ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part2 ヘレニズム化、死海文書、正典の確立

アレクサンダー大王の突然の死去の後、その帝国の一部であるエジプトは、部下であったプトレマイオス一世によって統治される。ギリシア人によってエジプトは支配されるようになるのである。前331年ナイルのデルタ地帯の西に建設されたその名もアレクサンドリア。ファロス島の灯台と図書館で世に名高い都市である。世界貿易の中心地であり、ギリシア人のほかにユダヤ人や多くの外国人たちが流入し始めていた。この王立図書館は前三世紀には世界の知の中心であり、講堂、会議室、庭園を備えた図書館は、ムセイオンと呼ばれた大型学術研究所の一部だった。長らく近東世界最大の知の宝庫、学識の象徴であった。そのような図書館にヘブライ語の聖書が蔵書としてないことに不満を感じるユダヤ人たちがいたことは想像に難くないと筆者であるカーギルは言う。今回もロバート・カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』からプロットしてみたい。

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

70人訳聖書

前三世紀から前二世紀にかけてユダヤ教は益々ヘレニズムの影響を受けるようになっていたが、ユダヤ人の歴史や宗教に関する事柄を世界的名著に加える価値があるとは考えられていなかったという。しかし、ユダヤ教徒の中にはギリシア語で読み書きできるものが増え、そのような学識あるユダヤ教徒の律法学者の中からヘブライ語聖書をギリシア語に翻訳する者が現われるようになる。それが70人訳聖書と呼ばれるものであった。前250年頃から約150年の歳月をかけて翻訳され、概ね正確な版を完成させたといわれている。ただ、翻訳の過程で部分的な加筆、削除、解釈の変更は誤訳も含めて何百か所に及ぶといわれている。言い添えるけれど、翻訳に誤訳は避けられない。とりわけヘブライ語の翻訳は難しいとされている。この70人訳聖書には、従来のヘブライ語聖書になかった文書も含められた。それらは、後に聖書外典の名で呼ばれるようになる。この70人訳聖書は前一世紀から紀元後一世紀までユダヤ人にとって実質的な聖書であった。

前125年前後に書かれたと言われる『アリステアスの手紙』は、エジプトを支配したギリシア人であるプトレスマイオス一世の息子、プトレマイオス二世フィラデルフォス(前285-前246)の宮廷人であり異教徒だったアリステアスが兄弟のフィロクラテスに手紙を書き送るという体裁になっていて、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳される経緯が書かれている偽書である。アレクサンドリア図書館長のファレロンのデメトリオスが王に向ってユダヤ人の律法も転写してあなたの図書館に入れる価値があると進言するという架空の話から始まる。蔵書にヘブライ語聖書を加えたいと思った理由から書き起こされるのである。王がギリシア語への翻訳を命じる勅令を下し、ユダヤの12部族から各6名の翻訳者が二人一組になり72日間かけて律法(ト―ラー)を翻訳し、一言一句違わぬ翻訳版を36部作ったという展開になっている。この偽書の目的は、このギリシア語訳が申し分なく、敬虔になされ、現在の形を保持し、改変を加えないことが適正であることをユダヤ人たちに納得させることにあったようだ。

ギリシア語訳された70人訳聖書は、紀元後70年にローマ軍によってエルサレムの第二神殿が破壊され、ユダヤ教徒の間に宗教的な伝統を守りたいという欲求が高まるに応じて人気がなくなる。一方ユダヤ教色の薄いギリシア語翻訳版はキリスト教徒に好まれていたが、それもラテン語聖書に取って代わられるのである。しかし、70人訳聖書が読まれた時代には、新約聖書の著者たちは、ギリシア語訳の本文がヘブライ語聖書の新解釈を導入する助けになると気づいたという。本書ではそのような二つの例が挙げられている。

紀元前8世紀のカナン付近

一つは出エジプト記13-15章でアラビア半島とアフリカ大陸を分断する大海を渡ったとされる場面であるが、この水域のヘブライ語名はヤム・スーフ「葦の海」であり、紅海とは訳せない言葉になっているという。訳者たちは、他の箇所で「葦」と「紅」の違いを訳し分けているから誤訳とは考えられない。当時はシナイ半島とエジプトを分断する水域を「紅海」と呼んでいたというから、何処だか分からない「葦の海」を「紅海」に置き換えた可能性がある。これは宣教の効果を考える上では重要であったかもしれない。もう一つはイザヤ書に登場する「おとめ」という一つの言葉だった。

それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで/彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる (イザヤ書7:14-16)。

このおとめはヘブライ語のアルマー、適齢期の女性を意味する。それを70人訳聖書ではギリシア語のパルテノスという単語で訳した。これは処女を意味していたのである。それゆえ、これを範とした新約聖書のマタイ福音書では、奇跡の懐妊を果たし、インマヌエルつまり「神はわれらとともにある」という神の化身を出産するマリアはパルテノスとして描かれたというのである。おそらく、この「おとめ」は聖母マリアの予型とされているのではないかと僕は思っている。予型についてはノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表に書いておいた。予言者イザヤはアハズ王のもとに赴き北王国(イスラエル王国)とアラム・ダマスコの同盟軍に対して、ダビデの血を引く次なるメシアが出現して再びユダヤ人は救済されるという預言を行った。そのおとめが身籠るメシアとはアハズ王の息子ヒゼキアを指している。アハズ王の時代ユダは持ちこたえるが、息子のヒゼキアの時代、前701年頃にエルサレムは新アッシリアに包囲される。その時イザヤは再び予言を行った。

エルサレムから、残った者が/シオンの山から、難を免れた者が現れ出る。万軍の主の熱情がこれを成就される。それゆえ/主はアッシリアの王についてこう言われる。彼がこの都に入城することはない。またそこに矢を射ることも/盾を持って向かって来ることも/都に対して土塁を築くこともない (イザヤ書 37:32- 33)

