ディディ=ユベルマン 残存するイメージ 

 

ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』

今、トール・ノーレットランダーシュの『ユーザー イリュージョン』を読んでいる。光ファイバーの向こう側で「君はこの本を読んだ方がいいよ。」と囁いてくださっている方がいるような気がするのだ。いよいよ精神があやしくなってきたのかもしれない。これもユーザー イリュージョンだったりして。

今回紹介する本は、図像学の泰斗アビ・ヴァールブルクを扱っている。副題が「アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間」となっている。帯に記されているこんな言葉、狂気の淵、イメージ=時間モデル、名前のない科学、奇跡の歴史症候学、真珠とりとしての歴史家、これだけでもう普通の本じゃないのが分かる。

その人は、ヴァールブルク学派の祖として有名な人だ。その弟子筋には綺羅星のような学者たちが名を連ねる。エルンスト・ゴンブリッチ、 フリッツ・ザクスル、エドガー・ヴィント、エルヴィン・パノフスキー、フランセス・イエイツなどなど。しかし、意外にご本人自身の思想はあまり明らかでない。まとまった著作が残ってないうえに、生涯の締めくくりと云える時期に精神病に陥ったからであろう。ディディ=ユベルマンは、その思想を状況証拠を積み上げて事件の全貌を明らかにしようとする刑事さながらに詳述してゆく。この情熱はすごいかもしれない。

それを、ぼくの興味の範囲内で少しご紹介しようと思う。ヴァールブルクは、審美的な美術史に興味がない。芸術はたんに趣味の問題ではなく、文化の長期持続における渦、「生」の葛藤の問題であった。まず、美よりも重要な問題があるのである。すでにここから通常の美術史から逸脱している。生は当然死とうらはらである。死が死体を残すように、それには残存がつきものなのだが、それは幽霊のようになかば生きているのである。その幽霊は彼を苦しめることになるのであるが、このペシミズムの影響をディディ=ユベルマンは、ニーチェに見る。

ニーチェはこう書いている。「(意志は)苦悩するだけでなく、産出もするものである。意志は、どれほど小刻みにではあれ、たえず仮象を生み出している。‥‥世界の途方もない芸術的能力は、途方もない根源的苦痛に対応している。」彼にとって芸術の母胎は悲劇であった。古代ギリシアの悲劇がなおも我々に影響を与えているように、『悲劇の幼年時代は』我々の中に残存し、この存在はたえず我々を産出し、我々の現在、さらに未来をつくりあげる」という。 悲劇は「再誕生」し、我々の中の「ギリシャ的本質」を残存させると。ニーチェはいう「凄惨な深淵を欠いた美しい表面など存在しない。」ラオコーンの蛇の暴力性、ケンタウロスの「動物的強靭さ」は、「情念定型」というヴァールブルク独自の概念に成っていくのである。しかし、それはニーチェのようにアポロン的(視覚的)なものとディオニュソス的(舞踏的)なものを対比させない。ヴァールブルクにおいては、両者は情念定型の中で一つになるのである。そして、歴史概念もニーチェに負うところがあった。ニーチェにおいては、人間の身体が互いに緊張関係にある力の表現であるように歴史とはそれに関わる諸力の戯れ、その生成の運動である。生と死のような両極性の闘争であった。記述され、死んだ記録としての歴史ではなく、過去がそこで生き、そこに残存するような歴史がある。ニーチェはこの歴史を「芸術的力能」と名づけた。ディディ=ユベルマンは書いている。「芸術はしたがって、ニーチェにとって、歴史学の中心=渦 ― きわめて批評的=危機的場、非知の場になる」と。

どれくらいヴァールブルクにとって危機的だったかは、後半の精神科医ビンスワンガーとの関わりの中で語られるのであるが、今回はそこまでいかない。渦のような「生の葛藤」としての歴史もあるということはいいとして、残存とは、何かという問題が残る。ここでは、フロイトが登場する。忘れさられた事柄なのに付き纏い離れない、おまけに身体的な極度の緊張を伴ってさえたち現れる残存するイメージとは何かという問題が。

