体を腐敗から守るバルサム」、その最高段階において「他界への霊魂もしくは精神の移行」を意味していた。つまり、かつて星を構成するとされたエーテルである。錬金術では水銀の秘密の作用をさしていて、「アニマ(魂)」を「コルプス(身体)」から「永遠の水」と言う形で分離することだとユングはいう。このイリアステルはインドのブラジャーパティとプルシャ、イランのガヨーマート、カバラでいうメタトロンにあたるというのである。

「イリアステル」は「長寿」の出発点となる。この目的のために必要なのは四大を分離することによって不純な生命物質を浄化するための「瞑想」であった。それは錬金術の精神的な操作であり精神の「強化」を意味するという。こうした作業の中で人間は精神の上で高められ、エノク族と同じ高みに立つというのである。エノクは365歳まで生きて、天に移された。不純物は炉の中で赤熱され、レトルト蒸留が起こる。術師は自らを物質に投影する結果、無意識にその物質と一体化し、その物質と同じプロセスを精神的にこうむることになる。蒸留によって生じるヴィジョンの中心には水の精メルジーネがある。「イリアステル」の水の相「アクアステル(水+星)」のことで、維持する働きである体液に関わる。それは生命の精気が誕生する場であり、いわば子宮であり、その結果として長寿という不可視の「賢者の子」である「胎児」が産み落とされる。この「新しい生命」をパラケルススは「宇宙構造論的生命」と呼んだ。それは「神の栄光に与った身体」「復活体」「アストラル体」と同一であるとユングはいう。患者を「大いなる人間」、すなわち内なる霊的な人間と合一させ、それによってこの「大いなる人間」の長寿に与らしめることが医療の目的となる。ここらあたりは、パラケルスス思想の最も晦渋な部分なのだが、この恐るべき新造語の山は、敵を何としてでも屈服させたいという一種病的な状態、その症候であったろうとユングは言うのである。

種村季弘(たねむら すえひろ)は本書『パラケルススの世界』のなかで、パラケルススが星と運勢というような占星術的決定論から病気の原因を解放し、中世の悪魔学大系や魔女、淫夢魔などの民間伝承の諸表徴を媒介として人間の内部にひそむ観念連合の動きを解読し直し、メスメルの動物磁気説やフロイトの精神分析のための橋渡しをしたのではないかという。彼にとって、それらは治療の〈手段〉となっていたのである。フロイトやクラフト=エビング(1840-1902)らの精神科医がオイディプスなどの古典劇や近代文学の諸表徴を用いたのに対して妖精ニンフやホムンクルスなどの民族伝承の民衆的想像力を手掛かりにしたことは先進的な偉業ではなかったというのである。そろそろ、その『パラケルススの世界』に戻ろう。

ヨラン・ヤコビ編『自然の光』より 床屋の仕事

1536年、旅先で医療活動を続けながらパラケルススは、アウグスブルクへ向かった。執筆した『大外科学』が出版され、瞬く間に初版を売り尽くしたという。当時、外科は床屋や湯屋が行う下賤の術と考えられていた。例の如く「歯痛一つ治せない」アカデミズムの医者をこき下ろした。アカデミズムにも、宗教改革派の自治体にも、新興ブルジョアジーにも、教権にも幻滅を味わい、あまつさえ彼らを敵にまわしたのである。栄光の地位にあったバーゼルでは「医学のルター」と呼ばれたことにカトリックの彼は憤慨した。彼がプロテスタント側についていればもっと楽な道があったはずなのである。パラケルススを次第にペシミズムの影が蔽いはじめた。43歳のパラケルススを襲った疲労、改革の剣を振るう度に敵はヒドラのように殖えてくる。果てしない戦闘の末の諦観だった。そして、『今後二十四年間の預言』を出版する。それは、後のドイツ三十年戦争を思わせるような預言となっていた。

種村季弘『パラケルススの世界』

『七事弁明論』をはじめとする「ケルテン著作群」も結局刊行の陽の目を見ることがなかった。1540年には、農民戦争に加担したとされ、32歳頃に夜逃げ同然にその街を去ったザルツブルクに到着した。その時の司教で、鉱夫や農民が蜂起する契機を作ったマートイス・ラングが急逝したからである。後任はパラケルススが親交のあったパッサウの司教エルンスト・フォン・バイエルン公と目されていた。こうして、最初の永住の地と決めていた街の市民となることができた。しかし、その平和の日々のなんと短かったことかと著者は述べている。翌年、その地で亡くなったのである。48歳の年である。疲労と病気を押して死の直前まで診療を続けていたという。死因は不明だった。

ちなみに壮年期のパラケルススの日常がどのようなものであったのか、彼の弟子であったヨハネス・オポリヌスの言をご紹介しておこう。とはいえ、バーゼルを追い出されてから師のもとを去った裏切り者の言葉なので話半分に見ていただきたいのだが、話は派手なほうが面白いのでそのまま書いておく。

医療実践は驚異的だったが、その生活は怪物そのものだった。それまで一滴も飲まなかったが、25歳頃から「飲むことを覚え、テーブルいっぱいの百性どもをけしかけてへべれけに酔わせ、みずからも鯨飲馬食してしばしば咽喉に指を突っ込み、さながら豚であった。」その頃は、バーゼルを離れてアルザスの貴人や百性の中でもてはやされた絶頂の時期であった。「ほぼ、二年間私が彼の身辺で交際(つきあ)い暮らしている間、夜となく昼となく、飲めや歌えに身を持ち崩しっぱなしであって素面(しらふ)の時間といえばほとんど一時間か二時間しかなかった。」おまけに殆ど眠らない。へべれけに酔っぱらって帰ってくると猛烈な勢いで「哲学」の口述を筆記させる。驚くべきことに「素面の人間でもこれ以上はできないと思われるほど辻褄が合っている。」酔っぱらっているので寝る時は服を脱がなかった。年中ゴミだらけの服なのだが、毎月のように服を新調した。古い服は路で出会った最初の人間にやってしまうのだが、貰う方は必ずしも有り難くなかったという。見境のない浪費家であったが、すっからかんだと思っていると翌日には財布に金貨が詰まっているのにはしばしば驚愕したものだ。これには、伝説的な「錬金術師」の風聞が立つのも無理からぬことだった。極めつけは、拷問吏だか死刑執行人だかにもらった剣を泥酔してベットに倒れ込む時さえ肌身から離さないことで、時に夜中にガバと起きるなり、やおら抜き放ち床や壁に向って狂人のように振り回すので生きた心地がしなかった。

あまり、信用しないでほしいのだが、ユングが『パラケルスス論』の中で、同じ医師としてパラケルススが述べたことについて書いているのでご紹介して終わろう。彼はこう述べたと言う。「何よりもまず第一に是が非でも語っておかなければならないのは、医師が生まれながらに備えていなければならない慈悲心のことである。」「医師と医術は二つながらに、神から困窮した人々にあたえられた慈悲に他ならないのだ。」「愛のないところに、技術はない。」

 

その他の参考図書

カール・グスタフ・ユング
『パラケルスス論』

パラケルスス『奇蹟の医書』
ヴォルメン・パラミールムの翻訳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈パラケルススによる五つの病因〉

ここからは『ボールメン・パラミールム』の翻訳である『奇蹟の医書』からパラケルススが考える五つの病因を簡単に纏めておきたい。

天体因

天体の影響によって起こる「天体因」。それは占星術に見られるような星の影響による体格付与や性格形成とは関係ない。肉体は薪であり生命は火である。薪を維持するには必要なものがある、それは、生命を維持する働きであり、天界からやって来る。そして、天空自体の生命を維持する〈秘質〉でもある。天体が悪い位置にあれば、この〈秘質〉も毒されたり変化したりするのだという。風を媒介として、それを人間が取り入れれば人間も汚染される。

毒因

二つ目は「毒因」。人間個々の栄養摂取はいわば外からの毒を栄養に変える錬金術なのだが、そこから出る滓の排出が問題にされる。体の中の錬金術師である胃は体に悪いものを良いものから分離し、良いものを体に染まるもの(ティンクトゥーラ)に変える。毒因の病気は腐敗的な消化と排泄の不具合からやってくる。水との関わりが強い。

自然因

三つ目は「自然因」。大地が果実を実らせるように体の中にも栄養を作り出し、血液、肉、バルサム(体から腐敗を守る要素)、体熱という四つの構成要素にその栄養を与え、それ自体は他からの栄養を必要としない器官がある。栄養はただ体の肥料になるに過ぎない。肝臓ー木星、脳ー月、心臓―太陽、脾臓ー土星、肺ー水星、腎臓ー金星、胆嚢ー火星という対応関係を持つが、それらは天空の星とは直接関係しない。それぞれの器官の中の精神的なものだけが、その星々のように働きかける。太陽が大地に働きかけるように太陽の光に相当する体の光が体に働きかけるのである。例えば、肝臓は血液の中でのみ、腎臓は尿道と腰の周囲のみにその運行にあたるものを行う。この時、肝臓の運行が他の道に迷い込んで、例えば胆嚢の運行と重なると病気が生まれる。

精神因

四つ目は「精神因」である。悪魔は精神などではないし、天使もまた精神ではない、それは、ただ我々の思考から生まれるものであり、生きているこの体に宿る。死後に生きいきとしてくるものは霊魂であるという。前の三つの病因は肉体に関わり、この精神因と神因は精神に関わる病因である。精神が傷つけば傷ついた方の肉体は、精神が受けた重荷を担わなくてはならない。心因性の病気があるというわけだ。精神は意志によって生まれ(練られ)、理性は霊魂を生む(育む)。例えば、巫術によって傷つけられる人は、その精神が傷つけられるのであって、直接体が傷つけられるのではない。何故なら、その傷を引き起こすのは当の本人の精神であるからである。ここで医術を施すべきは肉体へではなく、精神へなのである。

浄化の火としての病

神因

以上、四つは異教的な慣習からの論証であったが、最期はキリスト教的な立場から述べられる「神因」である。これまでの四つの原因に最終的な根拠を与えるものがこの神因であった。全ての病気は神がわれわれの罪を浄めるために与えたもう火である。その苦痛を通して深い神意を知り患者を導くのが医者の務めであり、神の代行者としての使徒の職務なのだというのである。そして、病気と健康を与えるのは神であり、定められた時が来なければ治癒は無いのである。

 

種村季弘『パラケルススの世界』 part1 魔術の如き哲学

アインジーデルン  下に見えるのがアインジーデルン修道院

「チューリッヒ湖畔プェフィコンからエッツェルの山道を越えて巡礼地アインジーデルンに向う巡礼街道、目的地から徒歩一時間程手前でジール河を横断する。巡礼者の往還が頻繁になるにつれて、大水のたびに流されていたジール河上の木橋は、1120年マリア・アインジーデルン・ベネディクト派修道院第十代院長ゲーロの手によってあらたに堅牢な石造りの橋に改築された。以来、ジール河に架かるこの橋は、その名も『悪魔の橋と呼ばれて今日にいたっている。」