こうしてユダ王国とエルサレムは苦難をのりきるのであるが、後の前一世紀から後一世紀にかけての多くのユダヤ人はギリシア軍やローマ軍の圧政に苦しんでいて、イザヤ書のような預言書を読み返しては、現状のへの不満と悲しみを慰撫していた。70人訳聖書はそのような状況の中で読まれていた聖書なのであった。ちなみに現在の新共同訳聖書では「葦の海」「おとめ」共にヘブライ語旧約聖書のままとなっている。

『テオーシス』田島照久・阿部善彦編
著者 土橋茂樹、谷隆一郎、袴田渉、松村康平 他
「プラトン主義と神化思想の萌芽」収載
著者の一人である松村氏から寄贈いただいた。この場をお借りしてお礼申し上げたい。

プラトンとプロティノスの聖書への影響

ヘレニズム化されるユダヤ文化に浸透していったギリシア哲学の内でも、とりわけプラトン主義と新プラトン主義の影響は大きかった。プラトン主義は、影にすぎない物質界とその原型たる超越的な世界、つまりイデア界の存在を明確に区分する。そして、プラトンの著書『ティマイオス』にはこう述べられている。「神的なものについては、神自身が、その製作者となったのですが、死すべきものの誕生のほうは、その製作を、自分が生み出した子供たち(神々=天体)に命じたのでした。そこで、神の子らは父に倣って、魂の不死なる始原を受け取ると、次には、そのまわりに死すべき身体をまるくつくり〔=頭〕、それに乗り物として身体全体を与えたのですが、また、その身体の中に、魂の別の種類のもの、つまり死すべき種類のものを、もう一つつけ加えて組み立てようとしました(種村恭子 訳『プラトン全集12』)。」ここで、注目してほしいのは死すべき人間の魂は不死のものと死すべきものとに分けられて構成されたとしていることである。

最近、『テオーシス』というとってもいい本が出版されて、これも嬉しかったのだけれど、プラトンやプロティノスのギリシア哲学を起点としてキリスト教における東西教会(主に西方教会)の神化思想とその歴史的変遷を扱った本なのである。キリスト教へのギリシア思想の影響を知る上で貴重な本と言える。グノーシスもキリスト教との関係は濃密なのだが、それについては又の機会にご紹介したいと思っている。「テオーシス」とは一言でいうと「神に似ること」である。この感覚的な俗世から諸々の徳の理想的な範型へと「魂の向け変え」を行い、その観想によってなされる自身の浄化と倫理的徳の実践こそがプラトン(前427-前347)における「神に似ること」であったのである。プラトンのいう魂の不死性が、神に似たものになりゆく〈人間の生〉の永続性への根拠とされていたのではないかという(土橋茂樹「プラトン主義と神化思想の萌芽」)。

ユダヤ人であり、プラトン主義に通じたフィロン(前25-後50)によってプラトンのイデアとヘブライの神が結び付けられる。彼はギリシア化される離散ユダヤ人がユダヤ教から離れて行くことを懸念してモーゼ五書を含む旧約聖書注解をストア派的に寓意化して注解を作ったといわれている。ストア派は普遍的理性たるロゴスの理解を重視し、道徳的、倫理的幸福を追求した。一方で、彼は、プラトンの言う「神に似ること」を正確に受け継いでいたという。プラトンにとって宇宙が、善のイデアの統合体たる〈理性の対象〉の似姿(エイコン)であったように、フィロンにとって、人間は神が御自身にかたどった〈神の像〉の似姿、つまり写し〈像〉であった。人間は〈神の像〉の像ということができる。彼には、絶対的な神に人間が直接似ることは不可能と思われた。それゆえフィロンは、イデア全体をも表す神の思考の働きとしての〈ロゴス〉を神の像の知恵としたのである。神に似るためには、〈神の像〉としての〈知恵〉や〈ロゴス〉という媒介を必要とすると考えられるようになった(土橋茂樹「同上」)。

プロティノス(205?-270)

やがて、プロティノス(204-270)の新プラトン主義によって、この神化思想は、より大きな発展を遂げる。被造物は〈一者〉と呼ばれる唯一の存在から流出する過程で全てが生み出される。それは、万物の源であった。そして、彼はプラトンの主張を受けて『エネアデス』においてこう述べている。「プラトンは『神に似ることは、この世から逃れることである』と言ったり、日常の市民生活に関係している徳を、何の制約もつけずに〔徳〕と呼ぶようなことをしないで〔市民的な〕という言葉を付け足したり、また別のところでは、〔徳〕を浄化と呼んだりしているが、この場合、彼がすべての徳を二通りに分け、〔神に似ること〕を市民的な徳によるものとはみなしていないことは明白である(土橋茂樹 訳)。」プロティノスにとって〔神に似ること〕は、もはや倫理的実践の問題ではなく、一者への帰還であり、神との合一という神秘学的な問題へと移行するというのである(土橋茂樹「同上」)。

プロティノスが〈一者〉と呼ぶ存在と万物の源となる神聖な唯一の存在である神とは同質のものとして結びつけられていったのであろう。それは、キリスト教側からのアプローチであったと思われる。カーギルによれば、プロティノスの高弟テュロスのポリフュリオス(234-305)は『キリスト教徒駁論』を書いて、キリスト教を攻撃し、コンスタンティヌス帝から発禁処分を受け、後には焚書処分にもされているという。ともあれ、神化思想は、パウロにおいて神とキリストが同一化され、ニュッサのグレゴリオス(335頃-395頃)によって「神に似たものになること」は「キリストに似たものになること」に置き換えられ、偽ディオニュシオス・アレオパギタにおいて徹底的な自己無化による神との合一という神秘主義へと変遷していった。エピクロス派、犬儒派やストア派などのギリシア哲学の影響は part1 で述べたけれど、とりわけ、このプラトンやプロティノスの思想を受けてユダヤ・キリスト教思想は深化の度を深めてゆき、世界宗教としての風格を備えてゆくのである。さあ、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

