張光直 「中国青銅時代」 ”共餐と饕餮” 最終回 夔と商容

夔龍文觶 (し/小型の飲酒用器) 西周時代

夔龍紋觶 (し/小型の飲酒用器)
西周時代

張光直(チャン クワン チー)さんの名著『中国青銅時代』に関する文章も今回で最終回となる。 part1共餐 では主に青銅器とそれに関わる祭祀での神との共食にスポットを当てた。part2 饕餮紋とは何かでは青銅器本体に造形された数多くの紋様のうち、代表的な動物紋である饕餮(とうてつ)をとりあげた。今回は同じく青銅器に見られる夔(き)を端緒にそれと関わりの深い商容という人物にスポットを当てるつもりである。

殷商・周代においては、夔は一本足の龍であり、降雨と関わる自然神であったらしい。後の『山海経』(大荒東経)には、「夔は東海の流波山頂上にいる動物である。その姿は牛のようだが角はなく、脚は一つしかない。体色は蒼である。水に出入りすると必ず風雨をともない、光は日月のように強く、声は雷のようである。黄帝は夔を捕らえてその皮から太鼓をつくった。この太鼓を雷獣の骨で叩くと、その音は五百里にまで響き渡った」とある。一本足の牛の姿で表されたのは、牛が請雨のために龍神に捧げられた犠牲獣であったためらしい。雷や楽器とも関係がありそうだ。

夏から始まったとされる礼制が殷商に伝えられ、周は天命によって(あるいは、そう称して)殷商を征伐したが、その礼制は周も受け継いでいた。そして、周の末期の春秋時代にあって、理想の時代といわれた周早期の礼制を保っていた魯国に孔子は生まれた。そして、礼学としての体系的な学問の基礎を築いた。それは儒学という巨大な潮流を生み出すことになる。一方、周に敗れた殷商の遺民は、宋という国に封じられ、その中で老子の哲学を育んでいったと言われている。それによって、もう一つの巨大な潮流である道教が生み出された。この二大潮流の分岐点、つまり殷商が滅びた時期に見え隠れする商容という人物と夔についての奇妙な関係を渡辺信一郎さんの『中国古代の楽制と国家』から紹介していきたい。そして、礼制の中の音楽である礼楽についても少し紹介できればと思っている。まず、張光直さんの『中国青銅時代』から、殷商の祭祀の中心であった巫覡の役割から見ていくことにしよう。

春秋時代の楚の国の昭王は『書経』の中で、周の穆(ぼく)王が詔勅の中に書いている文章に目をとめてこう唸った。「人間は天に昇っていくことができるのだろうか?」そこで、賢臣の観射父(かんせきほ)は王に「天地の交通を絶つ」という神話を語った。「昔は民と神霊とは一緒にいなかった。当時は、天地の間にある深遠な意味に通暁し、微妙にして深奥なるものに光を当てる能力を備えていた人に神霊が降りた。そのような能力を持つもののうち男性を覡(げき/男性シャーマン)、女性を巫(ふ/女性シャーマン)と称した。巫覡は、神霊の依代(よりしろ/神の寄りつく対象)を管理し、犠牲を〔神霊に〕供えた他、宗教上の諸物を司る祭祀儀礼を行った。‥‥当然の結果として聖と俗が区別され、神霊は民に加護を垂れ、民の供物を享けた、そのため自然の災害は発生しなかった。‥‥少暤(しょうこう/黄帝の子)の時代(伝・紀元前26世紀)になって九黎〔の首領の蚩尤(しゆう)〕が徳をみだし、民と神霊とが入り雑じり、それまでの〔巫覡が行ってきた〕祭祀儀礼が各家々で勝手に行われるようになった。‥‥当然の結果として、民の神霊に対する崇敬の念は失われ、〔他方〕神霊は民の規範を妨害し、自然の災害が頻繁に発生した。〔それゆえ、少暤の後継者である〕顓頊(せんぎょく)は南方の長官たる重に命じて天のことを司らせ、神霊をそのあるべき場所に居らせ、北方の長官たる黎に命じて地のことを司らせ、民をそのあるべき場所に居らせ、それぞれもと通りにして、互いに侵すことのないようにした。このことを天地の通行を絶ったというのである。」

