”記号の組み合わせが全知を導く ” 最終回 「アルス・コンビナトリア」とノヴァーリス以降

ジョン・ノイバウアー 『アルス・コンビナトリア― 象徴主義と記号論理学』

ジョン・ノイバウアー
『アルス・コンビナトリア― 象徴主義と記号論理学』

ライプニッツの思想にノヴァーリスが触れたのは医学史や思弁哲学の書物からだった。例えばティーデマンのこのような記述からである。『(ライプニッツの)これらの研究をうかがうに、彼の火のような、つまりいまだ冷静な理性によって充分に手綱を引き絞られていない想像力が、熱狂・エクスタシー・霊魂との交信といった知らぬまに忍び込む甘やかな毒素によって、汚染されてしまったように思われる。‥‥どう見ても流出論への彼の傾きもここに発しているのであって、最後期の思想すらなお、入念にシステムの被いがなされているにもかかわらず、この傾向が漏れでるときがある。これにはもしかすると、かの熱狂的なピュタゴラス派の数秘術信奉者ヴァイゲルもまた多々貢献していたのではないか。‥‥カバラの体系をライプニッツは、折々の発言からして、少なくとも大変正確に知っていたし、彼に近い神秘主義たちすら、そしてヤーコブ・ベーメも彼の眼を逃れはしなかった。』(ベーメについては”鏡というメタファー” 岡部雄三 『ヤコブ・ベーメと神智学の展開』で書いておいた) ティーデマンはライプニッツを批判しているのであるが、ノヴァーリスは自らの思想を深化拡大する可能性をそこから逆に読み取ったのである。それはピュタゴラスの思想や新プラトン主義などの思想への共感とあいまってルルスの術を発展させたアルス・コンビナトリア(結合術)が決定的な要因となった。(ノヴァーリスの思想的な背景については”世界をロマン化する” part1中井章子『ノヴァーリスと自然神秘思想』、及び part2 をご覧いただきたい。)まず、ライプニッツの結合術をノイバウアーの著書『アルス・コンビナトリア』から要約して前回の復習としたい。

ルルスの術は当時の思想に大きな影響を与えてはいたが、すでに批判される側にあった。概念遊戯にすぎない古い手法というわけであるが、デカルトは一切の問いに答える普遍学というアイデアを、ベイコンは「学問の樹」というそれをルルスの思想の中から得ていた。ライプニッツはルルスの術を記号化、数学化しようとしたのである。

結合術は命題に関わる。主語が与えられれば、述語が発見されなければならない。逆もまたそうである。たとえ新しい概念といえど命題という形で表現されなければならないからである。そのためには概念を一定数に限られた数の原始(根本)概念に解体してしまうこと。その原始概念を数字などに記号化すること。そして、その記号を結合術によって結合させるのである。本来は、最後の操作が結合術というべきである。そして、概念を参照できる諸ジャンルに展開された百科全書が必要になる。

この結合術は概念の置換と結合が数式によって行われる。それは、ある概念の集合内での置き換えと結合、つまり順列組合せなどによる複合の可能性を規定する。この結合には三段論法などが適用される。そうでなければ意味のない組み合わせを排除できないからである。ここで、記号論理学の基礎が敷かれることとなる。

ここからはノイバウアーの著書に沿いながら文学における結合術とノヴァーリスとの関係を追っていくことにしたい。

上に述べた、この本来の結合術は概念の他に法学、幾何学、三段論法、詩学といった様々な分野での応用が試みられる。詩ではいわゆる「プロテウス詩」と呼ばれる形式が試みられた。単一音節からなる基礎語が連続的に並べられる形式の詩である。これは語の配列を変えて無限の様相を示せるような詩であった。例として次の六歩格詩をご覧いただきたい。

王、諸侯、太陽、法、光、泉、希望、平和、山、岩、キリスト

Rex, Dux, Sol, Lex, Lux, Fons, Spes, Pax, Mons, Ptra, Christus

この詩に対してライプニッツは3,265,920の置換可能性を数えあげた(これは単なる11個の階乗ではないことを指摘しておきたい)。

このような詩には先例があり、ツェーゼンは言葉を文字に還元し、その文字を地水火風に対応する四つの原―響(音)つまりa/e/u/oにあてた。この原音の混合によって別の音が生み出されると考えたのである。ハルスデルファーは文字の構成をもっときめ細かくした。ドイツ語の前綴り、前・中・後を形成する文字の語幹、及び後綴りの五重の金属板からなる円盤を回転させて「現にある」語、「これから存在するであろう」語を製造しようとしたのである。いわば五重の言語ルーレットだった。このような考え方、発明の背景には「自然そのものがアナグラムとして、すなわち字母変換されるものとして」、それゆえ「完全なる書物」として、読まれるべく人間に与えられるという確信がある。言語は神から与えられたものであり、宇宙は神の創造したものである。言語の要素はコスモスの要素に照応する。