死海文書発見の意味

死海北西部沿岸のクムラン廃墟と呼ばれる古代の住居跡、その付近にある泥灰土の崖にいくつかの洞窟があった。1946年の冬か47年の初め、そこから当地の牧夫が主にヘブライ語で書かれた羊皮紙の巻物を発見する。内容は紀元前1世紀ころ書かれたのではないかとされるもので、イザヤ書の写本、ハバクク書の注解、「共同体の規律」と呼ばれる「宗規要覧」であったが、さらにアラム語の外典創世記などの計七巻が発見される。この四つの巻物は古物商やシリア教会の大主教などの手を経てアメリカで競売にかけられ、既に購入されていた三巻とともにイスラエルにもたらされた。後には、この11の洞窟群から多くの断片が発見され、羊皮紙やパピルスなど書かれた写本の断片的な文書類は約800点にものぼったという。それらが死海文書と呼ばれるものである。概ね紀元前三世紀から後一世紀の時代のものであることが分かっている。

多くのゴシップや憶測を呼んだこととは別に、この死海文書の発見によって聖書研究はおおきな転換点を迎える。新約聖書ができる直前の旧約聖書の有様を垣間見ることができるからである。巻物の本文は90パーセント以上が従来の聖書の内容と同じだが、食い違う部分がある。つまり、旧約聖書の本文は部分的な書き換えがあり、長年にわたり変化してきたことの証しだと著者は述べている。

ジェームス・C・ヴァンダーカム
『死海文書のすべて』

死海文書の著作として定評のあるジェームス・ヴァンダーカムの『死海文書のすべて』によると、このクムランに住んでいたグループはパレスチナにおけるエッセネ派運動から派生した小さなグループであろうという。テオーシスの所でご紹介したフィロンやユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフス(37-100頃)はエッセネ派の数をおよそ4000人としていることから、クムランに定住していたのは150から最大300人程度と推定している。エッセネ派というのはファリサイ派やサドカイ派などと同じくユダヤ教のグループの一つだが、サドカイ派は死者の復活を否定し、エッセネ派とファリサイ派は死者の復活を信じたという。

発見された「宗規要覧」から、このグループが神なき輩から自分たちを分かつことを求められ、イザヤの預言を成就するために荒野に入る、その目的が「律法の研究」であることが分かっている。写本の他におびただしい数の注解が同時に発見されていた。『死海文書のすべて』の執筆時までに明らかにされた写本で数の多い順に挙げると、詩編36本、申命記29本、イザヤ書21本、出エジプト記17本、創世記15本、レビ記13本となっていて、他はいずれも10本に満たない。詩編が多いのはそれが預言書として考えられていたからで、このクムラン共同体には終末の日の到来が強く意識されていて、自らの行動は最も厳しい戒めに合致したものでなければならなかったという。特筆すべきは「アロンとイスラエルのメシアたち」という二人のメシア信仰があったことだ。エッセネ派の生活習慣がキリスト教徒のそれとよく似ていることは専門家たちが指摘しているところだが、新約聖書の登場人物とクムラン共同体に関わる人物との関係は確認されていない。ヴァンダーガムは、初期キリスト教がそれを育んだユダヤ的な土壌に深く根ざしていることを死海文書は教えてくれると慎重な見解を述べている。

クムラン第一洞窟から見つかったイザヤ書の第二の写本 部分

聖書のヘブライ語テキストには 、何世紀にもわたって細心の注意が払われて転写され、誤りをチェックされてきた伝統的写本であるマソラ本が存在していたのだが、転写されると古いものは処分されてしまうため、現存する最古のものは895年に筆写された「預言書のカイロ稿本」と925年頃完成した「アレッポ稿本」となっている。つまり、碑文などにある文章を除けば実物としてある聖書のテキストとしては、死海文書が最古のものということになるのである。

マソラ本とそれより1000年古い死海文書のイザヤ書とを比較した時、ほとんど違いがなかったと言われる。だが、マソラ本と70人訳聖書が一致せず、70人訳聖書と死海文書とが一致する場合もある。エレミア書は、70人訳聖書ではマソラ本より八分の一短いが、死海文書の六つの写本のなかには両方の長さのタイプのエレミア書があったのである。サムエル記のゴリアテの身長がマソラ本では約2メートル97センチ、70人訳聖書では2メートル6センチとなっていて約90cmの差があるが、死海文書では70人訳聖書と同じになっている。しかし、ダビデとゴリアテの物語は70人訳聖書で33節、マソラ本で58節費やしていて、長さに差があり、死海文書版のテキストではマソラ本と同じく70人訳聖書より長くなっているらしい。これらのことは、一部であるかもしれないが、70人訳聖書がマソラ本とは異なるヘブライ語テキストを使っていた可能性があるということなのである。それに、マソラ本と70人訳聖書には落ちていて死海文書にしかみられないサムエル記のパラグラフもあるという。

正典の確立へ

再びカーギルの著作に戻る。前49年にカエサルがルビコン川を渡り、翌年ファルサロスの戦いでポンペイウスに勝利すると、エルサレムの南、イドゥマヤの長官であったアンティパトロスは、ポンペイウスからカエサルに鞍替えして、後に初代ユダヤ総督に就任する。前43年にアンティパトロスが殺害されると、息子のヘロデがユダヤ王となった。ローマに就いた裏切り者の評判はさんざんなものだ。ヘロデの死後、王国は三人の息子とヘロデの女きょうだいの支配下に置かれる。この一世紀と二世紀初頭が新約聖書形成に寄与した時代である。イエスの誕生、総督ピラトゥスとへロデ・アンティパスの前でのイエスの裁判と受難が語られ、パウロの手紙がローマの領土に新設された教会に送られ、帝国全土の新しい教会を教導するため、パウロの名で牧会書簡が執筆される。新約聖書の誕生は、完全にローマ帝国での出来事であるとカーギルは言う。

