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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 
     
 
     佐藤慶次郎 エミリー・ディキンスン  

 
 


  真昼 二つの蝶が飛び立ち―
畑の上でワルツを舞った―
それからひたすら天空を踊って
一条の光にのった―

そして ― いっしょに進んでいった
輝く海の方へ―
けれどまだ、どの港にも
蝶たちが着いたという話は ない―

遠くで小鳥が話したとしても―
エーテルの海で
フリーゲート艦か、商船に出会ったとしても―
なんの知らせも なかった わたしには-


エミリー・ディキンスン(533番) 



Two butterflies went out at Noon —
And waltzed upon a Farm —
Then stepped straight through the Firmament
And rested, on a Beam —

And then — together bore away
Upon a shining Sea —
Though never yet, in any Port —
Their coming, mentioned — be —

If spoken by the distant Bird —
If met in Ether Sea
By Frigate, or by Merchantman —
No notice — was — to me —

 

Emily Dickinson (533)



 





 
佐藤慶次郎は、1981年 (昭和56年)の10月20日から10月28日の9日間にクロッキー帳一冊、97ページにわたってこの文章を,書き綴りました。このサイトは、それをできるだけ忠実に読みやすくデジタル化したものです。

エミリー・ディキンスンの詩は、エミリー・ディキンスン流の人間観、世界観、宇宙観の端的な表明であり、その“世界観”とは、“世界解釈”であると言ってよいでしょう。そして、その解釈は、或る根拠に基いてなされますが、ディキンスンにおける根拠とは、多分に仏教的であると佐藤は、考えていました。こう述べています。

『その根拠それ自体が如何なるものであるかの直接的な検討に向いたい。E.D.は、どのような過程を経て、その根拠に達したかについて、仏教的個における認識革命の過程と比較しつつ解析しようとすることがぼくのE.D.研究の角度である。』

エミリー・ディキンスンの到達点と認識による(自己分析)について禅仏教の立場から、比較検討するとし、禅仏教との類似性を挙げるよりも、むしろ人間の根本真実は、何か?という点からを検討することがもっとも望ましいと思っていました。そして次のように結んでいます。

『最も重要なことは、その解析を現代人―人間―の進むべき方向の示唆として、有意義ならしめることである。そのことがなければ、語学力の乏しいぼくが、あえて、エミリー・ディキンスンを今とり上げて、解析研究することの意義は希薄になる。要するに、ぼくの人生にとっての仕事にはならない。』

このような動機・意図のもとにこの文章は書かれました(5年に亘る研究のごく一部にすぎないようです)。公開することを前提にしていません。その意味で佐藤自身の考えをまとめるためのものだったといえるでしょう。学生時代に佐藤慶次郎に作曲を学んだ高橋茂樹氏がオリジナルの原稿をカラーコピーしてくださったものを基にデジタル化することができました。この場をお借りして感謝いたします。それを一読して、唖然とするほかはありませんでした。私にとっては、とうてい到達することのできない世界であり、英語力の乏しい人間としては、解説など思いもよらないことなので、できるだけ読みやすいようにということだけを心がけてページを作成しました。理解しきれていないことも多いので不明の点や、ご不審の点があれば是非お知らせいただければと考えております。
 (編者)


 
         
     
オリジナルの原稿(下図参照)には、、それぞれのページにかなり自由に書き込みや消去線などがあり、それらをそのままサイトページ上に再現することには無理があり、また読みやすくありません。そのため打ち消された文章や言葉は、省略しており、文章の位置関係も実際のものよりかなり異なることを予めご了承ください。判読不能の文字については(囗囗二字不明)などの表記になっています。尚、オリジナル原稿 5ページを一区切りとして、サイト上の 1ページと考えております。




佐藤慶次郎オリジナル原稿部分
   
   
56.10.20 ~56.10.28

このクロッキー帳に書かれた文章に
タイトルはなく、あえて挙げるとすると ”
56.10.2056.10.28” ということになります。

 
このサイトはInternet Explorerでご覧ください。Google Cromeでは位置がズレルことがあります。


 1ページ                                                                   56,10,20

 

P-1690] 年代不明

The ones that disappeared one back
The Phoebe and the Crow
Precisely as in March is heard
The curtness of the Jay―

Be this an Autumn or a Spring
My wisdom loses way
One side of me the nuts are ripe
The other side is May.

           

 


  2ページ
      この作品は*1 “脱落身心”に関するものではなく、“死者”に関するものであるかもしれない。
P-1691)年代不明
The overtakelessness of those
Who have accomplished Death     
Majesties is to me beyond
The majesties of Earth.

The soul her "Not at home"
Inscribe upon the flesh-
And takes her fair aerial gait
Beyond the hope of
touch.
          
