”おもかげとうつろいを綾取る” 松岡正剛 『日本という方法』

 

松岡正剛(まつおか せいごう)さんの著作について書くのはちょと緊張する。僕はこの人のサイト『千夜千冊』を随分見てきた。何度も目を見ひらかされてきたし、うろこを何度も落としていただいてきた。その独特の思想にも感化されてきたし、バッハオーフェンやパースなど数多くの思想家を教えてもらえたことに感謝してきた。かなりの間、いわば寄り添いながら歩いてきたのである。今回は前回の金子光晴の「日本の悲劇」に続いて松岡正剛の「日本という方法」をご紹介するつもりである。

松岡 正剛 (1944ー )

松岡 正剛 (1944ー )

1.「方法の国」

作家やアーティストなら日本文化の特質について考えなかったことはなかろうと思う。ほとんどの人はそうだろう。特に海外で暮らしている人たちには時に深刻な問題になりやすい。しかし、その問いにおぼろげなぼんやりとした回答しか与えられないこともまたほとんどなのである。ある人は、それを日本語の特質に求めるし、風土、あるいは古い時代の日本文化、例えば、縄文や古事記や万葉にすがる人もいる。禅などの仏教、神道などの宗教にたよる人も多いはずだ。でも、それらはどうも一面的すぎる、とうてい日本の歴史に登場した事象をカヴァーできない。僕もかなりもやもやしていた時期が続いた。それなら何らかの考え方やある時代にその特質を求めるのはやめて、日本文化の特徴を数えあげながら浮上してくるキーワードを拾ったらどういう景色になるのだろうかと思うようになった。そんなやさきに出会ったのが松岡さんの極めて独特な日本への観点なのである。松岡さんは、日本は『主題の国』ではなく『方法の国』なのであると主張した。

2.「一途で多様な国」

この本の最初のあたりで松岡さんは、こう書いている。

『‥‥日本のよさやおもしろさというのは、必ずしも「自信」や「強さ」や「一貫性」にあるわけではないと話してきました。歴史のなかのどこかに強いアイデンティティの軸の確立があったわけではなく、また数人の思想家や芸術家によって日本を代表するイデオロギーが確立されていたわけではないと私は思っているからです。‥‥たとえば「無常」や「バサラ」や「侘び」や「伊達」を、また人麻呂や一休や鶴屋南北や村上華岳を、夢野久作や三島由紀夫やサザン・オールスターズや椎名林檎を、一様なアイデンティカルな文化や様式で説明することは無理だからです。そんなことをしたくもない。日本を主語的に語ろうとすることに限界があるのです。』

『日本はたしかに一途なところはあるのですが、それとともにたいそう多様な歴史を歩んできました。日本は「一途で多様な国」です。』

そう松岡さんは主張する。この多様性は、多仏で多神であること。神と仏はかなり初期から習合していた。天皇制や王朝文化がずっと主流になっていたことなどなかったし、天皇と将軍がいて、関白と執権がいて、仏教と神道と儒教と民間信仰が共存していた。そんな社会だったという。明治時代ですら日本は多民族国家だと考えられていたし、江戸後期まで東日本は貫高制の金決済、西日本は石高制の銀決済だった。東は水田優位で、西は畑作優位。日本の東西でも異なっていたというのである。

3.デュアル・スタンダードの国

日本はそんなに単純な国ではないだろう。食べ物ひとつみても極めて複雑、多様である。その多様さはデュアルスタンダードによって説明されてゆく。極度に短い和歌や俳句のスタイル、能や文人画や日本舞踊、禅庭や数寄屋造りなどワビ・サビに通じる省略が効きすぎるほど効いた弥生的な「静かな日本」、引算をいかした日本がある。それに対して歌舞伎や日光東照宮やお祭りの派手な山車(だし)などの華麗で過剰な装飾を特徴とするようなバサラや風流踊りにつながる縄文的な「賑やかな日本」、足し算をいかした日本がもう一方にある。そのような対極的な価値観が日本には併存していた。

