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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 


死を成就した人々の
他に追随を許さない荘厳さは
世界の荘厳さに
優るものがある

魂はその不在を
肌に刻み-
そして それに触れる望みの向こう側へ
美しい風のような足取りで去っていく

エミリー・ディキンスン (1691番)

 

The overtakelessness of those
Who have accomplished Death
Majestic is to me beyond
The majesties of Earth.

The soul her "Not at Home"
Inscribes upon the flesh —
And takes her fair aerial gait
Beyond the hope of touch.

Emily Dickinson (1691)

 
  
 
   
56.10.20 ~56.10.28


 


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                →
Bumble″ はこの場合“よろめく”(stagger)の意であろう。主体性の意識が、あいまいになってよろめいている自分である。そして、〝humble Bee とは、脱落身心のところであろう。
Modest, low, small そして〝poor″ の意もふくまれているのではないか? この〝humble Bee″ は、一切を失ったことにおいて〝Honey″ を得たのである。Honey とは恐らく、“Disk をもったSheen” (P-1550 編者)であろう。それは、humble Bee となることにおいて、その〝Sum″ をすなわち〝Honey″ を得たわけである。(P-1526)の variant の中〝honey″ とはそのようなものであろう。「And honeys, if his life be spared, / He hungers to attain 」(P-1526

Bee″とは、肉体的な存在としてのMe″であろうP-1526

“心の貧しきものは幸いなるかな。
天国は彼等のものなればなり。「Blessed are the poor in spirit : for their’s is the Kingdom of Heaven」
Frognobody のところなのだ。それはidly swaying Plank であろう。
「Empty the Hearts that purchased you 」(P-1366 ) 〝honey″ であろう。 




 

“Safran が vermillion に入る”ということと同じことか? ↓
Circumference thou Bride of Awe / Possessing,‥‥”  (P-1620 編者
“'Twixt Firmament above / And Firmament below /
The Billows of Circumference / Were sweeping him away — /
The idly swaying Plank / Responsible to nought /      
(Sugg.ch – took on )
A sudden Freight of Wind
assumed / And Bumble Bee was not ‥‥” (P-1343)
              


“Of Yellow was the outer Sky / In Yellower Yellow hewn/
Till Saffron in Vermilion slid /
Whose seam could not be shewn./ (P-1676)
      



humble : [ME : (h)umble<OF<L=humil(is) lovely, insignificant, on the ground → Humus, -ile]
◎ 〝humble Bee″ に“地上のもの”というi意味があるということは、E.D.の考え方をはっきりさせるものである。

 





→ これは、「Seam が明らかにされた」ということである。すなわち、“われ在り”のところである。〝When a Lover is an Owner″ (P-1314編者) として。









→ この〝Vermilion″を〝Body″ と解するか、あるいは〝single Clover Plank″、〝Bride of Awe″ と解するかで、解析が違ってくるのであるが、如何?〝Body″ と解するならば“身心一如”である。しかし、E.D.は〝Bride of Awe″ Body から離して考えており、Body から離したままに、〝When a Lover is an Owner″ という転換を行っているので、この場合も Body を除外したところでの“われ在り”について述べているということかもしれない。

 
 

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honey、humble bee に関する前項の推量から判断して、[P-1366]を解析すると:

「Brother of Ingots -Ah Peru-
 Empty the Hearts that purchased you-」(P-1366A)
これを書いているE.D.の立場は〝humble″ であると想定すると、〝you″ 即ち〝Peru″ は〝honey″ (P-1526) に相当すると考えられる。humble bee はhoney によって生きている。Honey はhumble bee の食べ物である。それはhumble bee の生命である。ということは、humble bee 自身は死んでいるということである。脱落身心である。
“To die-without the Dying, To
(まま) live -without life (P-1017 ) のところである。
〝humble bee″ は〝honey″ を食べて生きているわけであるが、とすると*

〝But Nature relishes the Pinks
 Which she was taught to eat-″ (P-1641)

*この〝Pinks″ を〝honey″ と解することができる筈である。この場合〝
Nature″  とは、E.D.自身を示していることになるが、それは、〝humble bee″ となって、Nature の仲間入りをした*1 自然法璽のところかもしれない。

(〝Of bumble-bee and other nations / The Grass is full.″  (P-1746) )
cf : [1220]
Of Nature I shall have enough
When I have entered these
Entitled to a Bumble bee’s
Familiarities.

              
 


 

 
 
 

  
(P-1550)
The pattern of the sun
Can fit but him alone
For sheen must have a Disk
To be a sun —



(P-1366)
Brother of Ingots — Ah Peru —
Empty the Hearts that purchased you —



Sister of Ophir —
Ah, Peru —
Subtle the Sum
That purchase you —



Brother of Ophir
Bright Adieu,
Honor, the shortest route
To you.



(P-1526)参考
His oriental heresies
Exhilarate the Bee,
And filling all the Earth and Air
With gay apostasy

Fatigued at last, a Clover plain
Allures his jaded eye
That lowly Breast where Butterflies
Have felt it meet to die —


P-1526 Variantについては未詳













(P-1017)
To die — without the Dying
And live — without the Life

This is the hardest Miracle
Propounded to Belief.



