”記号の組み合わせが全知を導く ” part2 ライプニッツ 「デ・アルテ・コンビナトリア」

ゴットフリート・ライプニッツ 1646-1716

ゴットフリート・ライプニッツ
1646-1716

『‥‥ しかし、私にとっては結合法は事実は全く異なったものです。即ち ”形相の学” あるいは ”相似と相似でないことの学” にほかなりません。これに反して代数学は ”大きさの学” あるいは ”相等と不等の学” です。結合法は ”一般記号学” からさえもほとんど異なっていないように思われ、それを用いて適切な記号が代数学、音楽、そしてまた論理学自身に対してさえ考えだされるのです。』ライプニッツ 「チルンハウス宛て書簡」

若きライプニッツはライモンドゥス・ルルスのアイデアがえらく気に入ったらしく、20歳にして「結合法論(デ・アルテ・コンビナトリア)」を書きあげることになる。ルルスに似せた図まで考えていた(結合法扉絵)。そこには晩年に至るまで彼が研究にいそしむことになる数々のアイデアが見られる。

ライプニッツは抽象的な概念だけでなく私たちの認識の多くが記号的なものになっていると考えていた。このことは大変重要である。後の記号論の祖の一人チャールズ・パース/1839-1914 は、「思想はすべて記号である」としている。私たちの心に思い浮ぶ外的なイメージ、つまり表象には、すべて概念がセットになっており表象と概念は切りはなせない。表象には概念=言葉というタグがついているのである。それを記号だというのだ。ライプニッツの考えもそれに近いものだろうと思われる。そして、いくつかの最も基本的な概念を記号のように組み合わせれば、無数の概念を作り出すことができ、これまで誰も知ることのなかった真理もその中に含まれるはずだとライプニッツは考えたようだ。それでこの方法を、記号によりあらゆることを表現できるという意味で「普遍的記号法」と自ら称し、また未知の真理を発見できるという意味で「発見の論理学」とも言うことになるのである。事物の成り立ちが単純なものの複合によっているのだから、対象を表す記号を組み合わせることによって世界を理解し、真理を発見することができると考えたのである。

ライプニッツは、1646年ライプツッヒ大学の道徳哲学の教授の息子として生まれる。六歳の時に父を失うのだが、随分非凡な子だったようで八歳には父の蔵書を見る機会を与えられたという。これが後に図書館の司書を仕事にするきっかけであったのかもしれない。その後はギリシア語を学びながら、ギリシア・ラテンの古典、教父哲学、スコラ哲学、神学書を読みふけるようになる。40年間にわたってハノーファーの宮殿の図書館長として勤務した。迅速な検索が可能な目録作り、図書の分類と配列の工夫、新刊本や貴重なコレクションの購入など精力的に活動したようだ。特に図書の分類は普遍学の構想と深く関わっていると言われている。図書館の仕事以外にも多くの仕事をこなしていたようで、所要で色々出かけることも多かったようだが、それ以外はほとんど図書館に住んでいるようなものであったらしい。

ライプニッツ 『結合法扉絵』

ライプニッツ
『結合法扉絵』

佐々木能章(ささき よしあき)さんはその著書『ライプニッツ術』の中で、このように述べている。そもそも、発見の方法は三つある。一つは最初に原理的なものを立てて、それを展開することによって、未発見のものを見出す総合の方法。全体を見渡す広い視点を獲得できる。それは単純な概念を結合していく方法に通じる。一つはある特定の問題を解くためにより単純で普遍的な知識を求める分析的方法である。これは命題を分析して最も単純な原始概念を探求することに通じる。前者は原理から降下(展開)し、後者は原理へと上昇する。この上下方向への運動ではなく(勿論この二つの方法をライプニッツは使っているが)水平方向への運動として「目録」を考えている。これが第三の発見の方法だった。いわば概念と概念、命題と命題の間を行き来する方法。言葉という記号を手掛かりに事物の秩序の中の真理に辿りつこうとする。インターネット上をキーワードを探しながら情報にアクセスする現代人をライプニッツは思い描いただろうか?目録作りは編集作業であり、発見の術のための基礎作業だったのである。順列組合せとその結合が要求するものは諸要素が級数なり一覧表なりに整序されることだ(これはルルスが小規模ながら行ったことである)。先に述べたようにライプニッツの本業の一つは図書館の司書だった。図書の配列は普遍学の理論を背景にした百科全書の構想と呼応するものだったのである。