4.日本人のフィルター

この二極によって紡ぎだされる多様性のなかで、まとまった観念や感性がどのようにして育っていったのかが次の問題として扱われる。こんな例をあげている。かつてはスパゲッティーというと喫茶店に出てくるナポリタンやミートソースだったのがパスタという名前でフォークとナイフで食べるようになり、いつのまにか、たらこスパゲッティ―と称して細切り海苔をたっぷりかけてたべるようになったという。これは、四川料理を日本人の口にあうようアレンジすることとは違うし、カツをカレーにのっけてカツカレーにすることともいささか違うのである。パンの中にあんこを入れてあんぱんにすること。それにケシの実をトッピングする。これこそ、たらこスパに匹敵するのである。ちょっと、熱くなってしまった。続けて、和魂漢才、和魂洋才はしょっちゅうだという。海外から多様なものを取り込んで色々な工夫を加えていくこと、それは今後も続くことだろうけれど、取り込むには日本人のフィルターが働いているというのである。この指摘は重要だ。それが、「日本という方法」、「日本的編集方法」であるという。

5.編集という思考方法

松岡さんは、京都の呉服屋に生まれ、早稲田大学の仏文に学んだ。実家が破産して、早大を中退。広告会社に勤めながら高校生向けのタブロイド版(普通紙の二分の一サイズ)の新聞を創刊する。その頃、稲垣足穂、土方巽、寺山修司、唐十郎らと親交を深めることになる。1971年に工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971 – 1982)を創刊した。これは有名な雑誌だ。デザインを杉浦康平さんが担当した。あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な影響を与えることになる。その後、工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始、加えて編集工学研究所を設立した。「生涯一編集者」がモットーだそうである。松岡さんは、この活動の中で「編集術」「編集工学」という独特の考えを編み出していった。『なんらかの出来事や対象から情報を得たときに、その情報を受けとめる方法すべてが編集なのです』という。編集工学を学ぶためのWeb上の学校「イシス編集学校」も開設し、2000年2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始する。私もずっと拝見させていただいているサイトである。

松岡正剛 「日本という方法」

松岡正剛
「日本という方法」

本の内容に戻ろう。日本人が外来の自然や文物や生活を受け入れ、それらを通して、どのような方法で独特なイメージやメッセージを掴もうとしたのか? 新聞や書籍、映画などで使われる技法用語である「編集」の意味と用法を拡張して、「日本的編集」という概念を松岡さんは考え出した。そしてこの国を「おもかげの国」、「うつろいの国」という視点で解読するのである。日本という曲の通奏低音こそが「おもかげ」と「うつろい」だからである。松岡さんはそうみた。これから「おもかげ」と「うつろい」を綾取っていくことになる。

6.「おもかげ」の国

このところ小津映画を見る機会があって、戦前のサイレントから戦後のカラー作品まで概観できた。いやあ、「懐かしい日本」、そんな感じがする。笠智衆や東山千栄子さんに自分の父母、あるいは祖父・祖母の面影をみるのはどうしてだろう?これはけっこう複雑な問題かもしれない。

目の前にない風景や人が、あたかもそこにあるかのように浮かんで見えること。「思えば見える」、面影(俤)とはそのようなものである。また「於母影」とも綴る。どこか母なる者にも繋がると著者は指摘する。また。「赴く」、「趣き」、「面白い」にも繋がる言葉でもある。徒然草には「名を聞くよりやがて面影は推しはからるる心地する」とあり、名前などの何かの思いをきっかけに浮かプロフィールの動向であるという。そのプロフィールとしての影は物に光が当たって地面にできる影のことではなく、物本体の形のシルエットのこと。そして、影は光のことでもあったのである。神様が現れることを「影向(ようごう)」といった。正体の知れない感覚的なものの感知。まさに面影を感じたのだとも指摘している。

