”世界をロマン化する” part1 中井章子 『ノヴァーリスと自然神秘思想』

「人類とは、我らが惑星の高次の感覚、この星を上なる世界に結びつける神経、地球が天を仰ぎ見る眼なのだ。」ノヴァーリス『断章あるいは思考的課題 202)

「私たちは至るところで制約なきものを探すが、見出すのはつねに物でしかない」、失われてゆく超越的なもの=精神性、この状況を認識した時、ノヴァーリスは、この「ない」ではなく「あるべきだ」を要請した。失われた「世界の意味」を見出すために「世界はロマン化されなければならない」、そして、「万物と万物との関り合い」もまた回復されるべきである。ノヴァーリスは自らの課題をこのように心の中に打ち立てた。それは、「魔術という未来のシェーマ」を実現することだった。

ノヴァーリスはドイツロマン主義の極めて重要な作家である。このロマン主義の「ロマン」とは、もともと、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味であるらしい。ローマ帝国も末期になると文語として使われる古典ラテン語と口語としての俗ラテン語とは著しい違いが生じ始めていた。俗ラテン語は、ロマン語と呼ばれ、そのロマン語で書かれた庶民のための文学がロマンスだったのである。さて、前回のベーメの時に紹介しておいた中井章子(なかい あやこ)さんの著書、『ノヴァーリスと自然神秘思想』をご紹介する。前回にご紹介したように、この本も極めてよくできた本である。中井さんは、シェリング、ヴァイゲル、ノヴァーリス、ベーメ、ゲーテなどの研究者であられるようだ。薔薇十字なども研究テーマであるらしい。魅力的だ。本書は、第一部「超越と自然」、第二部「自然学」、第三部「詩学」という三部構成になっている。

『彼は手を池につけ、その水で唇を濡らした。まるで霊の息吹が体内に滲みわたる心地がして、彼は芯から元気づけられ、さわやかになったのを感じた。水浴びしたいという欲求に逆らうことができなくなり、彼は服を脱いで池にはいった。あたかも、一片の夕焼雲が彼を包んで流れているかのような気持ちだった。彼は天にも昇る心地に満ち溢れた。数知れぬ思いが、快楽にうずきながら彼の中で混ざり合おうとしていた。新しい、見たこともない像が生じてきて、それらも互いにひとつに溶け合い、目に見えるものの姿となって彼を取り巻いた。そして、快い水の一波一波は、まるで乙女の胸のように、優しく彼にまつわった。豊かに溢れる池水は優美な乙女たちの溶液で、それが若者の体に触れると、刹那に元の乙女の体に戻るかと思われた。』(ノヴァーリス 『青い花』 第一章)

ノヴァーリス『青い花・ザイスの弟子たち 他』

いきなり濃い描写の文章で恐縮だが、これがノヴァーリスのいう魔術的自然についての描写であると私は考えている。これから中井さんのノヴァーリス研究に沿いながらその思想を眺めていきたい。彼にとって身体は機械のような固体ではなく連合体ないし連続体である。人間に限らず「すべてのものは鎖の環」のひとつひとつであった。液体や気体のようなガイスト(精神)もまた連続体である。この連続体の環の一つが変化すればその変化は他の環を変化させる。ガイスト(霊=精神)は本来風が思いのまま吹くように、何処から来て何処へ行くか分からない何ものかであった。(ヨハネ福音書三・八) 彼はガイスト(精神)から発展する観念論とは、様々な力ないし気体の論理であるという。思考はガイストの働きである。このような記述もある。『世界は、凝結させられた思考である。何かが固められると、思考が解放され――何かが溶解すると思考が凝結する。』 思考と世界は相互に交換する二つの極だった。そして、『空間は滞る時間であり、時間は流れ去る空間である。』時空でさえ相互に変化する。波は乙女の体の像となり、乙女の体は波となって溶ける。

カントに繋がる哲学者のフィヒテは、ノヴァーリスの父親がその後見人となっていた人である。その関係で二人は早くからかなり親しかったようだ。フィヒテの哲学は、行為する主体としての自己は自己を対象として自覚するのではなく「知的直観」によって直接的に自覚するとした。そして、それをノヴァーリスは「自己の知的直観=神的なものの直接的体験」としてフィヒテの哲学を拡大解釈したのである。直接体験できるのはガイストの働きによる。それは愛の行為と等しかった。さらに、「世界はガイストの顕れである」と彼はみる。しかし、近世の精神(ガイスト)は、物の中から追い出され、硬直した「精神」となってしまったと彼は考えている。ノヴァーリスにとってプラトンの云う「存在の大いなる連鎖」は既にちぎれていたのである。

