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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

   





 




 

その墓ゆえにあなたが一層はっきり見える
対面するあなたの顔を奪ったから
どんな鏡もその無感覚な石のようには
あなたを照らし出せはしない-

最初あなたを見失わせたその死業が
あなたをよりよく分からせる
虚ろになった巣のおおきさが
飛び去った鳥を明かしている

エミリー・ディキンスン (1666番)
 

I see thee clearer for the Grave
That took thy face between
No Mirror could illumine thee
Like that impassive stone —

I know thee better for the Act
That made thee first unknown
The stature of the empty nest
Attests the Bird that's gone.


Emily Dickinson (1666)


 
  
   
56.10.20 ~56.10.28


 


 36ページ






circumferenceであろう。→(face/編者)




脱落身心たるBodyと見て  
よいかも










〝An ignorance, not of   → Customs" (L-268 ・ 6-10 の 8ページ 注欄参照)要するに Bird を意識主体であると認めようとしているわけである。〝octave’s run"(P- 記載なし/1003













[P-1666]
I see thee clearer for the Grave
That took
thy face between      
No Mirror could illumine thee
Like that impassive stone —

I know thee better for the Act
That made thee first
unknown   
The stature of the
empty nest
Attests the Bird that's gone.



“なにもない”意識面について、“なにもない” と考えるならば、“なにもない”のではなく、“なにもない”が在るということになる。その意識面を凝視している段階は、“*2 未審佛性在阿那箇頭”の段階である。〝The Bride" が本当にそこにあるのかどうか?" 〝My business is
circumference" と云ってはみても、“両頭俱動・31-35 の33ページ 注欄参照 するので、必ずしもはっきりしないわけである。
その意識面が破れてなにもなくなったとき、両頭もなくなってしまうので、主体性(の意識)が宙ぶらりんになってしまうということが起こる。それは“華於空滅”のところである。“華於空滅”でE.D.が〝Bird″と名づけ、あるいは〝So of /編者 the flower of the Soul
″(P-945) と呼んでいるものは、その意識面であるに違いない。〝the flower of the Soul″ は消える。そしてE.D.がその背后に感知していた God の意志も消滅するわけである。
(〝When it is lost, that Day shall be / The Funeral of God″ (P-945))
     ↑
〝The Day the Heaven died-″ (P-965)
2.〝Bird″ も立ち去る。(〝Conferring with myself / My stranger disappeared /
‥‥/ Superfluous my whole career / Beside this travelling Bird″) (P-1655)


    ↓
(次ページに続く/編者)






 

Circumferenceではなく、“なにもないもない” Physiognomy と見たほうがよいのではないか?     56,10,24

        (加筆した日付/編者)

その場合、〝Grave″ は、〝empty nest″ である。あるいは、〝Circumference″

不可知:なにもないもない
〝unknownにした″ といところは*1   華於空滅のところと考えてよいのではないか?








 Pendulum ( 両頭間を揺れ動いて揺れさだまらないところ。which?
しているところである。)
“那是真底?”














← このとき、両頭ともに消滅したわけ   である。
 


 37ページ
 
 
        


P-965]の〝Denial" は、到彼岸を deny された、という意識であろう。そして、そこには虚無的な感情が表明されている。
しかし、同じ“華於空滅”という出来事の結果が、[P-1003]では次のように叙述されている。〝‥‥/ Quick! Burst the Windows! / Ritardando! / Phials left and the Sun! " (P-1003)
Ritardando! とされているので、の状況は遅れて徐々に生ずるということかもしれないが
Phialsとは恐らく脱落身心-あるいはCircumference-であり、the Sun とはphialsか〝 the Bird that’s gone″ を証明するもの-Alibi-として解釈してのことであろう。(P-1003) は、推定年代(c. 1865)では、(P-1039) と同年の作品ということになるが、Phials left and the Sunの時点では既に 〝‥‥ a Might detected me / And set my kernel in." し、〝And Spirit turned unto the Dust" したのであるか?
E.D.は、“空華をみてのちに、華於空滅”をみた。ひとたび空華やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり。空花みえざらむときは、なににてあるべきぞ。たゞ空花は所捨となるべしとのみしりて、空花ののちの大事をしらず空花の種熟脱をしらず。(正法眼蔵 空華巻/編者)
          