ハルスデルファー 「ドイツ語の五重の思考環」

ハルスデルファー
「ドイツ語の五重の思考環」

先のプロテウス詩における基礎語のかわりに文章をあてがえば、文章の順列組合せと結合術となり、複合文にすれば章立ての順列組合せと結合術になるのであろう。

クールマンは、ハルスデルファーの詩をお手本に変転文と呼ばれる形式の詩を大いに歌い上げた。人智とは神の叡知から「流出した」ものであり、人間の言葉と学問における変転は、自然の変転ぶりに基づくという考えはなお共通の価値観として存在していた。

『‥‥‥全能なる天と地の創造者は回転する車輪のごとくに天と地を仕組まれた。/変幻自在の言の葉のかわりにわれら被造物を選ばれた。すなわちこの世の一切は変転する。/一切は愛し/一切は憎む。‥‥‥。

幾重にも紡ぎこまれたあの天を見よ/そしてその光輝く驚異の眼を/おお太陽よ! 巨大なる車輪の回転を見ないか。

壊しては/創る、偉大なる世界創造者によって、いわば人事にわたる世界は変転ゲームとなり/そして変転する言葉からは好きなだけ変転詩が生み出される‥‥‥一切はこの整然たる変転の環の中で生まれ死すべく、へめぐる運命にある‥‥‥。』

このクールマンの詩から窺えるのは一切の結合を内包する「トータルな詩」というものが想定されていること。われわれの前にある実際の詩はそのトータルな詩の内部にあるほんの一つの可能性に過ぎないという意識である。これはライプニッツが無限に可能な結合のうちのひとつをこの実世界と見たのと等しいのである。この哲学がなければ、その詩は、ただの言語ゲームになってしまうとノイバウアーは強調している。それがなければ、結合術はマニエリスム(手法主義)となんら異なるところが無くなってしまうのである。

これらの詩を支えるいわば結合主義的美学は、ノヴァーリスの親友フリードリッヒ・シュレーゲルによって新たな意味を獲得される。彼は来るべき文学を奨励する批評とは、「すでに先行し完成され咲き誇る文学の評釈ではなく、むしろこれから完成され形成されはじめらるべき文学の機関」と捉えた。シュレーゲルは18世紀の詩人・思想家レッシングのいう機知が芸術と哲学の間を媒介して「悟性とファンタジーとの最も内密な混合と浸透」をもたらすと考えた。レッシングはあの『ラオコーン』を書いた人物である。結合術は「生産する力」を活性化し育てることを目標とし、断片的批評の形をとって「構造の比較審査」を行うという。これらの考えは、ノヴァーリスとの間で、共通の思想、共通の信条という基盤の上でさらに、より深く、より濃く醸成されていくことになる。

概念を一定数に限られた数の原始(根本)概念に解体して、記号化し、参照できる諸ジャンルに展開された百科全書を作ることは、ノヴァーリスにとって小説のための基本的素材を集めカタログにすること、そして対話体を文章の中に溢れさせることだった。そして、その記号を結合することは小説や詩をあたかも音楽化し、作品の中で修辞学的形式のシステマティックな探究に加えて作品反省をも作品の中に入れてしまおうとすることだとノイバウアーは見ている。

ノヴァーリスは小説構想のための長大なカタログを作っていた。洞窟、海、玉座、旅、小屋など人間が置かれる34の状況リスト、滑稽、愚鈍、詩人、陰謀好き、賢明などの人間の40のタイプ、名誉心、復讐、宗教、強制、憎しみ、誇りなどと結合した34の愛のタイプなど結合の可能性を一望のもとに収めようとする。それは、数多くの精神と諸人物の全システムを所有し、その内部に宇宙を、いわばモナドの一つひとつに芽ぶかしめ、それを育て熟させる精神であった。諸ジャンルの百科全書を小説の枠内で実現しようとすれば、それは当然ながら表現の類型化、図式化を必要とする。ジャンルは、「エッセイ、報告書、証明書、論文、書評、モノローグ、対話の断片‥‥」などが手本にされた。初期ロマン派にとって百科全書の遺産は「無限の充溢」であったのである。