"Touch"とはいわば“彼岸”への到達を意味するか?
"rumored spring" をその彼岸”と見るか?
しかし、(P-1606)によれば、"Robin"
"but one request""The Birds she lost-" である。


[P-1606]
Quiet empty, quiet at rest,
The Robin locks her Nest, fries her Wings.
She does not know a Route
But puts her Craft about
For rumored Springs-
She does not ask for Noon-
She does not ask for Boom-
Crumbless and homeless, of but
one request-

The Birds she lost-
      
"And takes her fair aerial gait
Beyond the hope of touch"
(P-1691) という発言を比較検討することが必要である。



 
 







 


Soul
を不思量したものと云ったほうがよいであろう。                                   
ここで “死を成就したもの”とは、
Soul のことである。
“なにもないもない”の実感の、レトリカルな表現である。
P-1342)でE.D.が "Philology" と呼んでいるのが、それである。
"Was not" was all the Statement.
‥‥
But lest our Speculation / In inanition die /  
Because “God took him” mention-/
That was philology. (p-1342)






*2 “死也全機現”である。
道元禅師は、臨終にあたって、「南無帰依佛」をどこまでも一心に念ぜよと教えている。
E.D.のどこまでも
"rumored Springs"
を指向する態度は、それと同じではないのか? そして、
"rumored Springs""The Birds she lost-"
*3 不思量底(
unknown)なのである。
 
これに(下記のセンテンスを指す/編者)相当するとも考えられる。
The Robin locks her Nest
(P-1606)
"Noon" とは「Phials (left /編者)
and the Sun!」(P-1003)
あるいは「He is just as hight-」
(P-1538) のところであるか?
(日輪正当午)
 

  3ページ
      エミリ(まま)・ディキンスンの詩は、エミリ・ディキンスン流の人間観、世界観、宇宙観の端的な表明である。“世界観”とは、“世界解釈”である。そして、解釈―主体的なestimate
は、或る根拠に基いてなされる。E.D.における根拠とは、多分に仏教的であると考えられるのであるが。その根拠それ自体が如何なるものであるかの直接的な検討に向いたい。E.D.は、どのような過程を経て、その根拠に達したかについて、仏教的個における認識革命の過程と比較しつつ解析しようとすることがぼくのE.D.研究の角度である。

"personal Expanse"とは、個人固有の“宇宙観”ということかもしれない。
要するに人間にとっての世界とは、“世界観であるという考えが、E.D.の根本認識ではないか?
Reality それ自身が Dreamである―[PF-2])
(一切聖聖皆戯論・大千沙界一切夢場)
(*4 “画餅”、“空華”)
(*5 一水四見)


E.D.は“*6 畢竟如何”の問いにどのように答えているのか?
E.D.は、色々な言葉でそれに答えているわけであるが、次の詩も、それに対する答えであると云えよう:

Obtaining but our own Extent      →
In whatsoever Realm-

「Twas Christ’s own personal Expance
That bore him from the Tomb-」
P-1543

‥‥
Utmost is relative-
Have not or Have
Adjasent sums
Enough the first Abobe
‥‥
」(P-1291)



 






















 各人固有の世界認識をもて、ということである。それは、常識の見の打破ということである。
"Extent""Expanse"を心理的な対象としてのみ追いかけてはいけないわけである。心理的な(エモーショナルな)実感としてのみ佛を追求する限り、思惑を抜け切れないわけである。エモーショナルな実感に追いすがることは、“執”であり、そのことが“思惑”である。“知惑”だけでなく“思惑”も断じなければならないわけである。それは抜けることである。知惑も思惑も抜けた上で、あらためて、“自由”に迷うということである。両者を抜けたところが “*7 佛道の翳人”である。佛道の翳人とは “*8 不動因果”の立場にあるものである。“不動因果”が解脱である。“因果歴然”なるままの解脱である。(苦しいままに苦しくないところ)ここに到ったものが“自由人”である。


 
 


  4ページ
       
[P-1341] c.1875 

Unto the whole – how add?
Has "All" a further Realm-
Or utmost an ulterior?
Oh, Subeidy of Balm!

     
 

 5ページ
      その認識の内容が E.D. 流であるとしても、 “畢竟如何”に答えている叙述を、まず選び出して、E.D. の“畢竟如何”(の内容)とその根拠となっているE.D. の到達点と認識(E.D.による自己分析)について禅仏教の立場から、比較検討する。
その際、禅仏教との類似性を見る(挙げる)ということよりも、むしろ人間の根本真実は、何か?という点から E.D. を検討することがもっとも望ましい筈である。
そして、最も重要なことは、その解析を現代人―人間―の進むべき方向の示唆として、有意義ならしめることである。そのことがなければ、語学力の乏しいぼくが、あえて、エミリ(まま)・ディキンスンを今とり上げて、解析研究することの意義は希薄になる。
要するに、ぼくの人生にとっての仕事にはならない。

