”鏡というメタファー” 岡部雄三 『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』

今はポーランド領になっているボヘミヤの町ゲルリッツで、一人の信心深い若者が心の暗黒を彷徨っていた。彼の名前はヤコブ・ベーメという。靴屋が生業だった。悪という心の闇に怯えていたのである。もはや天にまします神のコスモスは、コペルニクスの地動説のなかで急速に崩壊していたし、心の中では悪魔のような貪欲と怒り、嫉妬、高慢が根深く内側から彼を蝕んでいくのであった。教会は腐敗していたし、キリスト教以外の新たな思潮にすがるにはあまりに無学だった。そして、時代は泥沼のドイツ30年戦争への長い下り坂の上にあった。しかし、天啓が訪れた。1600年25歳の時、圧倒的な光と愛の体験が彼を襲う。彼はすべてを了解した。

『この光のなかで、私の霊は一切を見、万物に‥‥神を認め、神とは何者であり、神はいかに存在し、神の意志が何であるかを悟り、」「あらゆる存在の本質を、その根拠と底なしを、さらには神の聖なる三性の誕生、森羅万象の由来とそのはじまりの姿を、神の知恵を通して見、認識したのである』

たった15分間のことだった。しかし、この霊眼は終生失われることがなかったという。もはや天は内なるものとなり、霊の天の中で神は誕生し、臨在した。宇宙はこの天で遍満している。神はベーメ自身の中に生まれ、活動し、休むことなく導いていた。

この岡部雄三(おかべ ゆうぞう)さんの著作『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』は、三部に分かれている。神の智慧ソフィアを扱う序章、ベーメを扱う第Ⅰ部、そして、ベーメ以降の神秘思想家を扱う第Ⅱ部である。この第Ⅰ部ほどベーメを分かりやすく納得させる著作は他にない。これはベスト・ベーメ解説であると言っていい。岡部さんは1952年生まれ。東京大学で教鞭をとっておられたが2009年に惜しくも亡くなっている。エックハルト、パラケルスス、ベーメの研究者として知られている。この三人のラインアップだけでも凄い。この本の解説をノヴァーリスの研究で魅力的な中井章子(なかい あやこ)さんが書いている。中井さんの『ノヴァーリスと自然神秘思想』(創文社)はいずれご紹介したいと思っている。お二人とも『キリスト教神秘主義著作集』(教文館)の翻訳を担当されており、お馴染みの方もあるだろうと思う。

岡部雄三 著 『ヤーコブ・ベーメと神智学の展開』

岡部雄三 著
『ヤーコブ・ベーメと神智学の展開』

この神秘体験について第一章、3節の文章の中で岡部さんは意外なことを述べている。ここから既に核心に入るのである。

『ベーメは一五分間で一切を見たと言っている。しかし、誤解をしてはならない。この「一切」とは実は何も見えなかったのと同じ一切なのであった。より正確に言うならば、ベーメは一五分間に光輝く「無」を見たのである。』

たいていの人はここで面食らうだろう。キリスト教徒が無という神秘を見るということがあるのだろうか?岡部さんの文章を引用しよう。

『ベーメにとって一切は無であり、無は一切である。なぜか。ベーメの体験した神は、「無」であった。神はあらゆるものの原因から超絶した「永遠の静寂」としての「無根拠」「底なし」(Ungrund)であると同時に、あらゆるものの原因となる「根拠の根拠」Urgrund)である「無」なのである。この後者の無は、自己を認識し、本体化する玄妙微細な意志となって自己顕現する。無に等しいこの意志は、自分の描いた自己展開像の「よろこびのたわむれ」を見て本体化するのであるが、これを見る目、あるいはこれを映す鏡が「神の智慧」なのである。』

「無が映し出す鏡」、「自己展開像の本体化」、なんだか西田幾多郎の無の鏡のようでもあり、ライプニッツのモナドの鏡のようでもあるのだが‥‥‥‥‥引用を続けよう。

『天地創造のとき、神のかたわらにあってともに創造に加わったとされる智慧(箴言22以下)とは、ベーメにおいては、神の能動的な意志が描く像を映し出す受動的な場を意味している。カオスとは、この智慧の目ないし鏡のなかに、霊的形象あるいはイデアとして無展開のまま充溢している、神の自己展開像一切の「混沌」の謂である。』

すでに14世紀、ドミニコ会士マイスター・エックハルトは説教集の中で『神は無である』と述べている。異端とされたが(異端の理由ははっきり分かってはいない、一説には魂の閃光という考え方にあるとする人もいる)、本人は異端宣告の前に亡くなっていた。15世紀にはニコラウス・クザーヌスによって無としての神は引き継がれたが、おおっぴらに神は無であるとは言えない状況であったらしい。それでこういう言い方になった。『主よ、私は御身が見出される所へ、不可視の直観の壁を飛び越えていかねばなりません。そして、その壁は万物であると同時に無なのです。というのは、御身は、あたかも万物であり、万物の無であるように私に向かっておいでになり‥‥』(神を見ることについて 第12章47)
涙ぐましい苦労の跡が窺える。ついでに鏡のメタファーもあるので紹介したい。『御身の無限の力が鏡のようで種のようであり、また照射と同時に反射、原因と結果の一致を超えており、さらに、この絶対的力が絶対的直観であることを私は経験します。これは完全性そのものであり、そして、見ることのあらゆる仕方を超えているのです。‥‥』(神を見ることについて 第12章48)

