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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 
 

三時半、一羽の鳥が
沈黙の空に
一節だが
慎重なメロディーを掲げた

四時半、実験は
試練を征した
ほら、彼女の銀色の原理が
残り全てに取って代わった

七時半、元素も
北の装置も見られない-
そして、存在があった場所には
周囲だけが残っていた

エミリー・ディキンスン (1084番)
 

At Half past Three, a single Bird
Unto a silent Sky
Propounded but a single term
Of cautious melody.

At Half past Four, Experiment
Had subjugated test
And lo, Her silver Principle
Supplanted all the rest.

At Half past Seven, Element
Nor Implement, be seen —
And Place was where the Presence was
Circumference between


Emily Dickinson (1084)


 
  

   
56.10.20 ~56.10.28


 
 


 51ページ

















(P-1676)
Of Yellow was the outer Sky
In Yellower Yellow hewn
Till Saffron in Vermilion slid
Whose seam could not be shewn.

結局身心脱落と脱落身心の相即






















                 
























































 

(P-1084)
At Half past Seven, Element      ←
Nor Implement, be seen —
And Place was where the Presence was
Circumference between

“帰来のわれ”が“月”であるか? とすれば、その月が、脱落身心に入るわけである。
身心脱落が脱落身心に入って、“月”となると考えるべきか?到彼岸を断念したとき、脱落身心に月がやどる.
    ↑
  (われ在り)

月が脱落身心に完全に溶け込むと、空が真空になり、一如が真の一如となる。Body が真如となり、空が真空となる。“空界月”とはここのところか? これが seam があきらかになるということか?
Saffron が Vermilion に完全に溶け込んでしまうと
空が真空になって Vermilion(Body) の輪郭が鮮明
になる。 Empty Hearts (真空) と Vermilion
Honey とは心印であるかどうか?









          Blue    

         Purple
         Red
















      無相、なにもない心、Expanse

 

“なにもないもない”であるか?






























56,10,24




am 4:20 起床
コーヒーを淹れ、仕事を始める。
前方の空を見る。
Heaven above は既に青い。
heven belowはAmber そして、両者を色として考えるとき、両者間に明確な境界線というものはない。
いわば、両者は継ぎ目なしに移行しているのである。
しかし、上は青、下は amber である。
そして、明るくなるにつれ、次第に Amber は消滅するわけである。
太陽が現れれば、それは全く消えてしまうわけである。    ↑
      “どっちつかずのもの”
これを Implement と呼んでいるのかどうか?
それは 〝Sheen″ 輝きそれ自体であるとも云える。

→ Sheen それ自体、というものはそのままでは存在しない。
 
〝Sheen″
これを“空意識に相当すると考えるとき、空が真空になったとき、“空界月”となる、この“月”は“妙有”であるが、プロセスとして、脱落身心が現成したとき、そこに月が宿る
   ↑
“Saffron が Vermilion に slid する”とはこれか?

          








 
 

 52ページ
 
 








「In the beginning was the word,
and the Word was with God,
and the Word was God.」

*1「ヨハネによる福音」 第一章第一節/編者

     
 






[L-515
「It is strange that the most intangible thing is the most adhesive.
Your "Rascal."
I washed the Adjective. 」




            ×




衆生とは証佛である。
有限とは無限の証である。
有とは無の証である。
(存在)(非在)

“有”が有であるというレベルにあっては、“無”も亦有である。
“無”が“有”であるという論理的矛盾を超えたところは「非有・非無・非非有・非非無」のところである。

            ×

人は、おのれが見えたところをえる。見えたところまでしか云えることができないわけである。“妙有”は言葉にならない。即ち“*2 一字不説”である。“一字不説”のところが“妙有”である。


 












 “妙有”は一切と共にある。
一切は妙有である。



「A Letter always feels to me like immortality because it is the mind alone without corporeal friend. L-330]」




(一方を証するときは一方はくらし)
   空即空 → 色是色
            ↑
  “空即空”に証された“色是色”
  それは、“空即空”の証である。
          ↑
         証佛
 
 

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Word と共に在って、しかもどこにも無いもの





 
 
 

  54ページ                                               56,10,24
 
 

 




[P-1681]  (ノートの3項前・46-50 の 50ページを参照)
「‥‥
Exists and its indorsement
Is had within —
Behold, said the Apostle,
Yet had not seen! 」



上記を
“見ずして信じる”という心の現成を、盲信を排する理性的な立場から説明しようとするものであると解することができるのではないか?
Exists″という表現からE.D.が “なにもないもの” を実有的に受けとめているかもしれないことを暗示するものであるが、そのへんの問題はここでは論じないことにする。〝Indorsement″とは、いわば“信”の現成である。
The perfectest communication / Is heaven of none″
これは“なにもないもない”を見た(聞いた)ということの表現であると云える。そして、それは“なにも見なかった”-〝yet had not seen″ということである。〝Was not(P-1342)である。この〝Was not″ について、は次のように述べている。:
Bul lest owr Speculation / In inanition die /
Because 〝God took him″ mention- / That was philology
- / 」 (P-1342)
God took him-これはGodhim がひとつになったということであり、E.D.は、そこのところを〝The perfectest communication″と表現しているわけである。ということは、E.D.は、意識的にphilology としてこの〝The perfectest communication″ という表現を用いたということである。


