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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 


 
 

その小さなミツバチの巣箱のうちに
蜜の徴がほんのわずか残されている
現実がひとつの夢をつくり
そして夢が現実をつくりだすように-

エミリー・ディキンスン (1607番)
 

Within that little Hive
Such Hints of Honey lay
As made Reality a Dream
And Dreams, Reality —

Emily Dickinson (1607)


 
  

   
56.10.20 ~56.10.28


 
 


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禅師は“*1 見性何必”と述べておられるが、その問題には微妙なものがある。
Behold said the Apostle / Yet had not seen!″
  ↑
*2 赤肉団上に一無位の真人あり、汝の面門を
(まま)出入す。看よ
*3 試覓底心 是妄将是真

              ×

蘇りのキリストが立ち去ったあと、〝Comforter″が送られるという。それは〝the Spirit of truth″である。E.D.の〝A single Dram of Heaven″は、それに相当すると云えよう。それは、究極的には“信の現成”であろう。

*4 岸田秀氏は、倫理をどのように保持するつもりであるか?“幻想論” は、倫理的人間(-既に倫理性を確立した人間-)がそれを判断の基準にする場合には、大きな弊害がないと云えるかもしれないが、それは、倫理を破壊するという一面をもってるわけであるから倫理的に確立されていない人間-囗
(一字不明)者-がそれを判断の基準に採用することは多大な危険性-弊害-が伴う筈である。
要するに “幻想論” とは観念上の事柄なのである。“幻想論” を判断の基準に据えるということでは、人間の問題は、結局解決されないのである。“安心” -自己解放-の問題について岸田秀氏は、精神分析による抑圧の解除を云うにとどまる。岸田秀氏は、キリスト教を排囗
(一字不明)する、しかし、キリスト教の大きな一面は、倫理的態度(教え)である。そして、“幻想論” の認識に基ずいて、つまらないことだから戦争はやめようと考えるとしても、そう考えるだけでは、人間は自我の欲求をコントロールすることができないということは、これまでの人間の歴史を通して明らかなことであり、そのために、倫理が要請されたのである。そして、キリスト教は、一面ではその倫理を主体的に人間にもたせるための方法でもあるわけである。
◎人間の認識判断は、絶対ではない。すなわち、本当のところは善いも悪いもない、美味いもまずいもない、という立場に立てば、現実というものが極めて、あいまいなものになってしまうわけである。E.D.の〝Utmost is relative″は“あいまいな現実”を意味するのではなく、いわば実存的真実としての〝absolute relative″ではないか?“悪いは悪い”、“まずいはまずい”ということである。        
                 

 
      → 次項*
 
 

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       (前項→)*
 








E.D.は或る手紙 (L-965/編者)の中で、「Human affectionは、それを執りもせず、執らないこともしなければ、(人の愛情のように私たちがあえて触れようともせず、また逃れようともしなければ/編者)人間にはそのほかに何が残るか?」 と述べている。(もう一度その手紙を読み直して見る必要はあるが-)
その場合は、要するに、完全なシラケである。無感動である。そのような状況は、“幻想論” 的な認識を判断の基準に据えることから導き出される筈であるが。「Reality itself is a dream」(PF-2) という認識から “夢も亦真実” というところへの転換が必要なわけである。「Emerging from an Abyss」 し、次いで「and entering it again」することが、必要なわけである。「that is life, it is not?」である。(PF-32)〝Reality itself is a dream″という認識に居据わっているのが “幻想論” である。
或る思想の過程を経て、岸田氏は、その認識に達したわけであるが、その思考の出発点において目指したものは何であったか、を省みることが必要である。その目的は、抑圧からの自己解放であり、自己がより良く生きるためにはどうするか?であった筈である。とすれば、〝Reality itself is a dream″という認識に達したというだけでは、その目的が成就されたことにはならない筈である。
或る思想の過程を経て、岸田氏は、その認識に達したわけであるが、その思考の出発点において目指したものは何であったか、を省みることが必要である。その目的は、抑圧からの自己解放であり、自己がより良く生きるためにはどうするか?であった筈である。とすれば、〝Reality itself is a dream″という認識に達したというだけでは、その目的が成就されたことにはならない筈である。とすれば、〝Reality itself is a dream″という認識は、知性(Wisdom)が直面する壁であり、袋小路である。そこに到れば知性の尊厳性は、一挙に色褪せてしまうわけである。


