張光直 「中国青銅時代」 ”共餐と饕餮” part1 共餐

丸本編 『酒屋の群像』

丸本智也 編
『酒屋の群像』

広島県の竹原という所に竹鶴酒造という酒造会社がある。日本のウィスキーの祖、竹鶴政孝はその分家の出身である。その竹鶴酒造で杜氏(とうじ)をしている石川達也さんは、私が中高一貫校で教えた最初の学生で、その時、高校2年生だった。最近、彼と話す機会が多い。酒屋や杜氏たちへのインタヴュー集である『酒屋の群像』に自分のインタヴューも掲載されているという。それを見てほしいと渡された。あちこちで引っ張りだこのようだ。その中で彼はこのような主旨のことを発言している。一部を抜粋してみたい。

「お酒の味は移ろいゆくものだから、関係性によって味は変わるはずなのに絶対的な味がこの中にあると思われている。実は今、ご飯もおなじ運命をたどっている。ご飯だけ食べるんじゃなくて何かと合わせる。ご飯だけで味を完結してしまっては駄目で欠けるところがないといけない。完璧な味っていうのが仇になる。それだけで満ち足りるっていうのはよくない。お酒も同じ。進物やちょっとした手土産でも昔は必ず酒だったが、そうではなくなっている。それはもう選ばれるもの、嗜好品になってるからだと思う。必需品だったら持って行って困られることはないはず。そういうふうでないといかん、そういう本来のお酒の力を信じている。」

お酒とご飯はかつて必需品だった。何故なのか? 今回、張光直(チャン  クワンチー)さんの『中国青銅時代』を選んだ理由の一つはこれである。どういう関係があるのだと訝る人も多いだろうと思うが、まずはお読みいただきたい。

白川静(しらかわ しずか)さんの著作『甲骨文の世界 古代殷王朝の構造』のこの文章を読んだとき、何と格調高い文章だろうと思った。「人間と交渉をもつ以前の自然は、単なる自然であった。物質と変化の世界に過ぎなかった。所与の世界である。その所与的な世界を人間の世界に引き込んだとき、人はその生命にふれた。自然は生きていたのである。そして、そこに、霊的な世界の存在することを、確認したのである。古代の人々にとって、自然は生命以上のものであり、神であった。神は識(し)られざるものである。そのゆえに神は普遍であった。神はすべてのものに宿り、あらゆるところにいた。時間と空間の一切を含んで、それをみたすものが神であった。卜旬や卜夕のような貞卜が行われるのは、神は時間を支配するものと考えられたからである。」

白川 静 『漢字の世界』

白川 静
『漢字の世界』

その後、白川さんの『漢字の世界』などの著作をつうじて、私の頭には古代中国の呪術の世界が楔のように打ち込まれることになるのである。例えば商(殷)では、人の犠牲、それは羌(きょう)族などの異族を中心としたが、五十人、百人あるいは時に三百人に達する人身供犠が行われたようである。あるいは蠱(こ)などの禍を防ぐ呪禁としての犬や他の動物などが主要な建物の下に埋められことも頻繁に行われた。それらの記録は、商(殷)の時代に卜占に使用された獣骨や亀甲に刻まれて歴史に残されるようになったのである。それは、夏・商(殷)・周三代にわたるいわゆる青銅器の時代の真っただ中でもあった。しかし、それらの時代は呪術にあけくれる凄惨な祭祀ばかりがとり行われていただけではない。同時に文化的に豊かで多様な世界でもあることを教えてくれたのは、張光直さんのこの著作『中国青銅時代』であった。そこでは御馳走もお酒も歌舞もあったのである。いわば、その時代を3Dにしてくれたのがこの本である。

張光直さんは、1931年に北京で生まれる。第二次大戦後、15歳で父の出身地である台湾に戻った。台湾大学考古人類学科を卒業するとアメリカに留学し、1960年にハーバード大学の哲学博士号を取得する。後にイェール大学・ハーバード大学の人類学科で教鞭をとることになる。中国や台湾でも後進の指導にあたり、欧米のみならず中国圏でも高い評価を得ている人のようだ。中国の青銅時代と台湾の東南沿海地域の考古学に強い興味を持っていた。青銅器の研究はそれに盛られる料理の研究にまで及び、ある食品会社から中国の調理方法の講義まで依頼されるという逸話を持っている人だ。2001年にボストンで亡くなっている。