佐々木 能章 「ライプニッツ術」

佐々木 能章
「ライプニッツ術」

基本的な概念の発見は「目録」作りに伴って行われなければ膨大な量の概念を整理することは不可能だ。では、もし、原始概念が発見できたとして実際にそれらの概念をどのように結び付けようとしていたのだろうか?ライプニッツはキルヒャーのように絵文字を用いなかった。キルヒャーは17世紀に多方面に活躍したイエズス会士であり、やはり、ルルスの術に大きな関心を寄せていた。例えば「理性」を✰で、「動物」を♤で表すとすると「人間」という名辞は「理性」と「動物」という✰+♤で表せるが、合成を続ければしだいに長くなってしまうし、♧こんな記号で表せば「理性」も「動物」も導き出せない。記号を足していったのではだんだん長くなっていって記号を使う意味がうすれていってしまう。それで数字を使って足すのではなく掛けたのである。「動物」を2とし、「理性的」を3とする。「理性的動物」は2×3=6となる。もっとも単純な概念を素数にしておけば6を素数に分解すると2と3を導き出すことができる。これが『概念計算』である。勿論もっと複雑にできる。この『概念計算』は『発明術』へと発展させることができる可能性を持っていた。

記号と発明、このようなアイデアは暗号学と境を接している。与えられたデータから暗号を解く鍵を見つけ、鍵を用いて暗号を読み解くのである。暗号学に限らず、人間は記号的な認識を通して認識の範囲を拡大することができるとライプニッツは考えた。そのためには人間の理解の仕方や感覚や身体性に即した操作し易さがなくては使いにくい。楽譜や地図の書き方などを考えればよくわかる。計算のシステムも十進法に限らない。例えば二進法では桁数が多くなる反面、数の操作は簡単になっていく。ライプニッツは十進法による掛け算や割り算のできる計算機を発明し、二進法の計算機までも考案していた。計算機の性能はパスカルのものよりよかったようだ。オートマチックな機械への志向が受け継がれ、暗号学が発展してソフトウエアのアルゴリズムになったと考えれば、コンピューターとの関連を連想するなと言っても無理ではなかろうか。以上佐々木さんの著作から一部を抜き出してまとめてみた。

ライプニッツの発明した計算機 1693年製作

ライプニッツの発明した計算機 1693年製作

 

だが、大きな問題が横たわっていた。もともと、ライプニッツはルルスの結合術をもっと機能的で正確なものにしようとしていたと考えられる。だから、ルルスのように基本的な名辞、つまりライプニッツの言う原始概念あるいは単純概念を、選別できることがまず必要だったのである。それは難しいことがだんだん分かってきた。『ライプニッツ著作集Ⅰ・論理学』(工作舎)の訳者 澤口昭津(さわぐち しょういつ)さんは、その解説の中でライプニッツの記号法について述べている。『結合法論』では原始概念が有限であるとしていた。それを組み合わせることによって新たな概念も発見できるのである。が、しかし、そのこと自体がすでに一つの前提であったのである。その有限性を証明できるのだろうか? 事実真理は概念の分解の無限性を要求するのだと澤口さんは指摘する。日常言語の論理学即ち伝統論理学の範囲では原始概念は多数あり、知識の拡大と共におそらく無限になるだろう。それで、彼の立ち位置は原始概念に準ずるものを扱う記号的代数的方向へとシフトしはじめる。それが新たな発見へと彼を導いていくことになるのである。

