壺中天の位相幾何学 part1 ロルフ・スタン『盆栽の宇宙誌』

博山香炉  漢代墳墓出土

博山香炉 
漢代墳墓出土

宮廷に招かれた道士の玄解は、その出自の東海にある仙界に戻りたいのだが、皇帝はそれを許さなかった。宮中にはその東海にあるとされる海上の三つの神山である、蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛州(えいしゅう)をかたどった木の細工が置かれ、華麗に彩色され、宝玉で飾られていた。皇帝は、或る日その細工を指さしながら玄解にこう言った。「優れた仙人でなければ、この境域に至ることは適うまい。」すると玄解はこう答えた。「この三つの島は、わずか一尺を超えるに過ぎません。そこに行くことなど難しいことではありません。陛下のために試しにその周りを一巡してまいりましょう‥‥。」 そういうやいなや彼は空中に身を躍らせて小さくなり、金銀の門の中へと入っていった。だが、玄解は二度と宮中に戻ることはなかった。それから10日たって青州から皇帝に上奏があった。彼は黄色い雌馬に乗って海を越えていったというのである。宮廷のこの山の前では毎朝、明け方に「鳳脳香」が焚かれるようになり、その島は「蔵真島(真人の消えた島)」と名づけられたという。

ロルフ・スタンはドイツ生まれの東洋学者で、ナチスから逃れてパリのマルセル・グラネに師事した。グラネは中国学の一大権威である。1966年にコレージュ・ド・フランスの教授になっている。上述の逸話は、彼の著書『盆栽の宇宙誌』から引用している。この本のことを知ったのは三浦國雄さんの名著『風水 中国人のトポス』を読んだのがきっかけである。実にすばらしい本だ。それについてはpart2でご紹介しようと思っている。

三浦さんはこの本の「『盆栽の宇宙誌』を読む」という章の中で、スタンがこの本を書いたのは盆栽研究が「自然崇拝」などの一般論を超えることがなく「社会学的、民俗学的見地から箱庭に興味を示したものがほとんどない」ことに義憤を感じてのことであるらしいと指摘している。どういうことかというと、彼は盆栽の起源を漢代に盛んにつくられるようになった博山炉に求めている。博山炉と三神山伝説の出現は並行関係を持っていること。この炉は香を焚くための物だけではなく、死者と仙界とを結ぶ宗教的なシンボルであったと指摘する。後に博山炉をモデルに自然石や植栽を取りまぜることによって箱庭となり、それが縮小されて盆栽となったとスタンは考えている。この仮説は、盆栽=仙境論と墳墓=ひさご型仙境/崑崙山という彼の持論とも関係している。だが、博山炉、箱庭、盆栽は具体的にどう関わるのだろうか?興味は尽きない。それではこれから『盆栽の宇宙誌』を見ていくことにしよう。

ロルフ・スタン 『盆栽の宇宙誌』

ロルフ・スタン
『盆栽の宇宙誌』

盆栽は日本のオリジナルではなく中国、朝鮮、ベトナム、タイなどにもあり、東アジアにかなり広くみられるようである。一時「縮み志向の日本」という言葉が注目されたが、どうも「縮み志向」は日本だけではないようである。著者はベトナムに見られる盆栽や箱庭、寺院の庭園などの観察から東アジアの盆栽(中国では盆景と呼ばれるがここでは盆栽に呼び名を統一させていただく)を眺めている。それが一種独特の視点になっていて、この本を魅力的にしている。

スタンは箱庭、硯山(硯とともに卓上に置かれる石)などの記録を通して盆栽の歴史に迫ろうとするが古い記録はあまり残されていないようである。 唐代の有名な詩人白居易(772‐846)は817年廬山(ろざん)に庵を開いた。その際の「祭廬山文」が『廬山草堂記』に載っており、その同じ草堂記の中には「もっこの土で土台となし、こぶしほどの大きさの石を集めて山となす。また一斗の水をまわりにめぐらし池となす。かようにして山水の景観に我を忘れる」という記述があるようである。これが遡れる最古の資料だという。唐代ではミニチュアの景色はすでに流行していたらしい。それ以前の起源を考える上でスタンが白羽の矢を立てたのが漢代に流行した博山炉である。蓋は浮き彫りになった山を呈し、幾重もの波に囲まれ、胴部には猿、虎、鹿などの動物及び霊鬼や聖霊の模様が施される。確かに盆栽に近い。そして、この香炉を語る際には道教との関連を無視することはできない。