 

張光直 『中国青銅時代』

張光直
『中国青銅時代』

紀元前5000年頃の小さな金属片は見付かっているらしいが、一般には紀元前2000年頃から、鉄器の時代が始まる紀元前500年頃までを中国の青銅時代とするようである。この時期の中国は、歴史書にいう夏、商(殷)、周の三代にあたり、たがいに競合する列国群が並行して発展しつつあった。夏代にあっては、夏王国が統治階層の最上部にあり、商代では商王国が、周代では周王国が最高の統治者であった。それらは次々に勃興しては滅んだのではなく、覇権を奪い、奪われながらも同時に存続していたと考えられている。尚、商は殷とも呼ばれるため殷商と併記する場合がある。

「 国の大事は、祀(まつり)と戎(いくさ)にあり(『左伝』)」と言われたように儀式と戦争が国家にとって最重要項目だった。青銅は武器と祭祀に用いられたのである。武器には鏃、矛(幅広の槍)、戈(ほこ/ピッケル状の槍)、鉞(えつ/まさかり)、大刀、剣、匕首(あいくち)などがあった。農耕などの農具や工具に使用された形跡がない。つまり生産技術に寄与するものではなかったのである。祭器としての青銅は貴族の権威と規範の象徴となった。それは統治を行うための合法的な象徴となったのである。一つの王朝が国家を統治するための権限を保証する青銅器さえあった。それが「禹の九鼎」である。日本で言えば「三種の神器」にあたる。

「昔、夏王に徳があった時に、遠い国々から(その国の)怪物を描いて献上し、金属を九州の長官を通じて貢納したので、夏王は、鼎を鋳造して、地方の怪物の形をきざみ、様々な姿を示して、民に、神と魔物の見分けがつくようにさせた。‥‥(夏王朝の末王の)桀(けつ)王は悪徳の王であったので、鼎は商に移り、六百年がたった。商の紂(ちゅう)王が暴虐であったので周に移った。(『左伝』)」とある。徳の有無によって鼎は授かったり、失われたりするものと考えられていた。

青銅時代に社会の上層を占めていたのは王と王族であり、閉鎖的な内婚制化に在り、王位はいくつかの王位継承グループの間で輪番に継承されたと張氏は見ている。王族は父系氏族集団の頂点にあり、氏族はさらにいくつかの宗族に分かれていた。宗族が本宗から枝分かれする時には土地と領民が与えられた。封建制だったのである。青銅の礼器と武器は、国王から自分の土地に行き自分の都市と領地を築くよう命じられた際に下賜される贈り物であり、与えられる側にとってはお墨付きだった。それは先祖崇拝とその儀礼に密接に結び付くものである。祭祀の儀式に用いる容器の種類とその数は、その人の地位によってランク分けがあったことが知られている。

例えば、周礼には吉礼( 天地鬼神の祭祀)、凶礼( 葬儀)、軍礼( 出陣・凱旋)、賓礼( 外交)、嘉礼( 冠婚・饗宴・祝賀)の五つの種類があるが、宗教的儀礼である吉礼が最も重視された。『礼記』礼器編には、「三代の礼制は、根本には一つであり、民衆はみなこの礼制に従い、ある時(殷代)には白が尊ばれ、ある時(夏代)には青が尊ばれたが、夏が礼制をつくり、殷がこれに基づいて改めたのである」とある。『論語』為政編にも「殷は夏の礼制に基づいており、改変を加えたところも知ることができる。周は殷の礼制に基づいており、改変を加えたところも知ることができる」とある。考古学的にも出土遺物から夏と商を区別すること、あるいは晩商と早周を区別することはかなり難しいようである。