彼はパリ滞在中を含めて1670年代から80年代にかけて論理学、数学の記号化に全面的に取り組んだ。その成果の一つが微分積分である。微積は結合術の研究の一端だった。1679年には『普遍的記号法の原理』の中で整数を記号と見做して記号法を形成した。先ほどの『概念計算』のところで述べたことである。それは、少しづつ文字による記号に置き換えられていった。作図による論理形式の証明、また『幾何学的記号法』のなかでは幾何学による計算なども行っている。デカルトの幾何学を批判して、恐るべきことだが、ユークリッドの『原論』の公理や公準の証明が試みられるのである。ユークリッドの『原論』は再構築された。それは「位置解析」と呼ばれる幾何学である。この幾何学では「運動」という原始概念から幾何学的記号法が成立する。点は連続的継起の場所であって運動によって直線となる。これは後の時代に位相幾何学へと発展していった。私の意見を差し挟ませていただくなら、幾何学と運動のこの関係性こそもっと注目されるべきだ。カオス理論では、その方程式の運動を表現するのはアトラクターである。

ライプニッツの行った作図による論理形式の証明の例

ライプニッツの行った作図による論理形式の証明の例

もともと論理学はアリストテレス以来、推論(利用可能な情報とその前提や証拠から、規則、あるいは過去の事例やメンタルモデルに基づいて、結論や新しい情報を導く思考過程)であり、推論の根拠を与える命題は真でなければならない。ライプニッツの関心事はこの推論そのものよりも真なる命題の方にあったと澤口さんは指摘する。彼の方法とは「真なる命題即ち真理の本質と発見の方法」と言えるだろうと。その真なる命題の発端とは「自同命題」であるともいう。例えば肯定命題 “a は aである” は真である。当たり前だ。その自同命題とその変形合成から真理を導きだそうとした。

『計算』ではこのような命題を挙げている。

定義1 二つの項のどちらも真理性を保存して任意の所で他の項に対して置換されるならば、それらは同一である、すなわち一致する。例えば三角形と三辺形がそうである。三角形についてユークリッドにより証明されたすべての命題において真理性を保存して三辺形で置換することができる。また、逆も成立する。

A∞Bは、AとBが同一であることあるいは一致することを表す。

中略

命題7 A は A に内属する。各項は自分自身に内属する。実際、A は A㊉A に内属する。 A㊉A∞A、したがって A は A に内属する。(㊉は内属するという記号/筆者)

命題8 A∞B ならば A は B に内属する。一致する二項の一つはもう 一項に内属する。

命題9 A∞B ならば A㊉C∞B㊉C であろう。同一の項に一致する二項が付加 されれば、一致する二項が生じる。実際、命題 A㊉C∞A㊉C(それ自身で真)において一か所でAに対してそれと一致するBを置換すれば(定義1により)A㊉C∞B㊉C が生じるであろう。

A 三角形 B 三辺形   A,Bは一致する。

A㊉C 三角形・等辺  B㊉C 三辺形・等辺   A㊉C、B㊉Cは一致する。

かなり回りくどいけれど、根本的な事柄とその正しさを証明するという熱意は異様である。自同命題から出発して、観念はこのように結びつけられていくのである。ライプニッツは言う「証明とは潜在的な自同命題を顕在的にすること」であると。

ライプニッツ著作集Ⅰ 論理学

ライプニッツ著作集Ⅰ
論理学

澤口さんによれば、ライプニッツの論理学は伝統的な論理学の再編であるが、外延論理学に関しては完全な成功であるともいう。内包論理学に関しては完成の域には及ばなかったとしている。従来の論理学は内包論理学と呼ばれ、概念を充たす性質について考える。ライプニッツはこの内包論理学にこだわった。これが、彼が主語にこだわる理由である。述語は主語に包摂される。西田幾多郎は主語は述語に包摂されるとして、逆の立場をとった。外延とはある概念をその概念が適用される対象の集合(クラス)について考える。例えば金属の外延には金,銀,銅,鉄など一切の金属がある。個別を扱う外延論理学は成果をみたのである。 彼の論理学は徹底的に数学的であるから数学的論理学と言えるけれども、フレーゲやラッセル以降の現代論理学とは隔たりがあるようである。しかし、ラッセルがライプニッツを熱心に研究したことはよく知られていることであって、現代の論理学をライプニッツがルルスの結合術を普遍数学へと移行する中から生まれた落とし子だった考えることもできるのではあるまいか。そう私は考えている。

