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  Sato Keijiro and Emily Dickinson


Sato Keijiro and Emily Dickinson

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                   佐藤慶次郎とエミリー・ディキンスン  Sato Keijiro and Emily Dickinson 

   


 

発見が第一幕
第二幕は 喪失
三幕 失われた「金羊毛」を
探しに出発

四幕 何の発見もなく-
五幕は 乗組員もいなくなった-
終幕 金羊毛なんかなく-
イアソン-彼もまた-いかさま師だった


エミリー・ディキンスン (870番)
 

Finding is the first Act
The second, loss,
Third, Expedition for
The "Golden Fleece"

Fourth, no Discovery —
Fifth, no Crew —
Finally, no Golden Fleece —
Jason — sham — too.


Emily Dickinson (870)
 
 
  
   
56.10.20 ~56.10.28


 
 


 41ページ












imp!
◎この身心脱落を “われ”として受けとることにより、“*1 われふねにのりてこのふねをもふねならしむ”というように Body に対して主体性をとることができるわけである。  
 ↑
(われさおをさし、われかじをとる)

そして、次いで一如して
(まま)しまえば(ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし)、そして真の主体性をもった Body が現成するのである。
要するに、Body が Body それ自身のかじをとる、ということである。自己が自己のかじをとって生きる。それが、人間が主体的に生きるということである。それが、主体的な人間である。(主体的な人間の確立)
〝The body is the soul
Instructing by the same″ (P-
記載なし/1431 編者/ ・26 - 3027 ページ参照
という叙述を、Body が Body それ自身に対して主体的である、ということの表明であると解したい。それはまさに“身心一如”の表明である。
こうしてみると
E.D.の畢竟帰処は、“身心一如”であり、それは“主体的な人間の確立”ということである。彼女の遍歴は、そこに到る修証のプロセスであると解することができる。それは、“生きているありのままの自分が“生きているありのままの自分”におさまったということである。ただそれだけのことである。それが“演若狂奔”-(アタマが無い)-の結末-(有った!)-である。

Emigrant : Body Brain, しかも Brain の本質は“はたらき”にある。物生的な Brain は Nest である。“はたらきとしての脳”を自己として受けとることが身心脱落である。    ↑
                  “われ”
脱落身心はその〝Abode″である。“ふね”である。


(P-1587)
He ate and drank the precious Words-″
  ↑
E.D.はBody を自己としたのではなく、〝Brain″を自己とした、のかもしれないと考えれば、Brain の食べ物は、〝Words″ なのである。

しかし、この問題は微妙である。単に Body を疎外するのでなく。“身心一如”の状態にあって、しかも、身心脱落を自己とする、ということである。      ↑
      名不得、壮不得
(未詳/編者)
通常“固まり”(結局、Body ということになるが)を自己としてしまうわけである。〝Frame" とは物生的存在たる Body あるいはBrain の意味ではないか?




 






















Utmost is relative / Have not or have / Adjacent sums / Enough – the first Abode″ (P-1291/編者)
「旅の目的は出発点にもどることである。」(*2 秋月、十牛図)
 
 

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imp !

今、仮に人間存在を脳で代表させるとすると、物質的存在たる脳を“自己”と呼ぶこともできるし(Mortal)、はたらきとしての脳を“自己”と呼ぶこともできる(Immortal)。
前者を自己と認識すれば、人間存在とはmortalでつまらないものということになる。(無常観、囗囗囗三字不明 虚無)後者を実体視することは幻想である。
それではどうするか? Which?
                  


Disk たる Body - 脱落身心
Sheen   -     身心脱落


身心脱落 - Circumference - 脱落身心

“相即”とはCircumference の意識において、身心は相即しているのである。
この Circumference の意識が、“このみち、このところ”である。・6-10 の 8ページ 注欄参照 L-128  
そのところを〝An Ignorance, not of Customs と表現することもできる。

 








 
Cf:(P-1061)
 〝Which be out of Sight″
(P-1315)
〝Which is the best″
-the Moon or the Crescent?″

〝That is best which is not ″
E.D.は、Body を除外して
この
        
(〝neglecting meの〝meBodyであるかもしれない。)

Whichを考えているということに注意して、Whichとは何と何を指しているか明確にする事!