新しい小説は「大量の会話」で満たされ、修辞学的話法の一種の便覧を生み出すように意図される。ロマン派の散文は高度にめまぐるしく、驚異的で異様な展開を、劇的で激しい飛躍を見せる。時に脈絡を失う。それは「喜劇的なものと最上のポエジーとの結婚」であり、「粗野で下卑たものと、高貴なもの、高みにあるもの、詩的なものとの混合」である。小説は、結合術と百科全書の構成原理をぎりぎりまで拡大することによって生まれる。

不特定の数学記号が公式へ、音楽の音色が和音やメロディーに、恣意的に選ばれた言語記号が組織だった文へ、断片として提示される概念が百科全書へ、それぞれ組込まれるように個々の登場人物、文学の種類、言語形式もまた小説を結合術によって編まれた織物へと変ずるのである。「溢れんばかりの多様な素材がひとつとなるところでは、新たな化学的結合と浸透が起こりうる」とノヴァーリスは考えていた。

20世紀の文芸評論家であり、思想家だったヴァルター・ベンヤミンは、「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」という著作の中で、シュレーゲルやノヴァ―リスが芸術を「反省の媒質(体)」として使っていると指摘している。この反省は特定の対象にではなく、形式それ自体に 向けられている。言いかえれば、ロマン主義芸術作品に際立っているのは、作品の生まれ方や独自の詩的処方について自分で意識しているところにあると言うのである。ロマン派のポエジーは「ポエジーのポエジー」であり、その理論は「形式についての理論」である。ここではある種の入れ子構造、「累乗された形式」が生み出された。ノヴァーリスの主張する「世界のロマン化」は、「質的累乗以外のなにものでもない」と。また、こう述べている。「低い自己はよりよい自己とこのような演算の過程で一つになる。まさにわれわれ自身が質的累乗の級数である‥‥‥。」

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツロマン主義』 ドイツロマン主義における芸術批評の概念

ヴァルター・ベンヤミン『ドイツロマン主義』
ドイツロマン主義における芸術批評の概念

では、具体的にノヴァーリスはどのように小説を構成したのだろうか?ノイバウアーは第11章「『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』と近代小説」の中で詳述している。驚くべきことは、ノヴァーリスがこの『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』(邦題は「青い花」)をゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』への批評として小説という形式を通して書いていることである。

この物語は、13の詩と三つのメルヘンによって中断される会話と描写からなる。そのうち二つのメルヘンは一章まるごと、完成した第一部の三分の一以上を占めている。ハインリヒの成長はアイゼナッハからアウグスブルクへの地理上の旅行に並行した一連の対話と議論から窺えるように表現されており、第一章はハインリヒと両親との会話が、第二章では商人たちの会話やハインリヒと母との会話が、第三章の「アトランティス・メルヘン」の後で第四章の十字軍騎士と東洋の女との対比的会話が、第五章での鉱山技師と隠者との会話へと続き、第六章から八章へのポエジーと愛についてのアウグスブルクでの会話、第九章でのクリングゾールのメルヘンで第一部は閉じられる。

この「青い花」では、自然、歴史、芸術、愛、宗教につての対話体での無数の反省が編み込まれた。それは、「ポエジーはひたすら詩的であるものの一切を包含する。一切とはすなわち次々と複数のシステムを内部に含む最大級の芸術システムから、詩を口ずさむ子供が巧まざる歌で口から漏らす気息、キスにいたるまで」という考え方にそうものだったのである。シュレーゲルは、対話とは「フラグメントの連鎖、もしくは花冠」と譬えているが、この小説は「対話化された小説」として構成されており、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』が手本になっている。ノヴァーリスは、ゲーテ作品の「朗々たる語りの魔術」を半分は認め、「なめらかで人あたりのいい、簡潔で多様な言語の押しつけがましい媚態」と半分は批判しているのである。それはゲーテ作品の批判的継承といっていいのかもしれない。