*1 自然法璽(じねんほうに)
『親鸞聖人御消息』 浄土真宗聖典注釈版 

「自然(じねん)といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひ (自力による思慮分別) にあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆえに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめて (あらためて、ことさらに) はからはざるなり。このゆゑに、義なきを義としるべしとなり。

(P-1746)
The most important population
Unnoticed dwell,
They have a heaven each instant
Not any hell.

Their names, unless you know them,
'Twere useless tell.
Of bumble-bees and other nations
The grass is full.





(P-1220)
Of Nature I shall have enough
When I have entered these
Entitled to a Bumble bee's
Familiarities.


 





 佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン
 「編集後記」



 
 佐藤慶次郎からの電話がいつもそうであったように、このクロッキー帳への97ページに亘る手記も唐突に始まり、唐突に終わりました。しかし、日本語で書かれた部分を読んでいただくだけでも佐藤が何を伝えたかったかは、お分かりいただけるとことと思います。
 自分がある作家に惹かれると、いつもその作家の思想や信条に興味がわきます。その作家を険しい高みにまで背後で駆り立てていく何か、時代という流れに抗ってでも自分の価値観を形にして打ち立てずには済まさせない何か 、それは何なのかと? 佐藤慶次郎の場合、それは、禅の思想でした。佐藤自身が禅の修行者であり、見性の体験も少なからずあったようです。生前のそのような事柄に関する会話が思い出されます。
本文中にも何回か名前の出てくる岡田利次郎氏の影響が大きかったことは、強調してもよいと思います。 岡田氏の著書 『座禅のすすめ』 の中にはこのような記述があります。 「そして、<生きているありのままの自分>はダラダラと直線的に継続するのとは正反対に、すべてが一体となって一瞬間存在し、その次の瞬間そのすべてが消滅すると同時に、また一切がそこに生成される。―― 即ち生成がそのまま消滅となり、消滅がそのまま生成になり‥‥」  これがあの 『ピアノのためのカリグラフィー』 の作曲理念と同じであることは、佐藤自身から、この曲に関する話を聞いた人なら肯いていただけると思います。そして、岡田氏の若いころの著作である 『吾が道を往く』 の中で語られる仏教思想を基盤にした社会変革の思想もまた佐藤の中に深く浸透していたと申し添えなければなりません。
 エミリー・ディキンスンの世界に禅における自己変革の歩みを見た契機は何だったのか、佐藤自身から生前話を聞く機会はなかったのですが、今回の編集作業の過程の中で少し理解できたような気がします。 ディキンスンの作品については色々の解釈があります。 お決まりのフロイト的な解釈、彼女の恋愛を中心に据えた解釈、あるいは、不在のエクリチュールとしての解釈などです。 佐藤の場合は、形而上詩としての解釈が基盤であることは疑いありません。 その精神性の深さが彼を捉えて離さなかった。 ジョセフ・コーネルが最も愛した詩人がディキンスンであったことは、けっして偶然ではありません。 「私は誰でもない」 「あなたも誰でもない」 「私たちが追放されるのは何処なのか?」 このサイトを読まれて佐藤慶次郎の文章に共感された方にはもうお分かりだろうと思います。 またいつか、ディキンスンと佐藤慶次郎の思想については、文章にまとめたいと考えています。




I'm nobody!  Who are you?
Are you nobody, too?
Then there's a pair of us—don't tell!
They'd banish us, you know.

‥‥                  
       Emily Dickinson  (P-288 )



私は、誰でもない あなたは誰?
あなたも また 誰でもないの?
それなら私たち うり二つね- でもそのことは言わないで
私たち追放されるわ
いいわね
‥‥                  
      エミリー・ディキンスン (288番)


 

 うり二つだったのは、佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン、私にはそう思えて仕方ありません。 それは、人間という存在が種子として持っている 「誰でもないもの」 をこの二人が知っていたと思うからです。 そして、ディキンスンは、彼女の詩の数少ない理解者の一人であったヒギンスンへの手紙 (L-513) の中でこう書いています。 「私が今でも書いているかとお尋ねでしたね。私には、他に遊び友達がいません。」 私は、この手紙の言葉に佐藤慶次郎が亡くなる数年前に私にくり返し語った言葉 「音楽はすばらしいよ。一生携わるに値するものだ。」 という言葉をつい重ねてしまいます。佐藤慶次郎もきっとこう言うでしょう。 私も他に遊び友達がいないと。

                        2013 2


 
   


今回の編集にあたっては、色々な方々のご援助をいただきました。英語力の全くない私の飽くことのない質問にたいして快く応じてくださったクリスチャン・ハバコン、カール・ロー両氏、並びに『圜悟仏果禅師語録』に関して貴重なご教示をいただいた順心寺の廣田宗玄氏には、この場をお借りして感謝の意を表したいと思います。ありがとうございました。



   
 

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