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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 
 
一枚の丸い板のようなクローバーが 
ハチを救える頼みの全てだった
私にはわかっていた
弱って空からてやってきたことを-

上の空と
下の空の間で
渦巻く周囲が
彼を一掃した-

何ものにも責めを負うことなく
むなしく揺れる頼みの綱
突然わがもの顔に風に運ばれ
まるはなばちはいなくなった-

この恐るべき出来事は
草の中で起こっている
そんなにひどく彼を苦しめないで
彷徨える「悲しきかな」-


エミリー・ディキンスン (1343番)
 
A single Clover Plank
Was all that saved a Bee
A Bee I personally knew
From sinking in the sky —

'Twixt Firmament above
And Firmament below
The Billows of Circumference
Were sweeping him away —

The idly swaying Plank
Responsible to nought
A sudden Freight of Wind assumed
And Bumble
Bee was not

This harrowing event
Transpiring in the Grass
Did not so much as wring from him
A wandering "Alas" —


Emily Dickinson (1343 )

 
  
 
   
56.10.20 ~56.10.28


 


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〝Bubble″(P-1003)と表現することもできる筈である。
  
(P-1379編者)His eloquence a bubble
As a Fame should be

〝Bubble″、〝Pod″
という表現(イメージ)も、Physiognomy(観相学/編者) なのである。

“無”の変遷のプロセス。〝Flower″とは、“無”の人相の謂いである。この意味では、E.D.の生涯は、真の“空華”を求めての旅であると云える。
華厳経の財善童子である。“虚空遍歴”である。“天路歴程”である。E.D.は、“天路歴程”を読んでいるのではないか?酔っぱらいとはそれではないか?四行詩のヒントはそこにあるのではないか?E.D.は、Sueへの手紙で〝the last flower″として記している。



 
 → このように解析してみると
E.D.の〝Freight of Wind″という表現の意味がよくわかるようになる。
そのとき〝Bumble Bee was not″ になるのである。“真人間”に返るわけである。
                         〝empty Pack″(P-
1562)という表現は、〝The Capsule of the Wind″(P-998)に相当するかどうか?
そして、それは“箇裏に帰した”Windすなわち“眼中花 ・46-50 の 50ページ 注欄参照” であるかどうか?
ただし、「ひとえに眼中花と欲識すれば十方佛にあらず」なのであるから、E.D.の到達点を評価する場合にはその点について要注意である。“知惑
(まま)は頓断”でも“思惑は漸断”であり、“年代深遠 ・16-20 の 20ページ 注欄参照” である。

〝The idly swaying Plank / Responsible to nought ″(P-
1343編者)を〝Neglecting me″-その時まで無視されていた Body である me-(P-1549編者)に相当すると考えてそして、一切が死んだ時点において、それは“脱落身心”なのである。その〝Plank″ が〝a sudden Freight of Wind″ を assume するということは身心脱落と脱落身心の合体と見ることができるが、このときの主体性の意識のありようが、問題なのである。そこに解脱の機微があるわけである。





 




← “humble Bee”










(参考 見惑は頓断破石の如し、 思惑は漸断藕糸の如し/編者)
藕(ぐう)糸 ハスの繊維から取る糸

    
 
 

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Cf:E.D.[P-1219編者]“ →
Idolatry
”の実現



 [直観への信が人間を導く。]
人は直観の内容を現実化しようとする。論理的構造を与えようとする、と云ってよいかもしれない。その内容の現実化は、必ずしもスムーズには進行しないわけである。実現に到るまでの全過程を通じて、自己を支えているのは、“直観への信”である。
直観の内容を現実化するということを“自己実現”と呼んでもよいであろう。“自己実現”-それが“創造”ということである。
“創造”とは “自己実現”ということなのである。絶えざる創造絶えざる自己実現。それが、“生命”と呼ぶプロセスの本質である。“生命”とは不断の創造の プロセスである。それは、運動それ自体である。エネルギーである。エネルギーとは、静止状態というものはない。運動-流行-がエネルギーの常相である。“生命”とは“生命力”である。“*3 青山常運歩”である。

“Advance が Life condition である-E.D.(P-
1652編者
不断の創造とは云い代えれば不断の崩壊である。“崩壊”という認識は、先の“創造”との比較において云い得ることである。比較とは観念上の出来事である。それは、生命の流れの二つの時点における二つの静止像
、いわば、二枚の写真の比較ということである。それは、二つのとどめられた“時”の比較である。その“時”は必ずしも瞬間ではない。(禅師 道元禅師/編者の“*4 有時”は、この“時”ではないか?)それは、“生命”の在る時の“相”ではあるが、“生命”それ自体ではない。いわば“生命”の屍体である。