インドシナにはヌイ・ノン・ボ(あるいはホン・ノン・ボ)と呼ばれる水盤の中に据えられた植物に覆われた岩や石がいたるところにあるという。漢字では仮山と書かれる。寺院ならその規模は大きくなるし、一般の家庭では小さなものになる。そこには陶や石でできた仏像、搭、水牛や虎、蛙などの動物が置かれていたりする。それが置かれている寺院の多くは、子供に関わる聖母や、神女、仙女などの女神崇拝や婆童(巫女)との関わりが深いようだ。中国にもこのような例はあるとのこと。重要なことはこの寺院の中庭に置かれた水盤の中の岩は神聖な境内の一部であるということである。寺院、境内の庭、箱庭としてのヌイ・ノン・ボ(仮山)は重層的に織り込まれている。ここにスタンは博山炉から箱庭、そして盆栽へと至る流れを予感したようだ。

費長房は汝南(じょなん)の人で役人をしていた。市が引けたとき、楼上から薬売りの老人を見ていると店頭に賭けた壺にするすると入り込んでいった。だれにも気づかれてはいないようだった。老人は懇願を聞き入れて彼を一緒に壺の中に入れてやった。その中は思いもかけない壮麗な玉堂であり、美酒とご馳走で溢れていた。「わしは神仙じゃが、落ち度があって罰せられたのじゃ。今ではすべて片がつき、いよいよ出発することとなった。そなたもついて来るか、どうじゃ? 楼下に少しばかり酒があるから、決別を祝って一緒に飲もう」と老人はいった。長房は人をやってそれを取りに行かせたが、意のままにならない‥‥(それはあまりに重かったのだ。)‥‥老人はそれを聞いて、笑いながら楼を降りて行き、指一本で酒を提げてきた。酒の器は一升ばかりしか入らないように見えるのに、二人が飲んでも空にならない。費長房はついに弟子となって道を求めることを願い、やがて妖怪を支配し、病を治すことで知られる方士となったという。(『後漢書』 方術伝)

ヌイ・ノン・ボあるいはホン・ノン・ボ

ヌイ・ノン・ボあるいはホン・ノン・ボの例

壺の中に隠れ住むことは、それだけで生命力を養うことに通じるのである。日本における「籠り」に近いのだが、これについては”おもかげとうつろいを綾取る” 松岡正剛 『日本という方法』の中に触れておいた。壺は子宮を連想させ、その天地は坤、つまり女性原理に支配される場所だった。博山炉のモデルとなった蓬莱や方丈といった神山は海に漂う至福の島である。方丈は、かつては方壺と呼ばれ壺の形をしているといわれた。壺が女性原理に支配されているなら、道士の玄解が海を越えるのに乗っていった馬は雌馬でなければならなかったのである。海に浮かぶ壺はひさごの舟という生い立ちを持っているようだ。『荘子』では飲み物の容器であるひさごがあまりに大きすぎたために二つに割って水に浮かべられ舟に見立てられた。また、ひさごあるいは葫蘆(ころ)は卵のように閉じた混沌であり無意識をも表す。語源的には崑崙にちかい。崑崙は西の仙界である。それは、人の頭部と腹部にあって不死の薬を錬丹術で錬るための中枢を意味し、丹田とも呼ばれる。東海の仙界と崑崙の仙界といえば『封神演義』の舞台である。

ひさご形の壺の狭い首から中に入れば平地があらわれる。それはまるで壺の中の天、あるいは何不足ない天地である。そこは壺中天(壺天)と呼ばれる。同じように洞窟の内部への小さな入口から入った者は圧倒的な桃源郷に誘われる。茶の湯のにじり口を思わせるのだが、その先には洞窟でできた天地自然、つまり「洞天」がある。part2で詳しく述べるけれど中国の全土にわたって36の洞天がありそれぞれ地脈と呼ばれる通路でつながっていると考えられた。例えば、「洞元洞天」はその一つで三層になっている。上洞には天の光が差し込み、中洞では滝が落ち、石像や石筍が見られ、下洞は地下水脈に通じ、龍、虎、麒麟、鳳凰などの石像があるという。 洞窟は仙人の住家であり、隠れ場所である。このような洞天の三層構造は山水画の三つの視点、高遠(下から仰ぎ見る)、平遠(遠くから連なりを見る)、深遠(背後を覗き見る)と対応しているようで面白い。