破壊されたユダヤ第二神殿の西側の外壁 「嘆きの壁」と呼ばれる。

ユダヤ教徒と新興のキリスト教徒、そしてお粗末なローマの総督ポンティウス・ピラトゥスとの間の政治的緊張は66年のユダヤ教徒の叛乱に発展し、いわゆるユダヤ戦争が起こる。ローマ軍は70年にエルサレムの第二神殿を破壊した。そのため離散したユダヤ教徒は宗教活動に神殿を必要としないものに変えざるを得なくなる。律法を中心においたファリサイ派がユダヤ教の主流となっていった。神殿の喪失はユダヤ教徒とキリスト教徒にとって決定的な分かれ目になったという。第一神殿の破壊がヘブライ語聖書の編纂を催したように、第二神殿の崩壊は新約聖書の大部分とユダヤ教の最初の口伝集成であるミシュナを生んだというのである。先ほどの『死海文書のすべて』を書いたヴァンダーカムによれば、新約聖書は、ギリシア語で書かれていて、イエス自身はアラム語や多分ヘブライ語を話したが、「タリタ・クミ/娘よ、起きなさい」のような二、三のアラム語はギリシア語に音記されているという。

ハギア・イレネ教会 初期の総主教座 コンスタンティノープル
オスマン帝国時代はトプカピ宮殿の倉庫として使われた。

コンスタンティヌス大帝(272-337)が313年のミラノ勅令でキリスト教を公認した後、キリスト教徒間の宗教的正統性を確立し、正統な教令の成立を目指して公会議を招集する。それがニカイア公会議であり、そこでキリスト教徒が「正式に」何を信仰するか定式化されたという。帝国の首都がコンスタンティノポリスに遷都されるとコンスタンティヌス帝はカイサリアのエウセビオスに帝都の主教アレクサンドロスが用いる聖書50部の作成を命じる。このように聖書の需要が高まってくれば、聖書としてどの書を選択するかを迫られることになる。イエスや使徒の教えに神学理論を根付かせようとしても引証するテキストがバラバラでは教会指導者にとっても問題だったのである。

367年にアレクサンドリア総主教アタナシオスは、ヨハネ黙示録を含めた27書の新約聖書正典目録を提示した。後の新約聖書正典となる全書を含む最初の目録であった。四世紀末にはローマ教皇ダマスス一世がヒエロニムス(347-420)に聖書のラテン語訳を依頼する。これが後のウルガータ聖書である。このラテン語訳には新約聖書の二十七書が収められ、この形が正典となった。しかし、旧約聖書については、ヘブライ語聖書か70人訳聖書をとるかで迷った。結果、ヘブライ語聖書をとって70人訳聖書にある他の書を外典としたのである。だが、ヒエロニムスは後に外典に関する考えを変えたという。翻訳者でさえ気持ちの揺れがあったというのだ。この外典をカトリックは第二正典として受け入れ、プロテスタントは受け入れなかった。

グーテンベルク聖書 1847年にアメリカにもたらされたグーテンベルク聖書のコピー

初期教会は、まず何を信じるか決定した後、その信条を指示するキリスト教文書を選んだという。初期キリスト文献や教会公会議の資料がそれを裏付けているという。正典と呼ばれた目録は驚くほど多く、意見の一致を見るのは四世紀の終わりだというのだ。教会発足後四世紀にわたる人間の解釈と議論の積み重ねが聖書をつくりあげたのである。

先ほどの『テオーシス』の中で筆者の一人である田島照久はニカイア公会議から第二コンスタンティノポリス公会議にいたる初期の公会議は「受肉論」すなわち「キリスト論」をめぐる戦いであったという。イエス・キリストは完全な神であり、同時に完全な人間であること。神性と人性という二つの本性を担い持つのは子というペルソナであり、この二つは融合せず、変化せず、分割せず、分離することなく存在する(『テオーシス』「総序」)。つまり、神とイエス・キリストとの関係はどうなっているかを議論したのである。

神化が人間において確実に起こることが保証されるためにはイエス・キリストがわれわれと同じ人間でなくてはならなかったし、逆にイエス・キリストが神でないのならペトロの約束する人間の神化、つまり、われわれ人間が不滅性と不死性を得て神に似た者(神の子)になるなどということは望むべくもないことになる。人間が神の神性にあずかり「神の似姿」を成就するという「テオーシス」の思想と神人イエスの教義である「神の受肉」の思想とがキリスト論を支える根本動機であったという。「テオーシス」は東方のギリシア正教会においては思想的伝統となったが、西方のローマ・カトリック教会においては堕罪・贖罪・十字架という方向性が強調されたため伝統的に継承されることはなかった。だが、それは後のグレゴリオス・パラマス、マルグリット・ポレート、エックハルト、タウラーたちからイグナチオ・デ・ロヨラにいたる修道者たちの思想に散見されることになるのである。

 

その他の参考図書

プラトン全集12「ティマイオス」「クリティアス」

モスタファ・エル=アバディ『古代アレクサンドリア図書館』 アレクサンドリア図書館に関する広範で内容ある歴史書であり、お薦めしたい。

 