夔 『山海経』

夔(き)
『山海経』

このことから分かるのは、人と神との往来、神々の世界と人間世界との通行には宗教者、つまり巫覡が欠かせなかったということである。張氏は、この神話が古代中国のシャーマニズムに関する最も重要な文献資料であるとしている。シャーマニズムが果たした中心的役割を理解するための決定的な手掛りだというのである。周代後期に活躍した墨子は、こう言っている。「天界にいる鬼神は聖人より賢い。そのわけは眼のよく見える人、耳のよく聞こえる人が聾唖者や盲人よりまさっているのと同じである。」 春秋末期には巫覡の中に役割分担があったことが知られており、おおまかには儀式の式次第を主宰する祝、儀式の具体的な行為を管理する宗があった。楚の制度に比較して、商代のそれはもっと複雑であったろうと想像される。少なくとも祝、宗の他に卜と史があった。

巫覡の役割が天地を通じさせることであることはpart2 饕餮紋とは何かでみてきたが、実際の手段とその道具についてpart2でご紹介できなかった部分を補足しておきたい。

まず、山であるが、それは多くの場合、祭祀の対象になっていた。甲骨文では「十山」「五山」などの言葉がしばしば登場する。それは「その当時、祭りを受けていた山には、一定の数と順番があったことを示唆する(『殷虚卜辞綜述』陳夢家)」という説が紹介されている。

樹が天に昇るための道具であることは容易に想像がつく。「建木は都広にある。多くの天帝がここからのぼりおりする(『淮南子』)」とある。山海経には「黒歯国‥‥下に湯谷があり、そのほとりに扶桑が生えている。十個の太陽が水浴するところで、黒歯の北にあり、水中に大木が生えており、九個の太陽が下の枝にいて、一個の太陽が上の枝にとまっている」と書かれている。樹のなかでは桑が特に注目される。有桑、扶桑、桑林など桑を地名の一部にしている例は多いが、歴史家の傅斯年(ふしねん)は、みな一個処の地名を指すものであると考えていた。山東省の曲阜(きょくふ)一帯が、すなわち空桑の地であるという。黄帝の子である少暤(しょうこう)の本営が置かれた所、九個の太陽を射落とした羿(げい)帝が建国した所、周公旦が征伐した奄(えん)国のあった所、殷商の開祖湯王に仕えた伊尹(いいん)が生まれ、孔子が生まれた所である。そこは政治的、文化的な一大中心地であったようだ。

東周青銅器にみられる神樹と鳥の紋様

東周青銅器にみられる神樹と鳥の紋様

神樹の上にとまっている鳥も天に昇るための階段や梯子の延長であった。殷商では玉器の中に鳥の姿をしたものが多く、極めて精巧に作られている。特に鳳は天帝の使いであり、鳳が現われるかどうかを卜占している例がある。

殷商文化において動物は野生動物、家畜を問わず重要な役割を担っていた。祭りの儀式において大量の牛、羊、犬、豚を神にささげる犠牲の品としていたことがわかる。その数は時に数百にのぼったといわれている。動物紋様が造形品の中で果たした役割はpart2 饕餮紋とは何かで述べたとおりであるが、これら動物の犠牲が天神や祖先への供物であったのか、生きた人間が動物の霊魂を借りて神と交流する手段であったのか、あるいはその両方であったのかは、考古学的には答をいまだ見つけていないという。

古代中国の卜占には、粟卜、蠡卜(れいぼく/貝殻による)、鶏卜、虎卜、鳥卜、樗蒲卜(ちょぼぼく/采〔さい〕博打〔ばくち〕の一つ)、十二棋卜、竹卜、牛骨卜、灼骨卜、羊胛卜、鏡卜、響卜などがあり、その中でも亀卜と易卜が最も重要であったらしい。亀の甲羅を焼く卜占と牛の肩胛骨を焼く卜占は殷商代の卜占として有名であるが、近年の研究では筮竹も行われていたことが確認されている。