スイスの悪魔の橋と言えばターナーも描いたゴッタルド峠の石橋が有名だが、このアインジーデルンは、ある医者の生まれ故郷として名を馳せている。その医者は悪魔ようでもあり、天使のようでもあった。冒頭の文は、種村季弘(たねむら すえひろ/1933-2004)『パラケルススの世界』の書き出しである。種村さんといえば僕の大好きなドイツ文学者だった。矢川澄子との共訳グスタフ・ルネ・ホッケの名著『迷宮としての世界』以来、多くの訳書や著書に触れさせていただいた。『ビンゲンのヒルデガルト世界』も名著なのだけれど、今回は、主にこの『パラケルススの世界』を中心に、ルネサンスのヘルメス学についてフランセス・イエイツ〈1899-1981〉の『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』から、錬金術関係については心理学者のカール・グスタフ・ユング(1875-1961)の著書『パラケルスス論』を織り交ぜて、このパラケルススの世界へ耽溺してみたいと思っている。

テオフラスト・ホーエンハイム 1493-1541
アウグスティン・フィルシュフォーゲル画 1540

今回の主人公、テオフラスト・ボムバスト・フォン・ホーエンハイム(1493-1541)は、この橋のたもとにある一軒の農家で生まれた。後の通称をパラケルススといった。この名の謂れは二説あって、一つはホーエンハイムのラテン語読み、もう一つは古代ローマの医学者ケルススを超える(パラ)という説である。父は、ドイツのシュウァーベンからスイス国内を放浪して、このアインジーデルンに定着した医師であった。パラケルススの父方の祖父はヨハネ騎士修道会の管区長を務めた人ではないかという説があり、騎士階級の出であったようだが、庶子であるために職業として医師を選んだ。母はアインジーデルン修道院に対する隷属と納税の義務を持ち、死後は遺品の一部を奉納しなければならない隷民の身分であったという。しかし、ある伝記によれば修道院直属ではあるが名望ある一家の女性とある。彼が生まれて9年後には、この父子はここを去って、現在のオーストリア領ケルテン州にあるフィラッハに移っていることから、母親は早くに亡くなったとされているようだ。パラケルススは、この母に関して、ほとんど無きもののように扱っていて、彼自身にも、生涯を通じて全く女性の影がないのは、伝記作家の中でも謎の一つのようである。

父は本草学に深い造詣があり、パラケルススの名であるテオフラストはアリストテレス没後のペリパトス学派の重要な指導者であったテオフラストス(BC371-BC287)の名に因んだと言われている。古代ギリシアの哲学者、植物学者、博物学者で「植物学の祖」と言われている人だ。ここアインジーデルンは多くの国々の巡礼者が訪れる聖地であり、彼の家の前を歌や祈りの文句を唱えながら行進していく様々な人々がいた。その中には不治の病に苦しむ人々も多く、教会付属の巡礼病院が父の仕事場であったことは、後のパラケルススの生涯の多くを暗示するかのようであった。美しいアインジーデルン修道院教会には有名な黒い聖母子像があり、彼が「子供はいかなる恒星をも遊星をも必要としない。母親が子供の遊星であり恒星である」という母についての唯一の記述を残した時、パラケルススの脳裏には、この聖母子の姿があっただろう。それが、グノーシスのソフィアと重なったかどうかは僕には分からない。

彼は後年、こう書いている。「私は生まれつき細やかな糸で紡がれているような人となりではない。お蚕ぐるみの綺麗事で何かをものにするなど、私の国のやり方ではない‥‥私の国の人間はまたいちじくや蜜酒や白パンで育てられるのではなく、チーズと牛乳と燕麦パンで育ったのだ。これで繊細な人間ができるわけはない。それにまた、子どもの頃に受けたものが一生の間その人につきまとうのである。‥‥樅の実の中で人となったわれわれは、頑固で物わかりが悪いのだ」と。ちなみにオーストリアのアルプスよりの町インスブルックには、魔術師としてのパラケルススの名が伝説の中に生きている。そこでは、グリム童話の壜の中の魔霊のように樅の実に閉じ込められた悪魔を解放して、その報酬に黄金製造薬と万病に効く霊薬を手に入れるしたたかな魔術師なのである。

父とともに移ったケルテン州は東をスロヴェニアに南をイタリアに接する交通の要所であり、パラケルススによれば、鉱山技術はこの町で習得されて他の国にもたらされ、ゲルマニアにおいて医学の最初の技術が受容されたのもこの国であったという。鉱山と医学にとってケルテンこそ濫觴(らんしょう)の地であったのだ。フィラッハは、その第二の都市であった。

父ウィルヘルムの薫陶の後、いくつかの付属学校、そして、聖パウル修道院で学んだ。その修道院長は、皇帝マキシミリアン一世のために降霊術を用いて、亡き王妃マリアを冥界から呼び戻したと言うヨハネス・トリテミウス(1462-1516)だったと言われている。この人は、『穏秘学』を書いたコルネリウス・アグリッパ(1486-1535)にステノグラフィア(ステガノグラフィー)を伝授したことで知られる。データを他のデータに埋め込んで、その存在を隠す技法であり、一種の暗号術である。モーセは秘密の知恵をユダヤ教説に表面上無害な言葉で書き残したとされ、その知を明かせる者は、それがどのように隠されているかを学んだ者のみであり、この隠蔽と再解読がカバラと呼ばれるものなのであるという。これは狭義のカバラなのだけれど、そのような隠す技術の伝統をステノグラフィアの中に見ている人もいるようだ。勿論、10代のパラケルススがステノグラフィアを学んだとは思えないが、このような知的環境の中にあったことは確かなようだ。

ヨハネス・トリテミウス(1462-1516)(ティルメン・リーメンシュナイダーによる彫像)と暗号学書ポリグラフィア 

1509年、16歳のパラケルススは一般教養の基礎である自由技芸七科の仕上げを大学で成すべくフィラッハを旅立った。二年間でその課程を終え、得業士(バカロレアト)の資格を得て、その後一年ウィーンあるいは南ドイツのいくつかの大学の門を叩いた。その間、チロルのインタールにあるシュウァッツ鉱山で「高貴にして晴れやかなユンカー(地主貴族)」と呼ばれた鉱山主のジークムント・フューガーとその弟子たちに錬金術化学の手ほどきを受けた。この技術は無機化学薬剤を作るうえで大きな助けとなる。

1513年から16年まで、そして1522年から24年の二度に亘ってイタリア・ルネサンス医学のメッカであったフェラーラ大学に学ぶ。このイタリアの大学には、ガレノス、プリニウス、アヴィケンナといったアラビア語訳の著書の誤りをギリシア語原典から校訂したニッコロ・レオニツェノがいたし、何よりも「無益な饒舌」より外科医術などの実践を重んじた革新的なルネサンス医学の旗手の一人だったジョバンニ・マナルディがいた。特筆すべきは、このマナルディがミランドラ伯ジョバンニ・フランチェスコ・ピコの宮廷に計13年あまり滞在していることである。フランチェスコの甥はあのピコ・デラ・ミランドラであった。ちなみにパラケルススが学んだ街フェラーラにあるスキファノイア宮殿の壁には、その約半世紀前にフランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477年頃)による占星術記号と12ヶ月にまつわる寓意画が描かれていた。アビ・ヴァ―ルブルク(1866-1929)がイコノロジーという言葉を使い始めた頃に研究していた壁画だ。

フランチェスコ・デル・コッサ(1430頃‐1477頃)
スキファノイア宮殿壁画
3月牡羊座の寓意「ミネルヴァの勝利」1469-1470

ピコの師であったマルシ―リオ・フィチーノ(1433-1499)は聖職者であると同時に医者だった。ここからはヴァ―ルブルクの偉大な弟子の一人フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』からルネサンスのヘルメス学についてプロットしてみる。長くなるけれど、この哲学を抑えておかないとパラケルススは、ただの法螺吹き医師に見えてくるのだ。

世界の知性、世界の魂、世界の身体という三層構造が想定される。神的な知性に内在するイデアは世界の魂に投影され、その内に映像ないし形態として反照され、世界の身体内の物質の形態へと写り映えるとされる。その世界の魂の中にはイデアの数だけ「種子的理性」があり、世界の様々な物質ないし身体にその実体を宿すと考えられた。世界の魂にある理性と下位の形態との調和的符合は、ゾロアスターによって「神的な連結」、キュレネーの司教シュレシウスには「魔術的呪縛」と呼ばれた。この魂の内にある天界には様々な図像があると考えられた。黄道帯にある12の星座とその外にある36の星座の「相」もこうした図像の一部である。このように整序された天上の形態に、より劣った地上の事物の形態は依存しているという。これは最も古い時代のプラトン主義者たちに由来するとフィチーノは述べた。

『ヘルメス選集』1471  右 マルシ―リオ・フィチーノ像

ヘルメス学あるいはヘルメス教でいうヘルメスは、書記であり叡知の化身であるエジプト神トートがギリシアの神ヘルメスと習合したもので、しばしば「三倍も偉大な(トリスメギストス)」という称号がつけられた。おそらく2世紀から3世紀にかけて(最も早期の文献は前3世紀『ヘルメス文書』)、アレクサンドリアなどの東地中海沿岸地域を中心にして、無名の多くはギリシア人たちが書いたと言われる文章が『アスクレピウス』や『ヘルメス選集』である。かつての栄えあるギリシア哲学は衰退し、禁欲と宗教的な生活に支えられ、神殿も儀典もない、「世界認識(グノーシス)」を内実とした孤独な心の内に執り行われる祭祀が起こりはじめる。グノーシスはヘルメス文献が書かれた頃、互いに影響しあった、同じく地中海世界に栄えた善悪二元論を特徴とした宗教・思想である。ギリシア化されたローマ帝国での特徴とされる親エジプト的風土にペルシアのゾロアスター教やカルデアの占星術が流れ込んでいた。そして、1200年後、一人の修行僧がマケドニアからギリシア語で書かれたヘルメス文献の写本を携えてフィレンツェにやって来る。コジモ・デ・メディチは、その写本の翻訳をフィチーノに命じたのである。こうして、ルネサンス期のイタリアにヘルメス学が請来された。