龍山文化における動物装飾文様

龍山文化における動物装飾文様

張氏によれば、山東省、江蘇省(中国中部東端)における新石器時代の時期は、青蓮崗期(紀元前4500-紀元前3100)、花庁村期(紀元前3200-紀元前2500)、龍山鎮期(紀元前2500-紀元前1850)に区分されるが、殷商文化とのつながりは花庁村期から強まっていくようである。牛骨などを用いた骨卜は華北の龍山期の新石器時代につねにみられる習俗であるが、花庁文化が発見されて、はじめて亀甲の使用が認められた。また、殷虚で大量に出土した柶(し)やヒ(ひ)と呼ばれる骨製の匙、あるいは、骨器への緑松石の象嵌は花庁文化期の遺跡(大汶口)でも出土している。殷商の文化的な要素を丹念に見ていくと、その来源を山東・江蘇省のある東海沿岸にたどることができるというのである。青銅器に使用される饕餮(とうてつ)などの獣面紋は山東の龍山文化にすでに類似する例が見つかっている。饕餮紋についてはpart2で詳しく述べるつもりである。龍山文化の後は河南省偃師(えんし)県にある二里頭遺跡での発掘によって知られる二里頭文化が引き継ぐようであるが、おそらく殷商の早期に当たるのではないかと考えられている。一方で、夏代は紀元前二十一世紀から紀元前十六世紀と考えられており二里頭遺跡の最下層は夏代であるとする説もあるようだ。ともあれ、二里頭文化の少なくとも一部は殷商の早期であり、殷商中期にあたる鄭州商城文化、晩期の安陽殷虚文化へと連なっていくことは確かなようである。

周についていえば、太王が周の都を豳(ひん)から岐山の周原に移した時から殷商との交渉が始まる。周は殷商の属臣となり、文王の時代になると勢力は拡大して殷商を圧迫するほどになる。やがて文王の子の武王が殷商の紂王を倒して覇権を握った。太王が都した周原(岐山県の岐山南麓一帯)の発掘調査で周代の骨甲文が発見されつつあり詳細な発表が待たれると張氏は書いている。(現在ではかなり明らかになっているのではないかと推測される。)後に、12代幽王が殺されると(前771年)、その息子が洛邑を都としてに周を再興する。これが平王であり、以降の周は東周と呼ばれ、春秋時代の始まりとなる。それ以前を西周と呼ぶ。

闘鶏台出土の柉(へん)禁と青銅器群

闘鶏台出土の柉(へん)禁と青銅器群

陜(せん)西省宝鶏県闘鶏台で出土したといわれる柉(へん)禁に伴う14点の青銅器は、清の官僚であった端方が1902年にその地で購入した周代の遺物である。一か所から出土した可能性はあるものの、製造年代にはかなりの幅がある。遅いものは西周初年になる可能性があるが、ほとんどは殷商時代のものであるという。つまり殷商の時代にすでに周では独自に青銅器が鋳造されているのである。安陽から出土している殷の時代の斝(か)とされる容器には鼎足、つまり容器とは別個に作りつけられた足が付いているのに対して柉禁の中の斝は鬲(れき)足、容器内部と一体になった足を持っているなどの違いがみられる。

戦国時代の『楚辞』には、屈原の作である『九歌』が収められている。中国古代の南方系の巫系の祭祀歌謡が主体になっているようだ。この『九歌』は祭儀の際に歌われるものだが、その祭儀はおおよそこのようなものであったらしいのである。(1)香草を焚いて天上の神霊を地上に招き、寄りましが神霊に扮して登場し、祭祀を享ける。その際、歌舞が行われる。(2)神霊が降臨し寄りましに憑依する。神霊と憑依された寄りましは天界や崑崙山などへと遊行する。(3)神霊に食物を捧げ歌舞を献じる。(4)満足した神霊は天上に帰っていく。青銅の祭器はこの食事の際に使われたものである。

西周時代の神話は、商(殷)代と大差はないといわれる。差があるとすれば、商代の人々にとって祖先の世界と上帝などの神々の世界には、はっきりとした区別がまだなかったのに対して周では上帝と神の世界を「天」に置き人間の王者を「天子」としたことである。このことは、壺中天の位相幾何学 part2 三浦國雄 『風水/中国人のトポス』にも触れておいた。したがって上述の『九歌』は周の祭祀の有様に近いと思われる。ただ、神霊に食物を捧げたことは殷商の時代にあっても同じであったことは青銅器の形態をみれば明らかではなかろうか。では具体的に青銅器はどのように使われたのだろうか?

