ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』「想い」の糸

グラシオブルの人形劇『ウーマン・シャーマン』
つながるすべてのいのちたちよ

お正月明けに広島のアステールプラザで、グラシオブルオというグループの『ウーマン・シャーマン』というパペット(人形)劇を観た。何の気なしにブラッと入ったてみたのだが、ネイティブアメリカンのホビ族の口伝からヒントを得た物語だったのだ。なかなか興味深い舞台だったのだけれど、そのリーフレットには、こうあった。「みなさんへ、『この世の存在は全て繋がっている』というグラシオブルオの理念を基に、100年先あるいは先住民の教えの7世代先までを見据えた心の通い合う世界を目指した舞台創りに構想5年‥‥」。どうも、最近「全ては繋がっている」という言葉をよく目にする。この前、『細川俊夫 音楽を語る』についてのブログ書いている時、その関係で哲学者の西谷啓治さんの禅に関する本を読んでいたのだが、そこにもその言葉があったし、プラトンについてもプロティノスについてもそういう言葉がある。ライプニッツやマラルメにとっても世界は読み解かれるべき一冊の本であった。

何千年もの間伝えられてきた、ネイティブアメリカンの一族の物語がある。この『一万年の旅路』の著者、ポーラ・アンダーウッドは、父から、その父は祖父から、祖父はその祖母からこの話を伝えられた。この祖母はイロコイ連邦が、結成された当初に、その国を構成する部族の一つであるオナイダ族の出身者だったのである。五世代前に知恵の道を歩みつつあった一人の若い女性が、自らの患者から、この古代の学びとその一切に関する責任を引き受ける。その患者は、この地方最後の<古き物事の守り手>であり、この滅びの危機に瀕した物語を彼女が継承したのである。その女性こそ、ポーラ・アンダーウッドの祖父の祖母、つまり、ツィリコマー(明るい春)という名の治療師であった。イロコイ連邦は、北アメリカ・ニューヨーク州北部のオンタリオ湖南岸とカナダにまたがって保留地を領有する、モホーク族、オナイダ族、ワイアンドット族など6つのインディアン部族により構成される部族国家集団である。17世紀に、今日「イロコイ連邦」として知られる部族連合による連邦国家が成立し、1794年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。国連も認める独立自治領であり、独立した国家として連邦捜査局(FBI) などアメリカ合衆国連邦政府の捜査権も及ばないという。

ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』
星川淳 訳

物語はこのように始まる。さわりの部分を要約してお伝えしたい。

どれだけそこに住んだかだれも憶えていないほど長居した土地では、一族は山裾の砂浜にいた。当時、寒い時は山の懐深く暗い場所が暖かく、世界が暖かくなるとひらけた浜が好まれた。二たび浜は迫り上がる海に呑み込まれ、満潮になると立っていられる場所もなくなった。二たび海面が下がって、砂がまた姿を現わした。

しかし、世界は変わり、一部のものが強すぎると感じた力を、すべての者が感じるようになった。遠い雷鳴のような音が聞こえてきた。小さな石がその場で踊りだし、なかには丘を転がり落ちてくるものもあった。大地が太い綱にかかった<鋭い牙(猪)>のごとくのたうちはじめ、ばらばらに裂けた。彼らの世界の中心である海が、怒れる山のごとく、憤れる熊のごとく、荒れ狂う嵐のごとく立ち上がった。<おおいなる乾き>へと向かって歩き始めなければならない時が来た。それから、三分の二の者は南の道 を選び、三分の一の者は北の道を選んだ。北の道を選んだ者は<海辺の渡り>を選んだ者たち、<古(いにしえ)の道>を選んだ者たちだった。

その一族は北に進んだ。そこは、<おおいなる乾きの地>だった。彼らは、乾きと共に生きることを学んだ。一族は新しい歌を歌うようになる。「学べるかぎりのことを学ぼう。ありとあらゆるものに目を向けよう。すべての音に耳を傾けよう。あとに続く者たちに、この贈り物を伝えよう」と。このようにして一族の旅は、学びの旅ともなっていく。

<大いなる島>への海の渡りが始まる。全員を端から端まで繋ぐ<大いなる綱>が編まれた。海に囲まれた岩場は狭くなり、時に海に隔てられた。こちらの岩場から海に隔てられた向うの岩場まで綱を伝って移動しなければならなかったのである。一族の中で荷物を背負う力があったものは35人。そこまで力のないものが17人、そのうち3人が他の人に運んでもらわなければならなかった。わずかそれだけだった。一族は一心同体となり、自分たちが一つであることを理解し、誰一人置き去りにしないことの大切さを噛みしめながら滑りやすい道をたどり、互いに抱きかかえたり助けあったりしながら打ち寄せる大海を渡ったのだった。<亀の島(北米大陸/訳注)>への道を切りひらいたのはそのような者たちだった。

海峡を渡ると完全な湿地が広がっていた。なにひとつ乾いたものはなかった。ぬかるんだ大地は一足ごとにまとわりつき、どんよりした太陽にびしょ濡れの服を乾かす望みも翳った。毎晩、濡れて火のつかない小枝を囲んで「暖かさの希望を失わない」ようにした。ついに、地平線はゆっくりと迫り上がり、わずかだが丸々として甘く白っぽい木苺が見つかった。どの苺も全員に渡るように注意深く分けられ、最後の二つは大地に残された。やがて、<知恵の娘>は、自分たちが後にした<大いなる島>から運んできた小枝の束に火をつけた。彼らのかつてのリーダーだった<古の知恵>が最後の別れの前に三つの束を集めたものの一つを取りだしたのだ。一つは海を越えた後、自分たちが最初にたどりつく安全な場所で点すもの。二つ目は、最初の谷間の里で点すもの。三つ目は定住の地を定めたあかつきに点すものだという。彼女は言葉を続けて「ここまできてはじめて、私たちは海を越えたと言えるだろう」と。それには全員が吹きだしたという。

<海辺の渡り>を果たした一族は、もう一度<大海の里>を見出すのだが、そこもまた去らねばならなかった。民は<果てしない山並み>にそって南の道をたどる。物語はこのように語られていくのだが、続きは、是非、本書をお読みくださればと思う。ネイティブアメリカンたちが、ベーリング陸橋を渡ったモンゴロイドの子孫という説が有力視されているというのは、ロード・レヴィ=ストロース part1 『月の裏側』 堆積丘としての日本でご紹介しておいたのだが、この著者の祖父は、<海辺の渡り>の一節の舞台をシベリア本土からサハリン、クリル(千島)列島、カムチャッカ半島にかけての一帯と考えていたし、著者も氷河期に出現したユーラシア大陸と南北アメリカ大陸を結ぶベーリング陸橋ではないかと考えるようになったという。それが本書の邦題『一万年の旅路』のいわれとなっているのであるが、原題は”The Walking People”であり、海を渡る民にたいして陸を歩いて移動する民のことを指している。海を渡る民もあったということは指摘しておいていいだろう。僕は、歴史的な移動経路よりも、この旅によってこの民が勝ち得た知恵の方にはるかに強く惹かれる。それについて少し書いてみたい。

ポーラ・アンダ―ウッド(1932-2000)
『知恵の三つ編み』 星川淳 訳

ポーラ・アンダ―ウッドは『知恵の三つ編み』のなかで、この『一万年の旅路』にも掲載されている狼の話を述べている。この著書では、学びとはどのようなものかが具体的に示されているのである。「さて、兄弟たちに聞く、さて、わが姉妹たちに聞く、狼の代弁はだれがする?」一族の数が増え、そこの民は、よその土地に引っ越さざるを得なくなる。彼らはすべての若者の話も聞き、移動先に決まった地は、狼の大群の中つ地であった。その若者たちの中に、少年の頃から狼と心を通わせることができた「狼の兄弟」と呼ばれる若者はいなかった。彼は民の地に戻ると口を極めて反対したが、一族は耳をかさなかった。しかし、やがて、彼らは気づいた。狼と共存することは不可能であり、彼ら全てを狩ることは命を取る民に成り下がることであり、一族そのものが変わり果ててしまうだろうと。彼の忠告を聞いていれば、今ここで生活するほどの労力はいらなかっただろう。二度と再び、エネルギーを得ようとして、得るエネルギーよりも多くのものを失うことがないように。「こうして、一族は新しい場所なり、新しい可能性の一つについて、そこを流れるエネルギーを秤にかけ、どれだけなら十分で、どれだけなら過剰かを吟味する」という教訓を二度と忘れなかったと語られている。

この『狼』の物語を著者が聞いたのは、3歳の時だった。「このお話しを聞いて、なにが頭に浮かぶ?」と父親は尋ねる。『狼』の物語に限らず、そのお話から何かを学ぼうとすれば、その話を父親に何度も歌ってもらうのである。『狼』の話から、父親がうなずく最後の学びが得られたのは、17歳の時だった。それは単なる論理を超えたシンボル学習の本質でもあったという。シンボル形式の哲学――。本物の学びの物語にどれだけ豊かな意味が、どんな形で含まれているか、ようやく理解できるようになった。頭の中でシンボルを探す。狼、月、森‥‥。月と狼と火との関係を見ていると三つの面を持つ形が見える。「狼―火―少年、それぞれが互いに向かって心を開いている。狼と少年は火を理解しようとして、火の本質に暖められる」。「ほかの狼たちは月の本質を探って月の姿にそのかなたにある現実を見る」。それぞれのイメージが、<いのちの輪>のなかで沢山の三角形の頂点をなしている。父は言う、「その同じ火、その同じ反映のおかげで、私たちの理解への欲求が生まれ、火のリアリティ、つまり宇宙を流れるその本質を、自分の中へ取り入れたいと願う」と。娘は気づく、「兄弟の顔にその反映を見て、かなたの現実を理解しようとする本性は、狼も人間も同じだわ。つまり、理解を求めるということにおいて、狼と少年も兄弟なわけ」。「これが一族の理解の基盤なんだわ。輪の中に三角形がたくさん。いのちといのちが向き合って、その二人が見つめる現実があって、お互いどうしの関係がある」と。ポーラ・アンダ―ウッドは「学びの物語」が用意しているものは答えではなく、問いを生み出すための仕掛けだという。そうして、それは、例えば、六の法則に結びつけられる。形をとったすべての現象について少なくとも六通りの説明を考え出すことだ。問題提起のための起爆剤――もし、いまここと違う時間と場所だったら、どんな答えになるだろうかと。

父は、娘が物心つかないうちから鍛えた。『一万年の旅路』の「はじめに」からご紹介してみよう。娘は、自分が見ていたものから別の方向へと体の向きを変えられ、それまで見えていたものが何かを言ってごらんと言われたという。これを何度もやっていると、人によっては、その時見ている全てを頭に焼きつけ、脳内写真のようなイメージを再現できるコツがつかめるようになるという。父は娘が学ぶ能力の兆しがあることが分かると物語の断片を語りはじめたが、物語全体を学ぶには完璧な注意力をもって聞くことが要求された。例えば、一つのことに一昼夜意識を集中して目をさましていること、他の歌や詩などを暗記する力、それらの内容への理解の力などが必要とされた。そういった能力が認められると父は歴史の全体を語り聞かせ始めた。一時に少しずつ理解を試しながらである。どこか一節を憶えると、聞かせてもらったのとは別な形でそれを繰り返すように催促される。自分が何かを憶えたなどとは性急に思い込んではいけないということを、何かを聞くことと理解することとは別のことだと教えられた。一つの部分を丸ごと父の前で語れるようになった時、三つのちがった形で三回語るようにと求められた。相手の知性への語り、あるいはイメージとしての語り、そして、その混ざり合ったものとして。現代英語でも語り直すことのできる完璧な理解を要求された。ここに語りの文化の伝承の仕方の一端が明らかにされるのである。多分、父親から彼女が学んだ口承史は歌の形に近いものだったろうと推測されるのだけれど、本書『一万年の旅路』はリニアーな英語の散文で表現されているようだ。

ポーラ・アンダ―ウッド、星川 淳 共著
『小さい国の大いなる知恵』

ポーラ・アンダ―ウッドは、1933年ロサンジェルスに生まれる。アメリカ先住民の政治指導者の長い系譜の中にあった。彼女と父親とはイロコイ族とは離れて、ロサンジェルスで、彼女のいう、たった二人だけのコミュニティーを持っていた。国際関係学を学んだ後、ワシントンで35年間、合衆国議会、国際通貨基金などの活動に従事し、「女性と法律研究所」、「インディアンの機会保証を支援するアメリカ人協会」、「世界先住民科学ネットワーク」などの組織にかかわっている。翻訳した星川淳(ほしかわ じゅん)さんが出会った時には、教師や会社重役たちを相手に「学び」のためのワークショップを開催していたという。

本書の訳者である星川 淳さんには、お会いしたことがないなのだけれど、僕の若い頃からなんとなくお世話になっているという感じの人だ。ちょうど、時々、町に出ると話したこともないのだけれど、バッタリとよく出会う人に似ている。だいたい、この人の訳書との出会いは、バグワン・シュリ・ラージニーシの『存在の詩(うた)』だった。懐かしい人もいるのではないだろうか。さすがに、今はダイナミック瞑想はされていないと思うけれど。その後、グルジェフの『注目すべき人々との出会い』を訳されていて、これには、ちょっと驚いた。それにラヴロックの『ガイアの時代』など、要所要所の本との出会いの中で翻訳者として顔をのぞかせる人だ。『屋久島の時間』や『ベーリンジアの記憶』などの沢山の著書もあるし、グリーンピースジャパンの活動などもされてきたようである。

ポーラ・アンダ―ウッドと星川さんとの共著である『小さい国の大いなる知恵』には、彼女の祖父の祖母の祖父から伝えられたという『フランクリンとスケンドナ』の伝承があった。ネイティブアメリカンであるスケンドナとベンジャミン・フランクリンを巡る友情の物語だった。そこにはフランス軍と戦うジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンなども登場する。アメリカ独立戦争に先立つフランス・インディアン戦争においてオハイオ川流域のイロコイ族が共同して戦ったのである。

最初の五部族によるイロコイ連邦は、後に六部族となるのだが、部族連合による連邦国家となったのが、17世紀というのは前に述べた。その基礎は11世紀に成立したとされている。五部族は連邦の末永い存続の象徴としてホワイトパインを選び、その根の下に戦闘用のマサカリを埋め、互いに二度と戦をしないことを誓った。主な決定は全て、七世代の後の子孫への影響まで配慮されたという。確かに、ここまでの熟慮がなければ、未来に破綻をまねくようなことも起きるだろう。どこの国とはいわないけれど‥‥。彼らの話し合いは、徹底した平等主義で、先の口承史の中でも語られていることだが、母権性社会でもあり、話し合いにおいて男女の差別はない。その平等主義は、部族間においても同様だったであろう。詳しくは『小さい国の大いなる知恵』第二部の「火守と兄と弟と」をお読みくださればと思う。イロコイ連邦に通じていたベンジャミン・フランクリンは、そのようなイロコイ連邦のあり方を手本にして1754年のオルバニー連合案を作成したと言われ、この案が後のニューヨーク植民地(後に州)憲法の下地となり、13の植民地が団結する連合規約に繋がったというのだ。それは、イロコイの平和法と合衆国の憲法とを一本の糸で結びつけるものだという。ネイティブアメリカンの側から見たアメリカ建国史を考えてみることは意義深いことではないだろうか。

さて、もう一度『一万年の旅路』に戻ろう。著者のポーラ・アンダーウッドは、巻末の補遺の中で、この物語における「関係」についてこのように述べている。万物の「はじまり」には、ただ「一つのもの」があった。その一つのものとは「万物の本質を宿す女」または「想いの女」であった。最後にクモが現われて「本質」から「想い」の糸を引き出して、それによって宇宙の中のあらゆる個別なものを紡ぎだし、それらを互いに結びつけた。「つながりの糸」である。宇宙は、この三次元のクモの巣で、二本の糸が交差する点が他のあらゆる点と繋がっている。「大いなる命の織物」のどの部分を触れても必ず他の部分に影響を及ぼすが、その影響は遠く離れれば離れるほど薄れていく。ありとあらゆる存在がつながっていて他のあらゆる存在と関係し合っている。全体のあらゆる部分に影響を及ぼすのであれば、私たちは宇宙の中で兄弟姉妹ではないのかと彼女は言う。父は「クモ女」が誰で何かを自分で理解するように娘に語り、「そのイメージの向こうにある現実を読み取ってごらん」と言い、娘に問う。「すべてはつながっているという人もいるし、つながっていないという人もいるが、お前はどう思うのかな?」。

 

『細川俊夫 音楽を語る』 人は花、人は絃、人は時

細川俊夫
聞き手ヴァルター=ヴォルフガング・シュパーラー
『細川俊夫 音楽を語る 静寂と音響、影と光』

人間(ひと)は花だ、とあなたは言う、今日は乙女の胸に挿(かざ)されて、明日は箒にかかって散るという。
人間(ひと)は絃(いと)だとあなたは言う、ある時は優しい調べを奏で、ある時は惨めにとぶ。
人間(ひと)は時計だとあなたは言う、その指針はある時は一時の所にとどまり、ある時は何時のところにもとどまらぬ。

アブラハム・ア・サンタ・クララ
(1644-1709)
マルティン・ハイデッガー
『二つの講演』より 西谷啓治訳

Der Mensch ist eine Blum, sagst du, die heut vorm Busen, morgen vorm Besen.
Der Mensch ist eine Saite(n), sagst du, die bald lieblich klingt, bald elend springt.
Der Mensch ist eine Uhr, sagst du, wo der Zeiger bald steht auf eins, bald auf keins.Abraham a Sancta Clara(1644-1709)

(Martin Heidegger, Gesamtausgabe Bd. 16, Reden und andere Zeugnisse eines Lebensweges)

今回は、『細川俊夫 音楽を語る』が書ける。これは嬉しい。なにせ、広島に住んでるお蔭で、この人の音楽にずっと接してこれた。こんなことはヨーロッパにでも住んでいない限りそう望めそうにない。ところがである、広島は彼の生まれ故郷で、年に数回はその曲が生で聞けるのである。それも選りすぐりのソリストたちがやって来る。こんな贅沢な話はない。『ヒロシマ・声なき声』、『リアの物語』も聞けたし、『ピアノのためのエチュード』、『ヴァイオリン独奏のためのエクスタシス』も聞けた。バーバラ・ハンニガンや児玉桃や庄司紗矢香や田嶋直士やマリアンナ・シリニャンといった人たちがソリストとしてやって来た。贅沢な話である。その音楽世界が生み出される原動力、あるいはそのマトリックスは何か。今回はこれに迫りたいと思っている。しかしである、僕は残念ながら、この本を翻訳された柿木先生のように音楽の素養がない。何せ柿木先生はヨーロッパまで細川さんの演奏会を聞きに行く人らしい。なので、僕は細川さんが折に触れて紹介している影響を受けた思想家や作家たちのことを中心に、時にカリグラフィックに、時に循環しながら、あるいは、ヴァーティカルに、闇と光の相克の中で書きたいと思っている。

細川俊夫は1955年、広島市の東の端、船越に生まれた。実家は海の見える小高い山の麓にあった。年齢は僕の二つ上だ。同世代なんです。だから育った時代も土地もほぼ同じ。父はエンジニアで自動車メーカーでメッキの加工技術の研究をしていた。父方の祖父は建築技師だった。母方の祖父は生け花の師範で、能にも尺八にも造詣があり、書も嗜んだ。ご本人が一番好きだったのは母方の祖母であった。ほとんどなんでも受け入れてしまう自分の中に深いハーモニーを見い出していた人だったという。母は、どんなに多忙であっても週末には、自分のために箏(こと)を弾いていた人だった。父方は理系で母方は芸術系だったのである。四歳の頃からピアノを習い始め、中学校の頃には父の集めたレコードを聞き始めた。付属高校の入試にモチベーションは上がらず、近くの竹藪でカセットを持参してクラッシック音楽を聴いていたという。竹藪というところが興味深い。ここまでは、よくある話なのだけれど、この15,6歳の頃には武満徹の『弦楽のためのレクイエム』や『ノヴェンバー・ステップス』を聞いていたし、小澤征爾がその頃のアイドルだったという。僕にとってのアイドルは山口百恵だったのだが‥‥。大阪万博で音楽と建築の遭遇を体験、クセナキスやシュトックハウゼンらの音楽を聴いた。少年はここである決意をする。東京で学んでいる兄の所へ住み、国立音楽大学付属高校で音楽の勉強を開始するのである。

尹伊桑(1917-1995/ユン・イサン)
『尹伊桑の芸術Vol.6 室内楽曲Ⅰ』CD
「洛陽」「ピース・コンチェルタンテ」他

その頃は日本の現代音楽が花開こうとしていた時期で、武満徹、湯浅譲二、一柳慧、高橋悠治などが活躍していて、武満の主宰する音楽祭「ミュージック・トゥデイ」などを通じてべリオ、クセナキス、リゲティー、ブーレーズなどの作曲家の作品を聴けたのだという。だが、現代音楽を志そうとしていた青年にとって日本の音楽教育は保守的過ぎた。海外で学びたいという思いが疼きはじめるのだ。そこに韓国生まれの作曲家・尹伊桑(ユン・イサン)が東京での演奏会にやって来る。会場の渋谷公会堂は、身辺警護のための警官がうようよいて異様な雰囲気に包まれていたという。その時の気持ちを細川さんは自らのエッセイにこう書いている。「壮大な音の世界が、強い緊張感をもって流動しぶつかりあう。しかもその根底には、深い悲しみの歌があった。ぼくはとても感動して、もしできるならば、このすばらしい作曲家に作曲を学びたいという夢を持った(『魂のランドスケープ』)。」そして、当時、東京で学んでいた作曲家・入野義郎に手紙を書いてもらって、尹の住むベルリンへ渡った。いよいよ待望の一歩を踏み出したのである。1976年、20歳の時だった。

尹伊桑(ユン・イサン)は細川さんにとって第二の父親のような存在になる。本書の対談のお相手であるシュパーラー氏は、かつて、そのアシスタントをしていたこともある、尹伊桑の研究者だった。尹の音楽は、さながらカリグラフィーのようであった。時に屈曲し、時にヴァーティカルに(垂直に)運ぶ筆の線。尹は自身の音楽について武満徹との対談でこのように語っている。「‥‥ひとつの音というものは常に自身の活力をグングン伸ばしながら無限に先へ行きたがるものなんだと、それが音の本性であり、本能なんだという思想、感覚で書いています‥‥(『歌の翼、言葉の杖』)。」そして、知的で概念的な音楽ではなく「言葉以外の――音によってある世界を動かす音楽を目指したい(同上)」という。音を分けて、重ね繋げるヨーロッパの音楽とは異なる自分の音楽について、1965年の講演でもこのような趣旨のことを述べている。私たちの所では、音は既に生きている。鳴り始めてから止むまで、どの音も流転する。その音には装飾音、前打音、唸り、グリッサンド(滑走音)、強弱の変化が伴う。それぞれの音の自然な揺れ動きは意識的に線のように形づくられると言うのだ。彼の音楽言語は、論理の結果ではなく、なによりも、出来事そのものの言語だったと細川さんは述べている。その出来事としての言葉とは何か。それを細川さんに教えた人は、長野の日本アルプスの懐にある高森に住み、禅の瞑想もし、祈りの生活を行うドミニコ会の修道僧だった。

押田成人(1922-2003)
『祈りの姿に無の風が吹く』

クレッソンの花を摘んだ。これが今朝の「こと」だと押田成人(おしだ しげと)さんは書いている(『祈りの姿に無の風が吹く』)。この人がその修道僧である。そこは奥湯河原だった。ホテルに泊まっていると監禁されているようだった。それで、散歩に出て、それは起こった。「そこ」に起こったモノ(霊・物)コト(言・事)。その「こと」とは、花に「言祝がれ」、花に「施された」コトなのである。人は花になる。それが出来事だった。この「こと」は深い。コトを分割したとき「ことわり(理り)」が生まれる。それが概念=言葉になって「ことのは」となる。しかし、わってはいけないものもある。言葉は取り決められた記号である。何かのメッセージとしての記号。押田さんは、言葉には三種類あるという。あいさつのようなオウム言葉、概念のような理念言葉、それより、もっと深い言葉、それがコト言葉だった。細川さんはこう述べている。「出来事」は沈黙という根底に支えられていて、沈黙そのものが出来事となる時、熟考と論理によって沈黙が破られる。その時、この根底から力が生まれて言葉や響きの領域、つまり音楽の領域に達するのだ。そこには沈黙とエネルギーの循環運動がある。

1982年にはダルムシュタットで、ノーノに師事したへルムート・ラッヘンマンと出会い京都学派の(つまり西田幾多郎の弟子筋にあたる)西谷啓治(にしたに けいじ)の著作を教えられる。その後、イギリス出身の作曲家ブライアン・ファーニホウやスイス出身の作曲家クラウス・フーバーに出会い、彼らのもとで学ぶことになった。ベルリン芸術大学からフライブルク音楽大学に移るのである。フーバーは細川さんにもっと日本のことを学べと言ったという。この頃、細川さんは『線』という作品に取り組み始める。『線Ⅰ』はフルートのための作品だった。この作品はヨーロッパ的ではあっても書(カリグラフィー)の理想に由来するという。こうなると書とは何かを問わなければならない。

一休宗純(1394-1481)
七言絶句『峯松』室町時代 東京国立博物館

後に、細川さんは、イエズス会士の門脇佳吉(かどわき かきち)神父にこんなことを教えられたという。この人は大森曹玄禅師の弟子で、この禅師は横山天啓という人から書法を習い、門脇神父に伝えた。細川さんは、こう述べている。起筆は混沌のうちにある。書く行為は混沌に秩序を与えることである。書き起こすことは、書が自らを開くことであり、混沌開基と呼ばれると。混沌開基は、もともと空海の言葉らしいのだが、門脇神父は、細川さんとの対談も収録している『魂よ目覚めよ』で、こう述べている。筆を持った手を最も高く掲げた空間(空中)の一点、そこから紙に向かい、書き終えてもとのその一点に戻る。墨の線は、この一点の独立しながら連続する、つまり、不連続の連続する線であるというのだ。これは、いささかコト割り過ぎてる。それはともかく、細川さんは、それが運動の見える部分であり、そこには目に見えない部分もある。それは、自分の音楽において響と沈黙の関係に等しいという。音や響の間にある沈黙である。雪上加霜しよう。混沌とした意識と空間から、私が筆を紙の上に走らせる時、手は線を生み、線は墨を追い、墨は線を追う。筆も走り、墨も走り、私の視線=私も走る。さて、竿頭一歩進めて、走らないものは何か。まど・みちおさん流に言えば、走るものと走らないものが、まぶしいようにぴったりな世界。ここに出来事、「コト」がある。そこから響の消息が生まれるのである。響は沈黙から生まれて、再び沈黙へと回帰するという。ではどのように。

細川さんは作曲の師であるフーバーの勧めもあって一学期間、休暇をとって一度日本に帰国している。1985年のことだ。国立劇場の委嘱作品『Tokyo 1985』の演奏のためだった。雅楽と30人近い僧とによる50分にわたる作品だったが、ご本人言葉を借りれば、「辛辣に過ぎた」らしい。ベートーヴェンの第九シンフォニーの「歓喜に寄せる頌歌」を変奏曲にしたもので、この時期、少しばかり政治化していて批判的でありたいと思っていたのだという。ちょっと、尖っていたのだ。だが、この雅楽アンサンブルの中に笙奏者の宮田まゆみさんがいた。これは大きな出会いとなった。笙(しょう)は17本の細い竹を束ねて、木を加工した胴部にさしこみ、その一部から息を吹き込んで、竹の下の部分に取り付けられた金属のリードを振動させて音を出す。小さなパイプオルガンと言っていい。息を吐いても吸っても音が出る、休みなく響きが立ちあがる楽器だった。細川さんが「循環する時間」と呼ぶ呼気と吸気の技法が始まったという。それは1986年の笙とハープのための『うつろひ』に結実した。そういえば、尺八にも龍笛にも木管や金管楽器にも穴があり、弦楽器の胴部にも空洞がある。

細川俊夫作品集 音宇宙ⅠCD
『うつろひ』
「うつろひ」「恋歌」「線Ⅰ」「断層」を収録
表紙は宮脇愛子の立体作品「うつろひ」

先ほどご紹介した押田成人さんは幼稚園の子供たちに穴の話をしてあげるそうだ。鼻の穴があるでしょ。鼻に穴がないと死んじゃうよね。耳に穴があるでしょ。穴がないと何も聞こえないよね。お尻にも穴があるよね。穴がないと詰まっちゃうでしょ。子供たちは目をぱちくりさせて聞いているらしい。でも、さすがに神父さんだ。こんな話もちゃんと付け加えておくのを忘れない。天国にも穴があるんだよ。穴がないと天国に入れないでしょ(『祈りの姿に無の風が吹く』)。こんな人は大好きだ。生きておられるうちに出会えていたら、きっと色々なことを教えてもらえただろう。混沌に穴をあけたら死んじゃったのは、中国神話の神様なのだけれど、『荘子』に出て来る物語で、無理に道理をつけることを「混沌に目鼻をつける」というようになった。でも、多分、押田さんが言いたい穴というのは、こちらと向こうをつなぐ通路なのではないだろうか。意識だけの理念言葉の世界に花がパーッと穴を開けてくれる。全く意識だけの中に穴が開く。ずっと奥から風が渡って来る。そこに誘われる時、いぶき(息吹)が生まれる。コト言葉は、その時の響を持っていると押田神父は書いている。それは存在全体に響く。そう、息吹の音存在の音だ。響は穴から生まれる。穴は沈黙である。では、意識の穴とは本質的に何なのだろうか。ちなみに、「うつろふ」は向うの世界から魂(たま)のような存在がウツ(虚)の中に移り、そこで成長してウツツ(現)の世界にみあれすることを指す(折口信夫『霊魂の話』)。うつろな空間に入り、そこから出る動作が、「うつる」であり「うつろひ」である。