 
 

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Fame″とは“翳”の謂であるかもしれない。
“なにもないもの”の翳(幻想)
〝No Hand hath he″  
“*3 大悲ボサツ許多手眼作麼”
大悲ボサツは、許多手眼を用いるのである。
そこのところを〝No Hand hath he″と云えないか?・21-25 の 21ページ 注欄 P-1379 参照
“われふねにのりて‥‥” の “われ”は、〝No Hand″である。

He rises on a Log″ - “われふねにのりて‥‥”
“われ”として把握しているところを〝Fame″と呼んでいるかもしれない。
      (意識) 
      (覚知) 屋裏主人公は〝Unknown″である。
Fame″とは、“帰来のわれ”即ち、無我と我がひとつになったところではないか?そして、〝Frog″とは〝Frame″の別名である。それは、*4 しきりに 小玉を呼ぶ“声”-Voice-である。主人公は屋裏にいる。
           ↑
      In Waters Green

人が自分を“われ”と呼ぶとき、それは“ 小を呼ぶ声”である。“われ”という観念が、屋裏主人公の存在を示しているわけである。“翳人”と呼ぶときの“翳”とは、真実の自己の翳即ち、“自己”の観念、乃至意識かもしれない。
                     ↑
           (*5 不名本寂のところ)


アタマ脱落-脱落アタマ
Face脱落 -脱落Face
Brain脱落 -脱落Brain
  ↑
I dropped the Brain.
“アタマが無い”(演若狂奔)
断頭台
Fallen Head

生物的反存在たる自分、その中に脳が含まれている。
“生物的反存在”という認識は、その脳のはたらきの内容である。
とすれば、“はたらきとしての脳”がその認識に先行しているわけである。













 
 
 

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人間が自分を生物学的な存在であるというとき、それは人間が、或る実物を、そのように規定した、というだけのことなのである。実物そのものは、観念的存在ではないのである。その規定が妥当だと云えるのは、その規定を妥当であるとする、ある論理の枠組の中においてである。さて、“生物”という観念は、“無生物”という観念と相互規定的な観念であるが、その前提には“生きている”という概念の規定がある。
“生きている”即ち“生”とは“死んでいる”即ち“死”の相対概念であり、相互規定的であり、一方が存在しなければ他方も存在しない。この二元性-分別-は観念の世界の本質である。

“生物学的な存在”という観念はどこに生ずるか?それは脳のはたらきの中に生ずる。
“生物学的な存在”として規定された人間は、脳のはたらきの中の存在であって、実物それ自体ではない。
“物質的な存在としての脳”とは、ひとつの観念であるが、それに相対する観念的存在は“はたらきとしての脳”である。前者は後者の中に存在するのであって、後者がなければ前者もないのである。それらは同時に存在している。一方が存在すると云えるときには、他方も存在しているわけである。それは観念上の出来事であるが、観念上で取り扱わないときに、そこに存在する脳を、“物質的な存在”あるいは、生物学的な、それ故 mortal な存在と呼ぶわけにはいかないのである。それは存在、非存在という観念をはずしても、なお存在する 〝Something″ である。“なお存在する”という表現は、必ずしも妥当ではないわけである。それではそれを何と呼ぶか?
*6 “妙有”、“如是”、“恁麼”‥‥ ある人達は、それをそう呼んだのである。





 
 




 
 
 

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ディキンスンの言葉-詩と手紙の-から、直接に僕が「それが、彼女の“実在的真実”である」として了解した事柄をどんな論理によって、他に納得せしめるか?ということが、ぼくの仕事である。当時、彼女の周囲にいた人々の発言は、参考にすべきかもしれない。しかし、周囲の人々の発言は、周囲の人々の発言でしかない。そして、周囲の人々の発言は、必ずしもあてにならないのである。
要するに、あてになるとかならないとかを超えて、今、ここにぼくの眼の前に厳然たる存在として在るのは、ディキンスンの残した〝Words″である。

           ×

Spirit の存在″ということについても、E.D.は自分の“信”を、客観的世界における絶対的真実として主張したわけではない筈である。
Utmost is relative″ (P- 記載なし1291/編者)とE.D.は伝う。
E.D.は人間において、各人の世界観、生死観が、各人のリアリティ-世界の見え方-を決定すると知ったレベルで自分の人間観、世界観、生死観を述べたのである。

“佛と衆生はきりはなせない”(岡田先生)
「もっと intangible なものが、adhesive であるとは奇妙なことである」
〝It is strange that the most intangible thing is the most adhesive″.)
E.D.(L-515)
人間は神からはなれられない。神は人間から切りはなせない。しかし、“一方を証するときは一方はくらし”である。

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*1 われふねにのりてこのふねをもふねならしむ
『正法眼蔵』 全機巻
「生といふは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかい、われかぢをとれり。われさををさすといえども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正当恁麼時を功夫参学すべし。」




(P-1291)
Until the Desert knows
That Water grows
His Sands suffice
But let him once suspect
That Caspian Fact
Sahara dies

Utmost is relative —
Have not or Have
Adjacent sums
Enough — the first Abode

On the familiar Road
Galloped in Dreams —



*2 秋月、十牛図
秋月龍珉(1921-1999)
禅学者、倫理学者、埼玉医科大学名誉教授。在俗の修行者として禅の修行を終え、50歳を過ぎて妙心寺派僧籍に入る。その
著書「公案」から十牛図の章を指す。