ピコ・デラ・ミランドラの墓
フィレンツェ、サン・マルコ寺院

フィチーノは、このヘルメス文書の中の「ポイマンドレス」に旧約聖書の「創世記」とよく似ている箇所があることに驚き、やがてヘルメストリスメギストスとモーセとが重なり始める。この大きな誤解がヘルメス学を時代の先端に押し上げて行く。ヘルメス文書は哲学的な部門と占星術、錬金術、魔術関係の文献に別れる。宇宙における占星術的パターンとこの哲学は関連しており、グノーシスと魔術は協同していた。すべての物体は星々から降り注ぐ秘密の影響に依存している。術者が惑星ウェヌス(金星)の力を用いたければ、ウェヌスの姿を知り、ウェヌスに属する植物、鉱物、動物を知り、占星術の告知する正しい時に、それを護符の上に正しく刻み込むならば、その星の精気を捉えて用いることができた。惑星だけでなく、黄道十二宮の〈宿〉の徴(しるし)も、それらに関係する植物、動物、図像等を持っていた。スキファノイア宮殿壁画はこの図像の印象的な例と言えるだろう。

「万有」は限りなく複雑な相互関係の網の目によって連結した「一者」であり、魔術師はこの網の目に参入できる者のことであった。上方から下方へと下ってくる霊的感応力の連鎖を知りつくし、地上の事物に内在するオカルト的共振、天上的な映像の数々、呪文や呼称を知らなければならなかった。フィチーノは、アウグゥスティヌスの魔術への論難をうまく逃れようとしながら通俗的で下賤な中世の魔術をルネサンスにおける神的な魔術へと格上げする契機を作り上げたのであった。ちなみに、コルネリウス・アグリッパの『穏秘哲学』は、ルネサンス魔術全領域の初めての概説書といわれているが、フィチーノの論述する魔術と大差ないとイエイツは述べている。

フィチーノのヘルメス教(学)的魔術は、その弟子ピコ・デラ・ミランドラ(1463-1494)によって強力に、イェイツの言葉を借りれば、あけすけに標榜された。ピコはルネサンス魔術に別の範疇から極めて重要な要素を付け加えた。それが、実践的カバラと呼ばれるカバラの魔術である。ヘルメス教とカバラは神のロゴスによって結び付けられる。モーセの時代の書と誤解された『ヘルメス文書』には「あの光は、私であり、お前の神なるヌース(叡知)であり、ヌースから出た、輝くロゴスは神の子である(荒井献、柴田有 訳)」と述べられている。旧約聖書の創世記において被造世界は「〈神〉の言葉(ロゴス)」によって形成されたのであり、それはヘブライ語であったはずである。それゆえヘブライ語は魔術的威力を発揮するはずのものであったのだ。ピコが創り上げ、ほとんど煽ったとさえ言えるヘルメス教とカバラの融合は、数秘学とピュタゴラス的和声学を吸収しながら、その複雑な宗教的迷宮の内で世界創造と人間の本性に関する学として後世に影響を及ぼし続けることになる。

カバラはヘブライ語の「伝承」あるいは「受け入れ」を意味する言葉である。物質世界は、創造神エイン・ソフから聖性の10段階にわたる流出の過程で生起すると考えられた。この中世期のスペインで発達したカバラは10のセフィロト(生命の樹)と22のヘブライ語のアルファベットが基盤となっている。セフィロトは、一般的な神の呼称からなり、全体として唯一の名をなすと同時に、世界へ向けて言挙げされた創造する10の名である。文献としては13世紀につくられた『ゾハール』の書が、良く知られている。10のセフィロトは7つの惑星圏、恒星圏、高次の天球という10の天球圏に対応していて、その仲介者としての天使や神霊、それに対偶する悪しき天使や悪霊も階層をなし、他の範疇の位階に対応している。ヘブライ語のアルファべットはカバラ主義者にとって〈神〉の名を含むものであり、創造する言語としての霊的本性を含むものであった。そして、それらを観相することは〈神〉それ自体と〈名の威力〉に対する瞑想でもあった。

13世紀スペインに生きたユダヤ人であるアブラハム・アブラフィア(1240-1291頃)は、ヘブライ語の文字を組み合わせるシステムを作り、それによって限りない順列と組み合わせを可能にし非常に複雑な瞑想技法を作り上げた。それによって新たな天使たちの名を創出し、護符に刻みつけて魔術の手段にもし、ヘブライ語の短縮やアナグラムによってより強力な言葉を創出しさえした。しかし、その最も複雑な技法がゲマトリアと呼ばれるものでヘブライ語のそれぞれに一定の数を割り当て、言葉を数値に転換し、その逆も可能にした。こうして全世界の物事は言葉=数として読み取り可能となる。世界は方程式化され天使たちの名に結び付けられて実践的カバラの手段となるのである。これは、ライモンド・ルルスのアルファベットの回転盤による新たな概念の創出という「結合術」に結びつくかもしれないし、世界は既に全てが書きこまれている一冊の本という考えにも結び付き、ライプニッツやマラルメへと繋がっていく。

カバラ学者のゲオルグ・ショーレム(1897-1982)は、ピコがこのアブラフィアの文字-結合を知っていたのではないかと考えているらしい。そして、ピコがこれらカバラの研究に没頭したのは三位一体やキリストの神性に関しての深い洞察を与えてくれると信じていたからだとフランセス・イエイツは述べている。ピコこそ、新しいヨーロッパ的人間を大胆奔放に定式化した人物であった。魔術とカバラを二つながら用いて世界に働きかけ科学によって自己の運命を支配しようとする人間である。さあ、それでは、そろそろ『パラケルススの世界』に戻ろう。

種村季弘『パラケルススの世界』

パラケルススの医学の師マナルディは、ピコからこのような「哲学」を引き継いだであろうと考えられる。それは、後のパラケルススの著書に窺える思想が、この「哲学」を抜きにしては成り立たないからである。一途なイデア的な世界への憧憬ではなく、暗黒の地上世界は天上の光を宿しており、それを救済するための手段としての医学という考え方であった。天上の光とその反映である自然の光を捉えて地上の物質を救済すること、この真のキリスト教へ到るための哲学がパラケルルススの生涯を貫いているのは間違いないだろう。あとは、このような原理から実践へと移らなければならなかった。彼は、フェラーラを発って、ヴェネチア、ボローニャ、フィレンツェ、シエナを経てローマに向う。中世共同体は、現在よりはるかに国際的であったと種村は述べている。イタリアで取得した学位はドイツでも通用し、その逆もまた可であったという。グラナダ、リスボンに旅し、ヒスパニア、イングランド、マルク、プロイセン、ハンガリア、ウァラキア、クロアチアその他様々な国を巡り歩いた。1516年から1524年までの8年間に亘る大遍歴時代である。

ローマやパリの大学で大きな失望を味わい、ナポリで多数の梅毒患者を見、途中オランダ戦争やヴェネチア戦争に野戦医として従軍する。旅金稼ぎのためだったようだ。ここで外科医の重要性を再認識することになるのだが、事にあたって素早く逃げ出す彼の特性はこのような戦争での体験からきているのではないかと僕は思ったりする。博士のもとばかりではなく理髪外科医、湯屋外科医、経験ある医師や女呪医、医療を事する魔術師、錬金術師、僧院など貴人賎民を問わず訪れた。このような機会を通じて有効な治療法とペテンとを見分けたのである。後年の著作『大外科医』にはこんな話が紹介されている。ある男が片耳を切り落とされ、一人の湯屋外科医がそれを拾って、石工用のパテ、練りチーズなどで元の所にくっつけた。この外科医は称賛を博し、驚異の叫びを浴びたが、翌日膿が広がって、耳はまたもげてしまった。民間療法全てが正しいわけではないが、外科医術に関して、当時の大学では全くかえりみられることなく、下賤の術として切り捨てられていたことは知っておかなくてはならないだろう。

大遍歴時代を終えて一旦父の住むフィラッハに戻ったパラケルススは、再び第二遍歴時代と呼ばれる時期に入る。三十歳になっていた彼は、適当な定住地を得るためにザルツブルクを目指したが、そこでの滞在は1524年から1年間のみであった。パラケルススは滞在中に、この市の司教側の神学者と公開論争を行ったのであるが、彼は素面で緊張すると強度の吃音になるらしかった。赤面恐怖症はこの論争を支離滅裂なものにしたらしいのである。折からドイツ農民戦争は頂点にさしかかっていたのだが、ザルツブルクの司教は数人の炭鉱夫を信仰の問題で裁判に付した。それに対して他の鉱夫が蜂起し、それに呼応して農民軍がザルツブルク市を占領した事件が起こる。パラケルススはその間、火酒を片手に街道筋や市内の旅籠で農民たちを煽動したらしい。酒が入れば、舌鋒火を噴くのである。「もし余の弁舌が悪魔のものであるならば、彼らは諸君に従って余には従わぬであろう。だが、彼らがかように余に従って諸君に従わぬのであるからには、精霊が彼らのなかに宿って、彼らに諸君の魂胆や欺瞞や大嘘を見分けるように教えているのだとしか考えられないのである」と後に述べたらしい。彼の添え名であるボムバストは、彼の家系ではよく使われた名前だが大法螺吹きという意味である。それはともかく、歯に衣着せぬ反教権主義者をほっとくほどザルツブルク司教は寛大でなかった。彼は逮捕され尋問を受けたが、証拠はなく釈放された。だが、再逮捕の可能性は十分ある。それで、彼は家財をそのままにザルツブルクを夜逃げしたのである。

今回は、パラケルススの前半生と彼の哲学の根幹にかかわるヘルメス学を中心にご紹介した。次回 part2はパラケルススの後半生、そして心理学者のユングが語るパラケルススと錬金術との関わりをご紹介する予定である。

 

その他の参考文献

フランセス・イエイツ(1899-1981)
『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』

『ヘルメス文書』荒井献、柴田有 訳

『宇津保物語』part2 中上健次の『宇津保物語』

『うつほ物語』② 1999年刊
原文、注の他に非常に読みやすい現代語訳が掲載されている。

今回は、前回の『宇津保物語』の内容についてもう少し述べた後、小説家・中上健次(なかがみ けんじ/1946-1992)が、この『宇津保物語』をベースとして描いた同名の小説をご紹介したいと思っている。1978年~79年、雑誌『海』に、「北山のうつほ」「あて宮」「吉野」「吹上」「梨壺」が、1982年に「波斯風の琴」が掲載されたものだが、単行本にはなっていない。

『宇津保物語』は不思議な物語である。主要なテーマは三つある。一つはpart1でご紹介した俊蔭(とかげ)を中心とした霊琴の物語であり、この物語の成立する以前のいわば『古宇津保』と呼ぶべきもので、それは異国と異界の物語であった。それに貴宮(あてみや)を中心とする求婚譚、そして「国譲り」巻を中心とした政争の物語が宮中行事の詳しい描写や下層階級を含めた人びとの生き生きとした生活とともに描かれている。琴と恋と政治が描かれているのである。だが、その面白さにもかかわらず物語の構成に問題を残しているのは研究者の指摘するところである。複数の物語が合成されているのだが、それはスムースに繋ぎ合わされておらず、一つの物語とは言えないような体裁になっているのだ。だが、そのブリコラージュぶりが妙に気を引くのである。