彼の結合の一般的方法あるいは記号法は代数が与えるものよりはるかに多くのものを含んでいるとライプニッツは自負していたようである。こう述べている。『‥‥代数学の貢献たるや見誤ろうとて見誤ることもできないほど多大で、さながら機械の助けを借りて紙の上に記されるがごとくに、真理はとらえることが可能となりました。あらゆるこの代数学的証明は、今日の、私が結合術の記号法と呼ぶことにしている、より高次の学問に帰せられるものです。‥‥人間理性の完成のために、これほど効果的なものは思い浮かばないのです。こういう基礎作業が哲学するために受け入れられるならば、遠からぬ将来、神と理性に関するわれらの知識は、図形や形式に関する今日のわれわれの知識に劣らず確固たるものになるでしょう。そして機械の発明は幾何学問題の構成よりむずかしいわけではないでしょう』と。

結合法は普遍数学であり、その応用が論理計算と幾何学的計算(位置解析)であった。結合法の本質はあくまで形相の学であること、つまり、相似と相似でないことの学である。これは幾何学でいう相似といった狭い意味ではなく、もっと広い意味に捉える必要がある。ライプニッツの場合、相似とは「質を同じくする」という意味を持っている。”同一性と差異性” は比較される二つのものに対応関係があるかないかによって区別される。同一の構造というパースペクティブの中での区別である。アナロジーとは何かをもう一度考えてみる必要がありそうだ。イメージングアートとヴィジュアルサイエンスの研究者であるバーバラ・スタフォードがライプニッツを称賛する理由はここにある。スタフォードについてはこちらをごらんください/ 

ライプニッツ本人はこう書いている。『貴方が、結合法は変動の数を見出す学であると考えているならば、それが数の学、従って代数学に従属することを異議無く承認します。‥‥ しかし、私にとっては結合法は事実は全く異なったものです。即ち ”形相の学” あるいは ”相似と相似でないことの学” にほかなりません。これに反して代数学は ”大きさの学” あるいは ”相等と不等の学” です。結合法は ”一般記号学” からさえもほとんど異なっていないように思われ、それを用いて適切な記号が代数学、音楽、そしてまた論理学自身に対してさえ考えだされるのです。』論理計算と幾何学的計算は結合法のための手段であって目的は形相の学たらしめることにあるという。これは意外な結末ではなかろうか。さきほどの三角形と三辺形が思いだされる。質を同じくするものの結合でなければ真であることが保障されないからなのだろう。逆に言えば構造を同じくするものでなければ繋げられないのである。「真なる命題即ち真理の本質と発見の方法」とは真理であることを保証しながら同一の構造を持つものを結合する、あるいは存在の新たな集合を知らせる方法であったのではないだろうか。

普遍数学から彼が何を発見し発明したのか、一部を紹介できたにとどまっている。彼のアイデアから花開いた世界もまた一部しか紹介できていない。なにしろドイツにおいてもライプニッツ研究は長期に及ぶ作業であるようだ。まとまった著作が少ないのに比して書簡や断簡、膨大な手記が存在するからである。全貌はいまだ把握されていない。ライプニッツの論理学が研究されるようになったのはようやく19世紀になってからのことである。

彼の思想のこの異状なほどの遠心力の秘密はどこにあるのだろうと考えてしまう。きっと一つは全ては繋がっているという世界観にある。それが、連続律とよばれるものである。ライプニッツの考えでは、「同じ」は無限小の差異であり。「停止」は無限小の運動であった。ルルスも世界は大いなる連鎖である考えていた。しかし、それは階段状にイメージされていたのである。ライプニッツの連鎖のイメージは乱流としての連続である。ここに秘密がありそうだ。

ジル・ドゥルーズ 『襞 ライプニッツとバロック』

ジル・ドゥルーズ
『襞 ライプニッツとバロック』

フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、ライプニッツのバロック的宇宙をこう記述する。「宇宙は、ある能動的力に圧縮されているようであり‥‥物質のもろもろの部分は、絶えず分割されて、渦の中に小さな渦を、その中にさらに小さい渦を作り、互いに接しあう渦の窪んだ間隙に、さらに渦を形作る。」この記述は、どうみても乱流である。そして、「物質は、それゆえ空虚をもたず、無限に穴だらけ、スポンジ状、多孔質の繊維であり、いつも穴の中には、別の穴がある。それぞれの物体は、その中に不規則な通路が穿たれ、ますます精妙な流体にとりまかれ、浸透されているかぎりで、どんなに小さくても一つの世界をそなえている。」 ここまで描写されるとライプニッツの宇宙とは乱流のような「場」であり、物質はフラクタル構造を持つように思えてくるのである。