曼荼羅をテーマにした密教の声明と雅楽のアンサンブル作品『観想の種子』を経て、1986年にはソプラノとギターのための『恋歌Ⅰ』が作曲されている。水平に張った絃に垂直に指がおりる。そうして、響が生まれ、音が生まれる。水平な時間の連なりの上に永遠という楔が垂直に撃ち込まれる。それが「いま、ここ」だ。それが十字架の意味の一つだと誰か言った。人は絃(いと)になって一瞬一瞬を奏でる。永遠のように垂直な山が水平の時間の上を動くことだってある。青山常運歩(道元『正法眼蔵』)。細川さんはこう述べている。「‥‥僕にとっては音というものは垂直的なものだという気がします。それから水平的に音楽を聴くのではなくて、垂直的に聴く、その一瞬一瞬に永遠があると言いますか、最も深い音楽的な出会いがあるということです。それが垂直的に螺旋的に来るというイメージになっているのです。(門脇佳吉との対談『魂よ、目覚めよ』)」

雪舟(1420-1506)
『破墨山水図』東京国立博物館

そして、1987年フライブルク音楽大学を卒業した細川さんは東京に住居を移した。30歳を少し過ぎた頃だった。1989年には秋吉台現代音楽祭が始まる。1993年からはダルムシュタット国際現代音楽祭と交換事業が始まった。1994年から武生国際音楽祭でコンポーザー・イン・レジデンスを務め、2001年から同音楽祭の音楽監督に就任する。1994年には、ドイツのマインツに住居を得ることができ、日本とヨーロッパを往復するようになった。2006年から2007年ベルリン高等研究所に招かれる。この本に掲載されたシュパーラー氏との対話は2008年から3年にわたってこの研究所の図書室でなされたようだ。

1987年、オーケストラのための『遠景Ⅰ』、ヴァイオリン独奏と二つの小さな弦楽合奏グループのための『時の彼方で‥‥』が作曲されている。どちらの曲も雪舟などの水墨画や禅画に由来するという。雪舟の『山水長巻』は僕にとって特殊な絵だ。他の水墨画に比べて空間感が異様に際立つからだ。これはあまり例を見ない。それは、四季の風景、時をテーマにした作品でもある。でも、細川さんが言っているのはこの『破墨山水図』の方だろう。その後景の空漠とした空間が「時の彼方」だと細川さんはいう。前景には岩や苫屋(とまや)や水の流れなどが描かれているが縁は霞んでいる。尹伊桑(ユン・イサン)の音のように堅固な核のある形態があって影を投げかけるが、その輪郭は定かでなく、陰翳を持った対象に背景がともに現われる。絶えず線が引かれ続けるが、その縁は、ほとんど気づかないくらい背景と溶け合っているという。それは、書に墨の滲(にじ)みや擦(かす)れが伴うのに似ているし、マーク・ロスコの絵画に見られる微妙に異なる色面のズレを思い出させもする。これは細川俊夫の音楽の特質でもあるのだ。彼は速いテンポの曲が書けないという。速くしてしまえば、この滲(にじ)みや擦(かす)れは聴き手には気づかれなくなってしまうだろう。尺八の音に見られるような風の息や空気のざわめきのような音、琵琶にある棹に微妙にふれる「さわり」の糸から出るざわつくような音を思い出していただければよい。それは、自然の中に存在する竹藪のざわめきや海鳴りの音にも似る。尺八や琵琶というと武満徹の世界を思い浮かべる人も多いと思うけれど、武満さんも細川さんに大きな影響を与えた人だ。武満さんについては別の機会に改めてご紹介したいと思っている。細川さんの1996年の二人の打楽器奏者のための『風の姿』、翌年のバス・フルートのための『息の歌』でも風景が発想の源になっていた。そして、風景の中への旅、彼の音楽は、ゆっくりとだが着実に展開されていく。西行も芭蕉も旅を好んだ、それは旅が好きというような楽観的なものではなかった。とりわけ西行の場合は留まることを知らない無所住の旅でもあったのだ。人は、留まることのない時にもなれるのだ。

西谷啓治(1900-1990)
『西谷啓治著作集』第七巻「神と絶対無」

曲とは無限に流れてゆくエネルギーの一端に過ぎないと細川さんはいう。1997年のヴァイオリンとアンサンブルのための『旅Ⅰ』は息の曲、循環する時間の曲である。そこにあるのは死に至るまで息を吐くことであり、そこから息を吸うことだった。しかし、奏者は大変かもしれない。一つの呼吸は死と生を含んでいる。どの音も呼吸を含んでいて生と死を含んでいるのだ。当時、日本の多くの芸術家は新しい芸術を求めながらアメリカやヨーロッパの影響に従属していた。細川さんが日本のことについて語ると日本の多くの知識人に奇異の目で見られたという。この頃、短期間に門脇佳吉、押田成人、井上洋治といった神父さんたちに出会っている。細川さんにとってもヨーロッパの伝統を学ぶことは重要だった。それにはキリスト教を学ぶことが必須だったという。キリスト教とキリスト教音楽はヨーロッパの音楽の重要な一部を構成するからだ。1995年の作品『庭の歌』以降、しばしば庭をテーマにした作品を作曲している。武満徹の雅楽オーケストラのための『秋庭歌』の影響もあったという。この曲は最近再演された。この「庭」の背後には「花」や「開花」というイメージが伴っているという。花は宇宙に向かって静かに爆発する。だが、生け花は切り取られることによって生けられる。死がすでに背後にあり、その死が花の美しさ儚さをいっそう引き立たせる。それを京都学派の西谷啓治のエッセイから知ったという。この人は西田幾多郎の弟子にあたるけれどドイツ神秘主義の研究でも知られる人である。

ドイツにはドイツ神秘主義という潮流がある。冒頭の詩の作者、アブラハム・ア・サンタ・クララ(1664-1709)は、ハイデッガーの生まれ故郷であるドイツのメスキルヒ近くで生まれた。ライプニッツやバッハの時代に生きたアウグスティヌス洗足会の僧で、後にウィーンの宮廷説教師となった。ハイデッガーは彼の語りや文章を愛していたようだ。1964年、自分の故郷メスキルヒでの講演で、このアブラハム・ア・サンタ・クララのことを紹介したのである。その3年の時を隔てた二つの講演を西谷啓治さんが訳していた。その文章はなんと鈴木大拙監修、西谷啓治編集による講座『禅』第一巻の巻末に収録されているのである。アブラハム・ア・サンタ・クララは、ある日こう述べたと伝えられている。「人間―この身の丈五尺の無」と。

しかし、もっと驚くべきことだが、13世紀半ばにドイツに生まれて、活躍したドミニコ会士マイスター・エックハルト(1260頃-1328)は「神は無である」と述べたのである。この獅子吼の巨大な一撃は、ニコラウス・クザーヌスを貫き、ヤコブ・ベーメを共振させ、ベーメを通じてヘーゲルにまで達した。ドイツ観念論の礎のひとつとなったと言ってもよいのではないか。西谷さんはこう述べている。「あらゆる相を絶した神の本質を無と呼び、その神性の無と全き一となることによって、魂は自己に帰って絶対の自由を得る‥‥(『宗教とは何か』)」。この無は勿論、神は無いという無神論を指してはいないし、虚無的なニヒリズムの言でもない。では、いったいなんなのだろうか。『西谷啓治著作集』第七巻「神と絶対無」には、このエックハルトについて詳しく書かれていて、実は西田幾多郎の思想を知る上でもなかなか貴重なテキストになっている。それは、人間の霊の自己自身への離脱とその霊への神の突破というプロセスを経る。それは霊「ひとり」の働きと神「ひとり」の働きとが対立し矛盾しつつも自己同一化するのだ。これは、時間の流れと永遠とが矛盾しながらも同一化するのに比較し得るだろう。「神は唯神ひとり、霊は唯霊ひとりとして、夫々絶対に自己同一的であり、絶対の二でありながら、同時にその二が能作的に絶対の一なのである。それ故に‥‥全き一の唯一否定(絶対無)、全き一の唯一肯定(絶対一)などの諸契機が、動即静の渦巻く円環をなして飜転相入する」と西谷さんは書いている。微細なコト割りが為されているのだが、そこには循環するエネルギーの上昇運動としての深まりが想定されているのである。続きは、またいつかご紹介したい。ここで、エックハルト自身の言を見ておこう。

『キリスト教神秘主義著作集6 
エックハルトⅠ』

エックハルトはこのように説教の中で述べている。「‥‥聖パウロは『神はいかなるものも近寄れない光の中に住んでいられる』という、そして、それは純粋な一自体である。それゆえ、人間は殺されて、まったく死ななければならない。そして、自分自身において無となり、すべての同等性をまったく捨てて、いかなるものにも似てはならない、そうするなら、その人は神に真に等しくなる。なぜなら神は唯一無二で、いかなるものにも似ないのが、その特性、その本性であるからである(『ドイツ説教集』植田兼義 訳)。」死とは、鈴木大拙のいう大死一番であろうか。その特性とは「クレッソンの花」である。それは何故なしに咲く。だが、「それ」と言い止めたら的はずれ。人々が宗教の宗派や教派を超えた普遍宗教を意識し始めた時、禅とエックハルトの思想との類似が注目されるようになった。例えば、そのような宗教学者にルドルフ・オットーがいるし、心理学者のユングもそうであった。細川さんが、ドイツと日本の間にあって、自身の根本を問うた時、禅やエックハルトの思想を言祝ぐ西谷啓治にひかれて行ったのは、ごく自然なことだったのではないだろうか。

自分はヨーロッパと日本の間に立っている。日本の若い作曲家は、日本の伝統にほとんど関心がない。多くのアジア人は自分の伝統をほとんど失っており、同時にヨーロッパの音楽を極めて表面的にしか知らないと細川さんはいう。自分の作品は、日本よりヨーロッパで多く取り上げられ、演奏会も沢山あって、そこでは自分は幸せだが、一方でアジアの音楽と思想を理解する人は、ごくわずかしかいない。時折自分は思う、ここでいったい何をしているのだろうかと。自分は一匹オオカミで孤独だという。ヨーロッパの音楽は東洋のものとは異なっている。細川さんは、こう述べている。「ヨーロッパの音楽において人は、ある曲をどのように作曲しているか、ある思想をどのように表現しているか、あるいはある世界観をどのように表しているかを反省します。それに対して、これら俳句や生け花のような芸事においては、ある瞬間を掴むことだけが重要なのです。」

ハイデッガーは、先の二つの講演のうちの一つ『故郷の夕べに寄せる挨拶』で、故郷の人々にこう語った。「将来」は、私たちを否応なく、見たこともない誘惑的で刺激的な、時に楽しく、ためになる圏域へと引きずり込む。しかし、これらの圏域は、けっして人にとって永続的で信頼のおける居場所とはならない。これらに引きずられて人間は、住み慣れた地を離れて、住みつけぬものの中に移転してゆく。かつて、故郷と呼ばれたものが解体し、崩壊せんとする危機がせまっている。我々は、いかにしてそれを防ぐことができるのかと彼は問い、そしてこう述べた。「それはただ、次のようにしてのみなされることができます。即ち、我々が住み慣れたもののもつ、恵みを与えたり癒したり保護したりすることのできるもろもろの力を、絶えず呼び覚ますということ、そして、住み慣れたものの力の源泉を常に繰り返し流出せしめ、その流れと流入とに正しい道をあてがうということであります(『二つの講演』 西谷啓治訳)。」細川俊夫はたえず呼び覚ましてきたのである。彼の孤独は、故郷を喪失した私たちの孤独でもある。彼は音楽を通して繰り返しその源泉からある力を流失せしめるのだ。彼の音楽は絶えず「海」のような世界や「クレッソンの花」の世界を指し示し続けている。それは、きっと我々の故郷でもあるのではないだろうか。

さて、本書では、2000年以降の作品、とりわけオペラについても語られている。「リアの物語」「松風」「班女」「海、静かな海」に続いて2018年には新しいオペラの初演が決定しているようである。だが、それらをご紹介するのは、またの機会とさせていただきたい。この文章を書いた時、ひとつだけ疑問が残った。それは、細川さんご自身がよく言うように彼の音楽が何故暗く、色がないのかということである。私は絵を描く人間なので、たいてい作家の使う色がご本人の体質や趣味の問題であることはよく承知しているつもりなのであるが、この間、コペンハーゲンに住むピアニスト、マリアンナ・シリニャンさんが来広して、細川さんのピアノのための『エチュード』を演奏したのだが、それには色があったのである。この人は、僕がラジオで一目ぼれならぬ一聞きぼれしたピアニストで、素晴らしい演奏だったのはいうまでもないのだが、演奏会の後のトークでも会場の方からそういう感想が聞かれていた。実は色を含む音楽なのかもしれない。色は光と闇の相克から生まれるらしい。

 

では、細川俊夫の代表作の一つ『ランドスケープⅤ』をお楽しみください。

 

ソシュールの「アナグラム」とロマン・ヤコブソンの「音素から詩へ」

フェルディナン・ド・ソシュール (1857-1913)

フェルディナン・ド・ソシュール
(1857-1913)

ソシュール、ソルューシ、ルューソシ、ソーシュル。うーんなんだか変だけど面白い。そういえば、ソシアルという散髪屋さんが近くにある。関係ないか。言語学者の間では「二人のソシュール」という言葉があるらしい。一人は構造主義の元祖されるソシュール。もう一人は神話・伝説の研究者、そしてアナグラムと格闘した晩年のソシュールである。勿論、同一人物のことだ。

1878年に印欧祖語に関する注目すべき論文を発表。1880年ライプツィヒ大学にサンスクリット語の研究論文を提出し博士号を取り、1881年からパリ高等研究院でゴート語と古代高地ドイツ語の講師となった。24歳だった。1891年にパリから故郷のジュネーヴに帰ったフェルディナン・ド・ソシュールは、1913年、55歳で亡くなる前年までジュネーヴ大学で教鞭を執っていた。一般言語学の教授には1906年に就任するのだが、やむなく引き受けたと言われている。ソシュールの研究で知られる丸山圭三郎さんによれば、1894年頃からソシュールは学術論文はおろか友人への手紙でさえ書かなくなっていたようだ。この謎の沈黙に加えて、さらに三つの謎が残されている。「言語学とは直接関係のないニーベルンゲンの詩(うた)といったテーマに没頭したのは何故か。」「ロマンド地方におけるゴルゴンド族の民俗学的研究に惹かれたのは何故か。」「そして、アナグラムと呼んだ詩の謎解きにのめり込んだのは何故か。」丸山圭三郎さんの『言葉と無意識』からこの間の事情をまとめてみよう。

彼は弟子のメイエに手紙でこのように書いている。「‥‥言葉の事象に関してまともに意味の通ずるようなぐあいに何か書こうとするのは、ただの十行だけでもまず困難なことで、これもつくづく嫌気がさします。‥‥そしてまた同時に、結局のところ言語学がなし得ることの大きな空しさもわかってきました。‥‥しかし、こういったことは私の意に反して一冊の書物になるでしょう。その書物のなかで、感動もなく、何故言語学で用いられている述語の一つたりとも私には意味があると思われないかを説明するでしょう。正直なところ、そのあとになってはじめて、私の仕事を放り出してあるところから、また始めることができるでしょう。(丸山圭三郎『言葉と無意識』)」自分の意に反する一冊の書物とは1893年頃から書き始められた手稿 9、11、12と言われているが、それも未完のままであったらしいのである。この幻の草稿を「自分でも二度と見つけられないだろうほど遠く離しておいた(同上)」のは何故か。その後に続いたニーベルンゲンの詩やアナグラムの研究は沈黙と絶望の結果なのか原因なのか、謎は深まるばかりだと丸山さんは書いている。

丸山圭三郎『言語と無意識』

丸山圭三郎『言語と無意識』

だが、結果的にソシュールはジュネーヴ大学でこの戦慄すべき一般言語学の教授としての職務を引き受けざるを得なくなるのだった。それは現代言語学と構造主義の祖としてのソシュールが1907年、1908-09年、1910-11年に行ったあの一般言語学講義として結実するのである。そして、翌年1912年には病に倒れてしまう。このソシュールの言語理論は、ロマン・ヤコブソンを中心とするプラハ言語学派やコペンハーゲン学派などに大きな影響を与えるとともに、レヴィ=ストロースの文化人類学、メルロ=ポンティの哲学、ロラン・バルトの文学、ジャック・ラカン精神分析学へと波及し、ジュリア・クリステヴァにも影響を与えた。「実体概念から関係概念へ」というパラダイム変換を成し遂げるトリガーとなったのはよく知られている。しかし、そのような人であるのに、いやいや、そのような人であるからこそ、古代インドの王女とマリー・アントワネットと火星訪問者の三つの経験を同時に生きたエレーヌ・スミスの火星語の分析に没頭するのである。

ジュネーヴのとある商店に勤めていたエレーヌ・スミスはフルールノワの家の居間で、入門希望者の何人かに交霊術の「実践上演」をしていた。精霊とのコンタクトは、彼女にテーブルの上に指でメッセージを書かせ、ペンを持たせて自動筆記させ、あるいは、直にその口から言葉を漏れ出させた。フルールノワか彼女の友人がそれを書きとめた。彼女は、ある日、サンスクリット語を話したかと思うと、翌日は火星語だったりしたのである。火星語のような異言現象は、それ以前にはスウェーデンボルグ(スヴェーデンヴォリ)においてつとに有名だったが、結構な歴史を持っていて、そう珍しいことではないらしい。ただし、エレーヌ・スミスの場合は特殊なケースだった。その交霊術の場で、その言葉を筆記していたのはフロイトの弟子であり、ジュネーヴ大学の心理学教授であるテオドール・フルールノワだったのである。

マリナ・ヤグェーロ『言語の夢想者-十七世紀普遍言語から現代SFまで』 他の邦訳に『間違いだらけの言語論―言語偏見カタログ』

マリナ・ヤグェーロ『言語の夢想者-十七世紀普遍言語から現代SFまで』

マリナ・ヤグェーロの『言語の夢想者』を読んだ際は、あまりピンとこなかったのだけれど、丸山さんのソシュールの沈黙と火星語の分析という記述に出会った時に、この本のことを思いだした。ヤグェーロはパリ大学の言語学部門で教職についていて、父方はポーランド貴族の出で、母はロシア人であった。言語と社会との関係を一貫して研究してきた人だ。この本の中では、火星言語などの異言語とライプニッツなどが探究した普遍言語のことなどが紹介されている。例えば、エレーヌ・スミスの語るサンスクリットもどきはソシュールがかなりの時間かけて調べていて、彼女の発音にはフランス語訛りがあったものの、ちゃんとサンスクリット語を含んでいたらしく、火星語の方も幼児的な面を見せながらも、かなり精緻で首尾一貫したものだったらしい。ソシュールはフルールノワの求めに応じてそれらを調べたのである。

ヤグェーロは、異言が個人的でその場限りの現象ではあっても、明らかに何かある一般法則が機能しているという。それは、まるで異言発信者が自分の母国語の一番癖になっている音やその組み合わせを本能的に捨てるかのようだと言うのだ。それは、ある言語学者のいう理論に一致していた。幼児期に早くに獲得され、失語症によっても最後に失われるような種類の音があり、それは世界中で使われているような音であったのである。同じ原理が音韻体系の簡略化現象を支配していた。その研究者がロマン・ヤコブソン(ロマーン・ヤーコブソン)だったのである。

ロマン・ヤコブソン、マロン・ヤコブソン、コヤマ・ブロンソン、ヤンマ・コロブソン、ヤブロソン・マン‥、おっ、ヤバイ。ヤコブソンは1896年モスクワに生まれる。1915年からモスクワ言語学サークルに設立に参加し、2年後にオポヤーズ(詩的言語研究会)の創設に参加した。ロシアの政変を逃れて1920年からプラハに移り、1927年にプラハ言語学サークルの創設に参加するが、1939年のナチスの侵攻に伴い1941年にアメリカに渡った。ニューヨークには知識人移民の大きなコミュニティである高等研究自由学院 があった。そこで、彼は文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースと出会い、互いにレクチャーを聞きあうことになるのである。その講義は『音と意味についての六章』として後にまとめられ、序文をレヴィ=ストロースが書いて出版されている。この熱い交流から、構造主義が培われ、思想界に新たな潮流の一つを生む契機にもなった。後にハーバード大学、マサチューセッツ工科大学などで教鞭を執った。

ロマン・ヤコブソン(1896-1982)

ロマン・ヤコブソン(1896-1982)

もともと詩が好きだったヤコブソンは、マラルメの詩的構造などに興味を持っていたし、ロシア・アヴァンギャルドを担った作家たちとは、かなり近しい関係にあった。1910年代の頃、フランスの後期印象派やキュビスムの新しい絵画がロシアに入り、その潮流の後を追うようにロシア未来派の詩人たちは一連の新たな語を創造して世に示し、フィローノフやマレーヴィッチといった新進気鋭の画家たちが登場していた。ヤコブソンは、フレーブニコフやクルチョーヌィフなど詩人の友人を得る一方、画家のマレーヴィッチとも親交を持った。当時、マレーヴィッチは、装飾に落ちいることなく具象を拒否し、絵画空間の中に意味を見出そうとしていて、ヤコブソンの詩における関心事と近しい関係にあった。言葉の音そのものへの純粋な追求の姿勢がマレーヴィッチのそれと重なったのである。二人は、1913年頃から年齢的な差はあったものの親しくなり、1914年にはマレーヴィッチがパリで個展を開き、ヤコブソンがフランス語で解説を書く予定まで立てていたのだが、第一次大戦のために計画は御蔵入りとなった(ヤコブソン『詩学から言語学へ』)。このような青春時代は、彼をして詩的言語一般における音的手法についての研究に向かわせることになるのである。

カジミール・マレーヴィッチ (1878-1935) シュプレマティスム(絶対主義)絵画 『八つの赤い長方形』1915

カジミール・マレーヴィッチ
(1878-1935)
シュプレマティスム(絶対主義)絵画
『八つの赤い長方形』1915

では、レヴィ=ストロースがヤコブソンから受けた影響とはどのようなものであったのだろうか。『音と意味についての六章』にあるレヴィ=ストロースの序文から拾ってみよう。ヤコブソンは、ソシュールがある外在的なデータの存在とその無意識の作用を正確に理解していた点を偉大な功績だと評価していた。ヤコブソンがソシュールから引き継いだ構造言語学は、レヴィ=ストロースに多様な要素に惑わされることなく、ある方法でもってそれらを結びつけることにより、もっと単純で理解しやすい諸関係を考察できること。言語活動の(また、あらゆる象徴体系の)産出においては、精神の無意識の活動が大きな役割を果たしていること。他のあらゆる社会制度と同じように現象の連続性を飛び越えて、話したり考えたりする主体性を脇に置くことによって構造的な「組織原理」に到達できるということを教えたというのだ。より単純な、より理解しやすい諸関係を考察するための基礎になる重要な方法は、各音素(言葉の音の構成要素)のそれぞれの個性を考えるのではなく、その体系における音素の相互対立にあったのだとレヴィ=ストロースは書いている。音素の実在が、その音的個性にあるのではなく、音素が互いに結ぶ対立的、消極的な関連のうちにあるように、民俗学における婚姻規則の表れは諸規則をバラバラに研究するのではなく、互いに対立させることによって浮かび上がってくるのだと述べているのだ。

ロマン・ヤコブソン 『詩学から言語学へ』

ロマン・ヤコブソン
『詩学から言語学へ』

これを具体的に説明する前に、言語コミュニケーションについてヤコブソンが述べている六つの基本要素を見ておきたい。『言語芸術 言語記号 言語の時間』の中でリンダ・ウォーがまとめている内容である。まず、発信者受信者がいる。発信者は話し手、記号化する人、送信者、詩人、作家などであり、受信者は、聞き手、解読者、聴取者、読者などである。発信者と受信者をつなぐにはコードが必要で、それが各言語の文法や語彙である。ソシュールの用語では「体系あるいはラング」と呼ばれている。この語彙に関して、前回のレヴィ=ストロースの『神話論理』で用いた例を繰り返すと、「ジャガーという音節の集まりが、ジャガーという動物に結び付けられるための色々なルールの取り決め」のことだ。それを私たちは、ほとんど無意識に使っている。これがコードにあたる。このラングについては、この後、すぐに補足しておきたい。ヤコブソンの基本要素に戻ろう。ソシュールが「パロール」と呼んだメッセージがある。それは、話された内容や文章などのことである。コンテクストは指示対象と呼ばれていて、メッセージの背景情報になっている。「そこにジャガーがいるよ」と言っても、そこがジャングルなのか動物園なのかはわからない。それを指示している関連情報がコンテクストなのである。最後に、ヤコブソンが接触と呼ぶ発信者と受信者とのあいだの物理的経路と真理的結合がある。物理的経路とは音声とか文字とかのことだ。テレパシーが含まれるのかどうか知らない。そうして、発信者の伝えたい内容が受信者に伝わる。それを真理的結合と呼んでいるのだろう。言語は、コードとメッセージの両方であって、ソシュールが指摘したように認知可能な「記号表現」と「記号内容」とを備えた「ある複雑なものの記号」である。言語コミュニケーションとは話し手と聞き手のあいだの記号交換だという。

ラングは母国語であれば、幼年期に、第二外国語であれば、もっと後になって個人の頭の中に作り上げられる心的な構造である。ある言語には音声の組み合わせ方、語の作り方、語同士の結びつき、語の意味領域などに一定の規則があって、この規則の総体がラングであり、いわば、社会制度のようなものだ。車で道路を走る時の交通ルールのようなものである。そして、丸山さんによれば、このラングは三層構造になっている。一層目は先ほどのフランス語や日本語といったそれぞれの言語のラング。二層目は、それらから一般的な特徴を抜き出した本質的で普遍的なラングである。三層目が重要なのだけれど、ラングを社会制度的な狭い領域に限定せず、社会や文化の総体としてのラングとして捉える認識方法だった(丸山圭三郎『ソシュールの思想』)。

ロマン・ヤコブソン 『音と意味についての六章』原題は s と l の文字が印象的な美しいフランス語である。

ロマン・ヤコブソン
『音と意味についての六章』原題は s と l の文字が印象的な美しいフランス語である。

レヴィ=ストロースの『神話論理』を読んでもらうと、彼がヤコブソンのいう基本要素を踏まえながらも二つのことに注目していたのではないか推測できる。一つは、「言葉は諸体系の体系であり、様々な下部体系を包含する総合コードである」ということだ。それが、レヴィ=ストロースのいう「より単純で、理解しやすい諸体系」の意味であると思われる。さきほど述べたように言語は記号である。リンダ・ウォーによれば、言語記号は、1.それ自体がコード化される、音素、音節、形態素(語根・接辞)、単語といった究極単位。2.例えば、冠詞、名詞、形容詞といった語順の組み合わせ方がコード化される句、節、文。3.そして選択的可能性の組み合わせパターンとしての発話、談話というように階層構造を成している。発話、談話、それ自体はコードに属さないが、例えば英語の発話なら英語のコードにおける選択可能な組み合わせパターンに基づいている。そういう意味でコードと間接的な関係を持っている。だから、あらゆる言語記号がコード化されるわけではない。コードと記号を同一視するのは、ある種の言語学・文学の研究では当然とされるが、それは根拠のないことだと彼女は述べている(「詩的機能と言語の性質」)。ここは、押えておくべきところだろう。それはともかく、ヤコブソンは、言語記号が機械的な集合をなすのではなく、規則に支配されたサブコードの階層を成しているのだという。これが先ほどのソシュールのいうラングの三層構造と密接に関わる部分なのである。構造化への重要な方法論をラングが持ち得えた。このサブコードの内、どれが基本コードかを見分けることは出来ても他のサブコードを排除してしまうのは危険だという(「言語の記号と体系」)。というのも、言葉は人体のように日々新たに作りかえられながら、ある体系を維持しつつも、少しずつ変化しているものであるからだ。変化しているものまで排除する可能性がある。このことは、レヴィ=ストロースが断片的な神話でさえ丁寧に考察の対象としていたことに通じる。それは、彼のいう「神話の階層構造」と「動いてやまない現実としての神話」というイメージとパラレルになっているのである。

ロマン・ヤコブソン 『言語芸術 言語記号 言語の時間』

ロマン・ヤコブソン、リンダ・ウォー 他
『言語芸術 言語記号 言語の時間』

レヴィ=ストロースが注目した二つの内、もう一つは音の問題だった。言葉の究極の要素である音素、つまり母音や子音のそれぞれの構造的な違いや類似を分析しなければならなかったのである。まず、区別する原理が必要だった。そのための強力な手法が二項対立の対であった。例えば、子音の韻律的な特性から d-t、 z-s、 b-p、 v-f などの子音の対は有声・無声のような二項対立として弁別可能となった。母音では音の長-短といった対立特性があったのである。音素の結合によって言葉は生まれる。その最も高度な発現をみせるのは詩においてであることには異論はないだろう。ランボーは『母音』のための頌歌を書き、ヤマコフスキーは子音をテーマとして実験的な詩作を試みている。音素、とりわけ子音の繋がりは潜在的な大系を形づくっていることをヤコブソンは気付くようになる。

彼は、詩の修辞的な技法が言語分析学の立場からみて、意図的で、意識されて使われているものなのかよく尋ねられると書いている(「詩における識閾下の言語パターン」)。それは、確率からいっても他の文学テキストからの比較においても偶然ではありえない。例えば、ボードレールがエドガー・アラン・ポーにおいて、その詩の創造が極めて意識的な手法によることを指摘していたのは有名だ。しかし、ヤコブソンは、ある場合に直感的言語の潜在がそのような意識的検討に先行していて、その基礎をなしているのではないかと考えていた。彼の友人であった詩人のフレーブニコフは自分の詩「きりぎりす」の中に krýlyško(小翼)という意味の単語から作った動詞 krylyškúja(小翼を震わせ) の中に uškúj(海賊船)という言葉がトロイの木馬のように潜んでいることを見つけて喜んだと言う。それは、きりぎりすの方言である konjók(小さな馬)が木馬とのアナロジーとなっているからだ。これらの言葉はロシア語の「鍛冶屋」「悪辣な陰謀」「鋳造する」などの同語源語の強烈な結びつきを持っているというのだ。krylyškúja(小翼を震わせ)という彼の造語が詩の構成全体を示唆し、方向づけているとヤコブソンはいう。このようなアナグラム的な言葉の使い方は関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 の中でもご紹介しておいたが、ツェランは意識的に使っていたかもしれない。ちなみに、フレーブニコフがこの「きりぎりす」を書いたのは、ソシュールがアナグラムの研究をしていた時期と重なっている。