2018年7月20日 | カテゴリー : Blog | タグ : | 投稿者 : 植田信隆

ロバート・カーギル『聖書の成り立ちを語る都市』part1 聖書の神・文字・編集

ロバート・R・カーギル
『聖書の成り立ちを語る都市』

こんな本が欲しかった。聖書が、いかに書かれたのか、その歴史的変遷が聖書にちなんだ都市毎にまとめられた本である。日本では2018年に出版されたようだ。この本では、歴史における時間軸の上を滑走するのではなく、東地中海沿岸地方を中心とした都市というトポスで区切って聖書との関わりを書いている。いいアイデアかもしれない。それほど線形には描けない飛び飛びの歴史を書くには、恐らく、その方が書き易かったこともあるのではなかろうか。聖書を形成した各都市が、今日のわたしたちの実際の聖書本文に最終的にどのような影響を与えたかを考察することが本書の目的であるという。著者には悪いのだけれど、僕は都市よりも聖書の成り立ちの経緯をご紹介したいと思っている。大乗仏教経典の成立などについても、このような一般向けの著作があるといいのだが。

本書は、主にヘブライ語聖書、つまり旧約聖書について書かれている。イエスが聖書を引用する場合は、旧約聖書からであり、キリスト教聖書の約75パーセントを旧約聖書が占めるからである。ヘブライ語の旧約聖書は、各分派によって基本的には同じでも少しずつ異なる内容のテキストが存在したということが死海文書の発見などによって明かされた。どのテキストのどの文書を正典にするかキリストの死後200年以上たっても、議論は続いていたという。教会発足後、四世紀に亘る人間の解釈と議論の積み重ねが聖書を作り上げたと著者は言うのである。以前に文学における聖書というテーマでノースロップ・フライ『大いなる体系』part1 文学の中の聖書、穏喩と予表お送りをしたけれど、今回は歴史における聖書をテーマとしたい。

ロバート・R・カーギル
アテネのアレオバゴスに立つ(本書より)

著者のロバート・R・カーギルは、カルフォルニア大学ロサンゼルス校で博士号を取得し、アイオワ大学で古代近東の考古学と聖書の本文との関連について研究している学者である。CNNテレビで聖書や死海文書などについての番組の司会を度々務めていて、日本語に翻訳された本としてはこれが最初のものである。

本書の成り立ちが面白いのだけれど、2004年に女優のニコール・キッドマンに、ある大学で担当した「旧約聖書入門」講座の個人授業を頼まれたという。キッドマンと言えばヴァージニア・ウルフを演じた『めぐりあう時間たち』の名演を思いだすのだが、その講義は『奥様は魔女』の撮影場所にあるトレーラーハウスで行われたらしい。僕は子供の頃、サマンサ・モンゴメリー主演のテレビドラマ『奥様は魔女』をずっと楽しみに見ていたけれど、あの魔法をかける時の唇の動きの不可思議さと魅力に感じ入り、自分で真似るのだが、いっこうに同じようにはできなかった。それで、この人はやはり魔女なのだと思っていた。キッドマン主演の映画の方は見ていないので、どうだったか分からない。それはともかく、講義の時、こんな質問が飛んだという。「聖書ってどうやってできたの?」答えに詰まった筆者が、その後10年かけてまとめあげたのが本書なのである。

ウガリト宮殿入口の跡
紀元前1450年頃から前1200年にかけてが都市国家としての全盛であった。

旧約の神の環境

地中海のキプロス島の真東にあるシリア第一の港湾都市ラタキア、その近郊にあるミネト・エルベイダで、ある農夫が畑を耕していた、そんな時、古代の墓を偶然に掘り当てる。1928年のことである。キプロスの特徴を持つ紀元前13世紀のミケーネ文化の土器が出土した。輸入された物があるなら国際的な都市があったことになる。フランスの発掘隊が、そこからまた、800メートルほど内陸のシャムラ遺丘に宮殿と神殿二つ、居住区を含む巨大な遺跡を発見した。これが新石器時代(前5000年)からの何層にもわたる遺跡の最上部にあたる後期青銅時代(前1500年-前1200年)の古代都市ウガリトであった。ここで発掘された楔形文字の文書には、この都市の政治的、経済的状況が記されていたのだが、特筆すべきはイスラエルを含む南カナン一帯の神々の姿がウガリト語で詳述されていることだという。このウガリト語は、メソポタミアとカナンを繋ぐ言語上の架け橋であるともいう。楔形文字だが、30種類の子音のみによる表音文字であった。カナンはヨルダン川と地中海に挟まれた、現在のレバノンからガザを含む地域である。

二つの神殿遺跡とは、バアル・ハダド神殿とダゴン神殿で、城壁内の北東の丘の上に崇拝の中心地があった。この丘そのものが平地から20メートルの高さにある。バアル・ハダト神殿は、縦16メートル、横22メートル、高さは推定で20メートル、壁に囲まれた850平方メートルの敷地からなるかなり大きな規模のもので、海上からもはっきり見えただろうという。矛を振り上げるバアル神像とヒエログリフで記された宮廷書記官兼侍従の石碑が出土している。ダゴン神は、もともとメソポタミアの豊穣神で、古代シリアのマリ文書(前2500年)に「大地の王」「偉大なる神々の主」という記述が既にみられる。旧約聖書では、ペリシテ人が十戒の石板を納めた契約の箱を奪い、その民族神であるダゴン神像の傍に置くと、像が夜中に倒れて砕けたという記述がある(士師記16:23)。サムソンとデリラの話で知られるヶ所だ。

しかし、本書にとって重要なことは、この遺跡から出土した粘土板文書に「バアル神話」「ケレト王伝説」「アクハト叙事詩」といったウガリト文学が記載されていたことだった。ここに登場する神々の名、人間の物語、詩、知恵文学などの物語の内容は、ウガリトの宗教物語とヘブライ語聖書の内容との類似を示していた。ウガリトの北に位置するアクラ山は、聖書ではツァフォン山とされていること、イスラエル統一王国が成立する千年以上前にウガリトでバアル神らの神々が崇拝されていたことを考えると、ある専門家たちは古代イスラエル人の宗教の原型が、当時カナンで広く崇拝されていたウガリトの神々を合成したものか、あるいはその反動ではなかったのかと考えているという。ウガリトの神々を紹介しておこう。

