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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 
 
死ぬことなくして- 死ぬ
生命なくして- 生きる
これは最も難しい奇跡である
正信への提議

エミリー・ディキンスン (1017番)
 
To die — without the Dying
And live — without the Life
This is the hardest Miracle
Propounded to Belief.

Emily Dickinson (1017 )

 
  
 
   
56.10.20 ~56.10.28


 


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これが “佛眼” である。
“佛眼” がここに開かれているのである。
自己とは “佛眼” にほかならない。
(“能動的無”- “*1 通身是手眼”)
道元禅師の立場は、“佛眼” に徹して生きるところである。
Body は臭皮袋、いや、それを云うところとは次元が違うのである。
禅師が “人体” というときは “真実人体” なのであり、それは、“*2 尽十方界是箇真実人体” であり “遍身是手眼” のところである。

“われ思うゆえにわれ在り”
考えていることの内容は、変化している。しかし、私が考えているということは、共通である。ということは、そこに不変の自己が存在するということである。
- これが、“われ” というものが存在する、ということについてのデカルトの論理であると考えてよいかどうか、たしかなところはわからない。しかし、いづれにしても、その “われ在り” とはいかなることか?については触れられてはいないわけである。重要なのは、“われ在り” とはいかなることか、人が “われ” と名づけているものは何か?を明らかにすることである。

 











    
 
 

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[Rumored Gate]

その絶対の沈黙に向って門を叩いても、凹みひとつつけられない。それに向うということが、ドアを閉じることである。何故なら、自分がドアであり、それに向うとき、そのドアを閉じるようになっているのである。とすれば、眼を逆に向けなければならない。即ち無限から有限に眼を転じるということである。その時、ドアは開く。自分がその開口部なのである。
宝蔵の開口部

門は “我” である。“我” を倒すとき、神は微笑する。“小我” に死ぬとき、無門を知るわけである。
天国の入り口に門はない。 無門関は人にある。十字架上に死ぬこと。*3 大死一番。それが無門関の鍵である。
              ×

Pit – 神の Breath の開口部-Lip-たる自己。佛眼。
corkless のビンの底をぬき、その口を神に向けるのではなく世界に向って開かなければならないのである。
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←  To die – without Dying.  



 
 

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そのイメージの変遷をとりあげて
みること。






  言語でその人間を画き出す
         ↓
E.D.の〝Physiognomy″とは、“無相”なものにイメージを与えることかもしれない。
“なにもないもの”
“なにもない囗囗二字不明
“何もないものの思い出”

[Mitten




〝Phial″は、底がある。
〝Mitten″には底がない。
 E.D.はそのことに意味をもたせているかどう
 か?

       

キリストという出来事は、予言の成就のプロセスとして叙述されている。その結論は、“愛” である。神を愛し、隣人を愛し、祈るものに昇天が約束されている。
キリストを信じてその通り実行すれば、それでよいわけである。しかし、それでは信じきれない、という者は、キリストにおける出来事を自分で確かめなければならないわけである。十字架上の死と復活を自分で確かめなければならないわけである。

日没後、西の空にいわば太陽があったところに立ち現れるStar
Ambush abdicate the way of Dusk を立ち去った者の subtle Name の代りに存在している Asterisk
Amber から Red を除いたもの Yellow と考えてよいのか?それとも Yellowは月?
悟りと迷いの間の自在な往復(交流)。
DreamReality の間の自在な往復(交流)。
実存と客観の間の自在な往復。
言葉と沈黙の間の自在な往復。
生と死の間の自在の往復。
意識と無意識の間の自在な往復。
神と人    “
佛と衆生   “
     
“往復” を 〝Renown″ と置き代えてもよいであろう。
“往復するもの”― それを 〝Spirit″ とすることができる。
あるいは、〝Renown″ を考えれば、その軸が Spirit に相当する。
しかし、〝Spirit″ とすると、流動するものが連想される。
       










  その〝philology″は象徴的な手法となるわけである。

   “無底” 〝Pit″
 
 

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   〝the Wholeの形″ 
  Sahara(P- 1291編者)
       ↑
     Concordance
[Physiognomy
 Nothing ]
P-記載なし
“有る”と信じていた“悟り”が消える時、人は“幻想”-“夢”-のなんたるかを全人格的に知る。〝Reality itself is a Dream″ PF-2)を知るのである。これが “悟り” (狭義)の意義である。このことにおいて “我” が一つの観念に過ぎないことを知るのである。これが *4 “知惑(まま)断” という意味における“我の倒却”である。そして、このとき “主体性”を置くべき根拠が無くなるのである。

The idly swaying Plank
Responsible to nought″(P-1343
)の状態になる。
これは、“岸田幻想論 ・56-60 の 57ページ 注欄参照”の根拠であり、“シラケ”のところである。P‐1425を “華於空滅” のあたりの消息であるか、〝It sweeps the tenement away″が華於空滅の表現であるとすれば、〝But leaves the Water whole-″〝the Water whole″とはNothing の意識化 “意識されたNothing” (“なにもない”-がある)であると想像することができる。そして〝In which the soul at first estranged- Seeks Laintly for it’s shore″という叙述は、P‐965)〝Denial″ における主体性の置き場が失われ、主体性があいまいになった“空虚さ”、“シラケ”のところに相当すると解釈できる。
(P-1343)の
〝The idly swaying Plank
Responsible to nought
″ という表現は、ここに相当すると考えられる。