三礼(周礼、儀礼、礼記/これらの記述の大半は漢代に書かれたものである)ほど食物や飲食に詳しい書物はないようである。『周礼』には帝王に仕える4000人のうち、その60パーセントにあたる2200人が食事に携わっていたとある。『儀礼』からは食事と祭祀が密接に関わっていたことが分かるし、『礼記』には様々な場面における正しい食事の種類と食卓での正しい礼儀が書かれている。そこには調理法の記述まで含まれるようである。

漢代の磚(せん)に描かれた宴席s文献にみられる食物の原料は、穀類、蔬類(あおもの)、果実、獣類、鳥類、魚類、貝類、その他に分類できる。穀類は、数種の粟と米と麦である。野菜は瓜、ひょうたん、イモ、ひまわり、蕪、ニンニク、ラッキョウ、葱、ニラ、えごま、蓼、しょうがである。加えて筍とからし菜、大豆があげられる。果物は、梨、山査子、杏子、梅、李(すもも)、桃、柿、栗、棗、リンゴ、桜桃など。動物は、家畜である豚、牛、羊、犬。他に猪、ウサギ、熊、糜(おおじか)、鹿など。鳥には、鶏、鵞鳥、鶉(うずら)、鷓鴣(しゃこ)、雉、雀、鴫などがある。魚は種類が大変多いが、多くは鯉の仲間のようである。亀、すっぽん、各種の貝の他、蝉、蜂、蝸牛、蛾、蛙があげられている。調味料には各種の香料と肉桂、山椒と塩、豉(みそ)と酢。油は獣油であった。周代では調理のことを割烹と言うが材料を切り分け、混ぜ合わせて調理する過程をそう呼ぶようである。文献に見い出せる調理法で主なものは煮、蒸し、烤(あぶり)、燉(にこみ)、醃(つけ)、晒乾(ひもの)である。この時代には炒(いため)がまだない。おそらく軽い鉄鍋がなければ難しい料理法なのだろう。

先に挙げた戦国時代の『楚辞』には、亡くなった人の魂呼ばわりの詩である「大招」が収められており料理や飲み物がこのように歌われている。「五穀はいずれも豊かに 香しい菰(まこも)の実の飯もあり 鼎で煮られたスープがいっぱいに並び 香辛料が加えられてひときわ香りがひろがる その鼎にまなづる、鳩、白鳥の肉が入れられ 豺(やまいぬ)の肉で味付けされて羹(あつもの)は美味である 魂よ帰り来たり お好みのままに召し上がれ 新鮮な大亀の料理と肥えた鶏の料理に楚国の酢が加えられる 豚の肉の塩辛と苦みをつけた犬の肉 茗荷がきざんで添えられる よもぎの酢漬けの呉の料理 味は濃からず薄からず 魂よ帰り来り お好みのものを選ばれよ まなづるの焼肉とかもの蒸し肉と 鶉の焼肉が並ぶ 鮒のいためものと雀の肉の羹がつぎつぎと運ばれてくる 魂よ帰り来たれ 並んだ料理をまずおすすめしよう 四つの器の酒はいずれも熟成されて 口当たりよく飲みて厭かず 清らかな香りほのかに冷やして飲むによく 賤しき人の飲むものにあらず 白米の麹をねかせた呉の地の酒に 楚国の清酒をまぜる 魂よ帰り来たり 心配事を忘れたまえ」

動物の肉や魚が儀式や宴会においては重要な料理の材料であった。動物の肉は生食や焼いて食べるほかに干物、煮もの、塩漬けなどにされるのが通常だった。煮込みとしては羹(あつもの/スープ)が「調和」の代名詞となるほどの代表的な料理としてあった。醢(しおから)は必ず先に肉を干物にし、それを細かくきざんで粟の麹と塩を加え、かめのなかで良酒につけること百日にしてできるとある。肉の発酵食品なのだ。この肉醤は、羹などの煮込みには欠かせないものだったようである。デザートには、はったい粉、団子、かゆ(何で味付けされていたかは書かれていないが、甘いかゆは現在でもある/筆者)などがあった。料理の種類は比較的豊富で料理法にも凝ったものがあるようだ。

中国古代の飲食器s炊具としては鼎(かなえ)、鬲(れき)、甗(げん)、甑(こしき)、釜などがあり、いずれも青銅製と土器製とがあった。鼎、鬲などは煮たり煮詰めたりするのに使われた。盛食器は、飯を盛る器と菜を盛る器に分けられる。前者には盨(しゅ)簠(ほ)、敦(たい)など青銅製ないし土器製、木製の編まれたかごなどがあった。後者では豆(とう)、籩(へん)、俎(そ)などの土器製、木製によるものなどがあった。その中でも豆は肉を盛るための重要な器であったが、商代ではそれを青銅で作ることがなかった。基本的な規則として青銅器は主として穀類の食物と穀類から作った酒とを盛る器に用いられ、肉を盛るためには使われなかったようである。五行思想によるという説もあるが、はっきりとはしない。もう一つ付け加えておくと、青銅は鋳造したての時は、明るい金色をしていることである。それらが数多く並ぶさまは美しいものであったろう。