貴宮への求愛物語は、霊琴の物語とは対照的に平安京の都市生活にみられるあらゆる階層の人々の型がリアルに描かれている。左大将・源正頼の娘である九の君・貴宮(あてみや)は絶世の美女であり、プッチーニのオペラに登場するトゥーランドットのようなクールビューティーなのだが、彼女をめぐるにぎやかな求婚譚は竹取物語を連想させる。しかし、登場人物は、はるかに多様で子細な描写になっているのである。妻を捨てて顧みない宰相・実忠(さねただ)、貴宮の略奪計画を立てるも逆に罠に落ちる上野(かんづけ)の宮、屋敷に畑まで作って財産を増やそうとする守銭奴の三春高基、貴宮の弟の笛の師・良岑行政、肉親の妹・貴宮に恋する異父兄仲澄(なかずみ)、継母の陰謀によって出家した忠こそ、右近少将・源仲頼、60歳になる太宰の大弐(だいに)滋野真菅(しげののますげ)、嵯峨院のご落胤・源涼(すずし)、貧乏ゆえに笑いものにされながら勧学院で学ぶ藤原季英(すえふさ)通称藤英(とうえい)、俊蔭の孫でこの物語の主人公、仲忠(なかただ)自身、そして、仲忠の父である藤原兼雅(かねまさ)など多彩な顔ぶれになっている。このような人々の紹介の記述が、いちいちあるのだから話が長くなるのは止むをえまい。

藤英、詩作の図 『うつほ物語』①
(小学館)より

歴史の研究者たち、例えば石母田正(いしもだ しょう)によれば、これら求婚者たちが、この時代の貴族社会内部の多様な階層、多様な種類の人間を代表させるものであり、堂上の顕貴の人びとから零落しつつある下級の貴族、地方官、僧侶、窮迫した学生、富裕な地方長官らまでもが描かれているという。さらに副次的な人物として述べられている無頼の徒、侍女や召使い等まで数えるならば、平安京の都市生活で遭遇し得るあらゆる層の人間がそれぞれの役割をもって描かれている。そういった人物たちが作者によって厳しく選別されているわけではなく、文学的効果を上げているわけでもないが、求婚者を同一の生活意識を持つ限られた階層に求めなかったことがこの物語に別な魅力を与えたというのである。それは、異なった生活条件のあるところ、異なった人間の型があり、その認識がこの物語をして単なる求婚譚ではなく平安中期の複雑な人間の集合である都市生活の生きいきした包括的表現たらしめたというのである(『宇津保物語についての覚書』)。庶民のエネルギーの躍動を描いた藤原明衡(あきひら)の『新猿楽記』の登場までもうすぐなのだ。

貴宮(あてみや)は東宮(皇太子)に嫁ぐことが決まった。実忠は気を失い、太宰の師の滋野真菅は身分を省みず朝廷に愁訴して流罪、失意の仲頼は出家、三春高基は狂気のうちに屋敷に火を放ち山に籠る。仲澄(なかずみ)は悶絶するも祈祷によって蘇生するが、貴宮からの文を飲み込んで息絶える。藤壺と呼ばれるようになったその貴宮は、東宮の寵愛を一身に受け男子を出産するが、他の親王妃たちの嫉妬を一身に集めることとなる。ここまでが「あて宮」巻の内容である。「蔵開」巻は仲忠が祖父俊蔭の蔵を開けることからはじまるが、この巻では、藤壺(貴宮)が兄の祐澄(すけずみ)と対話する中で、亡くなった兄仲澄に心動かされていたこと、東宮との関係は心安らかなものではなく、仲忠とその妻の女一宮との関係が羨ましいと述懐するのである。「国譲」巻では、仲忠の異母妹である梨壺も東宮の皇子を生んで、朱雀帝の譲位後、東宮が今上帝となるに及んで、その皇太子の立坊に世間の関心は移って行った。朱雀帝の中宮であった后の宮(きさいのみや)は兄の太政大臣である忠雅や兼雅(梨壺の父)に梨壺の子の立坊を働きかけるように持ちかけるが、結局、藤壺の子が東宮として選ばれる。これが藤壺側の源氏と梨壺側の藤原氏との政争の内容となるのである。

『うつほ物語』③ 1999年刊

『古宇津保』というべき「俊蔭」の話は、強烈な異界の物語であった。その他、僕がこの物語で面白いと思うのは、仲忠の代になって貴族社会の生活を描いたなかにも、ふっと小さな異界が登場することである。貴宮(あてみや)の略奪計画を立てる上野(かんづけ)の宮の話では、東山で御堂供養の法会をするための下稽古を大がかりですると噂をたて、そこに牛車でやって来た貴宮を奪い取る計画であった。だが、それは貴宮の父である左大将の知るところとなり、貴宮のかわりに器量のよい下仕えの娘が貴宮の身代わりとなって上野の宮に奪われることになる。この車を奪う場面は、『源氏物語』「葵」巻の車争いのシーンのヒントとされたのではないかと言われているが、七日七夜の祝宴の後に偽物だとは気付かれず歌など交わしているのである。つまり、現実の世界では低い身分の偽貴宮は上野の宮の世界では高貴な貴宮に変貌してしまうのである。

光源氏が光り輝く君でありながらその恋の過ちに終生暗い影を落とすのとは対照的に、この『宇津保物語』では、仲忠の男映えが爽快さを以って描かれていくのである。この仲忠とやはり琴の名手であった涼(すずし)とどちらがいい男かという議論は、この物語を愛する宮中の人々、とりわけ女性たちの間で、後々まで続いたようで、円融院の時代に涼を押す親王方と仲忠を贔屓する女一宮方との論争にまで発展した。それで、藤原公任が意見を聞かれて歌を詠んだという話が伝えられている。清少納言は自らの出自が清原氏であり、仲忠の祖父俊蔭(としかげ)が清原氏であったことからか、だんぜん仲忠ファンであって、それを中宮定子にからかわれたりしている。

中上健次『エッセイ選集』文学・芸能
「宇津保物語と現代」「音の人 折口信夫」収載

日本文学の研究者である竹原崇雄(たけはら たかお)は、『宇津保物語の成立と構造』の中で、『今昔物語』を本歌取りして『芋粥』などの作品を書いた芥川龍之介が、『今昔物語』を「ブルータリティ」・「野生の美」と評したが、『宇津保物語』の世界には貴族的な教養を備えながらも野生の面影をなお残した純粋で素朴な力が支配していると述べている。この野性の問題は、中上健次(なかがみ けんじ)の同名の小説のなかでより一層はっきりと、そして翳りを以って描かれることとなるのである。僕が中上という人に興味を持ったのは朝鮮半島の民俗芸能であるパンソリに耽溺していたというのを知ってからなのだけれど、それは『ユン・イサン(尹伊桑)』part1 駆け抜ける龍で少しご紹介しておいた。

中上健次(1946-1992)の伝記『エレクトラ』を書いた高山文彦(たかやま ふみひこ)の文章の中にこのような意味の言葉がある。中上の故郷とは、そこを知らない人々にとっては、〈彼岸〉である。正確に言えば、彼ら正常な人々によって構成される〈社会〉が作り出した〈彼岸である。私たちがそこを〈彼岸〉と見るのは、たんにそこが〈霊魂の集うところ〉〈よみがえりの地〉、あるいは〈人間の外にある者たちの里〉を意味するだけでなく、正常な人々が営む一般社会にはありえない、もうひとつの自立した〈国家〉や〈社会〉があるのかもしれないという願望を含んでいる。このように述べているのである。

中上は、そこに愛も憎しみも憧れも郷愁も、そして小説の題材としても、全てを注ぎ込んでいった。同時に、そこはアメリカの作家、ウィリアム・フォークナーの小説『アブサロム アブサロム ! 』に登場する主人公トマス・サトペンのような流れ者が奸計を弄して成り上がり、破滅していくような人物のイメージを膨らますことのできる場所でもあった。ちなみに、この小説の巻末には、その舞台となったヨナクパートファ州ジェファスンという架空の町の詳細な地図が載っていて、町の面積、白人と黒人のそれぞれの人口が記され、こう書き添えられていた。「ウィリアム・フォークナーを唯一の所有者とする。」中上はこのユーモアと神のような視座に驚きと憧れを感じたという。フォークナーは、くり返し、この町と同一人物が登場する小説を書き、人はそれらを「ヨナクパートファ・サーガ(物語群)」と呼んだというのである。中上の故郷を中心とした小説群を紀州サーガと呼ぶ人もいる。

高山文彦『エレクトラ』
高山文彦(たかやま ふみひこ)は1958年生まれ。法政大学文学部中退。『火花 』で大宅壮一及び講談社ノンフィクション賞を受賞している。著書に『少年A 14歳の肖像』『水平記 松本治一郎と部落解放運動の100年』『鬼降る森』『ミラコロ』などがある。この『エレクトラ』は伝記としても、読み物としても良くできていると思う。

中上健次は1946年和歌山県の新宮市に生まれる。その故郷は「路地」と呼ばれた。母方で言えば三男、父方で長男、育った家庭では次男という極めて複雑な家庭環境の中で育った。母の連れ子であったが実子として分け隔てなく育てられた。だが、酒を飲んで暴れる異父兄は大きな衝撃と不安をもたらしたという。12歳の時にその兄も首つり自殺する。この兄の死によって姉の一人も精神に失調をきたすようになった。後に「世界は/いつまでも/ギリシア悲劇を上演している(『海へ』)」と書いた。この兄の死と息子として認知しなかった実の父に対する複雑な感情が、彼の小説への情念を形成していったのかもしれない。中学生の時は不良少年仲間からよくリンチも受けたが、高校では、ぐれてはいないが勉強のできない平凡な生徒であったという。この頃、大江健三郎、石原慎太郎、サド、セリーヌ、ジュネ、ランボーなどを読んでいた。

