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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

 

 
苦悩- それは時を広げてゆく-
一人の人の頭の中の
その一瞬の周線の内に
幾時代をも巻き込んでいる-

- 時と-苦悩は結びつける
永遠の全音階は
その一撃に占められる
あたかもそれらが存在しなかったように-

エミリー・ディキンスン (967番)

 

Pain — expands the Time —
Ages coil within
The minute Circumference
Of a single Brain —

Pain contracts — the Time —
Occupied with Shot
Gamuts of Eternities
Are as they were not —


Emily Dickinson (967)

 
  
   
56.10.20 ~56.10.28


 


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[P-1526]
Variant の最終スタンツァ

        Ecstasy   E.D.自身
          ↓    ↓
Recounting nectars he has known
And attars that have
failed        
And honeys, if his life be spared,
He hungers to attain.
      ↑
But Nature relishes the Pinks 
Which she was taught to eat- (P-1641)







"The stature of the empty nest  →
Attests the Bird that’s gone" (P-1666)

             (同じ事柄であろう。)  








 Spiritの系譜と肉体の系譜とは、別々である。"The bee" とは"Me" であるとすれ ば〝Honey""spirit "と見てよいであろう。








 






Spirit
であり云いかえれば Bride("Bride" とは観念あるいはイメージ)であろう。
それとも“身心一如”のところであろうか?
空(=身心脱落)の立場に立つか脱落身心の立場に立つかで、相手が違ってくるわけである。前者の立場に立てば、そこにあるのは脱落身心であり、後者の立場に立てば、空が対象である。E.D.の立場は、後者ではないか?とすれば、
HoneysSpirit (あるいは Bride of Awe)である。Spirit とは、固まっていないHoney であると云えよう。― Loosed Spirit
(P-
記載なし)
(P-782
を参照せよ。)
[P-1627]VersionⅡ
The pedigree of honey
Does not concern the bee-

A clover, any time, to him
Is Aristocracy- 」
"Spirit"
とは、非思量の意識
そのものであり、空意識と空の概念のごとき関係であろう。
 
































  〝attars"とは〝Immortality" かあるいはGodSoul itself であろう。
それは、〝
Goliah″・66-70 の 69ページ(P-1290) 参照であろう。
それは、消えたわけである。
そして、E.D.はそれが幻想であったことを認識した筈である。ということは、それが実体ではなく、原理的に不可得であることをわかっている筈である。
とすれば、この
"failed" は、とらえ得る筈のものをとらえそこなったという悔恨の念を示すものではないと解すべきであろう。


脱落身心
  ↓            (P-1520)
The stem of departed Flower    
Has still a silent rank.        
The Bearer from an Emerald Court
Of a
Despatch of Pink
     
 ↑
  (至急便、速達便)
Spiritと見ることができる。(Spirit はキリストが立ち去った後、天から贈られる Comforter である)
 


  17ページ
   



 


 
  [P-1527 ]
  Oh give it Motion-deck it sweet
  With Artery and Vein-
  
Upon its fastened Lips lay words.
  Affiance it again
  To that
Pink stranger we call Dust
  Acquainted more with that
  Than with this horizontal one
  That will not lift its Hat-



      



 





Dust:⑧無価値なもの、つまらないもの
(anything worthless)

これを何と理解するかがポイントであろう。
Dust は、Body の意に解するのが自然ではないか?ただ、Pink Body と解することは容易であるが、その場合 Body stranger だという事になる。
そうすると、
"But nature relishes the Pinks" (P-
1641参照/編者 )
"Of a despatch of Pink" (P-
1520参照/編者 ) の "Pinks" の意味が限定されてくることになる。

    

 
この "it" を “なにもない心”
"He knew no more that he was poor, Nor that his frame was Dust-" (P-1587)
と解するならば、"fastened" Lips "Bride"と解することはできよう。
それに "word" を置くとは、
Bride circumference を与えること。
Sheen Disk を与えることに相当すると云えないか?
(P-1393)を比較検討しては如何?