三茅真君と呼ばれた漢代の三人の兄弟は全員神仙となったが、その三茅真君の言い伝えとして次のよう記述が残っている。「天の無は〔空〕といい、山の無は〔洞〕といい、人中の無は〔房〕という。山腹の中の空虚は〔洞庭〕といい、頭の中にある空虚は〔洞房〕という。」 ひさごの中にあるような中空、それは天・地・人・山腹・頭にあるとされる空虚と同質である。ここではそれらにある種の階層性が指摘されているのである。

蓬莱山 『三才図絵』

蓬莱山 『三才図会』

また、壺は薬や酒と関係し水と縁が深い。壺は命を養う。時には井戸と結びつけられる。井戸は天を映す鏡であり、その底から横穴を通って不思議な世界へと通じる場所でもある。汲めども尽きない井戸の水は豊穣と多産を約束する象徴となる。それは月相と関係し聖母神が支配する。井戸は壺と同じく母性原理が支配する場所である。

もう一つ忘れてならないのは壺形の特殊な酒器「鍾(しょう)」である。この形は寺院や堂の中の鐘と絶えず重なるとスタンはいう。「地面と庭園の中にある無窮の福が、鐘(鍾)の中にある」(『烏州近録』)という記述も残っているようだ。鐘の胴には乳と呼ばれる突起があり、それが豊穣の象徴であることを裏付けている。鍾乳石と関係するのである。鍾乳石や石筍からは養分がほとばしり出ると考えられた。そのような怪奇な石は多穴な太湖石などと共に珍重され方丈の部屋に好んで置かれるようになった。石も健康と長生に関わっていたのである。

先の詩人白居易の所で述べたように唐代にはすでに縮小された山水の景観が庭に作られていた。ミニチュアの庭や五岳図はいづれも有名な景観が象られている。五岳図とは神聖な五つの山を象った霊符である。それらは、聖なる場所の縮小化なのだ。 『淮南子(えなんじ)』で有名な淮南王(わいなんおう)、その方術士たちは「地に画いて、江河を成し、土をつまんで山岩を為す/『西京雑記』」などの術を心得ていたという。絵を描くこととミニチュアの景色を盆栽として作ることは小さな別天地をそこに出現させることだった。そこは「粟中の世界」、「一塵法界」なのである。「方丈」は東海にある島であり、神話的世界、仙境である。また、一丈四方(四畳半くらいの広さ)の庵でもあり、瞑想の部屋ともなる。そして瞑想中の隠者は自らの「方寸」(一寸四方)の中に世界を見いだすのである。

明代の著作である『考般余事』には「盆栽(盆景)」は娯楽の対象ではなく邪気を追い払うために使われたとある。このミニチュアの庭には霊力が宿っていると考えられた。また、その著作には邪気を払う『五岳図』の篆法(書体の一つ)が述べられている。この図は杖の先にひさごとともにかけられ虎やオオカミから身を守り、悪霊を遠ざけるとされた。このような図は道教の経典『道蔵』にみることができる。一種の護符である。霊鬼や妖怪変化を正確にかたどったものは、その図の持ち主にそこに描かれたものに対して立ち向かえるような絶対的な力を与えると信じられたようである。多くの妖怪や神々を掲載している地理書である『山海経』の根本にはこのような考え方があるという。

仙胎図 北京にある白雲寺の碑版 上は円で下細長い楕円になっている。円の部分には、九峰山と瞑想する道士が見られ楕円の部分には中心に渦があり、下から上へ向かって逆流する水が見られる。

仙胎図
北京にある白雲寺の碑版
上は円で下が細長い楕円になっていてひさご形に近い。円の部分には、九峰山と瞑想する人が見られ、楕円の部分には中心に渦があり、下から上へ向かって逆流する水が見られる。