19歳の時、東京へ出て、コルトレーンなどのモダンジャズ、新左翼運動、小劇場、ヌーベルバーグと出会った。「文芸首都」の会員となり、1966年に『18歳』が同誌に掲載される。初期の作品は大江健三郎の影響が大きかったといわれている。その二年後に「三田文学」を通じて柄谷行人と知り合う。かすみ夫人と結婚、自動車工場の臨時工をへて羽田空港で飛行機の洗浄や航空貨物の積み下ろしの仕事を始めた。「物は、言葉を語り、一個の貨物がそこに確かに在ることがけっしてあなどれない思想そのものだという実感」があったという。ともすれば観念的になりがちな小説から抜け出る契機となった。その後も築地の魚河岸や小平にある運送会社でフォークリフトの運転手をした。この頃、紀州と紀州弁を小説の舞台にのせるようになり、自分の故郷や家族をモデルに小説を書いた。三度の芥川賞候補を経て、1972年『岬』で同賞を受賞した。

やがて、自らがその出身である被差別部落について書き始めるようになる。「半島ではほどほど、中庸がない。なにもかもむき出しである。貧困は貧困のまま、日本的自然の帰結である差別は差別のまま、被差別は被差別のまま(『美しさを越えて映える半島』)。」カナダの文学研究者ノースロップ・フライは、文学の統合原理は神話と穏喩だと言ったけれど(『ダブル・ヴィジョン』)、中上にとって物語とは法・制度であり、育まれた自然と差別被差別という連関の中で、解明され解体されなければならないものだといわれる(永島貴吉『中上健次小伝』)。しかし、神話は彼の小説の中でも統合原理であったろう。1977年以降はアメリカ、韓国、インド、フィリピン等への旅行を繰り返していた。「日本にいると往々にアジアが見えなくなる」からだという。マイノリティへの興味とアジアの多様性を感じたかったようだ。同じ頃、自分の故郷で「部落青年文化会」を自費で開催しはじめる。ゲストは佐木隆三、石原慎太郎、吉増剛造、瀬戸内晴美、森敦、唐十郎、金時鐘、吉本隆明を擁した。しかし、全てが中断される時が来る。1992年、46歳の若さで腎臓がんで亡くなった。

折口信夫(1887-1953)
民俗学者・国文学者・国語学者

ちょっと道草するのだけれど、この人、折口信夫のどこを切っても金太郎飴みたいに同じだと言った人である(『音の人 折口信夫』)。どう細切れにしてもそれぞれが磁石のN極のように北を指しているということらしい。どの方向かというと、言葉の内側へ分け入って『うつほ』なら「うつむろ」「うつはた」「うつぼ」「うつせみ」のようにUやTSやHなどに聞き入り続けるという方向である。そこが、縄文でもなく旧石器時代でもない折口の古代だというのだ。その面白味は音が言(こと)であり、言が同時に魂(たま)であり霊であり、物であるという言葉の還流に身を置いていることから来るという。音がマグマのように蠢(うごめ)いている世界に分け入って、これも言える、あれも言えるとして、言の葉の貴種流離を言わけしてくれる。言葉を細かく切って行って何もなくなるのではなく、先のものが次々動き出して行って、別のものとくっついて行く、そういう要素を持っている方が豊かなのだと言う。それが、折口の健康であり、強さであり、読む者をわくわくさせる源だと。それは万葉時代の歌人が隣に坐っていて、自分に何か語りかけてくれるような、そんな豊かな気持ちにさせてくれると言うのである。そうなのだ。おっしゃるとおりである。中上氏を僕といっしょくたにするのは失礼ながら、我々は、ずっとこの金太郎飴を味わい続けていたいと思うのである。

改めまして。中上健次はエッセイ『宇津保物語と現代』の中で「『宇津保物語』が私に刺激を与える一つにはこの治者の文学であってしまうことである」と述べている。「この物語は、このうつほということを通して、楽とまつり事は一諸だということを言っている。芸事である琴が政治と密着している。摂関政治が婚姻関係を軸にしているなら、さらに性と楽とまつり事は混交しているように見える。『宇津保物語』は治者の文学と呼んでもさしつかえない」というのである。楽が政事と密接な関係にあることは part1で既に述べた。彼がこの『宇津保物語』を換骨奪胎して自分の、20世紀の、『宇津保物語』を書いた時、まさにその野性と楽と性を書いたのである。宇津保は京都の北山にはなく、山深い熊野の北山に移されている。紀州熊野。

『中上健次全集』12 未完小説集1
「宇津保物語」収録

「‥‥石が空洞の外壁に投げられ、オニ、オニと子供らの声がする。仲忠は正座し母の奏でる琴を聴き、その石にも自分の身がさらされ皮をはがされている気がする。石を投げる音と声が止むと、闇が北山一帯に降り下る。他に音はまったくない。琴の音が鬼夜叉鬼人をでも導き出してでもいるようにかさとも音がしない。オニ、オニ、仲忠は母の顔を見て独り空耳を聴いている(『宇津保物語』)。」

仲忠は、メルヘンの中の聖なる子供ではなく、村の子供たちにオニの子と呼ばれて石を投げられ、里の作物を盗んでは村人にぶたれ、それでも泣かない不気味な子として描かれる。母が唐天竺の着物にも劣らないというそれは、垢と泥と草木の汁にまみれた黒ずんだ重ったるい布だった。そこには貴い出自の者が零落し艱難辛苦に耐える姿がリアルに描かれている。

「‥‥確かに琴は女だった。‥‥仲忠は涼(すずし)の音にぴったりあわせて琴を弾いた。二つの琴は一つの音になって闇の中に広がり、涼はむしろ音の単純さこそ琴という楽器には合っているのだと弾く。仲忠はその音の合間に呻きのような音を入れた‥‥音は血を流した。血は腐り、臭いを放った。‥‥仲忠は空洞の中にこもっていた血の腐った臭いと血のついた草葉を思いだす。その臭いと血が、やんごとない母の月のものだったと知ったのは随分後になってからのことだった(『宇津保物語』)。」

政事の一環として演奏される場にある琴。そうでありながらも、その音が血を連想させる。ここには、うつほという空洞が、琴という楽器の空洞であり、母の膣であり、母の胎であるということの穏喩として描かれているのである。そこには古代世界の長閑さから縄文世界のごとき野性へと遡及していく視点が闡明にされる。さらに中上は、この『宇津保物語』と、さきほどのエッセイ『宇津保物語と現代』の中でこう述べる。

『中上健次』別冊太陽
「中上健次は『路地(故郷)』を『ウツホ』に例えた。」斉藤環

「幻は統る御人がいなければ地に這い高みにのぼることが出来ず魑魅魍魎となって広がる。それが空洞のあった北山であったし、俊蔭が波斯国(はしこく)で体験したことだった。音は精霊としてではなく物の怨霊として鳴る。物音は眼とも鼻ともつかない形で仲忠が琴を奏でると空気の中に集まり爪が弦に触れるや音に固まり弾け出して表われ、天に駆けのぼり地を這う(『宇津保物語』)。」

この濃厚な文体でリアルに描かれる新たな『宇津保物語』を、時に深い暗黒が覆う。神武以来、敗れ続けて闇に沈んだ国・紀州。ここには、神話の得体のしれない深い闇の部分が厳然と存在してはいないだろうか。神話は、けっして長閑で大らかな側面ばかりではない。霊異の世界・熊野。隠国(こもりく)。

「確かに藤原仲忠の物語は原物語がそうであるようにみなし児(原物語では13歳まで父が不明な子)、私生児であり、これは私の『枯木灘』の主人公 秋幸や『鳳仙花』のフサも共通だが主人公が物語に登場する以前、聖痕のようにその死、再生、不死というものを経過している故に堕ちた神人として人を感動させたり共感させたりするものなら『宇津保物語』は、うつほに生きた子である仲忠が最初から親であるように、子として味わったであろう不如意を描いていない。物語の不思議としか言いようがない。それゆえに輝いていると言える(『宇津保物語と現代』)。」

この堕ちた神人という意識は、僕が part1「籠りと神器」で書いたように貴種流離譚としての原『宇津保物語』の内容を思い出させるし、熊野に関して言えば小栗判官の『餓鬼阿弥蘇生譚』を連想させる。神の前身が人であり、人間として生を得て、やがて流離・困憊(こんぱい)の極を味わい、あるいは死の解脱によってはじめて転生して神となることができるという古代以来の信仰が、この神人の背後にはある。貴い身分のはずの仲忠とその母は、京都北山にある樹のうつほで暮らさなければならなかったが、貴族の身分にやがて戻る。加えて、この原物語では、身分の低い偽貴宮が高貴な貴宮に成りおおせるという変容もある。伝記作者の高山文彦がいう中上の故郷〈彼岸〉とは、誰もが貴種であるはずの人間の「死・再生・不死の起きる場所」、つまり〈異界〉であり、物語の元型をなぞる場所である。そして、先ほどのフォークナ―の小説にある町ジェファスンのように作家が統べる「仮想の場所」、作家が治者となるアナザー・ワールドでもあった。中上は、故郷〈此岸〉に対峙し家族を見つめ、それをモデルとして小説を書くことによって、この〈彼岸〉と〈此岸〉というダブル・ヴィジョンの間に橋を架けた。こうして、彼は神話という無底の世界に浮かんで差別被差別を見つめたのである。中上はこう書いている。

「考えてみれば芸能・芸術の一切はうつほから出て来る。一切合財はそこから生みだされ、外に出るのだ。うつほを別の言葉で言ってみれば被差別空間となる。それは宗教と性と暴力と、そんなものが混交した場所であり、それがさらに神話の持っている意味だとしたら、何もかもある(『宇津保物語と現代』)。」

 

その他の参考図書

中上健次『紀州』木の国・根の国物語
中上の故郷である新宮を起点に紀伊半島の隠国の町々土地土地を巡るルポタージュ。
この著書の中で、中上は「どんな事であれ、言葉を持っている者は書き言葉を持たぬ者の『批判』にさらされる義務がある」と書いている。

『宇津保物語』part1 籠りと神器

『宇津保物語』は面白いと僕は思うのだけれど、源氏物語と比較されてか、意外に人気がないらしい。これは偏見ではないのか。源氏物語以前の物語としては、竹取物語、この宇津保物語、そして、落窪(おちくぼ)物語が知られている。いずれも作者不詳である。竹取物語は、主人公が竹の中に誕生し、月の世界へ帰っていくというメルヘンの中に求婚難題譚が挟まれている。落窪物語は住吉物語の原形となった平安時代の作品のパロディと言われる(三谷那明『落窪物語解説』)。北の方の落窪の君への徹底的な継子いじめと、侍女あこぎと落窪の君の夫になる蔵人(くらんど)の少将との徹底的な復讐劇、そして継子の恩恵を受けながらも改心のないしたたかな継母というストーリーになっていて、典型的な継子虐め譚となっているのだが、継子の仇名が落窪であり、土間のような一段低い部屋に住まわされていたことによってついた名だと言うのは興味深い。