殷商代の祭祀で最も重要であったのは、鼓楽の祭り、羽飾りによる舞の祭り、肉を供える祭り、黍などの穀物を供える祭り、そして、それらの合祭の五つである。祭祀と巫術ではそのやり方にはっきり区別はなかったが、巫術では用いられた犠牲の血による浄めが重視されたのに対して祭祀においては肉などの犠牲の豊富さが重視されたという考古学者・陳夢家の説が紹介されている。

東周青銅時代の青銅器に見られる紋様上の舞人

東周青銅器に見られる紋様上の舞人

儀式で陶酔するために重要視されたのは酒や幻覚剤のほか、歌舞・音楽であった。殷の考古遺物中には楽器と確認できるものが多いが歌舞の具体的な内容はほとんど分かっていない。「大楽の野、夏王の啓がここで九代を舞った(『山海経』海外西経篇)」。あるいは、「夏王の開〔啓〕は、上に昇り、三度天にまねかれ、九辯(べん)と九歌とを手にいれて地上にくだった(『山海経』大荒西経篇)」とあり、九代は隷舞とよばれるもので雨乞いの踊りであったらしい。『墨子』(非楽篇)には、「先王の書である湯王の官刑に次のようにいっている。つねに宮において舞う、これを巫風という」とある。巫祝たちは歌舞を自らの重要な技能としており、それによって神を降ろし、慶福をもたらしたようである。

周の武王は、殷商を滅ぼした2年後に殷商の一族で有名な仁人であった箕子(きし)を訪ね、箕子は武王に〔不変の正道を確立する方法〕を教えたが、その中には「稽疑(けいぎ/疑いを解く道)」すなわち、卜筮(ぼくぜい)の道と、「庶徴(しょちょう/様々な兆し)」すなわち、天象、兆候をいかに解釈するかが含まれていた。箕子が周の武王から見て教えを仰ぐべき人物であったことが分かる。

政治権力者は、こうした天界の知識に到達するチャンネルが必要であった。天と地が分断されてからは天界との通行を管理することができたものだけが統治のための知識、すなわち権威を掌握することができるようになったのである。シャーマンは一国の宮廷に不可欠の存在だった。実際にも古代中国の研究者は王自身が事実上シャーマンの長であったことを認めている。シャーマンと神霊との心理的な繋がりを、戦国時代の詩人であり政治家だった楚の屈原(前340-前278)は、『楚辞』の九歌の中でこのように書いている。「我ら、蘭の湯に沐浴し、香水にてかみを洗い、刺繍ある衣装を花と着飾る。神霊はうねりつつ降りて、我らの上に止まり、限りなく光輝けり。そは命の宮殿に憩わんとし、その輝きは日・月と等しくする。そは神霊の乗り物の龍車(を曳く龍)に軛をつけ、今や周遊へと天高く飛び立たんとす。神霊はまさに眩いばかり、厳かに降臨せしが、忽ち再びはるか雲の中へ舞いあがる。そは冀州(きしゅう/中国世界の中心地帯)を、そしてその下界に広がる国々を見下し、この世の果てまでも赴く。我はかの君を想いて長く嘆息し、悲しい思いに胸は悩み、痛むなり。」彼等は、神の降臨を招来するために、魅惑的な舞踏や音楽を演じた。ここには神霊にたいする恋愛感情のような表現が見られると張氏はいう。

張光直 『中国古代文明の形成 中国青銅時代第二集』

張光直
『中国古代文明の形成 中国青銅時代第二集』

やがて、巫術によっては天界の知識を得ることが難しい時代がやってくる。神々が沈黙する時代が訪れるのである。参考までにジュリアン・ジェインズ「神々の沈黙」と ルドルフ・シュタイナー「アカシャ年代記より」をお読みいただければと思う。それに代わって文字の時代がやって来るのである。それは歴史というデータベースの時代であった。