“空花の種”とは、*3 箇裏に帰した“全月”、草の露に咲いた“全月”のことではないか?そして空果とは脱落身心ではないか?(空花かならず空果をむすぶ、空種をくだすなり。)
“*4 眼空の花果”とは、身心脱落と脱落身心の相即(身心一如)のことではないか?あるいは“妙有”であるか?地華(正法眼蔵 空華巻参照/編者)とは、妙有あるいは箇裏に帰した空華ということかもしれない。

            
E.D.の場合、華於空滅という出来事によって、“なにもない”のところを、“なにもないもない”の状況を知ったから(それとのコントラストとして)“なにもない”のところの実有性を、より強く信じるという方向に進んだようである。
E.D.は、「Godunknown であることは、あいがない」という意味の発言しているのと同時に、自分を無信仰者とも呼んでいる。しかも、Spirit を実在的に取り扱っているわけである。


 








 




  





















 ディキンスンの場合も、空花ののちの大事が問題なわけである。“空花をどう扱うか?ということが問題なのである。



 (帰来のわれ)


 (帰来のわれ)

 


 38ページ                                                56,10,23
 
 
 
























〝the Bellows″が〝Bell″の意も暗示していると解し、Brainを、そう呼んでいるものと考えると- 本来人は、Brain それ自体の存在を直接知覚しているわけではなくて、その存在の認識は、観念的なものである。Brain とは、その“はたらき”において〝Brain″であるが、物質的な Brain はそのまま“はたらき”ではない。Brain という存在それ自体の認知は、Brain の“はたらき”の中にある。ここに“はたらきとしてのBrain” と物質的存在としての Brain という問題が生ずる。“はたらきとしての脳”とはなにか?という問いは、“本来の面目”(真実の自己)とはなにか?と問うことに似ている。
Simulate:P-241 P-272 P-443 P-1002

       → 次








































E.D.の〝Lover″Brain であるか?

Feet とは、二本の足即ち二元性あるいは二元的思考
〝No Hand hath he″(P-1379)
〝The House not made with Hands ″ it was-(P-1360)










[P-272] c.1861
I breathed enough to take the Trick —
And now, removed from Air —
I simulate the Breath, so well —  
That One, to be quite sure —

The Lungs are stirless — must descend
Among the Cunning Cells —
And touch the Pantomime — Himself,
How numb, the
Bellows feels!    
     ↑      ↑
sugg.ch Bell (cool) Brain













Brain
Body
*5 演若狂奔(アタマが無い‥‥)

*6 Bread
affection
 (L-記載なし/番号未詳
affection-paint するまで、その存在に気づかない Bread のようなもの。
        
静慮によって見えてくるもの不思量底の思量 (悟りの面)

Bride of Awe Circumference をもつ」 ということが「Bread を paintすること」 に相当すると云える筈である。





“そうやっているから-そうやる”
のところではないか?
Breth Bless に通ずるかも-?
要するに、神が自己を通じて働いて
いる、と感じているところであろう。
神の意志が自己を通じてはたらいている
-そのことが Bless なのである。
         ↑
        Breath


 
 


  39ページ
 
 


















































     Seen of Angels →


    electric absence →

 


When a Lover is a Begger″ (P- 記載なし/1331編者)-外に向かって求めている(*7 莫向外覓)
〝Of yellow was the other Sky / In yellower yellow hewd″-外は内に在った

〝chopped the Air″P- 記載なし未詳c.1861 ( この年代は1862ではないか?)
removed from Air″ (P- 記載なし未詳)c.1861
( 亦如翳人、見空中華、翳病若除、華於空滅)
これは、“華於空滅”のところと想像することができるが。すると作品の製作(まま)年代に開きがあるが。
“That last Day that I was a life / I recollect it - as well-”) (P-902c.1864
P-902)では〝I recollect it″ と述べていることから、両者を同じ時点の体験と見做してよいであろう。
E.D.の記述を解読するにあたって、注意しなければならないことは、ある〝Experience″ の意義について E.D.が、時間をへだててくり返し、解釈し直しているということである。そのことによって、自分の内的変遷を整理し、認識の変革の過程に論理を与えようと努めているわけである。