武雄神社の神木、大楠とその祠 
佐賀県 樹齢3000年 空洞は12畳の広さがある

宇津保とは何だろう。こういう時は、この人の著作をひも解くに限る。古い言葉に、うつと言う語があり、空・虚、或は全の字をあてた。熟語としては、うつはた(全衣)・うつむろ(空室)などがあるという。うつは全で、完全にものに包まれている事らしい。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)のうつむろは、戸なき八尋殿を、更に土もて塗り塞いだとあるから、すっかりものに包まれた、窓のない室の意で、空(から)の室を言ったのではないか。これはうつぼにも関係があるという。うつぼ舟・うつせみなど、からっぽの意にも、目のないものの意にも考へられるようになったいうのである(折口信夫『霊魂の話』)。

宇津保物語は主人公の仲忠(なかただ)が幼少期にその母と山中の木の空洞、つまり「うつほ」に暮らすことからタイトルとして用いられた。竹取物語は中空の竹のなかに宿った姫が主人公だった。この宇津保物語より後に成立したといわれる、落窪(おちくぼ)物語の主人公は日常とは異なる床が一段低い狭い部屋に入れられている。これについて心理学者の河合隼雄さんは『うつほ物語のなかの女性像』の中で、少女が低い位置に貶められたり、閉じ込められたりした後に幸福生活を送るというのは相当に普遍性を持った物語で、シンデレラ、塔に閉じ込められるラプンツェル、いばら姫などの例にこと欠かないという。宇津保物語では、うつほに籠りはするのだが、既に子供がいる。落窪物語のほうが思春期に適切な「内閉」の時期を持ち、それを経て結婚という幸福を得るという、より普遍的な性格を持っている。しかし、訳も分からず結婚して、あるいはさせられて、子供ができるが、夫との関係も理解できずに内に籠る期間があって、その後、母であることを通して夫婦であることが実感されるというパターンがあるのではないか。『うつほ』の方が古い型で、それが『落窪』型に変化していったとも考えられるというのである。ともあれ、主人公の閉じこもる空間は、全て覆われた竹の中から、穴の開いた樹の洞となり、出入り口があるのだが凹んだ部屋へとモダンになっていく様子は進化と見るべきだろうか。

『うつほ物語』① 1999年刊

『宇津保物語』「俊蔭」一

物語は式部の大輔と左大弁を兼任する清原の王(おおきみ)と皇女との間に容姿の美しい世にも稀な学才を持つ男の子、俊蔭(としかげ)が生まれることから始まる。若くして進士、秀才になるための試験に事もなく合格し、遣唐使に抜擢される。しかし、船は遭難して波斯(はし)国という未知の国に漂着した。涼しい栴檀の木蔭で琴を弾いていた三人の奏者に琴を習う。この三は、俊蔭以降の三代の子孫とその秘伝伝授に対応しているのではないだろうか。木を切るような不思議な響きに促され、3年を費やしてその音のする険しい山の谷底の大木にたどり着く。そこでは阿修羅が罪障消滅のためにその桐の霊木を切っていた。琴を作るためにその木の一部を貰い受けようとした俊蔭は、天下った天稚御子(あめのわかみこ)の助けで三十もの琴を授けられて日本に帰ることになるのだが、七人の仙人と合奏していると仏が現われて俊蔭に汝は淫欲の罪によって人の身を受くることなき身なれども高徳の仙人を助けたことによって人に生まれることができた。阿修羅に憐みの情を覚えさせ、菩薩・仏の耳驚かせた因縁によって何世にも亘って仏との縁を持つことになろう。そして、この山の仙人の七番目にあたる子孫を汝の三代目の孫として得られるであろうと予言した。仏や仙人に琴を献上して12の銘のある琴を持ち帰るのであった。23年の月日が流れていた。

帰国後、東宮(皇太子)の指導役となった俊蔭は、天皇の皇女で臣籍に下りた一世の源氏の女性と結婚し、娘を一人授かる。父と同じ式部大輔と左代弁兼務となった。その娘にあの波斯(はし)国から持ち帰った琴を習わせる。七つの琴は嵯峨帝や東宮、高官たちに献上し、帝の前でせた風と銘のある琴をかき鳴らすと御殿の屋根の瓦がこなごなに砕けて花のように散ったという。だが、それから俊蔭は出仕を辞退し京極に風流な邸宅を建てて娘の琴の教育のみに専念するようになる。美しく成長していく娘に結婚の申し込みはあとを絶たなかったが、俊蔭は一切とりあわない。しかし、娘が十五の歳に妻が亡くなる。追う様に俊蔭も亡くなるが、遺言に屋敷の片隅に埋めた二つの秘琴の存在を告げる。俊蔭の家は、その頃には既に窮乏していて使用人も召使の老女のみとなっていた。

豊永聡美『天皇の音楽史』

古琴について

琴について少し述べておきたい。音楽史の研究者である豊永聡美(とよなが さとみ)によれば、3~5世紀にかけて仲哀・応神・允恭(いんぎょう)・雄略といった天皇たちが琴を弾いたという記述が古事記や日本書紀にみられるという。この頃の琴は四絃ないし五弦であったようだ。とりわけ応神天皇が愛した琴は「枯野(からの)」と呼ばれる神器であったという。潮焼けした官船から得られた木で作られ、その波で打たれた材から発する琴の妙なる音は七里先まで響いたといわれる。それは降神や政りごとのための神事と関わっていた。

後には天皇が学ぶべき学芸となり、管(笛、笙)と絃(琴、琵琶)が主流で打はなかったという。天皇がどの楽器を演奏するかは宮廷音楽に参加する殿上人などの栄枯盛衰に関係することもあり、時に皇統の在り方も左右したという。平安時代は桓武天皇から平安中期の醍醐、村上天皇に至るまでほぼ琴(和琴、七絃琴、筝)の時代であった。13世紀の『文机談』には、桓武帝が、なら丸という御師について琴を学んだという記述があり、とりわけその第二皇子であった後の嵯峨天皇は『和琴血脈』という和琴の相承図の筆頭に名が挙げられている。この『宇津保物語』に帝、後に院として、その名が登場するのも故あってのことのようだ。大まかに言って、平安中期以降は笛(龍笛)、鎌倉時代に入ると琵琶が主流となっていくようである。『天皇の音楽史』からご紹介した。

中国では、オルガンを風琴、ピアノは鋼琴というように楽器のことを琴というため日本でも琵琶の琴(こと)とか琴の琴(こと)と言っていた時期もあるようだ。この宇津保物語に登場する琴は、漢の時代に形が整えられ、その後、奈良時代に日本に伝来した七絃琴で古琴と尊称されていた。上面は天を象って丸く桐で作られ、下面は地を象って平らに梓(あずさ)を材料にしたものを貼りあわせて共鳴箱を作る。梓は弓の材料として知られる木である。全面を焼いて灰の漆喰が塗られ、さらにその上に漆が塗られる。長さ約120cm、肩の幅が20cm、腰の幅15cmと決められている。下面に音穴と呼ばれる音の出る空洞が作られ、大きい方を龍池、小さい方を鳳池と呼ぶ。そして、絹糸の七絃が張られるのである。この数は、俊蔭が出会った7人の仙人と対応している。筝(そう)のように琴柱(ことじ)と呼ばれる木の駒で音程を調節することは無く、螺鈿を嵌め込まれた徽(き)と呼ばれる部分を目安に手で絃を押えて音程を決める。特に絃の上を指が滑る時に出る音は走音と呼ばれる。一種の衣擦れのような雑音であるけれども琴独自の雰囲気を醸し出すといわれ、古人はこの音色を「松風」と呼んだ。

古琴奏者の伏見无家(ふしみ むか)によると、この琴の音は心の昂揚するような音ではなく、人の心を深く沈思させ寂寞とした気分にさせる音色で低音は野太く重厚、高音は玉石を叩くような玲瓏とした音であるという。龍池、鳳池の音穴は下を向いていて下方から響き渡り、人の内面に向うという。そして表面の漆喰と漆は音響を逆に抑える。「琴は禁」に通ずるといわれ、身を修め、性(こころ)を理(おさ)めるための楽器だった。したがって、歌舞音曲といった類の音楽に使用されることはなく、雅楽に取り入れることも困難だったと言う。しかし、現在はスチール製やナイロン製の絃が使われるようになり古琴の音も大きく鋭くなったといわれている。

16絃古筝
絃と胴の間に木製の駒がある

『宇津保物語』「俊蔭」二

主人を失った屋敷が見る影もなくなった頃、時の太政大臣が願掛けのため賀茂神社に参詣することがあった。娘はその行列をなんとなしに蔀戸(しとみど)のそばに寄って見ていた。そのお供の中にやはり十五歳くらいの若小君(わかこぎみ)と呼ばれる美しい少年がいる。その願掛けの帰りに二人は結ばれるが、少年は無断で外泊したことを両親に責められ以後は厳しい監視の目にさらされ、屋敷を出ることが出来なくなった。娘との再会を固く契ったが果たすことができなくなる。

若小君の子供を宿した娘は、召使の老婆に懐妊を教えられ、恥ずかしくさえ思えて泣いた。しかし、老女はしっかり者でわずかに家に残った高価な鞍を売り、出産の用意を整えると、娘は無事に玉のように美しい男の子を生んだ。この子が五つになった時、老女も亡くなり、この子は母のために魚釣りを習い、魚を持ち帰る。しかし、普通の魚と思っていたものはたちまち百味を備えた食物に変わったという。冬には山芋、木の実、葛(かづら)の根を掘り取ってきた。深く山に分け入って食べ物を探す時を惜しむ少年は、北山にある築山のような丘の上に杉の大木が四本合わさって大きな部屋ぐらいになっている空洞を見つける。その前は明るく開けていて近くに泉もあり椎や栗の林がぐるり囲んでいた。少年の孝心に打たれた熊はその洞を少年に譲って立ち去った。母は息子にいざなわれるままに琴とともにその洞に移る。母と息子は昼となく夜となく琴を合奏した。猿たちは演奏に感じ入ったのか、芋や果物などの色々の食べ物を葉に包んで持ち来たって、集まるようになった。木の根を食べ、木の皮を着、木のうつほを住処にしていてもこの子には輝くような光が備わっていたし、母の容貌も一段と勝って美しいものになっていく。息子は既に十三歳になっていた。

帝が北野神社への御幸される日、お供の右大将兼雅(かねまさ)は琴の音を聞いた。縁(えにし)の糸は再び結び合わされる。音を尋ねた場所で出会った少年の話には心当たりがある。兼雅は、あの若小君であった。言葉を尽くして少年を説得し、母は、また息子の言葉に従って京に戻ることになる。此の息子が、この物語の主人公、仲忠(なかただ)である。