古代中国では文字という形をとって表されたものに内的力が備わっていると考えられた。書かれた言葉の持つ力はそれが知識に結びついていることに由来し、一方、そうした知識は生きている人々が文字を通して祖先(の霊)と交流することによってもたらされる考えられた。東周時代の文献によると、過去の人々の〔伝える〕知識を身につけることによって過去の経験〔鑑(かがみ)〕に照らして、将来生起することの結果を予示できる人々が現われはじめるのである。

そのような能力〔の持ち主〕は、支配者たちにとって貴重な存在だった。『左伝(春秋の注釈書)』には春秋時代の魯候や他の国の支配者たちがしばしば〔このような能力を持った〕大臣や役人に助言を求め、また時には彼等が自分たちの助言を権威づけるために古代の聖天子たちの言行を引用した様子が書かれている。その大部分は周王朝の初期に関連しているらしい。東周時代には、それに先立つ千五百年の歴史が編纂され公式化された。学識ある人々はそうした歴史の中で具体的な行為の範例に基づき未来を予言できるようになるのである。周代晩期の知識の普及と深化、人文主義の興隆は甲骨などの占いに代表されるシャーマニズムを排除する動因となっていく。それは後に儒教などの礼学へと発展していくのである。

孔子は、小さい頃、常に祭器をならべ礼容を執り行ったという(『史記』孔子世家)。礼容とは祭祀のさいに執るべき身体所作を中心とした作法とその装束・礼器のしつらえなどの内容を含む。孔子は紀元前551年頃、魯国の陬邑(すうゆう)、現在の山東省曲阜(きょくふ)で士大夫の次男として生まれたとされている。父はたびたび武勲をたてた軍人で、母は若い巫女であったといわれる。史記は孔子の母についてこう記している。「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」。「 国の大事は、祀(まつり)と戎(いくさ)にあり(『左伝』)」と言われる。戦争と儀式とが国家にとって最重要項目だった。孔子の両親はその二つの大事に関わる人であったのである。

孔子の生まれた魯は、周公旦を開祖とする国家である。周王朝を開いた武王の弟で武王の子である成王を補佐し、建国直後の周を安定させた。周公旦は、曲阜に封じられて、魯公となったのである。旦は、周王朝の礼制を定めたとされ、礼学の基礎を築き、周代の儀式・儀礼について『周礼』『儀礼』を著したとされる。その時代から約500年後の春秋時代に生まれた孔子は、魯の建国者である周公旦を理想の聖人として生涯にわたって崇めたといわれている。

渡辺信一郎 『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』

渡辺信一郎
『中国古代の楽制と国家 日本雅楽の源流』

ここからは渡辺信一郎さんの『中国古代の楽制と国家』からご紹介したい。渡辺さんはこの著書の冒頭で、儒学の根底には礼楽がある。強制力を背景とする専制国家の律令法とともに、礼楽が、前近代中国における社会的規範を構成したことは、周知のことであるとし、この礼楽は『荀氏』や『儀礼』『礼記』『周礼』などに体系化された理論的な礼学のみならず、また身体行為や技芸をともなう祭儀、舞楽を基層にもっていたとしている。この基層となる祭儀・舞楽の根底にはさらにシャーマニズムと呪術の世界があった。身体行為や技芸を根底に持つ礼楽は、その伝承者を必要とし、漢代の国家にはこの身体儀礼である礼容を伝承する一群の儒家たちがいたと書いている。

礼楽とは礼節と音楽である。かつては礼制という言葉のなかに含まれていたものと考えられるだろう。国家の文明化とともに、その礼制からは徐々に呪術が排除されていくようになる。戦国時代から前漢時代にかけてその理論体系化は進んで祭祀・儀礼の儒学化がはかられた。このような時代の趨勢にあって学問としての礼学が重要視される一方、「経を知らざる者」は冷遇されるようになる。しかし、祭祀儀礼において作法や所作は、なお必要な事柄であった。それらは礼容と呼ばれ、それに携わる人々は、儒学においては礼容学派と呼ばれた。