最小の物質の単位がアトムであるとデモクリトスによって考えられたように、ライプニッツは最小の霊的単位をモナドとした。モナドは、単子と訳され世界の最小単位をなす単一な、つまり部分のない実体であり、自然における真のアトム、森羅万象の要素である。ゲーテはこのモナドやその別名であるエンテレケイアにひどく魅せられたようだ。それらは、宇宙の創造とともに一挙に創造され、自然に発生・消滅・分解することがない。神の中に、万物の源泉である力、多様な観念を含む知性、そして最善を選択する原理に基づく変化と生産を引き起こす意志があるように、モナドには、主体、表象能力、そして、欲求の能力がある。

モナドは、他のモナドにたいして独立しており、それぞれがユニークである。それらは、内的な原理によって変化し、単一のものの中に無限の多を孕み、表現する流れをつくる。これが表象である。無意識的な表象の流れを含んでいる。ほとんど知覚を持たない裸のモナドは、この知覚、表象の無限の連鎖を繰り返す中で記憶するモナド、つまり魂となる。そして、意識的知覚の真の結合は、モナドを理性的、あるいは反省的にするのである。モナドは、こうして精神となる。霊的に進化するのである。世界は、最高のモナドである神から流出するように数々のモナドで充満しているのだが、それぞれのモナドは、完全に他のモナドから遮断されている。モナドには窓がない。しかし、全ての被造物が他の被造物と結び合い、対応しあっている結果、モナドには、他のモナドの全てが観念的に映し出される。表象の自動機械、宇宙の過去・現在・未来を映しだす永遠の生きた鏡なのである。このモナドをイメージするのは容易なことではない。剛体としてのイメージは捨てた方がいいと思う。私は、むしろ量子場における粒子のようにイメージするほうが近いのではないだろうかと思う。あるいは流体の中の渦の一つ一つ。しかし、ドゥルーズはモナドは二階建だと言っている。頭を抱えてしまう。

モナドのこの構造もまた結合術につながる。モナドは閉じられていながら全ての知識を映し出している。完全に独立していながら全てと繋がっているのである。それはマラルメが夢見たような一冊の完全な本であるとも言える。ドゥルーズの言葉を引用するなら『バロック的な繊維のモデル(世界を織り上げられた布と見る見方/筆者)にもどるなら、認識は、それが認識するものに劣らず、それ自体折り畳まれるといえよう。ライプニッツが言うように、三段論法や定義の連鎖は一つの繊維であるが「もっと組織された」、いつも役に立つ省略三段論法がそうであるように、折り畳まれた「別の繊維が無限に存在する」。もっとも純粋な三段論法的繊維もすでに思考の速度にしたがって折り畳まれている。観念は魂の中にこんなにも折り畳まれているので、観念を展開することはいつも簡単ではない。事物自体も自然の中に折り畳まれているからである。‥‥‥ところが、神においてさえも、諸観念は、無限の悟性にひそんでいる襞なのである。』

いかがであろうか。事物は自然のなかにスケーリングを伴って折り畳まれている。もし、それが相似形なら完全にフラクタル構造である。論理や定義もまた同様に魂(モナド)の中に折り畳まれている。それは互いに包摂しあう定義の連鎖である。結合術とはモナドの折り畳まれた襞を丁寧に展開する作業である。自然と魂、ここにも相似形がある。全ては繋がっているのだ無限に!

さて、十分とは言えないがライプニッツの結合術とその思想的な背景をご紹介した。モナドの紐帯や予定調和説なども本来なら取り上げなくてはいけないのだが。それよりも、結合術における言語の問題がまだ手つかずで残っている。この言語の組み合わせを巡って文学の世界で何が起こったのか?part3ではノヴァーリスに戻ってこの問題を取り上げることになる。いよいよ、文学と結合術の関係があきらかにされる。ご期待ください。