エル神像 ブロンズに金箔
BC1400-1200 メギド出土

エル

造物主であり、ウガリトの神々の主。筆者によれば会社の社長に対立する会長のような立場にあるという。エルについては聖書に何度も記載されていて、実際の神の名なのか、ヘブライ人の神ヤハウェの別称なのか区別するのが難しい場合があるという。創世記28:19では、ベテル(ヘブライ語でエルの家/神の家)という語はヤハウエを指すのは間違いないという。士師記9:46にある「エル・ベリト」の神殿はヘブライ語で「契約のエル」の神殿という意味ではあるが、この場合はヤハウェとは別のウガリトの神であろうという。

アシェラ(アーシラト)

アシェラはエルの配偶神であり、シュメール神話では天神アヌの妻であり、ウガリト神話では海の神である。ちなみに天神アヌは『ギルガメシュ叙事詩』にも登場する。このアシェラは、旧約聖書では打ち砕くべき神の像としてしばしば登場する。

バアル・ハダト

バアルはウガリト語やヘブライ語で〈主〉を意味する。バアルは嵐の神であり、その声は雷鳴であり、天水と農業の神である。民数記33:7には「ツァフォン山のバアル」という地名で登場する。古代イスラエルはフェニキアと接触していたためにバアル信仰は比較的篤く、イスラエルの預言者は絶えずバアル信仰を戒めたという。列王記下21:3には、マナセ王の時代に父ヒゼキヤがこわした高台を建て直し、またイスラエルの王アハブがしたようにバアルのために祭壇を築き、アシェラ像を造り、かつ天の万象にひれ伏して、これに仕えたという記述がある。

バアル神 石碑 ウガリト出土

シナイ半島の砂漠にあるクンティレト・アジュルドで、前九世紀後半から前八世紀初頭頃の碑文が刻まれた二つのトピス(大甕の土器)が1970年に発見された。その一つには「アシェヤウ王の言葉。『イェハレル、ヤウアシュならびに[‥‥]に対して、《私はサマリアのヤハウェと彼のアシェラによる祝福をする》』」と書かれている。それに、ヤハウェに異なる名前、エルやその複数形エロヒム、エルヨーンやエル・シャッダイといった派生が何故あるのかが問われる。著者のカーギルは、古代イスラエルの人々が他の神々の存在を信じなかったわけではない、人々は神ヤハウェを唯一崇拝することを許されたのだという。これは学術的には「拝一神教」と呼ばれ、他の神々を認めない「一神教」とは、区別されるという。多神教のウガリト伝説の神々が、いかにヘブライの一神教に組み込まれたかという問題なのだろう。だが、これはもう少し考えてみる必要がある。

ピーター・C.・クレイギーの著書『ウガリトと旧約聖書』では、もっと慎重な表現になっている。ここからは、しばらく、この『ウガリトと旧約聖書』からご紹介したい。最も繁栄した前13世紀頃を中心としたウガリトは、南のエジプトと北のヒッタイト帝国に挟まれた交易と流通の要所であったという。そこでは多言語が使われ、宗教的にも宗教混合(シンクレティズム)が進行していたと言うのである。

メソポタミアで使われたアッカド語の方言であるアッシリア語とバビロニア語が東セム語。古典アラビア語、古代南アラビア語、エチオピア語が南セム語。このウガリト語、ヘブライ語、フェニキア語やモアブ語を初めとするカナン緒方言が北西セム語といわれる。クレイギーは、セム語はこのような三つの主要なグループに下位区分されるという。注目されるのはこのウガリト語とヘブライ語が多くの共通点を持ち、非常に近い言語であり、ウガリト文学の詩の技法と旧約聖書の文学のそれとも似た特徴があることをクレイギーは指摘している。

神々もまた、食べるために座った、
聖なる方の子らは、食事をするために。(ウガリト詩文)

そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。(旧約『詩編』8-5)

ピーター・C.・クレイギー
『ウガリトと旧約聖書』
クレイギーは、カナダのカルガリ大学で教鞭を執ったウガリトと旧約聖書の研究者。

ウガリト詩文で最も特有な形式は、聖書の詩文によく用いられる並行法であるという。並行法の詩文では通常二、三行が一単位となっていて一行目で基本的な考えが述べられ、続く行で敷衍されるという。この巧みな言い換えと発想の展開は驚異的であるというのだ。このような修辞上の特徴に加えて神話や物語における共通の特徴も指摘されている。一つ例を挙げれば、『出エジプト記』の「海の歌」とバアル神話のバアルとヤム(海)神との戦いの場面がある。

わたしの魂よ、主をたたえよ。主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄えと輝きをまとい 光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り
(『詩編 』104:1-2)

だが、この『詩編』104編は、ウガリト文学だけでなく、エジプトのファラオであったアケンアテンの太陽賛歌、太陽神シャマシュのバビロニア賛歌などの類似が見られるという。ソロモン(前1011-前931)の時代にはエルサレムが文化交流の中心であって、その頃、詩篇が作られたのではないかとクレイギーは言うのである。そして、旧約聖書の特質として「神との契約」が挙げられる。