Lay this Laurel on the One
Too intrinsic for Renown-       
 (≒fastened Lips)

 
Laurel とは、脱落身心(Body)でるかもしれないが、
月桂冠という連想から考えると"Circumference"
あるいは"Disk"と解する方が自然のように思われる。



  18ページ
      E.D.における三位一体は、
Spirit (=Circumference-An Ignorance, not of Customs) ・ 6-10 の 8ページ 注欄 (L-268) 参照  
によって父と子が相即するわけであるが、
その関係(構造)は、非思量が無我の我であって、無我と我の相即であることと同じである。

(L- 記載なし/950編者)で、E.D.は、「バイブルはCentre を説き、私は、Circumferenceを説く」と述べているのである。上記の構造において」Centre とはキリストであり、Circumference とはSpirit である。

             


Centre Circumference をもつということは、outer sky から独立して主体性を自覚することである。
海中の一滴が、A Dew たる自己を自覚するということである。

            ×

Frost, Snow, Dew : 水の三様である。
         Water.
P-782
There is an arid Pleasure-
As different from Joy-
As Frost is different from Dew
Like element--are they

‥‥
‥‥


 
 


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    Brother of Ingots-Ah Peru-
Empty the Hearts that purchased you- (P-1366)



"you"purchase した the Hearts emptyである。
ということは、"you" だけが在るということである。
"you" だけがある」とい意識の状態を、purchase するものと、purchase されるものに分けて考えようとするとき、"you" だけしか無いという意識が、明確であり、それを正確に叙述しようとするならば、(purchase するものと、されるものという観念を既に立ててしまったとすれば、それを立てた上で、)それを purchase しているものは、“無い” とするしかないわけである。それが "Empty the Hearts" という表現の意味である。
要するに “一方を証するときは一方はくらし“ なのである。その “一方はくらし “が 〝Empty the Hearts" ということなのである。

“一方を証するときは一方はくらし“ が“理佛” の立場であるだけでなく、“事佛” の立場でも云えるわけである。

I am that I am- 無相は即今の相として在る。
真言の自己― 〝Impregnable to inquest
           However neighborly"
             
(P-1663参照/編者)
          これは“道得”である。

*1 不思量底の思量 :
なにもないものを意識してしようとすること。
非思量-これが自己を把握しているところである。
    そして、人は、非思量に生きている。
    それ故、“われ在り” と云える。

E.D.は”現成公案底“である。しかし、道得が明確でないというところは云えるかもしれない。 とは云え、明滅するあかりなどというところではない。

     


  20ページ
 
「しかあるごとく、人もし佛道を修証するに、得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。
これにところあり、みち通達せるによって、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、佛法の究尽と同生し、同参するゆえにしかあるなり。 得処かならず自己の知見となりて慮知にしられむずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かなずしも現成にあらず、見性これ何必なり。」- (現成公按/正法眼蔵 p.38

“みち通達せるによりて- 得道とは “無上道” を得ることである。その ”道“ しらるるきはにあらざる”ゆえに、“無上道” と呼び得るわけである。“しらるるきはのしるからざること ”即ちその “道” が無限に深い道であるということがありがたいことなのである。“遇一行、修一行” - “佛道無上誓願成” に “佛法のために佛法を修ずとき、この修の背后(まま)に法楽がある。というより、“修” それ自体が “法楽” となることが望ましいわけであろう。
“このしることの、佛法の究尽と同生し、同参” であるが、しかも “しらるるきはのしるからざる” 道 -向上の一路- が、在るということ、そのような “道” が万人に開かれており、人がその道をえることができるということは、人間にとって素晴らしいことである。



 佛道とは深遠である。“*2 年代深遠“ という禅語の言葉通りどこまで深いのかわからない。
わかっている深さは現成底の深さまでに過ぎない。

      *3 (谿深杓柄長)

これを “末期の一句” と云ってよいであろう。
又云わく : “*4 遠山無限碧層々”


(P-1526
His oriental heresies
Exhilarate the Bee,
And filling all the Earth and Air
With gay apostasy

Fatigued at last, a Clover plain
Allures his jaded eye
That lowly Breast where Butterflies
Have felt it meet to die —

P-1526version については未詳。
attar バラ香油
Immortality 不滅の生 不死性
stem

(P-1641 
Betrothed to Righteousness might be
An Ecstasy discreet
But Nature relishes the Pinks
Which she was taught to eat —

relishes the Pinks 石竹(なでしこ)を味わう

(P-1666)
I see thee clearer for the Grave
That took thy face between
No Mirror could illumine thee
Like that impassive stone —

I know thee better for the Act
That made thee first unknown
The stature of the empty nest
Attests the Bird that's gone.