認識の革命―解脱―に到るための必然的な道程の解析が禅仏教にはあるわけであるが、E.D.の自己改革のプロセスが禅仏教が述べる過程と一致するということの証明は、E.D.の到達点に関するぼくの見解(分析)に納得性を与えると同時に、禅仏教の普遍的妥当性―洋の東西を超えた人間の真実―を明らかにすることになる筈である。そして、勿論、それらの論述によって、エミリ・ディキンスンが何を考え、何を述べようとしていたかも明らかにされるわけである。それは、エミリ・ディキンスンの“実在的真実”の解析ということである。

“七佛通偈”は佛教の畢竟如何である。
四仏誓願も畢竟如何である。

各人の“畢竟如何”は、各人が現に示している。人間としての営みの内容として現われている。そして、それはやはり一面であり、(他者)は“大千沙界一夢場”の悟達のところである。
要するに、一切否定から一切肯定に転換するわけであるが、その一切肯定は、単なる肯定なのではなくその裏に一切否定をもっているのである。空即是色は、裏側、色即是空をもっているのである。
“死”を裏側にもった“生”          ↓
 (次ページに続く/編者)

     
 
 
[P-1690などのディキンスンの詩につけられた番号は、ジョンソン版詩集の記載番号を示しています。 P は、poemの頭文字

“死を成就したもの”
 "Who have accomplished Death"

E.D. エミリー・ディキンスンの略

The soul her "Not at home"
Inscribe upon the flesh-
”魂はその不在を肌に刻む”

*1 脱落身心(とつらくしんじん)
身心脱落は、道元禅師が大悟徹底する機縁となった言葉として知られている。脱落身人は、その大悟した道元を師の如浄禅師が認めて述べた言葉である。
・26 - 30 の 27ページ 注欄参照

(P-1342 )
"Was not" was all the Statement.
The Unpretension stuns —
Perhaps — the Comprehension —
They wore no Lexicons —

But lest our Speculation
In inanition die
Because "God took him" mention —
That was
Philology

Philology 文献学、言語学のこと

*2 死也全機現 『正法眼蔵』 全機巻。「圓悟禅師克勤(こくごん)和尚云く『生也全機現(しょうやぜんきげん)、死也全機現(しやぜんきげん)。』 この道取、あきらめ参究すべし。‥‥生は死を罣礙(けいげ/さまたげる)せず、死は生を罣礙せざるなり。」

*3 不思量底 『正法眼蔵』 坐禅箴巻。道元禅師は、この中で薬山弘道禅師がある僧の座禅中に何を思量するのかという問いへの答え「箇の不思量底を思量せよ」、そして、その僧の再度の問い「不思量底如何が思量せん」、再び薬山の答え「非思量」の問答を引いている。

日輪正当午 真昼を意味する語

(P-1003)
Bubble! Bubble!
Hold me till the Octave's run!
Quick! Burst the Windows!
Ritardando!
Phials left, and the Sun!

(P-1538)
Follow wise Orion
Till you waste your Eye —
Dazzlingly decamping
He is just as high —


(PF-2)
No dreaming can compare with reality, for Reality itself is a dream from which but a portion of Mankind have yet waked and part of us is a not familiar Peninsula -

PFはProse Fragment(散文断章)の頭文字


"extent" "expance" いづれも広がりを意味する言葉

*4 “画餅”、“空華” 『正法眼蔵』24巻と14巻の名称

*5 一水四見
『摂大乗論釈』
同じ水を見ても、天人は宝で飾られた池と見、人間は水と見。餓鬼には、膿血と見え、魚には住処と見えるというもの。
そのように、一つの水でもその境界果報によって見方、感じ方が違うことを言う。


*6 “畢竟如何” 七佛通偈、四仏誓願などと同じく仏性つまり仏教の本質を問う言葉

*7 佛道の翳人(えいじん) 『正法眼蔵』 空華巻。 「空をしらざるがゆゑに、空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに、翳人をしらず、翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。翳人と相見して、空華をもしり、空華をもみるべし」とあり、また「仏道の翳人というは本覚人なり‥‥」とある。
翳とは、くもりかすむことで、ここでは逆説的な意味で使われている。

*8 不動因果 『正法眼蔵随聞記』「不味因果(因果をくらまさず)の道理とはいったいなんなのか?」という弟子の懷奘の問いに対して、師の道元は「不動因果なり」と答えた。懷奘は、「何としてか脱落せん」と再び問い、師は「因果歴然なり」と答えたという。
不昧因果は、『無門関』 第二則、百丈野狐の公案に由来する。「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」と問われた住職は、「不落因果」と答えて畜生道に落ちて狐となります。その野狐が身をやつした老人と百丈懐海(えかい)禅師の問答です。『「今請う、和尚一転語を代わって、貴ぶらくは野狐を脱せしめよ」といって遂に問う、「大修行底の人、還って因果に落つるや也た無や」。師云く、「不昧因果」。老人言下に於いて大悟す……。』
「不落因果―因果の制約を受けない」の意味。「不昧因果―因果の制約を昧(くら)まさない」の意味。

昧(くら)いは、道理がわからない、あるいは、冒す・むさぼるの意味もある。)





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