音の修辞的な技法の双璧、そのもう一つは民間伝承の中にある。これと言語理論などの抽象的な理論とは、いかなる接触も持たなかったのだけれど、それは内容のどっさり詰まった極めて有効な言語構造の素晴らしい例だとヤコブソンはいう。口承された詩文の中に異言が混じっていればすぐに気づいてしまう。そこには確かに識閾下で行われるパターン化の方法と密接に結びついた緊密な音・文法の形態が明らかにあるという。例えば、こんなロシアに伝わる民間伝承のなぞなぞが求めている答えは何か。

Šlá svin’já iz Pítera,(豚が一匹ペテルスブルクからやって来た)

vsjá spiná istíkana. (背中じゅうに穴をあけられて。)

答えはNapjórstok(指ぬき)である。すでに上に挙げた文章の中にその答えの文字(下線を施した部分)が散りばめられているわけだ。前段、後段で7個の母音のうち/á i á i í . a/の6個は同一になっている。各母音と母音の間にある子音の数は svin’já や vsjá にある自然に生じる繋ぎ音 j を除けば前段、後段とも 2.2.1.0.2.1.1.である。この緊密な音・文法の形態の関連についての記述は、ずっと続くのだが煩雑なのでここまでとしたい。

レヴィ=ストロースは、こう問いかけている。「我々が神話素と呼んだものの中にもまた、音素のあらゆる性格が現われていないかどうか問うてみることもできる(『音と意味についての六章』の序)。」神話素とは神話の構成要素で音素と同様に「純粋で空虚な示唆的記号」である。例えば「太陽」という神話素は、この段階ではまだ意味を持つ以前の音なのである。神話素が意味を持つのは神話の内部で他の神話素と結ぶ相関・対立の関連からだけである。空虚な音=神話素がそれを満たす内容を呼び求めるのだ。ちょうど音楽における音のように。ヤコブソンはこのように言う。口承詩の音韻組織と文法は複雑で重層的な対応の体系を示していると。その対応の入り組んだ網の目を支配する規則が認識されることもなく、生まれ、効果をあげ、世代から世代へと受け継がれていく。個々の詩人の作品においても直感が複雑な音韻組織と文法構造の設計者に成りうるし、唯一の設計者であることも稀ではないと言うのだ。このような構造はとくに識閾下のレヴェルでは強力である(「詩における識閾下の言語パターン」)。言葉の音自体が持つ強力なネットワークがそこに想定される。ヤコブソンは韻律の普遍性に対する精密な理解をドイツ語の頭韻、モルドヴァ語韻律の容認的法則、中国定型詩のモデュールデザインから学んだ(「中心的テーマ」)。それは、ソシュールが晩年、言語学とは直接関係のないニーベルンゲンの詩(うた)やロマンド地方におけるゴルゴンド族の民俗学的研究といったテーマに没頭し、火星語やアナグラムと呼んだ詩の謎解きにのめり込んだのと同様なのではなかろうか。ソシュールは亡くなる数か月前から中国語の研究も行っていたという(丸山圭三郎『言葉と無意識』)。

音それ自体に魔術があるのである。いろいろな音表象が連続して構築されていく。音と音の間の諸関係、例えば頭韻、脚韻、韻律などでの関連する言葉や語群の類似をあやどる掛詞(地口)などは詩にとって極めて重要な要素である。マラルメは『賽の一振り』をオーケストラのための楽譜のように書き、散文においてもトルストイは『アンナ・カレーニナ』を声を出して読むべき小説だとした。識閾下で働く「言語形成能力(ランガージュ)」がある。それを言霊と呼ぶべきか、集合的無意識の働きと考えるべきか、はたまた、ノヴァーリスの言葉の中に働く運動の表れとしての音楽なのか、シュタイナーが言うように無意識の生命活動の抽出であるのか。私たちは再び言葉とは何かという問題に連れ戻される。この鍵をにぎるのは言語のオーラルな領域なのである。

 

 

クロード・レヴィ=ストロース part2 『神話論理』 インターテクストをあやどる

ケネス・スネルソン『ニードルタワー』1969 テンセグリティーを用いた構造物

ケネス・スネルソン『ニードルタワー』1969
テンセグリティーを用いた構造物

僕は中・高生を教えていて、中学生たちには、21世紀は立体でものを考える時代だよと言ってきているけれど、まあ神話論理を教えるわけにもいかない。高校生には、以前からバックミンスター・フラーとケネス・スネルソンが開発したテンセグリティー(張力統合体)を教えることにしていたのだが、最近、材料のスチレン棒が製造中止になり、手にはいらなくなって困っている。どうしよう。高校生にテンセグリティーを教えているといったらフラーの共同研究者だった梶川泰(かじかわ やすし)さんは随分喜んでくださった。去年いろいろ連絡をとりあったきりだ。梶川さんに『シナジェティク幾何学』の翻訳しないんですかと聞いたら、『コズモグラフィー』を翻訳したからねとかわされてしまった。

今回は、前回に引き続き文化人類学、民俗学の泰斗クロード・レヴィ=ストロースの著作をとりあげる。前回 part1では、日本に関する著作を集めた『月の裏側』をご紹介したけれど、今回は神話の解読とその表現に精魂をかたむけた『神話論理』をご紹介する予定である。四部構成、合計5冊の大著である。

クロード・レヴィストロース(1908-2009)

クロード・レヴィストロース(1908-2009)

神話論理では、ある神話が基準神話として設定される。それは、古いとか、他の神話より単純だからとか、完璧だからといった理由ではない。神話にはグループ群があり、どちらかといえば、その中で典型的というより、特異だと思われる神話を恣意的に選んでいるのに過ぎないとレヴィ=ストロースはいう。そこからある規則に合致する神話が水平軸上に順序よく並んでいき、それらから得られる図式が導き手となっていく。こんどは、ある神話から垂直上に別の類似点を持つ神話のいくつかの軸をたどっていくのだ。それは一種のマトリックスになるのである。こうして混沌としたものの広がりは中心が固まり、形が整っていく。それぞれの繋がりが満たされ関連が成立して、混沌の背後に秩序のようなものがうっすら見えてくる。そのように多次元集合体になっていくのだ。集合体の中心部は、構造がはっきりしているのに対して周辺部は、ぼやけている。だが、分析がバラバラにした神話の素材が結晶して、安定し確定した構造というイメージを呈することを期待してはいけないという。最終段階に達することもあり得ないとも言う。彼が問題にしているのは、動いてやまない現実である。その現実は、それを崩壊させる過去とそれを変える未来に攻撃されているというのだ(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)。

神話とは動いてやまない現実であるなら、それを分析するための手法が構造分析であろうか。今回ご紹介する『神話論理』で試みられているのは、分析的な歩みをできる限り再現し、神話的思考それ自体に存在する動きをなぞってみようとすることなのだ。我々読者が立ち会うのは、ある神話と別の神話が出会う時に生じる変換あるいは変形が別の神話を生む、その現場や瞬間であり、そのようなダイナミズムの場なのである。いまだにレヴィ=ストロースに向けられる批判にあるように、二元論に基づく静的な構造が問題にされているのではない。

まずは、重要な基準神話となっている南アメリカ中央部に住むボロロの神話M1とボロロ族の近くに住むジェ語を話す部族シェレンテの神話M12を『神話論理』からご紹介したい。MはMythology= 神話である。

ボロロ  鳥の巣あさりの神話 M 1

コンゴウインコ

コンゴウインコ

大昔、女たちが若者の成人式のためにヤシを森に取りに行った時、若者が母親を襲ってインセスト(近親相姦)が起こる。妻の帯に引っかかった羽に気づいて調べると自分の息子のものであった。父親は復讐のために水の世界にある死者の霊の巣へと息子を送り、踊りに使う大きなガラガラであるバポを取って来るように命じた。祖母は死の危険を教えハチドリに助けを求めるように忠告した。死者の霊の巣でハチドリはすばやく飛んでガラガラの紐を切り、傷つくことなくそれを持ち帰る。2度目の小さなガラガラはシャコバトが、3番目の小さな音の鳴るブットーレは矢に射られながらもバッタが持ち帰った。

計画の進まない父親は、息子を岩山の中腹の巣へとコンゴウインコを捕りに行かせる。祖母は、今度は魔法の杖を孫に与えた。父親は棒を立てて息子によじ登らせ、それを取り去る。岩の割れ目に杖を突き刺して宙づりになった息子は、蔓を伝って崖の頂上にたどりつく。飢えた主人公は木の枝で弓と矢を作り、頂上にいたトカゲを狩って食べたが、その死骸は悪臭を生じ始める。死骸はコンドルの餌となり若者も尻を食われるが、意識を取り戻してコンドルに崖から降ろされ助かる。トカゲに姿を変えて祖母と弟のもとに戻るが、その姿に困惑されてしまう。決心して二人に本当の姿を見せると、その夜、雷雨を伴う激しい嵐が起こり、村全体が水に浸かり、祖母の火だけが消えずに残った。息子は、狩りに出かけた父親に偽物の角をつけて鹿に変身し父親を突き殺し湖に落とす。父親は人食い魚のブイオゴエの霊に食われ、その後には水に沈んだ骸骨と水面に浮かぶ肺しか残らなかった。肺は水草になったという。(『生のものと火を通したもの』)

シェレンテ  火の起源神話 M 12

ある日、男が義弟を連れて森へ行き、木の空洞に巣を作っているコンゴウインコを捕まえることにした。男は義弟を高い棒に登らせたが、少年は巣の高さに来ると、巣の中には卵しかないと嘘をついた。下にいた男が執拗に要求するので。主人公の少年はポケットに入れていた白い石を取りだして投げた。石は落ちる途中で卵になり、地面で砕けた。男は不満で、主人公を木の上に見捨て、主人公は五日間身動きできなかった。

一匹のジャガーが通りがかり、木の上の少年に気づき、彼の身に起きたことを尋ねる。少年に餌として巣の中にいた二羽のひな鳥を求め、飛び降りるように勧めて、少年を足で捕まえる。少年は怖かったが、ジャガーは何もしなかった。ジャガーは少年を背中に乗せて川に連れて行く。彼は咽喉が渇いていたが、水を飲むことが許されない。水はコンドルのものであるとジャガーは言う。次の川でも、水は「ちいさな鳥たち」のものである。三番目の川に来ると主人公はごくごくと飲み、小川を干上がらせ、水の主であるワニの懇願にもかかわらず、一滴も残さない。主人公はジャガーの妻からは歓迎されない。「このように痩せて醜い子」を連れてきた夫を非難する。妻は少年に自分のシラミをとらせ、彼を脚で挟んで怖がらせる。ジャガーは少年に弓、矢、装飾品、焼いた肉の蓄えを与え、妻が迫ってきたら頸動脈を狙うように助言する。全てが予言どおり起こり、妻は殺される。

ジャガー

ジャガー

その少し後で、少年は二人の兄弟の物音を耳にする。兄弟は少年が生きていることを認め、村に帰って知らせるが母親は信じない。少年はしばらく身を隠し、アイクマンと呼ばれる葬式に姿を現わす。少年が持ってきた焼いた肉を見て、全員が驚愕する。「どうして火を通したのか」という問いに、「天日で」と頑強に答えるが、ついにオジに真実を語る。人々は遠征して、ジャガーから火を奪う。火のついている幹は、走るのが早い鳥であるホウカンチョウとバンが運び、その後を追って、シャクケイが落ちた燠をついばむ。(『生のものと火を通したもの』)

レヴィ=ストロースは、二つまたはいくつかの神話の間に恒常的に認められる特性を集めたものを骨格と呼び個々の神話がこれらの特性に与える機能の体系をコードと呼び、特定の神話の内容をメッセージと呼ぶ。言葉は、ある社会集団の取り決めた記号であって「しるしと意味がセットになった」組み合わせであるとスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールが明らかにした。ジャガーという音節の集まりが、ジャガーという動物に結び付けられるには色々なルールの取り決めが必要なのだが、その多くは知らず知らずの内に私たちに刷り込まれていて気がつかない場合が多い。その記号の解読ルールが集まったものがコードである。言葉や礼儀作法、料理も音楽もみんな記号として機能していて、それが、どんなメッセージを発しているかを研究する学問が20世紀のはじめにはスタートしようとしていた。例えば、レヴィ=ストロースは『密から灰へ』の中で、分節された言葉と音楽の関係に関する「聴覚のコード」として、呼びかけ、言葉、楽器(の言葉)をあげている。呼びかけには「口笛で」「名前で」「叩いて」という種類があって、人間を別の存在である動物=誘惑者に結びつける合図としての共通した性格を持っているという。コードは、概念体系を形づくることによってメッセージ間の可換性を保証するのである。上記の二つの神話、ボロロM1とシェレンテM12の神話では、骨格はほぼ同じで、コードが変形し、メッセージが逆転しているという。

クロード・レヴィ=ストロース  『生のものと火を通したもの』

クロード・レヴィ=ストロース 
『生のものと火を通したもの』

この二つの神話では、主人公はコンゴウインコを得るために崖や木の高い所に登らされ、降りられずに飢える(渇く)。水の世界では、三度(二度)のハードルを乗り越えなければならない。敵である父親やジャガーの妻は殺され、雷雨としての天の水やジャガーの火が得られる。レヴィ=ストロースは、ボロロの先住民たちはこの神話を水の起源神話とみているという。シェレンテの神話は火の起源神話であり、起源神話という点で両者は一致する。ボロロでは、水は、空の有害な外在化された嵐であり、シェレンテでは、水は、大地の有益な内在化された飲める水である。コードは変形されている。そして、彼はこう述べている。ボロロではインセストに対して無関心であり、犯人は逆に犠牲者のように見なされる。シェレンテにおいてもジャガーは、妻に対して無関心であり、逆に妻の殺害を指示する。この二つの無関心には対称性があるという。

そして、レヴィ=ストロースは、こんなことを述べている。「すべてが同じ神話なのであって、ヴァージョンとヴァージョンのあいだに明瞭にある不一致は、その一つ一つが、あるグループの内部で行われた変形の産物として扱われなければならないのである(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)」という。神話の関係性とは、そんなに単純ではなさそうだということが分かっていただけたのではないだろうか。これは先ほど述べた、ある神話と別の神話の遭遇による変換あるいは変形によって別の神話が生まれるという膨大な出来事の一例であり、そのほんのさわりにすぎないのである。

『神話論理』

本題の『神話論理』に入りたい。この大著を要約するのは、僕にはちょっと荷が重いので、気になった部分を恣意的にプロットしておきたいと思っている。神話の大地は球体であり、何処から始めても行程を全うできるとレヴィ=ストロースは言う。しかし、終わりはない。無数に増殖する閉じた点。第一部『生のものと火を通したもの』は料理を構成する基本的なカテゴリーの対立がテーマだったが、第二部『密から灰へ』では蜂蜜という料理以前の食べ物とタバコという料理を越えた嗜好品が扱われる。それは自然から文化への移行という神話的表現の調査となった。第三巻の『食卓作法の起源』では、南アメリカの鳥の巣あさりの神話と北アメリカの天体の妻の神話が唯一かつ同一の変換群に属することが明らかにされる。この栽培植物の起源に関係する一連の神話は、性の点でいえば天体の妻の物語がまさに北アメリカの星の夫の一連の神話を反転させたものだとレヴィ=ストロースは言うのだ。第四巻『裸の人Ⅰ、Ⅱ』では、新大陸のほぼ全域を覆うこの巨大神話の構造探究にあてられる。

1.神話とは音楽でありインターテクストである。

クロード・レヴィ=ストロース 『蜜から灰へ』

クロード・レヴィ=ストロース
『蜜から灰へ』

『神話論理』の第一巻『生のものと火を通したもの』は、音楽にささげられていて、章立ては、「序曲」「主題と変奏」「平均律天文学」などの音楽用語からなる題がつけられている。神話の研究には論理的思考と美的センスの両方を必要とする。音楽と神話は非常に似通っているらしい。そして、それを文章として表現するためには資料を呈示する順序が線的ではありえない。解説の一つ一つがたんなる前後関係では結びついていかないからである。分析にはいくつもの軸があり、それは次々と連なるのだが、読者にある種の同時性も印象として与えたかったとレヴィ=ストロースはいう。そこには独特のリズムさえも必要とされた。これが、彼の文章を分かりにくくさせている理由なのである。少年時代の彼にとって、ドビュッシーの『ペレアスとメリサンド』、ストラヴィンスキーの『結婚』が衝撃の一つであったそうだ。僕にとっては、バッハの『マタイ受難曲』やチベットホルンとその声明だったろうか。そして、何よりも彼にとってワーグナーは神であったらしい。ワーグナーを様々な神話の構造分析の父、あるいは先駆として認めるなら、この分析がまず音楽の中で作られたということは当然であろうと書いている。例えば『マイスタージンガー』のような作品。神話の分析は大曲の総譜の分析と比肩しうるのだという。

神話同士のさまざまな関係を図式化する時、まるで楽譜のような図が使用される時がある。よく似通った神話群は、ある神話の変奏として考えられるからだ。比較対象となる神話の数が増えると関係性の網の目が広がり、いままで分からなかった神話の細部の意味が理解できるようになる。しかし、全体の意味にはけっして至らないとレヴィ=ストロースはいう。出口顯(でぐち あきら)さんの『神話論理の思想』によれば、レヴィ=ストロースは神話の立体模型をモビールのように天上から吊り下げていたらしい。そのような「神話の楽譜」に登場するのは必ず複数の神話である。神話のエピソード群は楽譜に幾度も登場する旋律や和音なのだという。それらの組み合わせ方次第で無数の楽譜が出来上がっていくというのだ。レヴィ=ストロースは「自分には音楽作品をつくる能力が生来欠けているから、音楽以外の何か自分にも近づけそうな領域で、こうして無能の埋めあわせに励んでいる‥‥音を元手に生み出される音楽作品に匹敵する作品を、自分はこれまで意味を元手に築き上げようとしてきた‥‥(『裸の人2』吉田禎吾 他訳)」と書いている。

レヴィ=ストロース 行儀作法についてのソナタ(M=mythology 神話) 一部分、読み易くする為に順番を入れ替えています。

レヴィ=ストロース 行儀作法についてのソナタ(M=mythology 神話)
一部分、読み易くするために順番を入れ替えています。

先ほど述べたようにレヴィ=ストロースは二つまたはいくつかの神話の間に恒常的に認められる特性を集めたものを骨格と呼び、個々の神話がこれらの特性に与える機能の体系をコードと呼ぶ。そして、特定の神話の内容をメッセージと呼んだ。彼はこう述べる。「神話を一つのコードに還元することは不可能であり、複数のコードの和として説明することもできない。一群の神話がそれ自身で一つのコードを構成し、その力は、多岐にわたるメッセージをコード化する個別のコードよりも上位にある。新造語を使うことを許されるなら、それは真の『インターコード』であり、さまざまなシステムに内在するメッセージを互いに変換する規則のレパートリーの操作を通して、それぞれのシステムの個別の意味作用とは違う統合的な意味作用を生成させるのである(『裸の人1』吉田禎吾 他訳)」という。インターコードは、さしずめ現在でいうインターテクストという言葉が意味する内容と平行関係を持っている。「いかなる神話体系の背後にも、その体系を決定づける主導的因子として別の神話体系の輪郭が現われているとの確信に貫かれているようでなければならない。ある体系の内で何かを語っているのは、まさしくその背後にひかえる他の諸体系なのであり、互いに響きあう体系のこだまは、果てなき過去とはいわないまでも少なくとも数十万年前‥‥生誕したばかりの人類が最初の神話を口にした特定不能な瞬間にまで、はるかに及んでいる(『裸の人2』)」というのだ。神話は読み解かれ続ける一冊の本というわけだ

 

クロード・レヴィ=ストロース 『食卓作法の起源』

クロード・レヴィ=ストロース
『食卓作法の起源』

2.神話の組織化された全体

南アメリカのワラウ族の神話は、神話的思考法の特徴をはっきりと示している。この神話の冒頭で描かれている人食い鬼女は、毎回二匹の魚を捕り、一匹を食べ、一匹を残す。この奇妙な行動は次に二人の人間の犠牲者に対してとる、一人を食い、一人を籠に入れるという行為の予行としか考えられないとレヴィ=ストロースは指摘している。最初のエピソードで鋳型が用意されるのであって、そこに次のエピソードが流し込まれるのだという。鋳型がなければ神話は流動的になり過ぎて形がとれないからだというのだ。こうして操作的対立の体系が連なっていくのであろう。控えめな兄と慎みに欠ける弟を区別して扱おうとするのは人食い鬼女ではなく神話のほうなのである。人食い鬼女が同じやり方にこだわるのは、そのやり方に後から意味を与えるためだった。この例がはっきり示しているのは神話というものが組織化された全体であって、神話において、語りの展開が説明しているのは、前後関係とは無関係な、その下にある構造だというのである。神話は、対立関係の中で次々に鋳継がれる構造体を持っている。神話の宇宙には隠れた対称性がある。そして、変換によって生み出される神話は、数学的な群論と変換群との関係になぞらえることができるとレヴィ=ストロース考えていた。

 

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人Ⅰ』

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人Ⅰ』

3. 象徴の意味とコンテキスト

レヴィ=ストロースは、自分の行っている手法では、神話の機能に絶対的意味を与えることは避けているという。絶対的な意味を与えたいのなら神話の外に求めなければならない。そういったやり方はしばしば神話研究に見られるけれど、ほとんどユング主義に行き着くというのだ。分かるような気がする。彼が追求しているのは、神話に先立つ、あるいは神話の向こうにある霊感に支えられた絶対的意味ではないのである。例えば、個々の神話の主人公のあだ名に関して、神話を超越するレベルでその意味を発見しようとしているのではないし、その名に関連づけることのできる神話外の制度を発見しようとしているのでもないと言う。ある操作的価値を与えられている対立の体系に、そのあだ名の相対的意味をコンテキスト(文脈・背景情報)の助けを借りて取り出そうと努めているのだという。前にも触れたように、レヴィ=ストロースにとって二項対立は分析のための重要な要素であった。あだ名は、ある種の象徴として絶対的な意味を与えられることはない。ちなみに、象徴はそれが指示するものとなんらかの連想によって繋がっている。記号にはそれがない。翼は飛行機の象徴になるけれどキャベツには無理なのである。「象徴に固有で不変の意味があるわけではない。象徴はコンテキストから独立してあるわけではない。象徴の意味はなによりもまず、それが置かれている場によって決まる(『生のものと火を通したもの』早水洋太朗 訳)。」これは、ある単語の意味が文脈の中で決定されるのと同じだ。ある種の相対性を持っているということである。

 

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人2』

クロード・レヴィ=ストロース 『裸の人2』

4.神話とは精神を意味している。

神話はいくつもの薄片の積み重なった層構造を持っている。神話とは意味が横の列と縦の欄にならんだマトリックスだというのだ。どのように読もうとあるレベルは別のあるレベルしか示しておらず、あるマトリックスは別のあるマトリックスしか指していない。ある神話は別の神話しか指示していない。互いに意味しあうこれらの意味が指し示す最終的に意味されるものは何かと問おうとも、結局、意味全体が何かを意味しなければならない。それは、本来連続的な本質を持つ神話を離散的に、つまり分解するために神話的思考が支払った代償だとレヴィ=ストロースは言う。つまり、見えない本質に多様な光を当てることによって生じる無数の影であるのだ。

彼は、こう述べる。神話や儀礼は誇張を好むが、それは誇張が神話や儀礼に固有の性質だからである。それは、目に見えない論理的構造の目に見える影だという。神話的思考は人間のさまざまな関係の体系を宇宙論的文脈に書きこんでいく(腐敗と熱処理の図を参照してほしい)。宇宙論的文脈の総体は、人間関係と同形で、それなりのやり方で人間の関係を取り込み真似るのだと。だが、それは至る所で人間の関係からはみ出してしまうのだが(『生のものと火を通したもの』早水洋太郎 訳)。そして、神話的思考の方法は言語のそれに重なるという。その方法は、オノマトペのように繰り返されるということに重要な意味がある。そうすることによって「ぺんぺん」は、ただの記号からお尻をたたく音という意味に変わる。第二のペンは、たまたま口にした音ではなく、第一のぺんが記号であって単なる擬音ではないということを意味する記号になっているという。このような誇張は、(例えば戯画という技法は外見を誇張するが)モデルをありのままに再現するのではなく、特定の役目や側面を強調するための方法だという。それが、もどきの意味である。神話は繰り返し誇張することによって意味を作り出しているらしい。

腐敗と熱処理の宇宙論的・社会学的含意 『生のものと火を通したもの』

腐敗と熱処理の宇宙論的・社会学的含意
『生のものと火を通したもの』

最終的に意味されるものは何か。提案される唯一の答えは「神話は精神を意味している」とレヴィ=ストロースは言うのである。精神が、自分自身もその一部である世界を使って神話を作り上げている。だから精神によって神話が生み出されると同時に、その神話によって、精神構造に既に書き込まれている世界像が生み出される。精神→神話→精神に書き込まれた世界構造の顕現となる。A I 研究者は神話を学ぶべきなのだろうか。神話は次々と生成を遂げるマトリックスであり、それを外部との関連で説明しようとすれば、人間の大脳の組織のネットワークに目を向けざるを得ない(『裸の人2』)と彼は述べている。これは興味深い指摘である。レヴィ=ストロースの友人であるメルロ・ポンティは「事物の命名は認識の後になってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである」と述べている(『知覚の現象学』)。文化人類学者のマルセル・エナフによれば、レヴィ=ストロースはソシュールのいう体系としての言語「ラング」(社会で共有される語彙や文法などの約束事[コード])が言語を働かせたり現実化したりする差異と対立からなる仮想的な装置であると考えていたかもしれないという(『神話論理』-言語学と音楽の間で 泉克典 訳)。しかし、いっそう重要なのは変換の関係性であり、かつての解釈学的な説明の伝統が躍起となって明らかにしようとした意味作用から神話や象徴表現の研究を解放した。物語群が持つ意味の問題を、もはや、それがひとつの宇宙を構築する仕方と切り離せなくなったのだとエナフは言うのである。やがて、レヴィ=ストロースは、神話学に対する助けを言語モデルから音楽モデルに切り替えるのである。

5.蛇足 神話=インターテクストのあやとり

ハイタカ By Bogbumper

ハイタカ By Bogbumper

シェレンテ アサレの神話 M 124

末息子のアサレは、兄たちの母親に対するインセスト事件を契機に彼らと旅に出る。父親が狩りをしている間の出来事だった。母親を男の家に呼び出したのだ。父親は息子たちを罰したが、彼らは復讐のために父親の小屋に火をかける。父は煙の中を飛ぶのが好きなハイタカとなって逃げだした。兄たちが掘った穴から水が湧きだしアサレは渇きを癒すが、全部飲みきることができない。それによって増水した川を渡ろうとして、そのことをワニに頼むのだが、断られる。腹いせにワニをからかったために、さんざ追いかけられる羽目になり、オジの所に身を落ち着ける。ワニは旅の途中で殺したトカゲから生まれた。水の増水によって大洋ができあがると兄たちは水浴した。今日でも雨季の終わりには彼らが水の中でふざけあう声がするという。そして、清潔になった彼らは空にスルルの7つの星、プレアデス星団になったというのである。これはブラジルのシェレンテ族の神話(M124)である。

プレアデス星団 日本でいう昴

プレアデス星団 日本でいう昴

ボロロM1(M1は以下省略)の神話では、母が息子にインセストされるのは森であり、成人式のための女性の勤めを果たそうとする時であった。父親は復讐のために水を使い、シェレンテM124(M124は以下省略)の息子たちは火を使う。シェレンテの父親は火の友であるハイタカとなって逃げ、ボロロの息子を助けるのは腐肉と生肉を食べるかまどの火の敵であるコンドルだった。垂直方向の分離が両者に生ずる。ボロロでは息子が空気によって両親から垂直方向に分離されるのに対して、シェレンテの主人公は水によって兄たちから水平方向に分離される。ボロロの主人公は岩壁の頂上で飢えに苦しみ、シェレンテの主人公は村から遙か遠くで渇きに苦しめられる。ボロロではトカゲに変身した主人公が真の姿を現わした夜、雷雨と嵐が起こり村の火は祖母のものを除いてすべて消えてしまう。ボロロもシェレンテもともに水の起源の神話である。一方は空の水、一方は大地から湧き出る水であった。

シェレンテの神話(M 124)はボロロの神話(M 1)を、ある時はメッセージに関して、ある時はコードに関していくつかの変形を加えて忠実に再現しているとレヴィ=ストロースはいう(『生のものと火を通したもの』)。冒頭の神話と同じように、ボロロでは、水は、空の有害な外在化された嵐であり、シェレンテでは、水は、大地の有益な内在化された飲める水である。コードは変形されている。これを読んでいてハタと気づいたのである。何にかと言うと神話とは「あやとり」のようなものではないかということに。勿論、あやとりには結界を作るという意味もあるのだけれど、その変換する動的な操作に注目してみたいのである。精神から生まれた紐である神話は、世界構造をなぞって多様に変形されていく。時に、はしごや橋になり、木や星や魚になる。それは、トポロジックに変換されていくテンセグリティーなのである。指が外に押す力を作りだし、紐が張力によって引き合うのだ。あたかも、精神が操る言葉によって、神話の世界が構造変換されていく様子を見ているようではないだろうか。最後に、レヴィ=ストロースの構造人類学に多大な影響を与えた、言語学者のロマン・ヤコブソンが「遺伝コードと人間のあらゆる言語のコードの基礎にある建築学的モデル」を想定していたことを付け加えておきたい。

1.トバ族のあやとり プレアデス『生のものと火を通したもの』より 2.ワラウ族のあやとり キワタ(シルク=コットン・ツリー)生命の木ともいわれる。 『蜜から灰へ』より 3.ワラウ族のあやとり 爪のあるエイ『蜜から灰へ』より

1.トバ族のあやとり
プレアデス『生のものと火を通したもの』より
2.ワラウ族のあやとり
キワタ(シルク=コットン・ツリー)生命の木ともいわれる。
『蜜から灰へ』より
3.ワラウ族のあやとり
爪のあるエイ『蜜から灰へ』より