                      →
 
   
 

 55ページ
 
   

 






「彼女の内部に生じたひとつの体験のその真の意味を認識(了解)した上で、その事柄のひとつの解釈としての構造が 〝perfectest communication″ という表現なのである。
「〝Was not″ was all the Statement(P-1342) とE.D.は、記している。この〝Was not″ が〝Exists″の内容であると見たい。即ち、“有” のに対する “無” のである。しかし、そのことについてここで結論を出すことは控えることにする。


さて、“見性” とは “性” を “見る” ということである。“性” とは “なにもないもの” である。その “見性” とは “なにもない-がある” ところから“なにもない-もない ”に転換する、その瞬間の出来事である。 “なにもないもの” は元来誰も見ることができないものである。見ることができないものであるから “なにもない” と呼ばれ得るわけである。その “なにもないもの” を見たとすれば、それは一つの錯覚であるに過ぎない。とすれば、真に “なにもないもの” を見たということは、決してそれを見なかったということである。
“見た”-しかし “見なかった” のである。
〝Yet had seen!″ とはそこのところの消息を示すものであろう。“見なかった” -しかし “見た” のである。まさに “なにもないもの” を見たのである。この “見た” といことは、“なにもないもの” はなにもないということを全人格的に知る-悟る-ことであると云ってよいかもしれない。人間は通常、“なにもないもの” とは “なにもないもの” であるということを知的に認識しているに過ぎないのであるが、そのことを “全人格的” に知るとき、ひとつの “印” が心に印されるのである。禅師(道元禅師/編者)のいわゆる “*3 休歇なる悟迹”・ 6-10 の 8ページ参照 が真の “*4 心印” である。そしてそれが “信” なのである。“*5 見性” とは “なにもないもの” を真に “見た” ということである。その意味では “見て” 信ずることが “正信” の現成である。しかし、又 “見性” とは何ものも “見なかった” ということであると云える。“見ずして信ずる” という “*6 信現成” が真に “正信” であるためには〝Yet had seen!″と云われる “見性” が必要であると云えるのではないか?
                                               →






  


 

(P-1084)

A
t Half past Three, a single Bird
Unto a silent Sky
Propounded but a single term
Of cautious melody.

At Half past Four, Experiment
Had subjugated test
And lo, Her silver Principle
Supplanted all the rest.

At Half past Seven, Element
Nor Implement, be seen —
And Place was where the Presence was
Circumference between




(L-515)

Dear friend.
Vinnie accidentally mentioned that you hesitated between the "Theophilus" and the "Junius."
Would you confer so sweet a favor as to accept that too, when you come again?
I went to the Room as soon as you left, to confirm your presence - recalling the Psalmist's sonnet to God, beginning

I have no Life but this -
To lead it here -
Nor any Death - but lest
Dispelled from there -
Nor tie to Earths to come,
Nor Action new
Except through this Extent
The love of you. (3)
It is strange that the most intangible thing is the most adhesive.

Your "Rascal."

I washed the Adjective.


Samuel Bowles(about 1877)



(L-330)
A Letter always feels to me like immortality because it is the mind alone without corporeal friend.
‥‥

T. W. Higginson (1869)























*1 ヨハネ福音書 第一章第一節
「初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった。言は神であった。」



*2 一字不説
釈迦が49年間の説法の後「一字も説かず」と述べた故事による。仏法の真理は、言葉で言い表すことができず、言葉を通して得られるものではない。自ら体得することによってのみ悟ることができ、悟り得た境地を説くにも、直接実相を説き尽くすことはできない。それゆえ、経典にも真理は、一字も説かれていないという意。
























(P-1681)
Speech is one symptom of Affection
And Silence one —
The perfectest communication
Is heard of none —

Exists and its indorsement
Is had within —
Behold, said the Apostle,
Yet had not seen!







(P-1342)
"Was not" was all the Statement.
The Unpretension stuns —
Perhaps — the Comprehension —
They wore no Lexicons —

But lest our Speculation
In inanition die
Because "God took him" mention —
That was Philology —






















*3 休歇なる悟迹 『正法眼蔵』現成公案巻
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、
休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」
悟迹は、さとりの痕跡、休歇は休む、長長出は永遠を意味する言葉。



*4 心印
仏心印の略、仏印ともいう。印は、印可・印証で、師資の心が相契合して、不二一体になることをいう。世尊の拈華を、迦葉が微笑することで仏心を印証され、それが歴代の祖師を通じ、以心伝心によって伝えられてきた。その印可された仏心を仏心印といい、仏の自内証の心地を指す。(曹洞宗関連用語集より




*5 見性
見性とは、自己が本来有する本性・仏性に気付くこと(=見性)であり、その徹見がそのまま悟りであることを見性成仏という。人間の本性を徹見して覚者となること。(曹洞宗関連用語集)より


*6 信現成
『正法眼蔵』 三十七品菩提分法巻
「信根」は、しるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強為にあらず、自己の結構にあらず。他の牽挽(けんめん/ひくこと)にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身似信を信と称ずるなり。かならず仏果位と随他己し、随自己す。仏果位にあらざれば信現成にあらず。このゆゑにいはく、仏法大海信為能入<仏法の大海は信を能入と為す>なり。およそ信現成のところは、仏祖現成のところなり。




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