物質的存在としての Brain は消滅し崩壊する。“はたらきとしての Brain は消滅することも崩壊することもできない。それは、はじめからそれ自体としては、“なにもないもの”である。どこにもないものである。とすれば“不生不滅”である。前者を“自己”とするか、後者を“自己”とするか?エミリ(まま)ディキンスンの作品は、彼女の“はたらきとしての脳”の相である。それは、織り出された蜘蛛の網のようにひとつの宇宙を織りなし、今なお存在し続けている。蜘蛛の巣が蜘蛛のHouseであるように、その作品の宇宙は、〝The House not made with Hands″として、今なお厳然として存在し続けている。E.D.のいわゆる〝Expanse″Expanse can not be lost (P- 記載なし/1584 ) とはその House の謂いであるかもしれない。E.D.の“はたらきとしての脳”たるSoul-自己-とは、そこに生き続けているのである。E.D.のFleshが消滅したとき、〝Ward″がE.D.の Soul である。Ward Soul Flesh である。
                                 → 次(ページに続く)

“一度死んだ”(華於空滅体験)
一度目は、その体験によって“なにもないもの”を意識化して
それに執し、
二度目は、“なにもないもの”を知る。


 
 




 
 


 40ページ
 
     


E.D.はGod を否定している。しかし、(P-1576)の記述から判断しても Spirit の存在を実体現していると云えるのではないか?しかし、E.D.自身、そのことを〝philology″ の問題-考え方(人間観、宇宙観)の問題-であると認識していたと考えたい。
要するにE.D.はE.D.の考え方-人間の認識の世界の問題-について“絶対”を主張したわけではないであろう。E.D.は、人間の状況を〝‥‥Reality itself is a dream (PF-2)″ として認識し、その認識の上に立って、“夢もまた真実”である実在的真実に生きるのが人間存在というものであると考え、そこに徹底して生きた、とみてよいのではないか?
Emerging from an Abyss, and re-entering it again - that is Life, is it not?″
(PF-32, L-1024)
これは、〝Reality itself is a dream″ であるごとき人間の状況ということではないか?
とすれば、もしE.D.の記述が 〝Spirit″ を実体視している如き記述であるとしても、そのことを常識レベルで批判しても、あたらないわけである。
Spiritを実体視するが如きは、迷妄である」と批判されても、E.D.はただ笑っているであろう。そして、又、他人に対して、Spirit の存在を、人間の“実在的真実”の世界の事柄であることを、熟知していたわけである。
そして、“実在的真実”に徹して生きる生き方と、“実在的真実”に生きつつ、そのことを明確に認識することなしに、“実在的真実”と“客観的真実”の間で-客観的真実に振り回わされつつ-あいまいに生きる生き方にどちらが better であるかを自ら検証し、そのことを記述しているのである。




 













人間の“生死”という問題、あるいは“死後”の問題をどのように考えるか。その認識の重要性について、E.D.は述べているのである。その問題に関する自分の考え方の誤りのなさを自ら実証して生きたのである。人間の人間観・宇宙観が、現在の“実感”-世界の見え方-を規定している、ということをE.D.は熟知しているのである。

 

  


Physiognomy
 観相学
P-1138)参照
‥‥
Of Immortality
His Strategy
Was Physiognomy.

不死性についての彼の戦略は観相学だった。

*1 華於空滅
(けおくうめつ)
『正法眼蔵』 空華巻
釈迦牟尼仏言( のたま) わく、
「亦如翳人( にゃくにょえいにん)、見空中華、翳病若除 (えいびょうやくじょ )、
華於空滅
『また翳人の空中の華を見るが如し、翳病若し除 (のぞ)こほれば、華( はな )空に滅す。』
 この道著 ( どうじゃ)、あきらむる学者いまだあらず。空をしらざるがゆゑに空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。翳人と相見( しょうけん ) して、空華をもしり、空華をみるべし。空華をみてのちに、華於空滅をもみるべきなり。ひとたび空華やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり。

*2 未審(みしん)、仏性在阿那箇頭(ぶっしょうざいおなことう)
“両頭俱動”・31-35 の 33ページ 注欄参照 

(P-1003)
Dying at my music!
Bubble! Bubble!
Hold me till the
Octave's run!
Quick! Burst the Windows!
Ritardando!
Phials left, and the Sun!



(P-945)
This is a Blossom of the Brain —
A small — italic Seed
Lodged by Design or Happening
The Spirit fructified —

Shy as the Wind of his Chambers
Swift as a Freshet's Tongue
So of
the Flower of the Soul
Its process is unknown.

When it is found, a few rejoice
The Wise convey it Home
Carefully cherishing the spot
If other Flower become.