クロード・レヴィ=ストロース part1 『月の裏側』 堆積丘としての日本

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009) 『月の裏側』

クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009)
『月の裏側』

紀元前三千年に、この物語は書かれた。大神オシリスの後継者を決める裁定の場所に集まった神々の間では、母親のイシスが推すホルスか、あるいは、その母方の叔父にあたるセトを選ぶか意見が割れていた。太陽神プレー・ハラフティーはセト支持に傾いていたが、猿神ババから聞かされた言葉に心傷つけられ、館に引き籠ってしまう。それがあまりに長いために娘のハトホルが父を訪ねた。娘が突然服を脱ぎ性器を露わにするのを見た太陽神は笑いだし、ついに起き上がって裁定場に向かった。文化人類学、民俗学の泰斗であるクロード・レヴィ=ストロースは、この物語と日本の『記紀』との類似にハッとさせられる。笑いの大きな役割、そして籠りと神々の集い。

古代エジプト人にとって猿(狒々)は水星と特別な関係を持ち、夜明けに太陽の小舟が現われると彼らは歌を歌って迎えたといわれている。インドでも猿と天体、気象とは密接に関係していて、猿神ハヌマーンは風の神の息子とされる。中央アメリカのマヤ人は、猿をかつて風に変えられた人であると考えていた。猿田彦も天空と地上を仲介する役割を演じる神であり、天鈿女(アメノウズメ)の大胆不敵な笑と二度目の踊りによって陽気になり、天降った神々を東に導く。その役割は移動することへとシフトし、道祖神あるいは庚申と繋がるようになるのである。垂直性と水平性の軸上でその働きは展開されていく。

その水平軸の壮大な移動は、ネイティヴアメリカンたちの歴史でもあった。彼らはベーリング陸橋を渡ったモンゴロイドの子孫という説が有力視されている。ポーラ・アンダーウッドの著書『一万年の旅路』はそんなイロコイ族に伝わる口承史だった。カリフォルニア先住民の多くの言語がシベリア西部のウラル語族であるという説を踏まえて、日本を ヨーロッパ=アメリカと呼んでよい台座の上にあって孤立した堆積丘に譬えられるとレヴィ=ストロースはいう。そうなれば、いわば月の眼に見える側、つまりエジプト、ギリシア、ローマ以来の旧世界の歴史からではなく、月の裏側、つまり日本学、アメリカ学の領分からの眺めは戦略的な意味を持ってくると指摘しているのである。太古の日本がヨーロッパと太平洋全体の架け橋の役割を果たして、日本とヨーロッパそれぞれのシンメトリックな――似通っていながら対極にある――歴史を発展させてきたという。遙かに広い視野から、人類の過去の最大の謎の領域に近づく重要な鍵を、日本が握っているというのである。これは、見逃せない。

白川 静(1910-2006) 『中国の神話』

白川 静(1910-2006)
『中国の神話』

日本の東洋学者である(ご本人はそう呼ばれたがっていたようだから)白川静(しらかわ しずか)さんとこのレヴィ=ストロース氏の対談が行われたならさぞかし世界の文化にとって有益だったろうにと思うのだが、現実にはそのようなことはなかったのだろうか。不見識な自分にはよく分からないけれど、そんな本があったらいいなと、つい、ないものねだりをしてしまう。例えば、白川さんはこんな言葉を残している。「神話の体系は、異質的なものとの接触によって豊かなものとなり、その展開が促される、それには摂受による統一もあり、拒否による闘争もあるが、要するに単一の体験のみでは、十分な体系化は困難なようである。そのため孤立的な生活圏は、神話にとってしばしば不毛に終わる(『中国の神話』)。さまざまな出会いや軋轢の中で神話はより豊かになっていくというのである。

クロード・レヴィ=ストロースは、1908年に両親が滞在していたベルギーのブリュッセルで生まれた。二人は、パリに住むフランス系ユダヤ人で、いとこ同士であった。交叉イトコ婚であったかどうか僕は知らない。父親は画家であり、芸術的な環境で育つことになる。父に与えられた浮世絵は彼に日本への憧れを募らせたようだ。学生時代にはマルクス主義に傾倒し、法学、後に哲学を学んだ。メルロ=ポンティ、ボーヴォワールが哲学教授試験に合格した同期生だったという。1935年から2年間、サンパウ ロ大学教授としてインディオ社会を調査。1938年、さらに1年間調査を続行した。第二次大戦に従軍するもフランスの敗退に伴いアメリカに亡命する。これらの時期のエピソードについては自叙伝的な著作『悲しき熱帯』に詳しい。それは、沈潜する熱情、すばらしい文章だ。亡命先のニューヨークではアンドレ・ブルトンらシュルレアリストと交際し、人類学のフランツ・ボアズ、サイバネティックスのクロード・シャノンなどの知己を得る。そこには、やはり、アメリカに亡命していた言語学・民俗学学者のロマン・ヤコブソンがいた。1948年フランスに帰国。1949年の論文「親族の基本構造」で構造人類学の端緒を開いた。ソシュールやヤコブソンの構造言語学と『贈与論』で知られるモースの影響が大きいといわれている。1959年から1984年までコレージュ・ド・フランス教授を勤める。彼は、『野生の思考』において「未開社会」における秩序・構造の存在を主張し、実存主義を批判した。サルトルとも対立したが、それが、ひいては構造主義として、もてはやされる契機となったようだ。2009年に亡くなっている。

レヴィ=ストロースは、1977年から1988年の間に5度日本を訪れている。日本に対して深い共感を持っていたようだ。今回ご紹介するこの著作『月の裏側』は、1979年から2001年までの日本に関する刊行物を集めたものである。

1.エジプト、東南アジア、日本を横断する神話

古事記とエジプトの神話物語の間には三千年近い隔たりがある。比較論者の中には歴史の隔たりを飛び越えて始めと終わりを結びつけようとする試みがあまりに多いらしい。個別に確証を示せるもの以外は系譜上の繋がり、借用について想定すべきでないというのがレヴィ=ストロースの基本姿勢だ。しかし、古事記とエジプトのこの二つの物語は、おそらく古代神話と同じ層に属しているだろうと彼は考えている。それは、神話的思考の基本構造と呼びうるものに由来していて、この構造は、ときとして全体、ないし断片として表面に表れている場合もあれば、表現されない場合や消滅している場合さえある。この基本構造を追及する姿勢が構造主義と呼ばれる所以となっているのだが、それは一般に考えられているように静的なものではない。それについては、part2『神話論理』で詳しく述べたいと思っている。エジプトのセトは地上から地下へと遁れ、日本のスサノオは、天上を逃れ地上へと追いやられた。二神とも気性の激しい荒ぶる神としての特徴も同じくしている。やがて、スサノオも地下の神と考えられるようになる。そして、エジプトのハトホルと同様にアメノウズメは水平方向への移動を催す役割を与えられる。

ホルス(左)とセト(右)エジフ゜ト美術館

ホルス(左)とセト(右)エジプト美術館

この神話的な物語はさらに続く。太陽の東から西へという縦断方向の展開が、水の流れ、あるいは海の入り江を一方の岸から他方へと渡し守によって成し遂げられる横断と対比される。そのように神話的思考が展開されるのである。海の入り江を渡ろうとする者には、理論的に二つの解決方法があると彼は言う。一つは、動くものである渡し守、もう一つは動かないものである橋。アメリカ先住民の神話では橋の役割をするのはツルのような歩禽類で、渡す役をしているのはワニである。日本と東南アジアでは、いずれも二つの要素が総合される。複数のワニが橋の代わりをするからである。因幡の白兎を思い浮かべてもらえばよい。

2.星座と音楽

クロード・レヴィ=ストロースは、その文化の中で育ったものでなければ、その内奥にまでは、到達できないし、諸文化は、その本質において、共通の尺度で測ることはできないと考えている。一つの文化を明らかにしようとする時、私たちが用いる基準は、対象とするその文化の中で設定されるか、他の文化の中で設定されるかのいずれかである。もし、前者なら客観性を欠き、後者では役に立たない。日本文化であれ、他の文化であれ、世界の中で位置づけるためには全ての文化への関わりを絶たなければならない。この条件が整ったときのみ、観察者の判断は、研究対象の文化そのものにも、観察者の属している文化にも左右されることがないと断言できるというのだ。しかし、これは現実にはありえないともいう。人類学の根底にはそのような困難な事柄が横たわっている。

彼は、自分が異文化を眺めた時の、このような例を挙げている。18、9世紀の西洋音楽に慣れ親しんだ自分には、それ以外の音楽に反応しない傾向が強いのだが、日本の音楽は例外だったという。ただ、18世紀というほかは、どの日本の音楽を指しているかは述べられていない。彼は日本の音楽の抗しがたい魅力の秘密を探ろうとして専門家たちに尋ねる。それによると同じ五音音階でも日本のものはかなり特殊であること、「短三度と長三度の音程が旋法によって変化し、第五音で一全音の変化をつけることができる(注によると、この部分はレヴィ=ストロースの用語に混乱があるために作曲家の湯浅譲二さんの意見を参考に訳者の川田順造さんが文章を校正している)。」それによって人の心の動きを巧みに表現できるようになっているのだ。そのような旋律は日本の伝統に全く興味のない者でも平安朝文化の底流の一つである「もののあわれ」の感覚を呼び覚ますと述べている。音楽においても文学における「もののあわれ」が表現されているという。実際には、光源氏が設定された時代に演奏されていた音楽は、中国の様式に近いものであったかもしれないのだが。

このように遠くからしか眺めることのできない人類学者は、詳細を知ることはできないけれど諸文化を通じて不変な性質を感じ取ることができるという。それは、初期の天文学者に似ている。望遠鏡も宇宙の科学的な知識もなしに夜空を眺め地球からの距離は全くバラバラな星たちを同一面上のある形に見立てることができるのは観察の対象が観察者から離れているためだが、天体の動きの規則性を早い時期から知ることができたのはこの距離の思い違いによるのだというのである。それ以上のことを文化人類学に求めるべきではないと言っている。「土着の人たちだけの特権である、内側から文化を知ること、これは人類学には決してできません。しかし、人類学は土着の人たちに、彼らが身近すぎて知ることがなかった全体の眺め、いくつかの図式化された輪郭に還元された眺めを提供することは少なくともできるのです(「世界における日本文化の位置)。」というわけなのである。

3.神話から歴史へ

本居宣長『古事記伝』

本居宣長『古事記伝』

日本の魅力のもう一つは、神話と歴史、相互の間に親密な繋がりがあることである。日本では書かれた歴史が比較的遅く始まったので、日本人はごく自然に歴史を神話のなかに根づかせたのかもしれない。それは、高千穂などの観光地でその神話の世界を満喫する多くの日本人観光客を見れば分かるとレヴィ=ストロースいう。彼らにとって、そこは、いまだに神話の舞台であるのだ。西洋では検証可能な出来事だけが歴史として考えるに値した。西洋人にとって歴史と神話は分離してしまっている。イギリスの人類学の創始者タイラーは1872年に古事記と日本書紀の概要を伝えた。1880年には英訳が、その10年後には独訳が出版される。それを読んだ人たちの中には、原初の時代の人類共通であったはずの「大原始神話」がそのままの姿で残ったのだと考える人たちさえいた。『古事記』と『日本書紀』はそれぞれ異なるやり方で、一方はより文学的、一方はより学問的に、世界神話のあらゆる大きな主題を比類のない技法でつなぎ合わせているという。これらの神話はその中で歴史に溶け込んでいるのである。

4.フィルターあるいは蒸留器としての日本

そこでレヴィ=ストロースはこのように問う。広大な大陸のマージナルな場所で、長い間、隔離されていながら、同時にその最古のテキストが他の地域よりも洗練されたやり方で総合できたのは何故なのか。アメリカの先住民と古い時代の日本に共通するすべての主題は、インドネシアにもあり、そのうちのいくつかは、この地域にしかない。この三地域の神話は細部まで同じで個別に考え出されたとは考えられない。その理由は、さきほど述べた大氷河期のベーリング海峡が陸続きだった時代に遡って考えれば分かる。

鮮新世(約500万年前~約258万年前)後期から 更新世(約258万年前~約1万年前)前期ころの日本

鮮新世(約500万年前~約258万年前)後期から 更新世(約258万年前~約1万年前)前期ころの日本

その頃、マレー半島と台湾、ニューギニア、オーストラリアはかなりの部分陸続きで、さらに、およそ一千キロメートルの幅の陸地がアジアとアメリカを結んでいた。この広大な土地は両方向への人々の移動の舞台であったのである。日本列島として、日本が完全に大陸から離れたのは、最後の氷期が終わって、宗谷海峡のあたりが海水面下に没した頃、約1万3,000年から1万2,000年前(更新世の終末から完新世の初頭)であるといわれている。他方、レヴィ=ストロースは、アジアとアフリカとの度重なる接触をも指摘する。その神話の主題の一部は日本だけでなく、アフリカにさえあるという。だが、この8世紀に書かれた記紀ほどそのバラバラな要素をしっかりと構成し、極めて大きなスケールにまとめあげた例はないと言うのだ。失われたモデルが元になっているにせよ、新しく創作したにせよ、これらのテキストは日本文化の特質をあますことなく伝えているという。

日本は、なにより混淆の場であった。極めて古い時代に、比較的等質性の高い民族の型と言語と文化が、多様な要素によって形成されたのである。年古りた大陸の東端という地理的環境の中で断続的に孤立していた状況は、日本が一種の細胞膜のようなフィルターを持つことを可能にした。そして、歴史の流れによって運ばれてきてた物語が日本で合流し、そこから一つの稀なエッセンスを分離させたのである。借用と総合、混合と独創とを交互に繰り返してきた。それこそが世界における日本の位置と役割とを言い表すのに最もふさわしいとレヴィ=ストロースは言うのだ。日本は模倣ばかりしていたわけではないのである。

5.残存する縄文精神

縄文土器が他のどんな土器とも類似していないのはよく言われることである。それを日本人に知らしめたのはパリ大学でマルセル・モースに学んだ岡本太郎さんであり、レヴィ=ストロースもモースに強い影響を受けたことは、もっと知られていいことだろう。これほど古く遡ることのできる、あるいは、これほど長く(一万年もの間)続いた土器作りの技術はないとレヴィ=ストロースは言う。とりわけ縄文中期の火焔土器は、「非対称な構成」「あたりかまわぬフォルム」「ぎざぎざ、突起、コブ、渦巻き、植物曲線のからみあい」などという突飛な形容をされることが多いが、それは誤っているという。

火焔土器 前3000年ー前2000年 伝 長岡市馬高出土 東京国立博物館

火焔土器
前3000年-前2000年 伝 長岡市馬高出土
東京国立博物館

これらの器の用途や、社会的、心理的、経済的条件は、私たちがほとんど何も知らない一つの社会に具わったものだろうとレヴィ=ストロースは考える。そして、こう言うのだ。「縄文精神と呼べるようなものが現代の日本にも存続していないだろうか」と。ひょっとすると日本的美意識の変わることのない特徴は、この縄文精神かもしれないというのだ。これも見逃せない。日本的美意識を支える、その特徴は、素早く、確実な創作にある。それには、技術をこの上なく見事に操る能力、制作を前にした熟慮という二つの要素が欠かせない。この二つの条件を満たすような様式上の原則が霊感を得た縄文人にも、はるかな時を超えて現在の日本人にも受け継がれているのではないかというのである。これには不意を突かれた。そして、僕の制作態度の中にもそのような要素が確かにあると感じるのだ。

弥生時代の銅鐸の側面に繰り返し現れる様式化した線、何世紀か後の埴輪、さらの後の大和絵、そして、現在に近い浮世絵。そこここに表現の意図と手段の簡潔さが、はっきりと認められるという。グラフィックアートでは、色面と線が対立をなし、同時に補完しあっているというのだ。中国的な複雑な様式とは隔たっている。このように見ていくと、日本文化は両極端の間を揺れ動く驚くべき適合性を持っているという。日本の織物師が幾何学形と自然を写した絵柄を好んで取りあわせる。それは、あい反するものを隣合せにさえするのだ。これも岡本太郎さんのいう対極主義を思い起こさせる。西洋でもその歴史の過程で様々な変遷をたどってきたが、一つのものを別のものに取り換えることはあっても、それをもとに戻すという発想はなかった。それは日本が、はるかな過去のアニミズム的な思考に畏敬をいだき続けていることと神道の信仰や儀式が、あらゆる排他的発想を拒む世界像を有していることと関係している。

縄文的美意識 1.銅鐸 弥生時代(東京国立博物館) 2.土佐光吉『源氏物語図屏風』 3.葛飾北斎『東都浅艸本願寺』いずれも部分

縄文的美意識
1.銅鐸 弥生時代(東京国立博物館) 2.土佐光吉『源氏物語図屏風』
3.葛飾北斎『東都浅艸本願寺』いずれも部分

クロード・レヴィ=ストロースは、「月の隠れた面」の中で、こう述べている。日本は、あらゆるジャンルを一つにつなぎ、古びた出来事とさまざまな時代を混ぜ合わせ、ヨーロッパではその六、七世紀後になって現われる洗練され繊細で感性豊かな文学的様式とを、十一世紀から十三世紀のあいだに、私たちの前に一度にどっさり投げ与えるのだが、このような日本とはいったい何なのだろうかと。

日本文化の明敏さは、極めて論理的な仕方で、必ずしも日本で生まれたものではない神話の主題を上手に繋ぎ合わせる。それは、世界の神話の諸要素全体が日本に見られるという点から言い得ることである。そういう特質は中世の文学にも明らかに見られるのだ。諸制度や登場人物たちの諸動機をあれほど綿密に分析している『源氏物語』のような物語文学、『栄華物語』や『大鏡』のような歴史物語や年代記によって社会学者や民俗学者が提起してきた大問題が完全に一新されうるのだとレヴィ=ストロースは言う。「交叉イトコ婚」と呼ばれる、性が異なる兄弟の子であるいとこ同士の婚姻(貴方が女性なら、父方のオバさんの息子と結婚するのが父方交叉イトコ婚である)とか父系社会(家督・財産が父から息子に継承される社会)における母系親族の役割などについて、日本の事例はアフリカ、アメリカ北西部の社会組織を考える上で貴重な助けとなると言うのだ。

6.日本式分割主義(ディヴィジョニズム)

神話学や社会学で、日本の十世紀から十二世紀も前の文献が役立つのは、おそらく、その精神のいくつかの特質のお蔭であると言う。一つは、現実のあらゆる側面を網羅し、それぞれに等価な重要性をもたせることである。それは、職人たちが内側も外側も、表も裏も見える部分も見えない部分も同じ注意深さで扱うことに認められるという。こういったデカルトのような分析的な精神、同時に道徳的でもあり、知的でもある傾向をレヴィ=ストロースは日本式ディヴィジョニズムと呼ぶ。それは観念的なものでなく、感性的なものであることを強調している。感性的ディヴィジョニズムであるのだ。料理では素材や味を混ぜ合わせることが少なく、大和絵においては線と色彩を切りはなし、音楽においては西洋音楽とは異なり、和音の体系がない。音を混ぜ合わせるのを拒否するのである。そうそう、僕の娘のウィーンのピアノの先生は、日本には和音の変化を楽しむ文化がないと言っていた。

懐石料理 「お椀もの」

懐石料理 「お椀もの」

レヴィ=ストロースの故国フランスは大陸の西の端にあり、日本は東の端にある。この二つの国は共通の運命を背負っているという。それはアジアに起源をもつ影響が逆方向に到達した最終地点にあたるからだ。フランスがモンテーニュとデカルトの系譜の中で他の民族にもまして分析と批判の力を押し進めたように、日本は、感情と感性のあらゆる領域で、分析を好み、批判精神を発達させた。日本人は、音も、色も、匂いも、味も、密度も、肌理も、区別し、並列し、取りあわせた。経験から得られた一つ一つのデータが他の領域に共鳴を呼び起こすとレヴィ=ストロースはいう。なかなか偉大な文化ではないですか。

7.現在進行形としての神話

神話は不変であるといわれる。その不変性とは展開を続ける「変わりなさ」のことであるらしい。それは安定した静止状態にはなく、内容と形式間にずれがあり続ける。それゆえ衰退するのではなく展開し続けるのだという。確かにレヴィ=ストロースの神話学に関する記述は煩雑で読みにくい。それは彼の頭の中にきちんと整理されている膨大な神話群が、読者の頭の中にデータベースとしてないからである。次回は、そのレヴィ=ストロースの神話学に関する著作を取り上げたいと思っている。無謀としか思えないけれど一度は見上げなければならない山脈なのだろう。分析がバラバラにした、神話の素材が結晶して、どこから見ても安定し、確定した構造というイメージを呈することを期待してはいけないと彼は言う。最終段階に達することもありえない。一貫する差異としての神話。この言葉はギリシア神話に関するロベルト・カラッソ 『カドモスとハルモニアの結婚』 のブログで僕が使った言葉だ。神話という星座の見取り図あるいは体系的な一覧表をすっきり提示するのが神話論理の最終的な目標ではない。それでは神話論理とは何を目指しているのだろうか。神話は現在進行形らしい。だとすると、我々日本人の現在の神話とは何なのだろうか。私たちの悲劇は、そのことが見えなくなっていることにあるのではないのだろうか。

クレア・キッソン 『話の話』の話 ユーリー・ノルシュテインと幸福な時代の思い出

はじめに30分弱のアニメーション『話の話』をご覧ください。何も知らないで見ていただくのがベストですが、不幸にして、作者のユーリー・ノルシュテインのことについて知ってしまった人は、できるだけ忘れてくださいませんか。それがこの映像をみていただくための条件です。何も知らないで‥‥

僕が、アニメーションの可能性に目覚めたのは、とてつもなく遅かったのです。2009年に広島市現代美術館でウィリアム・ケントリッジを見た時です。はっきりと目覚めました。それは、アニメーションという僕の既成概念を軽々と打ち破り、映写の終わった白い壁面の上で堂々と勝ち誇っていました。アニメは黒い輪郭線に囲まれた中を彩り豊かに塗るものだけではなかったのです。ウォルト・ディズニーのそれが典型ですね。宮崎アニメもその例外ではなく、その延長上にありました。宮崎駿さんのアニメも娘が小さい頃は、彼女にかこつけて見に行きました。それは素晴らしいものでしたが、興行映画という枠の中で捉えておりました。しかし、ケントリッジのアニメはいったいなんと言ったらいいでしょう。アパルトヘイトを扱ったアニメだったのです。

『ウィリアム・ケントリッジの謎』DVD

『ウィリアム・ケントリッジの謎』DVD

作画は木炭とコンテでなされていました。ある種暴力的で、ある種素朴なそのデッサンが、ある時は、ぎごちなく、ある時は、流暢に南アフリカのかつての現実を描いておりました。これは何なのだろうかと。その時、アニメーションは芸術になり得ると感じたのです。噂ではニューヨーク近代美術館のキュレーターの方がわざわざ来日されて展示設定をされたとか。その展示は、確かに、かつて見たどの美術館の展示よりも美しいものでした。これは愛情の深さなのだと思いました。展示は愛情とセンスです。キュレイターの皆様。

今回ご紹介するは、僕にとっての衝撃の第二弾にあたるロシアのアニメーション作家であるユーリー・ノルシュテインに関する著作です。この人の仕事もアニメーションという既成概念を突破して地平線の果てまで到達しているかのようです。後でご紹介しますが、実写を含めたかなり複雑で意表をつく撮影方法がとられています。お楽しみに。それに最近、人形を1コマ毎に少しずつ動かしカメラで撮影し、あたかもそれ自身が連続して動いているかのように見せるアニメーション、いわゆるコマ撮りで知られるクエイ兄弟の作品が葉山の神奈川県立近代美術館で公開されていました(2016 7/22-10/10)。イギリス出身の双子の兄弟たちです。これもなかなか興味深い映像であるといえます。それは、あたかもプラハのルドルフ二世好みの機械仕掛けの人形たちのようではないですか。展覧会にあわせて『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』という本も出版されました。

『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』

『クエイ兄弟 ファントム ミュージアム』

ノルシュテインに戻りましょう。彼の作品の中でも謎に満ちた、そして最高傑作と誉の高い作品が『話の話』です。先ほどご覧いただいた動画ですね。彼の発想をもとに脚本を書いたリュドミーラ・ペトルシェフスカヤさえノルシュテインに対してこのように述べています。「あなたが、全てを撮り終えた時、あなたの意図が私には、くっきりと見えはじめたのです。私は、『話の話』を五十回以上見ました。それでも謎は残ります」と。アニメーション研究者で、[『話の話』の話]の著者であるクレア・キッソンは、このように書いています。「1980年のザグレブ国際アニメーション・フェスティバルでは、ある作品が際立っていた。誰もがその作品の噂をしていた。大賞は、かならずや、三十分もののロシア映画が受賞するに違いなかった。謎めいているにもかかわらず、この詩的で独特のユーモアに満ち哀愁を帯びた作品を誰もが、傑作だと感じていた。けれどもフェスティバルに居合わせたロシア人、あるいはロシアに精通する人々にとって‥‥むしろ、彼らにとって興味ある質問はこうだ。一体どんなロシア人が、この真に独創的な映画を、この時期に作ることを思いつけるのだろう? ‥‥作者は一体どうやって処罰を免れたのだろうか?」彼と彼の作品は謎だらけらしいのです。ノルシュテインは、それまでに、このザグレブフェスティバルを含めて、一度も海外での授賞式に主席していません。すべて渡航禁止だったのです。

『話の話』が完成した時、ゴスキノ(国家映画委員会)は、この作品の承認を取消し、20分の作品として再提出し、タイトルを『灰色狼の仔がやってくる』から『私の子供時代の思い出』に変更するように要求しました。彼らは、この作品がまったく理解できなかったのです。楽観主義と明快さが基本の社会主義リアリズムにとって不可解さは国家に対する脅威として映るのでした。これをノルシュテインは拒否するのです。それは、月給わずか二百五十ルーブルの人間が制作費の三千ルーブルを借金として背負うということを意味していました。しかし、当局の手抜かりで道が開けます。その年の国家賞の受賞候補を審議していた委員会は、好ましからざる人物としてノルシュテインを把握しておらず、その賞を彼にあたえてしまったのです。それまでの海外での受賞歴を考えるとそれは当然のことではありました。しかし、タイトルは結局『話の話』へと変更されました。

クレア・キッソン 『話の話』の話

クレア・キッソン『話の話』の話 小原信利 訳

今回ご紹介する本の著者であるクレア・キッソンは、イギリスのアニメーション研究家です。1970年代にロサンゼルス郡立美術館のアニメーション・プログラムを主宰した後、78年にイギリスのナショナル・フィルム・シアターとロンドン・フィルム・フェスティバルの企画に携わります。89年から若者やマイノリティ、知識層などを相手にする番組編成で知られるイギリスの公共テレビ局であるチャンネル4に入社。あのBBCと同じイギリスの公共放送です。そこで、多くのアニメーション映画の委託制作を手掛け、93年に『ヴィレッジ』でヨーロピアンオスカーを受賞しています。退社後、サリー・インスティテュート・オブ・アート・アンド・デザイン大学の講師となり、本書の下地となるアニメーションの研究を行います。2008年にはその業績を評価されザグレブ・アニマフェスト賞を受賞しています。こう言っては失礼ながら、彼女は筋金入りのアニメーションオタクであられるようです。こういう人が僕の傍にも欲しいのですが‥‥

1.思い出の場所

ノルシュテインは、1941年疎開先のペンザ州アンドレ-フカ村に生まれています。ドイツがロシアに侵攻した年でした。疎開後、一家はモスクワ郊外のマリーナ・ローシャの古い二階建ての市営共同住宅に移り住みます。この木造住宅が『話の話』の舞台、制作の大きなモチベーションとなりました。それは終戦後の平和な時代の思い出だったのです。ごみごみしたアパートのその暖かさと暗さが幼な児の安心感を包んでいました。ノルシュテインはこう述べています。「暖かいベットでまどろみながら、その見知らぬ仔狼を想像するのは、心地よくもあり、こわくもあった。後には多くの実現しなかった子供時代の夢とともに、仔狼も忘れ去られるのだ。仔狼は私たちの記憶の引出の底に消え去り、突然、よみがえる。おそらくは、独特の香り、ドアが軋む音、月の光の中の白モスリンゆえに。そして、つかの間よみがえって、再び何年も、あるいはおそらくは永久に消え去ってしまう前に、実際に感じられる鋭い心の痛みをかたとき、もたらすのだ。」

2.芸術への憧れ

11、2歳頃、ノルシュテインは、学校の美術の先生から週2回、才能のある子供のための特別学校で学ぶようにいわれます。15、6歳の子供たちのクラスに混じって美術を勉強していたのですが、突然、もうこなくていいと言われます。彼が体験したユダヤ人差別の最初の一撃でした。ユダヤ問題については関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 に書いておきましたね。それはスターリン時代の終わり頃のことでした。木工の技術者だったノルシュテインの父は、ユダヤ人で、古代ヘブライ語を知っていましたし、タルムード(口伝律法)とトーラー(モーセ五書)が読めましたが、彼の時代では無神論が強要され、それらの学習は皆無だったのです。ただ、宗教美術には興味を持ちました。少年の彼は、ロシアのイコン画家アンドレイ・ルブリョフの作品に感動し、風俗画家パーヴェル・フェドートフの風刺画が気に入ったようです。文学ではジュール・ベルヌ、ジョナサン・スウィフト、H.G.ウェールズ、アレクサンドル・ベリャーエフらの空想小説、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、ゴーゴリらの小説を愛していました。特にゴーゴリのロマンティックな怪談が好きだったようです。後にゴーゴリの小説『外套』は彼の手によって素晴らしいアニメーションになります(完成したでしょうか)。