7.「日本という記憶」の漢字化

歴史上、ここでコケタラかなり痛いだろうなという時代がある。例えば日本神話の文字化を図った時。私たちが古代の地中海のあたりにある国に住んでいるとして、自分の国の神話を古代エジプトのヒエログラフで表せと言われたら太安万呂(おおのやすまろ)の苦労も推し量られるだろう。ここは、「おもかげの国」が躍如した正念場であった。

具体的な方法として、松岡さんはこう述べている。漢字を日本語読みにしてしまったこと。「天」や「人」はティアンやリェンという中国語読みがある。それをアメとかアマとかヒトと読んだ。今で言う訓読である。この発音は古代からのボーカリゼーションだった。それと同じくして漢字を日本語風に読んで「天」「人」をテン、ジン、ニンと発音した。当時の日本人が新たに中国人から学んだボーカリゼーションだった。近似中国語読みにしたのである。音読みである。Beer を「ビール」と読み、Radio を「ラジオ」と発音したのと同じだった。ここにも訓・音という二方向があった。

漢字を万葉仮名として綴ったり読んだりしたこと。それは画期的な「日本的方法」であったのだ。太安万呂たちの万葉仮名や和化漢字での表記は、かつての日本人が語り継いできた言葉の世界をそのまま蘇るようにしている。古来の口語文化を新たな漢字表記によって定着させようとしたこと、そこに日本的編集のすぐれた創発があり、このあとの日本文化の根本表現に大きな基盤を与えたと松岡さんは強調する。コケナカッタのである。

8.神の名と枕言葉

語りや歌いのボーカリゼーション、その言葉のつながり具合をうまく漢字の万葉仮名にして読んだり書いたりした例として二つが挙げられている。

一つは神の名前。タカミムスビノカミ、ハヤアキツヒコノカミ、タケミカヅチノカミなどタカ(高い)、ハヤ(速い)、タケ(建てる・猛る)などの言葉が頭についている。この頭の言葉を使うだけで神の面影の性質がおおざっぱに浮かぶようにした。なんらかの基本的なプロフィールが浮かぶようなリーディングワードだった。

もう一つは枕言葉。今日では和歌の首頭につくものと思われているが、おそらくは、重要な語りや喋りの場合でも使われていた。「ひさかたの」は「光」や「天」をめぐるイメージが、「たらちねの」では「母」や「親」に対するイメージが出るようにしている。なぜなら「ひさかたの」は「久方の」であり、「たらちねの」は「垂乳根の」というふうに面影を示す方向性を持たせた。コンピューター用語で言えばパスワードのようなものだった。パスワードによって次のデータなどが入っているファイルが開かれていく。枕詞というパスワードが先行して、ぱっとイメージの落下傘が開き、だんだんメッセージやイメージのサークルがしぼられてゆくのである。

このようにして語り部の持つ日本の「場の記憶」は『古事記』となり『風土記』などとなって残されていったのである。縄文以来の言葉によるイメージを「おもかげ」化して保存したのである。

9.「王朝文化」の編集術

平安時代というと「源氏物語」を連想する。雅で華麗な世界。日本の文化が花開いた時期である。それは「王朝サロン文化」と言っていい時代であった。漢字漢文を和文の文脈で書き表そうとする努力は尚も続けられたが、その一方で「日本文字」を作り出そうという努力がなされていた。片仮名や平仮名が生まれる。これは古代ギリシアがフェニキア文字などからギリシャ・アルファベットを創出したことに匹敵すると松岡さんはいう。そのような中で菅原道真や紀長谷雄(きのはせお)らの学者文人が重用されて平安時代の王朝サロンに「歌合(うたあわせ)」が登場するようになる。ふたつの相対する文物や表現を左右や東西の仕切りの両側で比べ合わせたのである。