When it is lost, that Day shall be
The Funeral of God,

Upon his Breast, a closing Soul
The Flower of our Lord.


(P-1655)
Conferring with myself
My stranger disappeared

Though first upon a berry fat
Miraculously fared
How paltry looked my cares
My practise how absurd
Superfluous my whole career
Beside this travelling Bird



(P-965)
Denial
— is the only fact
Perceived by the Denied —
Whose Will — a numb significance —
The Day the Heaven died —

And all the Earth strove common round —
Without Delight, or Beam —
What Comfort was it Wisdom — was —
The spoiler of Our Home?



(P-1039)
‥‥
I dwelt, as if Myself, were out,
My Body but within
Until
a Might detected me
And set my kernel in.

And Spirit turned unto the Dust
"Old Friend, thou knowest me,"
And Time went out to tell the News
And met Eternity.


*3 箇裏に帰した“全月”

『正法眼蔵』 現成公案巻
‥‥人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすゝむをしるがごとく、身心を乱想して万法を辦肯(はんけん)するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして
箇裏(こり)に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。‥‥
人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、
全月も弥天(みてん)も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

*4 眼空の花果
『正法眼蔵』 空華巻
いま、帰宗道の「一翳在眼 (いちえいざいげん)、空花乱墜 (くうげらんついす) (一翳眼に在れば、空花乱墜す。)は保任仏の道取なり。しかあればしるべし、翳花の乱墜は諸仏の現成なり、眼空の花果は諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ、眼中に花果を現成し、空花中に眼を現成せしむ。

*5 演若狂奔
『従容録』
第五十八則 剛経軽賤
頌に云く、綴綴たり功と過と、膠膠たり因と果と。鏡外狂奔す演若多、杖頭撃著す破竈堕。竈堕破す。却って道ふ従前我に辜負すと。
『首楞厳経』 四にある話。
演若達多が鏡に映る自分の美貌を楽しんでいたが、或る日じかに顔を見ようと思ったが見えないので、鏡中の像は悪魔の仕業であると早合点し、怖れて町中を走りまわったという。自己を失った愚かさの喩え話。

*6  Bread affection
書簡番号未詳
Affection is like bread,unnoticed till we starve,and then we dream of it ,and sing of it,and paint it.


(P-1331)
When a Lover is a Beggar

Abject is his Knee —
When a Lover is an Owner
Different is he —
‥‥



*7 莫向外覓
『臨済録』 示衆八
「師,衆に示して云く、如今(いま)の学道の人は、且(しばら)く自ら信ぜんことを要す。外に向って覓すること莫かれ総べて他の閑塵境(かんじんきょう)に上(のぼ)って、都(す)べて邪正を弁ぜず。祇(た)だ祖有り仏有るが如きは、皆な是れ教迹(きょうしゃく)中の事なり。」
覓(べき)さがしもとめるの意


(P-1676)
Of Yellow was the outer Sky
In Yellower Yellow hewn

Till Saffron in Vermilion slid
Whose seam could not be shewn.



(P-902)
The first Day that I was a Life
I recollect it — How still —
That last Day that I was a Life
I recollect it — as well —


'Twas stiller — though the first
Was still —
"Twas empty — but the first
Was full —

This — was my finallest Occasion —
But then
My tenderer Experiment
Toward Men —

"Which choose I"?
That — I cannot say —
"Which choose They"?
Question Memory!



(P-1584)
Expanse cannot be lost
Not Joy, but a Decree
Is Deity —
His Scene, Infinity —
Whose rumor's Gate was shut so tight
Before my Beam was sown,
Not even a Prognostic's push
Could make a Dent thereon —

The World that thou hast opened
Shuts for thee,
But not alone,
We all have followed thee —
Escape more slowly
To thy Tracts of Sheen —
The Tent is listening,
But the Troops ar



(L-1024)
The World hath not known her, but I have known her, was the sweet Boast of Jesus -
The small Heart cannot break - The Ecstasy of it's penalty solaces the large -
Emerging from an Abyss, and re-entering it - that is Life, is it not, Dear?
The tie between us is very fine, but a Hair never dissolves.


(Susan Gilbert Dickinson,1885)

Emerging from an Abyss
深い淵から脱する。

(PF-32)
Emerging from an Abyss and entering it again - that is Life, is it not?

 
PFは、Prose Fragment (散文断章)の頭文字

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