1961年に行われたウガリトの発掘によって、ヒッタイトなどで使われていたフリル語で「契約の神エル」と書かれた賛歌が見つかった。オリエント以外で、ある神と契約を同一視する宗教が一つだけあるという。それは古代インドのヴェーダにあるミトラ神であるというのだ。ミトラ(あるいはミスラ神)は観音やヘルメス神との関係も指摘される神格である。そのことはイメージの配列 彌永信美『観音変容譚』仏教神話学Ⅱで書いておいた。ここは大変興味深い所である。ヒッタイトやフリル人の宗教とヴェーダには重なる部分がある。おそらく、それは紀元前三千年期の民族大移動によってもたらされたのではないかとクレイギーは言う。フリル人の間では「大神ミトラ」と「大神エル」は宗教的に一つに融合していた。この宗教混合はウガリトを越えて南方のパレスチナまで広まっていた。それは、ヘブライ語以前の地名であるエル・ベリトがその地にあることによって窺えるという。ウガリトの神々だけが旧約聖書に影響を与えたわけではないのである。少なくとも、ヘブライの宗教がこのような多元的な環境の中から発達してきたということは言えるだろう。さて、カーギルの『聖書の成り立ちを語る都市』に戻ろう。

フェニキア文字、アラム文字と古ヘブライ文字

聖書が書かれた文字

紀元前2000年から前1000年前半にかけて栄えたフェニキアは、ギリシア人たちによって「紫の国」と呼ばれていたという。その頃の古代フェニキア人は地中海東部とカナン北部を支配していて、アクキガイからとれる赤紫の染料による紫染めの織物の輸出を独占していた。この高貴の色は莫大な富を生み、それに伴い日用品や工芸品の交易が盛んとなって繁栄した。彼らはカナン人と呼ばれ、地中海の島々に植民地を建設、そのうちのカルタゴは後にフェニキアの首都となった。ヒュブロス、ティルス、シドンの三大海港都市を中心に発展したが、前883年に新アッシリア帝国に滅ぼされた。

交易が盛んになれば、注文書、送り状、領収書などの記録の必要が生まれてくる。楔形文字は、名詞、動詞など何百もの象形文字を覚えておかなければならなかった。それに対して、フェニキア人は簡単な子音22個よりなる文字を生みだしたのである。それは周囲の国であるギリシア、そして、現在のシリアあたりに定住していたアラム人たちに伝えられる。フェニキア文字とアラム語は使いやすかったために、ペルシアでは前6世紀にメソポタミアを征服したのち、それまで使っていた楔形文字のアッカド語を捨て、アラム語を採用した。

この便利なフェニキア文字はカナン地方の様々な民族に使用されたが、その中には、アラム人だけではなくヘブライ人もいた。前10世紀の「ゲゼル農事暦」がエルサレムの西、ゲゼルで発見されている。この粘土版の文字は「古ヘブライ語」と呼ばれている。古ヘブライ文字は、ほとんどフェニキア文字と同じである。後代、ヘブライ人がバビロンに捕囚されると現地のアラム語を母語としたとされる。そのため、旧約聖書のエズラ書、ダニエル書の本文の一部はアラム語で書かれているらしい。解放後もこのアラム語が使用され、イエスの時代にもこの語が引き続き使われていた。福音書のイエスの言葉は口語アラム語であるという。ヘブライ人がバビロン捕囚から解放され、エルサレムへ帰還後も、フェニキア文字と方形アラム語が使われたようである。こうして、フェニキア人の発明した文字は、ヘブライ人、アラム人、ギリシア人に採用され、結果として聖書は、ヘブライ語、アラム語、ギリシア語によって書かれることになるのである。

バビロンの遺構 2005年撮影

ヘブライ語聖書の編集

バグダットの南90キロにあったバビロンは、聖書の形成に重要な役割を果たす都市である。バビロンの階段状のピラミッドであるジグラトはバベルの塔の物語のモデルらしいし、ハムラビ法典は聖書の法典の雛形になり、バビロニアによるエルサレム征服と破壊、それに続くバビロン捕囚が古代イスラエルにおける神理解を根本から変えたとカーギルはいう。哀歌や預言者イザヤ、エゼキエル、エレミアなどの数々の預言書の素地を作り、バビロン捕囚の間にヘブライ語聖書の作成ないしは編集が行われたと多くの専門家が指摘しているという。旧約聖書が文書の体裁をとり始めたのはこの時期なのである。

紀元前2000年期にはメソポタミアの全域をハムラビが統一し、バビロン第一王朝としてバビロンを中心に栄えた。バビロンは、その第一王朝の盛衰の後、一千年にわたって外国の支配を受けるが、前934年には、ついに新アッシリア帝国に組み込まれた。だが、前627年にナバポラッサルが叛乱を起こし、新バビロニア帝国の王として即位。その息子ネブカドネザル二世によってバビロンは再建される。神殿、宮殿、イシュタル門、空中庭園を建設したと言われる。

一方、ヘブライ王国はソロモン王の死後、前926年に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂する。北王国は前722年に新アッシリアに滅ぼされるが、南王国は新アッシリアへの朝貢を続けていた。新アッシリアが滅び、先ほどのネブカドネザル二世の軍とエジプト軍との戦いが膠着状態になるとカナンやフェニキアの都市国家の支配者たちは同盟して新バビロニアに反乱を起こした。そのような支配者の中にユダの王、ヨヤキムがいた。新バビロニアは前598年エルサレムを包囲・攻略する。包囲中にヨヤキムが亡くなり、即位して3ケ月のヨヤキンは退位させられ、王族、貴族、エルサレムの多数の住民はバビロンに捕虜として連れて行かれてしまう。世に言うバビロン捕囚である。これが列王記下24章に書かれていることだ。