『詩経』の周頌には「周頌三十一篇は、皆周朝が平和で徳が行きわたり、その成功を明らかにする楽歌である。名づけて頌という。頌とは誦であり、容である。盛徳を歌誦し、太平のありさまを述べて、至美になぞらえ、神明に告げるのである」とあり、商頌が商容であったことが分かるとしている。商容とは盛徳を歌誦し形容するものと考えられていた。殷代には伝承歌謡を司った賢者として商容という楽官が知られている。史記には個人名説と役職名説の二説が紹介されているし、礼記の楽記の注には個人名ではなく礼楽官説が述べられているという。儒家系文献では殷末の賢人・礼楽官としてあらわれるようである。

ところが、道家系の文献では、商容は老子の先生としてあらわれる。老子という人物については、なんら特定できるような資料はないようである。司馬遷の『史記』の老子伝からして、すでに三つの説を併記している。一般には、老子は楚の国の曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽、諡(おくりな)は耼。周の守蔵室の史官であったらしく、関令の尹喜に請われて書物を残したとされる。

『淮南子(えなんじ)』繆称訓では「老子は商容に学び、その舌を見て柔を守ることを理解した」とあり、後漢の学者である許慎の注には「商容は神人である。商容は舌を吐き出して老子に示した。老子は舌が柔らかく歯の固いことを理解した」とある。さらに、西晋の学者である皇甫謐(こうほひつ)の『高士伝』には、「老子は常樅子(じょうしょうし)に師事していた」とあり、「常樅子が病気にかかった時、老子はその見舞に行った」とある。常樅子は殷末・周初の賢者とされているが、渡辺さんは商容と常樅とは実体を同じくする人物だとしている。だが、老子が実在の人物であったかどうか、どの時代に生きていたかがはっきり分からない以上、商容と常樅子を同一人物と同定することには無理がある。ただ、思想的系譜として考える上では、とても魅力的だ。その常樅子は、「神農の時代の雨師であり、火に入って自分を焼き、崑崙山上で風雨に従って降昇した(『列仙伝』)」とされる赤松子との繋がりが指摘されている。『史記』にも「‥‥世事を捨てることを願い、赤松子に従って遊びたく思う」という張良についての記述がある。楽官として商容は老子の師である常樅子と繋がり、雨師で仙人である赤松子と重なるというのである。

白川 静 『甲骨文の世界 古代殷王朝の構造』

白川 静
『甲骨文の世界 古代殷王朝の構造』

殷が滅んだ後、その最後の王であった紂王の子である武庚は、殷の故地に封じられた。その後、武庚は反乱を起こしたが失敗し、誅殺される。武庚の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、殷の祭祀を続けたといわれれる。白川静(しらかわ しずか)さんは『甲骨文の世界』の中で、殷の末裔たちの国である宋は、敗残の民の国であり周辺の国々とは甚だ異質であったとし、彼等も古い伝統を頑なに守り異端であることに甘んじたと述べている。切り株で首を折った兎に味をしめて耕すの止めて「待ちぼうけ」となる『韓非子』にある話も宋人について書かれたものである。陳・楚は宋の南に接する国で早くから古い殷系の文化が及んだ地であるらしい。楚にも九歌などの祭祀歌謡があるが、その中のいくつかは殷系と思われる諸神の祭祀に関わるものであるという。宋に特徴的なのは否定の精神、特に周的な礼楽文化に対する頑固なまでの拒否であった。「荘子の説く価値の転換と対立者の超克、老子のいう謙下不浄と小国寡民の思想は、身分制的な儒教に対して、氏族社会的な伝統の中から、戦国期の思想活動のるつぼを通して形成されたものであろう」と白川さんは述べている。そして、こう結ぶ。「周の文化が儒教によってその思想的表現を完成したとすれば、殷のそれは、むしろ道家的なものに近い。そしてこの異質なものが止揚的に統一されるところに、中国文化の本質があるといえよう。」