                       →



 
 
 

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さて、“生命”というものをそのようなものとして認識するならば、“崩壊” も亦、“生命の相” であることになる。ただし、“崩壊” という観念は、さきの創造との比較において云われ得る事柄であり、それはひとつの解釈である。“生命” とは不断の運動であり、假りに、ひとつの “即今” を “崩壊” と呼ぶとしても、それは、有時の “生命の相” なのである。“生命” の “有時” なのである。その意味において -(まま)とは生命的生命の立場から見ればということであるが-     “崩壊” も亦、生きているわけである。それをさきの創造の“死”と呼ぶならば、“死” も亦生きているわけである。それは“生命的生命”の生きている姿である。           ↑
 “生死は佛のおんいのち”-(生死の巻)
生命的生命の“如是”である。
“生きているありのままの自分” である。

寝ている相も(晩から朝まで)、起きている相も(朝から晩まで)それらは “生きているありのままの自分” の相-有時-である。
“生きているありのままの自分” は在り続け、はたらき続けているわけである。

「諸行無常、是生滅法、生滅滅己、寂滅為楽 ・71-75 の 74ページ 注欄参照
“無常”と“寂滅”- 一老、一不死
            流行不易

“*5 不常・不断”- 無常と寂滅の相即のところ。すなわち “生きているありのままの自分” の叙述である。要するに “如是” とは “不常・不断” である。

不湿不乾” は*6 石黒老師に与えられた公案であった。“不常不断” を観念的な取扱いとすれば、これは、いわばひとつの“意識” の様態の叙述であると云えよう。それは、“妙心” である。


 
   
 

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Discipline を成就した Body
 

“Plank Freight of Wind assume する”。(P-1343
“Loverowner となる。”(P-1331
- Bride of AweCircumference possessする
           ↓
このとき、〝Brid of Awe ″は、〝hollowed Knight″ によってpossess されると云える。この場合、〝hollowed Knight″ を 〝Body″(=脱落身心)と見做さざるを得ないであろう。 とすると、〝Plank″ を“主体性の意識”と解してよいのではないか?あるいは、E.D.が 〝Consciousness″ と呼ぶのは、それかかもしれない。(“Consciousness soul はきりはなせない”と云うとき、その〝Soul″、Freight of Wind (P-1343)を意味するのではないか?それは、“我と非我はきりはなせない”と云うことと同じことを意味していることになるのではないか?
〝Body″ に主体性の意識を置いておく、そのような Body Plank であるとすると、〝Freight of Wind″ は、どこまでも他者であり、結局、“解脱”は達成されないわけであるが、〝Plank″を“主体性の意識”と見做すと、「〝Plank″ が 〝Freight of Wind″ assume する」ということは、無我の我の現成ということになるその場合、それは“なにもない心” を “われ” として受けとってしまうところである。〝idly swaying Plank″-とは、その置き場がなくなって、その Plank Wind assume するとは空中を漂っている主体性の意識であると解することができることになるが、要するに主体性の意識と“なにもない心”が、相互にしめし合うかたちで、即ち、“*7 絶対矛盾的自己同一”として把握された、と云うこととして解することができる。
             
               
                      →

      
 

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→ 

これは、“空界月”の現成であり、即ち“証画現成” ・6-10 の 7ページ 注欄参照 である。-“証せざるには得ることなし”-これが、“解脱”の成就である。“妙有”としての真空の把握-このレベルにおける“真空妙有”ではるが-である。

人は〝Body ″に対して主体性をもつことができるようになるわけである。E.D.の〝Two one(L- 未詳 ・11-15 の 12ページ 注欄  L-486 参照) はこの二即一、一即二の消息ではないか?ただし、Body を無視したところで、無我と我の一如関係を〝Two one″ として取扱うこともできるわけであるから、そのへんのところは要注意。しかし、このへんの問題の解析は慎重にしなければならない。何故なら Plank は、終始、Body からはなれたことはないのである。ということは、先ず Plank Wind が一つになった上で、Body に入るという解釈は、観念上の解釈なのであって、Plank Wind assume するということは、Body 上における“月”の把握なのである。“証画”-空界月-が、真の意味における身心脱落と脱落身心の同時現成なのである。

さて、Plank Windassume するとは、眼中花の成就であるが、「ひとえに眼中花を欲識すれば十方佛にあらず、ひとえに十方佛を欲識すれば眼中花にあらず」の消息を、E.D.がどのように把握していたかについて、慎重に検討する必要がある。E,D.は「眼中花とは“実にあらず、実ならざるにあらず、おのづから十方佛なり”」として、その消息の表現するところに到達したかどうかの検討である。






