例えば、「新撰万葉集」という和漢詩歌集では「奥山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑ聞くときぞ秋はかなしき」の歌意にあわせて「秋山(しゅうざん)寂々として葉零 々たり、麋鹿(びろく)の鳴く音 数の処に聆(きこ)ゆ」という七言絶句を併記した。詩歌に限らず菊合わせ、貝あわせなど宮中行事にアワセは登場するようになる。そして、次に「競い」を行った。どちらが優れているか優劣を競ったのだ。紅白歌合戦はこの末裔らしい。アワセ、キソイを経たあと、表現された歌などを編集構成した、これが「揃え(そろへ)」である。このアワセ・キソイ・ソロエに「重ね(かさね)」という方法を加えて日本の情報編集の最重要な方法が確立したと強調している。重ね(襲)は宮廷衣装などには大切な方法だった。このように中世には、ほぼ「日本という方法」ができあがるのだろう。

10.「うつろい」という感覚

女ごころと秋の空。うつろうものの典型らしい。ここから演歌の世界に突入しそうな雰囲気だが、女性に限らず心も自然も昔から変わりやすく「うつろう」ものだったのである。

花見れば心さえにぞうつりける 色には出でじ人もこそしれ

凡河内躬恒 おおしこうちのみつね

中世ともなれば、花鳥風月、雪月花と自然は移ろい、人の心も世の中もウツロイの対象になりはじめる。それは無常観とシンクロしてくる。時代がくだれば夢幻能ようにの現実から幻想へ、幻想から現実へと「移り舞」となって幽玄と呼ばれるような世界を醸成していくようになる。

恋ひわびてかくたまづさの文字の関 いつかこゆべき契りなるらむ

建礼門院右京部太夫

少し長いが本文を引用させていただきたい。

『和泉式部の日記や建礼門院右京部太夫の歌にひそむ「せつなさ」や「はかなさ」の訴えは、無常感をともないつつも心敬(しんけい)や宗祇(そうぎ)といった連歌師による飛花落葉の「おもむき」の表現となって、芭蕉の連句のウツリ(移り)の技法に至り、ついには上田秋成の『雨月物語』のような物語の構造そのもののウツロイにまで達します。他方、ウツロイの感覚は光と影の微妙な相互変化を好む気質や室内空間を生んで、多くの「あわい」の表現をつくります。障子や簾(すだれ)や格子がつくる光のグラデーションは谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』に称揚したように、日本の美意識の代表になりますし、筆と墨と紙と水が出会ってつくる水暈墨章(すいうんぼくしょう)の表現には、滲(にじみ)や暈(ぼか)しがあらわれて、長谷川等伯の山水画や大雅・蕪村の文人画に、さらにはぼかし染めや蒔絵の砂子の美にまでおよんでいました。しかし、どうしてまたこんなにも微妙で、寂しくも消えてゆくような感覚に日本人は価値をみいだしたのでしょうか。どうしてこれほどまでに広範な分野にウツロイの感覚が適用されていったのか。能や水墨画や枯山水の感覚やワビ・サビの感覚の本質的な意味の発見にもつながります。』

11.「うつろい」に寄り添う「無常」

松岡さんは網羅主義者と言っていいくらいものごとの歴史や変遷を徹底して集めて比較するのが好きである。「モウラのカミが舞い降りる」との発言もある。しかし、この発言につてのコメントを差し控える。

「無常」は以下のように概観されることになる。仏教が日本人にもたらした無常感は、歴史を遡れば聖徳太子に始まる。太子は『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』に「世間虚仮(こけ)・唯仏是真」と書いた。日本における「世間無常」の最初の表現だった。 8から9世紀にかけてすでに無常感がはっきりと提示される。

一身ひとり生歿す
電影これ無常なり

鴻燕(こうえん)かはるがはる来り去り
紅桃むかしの芳(かお)りを落とす
華容は年のぬすびとに偸(ぬす)まれ
鶴髪(かくはつ)は禎祥(ていしょう)ならず
古(いにしえ)の人 今見えず
今の人なんぞ長きことを得む