(P-1343) 〝A sudden Freight of Wind assumed″ を “華於空滅 ・36-40 の 36ページ 注欄参照” のところと考えていたが、そのへんの解析は慎重であらねばならない。これを “我” と “幻想-非我” が、同時に消えたところの叙述を解釈すると、〝Plank″ を “我”と解することになるのであるが、〝But leaves the water whole″ (P-1425)を “華於空滅” で、“無” が意識化されたところ、と解く、又、〝A sudden Freight of Wind assumed″ を “なにもない” のところ、即ち 〝the water″ を自己として受けとってしまうところと解釈すれば、〝Plank″〝Body″ だということになる。〝A sudden Freight of Wind″ の 〝Wind″ という表現は、〝the Water whole″ を 「“なにもない”-がある」 ところの表現と解すると。“なにもないもない” のところの表現として妥当であるといえる。そして、本当に “箇裏に帰する” ときに、すなわち、“なにもない” をわれとして受けとってしまうときに、眼を無限から有限に転ずるときに、そのことが起こるわけである。    
(*5 万古碧潭空界月)           
         → 次項86ページに続く)


















































 あいまいになる。













責任ということも(まま)責任を取るべき主体性があいまいになるので、一切が宙ぶらりんになるわけである。
 

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朝、目が覚める。そしてはたらきはじめる。
目が覚めた自分を自覚するものはなにか?それは、“眠っている自分”を自覚しているものと同じものではないか?
“晩から朝まで、朝から晩まで”と*6 岡田先生は云う。その意味は?







  


*1 通身是手眼
『正法眼蔵』 観音巻
雲巖無住大師、道吾山修一大師に問ふ、大悲菩薩、許多の手眼を用ゐて作麼(大悲菩薩、用許多手眼作麼)。
道悟曰く、人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し。
雲巌曰く、我會 (うい) せり、我會せり。
道悟曰く、汝作麼生か會せる。
雲巌曰く、遍身是手眼。
道悟曰く、道 (い) ふことは太殺 (はなはだ) 道へり、ただ道得すること八九成なり。
雲巌曰く、某甲 (それがし) はただ此の如し、師兄作麼生 (すひんそもさん)。
道悟曰く、
通身是手眼

*2 尽十方界真実人体
『正法眼蔵』 身心学道巻
圜悟禅師曰く、生也全機現、死也全機現、逼塞太虚空、赤心常片片 (生も全機現なり、死も全機現なり。太虚空に逼塞し、赤心常に片片たり)。
この道著、しづかに功夫点検すべし。圜悟禅師かつて恁麼いふといへども、なほいまだ生死の全機にあまれることをしらず。去来を参学するに、去に生死あり、来に生死あり、生に去来あり、死に去来あり。去来は尽十方界を両翼三翼として飛去飛来す、尽十方界を三足五足として進歩退歩するなり。生死を頭尾として、
尽十方界真実人体はよく翻身回脳 (ほんしんういのう) するなり。翻身回脳するに、如一錢大なり、似微塵裏なり、平坦坦地、それ壁立千仭なり、壁立千仭処、それ平坦坦地なり。このゆゑに南州北州の面目あり、これを瞼して学道す。非想非非想の骨髓あり、これを抗して学道するのみなり。

*3 大死一番
鈴木大拙著 『仏教の大意
大死一番絶後に蘇息する 即ち、我ら日常の生活に死ぬること。

(P-1017)
To die — without the Dying

And live — without the Life
This is the hardest Miracle
Propounded to Belief.



(P-1101)
Between the form of Life and Life
The difference is as big
As Liquor at the
Lip between
And Liquor in the Jug
The latter — excellent to keep —
But for ecstatic need
The
corkless is superior —
I know for I have tried



Phial 小型のガラス瓶、薬ビン
Mitten
 二股手袋、親指だけ離れた長手袋
Pit 穴、落とし穴、墓穴













(P-1343)

A single Clover Plank
Was all that saved a Bee
A Bee I personally knew
From sinking in the sky —

'Twixt Firmament above
And Firmament below
The Billows of Circumference
Were sweeping him away —

The idly swaying Plank
Responsible to nought
A sudden Freight of Wind assumed
And Bumble Bee was not —

This harrowing event
Transpiring in the Grass
Did not so much as wring from him
A wandering "Alas" —


(P-1425)
The inundation of the Spring
Enlarges every soul —
It sweeps the tenement away
But leaves the Water whole —

In which the soul at first estranged —

Seeks faintly for its shore
But acclimated — pines no more
For that Peninsula —




(P-965)

Denial
— is the only fact
Perceived by the Denied —
Whose Will — a numb significance —
The Day the Heaven died —

And all the Earth strove common round —
Without Delight, or Beam —
What Comfort was it Wisdom — was —
The spoiler of Our Home?


Physiognomy 観相術

*4 知惑は頓断
見惑は頓断ではないか?
「見惑は頓断破石の如し、 思惑は漸断藕糸の如し

藕(ぐう)糸 ハスの繊維から取る糸


(PF-2)
No dreaming can compare with reality, for Reality itself is a dream from which but a portion of Mankind have yet waked and part of us is a not familiar Peninsula -


*5 万古碧潭(へきたん)空界月
『正法眼蔵』 古鏡巻

百雑砕の対面は孤峻の一なり。しかあるに、いまいふ百雑砕は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請 (こうしん) 一転語<更に一転語を請う>なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず、古鏡明鏡はたとひ問来得 (もんらいて) なりといへども、玄沙の道取を疑議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑砕なりぬべきか。砕来の形段作麼生 (いんとんそもさん)。万古碧潭空界月。」



*6 岡田先生
岡田利次郎(1915-1994)
佐藤慶次郎の禅の修行に大きな影響を与えた医師。慶応大学医学部の先輩にあたる。「正法眼蔵解読」「座禅のすすめ」などの著書がある。

   

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