人物群を図式的に描いて小説構造に組み込むこともノヴァーリス小説の特徴である。大きく分類して二つに分けられる。第一は教師像である。見知らぬ訪問者、鉱山技師、隠者、クリングゾール、アトランティス・メルヘンに登場する父親などがそれにあたる。彼らはハインリヒに人生の叡知を伝授する人々である。第二は宮廷と市民の両世界における群像。つまり、商人、十字軍の騎士、シュヴァ―二ングの客たちである。彼らはハインリヒを社会に案内し、彼の成長のための様々な世界観の媒介となる。それぞれの意見は異なるとしても出会いのあり方は繰り返し同じであるとノイバウアーはいう。個々の段階で完結する話の筋も基本図形の上のヴァリエーションにすぎない。そういう構造はカフカの用いる基本構造の変奏と同じだと主張している。ノヴァーリスとカフカ、不思議な取り合わせだ。

人物や物が記号化されるのであるからノヴァーリス小説は「イメージ喪失」という性格を免れえないとノイバウアーはいう。描写はただの概念記号になるからである。それは、後期ロマン派の詩人アイヒェンドルフと同じように目立たない、ほとんど決まり文句のような名詞と形容詞を使うことに原因がある。ロマン派の象徴になった「青い花」さえ感覚的な具体性を欠いているとノイバウアーは言う(これはやや言い過ぎの感はある)。この未来志向の花は小説の冒頭では内面化された記憶の対象であったが、さらに会話や夢で言及され最後にはハインリヒの巡礼の目標になる。青い花は具体的な象徴ではなく、特定されない記号であるというのである。それは筋の展開や意識の出来事のうちに次第に具体的になっていく生成する理念であった(まるでオートポイエーシスだ)。

話の会話体としての進行や人物の図式化や類型化は物理的な世界を希薄なものにし、空間を狭め、時間のパースペクティヴを拡大していく。ノヴァーリスは空間を凝固した時間とみており、あらゆる固体は「自分の時間」を持つ。ノヴァーリスにとって時間とは、カントの言うように「内部感覚の形式であり、われわれ自身とわれわれ内部の状態の直観」であった。「空間は時間に移行する、肉体が魂の中に移行する(まま)に似て」というわけである。逆に時間は空間に変わる(このことについては美術史家としての高橋厳 ヨーロッパの闇と光を見ていただければと思う)。物は運動に解消され、ハインリヒの気分に結び付けられる。こうして、あらゆる要素は意識の表現となり、時間の中の私の形成に役立てられるのであり、世界の観察は自己意識の探求となる。それを拡大すれば「普遍宇宙の意識」に行きつくことになるのである。このロマン派以降の流れの中で、小説の中の物語が想起と予見の複雑な交錯劇となっていき、通常の時間の直線的な年代記が解体されていくのは偶然ではない。

ゲーテ 『緑の蛇と百合姫のメールヘンヒェン』 とルドルフ・シュタイナーによる解説

ゲーテ 『メールヒェン』 とルドルフ・シュタイナーによる解説

それから、ノヴァーリスのメルヘンへの偏愛について。ノヴァーリスはゲーテの小説だけではなく、それ以上に『メルヘン』を愛していた。ゲーテのメルヘンを「ロマン主義化のそもそもの本質」とまで言っている。創作/人工メルヘンは音楽の作曲、代数学に匹敵する。自然をコピーするのではなく、その究極へと向かえば次第にメルヘンに移行すると彼は考えていた。メルヘンは夢の像と同じように、脈絡を欠き驚異の物と状況のアンサンブルである。ここでは通常の法則世界ではなく、非ユークリッド幾何学やその他の法則が支配する可能世界が立ち現れるのである。

クリングゾールのメルヘンではカード遊びの美しい描写がある。

『星々の聖霊が玉座のまわりに立ち並び、勇士も列に加わって、所定の位置に着きました。無数の星々が雅びやかな群れに分かれて広間を埋めました。侍女たちが、机とひとつの小函を運んできました。小函には一組のカードが入っていて、そのカードには星座の図ばかりを組み合わせた、神聖な意味深い記号が書かれていました。王はうやうやしくこれらのカードに接吻すると、全部を丹念にきって混ぜ合わせ、何枚かを抜いて王女に渡しました。‥‥‥ときどき、うまく合ったカードが出て記号と図像の美しい調和をもたらすことができると、彼の顔には喜びの色が浮かびました。‥‥‥同時に和やかな、深く心を動かす音楽が空中に聞こえましたが、その音楽は、広間の中で奇妙に入り混じりもつれ合いながら動いている星々、その他の不思議な運動から生まれてくるようでした。星々は時にはゆっくりと時には早く、絶えず変化する線をなして揺れ動き、音楽の進行につれて、カードの図像をきわめて巧みに模写するのでした。音楽は卓上の絵画と同じようにたえず変化し、その移行が実に奇抜で強引なこともまれではありませんでした。それでもただひとつの単純な主題が全体を結びあわせているようでした。信じられないほどの軽やかさで、星々は絵の通りに飛び交いました。』