空海/遊山慕仙詩より

無常が早いという見方は後に「無常迅速」という言葉として多くの日本人の心をうつようになる。10世紀には、源信による『往生要集』に「厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)」という言葉が登場する。此岸のhereから彼岸のthereにむけて心を致すこと、そこに往生の方法があると説いた。やがて浄土信仰によって西の極楽がthereになった。並行して天台本覚思想による「己心(こしん)の浄土」つまり、今ここを浄土するいわば手元の浄土という思想も浸透していく。この無常感は平家物語によって決定的になる。それに加えていろは歌が仏教的に解釈されて人の口上にのぼり始める。

色は匂へど散りぬるを(諸行無常)
わが世たれぞ常ならむ(是生滅法)
有為の奥山けふ越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ酔ひもせず(寂滅為楽)

この次々に呑み込んでいくような無常感の受容の様は日本人が何を「常」として見たかを理解することによって納得できると松岡さんはいう。例えばこのような歌が既に古くからある。

やすみしし我が大君 高照らす 日の御子 敷います 大殿の上に
ひさかたの天伝ひ来る 雪じもの行き通ひつつ いや常世まで

柿本人麻呂/万葉集

このように万葉集にはすでに常世(とこよ)という言葉が登場する。常世とは海のかなたにある「常に変わらない国」。沖縄ではニライカナイと呼ばれた。椿や榊の常緑樹は、神の寄りつく依代(よりしろ)とされる。常緑樹を象徴とするようなエヴァーグリーンの国がすでに想定されていた。それに対してこの世は既に常ならぬものであった。「はかない」ものが意識化されるようになるということは「はかなくないもの」があったからである。網羅主義万歳!

12.「うつろい」の二方向性

うつろいという言葉も考えれば結構複雑な内容をもっているようである。最近は「うつ」が鬱に見えてきていけない。絵ばかり描いていると部屋に籠りっきりになって病と向き合うようになりそうで怖い。よけいなことを言ってないで本書に戻ろう。

うつろいという言葉にはウツという語根がくっついている。ウツは内部が空洞になっているもの。ウツという語根からウツロ・ウツホ・ウツセミなどと云う言葉が生じる。なにもないこと、それがウツだった。それは、蛹のように内側が空洞なのに何かが宿ったりするという生命力もった言葉だった。ウツに漢字をあてると「空」や「虚」となると同時に「全」ともなる。もともと「空」と「全」とは正反対の意味を持っているが、ウツにはその両方の意味がある。「負」には「正」がやどる。「正」から「負」にもなる。そこにはリバース・モードがあるのである。リバース・エンジニアリングというのがあって、いったん出来上がったデバイスやシステムを完成品から逆に辿って内部のしくみに到達する技術のことをいう。そのように順逆にも、凹凸にも、内外にもなって、その両方を往復して何かを動かす力である。

ウツ・ウツロ・ウツホと云う言葉は、次にウツル・ウツリ・ウツス・ウツシという言葉を生んだ。これは時代が下がって生まれたわけではなく、言葉の語根そのものがすでにそのようなボキャブラリーを派生させていた。ウツリ・ウツシは漢字をあてれば「写」であって「映」であり、「移」となる。ウツロは何かに移って、何かの反映をもたらすもの、そういう動向の反映すべてがウツリやウツシだった。松岡さんの文章を引用しよう。

『一見、何も見えないところに何かが見えてくること、見えないものが別のところへやってきて何かを見せること。そこに何かを反映させること、それがウツリであってウツシでした。まさに水に映る月の光と影のようなもの、障子に映る光と影のようなものです。負から生へのプロフィールが動いているのです。ここにもリバースモードがはたいていることがわかると思います。』