渡辺さんは、商容を楽官としての身分と考えるなら殷末の楽官である彼等が、その祭祀を支える巫祝集団であった可能性もあると考えている。そして、商容という人物あるいは集団を辿って伝承の世界にある商羊なる動物に遭遇する。後漢の思想家・王充の『論衡』(変動篇)には「天気が上で変化すれば、人・物は下で呼応する。故に天から雨が降りそうになると、商羊が立ち上がって舞い、天に雨を降らせる。商羊は雨を予知する物の怪である」とされる。また儒教的歴史故事集『説苑』には「そののち一本足の飛鳥が現われ、降りてきて殿前に止まり、羽を伸ばして飛び跳ねた。斉候は、大いにこれを怪しみ、さらに孔子を招いて質問した。孔子が言った、これは商羊という物怪である。急いで人民に告げ、すみやかに溝渠を修築させなさい。天から今に大いに雨が降ってくるであろう」と書かれている。

『呂氏春秋』からの引用であるが、「哀公が孔子に質問した、楽正の夔は一本足であるという。本当か」。孔子はこう答えた「その昔、舜は音楽によって天下に教化を及ぼそうとし、重黎に民間から夔を推挙させた。舜は夔を楽正に任じた。夔はかくして音律を正し、音階を調和し、八風の気を通じたので、天下は大いに心服した。‥‥夔は、根本を調和して天下を秩序だてることができる、夔のような人物は一人で充分である、ゆえに夔は一足であるというのである。」ここから一本足の楽官は商容とつながる。商容→常樅子→赤松子→商羊→夔→商容と円環が出来上がるのである。なかなか魅力的な仮説だ。ここから、「夔は神魖(しんきょ/鬼の一種)である。龍に似て、一本足である(『説文』)」といわれる夔龍に到達できるのである。

曾侯乙墓木槨中室出土 鐘 戦国前期

曾侯乙墓から出土の鐘
戦国前期

白川静さんによると殷代には鈴や素朴な打楽器しかなく、青銅器にも鉦(しょう/金属製で皿状の楽器)や鐸(たく)などの楽器しかなかった。西周期に入ると弦楽器なども登場し、竹管の吹奏器も現われ、鐘にも音階をあらわすことのできる編鐘が登場するようである(『漢字 生い立ちと背景』)。室内楽のようなものも演奏されるようになるようだ。時代を経て種々の楽器が使用されるようになる。

そして、時代は下って漢の時代。武帝がはじめて長安の郊外、甘泉泰畤(たいじ)で天地を祭る郊祀を挙行した時、それに音楽はなかった。そこで、民間祭祀にならって郊祀に舞楽を演奏するようになり、新たに二十五弦の瑟と空候(ツィター)を楽器として用いるようになったとある(『漢書』)。中国伝来の雅楽には鐘(金)、石板の打楽器である磬(けい/石)、琴瑟(糸)、大型の笙である竽(う/竹)、笙(匏/ほう=ひさご/細い竹管が収められる部分が匏=ふくべと呼ばれる)、鼓(皮)、土笛である塤(けん/土)、木製打楽器の柷(しゅく/木)など八音(はっちん)と呼ばれる八種類の素材でできた楽器を用いた。雅楽は正楽、金石楽とも呼ばれ、宗廟祭祀(先祖の祭祀)、郊祀祭祀(王都の郊外における天地の祭祀)、元会儀礼(新年拝賀の儀式)など礼制・祭儀にもちいられる宮廷音楽である。宗廟・宮殿などの殿庭に宮懸と呼ばれる数百名規模の大オーケストラを、殿上では登歌と呼ばれる小規模アンサンブルを編成し、王朝の正当性と功徳を舞い、かつ歌い上げることを任務とする。

この武帝がとりおこなった郊祀における舞楽は新しい音楽であり、張騫がもたらしたインド・西域系の音楽と関わりが深かったようだ。この新しい音楽に趙・代・秦・楚地方の歌謡を基礎に音階を定めて編曲し、司馬相如ら数十人が作った十九章の歌詞を乗せ、七十人の少年少女に合唱させた。それに合わせて64人の舞人が群舞した。この歌詞が郊祀歌十九章である。それは、北極星を神格化した太一神を主神とする祭祀歌謡であり、その内容が似ているところから、『楚辞』九歌十一篇( part1共餐参照)と比較される。