それでは、何故全ては繋がっていて、その鎖はちぎれてしまったのだろう?それを知るためには世界の成り立ちを考えなければならない。先ほど述べたように精神はガイストの働きであり、世界はガイストの顕われだった。ベーメは「無としての神」の自己をつかみたいとする意志、それがガイストだと述べた。ガイストなくして世界は顕れないのである。そうノヴァーリスも考えている。ところが、ノヴァーリスにとっての神のイメージは根源的なところでベーメのそれとは異なっていた。すでに、ルネサンス以来、ヨーロッパにおいて重要な思想となっていたヘルメス主義と新プラトン主義に彼は影響された。世界は神的なもの、つまり「一者から流出する」のである。したがってすべては連続している。まず、「一なるもの」の周りに同心円状の層が顕われる。第一層としての「第一の知性」がある。第二層は「英知的な世界霊魂」という精神界、第三層は「天の魂」と呼ばれる星辰世界、第四層は「月より下の感覚的世界の魂」である。それぞれの層は上位の層の写像であり、鏡のように互いを映しあうという。一方、ベーメにとって、無としての神は「永遠の自然」を自己から生み出すが、それは神自身から独立した存在であった。そして、神の意志はなおも世界の完成に向かって今も働き続けている。世界創造は現在もなお進行中である。新プラトン主義では存在の連鎖を辿ることによって本源に回帰することができる。私の感想を挟ませていただくなら、ベーメには時間の矢があり、ノヴァーリスには時間の矢がない。ノヴァーリスと同じくドイツロマン主義に分類される画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒが好んで後向きの人物を描くのは象徴的であると私は思う。

『世界は精神の宇宙的比喩―その象徴である。』(ノヴァーリス 『テプリッツ断章』)

フリードリッヒ
『窓辺の婦人』 1822

ベーメの影響が多大だったのは自然の中に見られるガイストのしるし(シグナトゥール)という考え方の方だった。「神が人間になりうるのであるならば、石や植物や動物やエレメント(地水火風の四大のこと)にもなることができる。そしてこのように救済がつづけられているのかもしれない」とノヴァーリスはいう。自然には神のしるしが刻印されているはずだし、また、そうされなければならなかった。自然は道徳的になるべきであり、そのためには神との絆が不可欠だった。それを作り出せるのは人間だったのであり、それを作り出すことを魔術と呼んだ。すでにパラケルススやベーメは「神に従う自然学者」としての人間をマグス(魔術師)と等しいものと考えていた。

ヘレニズム時代のアレキサンドリアで栄えたヘルメス自然哲学は中世ヨーロッパでは、地下水のように潜行し、ルネサンスの時代に再び思想史の表舞台に登場する。この時代に登場したヘルメス的自然学者の中でノヴァーリスが最も興味をかき立てられた人物がパラケルススである。ベーメもそうだった。一者からの流出は神的な第一層の次に「天上的知性界」「星辰界」「元素界」という三つの次元を経る。元素というのは、地・水・火・風の四大元素のことである。彼は心身二元論の代わりにこの三つの次元に対応する「霊的」「星辰的」「元素的」体を想定した。とりわけ重要なのは「星辰的」体であった。パラケルススは放浪する医師である。心身の病は人間の「星のからだ」に働きかけることによっても癒すことができる。流出説で述べたように下位の次元は上位の次元の写像である。したがって「天上的知性、星のからだは、あらゆる物体に痕跡と記号を刻印していると考えられた。この記号が「シグナトゥール(しるし)」である。例えば、「植物は全て地の星である」と考えられたのである。植物の具体的な形や色は、味、香りなども含めて、このしるしの顕われである。また、薬草としての効力もこのしるしとして顕われる。すべては関係し合っているということの一つの例がここにもある。

伝統的な魔術では、全てのものが元は一つのものに由来しており、万物は互いに関わりあっているという「共感」や「万物照応」の考えに基づいて成立すると考えられた。しかし、ノヴァーリスにあってはこの関り合いは、今「存在していない」という。人類の長い歴史の中で聖なるものは退潮していったのであり、ノヴァーリスの時代はそれが極まった時代だと彼は考えていた。「世界の意味は失われた」、それを回復するためには黄金時代が取り戻されなければならなかった。ベーメ流にいえばアダムの転落以前の世界を、同時に乙女ソフィアを回復しなければならないのである。それがノヴァーリスの言う「魔術は未来のシェーマ」となるということなのであった。この未来は「現在」の中の穴をくぐりぬけて顕われるような未来である。

ここで「ロマン化」についてもう少し詳しく述べておこう。ノヴァーリスのいうロマン化は二段階ある。第一段は自己の高次化である。「自我」の反省の運動、すなわち「有限的自我」が「絶対的自我」の自己定立をめざしていく無限の運動、相乗級数のように自らを高めることだった。第二段階は、「ありふれたものに神秘的な外面を与える」という「表現」行為である。複雑で不規則なものを単純で規則的なものに還元する対数化と言ってよい。自己を高め、対象を神秘化できる表現を与えること。このようにして平凡なものと高貴なもの、有限と無限、ありふれたものと神秘なもの、既知と未知、此岸と彼岸、物と精神は結びつけられる。これが「ロマン化」である。例えば、詩人となってありふれた世界を言葉で神秘化するということはロマン化の実践になるだろう。ポエジー化するとはすなわち、創造行為となるのである。

長くなりそうなので、一旦ここで終わります。Part2 では音楽や数学とノヴァーリスの関係、そして、詩学について中井さんの説に沿って紹介する予定です。出来ればノヴァーリス後のドイツ神秘主義、例えばルドルフ・シュタイナーにも触れられればと思っています。

part2 に続く