バーバラ・スタフォード『グッド・ルッキング』違うという時代の同じ 

 

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この二つの画像、当然別物であって同じではない。しかし、よく似ている。右のマン・レイの写真(20世紀)は広く知られているから、左のトーマス・ベイトマンの「皮膚病の描写」(19世紀)を見てマン・レイの作品を思い出す人の方が圧倒的に多いだろう。が、今回は、違いと反復の微妙な問題を考えるのではなくて、雑多なイメージ群の中で人が同じをみつけ、みたいに思い至ることの重要性を考える。

10年近く前からバーバラ・スタフォードを読んでいる。英文学者の高山宏さんが高く評価している美術史家である。何故興味深いかというと、表層を滑走しながら氾濫する情報群の中で共感的に結びあう情報が存在するのは、いったいどのようにしてなのか、そもそも何故なのかを考えようとしているからである。

最近(2013年)、東京ミッドタウンホールでMITのメディアラボと朝日新聞によるシンポジウム「メディアが未来にできること」が開かれた。坂根厳夫さんがFACEBOOKに投稿してくださっていたのを見たのだが(FACEBOOKをし始めた恩恵です)、情報社会のなかでTWITTERやネット上の小さなコミュニケーションから人々が立ち上がって社会に働きかける多様な事象が報告されていた。こういうところでは、マスコミの情報はほとんど問題にされてない。マスコミの存続が危ぶまれる所以である。でも、思うのだが抹消神経だけが異様に増殖する体はいったいどうなるのだろうか。太い神経は、かつては、マスコミがその役割を担っていたのだろうが、今はあやしい。勿論ピュリッツァ-賞を勝ち得るような報道は新聞社のようなマスコミの専門なのだろう、でも、専門に特化するのではいよいよ先行き心配である。不一致だらけのそれぞれの生活の場、コミュニティー、仕事場、地域社会の情報を私たちの周囲に集めて合唱団を作り、誰にも自分の独唱部があるようにするにはどうするか?課題満載という感じだった。         

電子テクノロジーが古いやり方を切りはなして、どう新しいやり方で情報を結び付けていくのかを学習することが人類に問われている。結び付けるにはどうするか、スタフォードの意見を聞いてみよう。彼女は、多様性と差異を尊ぶポストモダン以降の知的プログラムの中で類同性は、影の薄いものになったという。同じはどうでもよい時代だったのである。このような風土の中では、イメージなど辺境に追いやられていた。見たことのない状況や場所、人間とに一体感をもたらす想像力のパワーをどこから得たらよいのか? イメージの復権を叫ぶ彼女は、アナロジーの重要性を強調する。人々が知覚対象を微妙に微分化できるのと同時に何かに還元することなくコンパクトな感覚配列に積分できるのは何故なのか、直観の科学とアナロジーを考え併せると通りがよいという。それは必然的に脳の研究に通じていく(この本の帯が派手に宣伝している)。神経学は、私たちがイメージをもとにした世界観を他者と分かちあい、他者は似たようなイメージをつくり、それによって私たちは、他者の生の中に入っていく自分を想像できるようになるというのである。ミラーニューロンを思い浮かべていただければよいと思う。

人文分野の動員も不可欠である。絵画や驚異博物室(ブンダーカンマ―)などを見る人間が、その中の珍品に対峙した時に生じる幻視の相反物の一致は重要であるという。画面の中に異質で対極的なイメージを調和させることなく併存させる岡本太郎の対極主義を思い浮かべていただければよい(パソコンでご覧の方はこちらを参照くださいhttps://uedanobutaka.info/jpemptyvessel.html。ベンヤミンの遊歩者としてのコレクターという概念も、視覚的ガラクタを知に展開する可能性を秘めていて重要である。それは、コレクターの所蔵物にたいする微妙な秩序化(多彩かつ変化し止まぬ混沌に形を与えること)である。 

アナロジーは、古代ギリシアにおいては、ひとつの発見の術であった。それは、類同‐創出力として意味‐生成の高度な知覚と絡み合っていると彼女は強調する。それは、想像力ある洞察であり、なじみのない異物の中に何かなじみあるものを見つける。比較ではなく照応をみるのである。人々がアナロジーをつくる時、二つの異なった構造の或る面同士が同じと感じるか、状況Aを別の状況Bによって知覚しているという。予期せぬ強力な洞察が見かけ上の非対称な関係にもたらされ、つくり出される前には文字どうり存在さえしなかった調和的な照応を発明する。息が止まるほどの洞察は、多の中の一のかくも強烈に集中された心理経験からでるというのである。

彼女は、脳の神経学に注視する一方で、アントニオ・ダマシオの脳における身体的記譜仮説にも注目する。「自己意識は脳のなかでの身体的なマーキングをともなっている」という仮説である。時空間の完璧な表示の下に音響、運動、形態、色彩を経験する時に生じるあらゆる感覚表象を同時に処理できる部位が人の脳にはないのなら脳全体にバラけている情報の共感覚的な一致合流をアナロジーの修辞的機能に似た生物学的機能が引き受けているはずだというのである。生物的な身体もちゃんと考えなさいということなのだろう。感覚作用は、事物の全貌こそ捉えないがアナロジーを頼りに事物のかなりな部分を構成するだろうと推測している。広範な意識の研究が必要である。脳だけがすべてではないと。そして、そっと、こんなことを予言している。かつてストア哲学で重要視された宇宙のより高い道徳を宣する内なる声としての共知は、そっくり意識を巡る俗なる議論に移し替えられている。情報を統合する一貫した意識を考えるなら超カテゴリーのアナロジーが姿を表すだろうと。意味深である。

さて最初の図像にもどろう。差異はあきらかである。同じとみせるのは、頭に布を巻き裸体で背中に模様を持つ女性という構造であろう。構造を考えるには、ふたつの図像とは一つ高い次元に立つ観点が必要である。では、ここにミクロコスモスとマクロコスモスの照応を見ることができるだろうか。左は身体に異常を示す女性の背中、右はヴァイオリンの形態を刻印された女性の背中である。ここに深い意味の創発があるかどうか? 皆さんはどうお思いであろうか。昨今の電子テクノロジーによるコミュニケーションの中でイメージは突然主役に躍り出た。それを上手に編集するにはアナロジーが不可欠である。しかし、表面的な同じは、けっして深い洞察には至らない。同じにも深度の違いがあるのである。