解釈された現実が人間の現実であると見做すときに、“Reality itself is a dream” という認識が生じる。
(*5 一水四見)
しかし、それは分別上の事柄である。実存的には“解釈などということは存在しないのである。実存の内容は常に “如是” である。“*6 華は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみなり” である。



 

 
 

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しかも、かくのごとくなりと云えども“華は愛惜に散り、草は棄嫌に生うるのみなり”
“無喜無憂”なりといえども (utmost is relative)(P- 記載なし1291)


































夢を見ているものにとって、夢は Reality である。ということは夢が夢であることに気づいていないということである。〝Reality itself is a dream″と真に認識する者は、夢を夢と知りつつ夢を見ているものである。さて、この場合、夢を夢と知りつつ夢を見ている者は、夢の中にいるのか、夢の外にいるのか?
夢を夢と知るとき、その夢は夢である。しかし、夢を見ているときには、その夢は夢なのではなくて Reality である。夢を夢と知りつつ夢を見ている者の夢は、夢であるのか、Reality であるのか?それは、夢なるままの Reality であり、Reality なるままの夢である。小鳥が眼の前を通り、視界の外に飛び去ったとき、鳥が眼の前を通り、飛んで行ったという思いをもてば、それは“夢”を見たのである。そして、そのとき、同時にいわゆる現実に入ったのである。

Reality itself is a dream″と認識する自己を自覚して、その立場に立つということが夢に対して主体性をとるということである。これが、“夢から醒める”ということである。“幻想を抜ける”ということである。夢に飛び込むことが、「Dream を Reality にすること」であり、夢を夢と知ることが、「Reality Dreamすること」である。両方からぬけているところを把握していなければ、これは出来ないのである。「*7 流れに随って性を認得すれば喜びもなく憂いもなし」そして、喜びもなく憂いもないものが、喜びあるいは憂えるのである。(「‥‥made Reality a Dream / And Dreams, Reality」(p-1607)
〝Reality itself is a dream″と認識するだけでは、dream-幻想-を脱し得ないのである。それを自覚した立場に立つこと、それが自己解放ということである。それは“因果不動 ・1 - 5 の 3ページ 注欄参照 ”のところであり、その立場に立って、“*8 把持放行”の自由を得たところが真の“自由”のところである。

夢を見ていない者は、現実の中にもいないのである。その両方からはなれているのである。
〝parting″ Heaven からも Hell からもはなれていること。)
E.D.の〝parting″は解脱に似た概念かもしれない。





 
 
 

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原罪という概念において、人間の因果にもとずく罪と罪悪感-抑圧-を包攝し、キリストへの信という一事で、一挙に、人間を因果と抑圧から解放してしまう、というのがキリスト教の構造であるとも云えるのではないか?



 
   
 

 60ページ
 
   

 




[E.D.における信の現成]
Lives he in any other world
My faith cannot reply
Before it was imperative
'Twas all distinct to me —

P-1557)

“*9 画餅にあらざれば飢えを充たさ(まま)ず”
画餅とは、飛び込んだところかもしれない?
飛び込むとは、われを忘れたところである。“夢中”である。
夢から醒めたとき、ハッとして、今まで自分はどこに行っていたのかと思うわけである。


吉本隆明氏は “信” とは排理(まま)的な決断であるという認識に立って “信” を論じている。しかし、“正信” の現成は、排理的な決断ではない。吉本隆明氏の認識する“信”の概念は、いわば狂信、盲信である。“*10 信現成” とは、単に信じようと欲して信じ得た、ということではないのである。認識上の変革が、その基盤となっているのであって、信現成という内的な真実(実存的真実)について理性はいかなる異議をとなえることもできないのである。むしろ、理性はその実存的真実の妥当性を積極的に承認するのである。そのようなものが “正信” であり、“信現成” というところである。



























身心脱落の状態では、主体性がはっきりしていない。その location があいまいなままである。自己の座がフラついている。“Seam が明らかなになる” とは、この座がはっきりしたという事ではないか?