食卓と椅子が用いられるようになるのは中国ではかなり遅く、早くても北宋の時代といわれる。したがって宴席の様子は漢代の磚(せん/煉瓦)に描かれているように自分の席は敷物の上にあり、小机が置かれ、食物の台や脇息の役割を果たした。一回の食事には、穀類の食べ物、肉と野菜の料理、水と酒が含まれた。食物という大きな範疇には飯と菜(おかず)があるが、周代の文献では祭儀の起源を穀類の食物とするものと、肉を料理するための火の使用とする二つの説がある。麗しい穀物(黒黍、二粒黍、赤粟、白粟)を后稷(こうしょく/周の始祖)は上帝より賜り、それらは収穫されて持ち帰られ、祭りが行われた(『詩経』大雅・生民篇)。火の使用に関する方はこのようになっている。礼の始まりは飲食に起源し、黍を焼き、豚肉をきざみ、飲み物は地面の窪みに入れて手ですくって飲み、土製の鼓(たいこ)をかやの茎をばちとして叩いた。生米を死者の口に含ませ、料理した肉を供え、天に向かって招魂したという。同じように鬼神上帝の祭りがはじまった。祭りの対象の祖先神を呼ぶための麗しき称号を定め、玄酒を供えて祭り、犠牲の血と毛を供え、犠牲の生肉を俎にのせ、犠牲の骨付き肉を湯で煮て供え、‥‥焼肉やいり肝を供えて、祖先神の魂魄を楽しませるが、これを見えない存在との一体化という。(『礼記』礼運篇)

飯と菜では飯の方が重要度が高かった。穀物の飯を食べ、水を飲むことが基本であり、この基本を超える時には、まず蔬菜や果物を食べ、肉を食べることができる時にも干し肉が先で次に新鮮な肉を食べるというふうであったらしい。食事の作法も細かく規定されていたようである。礼記には「主人が客に勧めた爵(さかづき)は左に置き、飲み終わった爵は右に置く。尊(さかつぼ)を扱う人は酌をする人の左側を上位として尊を設ける。」「客がもし主人より身分の低いものであれば、客は飯をとって立ちあがり、〔彼が受けている〕栄誉を辞退する。主人はこれに対して、立ち上がって遠慮は無用であることを述べ、その後客は再び席に坐る」などの細かい約束事があったようである。

このように祭祀用の料理は、先祖の霊や神々とに供せられ王や王族などの身分の高い人々とが共食した。神との共食は日本の皇室における重要な儀式である大嘗祭、あるいは毎年の神嘗祭においても行われるようである。その神々との共餐において最も重要な食べ物は穀物であり、飲み物は酒であった。特に殷商では帝王をはじめ家臣、工に至るまで酒を好んだ。周では酒を飲むことは戒められたが、祭りの時には酒は飲まねばならないものだったのである。

最初に触れた竹鶴酒造の杜氏である石川さんの嘆きに戻るのだが、冒頭で紹介したように彼は、お酒とご飯の役割がすでに過去のものになりつつあると感じている。わりと最近まで祭ともなれば、神々と共食し、共同体としての繋がりを確かめ、鼓舞してきたのは中国といわず日本でもそうだったのであり、そこでのお酒の役割もまたなくてはならないものであった。今日では祭祀の意味は急速に失われつつある。お正月が「籠りの神事」であること、松飾りの意味や、お節料理のいわれ、左義長の意味など知らない人がほとんどといっていい。しかし、彼は今、お酒に人と人を繋げられるような、人に力を与えられるような新たな意味を見いだそうとしているようだ。混ぜるのではなく、結ぶことが必要となる。これは、杜氏という職に携わる人のみに必要とされることではないのではないだろうか。何故なら、伝統的なものを土台とした新たな文化の創発はどんな時代にも必要なことであるからである。それはお酒だけに限ることではない。

さて、次回は中国青銅器を装飾する饕餮紋などについて張光直さんの著作を中心に、渡辺信一郎さんの『中国古代の楽制と国家』などを織り交ぜて述べてみたいと思っている。