『うつほ物語』③ 1999年刊

神器の琴と籠り

神器の琴がどのようなものだったかは、大国主命が天の沼琴(ぬこと)を持ち運ぶ際、木々にそれが触れると大地が震撼したという記述が古事記にある。こんな不可思議が、宇津保物語にもしばしば述べられている。例えば俊蔭(としかげ)の娘が隠れ住んでいた宇津保の近くに東国からの武者四、五百人が陣取り、山中にあふれ、目に入った鳥獣を片端から殺して食べた。食べ物を運んでくれていた猿たちも容易には近付けない。そこで俊蔭の娘は、幸福な時、不幸な時の極限に至ったらこの琴を弾くように遺言された「なん風の琴」を一声かき鳴らした。すると山の大木はことごとく倒れ、山は逆さまになって崩壊したという。宇津保を取り囲んでいた武士たちは崩れた山に埋もれた。また、最終話「楼の上」の下巻では、俊蔭の娘とその息子仲忠、そして、その娘の犬宮がそろって演奏する場面がある。その同じ音色の音は空高らかに鳴り、あらゆる種類の鼓や管楽器、弦楽器を合わせて一つにしたような音となって響き渡った。聴く者は宙に浮き上がりそうになり、星たちは激しく瞬き、雷の鳴るような閃光が入り乱れたという。

ほとんどの楽器には「うつほ」のように空洞がある。その空洞が振動を響かせ天地と共鳴する。今まで何度か述べてきたことだけれど、日本の古代には、現在の神と等しく考えられていた魂(たま)が、この宇津保のような空洞に人知れず宿ると考えられてきた。これを籠りという。日本の古代宗教にとって最も重要な概念になっている。そのうつろなものの中で霊力を蓄え、成長した魂が、このウツツの世界にみあれするのである(折口信夫『霊魂の話』)。音は楽器という「うつほ」へ籠り、共鳴して世界へと鳴り響く。「うつほ」は霊力を蓄える場であり、音魂としての神がそこに現われる。そのような力を秘めるからこそ神器と呼ばれることになるのではないだろうか。琴は、巨大な象徴なのではないか。波斯(はし)国への漂流という俊蔭漂流譚に始まるこの物語は、その孫である仲忠とその母の宇津保への貴種流離譚でもあった。しかし、俊蔭とその子孫の籠りの物語とも読むこともできる。秘伝伝授のために俊蔭が娘に対して行う屋敷への徹底的な籠り、娘と仲忠との「うつほ」への籠り、俊蔭の娘と息子の仲忠そしてその子の犬宮との東の楼への籠りと三重に重ねられた籠りという空間の中で、琴の秘伝は伝えられていくからである。この物語は古来の神話の原型が幾重にも繰り返される構造となってはいないだろうか。

貴種流離譚については平川祐弘『アーサー・ウェイリー』源氏物語の翻訳者 part2 紫式部の手法に書いておいたのでそちらをお読みくださればと思います。次回part2は『宇津保物語』の野性をテーマに中上健次がこの物語を基に書いた同名の小説『宇津保物語』をご紹介する予定です。

 

古琴の演奏を掲載しておきます。

 

『ウィリアム・ブレイク』最終回「脱構築する神話」六千年のヴィジョン

1795年、38歳で『ロスの書』や『ロスの歌』を制作していた頃、ブレイクは銅板から直接彩色印刷を行う新しい実験に没頭していた。エッチング(腐食)を施したレリーフ状の銅板に色を塗り、プレス機や手の圧力で刷る。絵具には、滲み止めや糊が混ぜられ、その外観は厚塗りの斑(まだら)な質感が強調された、一種のデカルコマニーのような効果が起きる。その頃、妻のキャサリンは有能な助手となって彼を助けている。絵具は速乾性なのですばやく作業する必要があった。やがて、なめらかなエッチングされてない板に色を塗り、印刷し、筆で色を加え、ペンで輪郭と形を整えはじめた。

その成果は『ヨーロッパ 一つの預言』や『ロスの歌』に表れている。その頃の代表的な作品は『ニュートン』であろう。彼は、この新しい試みが大衆に受けると信じていた。しかし、現実には、好事家や他の芸術家たちに売れ口は限定されていたと言う。増刷もしたけれど、大きな注文を受けた時以外は、この彩色印刷法には二度と戻らなかった。フラックスマンやフューズリと言った友人などから仕事の斡旋してもらい、伝統的な技法で他人のために制作することで生計を立てることになるのである。

1800年には、ロンドンからイギリスの南海岸チチェスター近効のフェルファムに転居した。ポーツマスの近くである。海辺の黄砂の上に坐っていると「光輝く粒子」が人の姿となり、「岸辺のない海」のように広がって、自然界がひとりの人間のように見えたという。あるいは、野原を歩いていると太陽がロス(part2参照)の姿になり「激しい炎に包まれ」地面に降りてくるヴィジョンを見た。三年後、自宅の庭にいた兵士を力ずくで追い出そうとし、口論となって、小競り合いが起きた。その時、反国家的な言葉を発したとして「暴動教唆」の罪で訴えられる。いわゆるスコウフィールド事件である。1804年、ブレイクは無罪の判決を受けた。湿った気候が妻の健康を害し始めたのでロンドンに再び引っ越した後のことである。ブレイクを告発した兵士スコウフィールドの名は詩の中に時々登場するようになり、御気の毒ながら堕落した物質幻想を作り出した巨人の一人とされるのである。この頃『ミルトン』『エルサレム』という預言書・神話が書かれ始める。

聖テレサ(テレージア)の法悦』
ジャン・ロレンツォ・ベルリーニ 1652

ブレイクは「理性を見る人は、自分自身だけを見ているだけだ」と言い続けたという。何もかもが、自分たちの(間違った)知覚のイメージで創られていると信じるのは、哲学者や神を創造主として認めはするが啓示を否定する理神論者の罪であるというのである。聖テレサ(1515-1582)は「ヴィジョンはどうすることもできない。見ようと思っても見ることはできないし、努力して呼び出したり、消したりすることもできない」と述べた。彼女は、自然ないきいきとしたスタイルで死者のヴィジョンを書いたともいわれる。ブレイクは、「仕事中に、愚にもつかないことを考えていると、現実のものではない、死者の亡霊がさまよう幻の国にある山や谷に連れて行かれてしまうのだ」と述べた。これは彼が彫版の仕事が遅いといわれていた原因の一つでもあるかもしれないとピーター・アクロイドはその著書『ブレイク伝』に述べている。

『ヴェイラあるいは四人のゾア』『ミルトン』『エルサレム』の預言書が20世紀の思想とどのように関係づけられているかを大熊昭信の著書『ウィリアム・ブレイク研究』から考察してみたい。彼の預言書を読む時、色々な困難があるという。句読点の度重なる省略、語と語の異様な結びつきなどによって意味が容易には通らない。登場人物たちは複雑に分裂したかと思うと勝手にお互いに融合してしまう。物語も気ままに過去に遡りもすれば、イギリスの地にシオン山やエルサレムが突如、登場したりする。予測もつかない変貌をしょっちゅう遂げるというわけだ。著者は、80年代以降、こうした物語が、ポストモダンや脱構築の批評的立場に立つ人たちに歓迎され始めたと言う。

大熊昭信『ウィリアム・ブレイク研究』
「四重の人間」と性愛、友情、犠牲、救済をめぐって

大熊昭信(おおくま あきのぶ)は、1944年生まれ。東京教育大学英文科、東京都立大学大学院及び東京教育大学大学院で修士過程を修了し、文学博士号を取得した。筑波大学、成蹊大学などで教鞭を執られている。著書に『文学人類学への招待 生の構造を求めて』『D・H・ロレンスの文学人類学的考察 性愛の神秘主義、ポストコロニアリズム、単独者をめぐって』訳書にA.J.エイヤー『トマス・ペイン 社会思想家の生涯 』、エドワード・ゴールドスミス『エコロジーの道 人間と地球の存続の知恵を求めて』などがある。

著者はブレイクが『エルサレム』のサブタイトルを「巨人アルビオンの流出」としているところから新プラトン主義の「一者からの流出」に基づいていると仮定した。霊魂も全て一者から流出したというわけだ。新プラトン主義については”世界をロマン化する” part1 中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』のところで述べておいた。そして、「天界の形」とは「霊体」であるというW.H.スティーブンソンの説を紹介する。一般には、霊体は人間の魂がこの世の生を終えた後、天界でまとう一種の衣服であると想定されている。パウロは、そう述べたという。パウロが霊界で着るとした霊体をブレイクでは霊界で脱ぐと言うのである。

これに対して、ギリシアの新プラトン主義の哲学者プロクロス(412頃-485)は、霊魂が三種類の霊の衣服をまとっているとした。人間は死ぬと肉体を脱ぎ、天界とこの世の間の霊界に幽体を脱ぎ、輝体をまとったままで天界に回帰する。中間的霊界に残された霊の衣服がデーモン(幽鬼)の類となってこの世に現われるという。霊魂、オケーマ、幽体、肉体という層構造が考えられている。大まかだが、神智学の分類に近い。オケーマはパラケルススのいう星の体(アストラル体)、あるいは魂の車と呼ばれるものと同じであろうという。ブレイクの預言書で、主人公的な役割を持つロス(part2参照)が「四番目の不死の星の存在」とか「アーソナの乗り物の形」といわれることから、筆者は人祖アルビオンから分離したロスたちがこの霊体の分離した姿ではないかと考えた。ブレイクは当時、このプロクロスを翻訳したトマス・テイラーの講演に出席していたようだ。

『ユアリズンの第一の書』1794-96
ロスから分離するエニサーモン

ブレイクの『エルサレム』では、人祖アルビオンはヒューマニティ、エメネイション、スペクター、シャドウの四つの段階に分裂する。これを著者は、それぞれ霊魂、流出霊、幻霊、影霊と名づける。流出霊は輝体であり善のニュアンスを持ち、幻霊と影霊は幽体であり悪のニュアンスがあるという。魂には男性性が、輝体は女性性が、幽体では息子が、影霊では娘のイメージが割り当てられている。人祖アルビオンはpart2『四人のゾア』でもご紹介したように、その四つの人間的特性に対応する四人の男性性を持つ存在に分離する。そして、この特性に対応する女性性として、やはり四人が分離された。この『エルサレム』では、アルビオンが天界を降下する時、輝体である女性エルサレムを一つ下の霊界であるべウラ(ビューラ)に残し、その幽体をまとって死の世界である最下層のウルロに降下する。ところが、霊魂が脱した輝体なり幽体なりが、もう一度それぞれ独立した霊的な存在として同じように分裂を繰り返して、天界を下り、この世に降下したりするというのだ。主体としての霊魂が、他者の霊の衣をまとうというのはルドルフ・シュタイナーのいう「霊の経済原理」に見られる説だが、霊の衣自体が新たな主体となるというのは、ブレイクのオリジナルだろう。