3.いかにして美術の正道からはみ出しか。

ユーリ・ノルシュテイン原案 フランチェスカ・ヤ-ルブソワ 絵  『アオサギとツル』 引かれあいながらもすれ違うアオサギとツルの話です。

ユーリ・ノルシュテイン原案
フランチェスカ・ヤ-ルブソワ 絵 
『アオサギとツル』
引かれあいながらもすれ違うアオサギとツルの話。

15歳になると通常の授業と並行して美術学校に週2回通えるようになりました。そこで出会ったのが有名なロシアのアニメーターであるエドゥアルド・ナザーロフでした。高校を卒業すると絵画の道を目指して美術学校を受験しましたが全て落ちてしまいます。これは痛手でした。クラスノプレスニェンスキー美術教室の夜学に通いながら家具工場で働くことになります。梱包箱に巨大な釘を打ちこむ仕事を続けるかサユーズリトフィルム・アニメーション・スタジオの養成コースに入るしか選択肢はありませんでした。時はフルシチョフの時代に入り、いわゆる「雪解け」が始まっていました。この頃、ソルジェニーツィンの小説の表現の美しさに圧倒され、映画監督のエイゼンシュタインの回想録と理論書に傾倒していきます。そして、チャップリンやフェリーニの映画にひかれるようになりました。特にフェリーニの『アマルコルド』は刺激になったようです。後には、有名な映画監督アンドレイ・タルコフスキーにも影響を受けます。サユーズリトフィルム・アニメーション・スタジオの養成コースに入り、そこを終えると手描きのアニメーションスタジオで一年、人形部門、切り絵部門と三つのテクニックを修得して申し分ないアニメ職人となっていました。イワノフ・ワノーとの共同監督作品『ゲルジェネッツの戦い』でノルシュテインは技術部門の全てを任され、妻のフランチェスカ・ヤールブソワもデザイン部門でともに制作します。夫婦にとってのはじめての共同作業でもありました。フランチェスカは、この後もずっとノルシュテインの片腕となってアニメーション制作に携わります。彼はこの作品で共鳴、形の音楽性、動きの音楽性についての感覚を得ることになります。この映画は、ザグレブ・アニメーション・フェスティバルでグランプリを獲得しました。この頃から絵画に対する未練も薄まっていったようです。

4.アニメーターとしてのキャリア

『きりのなかのはりねずみ』 はりねずみが友人のこぐまを訪ねる途中で霧の中で白馬に出会ったり、川に落ちて魚にたすけられたりする物語です。

『きりのなかのはりねずみ』
はりねずみが友人のこぐまを訪ねる途中で霧の中で白馬に出会ったり、川に落ちて魚に助けられたりする物語です。

次の作品『きつねとうさぎ』、『アオサギとツル』と革新的な作品を次々と生み出していきました。これまでの彼の作品は切り絵アニメーションでした。それはインドネシアのワヤン・クリの影絵に見られるような紙人形のようなものです。しかし、『アオサギとツル』では手描きのアニメーションを試します。セルの端を黒い絵の具で塗り、光を透過させないで表面に様々なテクスチャー(質感)を加えます。登場人物や背景にテクスチャーを加えた複数層のセルを用いたのです。「我々の方法では、背景の厚みさえ意味を持っています。平らな表面上に同じものを描いても、同じような光学的な効果は生まれません。複雑な背景を作り、‥‥その一層上にまた層を載せると、空気感が、空間の感覚が生まれます。私はそれが大好きで、フランチェスカはそれを完璧にこなすのです」と彼は述べています。通常の撮影台は二次元のアニメに奥行を与えるためにターンテーブル上に三次元セットが組まれ、カメラはその横に置かれます。あるいは、カメラの下方に設置された個別に動かせる何枚かのガラス板の上にセルを置きズームにしながら左右にスパンできるというようなシステムがありました。早逝したカメラマンのジュコフスキーと一緒にノルシュタインは独自のマルチプレーン(撮影台)を考案します。それにカメラを三脚に取り付け撮影台の一番上に置いて垂直にも水平にも移動でき、アングルも変えられるようにしています。

『ユーリー・ノルシュテインの仕事』

『ユーリー・ノルシュテインの仕事』 ふゅーじよんぷろだくと

ここでキッソンの[『話の話』の話]から少し離れます。 ふゅーじよんぷろだくと発行の『ユーリー・ノルシュテインの仕事』 には制作の様子が詳しく書かれていて、とても興味深いものがあります。きっとアニメ―ションファンにはたまらないでしょう。絵コンテを描く時にはイメージが優先されます。技術について可能性があるかどうかなどいっさい考えないようです。シナリオを書くには登場人物のキャラクターの特徴を捕まえなければならないそうです。ハリネズミのように霧の中に入っていく人物は好奇心が強いでしょう。好奇心のある人間は世界中を絶えず眺めています。彼にとって蝶も面白く、星も面白い、水たまりも見るというわけです。そして、ハリネズミがセルで作られるのですが、セルに顔、ハリ、目、口、胴体などの部分を別々に描いて、それらの部品を寄せ集めて切り絵のキャラクターを作り、それを動かしています。その部品のヴァリエーションは膨大な数にのぼります。ミミズクが水たまりを足でかき回す場面では、ミミズクの足を作り、それを使って実際の器の中で、水をかき回して波紋を作り、それを実写しました。物語の大切な要素である霧はセルにエアブラシで白い塗料を吹きかけ、それを撮影台に置いて必要な方向に動かしています。そのセルは間隔をあけて何段にも重ねられていてキャラクターを順次上の段に置き換えていくと霧の中かから現れてくる様子を撮影することができるというわけです。

5.東洋の影響

芭蕉連句アニメーション『冬の日』

芭蕉連句アニメーション『冬の日』

キッソンの著作に戻りましょう。ノルシュテインが15歳ころから興味を持ち始めたものの中に日本の短歌と俳句がありました。それによって東洋の哲学や芸術に関心がむけられていきます。彼と日本の詩歌との出会いは、「魂の融合」というべきものであったようです。彼は、そのいわく言い難い特質の虜になりました。アニメーションを始めた頃、既に空間、物体、自然、死に対する日本の哲学的、宗教的原理のほうが自分が育った文化よりずっと自分の作品にピッタリだと感じはじめていたようです。いつか日本の詩人・歌人についての短編アニメーションを作りたいという希望は、35名のアニメ作家合作による芭蕉の連句アニメーション『冬の日』に結実することになりました。芭蕉が『野ざらし紀行』のための旅の途中、名古屋の門人たちと詠んだ連句です。彼は芭蕉の発句「狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉」を担当しました。

そして、ノルシュテインは別のインタヴューでこのように述べています。「私は『外套』(ゴーゴリ原作のアニメーション)を作りながら、『のっぺらぼう』という日本の幽霊の絵を見ていました。表情とは何か。芥川龍之介の短編小説にあるように、全然リアルでないもののなかに、ほんとうにリアルなものを感じるのです。なにか爆発しそうなものを、じっと抑え込んでいる表情を(小野耕世『世界のアニメーション作家たち』)」。『外套』も素晴らしい作品です。描画は一見ラフに見えますが、あの手の動きや表情の襞、毛布の中の体の動きは奇蹟と言っていいと思います。

6.話の話へ

ユーリー・ノルシュテイン 『フラーニャと私』 児島宏子 訳 フラーニャはノルシュテインの奥さんフランチェスカの愛称です。この本には、ノルシュテインの自分の各作品に対する思いが書かれています。

ユーリー・ノルシュテイン
『フラーニャと私』 児島宏子 訳
フラーニャはノルシュテインの奥さんフランチェスカの愛称です。この本には、ノルシュテインの自らの作品に対する思いが書かれています。

さあ、『話の話』にいよいよ到着しました。この作品はノルシュテインの極めて個人的な幼年時代の記憶に基づいています。その制作動機はタルコフスキ―の『鏡』と似ていて、ストーリーが錯綜しているのもよく似ています。『話の話』の中で冬の日に少年がリンゴを食べている場面が、私には、その『鏡』の中で、射撃の練習場で頭に小鳥を載せる少年の姿とどうしても重なってしまうのです。

ノルシュテインはこう書いています。「これは記憶についての映画になるはずです。子供時代には一日がどんなに長かったか、覚えておられるでしょうか? 毎日がひとりでにはじまり、続き、終わりました。今日という日は今日だけ成立し、明日の幸せは、明日という日に持ち越されます(『フラーニャと私』)」。

そして、彼には狼の仔が何故現われたのかよく分かりません。子供時代からやって来たのは確かです。「このキャラクター、ヒーローは私の子供時代に確かに生きていた。私が去った家に、彼はとどまって暮らしていたような気がする。‥‥どんな家にもダマヴォイ(家の精霊/ザシキワラシ)は、必ずいるだろうから(同上)」。溺れさせられようとした子猫の写真が仔狼の目のモデルになります。それは「邪悪に満ちた悪魔のような火の色で燃え、もう一方はどこか、あらぬ所にいるように火が消えている‥‥まったく死んでいる(同上)。」そんな目をしているのです。とても印象的な目です。

「‥‥旅人が行く。食卓に招かれ、ネコは海を眺め、海ではサカナが泳いでいる‥‥特別なことは何も起こらない。だが、実際にとって、この、事件のなさが、ずっと強烈で壮大であることがあきらかになった。聴覚や視覚をいたずらに刺激するが、心はあまり響かずに絶え間無く変化する事件よりも(『フラーニャと私』)。」永遠と名づけられたエピソードです。そこには、世界との完全な調和があります。それは、広場でタンゴを踊る人たちが、射的場の的のように撃ち倒され、戦争に連れて行かれるシーンと対になっているのです。ノルシュテインはこう書いています。「戦争が終わってから50年以上も経っているにもかかわらず、私たちは平和に暮らすのがどういうことなのか、本当には分かっていない。そのためには、戦争や強制された死についてではなく、生命、暮らし、人生があり、人々がそれにどのような意味を込めるかについて考えながら、数世代の人々が平和の中で暮らさなければならない。自分の人生をいかなる意味、目的、価値、思想、知性で満たせばいいか考えながら、生きていきたいものだ。私たちの精神、心の空間が広がり発展するのか、反対に狭く低くなるのかは、そのような考え方を願望するか、しないかに深くかかわるだろう(同上)。」これは、大変重要な指摘だと思います。

キッソンは、その著書[『話の話』の話]の中で重要な秘密を洩らします。もし、『話の話』の謎を解く鍵をお知りになりたいのなら以下の子守歌とエピグラフ(題辞)を読みください。ノルシュテイン自身が書いたエピグラフです。でも、謎は謎のままにしておく方が幸せな場合もありますね。警告しておきますが読まない方がよいのかもしれませんよ。そう言われれば、読みたくなるのが人情ですが‥‥

ねんねんころり
端っこには寝ないでね
灰色の仔狼がやってくるから
オオカミは わき腹をひっつかむ
オオカミは わき腹をひっつかむ
そして、森へひきずって行く
ヤナギの茂みの下に

「戦争の終わりに、叔母が前線から帰ってきました。赤ん坊を亡くしたばかりで、まだ出るお乳を、私に飲むように、といってくれたのでした。眠る前に母親が「灰色の仔狼がやってくる」という子守歌を歌ってくれました。廊下の端には、通りに出るドアがありました。そのドアの向こうには永遠の幸せ、明かり、話ができる猫、砂糖をまぶしたパンが待っているかのようでした。当時は思い出だけが永遠だとは知りませんでした。人生をまるごと記憶することになるのだとは。戦争から帰還できなかった兵士、窓の下の木、母親が歌った灰色の仔狼の子守歌、廊下のドアの向こうの明かり。(ノルシュテイン『話の話』のエピグラフ)」

三上賀代 『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』 犬に打ち負かされる裸体

この宇宙に咆哮するミシャグチ神のような人々の戯れとも祈りとも自然を再創造する儀式ともつかないパフォーマンスをご覧いただきたい。その時、僕は広島から倉敷行の胸躍る電車に乗りながら、白塗りってなんで塗るのだろうかとか、舞台はやはり粉が舞うのだろうかとか、宙吊りってどれくらいの高さからなのだろうとあれこれ想像を巡らせて落ち着かない座席から窓の外を眺めていた。それは、憧れだけが人に与えることのできる淡い幸福なひと時だった。そして、そういった憧れのもたらす果報も代償もまだその頃は知らないでいた。

日本の舞踏集団である山海塾のオフィシャル映像、2011年の DVD “KAGEMI”の一場面である。僕が舞踏なるものを初めて見たのは、倉敷で行われた山海塾の1985年の日本ツアーで、その時の演目は、『金柑少年』と『縄文頌』だった。確か中西夏之(なかにし なつゆき)さんが作った巨大な金属の輪が舞台にあった。その頃に比べるとメンバーも随分変わったし、舞台芸術としてかなりソフィスティケートされたのではないかと思っている。このグループもまた、日本の舞踏を世界の「BUTOH」にした立役者たちであるのだ。麿赤兒(まろ あかじ)の大駱駝艦、大須賀勇の白虎社、友惠しづねと白桃房、そして今回ご紹介するとりふね舞踏舎の三上賀代(みかみ かよ)らがいた。「舞踏」を創始した人々は、それを生産性社会にとって最も憎むべき敵、あるいはそのタブーとして作り上げたという。「悪の体験のもとに血をふき上げる」ようなサクリファイスがあらゆる作業のみなもとであり、それ故「ダンサーはその特質を体験するために放たれた落とし児」として生まれると考えられたのだ。それは、全共闘時代の反体制的な若者文化にシンクロしていた。それを築き上げた人たちが、以前ご紹介した大野一雄(おおの かずお/1906-2010)さん、そして、今回ご紹介する土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)さんのお二人であった。

山海塾日本縦断ツアーパンフレット 1985

山海塾日本縦断ツアーパンフレット 1985

僕が土方巽と言う人にずっと憧れを持っていたのは確かなことだし、若い頃、その著作『美貌の青空』を読んで頭を抱えたのもそれ以上に確かなことだった。その後、『病める舞姫』のほうがもっと「ワカラナイ」ということを発見した。おおよそ「意味を解く」ということとは縁遠い金輪奈落に住んでいたのである。秋田で生まれ育った生い立ちの記録である『病める舞姫』では、こんな言葉が延々と続くのだが‥‥

「私はたかだか影一匁(もんめ)なのだ。そう、決めてしまうと、空を鉋(かんな)で削るような気持ちにもなり力も形も鉋屑のように翻って気持ちも乾いてくるのだった。木槌で叩かれたように踝(くるぶし)が急に軽くなって、表へ出ていっては飛ぶ影の練習をするのだった。いろいろなだぶった表情をぶら下げて、それを切断するように[飛ぶ影]などと言った呪文をとなえて、刃物の影に似せて飛んでいた。そこには、風の影も発熱して集合していた。揺れているもの、震えているものが一つになっていたはずだが、その寸法は見えてこなかった。私の五厘刈の頭髪の中にひそんでいたからだ。こういう状態にくたびれると、そのくたびれを愛人のようにして道端に立って顎を落としてもいた。顎を落とした場所も、その顎ももう見つからないだろう。私の白こぼの頭からは、白い薄い乾燥した瘡蓋(かさぶた)がはらはらと落ちてもいた。そのような道路を、いろいろな時間を喰いつぶした虱だらけの耄碌婆(もうろくばあ)が、鬼婆めいて空鍋になったようにゆたらゆたらとあっちから近づいて来るのであった。私の眼につく花はこんなものだった。この老婆には、誰でも道をあけて考えごとを考えさせないような顔になったり、粉のように解(ほど)け挨拶したりするのだった。 白っぽく汚れた闇に爛れたような昼間の眼玉がのめり込んで見えた‥‥」

野口三千三(1914-1998) 『原初生命体としての人間-野口体操の理論』

野口三千三(1914-1998)
『原初生命体としての人間-野口体操の理論』

やがて、この独特の文体から意味をとり出そうとするのは賢明ではないと思うようになった。それは宮澤賢治を読むように、その情景の中に「のりかかる世界」を追体験することに腐心する必要があるのだ。木槌で叩かれたように踝(くるぶし)が急に軽くなったことのある者、呪文をとなえて刃物の影に似せて飛んだことのある者のみが、その体験を想起でき、その世界に自身を添わせることができる。体験し得たことがくっきりと体験し得なかったことがぼんやりと斑に映し出される幻燈会。読む者にとっては、そのような文章なのである。でも、今回は文学論ではなく舞踏に関する事柄を見て行くつもりである。その方が誠実であろう。

今回は、三上賀代(みかみ かよ)さんの著作『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』を取り上げる。それに加えて土方さんご本人の著作である『美貌の青空』、そして、土方夫人である元藤燁子(もとふじ あきこ)さんの『土方巽とともに』などを併せてご紹介する予定である。三上さんは土方巽の弟子だった人だ。お茶の水女子大学の大学院博士課程(学術博士、舞踊学)を修了された。土方巽の稽古の現場から採取した「稽古ノート」を基に土方舞踏のコード解読を試み、今日の舞踏研究のパイオニアとされる人である。自身、舞踏家であり、とりふね舞踏舎を主宰なさっている。京都精華大学でも教鞭を執っておられるようだ。この人は、野口体操の創始者である野口三千三(のぐち みちぞう)さんにも師事された。これはユニークかもしれない。野口体操とはからだの動きを通して人間を見直す「身体哲学」としても、幅広い層の人々に支持されているという。生きること、それ自体が創造だと捉えれば、創造する前に自分自身のからだをニュートラルにしておくことが重要だと考える。まず、最初の方法として生きもの本来の在り方である柔らかさを探るというのである。

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986) 『土方巽全集Ⅰ』

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
『土方巽全集Ⅰ』

三上さんによれば、海外で、「BUTOH」は、しばしばこのような評価のされ方をしてきた。例えば、1980年代のニューヨーク・アジアンソサエティーのボニー・スー・スタインの言葉、「ショッキングで、挑発的で、肉体的で、精神的で、エロティックで、グロテスクで、暴力的で、宇宙的で、虚無的で、浄化性があって神秘的である。とりわけ、初期の「暗黒舞踏」と呼ばれていた頃は、ショッキング、挑発的、エロティック、グロテスクといった部分に力点が置かれていたのは確かだと思う。あるいは、あまりにしなやかに移行するので突然の変異があったとは到底思えないような、絶えず変容し続ける、永続する変態のプロセス‥‥とか、日本の舞踏は「静止したマイムダンスの形」であり、実際にはいつも変化しているのだが‥‥その変身の進行が余りに完璧に加工してあるので、もう何世紀もそこに存在していたように見える‥‥などなど。では、そのBUTOHの原点である「暗黒舞踏」とは、どのようなものであったのだろうか。

土方自信はこう述べている。「自分の踊りは決して古典舞踏に対するアンチではない。むしろ、人間概念の拡張であり、動物も植物も生命のない物体をも含めた、あらゆるものに人間の肉体のメタモルフォーズする可能性を発見するということに、自分の舞踏の根本理念を置いている(『アスベスト館通信第5号』)」という。人間の肉体の変容によって人間概念は拡張されるというのである。人間概念の拡張は、よくヨーゼフ・ボイスが言っていたことだったが、土方のこの拡張は外側へばかりにではなかったのだ。

そして、こんなことも書いている。「‥‥わたくしが生きている中でなかなか確認できないことの意味に、わたくしは何度も憧れてきましたが、わたくしの才能の中でそれは生々としていません。わたくしが老人の枯れ木のような肉体や濡れた動物を大切にするのは、もしかしたら、そのような憧れに近付けると思うからなのです。わたくしの体には、バラバラにされて何処か寒い所に身を隠したいという願望があります。そこがやはりわたくしの帰る所であると思うのですが、そこで、カチカチに凍って、今にも転倒しそうにまでなって、この目で見て来たものは、やはり、死ということを死に続けるものたちの親近感に尽きることだ、と納得しているわけです。死体を飼育してみたいと思うことがあります‥‥(『美貌の青空』犬の静脈に嫉妬することから)」。既に舞踏の在所には死体が臨座していたのである。「‥‥死に死に死に死んで死の終りに冥し(『秘蔵宝鑰/ひぞうほうやく』序)」 という空海にも連なる死生観。

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)  『美貌の青空』

土方 巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
 『美貌の青空』

土方巽、本名米山九日生(よねやま くにお)は1928年秋田に生まれた。生家は半農の蕎麦屋で、11人兄弟の10人目であったという。父は村長の息子で、生家は比較的豊かだったようだ。『病める舞姫』には、蕎麦をゆでていたのだろうか釜の底から湯気の立つ様子が、かなり克明に描写されている。そして、その頃、子供であった土方は、おそらく他の子供と同じように、藁でできた、おひつの保温容器である飯詰(いづめ)の中に入れられて出られないように紐で結わえられて田んぼの畔にほったらかされていた。その描写も『美貌の青空』に詳しい。それは、暗黒舞踏発祥の伝説にさえなっているようだ。

泣いても叫んでも通じない大空に夕暮が迫る頃、飯詰から抜かれると立てない。完全に足が折れて、感覚が無くなっている。糞尿にまみれた足が体からスーッと逃げて行く。それは、滑稽で厳粛でせっぱつまっていたという。そこには立とうとして立てない足、「立つ」という意志に反する体があった。ここに「崩れる」一瞬前の必死で突っ立とうとする「立ち」方という他に類をみない基本型が成立するのである。立つことについて、このような土方のコメントがある。「東京に出て来た頃は、死刑囚の歩行を原点にしたりしてね、立っているんじゃなくて崩れているんだと。そういう灰柱の歩行を舞踏の原点にしないと大変なことになる‥‥(『極端な豪奢』W-Notation No.2インタヴュー)。」

ここから三上賀代『器としての身體』から舞踏の身体技法について具体的に見て行きたい。ここは、とても興味深い所だ。

三上賀代  『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』

三上賀代
 『器としての身體―土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』 春風社

「死刑台に向かって歩かされる死刑囚」の生と死の抗争、生きたいという「想い」と歩行を強いられる「身体」の背反は、歩きたい「想い」と歩けない「身体」に重なる。舞踏における「立つ」とは「崩れる」に接近するという。歩行は「灰柱の歩行」を原点にしていると三上さんは書いている。「柱」は神を数える時に添える言葉であり、「人柱」のように犠牲者にも用いるという。僕は、土方が『病める舞姫』でよく使う「蚊柱」にも通ずるのでないかとも思うけれど、それは、やはり灰という死のイメ―ジに漂泊されているのだ。風の一吹きに崩れながらも「灰」となっても形を保ち、「灰柱」となって漂う。立てないものが立とうとする拮抗状態が、一瞬崩れて生む動き。その灰柱は水母やタンポポの浮遊、触覚だけによる人体の把握などへと拡張される。それは無数の死に介在された状態だというのである。

重要な身体技法の一つは歩行である。その歩行は「寸法の歩行」によって規定されるという。あまりにも無数の感情が内包されているために寸法になってしまったらしい(『稽古ノート』)。その規定を三上さんが纏めているものをご紹介しよう。土方巽の高弟であった芦川羊子(あしかわ ようこ)さんが1989年のワークショップで発表した歩行の要件(イ~ヲ)を、4つの項目に分けて再構成したものだ。

1.軸をとる
天と地の間を寸法すなわち長軸となって摺足で移動する。
(イ)寸法となって歩行する。
(ロ)天界と地界の間を歩くのではなく、移行する
(へ)頭上の水盤

2.視線を消す
額に一つ目をイメージすることで神経は額に集中し、それによって背後(後頭部)からの視線が生まれるという。眼は見るという意志や認識を持たないガラス玉となって風景を映す。
(ハ)ガラスの目玉、額に一つ目をつける
(ニ)見る速度より映る速度の方が迅い

3.足を消す(膝が緩む)
カミソリの刃に体重をかけまいとして浮遊感が生じ、膝はゆるむ。そのためには腰がゆるまなければならない。腰がゆるむことによって足の裏が機能し、様々な動きへの対応、調整が可能になる。筋肉や内臓を消し去って空洞になった体を糸で吊るとイメージする。そうして、操り人形のような自由さ軽さ薄さを手に入れる。
(ホ)足裏にカミソリの刃
(ト)蜘蛛の糸で関節が吊(つ)られている
(ヌ)奥歯の森、体の中の空洞に糸

4.命がかたちに追いすがる
「歩く」という意志によって体が動くのではなく、願いが「かたち」を追いかけるようにして動きが生み出されていく。「かたち」は願いという魂、つまり、「いのち」の現われだという。
(チ)歩きたいという願いが先行して、かたちがあとから追いすがる
(ル)既に眼は見ることを止め、足は歩むことを止めるだろう そこに在ることが歩む眼、歩む足となるだろう
(ヲ)歩みが途切れ途切れの不連続を要請し空間の拡がりを促す。

フランシス・ゴヤ(1746-1828) 『魔女の集会』部分1820-23

フランシス・ゴヤ(1746-1828) 『魔女の集会』 部分 1820-23

この歩き方を基本にして、その数が200を超えるといわれる舞踏の型が生まれる。そして、舞踏のメタモルフォーゼとは、この型が刻々と変化することを指している。「観察に観察をして、そのものを存在せしめているもの」、つまり「必然性の現出」としての型を模索したという。それは本人言うところの「写実主義」であるが、「本質直観」が「スパーク」するような独特の認識方法に基づく写実主義であったという。『病める舞姫』にたっぷり登場するあの「写実主義」なのだ。ここらあたりは、能の「物まね」と比較して興味深い所だが、その対象となったのは鶏、犬、猫、馬、蛇といった動物、それに幽霊、妖怪、邪鬼、仏像、狂人などがあり、また、美術家の名前を冠した「型」も多いらしく、イメージの源泉に絵画を置いていた例が多くあるという。ほとんどが負のイメージを背負っている。例えば、ゴヤ、ムンク、ルドン、ボッシュ、ベーコン、ターナー、ブレダン、ビアズレー、ミショー、ベルメールなどである。ここでは、ゴヤに簡単に触れたい。

「ゴヤ ウミの法王」と呼ばれる型の成立条件には、①ウミ、よだれ、耳だれ、肉ずれ、闇。②脳みそが口まで垂れ下がっている。③ウミの法衣を肘でたぐっている。④肉ずれ―あっちズレ、こっちズレ。⑤闇に没していくウミの法王。⑥ズレをずらす時間の管理―分散とある。だが、実際にどのような型なのかは、その姿を写した写真がなければ想像していただくほかはないのだが、しかし、このウミの法王は体液だらけでかなり汚い。当然、ゴヤが宮廷画家として華やかなりし日々を過ごしていた当時のマハをモデルにしていたような絵画ではなく、晩年、狂気を兆し耳の聞こえなくなった時代の「黒い絵」を指している。

1.言語→イメージ→知覚→動きという神経回路を作りあげることが舞踏の訓練である。

2.完全な受動性
この「型」は、イメージへの「かかわり」という俯瞰的身体意識によって創り出される。例えば、「虫の歩行」では顎や首に這う虫が増えて、毛穴、毛穴から内臓、身体周囲の空間を移動する。この時点でイメージ化されるヴァーチャルな感覚への意識は分散されて多焦点となる。体の各部分へ意識を分散するのは、グルジェフワークの特徴だったのだが‥‥そして、それは空間や肉体を食う虫となり、その虫によって食われた体はヌケガラとなって突っ立った物体と化してしまい、ついに「ご臨終」となるのである。八万六千の疫病神が毛穴から侵入する津島天王祭の「御葦流し」を思い起こさせる。それはともかく、虫に食われるイメージというヴァーチャルな刺激は、「踊る」ように体を押し出す。それによって、身体は「完全な受動性」「無境界の自在性」となるのである。そして、ついに、必死で突っ立っている死体となって「停止のままの持続」となるというのである。

オーブリー・ビアズレー(1872-1898)  オスカー・ワイルド『サロメ』挿絵 1894  神経のような吊り糸のようなビアズレーの線

オーブリー・ビアズレー(1872-1898) 
オスカー・ワイルド『サロメ』挿絵 1894
神経のような吊り糸のようなビアズレーの線

3.自在性のための吊り糸
土方は、稽古の最初に舞踏の自在性を求めた。それは「自滅することを選びとる」切実な思いを起点に、「一本の糸」を信じることで、自らが動くと言う意志から解放されることによって成立する。ビアズレーの絵のように糸が「神経」になるのだ。「一本の糸で鳩尾から吊りあげられる身体」は、さらに「額、奥歯、両耳‥‥無数の糸」に吊られ「誘われる」ままに移行するという。

4.「なる」身体
「顔の劇場」は、<半眼微笑>の他、6つの型で示される。それは、「光、背後の闇、音、沈丁花の匂い、頭蓋の中への意識、熱、痛み」などのイメージに「かかわる」ことによって質感を持った表情になるという。それも、瞬時にして「次から次へと変貌する」ことが要求される。言語イメージを瞬時に体現するための、イメージを信じる力、あるいはイメージへの投企が求められるというのだ。それは「なす」身体ではなく、「なる」身体であった。それも、忽ちやけどのあとが出来るようにいきなり「なる」のである。

5.身体の霧化
皮膚は体の内側と外側の境界線である。灰柱になるためにはその境界を消す必要がある。それによって身体は稀薄化され、「霧化」されるのである。型の成立条件には、温度、湿度、音、光、匂いなど気配に関わる言葉が多い。そして身体内部では知覚しにくい内臓、脳みそ、毛細血管にいたるまでイメージ言語の対象とされる。いわば、この外触覚と内触覚との境が融けて混ざり霧と化するというのである。

土方巽は言う。「自分のからだの中に、自分の腕が自分の腕でないように感じ取る、ここに重要な秘密が隠されている(『風だるま』現代詩手帳1985年5月)」。彼の最後のワークショップのテーマは「メカニズムにかかわる己の消滅へ」であったという。それは、『美貌の青空』にあるように「スペクタクルの究極点は、官能の欲求や、私達が肉体と呼んでいるものと遠くかけ離れた、或いは何の関係もない脆さに向かっている‥‥」という記述や、「舞踏する器は、舞踏を招き入れる器でもある。どちらにせよ、その器は絶えずからっぽの状態を保持していなければならない。過度の充足、突然の闖入(ちんにゅう)物の小爆発によって抜け出た物の後に、続いて移体する。このような状態で励まされる空虚が、舞踏の律動なのである。舞踏は、からっぽの絶えざる入れ替えである。自・他がトランス状態において保持されている。‥‥抜け出ていった自分は、当然いまある自分に変容されている。(『美貌の青空』 遊びのレトリック)」

以上、三上賀代さんの『器としての身體』からプロットしてみた。

元藤燁子(もとふじ あきこ) 『土方巽とともに』 土方巽夫人による感動的な土方伝

元藤燁子(もとふじ あきこ)
『土方巽とともに』
土方巽夫人による感動的な土方伝

土方巽夫人であり、舞踏家であった元藤燁子(もとふじ あきこ)さんが、彼との思い出を綴った『土方巽とともに』は極めて感動的な文章である。一度読んでみられることをお薦めしたい。舞踏家の奥さんは皆さん素晴らしいのかもしれない。それは、ともかく、ここからいくつかご紹介しよう。