キリスト教神秘主義著作集 クザーヌス

キリスト教神秘主義著作集
クザーヌス

岡部さんによれば、ギリシア教父の伝統、例えば5世紀の擬アレオパギーテースの文書では無とは存在の極限的充溢を意味した。世界創造以前には神の他にはなにも存在しなかった。神が無から万物を創造したとするなら、神は自分自身から世界を造ったことになる。つまり、「無からの創造」という教えは、神は無であり、自己自身である無を原素材として世界を創造したと主張したということなのである。だが、ユダヤ・キリスト教における創造論の核である「神の意志による無からの万物の創造」は複雑な問題をはらんでいるようである。

「神は無である」という主張はマイナーではあっても結構歴史のあることらしい。これを「無の神学」といっていいかどうかは分からないけれども、鏡のメタファーを伴うことがままあるらしいのである。

岡部さんの述べていることを追っていこう。ベーメにおいては始まりもなく終わりもない底なしの無、神自身にすら沈黙する「深淵」の無がある。自身の依って立つ所をもたない「あれ」である。そこから「存在を求める」あるかなきかの意志、すなわち「求め・憧れ」が萌す。この意志は「ガイスト(霊・精神)」と呼ばれる。底なしの意志である父は無である自分自身を掴もうとして人格的神である「独り子」を産む。自己を限定することのなかった底なしの無に「底=中心=心臓=言葉」が誕生する。‥‥無の自己限定‥‥やっぱり西田幾多郎のような感じも‥‥ 無の中心・根底である子から父の意志を受けて聖霊が無限の自由な無に向かって出発する。父なる口から語り出されるロゴスが気息とともに無の隅々にまで響き渡るのである。これがベーメの三位一体であった。

聖霊の翼に乗って子の底から外に発出されたもの、語り出されたもの、見出されたものとは、神の自己認識像である。この像というところに注目してほしいのだが。父と子と聖霊の三者の意志は束ねられて知恵の眼、知恵の鏡に自身の姿を映す。それが乙女ソフィアである。神自身の内からこんこんと湧き上ってくる想念を具体化していく知恵というスクリーン。知恵という鏡のメタファーである。無が無自身を映し出すとは言っていないが、自己を分化する過程で鏡が登場するのは極めて面白い。この意志の運動を底なしの「イマギナチオ」、すなわち「像という本体を造る働き」とベーメは呼んだ。

「万象は無から創られた」が世界は無から直接創られたわけではない。無なる神は直接創造に関与しない。世界創造は自己が分化した後の話なのである。したがって無は一切から自由である。それでは万物は何から創られるのか?創造の母胎は神の欲によって生まれる「永遠の自然」である。永遠の「プリンキピウム」すなわち「はじまり」あるいは「原理」である。それは無の神から独立している。永遠の自然において無の意志に相当するものが「欲」あるいは「欲望する意志」である。『意志は知恵の鏡をのぞき込んで自分が何者であるかを見、見ることによって意志は自分自身である本体を欲するようになる』と岡部さんは書いている。

さてさて岡部さんの名解説はこの後も続くのだが。この続きはまた機会があればご紹介したい。若いベーメはこの後パラケルススの思想やユダヤ神秘思想カバラ、新プラトン主義などを我がものにしながらドイツ精神史の巨星になっていく。ベーメの暮らしたボヘミアはアグリッパの穏秘学やパラケルススの錬金術的自然哲学、シュヴェンクフェルト、ヴァイゲルらのプロテスタント神秘思想の書物が流布していた地域であったし、ルドルフ二世の宮廷があったプラハはカバラやヘルメス学の一大中心地であった。ブルーノもディーもプラハに滞在した。そして何よりもベーメはルター訳の聖書をもとに学んでいる。

ドイツ観念論や自然神秘主義的思想家であるノヴァーリス、ひいてはドイツロマン主義などベーメの思想を下敷きにしてトレースすると見やすくなる事柄は多い。思い返してみるとベーメの書いた『シグナトゥーラ・レールム』を25年も前に読んだときはまるでチンプンカンだった。暗号文書を読んでるようだったのである。このワカラナイはずっと心の隅にしまいこまれていた。お若い方にいいたいのだが「分からないからといって価値がないわけでもなく、見えないからといってないわけでもない」のである。しかし、こんな説教臭い老人じゃなくて金子光晴のような不良老人になりたいなあ。

フィロソフィアの球 あるいは 永遠の奇跡の目 1620年 キリスト教神秘主義著作集 ヤーコブ・ベーメより

フィロソフィアの球 あるいは 永遠の奇跡の目 1620年
キリスト教神秘主義著作集 ヤーコブ・ベーメより