日本にも古くは、分霊の例は多く、例えば留守宅の妻や女性が、旅する愛する者のために自らの魂を彼等に分けてつけた。それが、万葉の「妹の結びし紐」という慣用句になる。魂結びの紐の緒のことである。その魂の来りて触れて一つになることが「たまふり」の原義だという。魂の離合は極めて自由なものであったし、分離した魂がめいめいある姿を持つこともある考えられていたというのである(折口信夫『小栗外伝』)。なかなか興味深い話である。また、ピュタゴラスの影響を受けたオウィディウスは、ブレイクが愛した『変身物語』の中でこのように述べている。「万物は流転するが、何ひとつとして滅びはしない。魂は、さまよい、こちらからあちらへ、あちらからこちらへと移動して、気にいった体に住みつく。獣から人間のからだへ、われわれ人間から獣へと移り、けっして滅びはしないのだ(中村善也 訳)。」輪廻転生については今はおくとして、魂が自由に他者に移るという考えは古い時代にはあった。しかし、こうしたことがらも、ブレイクがヴィジョンに従って書いたとしたら、不思議なものでもなんでもなくなるのである。ロスが、自分はアーソナの霊の衣から分離されたとブレイクに告げたなら、彼はそう書いただろう。

ロバート・ブレア 詩『墓』1808
第12プレート「再び統合する魂と肉体」
ブレイク原画 ルイジ・スキアヴォネッティ彫版

だが、書き方は、また別の問題である。自動筆記のように書いたという自らのコメントもありはするが(トマス・バッツ宛て手紙)、全てそのように書いたとしたら『ヴェイラあるいは四人のゾア』の10年にわたる苦闘を説明することはできなくなる。読者は、世界の創造と破壊と再生の物語の中に、様々な登場人物のエピソードが盛り込まれ、それにほとんど恣意的なまでに多様な寓意が説明的に張り付けられるのを目にする。おまけに、ブレイクの「対立の原理」は、相反する価値や意味を物語の中にバラバラに並置するのだ。付加される領域は広範囲に及び、抽象的な徳目あり、同時代の政治思想あり、自伝的要素まで挿入されるというわけである。そうすると、読者はブレイクのこの虚構の世界にすんなり感情移入できなくなる。読者は物語の世界から身を引き離し、リニア―な意味の把握を断念するようになり、垂直的な読みをするようになると著者は言うのである。つまり、自ら物語を再構成し、何層もの寓意の地下水の流れを見分け、それらを平行して眺める。ロスとエニサーモンとの諍いを多様な神話に関連づけ、その中にブレイクと妻キャサリンとの関係さえ読み取ることになるというわけだ。つまり、これがポスト構造主義的読みなのである。

このようなリニア―な解釈を許さない作品が19世紀後半に生まれていたことはミリー・ディキンスンの詩でご紹介しておいた。そして、同じように語り手が誰かを意図的に曖昧にするジェイムズ・ジョイスの手法があった。彼がブレイクの影響を受けた(part2参照)ということを知っておいてもらえればブレイク文学の先進性は理解していただけるだろう。

『死者の復活』1806
(ブレア作『墓』の扉の別案)

1805年にブレイクは、新進気鋭の出版業者ロバート・クロメックにロバート・ブレア作の『墓』の挿絵を頼まれた。原画を描き、版画にするのだったが、クロメックは当時ブレイクが手がけようとしていた白線によるレリーフエッチングを嫌って他の彫版師に任せた。こうしてブレイクの原画は、「ここちよい」「優雅な」銅版画に作りかえられた。これは、ブレイクにとって心の痛手であったことは言うまでもないことだが、クロメックは宣伝力に長けていてブレイクの名をイギリス社会に浸透させるという功績はあった。だが、批評は相変わらず辛辣で、「アンチ・ジャコバン」誌には「病的な空想力が生み出した作品」と書かれたという。ブレイクへの攻撃は「狂気」という宣伝の形で行われていった。しかし、作品は「あのみなぎる霊性と強烈なフォルム」を再び確認させる徒弟時代のウェストミンスター寺院での経験に照らされていたアクロイドは述べている(『ブレイク伝』)。

1809年、52歳の時、ブレイクは「フレスコ画展、ウィリアム・ブレイクの詩的で歴史的試み」と題した展覧会を兄の靴下店で開いた。彼の関心事は中世美術、あるいはゴシックの新しい形態についてであったという。この個展では、チョーサーの『カンタベリー物語』をテーマにした「チョーサーの巡礼」がメインになっていたが、訪れる人は稀で、絵は一枚も売れなかった。『エグザミナー』誌の批評はこうであった。「攻撃性がないので監禁を免れている不幸な狂人。」ブレイクは疎外感を感じはじめていた。「狂気」というレッテル、売れない作品、芸術家仲間からの疎遠、上流階級や中流階級の趣味に対する嫌悪、画一化や標準化といった機械化が進む時代の流れへの反感。

神曲「天国編」より 1824-27
『聖ペテロ、聖ヤコフ゛、聖ヨハネとダンテ、ベアトリーチェ』

貧困にあえぐ晩年のブレイクを支援したのは、若い画家のジョン・リネル(1792-1882)だった。作品を購入してくれそうな人物の斡旋から金銭的な援助まで惜しまなかったが、彼の最大の功績はブレイクに『ヨブ』の水彩画を版画にすることを提案し、資金を工面してくれたこと、そして、ダンテの『神曲』の連作を依頼したことだろう。ブレイクはそのためにイタリア語を学び原著を読んだという。70歳になろうとしていた。ダンテの『神曲』の挿絵は色彩の美しさと明るさで極めて印象的な作品となっている。まさに晩年を飾る傑作となったのである。そして、人生の最後の数ヶ月に聖書の彩飾本の制作を開始した。この頃、ターナー(1775-1851)は『青白い馬に乗った死』を描いていたし、スペインでは、フランシス・デ・ゴヤ(1746-1828)が陰鬱な黒い絵のシリーズを描いていた。

胆石のような症状や下痢、発熱、理由の分からない発作に襲われるようになり、次第に弱っていったが、永遠の想像力は共に在った。死に対する不安はあったが、あれほど酷い仕打ちを受けたこの世を去ることは幸せであったのだろう。最期は、息を漏らすように穏やかに息を引き取った。1827年のことである。70歳だった。その場に立ち会った人によれば、清らかな天使のような旅立ちであったという。

柳宗悦全集 第四巻 1981年刊
「ヰリアム・ブレーク」収録

日本にブレイクの本格的紹介を行ったのは柳宗悦である。柳宗悦らの民芸運動とラスキンやモリスの英国アーツ・アンド・クラフツ運動と比較する時、民芸に際立つのは心を無にすると言う宗教性にあると佐藤光(さとう ひかり)はいう(『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』)。ブレイクは、「自己滅却」というキーコンセプトのもと、キリスト教をイエスの「ゆるしの宗教」へと解釈し直し相互寛容の思想を打ち立てた。「対立なくして進歩なし」という対立の原理と「生きとし生ける者すべて神性である」という「肯定的世界観」は、バナード・リーチの来日と共に柳の思想に大きな影響を与え、それは民芸にも及んだと言うのである。この西回りの「肯定の思想」は、柳の中で大乗仏教という東回りの「肯定の思想」と合流した。少なくとも20代の柳にはそう思えたのである。ここで、柳が25歳頃、精魂込めて綴った『ヰリアム・ブレーク』からいささかご紹介して終わりたいと思っている。この『ヰリアム・ブレーク』は、彼の伝記・思想・芸術のかなり詳しい紹介からなっていて原文を含めたブレイクの文章の引用も極めて多い。心酔している様子がよく伝わる。

わずか4歳で神の姿を目の前に見てから(アクロイドの『ブレイク伝』では8歳頃、天使を見たのが最初とある)、再び神の声を耳にしてこの世を去るまで彼の70年の生涯は殆ど幻像(ヴィジョン)に充たされていた。彼にとって凡ては驚愕と奇蹟に充ちていて、啓示に襲われれば、その内にいつも永遠相を見出していたと柳は述べている。そして、ブレイクの手紙にあるこの言葉を引用した。「私は此の詩を精霊から直接の命令で書いた。しかも、どういうことを書くかという予期なしに12行または20行、30行を一時に書き下すこともあった。私の意志に反して書くことすらあった。従って書くために費やされた時間というものは存在していない。」そして、「‥‥幻像はこの世に存在しないと言う者があるならそれは謬見である。自分にとって、この世界は幻像と想像とからなる一個の連続体である。」彼の空間とはこのようなものであり、時間とは以下のようなものであった。「自分は過去、現在、未来が同時に自分の前に存在することを知っている。」「自分は上下六千年の間を歩いている、彼等の現象は凡て自分と共にある。」

『青年と老年のウィリアム・ブレイク 28歳と69歳の二重肖像』ジョージ・リッチモンド、フレディリック・テイサム 1826

そして、柳はこう述べた。凡ての芸術、凡ての宗教がその高調に達する時、彼等は自ずから預言の権威を帯びてくると。悪はひとつの状態でしかないという「救済」の宗教観、宗教は一つであり、その源は詩的創造力であるという内発性と芸術の優位、すべての人の内に神はあるという強烈なメッセージ、そして「自己を無にする」という東洋的ともいうべき姿勢に、柳はブレイクのテンペラメントの卓越性を感じ、六千年のヴィジョンを猟歩したその思想に帰依するほかなかったのである。

‥‥
深い真夜中の学びに励む時刻に
書くようにとこの手に神が命じた時
彼は私に語った 私の書くすべては 地上で
私が愛するすべてのものの禍となるであろうと
‥‥
ウィリアム・ブレイク
『手帳からの詩と断片』1800-1803頃
(梅津濟美/うめつ なるみ 訳)

 

その他の参考文献

佐藤光『柳宗悦とウィリアム・ブレイク』
佐藤光(さとう ひかり)は1969年生まれ。京都大学文学部で学び文学博士号を取得、その後ロンドン大学でも博士課程で学ばれている。東京大学で教鞭を執っておられるようだ。本書は柳宗悦とウィリアム・ブレイクとの関係を述べたものだが、ブレイクについてもかなり詳しい紹介があり、彼のことを知る上でも貴重な著書となっている。

ブレイク全著作 梅津濟美 訳
ブレイクの全著作が翻訳されている労作である。感謝の他はない。文章がいささか生硬なきらいはあるが、正確な訳に徹しておられるのだろう。そして、安価に、しかも、新品のような古書を送って下さった大学堂書店さんにもこの場をお借りして感謝したい。