この時、予言者エレミアは新バビロニアへの徹底抗戦ではなく投降を主張した。降伏が生存を保障する道であると悟ったからである。そのため彼はベニヤミンの門に繋がれ、王子マルキヤの穴の泥の中に沈められたという(エレミア書20:2、38:6)。エルサレム神殿の破壊とバビロン捕囚は、ユダヤ教徒の心理に大きな傷跡を残し、神学的トラウマとなった。マナセ王が流させた罪なき者の血が、この悲劇のトリガーだったのだ。その心の傷から生まれたのが哀歌や詩編の一部にある嘆きの歌だったというのである。哀歌は全五章のうち四章が、冒頭の文字を繋げると語句や文になるという、いわゆる折句になっているらしい。とりわけ第一章、二章、四章は、それぞれ22節あって、ヘブライ文字の22字がアレフから順番に、それらの冒頭に割り当てられている。これは翻訳された聖書では分からないことなのである。哀歌5:20-22をご紹介しておく。

なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。
主よ、御もとに立ち帰らせてください
わたしたちは立ち帰ります。
わたしたちの日々を新しくして
昔のようにしてください。
あなたは激しく憤り
わたしたちをまったく見捨てられました。

新バビロニア帝国は前539年、ペルシアのキュロス王によって打ち破られ、滅亡する。捕囚は解放され、ユダのエルサレムに神殿の再建が許されたという。これが第二神殿といわれるものである。バビロニアへの激しい憎悪は、預言者イザヤをしてキュロスを油を注がれた者の意であるメシアとさえしたのである(イザヤ書44:28-45:4)。破壊と邪悪のシンボルとしてのバビロンのイメージは、新約のヨハネの黙示録にまで及ぶのだが、捕囚の期間におそらくヨヤキン王の宮廷書記の手で、ヘブライ語聖書の大部分が、少なくとも編纂・編集されたのではないかと言われている。一部は解放後もバビロンに留まったユダヤ人によって執筆された可能性もあるというのである。

地中海東部

ヘレニズムと聖書

メソポタミア、カナン、ペルシアの宗教的伝統に加えてギリシアの宗教と思想がユダヤ教を今日の形にした。ヘレニズム(ギリシア化)が起こらなければ、今日のようなユダヤ教は存在しなかっただろうとカーギルは述べている。このヘレニズム時代(前332-167)にギリシア化されることによってユダヤ教は様々な宗派に分かれ、この世での信義を尊ぶ従来のユダヤ教から来世の永遠の命を言祝ぐ宗教思想として発展していく。それは、世界の覇者となったローマ帝国に受け入れられるために、まことに好都合であったという。

アレクサンダー大王が地中海と近東を征服するや、ギリシア文化は当時ペルシアに帰属していたイェフド(後のユダヤ)とその中心地であったエルサレムにももたらされた。ところが、前323年にアレクサンダーが急死すると、その帝国は分割統治され、ディアドコイ(後継者)の一人プトレマイオス一世がエジプトを支配する。その中にユダヤやその都市エルサレムも含まれていた。ある程度の自治が許されていたが、前199年のパネイオンの戦いでシリアのセレウコス朝がエジプトを破り、その地を支配するようになると供え物や割礼といったユダヤ教の宗教儀式は禁止され、強権的なヘレニズム化政策がアンティオコス四世によって強要される。耐えかねたユダヤ人は前167年にマタティアと息子ユダ・マカベアらが反乱を起して独立国家ハスモン朝を打ち立て、それは約100年続いた。この間の事情はダニエル書に象徴的に描かれているという。

マタティア(?-前166)
ギヨーム・ルイエ『プロンプトゥアリ・イコヌム・インシギオルム』より。16世紀

そのうちの一本からもう一本の小さな角が生え出て、非常に強大になり、南へ、東へ、更にあの「麗しの地」へと力を伸ばした。 これは天の万軍に及ぶまで力を伸ばし、その万軍、つまり星のうちの幾つかを地に投げ落とし、踏みにじった。その上、天の万軍の長にまで力を伸ばし、日ごとの供え物を廃し、その聖所を倒した。また、天の万軍を供え物と共に打ち倒して罪をはびこらせ、真理を地になげうち、思うままにふるまった。 (ダニエル書8:9-12)

こうして、ユダヤにギリシア思想が流入する。その影響として、エピクロス派からは真の快楽と利他的生が、ストア派からは道徳の涵養が、犬儒派からは清貧の思想がもたらされることになるという。コヘレトの言葉にはそれらの思想と似た表現が随所にみられるとカーギルは述べている。例として、僕が『コレヘトの言葉』から勝手に選んだ文章を掲載しておく。

わたしは知った 人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いしその労苦によって満足するのは神の賜物だ、と(コレヘトの言葉3:12‐13)。

目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ どのような快楽をも余さず試みた。どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。それが、労苦からわたしが得た分であった。しかし、わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない(コレヘトの言葉2:10‐11)。

ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで誰のために労苦するのか」と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい(コレヘトの言葉4:08‐12)。

コレヘトの言葉における神学はヘブライ語聖書の中でもかなり異質なものであるらしい。申命記のような神の法の順守といった紋切り型の神学への批判だとある専門家はみているという。ヘレニズム時代のユダヤ人編集者は、ユダヤ教に様々なギリシア哲学を組み入れ、彼らの時代の現実に応じたものにしたとカーギルは述べている。特定の宗教的指導者が独断で決めた偏狭な教義に合わないようなテキストを抹殺することなく、正典として多様な伝承を取り込んでいるという。この多様さこそ聖書の長所ではないのかと著書は言うのである。

さて、次回 part2 は、旧約聖書のギリシア語訳である70人訳聖書、ヘレニズム化の中でも最も重要な影響とされるプラトン主義と新プラトン主義、死海文書の発見による旧約聖書への新たな視点、そして何世紀にもわたる正典選別の経過などをご紹介する予定です。お楽しみに。

 

その他の参考作品

『ギルガメシュ叙事詩』
古代オリエント最大の文学作品、シュメール語版の編纂は紀元前3000年紀に遡る可能性がある。

2018年7月6日 | カテゴリー : Blog | タグ : | 投稿者 : 植田信隆