阿佐ヶ谷の三畳間の下宿を出て、日比谷公園で数か月野宿したこともあるという。それは、二人にとって「最高の生活」だった。そして、大野一雄宅に近い横浜の赤門町の六畳間に移った。当時、二人はクラブやテレビのコマーシャルなどで踊っていた。みな苦しみの中で新しい芸術を作り、自分たちもまた手さぐりだったという。1960年頃のことだ。マジシャンや落語家など多様な芸人たちとも交わった。そんな頃、モンパリという小さなクラブに仕事に出た時のことなのだが、そのすぐ近くに刑務所があり、土方は、この中でどんな暮らしがなされているのだろうか、死刑の宣告を受けた人はどんな歩行をするのだろうかと問い、その分厚いコンククリートの壁のそばで真剣にその歩行に取り組んでいた姿を夫人は見たという。その時の思いは「刑務所へ」という文章になって残された。

「文明化された道徳の全勢力は、資本主義的経済体制や政治体制と手を結んで、肉体を単に享楽の目的や手段、あるいは道具として使うことに強い反対を唱えている。いわんや、ぼくが舞踏と名づける無目的な肉体の使用は、生産性社会にとっての最も憎むべき敵であり、タブーでなければなるまい。ぼくの舞踏が犯罪や、男色や、祭典や、儀式と基盤を共通にしていると言い得るのも、それが生産性社会に対して、あからさまに無目的を誇示する行為だからである。この意味で素朴な自然との闘い、犯罪や男色をもふくめた人間の自己活動に基礎を置いたぼくの舞踏は、資本主義社会の[労働の疎外]に対する、ひとつの抗議でもあり得るはずだとぼくは考える(『美貌の青空』刑務所へ)。」それは、こんな著書とも響きあっている。フランスの哲学者ドゥルーズと精神科医ガタリの共著『アンチ・オイディプス』では、人間の欲望とは諸機械であり、生産の生産という特質を持つ。それは、社会的生産とパラレルであって、ちょうど「貨幣が貨幣を生む生産的形態」と等しいという。資本主義社会における欲望の生産は、物質の連続的な流れの中における<欲望する諸機械>と同じ構造であるらしい。そして、欲望する諸機械の転身した姿がパラノイア機械なのだ。この土方の文章は、同じ資本主義によって歪められ、疎外される人間の有様をプロテストしている。

翌年、大田区の洗足池の近くに引っ越す。三か月に一度のペースで大きな公演を行い、その合間は地方を含めたクラブを転々としていたという。「立ち止まると死んでしまう。日常がもろに舞台につながっている。生活と切断された舞台は飾り物にすぎない。だから絶えず危機感を培養する側に回るのだ」と語っていた。舞台装置を移動するように引っ越したらしい。実に二年に一回のペースで住まいを変えていた。稽古は、厳しいものだったようだが、舞踏の外での土方は、家族などへの情愛の細やかな人であったという。しかし、はしゃぎ始めると結構行き過ぎる性格であったらしいのだ。磯崎新(いそざき あらた)の自宅のパーティーで篠原有司男(しのはら うしお)と一緒に全裸で屋根の上を飛び回りパトカーが出動したとか、稽古場のアスベスト館に蒲団を敷き詰めて澁澤龍彦(しぶさわ たつひこ)や美術家の連中と二階から飛び降りて騒いだと言う。

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

舞踏の技術とは方法的に錯乱することであり、型の一つ一つの条件に本気で関わることによって、これ以上受容できないという極限状態にまで至った時に、それに直面し、自己を投げ出してはじめて「なる」ことが可能になるという。それは「衰弱体の採集」と呼ばれた。「衰弱体」とは、一種の「覚醒した体」、「透明な身体」なのである。ここで思い出されるのは、ドゥルーズが『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』の中で書いていたことだ。そこでは、先ほどの有機体を形成する<欲望する諸機械>に対抗する存在として<器官なき身体>が考えられていた。それは「身体の精神性」、「死の本能」であるという。「舞踏」は自己を消滅させることによって自在性を得るという極めて東洋的・日本的な方法論によって成立する。いわば身体によって解く公案なのである。こうなると土方自身が述べたように「舞踏」から新しい哲学が生まれるのかもしれない。

「犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができます。これは、やはり、舞踏の必須科目で、舞踏家は一体何の先祖なのかということにつながってゆきます。わたしはあばらの骨が大好きですが、それも犬のほうが、わたくしのそれよりも勝っているように思われます。‥‥雨の降る日など、犬のあばらを見て敗北感を味わってしまうことがあります。それにわたくしの舞踏には、もともと邪魔な脂肪と曲線の過剰は必要ではないのです。骨と皮、それにぎりぎりの必要量の筋肉が理想です。もし、犬に静脈が浮いているのなら、おなごの体など金輪際要らなくなると思います‥‥(『美貌の青空』犬の静脈に嫉妬することから)。」土方とその夫人との苦しい生活は続いていた。だが、やがて、運命の時がやってくる。畢生の舞台となった「土方巽と日本人―肉体の叛乱」の準備が進んでいた。この公演の二ヶ月前から土方は食事を一切取らず毎朝かなりの距離を走り、合間にクラシックバレエのレッスンを繰り返したと言う。牛乳を飲むだけだった。体は完全に研ぎ澄まされ、磨き抜かれたという。それによってあばら骨は完璧な美しさになったのだ。1968年の秋のこと、その公演は昭和における一つの「事件」とまで言われた。

 

土方巽の踊る姿が残された映像は少ないのですが、ソロ舞踏である『少女』を添えておきます。

沖本幸子『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』 踊る大黒に三番叟

ラフカディオ・ハーン(1850-1904)

ラフカディオ・ハーン(1850-1904)

「‥‥日本の下駄は、それをはいて歩くと、いずれもみな左右わずかに違った音がする――片方がクリンといえば、もう一方がクランと鳴る。だからその足音は、微妙に異なる二拍子のこだまとなって響く。駅のあたりの舗装された道などでは、ことのほかよく響く。そして長く尾を引いた木の音が何ともおどけた効果でも出したりすると、時々群集がわざと足並みを揃えたのかと思う。(「東洋の第一日」西成彦訳)」

小泉八雲こと、ラフカディオ・ハーンは、『Glimpses of Unfamiliar Japan/知られざる日本の面影』の第一章「東洋の第一日」の中で、革靴に変形されていない日本人の美しい足を称賛した後、上記のように述べている。イオニア海にあるレフカダ島で生まれた彼は、アメリカや西インド諸島マルティニーク島などでクレオールな文化を吸収し、39歳で日本にやってきたが、16歳の時に事故で左目を失明、右目も視力が衰えるばかりという重度の視力障害を抱えていた。漢字を学習するのを諦めた要因とされている。そのためなのか音に対して極めて鋭敏だったようだ。それを、この記述などからも窺い知ることができる。とりわけ第七章「神々の国の都」では松江時代の音や音楽が重要なテーマとなっている。そして、この地で出会った大黒舞の音楽に魂を揺さぶられることになるのだ。だけど、視覚的な描写もなかなか素晴らしいと僕は思う。

西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』

西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』

「老婆が細い棒(簓/ささら)を擦り合わせると、大黒組(槌と扇を持って歌うグループ)の咽喉から澄んだやさしい歌声がとびだしてきた。その歌は、日本でわたくしが聞いた歌とはまるで趣きの違ったものであった。(囃子を受け持つ恵比寿党が)カスタネット(四つ竹)をカチカチ鳴らす音が、早口で語られる歌詞(囃子ことば)の合間合間に、ぴたりとびたりと挟まれるのだ。‥‥演技者は老婆を除いて、誰ひとり歌いながら地面から足をあげるものはいなかった。ただ、歌の節に合わせて体を揺り動かすだけだった。‥‥歌っていることばはひとこともわたしにはわからなかったが、曲が終わったときにはまだまだ聴きたいと思ったくらいであった。」ハーンは感想をこう述べた。訳は西成彦(にし まさひこ)さんの『ラフカディオ・ハーンの耳』から引用させていただいている。西さんによれば、彼はこの大黒舞をイギリスの物語りや寓意を含んだ伝承歌であるバラッドのように仕上げられると考えたようだ。

ハーンは友人の西田千太郎に頼んで囃子も含めたテキストを送ってもらった。一部をご紹介しよう。「イヤーあきほうより若大黒、若恵比寿御家御繁昌と舞い込んだ。ア、イヤー申しましようかや祝ひましよう何を申してよかろやら。小栗判官物語いちぶ始終を申すなら。ア、イヤー其名も高倉大納言イヤ、兼家公と申するは。ア、イヤー四方に四つの蔵をもちイヤ、八方に八つの蔵をもち。(ハヤシ)イヤソウデハノウタラコ、あなたの床前ながめて見れば、七福神サンが福もつて金もつて、御揃なされて御家ごはんじょう。めでたいことよな‥‥。」だか、ハーンは意図していた韻律豊かな詩的な文章にすることを諦めてしまった。彼は落胆してしまうのだが、それは何故なのだろう。

さて、今回のブログは、沖本幸子(おきもと ゆきこ)さんの『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』を中心に西成彦(にし まさひこ)さんの『ラフカディオ・ハーンの耳』や『室町物語集』から「大黒舞」などを取り混ぜながらお送りしたいと思っている。沖本さんのこの著作は、2016年に出版されている。正直言って、こんな本がほしかったのである。白拍子、乱拍子などに関わる中世芸能における舞のことが述べられているからである。昔の舞なので、そういったことが書かれた古文献にあたりながら、今に残る民俗芸能に取材するというのが研究方法だと思うのだが、とっても分かりやすく書かれていると思う。沖本さんは、東京大学大学院で日本文学を、同大学の博士課程で芸能史・表象文化論を研究された。学術博士であられる。日本学術振興会特別研究員を経て現在は青山学院大学で教鞭を執っておられるようだ。『今様の時代―変容する宮廷芸能』という今様に関する著作もある。祭りと芸能を切り口に、伝統文化のもつ知恵と魅力、とりわけ日本の中世文化における熱狂的身体、祝祭的エネルギーの展開について研究しておられる。南島文化も大好きなようだ。

賀茂祭、かつては上級貴族たちの邸宅が立ち並んでいた二条大路が舞台であった。皇太后腹の院の女三の宮が新しく斎院に定まり、御禊の日に供奉する大臣は定員のほかに特に宣旨があって源氏の右大将をも加えられた。こうして、そこは源氏物語「葵」における六条御息所と葵の上の車争いの場面ともなったのである。この賀茂祭り、現在の葵祭が貴族たちを中心とした祭りであるのに対して、京の南、七条大路で行われた稲荷祭りのパレードは猿楽と呼ばれた様々な芸能の喧騒と猥雑さに溢れた庶民の祭りだったのである。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の有名な『新猿楽記』は11世紀半ば、院政が始まろうとしていた頃、京都の伏見稲荷の祭礼行列で行われた芸能をモデルに書かれたと言われる。白河院(1053-1129)の頃、その猿楽の中でもサーカス的な要素の強い田楽への熱狂が高まっていた。

後白河法皇像

後白河法皇像

沖本幸子さんの『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』によれば、田楽熱がピークにあったこの頃に宮廷に入り込み始めていたのが、歌詞を7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成する今様と呼ばれた流行歌であったという。清盛の寵愛を受けた仏御前の有名な今様を挙げておこう。

君を始めて 見るをりは
千代も経ぬべし 姫小松
御前の池なる 亀岡に
鶴こそ群れ居て 遊ぶめれ

田楽がいくら宮中の人々の心を捉えたとしても定着まではしなかったのである。その今様も、100年後の後白河院(1127-1192)の時代には、白拍子や乱拍子という新しい芸能に取って代わられようとしていた。もっとも、後白河院は今様狂いで有名ではあったのだが。その、後白河院から後鳥羽院の時代、12世紀後半から13世紀前半が白拍子・乱拍子の最盛期となる。

藤原定家の日記である『明月記』には、後白河院が石清水八幡宮に千部経読誦の後、神前で今様を夜通し歌い、それが終わると乱舞・猿楽・白拍子(しらびょうし)などの様々な芸能が尽くされたという記録があるし、順徳天皇の内裏での庚申待で乱舞して遊んだこと、後鳥羽院が離宮水無瀬殿で近臣に乱舞をさせたなどの記述があるという。

乱舞は、とくに定まった型や曲はないようで、歌や音楽にあわせて自由に舞い踊るものをいったらしい。平安末期から鎌倉時代にかけて、公家貴族の殿上淵酔(てんじょうえんずい)で乱舞が盛んに行われたが、このときの乱舞は朗詠(ろうえい)、今様(いまよう)や白拍子、万歳楽(まんざいらく)などを取り入れて歌い舞われたとある。沖本さんによれば、淵酔とは「心底酔う」という意味で、新嘗祭と豊明節会(とよのあかりせちえ)という公式行事を終えた宴席で行われる宮廷きっての賑やかな芸能の場だったようである。清涼殿の天皇の御前で行われるものを殿上淵酔と呼んだ。このような殿上淵酔の乱舞は猿楽(さるがく)ともいわれ、やがて専業の猿楽者の演ずる猿楽をも乱舞といったらしい。

沖本幸子 『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』

沖本幸子
『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』

万歳楽であるが、白拍子や乱拍子が登場する以前よりある乱舞の代表だと沖本さんは言う。唐では賢王の治世には鳳凰が現われて「賢王万歳」を唱えるという言い伝えがあり、それを舞いにしたものが万歳楽である。君主を讃えるめでたい曲だから即位の儀式や祝宴の席で舞われたが、重要なのは感極まった時に即興的に舞われることがあったらしいことである。ある時期から雅楽の万歳楽を模して舞われるのではなく「万歳楽」という言葉が唱えられ、それに囃されるように舞ったらしい。それが乱舞万歳楽だという。

朗詠は、漢詩の一節を朗吟する歌謡で、中世以降、雅楽化されたものを言う。その詞章となる詩歌を収めたものが「和漢朗詠集」である。それに対して同じ時期に生まれた催馬楽(さいばら)は、各地に存在した民謡・風俗歌に外来楽器の伴奏を加えた歌謡である。

沖本さんは、白拍子はもともとリズムの名称であったという。そのリズムで歌う歌謡や、その歌謡に合わせて即興的に舞う乱舞のことをも白拍子というようになった。乱拍子については後で述べる。静御前や祇王のような女性芸能者だけを白拍子とは言わないようだ。そして、現存する白拍子の詞章で圧倒的な割合を占めているのが「物尽くし」であった。「尽くし」も何やら日本人が好きそうではある。例えば、最大の白拍子歌詞集の『今様之書』の中から「長物曲」の歌詞を挙げておく。

いのち長岡の 玉つ花
いくたび花も さきぬらん
長井の裏に 住む亀も
万年の算(かず)をぞ 保つなり
長良の山の 春風に
糸を乱るる 青柳
長良の橋は 千度まで
作りかえても ふりぬべし
楽の名には 長慶子(ちょうげいし/雅楽の名)
長保楽(ちょうぼうらく/雅楽の名)の 舞の袖
やさしくぞ覚ゆる やさしくぞ覚ゆる

今様にも物尽くしはあるのだが、ごく一部にすぎないと沖本さんは指摘している。『梁塵秘抄』から今様の物尽くしの例を見ていただきたい。今様でも七五調にあわない歌詞も結構あるようだ。

をかしく舞うものは
巫女(こうなぎ)・小楢葉・車の筒とかや
平等院なる水車
囃せば舞ひ出づる蟷螂(いぼうじり/かまきり)・蝸牛 (『梁塵秘抄』三三一)

葛飾北斎(1760-1849) 白拍子姿の静御前 1820頃

葛飾北斎(1760-1849)筆
白拍子姿の静御前 1820頃

白拍子では、ほぼ全てが物尽くしになっているらしい。それがどのように歌われたかは分からない。だが、催馬楽などが「歌う」と言われていたのに対して白拍子では歌うことが「かぞふ」と言われていたという。例えば、『平家物語』では平重衡の恋人である千手前(せんじゅのまえ)が「十悪といえども引摂(いんじょう)す」という「朗詠をして」、「極楽願わん人はみな、弥陀の名号となふべし」という今様を四、五回「うたひすまし」、さらに「一樹の蔭に宿りあひ、同じ流れを結ぶも、みなこれ先世のちぎり」という白拍子を「かぞへすまし」たとある。「かぞふ」の他に「言ふ」や「申す」というように表現されることもあったらしい。ここから沖本さんは、白拍子とは、大胆に言えば歌より語りに近かったのではないかと言う。こうなると白拍子と猿楽の「謡」との関係も気になるところだ。12世紀後半に及ぶと御所の淵酔などでも、朗詠、今様、万歳楽での乱舞の後、二度目の乱舞において白拍子が基本的にペアでお互いに掛け合うようにして舞われた。

しかし、一般的に白拍子といえば女性の白拍子女(しらびょうしめ)を指すのであって、時には稚児の場合もあった。遊女や稚児が舞った芸能を白拍子舞と記したいと沖本さんは言う。静御前の母である磯禅師(いそのぜんじ)、あるいは、鳥羽院時代の島の千歳(せんさい)・若の前が起源とされるこの白拍子舞は白拍子というリズムで歌う歌曲を母体とするのであるが、それが誰でも踊れる即興的な芸ではなく、専門の芸能者の舞いであったことは注意を要する。川沿いを拠点とする女性の傀儡子が歌女と呼ばれたのに対して、白拍子は専門に舞う初めての女性だったという。男性用の簡略な服装である水干に鞘巻(腰刀)、烏帽子という男装で舞った。稚児は寺院で高僧に仕えた少年のことで、いわば寺院の花であり、寺院で行われる延年において垂髪に宮廷女房風の装いで、この白拍子は舞われた。いずれも、トランスジェンダーな出で立ちであったのだ。

延年とは、平安時代中頃より寺院での法会や貴族来訪の際の余興として下級僧侶や稚児らにより行われた芸能のことだ。舞楽や散楽、歌舞音曲、猿楽、白拍子、小歌(世俗的な恋愛詩などの五音・七音を主とする短小詩型の歌)など、貴族的芸能と庶民的芸能が雑多に混じり合ったものの総称である。白拍子女は後の曲舞舞(くせまいまい)に取って代わられるなどして早く姿を消したが、稚児の方は室町時代まで、一部は江戸時代まで生き続けていたという。

延年舞 『天狗草紙絵巻』興福寺巻 東京国立博物館

延年舞 『天狗草紙絵巻』興福寺巻 東京国立博物館

沖本さんは白拍子舞が今様に合わせて舞うというのは誤解だという。今様はあくまで歌であり、白拍子舞とは別の芸能だというのだ。白拍子女も今様を歌いはしたが、それに合わせて舞うことはなかったという。この舞の特徴は、歌謡白拍子に合わせて歌い舞う本体に、「セメ」という即興で和歌を詠い上げながら足拍子を踏んで舞う部分が加わったことにあるという。美しい舞姿の後に「踏」み「旋」る芸に心躍らせたのである。静御前が夫の義経の仇である頼朝の前で舞ったとき、頼朝を言祝ぐ歌ではなく、「しづやしづ 賎(しづ)のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな」と取り返せない昔を詠い、「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」と恋しき人の跡を偲んだ。頼朝への面当てだったのだが、ここが白拍子舞のクライマックスのセメであったというのである。

先ほどの『今様之書』によれば、このセメは遅くとも一五世紀半ばには、乱拍子と同じく鼓で打って伴奏されていたとあり、『児(ちご)歌物語絵詞』には白拍子舞のセメの和歌を「乱拍子の出し歌」と呼んでいる例があるという。セメと乱拍子は密接なつながりがあるようだ。ここにプロの鼓打ちという存在が登場してくると言う。

乱拍子に話を移そう。乱拍子は白拍子と同じくリズムの名称であって、そのリズムに乗って歌う歌や舞のことを言った。歌は和歌くらいの短い詞章に「やれことうとう」という囃子詞(はやしことば)がつき、舞としては足拍子を踏むことに特徴があるという。今様は拍子を打たない、譜のままのばして歌うものであったが、乱拍子はその今様を歌う時に拍子をあてる早い歌い方として登場する。そして、先ほどの淵酔においても、「白薄様、濃染紫の紙、巻上げの筆、ともゑかいたる(鞆に絵を描いた)筆の軸 やれことうとう」などという尽くしの歌詞を乱拍子で舞う乱舞が流行し、酒宴の場だけでなくその前後、行き返りの道でも行われるようになる。寺社の延年においても乱拍子の乱舞は盛んになっていくのだ。興味深いのは、扇に花火を仕掛けて扇を燃やしながら舞った「火掛(ひがかり)」と言う舞があったことだ。そして、僧侶のというより僧兵たちの勇壮な乱拍子の代表が「嬉しや水」である。今様が乱拍子の歌として再生したものだと沖本さんは言う。

「嬉しや水 鳴るは滝の水 日は照るとも 絶へずとうたへ やれことうとう」

七十一番職人歌合(模本) 江戸時代 右 白拍子 左 曲舞々 東京国立博物館

七十一番職人歌合(模本) 江戸時代
右 白拍子 左 曲舞々 東京国立博物館

『義経記』の巻八「衣川合戦のこと」では、弁慶が鈴木兄弟に囃させた後、「嬉しや水 鳴るは滝の水 日は照るとも 東の方の奴原が 鎧冑を首もろともに 衣川に斬りつけて流しつるかな」と歌いながら舞い澄まし、敵を呆れさせたという。こうした戦いの場でも即興の歌詞を織り込みながら舞われたようだ。奥州藤原泰衡が源頼朝の圧力に屈して、わずか10騎余りの義経主従を藤原基成の衣川館に襲った戦いである。

これは、別の芸能でも、知られた歌詞ではないだろうか。ちなみに下は能の『翁』における千歳と地謡の詞章である。

千歳 「鳴るは滝の水。鳴るは滝の水 日は照るとも。
地  「絶えずとうたりやりうとうとうとう。
千歳 「絶えずとうたり。常にとうたり。
千歳 「所千代までおはしませ。
地  「我等も千秋候はん。
千歳 「鶴と亀との齢にて。処は久しく栄え給ふべしや。鶴は千代経る君は如何経る。
地  「万代こそ経れ。ありうとうとう。

能の『翁』は、翁のシテが面をつけない直面(ひためん)で登場し、「とうとうたらり‥‥」の呪歌を謡い、次に千歳が「鳴るは滝の水‥‥」の謡いにのって颯爽と露払いの舞を舞う。その後、白尉の面をつけたシテが催馬楽の「総角(あげまき)」の一節をもじりながら立ち、天下泰平国土安穏」を祈って厳かに舞い、「ひと舞舞おう万歳楽」と言って退場する。その後、三番叟が直面で勇壮な「揉ノ段」を舞い、次に黒尉の面をつけて千歳から鈴を受け取り「鈴ノ段」を舞って終りとなる。詳しくは、『翁』とは何かを見てほしい。ここで、沖本さんは民俗芸能の『翁』に注目する。

七十一番職人歌合(模本) 江戸時代 左 猿楽 右 田楽 東京国立博物館

七十一番職人歌合(模本) 江戸時代
左 猿楽 右 田楽 東京国立博物館

この民俗芸能の『翁』では、一般に序詞、名のり、縁起、堂祝、四方拝、宝数え、宝舟、拍子止という構成になっていると沖本さんは指摘している。勿論、地域によっては、その中の項目がいくつか欠けている所もあるだろう。それぞれの項目の概略は末尾に載せておいたので興味のある方はご覧になってほしい。能の『翁』と民俗芸能の『翁』の違いなのだが、民俗芸能の方には千歳がないものも多い。だが、たいてい露払いにあたる芸はあるという。兵庫県加東市にある上鴨住吉神社の『翁』の露払いは『いど』と呼ばれていて、三人の舞手が代わる代わる幕の外に出て足で舞台を払って舞っていく。謡の詞章は、「みは住吉の そよや 住吉の 松にも花は咲きにンけり 咲きにンけりソモ」「みするなりけり やりかりとう」「みするンなりけり面白や みするンなりけり面白や ながもんで眺むれば 松のこまンより眺むれば 月ぞ近かり やりかりとう」などとあり、祓い清めの言葉というより、連想が連想を呼ぶように続いていく。ここに千歳の芸能の原型を見い出すと沖本さんは言うのだ。ちなみに、能楽研究者の能勢朝次さんも千歳は『翁』の露払いが変化したものだと指摘している(『能楽源流考』)。『翁』や三番猿楽の『翁』が平安時代からの古い形式を担うものであるのに対して、露払いの舞が鎌倉後期以降に付け加えられたものであり、千歳の詞章が当時の流行歌に取材されることは多かったのではないかと述べている。

能の独自の伝承を持つとされる山形県鶴岡市黒川の黒川能では、舞台にご神体の王祇様が扇状に広げられると、その前に稚児が立ち、所ぼめの詞章を巧に織り込んだ地謡に合わせながら扇や御幣を持って足拍子を踏んで舞台を回る。これは稚児の「大地踏」と呼ばれ、『所仏則(ところぶっそく)の翁』の露払いの役をするのである。その時、唱え言の前に置かれるのがこれらの言葉だという。「惣は齢々(よわよわ) 松が枝にこそ鶴が巣をかけ 滝々滝の水 岩の上にふと居て さらりさつとよつて 日は照るとも 絶えずとふたり 常にとふたり」などとある。乱拍子を組み合わせた歌詞になっているらしい。同じく東北地方の修験が伝えた山伏神楽や番楽(ばんがく)には、「露払い」の付属した『翁』が広く伝わっている。前者では釼や御幣で祓い清め、後者では祝言的な短い歌の後、扇や太刀を持って足拍子を踏みながら舞う。その姿は乱拍子の乱舞を彷彿とさせるという。

奈良比古(ならつひこ)神社の翁舞における三番叟 翁舞の後、翁が二人加わり、三人舞となる。

奈良比古(ならつひこ)神社の翁舞における三番叟
翁太夫舞の後、翁が二人加わり、珍しい翁三人舞となる。

ここで、沖本さんは大胆な仮説を立てる。能の三番叟の「鈴の段」は祈祷舞として理解しやすいが「揉みの段」は老人の舞としてはいささかハードだ。「翁」の露払いが千歳であり、三番叟の「揉みの段」が「鈴の段」の露払いの役を持つと考えたと言う。この「揉みの段」は乱拍子で舞う舞いが変化したものではなかったかというのである。例えば、江戸初期の狂言方の伝書である大蔵虎明(おおくら とらあき)の『式三番』には「揉みの段」の心得として「みだれびょうし みだれあし」とある。また、先ほどの東北の山伏神楽や番楽の翁において多くの地域で「日は照るとも 常に絶へせぬ 鳴る滝の水」という乱拍子出自の「鳴るは滝の水」を幕出歌として使用していることなどが挙げられている。確かに、乱舞は猿楽・能にも影響を与えたと言われているが、具体的なことは不明とされてきた。能楽の乱舞(らっぷ/らんぶの訛り)は一曲のうちの一節を舞うことをいったといわれている。ちなみに、『道成寺』の乱拍子は同じ乱拍子でもかなり趣を異にしていることは指摘しておかなくてはならない。沖本さんの仮説は、まだ色々な細部を詰めなければならないだろうが、なかなか魅力的だ。

本書『乱舞の中世 白拍子・乱拍子・猿楽』の終盤は、能と白拍子舞、曲舞との関係について語られているが、またの機会があれば、ご紹介したいと思っている。微妙に異なる二拍子のこだまとなって響く下駄の音から乱舞の響きに遡ったのだが、ここで、冒頭でご紹介した大黒舞に戻りたい。ハーンの経験したこの舞は中世から近世にかけて全国的に流行した正月の角付け芸の一つで、黒い面を着け、打ち出の小槌を振る大黒天に扮した芸人が、お福、恵比寿をともなって家々の門前で縁起の良い数え歌を歌い舞って喜捨を乞うたのである。序として、大黒舞唄が歌われ、本歌として色々な説経節を歌いやすいように改作されたものが歌われた。説経節は、仏教の唱導(説教)を行う唱導師が専門化され、声明(しょうみょう)の要素や平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である。大黒舞の序は概ねこのような歌詞の数え歌が歌われた。

新日本古典文学大系55 『室町物語集下』 「大黒舞」「俵藤太物語」「畏沙門の本地」他

新日本古典文学大系55
『室町物語集下』
「大黒舞」「俵藤太物語」「畏沙門の本地」他

「御座った御座った 福の神を先に立て 大黒天の御座った」 大黒殿の能には 一に俵ふまえて 二ににっこり笑って 三に酒を造って 四つ世の中ようして 五ついつもの如くに 六つの無病息災に 七つ何事なうして 八つ屋敷をひろめて 九つ小蔵をぶっ立てて 十でとうど納まった 大黒舞を見さいな見さいな

この序に続いて俊徳丸、小栗判官、山椒大夫などの有名な話が本歌として歌われ、それに囃子が挿入される。冒頭のハーンに関する箇所でご紹介したのは小栗判官の本歌と囃子の一部である。

室町末期から江戸時代初期にかけて成立した庶民物語に『室町物語集』があり、驚くべきことだが、その中に「大黒舞」がある。別名「大悦(だいえつ)物語」ともいう。これは、彌永信美(いやなが のぶみ)さんの『観音変容譚』仏教神話学Ⅱに紹介されていたと記憶している。孝行者の大悦が清水寺の観音の夢告をうけて、わらしべを拾うことから長者となり、大黒と恵比寿が訪ねてきて酒宴となる。恵比寿が舞い終わると、大黒に舞うように催促するのだが、「あら、恥ずかしや」といって再三辞退した後、舞と歌を披露するのである。この時、大黒が舞いながら歌う歌詞が先ほどの大黒舞の序のそれとほとんど同じなのだ。舞い納めるともとの座敷へ直る。そこから下巻が始まるのだが「さるほどに、その後は乱舞(らっぷ)になりて‥‥」とある。そして、物語の最後も大黒の舞で終わるのだが、その時の歌の詞章が「鳴るは滝の水 日は照るとも よも絶へじ 絶えぬ流れの菊の水 命は千歳を重ぬべし‥‥」なのである。不思議な符合だ。現在の角付け芸の舞はともかく、当時の大黒舞がどのような舞であったのかが極めて興味深いのである。三番叟と大黒との関係は微妙に重なるのだが、まだ僕の中では核心に至っていない。

