定本 吉田一穂 全集より

吉田一穂 (1898-1973)

吉田一穂 (1898-1973)

十代の後半の頃、吉田一穂(よしだ いっすい)という詩人に惹かれていた。唯一好きな詩人だった。僕は、詩人には何故か縁がない。晩年お付き合いいただいた佐藤慶次郎さんは、多くの詩人に愛された芸術家だった。瀧口修造、草野心平、谷川俊太郎、まど・みちお、すばらしい詩人たちだ。四十代になって佐藤さんの影響で、ぼくもまどさんの詩を読むようになった。最近、個展の会場の近くにある、老舗の古書店で『定本 吉田一穂 全集』を見つけて、懐かしくてそれを買った。童話集の収められている三巻目である。僕の大好きな版画家、加納光於(かのう みつお)さんの装丁が嬉しかった。若い頃には手の届く値段ではなかった。

一穂は明治31年北海道の網元の家に生まれて積丹半島の鰊の漁場で育った。船乗りになりたかったようである。老子、陶淵明、鴨長明などに親しむが、北原白秋の歌集『桐の花』に感化され、やがて文学に目覚める。15才で上京し、受験の準備をしたのち早稲田大学に入学するが、実家が破産し、三年で中退することになる。その頃、横光利一、島木赤彦、若山牧水、金子光晴らと知り合ったようである。しばらくして、北原白秋を小田原に訪ねた。以後、詩人としての生涯を全うすることとなる。随分真面目な性格だったようである。

フランスの詩人・作家であるポール・ヴァレリーは、「文学とは、他者の魂を手玉に取る芸術(技術)である。」と書いていた(『文学の技術について』の冒頭)。どんどん手玉に取ってほしいとおもうのだが。また、あの有名な『詩学/カイエ』の中で「詩人とはもはや髪を振り乱す錯乱家でも、ひとつの詩編を熱に浮かされた一夜ですっかり書きあげてしまう人でもない。それは、鋭敏になった夢想家に仕える冷徹な学者であり、ほとんど代数学者といってよい。」とも書いている。彼はマラルメと同じようにライプニッツの結合術に強く惹かれていた。そこには、論理計算や力学のような作業に必要とされるような感覚が要求される。その一方で「一篇の詩、ひとつの尋常ならざる観念とは、語の流れの中の奇妙な偶発事である」とも書いている。論理と飛躍の恐るべき結合、詩とはそのようなものなのかもしれない。

同じヴァレリーの『詩学/カイエ』には、またこうある。「芸術―芸術の操作は、ひとつの無限を閉じ込めようとすることにある。現勢としての有限のうちにある、潜勢としての無限。」そして、「書く技術とは、《観念》を千ものやり方で捉え直し、語の好ましい形象に出会うまでそれを考え直すことを可能にするような、精神の組織化を含んでいる。」という。目の前の現実を裏返して一つの無限として押し込める。それには、その作図に応じることのできる精神の幾何学が組織化されなければならない。このような言葉が吉田一穂の詩には相応しいと思う。彼の詩を引用させていただきたい。

無の錘 (暗約)

獣の蹤(あと)をつけて、極星に指ふれる。
礦(あらがね)よ、橅(ぶな)よ、風よ、脈搏よ、私は見た!
不安と黙契に、成りて噴き出づる、自然荘厳の刻を。
爪牙の前に、渇けるは来たり、濾過しあう波紋を後に、満ち足るは去る。
水の面の對稱・汝と我との、眼差にむすぶ純粋な非存の證(あかし)!
山中の鹽(しお)。

無の錘 (非在)

<私>は自らに見えない暗點である。
棟に梟が降りて、折り鶴を放つ。
天河を渡る羽音に三千年の獣たちが吠える。
齢(よはひ)をこめた筥の中なる己を抱いて龍宮の遠い花火。
影と語る<彼>私は消える。

極星という一点に無限の始源を見るなら、その閉じ込められた一点からあらゆるものが流出する。それはコンパスの回転する軸である針の位置である。「詩の方法」と副題のついた『天馬の翼に就いて』の中で一穂はこのように書いている。

「‥‥傾ける時代の意識圏に鋭角する智性が poèsi の故に感性との秤衡’を欠いた定型律(メトリカル・フォム)の poème を過去完了にしつつ積極面の現実発想を基礎とする精緻な計数的方法として「新しい心臓」を作る。智性は感性の世界を展開する方法のオルドルである。その正確な作図は新しい感覚系列への共感性、美意識を形態する。‥‥」

この『天馬の翼に就いて』のⅡ章の後半のあたりで、模倣の様式主義、鴉鳴蝉啼の集団的な文学運動、自然主義リアリズムを一穂は、あっさり否定しさった後で、「詩の想像力に於いてボオドレヱル阿片の夢は佛陀を生誕する」と書いている。感性を展開するのは怜悧な智性であり、その論理と相まって跳躍が意外な発想へと導くのである。

定本 吉田一穂 全集

定本 吉田一穂 全集

また、『影の劇場』の中にはこのような文章もある。
「足――二点間の女の素足が、肢体の直線を結び除々(まま)に伸縮し、横ざまにコンパスを倒して三角形を画いた。と忽ち足の一点を中心にクルリと回転して円を引く‥‥恋愛の命題がユークリッドの幾何学に依って証明され、瞬間的な映像を「時」の過跡中に掻き消す。」