(P-1431)
With Pinions of Disdain
The soul can farther fly
Than any feather specified
in Ornithology —
It wafts this sordid Flesh
Beyond its dull — control
And during its electric gale —
The body is a soul —
instructing by the same —
How little work it be —
To put off filaments like this
for immortality



P-1587)
He ate and drank the precious Words —

His Spirit grew robust —
He knew no more that he was poor,
Nor that his frame was Dust —

He danced along the dingy Days
And this Bequest of Wings
Was but a Book — What Liberty
A loosened spirit brings —


(P-1061)
Three Weeks passed since I had seen Her —
Some Disease had vext
'Twas with Text and Village Singing
I beheld Her next

And a Company — our pleasure
To discourse alone —
Gracious now to me as any —
Gracious unto none —

Borne without dissent of Either
To the Parish night —
Of the Separated Parties
Which be out of sight?

 
(P-1315)
Which is the best — the Moon or the Crescent?

Neither — said the Moon —
That is best which is not — Achieve it —
You efface the
Sheen.

Not of detention is Fruition —
Shudder to attain.
Transport's decomposition follows —
He is Prism born.


*3 大悲ボサツ、用許多手眼作麼

『正法眼蔵』 観音巻
雲巖無住大師、道吾山修一大師に問ふ、大悲菩薩、許多の手眼を用ゐて作麼大悲菩薩、用許多手眼作麼)。
道悟曰く、人の夜間に手を背にして枕子を摸するが如し。
雲巌曰く、我會(うい)せり、我會せり。
道悟曰く、汝作麼生か會せる。
雲巌曰く、遍身是手眼。
道悟曰く、道(い)ふことは太殺(はなはだ)道へり、ただ道得すること八九成なり。
雲巌曰く、某甲(それがし)はただ此の如し、師兄作麼生(すひんそもさん)。
道悟曰く、通身是手眼。

(P-1379)
His Mansion in the Pool
The Frog forsakes —
He rises on a Log
And statements makes —
His Auditors two Worlds
Deducting me —
The Orator of April
Is hoarse Today —
His Mittens at his Feet
No Hand hath he —

His eloquence a Bubble
As Fame should be —
Applaud him to discover
To your chagrin
Demosthenes has vanished
In Waters Green —



*
4 小玉を呼ぶ声
『圜悟仏果禅師語録』巻12
「山僧頃日問五祖和尚、『二祖云、覓心了不可得、畢竟如何』。他道、汝須自参始得這些好処。別人為汝著力不得。参来参去。忽因挙
頻呼小玉元無 事、只要檀郎 認得声(頻りに小玉と呼ぶも元より事無し、只だ壇郎の声を認得せんと要す、忽然桶底脱。」
宋代の圜悟克勤(1063~1135)が、師匠の五祖法演(?~1104)の下で悟りを得る契機となった詩。

*5 不名本寂
『正法眼蔵』 仏向上事巻
曹山本寂禪師、高祖洞山に參ず。山問ふ、闍梨名は什麼ぞ。
曹山云、本寂。
高祖云、向上更道(向上更に道ふべし)。
曹山云、不道(道(い)はじ)。
高祖云、爲甚麼不道(甚麼(なに)と爲(し)てか道はざる)。
師云、
不名本寂(本寂と名づけず)。
高祖然之(高祖之を然とす)。
いはく、向上に道なきにあらず、これ不道なり。爲甚麼不道、いはゆる不名本寂なり。しかあれば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。このゆゑに、本寂不名なり。しかあれば、非本寂あり、脱落の不名あり、脱落の本寂あり。




*6 “妙有”、“如是”、“恁麼”
妙有
一切現象は、思量、言語を超絶し、空不可得であることを真空と言い、その実相の側面、実在の真如を真空<妙有>と言う。


如是
そのとうりであること。「如是我聞」というように、諸経の冒頭に冠せられる語であるが、恁麼と同じく仏教の本質を意味するものとして使用されるようになる。

恁麼(いんも)
宋朝の俗語で如是と同じ意味。
「そのような」、「このように」の意味がある。『正法眼蔵』には恁麼の巻があり、『いわゆるは、「恁麼事をえんとおもふは、すべからくこれ恁麼人なるべし。すでにこれ恁麼人なり、なんぞ恁麼事をうれへん」。この宗旨は、直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼という。』とある。







(P-1291)
Until the Desert knows
That Water grows
His Sands suffice
But let him once suspect
That Caspian Fact
Sahara dies

Utmost is relative —
Have not or Have
Adjacent sums
Enough — the first Abode
On the familiar Road
Galloped in Dreams —











(L-515)

‥‥I went to the Room as soon as you left, to confirm your presence - recalling the Psalmist's sonnet to God, beginning

I have no Life but this -
To lead it here -
Nor any Death - but lest
Dispelled from there -
Nor tie to Earths to come,
Nor Action new
Except through this Extent
The love of you.
It is strange that the most intangible thing is the most adhesive.

( Samuel Bowles about 1877) 

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