  


  *1 見性何必
『正法眼蔵』 現成公案巻
しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆへにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有(みつう)かならずしも見成にあらず、見成これ何必(かひつ)なり。
 
密有とは知覚の対象とならない真実。
何必は、説明不可能な事実のこと。

(P-1681)
Speech is one symptom of Affection
And Silence one —
The perfectest communication
Is heard of none —

Exists and its indorsement
Is had within —
Behold, said the Apostle,
Yet had not seen!


Behold  見よ
Apostle 使徒

*2 赤肉団上に一無位の真人有り
『臨済録』 上堂

上堂。云く、赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ看よ
時に、僧有り出でて問う。如何なるか是れ無位の真人。師、禅床を下って把住して云く、道え道え。
其の僧擬議す。師托開して云く、無位の真人是れなんの乾屎橛(かんしけつ)ぞ。便ち方丈に帰る。


*3 試看覓底心 是妄将是真
『良寛詩集』
道妄一切妄
道真一切真
真外更無妄
妄外別無真
如何修道子
只管要覓真
試看覓底心
是妄将是真

妄と道(い)へば一切は妄
真と道へば一切は真
真の外に更に妄無く
妄の外に別に真無し
如何なれば、修道子は
只管(ひたすら)真を覓(もと)めんと要(ほつ)するや
試みに覓むる底の心を看よ
是れ妄か、将(は)た是れ真か


*4 岸田 秀(きしだ しゅう 1933-)
心理学者、精神分析学者、思想家、エッセイスト、著書に『ものぐさ精神分析』などがある。吉本隆明は、個人と他者との公的な関係を共同幻想としたが、岸田秀は、この共同幻想の考え方を引き継ぎ、唯幻論を提唱した。


(P-1291)
Until the Desert knows
That Water grows
His Sands suffice
But let him once suspect
That Caspian Fact
Sahara dies

Utmost is relative —
Have not or Have
Adjacent sums
Enough — the first Abode
On the familiar Road
Galloped in Dreams




(L-965 )

‥‥
It stills, incites, infatuates , blesses and blames in one. Like human affection, we dare not touch it, yet flee, what else remains? ‥‥

 
unknown early1885

(PF-2)
No dreaming can compare with reality, for Reality itself is a dream from which but a portion of Mankind have yet waked and part of us is a not familiar Peninsula -

 
PFはProse Fragment(散文断章)の頭文字

(PF-32)
Emerging from an Abyss and entering it again - that is Life, is it not?

 

*5 一水四見
『摂大乗論釈』
同じ水を見ても、天人は宝で飾られた池と見、人間は水と見。餓鬼には、膿血と見え、魚には住処と見えるというもの。
そのように、一つの水でもその境界果報によって見方、感じ方が違うことを言う。

*6 華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり
『正法眼蔵』 現成公案巻
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

*7 流れに随って性を認得すれば喜びもなく憂いもなし
インドの第22祖魔拏羅(まぬら)尊者の伝法偈として伝えられる言葉。「心は万境に随って転じ、転ずる処実に幽なり。流れに随って性を認得すれば、喜びも無く亦憂いも無し」。「宝法伝」五、「伝灯録」二、「臨済録」示衆などに見える。


(P-1607)
Within that little Hive
Such Hints of Honey lay
As made Reality a Dream
And Dreams, Reality —




*8 把持放行
真理を掴んで迷いを放つこと
















*9 画餅のあらざれば飢えを充たさず
『正法眼蔵』 画餅巻
ただまさに尽界尽法は画図なるがゆゑに、人法は、画より現じ、仏祖は画より成ずるなり。しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず。画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。


*10 信現成
『正法眼蔵』 三十七品菩提分法巻
「信根」 は、しるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強為にあらず、自己の結構にあらず。他の牽挽 (けんめん/ひくこと) にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身似信を信と称ずるなり。かならず仏果位と随他己し、随自己す。仏果位にあらざれば信現成にあらず。このゆゑにいはく、仏法大海信為能入 <仏法の大海は信を能入と為す> なり。およそ信現成のところは、仏祖現成のところなり。


   

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