さて、大黒舞の小栗判官の本歌に挿入される囃子であるが、冒頭でご紹介したものの他に、このような内容のものがあった。これは、ハーンの友人の西田千太郎の収録したものが『島根民俗』の第一巻に転載されたもののようである(前田速夫『異界歴程』より)。

イヤーいやさのごんぼう、酢牛蒡で飲んだら、お前がたどうじゃい、のどの豆がさんばそうで、へそまで酔いましょうぞな。マダ‥‥
イヤー油屋のおそめさん倉のまどから崑蒻だま投げた、こんやこいとの知らせだないか、表車戸でんでんぐわらぐわら音がする、うらから忍ばうぞ。マダ‥‥
イヤー出かけて出ぬもの女の横産、しょうから小便、石山の竹の子、へたな大黒舞、今でにやよう出ぬ、出直すがよいぞや。マダ‥‥
イヤーちょっとここらでまんなかづくしを申しませうなら、日本京都がまんなかであたまでぎりぎりまんなかで、お顔では鼻がまんなかで、目では仏がまんなかで、せごたでおほぼねまんなかで、はらでおへそがまんなかで、へそから下はこんどにせうぞ。マダ‥‥

どうも、折口信夫さんの言う「もどき」を思い出してしまうのである。田遊びなどで真面目な一番がすむと、装束や持ち物をくずして出てきて、前の舞を極めて早く繰り返し、おどけぶりを変えて引き揚げてしまうような真面目な芸を茶化してしまうことを指している。それは、面白おかしく解説すると意味も含んでいるのだが‥‥本歌の説経節を囃子でもどいているようには思えない‥‥ハーンが聞いた美しい旋律をバラッドのような詩的な文に仕上げたいという望みはこうして絶たれたのである。イヤソウデハノウタラコ‥‥

 

 

最後に、500年の歴史を持つといわれる山形県鶴岡市黒川に伝わる黒川能の動画をご紹介したい。途中に「大地踏」「所仏則(ところぶっそく)の翁」「三番叟」などが短い映像だが登場する。

 

民俗芸能の『翁』における構成

1.序詞は「鶴と亀との齢にて 幸ひ心に任せたり」とか、「処千代までおはしませ 我等も千秋候ふや」などの能の『翁』にあるような翁の出現を待望するようが詞章が並べられる。

2.名のりは、翁が三千年に一度実がなる西王母の桃を三度食べたなどと自分が長寿であることがアピールされる。

3.縁起では猿楽の縁起が語られ、六十六番あった猿楽が三十三番となり、式三番に縮められたことが紹介されるのである。

4.堂祝(どういわい)は、その土地にやって来た翁が御堂の棟木、長押などいちいちを言祝ぐ。

5.四方拝では、その土地の美しさを愛でる。

6.宝数えでは天竺、唐、龍宮の宝物から始まって法師、殿原、百性にいたるまでの宝を尽くす。

7.宝舟では海路はるばるやって来た後、上陸してあちこちの寺社に寄進してきたことが語られる。

8.拍子止では、最後にいついつまでもこの土地が栄えるように祝言の歌を歌い、万歳楽と唱えて、もう一度祝福して終わる。

関口裕昭 『パウル・ツェランとユダヤの傷』 メランコリアに咲く薔薇

パウル・ツェラン(1920-1970)

パウル・ツェラン(1920-1970)

「彼は重力の法則を説き、証拠に証拠を重ねた。けれども耳を貸す者は誰もいなかった。そこで彼は空中に浮遊し、漂いながら法則を教えた。今度は皆が彼を信じた。しかし彼が二度と地上に舞い戻らなくても、誰も不思議に思わなかった。(パウル・ツェラン『逆光』)」

詩人としてのパウル・ツェランは、1952年に第一詩集『芥子と記憶』、1955年に第二詩集『閾から閾へ』、1959年に第三詩集『言葉の格子』を刊行し、詩集を出すごとにその名声は高まっていた。1958年にはブレーメン文学賞を受賞した。詩人として順風万帆かに見えた。しかし、剽窃だという根も葉もないうわさがばら撒かれた。シュルレアリスムの詩人であるイヴァン・ゴルの作品を剽窃したとその夫人による怪文書が出回ったのである。夫の作品をドイツ語に訳すのを断ったツェランへの腹いせだと言う人もいる。1960年頃にはドイツ文壇を揺るがすほどの事件となっていた。

ドイツ語・文学アカデミーによって本格的な調査がなされ、疑いは払拭されたが、ツェランは周囲のドイツ人に対して疑念を持ち、ドイツの友人たちと次々と交友を断って行った。1960年にはドイツ語圏における最高の文学賞であるゲオルグ・ビューヒナー賞を受賞した。だが、ついに精神に異常を兆し、1962年頃から自殺する1970年までの間、入退院を繰り返したという。パリに住み、フランス人の版画家ジゼル・ド・レトランジュと結婚、息子を一人儲けていた。離婚はしなかったが、家族と分かれて暮らすようになった。傷つきやすい、孤独な人であった。彼の心には薔薇が咲いていた。それは真っ赤な大輪の傷口であったのだ。

今回が71回目になる。この広島原爆記念日にパウル・ツェランを取り上げるのは意味のあることだと思った。それで、関口裕昭(せきぐち ひろあき)さんの著作である『パウル・ツェランとユダヤの傷』を取り上げたいと考えた。同じく関口さんの著作『翼ある夜 ツェランとキーファー』も織り交ぜてご紹介したいと思っている。著作としては前者の方が良くできていると思う。そして、サイモン・シャーマの『風景と記憶』からキーファーに関わる部分にも触れたい。関口さんの著作を選んだのは、『パウル・ツェランとユダヤの傷』が「≪間テキスト性≫研究」と副題がつけられるほどツェランの思想的星座を綿密に追っているからだ。これは見逃せない。理由としては、これが第一。『翼ある夜 ツェランとキーファー』では、僕の大好きなアーティストであるキーファーとの関係が書かれている。これが第二かな。

関口さんは、慶応義塾大学を卒業後、京都大学で文学博士号をとられた。在学中ゲッティンゲン大学に留学している。近・現代ドイツ抒情詩、ドイツ・ユダヤ文学を研究してこられた。ツェランを知ったのは留学先のドイツであったらしい。ツェランを深く知るため、彼の足跡のある12カ国60都市を訪れ、存命していた友人、知人にインタビューもしたという。その成果がオーストリア文学賞を受賞した『パウル・ツェランへの旅』となった。その後、ツェランの人生を辿った『評伝パウル・ツェラン』を出版、この3冊目の『パウル・ツェランとユダヤの傷』では、詩に織り込まれた膨大な引用を読み解き、「ユダヤ精神」に迫ったという。そして、『翼ある夜 ツェランとキーファー』と連なっていく。今は、明治大学で教鞭を執っておられる。

1.アドルノ→カフカ→アドルノ

『自然詩の系譜 20世紀ドイツ詩の水脈』 オスカー・レルケ、ヴィルヘルム・レーマン、パウル・ツェランなどの詩人たちが収録されている。

『自然詩の系譜 20世紀ドイツ詩の水脈』
オスカー・レルケ、ヴィルヘルム・レーマン、パウル・ツェランなどの詩人たちが収録されている。

1959年夏ツェランはスイス南部の景勝地エンガーディ―ンにあって、ポール・ヴァレリーの著作である『若きパルク』を翻訳していた。哲学者・社会学者・音楽評論家であるテオドール・アドルノ(1903-1969)が来る予定だったが、その前にツェランはパリに戻っている。実現されなかった出会いのよすがとして『山中の対話』を書いてアドルノに送った。翌年パリで二人は会っている。アドルノ57歳、ツェラン40歳のことである。1962年には、アドルノがツェランをベケットに引き合わせようとした。二人を並べて現代文学における否定性を論じようと目論だが、実現しなかった。この頃、ツェランは、ゴル事件のために猜疑的となり、次々とドイツ人との交友を断っていた。精神的に追い詰められていたのだ。彼はアドルノに救いを求める手紙を書いた。「‥‥処理、抹殺。生きた体が、名前もなく[埋め固められた]のです。私は存在しないのです(存在を許されないものは、存在できないからです」)。[それでも治さなければ、やつを殺してしまえ][ユダヤ人にすぎないんだ]そして物体へと貶められ、文学的にもかくかくしかじか利用しつくされるのです‥‥」。

関口さんの指摘によれば、この文面を理解するためには、カフカの小説『田舎医者』を見る必要があるという。「――いま、私は気づく、そうだ青年は、病気なのだ、と。彼の右脇の腰のあたりに、てのひら大の傷が一ヵ所口を開いていた。バラ色だが、濃淡はさまざま、底が暗色、縁へゆくほど明るい。‥‥蛆だ、太さも長さもわたしの小指ほどの奴が、地肌の色の上にさらに血まみれてバラ色をしたのが何匹も、のたうちまわっている。‥‥脇腹に咲いたこの一輪の花のために、きみは破滅する。(吉田仙太郎訳)」駆け付けた老いた医者は、家族と村の長老たちに服を脱がされ、児童合唱隊が単純なメロディーを歌う。「着物ヲ脱ガセロ ソシタラ直セル、直セナケレバ 殺シテシマエヨ! タカガ医者ダヨ タカガ医者ダヨ。」ツェランはこの歌を反ユダヤ主義者たちの合唱として読み換えた。

ほめうた

誰も 私たちをふたたび 土と粘土から 捏ね上げない、
誰も 私たちの塵に 言葉を吹き込まない。
誰も。

讃えられてあれ、誰でもないものよ。
あなたのために 私たちは
花さこう。
あなたに
向かって。

ひとつの無
であった
私たちは、無である 私たちはありつづける
だろう 私たちは、花咲きながら――
あの無の、あの
誰でもないものの薔薇。

魂の明るさの花柱を
たずさえ、
空の荒涼の花糸をたずさえ、
その花冠は赤い、
私たちが 茨の上で
おお その上で歌った
真紅の言葉のために。

『誰でもない薔薇』より (『自然詩の系譜 20世紀ドイツ詩の水脈』から冨岡悦子 訳)

エミリー・ディキンスンの『私は誰でもない』を思い出させる詩だが、関口さんによれば、ツェランはこういった「傷」を通して過去のテキストと繋がり、対話するという。‥‥脇腹に咲いた一輪の薔薇の花。それは誰でもないものの薔薇だった。抹殺され、埋め固められた存在しない者の薔薇。

関口裕昭『パウル・ツェランとユダヤの傷』

アドルノは1920年代の半ばからカフカの著作に集中的に取り組んだと関口さんはいう。それは、1953年に『カフカ覚書』として纏められた。アドルノはカフカを現代と結びつけて理解したいと思っていた。カフカの小説『家長の心配』(本書では『父の心配ごと』になっている)に登場する撚糸を巻きつけたような平べったい星型の糸巻である「オドラデク」、千切れちぎれで古く、結び合わせてあってもこんがらがり、星の中央から小さな横棒が突き出ていて、さらにこの小さな棒に直角にもう一本くっついていた。それは立つこともできたのだ。アドルノはカフカを評して「とんでもないものがショックを与えるのではない、とんでもないものの自明さがショックを与えるのだ(『カフカ覚書』)」と書いている。そして「カフカはノイローゼを癒す代わりに、ノイローゼそのものの中に癒す力、認識の力を探る。すなわち社会によって個人に焼きつけられた傷は、社会が虚偽であることの暗号として、真理の陰画として、その当の個人によって解読されるのだ」という。「ノイローゼそのものの中の癒す力、認識の力」については、ジル・ドゥルーズ 『フランシス・ベーコン 感覚の論理学』 図像と器官なき身体を併せて読んでくださるといい。土方巽の「暗黒舞踏」とも是非比較してみたい所だ。それは、ともかくアドルノが強調するのはカフカにとって決定的瞬間は人間が自分が自己ではなく事物であると認める瞬間だという。そう、「オドラデク」のような物体として。

2.ベンヤミン→クレー→リルケ→シャガール

文芸批評家、哲学者、思想家であったベンヤミンとアドルノとの間では往復書簡を通じて活発な議論がなされていた。アドルノの指摘するところのベンヤミンとの完全な意見一致は「神学に対する姿勢」にあり、それは「逆さまの神学」と呼ばれた。その「逆さま」の中には逆行する時間のイメージがあるという。それは、「聖典は過去にあるのではなく、未来にあるというそういう神学」であった。その中にはカフカを巡る話題もあった。ベンヤミンはオドラデクを太古のものとして限定したために、その今日的意味を見失っているとアドルノは批判している。そうして、こうしたためている。「オドラデクは、ものの世界の裏面性として、歪められているものの符合であります――けれども、そういうものとして、まさに超越の、つまり有機物と無機物との境界を取り払って両者を宥和させることの、あるいは死を揚棄(止揚)することの、ひとつのモティーフなのです。(『ベンヤミン・アドルノ往復書簡集 野村修訳』)」自分が物という形にまで倒錯した世界に救済を見いだすのだ。こうして、クレーの天使と結びつけられる。「童話の鍵をなすものは罪のない世界であり、この世界が私たちに<物として>暗号化されて、出現してくるのです。(同上)」人間的なものと物の世界の境界が取り払われた時、クレーの絵との親縁性が際立ってくる。

関口さんによれば、ベンヤミンの親友でユダヤ神秘主義の世界的権威であるゲルショム・ショーレム(1897-1982)は、ベンヤミンが生まれた時、両親が彼にアゲシラウス・サンタンデルという秘密の名を与えたことを挙げて、アンゲルス・サタナス(一説には地獄を管理する天使)のアナグラムとして読み換え、「アンゲルス・ノヴス(新しい天使)」というクレーの作品と結びつけている。実はツェランの詩にもアナグラムは多いらしい。ツェランの本名はパウル・アンチェル(Ancel)であり、ツェラン(Celan)はそのアナグラムだった。ユダヤ人が本名を隠すためにアナグラムを用いるのはよくあることだと関口さんは言う。詩においても、例えば、『糸の太陽たち』にある「黒灰色の荒野の上方に(über grausch warzen Ödnis)」は「アウシュヴィッツ(Auschwitz)」の綴りに似せていると指摘している。それでは、ここで、ベンヤミンの「歴史の天使」とクレーの天使の絵との関連を見ていきたい。

パウル・クレー(1879-1940)  『新しい天使』1920

パウル・クレー(1879-1940)
 『新しい天使』1920

壁の文句

歪められて、天使が、新たに、息を引き取る――
ひとつの顔が、自分へと戻る、

記憶の柄をもった
星型の
武器――
それを注意深く
彼らの
物思いにふけるライオンたちに挨拶する。

このツェランの詩、『壁の文句』は家族と離れ独り、パリのトゥルヌフォール街に住んでいた頃書かれた。1968年のパリ5月革命が背景にある。その時の壁に書かれた落書きが契機ではなかったかという。星型の武器はダビデの星かカフカのオドラデクを指す。関口さんによれば、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はツェランが深く傾倒していた思想家の一人であり、アドルノは彼の思想的遺産を受け継いだと言っていいという。ベンヤミンの『歴史の概念について』には、このような文章が述べられている。「新しい天使というクレーの絵がある。そこにはひとりの天使が描かれていて、見つめる何かから今にも遠ざかろうとしているように見える。‥‥彼は顔を過去に向けている。出来事の連鎖がわれわれの前に現われてくるところに、彼はただひとつの破局を見る。‥‥彼はそこにとどまり死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを繋ぎ合わせたいのだろう。しかし、楽園から吹き寄せる嵐に阻まれ、あまりの強さのためにもはや翼を閉じることはできない。この嵐が彼を、彼が背を向けている未来にとめどもなく押し流してゆくが、その間にも瓦礫の山が彼の前で天にも届くばかりに積み重なってゆく。われわれが進歩と呼ぶものは、この嵐である。」 死者を目覚めさせ、破壊されたものを繋ぎ合わせる天使。ベンヤミンがクレーの作品『新しい天使』に言及した比較的知られた一説である。また、「雑誌『新しい天使』の予告」のこのヶ所にも天使への言及がある。上の『壁の文句』で参照されたイメージはこちらであったかもしれないと関口さんはいう。「タルムード(口伝律法)のある伝説によれば、天使たちは――新たな瞬間ごとに無数の群れとなって――、生み出されては、神の前で賛歌を歌い終えると、存在をやめて、無の中に消えてゆく」。ベンヤミンの天使は無の中で息を引き取るのだ。

小屋の窓

それは孤児のなかで徘徊する、
踊りながら、不恰好に、
天使の
翼となったそれは、見えないものによって重く、
傷つき皮を剥された足もとで、頭を
逆さに重りにしてバランスを保っている、
あそこにも、ヴィテブスクにも降った
黒い雹(ひょう)の重さに耐えて、

『誰でもない者の薔薇』より

マルク・シャガール(1887-1985) 『天使の墜落』

マルク・シャガール(1887-1985)
『天使の墜落』 1923-47

ポーランド・スロバキア国境からルーマニアへのびるカルパチア山脈の尾根から東に緩やかに降った平地にブコヴィーナ地方がある。ツェランは、そこを「人間と書物が生きていた土地」と語った。これはいい。現在のウクライナに属する多言語多文化な土地柄だった。そこでは、ドイツ語、ルーマニア語、ウクライナ語、イディッシュ語(ドイツ語の一方言)が話されていた。彼が生まれたのは1920年、その中心都市チェルノヴィッツであった。ユダヤ人の両親によってドイツ語を母語として育てられた。その二年前までハプスブルク帝国の東端であったが、ルーマニア領となっていた。幸福な時代は第二次大戦によって一変させられる。1940年のソビエト軍の占領、その翌年にはルーマニア軍とナチスドイツが侵入して来た。1942年ユダヤ人であった両親はウクライナ南部のブーク川に近い強制収容所に送られ、父は射殺されたかチフスによる病死といわれ、母は「うなじ撃ち」によって射殺される。息子のパウルは、ナチスの手は逃れたが、ルーマニアの憲兵隊によってルーマニア東部のタバレシュティの強制労働収容所へ送られ、二年間過酷な労働を強いられた。そこは、ナチスの強制収容所より辛うじて安全だった。ポケットに小さな黒い手帳を忍ばせ、昼は穴を掘り、夜はこっそり詩をそれに書きつけた。その手帳を一冊残して無名のまま死ぬつもりだったと言う。しかし、1944年のソビエト軍の再進駐によって解放されたのである。だが、一人だけ生き残ったという両親に対する負い目は終生消えなかった。

ツェランは孤児であった。天使の翼となったそれは、踊りながら不恰好に、孤児のなかで徘徊する。「不恰好にklobig」は「(中高ドイツ語のklobe)足枷」に通ずることから足枷のニュアンスを持つと関口さんは言う。見えないものとは、リルケの『ドゥイノの悲歌』、その第九歌にある。「大地よ、これがおんみの願うところではないか、目に見えぬものとして/われわれの心のなかによみがえることが?――それがおんみの夢ではないか、――いつか眼に見えなくなることが。そうだ、大地よ! 眼に見えぬものとしてよみがえることが !(手塚富雄訳)」から来ているという。傷つき皮を剥されたとは19世紀初頭にライン地方を荒らしまわってユダヤ人を虐殺したシンダーハンネスを暗示している。ツェランは天使でもあった。だが、天から真っ逆さまに落ちる天使であったのだ。それは、ユダヤ人の受難のテーマを扱ったシャガールの絵、『天使の墜落』に由来するという。シャガールの故郷ヴィテブスクはドイツ軍によって徹底的に破壊された。「黒い雹」は弾丸のメタファーだと関口さんは述べている。

3.キーファー→ボイス→ハイデッガー→シュティフター

詩の続きはこうである。

関口裕昭 『翼ある夜 ツェランとキーファー』

関口裕昭
『翼ある夜 ツェランとキーファー』

翼は徘徊する、徘徊する、
捜す、
下に捜す、
上に捜す、遠くを捜す、
その眼で、
アルファ・ケンタウリ星を、アルクトゥルスを、
光線を、墓地から、手繰り寄せる、

ゲットーへ行く、エデンへ行く、
彼が、人間が、ここで、人間たちのもとで、
住むために必要な
星座を摘み取り集める、

アンゼルム・キーファーの1981年の作品『イカロス――マルク・ブランデンブルク地方の砂』は、大きな黒い翼をつけたパレットが褐色の焼け焦げた大地に舞い降りようとしているのか、あるいは、墜落しようとしている。そこは、ドイツ東部からポーランドの地域を指し、第二次大戦中の戦闘によって荒野と化した。『翼をつけたパレット』などに見られるようにパレットは、キーファーにとって1981年頃までライトモティーフとなっていたが、その後、書物がとってかわり1992年には『翼をつけた書物』という作品が生まれている。1974年の『天と地』では、画面全体を覆うように白い輪郭でパレットが描かれている。また天使もよく描かれており1977年の『天使』では真っ黒な姿の天使がパレットを手に白い太陽に落下しようとしている絵があるという。これ以降、彼は天使を描いていないと関口さんは述べている。

キーファーが生まれた1945年にドナウエッシンゲンの生家は空襲を受けた。隣家は爆弾で破壊され、住民は地下室から出てきたところを殺され、自分の家も窓ガラスが全て壊れたという。両親は怖がる子のために蝋で耳を塞いだ。フライブルク大学で法律を専攻するが、芸術への憧れは強かった。1963年、18歳の時には、ゴッホの足跡をたどってパリからアルルまで旅している。1966年にル・コルビュジェの設計で有名なラ・トゥーレット修道院に感激した。これは大きな契機であったようだ。間もなく芸術を本格的に学び始め、1971年から南西ドイツ、フランスとの国境に近いホルンバッハの学校跡地に妻と住み、制作を開始する。そこは、ゲルマンの記憶の風景であるヘルシニアの森にあった。その年からヨーゼフ・ボイスに傾倒するようになる。ここからサイモン・シャーマの『風景と記憶』から、キーファーを追ってみたい。風景の下に沈む神話と記憶を言祝いだ大著だ。といっても、彼の著書はいつも大著なのだが。

サイモン・シャーマ『風景と記憶』

サイモン・シャーマ『風景と記憶』

キーファーの最初の作品は、ブーツと半ズボンをはいてヨーロッパの名所旧跡でナチス式の敬礼を行っている『占領』というタイトルのポートレイトだった。シャーマによれば、この困惑を引き起こそうとするその戦略の核にあるのは、ドイツにおける英雄と神話の文化的伝統の中の受け入れられる要素とその受け入れ難い歴史的結果を無理にでも一つのものとして差し出そうとする執念であったという。キーファーは挑発に終始し、ファシズムを理解するには、その誇大妄想を自らある程度演じてみる必要があると言ったという。これは、あえて誤解を招こうとする行為であり、事実そうなった。だが、ドイツのポストモダンアートの中で最も果敢で攻撃的な人物であるヨーゼフ・ボイスによって彼は鼓舞された。ボイスは彼の多様なメディアを用いて国民に自分たちの歴史的経験の現実にまともに向き合えと言った。ボイスについては、いずれご紹介したい。

やがて、キーファーは絵画の伝統的形式である風景画と歴史画を再創造しようと企てる。彼は作品をオペラ的、詩的、なによりも叙事詩的な全体的経験へと組織立てられるような一貫性に興味を持ったとシャーマは言う。例えば、『ドイツの精神の英雄たち』という絵画作品では、ワーグナー、ボイス、ロマン主義的「自然」の小説家シュティフターなど英雄の名は木造の部屋の中の記されて、灯火に燃やされる危険にさらされている。彼は、描く行為を歴史的破壊の攻撃的再演、文字通り「燃やすこと」と考えるようになった。ロマン派が風景を憧憬の中に称揚していたのに対し、彼は歴史が行ったことを為した。風景を焼いたのである。後の作品『ブーヒェン地方焼灼』では文字通り書物が焼かれたという。それなら、焼いた後に残るものは灰であろうか。ここまで、サイモン・シャーマの『風景と記憶』からキーファーに関する一部を要約してみた。

プラハで

半分の死、
私たちの生を吸って大きくなったものが、
灰の像さながら私たちの周りに横たわっていた
私たちも
相変わらず飲んだ、魂を交差させ、二本の剣を
天の石に縫いつけられて、
夜のベッドに、言葉の血にまみれて誕生して、
‥‥(中略)‥‥
骨のヘブライ語が、
すり潰されて精子となって
砂時計の中を流れていった、私たちは
その中を泳ぎ抜けた、二つの夢が今
時代に逆らい、あちこちの広場で、鳴り響く。

1967年ツェランはフライブルク大学で詩集『息の結晶』という詩を朗読した。その聴衆の席の最前列にはハイデッガーの姿があった。翌日二人はハイデッガーの山荘に向かい、そこで話し合った。ツェランはハイデッガーの過去を問おとしたが、老哲学者から謝罪の言葉なく沈黙があったという。その時、文学の話題も出た。ツェランが訳したエミリー・ディキンスンの詩やアーダルベルト・シュティフターの小説『高い森』などについて話されたという。ツェランはこの対話が行われた場所にちなんで『トートナウベルク』という自らの限定版の詩集と『高い森』の仏訳を同封してハイデッガーに送っている。

アーダルペルト・シュティフター(1805-1868) 『曇り空と月の風景』1850

アーダルべルト・シュティフター(1805-1868)
『曇り空と月の風景』1850 未完

シュティフターは、かつてのオーストリア領の南ボヘミアに生まれ、ウィーン大学で法律と自然学を学んだ。画家を志し、後には小説も手がけるようになる。とりわけ石に関する著作が多く興味深い。代表作『晩夏』はニーチェが絶賛したという。ウィ―ンに住んでいたクラウス・デームスは、ツェランが絶縁した友人の内、唯一交友を復活した人だった。そして、ツェランの関心をシュティフターに向けさせたのも彼だという。詳細は省くけれども、ツェランはシュティフターの『水晶』という作品を下敷きに自らの『帰郷』という詩も作っている。ビザンチン美術研究の泰斗、オットー・デームスの息子であり、あのピアニスト、イョルク・デームスの兄だった。僕はイョルク・デームスに2,3度会ったことがあるけれど、おっかないお爺さんだった。それはともかく、クラウスは、ウィーンの女流詩人であるインゲボルグ・バッハマンとは親友であり、ツェランは彼女と一時恋愛関係にあったようだ。ちなみにクラウス・デームスの息子であるヤーコプはツェランの奥さんのジゼルに版画の手ほどきを受け、作風はシュティフターに近いらしい。

キーファーもシュティフターが大好きだったと関口さんは指摘している。キーファーは、こう述べている。「石自体が燃えている。そうロマン主義者たちは表現しました。生命を持つものと生命を持たない対象との間の違いをロマン主義者たちは取り除きました。すくなくともシュティフターはそうです。彼は樹木や石といった対象をまるで生き物であるかのように描きました。そして、人間のさまざまな関係を、まるで死んでいるかのように、石であるかのように。彼は無生物から生物へのたやすい移行を描いたのです。‥‥生きているものだけが生きているというのはせまい考え方です。ひとつの石も生きている。そのことを私はシュティフターから学びました。」関口さんによれば、「もの」はシュティフターの、特に後期作品の鍵概念の一つであり、ハイデッガーも「シュティフターは森の氷結を端的に[もの]と呼ぶ」と指摘しているという。「もの」は人間存在が「聖なる秩序」のなかに埋め込まれている徴なのだと。キーファーは1991年にシュティフターの作品に因む『水晶』という作品を制作しており、画面は、黒い鉛に覆われた部分に白く彩色された部分がせめぎ合っている。撞着語である「黒いミルク」というツェランの詩句がここでも変奏されていると言う。その黒、白の中に赤茶色の夾雑物が混じっている。黒・白・赤は錬金術の基本色であると指摘している。

4.ショーレム→ベンヤミン→デューラー→キーファー

死のフーガ

夜明けの黒いミルク 私たちはそれを夕べに飲む
私たちはそれを昼に朝に飲む 私たちはそれを夜に飲む
私たちは空中に墓を掘る そこは寝るのに狭くない
ひとりの男が家に住む 彼は蛇たちと遊び 彼は書く
彼は暗くなるとドイツに書く お前の金色のマルガレーテ
彼はそれを書き 家の前に歩み出る すると星々は輝く 彼は口笛で猟犬を呼び寄せる
彼は口笛でユダヤ人たちを呼び出し地面に墓を掘らせる
彼は私たちに命令する 奏でろ さあダンスのために

夜明けの黒いミルク 私たちはお前を夜に飲む
私たちはそれを昼に朝に飲む 私たちはお前を夕べに飲む
私たちは飲む そして飲む
ひとりの男が家に住む 彼は蛇たちと遊び 彼は書く
彼は暗くなるとドイツに書く お前の金色の髪マルガレーテ
お前の灰色の髪ズラミート 私たちは空中に墓を掘る そこは寝るのに狭くない

‥‥

この『死のフーガ』は、戦争の傷跡の生々しい1945年のブカレストで書かれた。彼は、その後ウィーンを経てパリに移住した。フーガのように複数の詩句が対位法的に繰り返される。この詩は、「お前の金色の髪マルガレーテ」と「お前の灰色の髪ズラミート」の二行で終わる。「マルガレーテ」はゲーテの『ファウスト』のヒロインの名で知られるドイツ女性の象徴であり、「ズラミート」はユダヤ人女性の象徴とあるが、出所がはっきりしない。ドイツとユダヤの象徴が相いれない両極として並置されて終わるのだ。