(P-782)
There is an arid Pleasure —
As different from Joy —
As Frost is different from Dew —
Like element — are they —

Yet one — rejoices Flowers —
And one — the Flowers abhor —
The finest Honey — curdled —
Is worthless — to the Bee —

(P-1587)
He ate and drank the precious Words —
His Spirit grew robust —
He knew no more that he was poor,
Nor that his frame was Dust —


He danced along the dingy Days
And this Bequest of Wings
Was but a Book — What Liberty
A loosened spirit brings



(P-1393)
Lay this Laurel on the One
Too intrinsic for Renown —

Laurel — veil your deathless tree —
Him you chasten, that is He!

Centre=Center

(L-950)
‥‥All grows strangely emphatic, and I think if I should see you again, I sh'd begin every sentence with "I say unto you -"
The Bible dealt with the Centre, not with the Circumference -

Mrs. Holland  1884.


(P-1520)
The stem of a departed Flower
Has still a silent rank.
The Bearer from an Emerald Court
Of a Despatch of Pink.


(P-1627)
The pedigree of honey
Does not concern the bee ;

A clover, any time, to him
Is aristocracy.



(P-1366 A、B、C) 
Brother of Ingots -- Ah Peru --
Empty the Hearts that purchased you --

--
Sister of Ophir --
Ah, Peru --
Subtle the Sum
That purchase you --
--
Brother of Ophir
Bright Adieu,
Honor, the shortest route
To you.


(P-1663)
His mind of man, a secret makes
I meet him with a start
He carries a circumference
In which I have no part —

Or even if I deem I do
He otherwise may know
Impregnable to inquest
However neighborly —



*1 不思量底の思量 『正法眼蔵』「坐禅箴」巻。
『「薬山弘道大師坐する次で、僧有って問う「兀兀地(ごつごつち/座禅中の意)、什麼(なに)をか思量せん」。師云く「箇の不思量底を思量す」。僧曰く「不思量底、如何が思量せん」。師云く「非思量」。』 ‥‥大師いはく、非思量。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちいるなり。非思量にたれあり、たれ、我を保任す。

(P-1676)
Of Yellow was the outer Sky
In Yellower Yellow hewn
Till Saffron in Vermilion slid
Whose seam could not be shewn



*2 年代深遠
『臨済録』 行録
師(臨済)、栽松の次(つい)で黄檗問う、「深山裏に許多(そこばく)を栽ゑて作什麼(そしも)。師云く、「一には山門の与(ため)に境致を作し、二には後人のために標榜を作す」。道(い)ひ了って钁(こう)頭を将(もっ)て地を打つこと三下す。黄檗云く、「然も是の如くなりと雖も、子(なんじ)已に吾が三十棒を喫し了れり」。師、また钁頭を将て地を打つこと三下、虚々声を作(な)す。黄檗云く、「吾宗致汝、大興於世」。後に潙山、此の語を挙して仰山に問ふ、「
黄檗当時、祗(ただ)臨在一人に嘱せしか、更に人の在ること有りや」。仰山云く、「有り。祗是年代深遠、不欲挙似和尚」。

*3 谿深杓柄長

『正法眼蔵』道得(どうて)巻
「雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。としつもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり。みづから一柄の木杓をつくりて、溪のほとりにゆきて水をくみてのむ。まことにこれ飮溪のたぐひなるべし。
かくて日往月来するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとき僧きたりて庵主にとふ、いかにあらんかこれ祖師西来意。庵主云、谿深杓柄長< 谿(たに)深くして杓柄(さうひん)長し>。」

*4 遠山無限 碧層々
『碧厳録』 第二十則 龍牙西来無意
「這(こ)の老漢也未だ勦絶(そうぜつ)するを得ず、復(また)一頒(じゆ)を成す。盧(ろ)公に付し了るも、何ぞ憑(よ)らん。坐倚将(ざいもつ)て祖燈を継ぐことを休(や)めよ、対するに堪へたり暮雲(ぼうん)の帰って未だ合せざるに、遠山限り無く、碧層層(へきそうそう)」 

   

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