13.「はかなさ」の充実

「この世は所詮仮の宿り」となるのであるが、そうなら積極的に生きてみようと思うのも人の心である。松岡さんはこう見ている。ウツロイの感覚はやがて、さきほどみてきた「無常と」シンクロし始める。「無常」とはそもそも「非定常」と云う意味である。しかし、「無常」というとなにも「あきらめ」のような否定的な厭世感やニヒリズムにばかり結びつくわけではない。「負」や「無」と見えていたものの中から新たな価値が見い出されたりする。見えていない神々が「影向」したりする。見えないことやマイナスは別のプラスを生む可能性を持っている。この途中のプロセスこそウツロイである。例えば、「はかなし」のハカという言葉はもともと「はかどる」「はかばかしい」などのように「計」や「量」をさす言葉であり、「はかなし」は「はかどらない」という意味だった。平安時代の女房たちは「はかなし」という言葉の中に美や深みや奥行を発見し始める。「はかなく」ないものなんてないのだと考えるようになった。人生は「はかない」ものよと考えるようになったのである。しかし、そこに文化的な充実が生起することになるのである。

14.「おもかげ」と「うつろい」を綾取って

ここまでで、この本の13章のうちの5章を紹介したにとどまる。この後は「まれびと」論がテーマとなるゲストとホストの関係を書いた数奇の文化、和漢の境を越えようとした村田珠光と茶の湯について書かれ、連歌と俳句へと時代は下っていく。秀吉の朝鮮遠征後の徳川体制と「中華ばなれ」を図った山鹿素行、それまでの「身分の論理」に反発する朱子学の改革派、日本人の感情や行動にフィットした「義」の行動学である陽明学を経て本居宣長の「いにしえごころ」へと話は進む。明治にはいって、島崎藤村の『夜明け前』に置き忘れられた王政復古を見出し、キリスト者内村鑑三の二つのJ(ジーザスとジャパン)にキリスト教と武士道の融合を指摘する。そして日本という方法を哲学に仕上げようとした西田幾多郎、面影を失って戦争へと邁進する日本の改造を夢見る北一輝、金子光晴や野口雨情といった詩人たちの抵抗があげられる。最後に九鬼周造の「いき」と司馬遼太郎の「真水」が述べられて終わる。本書は、日本の歴史を概観しながら日本の「おもかげ」と「うつろい」を追っているのである。

15.最後に

日本の田遊びなどの行事の中では「もどき」と云うことが繰り返される。真面目な一番がすむと、装束や持ち物をくずして出てきて、前の舞を極めて早く繰り返し、おどけぶりを変えて引き揚げてしまう。折口信夫さんは日本の芸能が同じことがらを変奏しながら漸層的に発達したと考えている。それは、日本の宗教が極めて象徴的であったためにそれを説明するためには色々な現し方があったからだという。一つのことを説明していくうちに姿・形を変えながら大きくなった。日本の芸術はその発生にあたって、まず説明をまたなければならない事実が横たわっていたというのである。このことは折口信夫 神事舞踏の解説としての能/「しゞま」と「ことゝひ」の中のシテとワキの中で紹介したことである。日本の芸術はもどかれることによって発展してきた。もどくには、「みたてる」「まねる」「おどける」などの内容が含まれていると考えていいだろう。だが、ここでは解説するの意味が強い。松岡正剛さんは、この本の中で、まさに「日本」をもどいたのである。これは第一級のもどきだった。折口信夫を持ち出さなくても思う人には松岡さんのこの文章をご紹介しよう。『その花は散ることをもって、その鳥は飛び去ることをもって、その風は居所がわからないといということにおいて、その月は満ち欠けをもつことによって、こうした一定ではない変化に感覚の襞が動いたのだ。』(千夜千冊 第八三七夜/立川談志 童謡咄) 襞はおもかげをしまっておく記憶の場所である。もう、私たちはこの歌に「おもかげ」と「うつろい」を感得できるのではないだろうか。

春風の花を散らすと見る夢は 醒めても胸の騒ぐなりけり

西行/山家集