星の図像でできた記号が描かれたカード、カードの組み合わせによる記号と図像の美しい調和、カードの図像にあわせて踊る星々、その運動に呼応する音楽、空間の時間化。これは、ノヴァーリスが意図したロマン主義的手法の見取り図になっていないだろうか。ベンヤミンのいう反省の媒体のための芸術とはこのことである。

ここまでノイバウアーの著作『アルス・コンビナトリア』を通して結合術(アルス・コンビナトリア)とノヴァーリスの小説の手法との関係をみてきた。20世紀にはシステム理論や構造主義など、いわば反省媒体としての思想が花開いた。メタ言語、メタ哲学、メタ科学などなど、もともとの領域より一段高い視点で見る立場といったらいいだろうか。それはセザンヌ以降の絵画運動、12音技法以降の近・現代音楽、20世紀文学などにも言えることである。結局それもプラトンの大いなる連鎖、例のルルスの階段と同じ構造ではあるまいか。上位のシステムから下位のシステムを眺めるのである。上位は下位の内容を必ず含む。だからそれらの傾向を結合術のなせる業とする訳にもいかないだろう。それに、ライプニッツの連鎖は乱流である。19世紀の表現に沿うならアラベスクである。それなら結合術やノヴァーリスを中心とした初期ロマン派は後世にどのような影響を与えたのだろうか? それを知るためにエドガー・アラン・ポー、ステファヌ・マラルメ、ホルヘ・ルイス・ボルヘスを見ていきたい。

 

ポーを一躍有名にした詩は『大鴉』だった。その特性をヴァレリーは「分析と計算構成」を夢見た最初の人としている。ヴァレリーはノヴァーリスの思想を知らなかった。『近代詩の構造』を書いたフーゴー・フリードリヒは、ノヴァーリスを近代詩の開拓者とみなし、彼にとって重要なのは「音楽的魂の状態、もはや言葉の意味には還元できない音と間の連鎖」だという。その指摘をノイバウアーは重要だとしている。ポーにとって詩を仕上げるための条件は、リズム、韻文化、象徴化、長さの問題だった。『大鴉』の最後の部分を下に掲載しておく。緊密な音の連鎖と呼応がある。あのLeonore やnevermore nomore などのねっとりした語感が読者の感情の中に何かを生みだすのである。

And the raven, never flitting, still is sitting, still is sitting

 On the pallid bust of Pallas just above my chamber door;

 And his eyes have all the seeming of a demon’s that is dreaming,

 And the lamp-light o’er him streaming throws his shadow on the floor;

 And my soul from out that shadow that lies floating on the floor

 Shall be lifted – nevermore!

すべてのものは、音響的に刻印され、シルエット化し、暗号化するよう強いるべきであるとノヴァーリスは考えていた。ノヴァーリスとポーとの近さをノイバウアーは指摘している。フランスの象徴派の詩人にポーが与えた影響は、ボードレールが語った通りだったとしたら、とても大きなものだったはずである。次はその象徴派の中心的詩人ステファヌ・マラルメに移りたい。

マラルメ全集Ⅰ 詩・イジチュール

マラルメ全集Ⅰ
詩・イジチュール

ギ―・ミショーの著作『ステファヌ・マラルメ』からマラルメの言葉とそれに纏わる記述を追ってみる。『』内はマラルメ自身の言葉である。

「言語の魔術師、それこそマラルメがなろうと思い描いているものである。どうすればなれるのか、‥‥‥ある手紙で、彼は三という『あの崇高な数字』に対する『カバラ的偏愛』を語っている。/書簡」