石がその長寿を寿ぐ存在なら、松も同じである。晋(しん)代の民俗風物誌『博物志』では「松はもともと石の気からなるという。石が割れて粉々に砕けると、そこから松が生じる。逆に三千年たつと、松の木は元通りの石になるとされた。」 松は岩の胎内と一体化し、高齢となると霊薬の効能を持つ。石の胎は禹の神話と関係している。「禹は石から生まれたが、生まれる時は母胎を割かねばならなかった。禹の本妻も腹が割かれた。息子の啓は同じく石を砕いて生まれたのである。」石が子を孕むという伝説は日本にもある。

松に限らず中国では古いものほど尊ばれた。古い物は聖霊の仲間入りをすると信じられていた。植物は姿を歪められ節くれだった古めかしさを演出された。松の他、柏、檜、梓、栗、梅、柳などが尊ばれた。小高い山の上にある古木の群れ。これらから連想される風景は、「社(もり)」と「墓」である。社は土地の守り神の住まう聖域、日本で言えば鎮守の杜や産土神の社にあたるだろう。社に固有な樹木は松、柏、梓、栗、槐であり、墳墓にはこのほか欒や柳が植えられた。

墳墓もまた中が空洞であり、いわば、ひさごである。死者の平安と侵されることのない閉ざされた生活が約束される場所である。そこはいわば、死が支配すると同時に永生の願いのこめられた場所である。不死の世界への願望が横たわる。不死の世界は仙人たちの生きる世界である。それは西のかなたにある崑崙を連想させる。そこには黄帝あるいは西王母の住むという不死が与えられる世界があった。墓もまた仙界に通じるのだろうか。こうしてスタンの仮設は、盆栽=香炉と箱庭=ひさご型仙境(壺中天と崑崙山)=地中の仙境(洞天)と墳墓=盆栽という円環を形づくったのである。

舟としてのひさご、海に漂う壺としての仙界が博山炉という香炉に結晶し、生命を養う酒や水の入った壺中の天地と神仙の住まいとしての洞窟の空洞とは相親しい関係なっていった。そこに共通するのは異質の空間の存在である。瞑想空間と生命の泉は重なりはじめた。やがて、香炉をモデルに石と植物で築かれた小景から箱庭が発展した。それをよりミニチュア化して卓上の景色として工夫されたのが盆栽や硯山である。このように少なくとも漢の時代から現在に至るまでの悠久の時間の中で盆栽は培われてきたのである。盆栽とは何か? もう、私たちは理解できたのではないだろうか。

伝李成 『晴欒蕭寺図』 Nelson-Atkins_museum_of_art

伝李成
『晴欒蕭寺図』
Nelson-Atkins museum of art

ここで最後に指摘しておきたいのは、中国絵画との関係である。風景画と言わずに中国では山水画という。山と植物と水を中心に時に塔や楼閣、舟や人、滝などが描かれる。何故風景と言わずに山水なのか、お考えになったことはおありだろうか? その答えは次回に譲るとして、盆栽を作るにあたって宋の時代には山水画の有名な作品が手本にされたようである。北宋の画人郭熙(かくき)が描いたような下方に枝を垂らしながらも掴みかかるような形に枯れた梢、いわゆる寒梢蟹爪と呼ばれる描き方で描かれた樹木である。南宋の画人で馬一角とあだ名されたくらい風景の一角をクローズアップするのを好んだ馬遠の描く風景。宋は中国絵画の黄金期である。北宋の理的で細密な描写、詩画一致を理想とする詩情の南宋画、それらは盆栽をイメージするうえでこの上ない手本となったことだろう。

盆の上の一握りの石とわずかの植物、それらは山水画に画かれた世界のミニチュアである。小さくなればなるほどその霊的な効果は絶大になっていく。しかし、もともとその山水とは中国人にとってどういう存在であったのだろうか? あるいは、中国人が抱いてきた山と水の背後にあるもの、それはいったい何なのだろうか? それらは洞天や墳墓と密接に関わってくる。当然、陰陽思想や道教と密接に関わっていくだろう。

さて、次回は三浦國雄さんの著書『風水 中国人のトポス』からそのあたりを中心に述べてみたいと思っている。できれば中国人たちの持つ独特の空間感にも触れることができればと考えている。