彼の詩の世界には異質なものの混合が、あっけらかんな組み合わせが展開される。典型的な作品は「マクベス夫人」である。マクベス夫人の手にメフィストが接吻し、ハムレットはカルメンに蠱惑される。ボオドレールとランボオが晩餐の卓に連なり、サロメの乳房とクレオパトラの鼻、ジョコンダの古典的な頬が賞味される。ドン・キホーテはマクベス夫人の接吻を受け、バッカスは踊り始め、最後にウィリアム・シェークスピアの首をメフィストがあざ笑って幕となる。これは何なんだと思うけれど、やはり結合術なのである。

表現される世界も多様である。アジアの地霊、佛陀、ユダヤ世界、ツラトゥストラの智慧の樹、龍宮の遠い花火、ヨハネ伝、コペルニカス以前の泥の広がり、須佐之男の童子、コスモポリタン、メキシカの逆流の血、エッダ、エルサレムと冬宮、テロル―機関銃・ク・デ・タ‥‥‥、原爆実験の硝子帯、ハンザ同盟とパンパス荒野。こんな言葉が横溢するのである。しかし、おおよそ孤独でアナーキーな世界ではあるようだ。散文詩、定型詩、口語自由詩の他に漢詩の素養があるのだろう。それが文体に多様な感じを与えている。僕が一穂を好きなのはこの漢詩の語調にあるのかもしれない。『故園の書』から『春』の最後にこのような文がある。

童骸未不焼
哀夜來白雨
蔽柩以緑草
待霽故山春

一穂の童話集の中に『十二夜物語』という作品があって、とても気に入った。一節をご紹介しよう。「‥‥露にぬれた石段は足裏に冷ややかであった。彼女は前夜のように石段に腰を下して、来るべき死の舟を待っていた。やるせない諧調に夜潮は充ち、空は低く、黒い帳を下していた。彼女は流れゆく水霧の底を透かして、人目を忍ぶもののように静かに静かにすぎゆくゴンドラを見た。すぐ足元の水にちらちらとささやかにゆれ映る蝋燭の灯を、左手に捧げて声もなく立った。と、忽ち手の灯は消えて、瞬く一瞬の後、舟なる一つの灯となって現れた。彼女は、妹の身を黙って祈った。‥‥」胸を患う妹のために毎晩深夜に死のゴンドラに灯を捧げて妹の命をながらえようとする姉の物語である。童話の体裁とはいえ深閑なるイメージの世界ではないだろうか。何か暗い闇が無限の時間の象徴となって一瞬命の灯を照らす。そんな世界である。それはこんな詩に通ずる。

千一夜

死の刻到りて、骨牌(こつぱい)、十指に散る。
工房の夜半、四壁の鏡に燭(とも)して、
人面必々と鳥獣の元始へ還る。
粉黛の化粧(けはひ)なって鑿を研ぎ、
人の命を約して美貌を彫る。
地下に百年、劫業の媚薬は醱(わ)き、
晩餐の卓に十人の片盲を見たり。

一穂の言葉の世界は深閑として暗く、時に動的でカオティックである。極北の海、遠い雪嵐、夜語り、失われゆく像(もの)の「影」、痙攣(ひきつる)水平線、太古を降る砂鐵 、耀く北冠座、魔府の渦に吸ひこまれ、刹那の血の充実感、世界を縊れ!。このような世界である。第三詩集『稗子傳(はいしでん)』について彼はこう書いている。「稗子傳は、既版「海の聖母」、「故園の書」に嗣ぐ稔り少なき余が第三詩集である。いはゞ我が生涯の内部形律<渦・動・暗・轉>のうちの三位を占めるもので、これは次著の鬼胎たるべき約をもって編まれた稿本である。」三位が何を指しているのか自分には判然としないのであるが、彼の中には、渦・動・暗・転という内部律があるという。渦・動・転まで僕と同じだ。ここにきて自分が一穂を好きなわけを合点したわけである。こういうぐるぐるやばたばたのを好きな詩人は、確かに少ないだろう。ところでこれも奇妙な符合なのだが、一穂は北原白秋に私淑した人であり、白秋は後に一穂に自分の詩の解説を依頼してもいるようである。そして僕の好きなもう一人の詩人まど・みちおさんは、白秋の弟子である。この二人に兄事される白秋とはどのような人であったのか。白秋、恐るべし。 一穂はさきほどの『稗子傳(はいしでん)』の中の『咒』という作品の中でこのように書いている。

‥‥‥
棘々(ざくざく)と星を結晶させる白林(びゃくりん)の梢で、月が罅(かけ)ていった‥‥
骨を焙(くべ)て、雀の卵を暖める。「鶴に孵(な)れ!」

『雀の卵』は北原白秋が精魂を傾けて作り上げた畢生の歌集だった。一穂は白秋を超えて鶴になりたかったのかもしれない。彼も歌の作品を残している。それで最後に詩ではなく一穂の歌をご紹介したい。

枕にしまた夢めぐる朝夕の幾日やみなき荒磯の音