フロイトは書いている「患者は自らの中に抑圧されているものすべてを思い出すことができるわけではなく、多分、ほかならぬその本質的な部分を思い出すことができない。‥‥患者はむしろ、抑圧されたものを、現在において生きられている経験として反復するよう強いられるのであり、過去の断片としてそれを想起するのではない」と。ディディ=ユベルマンは、このように云いかえる。「無意識的記憶の中では差異だけが反復される。いいかえれば反復は差異化される。」そして、フロイトは、「‥‥患者は自分が忘れてしまったり抑圧してしまったりしたことについてはいかなる回想を持つこともなく、ただそれを行為に翻訳するだけのことしかない。忘却された事実が再び出現するのは回想の形式ではなく行為の形式においてである」とも述べている。ヒステリー症状では回想は身体的な行為と結びつく。ヴァールブルクは、ここに自分の直面している問題を解く鍵を見つけた。それは名前のない科学だった。しかし、残念ながら自分が覗き込んでいた大渦にのみ込まれたのである。そこから脱出した時には自分の思想を纏める時間も力も残されてはいなかった。

それでも、ヴァールブルクは、ムネモシュネ(記憶の女神、美の女神たちの母)と呼ばれる一連の図像を後世に残した。人類に対する素晴らしい贈りものだった。どのようなものか少しだけご紹介しよう。この図版群はヴァールブルクが提示したもの(パネル46)の抜粋や、部分にすぎない。

 

左からギルランダイオ『聖母マリアの聖エリザベト訪問』15世紀 部分
ギルランダイオ『洗礼者ヨハネの誕生』15世紀 部分
ヴェネツィアーノ『頭上に壺を載せて運ぶ女性』16世紀
ラファエロ『ボルゴの火災』16世紀 部分

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左からシニョレッリ(バルトロメオ・デッラ・ガッタ)『モーセの遺言と死』15世紀 部分
ロセッリ(ビアージョ・ディ・アントニオ)『紅海を渡るモーセ』15世紀 部分
トルナブォーニ『韻文の物語』15世紀から「ユディットとホロフェルネス」部分
『花々をもつニンフたち』ローマ時代の浮彫 部分

mnemosyne panel46

ここでは、花をもつローマ時代のニンフの姿(この場合身振りの方にウェイトがある)が後世どのように差異化されて反復されていったかがわかる。果物を運び、壺を運び、子供や荷物、最後は剣を振りかざす姿へと変相する。ディディ=ユベルマンは書いている。「たしかに、ヴァ―ルブルクは、単純な感嘆といった静止状態の中でイメージを考察したのではなかった。イメージがその優美さを現前させるのは、それと認められた身振り(ニンフの軽い反身になった歩調)の瞬間においてである。しかし、いましがた見たように、イメージは過去の記憶に苦しんでもいる。身ぶりはほんのわずかなりともデッサンされただけのことで ― また、ほんの少し強調されたり置き換えられたりする、つまり不気味なものと化すだけのことで-『時間の奥底から』無意識的記憶を浮上させる。視覚的イメージに対する感嘆は、ヴァ―ルブルクの場合、時間の渦流に対する根源的な不安のようなものを喚起する。」『不気味なものと化す』とは茫漠たるカオスの中から現れるイメージを思い浮かべていただければよい。私は、ジャコメッティーの絵画を思い浮かべる。あの力動的で不安な闇の中から浮上する線の群れを。イメージの身振りが人間の過去の抑圧のすべてを変奏していくとしたら、その音が聞こえ始めてあの死の舞踏のような身ぶりに自分が乗っ取られるとしたら、ヴァールブルクの狂気とはそのようなものであったのかもしれない。

ムネモシュネは、イメージによる要約ではない、作業する記憶、イメージによる思考である。イメージは思考を担える。それは特に強調しておきたいと思う。ある意味、個々のイメージそのものにはあまり意味がないのかもしれない。大切なのは、イメージそれぞれが象徴となって乱流のような連鎖をつくることであり、歴史の中で断続しながら現れてくるそれら全体のマクロ的渦の形に、その生成のダイナミズムに身をゆだねること、つまり症状を把握することではないだろうか。象徴連鎖は深い感情移入を伴って全人類史の中で発現する。ルネサンス絵画の中にも蛇儀礼の中にもそれはある。歴史症候学と呼ばれる所以である。この真珠とりのような学者の観点は偉大だ。

最初に自分の興味の範囲内でとおことわりしたのには意味がある。この本を読んでいてずっとある言葉が頭をはなれなかったのである。イメージの力動性、渦、差異化しながらも反復されるイメージ、アトラクターのような身振り‥‥それらの言葉から連想されるもの。それは、『複雑系美術史』。学芸員のみなさん僕に石を投げないでください。

作者不詳 『オルフェウスの死』 紀元前5世紀 ギリシア