『九歌』をはじめとする楚辞系文学では、天界の周遊によって神霊との交歓を願うが果たすことができない、いわば悲劇に終わるのだが、郊祀歌では神霊との交歓は成就し、至福・豊穣の到来が予定調和として歌い上げられるという。そこには屈原が描いたような神霊に対する恋慕の情はない。そこにあるのは、ただひたすら天地宇宙の調和とそれに伴う国家の繁栄と五穀の豊穣、夷狄の服従という、天子の政治秩序の実現とそれへの讃嘆であった。祭祀というより雅楽と歌舞による国家の祭典となっていくのである。

最後に渡辺さんのこの著作から雅楽と極めて対照的な散楽について少し触れて終わりにしたい。散楽は日本の能などの芸能と関わる音楽とされている。散楽は漢代に西域から流入したサーカス・奇術、音楽・舞踏を内容とする民衆芸能であるという。能のイメージとはかなり遠いが猿楽や、田楽などに近いのかもしれない。獣面などの仮面の着装と女装とが辛うじて能に通じる。別名、百戯と呼ばれ、雅楽、燕楽(宴楽/初唐以来の宴饗楽や中唐以後に胡楽と俗楽が融合してできた新俗楽)のような正規の編成を持つ宮廷音楽ではなかった。唐代の制度史である『通典』にはこう書かれている。「散楽は決まった編成を持つ音楽ではなく、俳優が様々に歌舞・演奏するものである。‥‥おおむね散楽・雑戯には、奇術が多く、皆な西域から来たもので、奇術の名手が中国に来たのを始まりとする。漢の安帝の時、天竺から百戯を献上してきたが、自ら手足を切り落とし、腸や胃をえぐり出すことができた。これ以来、歴代に亘って存在するようになった」とある。要するに音楽を伴う奇術雑芸の類といっていいだろう。唐の玄宗皇帝は先天二年、正月十五日夜に長安城内の坊門・市門を開いて、街区に何千何百もの明りを灯し、民衆に酒食を賜るとともに、踏歌(足を踏み鳴らして歌い舞う集団歌舞)・百戯(散楽)・伎楽(大きな仮面をつけて演じられる無言劇))の大演奏会を挙行した。この開門燃灯は三日三晩の予定であったが、伸びて月余りとなったようである。官民あげて、はめを外したのである。正月十五日のこの開門燃灯は、歴代王朝にひきつがれて故事となり、今日の元宵節に至るようである。ちなみに、隋の煬帝の時代、大業六年の正月にはこの百戯が開催され、日本からの遣隋使もこの饗宴に参加したようだ。想像するだけで微笑ましい。

さて、話しはあらぬ方へと流れてしまいそうなのだが、この張光直さんの『中国青銅時代』を中心に、渡辺信一郎さんや、白川静さんの著作を通して見えてきた古代中国は、思っていたのとはいささか異なる姿をしていた。最初からかなり高度に整えられ、抽象化された文化を持っていたのではないかと感じられる。白川さんのいうように神々の体系が自然の姿そのままというより地上の秩序に沿うような形に整えられているように思われるのである。いわばシステマティックなのだ。古代中国の自然や神に対する神話は、他の文明に比べるとかなり貧弱であると張氏はいう。逆に英雄伝は豊富に存在し、超自然的な世界の神々や霊的なものが「人間化」して歴史上や伝説上の英雄となっているのである。それは、殷商代と西周代の神話が歴史化された結果であり、その原因は、一面では、東周時代と漢代における儒家思想が「怪力乱神」を認めず意識的に合理的な説明を付け加えたことにあると中国の歴史家たちは見ている。人文主義の思想的潮流は神々を人間の祖先に転化させ、神奇な動物たちを人間に征服される対象に引き降ろしたと張氏はいう。それでも鬼神に関わるシャーマニズムの流れは道教へと形を変えて流れ続けたのではないだろか。