アンゼルム・キーファー展ポスター  広島市現代美術館 1993

アンゼルム・キーファー展ポスター 
広島市現代美術館 1993 服にある10のポケットは神の属性である10のセフィロートを象徴している。

1967年の4月から5月にかけて、ツェランはゲルショム・ショーレムの著作に取り組み、その成果はいくつかの詩に結実したという。彼とは少なくとも6回会っていて、老歴史学者であるショーレムのユダヤ神秘主義であるカバラに関する話やイスラエルの様子などを熱心に聴いていたようだ。ユダヤの思想的根幹に触れようとしたのだろう。自己とは何かを探る道程もその終局に迫っていた。その成果は、『油に浸かって』『お前たち、闇の鏡の中に』『間近の、大動脈弓の中に』などの詩となってあらわれた。例えば、『お前たち、闇の鏡の中に』には「お前たちの使者-自己がお前たちの前に現われ、」という詩句があり、「使者-自己」の自己はショーレムでは特別の概念であって、「人間の本質的な性質と結びついた天使の自己である」と主張されていると関口さんは言う。また、『創世記』には「神は人間を彼のツェレムの中に創造され」とあり、ツェランの『天使の質料』という作品では、「魂を吹き込まれた日に」という言葉が詠われ、人間の天使的形姿ツェレムが暗示されているという。関口さんは、このツェレムがベンヤミンにおいては「星型の肉体」という表象で捉えられており、あのオドラデグとの関連が連想されるという。ちなみに「星型の肉体(Astral leib)」は、神秘学ではそのままアストラル体と呼ばれる。

1969年、9月末からツェランは念願のイスラエル訪問を実現させた。17日間の訪問の間、彼は歓迎され、数度の詩の朗読会が行われたが、詩は理解されなかった。少なくとも彼にはそう思えた。またも、自分が世界から疎外されているという思いに捕われる。もう出口はなかった。1970年、3月末、シュトゥットガルトでのヘルダーリン生誕二〇〇年記念の学会で、その夏に刊行される予定の詩集『光の強迫』の中から詩を朗読したが、難解な作品として受け入れられなかった。その一か月後、彼はセーヌ川に身を投じた。49歳だった。

彼は1958年のブレーメン賞受賞講演の中でこう述べている。「私は見つけます、何か結びつけるものを、詩のように出会いへと導いていくものを。私は見つけます、――何か言葉のようなもの――非物質的なもの、けれども地上的で、地球的な、円環をなすもの、両極を越えて自身へと回帰するものを。その際――晴れやかなことに――熱帯を横切っているものを。私は子午線を見つけます。」

ツェランには結びつけるものが必要だった。北極と南極を結びつける子午線が。母の埋められた「目に見えない大地」と結びつけるもの。存在を許される自分を結びつけるもの。人間が自己とは事物であるとはっきり認識できる決定的瞬間と結びつけるもの。自分と墜落した天使としての自己を結びつけるもの。「聖なる秩序」の中に埋め込まれた「もの」としての自己と結びつけるもの。そして、安住の地としてのエルサレムと結びつけるものを。言葉に期待をかけた。しかし、結合は起こらなかった。理解されない。彼は自ら地球を離れ、浮遊し、漂い、二度とは戻らなかった。美しい詩だけを形見として残して。

錬金術ふうに

沈黙、金のように煮られて、
炭化した
手たちのなかへ。
大きな灰色の、すべての失われたもののように近い
妹の姿――

すべての名前、すべての
ともに焼かれた
名前たち。それほど多くの
祝福されるべき灰。それほど多くの
獲得された国
あの
軽い、それほど軽い
魂の
輪の上に

‥‥

アルブレヒト・デューラー(1471-1528) 『メランコリアⅠ』1514 左中の立体の正体はなかなか掴み難い。

アルブレヒト・デューラー(1471-1528)
『メランコリアⅠ』1514
左中の立体の正体はなかなか掴み難い。

ツェランもキーファーも錬金術に興味を抱いていた。特にキーファーにあって錬金術の結合と作業(オプス)は作品のモティーフとして極めて重要な要素であり、鉛の作品抜きにキーファーを語ることはできない。錬金術では、鉛は水銀と並んで第一質料と呼ばれることがある。そして、ツェランのために言うならば、錬金術は人類史上最高の結合術の一つだったのだ。そして、物質の中に投影される意識を発見するための作業でもあった。錬金術については、カール・グスタフ・ユング 『アイオーン』に書いておいた。

ツェランは、ベンヤミンの著作のこのようなヶ所に傍線を施していたと関口さんは書いている。「土星はその質によって、土のように重く、冷たく、乾いた星として、全く物質的で、厳しい農業労働にしか適しない人間を生みだす――、しかし、その位置のおかげで、つまりもっとも遠い惑星として、ちょうど逆に、極度に霊的な、すべての現世的生活に背を向けた<瞑想的宗教家>を生み出すのである。(『ドイツ悲劇の根源』川村二郎他訳)」

「すべて土星的なものは地下の深所を指し示し、そこに昔の播種の神の本性の名残が見られる。(同上)」

「母なる大地が憂鬱者に吹き込む数々の事柄は、思案のはての夜明けに、地中の宝物のように、脳裏にきざしてくる。電光に打たれるように湧く直観は憂鬱者の知らないことである。(同上)」

占星術の上では、土星は陰鬱の星、鉛の惑星であって、農業神である大地の神、そして耕すことから学術、文化の神とされ、クロノスあるいは、サトゥルヌスの星と言われる。この星は叡知の星であると同時に、黒胆汁と関係してメランコリーに関わる星でもある。意識の鈍磨、抑鬱、妄想、狂気の原因とされていた。そして、鉛は閉じ込める金属、遮蔽する金属とされ、事実、放射能をも通さないことでも知られている。僕は1993年に広島市現代美術館で『アンゼルム・キーファー メランコリア 知の翼』展を見た。その時、鉛の持つ拒絶感のようなもの、ある種のうすら寒さのようなものを感じた。それと、同時にキーファーの細部にこだわらないおおらかさのようなものも感じたのだ。溶かされて薄板状にされた鉛の板は、パネルに張り付けられていたのだが、剥がれそうになった部分をガンタッカーで止めようとしたのだろうか、針が貫通せずに鉛の板に何本も突き刺さったままになっていたり、押し花のようにドライフラワーになったスズランが小さなガラスケースにセロハンテープで留められていたのだが、それが外れてケースの下に落ちていたりした。

この土星のメランコリーと天使の関係を描いた有名な作品がデューラーの『メランコリアⅠ』である。ベンヤミンは、アルブレヒト・デューラーの『憂鬱』の周辺に活動的な日常生活の道具が、使われもせず思い煩いの対象として地面に散在しているのは、この概念に相応しいことだと『ドイツ悲劇の根源』の中で述べている。その道具の中にあのみょうちくりんな立体があるのだが、それをキーファーも鉛の飛行機と一緒に作品に登場させたりもしている。鉛製の飛行機は飛べないのだ。メランコリーが黒胆汁に関係しているように、錬金術の最初のステップは、ニグレド(黒化)に関わっている。それは煆焼によって生じる黒い灰であった。ツェランが詩の中に書く煙は、ホロコーストにおけるユダヤ人犠牲者を死体焼却場(クレマートリウム)で焼く死体の煙を象徴している。彼の真っ赤な傷口はメランコリアの園に咲く薔薇だったのだ。キーファーもナチスの建物を描いた。それは、しばしば溶鉱炉のような真っ黒な塊だった。彼の作品にはツェランの詩がそのまま書かれているものがあり、ことあるごとにツェランの詩を朗読したりしている。ツェランをはじめ、彼のかつての恋人であったバッハマンなど何人かの詩人の作品が彼のインスピレーションの源であったようだ。

ツェランは書いている。「ユダヤ人が問題なのではない、真実が問題なのです。そう、ユダヤ人が問題なのであり、真実も問題なのです。‥‥ドイツはどこにある。その境界の外側、空中にあるのです。ドイツが殺したユダヤ人たちのもとに(『翼ある夜 ツェランとキーファー』ライン河とニーベルンゲン)」。そして、こうも書いている。「問い続けよう、私も君も、長く、最後まで(同上)」。ドイツでは、戦後10年を経てもユダヤ人墓地が被害にあう事件が起こっていた。戦争を知らない世代であるキーファーは問いつづけたのだ。鉛や灰や土や藁が覆う巨大な画面を通じて。過ちは繰り返されるのだろうか。ドイツ人だけではなく、われわれ日本人も歴史を直視すべき時が来ているのではないか。そうでなければ、こんな戯れ歌を笑えなくなる日が遠からずやってくるだろう。「直ナラケレバ 殺シテシマエヨ タカガ非国民ダヨ タカガ非国民ダヨ‥‥」

 

 

キーファーの作品の映像を添えておくのでゆっくりご覧ください。初期から比較的最近までの作品が収録されています。

 

 

付録として、ツェランが実際に交際していた、あるいはその思想や作品を通して影響を受けた人達を一部ですが挙げておきます。

パウル・ツェランに関係する人物

パウル・ツェランに関係する人物

1.オシップ・マンデリシュターム ユダヤ人
スターリンを揶揄した詩を書いたためにシベリアに送られ、1938年ウラジオストック近郊の収容所で亡くなっている。ツェランは『誰でもないものの薔薇』の詩を捧げた。

2.ネリー・ザックス ユダヤ人
ゲシュタポによる逮捕の寸前、ベルリンを抜け出し母と共にスウェーデンに亡命した。ツェランと同様な精神的な病を抱えながら哀悼の詩を綴った。彼にとっては母のような存在だった。

3.テオドール・アドルノ ユダヤ系ドイツ人
フランクフルト学派を代表する思想家。ナチスに協力した一般人の心理を研究した。社会心理学者であると同時にアルバン・ベルクに師事し、音楽評論でも名高い。しかし、ユダヤ人としての傷に踏み込もうとはしなかったと言われる。

4.フランツ・カフカ ユダヤ人
カフカは40歳で亡くなる時、友人のマックス・ブロートに草稿やノートを焼き捨てるように頼んだが、ブロートは自分の信念にしたがって『審判』『城』などを世に出した。慎ましい優しい人だったようだ。

5.ヴァルター・ベンヤミン ユダヤ人
フランクフルト学派の一人で、文芸批評、思想・哲学、社会批評などの分野で活躍した。ナチスを逃れてピレネー山脈を越えようとしたが、それを果たせないこと知り、服毒自殺した。

6.マルティン・ハイデッガー ドイツ人
1949年、ハイデッガーのいたバーデン=ヴュルテンベルク州を占領していたフランス軍政局はハイデッガーとナチスとの関係は「服従することなき同行者」「制裁には及ばず」と最終決定した。ツェランから詩を送られたハイデッガーは1968年の礼状で「私は幾つかのことはまだ、いつの日か、無-言を脱して対話に入れるものと思っています」と書いたという。

7.ゲルショム・ショーレム ユダヤ人
ベルリン大学で数学、哲学、ヘブライ語を学ぶ。大学でマルティン・フーバーやヴァルター・べンヤミンと知り合った。1923年英領パレスチナへ移住し、後にエルサレムのヘブライ大学で教鞭を執った。

8.マルガレーテ・ズースマン ユダヤ人
詩人であり、パリでブラックやピカソと机を並べて学んだ人だ。『ヨブ記とユダヤ民族の運命』や『ユダヤ精神について』という著作でツェランに影響を与えた。彼女は『形姿と円環』で「すべての個々のものは存在の傷である」と書いた。

9.アンリ・ミショー ベルギーで生まれフランスで活躍した。
幻覚剤メスカリンを用いた精神状態を絵や詩にしたことで知られる詩人。ツェランはミショーの詩を翻訳しており、ミショー宅へも何度か訪れていた。

10.インゲボルグ・バッハマン オーストリア人
『猶予された時』『大熊座への呼びかけ』などの詩集で名高い。バッハマンとツェランとは一時恋愛関係にあり、その後も二人の友情は長く続いた。彼らの往復書簡は予想を超えた文学性を持ち波乱に満ちたドラマに溢れると言われる。

11.アーダルべルト・シュティフター オーストリア人
ハイデッガーは、シュティフターの愛読者であり、トーマス・マンは彼を最も奥深い作家だと激賞した。フルトヴェングラーはベートーベンの田園を振るためにはシュティフターを読んだ方がよいと語ったと言う。

12.ライナー・マリア・リルケ オーストリア人
母はユダヤ系だった。オーギュスト・ロダンとの交流で知られ。『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』などの詩や小説『マルテの手記』で一世を風靡した。ツェランも大きな影響を受けた。

『大野一雄 稽古の言葉』 舞踏―手の中の石蹴り遊び

この人の舞踏を見ていると、16世紀のドイツの画家マティアス・グリューネヴァルトの描く手を思い出す。手が精神を越え、身体を離れて越え出ようとしている。こんな手を表現できるのは、グリューネヴァルトとこの人しかいない。これは、すでに美しいという世界とは異なる次元に突入しているのだ。大野一雄(おおの かずお/1906-2010)さんの舞踏の動画を見て、若い人たちは、このお爺さんは、いったい何をしているのだろうかと訝るかもしれない。パントマイムにしては具体的に何かを真似ようとしていないし、普通の踊りというには表現主義的だし、ステップを踏んでダンスのように優雅とも言い難い。でも、この切々と伝わるものは一体なんなのだろうかと、きっと感じるものがあるのではないかと思う。一途であることは、芸術家の最も重要な資質であると武満徹は書いている(『遠い呼び声の彼方に』)。この切なさは、きっと一途であったことの結果なのだ。何に一途だったのか。踊ることにである。90歳を超えてもなお踊り続けた人である。

さあ、今日はここから始めよう。『大野一雄 稽古の言葉』だ。舞踏を学びに来る人たちに大野一雄さんが語った言葉である。表題は私が勝手につけた。でも、こんな本は、人様に紹介するよりは、自分の心の中に大切にしまって、抱きしめていたほうが良かったかもしれないのだが‥‥

マティアス・グリューネヴァルト(1470- 1528) 『磔刑図』 1523-24

マティアス・グリューネヴァルト(1470- 1528)
『磔刑図』 1523-24

1.石蹴り遊び

漂う勇気が、死と生が背中合わせになって。言葉でなくて、あなたが発する輝きだ。宇宙全域とそのかかわりなかで、あなたは石蹴り遊びをしているんだ。

2.一粒の砂のような微細なもの

ほんの一粒の砂のような微細なものでいいから私は伝えたい、それならできるかもしれない。一粒の砂のようなものを無限にあるうちから取り出して伝えたとしても、それはあなたの命を賭けるに値することがあるだろう。大事にして、些細な事柄に極まりなくどこまでもどこまでも入り込んでいったほうがいい。今からでも遅くない。

3.舞踏とは何か

舞踏とは何か。土方さんが、[舞踏とは命がけで突っ立っている死体である]、こう言った。これはどうも技術を越えた世界のように思える。想像力という問題だけ考えても、自分が想像力を作ったんじゃなくて、天地の始めから現在にいたるまで、先人が死んで魂に刻み込んで、外側から、宇宙の側から刻み込んで、そういう長い億単位という年月のなかで、想像力というものが積み重ねの中で生まれた。たくさんの積み重ね。その中の自分‥‥。

マティアス・グリューネヴァルト 左『辱しめを受けるキリスト』1503 部分 右上『泣く女』1512-14 部分 右下『聖母とイエス』1517-19 部分

マティアス・グリューネヴァルト
左 『辱しめを受けるキリスト』1503 部分
右上『泣く女』1512-14 部分
右下『聖母とイエス』1517-19 部分

4.箸の持ち方

箸を持って御飯を食べるときに、その箸が宇宙の果てまで伸びていって、あなたが生きている証しのような、喜びのような、悲しみそのもののような箸となって、あなたが食事をするときに何気なくもつ箸が、そんな箸であってほしい。今は気づかなくてもいいが、千年たっても万年たっても気がつかないとすれば、その箸の持ち方はだめだ。

5.立ち昇るもの

何もかもご破算にして投げ出して。そこから立ち昇るものがあなたのものだ。考え出したのではなくて、立ち昇るものがあなたのものだ。細密画のように立ち昇るものを。追いかけることと立ち昇るものが一つでなければならない。立ち昇るものと追いかけることをして、立ち昇ったときにはあなたはすでに始めている。立ち昇るそのものがあなたの踊りだ。空はどうなっているんだい。立ち昇るものを受け入れろ。空はいったいどうなっているんだい。そして、自由にひろがっていく。手が足が、命が際限なく自由に立ち上がるときに手足は同時に行動している。あとじゃだめだ。

6.花が美しいから

花が美しいから、ああきれいだな、っと踊ることはないわけですよ。あなたが見ているその目が、魂が、見てるその姿がさ、いままで稽古したこと全部のエネルギーが燃焼しているならば、花ができるわけですよ。できるでしょう。延々と極限まで、永久にずうっと花を咲かせる。核心に入ってきましたからね。体がねじれても、目からなにから全部ささげてね、花を見てる。それそのものが花を成立させるもととなるように。

 

細江英公(1933-)  『鎌鼬』

細江英公(1933-)
 『鎌鼬』

もう、5年になるだろうか。2011年の岡本太郎美術館で開催された『岡本太郎生誕百年記念展 芸術と科学の婚姻ー虚舟』でのレセプションの時、僕は思ってもみない予期せぬ人とお会いすることができた。細江英公(ほそえ えいこう)さんがいた。嬉しかった。三島由紀夫や土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)といった人達をモデルにして素晴らしい作品を撮り続けた人だった。僕が高校生の頃、ほとんど唖然として自失するほかなかった写真集『鎌鼬』、この写真集の作者だ。「あれは、日本人の原風景ですよね」と僕が言うと、細江さんは「そういうふうに見ていただければうれしい」と素直に喜んでくださった。それは、戦後の60年代、明治の面影濃い東北の農村を舞台に、不気味にして哀愁を添え、面白くも聖なる、奇怪にして高尚たる、土方巽という稀代の器官なき身体が写しだされていた。昭和から縄文までの位相空間、畳(たた)なわる蟻通しの世界、歪む時空。これを見た時から、土方巽とはいったい何者なのかという疑問が頭から離れなくなっていた。もう天を舞うこともない堕天使たちが、地霊と化して大地を這う踊り、暗黒舞踏の創始者だった。この人に影響を与え、幾度も共演を重ねた人が、今回の主人公、大野一雄さんだ。

土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986) 『土方巽全集2』

土方巽(ひじかた たつみ/1928-1986)
『土方巽全集Ⅱ』

お会いしたもう一かたは、大野一雄さんのご子息である大野慶人(おおの よしと/1938-)さんだった。1959年、21歳の時、土方巽の『禁色』で少年役を演じている。何も知らず、ただ純真なものだけがあったという。この『禁色』は、ジャン・ジュネの男色のエピソードにまつわる踊りだった。60年代の暗黒舞踏派公演に参加、1970年から1984年まで舞台から遠ざかった。その後、父親の一雄さんと共に、あるいはソロで踊った。父親から、自分はダンスを研究しているから、それを受け取ってほしい、だから君は習いにきなさいと言われたらしい(カガヤ サナエ インタヴュー『大野一雄氏100歳をお祝いして』)。岡本太郎美術館でお会いした時も「舞踏」について熱く語っておられた。父から受け継いだもの、世界的に発展している「BUTOH」の行方、自らの役割。メキシコの女性アーティストに贈られた例の一雄さんの人形も持っておられた。その後、横浜の稽古場を訪ねたいと思ったのだが、折あしく、慶人さんは海外のワークショップへ出かけられていて断念せざるを得なかった。出不精な僕は、それっきりなのだけれど、機会があれば、再度、打診をしてみたいと思っている。

大野一雄さんは、1906年、北海道函館に生まれた。19歳の時、日本体育会体操学校(現在の日体大)に入学する。1926年に帝国劇場でスペイン舞踏の舞姫、ラ・アルヘンチーナ(アントニア・メルセ)の公演を見て衝撃を受ける。これが第一の契機であった。大野さんは、その姿を50年の間胸に秘め続けるのである。その後ミッション系の女学校でダンスを教えることになった。その頃、ドイツ表現主義の舞踏家、マリー・ウィッグマンの高弟であったハロルド・クロイツベルクの来日公演を見る。そのマリー・ウィッグマンにドイツでノイエタンツを学び、日本のモダンダンスの中核的存在となった江口隆哉と宮操子(みや みさこ)の主宰する江口・宮舞踊研究所に入所した。ノイエ・タンツ(新しい踊り)との出会いが第二の契機となった。ちなみに、ドイツでは、このノイエ・タンツの流れの中にピナ・バウシュがいる。1926-28、1938-45、二度に亘る兵役。復員後、1946年から江口・宮舞踏研究所に復帰し、代稽古なども行うようになる。1949年から「大野一雄現代舞踏公演」を開催し始める。43歳だった。遅いデヴューである。そして、50歳で土方巽との運命の共演を開始する。

大野慶人編集 『大野一雄 魂の糧』

大野慶人編集 『大野一雄 魂の糧』

今度は慶人さんが父、大野一雄を書いた『大野一雄 魂の糧』からいくつかご紹介したい。父親の一雄さんの手は、土方巽も嫉妬するほど大きかったと言う。指の根っこが特に長い。慶人さんは、その手によって表現される父の世界を、一輪の花の中にも宇宙があるように、手の中にも宇宙があると形容する。そういう手で動物や鳥や昆虫を踊った。とくに昆虫の動きに注意を払っていたという。グレーゴル・ザムザの姿勢とは何か。それに、原石鼎(1886-1951/はら せきてい)の俳句、[うれしさの狐手を出せ曇り花]を例にとる。あんまりきれいな桜に、狐が思わずフッと出てきたことを詠んだ句だが、誰だって人間は動物をどっかに持っている。大野一雄は、まさに自分の中にある化け物、つまり「化身」という発想を持っていたというのである。

慶人さんは、一雄の動きのフォルムを見ていると、次にフォルムがどうなるのか計算が立たない。まず、ひとつのフォルムがある。全部、そのすべてが、一だという。一があって二、三、四、五というふうに、ひとつひとつが全部で、しかも連続していく。 本番中、動きを間違えてしまったことがあるけれど、普通だったら、パッと動きを変える。でも、大野の場合、いけないと思った時に間違えた動きを手がかりにして、ひとつの直感的な宇宙を新しくつかんでしまうという。それは予測し得ない動きなのである。僕は、大野さんの動きには手の指の五本ともに異なる型があるように思える。手の甲や腕、肘、顔のそれぞれの筋肉など、各々の肉体のパーツにそのような細かい型があると感じるのだ。いわば、微分的な型といっていい。その完成度は、スティル写真に撮られた姿に一枚も弛緩した姿がないことで分かる。一枚もだ。ただ、その繋ぎ方は、かなり自由だったのではないだろうか。

それから、モダンダンスでは上に、重力に逆らってというふうな思いが強いのだが、一雄の場合は、本人がそう感じた時、反対に落下するという。その時の落下する速度は凄いらしい。あっというまに床に行っているという。当然、即興で落ちる。頭でわかってそういう動きをしようなんていう速度ではないという。 [落ちる]ということは、一瞬何かが切られる。鋭い刃物で、ハッと空間のある何かを切る。だから言葉を変えると、垂直に切って水平に開くと言っていいという。‥‥普通の技術ではこれはできない。舞踏では、特に膝から下の世界というのは大事だというのである。

細江英公 『胡蝶の夢 細江英公人間写真集 舞踏家・大野一雄』 表紙にある曽我蕭白の絵を大野一雄の体に投影した写真がとても印象的だ。

細江英公
『胡蝶の夢 細江英公 人間写真集 舞踏家・大野一雄』
表紙にある曽我蕭白の絵を大野一雄の体に投影した写真がとても印象的だ。

なぜ女性を踊るのかということは、本人もよく言っているそうなのだが、「女性になる」、「女に変身する」というよりも、命の一番の根源にさかのぼる行為であるという。そこに帰りたいと。そうすると、どうしても、母親というものの存在に入って行かざるを得ないという。言い換えれば、生まれたての子供のダンスなのだと。死と誕生のダンス。本人もよくが言うが、生まれる前は男も女もなかった。あるいは、自分の中の、何か忘れてきてしまった肉体があるとも言う。はぐれてしまった肉体。そこに帰って行きたいという根源的な欲望のためにフッと男をやめる、もうさんざ日常的な中で男性をやっているから、脱ぎ捨ててドレスを着るという‥‥

慶人さんが父一雄さんを舞踏家として意識したのは、昭和二十四年、神田共立講堂で二千人を集めて舞台を踏んだ時だ。自分の父親がやる舞台に対してこれだけの観客がいることにびっくりしたというのだ。でも、その発表会の頃からすごい借金をしていたと述べている。当時の入場料が仮に三百円とすると、三百円の税金をとるという国の決まりがあった。借金しながらやっていたのである。‥‥だから、絶対踊りで儲かるわけがない。そんな舞台は贅沢な人だけがやることだった。すぐに給料の一年分くらいはなくなってしまい、給料は、全部前借り。まともに貰ったことはないという。給料日の次の日から前借りだった。それをやり通すというのはたいへんなことだったろう。だが、慶人さんは、母親のちえさんからいっさいグチを聞いたことがなかったという。一雄さんは、連れ合いにもめぐまれたのだ。「夫婦は天界において一人の天使だ」というスウェーデンボルグの言葉をよく口にしていたという。羨ましい。

僕は、長らく大野一雄と土方巽を同列に考えるのは無理があるような気がしていた。というわけで、今回いいチャンスなので、二人の違いがどこにあるかを確認してみたいと思う。

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

『土方巽の舞踏-肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー』岡本太郎美術館 左が土方巽

土方巽は、秋田製鋼に勤める傍ら、秋田市内の江口隆哉の流れを汲む舞踊研究所でドイツ系のモダンダンスであるノイエ・タンツを学び始めた。1946年、18歳のことだった。21歳の時、一時、上京する。この時、神田共立講堂で大野一雄の舞踏公演を見て衝撃を受けた。こぼれる程の抒情味を湛えた、そのシミーズ(女性の下着)をつけた男の踊りは、頻りに顎で空間を切って感動は長く尾を引いたと述べている(『美貌の青空』)。三年後の24歳の時、上京し、安藤三子舞踊研究所に入門、その後、ドイツ現代舞踊を学んだ津田信敏近代舞踊学校に入学するのである。スパニッシュ、ジャズ、社交ダンス、バレエなども学んだが、手も足も真直ぐにならなかったばかりか片方の足が短かった。この時点で、日本人としての肉体に立脚した現代舞踊を追求し始める。飯詰に押しこまれた「折り畳まれた足」の舞踏だった。

『暗黒舞踏』の中で彼は、こう述べている。「年頃になって私は、舞師を選んだ者であるが、何故か硬いものを欲していた者であり硬い舞踏ならば、ドイツダンス、と思い選んだ結果が、今日になった。‥‥加害者大野一雄、土方巽に依って点火される、このドラマは、加害者と被害者が癲癇のように咲き誇る様に作舞されている、狂気の深部に潜む苦汁が深く飛翔することを私はこの作品に賭けている。」アルトーの残酷劇やサド侯爵の小説、ジャン・ジュネの牢獄・同性愛、観客への挑発、そして、錯乱という名の創造。こうして、暗黒舞踏がはじまるのである。

『大野一雄 稽古の言葉』

『大野一雄 稽古の言葉』

ここで、三上賀代さんの『器としての身體』から二人の特徴を対比させてみたい。三上さんは、土方巽の弟子の一人だった。それによれば、海外において、BUTOHは、土方を父に、女装の多い大野一雄を母として誕生したとされている。土方は振付を重視し、大野一雄は即興を重視した。土方直系の大駱駝艦、それから派生した山海塾が派手な演劇性をもっているのに対して、大野の舞踏は「演劇的意志と空想世界の境界線を取り払ってしまった自在な表現者(トビアス・トビ『ニューヨークマガジン』)」と評されている。ちなみに、僕が初めて舞踏なるものを見たのは、1985年の山海塾の日本縦断ツアーの倉敷公演だった。かなり遅かったのである。それはともかく、共通点として二人ともドイツのモダンダンスを学び、なお且つ、それには飽き足りなかった。土方は大野の踊りに感動し、その世界の上に自らの世界を重ねた。互いに共演し、後に土方は、「ラ・アルヘンチーナ頌」などの大野作品の演出をも手がけるようになる。だが、決定的な違いは、恐らく今から述べることにあったのではないだろうか。

もう一度、慶人さんが父、大野一雄を書いた『大野一雄 魂の糧』にもどるのだが、このような言葉がある。「土方さんとの出会いの中で、一雄は根本的に変ったと思います。その前までは、モダンダンスや表現主義的踊りを踊ってたんですけれども、、この時から初めて[死]というものの考え方が本格的に入ってきた。それまではどちらかというと生きる、[生]の側から見た踊りだった。」二人とも全面的に信頼しあっていた。「しかし、ある時、やはりうちで話した時に、一度だけ執拗に二人が議論したことがあった。一晩中続いた。土方さんが執拗に一雄に[神とはなんですか、先生はクリスチャンなんだから、神とはどういうもんなんだか教えてください]って言うんです。一雄は、なにか言えばいいのに、一言も言わない。押し黙っているわけです。かなり長い間。それは一晩中朝方までその議論が続いた。」土方は大野一雄に「死」を感染させ、大野は土方に「神」への畏怖を植えつけたのである。かたや無神論者であり、かたや信仰者であった。土方巽には舞踏の型はゆるぎない確信であり、自己の依るべき所であったろう。大野一雄にとっては、型は魂の航跡であったのだ。そこに即興の自由がなければ、魂は飛翔することができなかったのである。それは、死と生が背中合わせになった漂う勇気によって生まれる輝きだった。宇宙全域とその関わりのなかで、大野一雄は石蹴り遊びをしていた。その広大な手という宇宙の中で。

マティアス・グリューネヴァルト 『イーゼンハイムの祭壇画』1515 部分

マティアス・グリューネヴァルト
『イーゼンハイムの祭壇画』1515 部分

今回、土方巽について多くを触れることができません。何か契機があれば、また、改めて彼についてはとりあげようと考えている。歌舞伎もそうかも知れないが、と暗黒舞踏はそのオリジナリティーの高さにおいて双璧といっていいだろうと思っている。だから、能=(   )=暗黒舞踏という関係性の中で()の中入る言葉を探しだすことが出来れば、日本という文化のオリジナリティーに触れることも可能ではないだろうか。だが、不可得、不可得‥‥

最後に『大野一雄 稽古の言葉』から、全ての表現者に捧げるこの言葉をお送りしたい。

7.「おまえの踊りがいま認められなくたって、千年万年経て誰かひとりでもいいから、認めることがあるとすれば、それは成立する。しかし、永久に誰とも関係のない踊りはだめだ。」

 

 

 

動画は、『私のお母さん(リハーサル)』、『死海』の映像が一部登場するものを添えておきます。