  



(P-1343)

A single Clover Plank
Was all that saved a Bee
A Bee I personally knew
From sinking in the sky —

'Twixt Firmament above
And Firmament below
The Billows of Circumference
Were sweeping him away —

The idly swaying Plank
Responsible to nought
A sudden Freight of Wind assumed

And
Bumble Bee was not

This harrowing event
Transpiring in the Grass
Did not so much as wring from him
A wandering "Alas" —


(P-1562)
Her Losses make our Gains ashamed —
She bore Life's empty Pack
As gallantly as if the East
Were swinging at her Back.
Life's
empty Pack is heaviest,
As every Porter knows —
In vain to punish Honey —
It only sweeter grows.



(P-998)
Best Things dwell out of Sight
The Pearl — the Just — Our Thought.

Most shun the Public Air
Legitimate, and Rare —

The Capsule of the Wind
The Capsule of the Mind

Exhibit here, as doth a Burr —
Germ's Germ be where?


(P-1549)
My Wars are laid away in Books —
I have one Battle more —
A Foe whom I have never seen
But oft has scanned me o'er —
And hesitated me between
And others at my side,
But chose the best —
Neglecting me — till
All the rest, have died —
How sweet if I am not forgot
By Chums that passed away —
Since Playmates at threescore and ten
Are such a scarcity —




*1 財善童子
『華厳経』 入法界品
インドの長者の子に生まれた財善童子が、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な善知識
53人を訪ね歩いて教えを乞い、段階的に仏教の修行を積みながら最後に普賢菩薩の所で悟りを開く。その姿が、菩薩行を行う修行者の理想の姿として描写されている。

*2 天路歴程
イギリスのジョン・バニヤンによる寓意物語。全
2部。1678,84年刊。作者の夢物語という形式で語られる。「破滅の町」に住んでいたクリスチャンという主人公が、彼の住んでいる破滅の町から逃れようとし、〈落胆の沼〉や〈虚栄の市〉における誘惑にうちかち,さらに悪魔アポリオンに悪戦苦闘の末勝って,〈天上の都市〉に到着するという話。旅の記録の体裁をとって人が人生で経験する葛藤や苦難を通じて理想的なキリスト者の姿へと近づいていく過程を描いている。


(P-1219)

Now I knew I lost her— Not that she was gone— But Remoteness travelled On her Face and Tongue. Alien, though adjoining As a Foreign Race— Traversed she though pausing Latitudeless Place. Elements Unaltered— Universe the same But Love’s transmigration— Somehow this had come— Henceforth to remember Nature took the Day I had paid so much for— His is Penury Not who toils for Freedom Or for Family But the Restitution Of
Idolatry.


*3 青山常運歩
『正法眼蔵』 山水経巻
大陽山楷(たいようざんかい)和尚、示衆 (に) 云 (く)、青山常 (に) 運歩 (し)、石女夜 (に) 児(を) 生(む)。
山はそなはるべき功徳の虧闕 (きけつ) することなし。このゆへに常安住なり、常運歩なり。その運歩の功徳、まさに審細に参学すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆへに、人間の行歩 (ぎょうぶ) におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す。これその得本なり。常運歩の示衆を究辧 (きゅうはん) すべし。

(P-1652)
Advance is Life's condition

The Grave but a Relay
Supposed to be a terminus
That makes it hated so —

The Tunnel is not lighted
Existence with a wall
Is better we consider
Than not exist at all —



*4 有時
『正法眼蔵』 有時巻
「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり。有はみな時なり。丈六金身これ時なり。時なるがゆえに、時の荘厳光明あり。いまの十二時に習学すべし。三頭八臂これ時なり。時なるがゆえに、いまの十二時に一如なるべし。十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。


*5 不常・不断
『中論』
不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去による「八不中道」が説かれている。内容は、「滅することなく、生じることなく、断絶にあらず、常住にあらず、一義にあらず、多義にあらず、来ることなく、去ることなき、戯論が寂滅して吉祥である縁起を、説きたまえる正覚の仏陀 に、説法者の中の最勝なる人として、私は敬礼します。」中村元訳

*6 石黒老師
石黒法龍禅師のことか?(大光寺ー東京都杉並区永福寺) 著作に『禅理学要網・附録参禅所感集』があり、「禅理学会」を提唱した。

*7 絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎著 『絶対矛盾的自己同一』
現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。‥‥
   

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