『さまざまな昔ながらの方法[魔法]と、詩がこれからもそうあり続けるであろう呪法とのあいだには、ひそやかな等質性がある、と私は言っているのだ。/全集』

『神秘科学は純粋記号の注釈であり、いかなる文学といえども、精神から直接噴出するものである以上、神秘科学にしたがわねばなりません。/書簡』

『充分に練り上げられ、厳密な基準にのっとって組織立てられ、現にそうなしえている通り<宇宙>を表現しているもの/書簡』

『語を通って文から文字へ達すること。語をその意味に関連づける、<記号>、あるいは文字言語(エクリチュール)を用いつつ。/全集』

『‥‥‥人類を自己に至るまで夢見たものなら誰であれ、その精神においては、存在の純粋な律動的主題の正確な計算以外の何も存在しないのである。こうした律動的主題とは、存在の識別可能な諸記号なのだ。そこで、私は至るところで好んでそれらの記号を解読するのだ/全集』

ご覧のように、ここにあるのは数秘術やカバラ、そして神秘科学であり、宇宙を表現する厳密な基準、律動的主題という「語と意味に関わる記号」、それによって解読される世界である。

マラルメが目指したもの、それは究極の『書物』だったようである。宇宙の構造と展開を反映し、それらを反映することによって宇宙の隠れた意味を説明するような本、まるでモナドのように全てを映しだす鏡。「大計画」だった。全体は二十巻からなり、「聖なる」規則にかなうものであり、建築物のように構成されなければならなかった。凝固したものではなく綴じられていない入れ替え可能な可動的な形式。「置換の法則によって決定された、幾通りかの異なった順序にのっとって」読まれる本。自分がいままで書いてきた作品はこの「本」のカタログに過ぎないと自身考えていた。最初のあたりで紹介したクールマンの詩から窺えるような、あの一切の結合を内包する「トータルな詩」と「現前の詩」との関係を思い出させる。しかし、それは完成しなかった。あたかもライプニッツの結合術が完成に至らなかったように。

彼の最も有名な詩『賽の一振り』はこの「本」の断片だったのである。従ってこの詩はマラルメにとって気まぐれな実験ではなく必然性を持った作品だった。その発表の前にこんなことを言っている。『詩句で書かれた合奏が観念の上演へと招く。熱狂あるいは夢のさまざまな動機=主題が、ある種の排列とそれぞれ自身の個性とを介して、そこでたがいに結ばれてはまた離れる。かくかくの部分がリズムあるいは思考の運動へと傾き、それに対立して、かくかくの図柄が矛盾したかたちを見せる。そのどちらも、まさしく最終部に到ろうとして、終わり、そこに、尾のあたりにはアラベスク模様の葉叢や唐草と入り混じりながらも、半ば以上姿を浮びあがらせたセイレーンたちさながらに、具体的形象が介入してくるだろう、そのような形象以外のものでもない観念。』

ステファヌ・マラルメ 『賽の一振り』 最終ページ見開き 清水 徹 訳

ステファヌ・マラルメ 『賽の一振り』 最終ページ見開き 清水 徹 訳

マラルメの 弟子ヴァレリーは『賽の一振り』をオーケストラの楽譜の印象を与えるように特別に作られた詩編だと言っている。マラルメはひとつの詩的観念をオーケストレーションするということをあえてやってのけたのだと。天空の二つ折版ページに描きこまれた星座のような詩編。言葉による音楽の空間化。音楽に対する文学の絶対的優位を彼は確信していた。ノヴァーリスの発言に見まがうようなこんな言葉を残している。『‥‥‥万象の中に存する相互関係の総体として、充満と明証とをもって、<音楽>が結果として生ずるにちがいないからである。/「詩の危機」』

マラルメの詩的な記号構成を窺わせる例があるので、述べておこう。『マラルメ全集Ⅰ』の解説にはこのような記述がある。「賽の一振りが偶然を廃滅することはないだろう UN COUP DE DÉS JAMAIS/N’ABOLIRA LE HASARD」という詩句の「HASARD 偶然」という語は語源的には「賽を振る遊び=賭け」を意味する。この主幹文「賽の一振りが偶然を廃滅することはないだろう」は語源的に読むならば「賽の一振りが賽を振る遊び=賭けを廃滅することはないだろう」という奇妙な同語反復になるという。私はこれを結合法的に解釈してみたい。そうすれば「xはx’を否定しない」というように記号化できる。これについてはライプニッツの自同命題と相似を思い出してほしい。マラルメの草稿は手仕事と単純な算数の計算であふれているそうである。フランス語に堪能で数学にアレルギーのないマラルミストのみなさん、ここには黄金が埋まっているのだ。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス  『伝奇集』

ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『伝奇集』

次はホルヘ・ルイス・ボルヘスに移りたい。ノイバウアーはボルヘスを結合主義文学者の例として挙げていないが、面白いので書いておく。ボルヘスの小説も20世紀の多くのそれと同じように自己言及的である。例えば『伝奇集』に収められている『「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール』には、メナールの作品を列挙する箇所があるのだが、その中からいくつか抜粋してみる。(a)象徴主義のソネット、(b)‥‥‥概念の、詩的用語を構築する可能性についての研究論文、(c)デカルト、ライプニッツ、ジョン・ウイルキンズの思想に見られる「ある関連もしくは類似」についての研究論文、(d)ライプニッツの『普遍的性格』についての研究論文、(f)ライモンドス・リュル(ルルス)の『大いなる術』につての研究論文、(h)ジョージ・ブールの記号論理学につての研究論文、(m)アキレスと亀に関するライプニッツの忠告を掲載した、ラッセルとデカルトに当てた章の改訂、(o)ポール・ヴァレリーの『海辺の墓』のアレクサンドラン格による書き換え。アレクサンドラン格(12音綴り詩句)はフランス詩の基準をなす音楽性であると言われており、マラルメは「国民的律動」と呼んだ。この詩はそのリズムの変形可能性のカタログとして書かれたようだ。列挙された19箇所の内、今挙げた7箇所は結合術、ライプニッツ、記号論理学などに直接、間接に関係する作品についてであり、あろうことかルルスまで登場するのである。ルルスについてはこちら”記号の組み合わせが全知を導く ” part1 ルルスの術  「アルス・コンビナトリア」をみてください。

『バベルの図書館』にいたっては記号法と図書館というライプニッツを思い起こさずにはいられないような記述になっている。「カタログ類のカタログにある一冊の本を求めて遍歴した」語り手は厳密な、中心が任意の六角形であり、その円周が到達不可能な球体であるような図書館にいる。それは無限である。不可解な書物をある者たちは暗号法と考え、この推測は広く受け入れられた。その書棚には、二十数個の記号(アルファベット)によるあらゆる可能な組み合わせ、言語で表現可能なもの一切を含んでいて、おなじ本は二冊ない。表現可能な一切とは、未来の詳細な歴史、熾天使らの自伝、図書館の信頼すべきカタログ、虚偽のカタログ、真実のカタログの虚偽性の証明、バシリデスのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、その注解の注解、あなたの死の真実の記録、それぞれの本のあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本の中への挿入、などである。この図書館から連想されるものは神の創造した「完全なる本」、あるいはそのパロディーである。ボルへス自身が不幸な時期はあったにせよライプニッツと同じように長らく図書館の仕事に従事していたのは無関係ではないだろう。

ざっとではあるが結合術の影響を受けていると思われる三人の作家の仕事を紹介した。ノイバウアーは他にこんな例も挙げている。「マラルメの『賽の一振り』において言語の記号学的レヴェルが多様に計算されているのは、ノヴァーリスの追い求めた文学・音楽・代数学の例の結合を実現するものなのである。マラルメが詩の序文において、声に出してこの詩を朗読される方々はテキストを総譜のように眺めることをお薦めしたいと言うとき、われわれは必然的に思い至るのである。この計算の次の段階が十二音音楽、セリー音楽なのだ、と。」シェーンベルクがどのような経緯で十二音技法に至ったのか私は不勉強でよく分からないので、こんな主張もあるという程度でとどめておきたい。それから重要なドイツの叙情詩人としてトラクール(この人はオーストリア人)とベンを挙げている。

ところで日本人で結合術的な仕事をしている人はいないのかと探してみたら、こんな楽譜に巡り合った。武満徹の作品である。どうみてもルルスの術の変形のように見える。武満さんがルルスの結合術を知っていたかどうか私は知らないけれど、発想を共有している部分があるのは確かだ。日本とは偏西風によって運ばれてくる文化のふきだまる国だというべきなのか? それともライプニッツの旗の下、こう言うべきなのか?「全ては繋がっているのだ、無限に!」

左 武満 徹 『夢と数』 右 この本に掲載されている 『ピアニストのためのコロナ』 楽譜

左 武満 徹 『夢と数』
右 この本に掲載されている 『ピアニストのためのコロナ』 楽譜